masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

高齢者虐待

知らぬ間に・悪気なく、介護の場にはびこる感覚麻痺による虐待


「高齢者虐待」とは、暴力的な行為(身体的虐待・性的虐待)だけではなく、暴言や無視、いやがらせなどの心理的虐待や、必要な介護サービスの利用をさせない、世話をしないなどの行為(介護・世話の放棄・放任)や、勝手に高齢者の資産を使ってしまうなどの行為(経済的虐待)が含まれる。

自分はそのような行為とは無縁だと思っている人の中にも、知らず知らずのうちに世間の常識とは乖離した「非常識な目線」からしか、介護サービスを利用する人を見れなくなってしまう人がいる。その中には、明らかな虐待行為に及んでいるにも関わらず、罪の意識を全く持てない人や、そもそも自分は虐待などしていないと思い込んでいる人も多い。しかしそこで行われている行為は、常識をはるかに超えたひどい行為であったりする。

下半身を裸にした利用者をベッドの上で四つん這いにさせ、頭におむつをターバンのように巻き付けている姿を、「かわいい」と言いながら写真を撮り、職員間でメールで回し見て笑っていた老健施設では、そうした行為に至るきっかけは、認知症の女性利用者が便器に座って排泄している姿を写真に撮って回し見た行為がきっかけであった。

そうした不適切行為が明らかになった後に、介護職員に聞き取り調査をしたところ「親しみを込めてやった。かわいかったから」という答えが複数返ってきた。親しみを込めて人の心を殺すことが許されるというのだろうか・・・。そもそもそこで行われていることは、親しい人に行う行為とは言い難い。彼らはなぜ自分が狂っていることに気が付かないのだろうか。

介護職員が利用者に暴言を繰り返し、「馬鹿、クルクルパー」という罵声を浴びせる姿が隠し撮られ、その動画が報道機関に送られたことがきっかけで虐待問題が発覚した特養では、最初からそうした暴言が飛び交っていたわけではなく、ある日、一人の職員が利用者を「さん付け」で呼ばずに、「ちゃん付け」で呼ぶようになったことがきっかけとなったそうである。そこではいつの間にか、利用者をニックネームで呼ぶようになり、利用者に向かって、「お前」と呼ぶ職員さえ現れるようになった。

管理職がその状態に気づかなわけがないと思うのだが、その状態は放置され、いつの間にか利用者の目の前で仁王立ちして、「100歳にもなって、そんなこともわからないのか、阿呆!!」と怒鳴る職員が現れたりしている。隠し撮りの映像は、その状態をつぶさに映し出しているが、そこに映っている職員は、自らの醜いその姿を、自分の家族に見せることができるのだろうか。

4人部屋のベッドをすべて撤去し、認知症の人を、男女の区別なく6人雑居させていた特養では、その部屋で認知症の男性が、隣の布団で寝ていた女性の首を絞めて殺してしまった。その理由は今もってわかっていないが、その部屋では他人同士の男女が雑居させられ、仕切りのないポータブルトイレで排泄させられていた。認知症の人で記憶障害があったとしても、「嫌だ」とか「恥ずかしい」という感情は最後まで残っている。そこで恥ずかしい状態を放置され、意味も解らず首を絞められて殺されていった女性の人生は悲劇そのものである。あまりに可哀そうでならない。

しかし感覚麻痺とは恐ろしいものであることが、この施設の事件は証明している。当初この施設では、4人部屋をそのように不適切利用することに対し、異議を唱える声も出ていたそうである。ところが、権力のある声の大きな職員の主張で、認知症で転倒の恐れがある利用者を、そのような部屋に押し込める状態が数週間続くと、「それはおかしい。」という声はいつの間にかなくなり、認知症で徘徊がある人が入所するたびに、その部屋を利用すべきではないかという提案がされたりしている。しかもそう提案しているのは、過去にその部屋の存在に疑問を呈した職員その人であったりするのだ。

こんな風に、日常は何気なくゆがみ、何気なく壊されていく。普通はいつの間にか奪われ、常識の通用しない密室空間が作られていく。これはとても恐ろしいことだ。だからこそ世間の常識と照らして、我が施設・わが事業所の常識はゆがんでいないのかを常に検証する意識が必要だ。

行事の度に、利用者の頭の上に用事がかぶるのと見まごう帽子をかぶせて喜んでいる施設職員の心は、いつねじ曲がっていったのだろう。

クリスマスパーティーの度に、大人である高齢者が、サンタクロースの格好をさせられたり、サンタの帽子をかぶって自宅で唄うとでもいうのだろうか。それが施設の常識であるとしたら、その感覚も完全に麻痺しているとしか言いようがない。

尊厳とか権利と言いながら、そこで決定される判断基準が、そこに存在する小権力者の価値観が唯一のものであるとすれば、それはいつ歪んでもおかしくはない。だからこそ情報は常に公開され、世間の声が風通し良く入ってくる空間を常に意識して作っていかねばならない。職員間で「それって普通だと思いますか」という声の掛け合いが大切である。

云う・云われる、という関係性を大事にしないと、人間の「」は、云うという字が消えて、鬼になってしまうことを忘れてはならない。
魂

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介護ストレスが虐待を生むなどと言う言い訳を許すな


介護ストレスが利用者虐待の理由にされることについて、僕自身は納得がいかない。

過去に引き起こされた介護事業者における虐待事例では、その原因が介護ストレスであるかのような解説がされたり、加害者自らが介護ストレスによって虐待行為に及んだとコメントする姿が見られたりしている。

馬鹿を言うなと言いたい。介護を職業として選択するということは、介護サービスのプロとして利用者に関わるという意味だ。そこで生じたストレスを理由にして、顧客である利用者に対して虐待行為に及ぶというのは、対人援助に携わるスキルがないという意味だ。そうした人間は、介護という職業に向いていないという意味である。昨日の記事で言えば、その際の虐待要因は、「1.もともと対人援助に向いていない人によって行われる悪意がある行為」というふうに分類すべきである。

ストレスの全くない職業など存在しない。介護という職業だけがストレスと向き合っているわけではなく、職業人であれば、プロとして仕事上のストレスと向き合って、それを乗り越える努力をすべきであり、短絡的にストレスのはけ口を利用者虐待という行為で発散しようとする人間は、どこかが壊れているとしか言いようがない。

それは異常なことであり、本来それは理由として成立しないと考えるのが正常感覚である。

介護のストレスが虐待行為に直接結びつくという論調が正論化すれば、介護という職業が他の職業に比してストレスが異常に多いと思われて、そのストレスのはけ口が利用者虐待に結びつくのも仕方ないと考える風潮が生まれる危険性さえある。そのことのほうが恐ろしいと思う。

大多数の職員は、様々なストレスを抱えながらも、自らの感情をコントロールして、献身的な看護や介護を行っているのである。それはある意味、当然のことではあるが、虐待事件が起きることによって、介護サービスを十把一絡げにして、多かれ少なかれ職員が暴力行為を行っていると見られることは看過できない。

事件として表に出たような許されない行為以外にも、そうした行為が隠されているという意味では、それが氷山の一角といわれることも仕方ないのかもしれないが、そうした氷山とは無縁の介護サービス事業者の方が多数派なのである。マジョリティーは、暴力と無縁の職員であるという事実が存在するのだから、医療や介護の現場で、どうしてこのような虐待行為が発生し、場合によっては繰り返されるのかということを、様々な角度から検証して、少しでもそうした行為の芽を摘む方法を考えていくべきではないだろうか。ストレスという一言で片づけられてよい問題ではないのである。

我々は評論家ではないのだから、「ほかでもやってるのだろう。」とか、「氷山の一角だね。」という感想のみで終わるのではなく、改善の手立てを考える人でなければならないのだ。

そうした内容をメインにしているのが、介護の誇り出版記念セミナー、『感覚麻痺・不適切ケアの芽を摘む 介護施設・事業所で虐待を発生させない、介護サービス質向上の具体策〜ホスピタリティーファーストの考え方。』である。

その中で、「介護サービス従事者のストレス管理」という内容が含まれている意味は、ストレスが介護に直結するという意味ではなく、このセミナーの一番のテーマが、「介護サービスの質向上の具体策」であるからだ。虐待防止は、そのテーマを実現する一方策でしかなく、そのこと自体がメインテーマではない。それとは別個の問題としてメンタルヘルスケアを取り上げているのだ。

高品質なサービスは、サービス提供者の献身とボランティアリズムで成り立ちのではないし、従業者の犠牲の上に成り立つものでもない。そうであるがゆえに、サービスを提供する従業者の働く環境をも整えて、できる限りストレスのない状態で、肉体的にも精神的にも健康に働いてもらうことが高品質サービスを提供する重要な要素にもなる。

対人援助とは、人に向かい合うがゆえに、利用者の感情に巻き込まれやすいという特徴がある。人は人を見つめすぎると間違ってしまう。見つめた人の、いいものも、悪いものも自分に感染って(うつって)しまうからだ。その時冷静なもう一人の自分をきちんと意識して関わって行くことができるかどうかが対人援助サービスに関わる人々に問われてくる。

そういう意味で、ストレス管理も対人援助サービスの品質をあっるするための大事な要素だ。よってこのセミナーの後半部分に、ストレス管理という内容も含んでいることをご理解いただきたい。

日総研出版社主催・「介護の誇り」出版記念セミナー・感覚麻痺・不適切ケアの芽を摘む!〜介護保険施設・事業所で虐待を発生させない〜介護サービス質向上の具体策の詳細と申し込みはこちらからダウンロードしてください。
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家族の面会を拒否する権利が施設にあるのか?


神奈川・三浦市の特養に入所していた85歳の男性が、肋骨や尾骨の骨折や顔のあざなどを負う虐待を受けた疑いが浮上し、容疑者不詳のまま刑事告訴するとともに、法人および介護担当の男性介護福祉士を相手取って慰謝料など計約1,680万円の損害賠償を求める民事訴訟を横浜地地方裁判所横須賀支部に提訴した。

この件に関する報道記事をリンク先からご覧いただきたいが、リンク先の記事が消える可能性があるので、要旨を抜粋させていただく。
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訴えを起こした男性は、昨年11/24の施設入所。12/24に右目の腫れや左腰打撲のけがをしたということで、ホーム側から家族に「男性が転倒したのでこれから医師に診せる。骨折などはないが、身体中に痛みがあり、車いす生活になるかもしれない。ただしベッドからの転落は今回なかった」といった主旨の電話連絡をしたとされる。そのご医師の往診をうけてホーム生活に戻り、同30日に家族側が男性への面会に訪れようとしたが、「男性の状態が悪い」との理由で会うことを拒否されたという。

今年1月1日になって再び家族が面会に訪れると、車いすに乗ってホーム職員に連れられてきた男性利用者は、両目まぶたや頬・手にあざが出来ていた。男性の状況に驚いた家族側が救急車を呼び、別の病院に緊急搬送。搬送先の別病院による診断では、新たに左右の肋骨計7本の骨折と尾骨骨折、さらに両目・後頭部・腹・背中などが皮下出血していることも確認された。

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そのほか記録の改ざんが疑われる内容などが記事に書かれているが、怪我の程度や部位を考えると、単なるt転倒であるとは考えにくく、暴力的行為が行われていた可能性が高い。しかし被害者である元入所男性は軽度の認知症もあるそうだから、何が起こったかという真実は明らかにされない恐れもある。

しかしそうであったとしても、この施設が不適切運営を行っていることは明らかだ。感染症の発症などの正当な理由もなく、家族の面会を拒否しているからだ。この一点をもってして糾弾されてよいものだ。

恐らく怪我をさせていた事実を覆い隠そうとして、面会拒否につながったものであろうが、生活施設において本人の拒否がない限り、それ相応の正当な理由なく家族の面会を拒むことはできないはずである。「男性の状態が悪い。」との理由は、正当な理由に当たらず、状態が悪いなら、その状態を確認していただくのが、本来必要な対応である。

過去にも面会を拒否するケースについて批判記事を書いたことがある。例えば2006年に指定取り消しになった札幌のグループホームのケースについて、『介護サービスの「割れ窓理論」再び』で論評したが、このグループホームでは、日常的に家族の面会拒否が行われていたことが後に明らかになった。ホーム側の言い分は、「会うと自宅に帰りたくなる。」というものであった。まったくひどい理由だ。このグループホームでは面会を断られ続け、一度も会えないまま、やせ細って入所〜2月に入院したとの連絡を受けたというケースも報告されている。

面会を拒むというホームには、隠したい何かがあると考えてよいだろう。そんな施設やサービス事業所に、大事な家族を任せてはならない。

そもそもこれからの介護経営リスクマネジメントには、組織力の強化が欠かせないが、その組織力とは、組織内部で行われたことを包み隠す力ではなく、すべてを公にして恥じない状態を作り出す組織力である。組織にとって不都合な状態が生じた場合も、その情報を公開して、改善するという自浄作用を高める組織力である。

これからの時代のコンプライアンスとは法令の遵守を含めた「社会的要請」へ応えることである。法令に違反しているのか、いないのか、のみを基準として画一的に考えるのではなく、介護サービス事業者に社会が期待していることに応えられるように事業運営することが生き残っていく事業者につながる。

そのためには法令に精通した管理部門が内部監査等を含めて違法性をチェックするとともに、サービスの質を管理する必要がある。そうした安全と安心の担保がない事業者は、介護給付費が削減される波の中で、利用者の選択肢が広がり、選ばれて使ってもらえる事業者しか生き残れない時代に、消滅の危機に瀕していくだろう。

事業者のビジョンに反する行為や疑いが生じた場合は見過ごさずに素早く対応し、発生した問題とそれに関連する事実を全面的に把握し、その原因を究明して再発予防の是正措置をとるという治療的コンプライアンスの視点がない事業者は、生き残ることができない事業者になっていくのだ。不適切サービスを密室化させる事業者からは、利用者だけではなく、従業者も消えていなくなっていくだろう。

そうならないために、対人援助サービスの使命を感じ、介護業務にプロとしての誇りをもって従事する人材を育てていく必要がある。

10月から全国7ケ所を廻るセミナーが、その一助になれば幸いである。
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全国老施協も竹内理論を否定か。


介護とは、人と向い合って、向かい合う人に心をかけて護る行為である。心にかけるということは、向かい合う人に関心を持ち、表情を注視し、喜怒哀楽という心の動きに敏感になることである。

そのことに心がける限り、介護の評価は決して難しくない。利用者の表情や感情として表れるものが、介護の結果評価なのだからである。

間違ってはいけないことは、利用者の気もちより、我々が定めた目標の達成度の評価が優先されるものではないということだ。評価は多角的におこなわれることも大事なので、我々の理念の達成度を、目標を掲げて、その達成度で評価することがあっても良いが、それは利用者の心持ち・気持ちを無視して、そちらを優先して評価されるべきものではない。

そもそも事業者目標など、場合によっては事業者の価値観や都合の押し付けなのかもしれないという考え方は常に必要で、闇の迷路に陥らないためにも、利用者の感情や表情に敏感になるという視点は忘れてはならないのである。利用者の気持ちに謙虚に応えようとする姿勢を失った介護者は、傲慢な指示者にしか過ぎなくなる。それは傍から見れば極めて醜い存在である。

しかし闇に迷い込んだごとく、傲慢な介護をしているのが竹内理論実践施設である。3年前にその批判記事を買いあたが、そこに先日もコメントが寄せられている。

そのコメントをここに転記する。

私の施設でも取り組みをした結果が。今まで、聞いたことない病名「低ナトリウム血症」などで沢山の利用者様が入院やお亡くなりされました。 しかし、現在でも信者が多数いるために、「竹内理論を取り入れて良かった」と言っている無能者がいます。 朝起きてから、寝るまで、正確には寝ていても夜中おこしてまで水分地獄。。「先生は最大でも3000mlは飲水してもよい」 「飲めば飲むだけよい・・・」「利尿剤は介護者なら、床に落としたと言って捨てなさい 何故なら乾いたぞうきんを絞るのと同じだから・・」 もうウンザリです。
何故に、殺人理論を行わなければいけないのか。施設全体で行っているから「裏切者」と呼ばれるから反対意見は出せないし(生活のあるので) 研修では嘘の事例を提出しています。多分、殆どの施設が・・理由:水分や利用者様の状態が良い方向に向かってないと研修生の全員からの攻撃、良くできている施設には褒めたたえる。よって嘘の事例を提出=竹内理論は正しいの方程式が出来ています。そろそろ、この悪行に終止符を・・・心からの叫びです。 皆さんの施設や私の施設が早く目を覚ますのを願っています。


こんなひどい状態を、いつまで放置するつもりだろう。利用者はいつまで心を殺し続けられるのだろう。

しかしこの理論を普及させようとして、「介護力向上講習」を主催していた全国老施協は、この講習を実施しなくなった。現在それは、都道府県の老施協レベルが開催しているに過ぎない。

さらに全国老施協は、12/5付で塩崎厚労大臣に充てた発出文書の中で、次のような指摘をしている。

・特養で利用者の意に反して栄養を投与し、リハビリを重ね、歩行器で歩かせることを強いるような「QOLの向上を伴わないADL回復の目的化」が促進されるリスクが強く危惧される。

・事実上要介護度改善の義務化を課すことは、もはや虐待と言っても過言ではない。

↑これはまさに竹内理論実践施設で行っているケアと呼ばれるものが、虐待と同じであると指摘しているのと同じ意味だ。

以前にも書いたが、竹内理論の実践施設の職員の方々が、その方法論の問題点を次のようにコメントしてくれている。

・座位がまともにとれない方であってもポータブルトイレへ極力誘導させられ、無理やり座らされて苦痛にゆがんだ表情は無視されます。
・歩行訓練になるともっと悲惨で、片麻痺・拘縮のある方を3人、4人がかりで歩行器で引きずるのを歩行訓練と称してます。 しかもそれは家族には見せません。
・スプーン1口のゼリーですら、首を横に振って涙目になられ 浮腫で全身腫れあがっている利用者様に、どうしても無理強いする事が出来ず・・いつもユニットリーダーから叱られます。「水分摂取表」に、いつも当然のように「全量」と書き込む先輩介護福祉士の水分摂取介助の方法とは、「密室の中で、スプーン2本を使って無理やり口を抉じ開けていました・・・。」(無理やり口を開けさせられ水分摂取させられていた)利用者の、開いた唇の奥に異変を感じました。「少し、もう少し口を開いて頂けますか?」自分が大きく口を開けて、同じようにして頂くようお願いしたら・・・・舌の裏。血豆だらけでした。(涙が出ました)早出だったユニットリーダーに報告しても「そう。」とだけしか返事はなく。



竹内理論を実践している施設の利用者の家族からは、次のような悲痛なコメントが寄せられている。

・本人が水分を1.500ml飲めないと職員が朝礼等で上司から叱られる為、父にお茶ゼリーを毎食事、口の中に流し込まれ、父は泣きながらそれを飲み込んでいました。就寝前や就寝中も水分補給と称して起こされては水分補給されている父がかわいそうでした。

全国老施協の提言書は、利用者の表情も、QOLも無視して、水分を強制摂取させ、補器器につかまらせて3人がかりで引きずるように歩かせることを強制する竹内理論による介護を「QOLの向上を伴わないADL回復の目的化」と断罪しているといえよう。

竹内理論の実践施設の施設長も、そろそろ目を覚まさんかい。
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隠し撮りカメラを恐れないケアづくり


三重県四日市市の特養で、利用者虐待が発覚した。

要介護度5で寝たきりだった母親の体にあざができていることに気づいた息子さんが、部屋にカメラをセットして職員が介護している様子を隠しどった映像には、50代の女性職員が夜勤勤務中に、1人部屋に入所する被害女性に対し、「早く死んだらいいのに」などと言いながらほおを平手で打ったり、枕で顔をたたいたり、枕カバーで顔を覆うなどの行為が映し出されていたという。

加害者は、施設の内部調査に対し、「魔が差した。ストレスが重なって、ついやってしまった。」と語っているというが、ストレスが行為の理由にされること自体に納得がいかない。そもそもストレスの全くない職業など存在しないし、介護の職業にストレスを持ったとしても、そのはけ口が物言えぬ利用者に向けられること自体が異常なことであり、本来それは理由として成立しないと考えるのが正常感覚である。

こうした報道から、介護という職業が、他の職業に比してストレスが異常に多いと思われて、そのストレスのはけ口が利用者虐待に結びつくのも仕方ないと考える風潮が生まれることのほうが恐ろしいと思う。

その恐ろしさに気が付かず、虐待も仕方ないと考えるような人は、即刻介護の職業の場から去っていただきたい。全産業で人手不足感があるのだから、そのような考え方の人が介護の場に固執する必要はなく、人が相手ではない商売の鞍替えすべきであり、そのことが世のため人のため、自分のためである。

介護の仕事とは重労働であることは間違いないが、正常の感覚の持ち主ならば、その中に人の幸せにかかわることができるるという誇りを感じ、人の笑顔を引き出すことに喜びを見出し、モチベーションが上がる職業だ。

そういう職業であるということを伝えるのが管理者の役割であり、そのための学びの場を創りだす責任と義務も管理業務の中に含まれているのだ。そういう当然のことをしないでおいて、数合わせの採用を繰り返すことが、虐待につながる感覚麻痺を生み、モチベーションとスキルの高い職員のバーンアウトを助長するのである。

人手不足の時代だからこそ、職員採用はより慎重に行い、向かない人には直接介護業務を行わせず、折を見て肩たたきがあってしかるべきと考えつつ、内部の教育体制をシッカリと構築する介護サービス経営が求めあっれるのである。

その中で心しておかねばならないことは、今回の虐待発覚のきっかけになった、家族による隠し撮りは確実に増えるということだ。振り返れば、昨年のアミーユ川崎幸町の暴言虐待も、家族の隠し撮り映像が確たる証拠となって存在しているし、過去にも何度か隠し撮りで虐待が発覚したケースがある。

スマートフォンや、デジカメが普及して性能もどんどん良くなっている今日、こうした機器を利用して、自分の家族が日ごろ、見えない場所でどんな介護を受けているのかを確認したいと思うのは人情であり、もっともなことだ。

それは虐待が疑われるケースのみならず、単なる確認という意味でも隠し撮られる可能性はないとも言えない。

僕たちはその様な映像を家族が撮って確認したいと考えることも受容して、むしろそのことは当然であると考えて、家族が隠し撮りをすることで安心できるならそれはそれでよいだろうと考えて、常に自分の職場での姿を撮影されても恥ずかしくない仕事をすればよいだけのことである。

僕は今年の3月まで特養の総合施設長という立場であったために、そこでは常に職場全体への教育的指導を行う立場であったが、その際には、「仕事をするときには、常に自らの心の中にカメラを取り付けて、心のビデオに自分を映して振り返って恥ずかしくない仕事をすべし」と指導していた。

今回の虐待の現場となった四日市市は、再来週僕が「本音の介護〜現状とこれから」というテーマで講演を行う場所である。
四日市トークバトル
上の画像は、その際のチラシであるが、たまたまその場所で、このような虐待事案が発覚した。10/16に四日市商工会議所ホールでお話しする際には、本音でこうしたことを繰り返さない介護を語らねばならないだろう。

介護の仕事は、直接介護の仕事であればあるほど、利用者と1対1の場面が生まれ、そこではどんなに若くて経験がない職員であろうと、自分の心ひとつで何事も蹴ってできるという場面が生まれる。神のごとく、悪魔のごとく、一人の判断で決定できるのが介護の仕事の一面でもある。

そのことの重大さを知りなさい。神のごとく決められることの恐ろしさを知りなさい。天使にも悪魔にもなれることを恐れ、謙虚になりなさい。

そんなメッセージが伝われば幸いである。
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水分強制摂取の実践施設は情報公開を


介護力向上講習と水分の強制的補給法に対する批判的な記事を書くと、必ずといってよいほど、「それは講習自体が悪いのではなく、講習を受けた当事者の伝え方が悪いのだ」という言い訳が聞こえてくる。

しかし僕に直接メールを送ってくれる人で、水分の強制補給がいかに人権を無視した方法で行われているのかという情報を教えてくれる人たちの中には、老施協の役員が施設長である施設の職員も居られる。全国老施協から、「おむつゼロ」を達成したとして表彰されている施設の職員も居られる。そうであれば、老施協の役員や委員を勤めている人自身の講習での理解と、職員への伝え方が悪いのだということになる。そうであるなら老施協の役員会なり、研修委員会でもっとそのことを問題視して、改善の議論をしろといいたい。

事実として言えば、僕がこの問題を取り上げる講演では、必ずその地域に、同じような不適切な水分補給を行っている施設が存在するという話しを聞かされる。中には自分の所属施設で僕が指摘する不適切な水分補給を行っていると告白する人も居り、「恥ずかしいことですが、その方法が間違っていると分かっていても、上からの圧力でやめることができないのです」と嘆く方も居られる。

しかしそこには、被害者としての利用者が存在するわけだから、放置してよいわけがない。だからその状態を厳しく糾弾する誰かがいなければならず、何の得にもならないが、その役割を自らになっているのである。

日本中で、決して少なくない数の施設が介護力向上講習の影響により、不適切な水分補給を行っている実態があるのだ。それは受講者側の問題ではなく、伝える側の問題であるというしかないわけで、それが本意でないとしたら、よほど伝える能力が無い人が指導しているとしか思えない。それはそれで別な意味で大問題だ。

ところで僕の批判に対して、ある人は次のような反論をしてきている。

無理やり水分摂取、無理やり座位、無理やり経口みたいなコメントが多いですが すべて、手順があります。1500cc飲めない方には原因があります。』

どんな手順があったとしても、どのような原因があったとしても、個別アセスメントもせずに、全員一律の水分1.500ml/日を、「施設の方針」として強制補給してよい理由にはならない。そもそもそのようは方法で人の暮らしが好くなるというエビデンスは存在しない。そういう方法を行うこと自体が大問題であり、不適切であり、手順がどうだとか、理由が何であるかなどという意味のないことを主張しても始まらないわけである。

しかしこのような反論を書いてくる人も、文章の末尾に次のような本音をボロッと書き込んでしまうのである。

竹内先生が怖いから、早く結果を出そうとして、そういう現象が出るのかもしれません。』

恐怖で支配している講習会ということか・・・。そりゃあ洗脳といわれても仕方がないだろう。

どちらにしても、水分の強制補給を行っている施設のトップは、その実態が不適切なものでないかを、きちんと把握して、情報公開を行うべきである。

公開すべき情報とは、以下の通りである。

・1.500ml/日もの水分補給を行うことについて、きちんと利用者や家族に同意を得ているのか、それは施設サービス計画に載せられているのか。
《※基準省令の(基本方針)第一条の二では、指定介護老人福祉施設は、施設サービス計画に基づき〜以下略とされているので、このような重要なケアの方針を計画同意なしで行うのは、運営基準違反である。》

・水分補給の方法は、ケアとして適切な方法であるのか。利用者が水分摂取を拒否した際には、どのような対応をとっているのか。

・人権を無視した対応が行われていないのか。

・大量の水分摂取による健康被害がないことを、どのような方法で確認しているのか。


最低限、これらのことを情報提供する姿勢がない限り、1.500ml/日もの尋常ではない量の水分摂取を命じている施設のトップとして、世間様に対して道義上の責任を果たしているということにはならないだろう。

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洗脳介護の実態


対人援助サービスは、特定個人の「暮らし」に深く関わるのだから、結果を出さなければ意味が無いと思っている。

結果を出すために、日々学ぶ必要はあるし、実践する過程で頑張る必要はあるが、頑張ったという過程だけで満足してはならず、必ず結果を追い求めなければならないと思う。

その結果とは何かといえば、僕たちがかかわりを持ち、何らかの形で暮らしに介入している人達の暮らしぶりが少しでも良くなっていることであり、僕たちが関わっている人が満足されて日々暮らしを送ることができていることだと思う。

仮に僕たちが掲げた目標が達せられていたとしても、関わっている人の暮らし振りが良くならず、満足していないのなら失敗だと思う。その場合は、目標の設定自体が間違っているという意味だ。

目に見えない「こころ」を持つ人間に関わる職業であるのだから、サービスを利用する人の感情を無視して物事を評価してはならず、僕たちが良かれと思っていることであっても、その結果が「だめだ、満足していない」といわれてしまえば失敗なのである。

だがその結果を判断することは意外と簡単である。人に関わる仕事なのだから、そこには関わる人の表情があるからだ。認知症等の理由で、意思表示ができない人であっても、表情で満足度を図ることができるからだ。

しかしながら、そのような考えとは対極に位置する、利用者の満足度を無視した実践を行う介護施設が存在する。そういう実践を指導する職能団体が存在する。

利用者の表情を無視して、利用者の感情を脇において、自分たちの掲げた目的が達成されているかということだけを見ているのが、全国老施協の「介護力向上講習」である。
(※ただしこの講習会は、昨年度から全国レベルでは実施せず、都道府県の老施協レベルでの実施となっている)

そこでは「竹内理論」と呼ばれるエビデンスの無い方法論を、唯一絶対の根拠として受講者に押し付け、介護施設の利用者全員一律に、個別アセスメントの無い1500ml/日以上の水分補給を強制的に行う指導がされている。そして強制水分補給を行う際の、利用者の苦痛にゆがんだ表情は無視される。

そうした方法で実現できるとされる目標とは、「日中おむつゼロ」というものにしか過ぎない。しかも全国老施協基準の「おむつゼロ」とは、すべての人が日中トイレで排泄しているわけではなく、尿取りパットを使って、そこに失禁している状態もありという、なんともお寒い「オムツゼロ」である。

その程度の目標を達成させるために、竹内理論の実践施設では、利用者が毎日毎日苦しさを無視されながら飲みたくもない水分を強制的に飲まされている。

人の尊厳を無視した強制介護を行うに当たって、そのことに疑問を持たないように介護施設の施設長と介護リーダーを集め、順位付けで競わせ、反論を怒号でつぶす講習会は、さながら洗脳セミナーであると語る人も多い。

利用者の意思など関係のないところで、ともかく決められた量を飲ませさえすればよいという何でもありの水分摂取や、多人数で引きずるような人格無視の歩行訓練を強制し、座位姿勢のアセスメント抜きの便座への強制座位を取らせて、苦痛にゆがむ表情を無視して、排泄をさせることにどんな暮らしの質があるというのだろう。

竹内理論の実施施設の職員からも、悲惨な状態がコメントとして寄せられている。密室の中で強制水分補給が行われている実態が、血豆だらけの口腔状態を作り出している事実を知ってほしい。

しかしながら、実際に竹内理論に基づいて、強制的な水分摂取を行っている施設のトップである施設長は、決められた水分が摂取され、全国老施協基準の「お寒いオムツゼロ」さえ達成していれば満足し、その施設の中で、利用者がゆがんだ表情でいることを知ろうとしない。利用者が昼夜の別なく様々な強制的方法で、水分を身体に突っ込まれている状態を知ろうともしない。

恥を知れといいたい。

全国レベルで実施しなくなった介護力向上講習会は、都道府県の老施協レベルで行われているが、県レベルで手を引いたところもある。残念ながら北海道老施協は、この悪魔の講習会を続けている。

北海道老施協とその役員たちよ、恥を知れ。研修委員よ、恥を知れ。(明日書く予定の記事:洗脳介護からの解放に続く)

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糸を縒(よ)り、紡(つむ)ぎなおすくソーシャルワーク


高齢者介護の仕事をしていると、時々家庭内の虐待行為と思しき状況に出くわすことがある。

家族に虐待を受けていると思われる状況が、高齢者の身体に現れていることが多いが、行為を目撃したわけでもなく、高齢者自身も正確な状況を訴えられない場合、それは想像の域を超えることはない。

しかしそうした状況を放置できるわけもなく、我々は様々な方法で、家庭内にも踏み込んでアプローチして状況改善に努めることとなる。

時としてそうした場合、緊急避難として、介護施設のショートステイを利用したり、場合によっては行政職員の介入を依頼して、特用への措置入所へとつなげたりする場合がある。

今年の3月まで、僕は特養の施設長を務めていたため、こうしたケースの受け入れ施設という立場にあったわけである。

こうしたケースの場合、介入した行政職員は、措置入所を行った時点でその役割を終え、ケースも終了とすることになる。

虐待を発見・通報した関係者も、虐待を受けていると疑われた高齢者が施設入所して、家族による虐待が行われる環境ではなくなった時点で、問題解決として関わりを終えることが多い。

しかし虐待を受けていた高齢者を受け入れる側の施設は、ここからがこうしたケースの支援開始である。それは単に、措置入所した方に施設サービスを提供するという意味にとどまらず、虐待を受けていたと疑われる高齢者と、虐待行為に及んでいたとされる家族の関係を再構築するという意味を含んでいる。

そこで必要とされるのはソーシャルワークの視点であり、施設の相談援助職は、施設内で利用者の暮らしを構築するだけではなく、いったん壊れかけた家族関係の再構築という視点から、家族全体に介入していくという考え方が求められる。

虐待という行為自体は、いかなる理由があっても許されるものではない。しかしソーシャルワーカーは、裁判官ではなく支援者である。その罪を糾弾するのではなく、そこに至った様々な事情を慮(おもんばか)り、行為として許されざる部分はしっかり認識した上で、そうした行為に至った人の事情も受け入れ、再びそのような行為に至ることがないような心の支えになるとともに、虐待行為を行った当事者と、虐待を受けた本人との関係修復に努める必要がある。

誰しも、理由なく身内を傷つけたいと思っている人はいないはずだ。自分の家族に暴力を振るったり、暴言を投げつけたり、必要な介護を放棄するに至る理由は様々であり、そこに至るまでに虐待行為を行う人自身にも、強い心の葛藤が生まれているケースは少なくはない。特に虐待を受けていた人が認知症である場合は、認知症の人の言動に強いストレスを感じていたことが原因であることが多い。

認知症は、そのひとの人格とは別なんだから、家族がそれを理由にストレスを感じて、暴力を振るうことは許されないという人もいるだろうが、家族は介護の専門家でもないし、認知症に対する正確な理解があるとは限っていない。

認知症の人の、(家族にとって)理解できない言動に、24時間向かい合っていることで、心が壊れる人もいるのだ。ある意味、虐待という行為に及ぶ火と自身が、他者を傷つけるという行為によって、SOSを示しているのかもしれない。

それは善悪の問題だけで評価すべき問題ではなく、誰しも強くはないし、誰しも常に正常ではおれず、人は誰しも、誰かの助けを必要とする可能性がある存在であるという理解で相対するべき問題である。虐待行為を行っている人も、心の奥底では苦しんでいる場合が多いのだ。

施設入所後に、家族関係の再構築を行わない限り、この傷は消えることはない。つまり関係修復のための会にゅとは、虐待を受けていた人を救うためだけではなく、虐待行為を行っていた人をも救うことなのだ。

施設入所という状況は、煮詰まった家族関係を見つめなおすために、いったん距離を置いて考える時間を作るという意味がある。そこにソーシャルワーカーという専門化が介入することによって、複雑に絡み合った糸をほぐして、良い方向に向かうことができるかもしれない。

施設入所によって、虐待がなくなったからといって、そうした部分に積極的に介入しないと、ご家族としての縁を失って、一人寂しくなくなっていく高齢者がそこに一人暮らしているだけの結果となってしまうかもしれない。そしてそうした介入ができる専門家は、施設入所した人の場合、施設のソーシャルワーカーしかいないのである。

そういう意味で、施設のソーシャルワーカーが、施設利用者の暮らしを護るという意味は、施設内だけの活動にとどまるものではないということになる。施設利用者の家族に介入することは、施設ソーシャルワークの付帯業務ではなく、本務であることを忘れてはならない。

なぜならば、絡んだ糸を解きほぐし、時には糸を縒りなおし、切れた糸を紡ぎ直すのが、ソーシャルワークの本質だからである。

人の暮らしに介入するソーシャルワーカーは、そうした行為を積み重ねて、人の幸福とは何かを追及する使命がある。そのことを胸に、日々人を優しく見つめてほしい。見つめていきたい。

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