masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

終活

身寄りのない認知症の方が増える社会の人生会議


僕が特養の生活指導員として就職した三十数年前、特養の利用者の方々は子だくさんの方が多かった。子供が5人も6人もおられる方というのは決して珍しいことではなかった。

しかし今現在、特養の利用者の方々も子供が3人いれば多い方だという状態になっているように思う。

そういう方々が長生きしていく過程で、一人か二人しかいない子供さんの方が先に亡くなられ、子供さんがいない状態で高齢期を過ごす人も増えている。

さらに核家族化の進行と少子化に加えて、故郷にとらわれずに、職場や生活圏域を広範囲に移動・選択できるグローバル社会になってきたことにより、親類縁者との関係性が希薄になっている人も多い。

戸籍上の親類縁者は存在していても、事実上孤独で身寄りのない人は確実に増えているのである。

さらに3.11から来年で10年を迎えるわが国では、あの震災と津波で家族を失い、縁故者も全くいなくなった人たちが、今後続々と身寄りのない高齢者となっていくのである・・・。

そういう意味では、国民一人一人が高齢期に、「ひとりで生きていくための準備」が求められる社会になっているし、介護支援専門員をはじめ介護関係者は、一人で生きる人の支援をより強く意識しなければならなくなってくる。

特養やその他の居住系施設(グループホーム・特定施設を含めた有料老人ホーム・サ高住等)では、それらの身寄りのない高齢者の方々の看取り介護も求められてくることになる。

そうした支援が必要な方々であっても、認知機能に障害がない状態で意思表示できる状態であれば、その意志に基づいて必要な準備を進めればよい。しかしすべての人が終末期まで認知機能が保たれる保証はないし、認知症とは無縁だった方がある日急に意思表示ができなくなることも考えておかねばならない。

だからこそ自分の意志で物事が決定できる段階で、終活の一環として人生会議を行い、終末期に向けた希望を確認しておくことは大事だ。特に意思決定できる段階から、任意後見人を定めておくことは重要な終活である。(※判断能力があるうちに、将来、自らの判断能力が低下した場合における財産管理や介護サービス締結等の療養看護に関する事務について、信頼できる方に依頼し、受任契約を結んでおく人を任意後見人という。)

そして介護支援専門員を含めた相談援助職は、それらの人が意思決定できない状態になった場合に備え、あるいは身寄りのない認知症の人を担当したときに備え、様々な準備をしておく必要がある。

例えば認知症になった人が、病気になって手術が必要になった際に誰が同意できるのか、同意の効力は法的にどれほどの有効性があるのか、成年後見人はその同意が可能なのかなどを学んでおく必要がある。(参照:医療機関が求める手術同意書。 ・ 家族と成年後見人の医療侵襲同意権について

成年後見人が専任されている身寄りのない認知症の人が、終末期と診断されて、施設で看取り介護を受けるかどうかの判断と同意が必要になったとしても、重大な医療行為については成年後見人であっても同意権はないと考えられており、延命治療を受けるか否かの同意は誰からも得ることはできない。

こうした場合には、本人にとって最善の利益となるのはどういう状態かという視点から、医師の裁量で医療行為を行うか否かを決定せざるを得ず、そのことに違法性はないと解される。

よってこうしたケースについては、医師が終末期と診断したうえで、終末期で治療の必要性がないので入院しないと判断することが第1段階である。そのうえで施設内で看取り介護に移行することが最善であるという理由で、施設で最期までケアする看取り介護計画を立て、それに対する同意を成年後見人から得るというふうに段階を進めることになる。

看取り介護計画の同意は、延命治療を受けるか否かの同意ではなく、単なる介護計画の同意であって、通常の施設サービス計画書の同意と同じで、成年後見人が同意権を行使できるのである。

ただしこうした一連の段階をどのように踏み、法的にそのことが許されるのかどうかという判断を、対象者が終末期になって慌てて確認するようなことになっては思わぬ齟齬が生じかねない。

だからこそそうなる前に、「人生会議」を行っていることが重要になる。人生会議という過程を何度も踏んで、施設関係者や成年後見人が医師の専門的判断や意見を聴きながら、利用者本人の推定意思に基づく最善の判断ができる下地を作っておくことが大事なのである。

在宅の方であれば、この過程で医療関係者と利用者を適切につなげる役割として、居宅介護支援事業所の介護支援専門員の働きかけが重要になってくる。そのために介護支援専門員は、適切な時期に終活支援を行うという考え方も必要である。

そのための知識を得ておくことも大事で、例えば終活の講師として活躍できる終活ガイド上級講座を受けておくこともお勧めだ。(参照:変化する意思に対応する終活支援のために、講師となり得るスキルが得られます

どちらにしても今後の地域社会では、あらゆる場所で身寄りのない高齢者支援が必要になってくるし、その中でも特に認知症で判断納能力のない単身者支援が大きな課題になってくる。

それに備えた関係者のスキルアップが求められてくるのは必然であり、相談援助職は今以上に守備範囲を広く取って、多くの人々に専門的な支援を行なえるように、知識と技術の向上の努力を惜しまないようにしていかねばならない。

そのことが制度の影に、光を届ける原動力となるだろう。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。

※リスクのない方法で固定費を削減して介護事業の安定経営につなげたい方は、介護事業のコスト削減は電気代とガス代の見直しから始まりますを参照ください。まずは無料見積もりでいくらコストダウンできるか確認しましょう。




※別ブログ
masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。

終活は人生を豊かに生きるために存在する活動


厚労省がAdvance Care Planning(アドバンス・ケア・プランニング= ACP)の愛称を、「人生会議」と決定してから約1年半が過ぎた。

その愛称は徐々に浸透してきているが、同時に誤解も伴って理解されていたりして、言葉だけが独り歩きしている傾向もみられる。

それは「会議」という言葉に対する誤解ではないだろうか。会議というと、関係者が一度に会合して話し合うイメージが強いが、「人生会議」に限って言えば、そうした方法も一例としてはありだが、人生会議そのものは会議自体を指すものではなく、一連の過程を指すものである。

人生会議とは、自分の意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ終末期を含めた今後の医療や介護について、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に話し合って考えておき、本人に代わって意思決定をする人も決めておく過程(プロセス)を意味している。

だから話し合いは何度も行われてよいし、話し合いは会議形式ではなくても良いし、話し合うメンバーも固定されるとは限らない。

しかも一度決定した意思は、自分の置かれた環境等に応じて何度も変えることが許されるものだ。そもそも人の気持ちは揺れ動くものだし、その時に絶対だと思っていた決定事項も変わって当然だ。人生会議とは、そうした揺れ動く人の心の支えになるものでなければならない。
延命に関する宣言書
この書式は、僕は特養の施設長を務めていた際に作成して、ACP(当時は人生会議という愛称がなかった)の過程で記入していただいていたものだが、この宣言書を何度も書き直す人がいた。時には1日に3度も書き直しのお手伝いをさせていただいたこともある。それでよいのだ。何度も書き直すということは、何度も繰り返し自分の人生の最終盤の生き方を真剣に考えるということなのだから、それは十分認められるべきなのである。

またこうした宣言書は、介護事業者の何らかの責任を回避するものではないことを理解せねばならない。法的にはこうした宣言書は意味のない書式だ。この通りにしなくとも誰も罰せられない。同時にこうした書式によって、施設の責任なり義務なりが軽減されるものでもないのだ。こうした宣言書はあくまで、宣言を行う方の生き方を支えるために作成するものであって、宣言する人が安心して人生の最晩年を生きるために利用されるものなのである。

その点を勘違いしてはならない。

人生会議を経て、自分の気持ちが固まった時点で、人生ノートを書くこともあるだろう。(参照:雲仙市の人生ノート

これらの活動は、「終活」と表現されている。終活とは人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括した活動を指すものだ。それは自分の死と向き合い、最後まで自分らしい人生を送るための準備でもある。

そこでは終末期に意思を伝えられなくなったときに備え、リビングウイルの観点等から、どのような医療を受けたいのか、口から物を食べられなくなったときにどうするのかなどの、具体的な希望を第3者に伝えて記録しておくことなども含まれる。

こうした終活の重要性を一般市民に伝えるために行われるのが、「終活セミナー」であり、そこには学生から高齢者まで様々な年齢層の人が参加されている。高齢者の方は、自分自身の問題と考えて参加される方も増えている。

コロナウイルス禍によって、こうしたセミナーの機会が減っているのが残念だが、感染症が収束した後には、再び終活セミナーニーズは高まっていくだろう。このセミナーは全国津々浦々で行われているので、僕も講師としてご招待を受ける機会が多い。

しかし僕自身がレクチャーできる会場は限られているので、多くの方々に終活について学んでいただき、地元の高齢者の方々に、終活・人生会議・リビングウイルなどについて伝えていただきたいと思う。

そのことに関連しては、「セカンドキャリアとして終活セミナーの講師になりたい人はいませんか」という記事を、もう一つのブログ、「masaの徒然草」の中で書いているので参照してほしい。

終活や人生会議は、死のために行う活動ではない。それは自分の死を見つめて行う活動であり、過程であるが、それはあくまで人生の最晩年期を心安らかに、豊かに生きるためのものであることを理解してほしいと思う。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。

リスクゼロで介護事業者のランニングコストを抑える、電力の見直し増えてます!【電力料金削減はプロにお任せ!】はこちら。まずは無料見積もりでいくらコストダウンできるか確認しましょう。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。

人生会議の重要性が改めて問われる時


厚労省が3/16に公表した、「令和元年度介護報酬改定の効果検証及び調査研究に係る調査」には、「医療提供を目的とした介護保険施設におけるサービス提供実態」という項目が含まれている。

この中で、介護医療院でアドバンスケアプランニング(ACP)に取り組んでいるのは48.6%で、このうち71.4%が「本人の意思が明確ではない時の支援」が困難だと答えていることが書かれている。

しかしこの報告内容というか、回答の選択肢には異議がある。

Advance Care Planning(アドバンス・ケア・プランニング)とは、意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ自分の終末期を含めた今後の医療や介護について、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に話し合って考えておき、本人に代わって意思決定をする人も決めておくプロセスを意味している。

つまり、「本人の意思が明確ではない時の支援」は困難ではなく不可能なのだ。この部分は第3者が想像で代弁できない部分である。だからこそ本人の意志が確認できるうちに行っておくのがACPなのである。

このわかりにくいアドバンスケアプランニング(ACP)という言葉については、厚生労働省が2018年11月30日、 ACPの愛称を一般募集し、「人生会議」に決定している。以下この記事ではこの人生会議という愛称を使って論じたい。(参照:人生会議の課題

人生会議は、終末期に備えた意思決定を行うプロセス全体を指すものであり、関係者が集まって本人の意志を確認して終わりということにはならない。

そのプロセルにおいては、一度決定したことを変えることを是とするのが基本であり、揺れ動く心を受容して、動揺を抑える正しい情報を本人に提供しつつ、環境や心境の変化に応じていつでもその意思決定を支援し、一旦決定した意思の変更も認めていくことが大事だ。

以前にも書いたことがあるが、僕が特養の施設長として利用者の人生会議を支援していた頃、口から食事を食べられなくなったら経管栄養を望むか、そのまま枯れるように自然死を望むかという判断について、1日に3度も意思決定を変えた人がいたが、そういう意思変更は、それだけ深く自分の生き方を関麩が得ているという意味があり、大いに認められるべきなのである。

このように、『今の気持ち』を大切にするのが人生会議であり、過去の決定事項にがんじがらめに縛られて、その呪縛から逃れられないという状態を防ぐように支援することも大事な視点となる。

繰り返しになるが、人生会議では本人の意志決定が都度必要になるのだから、「本人の意思が明確ではない時の支援」は不可能になるのである。よって不可能になる前に、人生会議を行っておくことが大事になる。

しかし誰しも自分の死をイメージすることは簡単なことではないし、具体的に自分の死の備え等について語り合うことは、『穢れ』につながるとか、『縁起が悪い』と思い込んで忌避する人も多い。特に自分がまだ元気で認知症とも縁遠いと思われ、ましてや死はずっと先であると思い込んでいる場合、その傾向は強くなる。

そうであるからこそ、人生会議の重要性を教え、その実施を支援する専門家の力が求められてくるのである。それが介護支援者であっても良いわけであるし、介護支援専門員という職種は、その支援者として非常に適性がある職種だと思うのである。

そうした支援者が地域の隅々で、人生会議の重要性を説くことが、社会全体で自分や愛する誰かのの死について語ることをタブー視させないことにつながっていく。

死を語ることの偏見やタブー意識をなくしていく先に、「自分の命が不治かつ人生の終末期であれば、延命措置を施さないでほしい」というリビングウイルの宣言が、ごく当たり前に行われる社会が実現するかもしれないという意義を感じてほしい。

そのためにも様々な人々が自分の、『いざその時』に備えて、元気なうちから家族と医療・介護関係者による人生会議の取り組みが必要とされるということを知ってほしい。一般市民の方々にもっとそのことを啓蒙しなければならない。

その啓蒙活動の一つが「終活セミナー」であるが、そんな重要なセミナーも新型コロナウイルスの影響で開催できないのが残念でならない。そして新型コロナウイルス感染症によって、リビングウイルの宣言もできないまま、人生を終えていく人が増えている現状が残念でならない。

他人と隔離された場所で、実際に息が止まった時間も明確でないまま、誰にも看取られずに旅立っていかれる人が増えている今こそ、改めて終活・人生会議の重要性を認識し直してほしいと思う。
理想の介護事業者をお探しの方は、こちらに無料登録ください。

※4/4〜新しいブログmasaの徒然草を始めました。こちらも是非ご覧ください。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せられます。

超高齢社会での看取り介護の考え方


ターミナルケアを終末期介護と訳さず、「看取り介護」と訳した経緯については、「私たちが思いを込めた言葉を安易に略したり変えたりしないでください」と言う記事の中で詳しく解説している。

そこでも書いているが、「看取り介護」とは、対象者が人生最期の時間を過ごすにあたって、安心と安楽に過ごす中で、少しでもこの世でつながりのある人たちとエピソードを刻みながら、この世に生まれ生きてきてよかったと思えるように支援する行為を意味するものである。

そのために心を込めて、心にかけて護るという介護の本質を実現することができるのが、「看取り介護」である。

さらに言えば、超高齢社会の看取り介護とは、終末期判定がされた後の介護のことを考えるだけではなく、そこにつながる日常の、「生き方」を考える必要もあると思う。高齢期に地域の中で孤立せず、誰かと繋がって暮らし続けることが、「孤独死・孤立死」を防ぐ唯一の方法である。

隣人の存在を死臭によってはじめて知るような、背筋が寒くなる地域社会としないように、高齢者が地域で孤立することを防ぐ社会にしていくための一連の活動も、看取り介護につながっていくのである。

特に男性高齢者は、仕事をリタイヤした後に他者とのつながりを失い地域社会で孤立してしまう人が多い。女性の方が長寿で一人暮らしの人が多いのに、孤独死している人の7割が男性であるという現実は、高齢期に地域社会から孤立している男性が多いという意味である。

その人たちがどのように地域社会で居場所を確保し、つながりを保っていくのかということが、地域包括ケアシステムを深化させていく過程で考えられなければならないし、看取り介護・ターミナルケアに携わる関係者は、そうした視点からも他職種連携の在り方、地域包括ケアシステムにおける自らの役割を考えていく必要がある。

それらの課題が解説できた先に、人生の最終ステージをすべての人が安らかに、安心して安楽に過ごすことのできる看取り介護支援があるのだということを忘れてはならない。

看取り介護の場は確実に多様化し、新しい方法論も生まれている。「ウォッチコンシェルジュを知っていますか」という記事の中で紹介した博多の、「株式会社ワーコン」は、在宅一人暮らしの方の看取り介護を支援し、「お客様の人生の最後の伴走者でありたい」・「決して、独りで逝かせない」をモットーに様々な人をサポートしている。

我が国では昭和51年以前は医療機関死より在宅死が多かったのである。国民の7割以上が医療機関で死を迎えている今の日本の地域社会は、昭和51年以前に自宅で親の枕辺に集まって子が看取っていた時に、死に行く親から渡されていた命のバトンをなくしてしまっているのかもしれない。そのバトンを取り戻す取り組みが、在宅でサ高住で特養でGHで行われるようになっているのである。

しかし看取り介護・ターミナルケアの場や方法論が多様化しているというもう一つの意味は、看取り介護と称したニセモノの終末期対応も存在しているという意味でもある。

終末期診断があいまいで余命診断もしない状態で、「看取り介護対象者」だと決めつけているところがある。それって、「未必の故意による死への誘導」ではないだろうか?夜間の見回りと見回りの間に息が止まっている人もいる。それって、「孤独死」ではないのか?看取り介護だからと言って、密室の中で日中でも部屋を真っ暗にして放置されている人もいる。それって、「見捨て死」ではないのだろうか?

看取り介護とは、そんなあいまいで、寂しくて暗いものではない。もっと温かくて感動的な時間が看取り介護だ。だからと言って看取り介護は決して特別な医療や特別な看護や特別な介護が必要なわけではないのだ。それは命のバトンリレーを支援することであり、日常ケアの延長線上に、誰かの命が燃え尽きることが予測できる時期に、燃え尽きる瞬間まで、人が人と繋がり生まれるエピソードの中で、命のバトンをつないでいくお手伝いをすることなのである。

そんな看取り介護の実際のケースを紹介するのが、僕の看取り介護講演である。そんな講演を聴いた方の声を是非参照していただきたい。

本年1/9に大村市市民交流プラザ(長崎県大村市)で行われた、「長崎県県央保健所主催・大村市、大村市医師会共催 、看取り介護講演会アンケート集計結果」が、講演事務局から送られてきた。

僕の講演を聴いた方が、受講前に看取り介護に対して持っていたイメージと、受講後に理解した内容があまりに違うので驚いている。しかしその驚きとは、自分にもそこに関わって命のバトンリレーに関わることができるのだという驚きであり、介護という行為の中で実現できることがたくさんあって、そのことを理解できることによって、あらたな意欲と力につながるものでもある。介護の可能性を改めて感じ取ることができ、介護に本気で向き合う活力につながるという意見もある。

文字リンクをクリックして、是非受講された皆さんの声を参照いただきたい。きっとその声は、このブログ読者の心にも響くと思うのである。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せができるようになりました。

人生会議は事象ではなく過程であるという理解が必要


1月に長崎県南保健所・南島原市・雲仙市・大村市等のお招きを受けて、それらの各市で看取り介護と終活に関する講演を行なってきた。そこでの大きなテーマは、「人生会議」であった。

その模様の一部が地元の新聞に掲載され、関係者から画像が送られてきた。
長崎新聞
この記事は南島原市での一般市民を対象にした、「終活セミナー」の取材記事であり、翌日には雲仙市でも同じセミナーを行なったが、両日とも高齢者の方々が多数参加してくださり、終活とは何かを真剣に真剣に考えてくださった。

そのことは、先日書いた「終活セミナーは高齢者の方にもわかりやすい内容で」という記事で詳しく紹介しているので参照していただきたい。

ここでも書いているが、一般市民の方を対象にした終活セミナーで、やたらに数字やグラフを使うのはやめていただきたい。何万人とか何億円という数字は実感できないし、そんなものは身近な終活に必要のない数字だ。グラフだって講師の、「言葉」を見える化するわき役に使うべきなのに、グラフを主役にして、講師がその数値や内容を読み上げてどうするのだと言いたい。そもそも講師としてふさわしくない適性のない人が多すぎるのである。

セミナーは開けばよいわけではない。その目的やテーマに沿って、「伝えられるか否か」が問題であり、開催するだけのセミナーは、主催者・受講者双方の時間を奪うだけの意味のない時間に化してしまう。終活セミナーや看取り介護セミナーは、一般市民と保険・医療・福祉・介護関係者のすべての方に、伝える能力のある講師選びが成功の基本であることを主催者の方にはご理解いただきたい。

ところで終活を実施する過程で重要となるのが、「人生会議」である。(参照:人生会議の可能性 ・ 人生会議の課題

人生会議という言葉は、国がパブリックコメントを募集したうえで、2018年11月30日に選んだACP(Advance Care Planning:アドバンス・ケア・プランニング)の愛称である。

その意味は、意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ、終末期を含めた今後の医療や介護等について、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に話し合って考えておき、本人に代わって意思決定をする人も決めておくプロセスを意味している。

ここで注意してほしいのは、人生会議という愛称が誤解をもたらさないかということである。

会議というと、関係者が会議室などの特定の場所に集まって、一定の時間を定めて話し合うイメージが浮かんでしまうが、人生会議とはそうした時間や場所を定めた特定の話し合いを意味していないということだ。

人生会議とはあくまでも、終末期にしなければならないこと、考えなければならないことを、あらかじめ関係者と話し合って、その知恵を借りながら自分で決めたり行なったりする、「過程:プロセス」を意味するものであり、終活の中の1事象を表わすものではないという理解である。

そしてそこで決めなければならない終末期の過ごし方にしても、一度決めたことに縛られて、そこから身動きが取れない状態になってはならないという理解も必要だ。

例えば、「口から食事を食べられなくなった時にどうするか」という問題については、簡単に決められる事柄ではない。経管栄養のメリット・デメリットを、関係者から情報提供を受けた上で、その決定に関しては何度も迷ってよいわけであり、一度経管栄養で延命を求めた後で、その気持ちが変わって経管栄養をしたくないと気持ちが変わっても良いわけであるし、その逆もありだ。しかも何回も気持ちが揺らいで、その都度決めごとを変えても良いわけである。

エンディングノート(人生ノート)を、その都度書き直しても良いし、そのお手伝いを介護関係者がすることがあっても良いわけである。

口からものを食べられなくなり、水分も摂れなくなった場合、「せめて点滴くらいしてほしい」あるいは、「点滴もしないでそのまま逝かせて良いのだろうか」と迷っている人に、終末期の点滴がいかに苦痛を与えるものであるかということを、一般市民にも分かるように説明するのが、医療・福祉関係者としてのソーシャルワーカーの役割でもある。

終活セミナーで人生会議を語る講師は、この部分をしっかり伝える必要がある。来月初めに登別市でも、人生会議をテーマにした講演会が予定されており、そこでは医療機関の職員が講演を行なうようであるが、そのことをきちんが伝えられることを望んでいる。

しかしもっとはっきり言うなら、終活や人生会議、看取り介護に関して言えば、全国各地でそのことをテーマにして講演を行ない、多くの関係者から評価されている僕以上の講師がこの地域にいるとは思えないのであるけれどなあ・・・って思ったりしている。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せができるようになりました。

終活セミナーは高齢者の方にもわかりやすい内容で


高齢化が進行する中で死者数が増え続けているわが国において、どこでどのように人生最期の時間を過ごし、どういうかたちで旅立っていくのかについての関心が年々高まっているように思う。

そのためここ10年以上「看取り介護」に関する講演依頼は絶えることがなく、むしろその依頼数は年々増えている。さらに最近では、看取り介護につながるリビングウイルに関心が高まって、そのことを含めた、「終活」をテーマにした講演依頼も増えてきている。

終活セミナーの主催者は、市町村や保健所が多いが、受講対象者は一般の住民の方々である場合がほとんどだ。しかも70代を中心にした高齢者の方々が多いのも特徴だ。1/11に長崎県雲仙市で行った終活セミナーの参加者も、30代以下2名・40代2名・50代7名・60代20名・70代49名・80代18名であった。(※雲仙市のアンケート集計結果より

だからセミナーでの講演内容もできるだけ高齢者の方にも理解しやすい内容が求められる。ところが大学教授や行政職員が講師を務めると、やたらにグラフと数字が多いスライドを使って、背景要因だけを長々と説明するのでわかりづらい。聴いていてちっとも面白くない講義には、あきれとあきらめでがっかりするしかない。

その点、僕の終活セミナー講演は、一般市民の方々にもわかりやすいと好評を得ている。雲仙のセミナーアンケートでは、(よくわかった74名)・(だいたいわかった13名)・(あまりわからなかった0名)・(わからなかった1名)・(未記入10名)という結果だった。

アンケート集計に書かれていた参加者の方の「感想」を以下に示したい。

・いい話を聴かせてもらいありがとうございました。
・講演に参加できて最高でした。
・親や自分の家族の人生を考え直す良い機会になりました。
・自分自身や親のことを含めて、色々考えさせられた。ACPも含め、是非「人生ノート」を生かして話し合いをしたいと思いました。例外なく死を迎える全ての人が知り考えることだと思いました。
・非常に参考になりました。わかりやすくて良かったです。
・深く考えるチャンスをいただきました。ありがとうございます。
・これからの人生と介護について考えさせる講演だった。早速「わたしの人生ノート」を活用してみようと思った。
・本日は「終活」を考える良い機会をいただきありがとうございました。
・私の家庭によくあてはまる現実性の良い講演でした。
・すべて自分の番が来た。講演を聴きながら胸いっぱいになりました。何回か聴きたいです。
・エンディングノートを書こう。
・あかい花代表の菊地先生の話わかりやすくとても良かった。
・このようなお話し聴くべきだと思いました。
・こういう場所があったら参加したいと思う。
・人生会議は必要であること・大切なことがわかりました。延命措置は望まないと平素から思っていました。人生ノートの必要性を痛感しました。残された家族のためにも。
・素晴らしかった!!
・進行をスムースにしていただきたいと思いました。講演はとてもわかりやすく、映像はとても良かったです。人生ノートの意味も使い方もよくわかりました。
・昔の在宅死が当たり前に受け入れられていた社会にもう一度なれば、というのには共感できた。
・こんな話は初めてで大変良かった。
・身近なことでもあり、中々難しい問題だと思いますが、一つでも家族と話し合ってみたいと思う。
・自身も主人の認知症の介護をしているので話を聴いて少し心が和らぎました。
・病院職員ですが、職場では直接介護に関わることはありませんが、患者さんに寄り添って業務にあたりたいと思います。これからの自分の人生にも役に立ちます。
・介護・医療・看取りについて改めて考えさせられました。自宅で亡くなるほうが多かった時代はそんな前ではないのですね。私も人の幸せとは何か考えてみたいです。
・非常に参考になりました。今まで考えたことがなかったので。75歳以上の人には人生ノートを配った方が良いと思います。
・とても良かったので時間が足りなかったようです。遠いところからありがとうございます。
・身近な問題として親しみを持って拝聴しました。
・私も85歳。早速活用しようと思います。
・その時が来たらの余裕ができたと思います。
・自分にはまだ早いと思っていたけど、考えておいた方が良いと思いました。
・頭ではわかっているんですが、人生ノートを記入することは難しいと思います。
・今日のお話を聴いて余生の設計を考え直すこと、一人しかいない東京の兄とも話し合いたいと思います。
・看取りとは「思い出づくり」心に残りました。今後の活動に生かしたいと思いました。「心を込めて」を日々の生活で実践できたらと強く感じた今日のお話でした。
・自分にしてはまだ話の中身に不満の所があった。団塊世代の人たちが世に負担をかけるような話だけど、団塊世代の人たちが日本の経済成長期にいかに働いたかも話してください。そして結婚しない男、女、母一人、娘一人の看取りの話があったが、その娘もやがて認知症やその他の病気で自分で食事できないようになった時、誰が介護や最期を看取ってくれるのか。人口減少も含め結婚の勧めも、もっと支援して結婚しない人はいなくなるような世の中にしてください。
・91歳の母の介護をしており、母のためにも自分の家族のためにも役に立つことがたくさんありました。特定の疾患の内容についてももう少し配慮があればと思うことがあります。
・メリハリのある話で非常にためになる講話でした。年に2回は話を聴きたいし、雲仙市低所得者12.000人のほとんどが老人です。早期の地域包括ケアシステムの構築、福祉有償運営システムの導入をお願いします。


以上である。こんなふうに終活セミナーで講演するたびに、評判が評判を呼んで、長崎県では3年連続してご招待を受けるだけではなく、行くたびに講演を行なう地域が広がって、講演の回数も増えている。ありがたいことである。長崎県の皆さん、いつもありがとうございます。

ということで、一般市民の方・高齢者の方々にも好評の、「終活セミナー講演」をご用命の方は、ぜひ気楽にメール等で連絡いただきたい。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せができるようになりました。

リビングウイルは自分のためだけにあらず


先週木曜日に更新した記事の中で、雲仙市の「わたしの終活ノート」を紹介しているが、そこには自分の終末期医療に対する希望を書く項目がある。
わたしの人生ノート(雲仙市)
「自分の命が不治かつ人生の終末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し、同時に「延命治療を控えてもらい、苦痛を取り除く緩和治療・緩和ケアに重点を置いた支援に最善を尽くしてほしい。」と宣言することがリビングウイルの宣言である。

そのことを人生ノート(エンディングノート)に書いておくことは重要である。

なぜならそのことによって、人生ノートを書いた人が旅立った後、残された家族にとっても、その宣言が意味あるものになるからだ。

例えば口からものを食べられなくなる・水分を摂取できなくなるという状態になった時に、多くの人はその時点で意思表示が困難となる。そうした状態で経管栄養にするのか・しないのかなどを決めなければならないために、その決定を行うのは家族になってしまう。

家族に自分の終末期の希望を告げていない人たちは、そんなふうに自分の終末期の過ごし方を家族の決定に委ねても良いと思っているのだろうか。

自分は子供の決めたことなら何でも受け入れることができるとか、家族が決めた通りで何も問題ないと考えている人がいるとしたら、それはあまりにも安易な考え方ではないのだろうか。そしてそれは自分のことしか考えていない態度ではないかと問いたい。

家族にそのような重い決定を委ねてしまったときに、どんなことが起こるかをもっと深く考えてほしい。

口からものを食べられなくなった時に、胃婁を増設して経管栄養を行うことで延命は可能になる。しかもその延命期間は月単位ではなく年単位に及ぶ。中には胃瘻造設し経管栄養だけで10年以上も生きている人がいる。そうした延命効果だけを見るとすれば、それは決して否定される生き方ではないのかもしれない。

しかしそうして何年も生きている人の中には、意識が無い状態でベッドに寝た切りのままの人がいる。中には痰がつまらないように気管切開され、チューブが入っているために、看護師が数時間おきに気管チューブから痰の吸引を行わなければならない人がいる。その人たちは意識が無い人でも、吸引の度に体を震わせて苦しがっている。その状態はまるで、苦しむために延命されているかのようだ。

そうならないために家族に口から食物や水分が摂取できなくなったら、経管栄養を行わず、枯れ行くような自然死を望むと告げている人は、家族がその意志に沿って対応できる。

しかし家族に自分終末期の希望を告げていない人が、意識が無い状態で口から食物が摂取できずに、回復不能の終末期と判断されたときに、家族が延命のための経管栄養をするのか、自然死を選ぶのかを決めなければならない。そうした「家族の命にかかわる重い選択」をしなければならないのだ。

その時愛する家族のことを思い、苦しみが続かないように、「経管栄養を行わない。」と決め、看取り介護を選択した結果、家族が安らかに自然死したとしても、逝った人の希望を確認できずにその決定を行った家族の心には、しばしば深い傷が残ることがあるのだ。

どんなに死の瞬間が安らかで、そこに至る過程(看取り介護中)も適切な対応が行われたとしても、希望を確認できずに経管栄養を行わないと決めた家族は、亡くなった人の姿を見たときに、経管栄養にすればこんなに早く逝かなかったと考えてしまい、自分が愛する家族の命を縮めたのではないかと思い悩んでしまうケースがある。

長く高齢者介護に関わると、そういうケースに出会う。中にはそのことで、「うつ状態」となり、精神科治療が必要になったケースもある。

そうしないための唯一の方法は、親から子に、子から親に、自分の終末期をどこでどのように過ごしたいのか、口から食物や水分を摂取できなくなったら経管栄養を選択してほしいのか、それをしないで自然死を選択してほしいのかを告げておくことだ。その希望を書き残しておくことである。

逝く人の希望に沿った決定を行う限り、「家族の命にかかわる重い選択」であったとしても、その決定と結果に思い悩むことはなくなるだろう。それが残されるものに対する最後の、「愛のメッセージ」となるであろう。

だからこそ、死を語ることは愛を語ることなのである。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せができるようになりました。

雲仙市の人生ノート


芥川賞と直木賞の受賞者が決まったというニュースが、様々なマスメディアを通じて報道されている。活字離れ、出版不況と言われる今日ではあるが、数ある文学賞のなかでも、歴史あるこの二つの文学賞は特別なのだと感じている。

しかしこれほどニュースバリューのある両賞の、「副賞賞金」は、わずか100万円だ。M-1グランプリの優勝賞金の1/10とは、文学があまりにも軽視されているように思えてならない。100年後に昨年のM-1Gの優勝者の名前なんて残らないが、芥川賞と直木賞の今年の受賞者名は残っているだろう。名誉だけではなく待遇ももう少し良くなるように、賞金も上げてほしいものである。

物書きの端くれとして、そんなことを強く思っているが、それはともかくとして本題に移ろう。

終活とはどういう意味か、具体的に何を行うべきかについては、1/10に書いた「終活に必要な知識」のなかで詳しく解説している。

終活には、「リビングウイル」の宣言と記録も含まれる。終末期に意思を伝えられなくなったときに備え、回復不能な終末期と診断された以後、どのような医療を受けたいのか、口から物を食べられなくなったときにどうするのかなどの具体的な希望を、第3者に伝えて記録しておくことが大事になる。第3者とは自分にとっての、「愛する誰か」であることが望ましいことは今更云うまでもない。

自分の命が不治かつ人生の終末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し、記録しておくことや、その際に苦痛を取り除く緩和治療・緩和ケアに重点を置いた支援に最善を尽くしてもらうための宣言を記しておくことは、終末期になってからではできないことが多い。その前に元気なうちから、「終活」としてその備えをしておくことが大事である。

その宣言を記録しておくツールとしてエンディングノートがある。エンディングノートには、プロフィールや自分史、現在の健康状態、葬儀・お墓についての希望、その他気がかりなことなどを記載するのが一般的でありるが、書式や書き方の決まりは特にない。エンディングノートは自分史を記しながらリビングウイルを宣言する自由書式だからである。

とはいっても何でも自由だとか、何を書いても良いといわれても、実際に何を書いてよいかわからない人も多い。高齢者になればなおのこと、ある程度書く内容を指定してくれた方が書きやすいという人が多い。

先日市民向け講演と、関係者向け講演の両方を行なった長崎県雲仙市では、このエンディングノートを、雲仙市独自の書式を作り市民に配布している。
わたしの人生ノート(雲仙市)
わたしの人生ノート(雲仙市)
書き方の手引きも記載されている、「わたしの人生ノート」と題されたこの書式を使うことで、終活としてのエンディングノートの作成が容易になるのではないかと思う。

自由に書いてよい書式だからこそ、こういうひな形があることによって、書くべき内容が理解できるし、ここから自分独自の書式に発想を広げることもできるのだから、雲仙市がこうした書式を作っていることは市民にとってとてもありがたいことだと思う。とても親切な行政対応であると言っても良い。

雲仙市の方は、この書式を使って自分の人生の幕引きについて考える機会が増えることだろう。他の市町村も、是非参考にしてほしいものである。

さて僕は今、新千歳空港に着いたところだ。これから小松空港に飛び、福井市に入る予定である。明日と明後日は、福井市と坂井市で、それぞれ5時間の介護支援専門員向け講演を行なう。両者のテーマは異なるが、5時間の講演のうち、制度改正の動向と、それが今後の介護支援専門員の業務にどう影響するかという部分は共通なので、5時間のうち1時間程度は、同じ内容で話をすることになろうと思う。
(※福井市講演はこちらから、 坂井市講演はこちらから、それぞれチラシがダウンロードできます。)

しかしかぶっているのは1/5ほどなので、後はまったく別内容になる。両日受講することで、より深い理解が得られと思うので、時間がある方は両方の会場に足を運んでいただきたい。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せができるようになりました。

終活に必要な知識


長崎では今、インフルエンザが流行している。

昨日大村市で行った講演会も満員予定であったが、インフルエンザで急遽参加できなくなったという受講者が複数おられ、ところどころ席が空いていた。

体調を崩された方の一日も早い回復を祈るとともに、全国の皆様も体調管理に十分注意して、感染予防と感染拡大防止に努めていただきたい。

僕は今朝10時に諫早市のホテルを経って、さきほど南島原市に到着した。今日は午後2時から、「南島原市主催・住民向け講演会」の中で、「いつまでも安心して住み慣れたまちで暮らしていくために〜終活の視点から看取り介護まで」というテーマで話をする予定だ。そこでは、「終活(しゅうかつ)」という大きなキーワードがある。

終活」という言葉は、2010年の新語・流行語大賞にノミネートされた比較的新しい言葉である。その言葉はもともと、『週刊朝日』とう冊子から生み出された言葉とされており、同誌元副編集長の佐々木広人氏が生みの親とされている。だから終活という言葉について、明確に概念統一されているわけではない。

一般的な理解としては、終活とは人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括したものであり、自分がまだ元気で意思を伝えられる時期に、自分自身のための葬儀や墓などの準備や、財産処分の方法などを決めておくこととされている。

例えば終末期に意思を伝えられなくなったときに備え、リビングウイルの観点から、どのような医療を受けたいのか、口から物を食べられなくなったときにどうするのかなどの、具体的な希望を第3者に伝えて記録しておくことが、「終活」ということになる。

つまり終活とは、死と向き合い最後まで自分らしい人生を送るための準備のことといえるわけであり、「これまでの人生を振り返る」・「残される家族のことを考える」・「友人、知人、今までお世話になった人たちへの思いをつづる」・「やり残したことや叶わなかった夢などを書き出す」などを行うことで、これから先にできること・できないことの整理をする活動ともいえる。

それを行うことで、自分が人生の最期をどこでどのように過ごしたいのかを、一番信頼できる人に伝え託すこと可能となる。さすれば終活とは、自分らしい最期を生きるための準備であるといえるわけである。

繰り返しになるが、終活は元気だからこそ、自分の意思をしっかり表明できるうちだからこそできる活動である。だからこそ自分の「死」を見つめること、語ることを縁起が悪いと言わず、タブー視せず、間に合わなくなるまえに、死ぬ時にどうするか、死んだ後にどうしてほしいかを真剣に考えてほしい。

終活の具体例としては、.┘鵐妊ングノートを書く、遺言状を書く、お墓を決める、じ亀い覆Δ舛ら遺品整理をするなどが考えられる。

そのためには正しい情報が必要になる。特にリビングウイルに関して言えば、延命治療と自然死をどう考えるのかが重要となり、終末期の点滴や、食物の経口摂取が出来なくなった後の経管栄養のメリットやデメリットなどの情報が不可欠だ。

延命のために経管栄養にするかしないかは、治療にあたる医師が、本人の意思を無視して決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではない

だからこそ一人一人の地域住民が、自分の意思として延命治療を受けるかどうかを判断するために必要な情報を得て、そのことを理解しなければならない。さらに自然死を選択した際に、どこでどのように人生の最期を過ごすことが出来るのかという情報も必要だ。

「看取り介護を行えます」・「たくさんの人を看取った実績があります」とアナウンスされている場所で、本当の意味で看取り介護・ターミナルケアが行われているかどうかは、その実態を見なければわからない。少なくとも「看取り介護加算を算定している」=「適切な看取り介護が行われている」ということにはならあにということにも注意が必要だ。

ありえコレジヨホール (長崎県南島原市)では、地域の皆様に向かって、そのような情報をわかりやすく伝える予定だ。

透き通った南島原の青い空が僕を迎えてくれている。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せができるようになりました。

あなたの思いは大切な誰かに伝わっていますか


いつまでも若々しくお元気に活躍されていた加山雄三さんが、脳梗塞で入院されたというニュースが流れたのはつい最近のことである。

幸い入院期間も短く元気になって退院され、後遺症もなく活動再開したと聴いて、さすがに若大将だと思った。

一方、イタリアのトリノで倒れられた漫画家の松本零士さんは、当初、「脳卒中」と報道されていたが、最新情報では、「電解質異常」とされ、意識が戻ったと報道されている。しかし退院の見込みは示されていない。外国で入院しているということで情報も錯綜しているが、一日も早い回復をお祈りしたい。

加山さんは83歳、松本さんは81歳であるが、日ごろお元気であったので、急に倒れられたという報に接して驚いた方が多いだろう。しかし社会の第一線で活躍されていてお元気であっても、いつまでも健康でいられないのが人間の性である。

後期高齢者と呼ばれる時期になると、ある日急に健康状態が変化するリスクが高まることも当然であり、その中には急に亡くなられる方もおられるだろうし、元気で過ごしていた方が、急に人生の最終ステージに立っていると宣告される場合もある。

そのことを仕方のないことだと思う人は多いだろう。だからと言ってそのことを自分の身に置き換えて考えられる人はそう多くはない。

ましてや自分がまだ若いと思っていいる人や、若くはなくとも高齢者と呼ばれる年代に入っていないと思っている人は、自分が明日突然命にかかわる病気に見舞われるなんてことを想像できるわけがない。そんな事態がわが身に降りかかってくることを考えられないのが普通である。

しかし人間の致死率は100%であり、遅かれ早かれ死を意識せざるを得ない時期が必ず訪れるのである。その時、自分がその時期にどこでどう過ごしたいかという意思表示ができるとは限らないのである。

今わが国では国民の8割以上の人が医療機関で亡くなっているが、様々な調査で、「最期の時間をどこで過ごしたいですか?」とアンケートをとっても、8割以上の人が医療機関で最期の時間を過ごしたいと答えている調査結果は存在しない。

それらの調査では、過半数の人が最期の時間を過ごしたい場所として、自宅もしくはその時に過ごしていた場所と回答している。

そうであるにも関わらず、8割を超える人が医療機関で死を迎えているという意味は、「自分が死にたい場所で親を死なせていない」という意味でもある。

その理由は、世間体とか家族の思いとか、いろいろだろうが、そもそも子が親に、「どこでどのように最期の時間を過ごしたいのか=どこで死にたいのか。」ということを確認していないという理由が主であろう。しかしそれで良いのだろうか。

例えば口からものを食べられなくなっても、経管栄養を行うことで延命は可能であるために、経管栄養のみで10年以上生きられている方も世の中にはたくさんおられる。その人たちの中には、意思疎通がほとんどできず、気管切開されて定時に気管チューブからの各痰吸引が必要な人も多い。その人たちの多くが、各痰吸引の度に体を震わせてもがき苦しんでいる。その姿はまるで苦しむために生かされているかのようだ。

しかしその中には自分の意志ではなく、他人の意志によって経管栄養で生かされている人が多数含まれている。というより大多数の方々が、自分の意志ではなく家族の意志によってそのような状況に置かれているのである。

その人たちは果たして幸せなのだろうか?それでよいと思っているのだろうか?こんなことならもっと早く天に召されたいと思っている人がたくさんいるのではないだろうか?

そんなことを思うにつれ、もっと本人の意思が尊重される終末期の過ごし方が保障されるような社会になっていく必要があるのではないだろうかと考えてしまう。

だからこそ意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ終末期を含めた今後の医療や介護について、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に話し合って考えておき、本人に代わって意思決定をする人も決めておくという人生会議(アドバンス・ケア・プランニング= ACP)の重要性が増すわけである。

そうした人生会議というプロセスを経たうえで、リビングウイルの宣言を含めた、「終活を行って最期の時に備えたいものだ。しかし終活も元気なうちにしかできない。

終活とは、死と向き合い、最後まで自分らしい人生を送るための準備のことであり、「これまでの人生を振り返る」・「残される家族のことを考える」・「友人、知人、今までお世話になった人たちへの思いをつづる」・「やり残したことや叶わなかった夢などを書き出す」などを行うことで、これから先にできること・できないことの整理につながる活動だ。

終活によって、自分が人生の最期をどこでどのように過ごしたいのかを、一番信頼できる人に伝え、託すことができる。そういう意味では終活とは、自分らしい最期を生きるための準備であると言える。

そうした人生会議・リビングウイル・終活という意識が国民の間に広がってほしい。

僕たちが看取り介護の方法論をいくら考えて、その質を引き上げたとしても、終末期を過ごす人の思いに寄り添うことができない限り、それは真に求められる方法論とはならないと思うのである。

だから僕の看取り介護セミナーでは、リビングウイルの支援のために、逝く人の意志をどう確認するかということについてもお伝えするようにしている。看取り介護では、看取る人の思いも大切だが、それ以上に逝く人の思いがとても重要になると思うからだ。

それは大切な誰かの最期の時間に、あなたの「愛」を届けるために必要不可欠なことではないかと思うのである。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せができるようになりました。

終活が求められる理由


巷(ちまた)では、「終活(しゅうかつ)」という言葉がすっかり市民権を得ているように思う。その言葉の意味は、「人生の終わりのための活動」と世間一般的に認識されている。

終活という言葉は、「週刊朝日」が生み出した言葉とされており、終活本が幾つも出版されていく過程で、世間に認知されていった言葉のようである。

それは死と向き合い、最後まで自分らしい人生を送るための準備のことを表している言葉と言え、「これまでの人生を振り返る」・「残される家族のことを考える」・「友人、知人、今までお世話になった人たちへの思いをつづる」・「やり残したことや叶わなかった夢などを書き出す」などを行うことである。

一連の終活の過程では、自分が人生の最期をどこでどのように過ごしたいのかを、一番信頼できる人に伝え託すことが大事である。いうなれば終活とは、自分らしい最期を生きるための準備でもあると言える。

そんな終活の具体例は、以下のように示すことができる。
.┘鵐妊ングノートを書く
遺言状を書く
お墓を決める
じ亀い覆Δ舛ら遺品整理をする


僕はこうした終活に関連するセミナー講師として呼ばれることも多いが、僕がそうしたセミナーでお話しするのは主に,良分である。

それは人生の最終ステージを自分らしく穏やかにかつ、豊かに過ごすために必要なことと言え、ある意味、自分が望む方法で看取り介護を受けるための必要不可欠な、「前段階」とも言えるものである。

その前段階にエンディングノートは必要不可欠とは言えないし、それを書かなくとも伝えられることはあるのだろう。しかし遺される家族等に自分の意志を正確に伝えるためには、言葉だけではなく文字に思いを込めて残しておくことはとても大事なことだと思う。

書き残した思いや意志が変わったらどうすると心配する人もいるが、その時はまた書き直せばよいだけの話である。その時点の意志を伝えるために記録しておかないと、いざ伝えたいときに、伝えられない状態になっているかもしれないのである。

エンディングノートに正式な規格はないし、書かなければならない項目が決められているわけでもなく、何を書こうと自由だ。例えばそこにプロフィールや自分史、現在の健康状態、葬儀・お墓についての希望、その他気がかりなことなどを記載しても良いし、自分の死後、遺される家族に対する愛のメッセージを記しておくことがあっても良い。

しかし最も大事なことは、リビングウイルの宣言を記しておくことだ。

リビングウイルとは、「生前意思」又は「いのちの遺言状」と言われるものである。具体的にはエンディングノートの中に、「自分の命が不治かつ人生の終末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し記しておくことが、「リビングウイルの宣言」となるのだ。それは延命治療を控えてもらうのと同時に、苦痛を取り除く緩和治療・緩和ケアに重点を置いた支援に最善を尽くしてもらうための宣言でもある。

その内容の中には、自分が口から食物が摂れなくなった時にそうしたいのかという宣言があっても良い。というより当然そのことも含んで書き残しておくことが大事だ。

口からものを摂れなくなった際に、経管栄養で延命措置を図ってほしいのか、そうしないで自然のままに逝かせてほしいのかを宣言しておくことは、自分がいざそうなった際に、自分の意思確認ができないまま、配偶者や子供がその重たい決定を行わなければならないという十字架を背負わせないためにも必要なことだと思う。

だから僕が行う終活セミナーの大きなテーマは、「あなたの思いは、大切な誰かに伝わっていますか。」である。愛する誰かに自分の思いを伝えておくことで、人生の最終ステージの生き方は豊かになるし、看取り介護の質も上がるのではないだろうか。

近直の「終活セミナー」は、10月27日(日)10:00〜12:00、アローチャート天領会主催 終活セミナーとして大分県日田市のホテルソシアで行うことになっている。どなたでも無料で参加できるセミナーなので、お近くの方は是非おいでいただきたい。

詳しくは貼りついたリンク先のチラシをご覧いただきたいが、このセミナーに引き続いて、午後からはサービスマナーセミナーも行う予定なので、とても有意義なセミナーだ。(午後のみ参加料500円かかります。)

ちなみにこの前々日(セミナー案内はこちら)と前日(セミナー案内はこちら)には、別府市でも講演を行なうのでリンク先を参照して、こちらの会場にもお越しいただきたい。

なお北海道では、11月9日(土)14:00〜17:00の予定で、中標津経済センターなかまっぷにて、「中標津地域介護支援専門員連絡協議会主催・看取り介護セミナー」を行うが、この中で終活とリビングウイル支援についてお話しするので、道内の方はそちらに参加いただければ幸いである。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
キャラアニのサイトからも送料無料になります。
医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
アマゾンでも送料無料で取り寄せができるようになりました。

人生会議の課題


ACPの愛称が人生会議とされたことに関しては「人生会議の可能性」という記事で紹介したとおりである。

ここにも書いているが、「人生会議」とは、一般的に抱く会議のイメージとはやや概念は異なっており、それは終末期に備えた意思決定を行うプロセス全体を指すものである。

そのプロセスには、医療関係者や介護関係者と、当事者や家族がテーブルをはさんで話し合う、「会議」そのものの実施も含まれるが、人生会議とはそれだけではなく、会議を経て当事者が意思決定をする過程で、揺れ動く気持ちに寄り添う関係者の日常的な支援過程も含まれるものである。

そのような人生会議は当事者にとって終活の一環としても、リビングウイルとしても大変重要で有意義なプロセスである。

例えば、リビングウイルとして一番重要な点は、「本人の意思決定とその確認」であることは間違いない。しかし終末期になった後に、その人の意思を確認することは難しくなる。よって意思決定ができ、その意志を表明することができる時期に人生会議を開催して、終末期になった際に自分はどうしたいのか、どのような支援を受けたいのかということを確認しておくことが重要になってくる。

そこでは病状を含めた当事者の現況について、医療面から、介護面から、それぞれの関係者が適切に評価し、その情報を伝えて、その情報やアドバイスに基づいて当事者の自己決定を促すということになる。

そうであるからこそ、人生会議に関わる医療や介護等の専門家は、人生会議というプロセスにおいて、専門家の価値観を押し付ける行為があってはならないという戒めが必要だ。医師の指示によって大事な決定を促すことが人生会議ではないことを忘れてはならないのである。

人生会議を通じて、一人一人の国民が自らの終末期の過ごし方を考え、自己決定に基づいてリビングウイルを宣言しておくことはとても大事なことである。それは尊い命を自ら敬い大切にすることに他ならないからだ。それはこの世に生を受け、人として生きてきた意味を問うことにつながるかもしれない。

しかし人生会議という場で、当事者である高齢者の方が、自分の意思を正しく表明できるとは限らないという問題がある。認知機能の低下がなくても、そういう場所に慣れていないことによって、日ごろ抱いている自分の気持ちを、うまく伝えられないという場合がある。そういう時に誰かに気持ちを伝える手伝いをしてもらいたいと考える人もいるはずだ。

そうすると人生会議に関わるチームのうち、誰がリビングウイルの宣言のための支援を行うことができるだろうかと考えたときに、介護支援専門員をはじめとした介護支援者は、利用者がお元気で、意思表示ができる状態の時期から関わり初めて、日常的に意思疎通を行いながら支援担当者として関わっている場合が多いことに注目してよいのではないかと考えている。

病状が悪化する前、意思確認ができる状態の時期から関わりを持っている介護支援専門員だからこそ可能となることがある。それは利用者の意思を代弁することである。

それはリビングウイルの宣言支援にもつながっていくのではないだろうか。そのことの役割をもっと意識した日ごろからの関わり方が、介護支援専門員には求められるのではないだろうか。

その役割は日ごろ身体介護に携わり、一番近くで当事者の気持ちを知る立場にいたヘルパーが担うことになっても良いはずだ。人によっては家族の心の負担を慮って、家族には伝えられない気持ちをヘルパーに吐露する人もいる。その中に含まれる本音を代弁する誰かがいないと、人生会議という過程も形式的で、単なるアリバイ作りの場に変わってしまう恐れがある。そうしないためにも、本人以外に、本人の気持ちを代弁する支援者が必要だ。

よって「人生会議」として関係者が集い話し合う場には、本人や家族、医療関係者とともに、本人のニーズを代弁する介護支援専門員などのソーシャルワーカーが参加することも必要不可欠であると考える。終活の一環として、リビングウイルを実現させる機会としても重要な会議であるからこそ、そこに日常支援に関わっている介護支援専門員等が参加する必要性も高い。

しかし人生会議に対しては、診療報酬も介護報酬も支払われない。この会議を行うことによって、関係者が何らかの報酬が得られるわけではないのである。会議の主催者及び参加者に、報酬以外の間接的利益が発生することも期待できない。それはあくまで治療や介護の過程の中で、必要不可欠なプロセスであるという関係者の理解がないと、人生会議は国民に浸透しないのである。

さらに、主治医師として高齢者に関わっている医師の中にも、人生会議という言葉も知らず、ACPという考え方にも興味が薄い人がいるかもしれない。

そうした諸々の状況が原因で、人生会議を開いてもらって、そこに当事者として自分や家族が参加したいと思っている高齢者が、そうした機会を持つ方法さえわからないというケースが続出するかもしれない。

いざ人生会議を開催しようとしても、日ごろ対象高齢者の日常支援に携わっている関係職員が、ほかの仕事を優先して、報酬の発生しない会議への参加を二の次にして、参加してくれないかもしれない。

そう考えると今後の課題は、この人生会議の重要性を関係者がいかに理解し、多職種が上手に日程調整して、こうした機会を日常的に作ることができるかということになる。

求められる地域包括ケアシステムとは、一人一人の住民が日常生活圏域の中で心身の状況に合致した居所を確保したうえで、医療や介護だけではなく福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが適切に提供でき体制なのだから、その一環として、「人生会議」が求められると考えるならば、地域包括支援センターは、その啓蒙活動に力を入れる必要があるだろう。

そして地域包括支援センターが、「人生会議」の開催を積極的に支援する必要もあるのではないだろうか。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・masaの最新著作本「介護の誇り」は、こちらから購入できます。


新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行予定)の先行予約はこちらからお入りください。

終末期の希望は、死を語ることではなく愛を語ることだ。


終末期をどのように過ごすかという判断は、本来その人自身しかできないものだし、その人自身がすべきである。

しかし自分の死について現実問題として考える前に、終末期を迎えてしまい、自身が意思表示ができない状態で、周囲の人々がその決定をせざるを得ないケースが多い。

それは決して求められている状態ではなく、そうしなくてもよいようにすることが求められる社会になりつつある。

そのためには自分自身の死や、愛する身内の死について語り合うことを、「縁起が悪い」などとタブー視せず、愛する誰かと日常的に、自分がどのような終末期を過ごしたいのかを語り合い、確認し合う必要があると考えている。

意思決定能力のあるうちに、自分の終末期医療の内容について希望を述べ、延命だけの治療は拒否するが、苦痛を和らげる緩和治療は最大限に行ってほしいなどの意思を示し、記録しておくことを『リビングウイル』と呼ぶ。このことは、今後の社会ではますます重要になってくると思う。

延命治療の結果が、どのような状態を作りだしているのかを考えるうえで、参考になる著書として、「欧米に寝たきり老人はいない〜自分で決める人生最後の医療より」(宮本顕二&宮本礼子著:中央公論新社 )があるが、その中で、とある療養病床の日常の風景が書かれている。

その内容は、病床の約7割の方が経管栄養か中心静脈栄養であり、その半数の方が痰がつまらないように気管切開され、チューブが入っている状態であるとし、看護師が数時間おきに気管チューブから痰の吸引を行っていることが紹介されている。そこでは吸引のたびに苦しむ患者の姿があり、意識がない患者でも体を震わせて苦しむ姿が明らかにされている。

果たしてそこで紹介されている人々は、自らの意思でその状態を選択したのであろうか。延命治療の結果、予測される状態の説明を受け、選択する機会は与えられていたのだろうか。そのような状態で生き続けたくないという意思表示を行う機会は与えられていたのだろうか。

もしそうした機会さえ与えられない状態で、このような日常が作りだされているとしたら、そのことはもっと問題視されてよいのではないだろうか。

少なくとも僕自身は、そのような姿で命をつなぎたいとは思わない。

我が国では、現在亡くなる人の8割以上が医療機関で死の瞬間を迎えている。しかし2010年と2030年を比較すると、約40万人死者数が増え、その中で医療機関のベッド数は減少するのだから、そこで死ぬことができない人が増大する。

そうであれば、どのような終末期を迎えたいのかという問題は、どこで死ぬかという選択肢も含めた問題であることがわかり、自分が意思表示できなくなった際に、周囲の誰かがその選択をする際に、その重い選択に、愛する誰かが悩まないようにするためにも、自分自身の意思表示が必要であると主張してきた。

親が子より先に旅立つことを前提に、自身の終末期の過ごし方を子に伝えておく意味について、そのことを子を持つ親の立場と、親の元に生まれた子の立場と、両方の観点から考えてほしい。

子を持つ親の立場で考えたとき、それは自分の愛する子に、親の人生の最終ステージの生き方を決定するという重い決断の下駄を預けて、子に精神的な負担をかけるという状態にしないという意味がある。

親の死に対して悲嘆感を持ち、グリーフケアが必要になるケースの大半は、親の死という事象そのものより、死に方がこれで良かったのかという疑問から生じている。

親の意思を確認できない状態で、終末期をどこで、どのように過ごすかを子として選択したとしても、そこで親が長年苦しむ姿を見たり、あるいは延命治療を行わずに死に至る場合に、「本当に自分の決断が、これで良かったのか。間違った選択を行ってしまったのではないか」と思い悩むことが、悲嘆感につながるケースは実に多い。

そうしないための唯一の方法は、あらかじめ親から子に、自分がどのような状態で終末期を過ごしたいのかという希望を伝えておき、その希望に沿って子が選択することである。

親の元に生まれた子の立場でこのことを考えたとき、それは自分を生んでくれた親に対して、この世で最後にできることは、親の望む形で、親の人生の最終ステージを過ごせるように、子としてその決断をし、看取ることである。その時に、親の希望を聞いておかないとしたら、もしかしたらそれは親の望む状態ではなくなるかもしれない。

勿論、親の立場でいえば、子が決めたことは常に最善で、それ以外の選択はないと言ってくれるだろうが、そうであったとしても、本当はどういう終末期を過ごしたかったのかを確認することで、その希望に沿った人生最後の親孝行ができようというものである。

そういう意味で、周囲の愛する誰かと、自らの終末期について語り合うことは、それは死を語るという意味ではなく、愛を語るという意味であり、決して縁起が悪い話ではないのだ。

さあ愛を語ろう。できるだけ早く。明日に回さずに・・・。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料のインターネットでのお申し込みはこちらからお願いします。

人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。

終活セミナーの方法


看取り介護におけるPDCAサイクルの中で求められる、「地域住民への啓発活動」として、施設における看取り介護の実践報告会を開く際には、単なる地域住民に向けた報告会にとどまらず、「終活(しゅうかつ)セミナー」として、リビングウイルの視点からの情報発信を行ってはどうかと提言しているところである。
(参照:PDCAサイクルにおける住民啓発活動には「終活」の視点を取り入れたい

その意味は2つある。一つには、「看取り介護の報告会」とはいっても、看取り介護対象となっ方の遺族は、自分の身内がすでに退所になった施設の単なる報告に興味を持つ可能性は低いし、ましてや施設とは何の関係もない地域住民であればなおさら、地域に介護施設があるという理由だけで、特養等の看取り介護の実践報告を聴きたいと思う可能性は低いだろうと思え、報告会を開催しても誰も参加者がいないという事態が起こりかねない。

そうであれば、自分と全く関係のない問題ではなく、自分自身や自分の家族にもいつか訪れるであろう終末期を見据え、その時になったら自分がどうしてほしいのか、家族にどう対応すればよいのかを考える機会として、「終活セミナー」というものがあるとしたら、そこにはある程度の参加者が見込めるということである。現に僕が講師として関わった、「終活セミナー」には、65歳以上の高齢者の方々がたくさん参加しておられた。

そしてもう一つの意味は、社会福祉法人の社会貢献を考える視点である。

リビングウイルの考え方を地域に広めて、自分が最期の瞬間までどう生きるのかということを、家族任せにせず、自分自身で決めておくことによって、自分が終末期を迎えた際に、家族に精神的な負担と苦痛を与えないという結果につながる。なおかつ自分の判断力が衰えたり、失った場合であっても、自分が望む終末期支援を受けることができるという安心感を得ることができる。そのことは、残された家族の悲嘆緩和にもつながるであろうし、良い形で命のバトンリレーができるという意味でもあり、そういう考え方を広めたり、そこに結びつける情報を地域住民に提供することは、十分社会貢献事業と言えるのである。

では実際に終活セミナーは、どのような内容で行われているのだろうか。それは様々な方法と内容で全国で行われているが、僕が過去に講師として参加した終活セミナーで行われていたことを紹介したい。

昨年9月27日、岡山県倉敷市で行われた終活セミナーは、「命の預け方〜人生の最終章を不安から彩りへ」というテーマを掲げて行われた。張り付いたリンク先を参照してほしいが、ここでは僕が、「あなたらしい最終章を守るために」という講演を行い、口から物を食べられなくなった場合に、どのような選択肢があるかなど、終末期の選択として考えられる事柄を明らかにしたうえで、自らの意思を周囲の愛する誰かに伝えておくことの大切さや、その意味についてお話しした。

その後のパネルディスカッションでは、法律関係の方や、終活の実践としてエンディングノートを書いておられるシニア世代の方などと意見交換を行った。当日は180名ほどの参加者があり、介護サービス関係者の方も数多く来場されたが、過半数は一般市民の方々で、しかも60歳以上の方が来場者の半数以上を占めていた。お元気な高齢者の方々が数多かった。そして講演とパネルディスカッション終了後には、受講された方々から、「良い話を聴かせていただいて感謝します。」という言葉を数多くいただいたが、それらの方々の大多数が、ぼくより年齢の高い、人生の先輩たちであった。

また同じく昨年6月21日に福岡県北九州市で行われた終活セミナーは、「命の繋活(けいかつ)セミナー〜次世代に繋げるあなたらしい人生のひとこま」をテーマにして、講演とパネルディスカッション以外にも、会場で様々なブースが設置され、来場者の方々がいろいろな体験をしたり、情報を得たりしていた。その時のパンフレットが以下の画像である。
終活セミナー
終活ブロックでは、介護・施設入居相談のみならず、弁護士の方による遺産・遺言・相続の相談ブースが設けられていた。さらに遺影撮影のブースや、実際に棺桶に入る「入棺体験」のブースもあり、なかなかの盛況ぶりであった。しかもその雰囲気は決して暗くなく、明るい日差しの日であったことも相まって、明るい雰囲気の中で様々な体験がされていた。

そう考えると終活セミナーは、様々な事業者の参加協力により、いろいろな体験コーナーを設置しながら、多様な方法での実施が考えられるように思う。協力業者は葬儀関係業者であってもよいし、墓石・墓地の関連業者であってもよいだろう。それを単に営業活動と考えるのではなく、リビングウイルのためと、残される遺族への負担・悲嘆軽減の社会活動と考えることが可能なのではないだろうか。

その中で介護施設の看取り介護の実践報告を行うことは、介護施設が、最期の瞬間まで安心と安全の暮らしを保障する支援を行い得る社会資源であるということの認識浸透にもつながるであろう。そういう意味では、介護施設は本当の意味で、最期の瞬間まで安心して暮らすことができる終生施設としてのサービスの品質を担保する必要があるし、その評価のための看取り介護終了後カンファレンスの実践と評価を重ねていくことが重要になるだろう。

ところで終活セミナーの講演で、僕が主張して事柄の一つとして次のことが挙げられる。

・リビングウイルやエンディングノートを記録し始める時期に、「早過ぎる」という時期はない。
・間に合わなくなる前に、自分が一番信頼できる、愛する誰かと、お互いの人生の最終ステージの過ごし方を確認し合っておくことが重要。暮らしを支援する専門職にはこのサポートをする役割が求められる。
・介護サービスに携わる専門家は、利用者との信頼関係を得ることができた時点で、終末期の医療や、口から物を食べられなくなったらどうしたいのかなどを文書で確認しておくことが大事
・その決定に関して、介護支援関係者はいかなる誘導や容喙(ようかい)を行ってはならないし、下された決定に対し、良い悪いという審判をしてはならない。ただ粛々とその判断を尊重し、その希望が実現されるように支援するのみ。ただし決定事項は、いつでも変えられるという理解が必要。
・そのため家族同士で、あるいは支援者と利用者間で、死について語ることをタブー視しない。

僕のこの主張は、実際に僕の施設で実践していることであり、単なる建前論ではないことを申し添えておきたい。

ちなみに終活セミナーでは講演を行うにしても気をつけなければならない点がある。一般市民の方や、高齢者の方が多い場合には、介護関係者向けの講演と同じ言葉を使って話しても意味が通じないことがある。そのためできるだけ専門用語を使わないように配慮したり、専門用語を使う場合には、誰にでも分かるような説明を同時に行う必要がある。例えば、「胃瘻」を話題にする場合も、そもそも胃瘻って何かがわからない人に、経管栄養の是非を論じても始まらない。この場合は、どのような状態の人に、どうやって胃瘻を造って、造った後はどうするのかなどを、胃瘻のイラストや画像を使って、図解説明しないと理解できない場合もあり、この点は常に注意しなければならない。

そんなふうに受講対象者に応じて、講演内容は変えることは可能なので、講師役のご用命があればメール等でお気軽に連絡いただきたい。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

介護・福祉情報掲示板(表板)

4/24発刊「介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料のインターネットでのお申し込みはこちらからお願いします。

人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。

PDCAサイクルにおける住民啓発活動には「終活」の視点を取り入れたい


介護施設等の「看取り介護」・「ターミナルケア」については、PDCAサイクルの構築による実施が求められている。その詳しい内容については、「PDCAサイクル構築の具体的内容」で解説しているので、そちらを参照していただきたい。

リンクを貼り付けた記事にも書いたが、改善(Action)部分で求められている、「看取りに関する報告会の開催」と「入所者及びその家族等、地域への啓発活動(意見交換)」については、今回は「啓発活動を行うことが望ましい。」という規定となり、必須項目ではなく努力義務とされた。

そのためこの活動は、とりあえず棚上げして、近い将来の実施を考えるという施設が多いことだろう。

それはそれで構わないと思う。なぜなら一番大事なことは、地域住民を啓発することではなく、看取り介護対象者が最期の瞬間まで、安心・安楽に過ごすことができる支援を行うことなのだから、看取り介護の内部の体制づくりが優先されるべきであって、必ずしも啓発活動を同時進行的に行うということではないからだ。まずはしっかり基盤となる「看取り介護」の理念と方法論を構築することが優先されるべきである。

国もそのことはよくわかっているから、今回はこの部分を「行うことが望ましい。」という表現にとどめ、実施義務を課さず努力目標にとどめ置いたのであろう。

しかし同時に我々は、この努力目標に胡坐をかくことなく、地域住民に向けた啓発活動を行うことができる看取り介護の品質を築くべきである。特に社会福祉法人であれば、今後ますます地域貢献が求められていくのであるから、人生の最終ステージを安楽に安心して過ごすことができる方法論を具体的に地域住民に示すことで、地域社会に貢献するという意味でも、この部分の啓発活動をずっと努力目標で終わらせることがないようにしなければならない。

むしろ看取り介護の事例を重ねる中でノウハウを手に入れた施設は、そのことを積極的に地域に情報提供することで、地域の中でどのように安心・安楽の人生の最終ステージを迎えることができるのか、それまでに自分が何をしたらよいのかを考える機会を創るべきである。

ただ、その際に単純に「看取り介護報告会」を家族や地域住民に向けて行うとしても、それに対して興味を示してくれる人は多くないのではないかと思う。啓発活動は必ずしの大勢の人向けに行われなければならないということはないし、それは草の根的に小さな単位から始めることも重要なわけであるが、忙しい業務の合間を縫って行う活動であるのだから、そう頻繁に報告会が開催できるわけではない。そうしたことを踏まえると、できるだけ多くの方に興味を抱いていただいて、その場に足を運んでいただき、報告を聴いていただくという視点も大事になるのではないだろうか。

そうすると、「看取り介護」の問題を、自分の家族あるいは自分以外の第3者の問題と捉えるのではなく、自分自身にも関係することという観点を持っていただくことで、この報告会への参加意欲や動機づけにつながるのではないだろうか。

そう考えると、地域への啓発活動は、単に「施設での看取り介護の報告会」として行うのではなく、そうした報告も含めた「終活セミナー」として行うことが有効となるのではないだろうか。

終活とは、その言葉に明確な定義があるわけではないが、それは人間が自らの人生の最終章を迎えるにあたって行うべきことを総括した意味と考えらえており、自分がまだ元気で意思を伝えられる時期に、自分自身のための葬儀や墓などの準備や、財産処分の方法などを決めておくことや、終末期に意思を伝えられなくなったときに備え、リビングウイルの観点から、どのような医療を受けたいのか、口から物を食べられなくなったときにどうするのかなどの、具体的な希望を第3者に伝えておくことなどを指している。それらを総合的に考えるセミナーが「終活セミナー」である。

こうした終活セミナーを一法人単独で行うと言うことにとどまらず、地域の社会福祉法人がいくつか協力し合って合同で行うことができたならば、地域全体の介護の品質向上にもつながっていくのではないだろうか。

またそうしたセミナーを開催する際に、「終活」または「看取り介護」の具体論を話すことができる講師をお探しなら、是非お気軽に声をかけていただきたい。突然メールで問いかけていただいて構わないが、その際は迷惑メールを間違えないように、タイトルにしっかりと講演依頼と書いていただければありがたい。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

介護・福祉情報掲示板(表板)

4/24発刊「介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料のインターネットでのお申し込みはこちらからお願いします。

人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。

愛する誰かに対する「できる限り」の意味を考える


自分が回復不能な嚥下困難な状態になった後に、経管栄養をするのかしないのか。あるいは自分が意識不明となり、自発呼吸ができなくなったときに、人工呼吸器をつけてほしいのか、欲しくないのか等、終末期をどのような状態で過ごしたいのか、どのように自らの人生の最終章を迎えたいのかということについて、自らの希望を明らかにしておく時期に、「早すぎる時期」は存在せず、周囲の信頼できる人に、その希望を伝えておく必要があることを何度か主張してきた。
(参照:リビングウイルを考えることを先延ばししない

その意味は、最期の瞬間まで自分が自分らしく生きるために必要であるのと同時に、終末期に何をすべきかを決めるという「過酷さ」を家族に委ねては可哀そうだという意味がある。少なくとも僕は、僕の意思を明らかにしないまま、愛する家族がそのような重い決定をしなければならないという心の負担を負わせたくないと思う。

口から物を食べられなくなったときに、本人の意思が確認できない状態で、死期を早めることにつながる、「経管栄養は行わない」という決定を、自分の妻や息子が行った場合、僕自身はそのことに全く異議はないし、妻や息子の決めたことをすべて受け入れて、決定してくれたことをありがたく思って旅立っていけるという思いはある。

しかしその決定を行った当事者である妻や息子の立場や視点に立って考えればどうだろう。

夫もしくは親の意思が確認できない状態で、最善の結果を求めて真剣に判断したとしても、いざ死という場面に直面した際に、自分が配偶者もしくは親の死期を早めたという罪悪感を全く持たないとは限らない。そのことで悩み苦しむかもしれない。

そのようなことがないように、延命措置を取ってほしい、とってほしくない、という自身の希望や判断は、きちんと家族に伝えておくべきである。

自分が終末期をどう過ごしたいか、どのように人生の最終章を迎えたいかを明らかにしているにも関わらず、なおかつその判断と異なる決定を家族が行ったとしても、僕自身はそのことを認めるだろう。ただそれが残された者の心の傷にならないことを祈るのみである。逝くものは、残された者が幸せでさえあれば良いと思う。

死とは、ある人の生命の終わりを表すが、その影響を受けるのは逝く人のみならず、その周囲の人々すべてに及ぶものである。そうであるがゆえに、逝く人より、生きてこの世の時間を過ごし続けていかなければならない人が、どのような影響を受けるのかということの方が重要ではないかと考える。

残される者たちが、逝く人を愛おしく思う限り、間違った決定というものは存在しないのだろうと思う。愛する者同士が、愛を持って決定する行為に、「誤り」は存在しないのだろうと思う。だから周囲の人々は、そうした状況で決断された結果を、審判することがあってはならないわけで、すべてを受容すべきである。

ただ一つだけ送る側の人に言っておきたいことがある。

最期の場面まで、どのように過ごすべきかを決定する際に、「できる限りのことをしたい」といって、その「できる限り」の意味が、できるだけ長く心臓を動かし続ける意味でしかない場合がある。それは果たして最愛の人に、できる限りのことをする結果になるのだろうか。それはどうも違うように思う。最後の場面を安楽に過ごす際に、血管が確保できるぎりぎりまで点滴が必要になるという思い込みはしてほしくない。

点滴の針を引き抜く人がなぜ多いのか。ゆがんだ表情で点滴を受けている人がなぜ多いのか。必要最低限の水分しか取っていないはずなのに、手足がむくんでくるのはなぜなのか。

逆に、点滴を一切行わずに水分も取っていない人の体内から尿や体液が排出されるのはなぜか、それらの人々が、最期を迎える時間を過ごす中で、のどの渇きや空腹感を訴えずに、表情が安らかな人が多いのはなぜか?

そのことは医学的に答えが出ているわけではないが、体が自然に死になじんで、死への準備を始めているということはあることなのだ。その時に血管が確保できるからと言って、無理やり水分を流し込むことに何の意味があるのだろうか。

前述したように、終末期の過ごし方・迎え方は、旅立つ人だけに意味があるのではなく、周囲の人にも意味があるのだから、家族の善意と愛情に基づく決定はすべて受け入れられてもよいとは書いた。ただその時、本当に愛する人を最善の方法で送りたいと思うならば、単純に心臓を動かす時間が長かったという尺度だけではなく、本当に死を迎える瞬間まで、愛する人が安楽であるのか、そのことを測る基準にはどのようなものがあるのかを多角的な視点から見つめて、そのうえで判断してほしいと思う。

愛する誰かのために、そのことを真剣に考えてほしいと思う。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

介護・福祉情報掲示板(表板)

4/24発刊「介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料のインターネットでのお申し込みはこちらからお願いします。

人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。

リビングウイルの視点・告知と余命宣告を考える


がんの告知が当然のように行われる時代になってきたように思う。

治療不可能な、「末期がん」の場合でも、告知と余命宣告が行われるのが当然と考える人も増えてきたように思う。

僕自身は自分の病状について告知してほしいし、余命宣告も行ってほしいと思う。その結果、僕自身の心の中の動きがどうなるかはわからないが、どうなったとしても、それは自己責任として受け入れる覚悟はある。自分の病状や余命を、自分自身が知らずに、家族だけが知って、そのことで家族が気を遣ったり、気に病んだりすることは嫌だ。そういう形で愛する家族を悩ませたくはない。

しかしこの考え方には、かなり個人差があるのではないだろうか。その考え方について、世代間の差もあるのかもしれない。

この国にはまだまだ、「治療不能な病状」は告知しないことが当たり前であった時代に生きてこられた方々が存在していて、その世代の方々の中には、自分の余命宣告を受けたくないと考えている人も多いのではないだろうか?

告知を受けることで、激しい精神的衝撃を受けると考え、あくまで隠し通して死を迎えたほうが好ましいのではないかという考えもあるだろう。

このことに関して作家の故・吉村 昭さんは、「日本人と欧米人は死に対する観念が異なる」、「それを情緒的といわれても良い、それは私たち日本人に染み付いたものだ」と述べ、余命宣告や治療不能の宣告を行うべきではないという考え方を示している。
(参照:看取り介護考〜死の告知。

現在介護保険の1号被保険者となっている団塊の世代の若いころには、癌の告知は普通には行われていなかったはずだ。そうであれば、治療不可能な癌の告知と余命宣告は行わないのが当たり前だと考えている人も多いのではないだろうか。

その世代の方々は、果たして自分の余命宣告を望んでいるのだろうか?

この問題は癌という特定の疾患に限って考えるような問題ではなく、治療不能な病状の告知ということで広く考えるべき問題ではないかと思う。

そして看取り介護や終活というものを見据えた場合には、医療関係者のみならず、介護関係者も、自らの職業の中で終末期である病状の告知と、余命宣告についてどうするのかと悩まねばならないケースがあると想定できるのだから、自分自身が対人援助の場で、治療不能な状態の人に向き合う時に、どのように対応すべきであるかが問われる問題として、この問題を考えなければならないのではないだろうか。

このことに一般論は必要とされないだろう。個別の判断として、ひとりひとり違う価値観を持つ人が、そのことをどう考えるのかという問題であり、「こうすべきである」という指導も示唆も、誘導もあってはならないと思う。

そして「こうしてほしい」という判断がされた場合には、そのことを良いとか、悪いとか、一切の審判をしてはならないし、いかなる条件も付けずに受け入れるべきだろうと考える。

リビングウイル(意思決定能力のあるうちに自分の終末期医療の内容について希望を述べることであり、延命だけの治療は拒否するが、苦痛を和らげる緩和治療は最大限に行ってほしいなどの意思を示し、記録しておくことである。)は、基本的に告知を前提に考えられていると思われる。そうではないケースはあるのだろうか?

そう考えると、自分が終末期にどのような医療を受け、どのような支援を受けて過ごしたいのかという表明や記録については、自分が終末期であると診断された際に、そのことを告知してほしいのか、告知せずに隠し通してほしいのかという希望をも、明らかにしておいた方が良いのではないかと考える。

自らの希望を明らかにすることにより、家族がそのことをどうしようと思い悩むということもなくなるのではないだろうか。父や母が決めたことを実行するということで、子や孫の心の負担は少なくなるし、むしろそこことは、親の希望に沿って看取ったという満足感にもつながっていくのではないだろうか。

愛する人々に対する命のバトンリレーは、自らの意思や希望を伝えることから始まるのではないだろうか。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押して、応援よろしくお願いします。

介護・福祉情報掲示板(表板)

4/24発刊「介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料のインターネットでのお申し込みはこちらからお願いします。

人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。

増えてきた終活セミナー


僕の講演デビューが、果たしていつのことだったのかは記憶にない。まだ元号が昭和の時代に、市内の総合病院の看護師研修講師を依頼されたのが最初であると思うが、その内容も時期も覚えていない。

しかし道外講演デビューは、平成18年7月31日に岩手県・アピオ会議場で行われた岩手県社会福祉協議会と岩手県高齢者福祉協議会が主催した「看取り・ターミナルケア研修」であると記憶している。(記録もあるので間違いない。)

この年の4月に介護保険制度の初めての制度改正が行われ(報酬改訂は2度目)、同年1月の報酬告示では、特養の報酬に「看取り介護加算」が新設された。そして加算算定には「看取り介護指針」の作成が必要とされたが、全国を見渡してもそのような指針を作っている特養は皆無であった。そのため僕は独自で「看取り介護指針」を作成し、それを当施設の公式サイトからダウンロードできるようにした。それは18年2月のことであった。
(参照:当施設の看取り介護に関する資料のダウンロード

それは僕が、日本で最初に「看取り介護指針」を作成した人という意味にもなるのではないかと思っている。

そのようなこともあって、同年7月の岩手県講演の講師としてご招待いただいたと記憶している。それがきっかけとなって、今では全国各地で講演を行い、講演実績や予定のない県は、新潟・山梨・鳥取・島根・香川の5県のみとなっている。

道外講演デビューした18年度は、そのほかに長崎で介護保険制度改正について講演しているが、翌年も看取り介護や制度改正を中心に話をしていた。そのような道外講演の数は徐々に増え、講演テーマも、認知症の理解・施設サービス計画の作成・居宅サービス計画の作成・デイサービスやショートのケアプラン作成方法・ケアマネジメント全般・施設相談員の役割・介護サービス全般・介護施設における法令順守の視点など多岐にわたっている。

「看取り介護」は、それ以来現在までずっと続いている講演テーマであるし、今週の土曜日にも大阪でお話しする予定になっている。
(参照:看取り介護に求められる社会的使命

その講演内容は、実践の積み重ねがあるので、18年度と現在とでは、内容はずいぶん変わってきているが、それは人生の最終ステージである「看取り介護期」に、どのような暮らしの支援を行うべきかという、サービス提供側の方法論を中心にお話しする内容となっている。

しかし最近、看取り介護を行う側ではなく、看取り介護を受ける人々が、その時に何をどうしてほしいのかということを考えるセミナー等が行われるようになった。それが「終活セミナー」である。

終活について、その言葉の明確な定義があるわけではないが、それは人間が人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括した意味と考えらえており、自分がまだ元気で意思を伝えられる時期に、自分自身のための葬儀や墓などの準備や、財産処分の方法などを決めておくことであったり、終末期に意思を伝えられなくなったときに備え、リビングウイルの観点等から、どのような医療を受けたいのか、口から物を食べられなくなったときにどうするのかなどの、具体的な希望を第3者に伝えて記録しておくことなどを指している。

そのような終活を考えるセミナーにも、講師としてご招待を受ける機会が増えている。昨週土曜日も、岡山県倉敷市で行われた、人権啓発セミナー『人生の最終章を不安から「彩り」に変えるパスポート』 に、講師&パネリストとしてご招待を受けた。

当日は180名ほどの参加者があり、介護サービス関係者の方も数多く来場されたが、過半数は一般市民の方々で、しかも60歳以上の方が来場者の半数以上を占めていた。お元気な高齢者の方々が数多く、「終活」に興味を示されて来場されていた。(下記の図を参照いただきたい。)
終活セミナー参加者統計
そこで僕は、看取り介護支援を行う立場から、今後のわが国で求められる終末期の支援体制について説明するとともに、僕が経験してきた様々な終末期のエピソードをお話して、命のバトンリレーという意味を伝え、自らの死について語り合うことをタブー視しないことの重要性を説明してきた。そしてリビングウイルやエンディングノートを記録し始める時期に、「早過ぎる」という時期はないし、間に合わなくなる前に、自分が一番信頼できる、愛する誰かと、お互いの人生の最終ステージの過ごし方を確認し合っておくことが重要であるというお話をさせていただいた。

講演とパネルディスカッション終了後には、受講された方々から、「良い話を聴かせていただいて感謝します。」という言葉を数多くいただいた。声をかけていただいた方々の中には、僕よりずっとご高齢の方々がたくさんおられた。わざわざ声をかけていただき恐縮である。この場を借りて、感謝申し上げたい。

終活は自分の死を考えながら、残される遺族へのメッセージも含めて考えることができる活動だ。自分だけのためではなく、残された遺族への配慮も可能となる活動である。

そして自分の人生の最終ステージについて考えることは、自分の死までの生き方を考えることだ。そういう意味で、終活セミナーは今後ますます必要とされるのではないかと考えるし、そうしたセミナーのお手伝いも数多くできればと考えている。

誰かの人生が、最後まで彩(いろどり)に満ちたものであるために、我々にもできることを続けていきたいと思う。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押して、応援よろしくお願いします。

介護・福祉情報掲示板(表板)

4/24発刊「介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料のインターネットでのお申し込みはこちらからお願いします。

人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。

自らの「死」、愛する人の「死」を語る意味


人の命は永遠ではない。永遠ではない儚いものだからこそ命は尊い。

僕たちは自らの命が永遠ではないという意味を、自らの生き方の中で考える必要がある。

そうであるがゆえに、人が自らの「死に方」を考えることは、自らの「生き方」を考えることに他ならないと思う。

このことに関連して、リビングウイルという考え方がある。それは意思決定能力のあるうちに自分の終末期医療の内容について希望を述べることであり、延命だけの治療は拒否するが、苦痛を和らげる緩和治療は最大限に行ってほしいなどの意思を示し、記録しておくことである。リビングウイルは、「生前意思」とも訳され、人生の最終ステージを自分の意思に基づいて、自分らしく過ごそうとする考え方である。

同時に、どこで最期の時間を過ごすのかという選択肢を考えることも大事だ。

看取り介護は「死」の援助ではなく、「生きる」という姿をいかに支えるかという意味があると思う。その人らしい尊厳ある生き方の延長線上に「看取り」という時期があるのだから、最期まで自分らしく存在するために手を差し伸べてくれる人がいる場所で、人生の最期の時間を過ごしたいと思う。それが可能になるかどうかはわからないが、可能にするためには、その意思を誰かに伝えておくことが前提になる。

なにより自分が信頼を寄せ、愛する人に最期は看取られたいと考えている人は多いのだろうと思う。

そうであれば、自分が最期の時間を過ごす場所を、医療機関とか、特養とか、サービス付き高齢者向け住宅とか、グループホームとか、自宅とかの種別で選ぶのではなく、そこに誰がいて、何ができるのかという個別性で選択することが大事になる。

そのためにも、日頃からの情報収集が大事だ。きちんと看取り介護の具体的方法や状況を伝えてくれる人がいなければ選択さえもできない。逆に言えば密室で看取り介護が行われている場所は怖いと思う。そこで何が行われているかわからないからだ。

どちらにしても、人生の最終ステージを、どのように過ごすのかを、自らの意思で決める機会を逃さないようにするために、何をしたらよいのかを、今元気なうちに考える必要があると思う。

口から物を食べられなくなったときにどうしたいのか、治療不可能な病状に陥った時に、単に死ぬ時期を遅くするだけの治療を求めるのかなどを、決められるうちに意思表示しておくという機会を逃さないようにしたいものだ。

そういう意味で考えると、リビングウイルやエンディングノート(リビングウイルを含めて、自分にもしものことがあった時のために、伝えておきたいこと をまとめておくノートのこと)を記録し始める時期に、「早過ぎる」という時期はない。

間に合わなくなる前に、自分が一番信頼できる、愛する誰かと、お互いの人生の最終ステージの過ごし方を確認し合っておくことが重要だと思う。

今月27日(土)13:30〜くらしき健康福祉プラザ(岡山県倉敷市)で行われる、終活セミナー・命の預け方〜人生の最終章を不安から彩りへ〜では、「あなたらしい最終章を守るために」という70分の講演を行う予定である。

そのセミナーの受講予定者は、介護関係者よりむしろ60代〜70代の一般市民の方が多いそうである。それらの方々は、自分の死に方、死に場所を、意思のあるうちに選択できる方であるにもかかわらず、そのことの重大さと、それができなかったときに、どんな終末期を過ごす可能性が高いかということを理解していない人も多いのではないだろうか。そうであるがゆえに、そこではきちんとわかりやすく、自ら終末期の暮らしを決めことができる意味を伝えてこようと思う。

そのため講演内容は、介護関係者の方のとっては、そんな言葉の意味まで解説しなければならないのと感じる部分があるかもしれないほど、噛み砕いた内容になると思う。それは、すべての受講者の方々が理解できるお話をしたいという意味なのでご了承願いたい。だからと言って介護の専門職が聴いて、「わかりきった」内容だけではないので、聴いても得るものがないのではないかという心配には及ばない。

講演の後は第2部として、介護・福祉法務・在宅医療の専門家、終活実践者の方々と「不安を彩りに。この地に根ざして。」というトークショーを行う予定になっている。

参加ご希望の方はまだ間に合うので、上でしめしたリンク先から内容を確かめて、申し込みフォームよりお申込みいただきたい。セミナー参加料は無料である。

またセミナー後には、懇親会も予定されており、希望者は懇親会参加申し込みフォームからお申込み願いたい。なお懇親会の参加費用は、おひとり様5.000円となっている。

それではお近くの皆様、今月の最終土曜日は、くらしき健康福祉プラザでお逢いしましょう。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押して、応援よろしくお願いします。

介護・福祉情報掲示板(表板)

4/24発刊「介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料のインターネットでのお申し込みはこちらからお願いします。

人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。
新刊出版のご案内
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)の特典付き注文はこちらをクリックしてください。送料無料です。
masaの講演案内
当ブログ管理人masaの講演予定は、こちらからご覧下さい。講演依頼もこのページからできます。
Weekuly Access

    記事検索
    Blog Search
    Google
    WWW を検索
    このブログ内を検索
    ↑こちらにキーワードを入れて過去のブログ内記事を検索できます。
    masa's book 6
    表紙画像(小)
    新刊「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から(2019年1月20日発売)のネットからの購入はこちらをクリックしてください。送料無料です。
    masa's book 5
    新刊介護の誇り
    「介護の誇り」はこちらから購入できます。
    masa's book 4
    介護の詩(うた)  「介護の詩(うた)」はこちらから購入できます。
    masa's book 3
    人を語らずして介護を語るなTHE FINAL 誰かの赤い花になるために  感動の完結編。 「人を語らずして介護を語るな THE FINAL 誰かの赤い花になるために」。 はこちらから購入できます。
    masa's book 1
    表紙カバー、帯付き
    書籍化第1弾「人を語らずして介護を語るな〜書籍masaの介護福祉情報裏板」 はこちらから購入できます。
    Facebook
    masaのフェイスブックはこちらからアクセスしてください。
    Recent Comments
    Archives
    Categories
    Access Counter
    • 今日:
    • 昨日:
    • 累計:

    QRコード
    QRコード