masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

介護サービスの割れ窓理論

希望を確信に変える介護の場が求められている


年度末の週である。この週が終わると来週月曜日には、たくさんの事業者に新入社員が入職してくる。今年ももうそんな時期になった。

我々介護サービス事業者にも、新卒者をはじめとした新しい仲間が数多く入職してくる。その中には、この春に介護福祉士養成校を卒業して、介護の職業に自分の夢を託して、心弾ませて入職してくる若い人々も含まれている。そうした貴重な人材が、将来介護業界を背負って立つことができる人材へと成長させうるかどうかが、我々の手にかかっているということになる。

先輩職員の皆様は、その責任を忘れないでほしい。

僕が2年間、介護福祉士養成校で教えた生徒たちは、今頃どんな気持ちで新しいスタートラインに立とうとしているのだろうか。介護の道を志すように教えてきた教師という立場で言えば、彼ら、彼女らの志が報いられる職場であってくれと祈るのみである。

見習うべき先輩職員がいて、しっかりとした教育をしてくれる職場だと、数年もしないうちに学生は見違えるように成長してくれるが、当初の志を失って、どうして短期間にこんなにも堕落してしまったんだろうという卒業生に出会うこともある。教育に携わったものとして、それは非常に哀しい現実である。

職場の雰囲気、先輩となる人々の態度は、それほど大きな影響があるものだ。

この時期の入職者は、真っ白いキャンパスのような心に、いろいろなものを吸収していく。しかし彼ら、彼女らは、良いものだけを選んで吸収する能力を持つ段階には至っておらず、悪いものさえも「素直に」受け入れてしまいがちである。

志を高く抱き、利用者の幸福な暮らしに寄り添いたいと思っているはずの学生が、笑顔と丁寧な言葉で対応していたにもかかわらず、職場の全体の雰囲気が、サービスマネーに欠け、ぞんざいな言葉が飛び交い、横柄な態度が許されているようならば、ものの一月もしないうちに、新入職員の感覚は麻痺して低きに流れ、無礼ななれなれしい言葉と、横柄な態度をなんとも思わなくなり、彼ら・彼女らが学生時代に批判していた醜い対応を平気にとるようになってしまう。

それを自己責任という言葉で切り捨てないでほしい。人は誰しもそんなに強くはないのだ。この時期にしっかり基礎をつくり、護るべきものは何かということを噛み砕いて教える必要があるのだ。

それもこれも先輩と呼ばれる職員の対応にかかっているのだ。

職場全体で、サービスマナーの意識が高く、横柄な言葉を注意する土壌があるなら、そうした職場で「タメ口」で利用者に話しかける新入職員は居なくなる。それだけでも職員教育の初期目標は達せられるのだから、いかに職場環境がその水準に達していることが、教育にかける時間を削減できるかという証明にもなる。そうした職場で、燃え尽き症候群は発生しにくいし、職員の離職率も減り、常に職員募集と、新人教育・OJTに振り回されるということもなくなる。

サービスマナー意識と、ホスピタリティ教育は、そういう意味でも大事なのである。そしてその基礎を成すものが「介護サービスの割れ窓理論」であり、言葉は運命になるという教育なのである。

厚生労働省が、介護サービス従事者の虐待が増加しているという調査結果を公表し、関係者向けの研修会の開催などを促していく方針を示しているが、すべての職場で顧客意識を持ったサービスマナーの教育がされておれば、この状況は大幅に改善されるのではないかと思っている。

介護現場の不適切なサービスを、介護という職業にまつわるストレスに結び付けても始まらない。ストレスとは関係のない感覚麻痺による不適切サービスが虐待につながっていることを考えると、その原因は、親しみやすいという意味を間違って捉えている顧客意識のない職員対応であることに気がつかねばならない。

わずか数ケ月しか働いていない新入職員が、年上の高齢者に対し、タメ口で話しかけるようになる環境を変えなければ、感覚麻痺や不適切サービスから虐待につながるケースは、なくならないのである。
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医療機関の職員の言葉に違和感を覚えた人からのメール


SNSなど、インターネットを利用した情報媒体の拡散力・影響力はすごいものだと思うが、だからといってそれだけに頼っても、情報の広がりには限界があるのかもしれない。

むしろアナログの情報媒体しか見ない人もいるので、アナログをまったく無視してしまっては、それらの人にはいつまでたっても伝えられないこともある。インターネットを使いこなしていても、SNSは好まないという人もいる。そういう意味ではデジタル、アナログの別もなく、様々な情報媒体を利用することで、情報伝達の広がりを持たせることができるといえるのだろう。

不特定多数の多くの人々に、伝えたいものがある人にとっては、そのことは大事な考え方であると思う。特に介護というすべての人にとって無縁でないものについて、それをよりよいものにしようとするための情報伝達は、あらゆる媒体を酷使して伝えたいものだと思う。

というのも、先週金曜日のブログ記事で紹介した、「みやざき中央新聞」に載った僕の講演内容が、思わぬところで拡散しているからだ。その新聞を読んだある人から、次のようなメールが届いた。氏名を伏せて紹介させていただく。
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こんにちは、初めまして。群馬県で高校の教員をしている○○○○○と申します。
「みやざき中央新聞」の記事を読みました。自分の中にあった理解できない思いが理解できました。

以前、父が入院していた時に、看護師さんの言葉がタメ口で何となく気になってました。でも、看護師さんも一生懸命な人ばかりで、そして、病院ではタメ口が普通で当たり前なんだ・・・と思ってました。でも、違和感というか、何となく父が子ども扱いされてるようでモヤモヤするものがありました。

この「みやざき中央新聞」の菊地さんの記事で、モヤモヤの原因がわかりました。やっぱり、丁寧な言葉が必要ですよね。とても、スッキリしました。ありがとうございました。

自分は女子校に務めており、看護(介護)希望も多い学校です。生徒にこの記事を読ませて、生徒が「言葉」について考える機会になればいいなと思ってます。

突然のメールすいませんでした。次号の「みやざき中央新聞」を楽しみにしてます。ぜひ、これを機会に今後もよろしくお願いできたらと思ってます。

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医療機関の看護師の言葉に違和感を覚える患者さんや家族は、決して少なくないのである。しかしそれらの人々も、そうした言葉を使う人に、直接その違和感を訴えることはない。そんなものかとあきらめてしまうか、不快な思いを胸の奥にしまいこんで黙ってしまうのだ。

それに甘えて、いつまでも顧客である患者さんや利用者さんに「タメ口」で話しかけることを恥ずかしく思わなくて良いのだろうか。その姿は対人援助のプロとしてはみっともないことこの上ない。

介護サービスの従業者も同様だ。医療現場の看護師を始めとした様々な関係者が、自らの口から発する言葉に鈍感なままだからといって、介護サービスの場も、その物まねのような汚らしい言葉遣いのままでよいわけがないと自覚すべきである。

無礼な馴れ馴れしい言葉遣いが、いかに利用者の尊厳を奪うかということを自覚し、お客様である利用者に適切に対応し、その心と暮らしを護るために僕が提唱しているのが、「介護サービスの割れ窓理論」である。

この理論を提唱して20年以上経つが、なかなか介護サービスの場に浸透しないのが現状だ。勿論一部の人々には受け入れられて、実践されているものの、すべての介護サービス従事者が、「タメ口」という醜い言葉遣いを捨て去らない現状は続いている。そのことは本当に残念に思うとともに、利用者やその家族の立場に立って考えたときには、本当に哀しくなる。果たして介護は、哀しみをつれてくるものなのか・・・。そんな疑問さえ持つ。

介護サービスの場で、利用者を傷つけたり、不快感を与える危険性を排除できない言葉遣いが続けられているうちに、その原因であるとして僕たちが批判してきた、看護の現場の言葉遣いには変化の兆候が見られる。それは一部の看護現場に過ぎないといえども、言葉遣いを見直そうという機運がみられる。

反面教師としてその言葉遣いや、態度を見るべきだとしていた看護サービスの場で、明らかに以前と違う考え方が生まれている。

それが認知症の人の看護に携わる医師や看護師によって実践されているカンフォータブル・ケアである。

ではカンフォータブル・ケアとは何か?今日は時間がなくなり、字数も長くなったので、明日の記事でそのことを書こうと思う。(明日に続く)

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汚らしい言葉を恥と思えない厚顔



利用者に対して、「タメ口」で話しかけている人々は、その様子を見て、家族が何も感じていないと思っているのだろうか。

それとも家族の目には、職員が「タメ口」で話しかけている姿が、親しげな関係を表していると映って、喜ばれていると思っているのだろうか。

勘違いするなといいたい。その場面を自分自身に置き換えたらどうだと言いたい。

専門学校を出たばかりと見受けられる若い職員が、自分の親に「タメ口」で話しかけている姿を見てどう思うのか・・・。時にその口調は、命令口調と取られても仕方がないし、荒々しい口調にしか聞こえないことも多い。それを見て誰が喜ぶというのだろうか。

家族は哀しんでいるのだ。家族は悔しがっているのだ。それでも何も言えない人が多いのだ・・・人質をとられているようなものだから・・・。

汚らしく、無礼な言葉を使って何も感じない人間・・・そういう若者を大量生産しているのが、ベテランを気取った先輩職員である。それは決して介護のプロフェッショナルとは呼べない姿であり、いうなれば素人に毛が生えてはいるが、なまじ経験をつんでいるだけに始末に終えない、「バリアお局様」といったところだ。

そういう職員を真似て、職場で口汚い言葉を、顧客に対して使う人間がいなくならないのが、介護サービス事業の現状である。

暮らしの場とか、生活施設という言葉の本来の意味は、個人の尊厳が保障され、一人ひとりの思いを尊重して、個性に対応したケアサービスを提供するという意味なのに、「暮らしの場だから、丁寧語を使うと固苦しい」というふうに、意味の分からない理屈に置き換えられている。

馬鹿を言うなと言いたい。

世間一般の日常の場面でも、親しき中にも礼儀ありは生きているし、自分が生活の糧を得ている職業場面で、そのサービスを利用する顧客に対して、タメ口が通用するなんてことはない。

介護サービス事業に携わる多くの人々が、こんな簡単な理屈に気がつかないのはなぜなんだろうか。

顧客に対するサービスに、マナーやホスピタリティが求められないと考えるのは、なぜなんだろうか。

おそらくそれは、なんだかんだ言っても介護サービスがぬるま湯に浸かっていて、特段の努力をしなくとも事業経営が可能だったからだと思う。事業さえ立ち上げれば、顧客確保に頭を使わなくても運営できる状態が長く続いた結果であろうと思う。

そのような状態に甘えて、マナーのない仕事を続けていて何が面白いのだろうか。その職業のどこに魅力を感じ、誇りを持てるというのだろうか。

僕は自分の仕事に誇りを持ちたい。その誇りとは、対人援助の職業が、人の幸福に寄与する仕事であるという誇りである。だから、自分の思い込みで相手を傷つけることは、できるだけ避けたいと思う。自分が良かれとおもって使う、「親しげな表現」が、相手にとってはなれなれしい無礼な言葉と受けとられないように、年上の人や、お客様に対して使って不自然とはならない丁寧語でお話しする。

それはサービスの質の担保である。それができないで何のプロかと言いたい。

僕は職場で、恥を知る職員を育てたい。自分の仕事をしている姿を、隠し撮りカメラで映されたとしても、なにも問題ないと思える職員と一緒に働きたい。

そのためには自分自身が、そうあるように、日々努めているつもりである。

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サービスマナーの軽視がもたらす人権侵害


以前にもここで紹介した、「高齢者福祉施設におけるサービスマナー実践テキスト」(東京都社会福祉協議会)は、僕がかねてから主張している、「介護サービスの割れ窓理論」とまったく同じようなことが書かれている。

この本の編集者は、岩本操・武蔵野大学人間科学部准教授(前で紹介した記事の写真にも写っている方)であるが、僕との違いは、岩本淳教授のほうが、文章に品があるということだ。

しかしその指摘しているところは、まさにストライクゾーンど真ん中をついていて、非常に説得力がある。

例えば「親しみやすさと、馴れ合いの混同」という点では、次のように指摘している。

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高齢者施設におけるサービスマナー実践テキスト(東京都社会福祉協議会)より引用

老人ホーム等の生活施設では、利用者と職員との関係が長期化し、家族のようなかかわりが見受けられます。このこと自体が悪いわけではありませんが、それが「馴れ合い」関係になっていることには注意が必要です。その典型が「言葉遣いの乱れ」でしょう。若い職員が、自分の祖父母くらい年長の利用者に対して「~だよ」「何をやっているの」という場面も少なくありません。こうした言葉遣いを「親しみやすさ」の表れだという話も聞きますが、丁寧な言葉遣いや敬語を使っても「親しみやすさ」は十分表現できるはずですから、利用者の心地よさよりも職員が慣れた楽なやり方を続けているだけかもしれません。マナーは自分の損得ではなく、相手の得にあるわけですから、これはサービスマナーの実践とはいえません。

こうした「馴れ合い」関係について、利用者も安心して満足しているという反論もありますが、これは大いに疑問です。人間は小さな子供からお年寄りまで、環境に適応しようとする力があります。母親から引き離された子供は、最初は母親を求めて泣き叫びますが、其れが長引くと、母親を求めることを「あきらめる」ことによって、その状況に適応しようとします。また精神病院に何年、何十年も入院してきた人は、入院当初は退院を繰り返し主張しますが、次第に何も言わなくなり、退院を「あきらめて」病院に適応していることが多くあります。忘れてならないのは、そうした人々も始めから適応することを望んでいるわけではないということです。人は誰もが、環境の良し悪しにかかわらず、どうしたらここで自分が生き延びていけるか、環境に応じた構えを作っていくわけです。高齢者施設に入所した利用者も、そこで安定して生きていくために環境や職員の対応を受け入れ、それに合わせていると考えたほうが自然です。「馴れ合い」関係は、利用者が本来望んでいたものではなく、じつは利用者の努力の結果なのです。  
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介護施設を利用している高齢者は、若い人のため口に親しみを感じているのではなく、その言葉を受け入れないと、そこでは生きていけないために適応させられているというわけであり、そこでは「飼いならされている」というイメージが浮かんでくる。

こうした状態を異常と思えないほうがどうかしている。

されに岩本順教授は、【サービスマナーの軽視がもたらす人権侵害】にも筆を及ばせている。

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高齢者施設におけるサービスマナー実践テキスト(東京都社会福祉協議会)より引用

サービスマナーの取り組みは労力がかかる一方、職員が対応をしたところで利用者に良好な変化が見られず、徒労感が募るという話を聞きます。利用者の介護度は高く、重い認知症を抱えている人が多くなってきるので、職員が一生懸命コミュニケーション技術を身につけても、その言葉の変化に利用者が気づき反応してくれることが難しいのは事実です。このため職員の中には「何を言っても通じない」「何をやっても同じではないか」という思いが生ずることも稀ではありません。しかし、こうした考え方の根底には、深刻な人権問題がかかわっていることに警戒しなければなりません。

社会福祉実践の価値前提として「人間尊重」の視点があります。「人間尊重」とは、人は「何を持っている」とか「何ができる」ということにかかわらず、「ただ人として存在していることに価値がある」という人間観です。福祉施設の理念に掲げられている「人としての尊厳」も、この人間観によって支えられています。もし、重い認知症をもつ利用者や意識障害のある人に対して、「どうせ分からないから」とサービスマナーを軽んじる言動があるとしたら、それは利用者を「価値あるもの」と「そうでないもの」とに選別していることになるのです。その感覚はとても怖いもので、常に自戒し社会福祉の価値前提を確認していないと、知らず知らずのうちに利用者の人権を侵害し、虐待につながる恐れもあるのです。

サービスマナーは利用者を変えるために行うものではありません。社会福祉や社会福祉の理念に基づき、利用者の状態や反応にかかわらず「あなたを大切に思っています」というまなざしを持って向き合うことです。福祉施設でサービスマナーを考えるときに、常にこの視点に立ち戻ることが大切です。
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なるほど。社会福祉援助に関係する僕たちが、決して忘れてはならない「人間尊重」の視点こそ、サービスマナーにつながっているのだと、あらためて考えさせられた。その為の「介護サービスの割れ窓理論」であり、介護事業者の「ホスピタリティ」は、単に顧客確保のためだけではなく、僕たちのアイデンティティともいうべき、福祉観に深くかかわるものだ、ということをあらためて感じた。

そうした視点を持つこともなしに、安かろう悪かろうサービスのままでよいし、言葉遣いなど大きな問題ではなく、タメ口も時には許されると考える輩には、僕たちのステージから一日も早く退場してもらわねばならないという気持ちが、一段と強くさせられた。

このような考え方を、もっと広めていかねばならないと、あらためて覚悟を決めた。・・・誰かの赤い花になるために。

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介護に求められるホスピタリティ


アミーユ川崎幸町で、3人の利用者の命を奪った犯人の犯行動機は何なのかと問う議論の中で、介護支援の場のストレスが原因であるかのような論調が一部にみられる。

馬鹿なことを言うなと言いたい。仕事にストレスがあるからと言って、罪なき高齢者の命を、冷静で計画的に奪うという犯罪行為が、あれほど連続して行われるわけがない。あの事件の犯人は、サイコパスが疑われると思うし、機会さえあれば、どのような職業に就いていたとしても、犯行を行っていた可能性が高い。この犯罪と、介護ストレスを同じテーブルで論ずることはできない。それは間違った議論である。

一方でこの施設では、犯人以外の職員が、利用者に暴言を吐きながら介護を行っていたことが、家族の隠し撮りカメラ映像によって明らかになっている。それはストレスの結果なのだろうか。そうだとしたら、それはやむを得ない部分があり、情状酌量の余地があるとでもいうのだろうか。

確かに介護をはじめとした対人援助の職業は、他人の身体に直接アプローチするということにおいて負担感はあるし、他人の感情と直接向かい合わねばならないことが多く、その感情に巻き込まれたり、精神的負担を感ずることも多いだろう。

だからと言って、全国で約177万の介護職員が、ストレスのために多かれ少なかれ、虐待行為に走っているという事実はない。

多くの介護職員は、何らかのストレスを抱えていたとしても、それ以上に介護という職業の使命感や誇りを感じ、やりがいを感じて、対人援助の仕事を続けることに喜びを抱き、利用者の笑顔を求めて仕事を続けているのだ。マジョリティは、虐待行為と無縁の仕事をしている職員であり、それはごく普通の光景である。

隠し撮りビデオ映像に写っていた姿が、「氷山の一角」などというのも間違った考え方だ。我々が漕ぎ出している海に、そんな氷山など浮かんでいない。隠された部分に闇を抱いている職場では決してないのだ。

あの隠し撮りビデオ映像の姿は、介護サービスにも、お客様である利用者に対するマナーが必要であるという教育を受けていない結果であろう。しかしどのような理由があろうとも、あの行為は許されるものではないし、情状酌量の余地もない。

マナーを欠く不適切サービスの原因が、「感覚麻痺」であり、それは利用者に対する言葉遣いの乱れから生ずるものであるという、「介護サービスの割れ窓理論」であることは以前から主張してきている。

お客様である利用者に対する言葉遣いは、「丁寧語」であるべきだし、親しみやすさを理由にして、言葉を崩す必要はないことを何度も主張してきた。

しかし言葉遣いを正しくすることを、「気取っている」とか、「杓子行儀」だとかいう言葉で否定する輩がなくならない。それは低き精神に流れているだけで、学びの精神のかけらもない、スキルの低い人間のたわごとだ。

誇りある職業であるならば、気取りだって必要になる時があるだろう。それともそれらの人々は、自らの職業を卑下しているのだろうか。その精神の貧困さは救いようがなく、そうした精神構造はみじめでしかない。

介護サービスは、人の暮らしに直接向かい合う仕事である。そこでは人の暮らしに深く介入して、時にはもっともぱらいべーとな部分で、他人に知られたくはない部分にも踏み込んでいかざるを得ない。そうであるがゆえに、人の感情には敏感であるべきで、笑顔で対応したり、素早く対応したり、丁寧に対応するなど、我々の支援行為を気持よ利用・享受していただくための配慮は必要である。それができるのが対人援助のプロであり、できなければただの素人だ。そんな素人が、生活の糧をそこから得ていることがどうかしている。そういう人は、さっさと別な仕事を探しなさい。

そういう意味で、これからの介護には、「ホスピタリティ」の視点が求められてくる。求められる介護イノベーションとは、ポスピタリティが求められるということが、普通に考えられる介護である。

「ホスピタリティ」とは、「思いやり」「心からのおもてなし」という意味であり、「マナー」は相手に不快感を与えないための最低限のルールを守ったうえで、そこに「心」が加わると、「ホスピタリティ」になる。

目に見えない心が大切な介護という仕事であるがゆえに、マナーは当たり前、そこに心を加えてホスピタリティ意識を高めようというのは、至極当然の帰結であると考えるのである。

ホスピタリティ

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サービスマナーの実践は専門的行為である


アミーユ川崎幸町で隠し撮りされたビデオには、殺人事件の犯人以外の複数の職員が、利用者を罵倒しながら乱暴に取り扱う姿が映されていた。

その姿は虐待そのものであるが、こうした暴言は、日常会話の乱れから始まり、乱れた言葉がエスカレートして心を乱し、その心の乱れから感覚麻痺が生じた結果ではないだろうか。

しかしあの隠し撮り映像を見て、「あれほどひどい状態は自分たちの職場とは無縁だ。」と安心してよいのだろうか。「それでは、どの程度までならば許されるのか?」と考えたとき、自分自身の対応が、顧客サービスとして適切かどうかという線引きしかできない。介護サービスにおいて職員が利用者に接する際にも、利用者の尊厳を損なわないという意識が必要で、そのための最低限のマナーが求められ、それは顧客対応としてふさわしい態度を守ることでしか実現しない。

そのために僕は、「介護サービスの割れ窓理論」を提唱し続けているわけであるが、僕とほとんど同じ考え方で、介護サービスの場でも、福祉援助職としてサービスマナーを実践するという考え方を示し、教本を作って、「サービスマナー研修」を行っている機関がある。

サービスマナー実践テキストそれは東京都社会福祉協議会であり、同協会が発行しているテキスト教本が、「高齢者福祉施設におけるサービスマナー実践テキスト〜施設の理念を具体化する方法」(編著者:岩本 操・武蔵野大学人間科学部准教授)である。

ここでは、「サービスマナーは、施設の理念を具体化する行為」、「サービスマナーの実践は、あらゆる業務の基盤となる専門的行為」と述べ、「親しみやすさと馴れ合い」を混同することの危険性を指摘している。

そして、「丁寧な言葉遣いや敬語を使っても、親しみやすさは十分伝わる」と指摘し、介護施設で若い職員が、利用者に対して、「〜だよ」、「何をやっているの」などと話しかけている状態は、言葉の乱れであり、馴れ合いだとして、「マナーは自分の損得ではなく、相手の得にあるわけですから、これではサービスマナーの実践とは言えません。」としている。

これを読んで気が付いた人がいるだろう。それはこの内容が、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」とほぼ同じであり、僕が講演などで主張・提言している内容と、まったく同じことだということである。

このテキストが、僕の意見を参考にして作られているわけではない。また、僕自身は20年以上前から「介護サービスの割れ窓理論」を提唱していることでもわかる通り、このテキストを参考にしているわけでもない。

そうであるにもかかわらず、両者の主張が非常に似通って、部分部分を取り上げると、全く同じ主張・提言となっているということを考えると、言葉を正しくして、お客様に対してふさわし対応に心がけるということは、決して突飛で特別な考え方ではなく、ごく当たり前の考え方であり、医療・保険・福祉・介護の場で、そのことが守られていないことの方がおかしいということだ。

顧客に対して丁寧な言葉や態度で接することができない状態が、いかに異常であるかという証明でもある。そのことが守られていない職業とは、未成熟で幼稚な職業であるともいえよう。

サービスマナーの確立は、介護サービスの品質の向上とイコールである。今後、介護サービスの利用者に増えることが予測される「団塊の世代」の方々は、そうしたマナーには我々の世代よりも敏感である。

そうであれば介護サービスの場で、言葉遣いに気を遣わず、乱れた言葉で話しかける職員に対し不快感を持つ人は多くなるし、サービスマナーに気を遣わない職員から、介護支援を受けることを悲しむ人も多くなるだろう。

その結果が選ばれない事業ととなって、事業経営ができなくなることで終わるならば、それは自己責任だから良いだろう。

しかし介護サービスを必要とする人の数が増える時期なのだから、そうした品質の悪いサービスを使わざるを得ない人達がいることを考えると、マナーのないサービスを使うことに、陰で泣きながら、「こんな思いをするなら、もっと早く死ねばよかった」という嘆きの気持ちを抱きつつ、心遣いのない、マナーの低いサービス提供を我慢せねばならない人が出てくる。

介護という職業が、そのような状態を創りだしてよいのだろうか。よいはずがない。だから僕らの時代で、介護のスタンダードを変え、ごく普通に丁寧な言葉遣いがされ、サービスマナーをもって対人援助に携わるというスタンダードを創り、いつの日か「言葉づかいとか、マナーが議論されるような時代があったんだ」と言える状態にしなければならない。

顧客である利用者に対し、丁寧な言葉で対応するというのはごく当たり前のことで、そんなことがよいのか悪いのかということの説明が必要とされたり、議論になったりする職業がどうかしているのだ。

なおこのテキストは、東社協から1.429円+税で購入できる。1冊あればそれを参考に施設内研修も可能となろうから、是非職場内研修などで、サービスマナーを学んでいただきたい。その時には、ぜひ介護サービスの割れ窓理論もご紹介いただきたいと思う。

このテキストの編著者:岩本 操・武蔵野大学人間科学部准教授(下の画像左から2番目)とは、いつかサービスマナー講座で、コラボしたいとお話ししてきた。ぜひ実現したいものである。
東社協に皆さんと岩本教授
3/11(金)東社協主催研修の講演後のオフ会。東社協の櫻川施設長(左)と堀施設長(右)に挟まれた、僕と岩本先生。)

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国の虐待防止対策は効果があるのか


今月7日に行われた会議の中で、厚労省は全国の自治体職員に向けて、介護施設の「抜き打ちの実地指導」を行うよう指示した。

これはSアミーユ川崎幸町で起きた、利用者連続転落殺人事件を受けての措置で、虐待防止のための指導の在り方を考える中で決まったものである。これによって今後の実地指導は、「虐待の疑いがある場合は、抜き打ちで実施」することとし、厚労省は近く通知を見直す方針とのことだ。

この報道に触れて感じたことは、「これって実地指導なの?」ということだ。「虐待の疑いがある場合は〜」という条件が付いていることを考えると、これって実質的には、「監査」ではないのかという疑問がまず生じた。

そうであるなら、現在の対応とさほど変わらないのではないかと思う。だって今だって、「監査」は、不適切運営が疑われるとして抜き打ちでも行っているではないか。どこが違うのだろうか・・・。
(※介護保険制度上の実地指導とは不適切運営を行っている事業所に処分を行うことを前提にした者ではなく、適正運営を行っているかどうかを確認するためのもので、運営指導が必要かどうかを判断し実施するもので、原則として施設サービスが2年に1度、居宅サービスは指定更新の期間内に1度実施するものである。)

どちらにしても、適切な運営を行っている施設にとっては何ほどのことはないし、どうぞいつでも抜き打ちで運営確認にきてくださいよ、というようなものだろう。

ところでこの措置によって、虐待は本当に防止できるだろうか。その抑止力は期待できるだろうか。

そもそも行政指導は、警察の役割りではなく、事前に不適切運営を防ぐのが一番の目的である。そうであれば「虐待の疑いがある場合は、抜き打ちで実施」する目的が、単に虐待事実を明らかにして、処分を行うことであっては意味がないことになる。

そこには抑止力となる効果が期待されなければならない。

しかし書面審査が中心となる行政指導や監査で、どれだけの虐待行為が明らかになるだろうか。アミーユ事件でも、3人の転落死については、行政は全く無力であったではないか。(行政処分の対象になったのは、利用者家族の隠し撮りビデオ映像に映っていた行為と、殺人犯がそれ以前に警察の御縄になっていた窃盗事件である。)

行政職員の確認作業など、隠し撮りビデオほどの効果さえないという意味である。しかもいくら抜き打ちだからと言って、行政職員がそこに来たという瞬間に、職員は構えて対応するだろうから、記録に残る行為以外を明らかにすることは難しい。つまり行政指導をいくら強化して、そのために方法を変えたとしても、根本原因に手を入れない限り、感覚を麻痺させた人間による虐待はなくならないということだ。

Sアミーユ川崎幸町で隠し撮りされたビデオには、事件の犯人以外の複数の職員が、利用者を罵倒しながら乱暴に取り扱う姿が映されていた。その姿は虐待そのものであるが、こうした日常的な暴言は、施設長はじめ管理職の耳に届いていなかったのだろうか。

そもそもそうした職員の利用者に対する日常会話における言葉遣いはどうだったのだろう。おそらくそれは丁寧語とは程遠い、乱れた言葉であったと想像できる。施設の管理者が、職員の言葉遣いに鈍感であれば、乱れた言葉遣いがエスカレートし、乱れた心を生み、虐待に発展するというケースは少なくはない。殺人という行為は論外だが、この施設では職員の暴言が常態化し、不適切な対応につながり、それが次第にエスカレートしていったことが容易に想像できる。

このような状況改善を、後追いの行政処分に期待しても始まらないのである。

行為がエスカレートする以前に、その行為につながる感覚麻痺をなくすような方策をとらねば、行政対応はただのアリバイ作りで終わるだろう。

こうした問題を解決するためにも、「介護サービスの割れ窓理論」を浸透させてほしいと思うのである。

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業務中の言葉遣いに気を使わない職業は異常だ。


言葉を崩すことが、利用者に親しみを感じてもらう方法だと思い込んでいる人によって、利用者は自分より若い人に、ため口で話しかけられる。そのことに対して、舌打ちしたい思いを持っている人は多いだろうし、心の奥底で嘆き悲しんでいる人も多いのではないだろうか。

今後団塊の世代の人々の介護サービス利用が増えていくが、それらの世代の人は、企業戦士として高度経済成長期を支えてきた人たちや、そうした夫を支えてきた妻たちである。そういう人たちは、我々の世代より上下関係に厳しく、サービス業の言葉遣いに敏感な世代である。そうであるがゆえに、サービスを提供する側の職員が、言葉を崩すことを不快であると考える人は多く、同時に崩した言葉に傷つく人も多いはずである。

そうしないためには、誰もが不快にならない丁寧な言葉遣いが求められるのである。

親しみやすさという言葉でカモフラージュされた言葉は、タメ口でしかない。それは無礼な馴れ馴れしい言葉遣いという域を出ない。そういう言葉を、仕事の中で使うことの恥ずかしさに気付くべきだ。プロとして丁寧な言葉を使いこなして、親しみを持ってもらうべきである。それができない素人でどうする。

そもそも保健・医療・福祉・介護以外のどの職業で、顧客に対してタメ口が許される職業があるだろうか。そんな職業は他には存在しない。我々は、言葉遣いに気を使わない職業の異常さにもっと気が付かなければならない。

医療機関で看護師が患者に話しかける際に、馴れ馴れしく無礼なタメ口を使った高飛車な姿を思い浮かべ、そのことを反面教師にして、あのような醜い対応を、介護サービスを提供する場で行ってはならないと考えるべきである。

接客意識のない対人援助サービスは、目の前の人々を人と思わなくなる危険性を内包せざるを得ない。乱れた言葉を放置する対人援助サービスは、人の心を傷つけることに鈍感にならざるを得ない。

そのことに危機感を持ってほしい。なぜならそこで傷つけられるのは、近い将来のあなた自身であるのかもしれないし、あなたの愛する誰かかもしれないのである。

そうであるがゆえに、我々が対人援助のプロとして主力になっている今この時代に、対人援助サービスが持ち続けてきた負の遺産を捨て去り、我々の時代に100年先の対人援助のスタンダードともなり得るサービスの質を創っていかねばならない。

その根幹をなすものが、「介護サービスの割れ窓理論」である。言葉の乱れを放置せず、丁寧語をスタンダードとすることである。丁寧語を使いこなすことができるプロによって支える介護を創ることである。

介護サービスの場を、特殊な閉ざされた環境にしてはならない。それは我々の価値観によってなんでもありの治外法権空間を作ることと同じである。しかし年上の顧客に、タメ口で対応することが許される職場とは、「特殊な閉ざされた空間」そのものである。

そうしないために、我々は日常的に、「それって普通?」の問いかけを繰り返すべきであり、介護サービスの割れ窓である、言葉遣いに気を使うべきなのである。

人は弱い存在だ。長きものにまかれやすく、低き場所に流れやすい存在だ。そういう存在であることを意識しながら自らの心を見つめていかないと、人は人の不幸を笑って見てしまう存在になっていく。しかしその姿は実に醜悪であり、自分だけがその醜悪さに気づかないことになる。

介護という職業が、本当の意味で利用者の暮らしを護る職業であり続けるためには、顧客意識に基づく正しい言葉遣いや、節度ある態度で対応する基本姿勢を失わず、感覚麻痺に陥らない検証作業を繰り返す必要がある。この基盤がない場所で、どのような教育システムを作ったとしても、それはガラスの城でしかない。

コミュニケーションで成り立つ職業であるからこそ、言葉を大切にする「介護サービスの割れ窓理論」を職員教育の柱にして、職場全体の意識改革が求められるのである。

その意識の上に、正しい介護技術によるサービス提供を積み上げることでしか、人の暮らしを護ることはできないのである。

介護施設や介護サービス事業所の管理者には、言葉を正すことがリスクマネジメントの基本であるという理解が必要である。そういう意味からも、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」が介護サービスの場に深く浸透することを願ってやまない。
(※介護サービスの割れ窓理論について)
割れ窓理論とは、もともと犯罪心理学の中で唱えられている理論で、割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてそうした建物が地域に増えることで、地域全体が荒廃していくという理論で、割られた窓の小さなひび割れを放置せず、それをすぐに補修することで、そうした荒廃を防ごうという理論だ。その理論を介護サービスに当てはめたとき、介護サービスの割れ窓は、職員が利用者に対して日常的に使う言葉であると考えるものである。

介護施設において職員が利用者に接する際にも、尊厳を護る最低限のマナーが求められ、それは顧客対応としてふさわしい態度を守ることでしか実現しない。職員が利用者に、馴れ馴れしい言葉で接することを放置することで、心のゆるみが心の乱れに繋がり、世間の非常識が介護サービスの常識であるかのような感覚麻痺が生まれ、やがてそのことが虐待行為につながる危険性がある。このことを防ぐために、態度が荒れるきっかけになる小さなほころびは、日常の言葉の乱れであると考え、利用者に対して丁寧語で対応することを基本として、乱れた言葉遣いは常に修正して対応しようとするのが、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」である。

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古代からの声が聴こえる街で


三重県で、津市に続いて2度目の講演が実現した地域は、古代からの声が聞こえてくるような、「歴史の街」熊野市である。

北海道から熊野までの移動行程は、新千歳空港から中部国際空港(セントレア)を利用することになる。セントレアからは名鉄で名古屋まで出て、そこからJRを利用することになるのであるが、この名古屋駅〜熊野駅までの移動が長い・・・。特急「南紀」で3時間、北海道からは8時間以上の長旅のすえにやっと現地に到着した。しかもこの特急「南紀」が揺れること揺れること、かつての「くろしお」を思い出すほどの揺れだった。

当日は夕方4時過ぎに到着。講演は午後7時から9時までの2時間であった。
在宅医療・介護連携推進講演会2
当初受講定員は150名の予定であったそうであるが、申し込みが殺到して200名で締め切ったそうである。それでもこの会場の椅子では間に合わず、ステージ前までパイプ椅子を並べ、さらに事務局の方々は会場外で、別モニターで受講して、やっと当日の来場者全員に席が行き渡った。
在宅医療・介護連携推進講演会今回は、紀南医師会主催・平成 27 年度在宅医療・介護連携推進講演会ということで、「介護の誇り〜明日へつなぐ介護実践論」をテーマにお話をさせていただいた。

講演当日の朝に、介護業界には衝撃となる大きな事件報道がなされたことを知らない人はいないだろう。3人の利用者が、不信の転落死をした「Sアミーユ川崎幸町」の事故が、ついに事件となった。3件の転落死のあったその日に夜勤をしていた、同施設の介護職員が逮捕され、容疑を認めているというニュースがこの日流れた。

このことに関して、「氷山の一角」などと論評する向きがあるが、それは間違いである。全国のいろいろな場所で、たくさんの仲間と真剣に介護を語り合っている身とすれば、我々がそんな心の闇を持つ人間と、同じ氷山に乗っているなんてことはないと断言できる。そして全国の多くの介護施設は、「虐待」とは無縁であり、人権蹂躙とは無縁の場所で頑張っている仲間がほとんどである。

我々が乗っている山があるとすれば、それは「誰かの赤い花」になるための方法論を探し、「無限に広がる幸せ樹形図」を描くための方法論を探し続ける場所でしかない。たまたまその中で、冷たい心を弱い立場の者に向ける「かけら」が存在していたとして、それが業界全体の体質や、特徴であると思ってもらっては困るのである。

そもそも虐待の原因を、待遇の悪さやストレスに結び付けて論ずる報道が目につくが、人を3人もベランダから投げ殺すほどの行為が、逆に待遇の低さやストレスだけで論じられてよいのだろうか大いに疑問である。

たいした給与をもらっておらず、日々いろいろな業務上の悩みやストレスを抱えて過ごしている人はたくさんいるだろう。それは何も介護業界に限ったことではない。だからといって、人を殺すという行為に走る人がどれだけいるというのだろうか。

人としてのパーソナリティーの深い場所に、個人の闇は存在するものだ。この3人の連続殺人を考えるに際しても、仕事へ不満やストレス以前に、仕事の不満やストレスを理由にして、人の命を奪うという行為に及んでしまう原因は何かということを、もっと別な部分から考えないと、この連続殺人が社会構造のせいであるとか、変な方向に論旨が捻じ曲がり、その先には介護という職業が必要悪にされてしまう。それは少し違うだろうと言いたい。

同時に我々は、介護サービスという狭い社会で、自分が何事も決定できる神のような存在となれる1対1の場面で、心を麻痺させず関わり続けることができるのか、という命題を考え続けなければならないと思う。そういう意味で感覚麻痺を防ぐ「介護サービスの割れ窓理論」を紹介しながら、「社会的な使命」を持つべき対人援助サービスの誇りを穢す事件から、我々は何を考えねばならないのかを最初にお話しした。

講演全体を通しては、地域包括ケアシステムの中で、「居住系サービス」に求められる役割りと、その中で造るべき具体的サービスの質。生きるうえでの最大の楽しみといってよい、「食事」を支える支援方法が、いかに誤解されて行われ、その中で何が起こっているかを明らかにし、そうしないための方法論を伝えて締めてきた。

受講者の皆様からも、おおむね好評を博していると聞いている。熊野でお逢いした皆さま、ありがとうございました。

ところで今回は、熊野市に到着してから、講演まで3時間ほどの時間があったので、プチ観光に連れて行ってもらった。名所の多い地域であるが、その名所が熊野駅からほど近い場所にコンパクトにまとまっているので、数カ所の移動を車で5分程度づつでできたので、短い時間に見どころ満載のプチ観光となった。

獅子岩
有名な獅子岩。見事な自然の造形物と言うしかない。

花の窟神社
花の窟神社2
古代信仰の象徴、「花の窟神社」は、眼前にそそり立つ岩肌そのものが信仰対象で、本殿は存在しない。まさに古代からの声が聞こえてきそうである。
鬼ケ城
鬼ケ城2
鬼ケ城の夕日と、自然が作り出した千条敷。
熊野古道
熊野古道。なお講演後のオフ会でいただいた熊野料理は、「3マイル先に 秋刀魚居る」で紹介しているので、そちらを参照いただきたい。秋刀魚寿司が絶品だった。

さて翌日に北海道に帰ってきたのであるが、その日熊野を朝9:33に経ったものの、セントレアで搭乗予定の飛行機機材が、函館から来る予定が、風の為大幅に遅れて欠航…結局、予定より3時間以上遅い便に振り替えとなって、家に着いたのは夜21:30。帰りはなんと12時間の長い旅となったというハプニングで、熊野への旅は終わった。熊野でお逢いした皆様、お世話になりました。ありがとうございます。

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心遣いを見える化するための割れ窓理論


介護保険施設は、利用者にとって「暮らしの場」であるのだから、くつろいで暮らすためにも、職員が堅苦しい言葉遣いで対応しない方が良いとして、くだけた口調で会話をする人がいる。それらの人々は、そうした言葉遣いが本当に利用者のくつろぎや、親しみの感情につながっていると信じているのだろうか。

そもそも年上の人に対して、年若い人がタメ口や、友達に話しかけるような口調で語りかけることを、不快に思わないという保障はどこにあるんだろう。

勿論、それを許してくれる利用者もいるのだろうが、それに甘えてどうするのだと言いたい。僕たちは介護のプロとして、もっとも対人援助サービスとしてふさわしい適切な言葉を使いつつ、同時に利用者から親しまれる必要があるのだ。言葉はそれを使う人の人格を現し、それはその人の運命になるのだという諺(ことわざ)を肝に銘ずるべきである。

そもそも日本の伝統社会における、世間一般の常識は、年上の人=目上の人=丁寧語で話しかけなければならない、であるはずだ。

それが証拠に、入職間もない年若い職員であっても、先輩職員や上司にタメ口で話しかける人はいない。「いまどきの若い者は」と言われる、いまどきの若者であっても、目上の人には丁寧語で話しかけるという常識は持っているのである。

それなのに何故、介護サービスの場でそれらの常識を持った人たちが、顧客である利用者に、「タメ口」で話しかけるのだろう。それはとりもなおさず、先輩職員の馴れ馴れしい口調を真似るようになるからだと思え、この部分で職員教育がされていない職場が多いということである。

その口調を放置しておくと、お客様であるはずの利用者に対し、「ニックネーム」をつけて呼んだり、「ちゃん付け」で呼んだりする状態になる。これが異常だと思えない職場では、やがて何でもありの結果、虐待へとつながっていくだろう。いや、そもそも年上であり、顧客である利用者を、ニックネームやちゃん付けで呼ぶこと自体が人権蹂躙であり、虐待であると言ってよいだろう。

先日、八戸の看取り介護講演にも来てくださったK氏が、僕のフェイスブックに次のようなコメントを書いてくださっている。
丁寧な言葉使いは、外部からは見えにくい介護職の日々の地道で温かく丁寧なケア実践を、可視化、見える化し、ご家族や来訪者に証明する有効な手段でもあると考えています。

まったく同感である。僕は自身の職場でも常日頃、『お客様に対する心遣いを「見える化」するのが、丁寧な言葉である。』と教育している。それと同じようなことを考えてくださる実践家がいて下さることは勇気になる。

介護サービスの割れ窓理論は、職員の利用者に対する「言葉遣い」を窓ガラスにたとえ、言葉が乱れることは、窓ガラスのひび割れであるとし、それを放置しておくとひび割れは広がり、窓が割れ、やがてそのことで建物全体が荒廃していくので、ひび割れである、「言葉の乱れ」を見つけたら、即それを修正し、介護サービスの質の低下を防ごうという理論である。質の低下した介護は、えてして人権蹂躙を生むからである。

事実、介護サービス事業者の中には、人の暮らしに寄り添うという意識に欠け、人権侵害と思える状態を放置し、人として許されない虐待行為が日常的に行われているところがある。

昨日も広島県福山市の「グループホーム かざぐるま」で、利用者にプロレスの技をかけたり、暴言で心理的虐待を行っていたという報道がされている。それらの加害者は、何を目指して介護の仕事に就いたのだろう。

汚い言葉は、自らの心を汚してしまうことに気が付いてほしい。例えば「ここで待っていてください。」という言葉を、「ここで待ってなさい。」といったとしても、それは暴力的表現になるかもしれない。「ちょっと待ってね。」なんていう表現は暴力的な表現とは言えないかもしれないが、少なくとも顧客に対して使う言葉としては適切ではい。

僕はそうした言葉かけには不快感を覚える。だからもし自分が利用者として介護サービスを使うようになったら、サービス提供に関わっている従業員が丁寧語を使わなければ不快感を覚えるだろう。それは不遜な考えなのだろうか。僕はそれは顧客である利用者にとっては、当たり前に生じ得る感情だと思う。

梨下に冠を正さずという言葉があるように、人の暮らしに寄り添う我々の職業では、暴力的な言葉と疑われかねない表現をしないようにすべきである。暴言と思われかねない誤解されるような言葉を、日頃から使わないようにすべきだと思う。友達同士の会話で使うようなフレンドリーな言葉遣いを、顧客である利用者に対して使うことは不適切だと思う。堅苦しさを感じないようにフレンドリーに言葉を崩すことも誤解を受けるリスクが高い。

この道の先駆者と呼ばれる人の中にも、わざと言葉を崩して、そのことを自慢げにひけらかしている人がいる。その人の実践を学ぶ前に、その崩した言葉だけを実践する輩を生むことにおいて、それは功罪相半ばというより、罪の方が重たい。

言葉遣いを正しくするように教育する施設を、「強制労働より悪い」と言い切るM.H氏しかり、教育の場である講演などで、利用者を「じいさん、ばあさん」呼ばわりするW.Y氏しかり。彼らの実践は素晴らしくとも、彼らの言葉を真似ることで、人を傷つけている輩を数多く生んでいることに気が付くべきである。
言葉は人格を現し運命になる

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虐待をなくすための最低限のマナーを確保するために


3人の利用者が不審な転落死をした介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で、利用者の家族が隠し撮りした映像には、職員が利用者を罵倒しながら乱暴に取り扱う姿が映されていた。その姿は虐待そのものである。

しかしあの隠し撮り映像を見て、「あれほどひどい状態は自分たちの職場とは無縁だ。」と安心してよいのだろうか。「それでは、どの程度までならば許されるのか?」と考えたとき、それは顧客サービスとしてその対応が適切かどうかという線引きしかできないと考えるしかない。

利用者は介護施設に、「よりましなケア」を求めているのではなく、自分の尊厳が最大限に護られるケアを求めている。介護施設において職員が利用者に接する際にも、尊厳を護る最低限のマナーが求められ、それは顧客対応としてふさわしい態度を守ることでしか実現しない。

介護サービスの場における職員の言葉遣いも、顧客サービスとしてふさわしい言葉であるのか否かという線引きしかできない。

職員が利用者に、馴れ馴れしい言葉で接することを放置することで、心のゆるみが心の乱れに繋がり、世間の非常識が介護サービスの常識であるかのような感覚麻痺が生まれ、やがてそのことが虐待行為につながる危険性がある。このことを防ぐために、態度が荒れるきっかけになる小さなほころびは、日常の言葉の乱れであると考え、利用者に対して丁寧語で対応することを基本として、乱れた言葉遣いは常に修正して対応しようとするのが、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」である。

注)割れ窓理論とは、もともと犯罪心理学の中で唱えられている理論で、割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてそうした建物が地域に増えることで、地域全体が荒廃していくという理論で、割られた窓をすぐに補修することで、そうした荒廃を防ごうという理論である。

勿論、言葉を正したからといって、必ず感覚麻痺と虐待を防ぐことができるとは限らない。しかし言葉を正す習慣は、心の乱れをある程度までは防ぐ効果も生むし、言葉だけを正しくして態度が荒れてきたら、周囲の人はそのことに対して違和感を覚え、その不自然さや不適切さに気づきやすくなり、深刻な問題に繋がる前に、ほころびを指摘でき、修復できるという効果がある。

2025年には、団塊の世代の人々が後期高齢者となり、介護サービスを利用する人がさらに増えるだろう。それらの世代の人々は、企業戦士として高度経済成長期を支えてきた人で、我々の世代より上下関係に厳しく、サービス業の言葉遣いに敏感な世代である。

そうであるがゆえに我々が言葉を崩すことで不快になる人は多く、同時に崩した言葉に傷つく人も多いはずである。 

そうしないためにも、我々の世代で、言葉を崩して馴れ馴れしい言葉遣いをすることが、親しみやすさの表現だという変な誤解をなくして、顧客サービスとしてふさわしい言葉を普通に使いこなすことができる介護を作っていく必要がある。今変えていかないと、汚い言葉でいつか我々自身が傷つき、我々の愛する子供や孫が傷つけられるのだ。

虐待と無縁の介護は、正しい言葉遣いができるところから始まるのである。

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介護に巣食う癌・タメ口を正当化する人間の罪深さ


通常国会で審議入りせず、継続審議となった社会福祉法改正案には、介護福祉士の資格取得方法の見直しも含まれている。

現行法は16年度の介護福祉士養成施設卒業生から国家試験を課すことにしているが、法案はそれを猶予しようというものだから、今年度中に法案が成立しないと猶予できず、来年度から養成施設卒業生が国家試験合格しないと介護福祉士の資格が与えられなくなることになって、期間猶予を前提にしていた要請現場が大混乱に陥るため、厚労省は秋の臨時国会で法案成立を図りたいという意向を示していた。

しかしここにきて政府与党は、秋の臨時国会を開かない方向で政治日程を進めている。うがった見方をすれば、昨日記者インタビューに答えた小渕優子議員の不正経理問題や、改造内閣閣僚の不適格報道などがあって、臨時国会を開けばそれを突っ込まれ、内閣及び政党支持率が低下し、来年の参議院議員選挙に影響が出ることを嫌ってのことかと思ってしまう。

どちらにしても12年ぶりに秋の臨時国会が開催見送りになれば、継続審議となった法案は、次の通常国会で審議されることになる。とすれば年度中に法案が成立するとしても、事務作業等に影響が出るだろうし、関係者は気をもむことだろう。

世間一般を見渡せば、横浜市で大型マンションが傾くというニュースが連日報道されているが、様々な問題があるとしても、販売企業も施行企業も、下請けが行った偽装と不適切工事について、親会社が表に出て謝罪し、今後の保障も行う意思を示している点だけは感心できる。

一方で介護業界では、3人の利用者が不審の転落死をした介護付き有料老人ホームでは、隠し撮りされた職員の虐待行為と、そのグループ施設における一連の利用者虐待について、親会社はホームページにお詫びの文章を載せただけで、最高責任者などがきちんとした形で表に出て、世間に対して謝罪をするという行為を全くとろうとしていない。その親会社とは、常日頃地域包括ケアシステムの中心を担う人材を育てていると言っていた会社で、その最高責任者は、サービス付き高齢者向け住宅を束ねる団体のトップも務め、ケアと暮らしが分離することによって利用者の尊厳が護られると声高らかに唱えていた人ではないのか?

それなのにこの問題が明らかになった以降、世間に対して何のメッセージも送っていない。会社名がギャグかよと言いたくなるのである。

それにしても介護業界の負のバリアは厚いし、スタンダードを変えようとしない程度の低い頑固者が多すぎる。

顧客サービスであるのに、乱れた馴れ馴れしい言葉でしか、「親しみ」を伝えられない輩は、自らが言葉を使いこなして、常に相手の心情にマッチできる達人だとでも思っているんだろう。利用者の中には、自分が従業者にくだけた言葉で話すのは当たり前だが、従業者が同じ言葉で返答してくることに不快な思いを持つ人たちは大勢いる。しかし自らが人質にとられている以上、そのことに不満が言えない人が大多数だ。

そうであれば我々介護サービス従事者は、最低限守るべき接客態度を意識し、全ての人が大満足をしないまでも、少なくとも不快に思わないという意味で、丁寧語を基本として会話すべきなのでる。

例えばホテルのフロントの従業員に対し、客がため口で話しかける場面は、しばしばみられる。しかしそれに対して客が、フロントマンが同じ言葉で話しかけてくるかと考えた場合、それは違うだろうということは容易にたどり着く答えである。

しかし馬鹿は言う。『例えば床屋や美容院なんてお客さんにくだけた言葉遣いで話す人いっぱいいますし、個人でやってる居酒屋とか喫茶店なんて常連客には砕けた感じで話してますよ。あとラーメン屋の接客って丁寧ですか?お客に「いらっしゃい!」ですよ。丁寧な接客なら「いらっしゃいませ」でしょうが。』

接客教育のされていない街の個人事業主を、サービス業の代表に考えてもらっては困るが、そうした事業主のいる場所を自ら選んで訪れる客に対する個人営業の商売と、我々の対人援助サービスは根本的に異なるのである。対応する寿業者を選ぶことができない、対人援助サービスにおいて、最低限の護らねばならない規範を定め、それを下回らない水準のサービス提供に心がけるのは、至極当然のことで、それさえなけれな介護はいつまでもエビデンスを創造できない。そもそも組織だって客商売している企業で、そのような(例示された個人事業主のような)接客態度を許している企業は存在しない。そういう意識の低い商売人と同列でしあ語れない仕事を、あんたはしているんだということだ。

馬鹿はさらに言う。『丁寧な言葉こそ唯一無二の至高の対応だなんて言ってしまえば、キャバ嬢に「介護ってバカでもできるのね」と笑われてしまいそうです。』

どこに丁寧語で対応することが『丁寧な言葉こそ唯一無二の至高の対応』だなんて書いてある。丁寧語で接することは最低限のサービスの質を保ち、介護サービスの割れ窓をふさぐ効果に結びつくと言っているだけで、それだけしておればでき職業だとは一言も書いておらず、逆に、「それだけはしなけれなばならない職業」であることを指摘しているに過ぎない。

見識の低い、エイデンスを創造しようとしない輩は、こんなふうに論旨のすり替えや、書いてもいないことを自ら作り出して批判するという悪辣な手を使うので、無視するに越したことはない。

こうした一見頑張ってる風、よさげに見える介護職員のため口によって、口調だけを真似る後輩が感覚を麻痺させ、アミーユの隠し撮り映像に映っているような姿になる例は枚挙にいとまがない。そうであるなら、あの映像に映っている姿を創りだしているものが、こうしたタメ口を正当化する、見識の低い連中であり、その罪深さは海より深いと言わざるを得ない。

信念もよいが、お前の信念で今まで何人の人が傷つき、これから何十万人の心を傷つけ続けるんだと言ってやりたい。

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言葉の改革・改善の総仕上げとして


顧客である利用者に対して、無礼な馴れ馴れしい言葉を使うことが、「親しみやすさ」の表現であると勘違いすることによって、汚い言葉遣いを放置してしまう事業者は実に多い。そしてそのことによって、対人援助がサービス業であるという本質を忘れ、利用者の心の痛みに気付かなくなったり、利用者の心と身体を傷つける行為を平気で行う結果につながる例は枚挙にいとまがない。

それは感覚麻痺の結果である場合が多く、そうした感覚麻痺を防ぐために、常日頃から言葉の乱れをなくし、少しでも利用者に対する言葉遣いが乱れたとしたら、即、その場で修正していく必要があるというのが、「介護サービスの割れ窓理論」である。

その理論を提唱する僕は、自身が勤める介護施設及び介護サービス事業所において、利用者やその家族と会話する際に、丁寧語以外で話をすることはない。それは100%あり得ないと言い切ってよく、もし僕が利用者や、ご家族との会話において、丁寧語を使っていない事実が明らかになったとすれば、即この仕事を辞めるだろう。

それほどの覚悟と信念を持って、「介護サービスの割れ窓は言葉遣いである」ことを声を高くして主張している。

そのことは当然、わが法人の職員にも求めているわけであるが、20年以上も前から、そうした理論を提唱し実践している結果、我が法人のサービスでは、ほぼ9割方丁寧語で会話をする日常ケアが浸透していると思っている。

しかし逆に言えば、20年以上かけても、いまだに「介護サービスの割れ窓理論」を実践できない職員や場面が、1割程度は存在するという意味である。実に嘆かわしいことではあるが、それはいかに言葉の改革・改善が困難であるかということの証明になるのかもしれない。

だから、言葉の改革・改善に取り組まれても、なかなか成果が挙がらないとお嘆きの方には、是非あきらめないで、亀の歩みでも良いから、確実にゆっくりと一歩を進める努力を続けてほしいとアドバイスしたい。

ところで、いつまでも1割程度の実践ができていないと言っているわけにもいかない。そろそろ100%の実践が求められる時期であると思う。そのためには大ナタも必要である。そうでなければ新入社員や実習生が、言葉を操れないプロ意識の低い職員の影響を受けて、せっかくの素材を伸ばせないという危険性がなくならないからである。

有料老人ホームSアミーユのような施設職員は、特別に資質が低い職員とは限らず、感覚をことごとく麻痺させて、あの醜い姿に繋がっていったのではないかという視点から、少しでも、1%でもそのような感覚麻痺につながる要素が残っているのなら、それをなくしていくという考えが必要で、今後介護サービスを利用する機会が多くなるであろう「団塊の世代」に属する人々は、年下の者が年上の人に対して、ため口で話しかけることを不快に思う人が多い世代であることを考えても、言葉の割れ窓は徹底的に排除すべきである。

たまたま当施設では、人事考課を取り入れた給与規定の改定を行っており、今年度1年間をかけて、人事考課のための研修を行ったうえで、来年度から人事考課による昇給と賞与支給のシステムを取り入れる予定である。
(※当法人の人事考課とは、単に質の劣る職員の給与を下げるというものではなく、求められている質以上の実践がも認められる職員には、標準規程以上の給与を渡すという視点が入っている。)

その中で、1年間の実践状況を上司に面接したうえで報告し、上司が評価するための書式の一つ「個人目標評価基準」が以下の書式である。
個人目標評価基準
この中で、「A」と評価されると、規程された昇給や賞与支給がされることになる。基本的に人事考課は、給与を下げるのが目的ではないので、このA評価については、「職場が職員に求め、基本的にはすべての職員が実践できる」というレベルの目標を指している。ただし達成される標準レベルとは、経験年数や、持つ資格によっても差があるので、それについては、下記のチャレンジカードに個人目標として定めることになっている。

チャレンジカード
こちらの、『達 成 基 準(具体的行動内容)』のBに、個人として達成可能な、標準的に求められる目標を掲げ、上司の面接によって結果評価を受けて人事考課につなげるものである。
(※本記事は、人事考課についての内容ではないので、細かな基準などには触れないが、仮にA目標が達成されたと評価されれば、標準以上の昇給等につながり、それは改正以前の昇給等より多くの金額を得る結果となる。)

このB基準目標について、職員全員に「利用者に対して、常に丁寧語で会話ができる」という目標を入れてもらうことにした。これは基本的に誰にでもできることだし、やってもらわねばならぬことだからである。これによって、来年度から、「利用者に対して、常に丁寧語で会話ができている」職員が、標準の昇給や賞与支給がされることになり、少しでもそれができていなければ、それ以下の評価となり、昇給額や賞与支給額が下がることになる。

このことについて、人事考課の研修の中で、一般の介護職員を評価する立場の幹部職員(それらの人の評価者は、上司である施設長)に、その目標を入れることを全員に課してよいかと提案したところ、二つ返事で「構いません」という答えが返ってきた。

それはそうだろう。彼ら、彼女らは、100%丁寧語で利用者と接している実践者だから、そのことが利用者との関係上、親しみやすさを奪うものではないことも、コミュニケーションをギクシャクさせるものでもないことも実感しており、かつそのことを実践するには難しいとも感じておらず、誰にでもできる程度の約束事だと理解しているからである。

勿論、このことの実践課程で、落伍者が出てくることもないとは言い切れないが、それは仕方ないだろう。ある程度のサービスの質を担保するためには、法人の要求する最低限のルールと質を担保できない人は、退場願わねばならないと言うことである。

それは僕がこの職場からいなくなっても、その品質が護られることが可能となるために、システムとして確立させておかねばならないことなので、20年以上注意し求めてきたことなのだから、こういう形で総仕上げにかかっても良いのではないかと考えたものである。

求められるサービスの品質を保つために、僕がこの法人に残していく「遺産」として考えていただければと思う。

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お客様は神様じゃないけれど・・・利用者の暴力・暴言への対応


3人の利用者が不審の転落死をした介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」と、そのグループ施設における一連の利用者虐待について、たくさんの報道がされたことで、世間では高齢者介護施設等への不信が広がっている。

大多数の施設が、そうした虐待とは無縁のサービス提供を行っているとしても、あれだけショッキングな隠し撮り映像が全国に流れたのだから、世間一般から、それが「氷山の一角」であると思われ、外から見ればわからない不適切な行為が、高齢者介護施設という密室の中で行われているのではないかと疑われるのは致し方ないことだろう。

ましてや問題となっている有料老人ホームの親会社は、業界唯一の企業で、そのトップは介護について様々な提言をしてきた人である。そうした組織の中で複数の不適切事例が明らかになったのだから、世間が介護事業者に向ける目は、一段と厳しくなるのは当然である。

我々は、そうした世間の不信が拭い去れるように、自分がいる場所で、目の前のサービス利用者の皆様に、真摯に向かい合って、ひとりひとりの暮らしと笑顔を護る支援を続けていくしかない。その結果で、新たな評価をいただくしかない。

何度も繰り返して主張しているが、あの隠し撮り映像を見て、「あれほどひどくはないよね」と安心してはいけない。「それでは、どれほどまでなら良いのか?」と考えたとき、利用者は介護施設に、「よりましなケア」を求めているのではなく、自分が暮らすうえで最大限の尊厳を護るケアを求めているということを忘れてはならず、そうであれば不適切な言動につながりかねない、「馴れ馴れしい言葉や態度」は控えるべきであり、対人援助サービスが、福祉援助として行われる場合であっても、顧客サービスという意識が必要であることも当然であり、他の産業と同じように、お客様に使うことが不適切な言葉遣いや態度については、使わない・行わないという、「常識」が求められるのである。

そういう意味では、「介護サービスの割れ窓理論」は、いまだからこそ真剣に介護サービスに取り入れられなければならない考え方だと思う。

ところで、この問題に関連して、介護サービス事業に携わっている人の中から、「利用者への暴言・暴力が問題になっているが、利用者からの暴言や、暴力を受けている職員の方がずっと多い」という声が聞こえてくる。それらの意見にはなからず、「利用者に対する暴言・暴力を容認するわけではないが・・・。」という言葉が添えられているが、しかし今この時期にこんなことを言ってはならない。それは、どのような前提条件を付けたコメントだとしても、「言い訳」・「不適切行為の正当化」にしか聞こえないのである。

言いたいことはたくさんあっても、今すべきことは、自分の周囲に、「Sアミーユ川崎幸町」の状態になるような感覚麻痺は存在しないのかということを検証し直し、黙々とケアの品質を向上させていくことだけである。反論より先に、前向きな行動こそが求められるものだ。

対人援助というサービスに、ストレスはつきものだと言っても、他の職業だって多かれ少なかれストレスはあるし、そのことを嘆くだけでは何の建設的議論にも結びつかないし、解決法にも結びつかないのである。

ただし介護サービス事業の管理者は、こうした利用者の暴言・暴力を、「お客様は神様」的な視点から、仕方ないと何も対応しなかったり、職員に我慢を強いるだけで放置しておいてはならない。

利用者の暴力・暴言について、管理者はそれが認知症などによるものか、精神的な問題はないのに、単にそれが利用者の性格等に基づくものなのかをしっかり区分して対応しなければならない。

前者の場合、その行動は利用者の望む行動・行為ではなく、行動・心理症状として自己防衛の症状として表れている行為であることを、職員全員に周知し、その行動の原因として、どのような要因が考えられるのかを職員全員で検証し、話し合い、どのようにすればそうした行動がなくなるのか、あるいは症状緩和・軽減できるのかという答えを探し続ける必要がある。その過程で、職員には、そうした行動をとること自体が、利用者にとっての「哀しみ」であり、「辛いこと」なんだと意思統一する必要がある。それがない利用者の行動を受容することはできなくなる。

このことが徹底して指導されている職場では、認知症等で暴言・暴力行為を行う人について、管理者の指導がなくても対応する担当する職員間で、都度対応を話し合って、支援方法を工夫して行く結果となり、その過程で暴言や暴力があっても、それをストレスと感じるのではなく、解決すべき生活課題と捉え、そうした行動にチームで向き合う姿勢が生まれ、それはやがて個々の職員のスキルの向上へと繋がっていくだろう。現に僕の職場で、認知症の人の暴言・暴力がいつまでも症状改善せずに、職員がその対応が困難でバーンアウトするという状態は見られていない。担当現場で、それぞれのチームが旨く対応して、症状軽減に結び付けてくれている。

一方、精神的問題がないのに、職員に暴言・暴力を奮う利用者がいる場合は、管理者が職員をしっかり護らねばならない。利用者は顧客であると言っても、どのような態度も許される暴君として存在してよいわけがない。

そこには顧客であったとして、サービス提供者の尊厳を傷つけてよいということにはならないという、人間として当然守るべきルールは守る義務があり、顧客サービスとして、正しい接遇を受ける権利があるのと同時に、人として許されない行為を行うのであれば、顧客としてサービスを受ける権利を失うという覚悟と理解も求められるのである。

理不尽な暴言・暴力に対しては、断固とした、毅然とした態度が求められるのである。(参照:クレームは頭を垂れるだけで解決しないこともある。

勿論、その前提には、どうしてそのような行動に及ぶのかという事情を聴収することを含めた、話し合いがあることは言うまでもない。こうしたことは、管理者が腹をくくって、自ら対応しないと根が深くなって、取り返しのつかない深刻な問題に結びつくことになりかねない。

職員の不満やストレスは、利用者の行為自体よりも、何にも行動しない管理者に原因があることが多いことを忘れてはならない。

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暴言だけが言葉の暴力ではない


大阪市鶴見区の特別養護老人ホームで、介護職員により暴言を浴びせられるなどして、精神的苦痛を負ったとして利用者が損害賠償を求めていた裁判で2日、大阪地裁は男性の家族が録音したICレコーダーの音声データなどを証拠として、暴言や暴行があったと認定。法人に60万円を支払うよう命じた。

当該事案は、遡ること平成21年8月に明らかになったものである。

訴状によると、訴えを起こしていたのは、身体障害者1級の認定を受けている現在76歳の男性Aさん。Aさんは8年前、大阪市鶴見区の特別養護老人ホームに入所した。その際の施設のパンフレットには「心のかよったケア」などのうたい文句が載っていた。しかし入所してすぐAさんは、「トイレに連れて行ってくれない」、「職員の言葉遣いが横柄だ」などと家族に訴えたという。このためAさんの二男は、AさんのベッドにICレコーダーを取り付けた。そこに録音されていた音声は、常軌を逸した介護ヘルパーの対応だったという。さらに介護職員と口論の末、Aさんの着ていた服は、介護職員によって破られていたといい、その後、医師が診断した結果、身体にはひっかかれたような痕が残っていたことから警察に被害相談したことにより事件が発覚。暴言を吐いた介護職員は、脅迫の罪に問われ罰金刑となり、すでに施設をやめている。しかし施設側は、当該介護職員の暴言は認めたものの、暴力的行為はなかった主張。Aさんはすでに別の施設に移っているが、日常的な暴行や暴言で苦痛を受けたとして、損害賠償を求める裁判を起こしたものである。

ICレコーダーに録音された暴言の数々とは、例えば「はよ起きろや、こら。しばきまわすぞお前」、「何言ってきてんねんお前。死ね、殺すぞ」というものである。

確かにひどい言葉である。しかし・・・である。

この言葉は決して許されないが、ではどの程度の言葉まで許すことができるというのだろう。特に利用者に対して、日常的に丁寧語を使わずに、友達に話しかけるような、「くだけた口調」で日常会話を交わしている人たちは、どこまでなら利用者に対して使ってよい言葉だというのだろう?

そんな線引きなどできるわけがない。線引きができるとすれば、介護サービスもサービス業であると心して、顧客である利用者に対して失礼のいないように、丁寧語で話しかけるという線引きしかできない。

そのことで固苦しい雰囲気を作ってしまうなんて言い訳をしてほしくない。それは介護のプロとして大切なコミュニケーション手段である言葉の伝達能力が貧しいだけの話である。丁寧語を使ってなおかつ親しみを失わずに伝えられるというスキルに欠けているだけの話である。

誰かの人生の最晩年期という大事な時期に、人の心を傷つけてしまいかねない言葉を使わないという心得が大切だ。親しみやすさと勘違いして、馴れ馴れしい無礼な言葉で傷ついている人が、介護サービスを受けなければならない人々の中に多数存在することを考えると、すべての介護職員が、その職場である介護サービスの場においては、丁寧語を使うことを基本としなければならないのである。

暴言だけが言葉の暴力ではない。言葉を発する職員が、その言葉を使うことで「親しみ」の気持ちが伝わっていると勘違いしていたとしても、結果的にその言葉が利用者や、その家族の心に深く突き刺さることがあるのだ。不快な思いを抱かせること自体が失敗なのである。そんなことがないように、丁寧語を使いこなす介護の専門家が求められているのである。

間違ってはいけない。我々は達人ではないのだ。その場その場に応じた言葉の使い分けができる人など、いるとしてもそれは常人を超えた能力の持ち主だけであって、普通の能力しか持っていない我々は、職業として利用者に接している場面では、プライベートの場で使う言葉とは一線を画して、言葉を改めて利用者に接することが唯一、利用者やその家族に不快感を与えないようにできる最低限のマナーである。

下の画像は当施設の様子である。ここに架空の言葉を当てはめてみた。すると実際の場面はとても穏やかな日常場面であったにもかかわらず、架空の言葉によりとても悲しい場面に見えてしまう。それほど言葉は大切で、怖いものなのである。

食事介助中の会話1

食事介助中の会話2

食事介助中の会話3
(※写真は当施設の様子ですが、セリフは架空です。)

この会話の不自然さ、おかしさに気が付かない人であってはならない。しかし実際には、こういう場面は多々見受けられる。例えば、朝職員が出勤してきたときに、元気に明るく、「オハヨ〜!!」とあいさつした時に、車いすに乗っている利用者が丁寧に頭を下げて、「おはようございます。」と言っているとしたら、それはおかしなことなのである。どうして施設長に対しては、「おはようございます。」で、利用者に「オハヨ〜!!」なのだ。大きな勘違いをしていないか?このことに気がつかないこと自体が、介護の常識が世間の非常識という状況を創りだす感覚麻痺である。

僕はこの判決のニュース報道がされた朝、全職員に向けて次のような内容のメモを配布して訓示を行った。

暴言が悪いというだけではなく、顧客である利用者に対して、日常的に丁寧語を使えないことが問題なのです。利用者に友達に使うような言葉や、子供に使うような言葉かけをしていること自体、虐待と言われても仕方ありません。このことも踏まえ、不適切な口調を改めて、丁寧語を使うことを心がけてください。

どうぞ丁寧な言葉で、温かな心を伝えることができる介護の専門家を目指してください。それが小さなことを大きな愛を持って行うことにつながっていくのではないでしょうか。

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どんな言葉で最期を見送ってほしいですか?


介護報酬改定において、大幅減収となった介護老人福祉施設ではあるが、看取り介護加算については増額が図られている。

それは死者数が増える中で、医療機関のベッド数が増えないという状況がある中で、2030年には40万人の人の死に場所が見つけられないという事情があって、そのために介護施設で亡くなる方の数を増やさなければならないという意味があるとともに、終末期にかかる医療費を抑制するためにも、介護施設や自宅等での看取り介護を増やしていく必要があるという、社会保障費の削減というマクロの視点からの意味もある。

その中での看取り介護加算の増額である。

しかし看取り介護加算がいくら増額されたからといって、最大30日しか算定できず、しかも一人生涯一度きりの算定であるこの費用が、運営費に占める割合は微々たるものである。100人定員の施設で見ても、年間平均死者数は10〜30人程度であろうし、その中で看取り介護を算定するケースが9割と想定しても、それが施設経営に影響するほどの増収ではないことは明らかである。

むしろ看取り介護加算を算定するために、かかる手間や、看取り介護を実際に行う際の超過勤務、夜間呼び出しにおける費用支出などを総合的に考慮すると、看取り介護加算は決して施設の増収とはならないという結論になる。よってこの加算を施設の経営安定のための増収と見込んで算定しようとして、看取り介護の体制を整えようと考えている施設管理者がいるとしたら、その経営センスはかなり疑わしいと言えるのである。

だからと言って、看取り介護加算を算定しないということにはならない。なぜなら看取り介護そのものは、特養に求められている基本機能と言えるからだ。

特養が、生活施設であるとするなら、そこは利用者にとって本当の意味での、「暮らしの場」となる必要があり、そうであれば最期の瞬間まで安心して暮らせる場でなければならない。

「最期は家の畳の上で死にたい」という願いは、自宅に帰って死ぬことではなく、自宅に替わる暮らしの場として、長い期間生活していた特養の自室で死にたいという思いとなるように、私たちは心を込めて介護サービスを提供する必要がある。

つまり生活施設は、終生施設となることと同じで、最期の瞬間まで安心・安楽に暮らすことができるという意味は、自然死という状態を、適切に看取ることを当然とするという意味である。逆に言えば、死ぬためだけに別な場所に移動しなければならない場所は、生活施設とも終生施設とも言えず、そこは決して「暮らしの場」にはなり得ないのである。

そうであるがゆえに、地域住民から信頼され、選ばれる施設として、長く安定経営をできるためには何が必要かを考えると、その基本機能として看取り介護を行うということは必然の結果と言えるし、その品質を高めていかないと、特養としての社会的要請に応えることはできず、やがては地域包括ケアシステムの中では、いらない施設という烙印を押され、消滅していく運命しかないと言えるのだ。

そういう意味で、看取り介護の実践は、特養の使命であり、ごく当たり前に備えおくべき基本機能と言ってよいだろう。

だからと言って考え違いをしないでほしいことがある。看取り介護の実践には、職員のスキルアップが必要ではあるが、それは「看取り介護に対するスキルアップ」ではなく、「日常介護全体のスキルアップ」であるということだ。

間違ってはいけないことは、看取り介護ができる職員を育てることが大事なわけではないということだ。大事なことは、死を間近にした人々の暮らしを支え、最期の瞬間を看取ることも、「介護」であると理解できる職員を育てることだ。看取り介護が、特別な介護ではなく、日常の介護の延長線上に、たまたま近い将来の死が予測できる人がいて、その人に対して、最期の瞬間まで安心と安楽の暮らしを提供するために、必要なことをするということに過ぎないと考えることである。

それは誰かの人生の最終ステージを、きらびやかに飾ることではなく、穏やかで安らぎのある日常を最期まで護ることである。

何度も言うように、看取り介護は、日常とは別な場所に存在する特別な介護ではないのである。むしろ日常とのつながりを途絶えさせるような関わり方をしないことが大事なのである。

最期の瞬間までつながる豊かな日常を創造することが一番求められているのだ。職員の笑顔は、そのために求められるものであり、特養で暮らしている人の心を護るための、礼儀や言葉遣いの適正化も、そのために求められるのである。それがケアの品質を左右する重要な要素であることを、管理者は繰り返し職員に示さねばならない。

最期の瞬間、息を止めようとするときに、若い職員から友達言葉で話しかけられたいと思う人が何人いるのだろうか。ため口で見送ってほしいともう人が、何人いるのだろうか。

仮にそのことを、逝く方が寛大な心で許してくれるとしても、一緒に看取ろうとしている家族は不快な思いを持たないだろうか。他人である年下の職員が、ため口で言葉を掛ける姿を見て、親しみを感じる前に、慇懃無礼な馴れ馴れしさに不快感を持たないだろうか。そう考えると、看取り介護の最終場面まで、日常的に易丁寧語を使って利用者と相対するということは、必要不可欠な介護のプロとしての態度なのである。

そして、日常的に丁寧語を使えない人が、最期を見送る時だけに、言葉を変えようとしてもそれは極めてぎこちないものになり、心のこもらないものになるだろう。

職員をそうした存在にしないためにも、日常会話からの言葉の適正化は大切である。

言葉を崩すことでしか親しみやすさを伝えられない人は、言葉を正しくしても、なおかつ親しみの心を伝えられる人に比して、人を傷つける危険性は高くなるというリスクマネジメントが求められることを知ってほしい。

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認知症の人の家族が哀しむもの


在宅で認知症の人を介護している家族の中には、いろいろな人がいる。介護に対する考え方も、認知症になった家族に対する思いもそれぞれだが、中には「介護の達人」と称してもよいような素敵な対応をしている家族もおられる。

それは誰から教えられたものでもなく、様々な形で認知症の家族と、その症状に向かい合う中で得てきた独自の方法だったりする。そしてその根底には、家族に対する深い愛情が存在している。そうなると、僕らはそれらの人に教えられるばかりで、物知り顔にアドバイスしても、自分の言葉が空虚に感じてられてしまうことさえある。

自分の夫の顔さえ分からなくなった認知症の奥さん。しかしその奥さんから、また今日もプロポーズされたと照れる夫。認知症の人の脅威にならずに、愛され続ける存在になるように対応することは、夫婦という最も近い関係であるがゆえにむずかしいことが多いが、ごく自然に認知症の人にとって一番信頼できる存在になっている夫の姿は凛々しくさえある。

我々は時として、認知症の人やその家族から学び取るという姿勢も必要とされる。我々が知っている方法論などは、積み重ねてきた家族の愛情深い関係性の前では、全く意味のないものに過ぎなくなる場面は少なくはない。その時に真摯に学ぼうとするか、無視して理解しようとしないのか、木で鼻をくくるかのような態度で臨むかによって、支援の質の差は広がるだろう。

家族の中には、自分の父母が認知症になったことにショックを感じる人も多い。まさか自分の親が認知症になるなんてと嘆く人もいる。それだけ親という存在は、子にとって頼るべき存在であるということで、そうしたショックや嘆きの感情を持つことを否定する必要はない。そこからいかに立ち直り、自分の親の認知症を受け入れて、認知症という症状があっても、その冠を取り払い、子として、人として、どうかかわるかということを理解していくことが大事である。

そうした経験を経て、認知症の人を介護している家族にとって、介護している親が認知症であったとしても、それは「認知症の親」ではなく、「親」なのである。

我々はそこを間違えてはならない。認知症についての正しい症状理解があることは大事だが、介護支援に当たって、支援対象者を常に「認知症」というフィルターをかぶせて見なければならないわけではない。その人の認知症の症状への対応は、混乱につながらないように症状理解したうえで対応すべきではあるが、その人との関係性は、人が人に向かい合う基本姿勢を貫くことでしか成り立たない。

そこにいる認知症の人は、認知症という状態にあるのかもしれないが、それはその人の存在を語るうえで唯一その存在を規定する状態ではない。その人には、それまで生きてきた生活歴があり、その中で培ってきた様々な人との関係性があり、その環境の中で存在している人として見る必要がある。

その人は、認知症の症状があるとしても、誰かにとっても親であり、祖父や祖母であり、愛する人なのだという理解が必要だ。そのことを決して忘れないでほしい。

認知症の人を家族に持つ人々が、抱く哀しみには様々なものだある。その中でも特に心に深く突き刺さることは、自分の親を、年端もいかない若い介護職員や看護職員が、子供に対するような言葉遣いや態度で接することだ。指示命令口調に終始し、年上の利用者であるという意識に欠けた対応に終始することだ。

それが介護施設であれ、医療機関であれ、居宅サービスの場であったとしても、哀しみの感情を、家族がストレートに介護支援者にぶつけることは難しいだろう。自分の抗議によって、人知れず誰もいない場所で、自分の愛する家族が虐待されるのではないかという不安を常に抱えているのが、家族という存在である。

表の掲示板の「ババって言ったことも憶えていない?」のケースのように、家族は、「職員に物申したら義母の待遇が悪くなったら困る」と考え、じっと我慢するしかないという実態があるのだ。そんなことを当たり前にしてはならない。介護サービスは人を傷つけるためにあるのではない。介護サービスは、人を哀しませるためにあるのではない。

人の暮らしと心を護り、笑顔を作る介護サービスではないと、その存在価値はなくなる。そのためにも、言葉や態度を崩すことが親しみやすさであると勘違いする風潮をなくしてほしい。認知症のことを。「ニンチ」などと略して表現し、家族がその物言いに差別感を抱くようなことをなくしてほしい。(参照:認知症をニンチと略すな

認知症の人と、その家族を蔑むような言葉や態度をなくしていかない限り、介護によって知らず知らずのうちに傷つけられる人はいなくならないだろう。そしてそれは、自分や自分の愛する誰かの身に降りかかってこないとも限らないのである。

介護のプロとして、誰かの暮らしを護る最前線に立つ職業に就いているという使命と誇りを護るために、どうぞ人を哀しませる人にならないようにしてください。

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介護サービスの割れ窓理論は、リスク管理そのものです


人生の最晩年期を過ごす場所は、もっとも安らかに過ごすことができる場所でなければならない。

そういう場所で過ごす人々に関わる職業には、人の暮らしと心を護る高い理念が求められる。対人援助のプロであるなら、そこで暮らす人々の心の平安を保つために、自分で何ができるのか、何をしてはいけないのかを、ごく日常的に考えられる人であらねばならない。そして人の心を平安にする理念と援助技術をもって、常に一定の品質以上のサービスを担保して関わる必要がある。

そこでは、支援者に悪気があろうとなかろうと、利用者の心が傷つけられるような結果は許されないし、どのような言い訳をしてもそれはあってはならないことなのである。

そうであれば日常の対話においての「言葉遣い」もまた、相手に不快を与えないという最低限の配慮が必要であり、顧客である利用者という考え方に基づく配慮が必要である。そこでは「親しみやすさ」という言葉にカモフラージュされるような、無礼な言葉遣いがあってはならないし、対人援助のプロであるからこそ、丁寧語を使いこなし、丁寧語で日常会話を交わしてもなおかつ不自然ではなく、相手に親しみを感じていただくプロの技が求められる。逆に言えば、丁寧語を使いこなせない程度のスキルで、なにがプロかということになる。

看護師という資格も、社会福祉士という資格も、介護福祉士という資格も、介護支援専門員という資格も、対人援助サービスの場で丁寧語を使いこなせないような人物の上に乗っかっているとしたら、その資格は全く無意味である。それは裸の王様の王冠ほどの価値もない。

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2015年2月17日:北海道新聞朝刊第4社会面の掲載記事より
宗谷管内浜頓別町の特別養護老人ホーム「ふれあいの里」で男性介護士2人が入所者を虐待した疑いがある問題で、監査をした宗谷総合振興局は16日、施設を運営する社会福祉法人「群生会」(本部・旭川市)に介護保険法に基づく改善勧告をした。

監査で、2人を含む複数の職員が日常的に入所者へ乱暴な介護をしたり、大声で暴言を吐いたりするなど不適切な行為をしていたと確認した。

同振興局によると、勧告は13日付で口頭と文書で実施。勧告で施設側に入所者の人格尊重や虐待防止の研修実施などを命じ、3月16日までに再発防止策を提出するように求めた。同施設によると、介護福祉士2人は昨年12月下旬に自主退職したという。群生会は「勧告は真摯に受け止め、深く反省し改善する」としている。

この問題は、施設内で働く男性が昨年11月、虐待を見たと施設長らに証言。施設長が高齢者虐待防止法に基づき同振興局に通報し、同振興局が監査していた。
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日常的な大声での暴言は、その時点で施設長はじめ管理職の耳に届いていなかったのだろうか。そもそもそうした職員の利用者に対する日常会話における言葉遣いはどうだったのだろう。おそらくそれは、丁寧語とは程遠い、乱れた言葉であったであろうことが容易に想像される。施設の管理者が、職員の言葉遣いに鈍感であれば、乱れた言葉遣いがエスカレートし、乱れた言葉が乱れた心を生み、不適切な言葉遣いが虐待に発展するというケースは少なくはない。

だからこそ僕は、「介護サービスの割れ窓理論」を提唱し、言葉遣いが乱れるという小さなほころびを是正して、利用者は顧客であるという意識をもって、お客様に使うにふさわしい言葉遣いで接することが必要であると言い続けてきている。保健・医療・福祉・介護の職業だけが、お客様であるはずの利用者に対し、友達や年下の人に話しかけるような言葉遣いが許されている現状はおかしいと指摘してきた。

言葉を崩すことが利用者に親しみを感じてもらう方法だと思い込んでいる人によって、利用者は若者にため口で話しかけられる立場になったことを心の奥底で嘆き悲しんでいるのかもしれない。そういう状態を引き起こさないためにも、誰もが不快にならない丁寧な言葉遣いが求められるのである。

接客意識のない対人援助サービスは、目の前の人々を人と思わなくなる危険性を内包したものにならざるを得ない。乱れた言葉を放置する対人援助サービスは、人の心を傷つけることに鈍感にならざるを得ない。そのことに危機感を持ってほしい。なぜならそこで傷つけられるのは、他人ではなく、近い将来あなた自身であるのかもしれないし、あなたの愛する誰かかもしれないのである。

だから我々が対人援助のプロとして主力になっている今この時代に、対人援助サービスが持ち続けてきた負の遺産を捨て去り、我々の時代に100年先の対人援助のスタンダードともなり得るサービスの質を創っていかねばならない。その根幹をなすものが言葉の乱れを放置せず丁寧語をスタンダードとすることである。丁寧語を使いこなすことができるプロによって支える介護を創ることである。

介護施設や介護サービス事業所の管理者には、言葉を正すことがリスクマネジメントの基本であるという理解が必要であると思う。そういう意味からも僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」が介護サービスの場に深く浸透することを願ってやまない。

言葉は心を超えないという有名な歌のフレーズがあるが、我々の職業は、心を言葉で伝えるコミュニケーションが主体になる職業であり、心を表す丁寧な言葉遣いは、基本として求められるのであるという理解が必要なのである。

今朝の朝礼では、この新聞記事をコピーして職員に配布し、あらためて日常の「言葉遣い」の大切さについて訓示したが、その思いが伝わることを望むだけである。

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対人援助のプロとしてふさわしい態度


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※このたび、孤独のグルメ日記風に、新しいブログ「masaの血と骨と肉」を作りました。お暇なときに覗きに来て下さい。グルメブログランキングに参加していますので、文字リンクをぷちっと押して応援お願いします。
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我々は介護サービスの場で、対人援助のプロフェッショナルとして利用者に接しておらねばなりません。介護サービスの場で、利用者を様々な形で支援することによって、「生活の糧」である収入を得ているのですから、自分の性格や家庭事情を超えたところで、職業人として適切に顧客である利用者に対応する必要があります。

このことは、どんな職業でも同じであり、接客という意識と態度を持たなくてもよい職業など存在しないはずです。ところが保健・医療・福祉・介護の分野では、顧客意識に欠ける態度で接する従業者の態度が目立ちます。

それは、サービスを利用する方々が、何らかの病気や障がいなどを抱えて、誰かの手を借りなければならないという状態の中で、手を差し伸べるべき支援者側の意識に、「施し」の意識があったり、弱者に対して手を貸してやっているという意識が生まれているからではないでしょうか。

普通我々は初対面の大人に対して、いきなり馴れ馴れしいため口で会話することはありません。年上の人であるならなおさらです。しかし保健・医療・福祉・介護の分野では、しばしば初対面の大人に対して、「〜だよね。」などと話しかけている場面に出くわします。それが親しみの表現だとでもいうのでしょうか?僕はそのことに対して、無礼な馴れ馴れしさしか感じ取れません。

だからこのブログ記事では再三、「介護サービスの割れ窓理論」を提唱し、言葉遣いの乱れが、感覚麻痺につながり、やがてそれは不適切な態度から虐待につながりかねないものだとして、接客意識を持って、丁寧語で顧客である利用者との会話に努めるべきであると主張してきました。

少なくとも僕は、自分の所属する施設・事業所の中で、利用者の方々に馴れ馴れしい言葉で接することはなく、どのような状態の人に対しても丁寧語で会話しています。例えば認知症の人で、現在からさかのぼって何十年もの記憶がなくなってしまっており、自分が幼児だと思い込んでいる人がいたとしても、子供に使うような言葉で話しかけることはありません。そのことで何らかのコミュニケーション障害が生じたことはありません。言葉を崩して、馴れ馴れしく接することが必要だと感じたこともありません。

そもそも対人援助の場で、利用者が求めている言葉とは、馴れ馴れしい言葉ではなく、利用者本位の言葉なのです。

「どんなふうに言葉をかけられたらうれしいですか?」というアンケートには、大半の人が利用者を気遣い、相手の利益に配慮した言葉が「うれしい」と答えています。

利用者を中心においた丁寧な言葉かけが求められているのです。自分本位であったり、指示的、命令的であったり、相手に対して否定的であったりすれば、どんなに言葉づかいが丁寧でも相手を傷つけることになってしまうことを私たちは再度自覚する必要があるでしょう。

「がんばって」という言葉かけは、毒にも薬にもなるため、場合によっては嫌がられるおそれがあることも知る必要があります。ときには、がんばらなくても続けられる暮らしのほうが重要なのです。

それとともに、我々が気を使うべきなのは、言葉だけではないということです。誰が仏頂面で声をかけられて喜ぶでしょうか。

僕は飛行機で移動する機会が多いのですが、その時、キャビンアテンダントの方々の笑顔がとても気持ちよく思えることがあります。彼女らは接客のプロとして、けっして笑顔を絶やしませんが、我々も同じく対人援助のプロとして、自分の表情にも気をつける必要があると思います。生活の疲れを引きずった表情で、利用者に接することが許される職業に、国民は国費で対価を支払うことを許し続けるでしょうか?待遇が低くて当たり前と思われる職業にしないためにも、言葉と表情に気を使うプロを育てていく必要があります。

辛いという言葉に、一を足すだけで幸せという文字に替わります。介護は、この一を見つけ、この一を利用者につなげるために存在するのです。

そのためにも、介護のプロとして自分自身の言葉と表情と態度に気を使う人でいてください。

その向こう側には、きっと利用者の方々の幸福な表情が見えて来るはずなのですから。

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適切な言葉もプロの技


いいですか・・・皆さん。私達は他人の暮らしに介入して、その人の命や尊厳を護るプロなのですよ。

ですが私達は、それを施(ほどこ)しとして行っているわけではありません。むしろ手を差し伸べる人がそこに存在しているおかげで、私達の対人援助サービスと総称される社会活動は、職業として成り立つわけです。

例えば特養の現状を考えると、現在は利用者の確保に困るという状態ではありません。特段営業活動をしなくても利用者は確保できます。しかしそうであるからと言って、私達は利用者が入所してくれるから、労働対価としての報酬を得ることができるという事実に変わりはありません。その事実は厳格に存在しています。

利用してくれる人がいない施設で働いても、一銭のお金も手にすることはできないのですよ。

私達は対人援助という公益性の高い職業に就いているとは言っても、それはボランティアではありません。そうである以上、そこから生活の糧(かて)を得ているということであり、私達のサービスを利用してくれる人は、社会的弱者という存在ではなく、お客様そのものです。

そのことを決して忘れてはなりません。お客様は、我々に親しみやすさを求めるかもしれません。しかしそれ以上に、自分の命と尊厳と暮らしを護る「介護のプロ」としての知識や援助技術を求めているのです。自分の暮らしの中に踏み込んで、馴れ馴れしい口調でジョークは言えても、暮らしはちっともよくならないなんて言う結果は求めていないのです。

その優先順位を間違えてはなりません。ましてや親しみやすさを、慇懃無礼な馴れ馴れしさと勘違いしてはならないのです。

きちんとしたプロの知識と援助技術を持ったうえで、お客様に親しみやすさをどう感じていただけるのかを考えてください。プロであるなら、それは言葉を崩して、汚らしい言葉や、家族間でしか使わないような言葉で伝えるのではなく、きちんと丁寧語を使いこなして、相手を思いやるという自分の心を伝えることで、お客様に親しみやすさを感じてもらい、信頼を得てください。

仕事の上で使う言葉が、丁寧語以外であっても仕事に支障はきたさないかもしれません。その言葉にお客様が、必ずしも不快な思いを持たないかもしれません。しかし、言葉を崩すことのほうが、丁寧語を使うことよりお客様が不快になるリスクが1%でも高ければ、そうした言葉は使わず、リスクの低い言葉を選択するというのが、プロとしては当たり前のことです。それができない人は、プロではなく素人ですから、そこで報酬を得ることはおかしいのです。

丁寧語を使うと、お客様に堅苦しいと思われるなんて言い訳をしないでください。それはあなたのプロ意識が低いから、仕事で接するお客様に対して丁寧語を正しく使いこなしていないから生ずる問題です。

丁寧語を使い慣れていないから、プロの技として丁寧語で話すという話術を持っていないから、いざ丁寧語を使おうとしたときに、ぎこちない言葉遣いになってしまうのです。そうした場合にお客様に感じさせる、「違和感」が、「堅苦しい」と思われるだけなのです。

それはあなたのスキルが低いということの証明にしか過ぎません。

自分のスキルの低さに対し、お客様が気を使ってくれているに過ぎないのです。言葉を正しく使いこなさないことを許してくれているに過ぎないのです。そのことに甘えてどうするのです。丁寧語を使いこなせないスキルの言い訳をしてどうするのです。

「そんなに言葉に気を遣わなくていいよ」っていうのは、ぎこちない言葉遣いしかできないあなたに、お客様が気を使って言ってくれている言葉です。どうして気を使うほうが、気を使っている相手に対してお金を払うのです。逆でしょう。

くだけた言葉は、時として人を馬鹿にした言葉に聞こえます。そんなことはない、そう感ずるのは誤解だとは言っても、それは誤解が生じかねない言葉を使っているあなた自身の責任なのです。あなた自身が原因となって障害が生まれているのです。あなた自身が障害なのです。あなたがいないほうが、誤解した人は幸せだったかもしれません。

そんなあなたにこの場所で、どんな存在価値があるというのですか。言葉を正しく使えない素人のあなたが、介護の現場でどんな価値を生み出すというのですか。そんな言葉で生活の糧である報酬を得ていることに恥を感じないのですか?

人間の心という、デリケートなものに相対する介護サービスの場で、言葉遣いに気を遣えないあなたは邪魔者でしかありません。

人の感情という目に見えないものに、優しさをもってアプローチしようとする介護サービスの場で、言葉遣いに注意できないあなたは邪魔者でしかありません。

私たちの仕事の邪魔をしないでください。お客様安心して安楽に暮らそうとする場所で、その暮らしを創る邪魔をしないでください。

言葉遣いもプロとしての援助技術であることに気が付かない人が、プロのような顔をしないでください。どうぞそこをどいてください。

プロの心構えも理念もなく、プロとしての言葉の技術を使えない人が、資格を持っていても恥ずかしいだけなのです。その醜い姿、恥ずかしい姿かたちに早く気付いたほうが良いですよ。

和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)の皆さんが、素敵な動画を作ってくれました。ぜひご覧ください。


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言葉の使い方に気を使わない人に傷つく人


ソーシャルワーカーとは、人間の尊厳を護るために社会活動を行う人のことをいう。

しかしそのことが求められるのはソーシャルワーカーだけではない。対人援助に携わる人すべてにその心構えが求められてくるだろう。

そんなことは他者から言われなくても十分わかっているという人が多いのかもしれない。しかし本当の意味で、人の尊厳を護るという意味を分かっているのかと疑いたくなる人々が、この業界にはたくさん存在する。

それは対人援助の知識や技術がまったくない人という意味でもなく、全然仕事のできない人という意味でもなく、悪い人という意味でもないから厄介である。

ある場面を取り上げて、その人の仕事ぶりを評価すれば、なるほどたいしたものだと思える人であっても、特定の場面で平気で人の尊厳を損なうような言動をとっている人がいる。しかも当の本人には、その人の言動によって心を傷つけられている人が存在するという自覚がないから、問題はより深刻である。

専門職として適切な援助知識と技術を持っているのに、人の心の襞に気がつかずに、何気ない言葉で人を傷つけている人がいることは、対人援助という職業に対する信頼度を揺るがしかねない問題であり、すべての専門職がその問題の存在を意識すべきである。

認知症をニンチと略すな!!」というブログ記事を書いたのは、もう4年も前のことだ。

この記事を書いたきっかけは、僕の管理するネット掲示板上で相談を受けたことによるものだ。

その相談とは、自分の親を在宅で介護をしている娘さんが、訪問介護や通所介護を利用しようと思い市に相談したところ、居宅介護支援事業所のケアマネジャーを紹介され、そのケアマネが、娘さんの自宅に契約に来た時の応対について、「このケアマネジャーを信用してよいのでしょうか?」という問いかけから始まった。

相談者である娘さんが問題と感じたケアマネジャーの対応とは、言葉の使い方に尽きる問題であった。その娘さんはアルツハイマー型認知症と診断されていた自分の親の相談をしているのに、そのケアマネジャーは、「ニンチの人をたくさん受け入れているデイサービスがあります。」、「ニンチであっても問題なく利用できますし、ニンチが進行しないような対応も考えてくれますよ」と言ったそうである。

彼女は、認知症をニンチと略して表現するケアマネが、あたかも年上である自分の親を見下しているように感じられ、認知症の家族を持つ者に対してあまりに配慮がない対応のように思え、信用できないと感じたのである。

「親の病気を略して表現するなんて、呼び捨てにしているのと同じではないですか?」、「介護の世界では認知症をニンチと呼ぶのが当たり前なんですか?」、「認知症という短い言葉を、なぜニンチと省略する必要があるんですか?」と嘆いていた相談者の訴えは、正当な訴えだろうと思って、その記事を書いたものである。

そして僕は、その記事を書いただけではなく、自分が行う認知症の理解に関する講演では、冒頭で必ずこのエピソードを紹介して、「安易に症状名を省略することで哀しんでいる人がたくさんいます。痴呆症という言葉を認知症という言葉に替えた意味は、痴呆という言葉には差別的イメージが含まれることから、呼称を別なものに変えて、認知症の人に対する差別や偏見が生まれないようにし、認知症の人やその家族の尊厳を護るためでした。それなのに新しい呼称を略して使う人がいます。しかしそのことで新たな差別が生まれるのではないでしょうか?」と訴えてきた。

あれから4年の月日が経つのに、いまだに「認知症」を安易に略す輩が存在する。先日もあるケアマネジャーが、自分がど忘れしたことを自嘲気味に、「俺もそろそろニンチが入ってきた。」と言っている場面に遭遇した。当人はジョークのつもりであろうが、僕は笑うことができなかった。その場所に、認知症の人を家族に持つ人がいないかと思って気を使うと同時に、すごく腹が立った。

当市の地域包括支援センターの職員や、認定審査委員の中にも、「あの利用者、ニンチではない」、「あの人ニンチだから」という言葉を日常的に使っている人がいる。恥ずかしことだ。何度指摘したらその恥に気がつくのだろうか。

認知症を、「ニンチ」と略して、その言葉が改まらない人に言いたい。あなたは対人援助に向いていません。すぐおやめなさい。

※次期介護報酬はどうあるべきかについてのアンケートを実施しています。是非回答協力をお願いします。(5/22回答締め切り)

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介護サービスの割れ窓理論に共感してくれる人たち


介護サービスの現場で、一番欠けている教育とは何か?ということを考えた時に、僕がそれに答えを出すとしたら、「利用者は単なるユーザーではなく、顧客であるという教育がされていないということだ。」と回答するだろう。

顧客満足度という視点に欠けているから、チームケアの必要性を意識できないし、チームとして機能しようとしないとも思う。

利用者を顧客と見ない意識では、適切なサービス業としての労働対価が支払われなくても仕方がないし、顧客満足度を意識すれば、丁寧語を使わないという選択肢は有り得ないと思う。

そのために僕は、「介護サービスの割れ窓理論」を提唱している。

割れ窓理論とは、もともと犯罪心理学の中で唱えられている理論で、割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてそうした建物が地域に増えることで、地域全体が荒廃していくという理論で、割られた窓をすぐに補修することで、そうした荒廃を防ごうという理論だ。

僕は介護現場の割れ窓は言葉であるとし、言葉の乱れが常識ではない感覚麻痺を促進させ、虐待に繋がると考え、まず言葉を正しくすることが大事だと主張している。

言葉を正して、利用者に対する言葉遣いは丁寧語を基本にすれば、心の乱れをある程度までは防ぐ効果もあるし、言葉だけを正しくして態度が荒れてきたら、周囲の人はそのことに対して違和感を覚え、その不自然さ、不適切さに気づきやすくなり、深刻な問題に繋がる前にほころびを指摘でき、修復できるという効果もあると考えている。

利用者に対して丁寧語以外の言葉で話をする必要性はないし、丁寧語を使っても親しみやすさは損なわない。むしろ言葉を崩すことで弊害を生む例がたくさんあることを紹介し、親しみやすさという名の、無礼な馴れ馴れしさはいらない事を様々な事例を挙げて説明している。

特に2025年には、団塊の世代の人々が後期高齢者の仲間入りをして、介護サービスを使う人がさらに増えてくるだろう。それらの世代の人々は、企業戦等として高度経済成長期を支えてきた人で、我々の世代より上下関係に厳しく、サービス業の言葉遣いに敏感な世代であり、我々が言葉を崩すことで不快になる人は多く、同時に崩した言葉に傷つく人も多いはずである。

そうならないためにも、今、我々の世代で、顧客サービスとしてふさわしくない言葉でサービス提供するのが、親しみやすさの表現だという変な誤解をなくして、顧客サービスとしてふさわしい言葉遣いを普通にできる介護を作っていかねばならない。今変えていかないと、汚い言葉でいつか我々自身が傷つき、我々の愛する子供や孫が傷つけられるのである。

保健・医療・福祉・介護の仕事以外で、どこに顧客に対して砕けた言葉が通用する職業が他にあるのかを考えた時、こんなことは議論にさえもならないのが本来で、一部のカリスマ性を持った指導者が、言葉を使い分けるのがプロであるかのようにふるまって、汚らしい言葉で伝道師気取りしているのはどうにかならないものだろうかと思う。

言葉は、それを使う人自身の人格になり、やがてそれは運命になるのである。

そのことは僕の著作本でも繰り返して書いていることであるし、テーマが異なる様々な講演でも必ずお話しすることである。そして正しい言葉を使うということは、何のテクニックも必要としない事なので、やる気になれば今この瞬間からできることなのである。

僕が行う講演では、できることしか話さない。だから共感する人は、自らを変え、介護の現場を変えているのである。

先日もある方から次のようなメッセージをいただいた。

『一緒に働いている相談員が〇月〇〇日に講演を聞きに行かせてもらいました(私は留守番してました)。その後、彼女の何が変わったかというと、「言葉」でした。もともと丁寧に話をする人でしたが、講演を機に、人にもそれを伝えていくようになったことがとてもうれしく思います。
彼女曰く、ブログでも、本でも、講演でも、言われている内容が一貫していて、とても分かりやすい、当たり前のことを当たり前として丁寧に行うことが基本中の基本なのに、それを忘れていたことに気付かされたと話していました。』


このように、僕の話を日々の業務に生かしてくれる人がいることは、とてもうれしいことだ。それによって、利用者の尊厳と暮らしが守られていくことになれば、これに勝る幸せはない。

僕は誰かの心に咲く赤い花を一輪ずつ増やしていくことが、自分に与えられた使命であると思ってはいるが、僕一人でできることは限られている。しかし僕の話に共感して、「人にもそれを伝えていくようになった」人が、自らの職場でそのことを伝えてくれるのであれば、これは大きな波になる可能性がある。

僕の話を聴いて共感してくれた方々にお願いです。どうぞそのことをあなたの周り人々にも伝えて、その実践者を周りに少しずつ増やしていってください。全ての人が変わらなくとも、あなたの周りの幾人かの人が変わっていくだけで、それはいつか介護イノベーションにむすびつくかもしれないのですから、そのことを信じて続けていきましょう。

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言葉を使い分けなければならないと考える愚かさ

介護サービスの場では、従業員が利用者に対する配慮を欠いた言葉や態度で接する場面が多々見られる。それを放置することで心の乱れが加速し、世間の非常識が介護サービスの常識であるかのような感覚麻痺が引き起こされ、やがてそのことが虐待行為に結びついてしまう事例がある。

そこでは世間から見れば明らかに人権侵害行為である虐待が行われているのに、虐待を行っている当事者は、自分がそのような人権侵害を行っていることにさえ気がつかずに、虐待という意識がないまま、利用者を傷つけている場合がある。

このことを防ぐために、態度が荒れるきっかけになる小さなほころびは、言葉の乱れであると考え、介護サービスの場で利用者に対して、丁寧語を基本にして、それ以外の言葉を使わないように注意しようとするのが、僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」である。

そのことを先日、「丁寧語を使うことは他人行儀ではない」という記事にしてブログに載せたが、そこに次のようなコメントが書き込まれている。
-------------------------------------------
・自分も丁寧語を使うのが基本だと思います。ただ、そうではないケースの場合も想定されると考えます。
例えば認知症の方が、自分の過去などに回帰している時などが想定されると考えます。
ただ、いずれにしろ丁寧語を基本的には使うことが前提です。ケース、状況に合わせことばを駆使できるのが、プロの対応だと思いますが、如何でしょうか?
自分は出来ているか、まだ自信はありませんが、そのように出来ればと考えております。

・丁寧語の定義とは?ご教授いただけますか。 自分としては、赤ちゃん言葉や軽い言葉と言っているつもりは無いのですが…

・認知症のかたへの言葉使いですが、自分はその方に分かってもらえる言葉を使いたいと思います。それは声のトーンや語感を含めて。 ただ、出来るかぎり丁寧語を使います。

-------------------------------------------

リンク先のコメントを読んで分かるように、これは僕のかなり辛辣で乱暴なコメント返しに対して、冷静にコメントを書くことができる人の文章で、この人は介護サービスに携わる職員としては、かなりスキルの高い優秀な人ではないかと感じている。

しかし僕はこうしたコメントには、徹底的に言葉を荒げて反論していく。なぜならここ何十年も介護の現場で不適切な言葉がなくならない最大の理由が、「ただ、そうではないケースの場合も想定される」とか、「ケース、状況に合わせことばを駆使できるのが、プロの対応」だとかいう屁理屈によるものだからである。

常に相手の心情にベストマッチした言葉の使い分けが出来る人なんて存在しない。使いこなせると勘違いした人々が、この業界でいつまでも顧客に使えない言葉を改めない元凶になっているのだ。もしかしたら僕があったことのない、「すべての状況に合わせて言葉を使いこなせして、決して人を言葉で傷つけない達人」がいるかもしれないが、それは神業であって、万人がそうなれるわけではなく、そうした達人の言葉の悪い部分だけを真似してしまう人によって、この業界はずっと素人の接客が続いているのである。

そうであるがゆえに、顧客サービスの場では、一定以下の水準に言葉を保つ必要があり、それが丁寧語という線引きである。それ以外の「ケース、状況に合わせことば」なんていうのは、使い分けをしていると勘違いしている人間の勝手な思い込みでしかなく、使い分けられている人間にとって利益になっているとは限らないのである。

言葉のトーンや語感に配慮するというのは、ごく当たり前のことであり、そうであるからといって、その時使う言葉を丁寧語以外にする必要はないし、絶対にその水準から下げないというサービスの質の方が重要である。

そもそも丁寧語ではない言葉を選択する理由について、「例えば認知症の方が、自分の過去などに回帰している時など想定されると考えます。」と言っているが、認知症の人が子供に回帰していても、顧客サービス従事者は言葉を乱すべきではないし、丁寧語のままでも十分適切な対応が可能なはずだ。それをする努力なしに、自分が状況に合わせて言葉を付き分けることができるなんて幻想を持ってしまうから、乱れた言葉が医療・介護業界にはびこるのである。

だから僕は、こうした発言を繰り返す人が、実際にはとても素晴らしい人材であっても、その発言は健康な細胞を侵す癌のようなものだと考え、強い言葉で反論を書き続けるのである。
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丁寧語を使うことは「他人行儀」ではない。

僕が提唱する、「介護サービスの割れ窓理論」とは、利用者は単なるユーザーではなく、顧客であるという考え方が根底にあり、介護サービスの場で、世間一般的に顧客に対して使わないような言葉遣いで対応することは非常識であるという「当たり前の感覚」を身につけることが大事であるという考え方である。

どこの世界に、タメ口が顧客サービスになりうる職業が存在するというのだろうか。それは医療や、介護現場の誤った価値観である。

乱れた言葉で顧客である利用者に対応することを放置しておくことが、世間の常識と介護サービスの常識を乖離させる原因になっているのである。言葉遣いを正して、お客様に話しかけるにふさわしい言葉と態度で接するべきであるということを常識化していかなければ、介護はいつまでも、「素人でも、誰でもできる単純労働」という見方から脱却できない。

「割れ窓理論」は、もともと犯罪心理学の中で考え出された理論であり、それは割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてはその地域全体が荒廃していくという理論であるが、 介護サービスにおける割れ窓は言葉であり、言葉の乱れを放置しておくと、世間の常識ではない感覚麻痺を促進させ虐待に繋がる恐れがあるというのが、「介護サービスにおける割れ窓理論」である。

勿論、言葉を正したからといって、必ずしも感覚麻痺が生まれないとは言えないし、心の乱れと態度の悪化を必ず防ぐとは言えないが、しかし言葉を正しくすることで心の乱れをある程度までは防ぐ効果もあるし、言葉の乱れを感覚麻痺の始まりであると考えることができ、同様に虐待につながる不適切な態度へのサインと考えることができる。そのことに気がつけば、取り返しのつかない行為に至る前に、何らかの対策を講じることが可能になるだろう 。

だから我々が介護サービスを提供する場で、お客様である利用者に対応する際に使うべき言葉とは、最低限「丁寧語」であることを常識化させねばならない。

しかしそうした主張に対し、それではあまりに他人行儀ではないかと主張する人がいる。

他人行儀とは、「他人に対するように、うちとけないこと。また、そのさま。」という意味であり、それは「関係を阻害する」という否定的意味を持つ言葉であるから、丁寧語を使うことが他人行儀であるということになれば、介護サービスの我窓理論の理屈は根底から覆されることになってしまう。

しかし丁寧語を使うことは、決して関係を阻害するような打ち解けない雰囲気を作るものではない。正しい丁寧語とは、本来人の心を打ち解かすために存在するものだからだ。

丁寧語で利用者に話しかけることを「他人行儀」であると主張する人々は、自分が顧客としてサービスを受ける場で、砕けたタメ口で話しかけられることを望んでいるとでも言うのだろうか。自分の親が、学校を卒業したばかりの若輩職員にタメ口で話しかけられ、ニックネームや、ちゃん付けで呼ばれることを望んでいるとでも言うのだろうか。

対人援助サービスである介護サービスに関わる我々は、対人援助のプロとして、丁寧な言葉を使ってもなおかつ親しみやすさを失わず、利用者から信頼感を持っていただけるような印象を与えねばならない。そしてそれは決して難しいことではなく、達人技ではない。

利用者に丁寧語を使って話しかけても、親しみが失われることはない。そもそも言葉を乱暴にして伝わる感情とは、親しみの感情ではなく、「馴れ馴れしさ」だけである。それはぶしつけであり、遠慮がなさすぎるという意味でしかない。

世界一ボキャブラリーの豊富な日本語で、人生の先輩と敬うという誇り高き謙譲心を忘れずに、顧客である利用者が不快にならない配慮を持って丁寧語を発し続ける人になることが最も必要であり、そしてそのことはさほど難しいことではない。要は個人の自覚と、介護サービスという職業に誇りを持っているかどうかという問題である。

人の暮らしに直接関わりを持つことの使命感や誇りを持って、正しい言葉でコミュニケーションを取れる人になることが大事である。言葉を汚くすることが親しみやすさの表現であるとか、荒々しい態度がくだけた人間関係を作り、コミュニケーションが円滑になるかのような間違った価値観を徹底的になくすべきである。

誰からも不適切に思われない、正しい顧客に対する言葉遣いを続けるだけで、介護の質はもっと向上するだろう。

このように丁寧語を使ってコミュニケーションを取るという意味は、決して「他人行儀」になるということではないが、一方で我々は利用者にとっては家族ではない、他人であるという自覚は必要である。

そもそも我々は、利用者にとって本当の家族にはなれないし、なってもいけない。我々は家族として介護支援を行うのではなく、他人である第3者として、福祉援助や介護サービスのプロとして関わっているのである。それは家族より以上の、配慮、心配りを求められるという意味であり、言葉遣いに気をつけるという心遣いは、対人援助のプロとして最低限持つべき倫理観として存在するのである。言葉を崩して馴れ馴れしい関係になっていくことは、この倫理観を歪めてしまうことにつながるであろう。

一方でこの業界には、自分が関っている顧客に対し、「じいさん、ばあさん」・「じっちゃん、ばっちゃん」と呼ぶことができることが、利用者からの信頼を得ている証明のように思い込んでいる人がいる。

そういう人が、いろいろな場所で、そのような言葉を使ってレクチャーしていたりする。その人はもしかしたら介護の達人であって、我々凡人と同じ配慮をしなくても、人を不快にせず信頼を得られる特殊な人なのだろう。しかしそう言う人が凡人に向かって、言葉遣いはたいした問題ではないと言い放ち、あたかも汚い言葉で利用者に話しかけることが親しみやすさの証明であるかのような印象を与え、その人の実践力を真似る前に、その汚い言葉だけを真似する輩を全国に大量排出している事実を見ると、その達人と呼ばれる人の存在は、功罪どちらが優っているのか大いに疑問である。
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言葉は心になる


北海道内陸別町の特養で、職員の虐待行為が明らかになったと報道されたのは先週のことである。

80代の女性入所者が、20代の男性介護職員2人から、夜勤時間帯に頬を平手で複数回叩かれ、暴言を浴びせられていた。さぞ怖かったろう・・・。

我々は、ほかの誰からも見られることがない夜間帯であるからこそ、「神のように自分の心一つでなんでも決めることができることの怖さ」を知るべきであり、人の命や暮らしや尊厳を守るものとしての使命感を持って接することが求められるはずである。それを失うことは、人の心を失うことである。

この事実を把握した法人は、4/1からこの二人の職員を出勤停止にし、その後2人は依願退職したそうである。今後は刑事責任を問われることになるかもしれない。いや問われなければならないと思う。夜間帯で、利用者と1対1で関わる場面で、利用者はそこから逃げることも、ほかの誰かに助けを求めることもできない。そうした中での暴力・暴言は卑怯極まりない行為である。それは犯罪以外の何ものでもない。

しかしこの2人以外に、別の女性介護士5人も暴力的な言葉を使っていたとして、法人はこの5人を戒告などとしたほか、施設長ら上司3人を更迭したとのことだ。

このように多くの職員が暴力・暴言という虐待行為を行っている施設の日常会話はどうなっていたのだろう。言葉遣いの教育はされていたのだろうか。

そもそも暴力的な言葉とは、どのような言葉なのだろう。暴力的な言葉とそうではない言葉は、どのように区別するのだろう。

例えば「ここで待っていてください。」という言葉を、「ここで待ってなさいね。」といったとしても、それは暴力的表現にならないのだろうか。「ちょっと待ってね。」なんていう表現は暴力的な表現とは言えないかもしれないが、少なくとも顧客に対して使う言葉としては適切ではないだろう。

僕は、そういう言葉かけには不快感を覚える。自分が利用者として使っているサービスの現場で、サービス提供に関わっている従業員が丁寧語を使わなければ不快感を覚える。それは顧客に対する暴言とは言えないのだろうか?

梨花に冠を正さずという言葉があるように、人の暮らしに寄り添う我々の職業では、暴力的な言葉・暴言と思われかねない誤解されるような言葉を、日頃から使わないようにすべきだと思う。友達同士の会話で使うようなフレンドリーな言葉遣いを、顧客である利用者に対して使うことは不適切だと思う。堅苦しさを感じないようにフレンドリーに言葉を崩すことも誤解を受けるリスクが高い。

そもそも親しみやすさを示すために言葉を崩すのは間違っていると思う。適切かつ丁寧な言葉遣いでも、真心は伝わるはずだからである。

僕は先週の朝礼で、その特養の報道記事を詳しく読み上げ、日常的に正しい丁寧語を使う必要性をあらためて職員に訴えた。

たとえば、方言はその地域にとっての宝で、素晴らしい言葉であると思うけれども、顧客サービスの現場で、一般的に顧客に対して使われない方言を使うのは間違っているし、介護サービスの現場であれば、それが許されると考えるのは大いなる誤解であると思う。同じく顧客サービスなのだから。

世界一美しいと言われる日本語を、美しく使っても、利用者に対する親しみは失われないと思う。

言葉を正しく使っておれば良いというわけでもないし、丁寧語を使ってさえおれば良いというわけではないが、言葉を正しく丁寧に使うことで、心の乱れを抑止するという効果はあるだろう。言葉を乱すことが親しみやすさと勘違いする現場では、顧客サービスであるという意識が薄れ、乱れた言葉が乱れた態度を生み出すだろう。

我々に求められていることは、乱れた言葉を使って親しみを表すことではない。

言葉の質を落とすことが、利用者に堅苦しさを覚えさせない方策であると勘違いするなと言いたい。

我々に求められていることとは、美しい丁寧語を、日常的に使いこなせるスキルである。

丁寧な言葉を自然に使いこなしておれば、その言葉で利用者に堅苦しさを感じさせることはない。丁寧な言葉を日常的に、自然に使えていれば、その言葉で十分に親しみを表現できるであろう。

美しい言葉を、丁寧に発することができる人は、誰から見ても美しい姿に映るだろう。

それは暴力的な言葉とか、暴言とかとは無縁の言葉であり、そう言う言葉を日常的に使いこなせる場所で、利用者は安心・安楽の暮らしを得ることができるはずだ。

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言葉を正そうとしない人




時折報道される介護施設や居宅サービス事業所における利用者に対する虐待。それは本当に信じられないほどひどい行為であったりする。

そのような虐待がなぜ起こるのか? それらの虐待は一部の特殊な人間によって生み出されるものなのか ?そしてそれは我々とはまったく無縁のものなのか・・・。

僕はそうした信じられない虐待行為を生む原因は、日常の感覚麻痺だろうと分析している。そしてそれは日常の何気ない「鈍感さ」によって生まれ、エスカレートするものであると考えている。

そうであるがゆえに、素晴らしい介護を目指す前に、普通の生活という意識が重要になってくるのだと主張している。普通を失ったとき、虐待としか思えないひどい対応さえも、その行為を行っている人にとっては普通の行為になってしまうのである。世間の非常識が、その人にとっての常識になってしまうのである。

こうした感覚麻痺を防ぐために、僕は「介護サービスの割れ窓理論」を唱え、割れ窓は日常的に我々が使う「言葉」であると主張している。それを正しく使うべきであると主張している。

割れ窓理論とは、もともと割れた窓を放置しておくと、割られる窓が増え建物全体が荒廃していき、やがてそれは地域の荒廃につながり、犯罪が増えるという「犯罪心理学」で唱えられている理論である。

このことを介護サービスに置き換えたとき、介護現場の割れ窓は言葉の乱れであり、介護のプロとして顧客である利用者に適切な言葉遣いができないことを放置することが、介護サービスに携わる人々の心の荒廃につながり、感覚麻痺を生み、虐待行為を虐待と感じなくしてしまうのだという主張である。

このように言葉の乱れが常識ではない感覚麻痺を促進させ虐待に繋がるからこそ、逆に言えば言葉を正しくすることで心の乱れをある程度までは防ぐ効果もあると主張している。

そのような「介護サービスの割れ窓理論」 の提唱者である僕であるがゆえに、その責任として、僕自身は施設の中で利用者と接する際に、丁寧語以外の言葉で会話をすることはない。100%丁寧語で話している。

しかし残念なことであるが、我が施設の全職員が100%丁寧語を使っているかといえば、その答えはNoと言わねばならない。再三注意し、個人指導しているのもかかわらず、その場では反省の態度を示すのに、時間が経過すると、またもとの汚い言葉遣いを使っている職員が複数存在する。

そう言う言葉を使っている際に、僕が近くを通ったら必ず注意するが、それが何度も繰り返され、そのことを恥と思わない職員が存在する。

そういう職員は、責任ある役職には決して就けないし、職員としての評価は最低である。今後も注意し続けるが、それでも直せない人は、介護施設の職員として、看護や介護のプロとして失格の烙印を押さざるを得ない。それは軽蔑されても仕方のない姿勢だと思う。

しかしそれらの人々は、なぜ言葉を正そうとしないのか。乱れた言葉で利用者と接する醜さになぜ気がつかないのか?

もしかしたらそれらの職員は、丁寧語で話すことが何故、固苦しさにつながると考えているのではないか。それは間違いだろう。世界一ボキャブラリーの豊富な日本語であるがゆえに、丁寧語で話すことで「固苦しくて肩がこる」なんてことにはならない。それはコミュニケーション技術の問題であり、丁寧語を使い慣れておらずにぎこちなく使うから、利用者の方が気を使って「もっと普段使う言葉でいいよ」って言ってくれているという意味だ。利用者が気を使っているという意味だ。

どこの世界に、顧客が従業員に気を使う職業があるというのか。どこの世界に、顧客に気を使ってもらって、従業員が生活の糧である給料をもらえるというのか。それはもうプロの仕事ではなく、自らの職業を誇りの持てない恥ずべき職業に貶めるものである。

利用者を顧客と見ない意識では、適切な労働対価は支払われない ということに気づくべきだ。介護サービス従事者の給与の低さは、この言葉遣いに代表される「素人でも誰でもでいる仕事」と思われていることにも一因があることを知るべきだ。

介護のプロとして、顧客満足度を意識すれば、丁寧語を使わないという選択肢は有り得ないということをもっと真剣に考えるべきである。



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介護・福祉情報掲示板(表板)

言葉の適正化が議論になるサービスはどうかしている


今年の集団指導も、2時間のうち何分有効な時間となったかと考えると、そんな有効な時間はなかったというのが本当のところだ。だからここで情報提供するようなことは何もない。集団指導に出た、というアリバイだけが大事なことなのだろう。無駄な時間だった。

それにしても通所サービスの、規模別報酬がどれに該当するかという計算式とか、居宅介護支援における特定事業所集中減算の計算式とか、解釈通知を読めばわかることで、かつ今更の問題を、わざわざ時間を割いて説明しなければならないということは、どういう事なんだろう?それだけ分かっていない事業者が多いってことなのか?こんな当たり前のことを・・・非常に理解に苦しむ。

ただ珍しいと思ったのは、冒頭の挨拶と、虐待防止に関連した話の中で、「職員の中には乱暴な言葉遣いや態度がなかなか直らない人がいると思うが、研修などを適切に受けて、虐待に繋がらないように教育して欲しい。」という内容の話があった。道の集団指導で、介護サービス従事者の「言葉」と「態度」に関連して、その適正化を求めるられたのは初めてではないかと思った。このことに、なにかを気がついて、「言葉遣い」の重要性を認識できる人がひとりでも増えるといいと思う。

その反面、2006年に書いた、「言葉遣いにうるさいことは強制労働よりひどい」という批判に対して。という記事に対して、今更ながら9/10に「利用者と直接関わった上で(声かけとか言うことではなく、寮母と同じような生活・仕事を数年した上で)、どういう言葉遣いが適切か、と判断されておるとおもいますが、三好さんは、画一的な利用者=お客様は結果利用者に安心を与えないという経験則を文章にしただけだと思います。」というようなコメントを書いてくる人がいる。

こういう考え方で何年介護の現実が変わらず、言葉の荒れが不適切サービスにつながっていったケースを放置してきたことか・・・。

そもそも「利用者と直接関わって、そこでどういう言葉遣いが適切か」と正しい判断が出来るレベルに、現実の介護サービスの現状があるのだろうか。状況に応じた使い分けが出来る人など存在するのだろうか。三好さんがそうだとしても、そうではないレベルの人々は、三好さんの良いところを真似する前に、真似のしやすい「くだけた言葉遣い」だけを真似して、態度も砕け、サービスも砕いてしまっているではないのか。

しかもそういう人々は、利用者の希望や状況に合わせて、その場にあった言葉遣いをする、という屁理屈をこねて、乱れた言葉をいつの間にかスタンダードにしている。そんな乱暴な言葉を使わないでよという、利用者や家族の心の声も、実際の声もまるで聞こえないかのようである。

介護サービスも顧客サービスであるのだから、そんな使い分けより、「最低基準」として、顧客に使って不快感を与えない丁寧語を原則とするのは当たり前のことだ。

利用者の直接ケアに関わるから、その中でその場その場に応じた言葉遣いを介護支援者が判断できるようになるなんていう幻想が、「幻想的ケア」の方法論を生み出し、今までの介護サービスの質を低空飛行で作ってきたのではないのだろうか。

言葉より大事なのは関係であるとして、そのことを否定するかのような三好春樹氏の考え方も、介護サービスの現場職員が、すべて三好春樹さんのレベルで物を考えることができるという前提がない限り、それは間違った考えであり、正しい言葉づかいを教育する管理職員を「言葉の強制は強制労働よりひどい」と批判する彼の罪は深いと言わざるを得ない。

三好春樹さんや、和田行男さんのように、言葉を正さなくとも、サービスの質を落とすことなく適切なケアができる人がいたとしても、それは限られた達人の域である。しかも三好さんや、和田さんの卓越した実践を真似することなく、言葉だけを真似する輩がいるから始末が悪い。だから三好さんも、和田さんも、そこのところは大きな悪影響を与える人で、そこは罪だと僕は思う。

顧客に対して使っておかしくない丁寧語がスタンダードとなっていて、なおかつ状況に応じた言葉の使い分けができるということであるならともかく、汚い言葉や荒い言葉をスタンダードにすることが、「親しみやすさ」だと勘違いして、利用者の舌打ちに気づかない職業など、プロとは言えないだろう。

そもそも言葉を正しくするという、職業人としてごく当たり前のことが議論になったり、ブログ記事になったりすることのほうがどうかしているのである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

言葉は運命になる。

僕が鹿児島県周辺で講演を行う際に、必ずといってよいほど受講してくださる方で、フェイスブックでも友達にもなっている大平怜也さんという方が居られる。彼は鹿児島県長島町の特別養護老人ホーム・あかね園で介護支援専門員をしておられる方だ。

個人的にもお付き合いをさせていただいているが、彼は大変勉強熱心な方で、プライベートの時間を使って、「鹿児島笑福会」や「鹿児島もんじゅ」の活動等も積極的に行われている。僕から見ても勤勉な方で、よい感性を持っておられる方であると思う。

そのため彼はいろいろな知識を持っておられる。だから彼の言葉から気づかされるもの、学ぶものは多い。多分、彼はいろいろな分野の本を読んでいるとお見受けする。書物から得る知識は非常に重要である。様々な視点を持つ他者の視点を取り込むことで、自分の視野が広がるからである。

そんな彼のモットーの一つがフェイスブックで紹介されている。転載させていただくと
『僕は、たとえすぐに捨てるようなメモ書きでも、利用者の名前を呼び捨てに書かない。「さん」「様」をつける。そうでもして意識しとかないと、また昔みたいに人権を踏みにじってしまいそうだから・・・。だから、敬称なしで書かれた利用者の名前を見ると、なんか、大丈夫かな?って思ってしまう。』

というものである。とても素晴らしい考え方だと思う。

そしてこのことに関連して、彼は過去に聞いた覚えがあるとして、「行動が習慣に、習慣が人格に」という言葉を紹介している。

僕はこの言葉が書いてあるフェイスブックのコメントを読んで、はたと思い出した言葉がある。それはマザーテレサの言葉である。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


(原文)
Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words.
Be careful of your words, for your words become your deeds.
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits.
Be careful of your habits; for your habits become your character.
Be careful of your character, for your character becomes your destiny
.

この言葉は、むかし何かの本で読んだとき非常に感銘を受けた言葉であったが、いつの間にか忘れていた。

しかし僕が提唱している「介護サービスの割れ窓理論」も、この言葉を紹介しながら解説するとよりわかりやすくなると感じた。その時には「性格」という部分は、大平さんが書いているように「人格」としたほうがよりインパクトが強くなる。それに原文のこの部分は character だから、人格って訳してもよいし、むしろそのほうがマザーテレサが言わんとしている意味に近いのではないかと思う。

ぞんざいな言葉遣いでしか利用者とコミュニケーションを交わすことができない人は、その程度の人格になってしまうのである。そしてそれは自らの運命にもつながっていくのだ。

丁寧な言葉で利用者に接する人格と、言葉を汚くして接することしかできない人格と、どちらを求める人になるのだろうか。どちらになりたいのだろうか。

利用者が「おはようございます」と挨拶してくれているのに、それに対して「おはよう」としか返せない言葉は、それなりの行動にしかならず、それがやがて丁寧な挨拶をしないという習慣になり、その習慣が自身の人格を形成してしまうということを考えると、何が正しいのかは明瞭である。

友達言葉で利用者に接することが「親しみやすさ」だと感じる人間や、丁寧な言葉遣いが「形式的で、格式張る」と感じる人間は、人格を低めて利用者と接することが正しいと思っているということになる。自らの運命をそれによって規定してしまうという意味にもなる。

逆に言えば、自分が目指したい人になるためには、その方向に向けた行動をとることに努めて、それを習慣化することが大事だということにもなる。

感覚を麻痺させて、虐待を正当化するような人格でありたくはない。そういう人格が自分の運命を決定づけるのは嫌だ。だから自らの感覚を麻痺させず、世間の常識を、そのまま介護サービスの現場でも常識と考える人でありたい。そのためには少しでも感覚を麻痺させることにつながりかねないように自らの行動を戒め、人を人として敬い、利用者のみなさんに対しては、我々が関わることで幸せな暮らしを作ることが可能となるような行動を習慣化したい。

当然そうであるなら、プロフェッショナルとして持つべき理念を守るための規範を自らの心に持つべきであり、それに基づいた行動をとるべきであろう。

鹿児島の大平さんは、利用者の人権を徹底的に守ろうという思考に基づいて、メモ書きでさえ必ず敬称をつけるという行動を習慣化させている。彼の人格はそれに基づいて形成されていると思われ、事実彼は、とても好感の持てる素敵な方である。彼の運命はきっと「見えないもの」によって、良い方向へ導かれることだろう。若い人々に学ぶことは実に多い。

言葉は行動になり、行動は習慣になり、習慣は人格になる。そして人格は自らの運命になる。このことを肝に銘じて自らの思考・言葉・行動を律せねばと思う。

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