僕は現在、介護関連の情報・知識を全国の関係者に伝え、解説する仕事を主にしている。
講演という形で情報・知識を伝える機会が多いわけであるが、そうした場で僕の話を聴きに来る人たちは子供でもなく学生でもなく、社会人として一定の技術や知識を身に着けている人たちである。
仕事を通じて一定の価値観も持っているそれらの人たちに対して、僕が単純に物事の良し悪しを教えるような講義をしても始まらない。
ましてや人格を築くため・磨くための教育を行おうなどと、おこがましいことはこれぽっちも思っていない。
ただただ・・・根拠に基づく正しい情報を提供し、事実の中に隠されている真実などを、自分の考えとして自分の言葉で伝えているだけである。それを求めてくれる人がいる場所で、求められている話をしているのである。
それをどう受け止めるのかは、受講者の方々自身の問題であって、こうならなければならない、こう考えるようにしなければならないという何ものも存在していない。
僕が伝えることの中には、介護技術のノウハウを伝える内容も含まれているが、それは僕が自分の実践の中で見つけたノウハウであり、それを実践することで介護サービスの品質が向上し、顧客満足度が高まると思える方法論だ。その方法を身に着けることが、即ち顧客の福祉向上・QOLの向上に繋がり、かつ事業者収益にも結び付く新しい実践論として伝えている。
だがそれを参考にして、自らの実践を変えようとするかどうかは、受講された方の判断の問題である。そこまで強制はできるわけがない。
講演では、介護事業という対人援助サービスの思想・信念に関することを話す機会も多い。
それはある意味、イデオロギー教育という意味にもなろうと思う。
ここでも勘違いしてほしくないことがある。イデオロギーを持つことは大事ではあるが、この世に偏らざるイデオロギーなど存在しないということだ。唯一無二の確固たるイデオロギーなどあろうはずもないのだ。
しかし世に確固たるイデオロギーなどないからと言って、教える立場である僕が、自分の思想・信念に迷って確固たる思い入れもない状態でものを伝えても意味がない。教わる方は戸惑うだけだろう。
だから僕自身の信念は確固たるものとして伝えている。だからといって、受講者がそれをすべて迷いなく受け入れろというのは乱暴な話だろう。それは洗脳とも批判されて仕方ない行為である。
よって受講者の方々は、諾々と講師の弁を受け入れる必要はないわけであるし、講師の弁に対する批判の精神を忘れてしまってよいわけがないのだ。
むしろ受講者には話し手の考え方を否定する権利があることを常に意識してほしい。
そういう意味で反論大いに結構・・・しかし反論するだけで終わってもしょうがない。実践論に対して反論するのであれば、それに勝る結果を示す実践を伴わねばならない。その方法を万人に伝える言葉を持たねばならない。
ただ違う・反対で終わるのは卑怯でしかない。そこをはき違えてはならない。
伝える側にも心せねばならないものがある。それは常に自己批判をし続ける必要があろうということだ。そして変革を恐れない意識も必要だ。
そんなふうに伝える側と伝えられる側、双方が切磋琢磨するという意識や姿勢が学びを知識と知恵につなげていくのである。
そもそも講師は神ではないのだ。教育の一端を担って教え育むことはできても、人を造ることなど出来はしない。そこをはき違えると歪む。勘違いすると驕り高ぶることになる。それは醜い姿でしかない。
自分はそういう姿を欲しないし、他人のそういう姿を見たくもない。
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