三十数年前の話であるが、看護師から告白されたことがある。
とはいっても愛の告白ではなく、「さっきまだ息があると云いましたが、実はあれ嘘だったんです」という告白である。
看取り介護の対象者である女性が、数日小康状態を保っていたのに急変したケースがあった。
その女性の死期が迫っているということで、2日間施設内に宿泊していた長女が小康状態の今は何事もないだろうと考え、家の用事を済ませてくると言って一旦自宅に帰った直後の急変であった。
長女の携帯電話にすぐ連絡を入れて、長女が駆けつけるのを待つ間に、看護職員や介護職員は看取り介護対象者のベッドサイドに集まって、「娘さんが、今すぐ来ますから頑張ってください」などと声を掛ける姿がそこにあった。
死期が迫っている女性の意識はなく、反応もないが、聴覚障害がない限り耳は最期の瞬間まで聴こえていると云われるので、それを知っている職員は懸命に声を掛け続けた。
やがて娘さんの乗った乗用車がホームに到着したが、女性利用者の呼吸が止まったのは、娘さんが車を降りてホームの玄関に入り居室に向かう途中のことであった。
その時、看取り介護対象者である女性の手を握り、呼吸と脈拍を確認していた看護師は、女性が息を止めた瞬間にも手を放さず、話しかけることもやめなかった。そして女性の娘さんが「母さん」と言いながら居室に入って、母親の手を取った直後に、「あっ、今呼吸が止まりました・・・きっと娘さんが来るのを待っていたんですね。」と云った。
厳密に言えば、これは事実と異なることだろう。しかしそれは許される範囲の脚色ではないだろうか・・・もともと看護職員に、死の判定を行う権限はない。それは医師が行うものであって、その場に医師がいない場合は、周囲の人々から情報を得て、総合的な判断から死亡時刻は決定される。
しかし実際には、医療機関で0時の見回りに息をしていた人が、3時の見回りには息が止まっていたので、死亡時刻は2時30分にしようなどという判断は普通に行われていることだ。
そもそも事件や事故ではない自然死の場合、死亡時刻などは余り大きな問題ではなく、1分2分の違いが何かに影響するなんてことはない。
さすれば前述したケースで、娘さんがあと一歩間に合わず、娘さんが母親の手を取る前に息が止まったという事実を伝えることに、どれほどの意味があるだろう・・・。
現にこの娘さんは、自分が駆け付けるまで母親が待っていてくれたと信じ、そのことを葬儀の席でも親族に話して、「母さん、ありがとう」と涙していた。
遺された遺族がそうした思いを持つことは、逝った母親にとっても本望ではないのか・・・。
看取り介護の場面では、実にいろいろなことが起きる。その時々で判断に迷うことも少なくない。そうしたエピソードをデスカンファレンスで話し合って、教訓を得て次の機会に生かすことは大事だが、瞬間瞬間に判断しなければならないこともある。
その時、二つの選択肢があり、どちらの道を選ばなければならない際に、何を判断基準にすべきだろうか・・・僕の答えは、「できるだけ、愛がある方向を選ぼう」である。
2日前から泊って看取ろうと頑張っていたのに、小康状態だからと家の用事を済ますために、母親の元から少しだけ離れたその時間に、母親が旅立って看取ることができなかったという後悔の念を抱くより、一瞬母親の元を離れたけれど、息を止める瞬間には間に合った。間に合うように母は頑張ってっ私を待ってくれた・・・そんなふうに考えられる方が、愛がある方向なのではないだろうか。
そんなふうに誰かができるだけ幸せや笑顔になれる方法を選ぶ方が良いに決まっている。
だからあの日の看護師の言葉は嘘ではなく、看取り介護対象者とその遺族を愛で包む言葉であったと思う。
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