介護をはじめとした対人援助を職業としている人だからと言って、聖人君子である必要はないし、天使のような優しさを求められる謂れもない。
ごく普通の人が職業選択の結果、何らかの理由で対人援助の仕事を選んだというだけの話だから、いろいろな性格の人、いろいろな価値観を持つ人がいて当然である。そして人間である以上、人に優れたスキルを持つ反面、欠点を持つことも当然である。
そもそも人間は、誰しもが良い面と悪い面の両面を持っているのだと思う。悪い面がある人が対人援助に向かないとなると、ほとんどその適性のある人は存在しなくなる。
悪い面があるとしても、仕事を行う中ではできるだけその面を自覚し、利用者対応にそうした部分を出さないようにすれば良いだけの話だ。
そういう意味では、すべての仕事において人は、良い自分演じ、良い面しか持たない人として自分を取り繕うことがあっても良いのだ・・・というか、そういうことがないと人は生きて行けないのではないだろうか。
対人援助のプロとして働いている人、これから働こうとしている人も、ごくごく普通に社会のルールを護り、礼儀をもって他者に接することができれば十分である。それができないというのであれば、すべての社会生活に向かないという意味であり、どんな仕事に就いても問題を引き起こしたり、長続きしなかったりするだろう。
そういう意味では、自らが選んで就いた仕事においては、職場の理念を理解し、ルールを護り、パフォーマンスを高めるという努力は欠かせないという理解は必要とされる。
仕事とは、生活の糧を得る手段でもあるのだから、仕事の目的を達するために自らを律する心構えも当然必要とされるのである。
自らを律するために、自らの身に鎖を課す必要もある。動機はともかく、他者の暮らしに介入する対人援助の仕事を選んだものとして、自分自身に鎖を課し、それに耐える義務があるのだと思う。
しかし自分が自分に課した鎖ほど、重たい鎖はないことを忘れてはならない。
特に対人援助の仕事というものは、他者のプライベート空間に深く介入し、本来他人に知られたくない様々な情報を取捨選択しながら関わっていくという特殊な職業だ。それはまさに、『重き荷を負うて、遠き道を行くがごとき職業』である。
対人援助の仕事を職業として選んだ人は、知らず知らずのうちにそうした道を行くにふさわしい者として選ばれし者だと考えてほしい。私たちは、選ばれし者として自分自身に鎖を課し、それに耐える義務があるのだと思いたい。
そして対人援助の仕事の究極の方針は、シンプルに3つ考えるべきだ。
ひとつは顧客満足。対人援助サービス利用者の満足感を最大限に高め、ゆえに満足感を低下させるような要素は徹底的に排除し、予防措置を最大限に敷いておかねばならない・・・利用者の人権を侵害する、無礼な対応を予防するためのサービスマナー教育は、そういう意味でも重要となる。
いまひとつは、費用対効果。私たちの仕事のほぼすべては、税金と保険料という国民負担で賄われている。私たちの仕事が国民には見えにくいものである以上、私たち自身が常に費用対効果を意識し、いかにして活きた金を使うのかを意識しなければならない・・・対人援助に直接携わる従業員の業務改善の設備に使う費用や、利用者対応の正しい方法を伝え続ける教育に掛ける費用こそ活き金になることを理解せねばならない。
最後の一つは、結果責任・結果指向。一生懸命やることだけを目的にしない。利用者に対し結果を約束し、結局何ができたのかを常に検証しなければならない。
それが人の人生、人の暮らしに関りを持つ職業の最大の使命と責任ではないかと思うのである。
※CBニュースの連載、「快筆乱麻・masaが読み解く介護の今」の最新記事が昨夕アップされました。是非参照ください。
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