先週水曜日(7/5)に横浜地裁小田原支部で開かれた刑事裁判の初公判は、介護殺人と言われる事件の裁判である。
昨年11/2に、神奈川県大磯町の港で車イスに乗った79歳の妻を海に突き落とし、殺害した罪に問われている81歳の夫がその裁判の被告となり証言台に立った。
その事件が起きた際にも、関連記事を書いているので参照していただきたい。(参照:制度の影をアンタッチャブルにしないために・・・。)
被告は約3年前から体力の衰えを感じ、力が出なくなり介護が困難になっており、長男らが本件の被害者となった妻を施設に入所させるよう説得を続けていたそうである。
公判でこのことに関連し検察側は、「施設に入所させるくらいなら殺害してしまおうと決意した」と指摘し、犯行に及んだと主張した。
これに対して弁護側は、「被告は妻の面倒を一生みるという強い決意でおよそ40年にわたり介護をしていた」としたうえで、「妻の体調悪化で将来への不安が募り、自分が元気なうちに2人で死のうと考えるようになった」と主張した。
事件が起きた日までは、献身的に要介護である妻の介護をし続けてきた被告が、被害者を疎ましく思ったとか、憎くなって殺したとかいう状況ではないだろう。弁護側の主張のように一緒に死のうとして、発作的に妻を海に突き落としてしまったというのが真相に近いのではないかと個人的には思っている。
被告は起訴内容を認めているので、判決は早い時期に示されるだろう。温情ある判決が出されることを期待したい。
本件を巡っては周囲の関係者が、「なんでもっと、みんなに助けを求めなかったかな」という声を挙げている・・・。しかし介護を巡って事件が起きたときに、そういわれるケースは実に多い。つまり心の悩みを他人に明かせないまま、自分の中で煮詰まって取り返しのつかない事件を起こしてしまうケースは少なくないという意味だ。
人は困り切っていたとしても、その心情を素直に他人に明かすことが難しい生き物なのかもしれない。
プライドがあるがゆえに、困りごとをすべてさらけ出すことを躊躇っているうちに、どうしようもなく自分自身を追い詰めて、パニック反応を起こしてしまうことは珍しくはないのだろう。
本ケースの被害者もデイサービスを利用していたとのことなので、担当ケアマネジャーも関わっていたはずである。当然、担当ケアマネも在宅介護の限界点がどこかという視点を持ちながら、日常の支援計画を練り、モニタリングで確認していたことだろう。
そうしたケアマネジャーにも、被告は相談する姿勢を見せられなかった。その為、被告の心の闇に気が付く人は周囲に居なかったのである。
しかしそれは誰の責任でもなく、当事者や関係者が置かれた様々な環境要因が相まって生じた状況だろうと思う。
居宅ケアマネが、その被告の心情に気が付かなかったことを責めるのは、あまりにも酷だ。それほど人間の心は簡単に理解できる代物ではないからだ。
だからこそ私たち対人援助の関係者は、心を開いてなんでも相談してもらうことができる関係づくりの努力をし続けることが求められると共に、そうした努力をしても届かないものがあると考えながら、心情を吐露できない人に心の内側にアプローチするためのあらゆる努力をしなければならない。
感情ある人間に寄り添い、その心を推し量ることは、言葉でいうように、あるいは文字で表すようには簡単なものではない。
しかし100%の結果は出せなくとも、100%の努力をし続けなければならないのが対人援助の職業に就いている者の使命と責任である。
そういう難しい職業が対人援助であることを嚙みしめながら、ひとり一人の利用者と向かい合っていきたい。・・・ここは科学的ではなく、心情的に寄り添う部分であるとしかいようがない。
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