masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

割れ窓理論 を含む記事

業務中の言葉遣いに気を使わない職業は異常だ。


言葉を崩すことが、利用者に親しみを感じてもらう方法だと思い込んでいる人によって、利用者は自分より若い人に、ため口で話しかけられる。そのことに対して、舌打ちしたい思いを持っている人は多いだろうし、心の奥底で嘆き悲しんでいる人も多いのではないだろうか。

今後団塊の世代の人々の介護サービス利用が増えていくが、それらの世代の人は、企業戦士として高度経済成長期を支えてきた人たちや、そうした夫を支えてきた妻たちである。そういう人たちは、我々の世代より上下関係に厳しく、サービス業の言葉遣いに敏感な世代である。そうであるがゆえに、サービスを提供する側の職員が、言葉を崩すことを不快であると考える人は多く、同時に崩した言葉に傷つく人も多いはずである。

そうしないためには、誰もが不快にならない丁寧な言葉遣いが求められるのである。

親しみやすさという言葉でカモフラージュされた言葉は、タメ口でしかない。それは無礼な馴れ馴れしい言葉遣いという域を出ない。そういう言葉を、仕事の中で使うことの恥ずかしさに気付くべきだ。プロとして丁寧な言葉を使いこなして、親しみを持ってもらうべきである。それができない素人でどうする。

そもそも保健・医療・福祉・介護以外のどの職業で、顧客に対してタメ口が許される職業があるだろうか。そんな職業は他には存在しない。我々は、言葉遣いに気を使わない職業の異常さにもっと気が付かなければならない。

医療機関で看護師が患者に話しかける際に、馴れ馴れしく無礼なタメ口を使った高飛車な姿を思い浮かべ、そのことを反面教師にして、あのような醜い対応を、介護サービスを提供する場で行ってはならないと考えるべきである。

接客意識のない対人援助サービスは、目の前の人々を人と思わなくなる危険性を内包せざるを得ない。乱れた言葉を放置する対人援助サービスは、人の心を傷つけることに鈍感にならざるを得ない。

そのことに危機感を持ってほしい。なぜならそこで傷つけられるのは、近い将来のあなた自身であるのかもしれないし、あなたの愛する誰かかもしれないのである。

そうであるがゆえに、我々が対人援助のプロとして主力になっている今この時代に、対人援助サービスが持ち続けてきた負の遺産を捨て去り、我々の時代に100年先の対人援助のスタンダードともなり得るサービスの質を創っていかねばならない。

その根幹をなすものが、「介護サービスの割れ窓理論」である。言葉の乱れを放置せず、丁寧語をスタンダードとすることである。丁寧語を使いこなすことができるプロによって支える介護を創ることである。

介護サービスの場を、特殊な閉ざされた環境にしてはならない。それは我々の価値観によってなんでもありの治外法権空間を作ることと同じである。しかし年上の顧客に、タメ口で対応することが許される職場とは、「特殊な閉ざされた空間」そのものである。

そうしないために、我々は日常的に、「それって普通?」の問いかけを繰り返すべきであり、介護サービスの割れ窓である、言葉遣いに気を使うべきなのである。

人は弱い存在だ。長きものにまかれやすく、低き場所に流れやすい存在だ。そういう存在であることを意識しながら自らの心を見つめていかないと、人は人の不幸を笑って見てしまう存在になっていく。しかしその姿は実に醜悪であり、自分だけがその醜悪さに気づかないことになる。

介護という職業が、本当の意味で利用者の暮らしを護る職業であり続けるためには、顧客意識に基づく正しい言葉遣いや、節度ある態度で対応する基本姿勢を失わず、感覚麻痺に陥らない検証作業を繰り返す必要がある。この基盤がない場所で、どのような教育システムを作ったとしても、それはガラスの城でしかない。

コミュニケーションで成り立つ職業であるからこそ、言葉を大切にする「介護サービスの割れ窓理論」を職員教育の柱にして、職場全体の意識改革が求められるのである。

その意識の上に、正しい介護技術によるサービス提供を積み上げることでしか、人の暮らしを護ることはできないのである。

介護施設や介護サービス事業所の管理者には、言葉を正すことがリスクマネジメントの基本であるという理解が必要である。そういう意味からも、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」が介護サービスの場に深く浸透することを願ってやまない。
(※介護サービスの割れ窓理論について)
割れ窓理論とは、もともと犯罪心理学の中で唱えられている理論で、割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてそうした建物が地域に増えることで、地域全体が荒廃していくという理論で、割られた窓の小さなひび割れを放置せず、それをすぐに補修することで、そうした荒廃を防ごうという理論だ。その理論を介護サービスに当てはめたとき、介護サービスの割れ窓は、職員が利用者に対して日常的に使う言葉であると考えるものである。

介護施設において職員が利用者に接する際にも、尊厳を護る最低限のマナーが求められ、それは顧客対応としてふさわしい態度を守ることでしか実現しない。職員が利用者に、馴れ馴れしい言葉で接することを放置することで、心のゆるみが心の乱れに繋がり、世間の非常識が介護サービスの常識であるかのような感覚麻痺が生まれ、やがてそのことが虐待行為につながる危険性がある。このことを防ぐために、態度が荒れるきっかけになる小さなほころびは、日常の言葉の乱れであると考え、利用者に対して丁寧語で対応することを基本として、乱れた言葉遣いは常に修正して対応しようとするのが、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」である。

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古代からの声が聴こえる街で


三重県で、津市に続いて2度目の講演が実現した地域は、古代からの声が聞こえてくるような、「歴史の街」熊野市である。

北海道から熊野までの移動行程は、新千歳空港から中部国際空港(セントレア)を利用することになる。セントレアからは名鉄で名古屋まで出て、そこからJRを利用することになるのであるが、この名古屋駅〜熊野駅までの移動が長い・・・。特急「南紀」で3時間、北海道からは8時間以上の長旅のすえにやっと現地に到着した。しかもこの特急「南紀」が揺れること揺れること、かつての「くろしお」を思い出すほどの揺れだった。

当日は夕方4時過ぎに到着。講演は午後7時から9時までの2時間であった。
在宅医療・介護連携推進講演会2
当初受講定員は150名の予定であったそうであるが、申し込みが殺到して200名で締め切ったそうである。それでもこの会場の椅子では間に合わず、ステージ前までパイプ椅子を並べ、さらに事務局の方々は会場外で、別モニターで受講して、やっと当日の来場者全員に席が行き渡った。
在宅医療・介護連携推進講演会今回は、紀南医師会主催・平成 27 年度在宅医療・介護連携推進講演会ということで、「介護の誇り〜明日へつなぐ介護実践論」をテーマにお話をさせていただいた。

講演当日の朝に、介護業界には衝撃となる大きな事件報道がなされたことを知らない人はいないだろう。3人の利用者が、不信の転落死をした「Sアミーユ川崎幸町」の事故が、ついに事件となった。3件の転落死のあったその日に夜勤をしていた、同施設の介護職員が逮捕され、容疑を認めているというニュースがこの日流れた。

このことに関して、「氷山の一角」などと論評する向きがあるが、それは間違いである。全国のいろいろな場所で、たくさんの仲間と真剣に介護を語り合っている身とすれば、我々がそんな心の闇を持つ人間と、同じ氷山に乗っているなんてことはないと断言できる。そして全国の多くの介護施設は、「虐待」とは無縁であり、人権蹂躙とは無縁の場所で頑張っている仲間がほとんどである。

我々が乗っている山があるとすれば、それは「誰かの赤い花」になるための方法論を探し、「無限に広がる幸せ樹形図」を描くための方法論を探し続ける場所でしかない。たまたまその中で、冷たい心を弱い立場の者に向ける「かけら」が存在していたとして、それが業界全体の体質や、特徴であると思ってもらっては困るのである。

そもそも虐待の原因を、待遇の悪さやストレスに結び付けて論ずる報道が目につくが、人を3人もベランダから投げ殺すほどの行為が、逆に待遇の低さやストレスだけで論じられてよいのだろうか大いに疑問である。

たいした給与をもらっておらず、日々いろいろな業務上の悩みやストレスを抱えて過ごしている人はたくさんいるだろう。それは何も介護業界に限ったことではない。だからといって、人を殺すという行為に走る人がどれだけいるというのだろうか。

人としてのパーソナリティーの深い場所に、個人の闇は存在するものだ。この3人の連続殺人を考えるに際しても、仕事へ不満やストレス以前に、仕事の不満やストレスを理由にして、人の命を奪うという行為に及んでしまう原因は何かということを、もっと別な部分から考えないと、この連続殺人が社会構造のせいであるとか、変な方向に論旨が捻じ曲がり、その先には介護という職業が必要悪にされてしまう。それは少し違うだろうと言いたい。

同時に我々は、介護サービスという狭い社会で、自分が何事も決定できる神のような存在となれる1対1の場面で、心を麻痺させず関わり続けることができるのか、という命題を考え続けなければならないと思う。そういう意味で感覚麻痺を防ぐ「介護サービスの割れ窓理論」を紹介しながら、「社会的な使命」を持つべき対人援助サービスの誇りを穢す事件から、我々は何を考えねばならないのかを最初にお話しした。

講演全体を通しては、地域包括ケアシステムの中で、「居住系サービス」に求められる役割りと、その中で造るべき具体的サービスの質。生きるうえでの最大の楽しみといってよい、「食事」を支える支援方法が、いかに誤解されて行われ、その中で何が起こっているかを明らかにし、そうしないための方法論を伝えて締めてきた。

受講者の皆様からも、おおむね好評を博していると聞いている。熊野でお逢いした皆さま、ありがとうございました。

ところで今回は、熊野市に到着してから、講演まで3時間ほどの時間があったので、プチ観光に連れて行ってもらった。名所の多い地域であるが、その名所が熊野駅からほど近い場所にコンパクトにまとまっているので、数カ所の移動を車で5分程度づつでできたので、短い時間に見どころ満載のプチ観光となった。

獅子岩
有名な獅子岩。見事な自然の造形物と言うしかない。

花の窟神社
花の窟神社2
古代信仰の象徴、「花の窟神社」は、眼前にそそり立つ岩肌そのものが信仰対象で、本殿は存在しない。まさに古代からの声が聞こえてきそうである。
鬼ケ城
鬼ケ城2
鬼ケ城の夕日と、自然が作り出した千条敷。
熊野古道
熊野古道。なお講演後のオフ会でいただいた熊野料理は、「3マイル先に 秋刀魚居る」で紹介しているので、そちらを参照いただきたい。秋刀魚寿司が絶品だった。

さて翌日に北海道に帰ってきたのであるが、その日熊野を朝9:33に経ったものの、セントレアで搭乗予定の飛行機機材が、函館から来る予定が、風の為大幅に遅れて欠航…結局、予定より3時間以上遅い便に振り替えとなって、家に着いたのは夜21:30。帰りはなんと12時間の長い旅となったというハプニングで、熊野への旅は終わった。熊野でお逢いした皆様、お世話になりました。ありがとうございます。

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離職しない職場の条件


介護事業においては、介護職員をはじめとした人材確保が最大の課題となっている。

そのような中で、職員の定着率の向上が求められており、離職しない職場づくりが求められている。定着率の高い職場であるからこそ、職員の新規募集にも応募があるということにつながるのだから、それは重要な課題である。

そのためにキャリアパスをはじめとした、待遇改善が求められてくるわけであるが、同時に職員定着率は給与だけではないという理解も必要だ。

職員が辞めていく一番の理由が、「給料が安いから」ではないことが、それを証明している。「キャリアパスの仕組みがない」という理由で辞めていく人はもっと少ない。

辞めて職場を変えることによって、現在より収入が下がるのがわかっているのに、離職してしまう人も多い。

そこでは人間関係をはじめとした職場環境が一番の問題となっている。いかに辞めない職場づくりのための、良好な人間関係を作っていくのかが最大の課題である。

その人間関係が、個人的問題であるとしたら、問題を抱える職員自身に自己変革を求めたり、退職していただく以外ないのであるが、厄介なのは問題の所在が、施設トップなどの管理職の側にある場合である。正しい知識のない管理職によって、志が高く、対人援助技術にも長けている職員が疲弊してしまって辞めていくとしたら、それは事業者にとって重大な損失であるばかりではなく、その損失を繰り返して事業経営自体を危うくするものである。

その最大のリスクの主が、オーナーであれば、職員としてはどうしようもないと言えるのである。(※このことは僕は実感として、別の機会に詳しくお知らせしたい。)

例えば12/2に書いた、「心遣いを見える化するための割れ窓理論」に、次のようなコメントが書き込まれている。

当施設の施設長ときたら、親しみがあって良いと、自ら入居者をあだ名で呼んでいます。その結果、スタッフの言葉遣いも荒れ放題であだ名はもちろんですが、ジジイ汚ねーな、ウルサイ黙れ!!等々、当たり前の光景です。何度も改善していくように働きかけてきましたが、皆からウザがられ浮いた存在となってしまいました。働いていても辛く入居者にも申し訳なく思うばかりです。

まったく困った施設長がいたものである。馴れ馴れしい乱れた言葉遣いを、親しみやすい言葉であると勘違いして、その言葉に不快になる人の気持ちには全く配慮がない。プロならば、丁寧な言葉遣いで、なおかつ親しまれる技術を身につけろと言いたい。

そもそもその施設長は、自分がスーパーやコンビニエンスストアで商品を買う際に、店員さんから馴れ馴れしい言葉を掛けられることを望んでいるのだろうか。そうした言葉をかけられたときに不快に思わないだろうか。

介護サービスだって、それと同じである。介護技術と言うプロの技を売っていることにおいて、利用者の方々は顧客である。それにふさわしい言葉遣いが求められると考えない方がどうかしている。

そもそもこの施設長の考え方が間違っているということは、その職場が、「スタッフの言葉遣いも荒れ放題であだ名はもちろんですが、ジジイ汚ねーな、ウルサイ黙れ!!等々、当たり前の光景です。」という状態になってしまっているということで証明されている。この光景は、まさにSアミーユ川崎の隠し撮りビデオ映像と同じであると言えよう。

利用者に対し、日常的に汚い無礼な言葉を日常的に使っている施設長や職員は、利用者が息を止めようとする最期の瞬間、家族に囲まれている場で、どのような言葉を掛けているのだろう。

最期の瞬間、息を止めようとするときに、若い職員から馴れ馴れしい言葉で話しかけられたいと思う人が何人いるのだろうか。ため口で見送ってほしいともう人が何人いるのだろうか。

逝く方が寛大な心で許してくれるとしても、一緒に看取ろうとしている家族は不快な思いを持たないだろうか。他人である年下の職員が、ため口で言葉を掛ける姿を見て、親しみを感じる前に、慇懃無礼な馴れ馴れしさに怒りを覚えたり、不快感を持たないだろうか。

その時だけ言葉遣いを変えるのが、プロの技だとでも言うのだろうか。馬鹿を言うな。いつどんな場面でも、相手に不快感を与えない言葉を使いこなすのが、対人援助のプロであって、それは場面によって言葉を使い分けるのではなく、いつでもどんな場所でも丁寧な言葉を使いこなすスキルである。

なぜなら言葉を使いこなして、いつもどんな場面でも、誰に対しても不快感を与えないというのは達人技でしかなく、エビデンスにならないからだ。

そもそも、そのような達人技など実際には存在せず、多くの場合、物言わぬ利用者の不快感を無視して、自分だけがそう思い込んでいるだけなのである。

あるコミックでは、お客様である利用者を、「ジジ、ババ」呼ばわりしながら、そのあとに格好良さげなフレーズをつけている。それを読んだ読者が、そのことを名言・名フレーズのようにフェイスブックで紹介しているが、僕から言わせるとそれは傲慢無知の汚い言葉でしかない。

どうしてこういう言葉を、名台詞と思ってしまうのだろう。それは真の名文を読んだ経験がないからとしか言いようがない。若者たちの国語力の低下は、介護の質の低下に直結しているとしか言いようがない。

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心遣いを見える化するための割れ窓理論


介護保険施設は、利用者にとって「暮らしの場」であるのだから、くつろいで暮らすためにも、職員が堅苦しい言葉遣いで対応しない方が良いとして、くだけた口調で会話をする人がいる。それらの人々は、そうした言葉遣いが本当に利用者のくつろぎや、親しみの感情につながっていると信じているのだろうか。

そもそも年上の人に対して、年若い人がタメ口や、友達に話しかけるような口調で語りかけることを、不快に思わないという保障はどこにあるんだろう。

勿論、それを許してくれる利用者もいるのだろうが、それに甘えてどうするのだと言いたい。僕たちは介護のプロとして、もっとも対人援助サービスとしてふさわしい適切な言葉を使いつつ、同時に利用者から親しまれる必要があるのだ。言葉はそれを使う人の人格を現し、それはその人の運命になるのだという諺(ことわざ)を肝に銘ずるべきである。

そもそも日本の伝統社会における、世間一般の常識は、年上の人=目上の人=丁寧語で話しかけなければならない、であるはずだ。

それが証拠に、入職間もない年若い職員であっても、先輩職員や上司にタメ口で話しかける人はいない。「いまどきの若い者は」と言われる、いまどきの若者であっても、目上の人には丁寧語で話しかけるという常識は持っているのである。

それなのに何故、介護サービスの場でそれらの常識を持った人たちが、顧客である利用者に、「タメ口」で話しかけるのだろう。それはとりもなおさず、先輩職員の馴れ馴れしい口調を真似るようになるからだと思え、この部分で職員教育がされていない職場が多いということである。

その口調を放置しておくと、お客様であるはずの利用者に対し、「ニックネーム」をつけて呼んだり、「ちゃん付け」で呼んだりする状態になる。これが異常だと思えない職場では、やがて何でもありの結果、虐待へとつながっていくだろう。いや、そもそも年上であり、顧客である利用者を、ニックネームやちゃん付けで呼ぶこと自体が人権蹂躙であり、虐待であると言ってよいだろう。

先日、八戸の看取り介護講演にも来てくださったK氏が、僕のフェイスブックに次のようなコメントを書いてくださっている。
丁寧な言葉使いは、外部からは見えにくい介護職の日々の地道で温かく丁寧なケア実践を、可視化、見える化し、ご家族や来訪者に証明する有効な手段でもあると考えています。

まったく同感である。僕は自身の職場でも常日頃、『お客様に対する心遣いを「見える化」するのが、丁寧な言葉である。』と教育している。それと同じようなことを考えてくださる実践家がいて下さることは勇気になる。

介護サービスの割れ窓理論は、職員の利用者に対する「言葉遣い」を窓ガラスにたとえ、言葉が乱れることは、窓ガラスのひび割れであるとし、それを放置しておくとひび割れは広がり、窓が割れ、やがてそのことで建物全体が荒廃していくので、ひび割れである、「言葉の乱れ」を見つけたら、即それを修正し、介護サービスの質の低下を防ごうという理論である。質の低下した介護は、えてして人権蹂躙を生むからである。

事実、介護サービス事業者の中には、人の暮らしに寄り添うという意識に欠け、人権侵害と思える状態を放置し、人として許されない虐待行為が日常的に行われているところがある。

昨日も広島県福山市の「グループホーム かざぐるま」で、利用者にプロレスの技をかけたり、暴言で心理的虐待を行っていたという報道がされている。それらの加害者は、何を目指して介護の仕事に就いたのだろう。

汚い言葉は、自らの心を汚してしまうことに気が付いてほしい。例えば「ここで待っていてください。」という言葉を、「ここで待ってなさい。」といったとしても、それは暴力的表現になるかもしれない。「ちょっと待ってね。」なんていう表現は暴力的な表現とは言えないかもしれないが、少なくとも顧客に対して使う言葉としては適切ではい。

僕はそうした言葉かけには不快感を覚える。だからもし自分が利用者として介護サービスを使うようになったら、サービス提供に関わっている従業員が丁寧語を使わなければ不快感を覚えるだろう。それは不遜な考えなのだろうか。僕はそれは顧客である利用者にとっては、当たり前に生じ得る感情だと思う。

梨下に冠を正さずという言葉があるように、人の暮らしに寄り添う我々の職業では、暴力的な言葉と疑われかねない表現をしないようにすべきである。暴言と思われかねない誤解されるような言葉を、日頃から使わないようにすべきだと思う。友達同士の会話で使うようなフレンドリーな言葉遣いを、顧客である利用者に対して使うことは不適切だと思う。堅苦しさを感じないようにフレンドリーに言葉を崩すことも誤解を受けるリスクが高い。

この道の先駆者と呼ばれる人の中にも、わざと言葉を崩して、そのことを自慢げにひけらかしている人がいる。その人の実践を学ぶ前に、その崩した言葉だけを実践する輩を生むことにおいて、それは功罪相半ばというより、罪の方が重たい。

言葉遣いを正しくするように教育する施設を、「強制労働より悪い」と言い切るM.H氏しかり、教育の場である講演などで、利用者を「じいさん、ばあさん」呼ばわりするW.Y氏しかり。彼らの実践は素晴らしくとも、彼らの言葉を真似ることで、人を傷つけている輩を数多く生んでいることに気が付くべきである。
言葉は人格を現し運命になる

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虐待をなくすための最低限のマナーを確保するために


3人の利用者が不審な転落死をした介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で、利用者の家族が隠し撮りした映像には、職員が利用者を罵倒しながら乱暴に取り扱う姿が映されていた。その姿は虐待そのものである。

しかしあの隠し撮り映像を見て、「あれほどひどい状態は自分たちの職場とは無縁だ。」と安心してよいのだろうか。「それでは、どの程度までならば許されるのか?」と考えたとき、それは顧客サービスとしてその対応が適切かどうかという線引きしかできないと考えるしかない。

利用者は介護施設に、「よりましなケア」を求めているのではなく、自分の尊厳が最大限に護られるケアを求めている。介護施設において職員が利用者に接する際にも、尊厳を護る最低限のマナーが求められ、それは顧客対応としてふさわしい態度を守ることでしか実現しない。

介護サービスの場における職員の言葉遣いも、顧客サービスとしてふさわしい言葉であるのか否かという線引きしかできない。

職員が利用者に、馴れ馴れしい言葉で接することを放置することで、心のゆるみが心の乱れに繋がり、世間の非常識が介護サービスの常識であるかのような感覚麻痺が生まれ、やがてそのことが虐待行為につながる危険性がある。このことを防ぐために、態度が荒れるきっかけになる小さなほころびは、日常の言葉の乱れであると考え、利用者に対して丁寧語で対応することを基本として、乱れた言葉遣いは常に修正して対応しようとするのが、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」である。

注)割れ窓理論とは、もともと犯罪心理学の中で唱えられている理論で、割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてそうした建物が地域に増えることで、地域全体が荒廃していくという理論で、割られた窓をすぐに補修することで、そうした荒廃を防ごうという理論である。

勿論、言葉を正したからといって、必ず感覚麻痺と虐待を防ぐことができるとは限らない。しかし言葉を正す習慣は、心の乱れをある程度までは防ぐ効果も生むし、言葉だけを正しくして態度が荒れてきたら、周囲の人はそのことに対して違和感を覚え、その不自然さや不適切さに気づきやすくなり、深刻な問題に繋がる前に、ほころびを指摘でき、修復できるという効果がある。

2025年には、団塊の世代の人々が後期高齢者となり、介護サービスを利用する人がさらに増えるだろう。それらの世代の人々は、企業戦士として高度経済成長期を支えてきた人で、我々の世代より上下関係に厳しく、サービス業の言葉遣いに敏感な世代である。

そうであるがゆえに我々が言葉を崩すことで不快になる人は多く、同時に崩した言葉に傷つく人も多いはずである。 

そうしないためにも、我々の世代で、言葉を崩して馴れ馴れしい言葉遣いをすることが、親しみやすさの表現だという変な誤解をなくして、顧客サービスとしてふさわしい言葉を普通に使いこなすことができる介護を作っていく必要がある。今変えていかないと、汚い言葉でいつか我々自身が傷つき、我々の愛する子供や孫が傷つけられるのだ。

虐待と無縁の介護は、正しい言葉遣いができるところから始まるのである。

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言葉の改革・改善の総仕上げとして


顧客である利用者に対して、無礼な馴れ馴れしい言葉を使うことが、「親しみやすさ」の表現であると勘違いすることによって、汚い言葉遣いを放置してしまう事業者は実に多い。そしてそのことによって、対人援助がサービス業であるという本質を忘れ、利用者の心の痛みに気付かなくなったり、利用者の心と身体を傷つける行為を平気で行う結果につながる例は枚挙にいとまがない。

それは感覚麻痺の結果である場合が多く、そうした感覚麻痺を防ぐために、常日頃から言葉の乱れをなくし、少しでも利用者に対する言葉遣いが乱れたとしたら、即、その場で修正していく必要があるというのが、「介護サービスの割れ窓理論」である。

その理論を提唱する僕は、自身が勤める介護施設及び介護サービス事業所において、利用者やその家族と会話する際に、丁寧語以外で話をすることはない。それは100%あり得ないと言い切ってよく、もし僕が利用者や、ご家族との会話において、丁寧語を使っていない事実が明らかになったとすれば、即この仕事を辞めるだろう。

それほどの覚悟と信念を持って、「介護サービスの割れ窓は言葉遣いである」ことを声を高くして主張している。

そのことは当然、わが法人の職員にも求めているわけであるが、20年以上も前から、そうした理論を提唱し実践している結果、我が法人のサービスでは、ほぼ9割方丁寧語で会話をする日常ケアが浸透していると思っている。

しかし逆に言えば、20年以上かけても、いまだに「介護サービスの割れ窓理論」を実践できない職員や場面が、1割程度は存在するという意味である。実に嘆かわしいことではあるが、それはいかに言葉の改革・改善が困難であるかということの証明になるのかもしれない。

だから、言葉の改革・改善に取り組まれても、なかなか成果が挙がらないとお嘆きの方には、是非あきらめないで、亀の歩みでも良いから、確実にゆっくりと一歩を進める努力を続けてほしいとアドバイスしたい。

ところで、いつまでも1割程度の実践ができていないと言っているわけにもいかない。そろそろ100%の実践が求められる時期であると思う。そのためには大ナタも必要である。そうでなければ新入社員や実習生が、言葉を操れないプロ意識の低い職員の影響を受けて、せっかくの素材を伸ばせないという危険性がなくならないからである。

有料老人ホームSアミーユのような施設職員は、特別に資質が低い職員とは限らず、感覚をことごとく麻痺させて、あの醜い姿に繋がっていったのではないかという視点から、少しでも、1%でもそのような感覚麻痺につながる要素が残っているのなら、それをなくしていくという考えが必要で、今後介護サービスを利用する機会が多くなるであろう「団塊の世代」に属する人々は、年下の者が年上の人に対して、ため口で話しかけることを不快に思う人が多い世代であることを考えても、言葉の割れ窓は徹底的に排除すべきである。

たまたま当施設では、人事考課を取り入れた給与規定の改定を行っており、今年度1年間をかけて、人事考課のための研修を行ったうえで、来年度から人事考課による昇給と賞与支給のシステムを取り入れる予定である。
(※当法人の人事考課とは、単に質の劣る職員の給与を下げるというものではなく、求められている質以上の実践がも認められる職員には、標準規程以上の給与を渡すという視点が入っている。)

その中で、1年間の実践状況を上司に面接したうえで報告し、上司が評価するための書式の一つ「個人目標評価基準」が以下の書式である。
個人目標評価基準
この中で、「A」と評価されると、規程された昇給や賞与支給がされることになる。基本的に人事考課は、給与を下げるのが目的ではないので、このA評価については、「職場が職員に求め、基本的にはすべての職員が実践できる」というレベルの目標を指している。ただし達成される標準レベルとは、経験年数や、持つ資格によっても差があるので、それについては、下記のチャレンジカードに個人目標として定めることになっている。

チャレンジカード
こちらの、『達 成 基 準(具体的行動内容)』のBに、個人として達成可能な、標準的に求められる目標を掲げ、上司の面接によって結果評価を受けて人事考課につなげるものである。
(※本記事は、人事考課についての内容ではないので、細かな基準などには触れないが、仮にA目標が達成されたと評価されれば、標準以上の昇給等につながり、それは改正以前の昇給等より多くの金額を得る結果となる。)

このB基準目標について、職員全員に「利用者に対して、常に丁寧語で会話ができる」という目標を入れてもらうことにした。これは基本的に誰にでもできることだし、やってもらわねばならぬことだからである。これによって、来年度から、「利用者に対して、常に丁寧語で会話ができている」職員が、標準の昇給や賞与支給がされることになり、少しでもそれができていなければ、それ以下の評価となり、昇給額や賞与支給額が下がることになる。

このことについて、人事考課の研修の中で、一般の介護職員を評価する立場の幹部職員(それらの人の評価者は、上司である施設長)に、その目標を入れることを全員に課してよいかと提案したところ、二つ返事で「構いません」という答えが返ってきた。

それはそうだろう。彼ら、彼女らは、100%丁寧語で利用者と接している実践者だから、そのことが利用者との関係上、親しみやすさを奪うものではないことも、コミュニケーションをギクシャクさせるものでもないことも実感しており、かつそのことを実践するには難しいとも感じておらず、誰にでもできる程度の約束事だと理解しているからである。

勿論、このことの実践課程で、落伍者が出てくることもないとは言い切れないが、それは仕方ないだろう。ある程度のサービスの質を担保するためには、法人の要求する最低限のルールと質を担保できない人は、退場願わねばならないと言うことである。

それは僕がこの職場からいなくなっても、その品質が護られることが可能となるために、システムとして確立させておかねばならないことなので、20年以上注意し求めてきたことなのだから、こういう形で総仕上げにかかっても良いのではないかと考えたものである。

求められるサービスの品質を保つために、僕がこの法人に残していく「遺産」として考えていただければと思う。

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認知症は治るのかという議論について


認知症は治るという人がいる。しかしこれには二つの意味があることを理解すべきだ。

ひとつには、認知症とはそれに繋がる病気や病態が存在して、その病気や病態については治療可能なものがあり、その治療によって、認知症という症状がなくなるという意味である。

早期発見すれば治る認知症の具体例としては、その症状を引き起こしている病気・病態が、アルコール脳症,低酸素症,一酸化炭素中毒,脳炎,髄膜炎,神経梅毒,脳腫瘍,慢性硬膜下血腫,正常圧水頭症などが挙げられる。特に、「正常圧水頭症」については、早期発見すれば外科的手術で8割の方が、認知症の症状が消失し正常に戻ると言われており、そのことは認知症サポーター研修のテキストにも書かれていたと記憶している。

またこれとは別に、「治る」という意味を、症状が良くなるという意味で使っている人もいる。

例えば、現在のところ治療も予防も困難とされている、「アルツハイマー型認知症」の人について、服薬コントロール等で、行動・心理症状が消失、軽減するということを、「治った」と言っている人もいる。たしかに認知症の人をケアする主介護者などが、一番困ることは、起きている間中大声を出したり、徘徊したり、破壊的行為に及んだりすることであり、その症状が消失することで、介護負担は著しく減るのだから、これも「治る」というふうに表現されるのであろうと思う。

ただし、認知症の病系としては最も数の多いアルツハイマー型認知症に関していえば、その原因は今もって不明であり、治療法も予防法もない。

とはいっても研究自体は、以前から続けられているわけで、アルツハイマー型認知症の進捗状況については、脳内に異常なタンパクが蓄積して(老人斑)、脳神経が繊維化し(神経原線維変化)、神経細胞間の連結が消失し、これにより記憶が消失し、認知症と呼ばれる症状を起こしこすことがわかっており、アミロイドβタンパクや、タウタンパクの阻害薬や、ワクチンの研究がされているところである。

そんな中で、一筋の光明が見えたかもしれないというニュースが流れ、その内容は8/19に書いた、「認知症の治療に光明?」でも情報提供したところである。

11/1(日)に、テクノプラザかつしか(東京都葛飾区)で、「認知症を知り、地域で支え合おう〜認知症の症状と対応を考える〜」(葛飾区介護サービス事業者協議会主催認知症研修会)をテーマに講演を行うが、その講演ファイルは、既に完成させ講演主催事務局に送付済みである。そのスライドの1枚が下記であり、それは前記の記事に書いたニュースの内容についてである。

認知症治療法の現状
僕は医者ではないので、治療に関する専門的知識を述べるわけにはいかないが、「最新の情報」として、認知症の治療の試みがどうなっているのかということは講演内容に含めた方が良いと判断して、こんなスライドも作ってみた。このことと筑波大チームの血液診断と絡めて考えると、画期的な治療法が生まれるかもしれないという話をするつもりである。

ところが、このファイルを事務局に送った直後に、イギリスの研究チームが、「アルツハイマー病は、感染症ではないか?」という衝撃的な研究発表を行った。アルツハイマー病で亡くなった方の脳を調べたところ、11人全員から、数種類の真菌種の痕跡を発見されたというのである。もしアルツハイマー病の原因が真菌であるとしたら、アルツハイマー病の治療に、真菌治療が加わる可能性があるということだ。ただこの研究チームは、アルツハイマー病によって抵抗力が落ちたから、真菌に感染したという可能性も否定出来ないとしている。
(アルツハイマー型認知症と、アルツハイマー病という表現の違いについては、「認知症・診断名の違いについて」を参照願いたい。)

このことが本当なのか?本当だとしたら、アミロイド仮説等に基づいた今までのアルツハイマー型認知症の治療や予防の研究は無駄になるのか、それとも役に立って発展するのかなどは、すべて現時点では、「わからない。不明である。」と言うしかないだろう。

要するに、アルツハイマー型認知症には、まだまだ分からない点が多いという事実が明らかになったということである。

何とか一日も早く、アルツハイマー型認知症の原因を突き止め、治療法と予防法を開発して、これが過去の病となることを願ってやまない。ただしその途はまだ遠く、険しいと言えるのだろうと思っている。

さて話は変わるが、本日は私用でお昼から休みをいただき出かけなければならない場所がある。明日はこのこととも少し関連して、現在僕が所属する法人の一大改革に関する話題を記事にしたいと思う。「介護サービスの割れ窓理論」を支持してくれる人で、言葉の改革に取り組んでいる又はこれから取り組みたいと思う人は、是非明日の記事を楽しみにしていただきたい。

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お客様は神様じゃないけれど・・・利用者の暴力・暴言への対応


3人の利用者が不審の転落死をした介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」と、そのグループ施設における一連の利用者虐待について、たくさんの報道がされたことで、世間では高齢者介護施設等への不信が広がっている。

大多数の施設が、そうした虐待とは無縁のサービス提供を行っているとしても、あれだけショッキングな隠し撮り映像が全国に流れたのだから、世間一般から、それが「氷山の一角」であると思われ、外から見ればわからない不適切な行為が、高齢者介護施設という密室の中で行われているのではないかと疑われるのは致し方ないことだろう。

ましてや問題となっている有料老人ホームの親会社は、業界唯一の企業で、そのトップは介護について様々な提言をしてきた人である。そうした組織の中で複数の不適切事例が明らかになったのだから、世間が介護事業者に向ける目は、一段と厳しくなるのは当然である。

我々は、そうした世間の不信が拭い去れるように、自分がいる場所で、目の前のサービス利用者の皆様に、真摯に向かい合って、ひとりひとりの暮らしと笑顔を護る支援を続けていくしかない。その結果で、新たな評価をいただくしかない。

何度も繰り返して主張しているが、あの隠し撮り映像を見て、「あれほどひどくはないよね」と安心してはいけない。「それでは、どれほどまでなら良いのか?」と考えたとき、利用者は介護施設に、「よりましなケア」を求めているのではなく、自分が暮らすうえで最大限の尊厳を護るケアを求めているということを忘れてはならず、そうであれば不適切な言動につながりかねない、「馴れ馴れしい言葉や態度」は控えるべきであり、対人援助サービスが、福祉援助として行われる場合であっても、顧客サービスという意識が必要であることも当然であり、他の産業と同じように、お客様に使うことが不適切な言葉遣いや態度については、使わない・行わないという、「常識」が求められるのである。

そういう意味では、「介護サービスの割れ窓理論」は、いまだからこそ真剣に介護サービスに取り入れられなければならない考え方だと思う。

ところで、この問題に関連して、介護サービス事業に携わっている人の中から、「利用者への暴言・暴力が問題になっているが、利用者からの暴言や、暴力を受けている職員の方がずっと多い」という声が聞こえてくる。それらの意見にはなからず、「利用者に対する暴言・暴力を容認するわけではないが・・・。」という言葉が添えられているが、しかし今この時期にこんなことを言ってはならない。それは、どのような前提条件を付けたコメントだとしても、「言い訳」・「不適切行為の正当化」にしか聞こえないのである。

言いたいことはたくさんあっても、今すべきことは、自分の周囲に、「Sアミーユ川崎幸町」の状態になるような感覚麻痺は存在しないのかということを検証し直し、黙々とケアの品質を向上させていくことだけである。反論より先に、前向きな行動こそが求められるものだ。

対人援助というサービスに、ストレスはつきものだと言っても、他の職業だって多かれ少なかれストレスはあるし、そのことを嘆くだけでは何の建設的議論にも結びつかないし、解決法にも結びつかないのである。

ただし介護サービス事業の管理者は、こうした利用者の暴言・暴力を、「お客様は神様」的な視点から、仕方ないと何も対応しなかったり、職員に我慢を強いるだけで放置しておいてはならない。

利用者の暴力・暴言について、管理者はそれが認知症などによるものか、精神的な問題はないのに、単にそれが利用者の性格等に基づくものなのかをしっかり区分して対応しなければならない。

前者の場合、その行動は利用者の望む行動・行為ではなく、行動・心理症状として自己防衛の症状として表れている行為であることを、職員全員に周知し、その行動の原因として、どのような要因が考えられるのかを職員全員で検証し、話し合い、どのようにすればそうした行動がなくなるのか、あるいは症状緩和・軽減できるのかという答えを探し続ける必要がある。その過程で、職員には、そうした行動をとること自体が、利用者にとっての「哀しみ」であり、「辛いこと」なんだと意思統一する必要がある。それがない利用者の行動を受容することはできなくなる。

このことが徹底して指導されている職場では、認知症等で暴言・暴力行為を行う人について、管理者の指導がなくても対応する担当する職員間で、都度対応を話し合って、支援方法を工夫して行く結果となり、その過程で暴言や暴力があっても、それをストレスと感じるのではなく、解決すべき生活課題と捉え、そうした行動にチームで向き合う姿勢が生まれ、それはやがて個々の職員のスキルの向上へと繋がっていくだろう。現に僕の職場で、認知症の人の暴言・暴力がいつまでも症状改善せずに、職員がその対応が困難でバーンアウトするという状態は見られていない。担当現場で、それぞれのチームが旨く対応して、症状軽減に結び付けてくれている。

一方、精神的問題がないのに、職員に暴言・暴力を奮う利用者がいる場合は、管理者が職員をしっかり護らねばならない。利用者は顧客であると言っても、どのような態度も許される暴君として存在してよいわけがない。

そこには顧客であったとして、サービス提供者の尊厳を傷つけてよいということにはならないという、人間として当然守るべきルールは守る義務があり、顧客サービスとして、正しい接遇を受ける権利があるのと同時に、人として許されない行為を行うのであれば、顧客としてサービスを受ける権利を失うという覚悟と理解も求められるのである。

理不尽な暴言・暴力に対しては、断固とした、毅然とした態度が求められるのである。(参照:クレームは頭を垂れるだけで解決しないこともある。

勿論、その前提には、どうしてそのような行動に及ぶのかという事情を聴収することを含めた、話し合いがあることは言うまでもない。こうしたことは、管理者が腹をくくって、自ら対応しないと根が深くなって、取り返しのつかない深刻な問題に結びつくことになりかねない。

職員の不満やストレスは、利用者の行為自体よりも、何にも行動しない管理者に原因があることが多いことを忘れてはならない。

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心の闇とか、ストレスとか言ってる場合じゃない


介護サービスに携わるすべての事業者と、そこに従事するすべての職員が、決して人を不幸にしていないなどという幻想は抱いていない。

本来はすべての事業者や従業員が、介護サービスを利用する全ての人の幸福を目指すべきであり、その結果責任を意識した支援を行う必要があるが、残念ながらそういう使命感も援助技術も持たずに、不適切なサービス提供に終始し、人を不幸にすることに良心の呵責を感じることもない人が存在しているということを、現実問題として認識している。

そういう状態を少しでもなくしたいと思い、人を蔑む行為は介護ではないと言い続け、人を人とも思わず、決められたルーティーンとして、業務を機械的に乱暴にこなすだけの行為の醜さを伝え、介護という仕事のどのような部分に誇りを持ち、介護を必要とする人々に対してどのように相対するべきなのかを伝え続けている。そのために「介護サービスの割れ窓理論」を全国に広めたいと考え、志を同じくする仲間とともに力を合わせて活動を続けている。

しかしながら、自らの醜い姿に気づかないまま、人を苦しめ続ける介護サービス従事者の存在が、次々と明らかになる状況はなかなか変わらない。そのことに心を痛めている。

介護サービスに従事する大多数の人々は、そうした醜い行為とは無縁の人々で、高齢者虐待などのニュースに触れるたびに、心を痛め、そうした許されない行為を繰り返す人々に対し怒りを感じている。しかし一部の人間とはいえ、ひどい虐待行為が明らかになることで、それが氷山の一角であると世間には認識され、介護サービス全体が悪の巣窟のようなイメージを持たれてしまう。それも残念なことである。

そんな中、またひとつ信じられないような虐待報道が飛び込んできた。

入所者3人がベランダから転落死した神奈川県川崎市の老人ホームでは、他にも入浴中の利用者が浴室内で死亡したり、職員が利用者のお金を盗んだり、利用者に日常的に暴言を繰り返していたりして、処分を受けていることが明らかになった。そしてその虐待の様子を捉えた映像を入居者の家族が公開し、昨日からマスメディアで大々的に取り上げられている。
許されない虐待
その映像は、今年6月に入居者の家族が撮影したもので、職員が入居者の女性の首を絞めたり、女性をベッドに放り投げたり、頭をたたいたりする様子が映っている。その姿は、人として正視できないほどひどいものである。

しかし我々介護従事者が考えなければならないことは、こうした「あまりにもひどい行為」が許されないのは当然としても、ではどこまでの行為なら許されるのであろうかということである。その問いかけにどう答え、介護サービスに従事する人々に何を伝える必要があるのだろうか?

虐待も不適切行為も、不作為の過失も、人を傷つけてしまうという結果は同じである。そうであれば対人援助を職業としている人々は、プロフェッショナルとして、利用者を顧客と捉え、人の心を傷つけてしまうリスクをできるだけ少なくする方法で接する必要がある。言葉遣いについて、「丁寧語で会話する」ことを原則とすることはそのためにも必要で、「介護サービスの割れ窓理論」は、感覚麻痺を防ぎ、介護従事者と顧客の馴れ合いの関係で生まれる不適切対応や、マナーの低下を防ぎ、虐待などもってのほかという意識を生み出すためにも必要な考え方なのである。

虐待につながる感覚麻痺した言葉遣い
よって、この画像の状態も、上の虐待画像の状態と同じようなものだという意識を持たねばならないのだ。この画像の状態が放置され、日常的になることが、上の画像の状態につながっていくのである。このことの恐ろしさを知るべきである。
※この画像の会話はフィクションであり、実際にこうした言葉が交わされていた場面ではないことをご了承ください。わかりやすい例示として、この画像を使っています。

この2つの画像は、昨日作成した講演ファイルのPPT画像である。10/3(土)14:00〜16:00に、フェニックス・シーガイヤ・リゾートホテル(宮崎県宮崎市)で行われる、宮崎県老人保健施設協会事務長会、看護・介護部会主催研修での講演、「明日へつなぐ介護〜誰かの赤い花になるための介護実践論〜」の際に使うために作った画像ファイルだ。同研修は、会員以外の参加も可能なので、お近くの方は、張り付いたリンク先から詳細を確認し、参加申し込みをしていただきたい。

それにしても、あの隠し撮り映像は衝撃である。職員の怒声、利用者の悲鳴、その声がほかの職員や入居者に気付かれないわけがない。気づいてもい見ぬふり、聞こえぬふりをしていた職員が多数いるのではないのだろうか?そうであれば、それは同じ罪である。

一部の報道では、職員不足や介護ストレスが虐待の原因と報じているが、職員不足にしても、ストレスを感じることにしても、多かれ少なかれ介護サービスの職場では同じ状態が見られ、だからと言ってあのような行為が許されるわけではない。仕事にストレスを感じるのは、介護の職業に限った問題でもない。そのことを理由にして、あのような行為が致し方ないかのような論調はあってはならない。

介護とは、人を心にかけて護り助けるという行為であり、そこでは介護者が、支援を受ける人々の尊厳やプライバシーを護るケアパートナーとなる必要がある。しかしそれは特別な才能がある人にしかできないことではなく、常識ある人間であれば、当然できる行為である。

人を人として見ないような醜い行為を介護と呼ぶことはできないのである。

我々は、人として当たり前に人を愛しむということを前提に、そのうえで介護や福祉援助のプロフェッショナルとして顧客に対応することが求められるはずだ。人を人として敬ったり、虐待をしないという教育が必要だというレベルは、本来ありえず、それは人間が成長過程の中で、社会人となる前に当然持っておくべきスキルにすぎず、職業人としてそのスキルを適切に発揮できる環境を作るのが管理者の役目と言えるのではないだろうか。

それ以前の、人の成長過程における人格形成に係る部分については、職場としては手が届かぬ問題で、そこに歪みのある人は、この職業には向かないとする以外にないのかもしれない。

映像に映されている行為は、すでに犯罪の域に達している。転落死の問題を、市が調査すると言うが、このことに関していえば、警察が捜査すべき問題だと思う。

※「居宅介護支援費に利用者自己負担を導入することの是非について」というアンケートを実施中です。(9/25まで回答期限)。是非皆様の意見をお聞かせねがいたく投票協力をお願いします。

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紙おむつと紙パットを翌日も使いまわすことについてのアンケート結果を公表します


7/27に書いた、「紙おむつと紙パットの使い方についてご意見をください」という記事の中で皆さんにお願いしたアンケート調査、「紙おむつと紙パットを翌日も使いまわすことについてご意見をお聞かせください」(前の晩から朝まで使用した紙おむつや紙パットが濡れず汚れていない場合、日中そのパンツやパットを外して過ごしている方に、その日の夜、前の日使った同じ紙おむつや紙パットを再度使用してよいでしょうか?)について、7/27〜8/9までを期限とした調査結果が出ました。

今日の記事では、その結果について、僕の論評抜きでお知らせします。まず回答結果については、下記画像の通りとなっており、「どちらも再利用するのは不適切」が過半数を超えております。

紙おむつとパットに関するアンケート
次に皆さんから寄せられら意見(コメント)をすべて紹介します。
-----------------------------------------------------
どちらも再利用して問題ないと答えた方のご意見
・私は毎日下着は取り替えないし非常に生活に困窮しているので逆に頻繁に捨てないでほしい。育児の際に保育所にもそう要望しました。
・自分は入浴時に下着を交換するだけですので、汚れていなければ1日1回の交換を基本とするのが通常ではないかと考えます。夜間のみで使用したから必ず交換ではおむつ代が自己負担の場合などは経済的に厳しい家庭も多いのではないか。
・毎日使えるものを捨てるのは問題では?
・1回程度の再度使用なら支持する。
・当事業所で数年前に同じ議論をした内容です。結果は再利用です。再利用という言葉が適切か否か解りかねますが…。問題としてはコスト面を考えないことです。なぜなら、利用者にとって本当に必要な支援が見えなくなるから。話を戻しますが、考え方としては清潔に保てることができたかどうかではないでしょうか?私たちの施設では、排泄の失敗があればすべて陰部洗浄→清拭→乾式を行い清潔を保つようにしています。そのため、パットが汚染していない場合は継続して使用します。※因みに紙おむつは使用していません。恥ずかしい話かもしれませんが利用者個々により異なりますが、肌着は2日に1回と寝具と日常着の更衣は毎日となっています。個人のアセスメントに基づき行っていますが、これでもソフト面(介護力)はいっぱいいっぱいです。なお、平均介護4.4です。いろんな答えがあると思いますが、例えば入浴後、バスタオルで体を拭きます。そのバスタオルは清潔な体を拭いたからそのまま乾かして翌日も使う人もいます。でも、絶対毎回新しいタオルで拭く人もあります。ですので個人差でないでしょうかね?ただ依然、汚染していないパットをタンスの上にそのまま置いて例があり、めっちゃ反省しています。そのため、見えないように専用のboxを個々に準備しています。たぶん個々の考え方によりそうですが…。良かった点があります。職員の声の掛け方が変わりました。汚染してなかったら「汚さず寝れて気持ち良かったね」とか「汚さんかった。また使えるやん。得したやん(笑)」「ありがとう汚してなくて楽できた(笑)」良い言葉掛けか悪い言葉掛けか解りませんが、利用者は笑ったり安心した表情が見られる方もいます。話が大きく変わりますが、私たちの施設でも第3者からみてどうかとい議論をよくします。その中で、毎年議論している事が、入浴全員週3回の話です。これも恥ずかしいですが、皮膚状態や本人の意向によって週3回以上対応している方もいますが大半の方が週2回です。これも介護力の問題もありますが。毎年答えが先送りされています。「そんなん無理やん人員的に」「時間が無い」の反対意見と「自分たちが週2回やったらいややろう。」「自分らぁがされて嫌な事をしないと決めてるやん」と賛成意見もあります。現在進行形で隣の席で介護主任同士が話してます(笑)利用者のためにも職員のためにもいい答えが出ればと打ち込んでます。最後に「これ第3者かみておかしいやん」と思う事。法的に入浴週2回でOK刑務所とちゃうで!!以上長文で意味不明な文章ですがすみません。私たちの意見です。
・オムツは下着ではないと考える。 様々な排泄に携わる機能の低下により、オムツという資源(文明)を活用しているわけで、その資源を最大限に有効活用するべきだと考える。 私が勤務している施設では汚れていなくても交換しているが、それは再利用に対する衛生面等の安全確認していないからである。そのような状況で敢えて再利用しないのはmasaさんが仰る「それって普通?」が施設内で偶然か意図的かはわからないが、浸透しているのではないかと思った。 このブログのおかげで新しい視点を持てる様になったので大変嬉しく思う。再利用を行うことに今は反対も賛成もないが、衛生上などの安全面が確保出来れば再利用は不適切ではないと考える。
・紙はOK。布はNG。今の紙は吸収セエイ
・逆に何が問題なのか?
・うちの子供はそのようにして再利用している
・自分なら、汚れていないのでもったいないと思う。
・自分がされる。自分の親にする。のどちらの場合にもありと思ったから。
・使い回し
・しかしその方は紙パンツパットは必要か。
・衛生的ではないという考えもあるかと思いますが、一般的なご家庭では当たり前のように思います。そう考えると経費削減策という意味で天秤にかけることはおかしいことではなく、あとは個人的な意見で見解が分かれるのではないでしょうか?
・本人の希望が無ければ再利用すべきではないと思います。
・ただし数日間続けてというのは問題

どちらも再利用するのは不適切と答えた方のご意見
・下着ですから
・使い捨てるから「紙」なのであって使い回すなら布を使用すべきでは?
・当たり前でしょ
・一度着用したもので全く汚れていないということはあり得ないと考えます。汗もかきますし・・・。一日の流れの中でパットのみの交換ということであれば理解はできますが、一度着用したものを再利用というのは自分であれば嫌です。
・どちらも再利用するのは不適切
・下着として捉えるべきで、外した物は処分するのが普通と思っていました
・迷わずこれでしょ
・不可ではないが不適。汗もあるでしょうし替えた方が気持ち良い。その前に必要性から再考では?。
・コストカットと権利擁護。天秤にかけるまでもない。
・自分自身に置き換えたら嫌
・気持ち悪いですよ!汗かいてるし(ー ー;)
・下着という感覚であれば、一度脱いだのであれば理由がない限り再使用は不適切だと思います
・一旦脱いだ下着、もう一度身に着けられます。私は無理です。これと同じことでは。
・それが普通だと思います。
・濡れていないだけで再利用は不衛生。自分の身に置き換えても不快感でいっぱいです
・下着と同じ
・下着と同じに考えるべき
・自分の下着も眼に見える汚れが無ければ洗濯しないのかなと思いました。きれいで居たいって事と経費削減は同じ土俵で考えてはいけないと思います。
・一日履いた下着は汚れています。履きかえるのが当たり前。
・一度、外しているものを再度 とは、いかがなものか。衛生面からは、どうなのでしょうか?
・自分自身の生活において、汚れていないからと言って履いたパンツをタンスにしまうことが無いのと同じと指導しています
・ただし、おむつ代を実費で請求する施設の場合、本人や家族の希望を尊重すべきと思う
・当施設では、一度外してしまった物については再利用していません。
・使用した時点からオムツの汚染は始まっているのではないでしょうか。感染症等のリスクが大きいかと。また、保管管理のリスクもあり、間違って他者への使用等の問題も起きそう。
・自分自身に置き換えた場合に嫌だと感じるから。
・コストダウンを考えると、再利用が可能かと思いますが、生活する上でやはり、下着と捉えるのが、望ましいと思います。 汚れがなくとも、汗等の臭い移りもあるはずです。新人にも下着と同等にと教育しています。しかし、デイサービスでは、ご家族や本人の意思で、交換しないケースもありました。 以前勤務していた、特養では、布オムツと布オムツ用カバーを使い、パット使用という対応もしていましたが、洗濯回数等で、余りコストダウンには、なりませんでした。 結局の所、このような身近なコストも経営にかかってくることを想定した、国の適切な報酬単価に期待したいです。
・排泄物で汚れていなくても、汗等での汚染はあるし、一旦脱いだ下着を再度着用することは、自分だったら気持ちが悪い。
・ありえません。
・日中あるいは夜間使用されていた物は、その期間(日中、夜間)で役割を終えたものとして取り扱うことが一般的ではないでしょうか。一度自分自身がおむつ体験を通して考えてみられては如何でしょうか。
・汚れていないと捨ててしまうのはもったいなく感じることはありますが、一度外したものであれば、再利用せずに、新しいものを使った方が、衛生的にも気持ち的にもいいと思います。
・次の夜に使うので出はなく、その日の下着として使うのはありかと
・どちらも「下着」として考えるので、朝脱いだものを夜に履くことは考えられません。
・今まで再利用する施設で働いたことがありません。
・一度使用したものは不衛生です
・ありえない。・・・が、『オムツ=下着なので毎日交換するように』徹底指導してようやく毎日交換するようになったスタッフに愕然とした過去があるので強くは言えない。
・私自身が当人であった場合はやはり避けたいと思う。
・汚れていないということは、オムツ外しに移行していくのがよい。
・いくらコストの問題でも不可です。
・理解できる人なら気持ち悪いはずです
・下着と同じ感覚で一日一回必ず交換する。再利用はしない。
・特に夏は不適切
・そもそもリハパン+パットの理由がわからない。どちらか一つで十分では?
・濡れていないからと言って汚れていない保証はない
・濡れてなくても匂いがすることがある。とても清潔とは思えないが…
・不衛生
・世間一般の感覚に置き換えると不適切だと感じます。
・ただ、直接皮膚に触れているものは必ず交換するが、よれたり、汚れたりしていない紙オムツは使用の仕方を洗浄用などに変えて使用していきたいですね。環境のためにも無駄にしたくないですもんね。
・下着と捉えて、対応するべきだと思う。自分自身の普通の感覚で言えば、再利用は不適切だと思う。しかしながら、利用者が、再利用したいという意向があれば、それを無視するものではない。
・在宅ですが、今までそれはやったことありません。入浴あるなしに関わらず朝夜の着替えの時に取り替えます。
・費用面の心配をする声も聞きますが、私は不適切だち考えます。
・利用者様は気持ち悪いと思うので交換必要である。
・リハビリパンツを下着と考えたら変えるべき
・一度身に付けたものを、わざわざ再度使用する必要はない。と思うが、自分自身が自分にそうする可能性はある。ただ、それを他人にして良いかとなると抵抗があるのも事実。実際、自宅で生活されてる方で、再利用している方もいるが、その人の価値観や金銭的な考えがあるため、強要はできない部分もある。
・皆さんパンツは毎日替えますよね。
・パンツやパッド類は、便器ではないから
・見た目だけで判断しないで自分がされたらどうか、家族が見たらどう感じるか。自分がそうされたら嫌だ。自分が嫌だと思うことは人にもしたらいけないと思う。
・新しい物を提供する事が普通だと思います。
・ただでさえ履きたくないオムツの再利用もパットもあり得ません。それって普通?って考えたとき普通じゃない。なので不適切
・一度使用したものを再度使用することは考えられない。
・だと思う。
・話にならない。感覚がマヒしている。
・医療療養です。コスト削減という点では有効かもしれませんが、「身内に同じ事をできますか?」と考えたら目先の小金を優先するよりも他でコスト削減を考えるべきと考えます。
・でも現実は家族から、オムツが汚れていないなら、取り替えないで欲しいと要望があります。嫌だなあと思いながら使うことがあります。コストのことを気にする家族は多いです。
・下着なので、汚れていなくても、毎日、取り替えるのがベストだと思う。朝だからとか、お風呂に入ったから、取り替えましょうという声かけをすることで、利用者の生活リズム、習慣が出来ると思うし、気持ち的に違うと思う。衛生的にも良いと思う。
・財政難のおり、厳しい事と思いますが、不適切と思います。湿気が籠りそうだし.清潔に気持ちよく就寝してほしいです。割れ窓理論としても職員のモチベーションの維持にも繋がると思います。普通の感覚大事にしたいですね。
・一度脱いだ下着は、洗濯したものでないと再度着ることはないから
・衛生的な問題や普通の下着としたときの観点もさることながら、一晩利用したものは汗の吸収や寝返りにより中のポリマーが偏り、尿漏れや、ポリマーの偏り自体による皮膚のストレスにつながることになります。そのため経営的になおむつ代単体で考えれば高く思われますが、適切に交換していたほうが、皮膚トラブルへの処置、洗濯などなどトータルで考えると経営コストは安くなるとも思われます。ましてや利用者にとっては当たり前に交換してほしいですし。
・汗等で汚れているはずです。
・自分だったら嫌だから
・経費削減だろうが、節約だろうが・・・その発想はありませんね。うちの施設では・・・。
・どちらも再利用するのは不適切
・再利用という発想は全くありませんでした。少し驚いています。
・自分ならそんな不衛生な施設はまっぴらごめんです
・排泄物の汚染だけでなく、日常使用により汗もかいていると思います。オムツ代が施設により、個人負担の場合やコスト的な背景もあるとは思いますが、清潔かつ利用者様の快適さを考えると、交換するのが理想ですね。
・汗をしているので、皮膚トラブルを防ぐため。また、汚物等を包む目的で別の使用方法が沢山ある。
・一度外しての再利用には違和感を感じる。
・微量の汚染は目視では確認できない為、不衛生且つ皮膚のバリア機能を損なう可能性あり
・汚れていない下着を翌日、再利用するのは不快に感じるし普通はあり得ない、紙おむつやパットであっても同じであり再利用は感覚麻痺しているとしか思えない。
・下着ですので。
・もったいない節約したい気持ちもあるが、衛生上の問題。
・増収増益のためにもっとやれることがあるのではないか。私は他業種からの転職組だが,コスト意識の低い社福が多いように感じている。一人あたりの売上や一人あたりの利益などの生産性を考えて仕事している職員があまりにも少ないことに驚く。
・コストの問題があろうとも
・下着という考えに賛成
・常識で考えて不衛生。
・利用者様の意思を一番に尊重させていただきますが、個人的には汚れていないからといっても目には見えない汚れ(汗など)は誰にでもあることなどで、出来れば使用しない方がいいかなとは思います。利用者様がどのような生活習慣だったのかなどのアセスメントをしっかりとしたうえで、本人様及びご家族の意向に沿えるようにしています。施設側のコストは増すとは思いますが、利用者様には関係のないことなので…
・1回はいた下着は履き替えるべきだと思う。
・普通、毎日パンツは取替える(洗う)、高齢者でも発汗するので取替えたほうが良いと思います。
・ではあるが、そういうこと行わせてしまうような余裕のない介護報酬にも問題がある。
・肌着を毎日洗濯するように、次に使用する際は新しいものを使用するのが当然。
・当然過ぎます…
・直近の、排泄動作時までならば可能と考えるが、今回のように時間が大幅に飽くような場合は望ましいとは思わない。
・一度使用したパンツ(下着)を穿くのは嫌だから
・いかなる理由があろうと良い訳がない、絶対だめです。
・不衛生では?と考えるから。また自分だったら、汚れていなかったとしても毎日新しい物を履きたいから。
・下着の代わりだし、実際自分じゃしないでしょ。
・以前勤務していた特養では少々の汚れがあっても使うように業務命令が出ていました。例え、軽費削減であっても一度使用した排泄用品を再利用するのは一般的には汚いと感じるし、自分が同じ立場であったらしてほしくない行為だと思います。排泄ケアについてもう少し気を配って支援してほしいと感じています。
・両方不適切ではあると思うが、ポリマーのヨレがなかったり、汚れがなければ抵抗はあったが紙おむつは使用してしまう。(実際には見えない汚れや菌があるとわかっていても。)改めて考えると感覚麻痺だと感じる。
・個人的に(身内でも)されたら絶対嫌だ。それでいて尿路感染にうるさい勤務医。
・施設側のコスト意識の視点(オムツの再利用)が間違っていると思います。
・自分がされることを想像したらイヤだ
・下着として見ているので。脱いだものをどこに保管しておくのでしょうかね。
・どちらも1日の適切な時間で交換するべき
・基本的に再利用には反対。パッドは汚れて変えるのは当然だが、紙オムツが汚れないのであれば、紙オムツは使わなくても済む方法を考えれば良いのではないか。
・個人的な意見としてはどちらも交換です。綺麗に見えても汗などで汚染されていると思うからです。自分自身も下着は毎日交換してますので。特に夏は2回目着たり履いたりいやです。しかし、当施設は特定施設でおむつは提供するものの、自費である為ご家族へは一度使用したおむつ類は再利用しない旨話し、理解を頂いています。経済的な問題で節約したいという方は紙おむつのみ汚れていなければ再利用でご理解頂いています。直接陰部に接触しているパットは汚れていないように見えても、尿路感染等のリスクもあると説明しています。
・このような事が常態化する程、施設経営が圧迫されているという事なんでしょうか?私はデイサービス、グループホームの介護職員を経て、施設ケアマネをさせて頂いている者ですが、そのような考えにも至った事も、他の職員からも聞いた事がありません。もちろん清潔の保持も大切ですが、入居者の人権擁護的な観点からも毎日取り換える事は必要だと感じます。
・施設内会議の結果です。
・普通の感覚ではありえないし、自分自身はそうしないから
・清潔保持を第一に考えるべき
・テッシュやペーパータオルを乾かして再利用しようとされるお年寄りをときどき見かけるのですが、そういう方でもパッドを再利用しよとされる方を見たことがありません。下の汚れに対しては、誰もがイヤと感じるものでしょう。
・一度脱いだパンツを再度はかせるという行為に違和感を感じます。
・ただ、自施設に於いては紙おむつは再利用している状況です。オムツが施設出しなのでどうしても見た目が汚れていなければ、紙おむつ、リハビリパンツは再利用しています。上司の方向性で決まる問題でもあると思います。
・私たちも、パンツが汚れてなくとも1日1回は取り替えるでしょ。
・論外です。
・汚れていなければ使い続けることはあるが、一度脱いだものの再利用は不適切。再び履くまでの保管方法も難しいと思う。
・捨てるのが当たり前だと思う。
・朝外したオムツを夜まで放置して再着用するのは、衛生上問題だと思います。
・自身に置き換えると、絶対にしないから。
・下着だと認識して、毎日新しい物に取り替えてあげたいし、自分もそうしてほしいです。
・排泄による汚染は無くても汗や、皮膚の老廃物は付着していますし、おならなどによる大腸菌の付着も考えられます。
・衛生上問題があるのではないか。
・換えるのが当たり前の生活ですが…現状は、使い回しているのが事実です。
・清潔感がそこなわれるから
・紙オムツを洗濯出来る物に変更しては?
・その方の生活パターンもあると思いますが、使い回しはしてほしくないです。
・菌が増えそうで。
・不潔にて尿路感染症恐れあり
・衛生上、雑菌等の繁殖の可能性。衛生的保管場所の確保、取り違えの可能性含め望ましくないと思います。非常時、緊急時であればやむを得ないとされることもあるかとは思います。
・おむつやパットの再利用は不潔です。
・清潔、不清潔の面から不適切と考えることと、パッドや紙おむつの性能面から考えても一度使用し、型崩れしたものに関しては性能の低下が考えられるため使用しません。グループホームのため、オムツ代は利用者負担であるが、オムツ代を下げるために行う行為としては、リハパンを使わないことやパッドを小さくすることでオムツ代を抑制する取り組みをしています。
・家族の立場で考えれば答えは明白
・しかしコスト面を考えると再利用したい気持ちもある
・_蔀紊汎韻犬任垢ら。∋藩兒間が長いと、しわ等ができたりギャザーの部分が伸びてしまうことなどから、おむつの機能も低下することもあるそうです。
・自分の子ども(赤ちゃん)を育てるときに、汚れてないからと言って替えなかった親は少ないのでは?衛生的な側面もありますが、コストの削減の方法はまだ他にあると思います。御利用者の方々に直接的に係る不利益はあってはならないのが「それって常識?」の基本ではないでしょうか?
・今まで再利用しないのが当然だと思っていました。再利用する施設があるということで驚いています
・問題定義して頂いた事がきっかけで不適切としました

紙おむつは問題ないが、紙パットは不適切と答えた方のご意見
・再利用1回だけなら
・パットは論外だが紙オムツはほとんど汚れない
・紙おむつは直接肌に当たっていなければ使いまわして良いのではないでしょうか?その分パットは変えないとダメだと思います。
・直接陰部に接するパットは感染予防のため交換するべき。紙おむつに関しては、汚れていないのに一晩で捨ててしまうのがもったいない。しかし汚れていないとはいえ、三晩の使用はしない。やはり報酬減は非常に厳しいもので、入居者の生活自体を守ることが重要と考えており、致し方なく実施している。
・在宅において経済的自由がある場合のみ可と考える(利用者及び家族が希望する場合のみ)
・ご本人様からの要望であり、お客様の金銭的な問題がかかわっていなければ不適切に感じます。
・直接陰部に触れている紙パットは排尿がなくてもこまめに替えるべき
・おむつ代は家族負担です。毎日取り替えるだけで数千円の出費になります、再利用は致し方ないところだと思います。
・現在の施設収入と支出を両方向から考え、間を取った形で実施している。
・パットは陰部に触れるが、おむつは違うため
・直接肌に当たるものは取り換えてほしいので。一方でコスト削減を考えると少々は仕方ないとも思う。
・直接肌に陰部、臀部に触れていない為。最終的には利用者がどう思われるかだと思います。
・自分が勤務している施設でも居ますが、本人さまの意向です。
・理解は出来ますが、オムツを健常者の下着とするのは考えすぎのような気もします。他者に使い回しするのではないし、3・4日同じものを使用するわけで無いのだから、一晩使い汚れてない紙おむつは次に使用しても良いと思います。それはもったいないとかの精神ではないと思います。では、常時オムツ着用の方は毎日紙おむつを替えているのでしょうか?個人で使い回す分には全く問題ないと考えます。ゴミの削減や環境面への配慮・視点はどうなのでしょうか。まあ、再利用するにしても保管場所等衛生面やきちんと次に引き継げるか(いつのだかわからないオムツが溜まる)の問題もありますが。
・パットが陰部に当たる為パットのみの交換で良いかと。陰部に当たるのがパンツ(パット)なら紙おむつはモモヒキの感覚です。
・パットはともかく、紙おむつはコストが高い。在宅はよほどお金の余裕がある人以外はやっていると思う。特に家族がそう希望する。)
・現在“グループホーム”で勤務中です。 “特養”等と異なり“尿取りパッドや、トレーニングパンツ、テープ式パンツ”等、全てを利用者様負担として月々請求されています。入所されている利用者様の中で“紙製品を必要とされる利用者様”の収入に関しては、支払いについて余裕のある方ばかりではなく、ご家族様の意向も無視できません。尿取りパッドが湿っているさいには交換していますが、パンツやテープ式パンツに関しては“湿り気や汚染がなければ使い回し”をしています。
・もったいない
・適切にパットが当たっており汚れもないのであれば紙おむつの再利用は問題ないかと。パットが汚れているのであれば量によってはケースバイケースだが、両方汚れていないのに両方捨てるのは過剰反応な気がする。
・パッドは一端外外さずそのまま、汚れれば交換ではないでしょうか?
・紙パッとは直接陰部に触れているから。紙おむつは汚れていないのであれば2日程度はいいと考えます。
・直接陰部に当てるパットは、数時間使ったのなら、捨てるべきだと思います。私は女性ですが、自分が生理用ナプキンを使う場合、出血がほとんどない日でも、付けっぱなしは痒くなってきますし、不衛生です。しかし紙オムツは、汚れていない+綿のヨレ等がなければ、一度は再利用していいのではないか…と思います。もったいないから捨てないで!と言われる利用者やご家族が多かったのも事実です。
・紙おむつの使いまわしは問題ないとは言ないと思いますが、直接陰部に触れる紙パッドは使いまわしはしていないです。
・ほとんど再利用することはない
・適切ではなかもしれないが、コスト面を気にしないわけにはいかない。
・子どものオムツはそうしないと金額がばかにならないです。
・あくまで個人の考えである
・きれいな状態であるのが原則。紙おむつにパットを当てるのでおむつは直接肌に触れないしコストも高い。女性の方、生理の時のパンツってきれいだったら翌日もそのそのまま履く方いませんか?
・紙おむつは汚れている際には替えるべきではないでしょうか。
・汚染が紙パットで収まっていればOK
・個人持ちならそうするでしょう
・あくまでも個人的には・・・。
・アウターとして考える為
・直接陰部に触れず、尚且つ汚れが見えなければ1回限りもう一晩再利用します。
・状況により翌日に限定するのであればその保管状態を配慮し可能かと思える。
・但し、排泄物等が全てパットに収まり、紙おむつの汚染が一切ないことが条件です。感覚としては、汚れていなくてもパンツは毎日交換するが、パジャマは毎日交換しない、というのが近いでしょうか。
・それでも3回目は無いと思います。
・パットは肌に直に触れるので。ただし、季節にもよると思う。夏のような汗かく時期だと臭いがするので、それだと紙オムツもダメだと思う。つまり、濡れずに汚れておらず、かつ臭いもしない場合は、使っても問題ないと思う。ただ、大抵臭いがするが。
・身体に直接当たるものは替えた方が良いと思う、オムツも匂いなどするようであれば汚れていなくても替えた方が良い
・汚れてなければ二晩は。うちは実費で頂いてますので。
・連続は2日まで

紙おむつは不適切だが、紙パットは問題ないと答えた方のご意見
・コメントゼロ

その他と答えた方のご意見
・施設での再利用はありえない。おかしい。在宅で経済的に困窮している場合にはあり得るが・・・。
・ご本人・ご家族に確認をとり、希望される方法で対応すればよいかと思います。
・利用者の生活歴によって、朝晩変えないと気が済まない人もいれば、数日に1回でよいという利用者もいると思います。
・1日1回は汚れていなくても替えると決めていれば問題ない
・個別に対応すべき。まだ汚れてないから捨てないでという方はいます。
・本人に選択してもらうのが適切。適切か不適切かを介護職側が判断するべき問題ではないように思います。
・自宅では現実としてあります。
・「不適切」と言い切るのもどうかと思いその他を選択。毎日お風呂に入ってきた人、3日に1回が習慣だった人など、その人が長年培ってきた生活様式もみるべきかなと
・ケースバイケース 利用者各々の経済状況や皮膚の状態等々によって、その方に最適であると考えられる方法をとりたい。
・利用者さんがもったいないからと、「車椅子の後ろのポケットに入れておいて」というケースもあり、それを無理やり捨てるのもどうかとは思いますが、今の職場ではこういうことを考えたことすらないというレベル。平気で棚の上に次の就寝介助時に使うためにおいてあります…
・紙オムツが個人持ち(家族)の場合、そうしてほしいと希望される事が多いです。本人も汚れていないのに交換しないでと希望される方も多いです。
・そもそも、リハビリパンツにパッドをつける意味があるのかが疑問。
・原則として不適切だが、過度に使用される方に対してそういった対応をすることは適切とまでは言えなくも仕方ないと考えるのも
・再利用が施設の判断で行われているなら当然不適切。自宅ではおむつ代節約の為に本人や家族の判断でしてることはあるでしょう。だから施設でも本人がもったいないから再利用していいですか?」なんて聞くバカが出てくるからなぁ。
・どちらも再利用は不適切です。然し経費の事を考えると難しいです。
・自宅介護しています。パットは捨てますが、紙おむつとリハパンは汚れてなければ2、3回使っています。汚れてなくても臭いが気になり始めたら捨てます。そうするとだいたい3回ぐらいになります。汚れプラス臭いも基準にし、2、3回の使い回しはいいと思います。
・ご本人・ご家族の意向を確認し、節約にご協力いただけるなら必ずしも悪ではないのでは
・経済事情も含めた判断が常識
・基本的に再利用するのは不適切に思ってますが、過去にご家族からオムツの消費を抑えて欲しいという依頼があった時は困りました。
・問題だと思うが、コスト面で現場は再利用している。
・布オムツ?パットを使用している。
・経済的な理由等で本人または家族の承諾があればいいのではないかと思いますが、個人的には、紙おむつは尿や便以外に汗も吸っているので再使用はしてほしくないです。
・私達は、1日ごとに交換はしていますしそれが当たり前の行為だと思います。ですが、時々環境のことを考えると、(おむつの多量の焼却)汚れていなければそのまま使用をしたほうがよいのではと思ってしまいます。
・基本的に再利用は不可の方針であるが、家族の意向(金銭的理由が多い)により、尿便による汚れが無ければ再利用の場合がある
・夏場など汗をよくかいておられた場合や吸収量の多い紙オムツ使用時などの例外を除いて、24時間程度使用した紙オムツが確実に廃棄できるなら、倫理的・経済的にも紙オムツの再使用は許容できると思います。 紙パットについて、一度着けたものを再使用するのは、尿路感染リスクへの適切な配慮と管理が出来るなら可能かもしれません。 が、そんな状況を作るより、利用者家族で特養の元職員としては、レクリエーションや外出、昔話を伺うなど、他に時間を使って(使わせて)ほしいです。
・紙おむつをおむつカバーとして取り扱っているので 個人負担であろうと施設負担であろうとコスト削減は最終的にご利用者様の資産を守ることに繋がると思う
・どちらの立場に立つかによって違う。というより、健常者に対する介護なら、その場で問題提起して、多数決すればいいという向きもあるのでは無いか?
・施設によっては個人負担も有る。個々の状況を勘案、ご本人やご家族(ご本人に判断能力が無い場合)に確認、取り扱いを一人一人確認してサービス提供行って欲しい。人によっては使用済みパッドを乾燥させ再使用している方も知っている。(経済的な問題との事)
・場合によると思う。汚れていない物を捨てる必要もないと思うし、汚れている物を再利用する事は不適切だと思う。仮にオムツ代が利用者負担なら、清潔を保つ事で金銭的負担を大きくしてしまう事になる。洗濯出来るなら良いが、交換する度にお金がかかっているという事も重要だと思う。
・利用者によってケースバイケース
・自己負担施設と施設負担施設で本人や家族の経済的問題もある
・問題ないとは言わないが、利用者の金銭負担を考え、再使用することもある。
・紙パットは問題ですが、紙おむつも使用するとムレやすいので、なるべく使用は控えるべきと思います。
・私は訪問介護の現場で働いており、ご本人の希望やご家族の希望を伺うケースが多いです。
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以上、寄せられた全意見をすべて紹介しております。ここでゲストから一言。(筆者ではありません)紙おむつの開発に関わっている某関係者です。決して実名は公表しないでくれとのことですし、今後、どこかで少しでも名前につながる情報を漏らしたら、絶交だ、若い頃のお前の恥ずかしい話を全てばらしてやると、やけに今日はテンションを高めております。ではゲスト氏、どうぞ。

あのなあ、介護の専門家なら四の五の言うとらんで一晩使った紙おむつもパットも替えたれ!!紙おむつもパットも何回も続けて履かせたらアカン。きれいに見えても細菌・雑菌うようよで、そんなこと続けてたら病気になるで。特に抵抗力の弱い人には致命傷や。皮膚密着かどうかはこの際関係あらへん。密閉された空間には同じ菌が繁殖するわ。それからパンツを毎日替えんというあんた。四の五の言うとらんで、毎日替えい!!その他の意見に多かったケースバイケースはこの場合はないで!!本人の希望と言ったかて、明らかに身体に負の影響がある選択をそのまま受け入れることは受容とは言わん。利用者のデマンドとニーズは違うって、こういう場合に使うんや!!コストと健康被害を秤にかけるようなことしたらアカンで。おむつが濡れんのやったらおむつする必要ないのやしな。毎回機械的に使わんと、おむつしなくていいように取り組みいや。その前に必要な水分とって、適切な尿量でてるかは確認してな。尿量が足りんようやったらまず医者に相談やで。

ってかなり興奮してますんで、この辺りで終わります。実況はmasaでした。〇〇さん、今日はおいしい毛蟹と北寄貝食べに行こうね。

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紙おむつと紙パットの使い方についてご意見をください


対人援助の場で、利用者が権利侵害される原因は様々であるが、その中で我々が気付かずに陥りやすい状態とは、「感覚が麻痺して、不適切な状態に気づかないか、大した問題ではないと思い込む状態」が挙げられる。

そのような状態になることを防ぐために僕は、顧客である利用者に対し適切な言葉で接することが大事であるとして、「介護サービスを割れ窓理論」を提唱し、かつ「介護の常識が、世間の非常識」という状態をなくすために、対人援助の場で、職員同士で、「それって普通」という言葉を合言葉に、日々の業務を、「なあなあ」の関係で終わらせることなく、お互いの仕事ぶりについて評価し合うことが大事だ考えている。そのために日々云い合って、自分たちの実践を評価・検証し続けようと提言している。

云い合うという習慣がないところでは、「魂」から云うという文字が取れて、「鬼」になるという指摘もしている。

日々そのようなことを考え、自分の職場で働く仲間たちにもそのことを伝え、自分自身も感覚麻痺に陥らないように戒めているつもりであるが、専門職として関われば関わるほど、専門的な知識のほうが、利用者個人の価値観を上回るという錯覚に陥り、知らず知らずのうちに感覚が麻痺していくことに気が付かないこともあるのではないかと恐れている。

管理者などの立場にある者ほど、このことには気をつけなければならないと思う。なぜならそうした立場の者に対しては、云ってくれる人が少なくなるからである。

ところで先日、「生き残りの施設経営戦略は存在するのか」というブログ記事を書いたが、そこに「くまさん」という方が次のようなコメントを書き込んでくれた。

今自分が働いているのは老健なんですが、日中はリハパン+パッド、夜のみ紙オムツ+パッドという人がかなりいます。そこで、個人的に嫌だなと思っているのが、紙オムツ、パッドの再利用です。
他人のものを使うわけではないですが、夜オムツ着用時に、パットが尿失禁されていなければ、翌日の朝へ、紙オムツも、朝外したときに汚れていなければ、夜に回すというものです。自分の家族や自分がこういう事している施設だったら絶対嫌ですね。オムツ代節約のためという名目で、上からのお達しで行われています。
他の施設でも行われているんでしょうか?よろしければ、教えてください。自分が、他の施設に勤務していたときにはあり得ないことでした。

(※誤字と思われる箇所は、修正して転載しています。)

なるほどと思った。紙おむつも紙パンツも、便器ではないはずだ。それは「下着」として着用するものだろうと思う。そうであれば、下着としてのパンツは、汚れていようと汚れていまいと、定期的に交換するものである。現に自分自身に置き換えても、朝起きて着替える際には、必ず新しいパンツに履き替えるし、毎日入浴するが、その際にもパンツは履き替えるものである。

そうであれば紙パンツも、紙パットも、濡れて汚れていなくとも、定期的に取り替えられてよいものであるが、それが使い捨てで再生がきかないゆえに、濡れて汚れるまでは取り替えないという扱いをされることも多いのではないだろうかと感じた。そしてそれは多くの方の生活習慣と照らして考えると、世間の非常識かもしれないと感じた。

特に「下着をいつ履き替えるか」と考えた場合に、日中一旦外していた紙おむつや紙パットを濡れていないのだから、そのまま夜に使うということは、どう考えてもおかしいのではないだろうか。

このことを「オムツ代節約」であるという側面からしか考えないことで、利用者の当たり前のくらしは奪われていないのだろうか?利用者の尊厳の一部は奪われていると言えないのだろうか?こうした問いかけは、あって当然と思う。

確かに排泄用品にかかるコストは、運営費の中で非常に大きなものであるから、介護報酬が削減された厳しい状況下で、その削減は大きな課題である。だからと言って、前の晩に使った紙おむつや、紙パットを、翌日使い回すという状態はどうなのだろうか?

そのような疑問を抱いたので、自分に感覚の麻痺がないかを確かめrつ意味でも、是非皆さんの意見をお聞かせ願いたいと思い、アンケートフォームを設置した。

8/9締め切りでご意見を求めている。下記クリックして是非ご意見をお聞かせ願いたい。なお結果については、集計が終わり次第、このブログ記事で紹介する予定である。

アンケート紙おむつと紙パットを翌日も使いまわすことについてご意見をお聞かせください

↑是非アンケートにご協力ください。

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北海道新幹線が開通したら


先週青森市で行った青森県老人福祉協会主催「看取り介護講演」には、100名を超える受講者が来場され、皆さん熱心に120分の講演を聴いてくださった。

会場で販売していただいた本も、売り切れが出るなど、たくさんの人にご購入いただき感謝している。看取り介護とは決して特別なケアではなく、日常介護の延長線上にあるもので、日頃の介護の質を高める努力と、高齢者の最晩年期の暮らしを護るという理念が求められるということを理解していただければ幸いである。

今いる場所で誰かの花になれる介護。・・・そういう素晴らしい職業に我々は就いている。その誇りを護り、その使命を尽くすことで、誰かの笑顔は私たちの笑顔になって返ってくるのだ。自分が輝くことで、いずれそれは自分の幸せにつながるのだとしたら、これ以上のものはこの世に存在しない。看取り介護はその集大成でもある。
青森・看取り介護講演
ところで、当日の会場で受講された方から、青森の別な地域での講演をお願いしたいという要望を複数頂いた。ありがたいことだ。

その中から早速日程が決まった講演がある。当日の講演を受講された、株式会社リブライズの代表取締役の下沢氏から、八戸での講演依頼をいただき、調整の結果11/28(土)に『かっこうの森主催研修』として講演を行うことになった。

場所は八戸市の、はちふくプラザ根城(八戸総合福祉会館)で、午前10時30分〜午後3時30分まで(昼食休憩12:30〜13:30) の4時間講演である。内容は「看取り介護」をテーマの中心に置きながら、『介護サービスの割れ窓理論〜言葉遣いの重要性』や『介護の専門性』等も含めるように依頼されている。4時間という十分な時間があるので、実際のケースも多数紹介しながら、誰かの赤い花になれる、誇りを持つことができる介護のお話をしようと思う。8月頃に案内され、どなたでも参加できるとのことなので、お近くの方は、今から日程調整をして是非参加願いたい。

この講演の日程調整をしているときに思ったことがある。先週の講演を含めて過去に4回青森講演をしているが、そのうち東北町で講演した際には、宮城県登米市の講演を終えた足で新幹線で移動したが、ほかの3回は北海道からの移動で、会場も青森市・十和田市・五戸町であったため、新千歳空港〜青森空港を利用した。

八戸の場合は三沢空港の方が近いとのであるが、新千歳空港からの直行便が出ていない。丘珠空港からであれば1日1往復の三沢空港直行便が出ているのであるが、登別〜丘珠は遠く、朝の三沢便へのアクセスが困難である。そのため今回も新千歳〜青森空港での移動を計画しているが、青森空港から八戸に行くには、バスで青森駅まで移動し、青森〜新青森を在来線で移動、新青森〜八戸を新幹線で移動するとして、乗り継ぎ時間を含めると青森空港から2時間近くかかることがわかった。登別から考えると、新千歳空港まで1時間、新千歳〜青森空港が50分、それらの乗り継ぎと待ち時間を含めると八戸までは5時間以上かかることになる。一口に青森県といっても広いということが実感された。

そこでふと思ったことであるが、北海道新幹線ができたらどうなるだろうということである。

北海道新幹線の開通はずいぶん先だと思っていたが、新函館北斗〜新青森は、来年3月に開通するということだ。あと10ケ月後には、北海道から青森に新幹線で行くことができるのである。

そうなると登別はJR函館本線のど真ん中なので、函館まで特急直通で2時間15分〜函館〜新函館北斗は在来線で5分〜新青森までは新幹線で約1時間、合計3時間20分くらいで到着する計算になる。乗り継ぎもJR駅だけだから便利である。

新幹線の料金がいくらになるかわからないが、来年3月以降は道外への移動の選択肢が増えて便利になると思われる。場所によっては飛行場を経由しない移動が増えるかもしれない。そう考えると、北海道新幹線は、非常に待ち遠しいのである。

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僕らの世代で介護のスタンダードを変えよう


僕が総合施設長を務める特養や通所介護で、僕自身が利用者と会話を交わす場面は、ほぼ毎日あると言ってもよいだろう。

その時僕は、丁寧語以外の言葉を使って利用者と会話することはない。認知症の人であっても、認知症ではない人であってもそれは変わりない。さらに利用者であっても、その家族であっても、同じ言葉遣いをしている。

当然のことながら施設入所者であっても、ショート利用者であっても、通所介護利用者であっても、言葉遣いを変えることはなく、すべての人に同じ言葉遣いをし、その場や人によって言葉を使い分けることはないし、使い分ける必要性を感じない。

僕のように、お客様である利用者に対して、常に丁寧語で接することが習慣化している人が必ず経験することは、「あなたのように言葉遣いが丁寧な人は始めてだわ」とか、「認知症の母にいつも丁寧に話しかけてもらって感謝しています」とか言われることである。

しかしそれっておかしい。

ほかの職業で、顧客に丁寧に話しかけないで成立する職業はあるのか?僕はそうした感謝の言葉を聞くたびに、介護サービスという職業の質の低さに哀しくなるのである。言葉遣いに気を使わない職員のプロとしての意識の欠如を恥ずかしく思うのである。

認知症の人に、なぜ友達に話しかけるような馴れ馴れしい言葉が必要なのだろうか?認知症の人は、そんな言葉遣いは喜んでおらず、むしろ馴染みの関係を築いている介護者の顔だって、毎日忘れるのであるから、その人たちは、「なんで年下の見知らぬ人間が、妙に馴れ馴れしく話しかけてくるんだ?」って、戸惑うか、怒るか、怖がるか、どちらかだ。喜んでいる人なんていないって。記憶が子供のころに戻ってしまっている人だって、言葉をすべて忘れているわけではないのでわざわざ赤ちゃん言葉で会話する必要はないし、それはむしろ認知症の人の混乱を助長させるだけの結果にしかならない。

お客様に対して丁寧な言葉を使わなくてよい職業があることのほうが異常だ。お客様に対し馴れ馴れしい言葉遣いをして、喜ばれると思う感覚の方が異常だ。そうした異常さを放置する場所には感覚麻痺が生じ、人の不幸さえなんとも思わない人間を生み出すだろう。僕たちの業界をそういう状態にしたままでよいとでもいうのだろうか。

介護の業界には、僕たちよりはるかに素晴らしい実践をしている達人のような人がいて、その中の幾人かは言葉遣いに気を使わず、端から見れば馴れ馴れしい言葉遣いをする人がいる。講演などでも平気で、「じいさん、ばあさん」と連呼する人もいる。

多分それは僕たちが届かないほどの超越した能力を持っていて、言葉を正さなくても相手に不快感を絶対にもたれないのか、そうであると勘違いしているだけなのだろうと思う。

しかし厄介なのは、そのような超越した能力を持っている人がいたとしても、それらの人が講演など公の場で、汚い言葉を使うことで、その汚い言葉だけをまねる輩が数多く出てくるということだ。それらの人が介護サービスの場で実践していることを同じようにできない人でも、汚い言葉を真似るのは簡単だから、そこだけ模倣する人が生まれる。

いくら介護の達人であるとしても、汚い言葉を使う感覚麻痺を助長させる功罪を考えると、罪深さの方が大きいと言えるだろう。だって達人技なんて普通の人はまねできないって。汚い言葉だけを真似る輩を増やし続けるほうが罪深いって。そもそもそこに存在する年上の人を、あえて「じいさん、ばあさん」と呼び捨てることに何の意味があるのか?それで喜ぶのは、漫談の世界だけである。綾小路きみまろにでもなりたいなら別であるけど、あんたが居る場所は、芸能界じゃなくて、介護サービスの場だろうに。

介護の業界で著名な講師の一人である三好春樹氏は、著書「ねたきりゼロQ&A」のQ52、言葉遣いにうるさい施設長、という問いの中で「言葉の強制は強制労働よりひどい」として次のように著述している。

そもそも私は施設長が介護職員に言葉遣いをよくしろ、と説教したり、チェックしたりすることは問題があると思っています。言葉には二つの側面があります。一つは規範としての言葉です。もうひとつは自発性です。言葉を通して自分自身の内面を表現するという側面です。同じ言葉を使っても人によって意味が違ったり、比喩になったりするのがそうです。人に言葉を強制するのは、こうした自発性を抑え、内面を管理することに他なりません。かつての社会主義国では権力によるこうした強制を拒否した人は、収容所で強制労働をさせられました。

お客様に対する言葉遣いの教育が、なぜ強制労働と結びついて論じられなければならないのだ?そうであれば他の産業で、接客教育を行うことはすべて強制労働と同じということになるぞ。それとも介護業界だけが特殊だとでもいうのか?それこそ感覚麻痺であり、世間の常識が介護の非常識だ。

そもそもお客様に対して、適切な言葉遣いをするということは、マナーとして当然であり、業務上のルールに過ぎない。それは個人のアイデンティティーを奪うものではない。

職場内のルールとして、業務中にお客様に対して使うべき言葉の最低基準を定めることが、どうして「自発性を抑え、内面を管理する」ということになるのだ。そうであれば職場にはいかなるルールも存在させられないぞ。こんなバカげた理屈はないし、こうしたバカげた理屈で、乱れた言葉を放置し、それを助長するような本を出している三好春樹氏という人物も、その功績を打ち消すほどの罪深さがあると言わざるを得ない。

三好氏の教えは、僕たちの学びになっている部分も多く、その部分は評価できるのであるが、それだけにその信者も多くて、このバカげた理屈を信奉して、わざわざ言葉を崩す馬鹿が存在し続けるという状況を生んでいる。僕の職場でも、言葉遣いをいまでも直せない職員がいるが、その大きな理由が、三好信奉であったりする。この罪深さは海より深いと言わざるを得ない。

馴れ馴れしい言葉がフレンドリーで、対人援助に求められる臨機応変さだという思う込から、そろそろ抜け出して、向かい合う利用者に対して、使ってよい言葉と、そうでない言葉をきちんと自覚して係ることを基本姿勢にしないと、汚らしく無礼な言葉遣いで傷つけられる人をなくせない。

汚らしく無礼な言葉遣いが、親しみやすさであると勘違いした人間の、麻痺した感覚によって行われる人権無視の行為をなくすることができない。

僕たちの世代で、なんとか介護のスタンダードを変えたい。そのために「介護サービスの割れ窓理論」を唱え続ける必要があるし、それを伝える旅も続けていく必要があると思っている。

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介護サービスの割れ窓理論は、リスク管理そのものです


人生の最晩年期を過ごす場所は、もっとも安らかに過ごすことができる場所でなければならない。

そういう場所で過ごす人々に関わる職業には、人の暮らしと心を護る高い理念が求められる。対人援助のプロであるなら、そこで暮らす人々の心の平安を保つために、自分で何ができるのか、何をしてはいけないのかを、ごく日常的に考えられる人であらねばならない。そして人の心を平安にする理念と援助技術をもって、常に一定の品質以上のサービスを担保して関わる必要がある。

そこでは、支援者に悪気があろうとなかろうと、利用者の心が傷つけられるような結果は許されないし、どのような言い訳をしてもそれはあってはならないことなのである。

そうであれば日常の対話においての「言葉遣い」もまた、相手に不快を与えないという最低限の配慮が必要であり、顧客である利用者という考え方に基づく配慮が必要である。そこでは「親しみやすさ」という言葉にカモフラージュされるような、無礼な言葉遣いがあってはならないし、対人援助のプロであるからこそ、丁寧語を使いこなし、丁寧語で日常会話を交わしてもなおかつ不自然ではなく、相手に親しみを感じていただくプロの技が求められる。逆に言えば、丁寧語を使いこなせない程度のスキルで、なにがプロかということになる。

看護師という資格も、社会福祉士という資格も、介護福祉士という資格も、介護支援専門員という資格も、対人援助サービスの場で丁寧語を使いこなせないような人物の上に乗っかっているとしたら、その資格は全く無意味である。それは裸の王様の王冠ほどの価値もない。

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2015年2月17日:北海道新聞朝刊第4社会面の掲載記事より
宗谷管内浜頓別町の特別養護老人ホーム「ふれあいの里」で男性介護士2人が入所者を虐待した疑いがある問題で、監査をした宗谷総合振興局は16日、施設を運営する社会福祉法人「群生会」(本部・旭川市)に介護保険法に基づく改善勧告をした。

監査で、2人を含む複数の職員が日常的に入所者へ乱暴な介護をしたり、大声で暴言を吐いたりするなど不適切な行為をしていたと確認した。

同振興局によると、勧告は13日付で口頭と文書で実施。勧告で施設側に入所者の人格尊重や虐待防止の研修実施などを命じ、3月16日までに再発防止策を提出するように求めた。同施設によると、介護福祉士2人は昨年12月下旬に自主退職したという。群生会は「勧告は真摯に受け止め、深く反省し改善する」としている。

この問題は、施設内で働く男性が昨年11月、虐待を見たと施設長らに証言。施設長が高齢者虐待防止法に基づき同振興局に通報し、同振興局が監査していた。
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日常的な大声での暴言は、その時点で施設長はじめ管理職の耳に届いていなかったのだろうか。そもそもそうした職員の利用者に対する日常会話における言葉遣いはどうだったのだろう。おそらくそれは、丁寧語とは程遠い、乱れた言葉であったであろうことが容易に想像される。施設の管理者が、職員の言葉遣いに鈍感であれば、乱れた言葉遣いがエスカレートし、乱れた言葉が乱れた心を生み、不適切な言葉遣いが虐待に発展するというケースは少なくはない。

だからこそ僕は、「介護サービスの割れ窓理論」を提唱し、言葉遣いが乱れるという小さなほころびを是正して、利用者は顧客であるという意識をもって、お客様に使うにふさわしい言葉遣いで接することが必要であると言い続けてきている。保健・医療・福祉・介護の職業だけが、お客様であるはずの利用者に対し、友達や年下の人に話しかけるような言葉遣いが許されている現状はおかしいと指摘してきた。

言葉を崩すことが利用者に親しみを感じてもらう方法だと思い込んでいる人によって、利用者は若者にため口で話しかけられる立場になったことを心の奥底で嘆き悲しんでいるのかもしれない。そういう状態を引き起こさないためにも、誰もが不快にならない丁寧な言葉遣いが求められるのである。

接客意識のない対人援助サービスは、目の前の人々を人と思わなくなる危険性を内包したものにならざるを得ない。乱れた言葉を放置する対人援助サービスは、人の心を傷つけることに鈍感にならざるを得ない。そのことに危機感を持ってほしい。なぜならそこで傷つけられるのは、他人ではなく、近い将来あなた自身であるのかもしれないし、あなたの愛する誰かかもしれないのである。

だから我々が対人援助のプロとして主力になっている今この時代に、対人援助サービスが持ち続けてきた負の遺産を捨て去り、我々の時代に100年先の対人援助のスタンダードともなり得るサービスの質を創っていかねばならない。その根幹をなすものが言葉の乱れを放置せず丁寧語をスタンダードとすることである。丁寧語を使いこなすことができるプロによって支える介護を創ることである。

介護施設や介護サービス事業所の管理者には、言葉を正すことがリスクマネジメントの基本であるという理解が必要であると思う。そういう意味からも僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」が介護サービスの場に深く浸透することを願ってやまない。

言葉は心を超えないという有名な歌のフレーズがあるが、我々の職業は、心を言葉で伝えるコミュニケーションが主体になる職業であり、心を表す丁寧な言葉遣いは、基本として求められるのであるという理解が必要なのである。

今朝の朝礼では、この新聞記事をコピーして職員に配布し、あらためて日常の「言葉遣い」の大切さについて訓示したが、その思いが伝わることを望むだけである。

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対人援助のプロとしてふさわしい態度


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我々は介護サービスの場で、対人援助のプロフェッショナルとして利用者に接しておらねばなりません。介護サービスの場で、利用者を様々な形で支援することによって、「生活の糧」である収入を得ているのですから、自分の性格や家庭事情を超えたところで、職業人として適切に顧客である利用者に対応する必要があります。

このことは、どんな職業でも同じであり、接客という意識と態度を持たなくてもよい職業など存在しないはずです。ところが保健・医療・福祉・介護の分野では、顧客意識に欠ける態度で接する従業者の態度が目立ちます。

それは、サービスを利用する方々が、何らかの病気や障がいなどを抱えて、誰かの手を借りなければならないという状態の中で、手を差し伸べるべき支援者側の意識に、「施し」の意識があったり、弱者に対して手を貸してやっているという意識が生まれているからではないでしょうか。

普通我々は初対面の大人に対して、いきなり馴れ馴れしいため口で会話することはありません。年上の人であるならなおさらです。しかし保健・医療・福祉・介護の分野では、しばしば初対面の大人に対して、「〜だよね。」などと話しかけている場面に出くわします。それが親しみの表現だとでもいうのでしょうか?僕はそのことに対して、無礼な馴れ馴れしさしか感じ取れません。

だからこのブログ記事では再三、「介護サービスの割れ窓理論」を提唱し、言葉遣いの乱れが、感覚麻痺につながり、やがてそれは不適切な態度から虐待につながりかねないものだとして、接客意識を持って、丁寧語で顧客である利用者との会話に努めるべきであると主張してきました。

少なくとも僕は、自分の所属する施設・事業所の中で、利用者の方々に馴れ馴れしい言葉で接することはなく、どのような状態の人に対しても丁寧語で会話しています。例えば認知症の人で、現在からさかのぼって何十年もの記憶がなくなってしまっており、自分が幼児だと思い込んでいる人がいたとしても、子供に使うような言葉で話しかけることはありません。そのことで何らかのコミュニケーション障害が生じたことはありません。言葉を崩して、馴れ馴れしく接することが必要だと感じたこともありません。

そもそも対人援助の場で、利用者が求めている言葉とは、馴れ馴れしい言葉ではなく、利用者本位の言葉なのです。

「どんなふうに言葉をかけられたらうれしいですか?」というアンケートには、大半の人が利用者を気遣い、相手の利益に配慮した言葉が「うれしい」と答えています。

利用者を中心においた丁寧な言葉かけが求められているのです。自分本位であったり、指示的、命令的であったり、相手に対して否定的であったりすれば、どんなに言葉づかいが丁寧でも相手を傷つけることになってしまうことを私たちは再度自覚する必要があるでしょう。

「がんばって」という言葉かけは、毒にも薬にもなるため、場合によっては嫌がられるおそれがあることも知る必要があります。ときには、がんばらなくても続けられる暮らしのほうが重要なのです。

それとともに、我々が気を使うべきなのは、言葉だけではないということです。誰が仏頂面で声をかけられて喜ぶでしょうか。

僕は飛行機で移動する機会が多いのですが、その時、キャビンアテンダントの方々の笑顔がとても気持ちよく思えることがあります。彼女らは接客のプロとして、けっして笑顔を絶やしませんが、我々も同じく対人援助のプロとして、自分の表情にも気をつける必要があると思います。生活の疲れを引きずった表情で、利用者に接することが許される職業に、国民は国費で対価を支払うことを許し続けるでしょうか?待遇が低くて当たり前と思われる職業にしないためにも、言葉と表情に気を使うプロを育てていく必要があります。

辛いという言葉に、一を足すだけで幸せという文字に替わります。介護は、この一を見つけ、この一を利用者につなげるために存在するのです。

そのためにも、介護のプロとして自分自身の言葉と表情と態度に気を使う人でいてください。

その向こう側には、きっと利用者の方々の幸福な表情が見えて来るはずなのですから。

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苦情を表に出せない家族の気持ち


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「受講者が何人以上いれば講演を受けていただけますか?」、「一施設の内部研修で、受講者が20人程度しかいないのですが、講演を依頼したら失礼ですよね?」といったような質問を受けるときがある。

しかし受講人数は、僕が講演を受諾するか否かの判断要素には入っていない。極端な話、一人でも(実際にそういう講演はあり得ないだろうし、それは講演とは呼ばないだろうが・・・。)僕の話を聴きたいという人がいて、日程等の条件が合えば、全国どこにでもお邪魔してお話しさせていただく。受講人数の多寡は、講演を依頼する際の礼儀とは関係のないものだと思っていただいて構わない。実際に過去には、受講者が20人にも満たない専門研修の講師を務めたことも複数回ある。

一方では、やはり受講者数が三桁を超える講演が多いことも事実である。だからと言って、一度の講演に何人の受講者が来てくださるかということは、僕にとっては大きな関心事項ではない。むしろ少人数の受講者しかいなくとも、それらの方々が満足する内容のお話ができて、同じ話をほかの仲間にも聴いてほしと思われて、同じ場所に何度も呼んでいただければ、これほど嬉しいことはない。

ただ会場費用などをかけて講演を主催される方で、参加料を費用の一部に充てる場合などは、ある程度の参加人数が必要だろうから、広く参加を呼び掛けることに協力は惜しまない。

僕の単独の講演会で、過去最高の受講人数は何人ですかと聞かれることがあるが、数年前にある大きな会場で講演を行った際に、1.300人に少し満たない来場者数を記録したことがある。しかしそれは極めて稀な数だろう。ただ500人を超える来場者数を記録した講演は、結構多い。

そうであるがゆえに、僕の想像を超える数多くの方が、僕の講演内容についいて、ソーシャルネットワークサービスなどを通じて感想を書いてくださっているようだ。だからと言ってそのすべてを把握できるわけもなく、積極的に「こんなことを書きました」と教えてくれない限り、大部分は僕の目に触れない場所で、僕の講演の感想が記されているのだろう。

ところで先日、キーワードに「介護 言葉」と入れてネット検索していたところ、偶然ヒットしたブログ記事が、「割れ窓理論。介護の現場での言葉遣いの乱れについて」というブログ記事である。

この記事を書いた方は、介護関係者ではなく、イラストレーターをされている方のようである。僕のブログ記事を何度か読んでくれていることから、昨年の3月に行われた「西宮講演」を受講してくれた感想であった。

その内容は貼り付けたリンク先の、実際のブログ記事を見てほしいが、ここの後半部に、この記事を書かれた方の祖母が入院されていた際の、医療機関での介護職員の言葉遣いから受けた不快感について書かれている部分がある。

ご家族は自分の身内に向けられた言葉により、悲しい気持ちになり、悔しい気持ちにさせられたとしても、そのことを不快な言葉遣いをしている当事者に訴えられないケースが多いのである。

この方の場合、入院という一時的な滞在場所から、退院することで「ホッとされた」という気持ちが書かれているが、介護施設は基本的に退院する場ではなく、終生の暮らしの場であり、そうであれば、誰かが不快になる言葉が日常的に使われているなら、その利用者や家族は、一生ホッとできないことになる。

言葉の乱れとは、そういうリスクを生むものなのである。馴れ馴れしい言葉遣いが、親しみやすい関係を生むなどと勘違いしている人により、傷つけられている人がなくならないというのが実情である。

仮にその馴れ馴れしい言葉を何とも思わない利用者がいて、その言葉をよしとする利用者が存在している事実があったとしても、その数の何倍もの、悲しい気持ちや悔しい気持ちを生み出しているのが、顧客に使うべきではない慣れなれしい言葉の実態である。

そもそもプロならば、お客様に使うべき正しい言葉を使って、なおかつお客様に堅苦しいと思われないように、親しみを感じてもらえる言葉遣いを身につけろと言いたい。

自分に置き換えてこの問題を考えたなら、自分のお金を使ってサービスを受ける場所で、そこの職員なり、店員から馴れ馴れしい言葉で話しかけられたいかどうかを考えれば、おのずとその答えは明らかなのに、いつまでも言葉を改めない職員がなくならないという実態が存在するということは、介護という職業が、まだプロとしてお金をいただく職業として未成熟であるとしか言いようがない。

考える能力のない人々がたくさんいるという実情を否定できない。

講演を行うために訪れたことがある都府県
青森・秋田・岩手・宮城・福島・茨城・千葉・群馬・埼玉・東京・神奈川・栃木・富山・長野・静岡・愛知・和歌山・滋賀・兵庫・大阪・京都・奈良・岐阜・三重・岡山・広島・山口・愛媛・徳島・高知・福岡・熊本・長崎・鹿児島・大分・沖縄
以上36都府県
具体的な講演予定が入っている県
山形・福井・石川・佐賀
以上4県
講演は行ったことがないが、別の用件で滞在したことがある都府県
宮崎(老施協の全国大会と、天皇杯軟式野球全国大会で滞在したことがある。)
以上1県
講演を行ったことも滞在したこともなく、今後も具体的な訪問予定がない県
新潟・山梨・鳥取・島根・香川
以上5県

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介護の場で高齢者が虐待される要因


今週最初に飛びこんできた介護関連報道の中に、兵庫県伊丹市のグループホームにおける虐待と思われるケースがあった。

日曜の夜に、このホームに入居していた90代の女性2名が、顔にやけどを負い、このうち一人は肋骨を骨折していたという。そしてこのユニットに宿直勤務していた男性職員が、管理者に、「自分は何もしていない。どうしていいか分からなかった」と携帯電話で話した後に、行方不明で連絡が取れなくなったそうである。

何ともひどいことが起こるものであるが、残念ながら介護サービスの場では、このような信じられない虐待事例がしばしば明らかになっている。そしてそれは氷山の一角でしかないと指摘されたりする。

多くの事業者は、利用者の権利を守るために日夜努力を行い、適切なサービス提供に努めているのだろうが、このような事業者がなくならない限り、介護サービスに対する社会的信用は高まらない。

今回の虐待事例は、グループホームにおけるものだから、その被害者は認知症高齢者ということになるが、被害の状況を訴えられない認知症の人に対して、暴力や権利侵害が及ぶ事例は過去にも繰り返し見られている。

例えば拙著、「人を語らずして介護を語るな2〜傍らにいることが許される者」(黒本)の58頁「心の闇はどこから生まれるのか」で取り上げた、香川県さぬき市の特養のケースは、利用者に食事や薬を与えなかったり、足を縛るなどの虐待行為が常態化していたが、そこでは少なくとも5名の職員が9名の利用者に対し、このような虐待行為を繰り返しており、そのターゲットになっていた利用者は、いずれも認知症の人である。

家族等にも、そうした虐待行為を訴えられないから、表に出ないという意図が、これらの職員にあったのではないかと疑われるが、虐待理由について当該職員は、「介護の手間を省くためやった。」と言っており、そこに職業に対する使命感も誇りも、まったく感じることはできない。そもそもこうした行為は、教育によって防ぐことができるのだろうか?その人間の資質自体が、対人援助に関わってはならない資質ではないかと疑いたくなる。

ところでこうした虐待がなぜ引き起こされるのだろうか。その理由は様々であろうが、高齢者が権利侵害される要因を、虐待をする職員の側の要因として考えてみた。

まず一つには前述したように、「もともと対人援助に向いていない人によって行われる悪意ある行為」が考えらえる。

虐待事業者は、なぜ選択されるのか?」の記事で取り上げた広島県福山市のデイサービスの虐待事例や、「ある裁判の判決から考えたこと」で取り上げた、老健で認知症利用者に熱湯シャワーを浴びせ死に至らしめた介護福祉士などは、この部類に当たるのではないか?

また、「感覚が麻痺して、不適切な状態に気づかないか、たいしたことではないと思い込む」ことによって権利侵害に至る事例も多い。

認知症高齢者を雑魚寝させていた施設の公表情報」で取り上げた施設の職員の多くは、こうした感覚麻痺に陥っていたと思われる。そして汚い言葉遣いに傷つく数多くの高齢者がいるということに気が付かない人々も、こうした感覚麻痺に陥っていると言えよう。だから僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」では、言葉を正して、言葉の乱れが心の乱れとならないようにすることが大切だと主張している。

さらに、「知識がないことによって、不適切な状態に気が付かない」という権利侵害もある。「人を語らずして介護を語るな〜masaの介護福祉情報裏板」(白本)165頁の「見捨て死の現状」で取り上げたグループホームの職員の多くは、このホームで行われていた、「看取り介護」という名の「見捨て死」を、不適切な状態と気が付かず、管理者の言うがまま、「これがグループホームの看取りなのだ」と思い込んでいたという無知の罪がある。

最も厄介な権利侵害は、「サービス提供側の価値観の押しつけを正しいと思い込む状態」、「権威のある人に指導されることによって、根拠のない方法を正しいと思い込む状態」、「利用者の暮らしの豊かさより、支援者の定めた目的が達せられたかどうかしか評価しない状態」で引き起こされるものである。

これは指導が正しいと思いこんで、高品質なサービス提供であると信じて行われているから、是正力が働かない。そのために一種の宗教のように、集団でひとつの方向性しか見えなくなり、権利侵害が継続して行われ、密室化していくという恐ろしさがある。

これを防ぐためには、利用者の意思や希望を確認するだけではなく、そこで行われているサービスの過程や結果において、利用者の苦痛はないか、嫌だという声は無視されていないか。そこで行われている方法論のすべてを利用者の家族など、第3者にオープンにできるかという検証作業を、日常的に行っていくことである。

そういう意味では、過去に僕のブログ記事のコメントとして寄せられた情報の中の、「座位がまともにとれない方であってもポータブルトイレへ極力誘導させられ、無理やり座らされて苦痛にゆがんだ表情は無視されます。」、「歩行訓練になるともっと悲惨で、片麻痺・拘縮のある方を3人、4人がかりで歩行器で引きずるのを歩行訓練と称しています。 しかもそれは家族には見せません。」といった状態は、ケアではなく権利侵害そのものだと思うのである。

※8月16日(土)14:00〜16:00、和歌山ビック愛(和歌山市)で行われる、和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)主催「介護の詩〜明日へつなく言葉」出版記念講演会in和歌山では、「支援という名の支配〜高齢者虐待の現状と課題」というテーマで120分講演を行います。現在参加申し込み受付中です。参加希望される方は、リンク先よりお申込みください。どうぞよろしくお願いします。

和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)の皆さんが、素敵な動画を作ってくれました。ぜひご覧ください。


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変わるきっかっけ、変わった結果


介護施設の中で、我々は介護を提供することで報酬を得ている。つまり施設利用者は、お客様であり、従業員はお客様にサービスを提供する専門家=プロフェッショナルである。

よってそこで介護の専門家が、お客様に対して使うべき言葉とは、顧客サービスとしてふさわしいものでなければならないはずで、基本的にそれは丁寧語であるべきだというのが、僕の主張である。

さらにこの考え方を推し進めて、僕が提唱しているのが、「介護サービスの割れ窓理論」である。

介護サービスの割れ窓理論」とは、顧客である施設利用者に対し丁寧語を使わず、砕けた言葉のほうが親しみを感じてもらえるとして、言葉を崩すことが小さなほころびとなり、顧客に対するサービス提供という意識が低下し、介護支援が施しであるかのような誤った意識に変容し、やがてそれが、「介護してやっている」的な意識に変わり、利用者に必要なケアを考える前に、サービス提供側の都合によってすべてが決まり、サービス提供側が上から目線で利用者に接するようになり、正常感覚を麻痺させて、世間の非常識が介護施設の常識であるかのような慣習を生み、不適切サービスや、虐待につながっていくと考え、言葉の乱れという、小さなほころびがみられた時点で、そのほころびを、ほころびのうちに繕う必要があるというのが、この理論に基づいた提言であり、警鐘である。

勿論介護とは、良好な人間関係で紡ぐ必要があるものだから、利用者に「感じが良い」と思われて、介護サービス提供者が、親しみやすいと思われることは重要である。

だからと言って、親しみを持ってもらうために言葉を崩すのでは、それはプロの技ではない。ボキャブラリーが世界一豊富な日本語は、丁寧語を使っても十分親しみやすさを表現できる言葉である。丁寧語=堅苦しい言葉、という考え方がどうかしているのだ。現に僕は、施設の中で利用者に接するときは、100%丁寧語で会話し例外はない。だからといって、「あの施設長は、堅苦しくて親しみが持てない」といわれることはない。丁寧語でも、おやじギャグは連発できる。

そもそも言葉を崩して伝わるものは、親しみやすさではなく、無礼な馴れ馴れしさだけだ。企業戦士であり、上下関係に厳しかった団塊の世代の人々が、そろそろ介護施設に入所してきているが、それらの方々は、年下のサービス従事者が、馴れ馴れしい言葉で接することに、心の中で舌打ちする人が多いだろう。

そういうリスクが多分に含まれた砕けた言葉を、状況に応じて使い分けることができ、誰にも不快感を与えない達人もいるのかもしれないが、僕は決してそうはなれない。そもそも達人にしかできないことは、一般論にできない。そんなものはエビデンスにも理論にもならないのだ。だから言葉を崩すことは、それ自体が駄目なことである。いるかいないかもわからない達人を気取って、言葉をわざと崩して使い分けていると思い込んでいる人の姿からは滑稽さと、醜さしか感じない。恥を知れといいたい。

達人でもないのに、達人の真似をしようとして、言葉を崩して、態度も崩す輩はさらに問題である。その醜い姿に気が付かないことの恥を知れといいたい。

とはいっても僕の施設でも、職員全員が100%丁寧語を使っているかといえば、なかなかそうはならない。注意を受けたときは気を付けて丁寧語を使ってはいても、いつの間にか友達に話しかけるような言葉に戻ってしまうような、「どうしようもない職員」も何人か存在している。しかし本人はその姿を「醜い」とも、「どうしようもない」とも思っていないのだから問題の根は深い。

新しく雇用する職員には、まず言葉遣いに注意することが最初に覚えることであると指導している。そして先輩で言葉遣いが悪い職員がいたとしても見習わず、そういう人については心の中でバカにしてもよいと言っている。そして正しい言葉遣いができている職員だけを見習いなさいと指導しているので、新しく採用された職員ほど、言葉遣いは良くなっている。

前述したように、昔からの癖が抜けず、何度言っても言葉が直らない職員がいるというのは事実である。だからと言って、言葉遣いが改まらないことだけを理由に解雇というわけにもいかないし、根気よく注意を続けて、そうした言葉が改められないことを、「恥ずかしい」と感じるようにしていかなければならない。これはこれからも根気よく続けていかねばならないだろう。しかしそんな当たり前で幼稚な指導に、いつまでエネルギーを使わねばならないのかとも思ったりしている。だが人によっては、何かのきっかけで昨日と今日が180度違ってくる、変わってくる職員がいるのも事実だ。

なかなか言葉遣いが改まらなかった職員で、異業種から転職した職員がいた。その職員は転職前にセールスマンをしていたのであるが、事情があってその会社を辞めた後、ヘルパー2級資格を取得したことがきっかけとなり、縁あって当施設の介護職員として就業することとなった。

一生懸命に介護の仕事は覚えていたが、しばしば言葉遣いに注意を受け、本人も気を付けているのであるが、しばらくするとまた友達に話しかけるような言葉で、利用者と会話している姿がみられ、あまり指導効果がみられなかった。

その職員に、職場の飲み会の席で、「君はセールスマンをしていた時に、お客さんに丁寧語ではない言葉で接していたのか」と聞いてみた。するとそうではないというし、顧客に対する言葉遣いの教育は受けてきたというので、どうしてそういう武器を介護の現場で生かそうとしないのかと疑問を呈した。介護職として現場経験も先輩より短く、先輩職員より介護技術も抜きん出たところがあるわけではないのであれば、そうした経験のある職員より抜きん出て評価されるとしたら、セールスマン時代に培った接客技術ではないのか、それを生かさないのはもったいないというような話をした。その場は酒席ではあったが、施設管理者の評価として真面目に話をした。

その結果・・・その職員の言葉遣いは、その日以降たしかに変わった。僕が耳にする限り、現在彼が利用者に対して、丁寧語以外で会話していることはない。聞く耳を持ち、自分を変えようとする気持ちがあり、丁寧語で会話をつづけ仕事を続けるスキルがあったということである。

そういう努力に対しては、施設は正統に評価を行う必要がある。結果彼は介護福祉士の試験合格と同時に、契約職員から正職員となり、待遇も大きく変わったはずである。

自分と未来は変えられる
そのような結果を得ても、なお継続して正しい言葉で仕事をしている彼は、やがてこの施設のリーダー格に成長してくれるのではないかと期待を寄せている。

周囲の何かが変わるのを待っても未来は変わらない。自分が変われば未来は変わるのである。

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言葉は思考となり、人格と運命につながる


昨年6月、宮城県ケアマネジャー協会登米支部と登米市介護保険事業者連絡協議会が共催する、「登米市介護事業者合同講演会」の講師としてお招きいただき、初めて登米市にお邪魔した。

昨年の研修会には、登米市の介護事業所の様々な職種の人たちが参加予定とのことで、「人を語らずして介護を語るな〜誰かの赤い花になるために〜」というテーマで、全職種に共通する介護の実践論を120分という時間でお話ししてきた。

その講演から4ケ月が経った昨年10月、宮城県ケアマネジャー協会登米支部の担当者の方から再度メールをいただいた。その内容は「講演後の参加者の皆さんからの声が大変な状況となっておりまして、来年も講演会を菊地先生にお願いしたいとの声が多く、ご都合いかがでしょうか?」というものであった。大変うれしいことで、二つ返事でお受けさせていただいた。

正直言って、昨年ご招待いただくまでは宮城県に「とめし」という市があることさえ知らなかったが、このようなご縁をいただき、2年も続けてご招待いただけることは感謝に堪えない。登米市の皆さん、ありがとうございます。

その講演がちょうど1月後に迫った。(参照:登米市介護事業者合同講演会のチラシと申込書

2年連続の講演ということで、どのような内容のお話が良いのかと事務局に問い合わせたところ、「昨年の参加者も、今回再度申し込み頂けると考えています。そのため介護の仕事に付いている方むけですが、昨年同様ではない内容でお願いできますでしょうか?」という要望をいただいた。

受講者の方々の多くは、介護実務に携わっている人であろうから、介護の実践論という基本は昨年同様だが、昨年とまったく同じ話をしても、昨年受講した人にとっては、あまりありがたい話にならないとのことで、振り返りがあってもよいが、基本的には昨年と重複しない話ということである。

そこで今回の講演ファイルを作るに際し、昨年の登米市講演ファイルを見返しながら、同じ内容はできるだけ避けて講演内容を組み立て、取り上げる事例も昨年とは全く違うものにした。

講演テーマは、事務局の希望もあり、「誇りをもって介護業務に従事するための基礎知識と援助技術を考える〜地域包括ケアシステムの中の介護〜」とした。

今回の講演は制度改正を解説するものではないので、ながながと地域包括ケアシステムの説明を行うつもりはない。しかし地域包括ケアシステムが必要とされる社会で、介護には何が求められていくのかということを考えるために、地域包括ケアシステムとは何か、そのシステムによって、どういう地域社会を作ろうとしているのかということは冒頭で説明が必要だろうと思う。

そのうえで介護従事者が担うべき責任と役割とは何かということを明確にしたうえで、介護サービス従事者の誇りについて考えることができる内容づくりに努めた。

そこでは、利用者の『人としての尊厳』を守るために必要とされることとして、三大介護を中心に、適切な介護技術を担保するために、利用者の命を守り、自立を促進する具体的方法論を示したうえで、百年後に称えられる介護サービスを作るために、今しなければならないことを明らかにするというコンセプトを持って講演内容を仕上げている最中である。

ただ昨年と同様のことを全く話さないわけではない。特に介護の誇りを考えるときには、介護サービスのプロとして、顧客サービスという意識が求められるし、そのためには僕が常日頃提唱する、「介護サービスの割れ窓理論」は外せないので、昨年受講した方が、一度聴いている話ではあるが、この部分は再度確認の意味で聴いていただくこととなる。

介護サービスの割れ窓理論を説明する際には、アメリカの有名な次の諺(ことわざ)を紹介している。(※この諺をマザーテレサの言葉と勘違いしている人がいるが、マザーがよく使っていた諺ではあるが、彼女自身の造語ではない。)

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか人格になるから。
人格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


ところで先日、アローチャートの伝道師、山口県 梅光学院大学の吉島 豊録先生から電話をいただき、講演ファイルのアドバイスをいただいた。

先生は3/29に山口県セミナーパークで行った僕の講演を聴いて下さり、その時の講演ファイルの中の上記の言葉を紹介した部分をトイレに貼ってご覧になってくださっているそうである。(なぜトイレなのかは聞き忘れた)

豊島先生のアドバイスとは、僕の講演の内容から考えてみるに、思考が言葉になるのではなく、言葉が思考になっていくのだから、下の画像のようにその格言を少し変えてみた方がよいというものであった。なるほどと納得し、登米市の講演では、この画像のファイルを使って、昨年のファイルとの微妙な違いの意味を説明しようと思う。

言葉は運命になる
違いわかるよね?それでは登米市の皆さん、7月11日(金)18:00〜登米祝祭劇場 大ホールでお逢いしましょう。

和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)の皆さんが、素敵な動画を作ってくれました。ぜひご覧ください。


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介護サービスの割れ窓理論に共感してくれる人たち


介護サービスの現場で、一番欠けている教育とは何か?ということを考えた時に、僕がそれに答えを出すとしたら、「利用者は単なるユーザーではなく、顧客であるという教育がされていないということだ。」と回答するだろう。

顧客満足度という視点に欠けているから、チームケアの必要性を意識できないし、チームとして機能しようとしないとも思う。

利用者を顧客と見ない意識では、適切なサービス業としての労働対価が支払われなくても仕方がないし、顧客満足度を意識すれば、丁寧語を使わないという選択肢は有り得ないと思う。

そのために僕は、「介護サービスの割れ窓理論」を提唱している。

割れ窓理論とは、もともと犯罪心理学の中で唱えられている理論で、割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてそうした建物が地域に増えることで、地域全体が荒廃していくという理論で、割られた窓をすぐに補修することで、そうした荒廃を防ごうという理論だ。

僕は介護現場の割れ窓は言葉であるとし、言葉の乱れが常識ではない感覚麻痺を促進させ、虐待に繋がると考え、まず言葉を正しくすることが大事だと主張している。

言葉を正して、利用者に対する言葉遣いは丁寧語を基本にすれば、心の乱れをある程度までは防ぐ効果もあるし、言葉だけを正しくして態度が荒れてきたら、周囲の人はそのことに対して違和感を覚え、その不自然さ、不適切さに気づきやすくなり、深刻な問題に繋がる前にほころびを指摘でき、修復できるという効果もあると考えている。

利用者に対して丁寧語以外の言葉で話をする必要性はないし、丁寧語を使っても親しみやすさは損なわない。むしろ言葉を崩すことで弊害を生む例がたくさんあることを紹介し、親しみやすさという名の、無礼な馴れ馴れしさはいらない事を様々な事例を挙げて説明している。

特に2025年には、団塊の世代の人々が後期高齢者の仲間入りをして、介護サービスを使う人がさらに増えてくるだろう。それらの世代の人々は、企業戦等として高度経済成長期を支えてきた人で、我々の世代より上下関係に厳しく、サービス業の言葉遣いに敏感な世代であり、我々が言葉を崩すことで不快になる人は多く、同時に崩した言葉に傷つく人も多いはずである。

そうならないためにも、今、我々の世代で、顧客サービスとしてふさわしくない言葉でサービス提供するのが、親しみやすさの表現だという変な誤解をなくして、顧客サービスとしてふさわしい言葉遣いを普通にできる介護を作っていかねばならない。今変えていかないと、汚い言葉でいつか我々自身が傷つき、我々の愛する子供や孫が傷つけられるのである。

保健・医療・福祉・介護の仕事以外で、どこに顧客に対して砕けた言葉が通用する職業が他にあるのかを考えた時、こんなことは議論にさえもならないのが本来で、一部のカリスマ性を持った指導者が、言葉を使い分けるのがプロであるかのようにふるまって、汚らしい言葉で伝道師気取りしているのはどうにかならないものだろうかと思う。

言葉は、それを使う人自身の人格になり、やがてそれは運命になるのである。

そのことは僕の著作本でも繰り返して書いていることであるし、テーマが異なる様々な講演でも必ずお話しすることである。そして正しい言葉を使うということは、何のテクニックも必要としない事なので、やる気になれば今この瞬間からできることなのである。

僕が行う講演では、できることしか話さない。だから共感する人は、自らを変え、介護の現場を変えているのである。

先日もある方から次のようなメッセージをいただいた。

『一緒に働いている相談員が〇月〇〇日に講演を聞きに行かせてもらいました(私は留守番してました)。その後、彼女の何が変わったかというと、「言葉」でした。もともと丁寧に話をする人でしたが、講演を機に、人にもそれを伝えていくようになったことがとてもうれしく思います。
彼女曰く、ブログでも、本でも、講演でも、言われている内容が一貫していて、とても分かりやすい、当たり前のことを当たり前として丁寧に行うことが基本中の基本なのに、それを忘れていたことに気付かされたと話していました。』


このように、僕の話を日々の業務に生かしてくれる人がいることは、とてもうれしいことだ。それによって、利用者の尊厳と暮らしが守られていくことになれば、これに勝る幸せはない。

僕は誰かの心に咲く赤い花を一輪ずつ増やしていくことが、自分に与えられた使命であると思ってはいるが、僕一人でできることは限られている。しかし僕の話に共感して、「人にもそれを伝えていくようになった」人が、自らの職場でそのことを伝えてくれるのであれば、これは大きな波になる可能性がある。

僕の話を聴いて共感してくれた方々にお願いです。どうぞそのことをあなたの周り人々にも伝えて、その実践者を周りに少しずつ増やしていってください。全ての人が変わらなくとも、あなたの周りの幾人かの人が変わっていくだけで、それはいつか介護イノベーションにむすびつくかもしれないのですから、そのことを信じて続けていきましょう。

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全国老施協研修委員の方々に問いたいこと


2/1(土)の午後から仙台市で行われた、「せんだい医療・福祉多職種連携ネットワーク〜ささかまhands〜」の定期研修会で講演を行わせていただいた。

受講者は200名を少し超える数であったが、その後行われた「顔の見える会」という懇親会にも100名以上の人々が参加するという盛況ぶりで、現場発信の多職種連携が、本当の地域包括ケアシステムの構築に繋がっていくのではないかという可能性を感じさせるものであった。

講演受講者も、介護関係者だけではなく、医師・看護師・理学療法士・保健師・専門学校教諭など、保健・医療・福祉・介護の分野で活躍する様々な人々が居られたが、介護サービスの割れ窓理論に関連しては、「医療・看護の悪癖を、介護現場に持ち込むなと言いたい」、「今この時代に我々が介護の現場から意識を変えて、顧客に使える言葉として、丁寧語を基本としていかないと、いずれ介護を受ける我々の家族や、我々自身が、介護従事者の心ない言葉遣いで傷つけられる構図が繰り返される。」などと発言してきたので、顰蹙を買わなかったか少し心配している。

ところで、当日の講演では、全国老施協の「介護力向上講習」に話を及ばせ、アセスメントの伴わない、一律一人に食事以外で1.500mlの水分摂取を勧めていることに対して問題提起を行った。
(参照:支援という支配
仙台講演会場
講演後の質疑応答の中で、この件に関し全国老施協の研修委員をしているという受講者の方から、「竹内先生も決して、個別のアセスメントを行わないで、一律1.500mlの水分摂取を勧めているわけではないのでご理解いただきたい。」という発言があった。

これに対して僕は、「そうであるなら、それは僕に理解を求めるべき問題ではなく、介護力向上講習の受講者に理解を求めるべきだと思います。介護力向上講習の受講者が誤解しないように、竹内先生自身が自らの言葉で、受講者に1.500mlの飲水が危険である利用者もいることを伝えるべきだと思いますので、どうぞよろしくお願いします」、「なぜなら介護力向上講習を受講した結果、たくさんの施設でアセスメントの伴わない、一律一人に食事以外で1.500mlの水分摂取をおこなっているという事実があるからです。」と返答した。

老施協の研修員をはじめとした関係者からは、この問題について同じように、「決して個別のアセスメントを否定しているわけではない」とか、「竹内先生も、必ず全員に一律食事以外の1.500mlの水分摂取を勧めているわけではない。」という話を聞かされるが、それは本当なのだろうかと疑わしく感じている。

本当にそうであれば、参照記事として貼り付けたリンク先に載せられているような意見がどうして出てくるのだろう?施設の壁に、「目標水分摂取1日1.500ml」と書いたポスターが掲げられている施設がどうして存在するのだろう?

昨日(2/2)、僕のブログの拍手コメントには次のような悲痛な声が寄せられている。
家族がこの理論を理念としている施設に入所していました。本人が水分を1.500ml飲めないと職員が朝礼等で上司から叱られる為、父にお茶ゼリーを毎食事際口の中に流し込まれ、父は泣きながらそれを飲み込んでいました。この行為は虐待に値すると思います。水分の大量摂取で血圧上昇が懸念される為、過剰な摂取はやめてほしいと施設に何度もお願いしましたが聞き入れてもらえず、就寝前や就寝中も水分補給と称して起こされては水分補給されている父がかわいそうでした。でも施設に言うと脱水になってしまうの一点ばり。水分の過剰摂取は間違いであるということが早く世間に知れほしいです。

老施協の研修委員の言うことが本当なら、どうしてこのような施設が存在するのだろうか?

さらにもう一点、事実として指摘しておくとすれば、月刊老施協の竹内先生の連載では、『水は生命の源であり、水が細胞を活性化させ、身体と精神の両面を活性化させていく』・『1日1.500ml飲ませて欲しい』と書かれているが、ここには個別のアセスメントなど一言も書かれていない。「1日1.500ml飲ませて欲しい」としか書かれていない事実があるのだ。そのほかの様々な業界誌に竹内氏は、「竹内式」の水分摂取について書いているが、それらはすべて「食事以外に水分1500摂取」が呪文のように繰り返されており、必要以上の飲水が内臓ダメージを引き起こすことも、必要な飲水量は、食事摂取量に左右されるということも一切書かれていない。

全国老施協の研修委員は、このことをどのように釈明するのだろうか?こうした事実を放置しながら、「一律1.500mlの水分摂取を勧めているわけではない」といった、政治家のあいまい答弁のような発言は、いい加減にやめていただきたいと思う。

福井県の方から寄せられた情報では、来年度の福井県版の介護力向上講習で常食もテーマになるということであるが、そこでは常食絶対主義で、アセスメントの伴わない食事形態の決定が行われかねないという懸念の声が寄せられている。

科学的介護を提唱する老施協の方向性が、竹内理論を盲信するあまり、どこか軸がずれてしまっているのではないかと心配する。

竹内理論に基づいて食事時外の水分摂取1.500mlを実行している施設の管理者や職員に言いたいことがある。

それは、人に勧めて実行することは、自分自身ができること、自分自身が実行すべきことなのだから、そうした施設の施設長は、自ら記録をつけ、毎日食事以外に水を1.500ml摂取し続けるべきだし、職員も同じように摂取して、それが何の問題もないことを、自らの体で証明する必要があるということである。

自分ができないことを、他人に強いるなということである。

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事実と真実は異なるかもしれない

2015年4月からの介護保険制度改正に関連するプログラム法案が国会で可決され、いよいよ年明けからは、その方向性に沿った具体的な制度改正、報酬改訂に向けた作業が推進される。

しかし来年4月からの診療報酬が実質引下げられたように、現政権の社会保障費に対する姿勢は厳しいもので、介護報酬も先行きたいへん厳しいものになるのではないかという懸念が拭えず、人材確保の対策も進まず、悩み多き年になりそうである。

そうした厳しい情勢下であっても、我々の目の前には暮らしを営む人々が存在し、それらの人々の命や暮らしを守るのが我々の使命であるという原点を見失わずに、真摯に関わっていきたいと思う。これは制度や報酬がどうなろうと、失ってはならない基本姿勢ではないだろうか。

全国各地に散らばっている僕の仲間は、そういった思いを持ってくれている素敵な人々であるが、一方では、人の哀しみに無関心で、介護とは言えない非人間的対応を行って、物言えぬ認知症高齢者の人たちや、障がいのある人達の心を傷つけ、場合によっては命さえ奪ってしまうような人間が、この業界にも存在する。

今年、このブログ記事にもそのいくつかを取り上げた。「誰よりも愛する人でいてください」・「人をあざ笑うことの醜さを知ってください」・「人の心の痛みがわかるのは普通の感覚だ」・「虐待事業所はなぜ選択されるのか」・「利用者宅を牢獄に変えた介護事業者の感覚」などの記事を書いてきた。

さらにショックであったのは、埼玉県春日部市の特養で、ひとりの介護職員によって、複数の利用者が虐待を受け、そのうち3人を死に至らしめているのではないかという事件である。(参照:フラワーヒル入居者死亡事件 市の“ずさん”調査で捜査難航- 産経新聞

その公判は来年から始まる。ここで逮捕されている元介護職員が何を陳述するかに注目する必要があるだろう。どちらにしても、介護サービスから、こうした闇の部分を完全になくして、介護施設を安心して暮らせる場所にしなければならない。それは建前論で終わらせてはならない問題で、そうしないと我々自身や我々の愛する誰かが、いつ被害者になるかもしれないという考え方も必要だろう。

本来、介護サービスという職業は、誰からも感謝される誇り高き職業であるはずだ。しかしこのような虐待事件が毎年何件も明るみに出るのであれば、我々も同類と見られ、世間から信用されなくなる恐れさえある。これらの事件を、我関せずとしたり、対岸の火事と見るのではなく、関係者として積極的にそうした事例がなくなるような具体的な取り組みをしていくべきである。

僕が「介護サービスの割れ窓理論」を唱え、虐待につながりかねない感覚麻痺を生む言葉遣いを改めて、顧客サービスとしてふさわしい言葉を介護サービスの現場のスタンダードにしようとしているのも、その具体的なアクションの一つである。

ところでこうした虐待事件とは異なるが、介護サービス関係者がショック受けた報道の中で、91歳(当時)の認知症の男性が線路内に入り、列車にはねられて死亡した事故で、名古屋地裁が遺族に対し「注意義務を怠った」として、鉄道会社に720万円を支払うよう命じた裁判がある。

この件に関し、表の掲示板で「認知症の人の徘徊は防ぎきれないとして、認知症家族の会が抗議文」というスレッドを立てているが、ここに今朝未明、法務経験のあるとされる方から非常にわかりやすく冷静な分析をいただいた。貼り付けたリンク先のNo11とNo12のレスポンスを是非読んでいただきたい。

そこで指摘されている重要な点は、巷で論じられている、「この判決がまかり通ったら、認知症の人を在宅で介護する人は、鍵をかけた部屋に閉じ込めるなどでもしない限り安心できなくなる」、「認知症の人を目を離さず、24時間見守らない限り、事故が起こったら見守っていない人の責任が問われる」というのは完全なミスリードで、むしろ判決では、「常時監視することが不可能だとわかっていた」にもかかわらず、「介護者が常に目を離せないことが前提の体制で対応していた」という事実に対して責任が問われたとのことで、こんなことがまかり通ったら、誰も在宅で認知症高齢者をケアしなくなるという結果にはならないという点である。

そして、ここでは逆訴戦術(スラップ訴訟)という言葉が、一つの重要なキーワードになっている。

この責任は、あくまで本件の条件にあてはまる主介護者である長男とその妻という限定的なものであり、それには背景要因があるということが詳しく解説されている。特に、原告側申し立て事項が、相手側の責任酌量されずに、ほぼそのまま通った(要求約700万満額支払い命令)判決は極めて異例であり、こうした「過失による損害賠償」の訴訟において、100対ゼロの判決というのは稀であることを考えると、「明白に悪質な場合」か、もしくは「欠席裁判」であることが考えられるということが指摘されている。

どちらにしてもリンク先の「何か匂う訴訟事案」さんのレスポンスをよく読んでいただきたい。

新聞等で報道された内容だけでは、一般の人にはわからない「真実」がそこに隠されているかもしれないという指摘であり、一考に値する内容ではないかと思う。

※なお明日は大晦日ですが、今年最後の記事更新をする予定にしております。今年一年のご挨拶は明日の記事中で書かせていただきます。
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言葉を使い分けなければならないと考える愚かさ

介護サービスの場では、従業員が利用者に対する配慮を欠いた言葉や態度で接する場面が多々見られる。それを放置することで心の乱れが加速し、世間の非常識が介護サービスの常識であるかのような感覚麻痺が引き起こされ、やがてそのことが虐待行為に結びついてしまう事例がある。

そこでは世間から見れば明らかに人権侵害行為である虐待が行われているのに、虐待を行っている当事者は、自分がそのような人権侵害を行っていることにさえ気がつかずに、虐待という意識がないまま、利用者を傷つけている場合がある。

このことを防ぐために、態度が荒れるきっかけになる小さなほころびは、言葉の乱れであると考え、介護サービスの場で利用者に対して、丁寧語を基本にして、それ以外の言葉を使わないように注意しようとするのが、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」である。

そのことを先日、「丁寧語を使うことは他人行儀ではない」という記事にしてブログに載せたが、そこに次のようなコメントが書き込まれている。
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・自分も丁寧語を使うのが基本だと思います。ただ、そうではないケースの場合も想定されると考えます。
例えば認知症の方が、自分の過去などに回帰している時などが想定されると考えます。
ただ、いずれにしろ丁寧語を基本的には使うことが前提です。ケース、状況に合わせことばを駆使できるのが、プロの対応だと思いますが、如何でしょうか?
自分は出来ているか、まだ自信はありませんが、そのように出来ればと考えております。

・丁寧語の定義とは?ご教授いただけますか。 自分としては、赤ちゃん言葉や軽い言葉と言っているつもりは無いのですが…

・認知症のかたへの言葉使いですが、自分はその方に分かってもらえる言葉を使いたいと思います。それは声のトーンや語感を含めて。 ただ、出来るかぎり丁寧語を使います。

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リンク先のコメントを読んで分かるように、これは僕のかなり辛辣で乱暴なコメント返しに対して、冷静にコメントを書くことができる人の文章で、この人は介護サービスに携わる職員としては、かなりスキルの高い優秀な人ではないかと感じている。

しかし僕はこうしたコメントには、徹底的に言葉を荒げて反論していく。なぜならここ何十年も介護の現場で不適切な言葉がなくならない最大の理由が、「ただ、そうではないケースの場合も想定される」とか、「ケース、状況に合わせことばを駆使できるのが、プロの対応」だとかいう屁理屈によるものだからである。

常に相手の心情にベストマッチした言葉の使い分けが出来る人なんて存在しない。使いこなせると勘違いした人々が、この業界でいつまでも顧客に使えない言葉を改めない元凶になっているのだ。もしかしたら僕があったことのない、「すべての状況に合わせて言葉を使いこなせして、決して人を言葉で傷つけない達人」がいるかもしれないが、それは神業であって、万人がそうなれるわけではなく、そうした達人の言葉の悪い部分だけを真似してしまう人によって、この業界はずっと素人の接客が続いているのである。

そうであるがゆえに、顧客サービスの場では、一定以下の水準に言葉を保つ必要があり、それが丁寧語という線引きである。それ以外の「ケース、状況に合わせことば」なんていうのは、使い分けをしていると勘違いしている人間の勝手な思い込みでしかなく、使い分けられている人間にとって利益になっているとは限らないのである。

言葉のトーンや語感に配慮するというのは、ごく当たり前のことであり、そうであるからといって、その時使う言葉を丁寧語以外にする必要はないし、絶対にその水準から下げないというサービスの質の方が重要である。

そもそも丁寧語ではない言葉を選択する理由について、「例えば認知症の方が、自分の過去などに回帰している時など想定されると考えます。」と言っているが、認知症の人が子供に回帰していても、顧客サービス従事者は言葉を乱すべきではないし、丁寧語のままでも十分適切な対応が可能なはずだ。それをする努力なしに、自分が状況に合わせて言葉を付き分けることができるなんて幻想を持ってしまうから、乱れた言葉が医療・介護業界にはびこるのである。

だから僕は、こうした発言を繰り返す人が、実際にはとても素晴らしい人材であっても、その発言は健康な細胞を侵す癌のようなものだと考え、強い言葉で反論を書き続けるのである。
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丁寧語を使うことは「他人行儀」ではない。

僕が提唱する、「介護サービスの割れ窓理論」とは、利用者は単なるユーザーではなく、顧客であるという考え方が根底にあり、介護サービスの場で、世間一般的に顧客に対して使わないような言葉遣いで対応することは非常識であるという「当たり前の感覚」を身につけることが大事であるという考え方である。

どこの世界に、タメ口が顧客サービスになりうる職業が存在するというのだろうか。それは医療や、介護現場の誤った価値観である。

乱れた言葉で顧客である利用者に対応することを放置しておくことが、世間の常識と介護サービスの常識を乖離させる原因になっているのである。言葉遣いを正して、お客様に話しかけるにふさわしい言葉と態度で接するべきであるということを常識化していかなければ、介護はいつまでも、「素人でも、誰でもできる単純労働」という見方から脱却できない。

「割れ窓理論」は、もともと犯罪心理学の中で考え出された理論であり、それは割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてはその地域全体が荒廃していくという理論であるが、 介護サービスにおける割れ窓は言葉であり、言葉の乱れを放置しておくと、世間の常識ではない感覚麻痺を促進させ虐待に繋がる恐れがあるというのが、「介護サービスにおける割れ窓理論」である。

勿論、言葉を正したからといって、必ずしも感覚麻痺が生まれないとは言えないし、心の乱れと態度の悪化を必ず防ぐとは言えないが、しかし言葉を正しくすることで心の乱れをある程度までは防ぐ効果もあるし、言葉の乱れを感覚麻痺の始まりであると考えることができ、同様に虐待につながる不適切な態度へのサインと考えることができる。そのことに気がつけば、取り返しのつかない行為に至る前に、何らかの対策を講じることが可能になるだろう 。

だから我々が介護サービスを提供する場で、お客様である利用者に対応する際に使うべき言葉とは、最低限「丁寧語」であることを常識化させねばならない。

しかしそうした主張に対し、それではあまりに他人行儀ではないかと主張する人がいる。

他人行儀とは、「他人に対するように、うちとけないこと。また、そのさま。」という意味であり、それは「関係を阻害する」という否定的意味を持つ言葉であるから、丁寧語を使うことが他人行儀であるということになれば、介護サービスの我窓理論の理屈は根底から覆されることになってしまう。

しかし丁寧語を使うことは、決して関係を阻害するような打ち解けない雰囲気を作るものではない。正しい丁寧語とは、本来人の心を打ち解かすために存在するものだからだ。

丁寧語で利用者に話しかけることを「他人行儀」であると主張する人々は、自分が顧客としてサービスを受ける場で、砕けたタメ口で話しかけられることを望んでいるとでも言うのだろうか。自分の親が、学校を卒業したばかりの若輩職員にタメ口で話しかけられ、ニックネームや、ちゃん付けで呼ばれることを望んでいるとでも言うのだろうか。

対人援助サービスである介護サービスに関わる我々は、対人援助のプロとして、丁寧な言葉を使ってもなおかつ親しみやすさを失わず、利用者から信頼感を持っていただけるような印象を与えねばならない。そしてそれは決して難しいことではなく、達人技ではない。

利用者に丁寧語を使って話しかけても、親しみが失われることはない。そもそも言葉を乱暴にして伝わる感情とは、親しみの感情ではなく、「馴れ馴れしさ」だけである。それはぶしつけであり、遠慮がなさすぎるという意味でしかない。

世界一ボキャブラリーの豊富な日本語で、人生の先輩と敬うという誇り高き謙譲心を忘れずに、顧客である利用者が不快にならない配慮を持って丁寧語を発し続ける人になることが最も必要であり、そしてそのことはさほど難しいことではない。要は個人の自覚と、介護サービスという職業に誇りを持っているかどうかという問題である。

人の暮らしに直接関わりを持つことの使命感や誇りを持って、正しい言葉でコミュニケーションを取れる人になることが大事である。言葉を汚くすることが親しみやすさの表現であるとか、荒々しい態度がくだけた人間関係を作り、コミュニケーションが円滑になるかのような間違った価値観を徹底的になくすべきである。

誰からも不適切に思われない、正しい顧客に対する言葉遣いを続けるだけで、介護の質はもっと向上するだろう。

このように丁寧語を使ってコミュニケーションを取るという意味は、決して「他人行儀」になるということではないが、一方で我々は利用者にとっては家族ではない、他人であるという自覚は必要である。

そもそも我々は、利用者にとって本当の家族にはなれないし、なってもいけない。我々は家族として介護支援を行うのではなく、他人である第3者として、福祉援助や介護サービスのプロとして関わっているのである。それは家族より以上の、配慮、心配りを求められるという意味であり、言葉遣いに気をつけるという心遣いは、対人援助のプロとして最低限持つべき倫理観として存在するのである。言葉を崩して馴れ馴れしい関係になっていくことは、この倫理観を歪めてしまうことにつながるであろう。

一方でこの業界には、自分が関っている顧客に対し、「じいさん、ばあさん」・「じっちゃん、ばっちゃん」と呼ぶことができることが、利用者からの信頼を得ている証明のように思い込んでいる人がいる。

そういう人が、いろいろな場所で、そのような言葉を使ってレクチャーしていたりする。その人はもしかしたら介護の達人であって、我々凡人と同じ配慮をしなくても、人を不快にせず信頼を得られる特殊な人なのだろう。しかしそう言う人が凡人に向かって、言葉遣いはたいした問題ではないと言い放ち、あたかも汚い言葉で利用者に話しかけることが親しみやすさの証明であるかのような印象を与え、その人の実践力を真似る前に、その汚い言葉だけを真似する輩を全国に大量排出している事実を見ると、その達人と呼ばれる人の存在は、功罪どちらが優っているのか大いに疑問である。
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理想は高く、具体的方法論は足元をしっかり。


先週末の土〜日にかけて、大阪市で2講演を行ってきた。

土曜日の午後からは、いつも僕を招いてくれる大阪市老連の研修会で「2015年の介護保険制度改正に向けて、いま何ができるか」というテーマで、改正内容を解説しながら、そこから読み取ることのできる国の意図や、その次以降の制度改正に向けての布石について、僕なりに読み取ったことをお話してきた。これらのことは、このブログでも随時情報発信していく機会があるだろう。

翌日の日曜日は、社会福祉法人健成会・特別養護老人ホーム加賀屋の森・施設開設職員研修にお招きいただき、前日とは全く異なる講演内容で、介護実践論をお話してきた。

実はこの日は、利用定員100名のユニット型特養「加賀屋の森」の開設の日であった。当日の講演は10:00〜120分であったが、この日の午後から2名の利用者が新規入所される予定になっているということである。まさにオープン当日の職員研修会である。

そこで働く職員の皆さんも、同法人の別施設で実習を受けてきているとはいえ、多くの方が介護施設職員として未経験からスタートするという。若い方が多く、本当にフレッシュな状態の皆さんが僕の話を聞いた直後に、お客様を迎え、介護サービスを提供するという日である。そうであるなら、その瞬間から活かすことができる実践論を、具体的かつわかりやすくお話しなければならないと心して話をさせていただいた。

講演冒頭で僕は、受講されている職員さん向かって、「皆さんが、介護職員として未経験であるということをネガティブに考える必要はないし、それはデメリットになることではなく、メリットもあるということも理解してください。」とメッセージを送った。介護施設の職員として経験がない、介護サービス事業そのものに従事した経験のない人であるからこそ、世間一般の常識感覚を失っていないはずだから、施設サービスでもその常識を忘れず、それをそのまま新設施設の常識基準にして欲しいとお願いした。

理想と現実は違うという言葉に逃げることなく、理想に近づくしっかりとした介護サービスを、顧客サービスという意識を持って作っていくことが大事であると話させていただいた。

そのための具体的方法論として、日々の暮らしを護る介護サービスの基本につながる方法をお話した。当然そこには顧客サービスとしてふさわしい接遇という考え方がなければならず、そのことを「介護サービスの割れ窓理論」を中心に説明した。

施設サービスが三大介護(食事・排泄・入浴)の提供に振り回され、それ以外のサービスに目が向かないことは生活の質に繋がらないという指摘がある。確かにその通りであるが、それは三大介護をおざなりにしろとか、それを軽視して良いという意味ではない。三大介護という「基本サービス」を適切な方法で提供できるということが当然その根幹にあった上での話である。

食事の楽しみを奪い、それが単なる栄養補給の方法に陥っていないか。その時に利用者は安楽姿勢で安心できる方法で食事摂取ができているのか。

トイレで排泄すればよいということではなく、そこで排泄している状況は適切なものなのか。トイレの便器に10分も20分も座らされ放置されている状態は排泄ケアではないのである。

湯船に入って心身ともにリフレッシュするという入浴習慣を持つ人々に対して、単に身体を清潔にするだけの入浴方法を押し付けていないのか。そのことに目が向けられているかということが、生活の質につながるのではないだろうか。

離床活動にしても、座ったきりの状態を作っても意味がない。人は逢いたい人がいて、行きたい場所があって、始めて生きたいと思うのである。そういう暮らしを作っているのかが問題だ。療法あって暮らしなしの特養は生活施設とは言えない。認知症の女性に対する化粧も「療法」として行うのではなく、「日常」のケアサービスとして行われて初めて心身活性化に繋がるのである。

そんな話を緑風園で経験したエピソードを交えてお話してきた。

受講されているみなさんは、施設のオープン研修ということで、少し緊張しながらも真剣な姿勢で聞いていただいたが、最初はどんな難しい話がされるのだろうと少し警戒心もあったのではないだろうか。

だが話を進めていくと、そのような警戒心や緊張感が取れていくのが感じられた。受講されている方々の表情はどんどん豊かになり、みなさん目をキラキラ輝かせて最後まで真剣に聴いてくださった。講演終了後は、たくさんの職員さんから、「改めて頑張ろうと思えました。」、「力になりました。」、「勇気をもらいました。」、「私も誰かの赤い花になるように頑張ります。」等などという言葉をかけていただいた。会場で販売していただいた、僕の著作本もたくさんの方々が買ってくださり恐縮である。

こういう素敵な人たちが新しく作る施設は、きっと素晴らしい施設になっていくのではないかと思った。僕もその場所に赤い花の種を撒くというお手伝いを少しだけ出来たのかもしれない。

ところで、この日の大阪も時折激しい雨が降った。大阪入りする直前に台風も近づいているという情報も入っていた。9月は台風の発生しやすいシーズンであるし、敬老の日が近づくと、施設内でのイベントも多くなるので、毎年この時期は道外講演予定をあまり入れないようにしている。

そのため次の道外講演は、9/21(土)広島県三次市の十日市きんさいセンターで行う講演まで予定がない。しかしその講演を皮切りに、11月末まで土日はずっと講演の旅が続いていく。三次市講演では、介護実践論を180分かけてじっくりお話する予定である。3連休の始まりの日ではあるが、お近くの方はぜひ会場においでいただきたい。その講演の日に台風が来ないことを願っている。
(参照:masaの講演予定

その講演まで、施設に腰を据えて、様々なエピソードを日々刻んでいこうと思う。
そのこともいつか、どこかの会場でお話することになるかもしれない。それでは次回は、三次市でお会いしましょう。
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意欲を引き出す感情とは何か




介護サービスの割れ窓理論に関連して、先週2つのブログ記事を書いた。
参照:「言葉を正そうとしない人」・「例外を作りたがる腐った業界体質

そして後者の記事コメント欄に下記のような質問が寄せられ、いつものように僕は遠慮ない辛辣なコメント返しをしている。

最初に断っておくが、質問者はとても真摯な気持ちをお持ちの方である。そして将来有望な資質をお持ちの方とお見受けする。

そうであるにもかかわらず、その記事のコメント返しの内容は失礼といわれても仕方のない強い言葉で書いている。それは投稿者に罵声を浴びせているという意味ではなく、このコメントを読み、僕のコメント返しを読む人に勘違いして欲しくないからである。そういう強い言葉でないとわからない人が多いからである。それを不快と思う人は、どうぞここに繋げないで欲しい。

だが、同時に質問者の方に真意を伝えたいという意味も含めて、今日この記事を書いている。

記事中のコメントと、僕のコメント返しは以下の内容である。(一部抜粋。)

(質問者)意欲や表情を引き出すための目的をもった愛称や砕けた声かけも割れ窓なのでしょうか?
アセスメントを行い家族の了解を取っている、と管理者が言っていました。

(masa)家族がいいといっても利用者本人がそれを望んでいるとは限らないでしょう。そもそもどこの世界に愛称や砕けた声が、顧客の意欲や表情を引き出すために必要だという商売がありますか。そろそろそういう幼稚な考え方はやめましょう。思考レベルが低すぎます。

(質問者)バッサリ斬っていただき目が覚めレベルの低い自分を知ることが出来ました。
しかし、なぜこうも容認され必要だと言われるのでしょう?

(masa)売り手市場で、質の低い人間でも管理運営でき、その下に意識レベルの低い職員が増殖するからです。


↑このように質問者は善意の方である。しかもかなり意欲を持って、間違いに気づこうとし、前向きな姿勢を持った方で、有望な人材であることは間違いないと思う。

そのことを感じ取れるから、あえて強い言葉で叱咤激励するのだ。そこには、傷つけられている利用者の存在があるからだ。

早く変えないとならない。今すぐに。なぜなら時間をかけているうちに、傷ついたまま、心を凍らせたまま、亡くなってしまう人がいるかもしれないからだ。

そもそもアセスメントを行った結果、利用者を愛称で呼ぶことや、砕けた声かけが「意欲や表情を引き出す」なんていう結果を引き出すとは、どんなアセスメントツールで、どんな読み方をしていのだろう。

そこの施設のトップは、この問題をもう少しまともに考えられないのだろうか?何度も書いているように、我々は介護サービスを通じて生活の糧を得ているものであり、利用者はお客様である。この顧客意識を失ってしまうことが、現在の介護サービスの一番の罪である。それは医療サービスの現場から受け継いだ負の遺産である。

お客様をニックネームで呼んで、どうして意欲や表情が引き出せるというのだろう?引き出せる表情があるとすれば、それは、「いいかげんにしろよ」という不快の感情と、その表情でしかないはずである。そんな表情を引き出して、お客様に嫌な思いをさせるのが我々のサービスだというのだろうか?

ニックネームで呼ばれて、年上の高齢者の方々が喜ぶと考える感覚麻痺をどうにかしないと、いずれあなたやわたし自身が、勘違いした介護者によって傷つけられるのが当たり前の社会を作ってしまうのである。それで良いのだろうか?

アセスメントという言葉を、このような問題の、アリバイ作りに使う管理者は最低である。

意欲を引き出すものは何か?意欲を引き出す感情とは何か。それは感動である。

だれが年下のサービス提供者からニックネームで呼ばれて感動するのだ。

だれがお金を払って利用しているサービスの場で、そこの職員から「親しげ」という皮をかぶったタメ口で話しかけられて感動するというのか。

感動させる方法がタメ口や、ニックネームで呼ぶことであると考えている職員の資質自体をなんとかしないと、この業界は、間違って捉えられた意欲という名のもとに、我慢と哀しみの感情で覆われてしまうだろう。

心と言葉




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介護・福祉情報掲示板(表板)

例外を作りたがる腐った業界体質




顧客サービスである介護サービスにおいては、施設サービス、居宅サービスの区別なく、そこでサービス提供する職員は、顧客である利用者に対して「丁寧語」を使うべきだということを何度も書いている。

その考え方は、我々のサービスの質が一定レベルまで担保され、その最低基準を下回らないようにするためにも必要だし、言葉の乱れが心の乱れにつながることを防ぐためにも必要だということで「介護サービスの割れ窓理論」を提唱してきた。

このことに関連して、昨日「言葉を正そうとしない人」という記事を書いたが、そこに次のようなコメントが寄せられている。

『ケアマネジャーや、数々の窓口業務、相談業務で感じたのは、時にその丁寧語が「馬鹿にしている」と取られることがあるということです仕事をしている場所が、下町などの普段から丁寧な言葉が飛び交うことのあまりない場所であることも要因の一つではあるのでしょう。また自分の言葉づかいが正しくなかったり、態度が悪かったり、意識が低いということもあるでしょう。
ですから、時に丁寧な言葉を捨てることもあります。でもそこには丁寧な心を忘れないようにしています。いつも自問自答しています。』


コメントを書いた方の気持ちがわからなわけではない。しかしこれも一種の感覚麻痺である。

例えば下町の大手フランチャイズ店はどうなのかということを考えて欲しい。

ファーストフード店やコンビニエンスストアの定員が、お客様に対してマニュアル化された丁寧語で応対することに、下町の住人が「馬鹿にした言葉を使うな」と文句を言うだろうか?そんな場面を見たことも、聞いたこともない。それはそのサービスにおける当然の対応だと思っているからだ。

介護サービスの仕事だけがそうではないと思われる業界体質にその因を求めるとすれば、丁寧な言葉を使って普通にサービス提供できない品質の低かった過去を問題にすべきだ。それをスタンダードにできなかったレベルの人によってサービス提供されてきた歴史が生み出したものを問題にすべきだ。

言葉を丁寧にしない理由はなんだったのか。その答えとして、丁寧語が親しみやすさを失わせると唱える人が多い。しかし言葉を乱した親しみやすさを顧客が求めているのかということをよく考えるべきだ。親しみやすさしかセールスポイントを示せないサービスの質を問うべきだ。介護サービスは命と暮らしを守るのが本来だぞ。親しみやすさを、乱暴な言葉と勘違いする人間を大量生産してきた過去において、何が起こってきたんだ?

そもそも顧客が丁寧語に対して「馬鹿にされる」と感じる背景は、丁寧語を使うにふさわしくない横柄な態度や、その言葉を使うまでの過程に何らかの不自然要因がある場合がほとんどだ。普段から丁寧語をサービス提供のスタンダードにしている人々のあいだでは、そのような不自然さは全く生じないであろう。

顧客に不自然さを感じさせるものは、地域性より関係性の問題であることを忘れてはならないし、無意識のうちにそういう例外を作ってそこに逃げ込もうとする事が、今までどれだけサービスの品質劣化につながってきたかという歴史を振り返るべきである。

顧客に対して丁寧語を使うことに全く不自然さを感じないようなサービスのスタンダードを作るべきである。顧客に丁寧語を使って不自然さを感じさせない関係性を構築すべきである。我々は利用者の家族ではなくて、友人知人でもなく、プロとして向かい合っているのだということを忘れないで欲しい。

そうしない限り、介護労働にプロとしての適正対価は支払われることはないだろう。

もうひとつのコメントも、気持ちはわかるが、さらにいただけない。

「感覚麻痺は言葉使いから来ているのではなく、基本は言葉ではなく、心だと思います。
masaさんがコメントに補足されたように態度も関係します。つまり、言葉遣いではなく、心によって左右されてくんだと思います。心の感覚から、繋がって行き虐待へと繋がるのでしょう」


そろそろ精神論を捨てたところからサービスの質を考えるのを当たり前にしなければならない。

それはサービス提供側の「心」を無視して、不必要なものとする意味ではない。確かに「心を込めたサービス」「利用者に思いやりを持って接する」ということは大事ではある。

それは対人援助サービスとして、当たり前に持つべき感覚であり、そのための理念を持つべきではある。だからといって対人援助の質をそのような抽象的なもので担保することはあってはならない。そんなものに頼るから、介護の質がサービス提供主体によって大きな差ができる現状を変えられないできているのだ。

感覚麻痺は確かに考え方の麻痺であり、言葉そのものではないが、言葉の乱れが顧客サービスとしてふさわしくないと考えること自体が感覚麻痺なのだから、そのことを一定レベルで担保することが必要とされる。その意味が言葉の適正化だ。それで感覚麻痺をすべて防ぐことができるわけではないが、感覚麻痺を生じにくくする土壌を作ったり、顧客サービスという意識を失わない一定の安全弁になりうるものだ。

それを心云々と言い出すから、尺度がなくなっちゃう。サービス精神と、質の担保の具体策は異なるのである。

全ての人の心が、顧客にストレートに伝わるわけはなく、そこには顧客サービスとして一定レベルの具体的基準を担保した上で、サービス精神を上乗せするという考えが必要だ。心を込めたサービスといっても、それは規範としての最低基準をクリアしたうえでという前提条件がなければならない。それは耳で聞いて、目で見て具体的にわかる尺度でなければならない。それが言葉の適正化である。

その時に、精神論で何かを解決しよとする「善意のわからず屋」が存在し続けるから、現在のように介護の質をいつまでも底辺並行移動させているのだと思う。

心に任せてしまったら、主観論から脱皮できない。客観的に見て、人を蔑む醜い心をもって接している人自身が、それをすべて醜いと認識できないから、不適切ケアや虐待はなくならないのだ。

その時、心を持ち出してしまえば、自分の心は正しいと主張する鬼によっても、そこで提供されるサービスは正当化されてしまうのである。

いいかげんにしてくれ、精神論に全ての問題を帰結しようとする腐った業界体質。

消し去れ!!屁理屈を例外と言って取り繕う、低きに流れる腐った業界体質。



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介護・福祉情報掲示板(表板)

言葉を正そうとしない人




時折報道される介護施設や居宅サービス事業所における利用者に対する虐待。それは本当に信じられないほどひどい行為であったりする。

そのような虐待がなぜ起こるのか? それらの虐待は一部の特殊な人間によって生み出されるものなのか ?そしてそれは我々とはまったく無縁のものなのか・・・。

僕はそうした信じられない虐待行為を生む原因は、日常の感覚麻痺だろうと分析している。そしてそれは日常の何気ない「鈍感さ」によって生まれ、エスカレートするものであると考えている。

そうであるがゆえに、素晴らしい介護を目指す前に、普通の生活という意識が重要になってくるのだと主張している。普通を失ったとき、虐待としか思えないひどい対応さえも、その行為を行っている人にとっては普通の行為になってしまうのである。世間の非常識が、その人にとっての常識になってしまうのである。

こうした感覚麻痺を防ぐために、僕は「介護サービスの割れ窓理論」を唱え、割れ窓は日常的に我々が使う「言葉」であると主張している。それを正しく使うべきであると主張している。

割れ窓理論とは、もともと割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてそれは地域の荒廃につながり、犯罪が増えるという「犯罪心理学」で唱えられている理論である。

このことを介護サービスに置き換えたとき、介護現場の割れ窓は言葉の乱れであり、介護のプロとして顧客である利用者に適切な言葉遣いができないことを放置することが、介護サービスに携わる人々の心の荒廃につながり、感覚麻痺を生み、虐待行為を虐待と感じなくしてしまうのだという主張である。

このように言葉の乱れが常識ではない感覚麻痺を促進させ虐待に繋がるからこそ、逆に言えば言葉を正しくすることで心の乱れをある程度までは防ぐ効果もあると主張している。

そのような「介護サービスの割れ窓理論」 の提唱者である僕であるがゆえに、その責任として、僕自身は施設の中で利用者と接する際に、丁寧語以外の言葉で会話をすることはない。100%丁寧語で話している。

しかし残念なことであるが、我が施設の全職員が100%丁寧語を使っているかといえば、その答えはNoと言わねばならない。再三注意し、個人指導しているのもかかわらず、その場では反省の態度を示すのに、時間が経過すると、またもとの汚い言葉遣いを使っている職員が複数存在する。

そう言う言葉を使っている際に、僕が近くを通ったら必ず注意するが、それが何度も繰り返され、そのことを恥と思わない職員が存在する。

そういう職員は、責任ある役職には決して就けないし、職員としての評価は最低である。今後も注意し続けるが、それでも直せない人は、介護施設の職員として、看護や介護のプロとして失格の烙印を押さざるを得ない。それは軽蔑されても仕方のない姿勢だと思う。

しかしそれらの人々は、なぜ言葉を正そうとしないのか。乱れた言葉で利用者と接する醜さになぜ気がつかないのか?

もしかしたらそれらの職員は、丁寧語で話すことが何故、固苦しさにつながると考えているのではないか。それは間違いだろう。世界一ボキャブラリーの豊富な日本語であるがゆえに、丁寧語で話すことで「固苦しくて肩がこる」なんてことにはならない。それはコミュニケーション技術の問題であり、丁寧語を使い慣れておらずにぎこちなく使うから、利用者の方が気を使って「もっと普段使う言葉でいいよ」って言ってくれているという意味だ。利用者が気を使っているという意味だ。

どこの世界に、顧客が従業員に気を使う職業があるというのか。どこの世界に、顧客に気を使ってもらって、従業員が生活の糧である給料をもらえるというのか。それはもうプロの仕事ではなく、自らの職業を誇りの持てない恥ずべき職業に貶めるものである。

利用者を顧客と見ない意識では、適切な労働対価は支払われない ということに気づくべきだ。介護サービス従事者の給与の低さは、この言葉遣いに代表される「素人でも誰でもでいる仕事」と思われていることにも一因があることを知るべきだ。

介護のプロとして、顧客満足度を意識すれば、丁寧語を使わないという選択肢は有り得ないということをもっと真剣に考えるべきである。



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介護・福祉情報掲示板(表板)

代弁者とは、大人は大人と認める人。


道外のとある場所で講演会を行い、そのあとのOFF会に参加してくれた方から、先日問い合わせをいただいた。

その内容とは次のようなものである。

その方の職場の同僚が、「人は80過ぎたら、3歳児と同じレベルだと思えばいいんだって」と言っているのを聞き、「どういうこと?」と聞きなおすと、その同僚が「こないだ講演に来た人がそう言っていた。80過ぎるとそういうレベルになるんだって」と言ったそうである。その時、それは違うと否定しようと思ったが、問い合せてくれた方が考えてみると、その時期にその地域で講演していたのが僕だということで、もしかしたら何か別の意味があってそういうことを言ったのかという問い合わせである。

驚いた。

そのような発言をした覚えもないし、そのような意味に誤解される発言もしていないからだ。問い合わせてくださった方にも、「講演を聞いた方はわかると思いますが、そのようなことは一切話しておりません。誤解されるような発言もしていないことは、講演主催者が講演内容を録音しているので、確認して頂ければわかります。」と答えた。

おそらく、同じ時期(日が同じというわけではないので)に、別の誰かが別の講演会で発言したものだろう。

そもそも僕は講演では、真逆のことを言っている。高齢者は人生の先輩。目上の人にタメ口はありえないし、長幼の序を学んできた世代に対する敬意と配慮が必要。何歳になっても男は男。女は女。性差意識は何歳になっても必要。そして高齢者は大人であり、子供扱いは決してしてはいけない等々である。

「介護サービスの割れ窓理論」として、言葉遣いを適切にすると言う意味も、介護サービス事業者が、利用者にたいして顧客としての意識を持つべきであるという意味と同時に、社会常識である礼儀をわきまえる必要があるという意味もあるのだ。

日本人の文化として、年上の人にフレンドリーに「友達言葉」で話しかけるということはなく、丁寧語で話しかけるのが当たり前だろうし、特に現在高齢者と呼ばれる年齢の人々の世代は、現在の若者よりもその傾向が強いだろう。これは言葉だけではなく、対応する姿勢、態度にも節度が求められるという意味でもある。

一方では、「子供がえり」という言葉がある。認知症の人などは、自分が歳をとった記憶、大人になった記憶自体を失ってしまっているため、自分がまだ子供であると思い込んでいる人々が存在する。だからといって、それらの人々を、「子供のように扱って対峙する」ことが受容であると考えることは間違っている。

なぜならそれらの人々の記憶は失われているとしても、それらの人々の背負ってきた人生が消えてなくなってしまったわけではないからだ。

我々は、人々の記憶が失われたとしても、その人々が歩んできた人生そのものを見つめ、その中で最善の方法で必要な支援方法を考えねばならない。失われた大人の記憶まで、きちんと見つめてケアすることが、「代弁機能」である。

その人々が背負ってきた人生の中には、今それらの人々の周囲にいる家族と、その家族の思いも含まれるのだ。

家族にとって両親や祖父母は、いつまでたっても、どのような状況に置かれても「親」であり、「祖父母」である。家族にとって「認知症高齢者」という意識が、両親や祖父母という意識より先に来ることはない。

そうであれば、ケアとは利用者個人だけに介入するのではなく、その周囲の関係も含めた環境全体に介入するのだから、家族にとっての両親や祖父母という思いを無視して成立するものではないはずだ。

そもそも「人は80過ぎたら、3歳児と同じレベルだと思えばよい」という意識で生まれる対応方法に、どのような専門性があるというのだろう。どのようなメリットがあるというのだろう。

そんなものは存在しない。そんな意識の中で人の「尊厳」など守られるわけがない。いいケアにつながるわけがない。それは単に対応する側の拙劣な支援態度や、拙劣な介護技術を正当化する屁理屈に過ぎないであろう。自らの醜い言葉や醜い態度を正当化するための屁理屈に過ぎないであろう。

ないないづくしの意識など捨て去るべきだ。

人を人として敬い、大人を大人として意識して関わることができなければ、我々はいずれ自らの尊厳をずたずたにされる方法で、介護という名の人権侵害を受ける存在に貶められるであろう。そのことを心して、「当たり前の人権意識」をきちんと守っていくべきだと思う。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

感覚麻痺をどうにかしようとしない人々


僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」では、言葉の乱れが介護現場での「割れ窓」となり、その乱れを放置しておくことで感覚麻痺が助長され、割れ窓から建物が荒廃するように、言葉の乱れから、介護サービスの質は低下し、やがてそれは人の尊厳を無視した劣悪サービスや、虐待にさえつながっていくと警鐘を鳴らしている。

よって介護サービスの現場では、例外は一切なく、言葉は「丁寧語」を基本とすべきであると主張している。

言葉がよければ態度が乱れないという保障はなくとも、言葉を正すことは、虐待や不適切サービスに対して、ある程度の抑止力になりうるからであるし、なによりそれは、対人援助サービスを受ける側は、ユーザーであり、家族と全く同じではないという「正常な意識」を持つことに繋がるからである。

どこの世界に、顧客に対して「タメ口」を叩くことが問題ないという理屈が存在するというのか。どこの世界で「タメ口」が親しみを込めた言葉になるというのか。

ミスタードーナッツに入って、若いネエチャンがタメ口で注文を取るとして、不快にならない客がいるとでも言うのか?そのことと介護サービスの現場は、どこがどう違うと屁理屈をこねるのか?ミスドのアルバイトのネエチャンが出来る程度のマナーを守らない、守れない程度の人間が、「介護サービス」のスタンダードになってよいのか?

バカも休み休み言え。くだらない屁理屈をこねる前に、汚い言葉を吐き続けるその口をどうにかしろ。

しかしいつまでたっても、汚い乱れた言葉をなおそうとしない馬鹿がいる。直せない阿呆がいる。僕の職場でもそいつは常に存在する。僕はそういう職員を決して評価しないし、心から軽蔑するだろう。

丁寧語を使えない看護師や准看護師、介護職員のスキルは、ミスドのアルバイト店員以下である。

しかしいつの場合も、どこの世界にも屁理屈で自分を正当化する馬鹿が存在する。そいつらの言うことはほとんど同じことだ。

そこでは『介護サービスの現場で、汚い言葉づかいをするのはとんでもない事ではあるが、一律「丁寧語」というのはどうなのか?臨機応変に、利用者の感性や個別性に応じたその場その場の適切な言葉の使い方ができれば、必ずしも丁寧語ではなくてもよいのではないか』という主張が繰り返される。

三好春樹さんや、和田行男さんのように、言葉を正さなくとも、サービスの質を落とすことなく適切なケアができる人がいたとしても、それは限られた達人の域である。しかも彼らの卓越した実践を真似することなく、言葉だけを真似する輩がいるから始末が悪い。だから三好さんも、和田さんも、そこのところは大きな悪影響を与える人で、そこは罪だと僕は思う。

僕の著作第2弾「人を語らずして介護を語るな2〜傍らにいることが許される者」では、「悪意のない悪魔」というテーマ記事を書いており、その場その場で言葉を選び出すことができ、それがサービスの質の低下に繋がることがなく、むしろ人間関係を円滑にして、サービスを受ける人々の暮らしをよくできる「達人」などほとんど存在しないだろうと書いている。そして言葉を悪くしてケアすることも有りだと主張する人間を、言葉を乱すことの怖さを知らない「悪魔」だと罵っている。その考えは今も変わらない。

講演でもそのことを伝える機会は多い。ただ講演でお話することは、「こうすべきである」という僕の価値観の押しつけではないので、その考え方を受け入れないことも有りだと思うし、反論することも全く問題ないし、僕の話からヒントを得て、いいとこどりして、受講者自身の理論を構築することがあれば、それは素晴らしいことだろうと思う。

ただ、この言葉の問題については、同じような屁理屈で、言葉を汚らしくすることがフレンドリーな対応だと思い込む人が無くならないことは残念に思う。その中には「利用者さんが、丁寧語を望まない」という理屈で、自らの汚い言葉の反省がない人もいる。利用者がそれを望まないのは、ユーザーとして遇されていないからだ。正しい言葉で適切なケアを受けていないからだ。どこの世界に、私に汚い言葉を投げかけてくれと主張する人がいるというのだろう。

先日の帯広講演のアンケートの中にもこのような意見が書かれてあった。それは『普通という概念は賛同できるが、地域性や関係性から呼び名等必ず「さん」づけを喜ばない人もいる。関係性をどのように持つかは人それぞれであり、必ずしも世間と同じ内容が適しているとは言えないのではないだろうか?』という意見である。

「人それぞれ」という理屈で、何人の利用者が泣いてるんだ?そもそも「必ずしも世間と同じ内容が適しているとは言えない」っていうことは、介護サービスの現場を世間とは違う場所にするってことだよな。それで良いと考える感覚麻痺はどうしようもない。

またこんな意見も書かれていた。『人の命を預かり介護するということは、「各個人が何を望むか」である。結果、普通ではない方法があったとしても、その方法は必要なのかもしれない。』と書かれている。

普通の意味は、普通の方法しかしないのではなく、普通という意識を持って普通以下の方法は取らないようにしようというだけである。その人にとって必要で普通よりもっとハイレベルな方法を求められたときに、普通以上の対応を行うことは何の問題もないということだ。

しかし「私のことは構わないで」と言っている人がいたとして、その時に「望んでいることは、構わず放っておくことだ」として、糞尿まみれにして、人が食えないようなものを食わして、そこで放置することが「自己決定」だなんていうことにはならない。

自己決定という理屈で、自分の行動を正当化して、そのことで誰かの命や権利を奪う例がなくならないのも、こうした考えの輩が存在し続けるからだ。
(参照:「自己決定とは何か1〜バイステックの7原則を都合よく解釈してはならない」  ・ 「続・自己決定の原則を都合よく解釈するな」)

だから三好さんや、和田さんのような達人ではない、凡人の僕は、言葉の乱れに警鐘を鳴らし続ける。丁寧な言葉をスタンダードにできないサービス現場を嘆き続ける。悪意のない悪魔を罵倒し続ける。だから僕はみんなから好かれる存在にはなり得ない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

言葉は運命になる。

僕が鹿児島県周辺で講演を行う際に、必ずといってよいほど受講してくださる方で、フェイスブックでも友達にもなっている大平怜也さんという方が居られる。彼は鹿児島県長島町の特別養護老人ホーム・あかね園で介護支援専門員をしておられる方だ。

個人的にもお付き合いをさせていただいているが、彼は大変勉強熱心な方で、プライベートの時間を使って、「鹿児島笑福会」や「鹿児島もんじゅ」の活動等も積極的に行われている。僕から見ても勤勉な方で、よい感性を持っておられる方であると思う。

そのため彼はいろいろな知識を持っておられる。だから彼の言葉から気づかされるもの、学ぶものは多い。多分、彼はいろいろな分野の本を読んでいるとお見受けする。書物から得る知識は非常に重要である。様々な視点を持つ他者の視点を取り込むことで、自分の視野が広がるからである。

そんな彼のモットーの一つがフェイスブックで紹介されている。転載させていただくと
『僕は、たとえすぐに捨てるようなメモ書きでも、利用者の名前を呼び捨てに書かない。「さん」「様」をつける。そうでもして意識しとかないと、また昔みたいに人権を踏みにじってしまいそうだから・・・。だから、敬称なしで書かれた利用者の名前を見ると、なんか、大丈夫かな?って思ってしまう。』

というものである。とても素晴らしい考え方だと思う。

そしてこのことに関連して、彼は過去に聞いた覚えがあるとして、「行動が習慣に、習慣が人格に」という言葉を紹介している。

僕はこの言葉が書いてあるフェイスブックのコメントを読んで、はたと思い出した言葉がある。それはマザーテレサの言葉である。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


(原文)
Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words.
Be careful of your words, for your words become your deeds.
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits.
Be careful of your habits; for your habits become your character.
Be careful of your character, for your character becomes your destiny
.

この言葉は、むかし何かの本で読んだとき非常に感銘を受けた言葉であったが、いつの間にか忘れていた。

しかし僕が提唱している「介護サービスの割れ窓理論」も、この言葉を紹介しながら解説するとよりわかりやすくなると感じた。その時には「性格」という部分は、大平さんが書いているように「人格」としたほうがよりインパクトが強くなる。それに原文のこの部分は character だから、人格って訳してもよいし、むしろそのほうがマザーテレサが言わんとしている意味に近いのではないかと思う。

ぞんざいな言葉遣いでしか利用者とコミュニケーションを交わすことができない人は、その程度の人格になってしまうのである。そしてそれは自らの運命にもつながっていくのだ。

丁寧な言葉で利用者に接する人格と、言葉を汚くして接することしかできない人格と、どちらを求める人になるのだろうか。どちらになりたいのだろうか。

利用者が「おはようございます」と挨拶してくれているのに、それに対して「おはよう」としか返せない言葉は、それなりの行動にしかならず、それがやがて丁寧な挨拶をしないという習慣になり、その習慣が自身の人格を形成してしまうということを考えると、何が正しいのかは明瞭である。

友達言葉で利用者に接することが「親しみやすさ」だと感じる人間や、丁寧な言葉遣いが「形式的で、格式張る」と感じる人間は、人格を低めて利用者と接することが正しいと思っているということになる。自らの運命をそれによって規定してしまうという意味にもなる。

逆に言えば、自分が目指したい人になるためには、その方向に向けた行動をとることに努めて、それを習慣化することが大事だということにもなる。

感覚を麻痺させて、虐待を正当化するような人格でありたくはない。そういう人格が自分の運命を決定づけるのは嫌だ。だから自らの感覚を麻痺させず、世間の常識を、そのまま介護サービスの現場でも常識と考える人でありたい。そのためには少しでも感覚を麻痺させることにつながりかねないように自らの行動を戒め、人を人として敬い、利用者のみなさんに対しては、我々が関わることで幸せな暮らしを作ることが可能となるような行動を習慣化したい。

当然そうであるなら、プロフェッショナルとして持つべき理念を守るための規範を自らの心に持つべきであり、それに基づいた行動をとるべきであろう。

鹿児島の大平さんは、利用者の人権を徹底的に守ろうという思考に基づいて、メモ書きでさえ必ず敬称をつけるという行動を習慣化させている。彼の人格はそれに基づいて形成されていると思われ、事実彼は、とても好感の持てる素敵な方である。彼の運命はきっと「見えないもの」によって、良い方向へ導かれることだろう。若い人々に学ぶことは実に多い。

言葉は行動になり、行動は習慣になり、習慣は人格になる。そして人格は自らの運命になる。このことを肝に銘じて自らの思考・言葉・行動を律せねばと思う。

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考え続けねばならないこと

6月22日と23日に、登別温泉の「登別グランドホテル」を会場にして、日胆地区老人福祉施設職員研究大会が行われた。

当施設でも4名の介護職員を派遣したが、内容から鑑みて経験の浅い職員を中心に参加者を選抜した。(とはいって当施設の場合は、基本的に参加者と人数については、各ユニットごとに自主的に決めさせている。)

どんな研修内容であれ、他の機関に所属する人の話を聞くことは意味のあることだし、ましてや他施設の同職種の方々と直接情報・意見交換できるということは、その内容がどうあれ、それだけで刺激を受けることだろうから外部研修を受講するということはそれなりに意義がある。

あとはそこでの学びや気づきを、参加者自身が自分の中で充分に咀嚼して、今後の仕事や、自分のモチベーションに生かそうとするポジティブな気持ちがあるかないかにかかってくる問題だろう。

つまり外部研修は自分のスキルをアップさせる「動機づけ」にはなり得るが、本当にスキルアップに繋がるか、否かは、受講者自身の心構えにより決定づけられるもので、少なくとも外部研修を受講したという行為事実だけでは何の意味もないということを知るべきである。

当然、職員を派遣する施設側も、そのことを充分考えた上で、受講者が研修受講という機会を捉えて自己成長し、かつそこで得た情報を施設内にフィードバックすることができるように、復命書等で、自らの気づきを施設の他の職員等へ伝えながら、自分の考えをまとめるという機会を与えているわけである。

今回の参加者の復命書を読んでいると、それぞれに様々な気づきがあり、かつ日常の惰性に流され理念を考えることを忘れがちであった自分に反省している点などが読みとれるので、それなりに意味深い研修機会ではなかったかと考えている。

ところで一人の参加者の復命書には次のような内容が記されている。

「〜強く印象に残った事があった。それは私自身が働いている緑風園の中で現在進行形で行われている様々な業務活動、企画等が極めて先取的であり、先頭を走っているかのような感を持ったことである。他施設では今まさに挑戦しようとしている取組が、緑風園の日常活動に既に組み込まれている事例の何と多い事か。驚きであった。〜」

他施設の研究発表や分科会での情報交換の中から得た印象だろうが、これは決して正しい評価ではなく過大評価だろう。そこまで我が施設のサービスは充実してはいないと思う。(充実したケアを目指していないという意味ではない。)特に僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」に基づいて、正しい言葉づかいをするように指導しているのも関わらず、日常のケアの場面で丁寧語をごく普通に使えない職員がまだ1/3程度存在する。ここは大きな問題点である。

ただ一つ一つのサービスについて、各パーツを取り上げれば、他施設に誇れる部分があることは事実だろう。個別ケアを職員一人一人が考えるシステムにしても、看取り介護にしても、ケアマネジメントにしても、当施設は間違いなく誰かの後を追ってはいない。

しかしそれは先進的に取り組むことを目的としてきた結果ではなく、当たり前の暮らしとは何か?どうしたら利用者の暮らしはもっと良くなるのか?特養に求められている社会的使命とは何か?ということを問い続けて、変えられるものを変えてきた結果でしかない。

加えて新しい方法を創るに際して、我々は他施設を参考にせず、基本的には自ら創りだした方法論に依っている。看取り介護指針もおそらく日本で最初にそれを作成したのは僕だろう。施設ケアプランの一連の作業システムや、検証システムもどこの施設も参考にしていない。様々なマニュアルや書式もほとんどオリジナルである。どこかに当施設と同じか、類似したものがある場合も、それは当施設のものを誰かが真似ているにしか過ぎない。

つまり自分で創り上げるから、自分で変えられるという意味があるのだ。

理念を高らかに掲げても、その理念の意味さえもわからず、実際には何もしていない施設では意味がないから、理念を掲げるよりも現実を見据えて、そこを変えて暮らしを良くする方法を皆で考えようという積み重ねの結果が現在に至っていることを忘れてはならないのである。

確かに今、日胆地区の研究発表会等で他施設職員の話す内容は、数年前の我々の姿でしかなく、今さらと感じることも多いのかもしれない。しかし我々が上から目線でそれを見て謙虚さを失った時には、またたく間にそれ以下に舞い戻ってしまうのは間違いないのである。

そもそも我々は他施設と競争しているわけではない。本来社会福祉の目的は全地域、全世界、全人類で達せられるべきであり、ナンバーワンを目指すのは、競争相手を蹴落とすためではなく、皆が頂上を目指して全体のサービスレベルを引き上げ、すべての人々が幸福に暮らすことを目的とするためである。そこで本当に目指すべきサービスとは、一人ひとりの利用者を見つめるオンリーワンのサービスである。

だから我々は1日も休むことなく、人の暮らしを守るために考え続けなければならないのである。

※ケアマネジメントオンラインで僕の著作本が『話題の1冊』として紹介されました。是非この記事もご覧ください。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

制度改正に関する講演で話すこと

masaの講演予定と履歴」をご覧になると分かるように、僕の講演テーマは結構守備範囲が広くテーマは多彩である。

勿論現場サービスの実務に関するものがメインで、例えば「認知症高齢者のケア」「看取り介護」「介護支援者のスキルアップ」「ソーシャルワーカー(相談員)や介護職員の役割について」などが多いのだが、その中に「介護サービスの割れ窓理論」や「施設サービスで目指すべき自立支援の視点」という内容を入れてほしいと頼まれることもある。

またケアマネジメント関連として「法令に沿ったケアプラン作成の実務」なども依頼が多くなっている。特にケアプラン作成については、施設サービス計画に限らず、居宅サービス計画(居宅介護支援事業所のケアプラン)、ショートステイ計画、デイサービス計画と、各分野で全く違ったお話しをすることもできるので重宝されている。少なくとも長寿社会開発センターの「四訂居宅サービス計画書作成の手引」を唯一の教科書にして講義するような講師よりは、より実践的なケアプラン作成方法を示すことができるだろう。

その中で「自立支援とはどう考えるべきか」というテーマをいただいたり、あるいは病気や身体状況だけにとらわれないその人個人に着目したケアプランの視点を話してほしいと依頼されることも多い。これらは実際にケアプランを作って、それを使ってサービスに関わった者にしか分からない部分で、表面上の作成ルールを知っているだけの人では話すことができないテーマだろうと思う。

それらの期待にどれだけ応えることができているのかは疑問だが、アンケートなどを読むとそれなりの評価をいただいている。その理由は理想論や概念を話すのではなく、そんなものは排除して、できるだけ具体的な内容で、かつ実務に役立つ内容だからだと思う。例えば実際に使っているケアプランを提示させていただきながら計画とサービスの関連を紐解いてお話をしたりする。看取り介護期の「個別機能訓練計画」などを提示して内容を説明すると、ターミナル期の方の機能訓練があり得るということを理解していただきながら、その応用で特養やデイサービスで求められる「機能訓練計画」について、医学的・治療的リハビリテーションエクササイズではないという正しいイメージが創られていくだろう。

このような講演テーマは僕が指定するということではなく、主催者から与えてもらうことになるし、主催者が「受講者はこのような方々なので、これこれの内容を中心に話してほしい」と言われて、それに沿って新たなテーマを考えることも多い。よって毎年僕のカバーするテーマは広がり続けている。

ただしそれは自分の実践の範囲で、実践をベースにお話しできることに限られるので、それを超えたテーマは受けられない。だから「施設経営の視点」などというテーマはお断りしている。それはもっと経営手腕に長けた人に話してもらえばよい。業務省力化なども、僕の職場で十分できていないことなのでお断りする。財務経理関連も専門外なので(僕の施設では別に専門家がいる)断るテーマである。

できないことや理想論を話したって空論以外のなにものでもないからだ。

7/17には東京都内で特養の介護報酬算定に関する講演も頼まれている。これは一見僕の専門外ではないかという見方もあるだろうが、施設の管理者が報酬算定ルールを熟知していないなんてことはあり得ないので守備範囲と言えるテーマである。ここでは法令上の報酬算定ルールを分かりやすく解説し、証拠となる記録のあり方にも触れることになっている。自分の施設で日々実務として携わっているサービスの費用がテーマなので、特段頭を絞らなくとも法令上の落とし穴を埋めていくだけで一つの講演になるのである。ただ面白い講演ではないかもしれない・・・。

そんな中、昨年から今年にかけてはやはり「介護保険制度改正」に関するテーマでの講演依頼も多い。

これは18年改正の前後でも同じ状況であった。特段僕が制度改正を紐解く鋭い感性を持っているわけではないが、制度改正議論そのものを検証していることと、その結果を随時意見としてブログ記事にアップしていることが、僕にこのテーマでの講演を依頼する人が多い一つのり理由だろう。

それにもまして大きい理由は、北海道医療新聞社の介護新聞に「介護保険制度改正議論を斬る」という記事を連載しているからだろう。新聞に連載しているほどだから制度改正には詳しいと思われているようだ。
(※同紙には18年制度改正時にも、その直後から改正介護保険制度を検証する「現場の風〜新たな時代への対応」という25回に渡る連載記事を書いていた。)

確かに制度改正議論の流れは常時最新ニュースを把握しているが、ここで重要なのは、リアルタイムに議論の中身を検証することができるというのは、別に僕の頭脳が人よりすぐれているわけではなく、検証に必要な材料を与えてくれる仲間がたくさんいるからであるということだ。

北海道の片隅にいても、今現在国の機関で審議されている内容がリアルタイムに手に入るだけではなく、霞が関や永田町で耳打ちされる内緒話も場合によっては手に入れることができる。これは僕の大事な人脈のなせる業である。お金は使えばなくなるが、人の繋がりは、心を繋ぎ続けている限りなくならず、それは年月とともに強固に熟成されるものである。だから縁は大切だし、人とのつながりほど貴重なものはないということである。
(ただしそのニュースソースは決して明らかにでいないけどね。つまりこのブログや掲示板で表面に出ている人ではない人とのネットワークもあるということだ。)

いうなれば、このブログや表の掲示板は、そうした仲間達が支えてくれているとも言えるのである。僕一人の力なんてたかが知れている。

ところで制度改正に関する講演は、制度改正議論がされ法案提出されるまでの内容と、現在のように改正法案が国会を通過してしまったあとでは、当然お話しすることも少し変わってくる。

新しい制度はこうなりますよということは同じ内容であっても、法案提出前は、改正議論がどのように展開され、今現場の関係者がどのようにアクションを起こすべきか、ということが中心で、このままだと改正後の制度はこうなることによってこうしたメリット・デメリットがある、ということが中心であったが、法案が成立した現在では、そこで決まったことによって具体的に制度がどう運用されるのかを解説して、その中で、それぞれの関係者が何を考え、どう準備していくかが問題となるだろう。

そんななか、今週の金曜日7/8に、僕の実家がある(実家の主は、今病床に横たわっており、主のない実家であるが)岩見沢市で制度改正の講演を行う。主催者は「岩見沢市介護支援専門員連絡協議会」で、同会の定期研修とのことだ。場所は岩見沢広域総合福祉センターで、時間は午後6時15分から、テーマは「介護保険制度改正で何が変わるのか」とされている。

この時期、僕が呼ばれて「改正制度はこうなる」という話をすることに関してはそれなりの意味と期待を持たれていると思う。

なぜなら法案自体は成立しているので、新しい制度はこうなるという解説だけであれば、僕でなくとも全国課長会議等に参加している行政関係者であれば誰でもできるからだ。それらの人々と同じ話をしても意味がないし、空知支庁や岩見沢市役所の行政担当者を呼ばずに、僕が呼ばれる意味を考えて、その期待になるべく応えねばならない。行政マンとは違った角度からの情報提供が必要だ。つまり「新しい制度はこうなります」という説明だけでは意味がないと思うのである。

よって今回の講演では受講対象者が介護支援専門員であるということを最大限に意識し、ケアマネジャーがどのような議論の結果、改正制度の中でどのように位置づけられているのかということをきちんと明らかにせねばならないと思うし、同時に「こうなる」という新しいサービスやルールについて、こんな問題も抱えているという点を明らかにすることになるだろう。当然制度が変わる方向の向こう側には、将来のこの制度に向けての様々な布石がある。

06年の制度改正直後、僕は予防給付に導入された定額報酬について「次の改正では、訪問介護については機能別再編の名のもとに、現行の生活援助と身体介護という区分を全くなくした定額報酬制度が介護給付の訪問介護にも導入されるように議論されることは間違いないと思う。もしかしたら次回改正後は訪問介護の出来高払いはなくなるかもしれない。」と当時のブログ記事に書いており、定額報酬がその時の今回の改正に向けての「布石」ではないかと予想した。今回の改正では出来高払いの訪問介護は現行通り残されてはいるが、本改正のメインテーマである地域包括ケアの基本サービスとなる「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」は身体介護や生活援助の区分がない定額包括報酬であり、当時の予測は当たらずも遠からずと評価してよいと思う。

そういう意味から今回の改正に隠されている「布石」についても講演の中で僕の考えを紹介したいと思う。

そして今この時点で、このブログ記事や表の掲示板に書けないことについても「こっそり」と触れるかもしれない。まあそれについては状況判断が必要である。

どちらにしても岩見沢という土地は僕が青春時代を過ごした特別な思いれがある土地であり、そこで講演を行うということにも特別な感慨がある。その時代の同級生がケアマネになっているという話は聞いたことがないが、しかし福祉関係で働いている同級生はいるので、受講者にその連中がいると(良いところも悪いところも全部知っている連中なので)やりにくと思ったりする。しかしその確率は低いだろう。

実家があるといっても、現在住む人がいない家で電気も水道も止めているので、当日は実家に泊まれない。しかし事務局の計らいでホテルに泊まって、講演後はOFF会も行われることになった。岩見沢のケアマネジャーの皆さん、当日はよろしくお願いします。

なお当日は会場で僕の著作本「人を語らずして介護を語るな〜masaの介護福祉情報裏板」も購入できます。ケアマネジメントオンラインでは「今話題の1冊」として紹介されています。まだ読んでいない方は、是非購入していただきたく、こちらのほうもよろしくお願いします。

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悪意のない悪魔

表の掲示板では時々「言葉づかい」の問題でスレッドが立てられる。

いろいろな議論があるが、共通しているのは、『介護サービスの現場で、汚い言葉づかいをするのはとんでもない事ではあるが、一律「丁寧語」というのはどうなのか?臨機応変に、利用者の感性や個別性に応じたその場その場の適切な言葉の使い方ができれば、必ずしも丁寧語ではなくてもよいのではないか』と主張する人が必ず何人かいることである。

僕はこのような主張をする人々は、悪気を持って汚い言葉づかいをする人々とほとんど変わりのない馬鹿ものだと思っている。少しだけ点数を甘くつけるとすれば、それは「悪意のない馬鹿」だ。しかし悪意がない分、それが正しいと思い込んでいるから始末が悪い。

僕が主張する「介護サービスの割れ窓理論」は、ぞんざいな言葉が、プロとしての利用者に対する心のありようを低下させ、特殊な環境や密室性のある場所でサービス提供することによって常識からずれてしまうことに気がつかなくなる感覚麻痺を生み、そのことが虐待にも繋がる恐れがあるため、言葉の乱れを「割れ窓」と認識して、そのひび割れを早い段階で修繕して、窓が割れることによって、その場の環境が悪化することを未然に防いでいこうという論理で、この一定レベルを担保するために言葉は丁寧語が基本とされるというものだ。

その場その場で言葉を選び出すことができ、それがサービスの質の低下に繋がることがなく、むしろ人間関係を円滑にして、サービスを受ける人々の暮らしをよくできる「達人」など存在するんだろうか。そういう人は今まで生きてきた中で一度も自分の言葉や態度が相手に誤解を受けたことがない人だ。もしそんな人間が存在したとしても、そうした達人にしかできないケアをスタンダードと考えてどうする。

小規模対応型サービスであるユニットケアの現実を見てみろ。ケアソフトとして優れているそれも、そのソフトを使いこなしていない人々によって密室ケアが行われ、そのサービスの質は大規模施設より劣悪になっている例が後を絶たない。プロである以上、感性という部分だけに頼らない一定の規範は必要なのである。

丁寧語は他人行儀だとか、冷たい印象を与えるだとか、いろいろ言う人はいるが、言葉の質を下げてしか親しみを表現できない自らのスキルをどうにかしろと言いたい。汚い言葉遣いが親しみやすいと思い込んでいる感覚麻痺をどうにかしろと言いたい。個別性を理由に利用者に対して言葉を乱す必要性などあり得ない。

過去にも書いたことがあるが、我々の介護施設には人権無視を意識できない暗い時代があった。その時代に行われてきたことを振り返ってほしい。個別性や臨機応変という理屈で介護サービスの現場がいかに利用者の忍耐を強いてきたかを知らない人が多すぎる。

・オムツは時間でしか替えない、夜のおむつ交換は安眠妨害である、というふうに考えられていた時代に、志を高く持った先人はブーイングの嵐の中で随時交換を唱え続け、夜間も濡れたオムツを変えるのは当たり前と主張し続けた。

・夜間から早朝のナースコールには一切対応しないということを方針としているホームがあった時代に、ナースコールは命綱であると主張をし続けた人々がいた。

・ベッドサイドのプライベートカーテンが介護の邪魔と手間になるといって、たくし上げられ使わない状態で、誰の視線からもさえぎられることなく、廊下から見られる状態でオムツを変えられていた人々。

・赤ん坊のように「ちゃん付け」やニックネームで呼ばれて、ぞんざいな言葉と態度で「世話をされる」高齢者。徘徊する行動を動けなくして問題解決しようとする人々。今現在でもそういう施設があれば虐待と同じだ。

・ある施設では入浴介助の際、他人の体を洗ったタオルを平気で使いまわしている。他人の体を洗ったタオルで自分が洗われることの異常さに気がつかないのはなぜだろう。自分に置き換えて考えれば「嫌だ」とは思わないのか。それは世間の非常識だ。

・時間が来たら食べていない食事も片付けられた時代に、それを変えようとした人々。そういう時代が、つい最近まであったのだ。僕が就職した頃でも、服薬の方法として主食に粉薬を平気でふりかけて餌のように食べさせている看護職員や介護職員はたくさんいた。


思えば介護現場の歴史は、利用者の「嫌だ」という思いを「我慢しろ」という言葉で片付けてきた歴史ではないだろうか。今、介護の現場は着実に「人の当たり前の生活」に近づけるために前に進みつつあるが、逆に言えばいかに介護を受ける人々が当たり前の人としての対応がされていなかった時代が長かったかということだ。そしてそれは、いまだ道半ばである。逆に小規模施設が増え、サービス提供事業主体が多様化している今日、過去に時間を戻したような劣悪なケアを行っている事業者もでてきている。間違った歴史を繰り返してはならない。後戻りして利用者の忍耐の上に成り立つ介護であってはならない。

個別性や臨機応変という理屈をこねくり回して、ユーザーである利用者に対する言葉遣いを家族しか許されないようなぞんざいなものであってもよいと考え、世間と違う感覚を持ち込もうとする職員は、過去の亡霊を呼び覚ます悪魔と同じである。

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施設サービス計画作成の要点

少し先の話であるが、来月6/21と6/22の2日間、鹿児島県鹿児島市のサンロイヤルホテルで行われる「鹿児島県老人福祉施設協議会研修」において講義を行うことになっている。しかも両日2日間に渡って1日4時間、合計8時間の講義を受け持つ。

主催者からこの講義を依頼された際に、次のような要望があった。
『初日(一部)「個別ケアとターミナルケア」2日目(2部)「施設のケアプラン」仮称
理念ならいっぱい聞いており、施設ケアプランはこうあるべきだという講演では、過去同様の評価となります。対象は、従来型・ユニット半々の介護職・ケアマネが約200名の研修となる見込みです。一概には言えないものの大多数の施設で病気だけを管理するプランが多く生活全体の姿・暮らしを創るプランができていない。
原因として―電找修砲茲蠑霾鵑取れない現場の介護とケアプランか乖離している。
利用者のための真のアセスメント・モニタリングの仕方から真のケアプランへ、個別ケアはこういうものだ、そのために自分たちの施設にはケアプランがある。介護職がどう生きたケアプランとし活用するか、ケアマネはそのようにプランを作成するか、個別ケアを定義付けることからプランに繋げる研修をお願いたします。』


↑という内容だ。なるほど居宅サービス計画の作成方法は様々な研修が行われているが、施設サービス計画については、その具体的中身に触れたり、法令ルールに沿った形の手順を踏む方法などを含めて教わる機会が確かに少ない。特に「理念ならいっぱい聞いており」ということは重要で、具体的にどういう表現で、どのような内容のケアサービスをアセスメントから導き出すのか、ということを勉強したいのではないかと感じた。これはケアプラン作成実務を経験した者でないと出来ない講義だ。これは難しいけれど僕が手掛けてみようと思った。

それにしても、特養は慢性疾患を持つ利用者が多いとはいえ、治療施設ではなく疾患と上手に付き合いながら、それをできるだけ悪化させずにより幸福な暮らしを営む場所であり「大多数の施設で病気だけを管理するプランが多く」となっている現状があるのは問題である。

それは施設サービス計画作成担当者の発想力の貧困さを現わしているといって過言ではない。病気に対する治療処置など、暮らしの中のごく一部で、人間として、その生命がある限り、その人らしく生きるという意味は、病気に対してどんな治療処置を費やすかという以外に、眠っている時間以外の暮らしをいかにその人らしく営むかということであり、必然的に病気への対応はサービス計画の一部をなしても、その中核をなすものではないことに気づくはずである。それはターミナルケアの対象者も同様である。

基準省令12条第2項では施設サービス計画に位置付けるサービスについて「〜入所者の日常生活全般を支援する観点から、当該地域の住民による自発的な活動によるサービス等の利用も含めて施設サービス計画上に位置付けるよう努めなければならない。」としており、「病気の管理プラン」ではこの規定に反してしまうとも解釈できる。ここは是非病状管理プランという発想を転換してもらわねばならない。

そこで僕は同研修内容について次のような提案を行った。
1日目の「個別ケアとターミナルケア」については概念論や理想論を出来るだけ排除して、私どもの実践報告という形で我々が目指す介護サービスのあり方、そこで実際に行っているサービスから個別ケアや看取り介護を具体的に話しましょう。看取り介護計画についても、この中で当施設が実際に作成している計画を例示して必要な視点を伝えます。この点はお任せください。「介護施設の割れ窓理論」についてもここで触れたいと思います。

2日目の施設ケアプランについては、前段で法令上の施設サービス計画はどのように規定され、どのようなルールで作成しなければならないかを紐解きましょう。そうでないとこれは机上の空論となってしまいます。例えば法令ではアセスメントとモニタリングはきちんと区別してルールが定められています。また多職種連携と言っても、法令上の施設サービス計画作成作業においては、ケアマネしか出来ないこと、他の職員が替って出来ることも区分されています。その上で、いつケアプランをどのように見直すのか、その際のサービス担当者会議(ケアカンファレンス)はいつどのタイミングで、どのような方法で行わねばならないかを法令に沿って解説して理解を深めてはいかがでしょう。

それを理解した上で、看取り介護計画の立て方や個別機能訓練計画の立て方、など具体的に話します。看取り介護対象者の個別機能訓練の内容も興味がありませんか?それと、その際には総合的援助方針に何をかくべきか、2表で求められている記載内容は何かを解説して具体的内容に触れます。

同時に後半部ではショートのプランについても、居宅サービス計画との関連や、施設サービス計画との違い、レスパイトケアを利用者自身の目標に置き換える方法にも触れたいです。


↑以上である。担当者の方からは、その提案を承諾する旨、連絡をいただいた。それに基づいて講義内容を考えてファイル作りを行ってきた。

そして昨晩遅くまでに講義内容はあらかた組み立て終わった。パワーポイントのファイルもほぼ完成した。特に2日目の講義は、今まで僕自身が行ったことがない内容の講義となるだろうから、僕自身もある種の期待をしながら楽しんで内容を組み立てた。しかしそれは、僕自身が施設サービス計画を立てていた視点や、現時点で当施設の現職の介護支援専門員が立案している施設サービス計画の視点から外れるものではない。あくまで実践の結果として、計画例を具体的に示すものになっている。
(現職の施設ケアマネの作成プランも例示内容として勝手に拝借しているので、これは内緒にしておかないと、あとから高くつくので注意が必要だ・・・。皆さんも秘密保持にご協力いただきたい。)

同時に、第2表の生活全般の解決すべき課題を「〜したい」と表現したり、目標を「〜できる」という表現にさせて、画一定型的なケアプラン作成を行わせている介護支援専門員実務研修や更新研修の講師陣の考え方に真っ向反して、法令上問題のない範囲で、もっと自由な表現による個性的な施設サービス計画の作成方法の提言も盛り込んでいる。

そしてそれは15年のICFの視点を盛り込んだポジティブプラン導入の際に、その根本的な意味を理解しないまま、ケアプランの表現方法だけを変えればよいと考えたり、指導したりするアンポンタンな講師陣やケアマネに対する「15年改訂の呪縛からの解放運動」であると思っている。特定の指導者にとっては極めて挑戦的な態度と受け取られかねないだろうとも覚悟している。

鹿児島は10年以上前に「全国老施協研修」でお邪魔したことがあり、その際には市内観光バスにも乗って、歴史ある街を見て歩いた記憶がある。夜は天文館まで飲みに行ったよな。10数年ぶりの鹿児島はあのときと同じだろうか。

それでは鹿児島の皆さん、6月にはよろしくお願いします。

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信濃路へ。

水曜日のブログ記事に貼り付けた登別温泉街道の桜のトンネルは、早くも花弁が散り始めた。桜の季節もあっという間である。

今朝の登別市は霞がかっているが、うっすら青空が覗かれ気温も10度を超えて暖かだ。天気が気になる理由は、道外に向かう航空機を利用するためで、天候が悪いと予定時間が大きく狂うからである。どうやら今日はその心配がない。

今日は朝早く施設に出勤して(利用者が朝食を食べる前には仕事をしていた)一通りの仕事をこなした。年を取ってから一番苦にならなくなったことは早起きである(苦笑)。

そして11:30に施設を出てJR登別駅から新千歳空港に向かう特急に乗り込んだ。

明日、午後2時から長野県松本市の浅間温泉文化センターで行われる「長野県介護支援専門員協会統一研修会」の中で、「人を語らずして介護を語るな〜介護サービスの常識を問い直そう〜」というテーマの講演を行うためである。

普通、長野に行く場合は一旦羽田空港から東京に出て、新幹線等で長野まで向かうことが多いのだろうが、新千歳空港からは1日1往復のみ、FDA(フジドリームエアラインズ)運行の信州まつもと空港直行便が出ている。今日はそれを利用して14:15に新千歳空港を経つ予定である。信州まつもと空港着は15:50である。(現在、列車の中からipadを使ってブログ記事を更新中である。)

今回の講演は、かねてよりの知り合いである兼任CMさんからご招待を受けたものである。信州松本空港にも彼が迎えに来てくれる予定である。【参照:介護サービスほっとのホームページ(兼任CMさんのサイト)】

兼任CMさんは、知る人ぞ知る有名なケアマネであり、その指導者でもある。長野県のケアマネジャーの方は、資格更新研修等で彼の講義を受けている人は多いだろう。

何を隠そう彼と僕は同じ年で、カラオケに行くと歌える曲も共通している。(つまり最近の曲はあまり歌えないという意味でもある。)

ケアマネジメント実務については、僕は彼の足もとにも及ばないが、今回は僕の施設で日ごろ実践しているサービスに基づいて、そこで職員と共に目指すところを中心にしたサービス実践論をお話しするつもりであり、いつものように理想論とか観念論ではなく、事実行っていること、目指していることをそのままご紹介する予定である。

兼任CMさんのリクエストにお応えして、その中には「看取り介護の実践」や「介護サービスの割れ窓理論」などを含んでいる。受講される皆様の期待にそれる内容になるように頑張ろうと思う。

なお明日の講演を終えた後にOFF会も予定されているそうだ。僕は翌22日(日)12:15発の飛行機で帰る予定なので、当日はゆっくりお付き合いできる。当日初めてご挨拶する方も多いだろうが、どんな方にお逢いできるか今から楽しみである。講演会場やOFF会の会場では、是非気軽に声をかけていただきたい。

なお講演会場では、僕の著作本「人を語らずして介護を語るな〜masaの介護福祉情報裏板」も販売している。是非ご購入を検討していただきたい。勿論、ご希望者にはサインをさせていただく。既にご購入されている方であっても、サインと落款をご希望の方は、当日会場に本を持ち込んでいただければ、講演前後の時間にサインさせていただくのでご遠慮なく申し出てほしい。

ブログ書籍化本(第2刷)
今、各サービス事業所では4月に入職した新人さんがそろそろ職場に慣れてくることと思う。そうした時期だからこそ「世間の非常識が介護現場の常識である」と勘違いしないように、是非この本を読むことを勧めてみてはいかがだろう。おっと、いらない宣伝になってしまいました。失礼しました。

それでは長野県でお待ちの皆さん、よろしくお願いします。

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避難所の認知症支援ガイドを読んで感じたこと。

震災後の避難先で、介護を必要とする高齢者の方は大変な状況が続いている。

元気だった方が介護を必要とする状態になるだけではなく、健康状態を悪化させ亡くなる方もおられる。これらの人々の命も、あの震災がなければ失わなくてすんだ貴重な命であり、震災による死亡者と同じように考えてよいだろう。心よりご冥福をお祈りしたい。

また認知症の人や、その家族は避難先でも大変な問題を抱えている。

3月28日には、福島県で被災された62歳の認知症の女性が、家族と共に4か所目の避難先として移動した新潟県で、家族がちょっと目を離したすきに不明となり、翌朝凍死しているところを発見されている。死亡された女性が認知症であるということを、避難先の関係者は知らなかったそうである。認知症が、誰もがなり得る「病気などを原因とする症状」であり、その状態になったからといって、決して恥ずかしく思ったり、隠したりする必要がないという認識は広まってはいるが、まだその状態を口にするのは周囲に憚りがあると考える意識が残っているとしたら、これは社会全体でもっと意識改革を進めていかねばならない問題で、我々関係者の努力はまだ足りないという証明でもある。

そのほかにも避難先での認知症の方の対応には様々な困難要素がある。

住み慣れた暮らしの場では落ち着いていた方であっても、避難所という慣れない環境と、たくさんの人がうごめく場所では混乱が生じて当たり前だ。しかしその混乱による行動・心理症状(BPSD)を周囲の人々全員が理解できるわけではないから、人間関係上のトラブルが生じやすい。時には認知症の方や、その家族が周囲の人々から強い非難対象になってしまうことがある。そのため避難所にいることができず、危険な場所に移らざるを得ないケースもある。今後の防災対策の中では、認知症の方を対象とした避難場所を別に設ける考え方も必要になるかもしれない。

そんななか、認知症介護研究・研修東京センターケアマネジメント推進室は、震災直後に「避難所でがんばっている認知症の人・家族等への支援ガイド」という文書を作って関係者に配布した。

あの大混乱の中で、素早くこのような文書を作り、広く関係者に周知したことに対しては賛辞を惜しまない。関係者の努力に対し深く敬意を称したい。

ただこの支援ガイドの内容を読んで少し考えたことがある。そのことを書いてみたい。

まずあの短い時間でまとめた内容としてはとても分かりやすく、参考になるガイドであるという評価をしておく。認知症ケアの専門家からの適切なアドバイスが分かりやすく書かれており、家族にとっても参考になるだろう。

ただこの支援ガイドに書かれていることに沿って行えることがどれだけあるかということになると、環境にもよるだろうが、多くの避難先でこの支援ガイドのすべてを実施することは不可能だ。そうなると、このガイドを参考に、どこに優先順位を於いて、最低限すべきことはなにかという取捨選択することが必要になるだろう。

そういう意味ではこの支援ガイドを、避難先で生かす視点が、各各の現場で求められてくると思う。欲を言えば、もう少しコンパクトに要点をまとめた簡易版が添えられていれば、避難先ではより役だったことだろう。しかしこのことはこのガイドを作った関係者の努力に対する評価を少しも下げるものではない。100%完璧なものなど存在しない中で、この支援ガイドの完成度は高いと言える。

しかし1点だけ僕が残念に思ったことを指摘しておく。

3.本人なりに見当がつくように、本人に情報を
今、何が起こり、どうしたらいいか、本人なりに不安に思っており、本人への説明がないと混乱が強まります。
⇒ 記憶や判断力の低下や会話が困難な人であっても、本人に向き合って、今の状況をわかりやすく説明し、限られた情報を本人と分かち合いましょう。


↑このように書かれている部分がある。これはその通りで、なんら疑問をさしはさむ余地はない。
しかしこのことに対して、次のように例示されている点に、僕は大いなる違和感を持ち、残念に思うのである。

例)ここは○○体育館だよ。今日は○月○日、今○時頃だよ。食べ物が○時頃、配られるよ。

なぜ支援者が認知症綺麗者に語りかける例示に家族や友人に対する言葉遣いの例を挙げねばならないのか?家族が語りかける場合だけではなく、避難所で介護サービス関係者が参考にするであろうガイドであるにも関わらず、なぜ「適切な言葉遣い」への配慮がない例示をするのか?

誰もが適切な支援を行うという観点から言えば、介護サービス従事者が、家族そのものではない認知症高齢者の方に適切な言葉を使うという観点から例示することが必要だろうと思う。

だからこの例示は本来
例)ここは○○体育館ですよ。今日は○月○日、今○時頃ですよ。食べ物が○時頃配られますから安心して下さい。

とすべきではなかったろうか?これは言葉狩りではなく、我々介護サービス従事者が常識を失わずに「介護サービス」の「サービス部分」をどう考え、利用者に相対するかという基本姿勢の問題である。
(参照:介護サービスの割れ窓理論の記事

誰もが使って適切と思える言葉の例示がされていないことが唯一残念でならない。ここは僕の中ではマイナス要素である。

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心の闇はどこから生まれるのか。

先週末、また同業者の信じられない残念なニュースが飛び込んできた。

毎日新聞社によれば
香川県は3日、同県さぬき市の特別養護老人ホーム「志度玉浦園」(入所者94人、職員42人)で、認知症状のある入所者に食事や薬を与えなかったり、足をひもで縛るなどの虐待があったとして、運営する同名の社会福祉法人(樫村正員理事長)に対し、老人福祉法に基づく改善命令などを出した。
県によると、少なくとも男女5人の介護職員が、入所者9人を虐待した。今年1~4月ごろ、管を通して胃に栄養を送っている5人の入所者に、職員2人が流動食や薬を注入しなかったり、2~5月ごろには1人の入所者の足を車椅子にひもで縛り付け立てないようにしたりした。医師の指示通りの睡眠薬を入所者に渡さず、職員が所持していたこともあった。
流動食や薬を捨てた職員は「介護の手間を省くためにやった」と、常態的に虐待行為があったことを認めているという。医師法によると、流動食や薬の注入は介護職員ではなく看護師が行う必要があり、県は7月に指導したが、その後も休日は介護職員による注入が続いていた。
県は先月、計7日間の監査をして、施設職員や入所者から聞き取り調査し、虐待行為を確認。介護保険法に基づく改善勧告も行った。改善命令は、今月20日までに全職員に再発防止のための研修を実施することなどを求めている。(2010.12/3.毎日JPより引用)

以上のように報道している。

なお香川県のホームページでは、同園の虐待事実はこのほかに、
・入所者に対して、上着を前後逆に着せて、車椅子に固定して身動きがとれないようにした
・介護職員Cが紙芯で、ポータブルトイレ使用後の入所者の臀部を叩いた
・介護職員E(女性職員)が入所者の意識が鈍い時に面白半分で乳首を何回か摘んだ。


という信じられない行為が記されている。そして改善命令・勧告内容として

(1)再発防止のための緊急措置
入所者が安心して施設サービスを受けられるようにするため、下記に留意して緊急措置を講ずること。
1.再度、虐待行為が発生しないよう全職員を対象に研修を実施すること。
2.虐待行為を行った職員について、再発のおそれがなくなるまでの間、直接処遇の勤務から外すこと。
3.入所者及びその家族に対して本事案に係る説明会を実施し、十分な理解を得るとともに入所者から他の施設への転出等の相談があった場合には、誠実に対応すること。
(2)再発防止に向けた組織体制の見直し
下記に留意して、再発防止に向けた組織体制の見直しを図ること。
1.社会福祉法人の役員、施設の管理監督責任の立場にある職員、虐待行為に関与した職員の厳正な措置及び処分
2.介護理念及び基本方針並びに具体的な方策の策定
施設サービスを提供するに当たっての介護理念及び基本方針を策定し、これを実現するための具体的な方策を策定すること。また、策定した介護理念及び基本方針並びに具体的な方策は全職員に周知するほか、施設の見えやすいところに掲示すること。
(3)高齢者虐待防止改善計画の策定
改善命令で認定した事実に対して、高齢者虐待防止改善計画を策定し、入所者、入所者の家族、全職員に周知すること。計画策定に当たっては、第三者による虐待防止委員会においても審議すること。
(4)第三者による虐待防止委員会の設置
虐待発生の原因を追求・分析し、発生防止策の検討・検証を行う第三者による虐待防止委員会を設置し、高齢者虐待防止改善計画の策定、高齢者虐待防止改善計画に沿って事業が行われているかどうかを第三者委員が定期的に審査する仕組み及び当該事業所又は第三者委員から定期的に報告を受けて、必要に応じて当該事業所に対する指導や助言を行う仕組みを構築し、入所者、入所者の家族、全職員に周知すること。

としている。

これを読むと、この施設で行われていた「虐待」の内容は、あまりにもひどいもので、流動食や薬を飲ませないなんていうことは、場合によっては生命の危険につながる恐れさえある。「未必の故意」による殺人未遂ではないかと疑われかねない言語道断の行為であり、同時にそのほかの行為も「こんなことが日常的に行われているのか?」という驚愕を覚えざるを得ない。

しかもそのような行為を行っている職員が5名も存在している。彼らのこの行為に繋がる「心の闇」はどこからきているのだろう。

そもそもこのような信じがたい行為を行っていた職員とは、我々とまったく違う「変わった人々」「冷酷無情の人々」なのだろうか?おそらくそうではなく、日常的には「普通の人」と思われている人ではないのだろうか?そしてそれらの人々も、この職業に就くそれなりの「動機づけ」は持っていただろうし、最初からそのような行為を行って罪の意識を持たないような人間でもなかったのではないだろうか?

ごく普通の介護職員が、いつからかこのような行為に後ろ暗さを感じなくなるほど、感覚を麻痺させていった結果ではないだろうか。

そしてその一番の要因は、この施設自体の体質と、管理者の意識の問題であると言える。この虐待行為が問題になる前に、介護職員が流動食の注入などを行っていることについて「違法性」を指摘され、その改善指導がされているにも関わらず、何ら改善策を取らなかったことからも、その体質が想像できる。おそらく「ばれなければ何でもあり」という施設トップの意識が、施設の体質となり、そこで働く職員の対人援助に対するモチベーションを下げ、感覚の麻痺を助長させていったのではないだろうか。そういう意味では、この施設のトップは、厳しく糾弾されるべきであり、社会的な責任をとらねばならないだろう。

このブログで何度か指摘しているが、介護サービスの現場の特徴として、日常介護場面での小さな「ほころび」が、いつしか虐待に繋がる危険性を常に持っているということを忘れてはならない。身体の障がいや、認知症によって人の支援を受けることなしに生活できない人は、支援する側の論理に異を唱える立場にないことが多いからだ。だから支援者側が積極的に、援助を受ける人の立場に立とうとしない限り、援助を受ける人の権利や尊厳を犯すような行為が行われても、被害者はそのことを訴えることすらできないことが多いのである。だから小さなほころびもできるだけ作らない、ほころんだ場合であっても、そのほころびが広がらないうちに、その芽を摘み、ほころびが広がらないようにしないと、我々は知らず知らずのうちに人の心を傷つけ、その傷はふさぐことができないものになるかもしれない。

そのために「介護サービスにおける割れ窓理論」を提唱している。それは日常の対人援助場面での言葉の乱れが「ほころび」の最初の問題となりやすいと考え、「特殊な関係や言葉によって、介護者の感覚は知らず知らずのうちに麻痺して、言葉により介護者が利用者を見下ろす位置に立つ恐ろしさ に気がつかなくなるという意味」である。そのことによって信じがたい虐待に繋がってしまうのだ。この状態がよく指摘される「介護サービスの常識は、世間の非常識」ということに繋がって行く。

言葉を正しく使うことは、こうした感覚麻痺を防ぎ、人権感覚を磨く意味を持つものだ。そのことによって虐待が絶対に無くなるとは言えなくとも、少なくとも、そうした姿勢を示し、トップ自らが利用者に対して適切な言葉で対応することは、職員の感覚麻痺を防ぎ、虐待因子を少なくする意味があるだろう。

職員の「心の闇」は、その現場の体質そのものによって生まれるという意識が必要である。

それにしても、この施設の職員が行っていることは、職員研修で意識を高め再発防止に努める負だけで責任が取れる問題ではないように思う。本来ならば、刑事事件になってもおかしくないような深刻な問題であり、指定取り消しが検討されるべき問題だと思うが、入所施設であるがゆえに、利用者の「行き場」が容易に確保されないことで、行政処分にも限界があるのだろう。

それに甘えてはいけないのだ。

そしてこの記事を読んでいる全国の介護関係者の方々に訴えたい。我々は人の不幸を造り出すために介護の現場に存在するわけではないことを忘れないでください。誰かの不幸の上に立った「幸福」など幻想に過ぎないのです。

どうぞ人を愛おしく思う人でいてください。そして命の儚(はかな)さを切なく感じる人でいてください。

人にやさしくするということは、自己の犠牲で相手の何かを実現することではなく、人としての当たり前の感覚を失わずに、皆で不幸を作らないようにしようねという日常のさりげない「思いやり」を紡(つむ)いでいくことではないのでしょうか?そういう意味では、他者に「やさしさ」を届けることは自己犠牲を伴うものではなく、それはむしろ自己実現に近いところに存在するもののような気がします。

日常生活や業務の中で、我々は様々なストレスを抱えてしまうことも否定しません。しかしそのことは、他の誰かの心を壊すことで癒されることではないのです。そのことで一時的な快感を得たとしても、それはやがて自分の身に何十倍にもなってふりかかり「心の闇」はさらに深まってしまうのです。

心に闇を抱えたままでよいのでしょうか?どうか日差しを浴びて、心を温かく、豊かに変えていきましょう。

そのためには我々の周りのすべての人々の笑顔が広がる日常を造ることが大事なのです。悲しみの中で、苦しみの中で、人の心は温(ぬく)もらないのです。そのことをどうぞ忘れない人でいてください。

人はもっと素晴らしい存在なのです。自らの心の闇で、曇った目で、その存在の意味を見失わないでください。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

masa式「介護・割れ窓理論」の意味。

僕は介護現場で職員が持つべき意識として「介護現場における割れ窓理論」というものを唱えてきた。これはまさに僕自身が作り出したオリジナル理論と言ってよいだろう。
※参照:割れ窓理論に関する記事一覧

しかし「割れ窓理論」は何度か紹介しているように、犯罪心理学の中で広く知られている理論であり、それは「建物の窓ガラスが割られた状態をそのまま放置しておくと、外部からその建物は管理されていないと認識され、割られる窓ガラスが増える。そしてそのことがきっかけで建物全体が荒廃し、それはさらに地域全体に拡大し地域に犯罪が増え荒れていく」という理論であり、その意味は「些細なことと放置しておくと、 その地域の結束や自治能力が失われていく、 それに気づかず放っておくと、 どんどん悪化してしまう。」ということであり、それを防ぐには「率先して小さな割れ窓を修理して、あらたな割れ窓を作らないことで、地域を改善していこうという理論。小さなほころびをその時点で繕うことによって大きな犯罪が防ぐことが可能になる。」 という理論である。

僕のオリジナルな点は、この理論を介護サービスの中で「支援者が使う言葉」を割れ窓に例えた点であり「コミュニケーションツールとしての言葉 は太陽にも北風にもなる〜時には刃物になる」と考え、支援対象者はほとんどの方が年上の方であるのだから、世間一般的に持たれているであろう目上の相手に対する姿勢としての「言葉づかい」が当然必要であり、地域で年上の人々に決して使わないような「言葉の使われ方」が介護の現場で、職員と利用者間でだけ使われるのは、それは世間の非常識だし、必要性がないもので、そうした特殊な関係や言葉によって、介護者の感覚は知らず知らずのうちに麻痺して、言葉により介護者が利用者を見下ろす位置に立つ恐ろしさ に気がつかなくなるという意味である。

だから地域で一般的に、近隣づき合いの中でコミュニケーションとして通用している「方言」まで否定していないし、方言として若者が年上の人に「ごく普通」に地域で使っている言葉であれば、それまで「割れ窓」であるとは言っていない。

何度も繰り返すが、親しみを込めた言葉とか、いろいろな理屈をいかにつけようが、その地域で一般的な関係の中で使われない言葉を、介護サービス現場という特定の場所でだけで、職員と利用者の間でだけ使われているということそのものが「感覚の麻痺」なのである。それは物言わぬ利用者を低いところに引きずり下ろして「慣れさせている」という貧困なサービス以外のなにものでもない。

自分が年をとったときに、新卒の若造に「ため口」で話しかけられて良い気がするのだろうか。そういう口調で語りかけられているのが自分の親であったらどういう気持ちになるだろうか、ということまで考えを及ばすのがプロフェッショナルであり、地域で使われない特殊な言葉でのキャッチボールでしか「親しみ」を表現できない人は、プロとしての自覚や技量に欠けているのである。

我々の介護サービスというものは「目に見えない形のないサービス」であるから、再現性がないのと同時に、使ってみて初めてその内容が分かる、という特性を持っている。つまり「お試し利用」というものがあったとしても、それは実際上は「利用そのもの」でしかないのである。

ということは「使ってみて利用をやめる」ことができたとしても、人を傷つける要素が多いサービスの場合、使ってみたことそれ自体で利用者の心が傷つく、という可能性を常に内包しているのである。使って傷ついた結果、その利用をやめたとしても、回復しない傷をつけてしまっては元も子もない。

だから我々介護従事者は、人に誇れる良いサービスを実現することは大事だと言っても、それ以前に「悪いサービス」を提供しないという意識が必要で、そのためにはある程度の品質までサービス水準を維持する必要がある。だから利用者が「嫌だ」とか「不快」と思う感情に対してはよりデリケートな感覚が求められる。

友達言葉や「ため口」を不快と思わない人がいるとしても、それを親しみと感じる人がいるとしても、世間一般的に普通ではない「言葉」は常に誰かの心に刃となる恐れがあると考えるべきであり、他に代替性がない場合を除いて、そういう方法を介護現場のスタンダードにする必要性はまったくない。一部の人の理屈を、サービス全体に適用する根拠にしてはいけないのである。

少なくとも「親しみ」という感情や、良好な関係は「言葉づかい」を悪くして、世間で一般的ではない方法によらないと生まれないものではない。

このことを考えれば、いかに普通の言葉を正しく使うかということの大切さがわかろうというものだ。ここの感覚を錆びつかせて、何のセンスというのだろうか。

窓が割れても、新しいガラスに取り換えればよいかもしれないが、ガラスと同じく壊れやすい人の心は、新しい部品と取り換えることができないものだということを知るべきである。

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介護の「割れ窓理論」

僕が自身の講演などで時々紹介する「介護サービスにおける割れ窓理論」については、このブログ記事でも過去に何度か紹介したことがある。

この理論自体は僕のオリジナルで、今から6年以上前に提唱したものだ。

しかしこのベースになっている「割れ窓理論」は、犯罪心理学の中では有名な理論で、僕はその犯罪心理学の割れ窓を、介護サービスにおいては介護を提供する側の「言葉」に置き換えて正しい言葉を使う意味を説いているところがオリジナルなのであって、割れ窓理論自体がオリジナルという意味ではない。

もともとも「割れ窓理論」とは、言葉のとおり、建物の窓ガラスが割られた状態をそのまま放置しておくと、外部からその建物は管理されていないと認識され、割られる窓ガラスが増える。そしてそのことがきっかけで建物全体が荒廃し、それはさらに地域全体に拡大し地域に犯罪が増え荒れていくという理論である。

この理論の証明に関連して、アメリカのニューヨークでの次のような実験が行われたことがある。

犯罪の多いハーレムという地域の路上に、新品のカーオーディオを搭載したロールスロイスを路上駐車しておくと、最初の2日間は何も起こらなかったが、3日目の夜中にドアミラーが壊されたことをきっかけに、フロントガラスが割られ、車内のカーオーディオはじめ、ありとあらゆる車載部品が奪われ、最後にはタイヤさえも盗まれてしまった、という実験である。

最初、ドアミラーが壊されるまでは無傷だった車が、ドアミラーが壊されたということがきっかけで、あっという間に廃車同然の姿になってしまうのである。

この実験を教訓にして、小さなほころびをその時点で繕うことによって大きな犯罪が防ぐことが可能になるという理論であり、その実践は悪名高いニューヨークの地下鉄犯罪を減らすために、地下鉄車両や駅の「落書き」を消すことによって一定の効果があったとしているものである。

簡単に言えば些細なことと放置しておくと、 その地域の結束や自治能力が失われていく、 それに気づかず放っておくと、 どんどん悪化してしまう。 それを防ぐには、率先して小さな割れ窓を修理して、あらたな割れ窓を作らないことで、地域を改善していこうという理論である。

僕は介護サービスにおける最初の「割れ窓」が、支援者の言葉遣いであると思っている。どのような素晴らしい理念とモチベーションを持っている介護者であっても、その言葉が乱れることで、知らず知らずのうちに利用者に対する「慣れ」や「惰性」による心づかいの乱れが出てくるという理論である。

親しみを込めたコミュニケーションのためには、堅苦しい言葉づかいは必要ないと考える人もいるが、しかし我々がお世話している高齢者の方々は、我々にとってすべて人生の先輩であり、多くの場合、家族がいて、家族にとっては尊敬する「お父さん」や「お母さん」である。そういう人々にあえて言葉づかいを乱して、友達言葉でフレンドリーにふるまう必要はない。我々は家族に代わって、家族と同様の心のこもった支援をする必要があっても、家族そのものにはなれないのだから、家族であれば許される横柄さまで真似る必要はないのである。

心のこもらない言葉など無意味だという人もいるが、言葉づかいを柔らかく、適切に心かげることは態度を和らげ、適切な方向に向かわせる効果もある。

このことを僕は、言葉が変われば心が変わる〜心が変われば態度が変わる〜態度が変われば自分が変わる、と表現している。逆に言えば、言葉くらいという感覚が現場を麻痺させるのである。友達言葉で高齢者と会話する人間が、それらの方々を人生の先輩として敬う心を持って介護にあたれるわけがない。言葉により介護者が利用者を見下ろす位置に立つ恐ろしさがあることを知るべきだし、虐待はまず言葉から態度へと変換するという意識を持つべきであり、それはプロ意識の欠如にほかならない。

常にプロとして適切な支援態度を維持しようとするなら、日ごろの言葉づかいを適切にするという意識が不可欠なのであり、丁寧な言葉づかいをしている状態で、態度だけが荒れるという可能性は低くなる。つまり言葉づかいを適切にする、という意味は、介護の質を一定水準に保つための担保の一つなのである。

介護サービスにおいては「燃え尽き症候群」に陥る人も少なくないが、その兆候は第1症状がささいなことで腹を立てる、乱暴な言葉づかいをするなど「イライラ・不平・不満」であるそうだ。

そういう意味では「適切な言葉」を守ろうとしている人は、自分の心の乱れを言葉でチェックすることも可能になるかもしれない。さらにいえば「乱れた言葉」「ぞんざいな言葉」を日常的に使うこと自体が自らの心を乱すもとであると言えなくもない。

どちらにしても言葉に対する意識の薄い職員が介護職員の大多数を占めているとしたら、それはこの業界全体がプロ意識に欠ける素人集団の域を脱していないということの証明のように思う。

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言霊(ことだま)という考え。

表の掲示板では時々、援助場面での言葉遣いが問題になることがある。

福祉援助の場面では、我々はプロフェッショナルであるのだから、それ相応の知識と技術を持っていることが当然で、相手の心に不快感を与えない配慮も援助技術のうちである。よって日常会話と援助場面の言葉遣いが同じでよいことにはならないと思う。

そのため僕は過去にも「言葉遣いにうるさいことは強制労働よりひどいという批判に対して」、「介護現場の割れ窓理論」、「介護サービスの割れ窓理論再び」などという記事を書いてきた。

どのような理由があろうとも、利用者が言葉で不快を感ずるリスクを排除することは、施設の管理者として当然行い続けなければならない責務だと思うし、親しみを「ぞんざいな言葉遣い」で表現する必要はまったくないと思う。

僕の生活圏内にある大きな総合病院では、正面玄関を入ると立派な金属製のプレートが飾られ、そこには「医療機能評価認定」を受けていて、患者の尊厳を守るスローガンが掲げられている。

ところが一歩病棟に入ると、そこでは年端もいかない若い看護師が高齢者をニックネームで呼んだり、「ちゃん付け」で呼んだりしている。丁寧語などまったく聞かれず命令口調だ。これが尊厳の保障とか人権の尊重になるかどうか、議論の余地さえない。自分の親が年端も行かない若い看護師にそのような口の聞き方をされて喜ぶ子供がいるのか?患者という「人質」だからそれに我慢しているだけではないのだろうか。

医療機能評価は何を評価しているんだろう。

それともニックネームや「ちゃん付け」で呼ぶことが親しみを表すとでも思っているのか、馬鹿馬鹿しい。

しかし言葉遣いの議論において、必ず「でもね。必ずしも丁寧な言葉でなくても良いのでは?」という疑問を呈する複数の関係者が存在する。

つい最近の表掲示板の「言葉遣いについて」の中でもそうであるが、それらの人々の典型的意見の一例に「敬語でも思いやりのない心のない言葉は仏作って魂入れず。形だけ綺麗でも相手の心には伝わらないと思います。」という意見がある。

一見正論に聞こえるが、こうした理屈によって医療機関や福祉現場の「荒い言葉」「不適切な言葉」が延々と改善されず残っている現実を考えねばならない。こうした理屈は、いま日本の医療・看護・福祉・介護現場の言葉の乱れがある現状では「必要ない言い訳」だと僕個人は思っている。

そもそもそうした意見をいう人々は本当に「仏作って魂入れず」という言葉とそうではない言葉の区別ができる能力を持っているんだろうか。

それ以前に、言葉を正しくする意味とか効果とかをわかっているんだろうか。

言葉というものはそれを正しくすることで自分自身や周囲の態度に影響を与えるものであり、最初は意味もわからず、心もこもらずに使う言葉であっても、それが適切なものなら、そこに自然と態度の変容に繋がる効果が現われることが、敬語を作り出した先人の知恵なのだ。

言霊(ことだま)という言葉がある。それは言葉には「良き言の葉は良きものを招き、悪き言の葉は災いを招く」という意味があるということだ。まず言葉を正しくすることで自身の態度もそれにふさわしくできる、ということに繋がる。

だから僕は最初の段階では「形だけ綺麗であっても正しい言葉遣いができる訓練がまず大事である。」と思っているし「親しみをこめたとしても場面により荒っぽく聞こえる不適切な言葉など使う必要ない。」と考えている。

方言は確かに尊ぶべき日本の地方文化であるが、それを使ってよい集団や場面を考えるのがプロであるし、それができないなら最初から方言など使うべきではない。

我々は、保健・福祉・医療現場で支援を受ける人々が、人の世話になっていると感じざるを得ない状況の中で、本当に遠慮なく全ての意見を表明できる状況にあるのかということを常に考えながら、その中で一人ひとりの援助対象となる方々が、様々なものにより「静かに傷ついてはいないか?」という視点を常に持つべきである。

言葉を正しく使うという意味は、そうした配慮の中にあることを忘れないでほしい。

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「言葉遣いにうるさいことは強制労働よりひどい」という批判に対して。

三好春樹氏といえば業界では超有名人だ。彼の介護の世界に残した功績は今更いうまでもなく、生活リハビリや利用者の視点から見た認知症高齢者への関わり方など、我々が学ぶべき点は多い。

それに対して私ごときが意見を述べる立場にはないが、ただある職員から氏の著書の文章を引用して疑問を呈せられたので、意見を述べさせてもらう。

かねてより私は介護施設における職員の言葉遣いは「介護保険施設の割れ窓理論」として、その乱れは問題であることを指摘してきた。

しかし三好氏の著書「ねたきりゼロQ&A」のQ52、言葉遣いにうるさい施設長、という問いの中で「言葉の強制は強制労働よりひどい」として次のように書かれている。

『そもそも私は施設長が介護職員に言葉遣いをよくしろ、と説教したり、チェックしたりすることは問題があると思っています。言葉には二つの側面があります。一つは規範としての言葉です。もうひとつは自発性です。言葉を通して自分自身の内面を表現するという側面です。同じ言葉を使っても人によって意味が違ったり、比喩になったりするのがそうです。人に言葉を強制するのは、こうした自発性を抑え、内面を管理することに他なりません。かつての社会主義国では権力によるこうした強制を拒否した人は、収容所で強制労働をさせられました。そうしてまで自分の内面を守った人が大勢いたのです。私は言葉の強制は労働の強制よりもっとひどいことだと思っています。施設長は一人ひとりの職員から自然に優しい言葉が出るようになるかを考えるべきなのです。職員が喜んで働ける環境を作ったらどうでしょう。現場の人を監視し言葉狩り、をするよりはるかに職員も老人も元気になると思います』

後半部はともかく、強制労働と言葉の修正教育を一緒にするのは間違っている。

言葉は時に刃物だ。

言葉で人の心を傷つけることは簡単だ。そして、そのことに気づかずに不適切な言葉を日常的に使ってしまう職員がいることも事実で、利用者を守るためにも適切な言葉の教育としての訓練は必要で、不適切な言葉遣いが「言葉を通して自分自身の内面を表現」という理由で許されるものではない。

介護現場で「利用者の心が傷つく」状況と「職員の自分自身の内面を表現」のせめぎあいが起こるとしたら、僕は迷いなく利用者を守る。

「自分自身の内面を表現」といっても言葉の適正化を図る取り組みは、職場という機関における就業中のルールに過ぎず社会規範の範囲で、こんなものを強制労働に結び付けて論ずるほうがどうかしている。

「ひとりの職員から自然に優しい言葉が出るよう」な環境づくりは、適切な教育育成体制も含めて考えるもので、一方的に命令指示するという思い込みで変な指摘をしてほしくない。

我々が職場で行っている取り組みは、言葉の強制ではなく、言葉の大切さの意味を職員全員で理解して、適切な言葉を使いながら、良いサービスを実現しようという取組である。こうした取り組みに水を差すような大衆迎合的・不適切ケア迎合論文は百害あって一利なしである。

僕が職場で職員の言葉の大切さを職員に語る際に使った最近の文章を以下に掲載する。

『我々の施設の「声かけ」や介護サービスについて、あらためて振り返って考えて見ましょう。
特養での言葉の虐待の問題が大きく報道されています。
しかし少し油断すれば、似たような状況が気づかないうちに、この施設でも発生するかもしれないと思います。

虐待をする職員、言葉の虐待を行う職員すべてが日頃から「悪いやつ」といえるかといえば、そうでもなく、ごく普通の人が慣れから不適切な言葉や態度に気づかず、それがエスカレートして、密室場面でそのような不適切な態度をとることに罪悪感を感じなくなってしまうという恐ろしさがこの問題には含まれていると思います。

当施設でも日頃から外来者への挨拶をしっかり、はっきり大きな声ですること、利用者の声かけは「丁寧語」を基本として親しき仲にも礼儀ありということを忘れないように呼びかけていますが、なかなか日常的に守ることができない職員もいます。

外来者に挨拶ができない職員。利用者に命令口調や友達言葉を使ってしまう方は是非気をつけてください。さすがに虐待と思うような言葉かけに遭遇することはありませんが、「冷たい」印象を感じたり、「命令」的な雰囲気が感じられる言葉に出会うことがあるのは事実と思います。

また例えば食堂で食事介助をしている場面で、利用者や食事とはまったく関係のない話題を職員同士で話している場面がないとはいえません。これも不適切であることは間違いないし、利用者を無視した虐待的態度ととられても言い訳ができないと思います。他の介護場面、入浴介助や排泄介助の際もしかりです。

介護サービスの評価は、良いサービスを行っているかという以前に、不適切なサービス、特に利用者が「嫌だ」と思うサービスではないか、という検証がまず必要だということが重要な視点です。

利用者に信頼され喜ばれることが、この施設で働く職員のモチベーションにもなるし、それはとりもなおさず職員として品質の高い適切なサービスに携わるということです。

なにより介護は人を幸せにする支援なのですから、介護者や介護施設の職員が、人を不幸にしたり、悲しませる要因になってはいけません。』・・・以上である。

こと、この問題に関しては、いかに偉い先生の考えであろうと、僕は譲ることは出来ないのである。

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社会の非常識がナースの「お常識」?

年を重ねるにしたがって、医療機関と自分の距離が縮まって行く。

とはいっても僕の場合、医療・保健・福祉の世界に長くいるので、一般の方々より医療機関との接点は多い。しかしそれはあくまで職業人としてとの接点であり、医療を必要とする立場での接点ではなかった。

ところが、最近父が死亡したり、身内に病気で入院する人が出てくると、やはり一人の人間として、病気をもつ身の者とか、その家族という立場から自分と医療機関の距離を意識することがある。

そして入院患者の家族の立場で、医療機関や、そこで働く職員と接することで様々な「思い」を持つ。

一番感じることは、医療の現場での看護師のデリカシーのなさであり、その現われである心無い言葉遣いへの憤りである。

特に養成学校を出たばかりのような若い看護師が、高齢者の名前を呼ぶ際に「〜ちゃん」と呼んだり、ニックネームで呼ぶことには非常な違和感と憤りを感じる。

彼女たちにとって、見当識が定かでなくなって判断力が弱くなった高齢者であったり、意識のない患者であっても、我々にとっては、その背中を見て成長した偉大なる父、母である。

いくらナースキャップに線がたくさん入っている偉い立場の看護師であっても、年下の他人から「ちゃん付け」で呼ばれる所以(ゆえん)はない。

ましてや、学校出たての右も左もわからぬヒヨッコナースが、先輩の習慣を無批判に受け入れ、あたかもそれが常識なごとく高齢者や年上の患者を「ちゃん付け」で呼ばわる姿はこの国の医療現場の恥部を現したもの以外のなにものでもない。

一般社会で誰が年上の他人様を「ちゃん付け」で呼ぶというのか、そうした社会常識と隔絶した場所が医療の現場であってよいのか?

親しみをこめる為に、そういう言い方をする、という「言い訳」をする輩(やから)がいる。笑止千万!!不適切な言葉でしか親しみを表すことができないなら専門職失格。顔を洗って出直して来い!!

僕の施設で同じことを看護師や介護職員が行ったら、大変な問題である。

言葉の大切さについては『介護保険施設・事業所の「割れ窓理論」 (言葉使いに関連して)』で述べているから、ここでは詳述しないが(リンクを貼り付けているので反論ある方も含めて是非、読んでいただきたい)、年上の高齢者を、患者だからという理由だけで「ちゃん」などの不適切な呼びかけや、子供に対するような言葉かけ、命令口調を日常的に行うナースの心には、知らぬ間に患者より上位のものとしての特別な意識が醸成されてしまうだろう。

ここが一番の問題だ。彼女たちは、一般的には看護師としての教育を経て育ってきているので知識や技術は優れているし、それなりの一般教養や常識も持っている。

しかも医療機関の中の縦割り組織で教育を受けることで、上司や先輩に対する「言葉遣い」は非常にきちんとしている。

なのに、いざ看護の現場に出たときの言葉の乱れはひどいものだ。しかも、それを修正教育する上司も非常に少ない。患者を見下した意識が医療現場に根深く残っている証拠であろう。

少なくとも、そこには患者を「顧客」と見る意識は皆無であるし、人として対等の立場で必要なサービスを提供しようとする態度もない。ナイチンゲールの「看護覚え書き」でも読み直すと良い。

こういう状況に危機意識を持たない医療機関の幹部看護職員は婦長ではなく「不調」と呼ぶべきだし、意識改革のないナースなどと「ボケナース」とでか「オタンコナース」としか呼べない。

利用者や家族の心に負担をかける看護で何が救えるのか、まさに患者というのは、その字のごとく「心を串にさされた者」という実態がこの国の医療現場にはある。

しかし患者の家族も「人質」をとられた身で強いことは言えないというのが本音だろう。

医療現場などで心当たりのある言葉を使っている諸氏は、もうそろそろご自分が「白衣の天使」ではなく「裸の王様」であることに気づいたほうが良い。

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導線が短いことのデメリット

先日「介護サービスの「割れ窓理論」再び」と「家族の面会を断る施設

という二つのブログでふれた札幌市手稲区のグループホームの指定が今月いっぱいで取り消される。

グループホームの指定取り消しは、道内では初めてだろうから大きなニュースとして取り上げられている。

新聞では、グループホームの密室性に触れて「氷山の一角」というコメントを載せているものもある。

まじめにグループホームの運営にあたっている多くの心ある関係者の方々には、まったく心外なことであろう。

我々の施設も決して人事として考えず、言葉も含めて虐待と疑われるような対応はないか、常に心して介護に取り組んでいかねばならない。

さて、指定を取り消されるホームの虐待の具体的状況の中で、廊下に座らせて動くことをできないようにするなど「利用者の意思に反した行動制限」が問題として取り上げられている。

このホームの行っている状態はコメントもする気にもならないひどいものだと思うが、「利用者の意思に反した行動制限」という部分では、我々はもっと深く考えなければならないことがあるように思う。

我々の施設でもケアのユニット化に取り組んでいるが、既存施設のネックはハード面といわれ、どうしてもケアの導線が長いし、目の届かない範囲が広く存在するため、なかなか個人に職員が適切に「寄り添う」ということが難しい面がある。

グループホームや新型特養は、この点はハード面が「十分仕事をする」つくりとなっている。

しかし「寄り添わないケアの大事さ」の中でも書いたが、人間関係はあまりに濃密になりすぎると息が詰まることがあり、一人になる時間や場所が絶対に必要だ。寄り添い方も、寄り添っていることを気付かないように見守ることも大事なのだ。

ところが導線を極端に短くしたスペースでケアサービスを完結させてしまうと、その導線からはずれる利用者の行動を「問題行動」あるいは「落ち着きがない」と捉えてしまう向きがある。

それは違うだろう。それはケアサービスの提供側の都合にしかすぎないことを忘れてはならない。

座ったきり老人を作り出すケアではないのだ。共用スペースに静かに座っている高齢者に対しても、それが「利用者の意思に反した行動制限」ではないか、という意識を常に持って介護サービスの提供に当たる責任が我々にはある。

ユニットケアの中で、共用スペースに常時いないと「ひきこもり」と判断されたのではかなわないのだ。ひとりひとりの生活の個別化ができてこそのユニットケアではないか。

それと導線を短くすることで、職員の動きの流れが止まる、という現象もしばしば起こる。認知症の方の行動はパターン化できるものではないので、自然な流れと動きというのは必要なことが多いのだ。

導線の短さが職員の動きを止めるとは、気の配り方も滞るという意味だ。これが一番危険なケアスタイルを生み出す。我々はそのことにもきちんと配慮して、日頃のセルフチェックに努めなければならない。

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介護サービスの「割れ窓理論」再び

札幌のグループホームが指定取り消しを検討されている。

入居者の家族の通報により虐待が疑われているとの事である。

すでに関連して3度の実地指導が入り、先月には行政処分を前提にした監査が行われている。

その監査において、介護日誌の中で「入居者を廊下奥や壁に向けてに座らせる」などの記述があったとのことである。

しかしそれに対し同ホームのホーム長が反論の記者会見を行っているニュースが昨日流されていた。日誌にどうしてそういう表現で書いたのか聞かないといけないが、それだけで虐待とされるのはおかしいのではないか、という主張である。

事実がどうなのかはわからない。

しかし18人の利用者の生活施設の介護日誌にホーム長が今まで目を通していないような主張はおかしいし、そういう表現が介護日誌に記載されていること自体、問題ではないのか。

つまりその職員はそういう行為が介護の記録と思っているのだ。利用者に対する目線、意識も当然そういう配慮ないものなのであろう事が容易に想像される。

しかも次々に問題が現れてきている。

「食事の量が極端に少ない」「入居者の行動を制限する」「入浴回数が少ない」という証言や「領収書を偽造して入居者の家族に立て替え金を請求」「介護計画の家族欄に、家族の心当たりのない押印やサインがあり家族も介護計画を見たことがない」という問題も指摘されている。

これらの疑問に責任者は真摯に答える責任が当然あるだろう。

今後の聴聞会などの進捗状況を見守る必要があるが、指摘されたような行為が本当にあるなら許されるものではないし、指定取り消しもやむをえないと思う。

指定を取り消したからといって、このホームは別にもグループホームを経営しているのだ。ここは大丈夫か、という疑念を持たざるを得ないし、もし事実ならこの事業を継続して行う資格はないと思う。

しかし同ホームの外部調査結果をワムネットで探して読んでみても、水準以上のサービス提供が行われているような評価結果になっている。

わずかに「言葉かけが指導的側面があり」という指摘を受けているが、総合評価では「認知症の方が持てる力を発揮できるサービス提供が行われている」とされている。

これはやはり外部評価の限界を示すものなんだろう。基本的に運営基準を満たしているという前提で、さらなるサービス向上の助言を行うのがグループホーム外部評価の目的だからである。

しかし言葉かけの問題を評価の中で指摘しているということは、調査員は何かしらその中に気になる点を無意識に嗅ぎ取っていたのかもしれない。

以前、このブログや表の掲示板の過去ログで示している通り、「介護施設の割れ窓理論」のキーポイントは、やはり言葉なのである。

建物やビルの窓ガラスが割られて、そのまま放置しておくと、外部から、その建物は管理されていないと認識され、割られる窓ガラスが増える。建物やビル全体が荒廃し、それはさらに地域全体が荒れていくという理屈だ。

これを介護施設に当てはめると、言葉の荒れ、が、意識の荒れにつながり、しいてはサービス自体の荒れにつながってしまう恐れがある。このことを決しておざなりにしてはいけない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護現場の「割れ窓理論」

春間近かと油断していたら、昨日からの雪である。

今朝は通勤途中に車のハンドルをとられて、あやうくコントロール不能になるところだった。

火曜の療育音楽で取り上げた歌が「早春賦」や「北国の春」だったのだが、早すぎたようである。

さて、春といえば、間もなく新職員が沢山生まれる季節でもある。

高齢者介護の現場に携わる皆さんには、高齢者の方々とのコミュニケーションの方法というものを少し、意識していただきたい。

かつて表の掲示板で介護現場の言葉の乱れについて「介護現場の割れ窓理論」として話題にしたことがある。

高齢者の方も、我々の人生の先輩なのだ。

職場の上司に敬語や丁寧語を使えるのに、なぜ高齢者、特に介護や看護の現場で接するケアサービスやキュアの対象者の方に対しては、ぞんざいな言葉使いであったり、友達に話しかけるような言葉であることが普通にまかり通っているのだろう。

親しき仲にも礼儀あり、という以前に、年上の他人に接する際の態度や言葉使いは、もっと意識的に考えられて良い。

医療機関でも、考えられないような言葉や声かけをよく耳にする。

若い看護職員が高齢者を「〜ちゃん」と呼んでいたり、ニックネームで呼んでいることに違和感を感じないのは何故だろうか。

自分の親が、他人の、しかも年の離れた若い看護職員や介護職員から、そういう言葉や態度で接せられたらどう思うだろう。

自分に置き換えて考えても良い。決して嬉しくはないだろう。

おそらく、こういう言葉や態度が当たり前なのは、看護・介護現場の特徴である。しかしそれは世間の非常識だ。

どこの世界で、顧客に対し、命令口調や、赤ちゃん言葉で接することがあるだろうか。

介護や看護は、馴染みや親しみの関係が大事だから、という訳のわからない論理を振り回す方がいるが、言葉をぞんざいにしないと親しみが伝わらないとでもいうのだろうか。

適切な丁寧語であっても、親切心は伝わるし、親しみはもてるよ。要はその言葉を発する人間の問題なのである。

新職員が世間の非常識を、当たり前に受け止めて、介護や看護の常識的に、高齢者や障害者の方々に「壊れた言葉」を使うようになる職場は、上司や先輩の言葉遣いが悪いのが最大の原因だろう。

プロフッショナルと言うのであれば、「言葉も割れ窓と同じ」という意識を持つべきだ。

介護・福祉情報掲示板(表板)
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