masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

リビングウイル

リビングウイルは自分のためだけにあらず


先週木曜日に更新した記事の中で、雲仙市の「わたしの終活ノート」を紹介しているが、そこには自分の終末期医療に対する希望を書く項目がある。
わたしの人生ノート(雲仙市)
「自分の命が不治かつ人生の終末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し、同時に「延命治療を控えてもらい、苦痛を取り除く緩和治療・緩和ケアに重点を置いた支援に最善を尽くしてほしい。」と宣言することがリビングウイルの宣言である。

そのことを人生ノート(エンディングノート)に書いておくことは重要である。

なぜならそのことによって、人生ノートを書いた人が旅立った後、残された家族にとっても、その宣言が意味あるものになるからだ。

例えば口からものを食べられなくなる・水分を摂取できなくなるという状態になった時に、多くの人はその時点で意思表示が困難となる。そうした状態で経管栄養にするのか・しないのかなどを決めなければならないために、その決定を行うのは家族になってしまう。

家族に自分の終末期の希望を告げていない人たちは、そんなふうに自分の終末期の過ごし方を家族の決定に委ねても良いと思っているのだろうか。

自分は子供の決めたことなら何でも受け入れることができるとか、家族が決めた通りで何も問題ないと考えている人がいるとしたら、それはあまりにも安易な考え方ではないのだろうか。そしてそれは自分のことしか考えていない態度ではないかと問いたい。

家族にそのような重い決定を委ねてしまったときに、どんなことが起こるかをもっと深く考えてほしい。

口からものを食べられなくなった時に、胃婁を増設して経管栄養を行うことで延命は可能になる。しかもその延命期間は月単位ではなく年単位に及ぶ。中には胃瘻造設し経管栄養だけで10年以上も生きている人がいる。そうした延命効果だけを見るとすれば、それは決して否定される生き方ではないのかもしれない。

しかしそうして何年も生きている人の中には、意識が無い状態でベッドに寝た切りのままの人がいる。中には痰がつまらないように気管切開され、チューブが入っているために、看護師が数時間おきに気管チューブから痰の吸引を行わなければならない人がいる。その人たちは意識が無い人でも、吸引の度に体を震わせて苦しがっている。その状態はまるで、苦しむために延命されているかのようだ。

そうならないために家族に口から食物や水分が摂取できなくなったら、経管栄養を行わず、枯れ行くような自然死を望むと告げている人は、家族がその意志に沿って対応できる。

しかし家族に自分終末期の希望を告げていない人が、意識が無い状態で口から食物が摂取できずに、回復不能の終末期と判断されたときに、家族が延命のための経管栄養をするのか、自然死を選ぶのかを決めなければならない。そうした「家族の命にかかわる重い選択」をしなければならないのだ。

その時愛する家族のことを思い、苦しみが続かないように、「経管栄養を行わない。」と決め、看取り介護を選択した結果、家族が安らかに自然死したとしても、逝った人の希望を確認できずにその決定を行った家族の心には、しばしば深い傷が残ることがあるのだ。

どんなに死の瞬間が安らかで、そこに至る過程(看取り介護中)も適切な対応が行われたとしても、希望を確認できずに経管栄養を行わないと決めた家族は、亡くなった人の姿を見たときに、経管栄養にすればこんなに早く逝かなかったと考えてしまい、自分が愛する家族の命を縮めたのではないかと思い悩んでしまうケースがある。

長く高齢者介護に関わると、そういうケースに出会う。中にはそのことで、「うつ状態」となり、精神科治療が必要になったケースもある。

そうしないための唯一の方法は、親から子に、子から親に、自分の終末期をどこでどのように過ごしたいのか、口から食物や水分を摂取できなくなったら経管栄養を選択してほしいのか、それをしないで自然死を選択してほしいのかを告げておくことだ。その希望を書き残しておくことである。

逝く人の希望に沿った決定を行う限り、「家族の命にかかわる重い選択」であったとしても、その決定と結果に思い悩むことはなくなるだろう。それが残されるものに対する最後の、「愛のメッセージ」となるであろう。

だからこそ、死を語ることは愛を語ることなのである。

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人生会議の可能性


がん治療の現場で、患者や家族が医療チームと相談を繰り返しながら治療や療養の方針を決めていく「Advance Care Planningアドバンスケアプランニング(ACP)」が注目されるようになり、そのことをきっかけとしてACPは、がん治療の現場のみならず、広く医療・介護現場に普及・浸透しつつある。

それは、高齢者が自らの意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ終末期を含めた今後の医療や介護について、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に話し合って考えておき、本人に代わって意思決定をする人も決めておくプロセスを意味している。

このACPについて厚労省が愛称を公募し、昨年11月にその愛称を「人生会議」と決定したことについては、「人生会議は愛を語る場」で紹介しているところだ。

一般市民にもわかりやすい言葉にして、その考え方をさらに普及させるために、ACPを「人生会議」という言葉で表現しなおしたことはとてもよいことだと思う。

人生会議」は不治の病に侵された人にとって必要な話し合いの場と限定して考える必要はない。

高齢者の場合、日常生活に支障はなくとも、何らかの持病を抱えて暮らしている方が多いのだから、主治医師がいる人が多い。そういう人たちが「終活」を意識し始めたときに、同時に「人生会議」という機会をもって、自分自身の終末期の過ごし方を考え始めても良いわけである。

例えばリビングウイルという考え方がある。それは「生前意思」又は「いのちの遺言状」とも表現される行為であり、「自分の命が不治かつ人生の終末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し記しておくことである。

このように延命治療を控えてもらい、苦痛を取り除く緩和治療・緩和ケアに重点を置いた支援に最善を尽くしてもらうための宣言を行うためには、終末期とはどのような状態で、どういう経過が予測されるのかを、できるだけ正確に理解する必要がある。

口からものを食べられなくなって経管栄養を行った場合、自分の身にどのような状況が降りかかってくるのかを、専門的な知識のある人から正確に情報提供を受けて、自ら意志決定するためにも、「人生会議」は貴重な場になるだろう。

そういう意味で「人生会議」とは、終末期の過ごし方について、「自己決定」を促す貴重な場でもある。しかし自己決定とは、単に利用者の意向だけで物事を決定するということではない。それは決定の主人公は自分自身であるということを前提として、専門知識のある医師等が選択できる方法や、選択した結果、その予後がどうなるかなどの予測をかみ砕いて説明した上で、最終的に決定するのが自分であるという意味だ。

その過程で利用者の希望と必要性の相違から生ずる問題についても専門的見地からわかりやすく説明して、理解を求めていくことが必要となる。特に希望と必要性が合致しない大きな要因は、利用者や家族が持つ情報や知識は、医師などの専門家が持つそれとは量も質も大きく異なり、利用者は偏った少ない情報の中から意思決定している例が少なくないという理由によるものなのだから、正確な情報提供が希望と必要性を一致されると言っても過言ではない。

人生会議」によって、終末期をどう過ごしたいのかという希望が必要性と結びつくとしたら、それは人生を豊かに過ごし、QOD※人が生命を持つ個人として尊重され、豊かな暮らしを送ることが出来、やがて安らかに死の瞬間を迎えることが出来るかという意味)を高めることにもつながるのではないだろうか。

このように「人生会議」とは、愛する誰かの人生の最終ステージを見つめ、死を見据えながら愛を語る場である。そこで話し合って決めたられたことは、信頼する人があなたの代わりに治療やケアについて難しい決断をする場合に重要な助けとなるであろう。

そうした「人生会議」がごく当たり前に行われる社会となることが求められているのだと思う。

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一人で旅立ちたいという人の思いも様々


今日僕は、明日の講演に備えて夕方札幌に移動する予定だ。

講演は明日からであるが、午前10時開始のセミナーなので、僕の自宅から当日移動しようとすると、朝7:10東室蘭駅発の特急に乗らねばならないために、家を6時台に出なければならない。それは良いとして、あまり信用できないJR北海道のダイヤが少しでも乱れたら、セミナー開始時間に間に合わないので、雪も降りそうなこの時期には前日移動をするようにしている。

そんなわけで今日は移動日で札幌泊ということで、今晩は明日のセミナーを受講してくれる大学時代の同級生らとプチ前夜祭を行うことにしている。

今回は明日の札幌講演を皮切りにその後、東京〜大阪と7日間の講演の旅が続く。

札幌講演は、日総研出版社が主催する看取り介護セミナーである。札幌会場を皮切りに来年3月まで仙台・東京・名古屋・大阪・岡山・福岡と全国7カ所で行うこのセミナーは、「看取り介護セミナー」と冠しているが、そこでは人生の最終ステージに寄り添う責任を含めて、介護の本質を伝える内容となっているので、本物の介護を共に学びたい方は、是非お近くの会場にぜひお越しいただきたい。

ところで先日、このセミナーをはじめとした看取り介護講演に関連して、ブログ読者の皆さんにアンケートへの投票を呼びかけた。たくさんの皆様に回答していただき、改めてこの場でもお礼を申し上げたい。その結果については、「看取り介護アンケートの結果報告〜ご協力に感謝いたします」で報告しているので参照していただきたい。

その結果について、今日は別角度から考えてみたい。
アンケート結果
アンケートは二つあるがその中の一つ、『自分の最期の瞬間を誰かに看取ってほしいと思いますか?〜介護が必要な人が周囲に支えられていれば、旅立つときに側に誰もいなくとも、それは孤独死ではなく「ひとり死」であるといわれ始めました。あなたは周囲に支えられながら旅立つときに誰かに側にいてほしいですか?』というフォームへの投票結果を見ると、「ひとりで旅立ちたい」と答えている方の数が思った以上に多い。(※上のグラフを参照してください。)

そう考える人がいて当然だし、誰もその考え方を否定できるものではない。「ひとりで旅立ちたい」と考えている人が、「誰にも知られず終りたい。」・「孤独死はさびしいとか言われるがさびしいと思うのは周りの人が言うだけで本人はわからない。人は一人で生まれて一人で死んでいく。だからひっそりと一人で人生を終えたい」とコメントしている気持ちも十分理解できる。最期はひっそりとと考えているのだろう。

遺される人に思いを馳せて「ひとりで旅立ちたい」と答えている人もいるように思える。コメントの中には、「成人した娘が2人いますが心配掛けたく無いです」・「誰にも面倒を掛けたくない」・「苦しむ姿などを、人に見せたくない」など、旅立つ自分のことよりも、残される人に思いを寄せた選択であるかのような意見も見られるからだ。自分の終末期の援助のために、周囲の人に迷惑をかけたくないと考えている人も多いということだろう。

そのほかのコメントを見ても、決して投げやりに選択肢を選んでいるわけではなく、まじめに素直に自分自身だけではなく、遺される家族に思いを寄せていることが伝わるコメントが多かった。そのことに対して「」を感じると言ってしまえば、すごく薄っぺらい言葉になってしまうかもしれないが、それが僕が今感じている本当の思いだ。

このアンケートの前提は、「周囲に支えられながら旅立つとき」という前提だから、一人で旅立った後、自分の遺体が誰にも発見されず長い期間放置されるという心配をしないで答えてくれたものと考える。

そんなこともあってか「ひとりで旅立ちたい」と答えた人のコメントの一つに、「人間は一人で産まれ一人で死んでいくから孤独ではない。孤高死だと言える。生前迷惑がかからないように色々準備して、死んだら後始末をしてくれたら充分。」という意見も見られる。

これは結構大事な視点かもしれない。孤独死とか孤立死と言われる状態で「」を迎えざるを得なかった人の中には、数週間あるいは数カ月、その遺体が誰にも発見されず放置されてしまう場合がある。そのような遺体が発見された際には、特殊清掃が必要となり、その場所はもう誰も住めない状態になることが多い。

それだけではなく、そこに残された様々な遺品も廃棄せざるを得ない場合が多いそうだ。そうなると亡くなられた方が、遺された誰かに伝えたかった思いもその場所で途切れてしまう。自分の思いやエピソードを伝える、命のバトンが途切れてしまうわけである。

そのことも別に何とも思わないという人も多いのかもしれない。しかし逝く人がそうであっても、遺される者も何も感じないとは限らない。どんなに関係が悪化していても、血のつながりのある人が、逝く人に最後にどう思うかは様々だ。遺される者たちに、最期に逝く人の思いを伝える術があれば、それに越したことはないように思う。

そんな意味でもエンディングノートは、良いツールなのかもしれない。

明日からの看取り介護セミナーを前にして、今日は徒然と思いつくままのことを文字にした。その分、まとまりのない雑文になってしまった感がある。そんな文章に、お付き合いいただいた皆様に感謝である。

週末、札幌・東京・大阪でお会いする皆さんには、引き続き熱い思いと、最新の情報を伝えるつもりなので、会場でともに学びあいましょう。それではよろしくお願いします。

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アドバンス・ケア・プランニングの基盤となるケアマネの役割り


敬老の日を前に厚生労働省は14日、全国の100歳以上の高齢者(15日時点)が昨年より2014人多い6万9785人に上ると公表した。このうち女性が88.1%を占めているそうである。

都道府県別では、島根が6年連続で最多の101.02人で、鳥取の97.88人、高知の96.50人が続く。一方、埼玉は32.90人で29年連続の最少となり、次いで愛知36.78人、千葉39.34人の順となっているそうだ。

島根と鳥取に長寿高齢者が多いのは、神の国出雲のご利益だろうか・・・。

かつて「人間50年」と言われたわが国では、長生きすることが人生の最大目標とされていたことがある。その目標は達成されたわけではあるが、一方わが国では意思疎通ができない状態で、医療器具をつけたままで、ずっとベッドに横たわる高齢者の数も多い。

北大病院の医師である、宮本顕二氏と宮本礼子氏ご夫妻は、その共著本「欧米に寝たきり老人はいない〜自分で決める人生最後の医療より 」(中央公論新社)の中で、ある療養型病床の日常風景を次のように記述している、

「病床の約7割の方が経管栄養か中心静脈栄養でその半数の方が、痰がつまらないように気管切開され、チューブが入っている。それらの患者さんに看護師が数時間おきに気管チューブから痰の吸引を行っているのであるが、吸引のたびに苦しむ患者の姿がそこにある。意識がない患者でも体を震わせて苦しむ姿がある。」

経管栄養が不必要だとか、悪者であるという論理は乱暴すぎるが。経管栄養が必要な人もおられる。しかし決して対象者のQOLを高めない状況が、本人の意思とは関係なく、延命のみを目的として経管栄養にしているケースによって生じている現状があることも事実だ。長寿国ニッポンの一面が、「悲惨なる延命」で支えられているとすれば、これは悲劇でしかない。

そうした状況を少しでも改善するための意識は高まっていると思える。例えば医療現場では、最期の迎え方を患者本人と家族、医師らが継続的に話し合う「アドバンス・ケア・プランニング」(ACP)の取り組みが進んでいる。

また政権与党である自民党は、終末期医療のあり方を規定した新法作成の検討に入っているが、そこではACPの考え方を盛り込み、患者の意思決定のあり方の透明化を医療現場に促す内容にしようと模索されている。

どちらにしても、今後の終末期医療の在り方を考える延長線上に、終末期を経管栄養によって伸ばす是非も含まれてくるだろう。その時に一番重要な点は、「患者本人の意思決定とその確認」であることは間違いない。

しかし終末期になった後に、その人の意思を確認することは難しくなる。よって意思決定ができ、その意志を表明することができる時期から、自分はどうしたいのか、どのような支援を受けたいのかということを確認するために、一人一人の国民がリビングウイルを宣言しておくことが求められるのだ。

そのことを実現する支援者も必要になる。しかしリビングウイルの宣言に関わる支援も、宣言する本院が終末期になってからでは困難となるのである。

そうすると終末期医療に関わるチームのうち、誰がリビングウイルの宣言のための支援を行うことができるだろうかと考えたときに、介護支援専門員は、利用者が終末期になる前から支援担当者として関わっている場合が多いことに注目してよいのではないかと考えている。

病状が悪化する前、意思確認ができる状態の時期から関わりを持っている介護支援専門員だからこそ可能となることがある。それがリビングウイルの宣言のための支援であり、そのことの役割をもっと意識した活動が、介護支援専門員には求められるのではないだろうか。

このことは介護支援専門員の皆さんに強く訴えていきたいと思う。近直の介護支援専門員の団体に向けた講演は福島県いわき市で予定されている。(参照:masaの講演予定

3.11以降、僕は福島県に何度かお邪魔して講演させて講演させてもらっているが、10月13日(土)・14:00〜16:00、いわき市文化センター(福島県いわき市)で行われる、「福島県介護支援専門員協会主催公開講演会」で、「看取り介護を通して考える〜生きるを支える〜」をテーマに120分お話しさせていただく予定がある。

その際には、今日ここで書いた内容を含めた話をしてきたいと思う。福島県の皆さん、よろしくお願いします。

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