masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

政治・経済・社会

介護報酬改訂を解散総選挙の争点に


全国老施協の情報によると、昨日行われた自民党の介護福祉議員連盟の中で、国会議員から介護報酬の安易な引き下げ論に対して異議の声が挙がったそうである。

しかし厚労省の三浦老健局長からは、「介護報酬改定は、事業者のみならず地域経済にも大きな影響をもたらす。改定について財務省と日々、議論しているが、かなりの距離感がある。厚労省としても(介護報酬について)しっかりと位置づけをして臨みたい。」という答弁があったそうである。ここには財務省の厳しい姿勢が垣間見られる。

そして財務省の向こう側には、財政規律を盾に、社会福祉法人の繰越金を内部留保とみなし、不正蓄財であるかのように「返していただく」と発言している麻生大臣の姿が見えるし、その向こうにはプライマリーバランスゼロ政策を復活させている安部首相の姿も見えてくる気がしてならない。それだけ介護報酬改訂をめぐる状況は厳しいと言わざるを得ない。

ところで介護福祉議員連盟には55名の国会議員と、144名の代理人の参加があったとのことである。この数字をどう読むのか?議員本人出席が代理人出席の1/3程度という状況を少ないと読むのか、55名という数字を多いと読むのか・・・。

その実態はよくわからないが、昨日の状況でいえば、解散総選挙の風が吹き荒れる永田町で、自分が所属する委員会を欠席して地元に帰って選挙準備を進める議員も多い中、これだけの数が集まったことには、それなりの意味があると考えてもよいのかもしれない。

その解散総選挙である。昨週突然のように解散の風が吹き始めたと思ったら、12/14投開票の方向で急速に準備が進められている。同時にそれは消費税の10%への引き上げを1年半先延ばしすることの信を問うという形で進められている。

そうであればこの選挙の争点は「消費税の引き上げ時期」ということにならざるを得ない。国際公約である2017年10月の再引き上げという約束を反故にして、先延ばしすることの信を問うことになるのだろう。

消費税の引き上げの先延ばしという一点のみでみれば、これは介護報酬改訂には逆風だ。

社会保障財源となる消費税率が引き上げられない状況では、介護報酬の引き上げ財源はないとされる見方が強まるだろう。

しかし介護関連業界に係る人々の数を、選挙の有権者としてみれば、これはまた違った景色が生まれる。

すでに介護関連事業に携わる人の数は、一定の政治状況に影響を与えるだけの数ではあるのだ。その数をまとめきれる組織がないとか、皆が同じ方向でスクラムを組むような基盤がないという状況は否定できないものの、介護報酬を引き上げるという、その一点に関しては、同じ方向を向くことが可能になるのではないだろうか。

介護報酬が財務省の理屈で、一律6%ものダウンとなれば、収益の上がっていない事業所は全部倒産である。倒産しないにしても事業継続のために、過度なコストダウンとリストラを図らねばならない。その結果は、サービスの質の低下と介護難民の増加という形で、国民に負のスパイラルをもたらすことになるだろう。

基本報酬は下げるが、処遇改善加算は下げないから介護職員の給与は引き続き改善されるというが、事業経営が厳しくなる中で、職員の給与水準だけが守られるなんて夢の夢である。そんな現実は顔にも未来にも存在し得ないであろう。

介護報酬を引き上げる戦いは、介護の職業に従事する職員の身分や待遇を護るための戦いであると同時に、国民の福祉を護る戦いであることを忘れてはならない。社会福祉法人がもうけ過ぎで不正蓄財に走っているかのようなプロパガンダがされているが、それが大嘘であることは、「介護事業から頑張る人がいなくなる制度改革」で示しているところである。

そして介護報酬問題を、解散総選挙の争点にするか否かは、我々関係者の働きかけにかかっていると言っても過言ではない。今回の選挙は消費税が争点であるし、どんなに我々が騒いでも報酬改訂に何も影響はないとあきらめた瞬間から、介護報酬は財務官僚の掌の中で動かれる結果となるだろう。我々がおとなしく口を閉ざした瞬間が、敗北の始まりである。

各自の選挙区で、自分が投票しようとする立候補者に、介護報酬に関する考え方を問いかけてほしい。その結果を投票行動の目安の一つとしてほしい。

改訂介護報酬単価は、来年1月末に示されるが、介護報酬の改定率は(公にされるか、されないかは別問題にして)年内に決定される。その決定までにぎりぎり時間があるという時期が、12/14の投開票選挙ということではなかろうか。

どちらにしても何もしない、何も言わないという姿勢では、何も変わらないのである。結果はともかく、行動することがまず求められることだ。

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かつてない社福への逆風に危機感を


特別養護老人ホームを経営する社会福祉法人に巨額な内部留保が存在するという指摘から、社会福祉法人に対する優遇制度への批判の声が高まり、介護保険事業のイコールフッティングという理屈が正当性を帯びつつあり、社会福祉法人への法人税課税にまで議論が及んでいる。

同時に社会福祉法人に対する内部留保のアンチコマーシャルは、改訂される特養の来年度報酬に極めて厳しい逆風となっており、人材確保・定着のために必要な処遇改善費用についても、内部留保金を活用せよという強い意見が出されている。

このままだと特養の報酬は、多床室を中心に減額必至という状況で、人件費を繰越金から手当てしなければ運営ができないという状況が生まれる可能性が高い。

加えて通所介護については、予防給付対象者の給付除外・地域支援事業への移行だけではなく、長時間のレスパイトケアに対する評価を下げるという方向が示され、極めて厳しい報酬減が予測される。加えて小規模通所介護の地域密着型サービスへの移行により、顧客確保が一段と厳しいものとなり、同時に市町村による総量規制なども予測される。

社会福祉法人をめぐるこのような厳しい状況が、来年度以降の施設・通所介護事業の経営に危機的状況をもたらしかねない。そうした危機意識を持たねばならない。

内部留保は本来繰越金であり、介護報酬が2月遅れで支払われるために、その金額には実際には2月分の運営費(この費用が施設サービスなら数千万円単位である)としてプールしている額も含まれていることと、それは個人が懐に入れる費用にはならず、長いスパンでは施設修繕や新築の費用・人件費の高騰に充てられるものであるが、仮に借金をして増改築に繰越金を使っても、固定資産として台帳に載る分は内部留保として残るので、資金がなくなっても内部留保が多すぎるという批判がなくなることはない。こういう複雑な会計のことを知らずして内部留保批判している人も多いのだ。しかし状況は、より厳しい方向に向かっている。

社会福祉法人への課税について、6/15に開催された全国老施協の「第3回正副会長・委員長会議(拡大)で、宮内監事は次のように反論していることを、JS WEEKLYが報じている。

社会福祉法人の事業原資は寄付であり、出資者に持分権はない。福祉施策の実現が経営目的であり、残余財産請求権も国または同種の法人となっていることなど、社会福祉法人が税制上優遇されるべき要因を示した。また、特掲事業や地方税法における償却資産などに言及。課税が固定資産税にも及んだ場合、経営が立ち行かなくなる危険性があることを指摘した。そのうえで、「法人課税されることによって、社会福祉法人が自由に活動できるようになるという意見を耳にする。社会福祉法があるのに、なぜ、そのような誤った考えになるのか。非課税を維持する声を上げなければならない」

同じく石川会長の言葉として、次のように報じている。

「社会福祉法人は、介護保険事業だけにとどまらず、あらゆる地域のニーズに応える活動をしてきた。ところが、現在議論されている社会福祉法人に対する法人課税の問題は、社会福祉事業のあり方自体を見直すようなもの。今日は出席者一人ひとりが、我々にとってたいへんな問題であるとの認識の下、十分に討議をしていただきたい」と呼びかけ、「社会福祉法人に対する課税は、先人の努力を踏みにじる行為だ。課税するというなら、国は社会福祉事業をやめるべきだ。なぜ、所轄官庁として責任のある厚生労働省は反対の声をあげないのか。最後は政治的な決着しかない。皆さんには、地元の有力議員に私たちの声を届けてもらいたい。最終手段として、国会議事堂にデモすることもありえる。そのためにも会員全員には、この問題に対する危機感を共有・認識してもらいたい。今後開催される各委員会、講習会、研修会などでも、必ず課税問題をアピールして、情報の周知徹底を図ることをお願いする」と決意表明した。(JS WEEKLY 439 号 / 2014. 6.27より抜粋)

「最後は政治的な決着しかない。」という状況の中で、力のあった政治家、故・中村博彦議員を喪ったことは痛恨の念にたえないが、同時にあれだけ得票を得た中村議員であるがゆえに、同氏が改選期ではなかった参議院議員選挙で、老施協からもう一人の議員を擁立しなかったということが、返す返すも残念に思えてならない。

繰り言をいうだけでは始まらないので、社福関係者は、今いる場所で危機感を持って、そこでできる最大限の努力をしていく必要がある。石川会長の、「皆さんには、地元の有力議員に私たちの声を届けてもらいたい。」という声にも応えて、できるだけ声を挙げていかねばならないと思う。

和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)の皆さんが、素敵な動画を作ってくれました。ぜひご覧ください。


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日本介護福祉士会が外国人労働者の受け入れ案に強い反対姿勢


今月14日、日本介護福祉士会は、技能実習制度による介護業界への外国人労働者の受け入れ案に強い反対姿勢を示した要望書を、4人の国会議員に提出した。

「国民の介護を守るための要望書」と題した内容は、同会のホームページから見ることができる。

その中で日本介護福祉士会は、認知症やターミナルケアなどの幅広い業務が求められるため、日本語によるコミュニケーション能力や一定の介護技術がないまま外国人が介護分野に参入することは、介護サービスの質の低下を招き、国民が安心して介護を受けることも出来なくなる懸念があるとしている。 また、安い労働力参入は、現在の介護職員の賃金の低下を招き、更に日本人による人材不足は深刻化する恐れがあり、技能実習制度に基づく外国人の受け入れは、介護業務を単純労働ととらえているとし、同制度による外国人受け入れに強く反対している。

この要望書にも理解できる部分がある。まず外国人技能実習制度の問題である。

これは在留できる期間を3年から最長6年に延長する方針を定めたもので、第1弾として建設業での外国人の受け入れ拡充が検討され、2015年度から五輪開催までの時限措置とするものである。2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて施設の建築需要が急増し、建設業界で大幅な人手不足が予想される労働力不足の急場をしのぐ苦肉の策と言えよう。

政府は、この制度によって、介護の分野でも外国人労働者の活用策の検討を始めるとしているが、それが単に、外国人労働者が就労しやすい条件を整えるだけで、安上がりな外国人労働者の受け入れに終わってしまえば、日本介護福祉士会の懸念の通りになってしまうわけである。そのことに反対姿勢を明らかにするということは、職能団体として会員ニーズに応えるという意味では、分からなくもない。

しかし一方では、介護の現場の人手不足は、ますます深刻化してくるのは確実だという現状がある。政府推計では、2025年までに介護職員を100万人増やす必要があるというが、この100万人という数字は、現在就業している人より100万人多くの介護労働者が必要だという意味で、2025年までにリタイヤする職員の数を補って、さらに100万人の介護労働者を増やさねばならないという意味である。つまり2025人までに新たに確保せねばならない労働者数は100万人+αなのであり、α部分の数字もかなり大きなものになるということだ。

しかも国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2055年の総人口は8993万人となり、いまより3割減少する。しかも、15〜64歳の生産年齢人口は、さらに減少率が大きく、現在のほぼ半分になるという。そんな中で介護労働者を必要数確保が可能なのかという部分にも、何らかの考え方と、その根拠となるデータを示さねば、日本介護福祉士会の主張は、介護福祉士の既得権益を守るためだけの、社会全体の利益を鑑みないあまりに無責任な主張であるというそしりを免れないだろう。

日本介護福祉士会は外国人を介護職員として広く受け入れることに反対するだけではなく、将来的に介護労働力をきちんと確保できる方策を、どこに求めるのかというマクロの視点からの主張も同時に行う義務があると思うが、この要望書からは、そのような主張は見えてこない。

例えば、日本介護福祉士会は、「外国人が介護職員に従事するためには、 現在行われているEPA対応を必須条件として国家試験合格が最低条件とすべき」と主張しているが、経済連携協定(EPA)に基づく外国人の介護労働者の受け入れは、フィリピンとインドネシアの2国だけが対象で、両国の介護福祉士の資格取得を目指して来日する場合に限られている。

しかもこれまでの試験合格者は約240人に過ぎず、そのうちの幾人かは既に帰国してしまっており定着率ははっきりしていない。つまり現状の外国人労働者の受け入れでは、介護業界の人手不足の解消にはほど遠いといいうことで、将来的にもそれは有効な手段とならず、日本介護福祉士会の要望書の内容だけで、介護業界の人手不足は解消できないことは明白である。そもそも外国人労働者の質の担保が、なぜ経済連携協定(EPA)に基づいた人材受け入れでなければならないという理屈と結びつくのか意味不明である、さらに日本人の介護職員全部に介護福祉士の資格を求めているわけではない現状を鑑みると、外国人労働者だけはその資格がないと就労を認めないというのは、あまりに身勝手な主張である。

今後は、リーマンショック後、求人が冷え切った不動産、建設、金融も復活し、2020年のオリンピックに向けて勢いを増して、求人が増えるのである。よって介護業界から、それらのい産業へ流出する人材も増えこそすれ、減ることはないのである。

そのためには、きちんとした待遇を保障できる介護報酬を求めるということも必要で、このことは介護労働者数の増加という背景を背に、現在の日本社会を構成する特定の塊と言える職種である介護労働という側面から、それらの人々の経済に与える影響や効果が小さくない事を主張し、景気回復、デフレからの脱却、経済活性化という視点から介護報酬増を要求していくことは必要だろう。同時に、日本人だけで必要なサービスの量を確保することは困難な中で、どのように質を低下させずに外国人を受け入れていくかを示すべきである。

勿論、外国人労働者を無秩序に受け入れたり、移民政策的な方向に持って行くことは、文化摩擦や治安悪化、日本人労働者の失業問題に繋がっていくのだから、そうしてはならない。その事に対してはきちんとセーフティネットを創っていかねばならないだろうが、しかし現行のままでは、介護労働力はいずれ枯渇し、それは社会全体、国民全体に著しく不利益をもたらすということだ。

そうであるならば、外国人の介護労働者を、経済協定という仕組みの中だけで受け入れていくことでは、介護業界の人手不足は解消できないという観点から、外国人労働者の受け入れとは、我が国の介護労働力の一定量の確保という部分で、必要数を受け入れるという方向に基本姿勢を変えるべきである。そのとき同時に、一定の技能を持つ外国人に門戸を広げなければ、今後の需要はまかなえないという観点から、介護福祉士という資格試験だけではなく、新たな技能検定試験なども検討していくべきである。

こうした議論まで摘み取るような要望があってはならないし、むしろ官民一体となった、国民議論を展開していく必要があると思う。

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人材の枯渇化に打つ手はあるのか


東洋経済オンラインというサイトで、転職に関する記事を読んだ。

35歳以上の人の転職が進んでいる現状をリポートした記事であるが、そこに書かれていることで、興味を引かれる内容があった。それは次の2点である。

・人材サービス大手、インテリジェンスの転職支援サービス『DODA』(デューダ)の調査によれば、2013年に異業種へ転職した人の割合は59.1%。半分以上を占める。

・幹部層の人材サービス大手、リクルートエグゼクティブエージェントのエグゼクティブコンサルタント、森本千賀子さんが、転職先として真っ先に挙げているのは、福祉・介護業界であり、「高齢化社会で業界全体の吸収力が断然違う。毎年、1000人規模で採用している企業もあり、あらゆる業種・ 業界から人材が流れている。リーマンショック後、求人が冷え切った不動産、建設、金融も復活し、2020年のオリンピックに向けて勢いを増すとみられる。」と発言している。

このように今現在、福祉・介護業界には、「あらゆる業種・ 業界から人材が流れている」というのである。

これは事実だろう。僕は、全国を講演で回っているが、そこで出会う福祉・介護業界関係者で、つい数年前までまったく異業種の職業に就いていたという人はかなりの数に昇ると実感している。

しかしそうであるにもかかわらず、この業界全体の人手不足感はますます増大しており、求人をいくらかけても、必要な介護職員や看護職員の数が揃えられないという事業者は多い。つい最近も、近隣の施設を経営している方が、求人に応ずる人がないことから、このままでは特定施設の指定を返上しなければならないとおっしゃっていた。

全国的に見ても同じような状況がみられ、例えば、せっかくユニット型特養の新設の指定を受けてオープンしたものの、職員募集に応募がなく、職員配置ができないため、一部のユニットをオープンできない施設があったりする。しかもそうした状況が全国津々浦々でみられている。

つまり福祉・介護業界には、「あらゆる業種・ 業界から人材が流れている」にもかかわらず、人材難・人手不足はますます深刻化しているのである。

これは進行速度の速い少子高齢社会において、それに備えた人員確保が何も対策されない中で、介護サービス事業者の数だけが増加し、サービスを提供する人の数の増加がそれに追いつかないということだろう。それがゆえに、福祉・介護業界に異業種からたくさんの人が流れてきているのに、なおかつ人手が足りないのである。

厚生労働省の「介護サービス施設・事業者調査」の介護職員数の推移をみると、介護保険制度創設当初(平成12年)に約55万人であった介護職員数は、平成23年には約130万人と、2.5倍に増えているのである。それでもその数は不足しており、団塊の世代が65歳に達した以後の不足感は、さらに深刻である。

そのような情勢の中で今後は、「リーマンショック後、求人が冷え切った不動産、建設、金融も復活し、2020年のオリンピックに向けて勢いを増すとみられる。」のである。

これは福祉・介護業界関係者にとっては脅威である。なぜならこの情勢は、今までのように福祉・介護業界に、異業種から人が回ってこなくなるだけではなく、逆に福祉・介護業界よりも所得の高い動産、建設、金融業界に人が流れる可能性が高いということだからである。

他の業界で求人がないから、介護の資格をとって、福祉・介護業界に流れてきた人々が少なからず存在するなかで、オリンピックや復興工事に関連して、建設業界の人手不足も深刻化しているが、そこにかけられる予算は莫大だから、建設業界は人件費にかける財源や予算は、福祉・介護業界所よりも潤沢である。

そうであれば、今後建設業界を中心に好条件で職員募集がかけられていく中で、福祉・介護の仕事が好きになってくれた人も、背に腹は代えられずに、福祉・介護業界から建設業に流れてしまう恐れが多分にある。

4日に行われた経済財政諮問会議と産業競争力会議の合同会議の中で、阿部首相はインドネシアとフィリピンに限定して受け入れている外国人看護師や介護福祉士を、新たに外国人技能実習制度の対象とし、受け入れを拡大すべきだとしたものの、その具体的対策は、『今後は、開発途上国の経済発展を担うための“人づくり”に協力することを目的とした「技能実習制度」の対象とし、受け入れを拡大検討すべきと』としたに過ぎない。これが人手不足の解決策に直結していくかは甚だ疑問である。

現在経済連携協定(EPA)に基づきインドネシアとフィリピンに限定して受け入れている外国人介護福祉士も、「第26回介護福祉士国家試験結果」の合格者は、わずか78名である。しかも過去に介護福祉士資格を取得した外国人労働者が、短い就労期間で離職して帰国するという問題も出始めている。

外国人労働者の活用を拡大する緊急対策にしても、東京オリンピックの開催が意識されているからなのか、全国的な建設業の人手不足を解消することが一番の目的にされて、介護は二の次の感がある。

介護サービスの場で、日々人材確保に苦労する身としては、今後必要なサービスを提供するために、どのように人材を確保していくのかということが一番の不安要素である。何か根本的な対策を打っていかないと、この国の介護は壊れてしまうように思えてならない。

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早急なる認知症ドライバー対策を求めたい


1月6日付で公表された警察庁交通局交通企画課資料、「平成25年中の交通事故死者数」によれば、平成25年中の交通事故死者数(24時間以内)は、4.373人(前年比−38人、−0.9%)で13年連続の減少であったことが示されている。

しかし同時に、「交通事故死者数の対前年比減少率はわずかであり、高齢死者数の増加が顕著で、交通事故死者数に占める65歳以上の高齢者の割合が52パーセントを超えるなど、交通事故情勢は厳しい状況にあります。」という警察庁長官コメントが掲載されている。

65歳以上の高齢者が、交通死亡事故者数の過半数を占めるという数字は、高齢者が交通弱者であることを示しているものであろうが、同時にこの数字には、高齢者自らが運転して事故を引き起こして命を失ったという数字も含まれる。そしてその中には、認知症によって事故を引き起こしたという数字が含まれており、その数は年々増加していると予測されている。中には認知症の高齢者が交通死亡事故を起こし他人を死亡させたものの、本人にその記憶がなくなって罪が問えないというケースも出てきている。

昨年6月4日、東京都狛江市の市道で、35歳の主婦が乗る自転車に軽乗用車が追突、自転車を引きずったまま100メートル先の民家の塀に衝突した事故では、自転車の後部座席に乗っていた2歳の女の子が頭を強く打って死亡している。現行犯逮捕された72歳の自営業の男性は、自転車にぶつかる200メートル前にも塀などに2回衝突していた。容疑者の親族は「認知症を患っている」と話しているというが、本人にはその自覚がなく、逮捕後も事故の記憶を失っているという。

現在、運転免許の更新期間が満了する日における年齢が75歳以上の高齢者は、運転免許証の更新期間が満了する日前6月以内に、講習予備検査(認知機能検査)を受けることが義務付けられている。この検査は、時間の見当識、手がかり再生及び時計描画という3つの検査項目について実施され、検査結果を通じて高齢運転者に自己の記憶力・判断力の状況を自覚してもらった上で、検査の結果に応じた高齢者講習を実施している。この際に、運転の危険性を自覚して、免許更新をしないという選択をしたり、現在所持している免許の取り消し処分を申し出る人もいるが、認知症の度合いが進行しているほど、この自覚に欠けて、自分は正常に運転でいるとしてなんの対策も取らない人も多い。

検査の結果、記憶力・判断力が低くなっていると認められ、かつ、運転免許証の更新期間満了日の1年前の日以後に信号無視等の記憶力・判断力が低下した場合に行われやすい特定の違反行為をしていた場合には、臨時適性検査として認知症の専門医の診断を受けなければならず、認知症と診断されると、運転免許の取消し又は停止処分がなされるが、そもそも強制力の伴う臨時適性検査を受ける状態にはない(例えば特定の違反行為をしていない場合など)人でも、認知症の症状がかなり強く出ている場合があり、この対策は「ゆるい」「ぬるい」と言わざるを得ない。

認知症取消し等処分件数は、平成21年が228件、22年が352件、23年が442件と、毎年100件程度増えているものの、65歳以上の高齢者で7人にひとりが認知症であるという国のデータから考えれば、この数字はまだ低すぎると言えなくもない。

高速道路を逆走する認知症高齢者も増えているが、逆走の場合は追い越し車線を走ってしまうので、死亡事故に繋がることが多い。

認知症の人が運転できるということに疑問を持つ人がいるかもしれないが、運転動作というものは、「手続き記憶」であり、エピソード記憶や意味記憶を失っても、最後まで残る記憶であるために、家族の顔や名前がわからなくなったり、直前に何をしていたかがわからなくなった人でも、運転という行為だけはできてしまうことがあるのだ。
(参照:記憶を失っても感情が残される理由

車の運転はできるが、見当識障害があるために正常な運転動作ではなく、いろいろな場所に車をぶつけて、やっと動かしている場合でも、運転している認知症の人には、車を何かにぶつけたという記憶が残らないために、正常に運転していると思い込んでしまう。車の運転はできるが、短期記憶の障害があるために、車を運転してどこかに出かけても、一旦車を降りると、車を止めた場所がわからなくなったり、車で外出したという記憶そのものがないために、車を路上に放置して、徘徊しているところを保護されるケースも目立ってきている。

運転できるから認知症の症状はさほどではないという考え方は間違いなのだ。家族の方は、少しでも認知症の症状と疑わしい症状が出てきたら、運転させないような対策を講ずるということが大事である。

なぜなら認知症の人が運転することができてしまうということは、それは一般市民が常に危険にさらされて、いつ事故に巻き込まれるかわからないという意味なのである。

さらにそれは、認知症ドライバー自身の生命を危険にさらすだけではなく、認知症であるがゆえに、本人に自覚がないまま、罪もない一般住民を巻き込んだ死亡事故を起こしてしまい罪に問われたり、世間から非難を浴びたりするという結果を生み出しかねないという意味でもある。そしてその非難の矛先は、認知症の人の家族にも及んでしまうだろう。

認知症の人自身が、運転をやめようと判断することは、症状が進行するほど難しくなるだろう。そうであればもっと強制力の伴った、運転免許返納処分の強化を進めるべきではないだろうか。運転するという個人の権利の侵害ということを心配する向きはあるだろうが、事故に巻き込まれるたくさんの子供たちの命の重さということを考えれば、それは必要な対策なのではないだろうか。

講習予備検査(認知機能検査)の対象年齢も引き下げ、基準も厳しくして、免許取り消し処分の強制力も強化しないと、認知症高齢者が加害者となり、罪もない一般市民が巻き込まれる交通死亡事故は格段に増加してしまうだろう。

それは社会に、哀しみの連鎖を増幅させてしまうという意味でもあるのだから・・・。

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人材不足対策に何が必要か


東京にオリンピックが来る。様々な問題や意見があるだろうが、2020年のオリンピックの開催地に東京が選ばれたというニュースには心が踊らされる。前回の東京オリンピックは1964年で、僕が4歳の時であったが、僕の記憶の中の東京オリンピックとは、物心ついた以後の映像の記憶でしかない。

2020年まで生きていたら、60歳で生のオリンピック競技を初めて見ることができるかもしれない。このことに心を踊らされて悪いということはないだろう。そう言う意味で、オリンピック誘致に尽力した政治家にも、財界人にも、アスリートにも、全ての人に感謝の気持ちを表したい。

一方、福島原発問題では、特に汚染水問題は本当にコントロールされているのかといえば、これを全面的に認めることはできない。本当に大丈夫かという不安はある。実情はもっと深刻なものだろうと思うが、一国の首相がオリンピックを誘致するためのプレゼンテーションで、コントロールし安全性には疑いがないことを世界に向けて発言したのだから、その言葉の重みは疑いようもなく、国の威信と責任において、完全に安全な方向に対策を急いでくれるものと信じたいと思う。

ところで今後7年間、東京を中心にした周辺都市では、オリンピックに向けた会場整備だけではなく、交通アクセスや新しいインフラ整備が勧められることは小学生でもわかる理屈で、建設業を中心にした新たな雇用が生まれることが期待されるだろうし、五輪開催のための積立金4.000億円が市場に出て行くのだから、それに伴う景気の上昇も期待できるであろう。

国家予算も文科省、厚労省ともにオリンピック関連予算が特別に回されていくだろう。

しかし、そうした社会情勢と財政事情の中で、介護関連事業者にはどのような影響が出るのだろう。

都会だけではなく、建設業界等の雇用状況が今よりよくなり、景気が良くなっても、社会保障関連予算は財源論の中で削減を前提に考えられていく。世の景気やオリンピックに向けての高揚感とは関係のない介護業界には予算も配分されない。そのため、介護の仕事をしようとする人がますます少なくなるという状況は、もっと深刻化するのではないかと不安になる。

それは都市部やその周辺地域だけではなく日本中の問題であろう。そのことでオリンピックにケチをつけるということではなく、今後の社会情勢全般を考えたときに、僕の胸に去来する不安が増幅しているという意味である。

さらに言えば、そうした今後の状況と関係のないところでも既に人材不足、若者の介護離れは深刻化している。

先日、大阪府の社協から学生向けセミナーの講師依頼があったが、その依頼メールには、「福祉・介護現場の人材確保は大変深刻な状況でございます。就職フェア等のイベントを開催しても来場者が年々減少し、福祉や介護の仕事に対する関心が低下しているような印象を受けています。」、という内容が記されていた。

こうした状況を憂いて、新たな試みとして福祉の現場を目指す学生のみならず、一般の学生も対象に、僕の基調講演と若手リーダーによる実践報告、トークセッションを通じ、福祉・介護の現場の魅力ややりがいを感じてもらい、今後の福祉・介護人材の確保に繋げるためのセミナーを新たに開催したいとの依頼内容で、「菊地様による基調講演と福祉現場で活躍する若手からの実践報告とトークセッションを通じて、福祉・介護現場の仕事の魅力、やりがい等を学生に伝え、今後の福祉・介護人材の確保につなげられればと考えています。」との一文も添えられていた。

大阪府社協という組織が、こうした対策に尽力してくれることは大変有意義で、介護施設の施設長としてはありがたいことではあるが、事態はそれほど深刻だということでもあり、今後ますます人材確保困難という状況に対する懸念せざるを得ない。

この依頼を先週木曜日に受けたが、セミナー予定日が11/9(木)になっていた。かねてからの予定として、11/8(金)の午後に道内美幌町で講演予定があり(道内といっても新千歳空港から女満別空港まで飛行機移動が必要な場所である)、11/10(日)の午前中に大阪市内で日総研セミナーの講師を務めて、その日のうちに北海道に帰る予定を立てており、たまたま11/9を移動日にし、既に伊丹空港に13:35着の便の航空チケットを予約していた。そのためその時間から会場まで移動して間に合うのであれば、受諾可能と返信し、その日の基調講演とシンポジウムのコーディネーター役をお受けすることになった。

当日、何人の学生が集まってくれるのかわからないが、受講した人々に我々の仕事の素晴らしさを伝えたいと思う。しかしそれは単なる理想論であって、真実を包み隠すことであれば、本当の思いは伝わらないし、いざ介護の職業を目指そうとしたところで、現実の状況に絶望感を持って人材確保に繋がらないおそれもあるため、新しい現実を作るための当たり前のケアのあり方というもの、そこに参加できる若者のモチベーションというものを考えながら話をしてきたいと思う。

どちらにしても人材不足の状況を何とかするために、我々は手をこまねいて政策批判をするだけではなく、自分ができることを、自分ができるところで、一生懸命汗をかきながら実行し続けていく必要があるだろう。

できることをしないで、批判ばかりしていても、それは単なる批評家目線でしかなくなり、誰もそのことを受け入れてはくれないであろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

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行動の老施協を作った人の訃報に接して


昨日昼過ぎ、札幌から登別へ向かう特急列車の中で、電光掲示板で流れているFM北海道の字幕ニュースを見ていると、中村博彦参議院議員死去の報が流れ驚いた。

まずもってご冥福をお祈りしたい。

同氏は、四国徳島県を中心に、たくさんの介護施設等を運営する社会福祉法人健祥会理事長であったが、公職としては全国デイサービスセンター協会の会長などを経て、1999年には全国老施協の会長に就任している。それ以来、老施協改革に取り組んで、全国社会福祉協議会内の一組織であった老施協を、2001年には全社協から独立させた。これにより全国老施協は執行権・決済権のある組織となった。その中で掲げられたスローガンは「行動の老施協」であり、国にも物申すことができる強い組織を創り上げ、2006年には全国第一号の公益社団法人として認可を受けるなど、組織力向上に力を発揮してきたことは評価されて良いだろう。

しかしその実態は「中村個人商店」であると批判する向きもあるし、選挙絡みで老施協という組織が真っ二つに割れて対立した要因も作ったとも言われている。

全国各地を回っていると、中村支持派と、反中村派の対立は結構根深いと感じることも多かった。熱狂的に支持する人がいる反面、その名前を聞くことさえも嫌悪する人がいて驚かされることがあった。ある県の老施協会長からは、面と向かって「中村博彦の取り巻きじゃないだろうな」と言われたこともある。僕はどちらでもないので「何も縁がありません」と苦笑いするしかなかった。
(昨年、中村氏から一度会いたいと電話がかかってきたが、実際にお会いする機会は作れなかった。)

中村氏は、2004年に参議院比例区で初当選した後、2008年の福田内閣で総務大臣政務官に就任した際に、老施協会長を退任し、顧問となったと記憶している。政治活動としては介護福祉議員連盟の創設に奔走し、その事務局長を務めているなど、数少ない介護関係国会議員と言えるであろう。

その中村氏が、自公安定政権ができ、安倍政権が経済政策に重点的に予算づけしている最中に死去された。

介護をめぐる状況としては、社会保障改革国民会議では、財源確保と給付抑制という痛みのともなう最終報告書を作るという局面を迎え、これから2015年の介護保険制度改正に向けた議論の山場にさしかかった時期に、老施協の代表とも言える参議院議員の中村氏が死去されたことは、介護業界にどのような影響を与えるだろうか。少なくとも全国老施協という組織を背景にした国会議員がいなくなったということは事実であり、全国老施協の国に対する力は削がれたと見るべきだろう。

そして社会保障構造改革の中では、医療と介護の給付抑制が論じられざるを得ない中で、医師会や看護協会を代表する国会議員は複数いるが、介護関連組織を代表する国会議員がいなくなるという事実は、介護により厳しい状況を生み出す恐れもあると言えるのではないだろうか。

僕が一番残念に思うことは、中村氏自身は2回の選挙とも、比例区で安定した得票を得て、特に前回選挙では上位当選しているほど選挙に強かったのに、自身の改選時期ではない参議院議員選挙の時に、どうして老施協の代表議員を当選させるような戦略を練らなかったのかということである。

勿論、2007年の参議院選挙で、老施協が当初推薦し、自民党の比例区候補者に決まっていた人を、政党間の思惑絡みで引きずり下ろして、別候補を立てたことが老施協の内部分裂に発展し、選挙でも惨敗した経緯を知らないわけではない。しかし政治家であれば、こうした対立の構造を放置せず、硬軟織り混ぜて関係修復し、今年の参議委員選挙では、老施協を出身母体とする候補者を擁立し、当選させるようにするべきであってと思う。中村氏自身の前回選挙での得票数を考えると、そのことが全く不可能ではなかっただけに、同氏の死去により、老施協が擁立した国会議員がいなくなってしまったという今日の現況は残念でならない。

そのような状況下で全国老施協は、増え続ける介護サービス費に対応して上昇が続く介護保険料が、このままいけば2025年にはその額が10.000円を超えると言われて現状について、「介護保険制度そのものの信頼性が失われ、瓦解する。」として、今年度からの運動目標の一つに、「社会保障費抑制〜介護保険料一万円を阻止する戦略づくり」を掲げている。

そのためにケアプランの有料化(全額保険給付となっている現状から、自己負担を導入)と、介護認定・区分の簡素化を提案している。

そして社会福祉法人を、新成長産業を担う、雇用と高品質介護を作る挑戦型社会福祉法人に変えていくことを主張し、地域を支える拠点施設は高品質介護と認知症ケアの実践で実現すべしと主張している。その基盤となる人材確保については、アジア人材との協働、人材移動の実現を唱えている。

福祉介護サービスを新成長産業とするためには、その分野の職業について、ある程度の人生設計が立てられる報酬を得るということではないとならない。そのために高品質介護を作れというが、そのためにはスキルの高い人材の安定的確保が不可欠で、非常勤職員を主力にサービス展開を考えざるを得ないような報酬体系であれば、そのようなことは実現不可能だろう。

財源の厳しい中、経済政策として介護に国費をかけられるのかどうか、それが問題である。処遇改善加算を、給付費の外枠である補助金に戻した上で、介護給付費が現行ベースを最低限として再設定されることが可能になるのか。非常に厳しい状況が続くと言わざるを得ないだろう。

とにもかくにも、全国老施協という組織を大きく変え、措置から介護保険への改革という時期に、介護事業経営者として、全国老施協会長として、その支持を背にした国会議員として、一時代を築き上げた人が亡くなったという影響は小さくないだろう。

最後にもう一度、その死に対し哀悼の意を表したい。合掌。
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社会保障制度改革国民会議の最終報告書を読んで


先の参議院で圧勝した自民党のマニュフェストには、「国民会議の議論を踏まえ、社会保障制度について必要な見直しを行う」という一項が記されている。

国民会議とは、政府の社会保障制度改革国民会議(会長・清家篤慶応義塾長)のことであることは言うまでもない。

その国民会議が7月29日に開催され、8月6日にも取りまとめる予定の報告書案について議論し、総論部分を大筋で了承した。今後はこれを受けた政府が、改革の手順などを定めた法案の骨子を8月21日までに閣議決定した後、今秋の臨時国会に法案を提出する見通しとなっている。

つまりこの報告書が今後の社会保障制度、再来年4月からの介護保険制度改正に大きな影響を与えるということになってくる。

そしてその内容は、国民負担増加と給付削減という厳しいものである。

報告書では、要介護度が低い「要支援」の人を対象としたサービスを保険給付から外し、市町村事業に移行するとしており、予てより国の方針として報道されていた、要支援者の給付除外は、この報告書により確実に実施される方向となったといえよう。

社会全体の少子高齢化を考えると、痛みを伴う国民負担増はやむを得ないが、要支援1と要支援2の状態像の違いなどを全く議論することなく、要支援者は「予防給付だから」という括りだけで、一律に給付対象から除外することは「必要不可欠な削減」なのだろうか。

総論部分では、負担の在り方をこれまでの「年齢別」から「能力別」に切り替え、高齢者にも応分の負担を求めていくとしており、これにより介護保険制度利用時の利用者1割負担も見直されていくが、このことについて「高所得者の負担が2割とされる」という報道が目立っている。しかし負担率が上がるのは「一定所得者以上」であり、必ずしもお金持ちだけが負担増になるわけではない。この「一定所得者以上」の括りは、2012年の制度改正議論の中では、「年収320万、年金収入200万円以上または医療保険の現役並み所得者」という基準であった。今回は年金等との所得認定の基準と整合性をとった上で、これに近い括りで一定所得が認定される可能性が高い。

同時に報告書では、負担能力について、資産も勘案すると書かれており、土地・家屋等の資産も加味されるとすれば、この所得では生活費に多大な影響を与える世帯や個人がいることが想像され、経済事情を理由に、サービスを抑制せざるを得ない高齢者が増えることは容易に予測できる。

痛みを伴う負担増について個人的な意見を述べるとすれば、第2号保険料の算定方式を、給与水準に応じて決める「総報酬割」に変更する(現行は総人数割)ことは必要ではないかと思う。報告書では 高齢者医療の部分で、保険料の総報酬割りの拡大が必要とされているが、介護保険にもこの考え方が反映されていくのかは現時点で不透明である。

また、この報告書には医療法人改革と並んで、社会福祉法人改革が明記されており、非課税法人であることについて何らかのかたちで切り込まれる可能性もあると予測される。

国民会議の最終報告書は、税と社会保障の一体改革という視点で行われており、消費税率について、予定通り来年4月から8%、再来年4月に10%に引き上げることを見越してまとめられているものである。これと呼応するように、昨日、日銀の黒田総裁は、消費税率のアップは、アベノミクスの足かせにはならないと発言しており、税率の引き上げを予定通り実施することの外堀は、どんどん埋められており、いつその方針が明確化されるかという問題だけになっていると考える。

そのような中で、負担増と給付抑制がセットで、それもかなり大改革というかたちで行われる状況である。制度の光を浴びることのできない高齢者に、市町村がどう対応していくのかということが、今後は非常に大きな問題になってくるであろう。

間違いなく市町村格差ということが問題になり、その格差を原因にした転出や転入ということもあり得るかもしれない。

どちらにしても痛みを伴うことはやむを得ないが、大出血に対応しきれず、屍が累々と横たわる地域社会にしてはならないのだから、その中で何ができるかという知恵が求められていくであろう。
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選挙結果は社会保障政策にどう影響していくか


参議院選挙が政権与党の圧勝で終わり、衆参ねじれ現象解消で絶対安定政権ができたことは、外交上のメリットとしては大きなものがあるだろう。しかし日本経済に影響するのは政策の中身がそのものであるから、その影響がどう景気等に反映されるのかは今後の情勢を見なければわからない。

当面の問題として、経済動向を睨んで来年4月から予定通り消費税を上げるか、それを見送るのかという政治判断が必要になってくるが、絶対安定政権を得た政府が、今後3年間は国政選挙がないと考えられる今この時期に、税の引き上げをしないという判断はありえないだろう。

消費税のアップが、国民の消費意欲を削いで、アベノミクスの足かせになるから、首相は税の引き上げに慎重になるのではと見る向きがあるとしたら、それは大間違いだと言いたい。

なぜなら来年度予算に関連する各省庁の概算要求は来月20日から始まるが、それは既に消費税がアップすることを見越した要求内容で組み立て準備を進めているではないか。秋になって消費税を上げないという政治判断がされたら、予算編成が止まってしまいパニックになるぞ。首相ともあろう人が、そんなことがわからないはずはないから、心の中に少しでも消費税アップを見送ろうとする気持ちがあれば、概算要求に向けて各省庁で進められている要望書の作成に対し、何らかの指示があるはずである。それがない現状は、参議院選挙の結果、ねじれが解消された後のスケジュールの中には、どのタイミングで、どのようなかたちで消費税を予定通り上げると表明するかという絵が描かれているはずである。

そもそも消費税は、8%から10%へと段階的に引き上げるのだから、10%になる前の時期には、10%になることを見越した先行消費意欲が消滅しないと想像できる。このことからも来年4月の消費税率8%を見送るという選択肢はないと言い切って良いだろう。

そんな中で一つはっきりしているのは、社会保障政策においては、プラーマリーバランス0政策の中で、高齢者の数が増え、年金給付とサービス給付が増えていくのだから、その中で議論される次期介護保険制度改正と介護報酬改定は、ますます厳しいものにならざるを得ないということだ。

要支援者の給付除外は否応なく進められていくし、利用者1割負担にしても、介護サービスの全利用者ということではなくとも、施設サービスのみになるか、あるいは一定所得者以上という括りになるかは別として、2割負担という方向に向かっていくことは間違いのないところである。

その中で、我々に何ができるかを早急に考えていく必要があるだろう。例えばインターネットのソーシャルネットワークサービスは、国を動かす大きな力にもなり得るのだから、自分と考えを同じくする人が、その方向に向けてアクションを起こしているならば、その活動をツイッターやフェイスブックなどを通じて、自分の周囲の人に情報拡散していくということだってソーシャルアクションにつながっていくかもしれない。

マザーテレサが残した名言の中に、「世界中の人が自分の家の玄関を掃除すれば、世界はもっと綺麗になるでしょう」というものがあるが、人間である以上、何かを変えたければ自分自身が出来ることで良いから、自ら活動しなければならないのである。自分ひとりでは何も変わらないと諦めて、何もしないことが一番ダメなことである。

何より求められるのは、今この瞬間も既に制度改正・報酬改定論議の渦中であるという理解であり、それはクライマックスに近づいており、物申す時間も限られているということを自覚することである。

国のスケジュールでは、今年中に一部の法案を作成して、来年1月の通常国会にそれを提出、可決するということになっているわけである。もちろん介護保険制度改正法案の骨格となるものは、2014年度の成立を目指すことになろうが、その前に先行して決まってしまうものもあるかもしれないという理解が必要だ。

そうであるがゆえに関係者すべてが、そのことに関心を持って、改正議論を国任せにせず、草の根からの発言が大きな声になっていくように、様々な場所と、様々な方法で声を挙げていくということが求められるだろう。そのためには、今なにが問題となっているかという現状認識をした上で、議論に参加していくという姿勢が求められる。

介護保険制度改正のたびに問題になることは、この制度の「持続可能性」である。

制度が続くためには、財源が必要であるが、サービスの利用量が増え続けることによって、介護給付費が膨れ上がり、この必要財源が膨れ上がるのは、子供でもわかる理屈である。

ところで介護給付費の財源構造は、公費50%(国25%・都道府県12.5%・市町村12.5%)と保険料が50%(1号被保険者20%・2号被保険者30%)となっている。公費の中の国費25%の中には、調整交付金分(各市町村間には財政力に差があるために、これを調整するために国が負担している費用)としての5%が含まれている。

つまり介護保険制度における財源論とは、公費財源をどこから確保するかということだけではなく、公費以外に50%をまかなう保険料の額が、いくらまでなら利用者に負担してもらえるかという視点が必要になるということである。

2012年4月からの介護保険制度改正では、この1号保険料の額が、全国平均で5.000円を超えるのではないかということが問題視され、その額を超えないように、2012年度に限定した形で、都道府県が財政安定化基金の一部を取り崩し、保険料上昇の緩和に充てることができる特例規定が設けられた。

この取り崩しと、市町村の介護給付費準備基金の取り崩しで、保険料軽減効果が月額244円あったとされている。

しかしそれでも第5期(2012年4月〜2015年3月)の1号被保険者の平均保険料月額は、第4期4.260円から、全国平均で月額4.927円と、19.5%の大幅アップとなっている。

そのため2015年度以降の介護保険料は、全国平均5.000円を超えることは確実である。このままいけば2025年にはその額が10.000円を超えると言われている。

消費税が10%になるときには、上げ幅の5%のうち、4%にあたる10.8兆円が、社会保障の安定化財源として使われる予定になっているが、それで財源の全てをまかなえるという意味ではない。

だから次期改正論議も、財源が増えない中で給付も増やせないから、自然増に対応して、切り捨てて良い給付をどこに求めるかという議論が中心になってくるわけである。

そうした切り捨ての理屈に対抗するのであれば、それを切り捨てることの及ぼす社会への負の影響という理論武装が求められるし、将来的に持続可能な制度に出来るように財源をどうするかということを、我々も考えていかねばならないということだ。

このことに対する自分なりの考え方は、また別の機会に示したいと思っている。

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選んだのは誰だっていう問題かよ!!


僕は今、岩見沢市に来ている。

現在、岩見沢市民会館で行われている、「空知管内老施協相談員部会研修」で、午後1時30分から、「masaが語る相談員雑感〜相談員に求められる役割〜」というテーマの講演を行うためである。そのため昼前に施設を出て、今会場入りする前にお昼ご飯を食べるための休憩の最中に、このブログ記事を更新している。

慌ただしい中で、簡単に思いついたことだけを書こうと思うので、まとまりのない雑文になるかもしれないことをお断っておく。

要支援者を介護保険の給付対象から除外して、介護予防サービスを市町村事業とするという方針が明らかにされ、その方向で準備が勧めされている状況に対して、これは昨年の総選挙で、自公が圧勝し、政権交代が行われた影響であり、そういう政権を選んだ有権者にも責任があると主張する関係者がいる。

バカも休み休み言え。

昨年の総選挙で、社会保障費の抑制が焦点になったとでもいうのだろうか。そんなことはない。そもそも税と社会保障の一体改革の内容自体が政策議論となっていなかったではないか。そうであるのも関わらず、過去の自公政権の介護保険制度の改正における、特定の対応だけを取り上げて、この政権が社会保障の切り捨て政権だから、要支援外しという給付抑制は、その政権を選択した当然の結果であるかのような指摘は、あまりに短絡的で根拠のない指摘だ。

確かに安倍政権は、経済政策を優先して、社会保障政策には冷たいように思えるし、実際にプライマリーバランス0の政策を閣議決定して、医療や介護も聖域化しないとしているのだから、社会保障に対して厳しい姿勢で臨んでいることは事実である。

しかし要支援外しの方向性が、自公政権が政権を握ったから推し進めされたという考え方は違うと思う。そこまで政治主導で動いていないからだ。

以前から指摘しているように、厚生労働省老健局内部で、制度改正の一番のテーマは、保険料負担増をどこまで認めることができるかという問題であった。2011年改正ではその攻防の額が5.000円であった。その問題は、市町村の介護給付費準備基金の取り崩しで、なんとか全国平均の保険料額を5.000円以下に押さえ込んだが、要介護高齢者が増え続ける状況で、この額が2015年改正時に超えてしまうのは明らかだ。そして国の予測では、2025年にはその額が10.000円を超えるとし、そうなってしまえばこの制度は持続できないということで、要支援者の給付からの除外というのは、2011年改正の直後から、厚生労働省・老健局内で既に議論が始まっていた問題であり、政権が交代したから始まった議論ではないのである。

そもそも民主党政権の、社会保障についての功罪はどう考えるのだ?厳しい財政事情の中で給付抑制策が前面に出されて、制度改正議論が進んできたのは、以前の自公政権と、昨年までの民主党政権とで変わりがあったというのか?そんなことはない。同じように給付抑制の制度改正議論に終始していたではないか。

しかも事実として言えば、前回の自公政権下での2009年の介護報酬改定では、3%のプラス改定であり、なおかつ麻生政権では、経済政策としてではあるが、介護給付費に上乗せするかたちで処遇改善交付金が支給された。実質介護事業者の手にする報酬は、それ以前より5%以上アップしたのである。しかし民主党政権下の2011年改定では、その処遇改善交付金を廃止し、その分2%分を内包化しての介護報酬改定率+1.2%は実質マイナス改定であった。

こうした結果から論評すれば、野田前総理は財務大臣経験者でもあり、先の制度改正と報酬改定は、財政理論で終始した観が拭えない。

その政権が持続すれば、要支援外しの方向性はなくなったとでも言うのか?そんなことはない。同じことである。

こんなことに有権者責任が指摘されてはたまったものではない。そもそもあの総選挙で、政権を交代させたという国民の意思は、当時の政権に対するあらゆる失望感が根っこにあるもので、大震災に対する対応の緩さや、マニュフェストを守らないという政治への不信等々が重なったものだろう。介護保険制度だけをどうにかしようと思って投票行動をとる人間が何人いるのかという問題である。

そんな政権党に投票しなかったから悪いなどという言い草は、卑怯極まりない。時事放談みたいなことを、たいして政治を知らない人間が第3者的に語っている場合じゃないって。

だからといって現政権や、今の状況をすべて受け入れて良いというわけではない。我々には必要なサービスを受けられない人ができないようなアクションを起こす責務はあるし、その視点の一つとして、衆参絶対過半数の強力な政権が出来ることが、そのことにどのような影響を与えるかを考えながら、今後の様々な行動を考えていかねばならないだろう。

衆議院が政策のアクセル機能だとしたら、参議院はそのブレーキ機能を担うものだから、ブレーキが効かない暴走ということになっても困るわけである。特に安倍首相の道内での演説を聞くと、その内容の9割はアベノミクスを中心とした経済政策の話で、残りの1割は教育改革に関するものである。年金問題を含めた社会保障政策の話は全くない。このことを考えると、衆参のねじれがない絶対安定政権というものは、次期介護保険制度改正にとっては北風になるかもしれない。

少なくとも介護関係者にとって、現在の政権が選挙後に絶対的な安定政権になることによるメリットはあまり考えられない。

そうしたことを考えながら世の動きを見ることは必要だろうが、官僚機構という強靭なものの存在を抜きに、制度の方向性を政治の問題だけで考えるのは間違っていると思うし、ましてや現在の給付制限の動きを、前回選挙の結果責任などと烙印付けすることには、大いに異を唱えるのである。
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介護保険自己負担割合の引き上げを提言


超党派の国会議員有志で組織される国会版『社会保障制度改革国民会議』は7月1日に、「最終とりまとめ」を行い、その内容を公表している。衆議院議員・河野太郎氏の公式ブログにその内容がアップされているの。あまり目新しい提言や、なるほどとうなづく状況分析はないが、関係者は、一応その内容に目を通しておいたほうが良いだろう。

ここではまず社会保障制度全般について「現行制度は、度重なる制度改定による条件の細分化等の結果、詳細化・複雑化を極めており、受益者であり負担者でもある国民が理解しがたいものに変容してきている。」と問題点を指摘し、「国民にとって安心の拠り所であり、負担も求められる制度だからこそ、負担と給付の関係を可視化できる、わかりやすく簡素な制度であることが求められる。」としている。このことに異存がある人は少ないだろう。

その上で、制度の持続のために、「a)税・保険料収入の安定的確保、b)野放図な歳出拡大の抑制、真に必要とされる分野への絞込みによる歳出の適切な管理、が不可欠である。」と国民の痛みをともなう改革が必要であることを示している。

介護保険制度については、「他の社会保険制度に比して新しい制度であることから、これまで制度定着のためのサービス拡大に重点が置かれてきた面が見られる。しかしながら、既に制度創設から10年以上が経過しており、今後は、負担と給付のバランスをしっかりと図っていく必要がある。」と指摘した上で、「先ずは、在宅介護に比べて負担と給付の水準に乖離が見られる施設介護について、自己負担を2割に引き上げるべきである。その上で、引上げ分によって得られる財源を使って、在宅サービスや居宅系サービスの充実を図っていく必要がある。また、既に医療においては3割負担にまで引上げが進められていることを踏まえ、高所得者の介護サービス利用については自己負担2割への引上げを進めるべきである。

↑このように自己負担割合の引き上げに踏み込んでいる。同時に、医療費の自己負担割合について、「70 歳以上75 歳未満の方の患者負担について世代間の公平を図る観点から、見直しを検討するとされたにも関わらず、段階的引き上げにも着手できなかったところである。」として、24年2月に閣議決定した2割負担に戻すように提言しており、介護保険制度の自己負担割合を上げるに際し、両者の整合性を図ろうとしている。

ここでは「在宅サービスや居宅系サービス」という言葉を使っており、それが介護保険制度の文言とは微妙に異なっていることが、この社会保障制度改革国民会議有志議員団の専門知識の低さを表しているといえるが、おそらく在宅サービスとは、介護保険制度の訪問・通所系の居宅サービス及び滞在サービスを指し、居宅系サービスとは、特定施設やグループホームを指していると想像できる。

それはさて置くとして、介護保険制度における自己負担割合の引き上げについて考察してみよう。

自己負担割合の引き上げについては、2012年からの制度改正時にも議論されたところであるが、それは実現しなかった。しかし2015年4月〜施行される次期改正介護保険制度において、このことが重要な課題として再び議論されることは間違いのないところで、このとりまとめのように、「まず施設利用者から2割負担、居宅サービス利用者については、一低所得以上の対象者のみ2割負担」とされる可能性は決して低くはない。今からその対策を考えておく必要がある。

ここで施設利用者の2割負担をシュミレーションしてみたい。

要介護度3で、多床室利用者の場合、現行は1日自己負担1割の額は837円である。月30日で計算すると、この額は25.110円である。そうなると高額介護サービス費の負担上限は、第1段階(老齢福祉年金受給者で、世帯全員が市民税非課税の方又は生活保護受給者)と第2段階(世帯全員が市民税非課税で、合計所得金額と課税年金収入額の合計が80万円以下の方)の利用者は月額15.000円、第3段階(世帯全員が市民税非課税で、利用者負担第2段階に該当しない方)の利用者は月額24.600円であるから、現在でも第1段階〜第3段階の利用者は高額サービス費の支給上限までしか負担していないので、自己負担割合が2割になっても、利用料自己負担額は変わらないということになる。

問題は第4段階(上記第1段階〜第3段階に該当しない全ての利用者)の利用者で、自己負担割合が2割になり、30日計算で、負担額が50.220円になった場合、高額介護サービス費の負担上限額である、37.200円の負担が求められることになり、現在より月額で12.090円の負担増となる。

当施設の現在の利用者の状況で言えば、第2段階の人が多く、さらに第1段階〜第3段階の利用者が8割以上を占めているので、自己負担率2割の影響を受け人は2割以下である。残りの2割以下の第4段階の利用者についても、。自己負担率が倍になっても、自己負担額が倍になるということではない。そうした状況ではあるが、施設の相談・援助業務従事者には、利用者ごとに、この負担増に耐えうる経済状況であるのかというアセスメントが求められていくであろう。

ところで居宅サービスの自己負担増が求められている「高所得者」とは、どの程度の収入を得ている人を指しているのかということであるが、これについては2012年の制度改正時に議論された「一定以上所得者の利用者負担のみ引き上げる(年収320万、年金収入200万円以上または医療保険の現役並み所得者) 」のことであると想像できる。

先の改正議論でも、年収320万、年金収入200万円以上または医療保険の現役並み所得者について、「高所得者」と表記されていたが、はたしてその年収は高所得者と呼べるのかという批判があり、途中から「一定以上所得者」と表現を変えているが、今回の取りまとめをみると、そういう議論があったということを知らない有志議員団が提言を取りまとめていることが分かる。

国会議員団の中に介護の専門家がいかに少ないかという証明だろう。そんな中で、介護保険制度が様々に議論されているが、その導き出す答えに及ぼす影響力を考えると、霞ヶ関の豊富な知識に、永田町の権力が勝るとは思えないという結論が、この取りまとめからも見えてくる。

政治は、官僚の手のひらの中で動かされるだけだろう。

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骨太の方針が目指す介護政策を読む


介護サービス従事者の賃金はなぜ低いのかという議論がある。この答えは一つではないだろう。

しかし一つだけ言えることは、介護保険制度施行以後、たくさんの小規模事業者が増えたことで、そうした事業者の賃金体系が低いことが、全体の平均収入を下げている要因のひとつになっていることは間違いないところだ。

そうした事業者には、給料表のないところも多く、手当や賞与も正職員としての体裁を備えていないかのようなレベルになっていることも多い。

一方で、特養等を経営する社会福祉法人で、給料表のない法人はないだろう。しかも措置費の時代から運営していた法人は、国家公務員準拠の給料表等の待遇を引き継いでいる場合が多い。当然のことながら、小規模民間事業者との給与格差がそこで生まれるわけである。このことを社会福祉法人が、人件費支出を抑制するために給与削減を図らないという「甘え」だと一刀両断しても良いものなのか?それは介護サービス全体の事業者の賃金を、低い水準に合わせても良いという理屈につながっていくものである。

介護労働というものが、もっと賃金的にも恵まれた労働となりうるようにな社会的な認知度を上げるためには、事業者間で低い方向に足を引っ張りあうのではなく、待遇の良い事業者があるとすれば、そちらが本来の適正賃金であるとして、高い方をスタンダートとするような方向で議論するべきだろう。そして全事業所がその方向に向かえるような介護報酬が考えられなければならない。それがされず人件費支出を適正に支出している事業者が、「甘えの構造」を持っているかのような、僻みっぽい議論が横行することによって、介護労働という重労働で、かつ重要な労働の対価が上がらないことを、関係者はもっと真剣に考えるべきである。

ここで考えて欲しいことがある。

安倍政権は、小泉政権でとった政策に回帰し、「骨太の方針」でプライマリーバランスを2020年までに黒字化する国際公約を明記している。そこでは社会保障費も聖域化しないとしているのだから、毎年自然増として支出が増える2.200億円の社会保障費の捻出のために、既存の給付を削減することは当然行われる。

しかし一方では、介護サービスを担う人材不足という声が高まり、この確保のための政策は不可欠となっていくだろう。

そうであれば財源不足の中で、人件費に回せる財源も限られている状況で、人を増やすためにはどうしたらよいかという矛盾と相対していかねばならない。

その時、人件費を手厚くして、サービスの量も確保し、かつ国の費用負担を増やさない方法を考えたら、コストパフォーマンスの高さに注目した政策を取らざるを得なくなるのではないのか?

それは今以上に、かつ緊急性をもって推進されるべき政策となっていくのではないだろうか。

単純に考えて、体力のある大きな法人が、たくさんの職員を抱えて、広域的に多種類のサービス提供をすれば、コストパフォーマンスは高まり、介護報酬をそんなに多く給付しなくとも職員給与はある程度の水準を保つことが可能になる。小規模事業者ではそれは難しいから、ここで一旦、整理して潰れるところは潰れてもらって、潰れたくないところは大きな法人に事業吸収されて、事業主体の大規模化を図っていこうという政策がとられる可能性が高いという意味だ。

現に今年今年3月に出された「地域包括ケアシステムの構築における今後の検討のための論点」(地域包括ケア研究会)には、次のような記述がある。

・統合的なサービスの提供、キャリアアップの仕組みなどの人材確保、効率的な経営の観点からも、「事業所の単位」と「事業者の単位」を分けて考え、人事・採用・教育・営業など、規模の経済が働きやすい業務については、業務提携や統合などを推進していくことが必要ではないだろうか。また、事業者の単位を拡大することで、能力開発を促す配置、ジョブローテーションの機会の増加にあわせた昇格・昇給、研修の充実等を行いやすくなり、職員に対してキャリアパスをより明確に示すことが可能になるのではないだろうか。

・事業者間の業務提携、複数の法人間の連携などを通じて、複数のサービスがネットワーク化された主体から提供されることは、統合的なケアを提供していくという地域包括ケアシステムの方向性にも親和性があり、その実現の一つのあり方と考えられる。定期巡回・随時対応型訪問介護看護などの複数職種によるサービスの一体的提供も、こうした事業者の中規模・大規模化によってより円滑に行われる可能性が高いのではないだろうか。

・そのためには、事業者間の業務提携、複数の法人間の連携などを容易にするための制度的な枠組みの見直しについても、国の政策として積極的に推進していく必要があるのではないだろうか。


このように事業者規模の拡大が求められているのである。事業所の単位は拡大せず、ユニットケアの推進も必要だが、その事業所を経営する事業者の規模は、今以上に広域的かつ大規模化が必要ということだ。これは社会福祉法人等の吸収合併を推進していく必要があるということを意味しており、安倍政権の政策にも合致していくと考えられるのではないだろうか。そうなると小規模事業者は、事業規模の拡大の中で荒波に飲み込まれ、吸収されるか、下請け化するしか道はなくなるかもしれない。

地域包括ケアシステムを推進する今後の介護保険制度は、囲い込みを不適切であるとする考えを大きく後退させ、新たな段階に入ったということになる。

それは一定地域で事業規模が小さな事業者が乱立するのではなく、大規模な事業主体にサービスを集約させ、コストパフォーマンスを高めるとともに、大きな事業主体の中で、いろいろなサービスを利用者状況に合わせて適時提供するという、いわば「囲い込み」を推進するのが、地域包括ケアシステムの真の姿というわけである。

どちらにしても、今までのように小規模事業者が介護事業に経営参入することが推奨され、介護報酬も小規模事業ほど手厚く設定されるという状況ではなくなりつつある。次期改正はそう言う意味でも、小規模事業者に厳しい改正になる可能性が高い。                                                                

小規模事業者の経営者諸氏は、こうした僕の見解を荒唐無稽であると笑って見過ごすことができるのだろうか?

介護・福祉情報掲示板(表板)

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財源議論をするならば・・・。


厚生労働省のサイトからダウンロードできる医療・介護制度関係参考資料から抜粋したグラフを見ると、全国平均の介護保険料(1号保険料)月額の推移がよくわかる。

介護保険のサイクル

介護保険事業計画第5期に向けた2012年の制度改正の際、厚生労働省老健局内で一番苦心したのは、平均保険料月額を5.000円以内に抑えるということだったと思う。

そのため2012年度に限定した形で、都道府県が財政安定化基金の一部を取り崩し、保険料上昇の緩和に充てることができる特例規定が設けられた。この取り崩しと、市町村の介護給付費準備基金の取り崩しで、保険料軽減効果が月額244円あったとされる。

しかしそれでも第5期(2012年4月〜2015年3月)の1号被保険者の平均保険料月額は、第4期4.160円から、全国平均で月額4.927円と、19.5%の大幅アップとなった。

高齢化による自然増分を考えると、この平均額が第6期(2015年4月〜2017年3月)に5.000円を超えることは確実と言える状況なのである。

そうであるがゆえに、第6期における介護報酬が決まる次期報酬改定・制度改正でもこの1号保険料を引き上げないためにどうしたらよいかということが問題となり、介護保険部会でも、1割自己負担の引き上げや要支援者外しが提言されているのだろう。

自己負担割合のアップはともかく、保険サービスの対象となっていた要支援者を給付から外すというのは、あまりに乱暴すぎる意見である。特に社会保障財源である消費税を上げる時期に、保険給付対象を大幅に削る方向は決して理解の得られる方法ではない。それは「税と社会保障の一体改革」の理念が嘘であり、先行された消費税引き上げ法案の国会通過が、国民だましの結果になることにほかならない。

要支援者を給付対象から外すことの問題点は、「要支援者の給付除外について」の中で、詳しく解説しているので、そちらを参照していただきたい。

それにしても、あいも変わらず介護保険部会には、給付抑制の方向を示すことが財源論であると勘違いしている委員がいる。そしてそういう委員の声の方が大きいから始末が悪い。

財源論とは、本来収入と給付の両方を語ることで、それは政治である。

しかし介護保険部会で語られる財源論は、現行の収入構造から一歩も脱却できないで、給付だけを抑えるという片落ちの財源論であり、それは財源論とはいえない学者のえせ論理である。

現在、増え続ける社会保障費の財源手当は消費税のアップでまかなう方策が主となっている。

しかし社会保障費は一般会計で年1兆円増え続けている。全体では年3兆円費用が増えている。これは合計4兆円の自然増があるという意味になる。5%の消費税引上げで増える財源は13.5兆円 である。このことは、わずか3年ほどで増税の効果は消滅することを意味している。 だからといって消費税が10%になった以後も、社会保障費の増加に合わせて毎年上げるなんてことは無理である。

逆進性があり、所得が低い人の負担が大きい消費税は、ある程度の割合まで行ったら、そこで頭打ちにしないと、国民は疲弊し暮らしが成り立たなくなる。そんな国に未来はないと言ってよい。

そのために制度の持続可能性は、給付制限を中心に考えて行かざるを得ないという考え方が主流となっている。 しかし抑制、抑制では、これまたそこからはじき出される人の暮らしが成り立たず、制度には光と影があるのは仕方がないと言っても、影の部分がどんどん光を消し去ってしまうことになる。これも国の未来を危うくするものだ。

そうであれば健全な財源論とは、消費税に変わる財源を別に求める視点がセットで議論される必要がある。

その具体的なものをひとつ挙げるとすれば相続税の抜本的な見直しではないだろうか。

それは、基礎控除をなくして一律課税にするという議論にとどまらず、極端な話、遺産相続に対する100%課税という議論があったって良いのではないかと思う。乱暴かもしれないが、親の財産で食うに困らない子供が、働きもしないで贅沢に暮らし続けられるという社会状況に、疑問符を投げかけるところから議論を始めても良いのではないだろうか。

社会の財は再分配されて初めて公平な社会が成立するのだ。なぜなら富貴とは、社会の財がある特定の場所に偏って集中しているという意味でもあり、財を得られない人の事情は様々であるが、それがすべて自己責任で片付く問題ではなく、社会構造の中に財の集中を防ぐシステムを組み込んでいく必要がある。

現役世代において社会の財を得られなかった人々が、現役を退いた後も、その負の遺産を引きずって制度の影に追い込まれ続けて良いということにはならない。

そういう意味で、相続税は抜本見直しが必要だし、相続税で大半の資産を持っていかれるとしたら、過度な資産を溜め込むということはなくなり、社会に還流する資金も増えて経済も活性化するのではないだろうか。

僕は税の専門家ではないし、経済学者でもないので、ここに書いた意見は、あくまで素人の意見である。よって随分と穴が多いことであろう。しかし消費税一本槍の社会保障制度では持たないことは明白なのだから、他の税制に手を加えるということは必要不可欠な視点であることは指摘しておきたい。

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新成人から考えること


成人の日の昨日、あるいはその前日に多くの地域で成人式が行われたことだろう。

北海道では新成人の数が10年連続、前の年を下回っており、今年も昨年と比べると1.053人減ったそうである。少子化の影響はそのまま高齢化率のアップにつながる。さらにそれは高齢者介護を支える人材不足に直結する問題であり、非常に憂慮されることである。

このように新成人が減少する中で、若い世代に今以上に介護サービスに従事しようという動機付けが生まれないと、すぐ先のこの国の高齢者介護は破綻せざるを得ない。

アベノミクスという政策で、市場にお金を潤沢に回してデフレから脱却しようとするのは良いが、公共事業や官民ファンドの創設など、企業重視の政策だけではなく、介護サービス事業が若者を安定雇用できる職業にしていくように、そちらに費用を回すことも必要だと思う。

コンピューターや機械で代用できない介護という職業は、多くの人手を必要とするのだから、それは一面、雇用を増やす職業という意味がある。この職業を一生の仕事にして生活が安定するのであれば、若い世代の就業動機は増大し、そのことで多くの雇用が自然発生し、消費も拡大し、社会に還流するお金も増え、デフレから脱却する大きな要因になりうると思う。

しかもそのことによって、高齢化問題、介護問題に対応する社会のセーフティネットが充実するのだから、それは「福祉を充実する小さな政府」という新しい形を作る可能性を持っている。市場での安定競争とセーフティネットは相互補完関係にあり、社会的なセーフティネットが機能しないと財政を支える国の経済そのものが破綻する可能性があるという経済・社会モデルもあるのだから、このことを政策として取り入れて欲しいと思う。

ところで成人式といえば、登別市のそれはユニークな場所で、ユニークな形で行われている。成人式の会場は、マリンパークニクスというテーマパーク(水族館)であり、イルカやアシカのショーを見ながら行うというものだ。堅苦しい挨拶一点張りの成人式より思い出に残る式典だろう。

しかし固苦しい式典で、厳粛にセレモニーを行うということも意味がないわけではない。大人としての責任と義務を負う覚悟をそれで促すということも求められるからだ。

ただそのことに気がつかない人も多いのが現状ではあろう。そういった現代気質の若者の意識と、式典としての意味をどのようにマッチングさせていくのかは難しいところだ。式典の意味や性格から言えば、現在の若者気質だけに迎合することが良いことだとは思えない。

新成人がインタビューを受けている様子をテレビのニュースで見たが、「大人として社会の役に立ちたい」「責任ある大人としての自覚を持っていきたい」など、立派なコメントを寄せている人が多くて頼もしく思った。その姿はとても凛々しく見えた。

しかしその一方では、式典会場で来賓挨拶のステージに乱入し、壇上で一升瓶の酒をラッパ飲みして騒ぎ、式典をめちゃめちゃにするなどのニュース映像も見られた。そういう行動に何の意味があるんだろう。もっと別の方法で自己アピールできるだろうに。その姿はとても醜いと思う。

新成人が酒を飲めることや酒に強いことを自慢するような行動は滑稽だ。

酒に強いということは、酒席で乱れることがないという意味では悪いことではないかもしれないが、飲兵衛は自慢にならない。少なくとも格好よくはない。それはもっと年を取れば自然とわかることなんだろうが、厳粛な式典を酒を飲みながら妨害する姿が、ニュース映像やデジカメ画像などに一生残ってしまうことの恥ずかしさをもっと自覚すべきだろう。その姿は自分の親や、将来生まれるであろう自分の子には、決して見せられる姿ではないのだから。

成人式という式典を経て、大人の自覚を持った瞬間から、本当の意味の格好良さ、人としての生き方の格好良さを見直して欲しいと思う。衣装はお金さえ出せば次々と変えることはできるが、人間としての姿は、心の持ちようで決まるものであり、どんなにきらびやかな衣装で着飾っても、人としての立ち振る舞いが見苦しい人は、誰から見ても醜いということを知る日が来るのだから・・・。

そんなことを考えながら、自分のときの成人式はどうだったか思い出していた。岩見沢市民会館で行われた式典。そのあとで高校の時の同級生とみんなで騒いだ喫茶店。確か「民」というお店だった。・・・その夜、飲みに行ったのかどうかの記憶はない。でも夜もおとなしくはしてなかったと思う。ただ式典は退屈だったが、そこで騒ぐような人間はひとりもいなかったと記憶している。

まあそんな追憶にふけること自体、年をとった証拠だろうと思った。

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行き場のない遺骨


なぜかわからないが、昨日のブログ回覧数(アクセス数)が5.000件を超えている。この数字はいつもより1.000件以上多い数字だ。同じ媒体から1日に何度アクセスしても1件としかカウントしない設定にしているので、誰かがいたずらして件数が伸びているとは考えにくい。すると考えられる理由は、昨日の記事に貼りつけているフェイスブックのいいねボタンのクリック数が100を超えていることだ。誰かのフェイスブックから僕のブログに飛んで来た人が多いのだろうか?どちらにしても僕の勝手な価値観にあふれた文章を、こんなにたくさんの方が読んでくださるのはありがたいことである。

ところで今朝は6:00に家を出て、職場に6:30頃着いた。今日〜明日と2日間にわたって行われる富山県高岡市での富山県老施協介護職部会研修の講師を務めるために、朝9:12発の特急列車に乗らなければならないが、それまでに少しでも整理しておきたい仕事があり、こんな時間の出勤になった。留守を預かる職員に全てを丸投げするわけにはいかないのである。

今回は少し慌ただしい日程である。これから新千歳空港を11:20に出発し、富山空港には12:55到着予定であるが、そこから研修会場に直行し14:10〜120分講演を行う。昼食は先ほど買ったサンドウィッチを機内で食べようと思っている。

明日も9:10〜グループワークの助言者として研修に参加し、12:00に研修が終了した後、昼食もそこそこにして空港に向かい、13:25発の新千歳行きの飛行機に搭乗予定である。JR登別駅には17:18に到着予定であるが、そのまま施設に向かい仕事をするつもりだ。その日の帰宅は夜遅くになるだろう。

こうした日程ではあるが、富山の皆さんには「魂」を込めてお話させていただくつもりである。富山県は2度目になる。前回お会いした方にも再会できるかもしれない。高岡市雨晴温泉・磯はなび会場でお待ちの皆さん、2日間よろしくお願いします。

さて話を少し変えたい。

先日、「週刊女性」という週刊誌の記者だという女性の方から電話をいただいた。当施設公式サイトで「身寄りのない入所者の方への対応」を掲載していることから、身寄りのない利用者が死亡した場合の、葬祭執行や遺骨処理について実際はどのようにしているのかという問い合わせであった。

僕は、こうした電話での問い合わせに対しては、記者ではなくても丁寧に答えることを心がけているので、質問されたことについて、自分がわかる範囲で説明させていただいた。そうした電話を2度いただいた。僕の中ではそれだけの話で、別に取材を受けたという感覚はなかったのであるが、先週末、取材協力ありがとうございますという礼状とともに、雑誌が送られてきた。少し驚いたが、これはこれで良いだろう。だがこういう週刊誌に名前が乗ることになるとは思わなかった。それにしても悪いことをして書かれなくてよかった。

週刊女性
僕の名前入りで短いコメントが載せられているが、特集記事の内容もなかなか興味深いものであった。養護老人ホームや特養で、身寄りのない利用者が亡くなられた場合、市町村によって大きく対応が異なり、あたかも介護施設が、行政命令によって死後の葬祭等を執行しなければならないかのように対応されている地域もあるようだ。



介護保険制度以後、特養の入所については措置から契約に変わったといっても、介護保険制度や老人福祉法の規定が死後まで及ぶはずもなく、死後の葬祭執行や遺留金品の処理等については、市町村の責任で行われなければならない。

葬祭執行や納骨については、市町村から介護施設の長に委託することはできるが、その執行を命令することはできない。委託であるから、これを受けないという選択もあり得るのである。

このことを理解した上で、市町村と施設が責任のなすり合いをするのではなく、両者がコミュニケーションを円滑にし、死者の霊を弔うために最善の策を取れば良いのだと思うし、施設側としては、長年関係を紡いできた利用者に対して、最後にできる奉仕として、出来ることを最後までするという考え方はあって良いだろうと思う。ただしそれはあくまで、市町村と施設が信頼関係を持ちながら、話し合って導き出す結論であり、お上の意向が全てではないという立場からアドバイスさせていただいたが、そのことについて短いコメントが、僕の名前入りで載せられている。

大事なことは、介護施設は行政の運営指導を受ける立場であるとしても、それは行政機関の指揮命令を受ける従属的立場ではなく、運営指導とは単に機関の機能による職務権限上の問題であるにすぎず、それ以外の問題では、地域福祉を支える機能に機関として対等な意見交換を行うべきであるということだ。そして意見交換や議論とは、決して対立関係を意味するものですなく、住民に対するサービス向上のための建設的議論であるべきだということである。

そういう意味で、施設はもっと法令等を勉強しながら、行政職員と対等な関係を築く努力をすべきである。行政職員と議論が出来ないスキルではしょうがないのである。

興味のある方は、「週刊女性11月6日号」をご覧いただきたい。値段は370円。

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65歳以上の認知症高齢者の数


厚生労働省は8月24日、2012年の認知症高齢者が推計で305万人に上ると発表した。この数字は65歳以上人口の約10%を占めるもので、従来の予想を上回る数になっている。

同省は、このように予想を上回る認知症高齢者の増加原因について
(1)介護保険制度が普及し調査対象者が増えた
(2)高齢者の寿命が延びた
(3)病院で受診する高齢者が増えた

などと分析している。

しかし(2)は首をかしげる。なるほど認知症が発症する最大のリスクは、加齢であることに間違いはないが、従前の予測数をはるかに上回る原因となるほど、急激に寿命が延びているかということについて言えば、首をかしげざるを得ない。

認知症高齢者の推計数のもとになっている厚生労働省のデータは、要介護認定のデータを使っているのだから、(1)の原因が最も影響していると思え、そこに認知症という診断名がより多く反映されているのは(3)が影響しているからだろう。

これは全国各地に「物忘れ外来」など、認知症が疑われる高齢者等が受診しやすい機関が増え、認知症の確定診断がしやすくなったことと大いに関係あると思えるし、痴呆から認知症という呼称変更やサポーター養成キャラバン等によって、認知症への偏見が軽減され、認知症高齢者の姿が社会から隠されないようになってきたことも大きいと思う。

つまり認知症になる人が増えているというより、認知症になった人が、認知症と診断され、実際の認知症高齢者の数がだんだんと明らかになってきているという意味ではないかと思う。もともとそれだけの認知症高齢者が、我が国にはいたという意味である。

しかし残念なのは、そういう状況下にあるにもかかわらず、まだまだ認知症の高齢者の方の実態を隠してしまうスティグマが我が国には存在している。それは認知症高齢者の方々に対して、支援の手を差し伸べるべき関係者が、自身の口で、認知症の方々に対する偏見を助長する「略語」を使っていることだ。認知症を「ニンチ」と略し、「あの人は認知症ではない」という際に、「あの人、認知じゃないから。」等といっていることだ。それも地域包括支援センターという、地域のケア基盤となるべき機関の職員の口から、こういう「不適切略語」が出てくるのだから大問題である。そのことで、認知症の方を家族に持つ人々が深く傷ついている。
(参照:認知症をニンチと略すな!!

関係者の方々は、ぜひ安易な略語を使わないという意識を持っていただきたい。

ところで、今回の厚生労働省の発表によって、今まで認知症高齢者の数は、65歳以上で13人に一人であるとしていた数字は変えなければならないという意味になる。今後の理解としては、我が国において認知症になる人の数は、65歳以上で10人に一人であるとしなければならない。

僕は早速、水俣市で行った25日(土)の「認知症講演」では口頭でそのことを伝えたが、配布資料はこの発表がある前に作成したものなので、ファイルは13人に一人のままになっている。受講者の方々には、この部分の修正をお願いしたい。

ただしこの10人に一人という数字が我が国の認知症高齢者の出現率を正しく表したものであるかどうかは確定できない。医療機関に受診しておらず、要介護認定も受けていない認知症高齢者は、まだたくさんいるのではないだろうか。

そして今後も、認知症が疑われる高齢者の、新患外来受診と確定診断は増えるものと想像され、この数字はさらに変えなくてはならなくなるかもしれない。そう言う意味では、10人に一人という数字は、現時点の調査データの数値であるというもうひとつの理解が必要だろう。

なお85歳以上の数字は今回新しく示されていないので、4人にひとりという出現率は修正しなくてよいものである。

各地域で認知症サポーター研修等の講師役を務める人は、13人にひとりという古いデータ数を修正して、この数字の変化を正しく伝えて欲しい。

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日本を変えてください。


8年ぶりに列島に上陸した「6月の台風」。北海道でも昨晩からかなり激しい雨になり、地域によっては今晩遅くまで雨量に注意が必要なところもある。

昨日の新千歳初の飛行機も、行き先によっては欠航便が出たようだが、今日は予定通り運行されている。週末を中心に、全国各地で講演活動を行なっている僕にとって、飛行機の離発着は切実な問題で、出発予定日に欠航になるとどうしようもないので、普段から道外に出発する日の天気は一番気になるところである。

今まで飛行機の欠航で講演に間に合わなくなったことはないし、講演地から予定通り帰れなくなったこともない。23年2月の富山県高岡市の講演の際に、出発日が吹雪の天気予報で「飛行機が飛ばない恐れがある」とのことで、主催者である社会福祉法人高岡南福祉会の澤田理事長の配慮で1日出発日を早めて、講演の前々日から富山に滞在したことはあるが、その時も結局天気は荒れず、高岡市でのんびり「空白の1日」の観光を楽しんだ覚えがある。

唯一飛行機が予定通り飛ばなかった経験は、もう十年近く前になると思うが、宮崎県で行われた全国老施協の研修会であった。それは老施協の「第1回広報コンテスト」の表彰式があった大会で、当施設のホームページが2部門で賞を取ったということで、その授賞式に出席して欲しいとのことで、僕が参加したのであるが、台風の影響で着陸できず、宮崎上空から羽田まで引き返すことになった。結局、その日は都内で泊まり、翌日宮崎入りしたが、表彰式には間に合わず、道老施協役員が替りに賞状を授与してくれた結果となり、何しに行ったのかなあ〜と思った記憶がある。
(ちなみにその時は賞金が出た。確か10万円。しかしホームページの作成責任者で、管理人の僕には一切おこぼれもなし。むしろ飛行機が引き返した日は、宮崎のホテル代も既に払ってキャンセルできず、都内の宿泊費が余分に発生し自己負担出費が増えた!!)

今週も、金曜日の18:30〜町田市民ホール第4会議室(東京都町田市森野)で「傍らにいることが許される者になるために〜転換期において求められる介護と福祉とは何か」というテーマの講演を行うため、金曜日の午後に新千歳を経つ予定だ。この日も天気は大丈夫そうで、昨日でなくてよかったと胸をなでおろしている。

そんな嵐の中、日本の政治も大荒れの様相だ。しかもそれは我々の職業や、日常生活に関連する「税と社会保障の一体改革」を巡っての議論だから無関心ではいられない。しかしその状況は、党利党略を前面に押し出した選挙制度改革案も巻き込んで、またまた魑魅魍魎の跋扈する、国民不在の政治ごっこである。

このことに憤っている国民は多いだろう。僕も自分のフェイスブックに次のような一文を昨日書いた。フェイスブックで繋がっていない、ここの読者にもそれを紹介しておこう。

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弱肉強食という資本主義の論理は、社会福祉の理念と相入れるものではない。自己責任という言葉を、弱肉強食という意味で使ってしまうところから国家の退廃は始まる。

社会保障と税の一体改革って、結局のところ党利党略や、個人の政治信条だけが先行して「国民の暮らし」より、財務省の財布しか念頭にないじゃないか。

必要なお金は払うよ。でもそのお金が、必要なところに本当に使われることになるのか疑わしくなるような「駆け引き」ばかりにエネルギーを使いすぎだ。狐と狸の化かし合い、政治ゲームばかりにエネルギーを使いすぎだ。狐と狸の化かし合い、政治ゲームばかりにエネルギーを使いすぎだ。狐と狸の化かし合い、政治ゲームしか国民に見えてこないのはどうしてだ?

社会福祉政策は国家を運営する政権の義務である。人の命を守り、人の暮らしを保障する社会のセーフティネットを構築しないと、人間社会としての国家は成立しない。個人の財とは、個人の才覚だけで手に入れることができるわけではなく、要因や理由が様々にあろうとも、「社会財」がたまたま特定の場所に集約しただけという観点から言えば、財の再分配システムは必要である。国家全体で社会的弱者を救済するための仕組みを作ることは必然で、そこに財の再分配としての相互扶助の考えをシステムに組み込むことも必然だろう。これは間違いなく国家の責任なのだ。

よい国とは究極的には、国民すべてが幸福を感じることができる国家であり、「この国に生まれてよかった」と思える国だろう。

政治家が国家を目指さずに、何を目的とするというのか・・・。
権力者諸君

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こんなことをファイスブックでぼやいている。

そんな中にも少しだけ希望の光がある。当法人理事で、登別選出の自民党所属道議会議員・堀井学さんが、次期総選挙で、ここ登別を含めた北海道9区から立候補することを表明したのである。

北海道9区とは、ここ登別を含めて、室蘭市、苫小牧市、伊達市、胆振総合振興局管内、日高振興局管内という地域で、総面積は広島県に匹敵し、全国第6位の広さである。

そして現職は元総理で民主党の鳩山由紀夫衆議院議員である。鳩山氏は、2009年の第45回衆議院議員総選挙において、小選挙区制が始まって以来初の得票数20万超えを果たす等、この地区で負け知らず。他党候補は一度も勝っていない。

その元総理に挑むのが、我が社会福祉法人・登別千寿会理事である堀井学さんである。

堀井学氏

堀井さんはリレハンメルオリンピックスピードスケート500mの銅メダリストである。その他にも世界大会で27回優勝、世界記録を3度記録しているアスリートだ。しかしいろいろな肩書きを横に置いておいて、人間として非常に尊敬できる方である。利害を別にして人としてお付き合いしている方で、社会福祉にも大変ご尽力いただいている

今回の制度改正・報酬改定のカッただ中でも、「自由民主党・道民会議北海度議会議員会」主催の「介護保険制度についてのご意見を伺う会」の実現に奔走され、我々の意見に耳を傾けてくれたりしている。(参照:自民党選出道議との懇談会

堀井さんが国政の場で活躍できるようになれば、必ず我々現場の声を拾い上げてくれるだろう。そしてこの閉塞感漂う日本の政治状況を、少しでも変えてくれるのではないかと期待を持っている。個人的にも、これからいろいろな形で応援団としてエールを送っていきたい方である。

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介護福祉系弁護士・外岡潤さんがやろうとしていること。


介護福祉系弁護士という言葉を聞いたのは初めてという方もいるだろう。

それは当然である。外岡潤氏、その人が業界初の取り組みを行なった先駆者であるのだから、一般の人はまだこの言葉を聞き慣れていないと思う。

外岡潤氏東京都豊島区巣鴨にある出張型介護・福祉系専門法律事務所「おかげさま」の設立者である弁護士の外岡潤さんは、「社会的弱者である高齢者や障害を有する方の中でも、特に体が不自由で事務所や裁判所まで来ることができない人の力になりたいと強く願い、当事務所を設立いたしました。」と出張型介護・福祉系専門法律事務所を立ち上げた主旨を公式サイトで紹介している。

彼の活動は、NHK(BS)やテレビ朝日の「スーパーモーニング」等で、介護関係のトラブル解決に取り組む弁護士の姿を追うドキュメントとして取り上げられたり、フジテレビの「スーパーニュース」で、詐欺事件を追いかけたドキュメントが放映されたりして、ご覧になった方もいるだろう。

ただこうしたテレビ放映の影響というのは、メリットとデメリットがあるようで、広く彼の活動を知ってもらえる反面、彼の活動を阻害するような反応もあったようだ。

彼が外出できない高齢者のもとに足を運んだり、時間無制限1回1万円という価格で相談を受け付けているのは、商売以前に、外岡潤という人間としての「志 こころざし」であり、「30分刻みで料金がカウントされたら、時間ばかり気になって相談できないのではないか。」という「心遣い」である。しかしそのことを仕事を依頼する側の当然の権利と思い込んで、彼の仕事に支障をきたすほどの傍若無人な反応も多かったようである。「呆れはてたこと」という彼のブログに、そのことも書かれているので参照し、反面教師としていただきたい。

僕と外岡ささんとの関係は、もともとは「ヒューマン・ヘルス・ケア社」の機関紙「シニア・コミュニティ」の連載仲間である。

そして昨年同社から僕が「人を語らずして介護を語るな。 masaの介護福祉情報裏板」を出版し、23年6月4日、東京都港区芝の「女性就業支援センター」で、初の出版記念シンポジウム「感動できなきゃ介護じゃない〜現場を語らずして介護を語るな」を行なった際に来場いただき、そこで初めてお会いして親交が始まった。そして今年3月24日の、第2作「人を語らずして介護を語るな〜傍らにいることが許される者」の出版記念シンポジウム「〜愛を語らずして福祉を語るな〜」にも来ていただいた。

その時に「てるかいご」という、介護トラブル解決専門裁判外紛争解決の一般社団法人介護トラブル調整センターを設立するお話を聞いた。その内容については貼り付けたリンク先で確認して欲しいが、その設立目的は主意書において
『少子高齢化の著しい我が国において介護の事業者は慢性的な予算不足・人材不足に苦しんでおり、今の紛争状態を放置し訴訟が増加すれば、介護業界自体が早晩衰退するであろうことは想像に難くありません。他方、不満や苦情を訴える利用者やその家族は、損害賠償による金銭的解決ではなく、あくまで事業者の端的な謝罪や真摯な対応を望んでいる場合が多いのであり、現状ではその実現の場が存在しないために、止むを得ず裁判という最後かつ唯一の手段に及ぶのではないかと思われます。
 私達「一般社団法人介護トラブル調整センター」の設立メンバーは、そのような介護トラブルを話合いにより解決し、一件でも多くの不毛な紛争の予防に資することを願って、本法人を立ち上げました。』

とされているように、介護事業者と利用者双方の不毛な争いをなくし、問題の解決を支援するというものである。

その設立お披露目パーティーが6月23日(土)東京都中央区の紙パルプ会館で14:00〜17:00.まで行われる。会費5.000円で、50名定員。申し込みは外岡さんにメールでお願いしたい。(最初にリンクを貼り付けた外岡さんの事務所のサイトから確認できます)

僕は22日に町田市で講演を行なう予定で、23日はちょうど良い日程ではあるのだが、その予定を知る前に23日午前の航空チケットを買って、北海道の予定を入れてしまったので参加できずに残念である。外岡さん、また機会があれば連絡してください。

外岡潤氏2ところで外岡さんは、冒頭の画像でキリリとした表情を紹介しているし、その職業から想像して怖いイメージを持たれる方もいらっしゃると思うが、素顔の外岡さんは、とても優しい方である。

右の画像は、「てるかいご」理事の一人でもあり、NPO法人・もんじゅ代表の飯塚裕久さん(佐藤蛾次郎と間違えてはいけない)とのツーショット写真であるが、飯塚さんがホットコーヒーで渋く決めている横で、外岡さんはお子様系フロートを飲んでおられる。可愛いでしょ。

彼らのこうした活動は、善意と志があって初めてできることだろうと思う。是非彼らの活動を応援して欲しい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

第5期介護保険事業計画は介護崩壊の始まり

2012年度〜2014年度は第5期介護保険事業計画期間となる。(2012年4月1日〜2015年3月31日まで)

この計画期間中に、介護施設を始め、特定施設やグループホームなどの箱物も数多く建設される。

このこと自体は要介護高齢者が増えることに対応したもので、地域住民の顧客ニーズに合致した必要な対策と言えるであろう。

しかし行政計画は、地域の住民ニーズに対して、いかに必要な社会資源を提供し得るかという観点が主になるから、その社会資源が不足している場合は、必要なサービス量の確保として、介護施設や居宅サービス事業所の数を整備しようというものに過ぎない。そこでどのような人材によってサービス提供されるかまで関知するものではないのだ。

つまりサービスの質は事業者に丸投げし、事業者責任でそれを担保させ、法令上の最低基準を遵守させるための行政指導は行うが、それ以上の質の向上は行政が関知しないという意味である。

だからと言って介護事業者は最低基準さえ守っておればよく、それ以上の責任はないと考えるのは間違いである。それは、福祉援助や介護サービスは人の暮らしを守るのが目的であり、生かしておくだけの最低限の生活さえ保障すれば良いということにはならず、社会的要請にも対応すべきであるからだ。

ここで問題となるのは、介護サービスは対人援助であるがゆえに、人的資源としての人材は不可欠要素で、その質の差によって、サービスの質が左右されてしまうということである。

ところが、この人材の確保に関する対策はほとんどなされておらず、サービス資源の量が増えても、そのサービスを担う人材の確保はまずます困難となる。

介護福祉士の養成校に人が集まらず、かき集めた人材は、将来の福祉を背負って立つスキルをそこで獲得する素養にさえ欠ける人物も数多く含んでいる。しかしそのような状況であるにもかかわらず、養成校の募集定員が満たされず、クラス数の削減を余儀なくされ、養成課程を廃止する学校も現われている。

ホームヘルパーの養成講座も同じで、募集定員を満たし、講座を実施するためには、かなりスキルの低い生徒もかき集めなければならず、そういう生徒は授業を寝ながら受けているだけでヘルパー資格を得ているという現状もある。こういう有資格者が「人材」と言えるかどうかは大いに疑問だ。

既に介護サービス現場は、人材が枯渇しているのではなく、人材とは言えない人員の枯渇現象が起きていると言って過言ではない。

人材育成は本来、国のシステムに組み込んで、政策として実施しなければ充分なものにはならない。そうであるにも関わらず政策としての人材確保の方策は皆無だ。介護福祉士の養成課程の見直しや、ヘルパー資格の見直しをいくら行ったとしても、それは所詮人材確保とは別方向からの、資格のハードルを高くする方策にしか過ぎない。それも必要ではあるが、一方で人材の数をどう増やすのかを考えた時、高くしたハードルを乗り越えて、なおかつその資格取得を目指そうという「動機づけ」が若年層に生まれなければならない。

しかし現在のように、卒業さえすれば、国家試験を受けなくとも介護福祉士の資格を得ることができる状況であるにも関わらず、介護福祉士養成校に人が集まらない現状は、その資格を得て介護を一生の職業にしようとする根本の「動機づけ」が生まれにくいという意味である。

若者が介護サービスの職業を回避する理由は、その仕事がいわゆる3Kと言われるように、労働条件が厳しいという意味だけではない。決して楽な仕事ではないことは分かっているが、若者の中に「人の役に立ちたい」「社会に貢献したい」「人の手助けをできる職業に就きたい」という動機づけは減っていないのである。

にもかかわらず、介護福祉士を目指す若者が減っている最大の理由は、他職種に比較して年収が低い状況を鑑みて、中学や高校の進路指導で、介護福祉士を目指すことについて再考を促す進路指導が行われているからだ。

もっと若者が一生の仕事として考え得る労働対価を与えられる介護報酬レベルにしない限り、この状況は変わらない。ここはもう政策論である。官僚の考える財源論からの制度設計や報酬設計ではもう駄目なのだ。しかし来年4月からの介護報酬は、実質大幅減額である。つまり人材確保という部分への手当をより困難とする方向にかじを取られたという意味である。

この状況下で、資格取得のハードルを高めても、その目指す質の確保は難しく、むしろ資格取得者の絶対数を減らして、現場の介護サービスの崩壊を助長する引き金になりかねない。

介護サービスに従事する人材の数を、第5期計画で予定されているサービス量に対応すべく確保する方策はまったくない。この部分に関して言えば、政治は無知・無能で、認知症状態である。この部分に対策を講じる必要があると真剣に考え、活動している政治家は皆無だ。

このような状態で5期計画の施設・事業所整備が進めば、地域の中で決められたパイの介護職員の奪い合いが激しくなるだろう。それは結果的に良い事業者に、良い人材が集まるのではなく、介護サービス事業者をとっかえ、ひっかえ渡り歩くスキルの高くない人員を増やすことだろう。なぜならスキルが低くても、雇用される場所を見つけるのにさほど苦労はしないのだから、自分の質の低さを他人や事業者のせいにして、不満があれば就業場所を変えればよいと安易に考える職員を増やす結果をもたらすからだ。

僕は外国人労働者の確保も、経済連携協定(EPA)のよるのではなく、介護労働者の数の確保という本旨から見直すべきであると主張しているが、当の外国人労働者は、既に日本を介護労働現場としては選択しない意識が強くなっており、この部分でもそっぽを向かれている。今のように、莫大な国費をかけて、外国人研修生のうち年間数人という数しか介護福祉士になれない状況を国費の無駄と判断し、それを変えようとしたところで、当の外国人労働者は「はい、それなら日本に行きます」という状態ではないのだ。

そのような厳しい状況下で、国内の若年者層を、介護サービスの人材に育成すべきであるにも関わらず、この国の政治はそのことに無関心だ。

介護労働を生涯の生活設計が可能になるものにしない限り、この国の未来は財源から崩壊するのではなく、国の責務である社会福祉の崩壊から始まるだろう。

制度あって、サービスなしという状況は、サービスに従事する人材の枯渇から始まることは、誰に眼から見ても明らかだ。ここの部分の方策を示す、政策提言を行わない国会議員は、介護の現状をまるで理解していないのだろう。この国の将来を真剣に考えて、介護労働を担う人材確保に汗をかいてくれる政治家が出てこないと大変なことになる。

そういう意味から言っても、来年度(本年4月)からの第5期計画は、この国の「介護の破綻」の序章ということができるだろう。僕のこの予言を「荒唐無稽」な空想と笑って無視することができる人は、この業界に何人いるだろうか?

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介護・福祉情報掲示板(表板)

福祉につきまとうスティグマ

この国の社会福祉の歴史を振り返ると、福祉制度や福祉援助を利用する国民の側の意識の中には、常にスティグマが存在していた。

スティグマとは「他者との違いを、ことさら貶(おとし)めつつ、指をさす行為」として存在し、それは「他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象」であり「烙印(らくいん)」と呼ばれることもある。

我が国では、福祉制度やそのサービスを利用すること自体を「おかみの施し」と捉え、サービスを受けること自体を「負い目」に感じ、同時にサービスを受ける他人を「負い目を持って当然の存在」とみる歴史があった。そしてそのスティグマは依然として消滅していない。

特に高齢者福祉においては、年をとること自体を「社会の負い目」とみる「問題老人史観」が存在し、それが新たなスティグマを生みだし、社会の人々の心の中に根強くそれを蔓延させる要因ともなっている。

それは同時に、税金による措置を嫌い、福祉を拒否する国民性を生みだす元凶でもあった。

2000年に施行された介護保険制度は、社会保障構造改革と言われ、高齢者が権利として介護サービスを利用すると言うキャッチフレーズが唱えられたことで、福祉が国民のより身近な存在になり得る可能性を含んでいた。そのために福祉を拒否する潜在的国民性が緩和されるという期待を持つことができるものであった。これによりスティグマが消滅されるのではないかという期待も持てた。

特に制度施行時の国策が「サービス利用促進」であったことから、さらにこの期待は高まった。

しかし保険給付による介護サービスが社会に浸透しかけた途端に、国はその方針を180度変え、給付抑制に走りだした。それは時には「ケアプラン適正化事業」「介護サービス適正化事業」と称され、あたかも保険給付サービスを計画する人間と、使う人間が両者とも罪人であるかのようなスティグマをあらたに作りだした。

訪問介護の生活援助(家事援助)制限などは、その典型である。一部の不正を全体の悪として制限を強化し、その制限の枠から少しでもはみ出したものを不正と決めつけ、このことを適正化と考える人々は、自らを聖人君子で、神のごとく間違いのない高潔な人物と勘違いしているのではないか。

我が国は先進国と呼ばれている割には民度が低く、成熟していない社会と言ってもよいだろう。福祉に付随するスティグマを生みだす意識レベルは、江戸期のそれと変わりないことは役人の「制限に酔う醜い姿」を見れば明らかだ。

法律は本来、人の生活を安全に豊かにすべきものなのに、暮らしを不便にして不幸をつくり出す「運用法令」が百出しているのが、この国の役人が作った介護保険制度である。我々社会福祉援助者は法律や法令を守りながらも、悪しきは捨て、より良い法律に変えてゆくというアクションを起こさねばならない。役人の作文では国民の暮らしを守ることはできないということを強く意識すべきである。

介護保険制度改正議論も、馬鹿な論議が繰り返され、相変わらず財政論から一歩も踏み出すことなく、何も決まらない、何も進まないでいる。そのため結局は厚生労働省老健局という一部局で作文されたものが、そのまま新制度になる。その責任の一端は、介護給付費分科会の委員が真に必要な制度の構造を示さないことによる。

人間にとっての「安全と安心と安定」が保障されない社会は未成熟な社会である。現代社会における国家とは、本来それを実現するために国民から負託された組織ではないのか。国家がその責任を果たさなくなった時、財源論など唱えている暇はなく、国家という組織そのものが崩壊しかねない。

福祉に付着するスティグマを消し去り、全ての国民に「安全と安心と安定」を与え、暮らしを守ることを、国家が保障するという意識が育てば、それ自体が社会のセーフティネットである。経済活動だけでは救済し得ない人間の精神構造をも内包したセーフティネットは、社会福祉という領域でしか創造し得ないものである。

政治理念とは、国家を形成する基盤であるはずの「国民の暮らし」そのものを守るためにあらねばならないはずだ。そのことが忘れ去られてはいないのだろうか。何を守るべきかを考える順序を間違ってはいないのだろうか。

そしてそのことに何の意義も唱えない有識者と呼ばれる「学者連中」は、単なる国の機関に救う寄生虫にしか過ぎず、「御用聞き学者」と呼ぶほどの価値もない。

※昨日からライブドアのアクセス解析機能が正常に動作していないようです。

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まやかしの税制改革論議を斬る(後篇)

(昨日の記事「まやかしの税制改革論議を斬る(前篇)」からの続き)

税制改革議論に欠落している視点とは何か?

現在の税制改革論議では、税制における直間比率の見直し議論という声がほとんど聞かれないが、所得税等の直接税は本当に現代社会にマッチした税率になっているのだろうか?そう考えた時、我々はある問題に行きつく。それは累進課税が本当に機能しているのだろうかという問題である。

日本の所得税の最高税率は1983年には75%であったが、小泉内閣以降の減税措置で大幅に引き下げられており、現在の最高課税率は40%である。現在の社会情勢を鑑みた時、この大幅な所得税減税は本当に正しかったのだろうかという疑問を持たざるを得ない。この減税で恩恵を受けているのは、いわゆる富裕層が主となっているからである。

しかもここにはマジックが仕掛けられている。それは証券取引への優遇税制制度である。証券取引についての課税は20%(いまはさらに特例として10%)であり、しかも分離課税となっている。つまりお金持ちは儲けたお金を株に投資すれば税金が極端に安くなるのだ。

ある資料を読むと、例えばこの分離課税をうまく利用すれば、年間1億〜2億の高額所得者は最高税率を26.54%に抑えることができる。所得100億円以上の人はさらに税率が減り税率が14.2%になるそうである。

このような税システムを、頭のよい政治家や官僚が気づいていないわけがない。それなのに超高齢社会の新たな税システムを議論する場で、なぜこの所得税と証券取引への優遇税制制度が議論の俎上に上らないのだろうか?税制における直間比率の見直し議論がなぜされないのだろうか?

それはとりもなおさず、政治家や高級官僚がこれによる恩恵を受けているからではないのか?自分達の利益を守るために、全ての負担を国民に強いるという議論が消費税引き上げ議論ではないのか?
 
このように高所得の税率が低くなるという問題が明らかであるにも関わらず、高所得者の所得税率を上げる議論がまったくされないで、消費税のアップのみが論ぜられるのは問題である。国はなぜ累進課税率の抜本見直しの提言をしないのだろう。これこそ弱者切り捨て、格差社会の拡大の元凶ではないのだろうか。そういう意味では震災復興の臨時増税案として、所得税に2.1%の課税を上乗せする法案が国会に提出され、衆院で可決されたことはある程度理解できる。しかし富裕層の優遇税制を抜本的に見直さないままでの増税では、富裕層に属さない多くの国民の暮らしはますます圧迫感が増すだろう。

しかも先に行われた政策仕分の求めに応じて、物価連動して引き下げられていない年金給付費を24年度から3年間かけて減額する意向を小宮山厚生労働大臣が表明している。年金のみで生活している高齢者にとって、この引き下げと消費税アップはダブルパンチでかなり厳しい。富裕層に優しく、そのカテゴリーに属さない多くの国民には厳しい政策である。これが政治の正論と言えるのだろうか?

もちろん僕は、やみくもに消費税引き上げ反対論を唱える立場をとらない。いつかそれは必要になるだろう。しかしその前にこの所得税と証券取引への優遇税制制度の見直しが先だと主張する立場である。この問題を抜きにした「税制改革議論」「消費税引き上げ議論」は、『まやかしの税制改正議論』である。

もちろん個人の所得収入とは、個人の能力と努力で得られる要素が大きいが、大手のコンピューター関連ソフト会社のオーナーなどは、公の場で「一生では使いきれない収入と資産が既にある」と言ってはばからない。そういう巨額の個人資産は、すべて個人の能力や努力で得られたものと考えるのではなく、社会全体の「財」が一ケ所に集中していると考えられるべきで、社会還元されるべき資産として、再分配の視点があって当然だろう。

巨利は社会活動の結果であって、社会が存在し初めて成されたものである。所得税に対して、労働意欲を削ぐような重課税は社会の活力を奪う元凶になりかねず、それは問題であるが、国民の生活水準や一般感情からかけ離れた巨利に対しては、きちんと国と国民に還元する税システムでなければならない。日本の政治家はここの視点が欠けているのではないのか?国民感情とこの部分がかけ離れているのではないのか?

わずか数年のうちに一生涯使い切れない資産を築けるチャンスがある国の裏側には、必要な医療や介護を受けられない人々が増えている実態がある。このことをもっと国民議論にすべきである。

節税対策なども一般のサラリーマンや、多くの国民とは縁のないものである。節税という名の税金負担義務の放棄は本当に行われていないのか、庶民のレベルとの比較検討の視点がないと平等社会は実現されない。

総務省統計局が出す「家計に関わる統計資料」の数値では、国民の平均貯蓄額や平均資産の額が、一般的な国民感覚からすれば現実的ではない高い数値が示されている。国の政策の基礎データとなる数値が、あまりに国民の生活実態とかけ離れている意味は、ごく一部の巨額な資産を持つ個人の数字が平均値に落とす影響が大きく、その中に多くの一般国民が飲み込まれて平均とされている為である。つまり格差社会は現実に貧富の差を広げているのである。

お金持のところにしか社会の財が集まらない仕組みというのはやはりおかしい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

まやかしの税制改革論議を斬る(前篇)

格差社会とは何か。それは貧富の差が広がる社会という意味にとどまらず、社会の様々なシステムが、富める者にはより有利に働き、貧しいものには機能せず、個人の努力のみでは貧困層からの脱出が困難となる社会である。

そこでは経済的弱者を含めた社会的弱者に様々な制度の光が行き届かず、その位置から脱却できない階層を必然的に生み出し、本来無差別公平に配分されるべき「社会財」も特定階層の占有状態となり、豊かさも貧しさも両方が世襲され、富裕層と貧困層の差は益々拡大していく社会となる。

そうしないために、「社会財」は収益や所得の再分配という形で社会全体にまわす必要があり、そのために累進課税制度が存在し、国家は、そこから徴収した財を必要な場所に分配する機能と責任と義務を持つ。社会福祉制度に包括される社会保障費支出もこの財の再分配の一翼を担うものだ。つまり介護サービスの財源とは、とりもなおさず社会財の再分配として考えなければならない一面を持つという意味である。

正しい社会財の再分配機能も持つことによって、現代社会の政治システムは初めて民衆に向けて国家としての責任を果たすことになる。間接税はあくまで、この財の再分配機能を補完するものであり、財源の中核を担うものにしてはならない。そういう意味で、今日から明日にかけて、消費税の引き上げ議論にメスを入れたいと思う。

社会福祉制度の議論は、財政論を抜きには語れないという意見が多くなりつつある。確かに財源のない給付はあり得ないという意味ではその意見は正しいであろう。

しかし一方、慶應義塾大学の金子勝教授のように「雇用・年金・医療などのセーフティネットが制度として機能していないと、市場そのものも破たんする」という考え方から、「福祉を拡充する小さな政府」も必要で、それは可能だとする「社会のセーフティネット張替え論」という考え方もある。

世界に例を見ない超高齢社会を迎えているわが国において、社会福祉制度を財源からの視点からしか論議できないようではお先真っ暗である。国の責任という立場から考えると「この世に生まれたすべての人間が誰であろうと、人間に値する生涯を営む権利を有し、国や政府はそのことを保障し援助する責務がある」という原理原則からの議論が不可欠である。社会福祉とは国を構成する不可欠要素であることを忘れてはならない。

震災の復興支援や介護サービスを含めた社会福祉制度の財源をどうするかという議論の延長線上には、消費税の引き上げという問題を避けては通れないという考え方が増えており、実際に今日の社会福祉制度を巡る状況を鑑みて、国民の中に「消費税の引き上げやむなし」という意見が増えている。

もちろん国民感情は、その前に中央官僚等の税金の不適切な使い方を是正し、無駄を省いて、なおかつ足りない部分は消費税の引き上げに財源を求めざるを得ないということであろう。しかしながら消費税の導入時や、税率を3%から5%に引き上げた際の「絶対反対」という声は少ないように思え、消費税に対する国民の「免疫」あるいは「あきらめ」により抵抗感が薄らいでいるように思える。

ところで消費税という間接税の実態は、本当に国民全体としてみて公平な税金なのだろうか。その税率引き上げは社会保障の充実に繋がるものなのであろうか。

消費税自体は一律決められた税率が消費に対して課税されるもので、現在は100円のものを誰が購入しようと税金は5円であり、そういう意味では「公平」だという。しかし100円の価値自体がまったく個人によって異なる現実において、同額=公平という理屈は成り立たない。年収が数億ある金持ちが支払う5円と、個人では絶対に生産収入が得られない子供や、就労不能な重度障がい者の方々が支払う5円とではその意味がまったく異なるのである。

消費税が上乗せされる物品の購入額が大きくなればなるほど、この「実態価値(あるいは実勢価値)」の差は広がり、消費税の支払いができないことで、物を手に入れることができない人々と、そうでない人々の生活格差はどんどん拡大する。

食品や生きるために必要な生活必需品に対する消費税というのは、この格差を否が応でも拡大させているのである。そういう意味からいえば格差が広がっているといわれる現代社会における消費税は不公平を拡大させる税方式という一面を常に内包せざるを得ない。

消費税を社会福祉財源の中心とする社会システムでは、富めるものは益々裕福に、貧しきものはますます苦しくなる。そしてそれは中産階層が、病気や障害をきっかけにして貧困に見舞われるリスクをも高めている社会であり、まさにセーフティネットの網の目が破れているといえるであろう。

これをいくら社会福祉政策への支出に限定する目的税にしたとしても、その本質的問題自体は変わらない。逆に福祉目的税化の先には、目的税が足りなくなれば社会福祉施策の水準を下げてよいという「まやかしの理屈」を生み出し、税率を安易に上げる理由にされる危険性をも内包している。

つまり消費税などの税金を福祉目的税化することは、社会福祉政策の国の責任を国民に転嫁する意識を生み出すことにもなりかねない「諸刃の刃」であることを忘れてはならず、本来国の責務である「国民の生命と生活を守る」という政策に対する目的税の導入は、目的税だけで社会福祉を運用するのではなく、目的税をすべて社会福祉に使い、さらに必要な財源は他からも求めることができるというシステムをきちんと構築した上で慎重に考えられねばならない。

しかし消費税の安易な引き上げ議論は、格差の拡大という意味からだけではなく、もうひとつ別の角度からも慎重に考えられるべきである。

なぜなら税制改革の主義論が、「消費税を、いつ、どれくらい引き上げるか」という方向で進んでいる実態を冷静に見つめ直し、もう少しマクロな視点で税制全体を眺めた時、我々はある大きな矛盾に気がつかずにはおれないからである。

ではその矛盾とは何か?(まやかしの税制改革論議を斬る(後篇)に続く

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介護・福祉情報掲示板(表板)

池田論文の誤り

『介護保険情報』という業界誌の2011年10月号・論壇に『「空想的介護保険論」からは何も生まれない〜結城康博「日本の介護システム」への批判』という論文が掲載されている。

執筆者は地域ケア政策ネットワーク研究主幹という肩書をつけた池田省三介護給付費分科会委員である。

結城論文に対する批判だけで専門誌の1号分の論評を書くというのもよく理解出来ないが、その内容は相も変わらず独断と偏見に基づいた現状認識に欠けるひどい内容である。批判の対象になった結城氏こそいい迷惑だろう。

池田省三委員といえば10/7の81回社保審・介護給付費分科会でも「介護サービス経営実態調査」の結果として示された収益率について「保険制度で守られた市場である介護で、5%。10%の収支差率を上げるのはいかがなものか」と発言している。

それもこれも介護給付費分科会が介護報酬を下げる議論しかしないから事業者は将来の経営を見越して収益を確保しなければならない結果である。このことについて何にも考えていないのだから驚く。もし改正時にきちんと人件費のアップ分を給付費に上乗せするという保障があれば、事業経営者はさほど収益をあげず、報酬3年目(改定直前)には収支とんとんとなるように職員に給与を渡せるって。そうではないから下がったときに備えるための収益を確保しておかねばならない結果だろうに。

ところでこうした彼の介護サービス事業経営や収益に関する発言が常に的外れな理由が、この批判論文で明らかになっている。それはグループホームをやり玉に挙げて次のように論評している個所でも明らかだ。

「介護報酬が介護労働者の賃金に正しく反映されているかは〜グループホームを例に取ってみると〜介護報酬の75%が労働者に配分されるとしたら、1対1.5の配置(職員6人)であっても月額29.5万円の賃金が支払えるはずである。ここでは社会保険の事業主負担を無視しているがその額は諸加算収入で十分賄える。」と書かれている。

おいおいこの空論ぶりはどうだ。法定福利費の事業主負担など到底「諸加算収入で十分賄える。」ものではないだろう。しかも国の政策で事業主負担率は平成29年まで毎年上がり続けるんだぞ。分かってるのか?

そもそもこの論理が荒唐無稽である最大の理由は、昇給による経費アップをまるで考慮に入れていない点である。例えば紙の上で新規事業所が75%の損件費負担率で経営できたとしても、次年度以降の経営はどうするんだ。介護給付費が上がらないなら、その事業所に就職した新卒者は一生初任給の額が据え置きだぞ。

しかもこのシミュレーションを見ると、彼の中では、特養やグループホームの土地や建物は空から降ってくるか、地から沸いてくるか、とにかく自然にそこに存在しているかのように考慮されていない。そのコストは無視されている。土地・建物は全額補助金で手に入れることなんて不可能だぞ。しかも箱物を立てれば修繕費を含めたランニングコストが初年度から発生するんだぞ。

馬鹿馬鹿しくて論評にも値いしないが、多くのグループホームは、土地・建物の償還金を介護給付費の中から支払いながら事業経営し、固定資産税をはじめとしたそれらに対して発生するコストも捻出しながら運営しているんだぞ。利用者が使う光熱水費以外の、そのコストだって事業主負担だぞ。事業経営を分かっていない人が、デタラメな経営コスト計算をするなって。

実際に事業経営したことがない素人の典型であるが、箱物の維持管理コストの視点が全くないのである。こういう人間が経営者になれば事業は3日でつぶれる。

特養の内部留保も1兆円を超えるって批判しているけど、内部留保って一体何か意味が分かって言っているのか?しかも全国の特養でその金額を割ったら1施設いくらになるのか分かっているのか?

内部留保とは別に経営者が個人の資産として懐に入れているものではないぞ。池田論文は、この費用を「剰余金」と書いているが、これも間違った理解だ。剰余金とは措置時代の取り扱いで、現在のそれは「繰越金」である。

そもそもその額が全体で大きくなる理由は介護報酬の仕組みそのものにある。介護報酬は3年ごとに改訂され、それは必ず上がる保障がなく下げられる可能性があるものだ。現に過去3回の報酬改定のうちプラス改訂は1回しかない。よって報酬減に備えた内部留保はある程度必要だし、それとて建設補助金が削減され続けている現状に於いては10年20年単位の建物の修繕や建て替えで消えていく費用であり、経営者が搾取しているものではない。一定期間後に社会還元される費用なのである。

さらにいえば、3年間は同額の介護報酬で経営しなければならないのだから、3年間の当初年に収入と支出が均衡してしまえばあとの2年間は赤字で経営が困難になる。3年目に収益がほとんど出ない状況で定期昇給を行ったとしても1年目と2年目には繰越金が出るのは当然であり、さらに3年目で収入と支出が均衡してしまえば、次の改訂で給付費が上がらねばたちまち経営困難になるのだ。だから内部留保をできるだけ減らすことを政策にするのであれば、過度な繰越金を作らなくても、介護報酬改定時に定期昇給分に見合ったプラス改訂が着実に行われるようにせねばならない。当施設のような従業員100人規模の施設であれば、人件費支出に占める法定福利費の事業主負担分が毎年500万円前後の負担増となる。この負担をどうするのか?毎年繰越金をある程度出していかねば、将来的に支払えなくなるものだ。

こういう理屈についてはまったく分からない人間なんだろう。自分で事業経営した経験も、そのスキルもないからだ。そんな奴が何が経営シミュレーションだ。

収益率には、こうした次年度以降の土地・建物の償還金や維持費が含まれており、これを除けば実際の収益など微々たるものだ。経営者の懐に金が入っているわけではないのだ。そんなことも分かりもしないで収益率だけ見て報酬をカットすれば、結局削られるのは従業員の給与か賞与だぞ。

次期制度改正・報酬改定ではこのような理屈で介護給付費が削減される(特に地域区分で加算率がアップしない地域は一律引き下げだ)影響により、職員給与はカットの方向だ。

それからこの論文の中で池田は、結城准教授が過去(措置時代)の特養について現在より軽度の利用者がいたと書いていることに対して『老人福祉法は、「常時介護を必要とし、在宅生活が困難な高齢者」(経済的要因による選別はないものとされている)が特別養護老人ホームの入所対象者となっている。つまり、寝たきり高齢者を対象としており、それ以外の要因による者は養護老人ホームの対象である。』として措置費時代の特養に今より元気な高齢者(つまり現在では要支援者と認定される状態の高齢者)はいなかったと結論付け、結城論文を批判している。

これも現状認識が間違っている。なぜなら老人福祉法の規定はその通りであっても、『常時介護を必要とする』という判定基準は別にあり、それは

日常生活動作の状況
入所判定審査票による日常性活動作事項のうち、全介助が1項目以上および一部介助が2項目以上あり、かつ、その状態が継続すると認められること。

・精神状態
入所判定審査票による痴呆等精神障害の問題行動が重度または中度に該当し、かつ、その状態が継続すると認められること。ただし、著しい精神障害および問題行動のため医療処遇が適当な者を除く。

↑このどちらかに該当すれば市町村で特養入所対象者と判定していたもので、これは全国共通基準である。

よって障害程度は軽く歩行に問題はないが、利き腕の麻痺で着替えと食事の際の魚の骨をとるなどの一部介助を要し、入浴は自力でできずに全介助とされるような方も入所対象になっていたという事実がある。しかも当時の養護老人ホームは布団でベッドの施設は少なく、入所要件として「布団の上げ下ろしができる」という条件があったため、それができずに特養に入所する元気な高齢者がたくさんいたという事実もある。これらはすべて市町村が判定・措置して特養入所していたケースである。

池田氏はこうした基礎知識さえ確認しない状態で他人の批判論文を書いているということだろうか。繰り返していうが、これは個人のブログ記事に書かれているものではなく、業界の専門誌に書かれている内容だぞ。裏をとるという基礎作業もしないで、そういう論文を書いてよいのか?

こんな人が、偉そうに経営論を唱え、介護給付費の額に言及している。そんな分科会で議論されて作られる制度であるとしたら、介護保険制度など継続させる意味のない制度にしかならない。

池田省三に送る言葉があるとすれば、結城論文批判のタイトルをそのまま用いて『空想的介護サービス経営論からは何も生まれない』とでもしようか。

我々は後世にしっかりと我々が見て聞いた事実を伝え本当の姿を明らかにしていかねばならない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

※本記事中、池田省三氏を中傷する言葉として「この人、既にお惚けになっているのではないのかと疑いたくなる。」「まったくあの白髪頭の中には脳みそではなく、糠味噌でも詰まっているんじゃないのか。」「エセ学者」「無知の塊のような輩」「彼の「老害」ぶり」などという表現がありました。これは池田省三氏の名誉を棄損する不適切な表現であったと慎んで謝罪いたします。

介護崩壊の前兆?

今朝のテレビ報道を見て感じたことは、この国のマスメディアとは国民の英知・知性を代表せず、単に時代の流行を代表するだけの社会的使命を持たない「お気楽情報伝達媒体」に過ぎないということだ。

未曾有の国難からの復興に取り組むべきリーダーが変わろうとしている最中、その有力候補が立候補表明したことも関係なく、国際情勢では原油価格や国際経済に直結するリビア情勢が大きく動こうとしていることにも関係なく、国内経済に大きく影響するムーディーズの日本国債格下げ問題も関係なく、国内の事件では凶悪な一斗缶切断遺体殺人事件の容疑者が逮捕されたことも関係なく、(ファイターズの連勝が止まったことはもともと関係ないが・・・。)今朝のテレビニュース報道のトップは、一芸能人の暴力団との交際を巡る引退記者会見である。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

テレビ電波という公器を使って流す報道の内容を、製作スタッフやキャスターの興味でしかプロデュースできないなら小学生の学芸会と同じである。恥を知れと言いたい。

昨日から今朝にかけての僕の中でのトップニュースは、財団法人介護労働安定センターが公表した「平成22年度介護労働実態調査結果について」である。

これによると
(1)1 年間(平成21 年10 月1日から平成22 年9 月30 日)の離職率の状況は、全体では17.8%(前年度17.0%)であった。また、採用率の状況は全体では25.8%(同25.2%)であった。
(2)介護サービスに従事する従業員の過不足状況を見ると、全体では不足感(「大いに不足」+「不足」+「やや不足」)は50.3%(前年度46.8%)であった。「適当」が48.8%(同52.3%)
であった。
(3)介護サービスを運営する上での問題点を見ると、全体では「今の介護報酬では人材の確保・
定着のために十分な賃金を払えない」が51.5%(前年度52.7%)であった。
(4)介護職員処遇改善交付金に伴う経営面での対応状況を見ると、全体では「一時金の支給」
が50.0%、「諸手当の導入・引き上げ」が29.8%、「基本給の引き上げ」が15.7%、「教育研
修の充実」が15.3%であった。
(5)月給者の所定内賃金は、全体では216,494 円(前年度212,432 円)であった。
(6)仕事を選んだ理由のうち、「働きがいのある仕事だから」が55.7%(前年度58.2%)となっている。
(7)労働条件等の不満では、「仕事内容のわりに賃金が低い」46.6%(前年度50.2%)、「人手が足りない」40.1%(同39.4%)、「有給休暇が取りにくい」36.9%(同36.9%)、「業務に対する
社会的評価が低い」32.2%(同36.4%)となっている。

と総括している。つまり2008年度(平成20年度)から続いていた離職率の改善(低下)傾向が止まったことが分かる。

しかもそれは事業者が望む結果ではなく、なんとか人員を確保しようと残業代を除いた平均月収は前年度と比べても4千円アップさせているが、離職低下にそのことは繋がっておらず、事業者の人手不足は恒常化し、そのことが離職原因の2番目に位置するように、人手がない不満がさらなる離職を生んでいることが分かる。

しかも給与は徐々にアップしているとはいえ、それは全産業平均で見ると大幅に低い状況は変わっていない。しかしそれは必ずしも事業経営者が搾取していることを現わすものではなく、現在の介護報酬の水準で支払うことができる給与のぎりぎりを支出していると考えている事業経営者が多い事が分かる。しかしその結果は「仕事内容のわりに賃金が低い」という相も変わらない結果となって現われており、これを改善するには介護報酬の引き上げしかないと感じている事業経営者が多いことがわかる。

この内容に反して、国の経営実態調査や介護給付費分科会提出資料では、内部留保が多すぎるとか、収益率が高すぎるなどというデータが出されているが、いったい平均経営年数が何年の事業者で、どこの地域のデータなのかが定かではない。サービスに参入した年数が少なければ、職員の勤続年数だって短いのだから当然給与水準は低く抑えられる。しかし長い年数の経営実態があり、職員の離職が少ない「優良事業者」であればあるほど、職員の給与水準は年功に応じて高くなり、それは経営の圧迫要素である。ここをしっかりみないと、経験の長い職員を雇用し、サービスの質の高い事業者が経営困難でサービスから撤退していくことになり、「安かろう悪かろう」のサービス事業主体だけが数多く残って行く実態を生む。

社会福祉法人の内部留保(繰越金)の額が問題になっているが、そもそも介護報酬は3年ごとに改訂され、それは必ず上がる保障ないもので、下げられる可能性があるものだ。現に過去3回の報酬改定のうちプラス改訂は1回しかない。よって報酬減に備えた内部留保はある程度必要だし、それとて建設補助金が削減され続けている現状に於いては10年20年単位の建物の修繕や建て替えで消えていく費用であり、経営者が搾取しているものではなく、一定期間後に社会還元される費用である。

さらにいえば、3年間は同額の介護報酬で経営しなければならないのだから、3年間の当初年に収入と支出が均衡してしまえばあとの2年間は赤字で経営が困難になる。3年目に収益がほとんど出ない状況で定期昇給を行ったとしても1年目と2年目には繰越金が出るのは当然であり、さらに3年目で収入と支出が均衡してしまえば、次の改訂で給付費が上がらねばたちまち経営困難になるのだ。だから内部留保をできるだけ減らすことを政策にするのであれば、過度な繰越金を作らなくても、介護報酬改定時に定期昇給分に見合ったプラス改訂が着実に行われるようにせねばならない。

特に現在の人件費支出の構造をよく考えると、国の政策と深く関連して、毎年法定福利費(年金や健康保険の事業主負担分を含む)が階段状に上がっているのだから、これに見合った報酬アップが必要である。これは毎年確実に上がる自然増分なのである。具体的に言えば当施設のような従業員100人規模の施設であれば、人件費支出に占める法定福利費の事業主負担分が毎年500万円前後の負担増となる。この負担をどうするのか?毎年繰越金をある程度出していかねば、将来的に支払えなくなるものだ。

これらの複雑な人件費支出構造を分かっていない能天気な学者が国の審議会で内部留保問題を議論しても始まらない。全国老施協の委員はなぜこのことをもっと強く主張しないのか。やる気があるのか、介護給付費を守る気があるのか、はなはだ疑問である。

しかし現状は、こうした主張がまったくされず、介護報酬はベースをマイナスにして再査定が行われようとしている。ほとんどの地域の、ほとんどの事業に於いて現行より介護給付費は下げられるという議論である。

このことは明日の記事更新で、地域区分の再編問題の続報と共にお知らせするが、来年の介護報酬が現行よりさらに下げられることによって、介護が崩壊する危機があり、それは現実に離職率のアップに歯止めがかからなくなる実態で現われるという危機感を、「介護労働実態調査」から関係者は読みとって、国に、馬鹿な介護給付費分科会委員に声を挙げていく必要があるのだ。

まったく老施協委員の大人しさ(馬鹿さ加減と言ってもよいだろう)には歯がゆくなる。自分があの分科会に出てたら切れてるぞ。だが切れる代わりに言うべきことは言うけれど・・・。そんなことを考えながら怒りの矛先をどこに向けようかストレスをため続ける毎日である。

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最大不幸社会

生活保護の見直しが進められている。

そのお題目は「就労支援を通じて受給者の自立を図る」というものだ。自立できる人を支援して、生活保護を受給しなくてもよい「暮らし」が実現するならそれに越したことはない。

しかし今このことが議論される裏には給付抑制の意図が見え見えで、「生活保護を受給せずに正社員になれば、保護が不要なうえ税なども負担してもらえるため、1人につき生涯9.000万〜1億6.000万円ほど財源が浮く。」という考え方がある。

本当は働くことができるのに「やる気がない」「働く意欲がない」という理由で生活保護を受給している人が多いというなら、法律そのものや、その運用を変えて対応することも必要だろう。大阪市の平松邦夫市長の「雇用政策で対応すべき人を生活保護で支えるのは問題だ。制度をこのままにしておくことは許されない」という主張も理解出来ないわけではない。

ただしここには慎重に考えねばならない問題が含まれている。

生活保護の運用を、一部の不適切ケースを排除するために硬直的に、制限を強くして運用してしまえば、暮らしが成り立たず命さえ失いかねない人がいることだ。不適切ケースを排除するため、守るべき命が危険にさらされることがあってはならないのである。なぜならこの国には、本当に保護が必要な人まで、過度な制限で保護受給できなくなった時にそれを救う別のセーフティネットは事実上存在していないからだ。

政府は簡単に「就労支援」などというが、正職員になれない非正規労働者が巷にあふれ、新卒者や、若い労働者も正社員として就業できない人が多いという現状がある限り、被保護者が生活保護を受給しなくてもよい経済状況まで上がってくことは簡単ではない。何より求められるのは、社会全体の雇用改善だ。非正規労働者や派遣労働者が経済活動を支える構造ではこの国に未来はない。

決して贅沢ではなくとも、額に汗して働く労働者が、家族を養って生活が成り立つだけの収入が得られる社会に戻していく施策が政治には求められる。
(※あえて「戻していく」という言葉を使っている。この部分では過去より現在の状況が後退していると思うからだ。)

デフレを進行させる社会のゆがみは、すべて国民全体の不利益に繋がっていることを理解せねばならない。物を安く買うことができる社会は、反面それ以上に国民に渡る金の流れが滞るという意味である。そしてその一番のしわ寄せを受けるのは経済弱者であり、格差社会は広がり続けるのである。

正規労働者を増やし、派遣労働者を減らし、社会全体の労働人口の収入を上げ、国民全体の購買力を引き上げねば豊かな社会は続かない。なぜ政治はそのことにもっと力を入れないのか?しがらみだらけの族議員が、一部の利権者の利益だけ守ろうとするから社会がよくならないのだ。そういう政治家を選ぶ国民が悪いというが、他に誰か選択肢が示されているというのか。政権をとった途端に馬脚を現す政治家ばかりではないか。

そうした状況下で社会保障費をどんどん削って行けばこの世は闇だ。どこかの馬鹿が「最小不幸社会」を実現するとほざいたが、実際に奴らがやっていることは嘘だらけ、形式主義の政治ごっこではないか。政治主導というスローガンはいつの間に消えたのか?官僚の手のひらの中でしか動けない政治家が本当に必要なのだろうか?

恐ろしい事に、この国の役人は時として人でなしになる。特にお上の「お墨付き」を得た場合の制限については人の皮をかぶった鬼のように冷たく庶民をあしらう。

覚えているか2007年の小倉北福祉事務所に関連した被保護者餓死事件を。あのときは病気を理由に保護受給していた52歳の男性が、「そろそろ働いたらどうか」と保護取り下げ書を書くことを迫られ、保護を打ち切られた後に、「働けないのに働けと言われた」「おにぎり食べたい」などと窮状と空腹を訴える言葉を日記に残し、やせ細り餓死してから1月後に発見されたではないか。

そういう餓死者が存在する国家を先進国と言ってよいのか?

社会保障費も震災復興を理由に削減することが当然とされている。現首相は政府与党の「集中検討会議」で、社会保障給付費の削減を含む効率化策を検討するよう指示した。消費税の引き上げはこれにより早まり、高所得者層の基礎年金は最大50%カットされる方向だ。介護保険制度では、保険料の算定方法を総報酬割として大企業のサラリーマンの負担を重くする案や、要介護度が低い人の自己負担引き上げが検討されている。保険料を40歳以下からも徴収する案も課題となっている。

それらを決して全否定しないが、セーフティネットをきちんと整備しておかないと、ごく近い将来に、この国は最大不幸社会を迎えることになる。今そのカウントダウンが始まってしまっているのではないか。

政治家はやるべきことをやった上で国民の負担や忍耐を求めていると言えるのだろうか。まずすべきは政党助成金の大幅な削減と、国会議員の議員年金の廃止と、議員報酬の半減である。

余計な有識者会議もすべてなくすべきだ。何のために国会議員があんなにたくさんいるんだ。国会議員の頭では足りないから有識者会議が必要と言うなら、その費用は議員報酬から負担しろ。国会議員の数だってもっと少なくしてよい。議場で眠っている議員は即刻首にしろ。審議中に携帯を操作している議員や週刊誌を読んでいる議員は国家反逆罪で収監しろ。そこから法律を変えろ。

同じような問題の議論に委員会ばかり作っても、責任と権限が分散されるだけで、重要なことは何も決まらないではないか。この国にリーダーとなれる政治家は存在しないのだろうか。

どちらにしても自らの血を流さず、国民だけに負担を負わせることを許してはいけない。この国の民は、そういう意味ではあまりにお上品でおとなし過ぎるのではないだろうか。

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風吹けば・・・。

5月は決算理事会の時期である。そこでは昨年度予算の執行状況を説明し、収支報告をしなければならない。しかしその状況は年々厳しくなりつつある。

どんなに理想を高く掲げようとも、事業経営として成り立たなければサービスは成立しない。介護施設と言えど、赤字を出してしまえば運営そのものができなくなってしまう。

しかし施設サービスの介護報酬には上限があり、利用定員を超えたサービス提供ができない現状は、良いサービスをしても収益が増えないという意味であり、上限のある一定の介護報酬のパイの中で運営していかねばならないということだ。

つまりここで問われる経営能力は、サービスの品質をよくして収益を挙げるという方向ではなく、いかに一定のパイの中で収益率を高くしようという方向だから、支出をできるだけ少なくする、という方向に向かわざるを得ない。

その中でも一番支出部門に占める割合が高いのが人件費であるから、この支出を少なくしようとすれば、従業員の数を減らすか、給与を減らすしかない。しかしこのことは諸刃の刃で、介護サービスの質は、サービスを提供する人材の質に大きく左右されるのだから、ここの費用削減は結果的にサービスの質の低下を招き、それはサービスを利用する要介護高齢者の不利益に直結するものである。

恐ろしい事に、2000年4月に創設された介護保険制度において、一番介護報酬の高かった時期は2000年度から2003年度までの3年間で、それ以降は介護給付費引き下げで(2008年度にはわずかな引き上げがあったが当初の額に達していない)11年前より少ないパイの中での運営が強いられているわけである。

考えてみてほしい。11年前より低い報酬で運営するということは、職員の定着率が高く、きちんと定期昇給していけば、それだけで経営は圧迫されるという意味だ。しかも事実そうさせられているということは、将来の経営リスクを考えると、その少ないパイの中で将来に備えた繰越金を出し続けていかねばならないという考えになり、こんな状況で有能な人材を雇用し続け、労働対価に見合った給与を支払い続けるというのは至難の業である。

介護職員の待遇改善が掛け声だけに終わる理由は、国の施策そのものにあると言ってよいだろう。この状況を変えない限り、この国においては、本当の意味での安心の老後保障などあり得ない。

ところで施設運営に不可欠なランニングコストの中で、ここ数年不安定要因となっているのが燃料費である。北海道の場合は冬場の暖房費は大きな支出であるが、夏であっても風呂の温度管理などの燃料は常に必要となるもので、その額は非常に大きな額になる。燃料として使っているのは「重油」であり、これは施設内のあらゆるエネルギー源であるが、この費用が10年前に比べるとかなり高額になっており、さらに最近の国際事情による原油価格の高騰が、そのまま重油代に跳ね返るため、非常に厳しい状況がここでも生まれている。

特に今年に入ってから上がり続ける原油価格は、介護施設の経営者としては、ある意味「恐怖心」をもって注目しなければならない問題であった。

この原油価格が今月に入ってまた大きく変動した。

下がる要素がないと言われていたのに、原油先物市場が大きく動き1バーレル115ドルであったものが、一気に100ドルの大台を割り込んだ。

なぜだろうと思ったら、どうやらそれがアメリカ政府によるビンラディン容疑者の殺害と関連しているということである。

もともと原油価格の高騰は、中東の地政学的リスクの高まりを囃して巨額の投機資金が流入し原油先物価格を押し上げたのが過去の経緯であった。そして今回、ビンラディン容疑者の殺害により地政学的リスクが低下し、原油先物買いのポジションのリスクが高まったと判断した為、先物市場が反応したようである。どこまで下がるか予想は難しいが、専門家によれば、シェールガス(頁岩層から採取される天然ガス)開発の台頭等原油を取り巻く環境を冷静に考慮すれば80ドル以下も充分あり得る、とのことである。

きっかけは別にして、原油価格が下がり、重油の価格が下がることは、介護施設の経営にも大きな関連性があるということだ。ということは国際情勢が、介護サービスの経営にも大きく影響してくるという意味にもなる。

このように世の中はいろいろなものが全部繋がっているんだと思う。だから何事も「人ごとは我関せず」ではなく、自らの身に置き換えて考えねばならないと思ったりする。・・・少し強引なこじつけになってしまったかもしれない。

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公募型補助金支給決定過程の透明化を求める。

次期改正会介護保険制度における居宅サービスには「地域包括ケア」の考え方が取り入れられる。

この報告書をまとめたのは「地域包括ケア研究会」であるが、実際には三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社というシンクタンクが、国の老人保健健康増進等事業を受託してまとめたものである。

しかもこれは「公募型の補助金であり、同社からの応募に基づき、外部の有識者等からなる評価委員会において審査の上、採択を決定したもの。」(厚生労働省老健局総務課)としており、一般競争入札などで落札されたものではない。

そしてこの報告書の取りまとめにより同社に支払われた事業費は、2008年度と2009年度の合計で約3.000万円近くにも及ぶ。(2008年が1.100万円、2009年が1.875万円)2010年度もこの事業費支出はされている。

しかも同シンクタンクは、これだけではなく「24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会報告書」も作成受託している。そうすると国から同じように数千万単位の事業費が同社に支払われているということであろう。しかしその報告書の内容たるや、現場を知らない素人が書いたとしか思えない幻想的で、見込みの甘い内容でしかない。
(参照:24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会報告書を読んで1〜4

これらの財源となる補助金とは、一般財源ではなく、各省庁の裁量権が広く及ぶ特別財源によるものと思える。そしてこれらのほとんどは、あの「事業仕分け」の対象にもなっていない。

これら特別会計から支出される補助金の問題をめぐっては「全精社協事件」も起きている。その支出に不明瞭な点も多い。過去にもこうした補助金にメスを入れるべきであると主張してきているが(参照:不必要な補助金にもメスを)、そのことは全く行われる様子もない。

三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社は、あの大混乱を引き起こした認定ソフトの改正にも携わっていたと記憶している。

そこで疑問になるのは国の報告書はなぜ特定シンクタンクが受託するのか?ということである。

特定のシンクタンクが特定の省庁の補助事業を受託して、それによって国民の血税を元にしている多額な補助金を受領しているのであれば、そのことには最大限の透明性が必要となるのではないだろうか。

そうであれば国は単に「公募であるから同社からの応募に基づき、外部の有識者等からなる評価委員会において審査の上、採択を決定したもの。」というだけではなく、この報告書をとりまとめるための受託先を、どのように公募して、どのような企業等がそれに応募して、どのような審議過程で最終的に受託業者が決まったのかを広く国民に対して明らかにすべきではないのだろうか。加えて外部の評価委員の人選はどのような経緯で行われ、誰が委員となっているのかも明らかにせねばならないだろう。

そうしたことを行わないで、無駄遣いや癒着はないと言って、だれが信じるだろう。

こうした情報を国民に周知しないで、逆進性がある消費税アップなどの新たな国民負担を求めて誰が納得するのだろうか。

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サービス付高齢者向け住宅に注目

次期制度改正のキーワードとなっている「地域包括ケア」を巡っては「24時間対応の定期巡回・随時対応サービス」が注目され、制度改正の中心議論になっている感があるが、それはあくまで「地域包括ケア」の仕組みを支える基礎的なサービスの一つとして位置付けられているだけで、それだけが地域包括ケアのすべてではないという理解が一方では必要である。

特に昨年5月に公表された地域包括ケア研究会報告書では「地域包括ケアの定義」について「ニーズに応じた住宅が提供されることを基本とした上で〜」として、高齢者の新しい暮らしの場の構築を前提条件にしていることを忘れてはならない。

このことは昨年10/26の「24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会 中間とりまとめの公表について」の中でも触れられており、その4ページに「過疎地等では、サービスの展開が困難な地域も想定されるが、『集合型の高齢者住宅(高齢者が住み続けるために配慮されたバリアフリーの住宅)』と本サービスを含めた『外付けサービス』の組み合わせで移動コストを低減させることにより、効率的なサービス提供が期待できるのではないか。」と指摘し、過疎地等では、要介護高齢者の積極的な「住み替え施策」が必要であることを示唆している。

過去のこのブログ記事「小さな福祉ニーズは守ることができるのか」でも指摘しているが、この住み替え施策、住み替え政策は、僕は反対ではない。限界集落の数が増大する北海道ではむしろその推進策が必要不可欠になると思う。

次期制度改正において、地域包括ケアを推進する制度のコンセプトと、暮らしの場の移動と地域再生が一体となり、その改革がセットでスムースに進めば、これは超高齢社会の地域の再生という方向に繋がって行く可能性があるものだと評価できる可能性がある。

しかしそのためには、そのことを意識した政策誘導と、そのための制度の瑕疵修正が不可欠で、何もしないで自然の流れの中で、このことが結び付くわけがない。この意味を分かっている政治家がいかに力を発揮できるのかが、一つの重要な要素である。そして瑕疵修正としては、18年改正で予防と介護を分断したことにより崩壊したワンストップサービスを復活させることが何よりも必要だ。

今のように予防と介護の区分で、介護サービス担当者がくるくる変わる状況では、30分で移動できる圏域の中に生活拠点を移しても、高齢者の生活がその狭い圏域内側でさえ、空間と時間の連続性が保障されない。介護計画担当者の交代によりそれが途絶えてしまうのである。これではケアは包括されない。

この部分の改善は是非とも必要だと思うのだが、ケアマネ不要論は議論されても、予防から介護までケアマネが連続一体的にケアマネジメントを行い、ワンストップサービスによって、利用者のニーズ把握のブレを失くしていこうという議論は皆無である。これって本当に検討課題としなくてよいのだろうか?僕は大いに不満である。

ところでこの問題と関連して注目していることがある。それは「あらたな住まい」として介護・医療と連携し、高齢者を支援する「サービス付き高齢者向け住宅」の登録制度の創設を盛り込んだ高齢者の居住の安定確保に関する法律(高齢者住まい法)等の一部を改正する法律案が8日、閣議決定されたことである。

「サービス付き高齢者向け住宅」は、住宅、有料ホームを横断する優良なサービス付きの住宅として、有料ホームの横断的な受け皿にし、建設費補助や税制優遇で登録を誘導し、市場の適正化を目指すのが制度の狙いで、特徴的なのは厚生労働省・国土交通省の共管を強く打ち出している点である。

入居者は高齢者本人と配偶者としており、一定のハード基準(基準面積を設けている)をクリアしバリアフリー基準に適合することが条件でとしている。契約についても「家賃などの前払い金以外に権利金その他の前払い金」の受領を禁じているほか、入居後の一定期間内の退去や死亡の場合は、全額前払い金を返還する義務を負わせている。

そして行政による報告徴収、立ち入り検査、指示などを権限として認め、名称独占とし、有料老人ホームとしての届け出は不要としている。

有料老人ホームでの多額な契約金未返還トラブルを受けての新たな住まいであるが、行政の指導監督権がある程度及び、費用面で返還トラブルのリスクが減ることなどを考えると、利用者ニーズに合致してかなりのスピードで増える可能性がある。

何より地域包括ケアをビジネスチャンスと見る事業者の立場に立てば、この「サービス付き高齢者向け住宅」を建設して、「24時間対応の定期巡回・随時対応サービス」を外部サービスとして提供することで、かなり高い収益を見込むことが可能になる。「24時間対応の定期巡回・随時対応サービス」を行う複合事業所が、圏域で一社独占となれば、その収益性はさらに高まる。

2つの省を横断して共管するというシステムは、ある意味歴史的な意義をそこに加えて考えるべきで、両省ともこのサービスを守ろうとする意識が働くだろうから、パブリックバックボーンを意識した運営も可能かもしれない。

どちらにしても有料老人ホームや高専賃にとって替って、今後の高齢者の介護付き住居の主流となる可能性を持った「サービス付き高齢者向け住宅」からは、今後しばらく目が離せない。

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ペイアズユーゴー原則を考える

社会保障審議会介護保険部会等で話し合われた次期制度改正の方向性は、認知症高齢者を含めた在宅の重介護者(要介護3以上を想定)を地域で支える新しい介護システムを作りを中心に制度を再設計するというものだ。つまり現在は在宅重介護者を地域で支えるサービス提供ができていないという評価がそこには存在する。

しかしそのために新しいシステムを作るに際して、現行の介護給付費を維持して、新たな給付を上乗せしようという考え方ではなく次のような考え方に基づいて制度改正は議論されている。

1.新しい財源を求めるか、どこかの給付を削らないと新しいことはできない。
2.新しいことを始めるに当たって、誰に負担を求めるのかを考えていかねばならない。
3.新しい財源がない場合は、給付の抑制か、給付対象者を狭めるしかない。

という条件が前提になっているのである。

このことは本年6月22日の閣議決定が大きく影響していると思える。そこで決められた新成長戦略では、公的保険サービスを補完し、利用者の多様なニーズに応える介護保険外サービスの利用促進策(地域における提供促進体制の構築強化を含む)の検討・実施が謳われている。(2011,2012年)。つまり保険給付は出来るだけ抑えて自己負担や地域サービスでそれを補完する方向性が示されたわけである。

同時に「ペイアズユーゴー原則」として、歳出増か歳入減を伴う施策の導入や拡充を行う際、それに見合った恒久的歳出削減、歳入確保による安定的財源を確保することを原則にする ことも決められた。

よって財源を他に求めるような政治力がない介護保険部会等では、介護保険制度の中だけで歳出と歳入のバランスをとるしかないので給付抑制策は必然の議論となってしまう。だから現行サービスの中で財源を別に得ようとすれば、軽度者の家事援助制限や、ケアプラン作成に係る居宅介護支援費(現在全額保険給付)に自己負担を導入しようとか、現在の1割負担を高額所得者などについては2割負担にしようとかいう結論にならざるを得ない。

同時に、そうであるがゆえに介護保険制度改正と報酬改定議論に際しては、すべてのサービスは現行の介護報酬を0ベースから見直して、そして財源がない限り、現行報酬は上げることができないという結論にならざるを得ない。介護職員処遇改善交付金は再来年3月までの限定措置だから、その後、この部分が2012年4月からの介護報酬改定の際に上乗せされて査定される保障もない。

2009年4月に改訂された介護報酬と、介護職員処遇改善交付金で、なんとか職員の給与改善に努めてきた介護サービス事業者は、いきなり梯子を外される可能性がないと言えない。収益を大きく挙げている事業者以外は、このとき人件費を下げて対応するしかないのだろうか?しかしそれでは人は集まらず、事業展開自体が困難になりかねない。

しかも制度全体の見直しとは別の部分で、前任の厚生労働大臣と政務官の思いつきのような「通所介護のお泊りサービスの保険給付化」という新しい給付を国民議論がされないまま作ってしまって、財源がないから他のサービス給付費を下げてこれに充てるという。・・・なんという戦略性に欠けた馬鹿げた制度改正だろう。長妻昭さんと、山井和則さんという2人の前大臣と前政務官ほど、関係者から期待され、そしてその期待を裏切ったタッグはかつてないだろう。

しかし先の衆議院選挙前まで民主党は、介護職員等の給与は月額40.000円上げると言っていたではないか。その方針はどこに行ったんだ。大丈夫かこの政党は・・・。

我々が報酬アップを求める理由は、自分の懐を温めるためではなく、介護サービスに従事する職員に対して定期昇給をきちんと保障した労働対価に見合った報酬を与えない限り、すぐ近い将来に人手不足で介護サービスは崩壊することを肌で感じているからなのだ。

これは介護サービス事業者だけの問題ではないことにすべての国民が気付くべきだ。なぜなら75歳以上の高齢者人口の割合が2007年の約9.9%から、2030年には約19.7%、2055年には約26.5%と増大するのである。この状況を正しく理解しようとすれば、我が国においては、国全体が「危機意識」を持つべきなのでえある。なぜなら介護施設や、居宅サービス事業所が人手不足でサービス提供体制を縮小せざるを得ない地域では、そのしわ寄せは介護を必要とする人自身と、その家族に対して「必要なケアが提供されない」ということによって現実化するからだ。

つまり制度の光の当たらない場所で「野垂れ死に」する国民が増えるという意味だ。そういう国家が先進国とか、民主主義国家と名乗れるのだろうか?そういう国家の政治家は何に向けて責任ある政治活動をしていると主張できるのだろうか。ましてやそういう社会が「最少不幸社会」であるわけがない。しかしペイアズユーゴー原則を社会福祉政策にも適用する限り、そうしう社会になることは確実なのである。

どう考えても、医療や福祉・介護などの制度にその原則を適用することは、国民の生命や暮らしを脅かす結果となり問題であり、医療や福祉政策にペイアズユーゴー原則は適用すべきではないと僕は思う。  

もしこの原則が福祉や介護サービスにも絶対条件であるなら、歳入財源としての税負担を論じることができない有識者介護で制度改正を議論するべきではない。歳入方式も議論できる政治家が制度設計しないとならないはずだ。

そろそろ学者の非現実的な財政論で固まった制度改正議論はやめにして、政治家と言える人々がもっとグローバルな視点から近未来社会づくりの制度改正論をせねばならないのではないか。

政治主導をスローガンに挙げていたのは、いったいどこのどいつだったのか、もういちど振り返ってみるべきである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

団塊世代の既得権を作るな、という主張

このブログも最近、制度改正に関する話題が多くなっているが、11月中に制度改正議論をまとめると国が言っているのでこの話題が多くなることをご了承いただきたい。

今週は25日に社会保障審議会介護保険部会が開かれ、その後に、来年1月からの通常国会に提出する改正法案が作られるという流れになる。

ところで25日の「介護保険部会」で何か新しい動きがあるんだろうか?実はこの部会の議論自体はあまり意味がない。ここで議論されていない「案」が老健局から次々に出され、審議会は形骸化していると嘆く委員もいる。ある人からの情報によると厚生労働省の官僚は、この部会を「ガス抜き」と呼んでいるそうだ。本当の論議は非公開の別な場所で行われているのだ。

だから25日に審議会に示される内容も、今まで審議したことのまとめと、国の方針を示すことに過ぎず、提出法案に関する部分についてはむしろ「24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会」の影響力が強くなってくるだろう。そして介護保険部会の議事録だけでは読みとれない様々な罠が仕掛けられて法案が作られることになる。例えば今まで家事援助などの給付制限の対象者は「要支援者」という言葉を使っていたが、今後は「要支援者等」あるいは「要支援者及び要介護状態が軽度の者」という具合に、いつのまにか要介護者も含んでくることが予測される。このことを見逃してはいけない。

ところで介護保険制度改正議論で盛んに強調される給付抑制策。なぜ国や介護保険部会等の委員はサービスを削減することに躍起になっているのだろう。その答えの一つを見つけた。

「24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会」の委員でもある龍谷大学の池田省三教授は、自身の論文の中で次のように述べている。

『「団塊の世代」は、2012年から介護保険の第1号被保険者になっていく。この「団塊の世代」に介護保険に対する「既得権」が生じてしまうと、改革は極めて困難になる。』として今回の制度改正での介護サービス給付を厚くしてはいけないと結論付けている。

「団塊の世代」も随分馬鹿にされたものだ。

その世代の人々が既得権にしがみついて、国のあり方を決める際の抵抗勢力になると決めつけられているのである。高度成長期の貴重な頭脳や労働力として日本を背負ってきた「団塊の世代」は老後も自己責任で自分の力で生きろと放り出されているようなものだ。

この国を先進国と呼ばれるレベルまで発展させてきた原動力となった人々に対して、あまりに失礼な理屈ではないのかと怒りの声を挙げたくなる。もっと人に対して「優しい心」を持った人が制度構築案を提言しないと、冷血の介護サービス制度になり下がって、人を救うより、人を踏み台にする制度になってしまう。

日本を支えてきた団塊世代の人々は、国の行く末にそう無関心ではないはずだ。きちんと必要な負担は納得してくれるはずであり、必要な自己負担を頭から拒否するものではないと思う。しかし同時に、それらの人々は、国や国の研究委員会等に所属する学者が、いかに社会の財を食い物にして無駄金を使ってきたか知っている。この国が本当の意味で「平等社会」ではないことも知っている。それらの人々が一つの勢力となり、現在の利権を脅かすことが怖いから、必要以上に団塊の世代を狙い撃ちにする視点からしかものが見えないんではないのか?

むしろ既得権を持ち続け、それを離そうとしないのは、官僚とその組織であり、官僚と癒着する学者などの国の研究機関の委員ではないか。

そういう学者から、団塊の世代は「既得権を作らせない」という理屈で、必要な福祉援助や介護サービスの社会資源を奪われていくのである。

団塊の世代と呼ばれる人々はもっと怒ってよいはずだ。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

国勢調査に対する疑問

10月1日を基準に行われた国勢調査に携わっている人も多いだろう。

我が国の国勢調査は、人口の状況を明らかにするために大正9年から、ほぼ5年ごとに(現在は5年に一度が基本だが、そうでない年もあったのでこういう表現にした)行われており、現在調査票を回収している本年度の国勢調査は19回目に当たるものである。

国勢調査の結果は平均寿命の計算式における基礎データにもなるし、選挙区の画定や議員定数の基準、福祉政策や防災対策など国や地方公共団体の行政施策での利用を始め、個人の生活設計や企業の事業計画など様々な場面において利用されるため、けっして無駄ではないと思う。・・・そう思いたい。

この調査は日本に居住している外国人も対象になるし、住所不定のいわゆるホームレスと呼ばれる方々も対象になる全件調査を基本としており、データの収集や集計にはかなりの人手と手間がかかる調査である。

当然、ここには国費が投入されているわけであるが、前回(2005年)の国勢調査には約650億円の予算が計上されている。しかもその前年には予備調査費として20億円がかけられており、さらにこの調査に係る地方自治体職員の時間外手当などをすべて計算するともっと大きな金額になる。そしてその8割は人件費であるといわれている。

実際にそれだけの人手と手間がかかっているんだからそれはやむを得ないだろうか?しかし無駄な費用が全くないわけではなく、むしろ削減すべき費用というものもかなりある。今回の調査にかけられている費用の中から具体的にその費用を指摘しておく。

緊急防犯ブザー
画像は、今回の国勢調査で全国約70万人といわれる調査員全員に配られている防犯ブザーである。実物から判断し販売価格は1.500円くらいのものだろうと思うが、単純計算でこの費用だけで実に11億2千万が支出されることになる。(画像はクリックすると拡大表示します。)

確かに夜間調査票を回収しなければならない場合もあるだろうし、女性の夜道の一人歩きは危険だろうが、全調査員一律にこんなブザーを配る必要があるだろうか?男性調査員はほとんど使わないだろうし、僕の家に調査票を回収に来た調査員はたまたま女性だったので尋ねてみたが、持って歩くことはないという。必要なら市町村に備え置いたものを貸し出す仕組みにすればよいことで、これも無駄の一つである。

穿った見方をすれば、こんなものを調査員全員に配る必要性はないのに、そうしているというのは、この防犯ベル業者と国の癒着があるのではないかと思ってしまう。

こういう無駄を一つ一つ洗い出していけば、かなり不必要な経費は出てくるだろうに・・。

ところで国勢調査のデータは本当に信頼できるのだろうか?

国は基本的にこのデータについて、全件調査で対面して調査依頼をするし、調査票を回収できないケースについてもすべて聞き取り調査で実態把握しているので、間違いのない正確なデータであるという。しかし調査票を回収できないケースも回を追うごとに増えているというし、聞き取り調査も不可能なケースが増えている。

そもそも各家庭に配布した調査票は封をして調査員に渡されるほか、今回からは郵送することも可能になっているが、そこに果たして正確な情報が書かれているのか確認する術はない。

とすれば本当に正しい事実がその調査票に書かれているのか疑わしくなる。例えば今年話題になった「消えた高齢者問題」にしても、国勢調査ではそのような誤ったデータは入ってこないとはいいきれない。死んだ親の年金を受給している世帯では、その親が生きているとして調査票に生存データを書いて封書に入れるだろう。そういう数値は「外れ値」として無視できるものなのか?大いに疑問である。

どちらにしても様々な施策において財源論が議論されるこの国において、5年に一度700億円近い国費をかけて行われる調査の結果が無駄になっては困る。有効な調査となることを願ってやまないが、実に疑わしい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

新型サービス3本柱にもの申す。

昨日様々なニュースソースから『菅首相が介護保険制度改正を巡って「場合によっては介護保険制度の整備法といった新規立法も含めた対応が必要ではないかと思っている」と述べた。』ことが伝えられている。

この背景としては、全国で所在のわからないお年寄りが次々に明らかになる中、家族や地域から孤立しがちな高齢者への支援が欠かせないと判断したことで、高齢者の独り暮らしや夫婦だけの世帯向けに、新たな生活支援策を追加する必要があると判断したもので、要介護高齢者の生活支援というこれまでの介護保険の目標に、新たに「孤立化のおそれがある高齢単身者や夫婦のみの世帯の生活支援」を追加する、というものである。

そして具体的には、
(1)24時間地域巡回・随時訪問
(2)見守り付き高齢者住宅、住み替え支援
(3)認知症支援(はいかいSOSネットワーク、予防・治療・支援の一貫サービス体系、成年後見)
以上の3点を高齢単身・夫婦のみ世帯に対する「新型サービス3本柱」として介護保険の対象に加え、全国的に普及させるとしている。

みなさんは、このことに関してどのように考えているのだろう。

僕から言わせれば「おいおい消えた高齢者問題まで介護保険制度で何とかしようというのはおかしいんじゃないの?」である。

そもそも消えた高齢者の問題は、「高齢者の独り暮らしや夫婦だけの世帯」の問題とは全く別な状況下で発生している問題ではないか。実際には同居の子や孫がいる世帯で、親や祖父母の状況に無関心か、あるいはその精神的絆を切ってしまっていることで発生している問題だろうに。

普通の親子関係で、親の居場所が分からないのに年金だけもらい続けているようなことがあろうはずがないし、親が死んでも葬式もあげず、死亡届も出さずに、年金を受給し続けているわけがない。

むしろこのことは現代の貧困問題として、しっかりとした所得保障、生活保護の適正給付問題として考えるべきである。

同時に親が死んで供養さえしない、あるいはできない心の荒みを生む社会全体の「闇」が何が原因になっているのかをきちんと考える視点が必要だ。

そして自己責任主義、市場原理主義による弱肉強食社会を高齢期まで持ちこませない施策がまず必要なのであって、高齢者の介護サービスの法制度である「介護保険制度」から手当てしようとしても無理がある。

そもそも消えた高齢者の問題と、年金の不正受給の問題をリンクして考えるならば、年に一度行っている年金継続支給に必要な現況届が機能していないという問題だから、このことに罰則を設けるなど、機能するようにするだけで、新たにお金をかけずに改善できることではないか。それをしないで、他の制度でこの問題の解決を図ろうとして、現況届も現行方式で継続させるのでは、税金の無駄遣い以外のなにものでもない。

消えた高齢者問題を解決するためには、介護サービスの制度を使って何とかするんではなく、性善説に基づいた届け出制度を改正するしか方法はないだろう。具体的には前述したように、年金の現況届の虚偽届には厳罰主義で臨むとともに、戸籍上生存している人で、3年以上現況届が出されないケースについては、すべて市町村の強制調査権に基づく確認調査ができるようにして、その際に所在が確認できない場合は戸籍の抹消など必要な措置をとれるようにすればよい。

独居や高齢者生体の見守りは大事だか、それは消えた高齢者問題とは別な角度からサービスのあり方を考えるべきで、介護サービスで消えた高齢者問題を同時に解決しようとする考え方はどちらも中途半端な方策で終わってしまうことになりかねない。

新3本柱にしても、この整備で今後の高齢者介護問題が劇的に変わるなんてことはあり得ない。特に地域包括ケアは30分以内の移動範囲の中で、訪問介護を中心に、訪問介護や、かかりつけ医師の介入さえも含めてサービスをパッケージで提供しようとするシステムだから、大都市モデルとしか思えない。移動距離が格段に遠くなる北海道郡部の過疎化地域やいわゆる中山間地域になじむサービスではないだろう。しかもその理念や方法論は良しとするところがあっても「地域包括ケア報告書」に基づくシステムであれば、まず包括報酬ありきでサービスプランを決めねばならず、必要なサービスがきちんと使えない可能性が高い。

現首相は、この新・在宅3本柱が機能して、高齢者の暮らしが本当に守られると思っているんだろうか?少なくとも国民ニーズとしてみれば、在宅生活が限界に達した時の、特養への入所ニーズは拡充する一方だし、それが完全に満たされることはなく、見守りつき高齢者住宅でケアできない人の方が多く増える現状で、施設整備や、それに必要なマンパワー確保の問題が、何一つ解決されない柱では、屋根を支えることさえできないではないか。

党代表選〜首相再選までの流れの中で、なんでもアピールしようという姿勢が、中身をよく考えないで国民にとって耳触りのよい政策を垂れ流す結果に繋がっていないのか大いに首を傾げるところである。

この国の最近の政治家は、なぜトップになった途端に雲の上からおかしな政策しかしなくなっちゃうんだろう。位打ちで惚けちゃったんではないのか?

あんたが目指すという「最少不幸社会」なるものって、そんなもんなのかい?そんな程度じゃ僕は大いに遺憾の意を表し「い菅ぞ!あ菅ぞ!」といいたいのである。

※落ちがイマイチであることは許してください。
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最少不幸の社会への政策課題

日本人の平均寿命と平均余命という言葉はよく聞く。その意味は「老老介護の本質(前編)」で確認してもらいたい。

ところで日本人の平均年齢というものを意識したことがあるだろうか?現代社会のそれはいくつなのか知っているだろうか?ふと気になって調べてみた。

社会の平均年齢の意味は説明するまでもないが、0歳時〜最高年齢者まで社会全体のすべての人の合計実年齢(満年齢)を実人口で割った数値である。すると1945年(昭和20年)我が国の平均年齢は26歳である。僕が生まれた1960年(昭和35年)のそれは28.5歳である。

ちなみに当時、高齢化率はわずかに3%である。この数字は地域社会で33人の人間を集めて、やっと65歳以上の高齢者が一人いるか・いないか、という数字である。

しかし日本人の平均年齢も、高齢化率も年々上昇を続け1995年(平成7年)には社会の平均年齢が40歳に達し、それ以後も上昇し続けている。この社会全体でみると日本は既に青年期を過ぎ、壮年期も超えようとしているのである。高齢化率も25%に達し、地域によっては30%を超えている場所もある。

社会の平均年齢が40歳を超えている状況を考えると、この国の抱えた問題が余計クローズアップされてくる。社会全体で活力を失わずに、豊かさを保っていくことは簡単ではない。

そういう状況で政治は常に「財政の健全化」という課題を背負わねばならない現実がある。しかし財政の再建は倹約だけでは実現しないのは歴史が証明しているので、経済力の強化として景気の回復と安定した経済成長は絶対条件である。

さらに社会の高齢化は、社会保障費の自然増をはじめとした負担を必要とする社会であり、かつ有権者の大半が社会保障給付を自分の問題と考える世代であるのだから、このことを無視した政治なり政策なりは実現困難となる。

特に「最少不幸の社会」の実現を政治の目的に掲げた現政権において、財源論で社会保障費を簡単に切り捨てることは困難であろう。

するとこれからの政治は、経済の発展・財政の再建・社会保障の充実という三兎を追う必要がある。「二兎を追う者、一兎も得ず。」ということを言っておられるような状況ではないのである。こういうことが現実として可能なのかという議論をしている間もなく、それをせねば国家が破綻するのである。

であれば当然、税負担は今のままでは済まないだろう。消費税引き上げ論は当然の国民議論となろうが、同時に消費税は考えられているほど公平な税制度ではないので(参照:『消費税率アップがもたらすもの』 『税制論議に置き忘れられているもの』)格差が今以上に広がらないように所得税の累進課税の高額所得者負担率にも手を入れる必要があると思う。高額所得者には今以上の負担をお願いして、社会の「財」の再分配政策は一層推し進める必要があり、それは早急な課題である。

ただ法人税について言えば、現代社会においては国内企業だけで経済成長を促すのは難しく、経済発展のためには国外からの投資や、国外企業の進出が不可欠要素であり、その促進を図るのであれば法人税率は逆に引き下げる必要がある。

そうなると巷では、国民に厳しく企業に優しい税制なのか!という疑問と不満の声が上がることは必然であり、この部分については丁寧な説明責任が政府や政治家には求められる。

そして何よりも国民が不満を持っている「税金の使われ方」は一層透明性を高めて、官僚機構の無駄遣いを徹底的に排除する「強い政治」が必要だ。天下りのための機関は大胆に撤廃すべきだ。

国民負担を求めるのだから国会議員の報酬や年金、議員数も手をつけないと信頼は得られない。政治家自身が血を流す覚悟がない限り、この国の未来を保障する新たな税負担など導入できるはずがない。

ここの覚悟を政治家が始めに持つことによって、国民の覚悟に繋がっていくのだろうと思う。

どちらにしても国民負担の増加は必然で、それは避けて通れないことだろう。しかしその前提は、国が国民の血税を無駄遣いしないということであり、そのことを明確にしていかねばならず、政治家も官僚も国民もスクラムを組むために、それぞれの利益に偏らない「正直さ」が求められていくのだろう。

ここの方向性を間違うと、最少不幸の社会は単なる「最少不幸の役人社会」にしか過ぎなくなってしまう。

「清貧を徳とすれ」などとは言わないが、我々の国を守るために、この国の未来を子や孫などの子孫に、よりよい形で手渡していくために、個人の問題をさておき、マクロな視点から何が必要かを考えることがより重要になってくるだろう。

来るべき参議院選挙では、そういう志を持った政治家であるかを見極めて投票行動につなげるのが、この国の未来のために必要である。

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群衆の中の孤独

孤独とは深い闇の中に一人残される不安と関連しており、人が生きる過程で自分一人では何一つできないことと関連している。

周囲に誰もいないわけではなくとも人は孤独を感じることがある。たくさんの人間に囲まれ、ざわめきうごめく人々の息吹を感じているときでさえ人は孤独である。雑踏の中で、群衆の中で、人は孤独に打ちひしがれている。

なぜならば自分のことを誰も認めてくれず、無視され、頼る人さえいないときに人は孤独であるからだ。

孤独とは心が繋がる人が誰ひとり存在しないことである。そしていつまでも孤独に耐え続けられる強い人間などいないはずだ。孤独を好む人もいることを否定しないが、多くの場合、それは限定された場面における孤独でしかない。

我々は社会福祉援助や介護サービスを通じて、様々な利用者と向かいあっている。その時我々は、それらの人々の孤独感を受け止める感性を持っているだろうか。決して孤独感を感じないように心の回線を繋げあっているだろうか。

介護施設で、居宅サービスの現場で、多くの人々に囲まれながら孤独を感じている人はいないだろうか。

自分を誰ひとり分かってくれない、自分のことを理解してくれない、という心の叫びを発している人はいないだろうか。

認知症の人々が歩き回っているのは、自分のことを理解してくれる誰かを探し続けているからではないのか。1日の大半をベッドの上だけで過ごす人々の視線が追っているのは、自分のことを気にかけ、自分のことを見つめてくれる誰かではないのか。

人を認めているか。人を求めているか。人を愛しているか。

社会福祉援助者に知識や技術は必要不可欠であるが、人の心を思う感性や、目に見えない人を愛おしく思う感情は、その前提条件としてなくてはならないものだと思う。

人を人として愛(いつく)しみ、故郷を愛し、自然を愛(め)で、命を大切にする心を持つことが何より大切である。

我々は誰かの不幸の上にのっかった自己の幸福を欲しない。人の流した涙の川で自らの体を清めることを欲しない。

全ての人が、人として遇され、心から愛される地域や国や世界であってほしいと望むものである。それは夢物語で現実としてはあり得ないというが、そうした現実を求めないのであれば人間の存在とは何と空しいものなのだろう。

誰かの哀しい叫びに耳をふさいで生きて行くことが大人になることだとしたら、人間の成長とは心を閉ざし、心を失っていくことなのだろうか。心を殺せ、殺せと言い聞かせなければ生きていけないとでもいうのだろうか。

群衆の中の孤独に手を差し伸べる人が一人でも増え、この世界に笑顔が満ちて行くことを我々は欲してこの業界に足を踏み入れた。理想はいつしか現実の荒波に揉まれ、掲げた旗は、いつしか色あせ、破れかけようとしているのかもしれないが、この部分の「青さ」を失ってしまわないようにしたい。

この国の新しいリーダーは「政治の役割は、国民や世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか『最少不幸の社会』を作ることだ。」と語っている。その通りだと思う。しかしその言葉をスローガンだけに終わらせないように、具体的政策の中にその実現性を取り込んでいくことが政治家には何より求められる。その時に「青さ」を失ってしまえば、それは単なる幻想社会に終わってしまうだろう。

すべての人々が、この国から、世界から見捨てられ「群衆の中の孤独」に陥らないように、全ての人々が自分以外の誰かを暖かく見つめる目が必要だ。一人でもそういう人が増えることによって、誰かの孤独や不幸に少しだけ光を当てられる。その光が少しずつ増え続けて行けば「ぬくもり」は社会の隅々に満ち溢れていくことだろう。小さなことから、それは始まる。

人の世の 旅人として生かされて 終の日までも夢に生きたし(読み人知らず)

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エイジズムを克服せよ

とあるネット掲示板をチラッと覗いてみた。めったに見ることがない場所であるが気になるスレッドがあった。

それは老人会(老人クラブのようなものか?)で介護保険の説明を依頼されたのだが、どのような内容にしたらよいかという相談で、それに対して「老人会なら難しい制度の説明をしても理解できないから、相談窓口の紹介とか、Q&Aや事例紹介が良いだろう」というような主旨のレスポンスがついていた。

老人会も随分馬鹿にされたものである。こういう「高齢者問題史観」がいまだに存在して、それも介護支援専門員と思われる人の偏見としても存在しているんだと唖然とした。

正直言って、分かっていないなあ、と思った。確かに老人クラブ内部での高齢化問題も深刻化している現状はあるが、それでも会員の属性は様々で「老人会侮るなかれ」と声を大にして言いたい!

老人クラブ等で制度の説明をしても、あまり反応がなかったり、評判が芳しくない結果に終わる最大の原因は「難しい話は理解できない」からではなく「話がおもしろくない」「説明が下手で分かりづらい」からである。つまり聞き手の能力ではなく、話し手の能力の問題であるのだ。この点を間違えてもらっては困る。

難しい内容でも、興味がある方向から話をすれば高齢者の集まりだって十分理解してくれる。地域の老人会に参加している人ならなおさら積極的な人が多くて、お元気で地域において活動されている人なんだから、政治的関心も強く、経済面の動向にも興味を持っているし、自身に関係する問題として語れば十分理解してくれる。むしろ今地域で老人クラブの活動に参加している人々は、数年単位あるいは十年単位で遡れば地域のリーダー的役割で活躍されていた方も多く、高学歴の人も多いのだ。けつの青いそこいらの介護支援専門員より知識も経験も豊富な先輩方だぞ。我々より難しい話だって分かっているのだ。あまり思いあがらない方が良い。

僕も老人クラブの方々に対して短い時間で介護保険制度の説明を行う機会はあるが、例えばその際、介護保険制度の創設にしても、それは介護保険料という強制・掛け捨て保険料を40歳以上のすべての国民から原則徴収するという「国民負担増」という意味があって、消費税の引き上げに対しては、常に国民の強い反対感情があって選挙対策上も難しい面があるが、介護保険の創設という形で、介護保険料という新たな国民負担を作り出したことを国民はほとんど認識しないまま受け入れたと説明している。そして過去の首相の支持率低下や退陣問題が、大型間接税問題とどのように関連していたかをエピソードとして取り上げ、政治と経済状況という観点から介護保険制度創設を説明して、その制度の中身についても、利用者負担がなぜ必要で、受益者負担がどのような形で取り入れられているかという面から話をしている。そうすると非常に反応がよい。

政治との関連では、過去に議論された大平内閣時の「売上税」とか、中曽根内閣時の「一般消費税」、そして現在の消費税導入後の税率引き上げ議論の際に細川内閣で取り上げられた「国民福祉税」とかいう言葉に反応する方も多いし、その中には現在の高齢者の方に馴染みのある歴代首相名が出てくるので反応は実によいのだ。しかもそういう話題になると、僕の知らない様々な知識さえ披露してくれて、こちらの方が勉強になる。

つまり制度というものは、本来難しい説明を伴うものであるが、それを理解できるかどうかは、聞き手の知的レベルの問題ではなく、話し手の説明の仕方の問題であり、老人会など高齢者の集まりであるから理解力が低いなんて言うのは、講師側の勝手な思い込みであり、自己の説明能力の問題でしかない。

介護関係者は得てして、高齢者の大部分は介護や何らかの支援が必要な人と捉えがちであるが、実際には高齢者の数が大幅に増えている現状においても、高齢者のマジョリティは「在宅元気高齢者」であり、その割合は85%といわれている。それらのマジョリティに属する高齢者までが弱者扱いされ「老人クラブの会員には難しい話の理解は無理だ」という偏見がはびこる現状こそエイジズムにほかならない。

老人クラブに所属する高齢者の方々の方が、よっぽど我々より知恵や知識が豊富な例は枚挙にいとまがない。

なにより介護支援専門員等の介護関係者こそ、こうした「高齢者問題史観パラダイム」に反省を加え、高齢化する時代の全体社会像を新たに抽出し、エイジズムを克服して、超高齢社会における柱になる元気で明るい高齢市民の姿を描き出すべきである。

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税制論議に置き忘れられているもの

消費税の引き上げ議論がタブーではなくなりつつある。

国民の意識の中にも、この国のごく近い将来を見据えた時に、消費税は引き上げざるを得ないだろうというある種のあきらめをともなった意識が芽生え始めている。それはやはり少子高齢化社会の進行で、実際に高齢者の社会に占める割合が増えているということを身近な地域社会の実感として感じ、このままの税制度であれば、近い将来に年金を含む社会保障費が足りなくなり、安心して高齢期を過ごせないのではないかという自らの将来に対する不安が現実味を帯びてきているからであろう。

しかし消費税引き上げという総論に賛成する人が増えているとしても、その税率をはじめとした各論部分では様々な意見があるだろう。例えばこのまま出生率が増加しなければ消費税率は最低でも20%にしなければならないという研究結果が公表されたりしているが、現時点で2割の消費税に賛成する人はいないだろう。

そうなると総論賛成、各論反対がうずまく状況で、税率が実際に引き上げられるとき、10%を基準に考えるとした場合を想定してみても、そのときには「いきなり倍では国民生活が持たない」という声が強まるだろう。そうなると7%なら良いのか?いや、それでは端数が出るから財布の中が1円玉であふれるので端数の出ない8%がよい、等という議論になりかねず、それでは財政議論ではなくなってしまう。ここが難しいところだ。

ところで以前にも論じたが、消費税というのは決して公平な税負担ではない。国民全部が等しい負担割合であるといっても、資産のある人も、収入のない子供も、同じ割合で負担するのだから、例えば1万円という金額に変わりがなくとも、その価値は個々の状況で異なるという部分への配慮がない税制度だからである。極端な例でいえば、金持ちは物を買えても、貧乏人は買うのを我慢しろ、ということにもなりかねず、税率負担が重くなればなるほど、この格差は拡大せざるを得ない。

経済格差がある実態は、富める人と貧する人が社会に混在するという意味で、資本主義社会であればそれは当り前であるが、しかし経済活動を通じて得た富は、もともと社会の「財」であり、近代国家における政府の責任は、この財をきちんと再分配して、貧する人々も社会通念上の最低限度の文化的生活を営む権利を有するものとして、その生活水準を守る施策をとる責任を持つものである。現にわが国の憲法はその権利を保障している。そういう意味で消費税という間接税に財源を求める手当だけではなく、直接税の累進課税制度はきちんと社会の「財」の再分配として機能しているのかという検証と見直しが不可欠である。

介護保険制度に絞って、消費税引き上げ論との関係を考えるならば、現行の保険制度の財源構造のままでは消費税を引き上げてもほとんど意味はなく、給付費の増加に対しては介護保険料負担額を上げる以外に財源を補う方法はない。なぜならその給付費財源は公費と保険料が1:1なのだから、給付費が増え、公費手当が増えても、それは同時に社会保険料を財源とする支出も同じ比率で増えざるを得ないからだ。

しかし地域によって、この保険料負担はそろそろ限界に達している。そうなれば当然のことながら、消費税率引き上げと同列に、介護保険における現行50%の公費負担率の見直しがされなければならない。当然その際には、公費負担率だけではなく、現行のサービス利用に際しての利用者1割負担という「自己負担率」も同時に議論されていくことになるだろう。

税制改正、消費税引き上げの大前提は、国費の使われ方の検証、無駄な公費支出をなくす、ということであるが、歴史から我々が学んできたことは、公明正大を目指しても、決して100%の完全なる無駄のない財政運営ということは実現したことがなく、無駄な国費の支出も無くなったことがないということであり、官僚の全てが清廉潔白で完全な人格を持つわけではないということである。そうであればどこかで最大公約数を見つけながら新しい社会システムへの変換を進める必要があるもので、公費支出問題が完全にクリアされないから税負担議論が進められないということではないという理解は必要だろう。

こうした財源論から国民負担の増加問題が生ずると、社会保障費は国家のお荷物のように考える人もいるようだが、しかし例えば国民皆保険という制度は、我が国の国民の健康保障に果たした役割は大きく、それは結果的に医療機関に受診できない人を作らなかったことに繋がっており、そのことが健康な労働力をたくさん生みだし、同時に大量の消費活動を生みだしてきたという意味もある。高度経済成長を支えたものが国民皆保険制度であったという側面もあるのだ。

そうなると老後の福祉・介護不安を生まない社会システムも同様に効果を生む可能性があり、例えば老後の不安がない社会では、現役世代に老後に備えた過度の貯蓄意欲は必要なくなり、経済活動に回るお金が増え経済は活性化するが、社会保障が貧弱で老後の不安がぬぐえなければまったく逆の現象によって経済活動も停滞するだろう。

もっと積極的な意味を福祉・介護サービスに求めるとすれば、今後30年以上は安定して顧客確保が見込まれる領域である介護サービスは、一面大量雇用の場であるのだから、そこに公費負担を増やしても、それは今後ますます必要となる介護サービス従事者によって経済活動を活性化させる重要な要素になり得るという側面がある。介護従事者を労働力供給源及び大消費層とみる施策も経済政策として有効だという意味である。

斜陽産業から、必要とされる介護の職種に人が集まる基盤を公費によって整備することにより、雇用・経済・介護問題が一体的に手当てされるという側面にもっと注目してもよいのではないだろうか。

こうした部分での「財」の再分配政策はあってよいと思うのであるが、実際の政治家からそうした声は挙がって来ない。どうしたもんだろう。

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不必要な補助金にもメスを。

栃木県介護支援専門員協会の研修に参加した方からメールをいただき、次のような情報提供があった。

講師・日本介護支援専門員協会・木村会長。冒頭からいきなり協会加入への勧誘。同会長曰く
「日本介護支援専門員協会は協会に賛同する会員のみしか守りません。保護を受けたければ会費払って会員になりなさい!」(4,500円払って帰りなさい)との事。
その後は4時間延々と協会がケアマネの加算について尽力してきたこと、政界に太いパイプがあることを話し続けた。

要旨は以上である。

情報を送ってくださった方は、この会長発言に憤っておられた一人である。つまり職能団体の実態は、そのトップの実態は「こんなにひどい状態」なんだという憤りであろうと想像する。

職能団体だから、専門職としての待遇や利益を保持・改善するための組織活動をすることは当然だが、同時に職能団体とは専門的資格を持つ専門職従事者が、自己の専門性の維持・向上を図り社会貢献する、という目的が当然ベースにあらねばならないはずだ。特に介護支援専門員は社会福祉援助者として、社会的弱者にも手を差し伸べて、この国の社会福祉水準を向上させるという目的があるのだから、後者の視点こそ大切である。

しかしながら同会長の発言は、自らの利益しか念頭になく、社会福祉援助者として国全体の福祉水準の向上の視点を全く持たず、会員にならない介護支援専門員は「むしけら」のごとく見下ろす視点でしかないように聞こえ不愉快と感じる人が多いのではないか?同会にとっては「会員にあらざれば、人にあらず」という考えなのだろうか?少なくとも同会長の脅し発言はそうとられても仕方がない。

政界との太いパイプを誇っているようだが、確かに彼の人脈は豊富なんだろう。しかし現政権とのパイプも同じように太いのかはいささか疑問である。民主党議員の一部は、同協会に渡っている補助金について首を傾げている人もいるし、過去の補助金交付過程を調査していた議員もいるということだけは事実である。
(参照:国から日本介護支援専門員協会に渡される7.700万円

某県協会幹部の中には「日本に入らないと県にも加入させない。そうなれば県協会での活動もできない」と公言してはばからない人も存在する。日本協会から都道府県協会への圧力や、県協会からの有資格者個人への強引な勧誘・圧力。どうもこの団体のやり方は、強圧的で民主的ではない。しかも執行部独裁だから、執行部の意に沿わない会員の意思は無視され顧みられることはないが、それでもその団体トップは会員の為に寝食を忘れて働いていると喧伝する。

あくの強い政治家としては、あり得る態度なんだろうが、介護支援専門員の組織のトップとしてはいささか品性に欠けるのではないか。なるほど品性より実利か?しかしそれは本当に少ない給与から会費を払っている会員の「民意」を反映したものなんだろうか。個人の実利を追うものではないのだろうか。会費を払っている皆さんは、ここのところをもっと真剣に考えたほうが良い。

貼り付けた過去の記事において、この団体は、既に国の「ひも付き団体」で、国の意思に反したところでのソーシャルアクションは不可能なことを指摘している。そういう組織に国民としては何を期待しろというのだろうか?

ところで国がひもをつける手段としての補助金は、今後も、この団体に今まで通り、手渡されていくのだろうか。

厚生労働省の補助金に関連しては「全精社協事件」もあった。(参照:全精社協事件の本質は何だ)こういう補助金が各省の裁量権が強く及ぶ「特別会計」から支出されていることは大いに問題である。

現政権は特別会計に踏み込むと言っているし、事業仕分けも継続するんだから、ここの不透明な補助金支出に大ナタを振りおろすべきだろうと思う。国民の利益に結びつかない、やっても・やらなくとも大差なく、社会的に意味がない研究に、補助金という名目の国費をつぎ込むより、国民が求めているところにお金を回した方が良い。

日本介護支援専門員協会の補助事業における研究だって、そんなものなくても誰も困らない程度のもので、それは単に補助金という名目で、会の運営資金を得る手立てにしかなっていない。そこまでして協会を残さねばならない意味があるのだろうか。

少なくとも事実として言えることは、この団体は決して現場の介護支援専門員の大多数を代表してはいないし、大多数からの支持を受けてもいないということである。現場の声を代表していない典型例は、この団体が意味のない介護サービス情報の公開制度にも賛同しているし、その制度を廃止せよとの声も無視し続け、継続に手を貸している。また介護支援専門員の資格更新制度にも積極的だ。教員などの他資格は、更新制度が質を担保しないとして廃止の方向にあるのに、まったく時代遅れの考えだ。福祉系サービスだけにターゲットを絞っている「特定事業所集中減算」というおかしなルールにも賛同し手を貸している。ここのところを勘違いしてはならない。騙されてはならないのである。

この厳しい財政事情と経済事情の中で、そんな団体を存続させるために「特別会計」から査定を受けない国費が回されるのは大問題である。ここにしっかりメスを入れる必要がある。

それは結果的に国民すべてが望んでいることだろうと思う。

どちらにしても、ある程度の見識をお持ちの介護支援専門員なら、こうした団体には加入してはいけないと思う。会費が納めることができるというだけで、安易に入会することで日本の福祉はどんどん悪くなってしまう。

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民の声にも間違ったものはある。

介護サービス情報の公表制度がいかにサービスの質を担保しないか、あるいは国民にとって全く意味のない情報の垂れ流しでしかないことは、このブログ記事でも再三取り上げて警鐘を鳴らしている。(参照:公表制度についてのブログ記事

あの情報は、単に指定された書式上の「記録があるか、ないか」しか確認していないので、その内容に沿った実際のサービスが適切に行われているかさえ調査員は確認しないのである。だから公表センターの公開情報だけで事業者を選択することほどリスクを伴うものはない。そうした実態を表さない情報を「公の機関」として公表センターが開示していること自体が「社会悪」とさえ言えるのではないだろうか。

毎年定期的に全介護サービス事業(現在、随時拡大中で今年度までは対象になっていないサービスもある)を対象に行う調査によって支払われる調査・公表費は膨大な額に上っている。

例えば我が事業所についていえば、介護老人福祉施設としての施設サービスと併設短期入所生活介護事業・居宅介護支援事業所・通所介護を行っているので調査対象指定事業数(特養と併設ショート及び予防と介護は一体とする)は、施設サービスが1・居宅サービスが2ということになり、調査事務手数料は29.200円+21.200円×2=71.600円ということになる。今年から調査員は1名体制になって、1日(と言っても3〜4時間程度である)で全事業のチェックを行うだけで、これだけの費用を支払わねばならない。さらにこれに上乗せして公表事務費がそれぞれ9.700円も上乗せされ、全体で100.700円の負担になっている。これでも以前より安くなっているのである。しかしこの程度の調査・公表の手間でこの金額は「良い商売」だ。

つまりあの公開情報は、一人の調査員で3つのサービス事業(併設ショートを含めると実際に4事業)をわずか3〜4時間で調査した結果でしかなく、情報としての価値がどの程度のものか素人でも想像がつくだろう。しかもそれにより事業者は毎年10万円以上の負担を強いられているわけである。これが永遠と毎年続き調査公表機関にとって「顧客」がなくなることはない・・・。さらに調査のたびに、介護サービス事業者は忙しい職員を調査員の「子守り」に貼り付けねばならず、書類の準備や後片付けを含めて、これも無駄な業務負担である。負担費用も事業者にとっては無駄金・死に金でしかないとしか考えられない。

例えば当登別市の居宅介護支援事業所・通所介護事業所・訪問介護事業所という3つのサービス事業に限定して考えても、事業所数は27事業所あるので(実際にはもう少し増えているのかもしれない)、これらの事業所だけから調査・公表機関が毎年、定期的に得られる収入を考えみると、その金額は834.300円にもなる。これにその他の施設サービス等を加えて、全サービス・全道規模で考えれば、どれだけ多くの費用が支払われているかがわかるだろう。しかもこれは増えることはあっても(事業者数が減っていないので)決して減ることはなく、かつ毎年支払われる安定収入なのである。

だからこの制度の意味は、事業者から調査費用と公表費用という名目で金を定期的に、かつ確実に分捕り、それによって利益を受ける一部の人々の懐を肥やすためだけに存続していると言ってもよいだろう。しかし突き詰めれば、それは介護給付費から支払われているんだから、国民の税金と保険料から支払われているのである。つまり何の意味もない調査と、その情報公表という名目のものに、国民が汗水たらして納めた公費が無駄に使われているという意味にもなる。

この公表センターの役割を、都道府県の社会福祉協議会が担っている地域があるのも問題である。こんな意味のない情報を流す主体に社協という組織がなっていることが国民の目を狂わす元凶でもある。僕は心の中で「社協マンとしての誇りも見識のかけらもないのか」とつぶやきたくなることがある。それほどの意味のいない調査情報なのである。

しかしその実態を知ることがない一般国民・一般市民は、「情報公開」と冠がつくことは悪いことではなく、ないよりはあったほうが良いだろうとしか認識していない。税金や保険料という公費がいかに無駄に使われているかということを認識していない。

だから事業者が、こんなもの続ける価値がないと声高に叫んでも「多くの国民は、それは必要なことだと支持している」として制度反対・廃止を求める声は、単に「事業者エゴ」として処理され、顧みられることはない。

僕は、情報開示自体を否定しているわけではなく、それは必要なんだから、むしろもっと有益な情報として、実地指導の結果や書面審査である「指導調書」の内容を公開するシステムにすればよいと提言している。これなら既に行われていることで別に費用や業務負担が生ずることはないのだ。それによって国民にとって何の意味もない公表制度の調査や公表情報に金や時間を使う無駄も省け、さらには余計なエネルギーを省くことで、現場の介護サービスにそれを回してサービスの質が向上することだって可能になるかもしれない。

かつて昭和の黄門さまと言われた福田赳夫総理大臣は、党の総裁選で大平正芳氏に敗れた際に「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな」と言ったことがある。国民の声にも「変な声」はあるのだ。しかも悪いことに、それは決して悪意のない声であり、時として「悪意はないが間違った声」が世論の多数を占める結果になることがある。

介護サービス情報の公表制度に関する、一般国民・一般市民の声も同様である。

問題意識を持って、なんとか介護サービスの質を向上させようとしている多くの関係者が、そのことにこの制度が百害あって一利なしと考えて声を挙げているにも関わらず、この制度の見直し議論が進まないのは、善意の国民がこうした自らの「変な声」に気がついていないからである。

本質を見つめることなく「介護サービス情報公表制度は必要な情報公開」と間違ってしまっている国民の声が世論の一部を形成してしまっている状況が利権に群がる一部の人々の懐を肥やし続けているのだ。

このことに国民自らが気付かない限り、国家予算は常に誰かの食い物にされ、制度の光を当てる必要がある人々の闇は永遠に晴れることがなく、陽のあたる場所は利権を得ている者たちによって占有され続けていくだろう。

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介護保険制度へと続く道


我が国の高齢者福祉対策は1963年に制定された「老人福祉法」に基づいて行われ、老人保健医療対策も同じく「老人福祉法」に基づいて行われてきた。その中で1973年から高齢者の医療費を公費負担する「老人医療費支給制度」が発足し、70歳以上の一定所得以下の高齢者医療費の無料化が実現した。これにより高齢者の受診率が大幅にアップした。

しかしこの時期オイルショックにより実質経済成長率が戦後初のマイナスとなり、健康保険料収入は大幅に落ち込んだ。これにより高齢者の加入率が高い国民健康保険財政は急激に悪化した。

このような情勢下で、旧厚生省は1976年から省内に「老人保健医療対策室」を設置し、高齢者医療の患者負担を復活させようとしたが、当時の三木内閣、福田内閣では世論の反発を恐れ選挙対策としの戦略上の見地から高齢者医療費の有償化は見送られ続けた。

1980年、行政管理庁が高齢者の過剰な多受診傾向を監査結果として示し「老人医療費支給制度」の早期見直し勧告を出すことにより潮目が変わった。そして1983年、老人保健法が施行されることにより我が国の老人保健医療対策は、老人福祉法から離れ同法に移行し「老人医療費支給制度」も廃止された。

1986年には国保財政の一段の悪化を背景に、老人保健法改正議論が大きく取り上げられ、高齢者対策企画推進報告として
1.自立自助と支援システムの構築
2.社会の活力の維持
3.地域における施策の体系化と家族への支援システム強化
4.公平と公正の確保
5.民間活力の導入

以上の5つの基本原則が示された。これをみると、このころから介護保険制度に繋がる基本原則の考え方が萌芽しているといえる。そしてそれは1988年の「高齢社会の福祉ビジョン」の国会提出へと繋がり、2000年度末までホームヘルパーを50.000人、ショートステイを50.000床、デイサービスセンターを10.000箇所、特養と老健を500.000床増やすという在宅サービスと施設サービスの緊急整備目標が示される流れに繋がっている。(1989年高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略:ゴールドプラン)

1993年厚生省内に「高齢者介護問題に関する省内検討プロジェクトチーム」が設置され1994年には「21世紀福祉ビジョン」を示し、新ゴールドプラン策定と新介護システムの構築が提言された。この背景には厚生官僚の中に「租税・社会保障負担率」(対国民所得比)は当時35%位であったが、このまま何の対策もとらねば、これが50%を超えることは時間の問題で、そうなればヨーロッパ先進国のように先進諸国病に取りつかれ社会の活力を失うという危機感があった。つまりサービスは増やすが、その利用については「自己責任」原則を導入し、国民に新たな負担を求めざるを得ない、という考え方が根底にあったものである。

そしてこの「新介護システムの構築」提言がきっかけで、1995年2月老人保健福祉審議会において「新介護システムの審議」が開始され、同年7月「介護保険制度の創設」が勧告された。(政治的背景をみると、自・社・さ連立政権における社会党の村山富市が首相であった。)

この最終報告が1996年(この年1月11日、村山首相退陣、自民党総裁の橋本龍太郎氏が首相就任)に出され、介護保険制度案大綱が6月17日に諮問・答申された。それにより
1.関係者の意見に基づき介護保険制度要綱案を基本とする
2.懸案事項について解決を図り必要な法案作成作業を行う
3.次期国会に法案を提出する

という与党合意事項が示され、同年6月25日に「与党介護保険制度の創設に関するワーキングチーム」が設置された。その後、臨時国会への「介護保険関連3法」法案提出、2回の継続審議を経て・1997年末に審議・可決成立へと繋がっていったわけである。

法案成立に至る過程では、与党内でも足並みがそろわず、故・梶山静六議員をはじめとした自民党の有力代議士が制度創設に異論を唱えるなど、水・木の記事に書いたような様々な紆余曲折があった。しかし介護保険制度の創設議論の当時の政権は「自・社・さ連立与党」であったことが法案成立には大きく影響した。

どちらかと言えば農村部を選挙基盤にしている代議士が多かった自民党が、国民の新たな負担が伴う介護保険制度には消極的で、介護負担に対しては現金給付によって支持を広げようとしたことに対し、公的介護保険制度の創設議論が盛んになった当時の連立政権が社会党の村山内閣であったことにより、同党の支持基盤が自治労を中心にしたサラリーマン層であり、共働き世帯の支援策として「介護の社会化」が支持されたことと、その後、橋本内閣に変わって法案が国会提出された際の国会審議の過程においては、連立政権の枠組みが変わり野党として誕生した民主党の支持基盤もサラリーマン層であり、さらに同党の有力代議士である菅直人衆議院議員が、与党時代には、第1次橋本内閣の厚生大臣として同法立法化に積極的であったことなどから、この法案成立に協力しやすかった、という背景があることは先日の記事にも書いたとおりである。

さらにいえば、財政事情は何らかの形で新たな国民負担を求めざるを得ず、既に3%〜5%に引き上げが決まっていた消費税の税率再アップは国民感情を逆なし、政権への支持を失いかねず、別な形でのソフトランディングの方法を模索する中で「社会保険方式」「一定年齢以上の強制加入方式」という形の「静かな国民負担」が考えられた結果である。

どちらにしても自民党の一党支配時代には旧態勢力として厚生省に深く根をおろしてきた「厚生族議員」の力が、政界再編と連立政権下で衰えて行った過程で、政権与党〜野党に横断的に戦略的なメリットがあった新制度創設議論と相まった。これによって厚生官僚の模索する新たな介護システムとしての制度が日の目を見る間隙が生まれていたということが大きいであろう。

自民単独政権下で族議員が跳梁跋扈していた状況であれば、この制度は議論段階でつぶされていたであろう。

なお旧大蔵省(現財務省)は、介護保険制度について税方式を主張していた。これに対して厚生省は「介護報酬による収入の6〜8割は人件費として支出されるのだから、経済状況によって歳入が大きく左右される税によらず、安定した財源として保険料方式が望ましい」と対峙した。

この背景には税方式とすれば一般会計となり、大蔵省が財源を持つことに変わりはなく、大蔵省主導により財政状況で常に介護保険財源が削減対象になり、厚生省の所管が及びがたくなるのに対して、保険料方式の場合は、大蔵省の厳しい査定を受ける一般会計ではなく、特別会計に計上されるので、その場合、厚生省として独自財源となり省の裁量権を大きく確保することになることが主たる理由であったろうことは想像に難くない。そして決して力の強くない厚生省の主張が、巨大権力を持つ大蔵省の主張を押しのけて通った理由は、税という形の負担を増やせない政治事情があったということで、そのことは前述したとおりである。

つまり結果として言えば、厚生省は介護保険特別会計という独自の財源をこれにより確保することになるわけである。

記事の本旨とはいささか外れるが、こうした各省の独自財源となっている特別会計に、政治力でどこまで切り込めるかが、グローバルな視点からの政府の財源運営には必要であり、現政権が来年度以降に特別会計へ切り込むことができるのか、その対応と結果が注目されるだろう。

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介護保険・夜明けの雷鳴2


(昨日からの続き)
6月23日、読売新聞の世論調査で83%の国民が介護保険制度の導入に賛成と高い支持が集められた。しかしこの時期、国民には介護保険制度が強制加入の掛け捨て保険であり、40歳以上の国民から「介護保険料」を税金とは別に強制徴収するなどの情報は十分に伝えられておらず、調査に回答した国民は、単に新たな介護サービスの制度が創設される、という片肺情報により、新制度の内容をよく理解しないまま賛成した傾向が強い。
※なお蛇足であるが、この時期、ヘルパー講習などの場でmasaは「税金とは別に強制的に保険料という形での国民負担があることを分かっているんですか?それらを含めて、新制度のすべてがYESなんですか?」と疑念を呈していた。

7月3日、介護保険制度の推進の旗振り役として厚生労働省保健局長の岡光序冶が事務次官に就任。厚生省内には「岡光ならやるだろう。手腕を発揮して介護保険制度はものになる」という空気が生まれた。まさに颯爽とエース登場という雰囲気であった。

7月13日、与党公的介護保険制度創設ワーキングチームの第1回地方公聴会。橋本首相は、社民党に沖縄米軍基地問題でも譲歩協力を得ようと、介護保険法案の秋の臨時国会への法案提出に前向きの姿勢を示したが、与党内には自民党を中心にした根強い反対勢力があり、その溝は大きかった。

8月9日、全国町村会は、都道府県単位での65歳以上保険料の統一化、保険料未納分の国費補てん、家族介護への現金給付を骨子とした「公的介護保険制度に関する要望」を発表。この時期以前から町村会は制度反対の方向を条件闘争へと転換している。さらに経団連も事業主負担の在り方に異議を示しながらも、制度創設自体には反対しないという姿勢を示していた。

9月6日、将来の老後に不安を持った50代の人々が中心となって「介護の社会化を進める1万人委員会」発足。世論は介護保険制度創設に向かい、全国市長会や全国町村会でも制度反対より、財源手当てを見据えた議論に向かいつつあった。

9月16日、与党ワーキングチーム(座長・山崎拓自民党政調会長)は、在宅と施設のサービスを同時実施する座長試案をまとめた。

9月18日、在宅と施設の段階実施案であった厚生労働省は、岡光次官が橋本首相に「与党案の同時実施案に沿って政府案を出したい」と報告。翌19日、政府与党首脳連絡会議で介護保険法案の国会早期提出で合意された。
法案提出に反対論が強かった自民党も、小選挙区制の導入を控え、市町村長の影響力が強まることを無視できず、さらに選挙後の連立体制を考えれば、制度導入に積極的だった社民・さきがけ・民主党との深刻な対立は避けたく、介護問題への積極姿勢を示さざるを得なかった。

11月5日、介護保険法案全容が明らかになる。ここでは市町村負担に配慮して市町村関連事務費の1/2を国負担とし、都道府県の関与を拡大し、実施時期を2000年4月から在宅・施設のサービスの同時開始と当初案より先延ばしし、保険料も同年4月から徴収とした。

選挙を控え、自民党内では「法案をつぶしたら選挙で批判される」派と、「負担の話になれば票にならない」とする派の対立で混乱し、一方、社民・さきがけ両党も、民主党旗揚げに伴う離党問題を抱え「介護の議論どころではない」という空気が生まれ、この間隙をついて厚生省官僚主導の法案創りが進んだ。

11月7日、内閣改造、第2次橋本内閣発足。厚生大臣は菅から自民党の小泉純一郎へと引き継がれる。
(菅は後に民主党共同代表として野に下る。)

11月16日、岡光次官の関与した「彩福祉会汚職事件」が明るみになり、同次官は小泉純一郎厚相に辞表提出。この事件は彩福祉会が運営する特別養護老人ホームの建設補助金をめぐって、不正な水まし請求が行われ、建設補助金が不正受給されたもので、当時許認可権を持つ老人保健福祉部長という立場にいた岡光が深く関与し、金品を受け取っていたとされ、11月18日、警視庁と埼玉県警は厚生省課長補佐の茶谷滋と社会福祉法人「彩福祉」グループ代表の小山博史を贈収賄の容疑で逮捕し、12月4日、小山代表から6.000万円を受け取っていた疑惑で岡光序治も収賄容疑で逮捕した。後に岡光は懲役2年の実刑判決を受け服役している。この時期、小泉厚生大臣も、岡光次官の辞表を受け取り退職金が支払われる形での退任を認めたことで世論の批判を受けた。
エースの大暴投で法案の行方にまたもや暗雲がたちこめた。

※もしこの事件がなかったら岡光は介護保険を作った人として、我が国の歴史に名を残したかもしれないが、逆にこの事件によって厚生省の「たかりの象徴」として逮捕実刑判決を受けた事務次官経験者として歴史に汚名を残すことになった。

※脱線を続けるが、非常に悲しいことではあるが事件当時、中学生という多感な時期にあった小山の長女が、この時期から精神不安定となり、2004年の9月に自殺してしまった。事件は様々な人を巻き込んで、その後の人生を狂わせている。合掌。

11月21日、自民党総務会で法案了承。

またまた脱線するが、この時期、介護保険法案の原文を読んだ小泉厚相は、その中にたくさんのカタカナが記載されていることを発見し、「日本の法文は日本語で書け」と事務当局に指示を出した。これによりグループホームは「痴呆対応型共同生活介護」に、ホームヘルプは「訪問介護」に、ショートステイは「短期入所」に変えられるなどの作業が行われたが、さすがに「通所リハビリテーション」「訪問リハビリテーション」まで「通所機能訓練」「訪問機能訓練」に変えろという指示は出なかった。このことから考えるに、僕個人の意見としては、グループホームはグループホームのままでよかったのではないかと思っている。

11月29日、国会に法案提出。しかし野党・新進党の西岡幹事長は、厚生省汚職(彩福祉会事件)に触れ「厚生関係議員のトップ」としての首相の責任を追及するとともに、厚生省に対しても介護保険制度の旗振り役の事件を引き合いに出し「法案提出自体が不見識」「汚職事件の中心人物が法案作成にかかわったのであり、撤回すべし」と審議入りそのものを拒否し、通常国会に新たな法案を提出するように求めた。

12月13日、橋本首相は衆議院本会議において「介護保険法案は内閣の最重要課題の一つ。厚生省の不祥事を理由にして法案成立を先送りすべきでない。」として「介護保険関連3法案」は衆議院厚生委員会に付託され、17日に同会で提案理由を説明したが、時間切れで19日臨時国会は閉会し、同法案は継続審議となった。

翌1997年1月20日、通常国会開会。26日、介護保険3法案審議再開。

5月9日、自民党・村岡国会対策委員長と民主党・赤松国会対策委員長会談。翌週、介護保険法案を衆議院本会議で採決することに合意した。与野党合意ができたことで法案成立は間違いなしと思われた。

5月22日、介護保険法案は衆議院厚生員会で、自民・民主・社民の3党と無所属議員で構成する「21世紀」の賛成多数で可決。午後に衆議院本会議可決。参議院送致。反対は新進党と共産党であった。しかし参議院厚生委員会では医療保険制度改革関連法案の修正問題で審議が遅れ、介護保険法の審議に時間が取れなくなった。

6月18日、会期切れ。介護保険法案は臨時国会まで再度継続審議となる。

7月、厚生省内に「介護保険制度準備室」が発足。この時期は、通常国会で介護保険法案は継続審議となったものの、論議が尽くされた感があり、野党民主党の合意を得ていることもあって、秋の臨時国会で可決成立することは間違いないという空気ができていた。

10月21日、介護保険法案参考人質疑(参議院厚生委員会)で、看護師・医療ソーシャルワーカー・自治体首長などが意見を述べた。

12月2日、同委員会で政府責任を明確にする修正を加えたうえで自民・社民・民主・太陽党の賛成多数で法案可決。反対は、全額税制方式を主張した平成会(新進党と公明党の参議院院内合同会派)と、現行老人福祉制度と保険方式の組み合わせを訴えた共産党。

12月23日、衆議院で2ヶ所の法案修正と16の付帯決議が行われ、参議院で1ヶ所の法案修正と19の付帯決議が行われ採決・成立した。新進党は欠席し採決に加わっていない。

このように1996年の通常国会では法案提出が見送られ、その秋の臨時国会で法案提出された後、2度の継続審議を経て、1997年秋の臨時国会終盤の同年暮れに介護保険法案は国会を通過し2000年4月からの同法施行が決まったのである。

では、公的介護保険制度の創設に至る機運がどのように生まれてきたのか、日本の福祉政策、医療保険政策の変換史から、そのことを考えてみたい。(介護保険に続く道、に続く)

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護保険・夜明けの雷鳴1


公的介護保険制度法案の国会提出機運が盛り上がり、その動きが具体化してきた1996年初頭の通常国会召集前から時系列で、介護保険制度法案成立に至るまでの経緯について、関連する政治的な動きを中心に振り返ってみたい。本日と明日の2日続きで、このことをまとめて、建国記念の日で記事更新を1日休んだ後に、今週金曜日の記事で、時系列の動き以前の政策動向を含めて介護保険制度誕生に至る我が国の高齢者福祉関連制度の流れをまとめてみたい。

1996年1月5日、公的介護保険制度創設を支持してきた社会党の村山富市首相が突然の退陣表明。村山は94年6月25日に羽田内閣総辞職を受けて、自由民主党総裁・河野洋平が日本社会党委員長首班の連立政権を打診し、新党さきがけを含めた自社さ共同政権構想に合意し首班指名されていた。
「自・社・さ連立政権」では最大議員数を自民党が握っているものの、社会党の村山内閣ということで、同党が都市部のサラリーマン層を中心に支持されていた経緯があり、1993年頃から構想され厚生省官僚が法案提出を勧めてきた「公的介護保険制度創設」は共働き世帯を支援する同党の政権構想とマッチし、これを指示していた。一方連立政権内部では、新党さきがけも法案支持の立場であったが、農村部の第1次産業を支持基盤とする議員が多い自民党が、家族介護にこだわる傾向が強く、公的介護保険制度より、介護する家族などに現金給付を行う政策を支持する議員の力も強く、介護保険制度創設には反対論も多かった。これに介護保険制度を創設すれば将来の財政支援が必ず必要になり財政悪化の要因になるとして大蔵省や自治省が同調し、自民の反対勢力を支持してきた経緯がある。

1月5日、村山首相退陣表明を受け、同日、自・社・さ政権協議にて、自民党総裁・橋本龍太郎を首班とする連立で合意。自民党内には公的介護保険制度創設反対論も根強く、その動向が注目された。

1月8日、自・社・さ連立政権で村山首相退陣後のあとを受ける橋本龍太郎自民党総裁は年頭の記者会見で「高齢化社会対策として介護保険制度創設の必要性」を訴え、通常国会への公的介護保険制度関連法案提出への意欲を示した。

1月11日、村山内閣総辞職。第1次橋本連立内閣発足。注目の厚生大臣は、介護保険制度導入に前向きな新党さきがけの菅直人が指名される。(菅は同年9月、さきがけの鳩山由紀夫が民主党を設立すると鳩山と共同代表として同党に参加し、後に政権離脱した。)
※なお社会党はこの月、党名を「社民党」に変更した。

1月24日、厚生省は通常国会に法案提出を予定している「公的介護保険」について保険の運営主体として市町村案を検討していることを表明。なお最初の法案では制度の実施時期は1997年〜とされていた。

2月8日、老人保健福祉審議会第2次中間報告。

2月15日、同審議会では保険の主体をどこにするかについて、実施主体とされた市町村が財政的裏付けがないと猛反発。大揉めに揉め、決着を先送りし3月中の法案提出が困難となった。この間、与党内部には自民党を中心に「国民の新たな負担を強いる保険の導入は総選挙に不利」として法案提出見送りの慎重論も生まれた。

3月14日、自民党・丹羽雄哉元厚生大臣は「ヘルパーなど在宅サービスだけを対象とする介護保険を前提的に導入する」という私案を与党のプロジェクトチームに示した。

4月22日、老人保健福祉審議会は 菅直人厚生大臣(菅氏は1996年1月、村山内閣総辞職後成立した第1次橋本内閣で厚生大臣として入閣した後、1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が民主党を旗揚げすると、これに参加。後に野に下り介護保険制度の議論では菅氏は与党の担当大臣〜野党の有力議員として関わる結果になった。)に最終報告書を示した。この中では1997年実施を目指した「介護保険制度」について準備期間を置くように求めたほか、家族介護に現金給付をすることの是非について賛成と反対の両論を併記した。

4月23日、丹羽私案。制度は1998年からとし、在宅サービスを先行させる保険制度の段階導入方式を求めた。

4月26日、社民党により「1998年度からの在宅、施設の介護サービスを供給するとし、2002年を目途に供給対象を20歳以上とする」とした意見が出される。

5月16日、厚生省は老人保健福祉審議会に「サービスの受給対象、保険料負担対象年齢は40歳以上とする」私案を示した。制度開始時期は在宅が1999年、施設が2001年からという段階実施案であった。しかし同日、自民党・梶山静六官房長官が、法案提出に積極的な菅直人厚生大臣に、住専への財政資金投入問題を抱える状況で、1997年の消費税引き上げ(3%〜5%へ)と介護保険を導入することによる国民負担が増加すれば「国民の逆鱗」にふれ選挙が戦えないとして慎重対応を求め、自民党の加藤紘一幹事長も梶山発言に理解を示した。橋本首相もこのことについて「異論があることは事実」として内閣と与党の不統一を認めた。同日、丹羽元厚相が首相官邸を訪ね、介護保険制度の必要性を訴えたが、首相は「市町村の理解を得なければならない問題だ」と協力の明言を避けた。

5月17日、新党さきがけの鳩山由紀夫代表幹事は自民党内の慎重論について「薬害エイズ問題で国民の注目と支持を集めた菅厚生大臣への反発である。」と認識を示し不快感を表した。この間、大蔵省は「介護保険は将来の公費負担の増加に結び付く」として自治省とともに異論を唱えた。

5月22日、橋本首相と菅厚相の会談。首相が厚相に「今国会の法案提出は難しい」と見通しを伝え理解を求めたという報道がされるが、菅厚相は「難しいが互いに努力しようと、ということ」と解説した。同日、厚生省は全国市長会と町村会に市町村の財政負担を軽くする「介護保険運営安定方策」を示し、市町村が保険者を受けるように強く要請した。しかし両会とも財政的裏付けが乏しいと、これを拒否。

5月24日、「高齢社会をよくする女性の会」の樋口恵子代表が、千代田区の主婦会館で「介護の社会化を1歩も緩めるな」とアピール。しかし同会の中でも本国会への法案提出に対する反対論も出て、機運としては法案の国会提出が難しくなるという状況であった。

6月6日、介護保険制度の骨格となる「新制度案大綱」を老人保健福祉審議会と社会保障審議会に諮問。

6月10日、医療審議会が、介護保険関連法案として諮問していた医療法改正要領を諮問通り答申。療養型病床群が19ベッド以下の診療所にも設置可能とした。この間連立与党プロジェクトチームの強い要請で厚生省私案が方向転換し
1.保険料負担・受給は共に40歳から
2. 制度は在宅、施設の同時実施。
という修正方針を示した。これに対し「負担は20歳、受給は65歳から、在宅、施設の段階実施」という案でまとまっていた老人保健福祉審議会は「一夜で内容が変わるなんて無節操」と猛反発した。

6月12日、自民党社会部会では結論が出ず「継続審議」。しかし社民党・新党さきがけ両党は法案の今国会提唱を了承した。これを受け厚生省は「介護保険法及び介護保険法施行法案要旨」を与党福祉プロジェクトチームに示した。このころ既に新党さきがけの鳩山由紀夫は、さらなる新党構想を掲げ、菅厚生大臣もこれに参加する意思を示しており、閣内にいては政治行動がとりにくので、介護保険法案の国会提出が見送られた場合、これを理由に辞表を提出するのではないかという憶測が流れ、自民党内に「自民党だけが悪者にされ選挙で負ける」という空気が広がり、加藤紘一が菅に電話で辞任する意向がないことを確かめたりした。連立与党の内情は大揺れであったのである。

6月13日、与党調整会議。法案提出賛成派は社民・さきがけ・厚生省。反対派は自民党・自治省。

6月15日、政府・与党は介護保険法案の国会提出を見送る方針を固めた。この際、連立与党3党は秋の臨時国会に法案を提出するとの合意文書を交わしたが、関係閣僚の署名が中止され早くも暗雲が漂った。
明日に続く

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日本の介護はどうなる?

人口減少社会に入った我が国ではあるが、少子高齢化は一層進行し、高齢化率は拡大の一途をたどっている。既に団塊の世代が65歳を超えたが、それらの世代の人々が後期高齢者となるにしたがって介護を必要とする人の数は爆発的に増えて行く。人口との反比例現象が広がるわけである。

そのような中、厚生労働省が昨年9月に2006年度からの特別養護老人ホームなど介護保険施設の整備計画の達成率が71%にとどまったと発表し、さらに12月には、特別養護老人ホームの待機者数(入所申込者数)が約42万1000人に上ると発表した。そして、この原因が第3期介護保険事業計画期間(06〜08年度)に介護施設の整備が進まなかったことと結論付けている。

この中で注目すべきは待機者の半数以上が要介護1〜3の高齢者であるということである。要介護度が4以上の重度者でなくとも在宅生活を続けるためには家族をはじめとしたインフォーマルな支援が必要不可欠で、居宅サービスだけで在宅生活を継続することは、インフォーマルな支援者が年を重ねるごとに困難になる傾向を示している。
※なお待機者全体に占める在宅者の割合は47.2%で19万8677人。在宅でない人は52.8%で22万2582人だった。

待機者の増加の要因を「第3期介護保険事業計画期間に介護施設の整備が進まなかった」と結論付けていることから、今後は国の尻たたきを受ける形で各市町村においては、第4期介護保険事業計画期間(09〜11年度)の達成率のアップが至上命題になるだろう。そして必然的に施設整備も促進される。特養などの介護施設だけではなく、グループホームやケアハウス、有料老人ホームも建設認可される件数が増えるだろう。

その時に何が起こるか?それらの施設が整備されても施設入所待機者数は0にならず、顧客確保に苦労するということにはならないが、一番の問題は職員確保である。行政は整備計画を財源からしか考えないが、果たして全ての施設等が必要な介護職員を確保することができるかと言えば答えは「NO」である。仮に数字の上での確保ができるとしても、それは単に「人員確保」に過ぎず「人材確保」は困難である。しかしこの状況は現時点でも同様であり、今後は前者の「人員確保」さえ難しくなってくるだろう。

介護サービスを必要とする人材量を供給するシステムは、現在のわが国には存在していないと言ってよい。

就職難と言われる未曾有の大不況下で、高校生の進学率が就職率を上回るほどアップしているのに、介護福祉士養成専門学校は相変わらず不人気で、学校数やクラス数が減っている。就職率100%の専門学校に人が来ない状況なのである。

だから新規事業者が職員を募集しても、若い新卒者を採用するのは至難の業である。

結果的に、年齢に関係なく、現に他事業者で働いている現役介護職員を引き抜くなりして採用するケースが今以上に増えることになる。つまり言葉は悪いが、介護事業者から介護事業者へと「渡り鳥」的に職場を変えるケースがさらに増加するということだ。これは人手が足りないことから、とりあえず手を挙げる人は誰でも雇用するという事業者が多いという一面があり、簡単に就業できることが、逆に職場離れを加速し「安易な職場間移動」が需要と供給バランスが崩れた状態で行われる現象をも加速する。そういう現場でサービスの質など向上するわけがない。

他事業種からの離職者を介護事業に転職させるシステムも重要であろうが、それだけで介護職員数が確保できるわけがなく「即席養成システム」は逆に質の担保という面ではマイナスである。現行の経済連携協定(EPA)に基づく外国人介護職員受け入れ策は「焼け石に水」とまでは言わないが、受け人数や条件の厳しさを考えれば、それは人手不足の解消策ではなく、国際間の政治的取り引きでしかなく、根本的な労働力確保にはつながらない。

だからこの国の介護サービス全体の質がアップするのは現実には不可能だ。必要なサービス量の確保だってままならない。

そのような隙間を縫って、介護を食い物としか考えない経営者の数も今以上に増えるのだろう。それにより劣悪な介護サービス事業者も増えこそすれ、なくならない。サービスの質などどうでもよいと考える経営者がたくさん出てきて、とりあえず何でもよいから職員の数だけ確保し、劣悪なサービスを提供し、具合が悪くなれば途中でそれを放り出すケースが続出するだろう。

そのため介護サービスの短・中期的見込みとしては、サービスは2極化が進行し、介護サービス事業所間の質の差が激しくなるだろう。しかし長期的に見れば、介護職員不足は全ての介護サービスに負の影響をもたらし、業界全体を慣らしてみても介護事業者の質を低下させる恐れさえある。

この状況を変えるためには、若い新卒者が、介護サービスを職業として選択できる政策が必要不可欠なのである。介護を一生の職業として選べるためには、普通以上のサービスを行っておれば経営者が適切な給与を支払うことができる収入体型が不可欠である。

これを財源論だけで削ることは亡国の施策であることに気がつかない政治家がどうかしている。「誰が選んでいるんだ!」と言われても、選択肢が限られている中で、我々は本当に真に必要な人を国政に送り出すことができる権利を与えられているのだろうか?今のようにお金や組織がないと国政選挙に立候補できないシステムで、国民に「選択責任」を負わせるのはいかがなものか?

現行の政権選択選挙も、例えるなら我々は「砂糖」を選びたいのに、それは不可能だから、小麦粉と澱粉を目の前において、どちらかより近いものを選べと言われているのに過ぎないのではないか?本当の意味で国民の意思に基づく選択とは言えないのである。話がそれた・・・。

行政の役割を考えると、地域の中で、介護保険事業計画を立案する行政職員は、地域の介護サービスに必要な人材量の見込み考慮しながら計画する、という視点が必要なのだ。ましてや市町村の首長は政治家なんだから、その部分の政治判断をすべきである。

介護はロボットやコンピューターソフトで代替できない部分が多いのだから、この視点に欠けた財政論だけの計画とその執行では、結果的に地域の福祉・介護サービスは崩壊の一途をたどらざるを得ないだろう。

結果的にそのことは国民の生命に関連する問題であり、基本的人権としての生存権が脅かされるのだから、人としてこの国の中で一生を送ることの危機であり、国家としての存亡にかかわる問題である。

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診療報酬プラス改定をどう読むか。


11/30日に「診療報酬はどうなる」という記事を書いて、その行方を注目していたが12/23大臣折衝で来年度予算における診療報酬のアップが決まった。その内容は

1. 診療報酬のうち、医師の技術料などに当たる「本体部分」は1.55%のプラス改定で、医療費ベースで約5700億円の増額。
2. 医科は1.74%増で、4400億円が病院中心の入院に付けられ、うち4千億円は救急、産科、小児科などの入院初期の医療に充て。
3. 診療所中心の外来は400億円という小幅増にとどめる。
4. 医薬品などの「薬価部分」は約5千億円引き下げ。

以上である。これによって診療報酬は10年ぶりに引き上げられることになったが、財源不足の影響から改定率は0.19%増(医療費ベースで約700億円、国費ベースで約160億円の引き上げ)という小幅改定にとどめられた。

今後、中央社会保険医療協議会(中医協)において報酬配分が具体的に検討され、増額分を「事業仕分け」で指摘された開業医と病院勤務医の収入格差や診療科間の格差是正の方向で振り分けられることになる。医療関係者はこの行方にも注目していることだろう。

今回の診療報酬に関しては、事業仕分けで全体の報酬総額は引き下げることが求められ、財務省も厳しい財政事情からその方針を守るという姿勢を崩さず、官僚ベースの協議ではこの殻を破ることができなかった。民主党の山井厚生労働政務官は自身のメルマガで、この折衝が大変困難となっている状況を何度か紹介している。しかし昨日の大臣折衝で厚生労働省側が要求した予算が通った。つまり政治判断で予算が復活した、という意味である。
※なお本日の山井氏のメルマガでは「医療が冬の時代から、春の時代に変わった」と予算復活が熱く語られている。〜春とまでは感じていない関係者も多いのかもしれないが、マイナス査定を覆した努力は評価されてもよいだろう。

プライマリーバランス0を目指して、毎年2.200憶円の社会保障費を削減する政策自体は、既に前政権の麻生内閣時に実質的に方針転換されていたが、新政権がマニュフェストで掲げる社会保障の充実という基本構想が来年度予算でどのように反映されるのかが、診療報酬の動向に注目する一つの意味であった。その結果が小幅であっても報酬全体が今年度よりアップされたということは、今後の新政権の社会保障政策に対する一定の姿勢を示したものと思え、長妻厚生労働大臣も「医療崩壊を食い止める改革の第1歩」と今回の報酬改定を評価するコメントを出している。

つまり次の診療報酬改定でも引き続き、報酬改善に努めて行きたいという意図を示したものと思える。次期診療報酬改定は2012年4月からの報酬改定である。つまりその時には、介護保険制度改正における介護報酬の改定時期と重なる、いわゆる「ダブル改定」である。

介護職員処遇改善交付金という事業はあくまで「時限措置」であり、これが2011年度末までという意味は、次期介護報酬改定で、この交付金分を介護報酬に上乗せしたうえで査定するという含みを持ったものであるが、交付金の申請率が9割を超えないと「必要な費用」と認められず、上乗せされない恐れもあるし、何より予算は経済状況と連動しているので、財政事情が厳しければ楽観できないという面があるが、今回の厳しい状況で診療報酬がアップしたということは、介護報酬を考える上でも(その部分のみではあるが)決して暗い材料ではないだろう。

しかし年明けには景気の2番底が間違いなくやってくる。それによって参議院選挙への影響もあるだろう。なにより景気がこれ以上悪化すると国の財政事情はますます苦しくなる。埋蔵金という1年限りの財源に頼るなんていう政策は「綱渡り」にもならないか細いものだから、景気回復は何より求められるが、トヨタ自動車が下請け各社に部品などの費用3割減を求める状況などをみると、経済状況は来年益々厳しくなる。

その中で、医療や介護の法定費用がアップするということは、国の財源面からのみならず、国民自身の財負の中身にも直接影響することで、例えば厚生労働省の試算では、今回の診療報酬アップは、年収374万円のサラリーマンで年間285円の保険料負担増となり(年収を380万に満たないモデルに置いた意味は、負担感をできるだけ軽くするために、負担増となる年収の高いモデルを意識的に排除したためだろう)、外来の1月平均の負担も7.8円増となっている。

国民負担を伴い、厳しい経済状況の中での報酬アップについて、社会全体の承認を言えるためには、社会保障費が国民の生命や暮らしを守るために最低限必要な費用であるとの国民全体のコンセンサスが必要だ。国の予算というレベルで、我々現場のサービス従事者ができることは少ないが、現場で一人一人の利用者に適切なサービスを提供して、信頼を得ることは我々サービス従事者にしかできないことである。国民に保健・医療・福祉サービスがそっぽを向かれるような状況が一番怖いことなのである。

結果的にサービスに対する高い理念を持たないと、近い将来には医療費や介護給付費も下げられ、我々の業界全体が大打撃をこうむることになる。ここの方向性を間違えてはいけないだろうと思う。

それにしても今回の診療報酬改定では、歯科の改定率が医科を上回る2.09%アップとなっている。これは全体の予算配分の中では異例の措置ともいえる。この増額の意味は何のか、その背景に何があったのかが個人的には非常に気になるところである。

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白い冬。

赤エゾ松北海道に住んでいると、雪は生活障害そのものであるが、同時にクリスマスに雪のない風景には違和感を持ってしまう。生活に様々な不便を生じさえる雪を、心のどこかで待ち望むという矛盾がある。
(参照:ぷわり、ぷわりPUWARI・PUWARI

僕の思い出の中では、高校1年生の冬が根雪となった時期が一番遅くて25日のまさにクリスマスまで雪がなかった記憶がある。

就職するまでは北海道でも豪雪地帯と呼ばれる下川町や岩見沢市に住んでいたのに、やはりこの時期の雪はある意味「恋しかった」のである。今住んでいる登別市というのは、北海道でも太平洋側で、雪は比較的少ない地域である。しかしここに住んで20年以上経つが、クリスマスに雪景色になっていなかった記憶はない。今年は11月の後半に一度街が雪化粧した後、一旦それがすべて溶けて、その後は雪の訪れが遅かった。しかし昨晩あたりから本格的な雪になり、街の景色が一晩ですっかり変わっている。今年もやはり「白い聖夜」になるようだ。やはり北海道の冬は白い冬が似合う。

貼り付けた画像は、今朝の当施設・屋外ステージ前広場の風景である。
※クリックすると画像は拡大します。

左下のログハウスが屋外ステージだが、その屋根よりはるかに高くそびえたっている「えぞ赤松」の葉に「雪の華」が咲いている。この松は、当施設が開設した昭和58年に、常陸宮妃殿下が来園された折に記念植樹とて植えられた「松」である。当時わずか数十センチしかない苗木であったのに、今では空高くそびえたっている。この松の成長が施設の歴史とかぶっているのである。

しかし果たして我々のサービスが、地域の人々に木陰のような優しさや、雨風を防ぐ枝葉になっているかということは永遠のテーマである。

前述したように、北海道の冬は厳しい。それに加えて地域の住民の高齢化は、その不便に拍車をかけている。年々暮らしが不便になってくる高齢者世帯が増えている。厄介なことに、その不便から生活に支障をきたしている高齢者自身は、そのことに気がつかず、発見された時には悲惨な状況に陥っているケースも右肩上がりに増えている。地域の中で「声なき声」に対していかに耳を澄まし、訴えなき生活障害を発見するのかが、今後の地域福祉の大きな課題である。老老介護や認認介護は既に身近な問題である。

介護保険制度などの公的支援でカバーされていないサービス。例えば自宅の敷地の除雪は、地域独自のサービスがなく、家族以外のインフォーマルな支援がない地域では、自己責任で対応せねばならない。そのため玄関から道路までの除雪ができないことで、冬場の外出が不可能と諦めている高齢者世帯では、ひと冬の「社会的要因により強いられた引きこもり」によって、認知症と身体機能の廃用がセットで進行してしまうケースがある。

こうした部分の福祉援助を「ローカルな判断」でしか対応できない状況が正しいのかどうなのかという検証は、国レベルではまったく行われていない。これで超高齢社会は支えていけるのだろうか?

財政事情から、保健・医療・福祉サービスには「これ以上費用がかけられない」という。しかしニーズは間違いなく増大しているのである。ここにどう対応していくのか、このことについて我が国の政治の行方は極めて不透明で、長期的ビジョンは庶民からは見えない。これが最大の社会不安要因だろう。

小さな政府で保健・医療・福祉サービスを切り捨てて行くのか、高福祉高負担社会をやむを得ないとするのか、あるいは第3の道として、(医療を含めた)社会福祉を充実した小さな政府、という理論が成り立つのか、そういうことを国民的な議論としていく必要があるだろう。

今年1年もあっという間に過ぎて行くが、今この国は、1年を重ねるごとに、高齢者数が増加して、福祉ニーズが増加し、その中身も複雑化しているという事実から目をそむけてはいけない。

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デフレ背景には社会保障不安も。

我が国の経済状況は、デフレーション(物価が持続的に低下していく経済現象)が進行し、緩やかなデフレスパイダル(物価の下落が経済活動を停滞させる要因となり、賃金の下落や失業、ひいては消費支出の減少とさらなる企業活動の停滞をもたらす要因となること)に陥りつつあると心配されている。

なるほど物の値段は確かに下がっている観がある。スーツやGパンなどの衣料品は、かつて考えられないほど低価格の商品が出回っているし、外食産業の値引き合戦、スーパーやコンビニの弁当の低価格競争などは、もっとも身近にデフレを感じることである。

景気後退によって世の中全体の手取り収入が減って、生活が厳しくなっているのだから、なるべく生活必需品は安いものを購入したいと思うのは人情で、デフレを回避するために「高い商品を買いましょう!」「安売り品に飛びつくのは結果として収入をさらに減らすよ!」と呼びかけても「はいわかりました」ということにはならない。実際に使えるお金のパイが減っているのだから、必需品の量を確保するなら、同じ製品ならば安い方に手を出してしまうのは当然である。庶民は「私は安いものしか買えませんから、お金持ちの方はできるだけ高価な買い物をして経済を活性化させてください。」と考えるのがせいぜいである。

しかし結果的にデフレ進行が、さらに収入を減らし、住宅ローンなどの債務は逆に物の価値が下がることで実質増加になるのだから、これは大問題である。

ここを抜け出すためには、内需が増えねばどうしようもなく、世の中にお金を回さねばならない。企業にも資金が不足している以上、この状況下では、財政が厳しいとはいっても、国が資金を市場に流す方法以外の有効対策はないと思う。こういう場合の経済対策で「兵力の逐次投入」的な対策は無意味で、各個撃破されないように、国費の集中投資を政治的判断で行わねばならないのではないのだろうか。

そういう意味でも介護サービスの現場においては、様々な問題と矛盾がある介護職員殊遇改善交付金についても、これを国からきちんといただいて介護職員の給与・待遇改善に努めるべきであり、賞与レベルもなるべく維持していかねばならないだろう。

こうした観点から世の中全体をみると、厳しい経済状況でも、介護事業者の場合、介護報酬のアップ分や介護職員処遇改善交付金事業などで、従業者全体の年収は確実に上がっていると思え、若い世代の人々は、この業種をもう一度職業として選択する価値があることを見つめ直してほしい。

ところでデフレの要因は、景気悪化で労働者の手取り収入が減っているという要因だけではなく、世の中に流通しない資金が増えているということが問題である。多額の資金が経済活動に回らず、「たんす預金」(家庭などに埋蔵されており、商品やサービス等の購入に使われていないお金)などとして家庭に眠っている、と言われている。

現在日本の「たんす預金」の総額は、30兆円以上あると言われている。特に高齢者の購買力の低下が、たんす預金の額の増加につながっていると問題視されることがある。このため高齢者の皆さんに、もっと物を買って、家庭で眠っているお金を使ってくださいとお願いする声が聞かれる。

しかし高齢者のたんす預金が増える背景を、単に高齢期という時期における購買力の低下と見るのでは問題の本質が見えなくなる。高齢者のたんす預金を含めた貯蓄全体が増えているのは、将来の社会保障不安と連動した問題で、年金や医療や介護が「お金がなくても」最低限の保障がされるという安心が持てないから、将来に備えた貯蓄をするためにお金が市場経済に回らないのである。

少し前までは、たんす預金を増やす理由を「葬式代のため。」と理由づけて語る高齢者が多かったが、現在は、葬儀を出す前に、葬式までたどり着くために「お金を使わないで貯めておく」という人が増えている。生きていく過程で何の保障もないから現金に頼らざるを得ない、と考える高齢者が増えているのである。

これは高齢者だけではなく、現役世代のサラリーマン全体にも見られる傾向で、子育てが終わって、家計に多少余裕が生まれても、将来の年金が確実に保障される見込みもないし、これだけ寿命が延びている現状方考えることは、介護が必要になったらサービスを利用するために生活費以外に、ある程度の「資金」が必要だということで、生活レベルを上げるためにお金を使うより、貯金して将来に備えようと考えるのは当然の結果である。これでは経済は活性化しない。

それだけ現在の少子高齢社会の中で、社会保障の実情に不安を覚えている人が多いということだ。お金がなくとも必要なサービスを受けられ、人間らしい暮らしが保障されるという安心感がどこにもないのである。

医療費の自己負担が増えているのに、地域から必要な医療サービスが減りつつある。介護サービスを受けるためにもお金が必要だが、制度改正のたびに給付制限が厳しくなって必要なサービスが受けられなくなりつつあるのに加え、介護福祉士の養成校の生徒がどんどん減って、将来には介護のなり手がなくて、お金を今以上に使わなければ介護を受けられないかもしれない。そういう不安を皆が持っている。

医療や介護にかける費用を財政論だけで減らし続けている「つけ」である。

むしろ保健・医療・福祉というものは、社会のセーフティネットとして機能するものであり、この部分は谷間がないように、必要なサービスをどのような状態になっても受けることができるという安心感が持てるように社会を再構築する必要がある。そういう社会が実現すれば現在の生活レベルを落としてまで、貯蓄に励む必要もなくなって、たんす預金などの経済活動に回らないお金も減ることだろう。

この部分を財政論でズタズタに切り裂くことが、結果的には経済の悪化も招いているように思える。

今現在、お金を使えるようにするには、安心して将来の暮らしが成立する社会システムが必要なのだ。つまり保健・医療・福祉にお金をかけることは、聖域としてそれらを特別視するという意味ではなく、それらを社会のセーフティネットとして機能させないと市場そのものが破綻するという意味で、社会のセーフティネットは、市場の安定競争と補完関係になるという「セーフティネット張り替え論:慶応大学・金子勝教授」における市場原理主義を排除し、考え方を180度転換した「福祉を拡充する小さな政府理論」にも繋がっていくだろう。

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診療報酬はどうなる?

国の予算に関する行政刷新会議の「事業仕分け」が終わった。その結果はともかく、予算編成の中身が一部であってもこういう形で「国民にみえる」ということはよいことだろう。

ところで、この中で来年度改正の診療報酬については、収入の高い診療科の見直しと開業医と勤務医の平準化など「配分見直し」と査定されたが、もともと財務省の方針が「診療報酬全体のパイは引き上げない」ということであり「診療報酬全体のパイを引き下げたうえで、医療費を抑制して、配分を見直す」という結論になっている。

これに対して長妻厚生労働大臣は「コストが引き下げられる分は、できるだけ引き下げて改定率の上昇はできるだけ抑えたい。」としたものの「診療報酬全体のパイを引き上げたうえで、配分を見直すことが必要。」として診療報酬の削減に反対している。そのために現在、厚生労働省内では独自の「新たな事業仕分け」に取り組んでいるという。

今後、政治判断でこのことが変わっていくのかが大いに注目される。

なぜなら新政権になって初めて診療報酬が改定されるというは、現政権の医療・保健・福祉対策に対する予算措置の方向性が示されるという意味があるからだ。そうなるとこれは次期介護報酬の改定にも少なからず影響してくると考えられる。

もともと民主党のマニュフェストでは「自公政権が続けてきた社会保障費2200億円の削減方針は撤回する。医師・看護師・その他の医療従事者の増員に努める医療機関の診療報酬(入院)を増額する。」とされている。つまり少なくとも「入院の診療報酬」は増額が明記されているのだ。このことの実現が図られるのか、という結果が今回の診療報酬の結論で見えるというわけである。

診療報酬は2年に1度改定されるが、今議論されている改定の次の改定は、2012年度予算に関わるもので、この時は介護報酬とのダブル改定である。

その時、同マニュフェストに書かれている「認定事業者に対する介護報酬を加算し、介護労働者の賃金を月額4万円引き上げる。」という方針が実現されるのかといことが、今回の結果で見えてくる可能性がある。

どちらにしても来年度の予算編成の結果と、マニュフェストの整合性がどのように説明されるのか、ということが最大の関心事である。

社会情勢は、ここにきてデフレの加速・ドバイショックなど、新たな景気低下懸念が生じ、財源の確保は非常に厳しいという現実があることは承知している。しかし医療や介護は、人の生命と生活を守るために不可欠なものであり、ここをおざなりにして、財源論によって予算を削ってしまえば医療や介護サービス自体が成り立たなくなる。そのことで医師や看護職員・介護職員・介護サービス従事者が必要数確保できなければ、どのような政策をとってもサービスを受けられない国民が続出するという結果になる。それでは国自体が存亡の危機に立つ。

医療を含めた社会福祉政策というものは、国を守る社会全体のセーフティネットなのだという意味を考えて予算を作るのが政治家の役割だろうと思う。
(※参照:金子教授のセーフティネット張り替え論

ここは霞が関ではなく永田町が主導すべき問題ではないだろうか。

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介護の日は政策を振り返る日に

舛添前厚生労働大臣の置き土産といってよいだろう。今日11/11は「介護の日」である。昨年のパブリックコメントの募集で「いいひ いいひ」の語呂合わせで選ばれた日だ。

僕は、昨年のパブリックコメント募集中に「介護の日・現場は冷ややか」という記事を書いて、こんな日が定められてもあまり意味はないし、こんな暇な議論をしているならもっと差し迫った問題を考えたほうが建設的だろうと批判した。

しかし既に決まって動き出したものだから、そのことを今更廃止せよとか、必要ないとか言うつもりはない。昨年の意見を繰り返すつもりも毛頭ない。そんなことにエネルギーを使うことは無駄である。

ただ介護の日を定めるに際しては、お金(国費=国民の税金)も時間もかけているという事実があるから、何らかの形でこのことをポジティブなものと考えて、国民の利益に結び付けていかねばならないだろう、と思う。

国民の多くが介護の日が制定されたことも記憶から薄れている。最初から興味なく知らない人も多い。介護に携わっている人々も同様で、そういう日があることを知っていたとしても、それが今日であることを知らない人が多いだろう。なんとなくテレビ等で「介護の日」であるという話題が出て、はじめて「今日だったのか」と気付く人がほとんどだ。特に若い人たちには11/11は「ポッキーの日」という認識が広がっているので「介護の日」を思い浮かべる人は少ないようである。

ナイチンゲールの誕生日である5/12が「看護の日」と定められていることを知らない人が多いのと同じことだから、これは今更のことで予想されたことである。だから今更それを嘆く必要もないだろう。

介護の日を作れば国民が介護の重要性を認識してくれるなんてこと自体が、政治家や一部の有識者と呼ばれる人々の幻想でしかないのだから、これは予測された結果である。

そうであれば「介護の日」は、そういう幻想で「時間と国費」を使った政治家や国の審議会に居座る有識者と呼ばれる人々が、介護の日を制定する過程や、その議論を振り返って、いかに不毛な議論に時間と国費を費やしたかを反省する日にした方が良いのではないのか。

同時に、この国の保健・医療・福祉政策というものが、どのように構築され、どのように運営され、その結果が今どうなっているのか、全ての政治家や官僚が振り返る日にすればよいのではないだろうか。

介護の日は、それらの人々、いや全ての日本国民がこの国の社会福祉政策を振り返る日であると考えたほうが良いのかもしれない。

その結果は「悔悟の日」であるかもしれない。

そうであったとしても、未来に向けてこの国の社会福祉制度を、どういう方向に向けてかじ取りが必要かということを、もう一度真剣に考えて行くことが必要だろう。そうしなければ、この国の未来は荒野でしかなくなる。

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全精社協事件の本質はなんだ。

社会福祉法人「全国精神障害者社会復帰施設協会」(全精社協)の不正経理事件では元事務局次長が逮捕されているが、この事件に関連し大阪地検特捜部は10月7日から、厚生労働省障害保健福祉部の職員の事情聴取を始めている。

事件は、全精社協が厚労省から07年度に3130万円、08年度に1980万円の交付を受けた補助金を、福祉施設「ハートピアきつれ川」の運転資金などに流用した疑いを持たれているもので、同施設への運営経費に補助金を充当することに決めた理事会に厚労省の担当者ら2人が同席したが、目的外使用の問題性を指摘することなく、補助金1980万円は翌月交付されたというものである。

業務上横領容疑で逮捕された次長は補助金不正流用については「厚労省側も知っていた」と供述。
さらに読売新聞は、関係者が「協会幹部の会議で、補助金の目的外使用について言及があった際、厚労省担当者が『聞かなかったことにする』と話した録音テープがあると、同容疑者から聞いたことがある」と証言している、と報道している。

このため大阪地検特捜部は、厚生労働省障害保健福祉部の担当者を任意で事情聴取し、補助金が目的外使用されることを事前に知っていたとして補助金適正化法違反で刑事責任が問えるかどうかを慎重に検討しているとのことである。

つまり問題は、全精社協が補助金を不正流用したことが本件であるが、補助金を不正流用することを事前に知りながら交付決定したのではないかとして厚生労働省の職員を関連で捜査しているものだ。

よって補助金そのものが問題となっているわけではない。

しかしこうした研究補助金とは、そもそも研究費だけに使われる実費という意味ではなく、研究費用として交付されている資金が実質、交付された団体の運営資金となっている場合が多い。それは不正流用にならないのだろうか?不正ではなくとも最初から目的が研究そのものではなく特定団体の運営資金とすることに使われているとすれば、これは国民の税金の無駄遣い以外のなにものでもない。つまり不正流用事件では補助金そのものの問題とは言えないが、その根は補助金そのもののあり方と深く関わっているのではないかということだ。

しかも研究補助金といっても、ほとんど意味のない研究に交付されている国費があまりにも多い。その交付決定過程も不明瞭で、特定団体に複数の研究事業補助金を認めていること自体が国費の無駄遣いではないのか。これをやめれば埋蔵金と呼ばれる財源はさらに増えるのではないのだろうか。

そういう意味でも本件のような刑事事件とは直接関係ないとしても、様々な研究補助金について透明性を確保してもらいたと思うし、必要ない研究補助金はなくすべきである。

かつてこのブログで「国から日本介護支援専門員協会に渡される7.700万円」という記事を書いたが、いまだから白状すると、この補助金の情報源は民主党の関係者であり、この調査には複数の国会議員が陰で協力してくれている。

その中身を再度示すが、それは08年度の分として

(※予算科目:高齢者日常生活支援等推進費・老人保健事業推進費等補助金)
1.介護支援専門員職能研修体系及び研修講師養成システム検討事業(三千万円)
2.施設系・居住系施設等におけるケアマネジメント手法及び介護支援専門員のあり方調査研究事業(一千万円)
3.ケアマネジメントにおける多職種連携のための調査研究事業(九百万円)
4.ケアマネジメントの資質の向上に資するためのITの有効活用についての調査調査研究事業〜サービスの質の向上に向けたケアプランと記録データの新たな活用方策の開発と試行〜(一千二百万円)
5.居宅介護支援事業所の適切な運営(あるべき姿)の調査研究事業(八百万円)
6.地域包括支援センター及び居宅介護支援事業所主任介護支援専門員の実態調査及びあり方調査研究事業(八百万円)

である。

こんな研究が現場の介護支援専門員の役に立っているだろうか?そもそもそういう研究が行われて、その結果がどうなっているかということを知っている介護支援専門員が全国で何人いるだろうか?こんな研究事業などなくても困らない程度のものである。研究費としてこれだけの国費をかける価値のない研究事業であると思う。内容からして研究費の額も大き過ぎるだろう。しかもその受領総額たるや全精社協の受領額よりかなり多額となっている。

少なくとも同協会は、2008年度においては補助金収入を除けば運営収支は赤字であると言われている。つまり赤字分を研究補助金として国から穴埋めしてもらっているのである。これは同会に対する研究補助金だから同会の運営赤字を補てんしても流用にはならず、法的には問題ないということだろうか?この点も大いに疑問である。

補助金予算は特別会計として、厚生労働省がある程度自由に使うことができる予算だろうし、その支出が研究補助金名目で特定団体に、このように複数の研究事業を委託し、多額の国費が回されているという現状を放置してよいのだろうか。

全精社協事件にしても、その根は、不透明な補助金交付そのものだから、ここの部分の膿を徹底的に絞らねば、問題は繰り返される恐れがある。

純粋な学問としての研究や、差し迫った課題に対応する研究事業は必要だろうが、資金を渡すこと自体が目的ではないかと疑われるような研究補助事業が多すぎる。これこそ国の無駄遣い以外のなにものでもない。

そういう形で国費を手渡すのは、その団体を国のひも付きにする意図があるか、天下り先にする意図があるとしか考えられない。であればそういう団体に会員の声、現場の声を代表して「国に物申す」力もあるわけがない。

研究補助事業の大いなる見直しを一国民の立場として求めたい。

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憲法25条の責任の担い手という指摘への疑問。

老施協の役員セミナーの講演抄録を読んでみると、ここの「制度ビジネスと福祉経営」という講演で、福祉医療機構の経営支援室経営企画課長・千葉 正展氏が社会福祉法人の役割について次のように語っている。

「社会福祉法人の立ち位置があいまいになっています。社会福祉法人ではなくてもいい時代になったともいえます。しかし特養でなくてはできない介護、社会福祉法人にしかできない固有の社会福祉があると思います。固有性とはなにか。企業経営を考えるのが社会福祉法人かといえば違和感があります。しかし公益性が高いだけでは存在がアピールできない。結論は浅いかもしれませんが、本来は憲法25条の責任の担い手として存在していると思います。」

以上である。そう長くない言葉であるが様々な示唆に富んだ内容であると思う。(もちろん賛否は様々にあるだろう。)

ただ一口に「社会福祉法人は本来、憲法25条の責任の担い手として存在している。」といっても、この規定がどう解釈されているかを知るものとしては、どうも首をかしげざるを得ないところである。もちろん社会福祉法人が介護サービスの現場で、利用者の基本的人権をきちんと守って、健康で文化的な生活を保障するという観点は必要であるが、憲法25条を持ち出すならば、その法的解釈論を抜きにして「健康で文化的」という文言だけをクローズアップして責務論を語るのは間違いではないかと思う。そのことを少し考えてみた。

憲法25条とは言うまでもなく社会権である生存権と国の社会的使命の規定であり
「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

以上の条文を指したものである。

この生存権と国の責務を考える際に避けて通れないのが有名な「朝日訴訟」であり、社会福祉を志したものなら、そのことについては何らかの形で学んでいるはずである。ただ朝日氏が亡くなり最高裁で訴訟終了の判決(実質敗訴)が下りて40年以上を経た今日では、そのことが取り上げられる機会も少なくなったので改めてその内容を確認してみたい。

朝日訴訟とは、岡山国立療養所で療養入院する重症結核患者であった朝日茂氏の「人間裁判」といわれた戦いである。

朝日氏は戦時中の1942年から入院し、生活保護を受け療養治療していた。生保受給状況は厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額たる月600円の日用品費の生活扶助と、現物給付としての給食付医療扶助である。ところが1956年福祉事務所が20年も音信不通であった兄を探し出し、無理に月1.500円の送金をさせ、それにより津山市社会福祉事務所長は、月額600円の生活扶助を打ち切り、兄の送金額から日用品費を控除した残額900円を医療費の一部として朝日氏に負担させる旨の保護変更決定をした。つまり朝日氏は生活扶助費を打ち切られたうえ、仕送りの1.500円も全額受け取ることを許されず生活扶助費の日用品費と同額の600円のみ自身の生活費として受領するという命令である。

その後、朝日氏の不服申し立てが却下されたため厚生大臣を被告として、600円の基準金額が憲法の規定する健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりないものであると主張して争った裁判である。

一審では日用品費月額を600円にとどめているのは「健康で文化的な最低限度の生活の保障」を定めた法律違反であるとして福祉事務所長の裁決を取り消した原告全面勝訴(1960年・東京地裁)であったが、2審では600円はすこぶる低い額であるが不足分は70円に過ぎず、憲法25条違反の域には達しないとして原告の請求棄却という逆転敗訴(1963年・東京高裁)となり、最高裁で係争中に朝日氏が死亡、養子夫妻が訴訟を続けたが最高裁判所は保護を受ける権利は相続できないとして本人の死亡により訴訟は終了したという判決を下した。(1967年・最高裁)

結果として憲法25条規定論議について明確に原告主張を却下したものではなかったが、しかし最高裁は判決後「念のため」として「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合理的な裁量に委されている」という異例の意見を述べている。

この意見は「念のため判決」と通称されているが、判決主文について判示したものではないにしても、最高裁判事15名の合議による意見として重みがあるとされ、いまだにこの意見が生存権規定である憲法25条の解釈基準とされているものである。

そしてその意味するところとは、憲法25条はあくまでプログラム規定、つまり「特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない。」とする考え方である。この解釈は年金の併給禁止規定で争った堀木訴訟(1970年)でも踏襲され原告敗訴につながっている。

つまり我が国の憲法で規定されている生存権とは「抽象的あるいは具体的な権利規定」ではないとされているもので、「国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。」と結論付けられているものであり、社会福祉法人にその責任の担い手としての役割を求めるのは的を射た考え方ではないと思う。

逆に言えば、このプログラム規定論が法解釈である限り「憲法25条の責任の担い手」とは、財源によって左右される給付費の水準に基づいて専門的に判断するものであるとして、社会福祉法人が本来期待されている社会的使命とは相反する基準を尺度とする意味となる可能性が高い。

もし憲法25条がプログラム規定ではなく、抽象的あるいは具体的な国民の権利規定であるという立場であれば「健康で文化的な最低限度の生活」を社会福祉法人がその基準を現場から押し上げて守ろうという考え方は正しくかつ重要と思うが、国の判例に基づくプログラム規定論を放置しての責務の押し付けはいかがなものだろうかと思う。

もちろん朝日訴訟自体は裁判の過程で生活保護基準が段階的に引き上げられるなど、その果たした意義はきわめて大きなものであったといえるし、我が国の社会保障闘争史の中で意味深いものであるが、生存権の解釈が40年以上前の「念のため判決」による状態が続いていて、そのことの見直しがされていない状態で、現場の特定事業主体にその実現を図れと言われても意味がないように思う。福祉医療機構の千葉さんはこの法的解釈を理解して発言しているんだろうか?大いに疑問である。

むしろ過去の論争を理解せず、生存権という言葉だけが独り歩きして、法律上のプログラム規定という概念や解釈に何ら変更の手が加えられないことは危険なことではないかと思う。

憲法25条の責任を担うということであれば、そこで規定された生存権はきちんと国民の絶対的な権利として存在するという法解釈の変更が必要になってくるのではないだろうか。

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現代社会における孤立の構造。

現在の我々は様々な物質とサービスにあふれた文明社会に住んでいる。

しかし人の欲望には限りがなく、豊かな社会であるがゆえに抱えるストレスも多い。自殺者の数がこの豊かな文明社会においても増え続けていることがそれを現わしている。インターネットで瞬時に世界中の情報を手に入れた便利さよりも、ブロードバンドではない接続速度の遅さにストレスを感じるように、人の欲望には限りがなく、手に入れることができる様々な物の最高を手にしない限り完全に満足することはない。いや最高を手に入れた人でさえ、それを失わないように不安とストレスを抱えることが弱き人間の宿命である。

しかもそうした文明社会の中で日本人は大切な人との関係をますます希薄化させ、人とのつながりを失くした孤独の殻に自らを閉じ込めようとしている。携帯電話でしか繋がりのない希薄な関係を社会との唯一の接点とする人や、インターネットの中の人格を自分自身と思いこむ人々が増えている。

かつて人々は自然の脅威に対して一致団結して事にあたった。地域という概念以前に、共に身を守る運命共同体としてのつながりがあった。しかし時の流れと共にそうした関係は神話の時代の絵空事になりつつあり、現代社会は人間関係の希薄化、個人単位の領域では非人格化と孤立化・無力化が広がっている。

日本の伝統社会では子供を産んでも、両親に変わってその親類縁者が必要な期間、赤ん坊を十分面倒をみられる地域社会が存在したが、現在では親にさえも頼ることができないことで子供を産めない夫婦が少なからず存在する。清潔な社会環境で赤ん坊の死亡率が非常に少なくなっても、生む環境がない社会では子供は増えない。核家族の進行が言われて久しいが、すでにそれは核家族化によって小単位ごとに分離した世帯が、親類縁者との関係をも希薄化させ、それぞれの家族や世帯単位で、望むと望まざるにかかわらず社会の中で孤立する可能性を抱えている。社会とのつながりが職場を通じた細い糸でのみ繋がっている世帯は、一家の主が現役をリタイヤした途端に孤立する可能性を持っている。

そういう意味では現代日本の社会構造は孤立家族・孤立世帯の集合体ともいえる。

自宅で亡くなる人が社会全体の8割を超えていたのはわずか60年前の話である。その時代はもしかしたら今のように優れた医者や看護師・設備や薬がなかったかもしれない。しかしそこには看病に専心する人々との暖かい心のつながりがあり、希望があった。死を間近に見詰めても、そこには家族や親類縁者・友人知人の温かな眼差しがあった。

しかし8割以上の人々が自宅以外の場所で亡くなる現代社会において、死の間際まで人々は清潔な環境で、最新の設備と技術で専門医療を受けることができても、つまるところ病者はベッドの中で孤独である。枕辺に誰一人としていない中で息を止める人々が数多く存在する。人々が今際の際(いまわのきわ)に望んでいるものは最新の医療技術ではなく、家族の温かい手を握ることであったとしても、現代社会ではむしろそのほうが手に入れ難くなっている。

この社会で生き抜くために人は孤独に対する耐性を持たねばならないのだろうか。孤立に耐えることが人間の資質になっていくのだろうか。それではあまりにも非人間的であり哀しい。

人は、自分と繋がる様々な人々との関係の中に生きており、心の通う相手があり、共に生きていくという実感によって安定し希望を持てる存在である。物質的援助も身体的援助も必要ではあるが、それだけで人の安心や希望は生まれない。物質的身体的援助を超えて人々との心通う関係の中で人は社会とのつながりを見出し、安心と希望を持つことができる。

社会福祉援助とは究極的には人と社会の接続の援助である。その時に社会福祉援助に関わる専門家は、ソーシャルワーカーとして個人の最もよき理解者として存在していくものであろう。

愛という言葉は抽象的すぎ、感情論であるから社会福祉援助という専門技術の領域であっても使うべきではないという意見があるが、人を愛し敬うということをなくして人の幸福は実現しない。愛すべきすべての人々がその愛に包まれて生きる喜びを感じることが人として求めることではないのだろうか。

青臭く、使い古された言葉であったとしても「愛」という言葉を抜きにして技術論だけで語れないのが社会福祉ではないのだろうか。

新しい政権のスローガンは「友愛」である。愛という言葉が本当の意味するところの人間社会を作る方向に政治家の視点は向かっていくのだろうか。愛という言葉を便利遣いして、実は自己責任や自己犠牲だけが求められる社会とはなっていかないだろうか。我々はそのことをしっかり見つめ、そして評価する義務と責任がある。

そして社会福祉援助に関わる人々は、社会の隅々から本当に人が人を愛し、人が人から愛される社会を実現するために行動し続け、声を挙げ続けなければならない。

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