masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

政治・経済・社会

行き場のない遺骨


なぜかわからないが、昨日のブログ回覧数(アクセス数)が5.000件を超えている。この数字はいつもより1.000件以上多い数字だ。同じ媒体から1日に何度アクセスしても1件としかカウントしない設定にしているので、誰かがいたずらして件数が伸びているとは考えにくい。すると考えられる理由は、昨日の記事に貼りつけているフェイスブックのいいねボタンのクリック数が100を超えていることだ。誰かのフェイスブックから僕のブログに飛んで来た人が多いのだろうか?どちらにしても僕の勝手な価値観にあふれた文章を、こんなにたくさんの方が読んでくださるのはありがたいことである。

ところで今朝は6:00に家を出て、職場に6:30頃着いた。今日〜明日と2日間にわたって行われる富山県高岡市での富山県老施協介護職部会研修の講師を務めるために、朝9:12発の特急列車に乗らなければならないが、それまでに少しでも整理しておきたい仕事があり、こんな時間の出勤になった。留守を預かる職員に全てを丸投げするわけにはいかないのである。

今回は少し慌ただしい日程である。これから新千歳空港を11:20に出発し、富山空港には12:55到着予定であるが、そこから研修会場に直行し14:10〜120分講演を行う。昼食は先ほど買ったサンドウィッチを機内で食べようと思っている。

明日も9:10〜グループワークの助言者として研修に参加し、12:00に研修が終了した後、昼食もそこそこにして空港に向かい、13:25発の新千歳行きの飛行機に搭乗予定である。JR登別駅には17:18に到着予定であるが、そのまま施設に向かい仕事をするつもりだ。その日の帰宅は夜遅くになるだろう。

こうした日程ではあるが、富山の皆さんには「魂」を込めてお話させていただくつもりである。富山県は2度目になる。前回お会いした方にも再会できるかもしれない。高岡市雨晴温泉・磯はなび会場でお待ちの皆さん、2日間よろしくお願いします。

さて話を少し変えたい。

先日、「週刊女性」という週刊誌の記者だという女性の方から電話をいただいた。当施設公式サイトで「身寄りのない入所者の方への対応」を掲載していることから、身寄りのない利用者が死亡した場合の、葬祭執行や遺骨処理について実際はどのようにしているのかという問い合わせであった。

僕は、こうした電話での問い合わせに対しては、記者ではなくても丁寧に答えることを心がけているので、質問されたことについて、自分がわかる範囲で説明させていただいた。そうした電話を2度いただいた。僕の中ではそれだけの話で、別に取材を受けたという感覚はなかったのであるが、先週末、取材協力ありがとうございますという礼状とともに、雑誌が送られてきた。少し驚いたが、これはこれで良いだろう。だがこういう週刊誌に名前が乗ることになるとは思わなかった。それにしても悪いことをして書かれなくてよかった。

週刊女性
僕の名前入りで短いコメントが載せられているが、特集記事の内容もなかなか興味深いものであった。養護老人ホームや特養で、身寄りのない利用者が亡くなられた場合、市町村によって大きく対応が異なり、あたかも介護施設が、行政命令によって死後の葬祭等を執行しなければならないかのように対応されている地域もあるようだ。



介護保険制度以後、特養の入所については措置から契約に変わったといっても、介護保険制度や老人福祉法の規定が死後まで及ぶはずもなく、死後の葬祭執行や遺留金品の処理等については、市町村の責任で行われなければならない。

葬祭執行や納骨については、市町村から介護施設の長に委託することはできるが、その執行を命令することはできない。委託であるから、これを受けないという選択もあり得るのである。

このことを理解した上で、市町村と施設が責任のなすり合いをするのではなく、両者がコミュニケーションを円滑にし、死者の霊を弔うために最善の策を取れば良いのだと思うし、施設側としては、長年関係を紡いできた利用者に対して、最後にできる奉仕として、出来ることを最後までするという考え方はあって良いだろうと思う。ただしそれはあくまで、市町村と施設が信頼関係を持ちながら、話し合って導き出す結論であり、お上の意向が全てではないという立場からアドバイスさせていただいたが、そのことについて短いコメントが、僕の名前入りで載せられている。

大事なことは、介護施設は行政の運営指導を受ける立場であるとしても、それは行政機関の指揮命令を受ける従属的立場ではなく、運営指導とは単に機関の機能による職務権限上の問題であるにすぎず、それ以外の問題では、地域福祉を支える機能に機関として対等な意見交換を行うべきであるということだ。そして意見交換や議論とは、決して対立関係を意味するものですなく、住民に対するサービス向上のための建設的議論であるべきだということである。

そういう意味で、施設はもっと法令等を勉強しながら、行政職員と対等な関係を築く努力をすべきである。行政職員と議論が出来ないスキルではしょうがないのである。

興味のある方は、「週刊女性11月6日号」をご覧いただきたい。値段は370円。

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65歳以上の認知症高齢者の数


厚生労働省は8月24日、2012年の認知症高齢者が推計で305万人に上ると発表した。この数字は65歳以上人口の約10%を占めるもので、従来の予想を上回る数になっている。

同省は、このように予想を上回る認知症高齢者の増加原因について
(1)介護保険制度が普及し調査対象者が増えた
(2)高齢者の寿命が延びた
(3)病院で受診する高齢者が増えた

などと分析している。

しかし(2)は首をかしげる。なるほど認知症が発症する最大のリスクは、加齢であることに間違いはないが、従前の予測数をはるかに上回る原因となるほど、急激に寿命が延びているかということについて言えば、首をかしげざるを得ない。

認知症高齢者の推計数のもとになっている厚生労働省のデータは、要介護認定のデータを使っているのだから、(1)の原因が最も影響していると思え、そこに認知症という診断名がより多く反映されているのは(3)が影響しているからだろう。

これは全国各地に「物忘れ外来」など、認知症が疑われる高齢者等が受診しやすい機関が増え、認知症の確定診断がしやすくなったことと大いに関係あると思えるし、痴呆から認知症という呼称変更やサポーター養成キャラバン等によって、認知症への偏見が軽減され、認知症高齢者の姿が社会から隠されないようになってきたことも大きいと思う。

つまり認知症になる人が増えているというより、認知症になった人が、認知症と診断され、実際の認知症高齢者の数がだんだんと明らかになってきているという意味ではないかと思う。もともとそれだけの認知症高齢者が、我が国にはいたという意味である。

しかし残念なのは、そういう状況下にあるにもかかわらず、まだまだ認知症の高齢者の方の実態を隠してしまうスティグマが我が国には存在している。それは認知症高齢者の方々に対して、支援の手を差し伸べるべき関係者が、自身の口で、認知症の方々に対する偏見を助長する「略語」を使っていることだ。認知症を「ニンチ」と略し、「あの人は認知症ではない」という際に、「あの人、認知じゃないから。」等といっていることだ。それも地域包括支援センターという、地域のケア基盤となるべき機関の職員の口から、こういう「不適切略語」が出てくるのだから大問題である。そのことで、認知症の方を家族に持つ人々が深く傷ついている。
(参照:認知症をニンチと略すな!!

関係者の方々は、ぜひ安易な略語を使わないという意識を持っていただきたい。

ところで、今回の厚生労働省の発表によって、今まで認知症高齢者の数は、65歳以上で13人に一人であるとしていた数字は変えなければならないという意味になる。今後の理解としては、我が国において認知症になる人の数は、65歳以上で10人に一人であるとしなければならない。

僕は早速、水俣市で行った25日(土)の「認知症講演」では口頭でそのことを伝えたが、配布資料はこの発表がある前に作成したものなので、ファイルは13人に一人のままになっている。受講者の方々には、この部分の修正をお願いしたい。

ただしこの10人に一人という数字が我が国の認知症高齢者の出現率を正しく表したものであるかどうかは確定できない。医療機関に受診しておらず、要介護認定も受けていない認知症高齢者は、まだたくさんいるのではないだろうか。

そして今後も、認知症が疑われる高齢者の、新患外来受診と確定診断は増えるものと想像され、この数字はさらに変えなくてはならなくなるかもしれない。そう言う意味では、10人に一人という数字は、現時点の調査データの数値であるというもうひとつの理解が必要だろう。

なお85歳以上の数字は今回新しく示されていないので、4人にひとりという出現率は修正しなくてよいものである。

各地域で認知症サポーター研修等の講師役を務める人は、13人にひとりという古いデータ数を修正して、この数字の変化を正しく伝えて欲しい。

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日本を変えてください。


8年ぶりに列島に上陸した「6月の台風」。北海道でも昨晩からかなり激しい雨になり、地域によっては今晩遅くまで雨量に注意が必要なところもある。

昨日の新千歳初の飛行機も、行き先によっては欠航便が出たようだが、今日は予定通り運行されている。週末を中心に、全国各地で講演活動を行なっている僕にとって、飛行機の離発着は切実な問題で、出発予定日に欠航になるとどうしようもないので、普段から道外に出発する日の天気は一番気になるところである。

今まで飛行機の欠航で講演に間に合わなくなったことはないし、講演地から予定通り帰れなくなったこともない。23年2月の富山県高岡市の講演の際に、出発日が吹雪の天気予報で「飛行機が飛ばない恐れがある」とのことで、主催者である社会福祉法人高岡南福祉会の澤田理事長の配慮で1日出発日を早めて、講演の前々日から富山に滞在したことはあるが、その時も結局天気は荒れず、高岡市でのんびり「空白の1日」の観光を楽しんだ覚えがある。

唯一飛行機が予定通り飛ばなかった経験は、もう十年近く前になると思うが、宮崎県で行われた全国老施協の研修会であった。それは老施協の「第1回広報コンテスト」の表彰式があった大会で、当施設のホームページが2部門で賞を取ったということで、その授賞式に出席して欲しいとのことで、僕が参加したのであるが、台風の影響で着陸できず、宮崎上空から羽田まで引き返すことになった。結局、その日は都内で泊まり、翌日宮崎入りしたが、表彰式には間に合わず、道老施協役員が替りに賞状を授与してくれた結果となり、何しに行ったのかなあ〜と思った記憶がある。
(ちなみにその時は賞金が出た。確か10万円。しかしホームページの作成責任者で、管理人の僕には一切おこぼれもなし。むしろ飛行機が引き返した日は、宮崎のホテル代も既に払ってキャンセルできず、都内の宿泊費が余分に発生し自己負担出費が増えた!!)

今週も、金曜日の18:30〜町田市民ホール第4会議室(東京都町田市森野)で「傍らにいることが許される者になるために〜転換期において求められる介護と福祉とは何か」というテーマの講演を行うため、金曜日の午後に新千歳を経つ予定だ。この日も天気は大丈夫そうで、昨日でなくてよかったと胸をなでおろしている。

そんな嵐の中、日本の政治も大荒れの様相だ。しかもそれは我々の職業や、日常生活に関連する「税と社会保障の一体改革」を巡っての議論だから無関心ではいられない。しかしその状況は、党利党略を前面に押し出した選挙制度改革案も巻き込んで、またまた魑魅魍魎の跋扈する、国民不在の政治ごっこである。

このことに憤っている国民は多いだろう。僕も自分のフェイスブックに次のような一文を昨日書いた。フェイスブックで繋がっていない、ここの読者にもそれを紹介しておこう。

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弱肉強食という資本主義の論理は、社会福祉の理念と相入れるものではない。自己責任という言葉を、弱肉強食という意味で使ってしまうところから国家の退廃は始まる。

社会保障と税の一体改革って、結局のところ党利党略や、個人の政治信条だけが先行して「国民の暮らし」より、財務省の財布しか念頭にないじゃないか。

必要なお金は払うよ。でもそのお金が、必要なところに本当に使われることになるのか疑わしくなるような「駆け引き」ばかりにエネルギーを使いすぎだ。狐と狸の化かし合い、政治ゲームばかりにエネルギーを使いすぎだ。狐と狸の化かし合い、政治ゲームばかりにエネルギーを使いすぎだ。狐と狸の化かし合い、政治ゲームしか国民に見えてこないのはどうしてだ?

社会福祉政策は国家を運営する政権の義務である。人の命を守り、人の暮らしを保障する社会のセーフティネットを構築しないと、人間社会としての国家は成立しない。個人の財とは、個人の才覚だけで手に入れることができるわけではなく、要因や理由が様々にあろうとも、「社会財」がたまたま特定の場所に集約しただけという観点から言えば、財の再分配システムは必要である。国家全体で社会的弱者を救済するための仕組みを作ることは必然で、そこに財の再分配としての相互扶助の考えをシステムに組み込むことも必然だろう。これは間違いなく国家の責任なのだ。

よい国とは究極的には、国民すべてが幸福を感じることができる国家であり、「この国に生まれてよかった」と思える国だろう。

政治家が国家を目指さずに、何を目的とするというのか・・・。
権力者諸君

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こんなことをファイスブックでぼやいている。

そんな中にも少しだけ希望の光がある。当法人理事で、登別選出の自民党所属道議会議員・堀井学さんが、次期総選挙で、ここ登別を含めた北海道9区から立候補することを表明したのである。

北海道9区とは、ここ登別を含めて、室蘭市、苫小牧市、伊達市、胆振総合振興局管内、日高振興局管内という地域で、総面積は広島県に匹敵し、全国第6位の広さである。

そして現職は元総理で民主党の鳩山由紀夫衆議院議員である。鳩山氏は、2009年の第45回衆議院議員総選挙において、小選挙区制が始まって以来初の得票数20万超えを果たす等、この地区で負け知らず。他党候補は一度も勝っていない。

その元総理に挑むのが、我が社会福祉法人・登別千寿会理事である堀井学さんである。

堀井学氏

堀井さんはリレハンメルオリンピックスピードスケート500mの銅メダリストである。その他にも世界大会で27回優勝、世界記録を3度記録しているアスリートだ。しかしいろいろな肩書きを横に置いておいて、人間として非常に尊敬できる方である。利害を別にして人としてお付き合いしている方で、社会福祉にも大変ご尽力いただいている

今回の制度改正・報酬改定のカッただ中でも、「自由民主党・道民会議北海度議会議員会」主催の「介護保険制度についてのご意見を伺う会」の実現に奔走され、我々の意見に耳を傾けてくれたりしている。(参照:自民党選出道議との懇談会

堀井さんが国政の場で活躍できるようになれば、必ず我々現場の声を拾い上げてくれるだろう。そしてこの閉塞感漂う日本の政治状況を、少しでも変えてくれるのではないかと期待を持っている。個人的にも、これからいろいろな形で応援団としてエールを送っていきたい方である。

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介護福祉系弁護士・外岡潤さんがやろうとしていること。


介護福祉系弁護士という言葉を聞いたのは初めてという方もいるだろう。

それは当然である。外岡潤氏、その人が業界初の取り組みを行なった先駆者であるのだから、一般の人はまだこの言葉を聞き慣れていないと思う。

外岡潤氏東京都豊島区巣鴨にある出張型介護・福祉系専門法律事務所「おかげさま」の設立者である弁護士の外岡潤さんは、「社会的弱者である高齢者や障害を有する方の中でも、特に体が不自由で事務所や裁判所まで来ることができない人の力になりたいと強く願い、当事務所を設立いたしました。」と出張型介護・福祉系専門法律事務所を立ち上げた主旨を公式サイトで紹介している。

彼の活動は、NHK(BS)やテレビ朝日の「スーパーモーニング」等で、介護関係のトラブル解決に取り組む弁護士の姿を追うドキュメントとして取り上げられたり、フジテレビの「スーパーニュース」で、詐欺事件を追いかけたドキュメントが放映されたりして、ご覧になった方もいるだろう。

ただこうしたテレビ放映の影響というのは、メリットとデメリットがあるようで、広く彼の活動を知ってもらえる反面、彼の活動を阻害するような反応もあったようだ。

彼が外出できない高齢者のもとに足を運んだり、時間無制限1回1万円という価格で相談を受け付けているのは、商売以前に、外岡潤という人間としての「志 こころざし」であり、「30分刻みで料金がカウントされたら、時間ばかり気になって相談できないのではないか。」という「心遣い」である。しかしそのことを仕事を依頼する側の当然の権利と思い込んで、彼の仕事に支障をきたすほどの傍若無人な反応も多かったようである。「呆れはてたこと」という彼のブログに、そのことも書かれているので参照し、反面教師としていただきたい。

僕と外岡ささんとの関係は、もともとは「ヒューマン・ヘルス・ケア社」の機関紙「シニア・コミュニティ」の連載仲間である。

そして昨年同社から僕が「人を語らずして介護を語るな。 masaの介護福祉情報裏板」を出版し、23年6月4日、東京都港区芝の「女性就業支援センター」で、初の出版記念シンポジウム「感動できなきゃ介護じゃない〜現場を語らずして介護を語るな」を行なった際に来場いただき、そこで初めてお会いして親交が始まった。そして今年3月24日の、第2作「人を語らずして介護を語るな〜傍らにいることが許される者」の出版記念シンポジウム「〜愛を語らずして福祉を語るな〜」にも来ていただいた。

その時に「てるかいご」という、介護トラブル解決専門裁判外紛争解決の一般社団法人介護トラブル調整センターを設立するお話を聞いた。その内容については貼り付けたリンク先で確認して欲しいが、その設立目的は主意書において
『少子高齢化の著しい我が国において介護の事業者は慢性的な予算不足・人材不足に苦しんでおり、今の紛争状態を放置し訴訟が増加すれば、介護業界自体が早晩衰退するであろうことは想像に難くありません。他方、不満や苦情を訴える利用者やその家族は、損害賠償による金銭的解決ではなく、あくまで事業者の端的な謝罪や真摯な対応を望んでいる場合が多いのであり、現状ではその実現の場が存在しないために、止むを得ず裁判という最後かつ唯一の手段に及ぶのではないかと思われます。
 私達「一般社団法人介護トラブル調整センター」の設立メンバーは、そのような介護トラブルを話合いにより解決し、一件でも多くの不毛な紛争の予防に資することを願って、本法人を立ち上げました。』

とされているように、介護事業者と利用者双方の不毛な争いをなくし、問題の解決を支援するというものである。

その設立お披露目パーティーが6月23日(土)東京都中央区の紙パルプ会館で14:00〜17:00.まで行われる。会費5.000円で、50名定員。申し込みは外岡さんにメールでお願いしたい。(最初にリンクを貼り付けた外岡さんの事務所のサイトから確認できます)

僕は22日に町田市で講演を行なう予定で、23日はちょうど良い日程ではあるのだが、その予定を知る前に23日午前の航空チケットを買って、北海道の予定を入れてしまったので参加できずに残念である。外岡さん、また機会があれば連絡してください。

外岡潤氏2ところで外岡さんは、冒頭の画像でキリリとした表情を紹介しているし、その職業から想像して怖いイメージを持たれる方もいらっしゃると思うが、素顔の外岡さんは、とても優しい方である。

右の画像は、「てるかいご」理事の一人でもあり、NPO法人・もんじゅ代表の飯塚裕久さん(佐藤蛾次郎と間違えてはいけない)とのツーショット写真であるが、飯塚さんがホットコーヒーで渋く決めている横で、外岡さんはお子様系フロートを飲んでおられる。可愛いでしょ。

彼らのこうした活動は、善意と志があって初めてできることだろうと思う。是非彼らの活動を応援して欲しい。

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第5期介護保険事業計画は介護崩壊の始まり

2012年度〜2014年度は第5期介護保険事業計画期間となる。(2012年4月1日〜2015年3月31日まで)

この計画期間中に、介護施設を始め、特定施設やグループホームなどの箱物も数多く建設される。

このこと自体は要介護高齢者が増えることに対応したもので、地域住民の顧客ニーズに合致した必要な対策と言えるであろう。

しかし行政計画は、地域の住民ニーズに対して、いかに必要な社会資源を提供し得るかという観点が主になるから、その社会資源が不足している場合は、必要なサービス量の確保として、介護施設や居宅サービス事業所の数を整備しようというものに過ぎない。そこでどのような人材によってサービス提供されるかまで関知するものではないのだ。

つまりサービスの質は事業者に丸投げし、事業者責任でそれを担保させ、法令上の最低基準を遵守させるための行政指導は行うが、それ以上の質の向上は行政が関知しないという意味である。

だからと言って介護事業者は最低基準さえ守っておればよく、それ以上の責任はないと考えるのは間違いである。それは、福祉援助や介護サービスは人の暮らしを守るのが目的であり、生かしておくだけの最低限の生活さえ保障すれば良いということにはならず、社会的要請にも対応すべきであるからだ。

ここで問題となるのは、介護サービスは対人援助であるがゆえに、人的資源としての人材は不可欠要素で、その質の差によって、サービスの質が左右されてしまうということである。

ところが、この人材の確保に関する対策はほとんどなされておらず、サービス資源の量が増えても、そのサービスを担う人材の確保はまずます困難となる。

介護福祉士の養成校に人が集まらず、かき集めた人材は、将来の福祉を背負って立つスキルをそこで獲得する素養にさえ欠ける人物も数多く含んでいる。しかしそのような状況であるにもかかわらず、養成校の募集定員が満たされず、クラス数の削減を余儀なくされ、養成課程を廃止する学校も現われている。

ホームヘルパーの養成講座も同じで、募集定員を満たし、講座を実施するためには、かなりスキルの低い生徒もかき集めなければならず、そういう生徒は授業を寝ながら受けているだけでヘルパー資格を得ているという現状もある。こういう有資格者が「人材」と言えるかどうかは大いに疑問だ。

既に介護サービス現場は、人材が枯渇しているのではなく、人材とは言えない人員の枯渇現象が起きていると言って過言ではない。

人材育成は本来、国のシステムに組み込んで、政策として実施しなければ充分なものにはならない。そうであるにも関わらず政策としての人材確保の方策は皆無だ。介護福祉士の養成課程の見直しや、ヘルパー資格の見直しをいくら行ったとしても、それは所詮人材確保とは別方向からの、資格のハードルを高くする方策にしか過ぎない。それも必要ではあるが、一方で人材の数をどう増やすのかを考えた時、高くしたハードルを乗り越えて、なおかつその資格取得を目指そうという「動機づけ」が若年層に生まれなければならない。

しかし現在のように、卒業さえすれば、国家試験を受けなくとも介護福祉士の資格を得ることができる状況であるにも関わらず、介護福祉士養成校に人が集まらない現状は、その資格を得て介護を一生の職業にしようとする根本の「動機づけ」が生まれにくいという意味である。

若者が介護サービスの職業を回避する理由は、その仕事がいわゆる3Kと言われるように、労働条件が厳しいという意味だけではない。決して楽な仕事ではないことは分かっているが、若者の中に「人の役に立ちたい」「社会に貢献したい」「人の手助けをできる職業に就きたい」という動機づけは減っていないのである。

にもかかわらず、介護福祉士を目指す若者が減っている最大の理由は、他職種に比較して年収が低い状況を鑑みて、中学や高校の進路指導で、介護福祉士を目指すことについて再考を促す進路指導が行われているからだ。

もっと若者が一生の仕事として考え得る労働対価を与えられる介護報酬レベルにしない限り、この状況は変わらない。ここはもう政策論である。官僚の考える財源論からの制度設計や報酬設計ではもう駄目なのだ。しかし来年4月からの介護報酬は、実質大幅減額である。つまり人材確保という部分への手当をより困難とする方向にかじを取られたという意味である。

この状況下で、資格取得のハードルを高めても、その目指す質の確保は難しく、むしろ資格取得者の絶対数を減らして、現場の介護サービスの崩壊を助長する引き金になりかねない。

介護サービスに従事する人材の数を、第5期計画で予定されているサービス量に対応すべく確保する方策はまったくない。この部分に関して言えば、政治は無知・無能で、認知症状態である。この部分に対策を講じる必要があると真剣に考え、活動している政治家は皆無だ。

このような状態で5期計画の施設・事業所整備が進めば、地域の中で決められたパイの介護職員の奪い合いが激しくなるだろう。それは結果的に良い事業者に、良い人材が集まるのではなく、介護サービス事業者をとっかえ、ひっかえ渡り歩くスキルの高くない人員を増やすことだろう。なぜならスキルが低くても、雇用される場所を見つけるのにさほど苦労はしないのだから、自分の質の低さを他人や事業者のせいにして、不満があれば就業場所を変えればよいと安易に考える職員を増やす結果をもたらすからだ。

僕は外国人労働者の確保も、経済連携協定(EPA)のよるのではなく、介護労働者の数の確保という本旨から見直すべきであると主張しているが、当の外国人労働者は、既に日本を介護労働現場としては選択しない意識が強くなっており、この部分でもそっぽを向かれている。今のように、莫大な国費をかけて、外国人研修生のうち年間数人という数しか介護福祉士になれない状況を国費の無駄と判断し、それを変えようとしたところで、当の外国人労働者は「はい、それなら日本に行きます」という状態ではないのだ。

そのような厳しい状況下で、国内の若年者層を、介護サービスの人材に育成すべきであるにも関わらず、この国の政治はそのことに無関心だ。

介護労働を生涯の生活設計が可能になるものにしない限り、この国の未来は財源から崩壊するのではなく、国の責務である社会福祉の崩壊から始まるだろう。

制度あって、サービスなしという状況は、サービスに従事する人材の枯渇から始まることは、誰に眼から見ても明らかだ。ここの部分の方策を示す、政策提言を行わない国会議員は、介護の現状をまるで理解していないのだろう。この国の将来を真剣に考えて、介護労働を担う人材確保に汗をかいてくれる政治家が出てこないと大変なことになる。

そういう意味から言っても、来年度(本年4月)からの第5期計画は、この国の「介護の破綻」の序章ということができるだろう。僕のこの予言を「荒唐無稽」な空想と笑って無視することができる人は、この業界に何人いるだろうか?

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福祉につきまとうスティグマ

この国の社会福祉の歴史を振り返ると、福祉制度や福祉援助を利用する国民の側の意識の中には、常にスティグマが存在していた。

スティグマとは「他者との違いを、ことさら貶(おとし)めつつ、指をさす行為」として存在し、それは「他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象」であり「烙印(らくいん)」と呼ばれることもある。

我が国では、福祉制度やそのサービスを利用すること自体を「おかみの施し」と捉え、サービスを受けること自体を「負い目」に感じ、同時にサービスを受ける他人を「負い目を持って当然の存在」とみる歴史があった。そしてそのスティグマは依然として消滅していない。

特に高齢者福祉においては、年をとること自体を「社会の負い目」とみる「問題老人史観」が存在し、それが新たなスティグマを生みだし、社会の人々の心の中に根強くそれを蔓延させる要因ともなっている。

それは同時に、税金による措置を嫌い、福祉を拒否する国民性を生みだす元凶でもあった。

2000年に施行された介護保険制度は、社会保障構造改革と言われ、高齢者が権利として介護サービスを利用すると言うキャッチフレーズが唱えられたことで、福祉が国民のより身近な存在になり得る可能性を含んでいた。そのために福祉を拒否する潜在的国民性が緩和されるという期待を持つことができるものであった。これによりスティグマが消滅されるのではないかという期待も持てた。

特に制度施行時の国策が「サービス利用促進」であったことから、さらにこの期待は高まった。

しかし保険給付による介護サービスが社会に浸透しかけた途端に、国はその方針を180度変え、給付抑制に走りだした。それは時には「ケアプラン適正化事業」「介護サービス適正化事業」と称され、あたかも保険給付サービスを計画する人間と、使う人間が両者とも罪人であるかのようなスティグマをあらたに作りだした。

訪問介護の生活援助(家事援助)制限などは、その典型である。一部の不正を全体の悪として制限を強化し、その制限の枠から少しでもはみ出したものを不正と決めつけ、このことを適正化と考える人々は、自らを聖人君子で、神のごとく間違いのない高潔な人物と勘違いしているのではないか。

我が国は先進国と呼ばれている割には民度が低く、成熟していない社会と言ってもよいだろう。福祉に付随するスティグマを生みだす意識レベルは、江戸期のそれと変わりないことは役人の「制限に酔う醜い姿」を見れば明らかだ。

法律は本来、人の生活を安全に豊かにすべきものなのに、暮らしを不便にして不幸をつくり出す「運用法令」が百出しているのが、この国の役人が作った介護保険制度である。我々社会福祉援助者は法律や法令を守りながらも、悪しきは捨て、より良い法律に変えてゆくというアクションを起こさねばならない。役人の作文では国民の暮らしを守ることはできないということを強く意識すべきである。

介護保険制度改正議論も、馬鹿な論議が繰り返され、相変わらず財政論から一歩も踏み出すことなく、何も決まらない、何も進まないでいる。そのため結局は厚生労働省老健局という一部局で作文されたものが、そのまま新制度になる。その責任の一端は、介護給付費分科会の委員が真に必要な制度の構造を示さないことによる。

人間にとっての「安全と安心と安定」が保障されない社会は未成熟な社会である。現代社会における国家とは、本来それを実現するために国民から負託された組織ではないのか。国家がその責任を果たさなくなった時、財源論など唱えている暇はなく、国家という組織そのものが崩壊しかねない。

福祉に付着するスティグマを消し去り、全ての国民に「安全と安心と安定」を与え、暮らしを守ることを、国家が保障するという意識が育てば、それ自体が社会のセーフティネットである。経済活動だけでは救済し得ない人間の精神構造をも内包したセーフティネットは、社会福祉という領域でしか創造し得ないものである。

政治理念とは、国家を形成する基盤であるはずの「国民の暮らし」そのものを守るためにあらねばならないはずだ。そのことが忘れ去られてはいないのだろうか。何を守るべきかを考える順序を間違ってはいないのだろうか。

そしてそのことに何の意義も唱えない有識者と呼ばれる「学者連中」は、単なる国の機関に救う寄生虫にしか過ぎず、「御用聞き学者」と呼ぶほどの価値もない。

※昨日からライブドアのアクセス解析機能が正常に動作していないようです。

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まやかしの税制改革論議を斬る(後篇)

(昨日の記事「まやかしの税制改革論議を斬る(前篇)」からの続き)

税制改革議論に欠落している視点とは何か?

現在の税制改革論議では、税制における直間比率の見直し議論という声がほとんど聞かれないが、所得税等の直接税は本当に現代社会にマッチした税率になっているのだろうか?そう考えた時、我々はある問題に行きつく。それは累進課税が本当に機能しているのだろうかという問題である。

日本の所得税の最高税率は1983年には75%であったが、小泉内閣以降の減税措置で大幅に引き下げられており、現在の最高課税率は40%である。現在の社会情勢を鑑みた時、この大幅な所得税減税は本当に正しかったのだろうかという疑問を持たざるを得ない。この減税で恩恵を受けているのは、いわゆる富裕層が主となっているからである。

しかもここにはマジックが仕掛けられている。それは証券取引への優遇税制制度である。証券取引についての課税は20%(いまはさらに特例として10%)であり、しかも分離課税となっている。つまりお金持ちは儲けたお金を株に投資すれば税金が極端に安くなるのだ。

ある資料を読むと、例えばこの分離課税をうまく利用すれば、年間1億〜2億の高額所得者は最高税率を26.54%に抑えることができる。所得100億円以上の人はさらに税率が減り税率が14.2%になるそうである。

このような税システムを、頭のよい政治家や官僚が気づいていないわけがない。それなのに超高齢社会の新たな税システムを議論する場で、なぜこの所得税と証券取引への優遇税制制度が議論の俎上に上らないのだろうか?税制における直間比率の見直し議論がなぜされないのだろうか?

それはとりもなおさず、政治家や高級官僚がこれによる恩恵を受けているからではないのか?自分達の利益を守るために、全ての負担を国民に強いるという議論が消費税引き上げ議論ではないのか?
 
このように高所得の税率が低くなるという問題が明らかであるにも関わらず、高所得者の所得税率を上げる議論がまったくされないで、消費税のアップのみが論ぜられるのは問題である。国はなぜ累進課税率の抜本見直しの提言をしないのだろう。これこそ弱者切り捨て、格差社会の拡大の元凶ではないのだろうか。そういう意味では震災復興の臨時増税案として、所得税に2.1%の課税を上乗せする法案が国会に提出され、衆院で可決されたことはある程度理解できる。しかし富裕層の優遇税制を抜本的に見直さないままでの増税では、富裕層に属さない多くの国民の暮らしはますます圧迫感が増すだろう。

しかも先に行われた政策仕分の求めに応じて、物価連動して引き下げられていない年金給付費を24年度から3年間かけて減額する意向を小宮山厚生労働大臣が表明している。年金のみで生活している高齢者にとって、この引き下げと消費税アップはダブルパンチでかなり厳しい。富裕層に優しく、そのカテゴリーに属さない多くの国民には厳しい政策である。これが政治の正論と言えるのだろうか?

もちろん僕は、やみくもに消費税引き上げ反対論を唱える立場をとらない。いつかそれは必要になるだろう。しかしその前にこの所得税と証券取引への優遇税制制度の見直しが先だと主張する立場である。この問題を抜きにした「税制改革議論」「消費税引き上げ議論」は、『まやかしの税制改正議論』である。

もちろん個人の所得収入とは、個人の能力と努力で得られる要素が大きいが、大手のコンピューター関連ソフト会社のオーナーなどは、公の場で「一生では使いきれない収入と資産が既にある」と言ってはばからない。そういう巨額の個人資産は、すべて個人の能力や努力で得られたものと考えるのではなく、社会全体の「財」が一ケ所に集中していると考えられるべきで、社会還元されるべき資産として、再分配の視点があって当然だろう。

巨利は社会活動の結果であって、社会が存在し初めて成されたものである。所得税に対して、労働意欲を削ぐような重課税は社会の活力を奪う元凶になりかねず、それは問題であるが、国民の生活水準や一般感情からかけ離れた巨利に対しては、きちんと国と国民に還元する税システムでなければならない。日本の政治家はここの視点が欠けているのではないのか?国民感情とこの部分がかけ離れているのではないのか?

わずか数年のうちに一生涯使い切れない資産を築けるチャンスがある国の裏側には、必要な医療や介護を受けられない人々が増えている実態がある。このことをもっと国民議論にすべきである。

節税対策なども一般のサラリーマンや、多くの国民とは縁のないものである。節税という名の税金負担義務の放棄は本当に行われていないのか、庶民のレベルとの比較検討の視点がないと平等社会は実現されない。

総務省統計局が出す「家計に関わる統計資料」の数値では、国民の平均貯蓄額や平均資産の額が、一般的な国民感覚からすれば現実的ではない高い数値が示されている。国の政策の基礎データとなる数値が、あまりに国民の生活実態とかけ離れている意味は、ごく一部の巨額な資産を持つ個人の数字が平均値に落とす影響が大きく、その中に多くの一般国民が飲み込まれて平均とされている為である。つまり格差社会は現実に貧富の差を広げているのである。

お金持のところにしか社会の財が集まらない仕組みというのはやはりおかしい。

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まやかしの税制改革論議を斬る(前篇)

格差社会とは何か。それは貧富の差が広がる社会という意味にとどまらず、社会の様々なシステムが、富める者にはより有利に働き、貧しいものには機能せず、個人の努力のみでは貧困層からの脱出が困難となる社会である。

そこでは経済的弱者を含めた社会的弱者に様々な制度の光が行き届かず、その位置から脱却できない階層を必然的に生み出し、本来無差別公平に配分されるべき「社会財」も特定階層の占有状態となり、豊かさも貧しさも両方が世襲され、富裕層と貧困層の差は益々拡大していく社会となる。

そうしないために、「社会財」は収益や所得の再分配という形で社会全体にまわす必要があり、そのために累進課税制度が存在し、国家は、そこから徴収した財を必要な場所に分配する機能と責任と義務を持つ。社会福祉制度に包括される社会保障費支出もこの財の再分配の一翼を担うものだ。つまり介護サービスの財源とは、とりもなおさず社会財の再分配として考えなければならない一面を持つという意味である。

正しい社会財の再分配機能も持つことによって、現代社会の政治システムは初めて民衆に向けて国家としての責任を果たすことになる。間接税はあくまで、この財の再分配機能を補完するものであり、財源の中核を担うものにしてはならない。そういう意味で、今日から明日にかけて、消費税の引き上げ議論にメスを入れたいと思う。

社会福祉制度の議論は、財政論を抜きには語れないという意見が多くなりつつある。確かに財源のない給付はあり得ないという意味ではその意見は正しいであろう。

しかし一方、慶應義塾大学の金子勝教授のように「雇用・年金・医療などのセーフティネットが制度として機能していないと、市場そのものも破たんする」という考え方から、「福祉を拡充する小さな政府」も必要で、それは可能だとする「社会のセーフティネット張替え論」という考え方もある。

世界に例を見ない超高齢社会を迎えているわが国において、社会福祉制度を財源からの視点からしか論議できないようではお先真っ暗である。国の責任という立場から考えると「この世に生まれたすべての人間が誰であろうと、人間に値する生涯を営む権利を有し、国や政府はそのことを保障し援助する責務がある」という原理原則からの議論が不可欠である。社会福祉とは国を構成する不可欠要素であることを忘れてはならない。

震災の復興支援や介護サービスを含めた社会福祉制度の財源をどうするかという議論の延長線上には、消費税の引き上げという問題を避けては通れないという考え方が増えており、実際に今日の社会福祉制度を巡る状況を鑑みて、国民の中に「消費税の引き上げやむなし」という意見が増えている。

もちろん国民感情は、その前に中央官僚等の税金の不適切な使い方を是正し、無駄を省いて、なおかつ足りない部分は消費税の引き上げに財源を求めざるを得ないということであろう。しかしながら消費税の導入時や、税率を3%から5%に引き上げた際の「絶対反対」という声は少ないように思え、消費税に対する国民の「免疫」あるいは「あきらめ」により抵抗感が薄らいでいるように思える。

ところで消費税という間接税の実態は、本当に国民全体としてみて公平な税金なのだろうか。その税率引き上げは社会保障の充実に繋がるものなのであろうか。

消費税自体は一律決められた税率が消費に対して課税されるもので、現在は100円のものを誰が購入しようと税金は5円であり、そういう意味では「公平」だという。しかし100円の価値自体がまったく個人によって異なる現実において、同額=公平という理屈は成り立たない。年収が数億ある金持ちが支払う5円と、個人では絶対に生産収入が得られない子供や、就労不能な重度障がい者の方々が支払う5円とではその意味がまったく異なるのである。

消費税が上乗せされる物品の購入額が大きくなればなるほど、この「実態価値(あるいは実勢価値)」の差は広がり、消費税の支払いができないことで、物を手に入れることができない人々と、そうでない人々の生活格差はどんどん拡大する。

食品や生きるために必要な生活必需品に対する消費税というのは、この格差を否が応でも拡大させているのである。そういう意味からいえば格差が広がっているといわれる現代社会における消費税は不公平を拡大させる税方式という一面を常に内包せざるを得ない。

消費税を社会福祉財源の中心とする社会システムでは、富めるものは益々裕福に、貧しきものはますます苦しくなる。そしてそれは中産階層が、病気や障害をきっかけにして貧困に見舞われるリスクをも高めている社会であり、まさにセーフティネットの網の目が破れているといえるであろう。

これをいくら社会福祉政策への支出に限定する目的税にしたとしても、その本質的問題自体は変わらない。逆に福祉目的税化の先には、目的税が足りなくなれば社会福祉施策の水準を下げてよいという「まやかしの理屈」を生み出し、税率を安易に上げる理由にされる危険性をも内包している。

つまり消費税などの税金を福祉目的税化することは、社会福祉政策の国の責任を国民に転嫁する意識を生み出すことにもなりかねない「諸刃の刃」であることを忘れてはならず、本来国の責務である「国民の生命と生活を守る」という政策に対する目的税の導入は、目的税だけで社会福祉を運用するのではなく、目的税をすべて社会福祉に使い、さらに必要な財源は他からも求めることができるというシステムをきちんと構築した上で慎重に考えられねばならない。

しかし消費税の安易な引き上げ議論は、格差の拡大という意味からだけではなく、もうひとつ別の角度からも慎重に考えられるべきである。

なぜなら税制改革の主義論が、「消費税を、いつ、どれくらい引き上げるか」という方向で進んでいる実態を冷静に見つめ直し、もう少しマクロな視点で税制全体を眺めた時、我々はある大きな矛盾に気がつかずにはおれないからである。

ではその矛盾とは何か?(まやかしの税制改革論議を斬る(後篇)に続く

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池田論文の誤り

『介護保険情報』という業界誌の2011年10月号・論壇に『「空想的介護保険論」からは何も生まれない〜結城康博「日本の介護システム」への批判』という論文が掲載されている。

執筆者は地域ケア政策ネットワーク研究主幹という肩書をつけた池田省三介護給付費分科会委員である。

結城論文に対する批判だけで専門誌の1号分の論評を書くというのもよく理解出来ないが、その内容は相も変わらず独断と偏見に基づいた現状認識に欠けるひどい内容である。批判の対象になった結城氏こそいい迷惑だろう。

池田省三委員といえば10/7の81回社保審・介護給付費分科会でも「介護サービス経営実態調査」の結果として示された収益率について「保険制度で守られた市場である介護で、5%。10%の収支差率を上げるのはいかがなものか」と発言している。

それもこれも介護給付費分科会が介護報酬を下げる議論しかしないから事業者は将来の経営を見越して収益を確保しなければならない結果である。このことについて何にも考えていないのだから驚く。もし改正時にきちんと人件費のアップ分を給付費に上乗せするという保障があれば、事業経営者はさほど収益をあげず、報酬3年目(改定直前)には収支とんとんとなるように職員に給与を渡せるって。そうではないから下がったときに備えるための収益を確保しておかねばならない結果だろうに。

ところでこうした彼の介護サービス事業経営や収益に関する発言が常に的外れな理由が、この批判論文で明らかになっている。それはグループホームをやり玉に挙げて次のように論評している個所でも明らかだ。

「介護報酬が介護労働者の賃金に正しく反映されているかは〜グループホームを例に取ってみると〜介護報酬の75%が労働者に配分されるとしたら、1対1.5の配置(職員6人)であっても月額29.5万円の賃金が支払えるはずである。ここでは社会保険の事業主負担を無視しているがその額は諸加算収入で十分賄える。」と書かれている。

おいおいこの空論ぶりはどうだ。法定福利費の事業主負担など到底「諸加算収入で十分賄える。」ものではないだろう。しかも国の政策で事業主負担率は平成29年まで毎年上がり続けるんだぞ。分かってるのか?

そもそもこの論理が荒唐無稽である最大の理由は、昇給による経費アップをまるで考慮に入れていない点である。例えば紙の上で新規事業所が75%の損件費負担率で経営できたとしても、次年度以降の経営はどうするんだ。介護給付費が上がらないなら、その事業所に就職した新卒者は一生初任給の額が据え置きだぞ。

しかもこのシミュレーションを見ると、彼の中では、特養やグループホームの土地や建物は空から降ってくるか、地から沸いてくるか、とにかく自然にそこに存在しているかのように考慮されていない。そのコストは無視されている。土地・建物は全額補助金で手に入れることなんて不可能だぞ。しかも箱物を立てれば修繕費を含めたランニングコストが初年度から発生するんだぞ。

馬鹿馬鹿しくて論評にも値いしないが、多くのグループホームは、土地・建物の償還金を介護給付費の中から支払いながら事業経営し、固定資産税をはじめとしたそれらに対して発生するコストも捻出しながら運営しているんだぞ。利用者が使う光熱水費以外の、そのコストだって事業主負担だぞ。事業経営を分かっていない人が、デタラメな経営コスト計算をするなって。

実際に事業経営したことがない素人の典型であるが、箱物の維持管理コストの視点が全くないのである。こういう人間が経営者になれば事業は3日でつぶれる。

特養の内部留保も1兆円を超えるって批判しているけど、内部留保って一体何か意味が分かって言っているのか?しかも全国の特養でその金額を割ったら1施設いくらになるのか分かっているのか?

内部留保とは別に経営者が個人の資産として懐に入れているものではないぞ。池田論文は、この費用を「剰余金」と書いているが、これも間違った理解だ。剰余金とは措置時代の取り扱いで、現在のそれは「繰越金」である。

そもそもその額が全体で大きくなる理由は介護報酬の仕組みそのものにある。介護報酬は3年ごとに改訂され、それは必ず上がる保障がなく下げられる可能性があるものだ。現に過去3回の報酬改定のうちプラス改訂は1回しかない。よって報酬減に備えた内部留保はある程度必要だし、それとて建設補助金が削減され続けている現状に於いては10年20年単位の建物の修繕や建て替えで消えていく費用であり、経営者が搾取しているものではない。一定期間後に社会還元される費用なのである。

さらにいえば、3年間は同額の介護報酬で経営しなければならないのだから、3年間の当初年に収入と支出が均衡してしまえばあとの2年間は赤字で経営が困難になる。3年目に収益がほとんど出ない状況で定期昇給を行ったとしても1年目と2年目には繰越金が出るのは当然であり、さらに3年目で収入と支出が均衡してしまえば、次の改訂で給付費が上がらねばたちまち経営困難になるのだ。だから内部留保をできるだけ減らすことを政策にするのであれば、過度な繰越金を作らなくても、介護報酬改定時に定期昇給分に見合ったプラス改訂が着実に行われるようにせねばならない。当施設のような従業員100人規模の施設であれば、人件費支出に占める法定福利費の事業主負担分が毎年500万円前後の負担増となる。この負担をどうするのか?毎年繰越金をある程度出していかねば、将来的に支払えなくなるものだ。

こういう理屈についてはまったく分からない人間なんだろう。自分で事業経営した経験も、そのスキルもないからだ。そんな奴が何が経営シミュレーションだ。

収益率には、こうした次年度以降の土地・建物の償還金や維持費が含まれており、これを除けば実際の収益など微々たるものだ。経営者の懐に金が入っているわけではないのだ。そんなことも分かりもしないで収益率だけ見て報酬をカットすれば、結局削られるのは従業員の給与か賞与だぞ。

次期制度改正・報酬改定ではこのような理屈で介護給付費が削減される(特に地域区分で加算率がアップしない地域は一律引き下げだ)影響により、職員給与はカットの方向だ。

それからこの論文の中で池田は、結城准教授が過去(措置時代)の特養について現在より軽度の利用者がいたと書いていることに対して『老人福祉法は、「常時介護を必要とし、在宅生活が困難な高齢者」(経済的要因による選別はないものとされている)が特別養護老人ホームの入所対象者となっている。つまり、寝たきり高齢者を対象としており、それ以外の要因による者は養護老人ホームの対象である。』として措置費時代の特養に今より元気な高齢者(つまり現在では要支援者と認定される状態の高齢者)はいなかったと結論付け、結城論文を批判している。

これも現状認識が間違っている。なぜなら老人福祉法の規定はその通りであっても、『常時介護を必要とする』という判定基準は別にあり、それは

日常生活動作の状況
入所判定審査票による日常性活動作事項のうち、全介助が1項目以上および一部介助が2項目以上あり、かつ、その状態が継続すると認められること。

・精神状態
入所判定審査票による痴呆等精神障害の問題行動が重度または中度に該当し、かつ、その状態が継続すると認められること。ただし、著しい精神障害および問題行動のため医療処遇が適当な者を除く。

↑このどちらかに該当すれば市町村で特養入所対象者と判定していたもので、これは全国共通基準である。

よって障害程度は軽く歩行に問題はないが、利き腕の麻痺で着替えと食事の際の魚の骨をとるなどの一部介助を要し、入浴は自力でできずに全介助とされるような方も入所対象になっていたという事実がある。しかも当時の養護老人ホームは布団でベッドの施設は少なく、入所要件として「布団の上げ下ろしができる」という条件があったため、それができずに特養に入所する元気な高齢者がたくさんいたという事実もある。これらはすべて市町村が判定・措置して特養入所していたケースである。

池田氏はこうした基礎知識さえ確認しない状態で他人の批判論文を書いているということだろうか。繰り返していうが、これは個人のブログ記事に書かれているものではなく、業界の専門誌に書かれている内容だぞ。裏をとるという基礎作業もしないで、そういう論文を書いてよいのか?

こんな人が、偉そうに経営論を唱え、介護給付費の額に言及している。そんな分科会で議論されて作られる制度であるとしたら、介護保険制度など継続させる意味のない制度にしかならない。

池田省三に送る言葉があるとすれば、結城論文批判のタイトルをそのまま用いて『空想的介護サービス経営論からは何も生まれない』とでもしようか。

我々は後世にしっかりと我々が見て聞いた事実を伝え本当の姿を明らかにしていかねばならない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

※本記事中、池田省三氏を中傷する言葉として「この人、既にお惚けになっているのではないのかと疑いたくなる。」「まったくあの白髪頭の中には脳みそではなく、糠味噌でも詰まっているんじゃないのか。」「エセ学者」「無知の塊のような輩」「彼の「老害」ぶり」などという表現がありました。これは池田省三氏の名誉を棄損する不適切な表現であったと慎んで謝罪いたします。

介護崩壊の前兆?

今朝のテレビ報道を見て感じたことは、この国のマスメディアとは国民の英知・知性を代表せず、単に時代の流行を代表するだけの社会的使命を持たない「お気楽情報伝達媒体」に過ぎないということだ。

未曾有の国難からの復興に取り組むべきリーダーが変わろうとしている最中、その有力候補が立候補表明したことも関係なく、国際情勢では原油価格や国際経済に直結するリビア情勢が大きく動こうとしていることにも関係なく、国内経済に大きく影響するムーディーズの日本国債格下げ問題も関係なく、国内の事件では凶悪な一斗缶切断遺体殺人事件の容疑者が逮捕されたことも関係なく、(ファイターズの連勝が止まったことはもともと関係ないが・・・。)今朝のテレビニュース報道のトップは、一芸能人の暴力団との交際を巡る引退記者会見である。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

テレビ電波という公器を使って流す報道の内容を、製作スタッフやキャスターの興味でしかプロデュースできないなら小学生の学芸会と同じである。恥を知れと言いたい。

昨日から今朝にかけての僕の中でのトップニュースは、財団法人介護労働安定センターが公表した「平成22年度介護労働実態調査結果について」である。

これによると
(1)1 年間(平成21 年10 月1日から平成22 年9 月30 日)の離職率の状況は、全体では17.8%(前年度17.0%)であった。また、採用率の状況は全体では25.8%(同25.2%)であった。
(2)介護サービスに従事する従業員の過不足状況を見ると、全体では不足感(「大いに不足」+「不足」+「やや不足」)は50.3%(前年度46.8%)であった。「適当」が48.8%(同52.3%)
であった。
(3)介護サービスを運営する上での問題点を見ると、全体では「今の介護報酬では人材の確保・
定着のために十分な賃金を払えない」が51.5%(前年度52.7%)であった。
(4)介護職員処遇改善交付金に伴う経営面での対応状況を見ると、全体では「一時金の支給」
が50.0%、「諸手当の導入・引き上げ」が29.8%、「基本給の引き上げ」が15.7%、「教育研
修の充実」が15.3%であった。
(5)月給者の所定内賃金は、全体では216,494 円(前年度212,432 円)であった。
(6)仕事を選んだ理由のうち、「働きがいのある仕事だから」が55.7%(前年度58.2%)となっている。
(7)労働条件等の不満では、「仕事内容のわりに賃金が低い」46.6%(前年度50.2%)、「人手が足りない」40.1%(同39.4%)、「有給休暇が取りにくい」36.9%(同36.9%)、「業務に対する
社会的評価が低い」32.2%(同36.4%)となっている。

と総括している。つまり2008年度(平成20年度)から続いていた離職率の改善(低下)傾向が止まったことが分かる。

しかもそれは事業者が望む結果ではなく、なんとか人員を確保しようと残業代を除いた平均月収は前年度と比べても4千円アップさせているが、離職低下にそのことは繋がっておらず、事業者の人手不足は恒常化し、そのことが離職原因の2番目に位置するように、人手がない不満がさらなる離職を生んでいることが分かる。

しかも給与は徐々にアップしているとはいえ、それは全産業平均で見ると大幅に低い状況は変わっていない。しかしそれは必ずしも事業経営者が搾取していることを現わすものではなく、現在の介護報酬の水準で支払うことができる給与のぎりぎりを支出していると考えている事業経営者が多い事が分かる。しかしその結果は「仕事内容のわりに賃金が低い」という相も変わらない結果となって現われており、これを改善するには介護報酬の引き上げしかないと感じている事業経営者が多いことがわかる。

この内容に反して、国の経営実態調査や介護給付費分科会提出資料では、内部留保が多すぎるとか、収益率が高すぎるなどというデータが出されているが、いったい平均経営年数が何年の事業者で、どこの地域のデータなのかが定かではない。サービスに参入した年数が少なければ、職員の勤続年数だって短いのだから当然給与水準は低く抑えられる。しかし長い年数の経営実態があり、職員の離職が少ない「優良事業者」であればあるほど、職員の給与水準は年功に応じて高くなり、それは経営の圧迫要素である。ここをしっかりみないと、経験の長い職員を雇用し、サービスの質の高い事業者が経営困難でサービスから撤退していくことになり、「安かろう悪かろう」のサービス事業主体だけが数多く残って行く実態を生む。

社会福祉法人の内部留保(繰越金)の額が問題になっているが、そもそも介護報酬は3年ごとに改訂され、それは必ず上がる保障ないもので、下げられる可能性があるものだ。現に過去3回の報酬改定のうちプラス改訂は1回しかない。よって報酬減に備えた内部留保はある程度必要だし、それとて建設補助金が削減され続けている現状に於いては10年20年単位の建物の修繕や建て替えで消えていく費用であり、経営者が搾取しているものではなく、一定期間後に社会還元される費用である。

さらにいえば、3年間は同額の介護報酬で経営しなければならないのだから、3年間の当初年に収入と支出が均衡してしまえばあとの2年間は赤字で経営が困難になる。3年目に収益がほとんど出ない状況で定期昇給を行ったとしても1年目と2年目には繰越金が出るのは当然であり、さらに3年目で収入と支出が均衡してしまえば、次の改訂で給付費が上がらねばたちまち経営困難になるのだ。だから内部留保をできるだけ減らすことを政策にするのであれば、過度な繰越金を作らなくても、介護報酬改定時に定期昇給分に見合ったプラス改訂が着実に行われるようにせねばならない。

特に現在の人件費支出の構造をよく考えると、国の政策と深く関連して、毎年法定福利費(年金や健康保険の事業主負担分を含む)が階段状に上がっているのだから、これに見合った報酬アップが必要である。これは毎年確実に上がる自然増分なのである。具体的に言えば当施設のような従業員100人規模の施設であれば、人件費支出に占める法定福利費の事業主負担分が毎年500万円前後の負担増となる。この負担をどうするのか?毎年繰越金をある程度出していかねば、将来的に支払えなくなるものだ。

これらの複雑な人件費支出構造を分かっていない能天気な学者が国の審議会で内部留保問題を議論しても始まらない。全国老施協の委員はなぜこのことをもっと強く主張しないのか。やる気があるのか、介護給付費を守る気があるのか、はなはだ疑問である。

しかし現状は、こうした主張がまったくされず、介護報酬はベースをマイナスにして再査定が行われようとしている。ほとんどの地域の、ほとんどの事業に於いて現行より介護給付費は下げられるという議論である。

このことは明日の記事更新で、地域区分の再編問題の続報と共にお知らせするが、来年の介護報酬が現行よりさらに下げられることによって、介護が崩壊する危機があり、それは現実に離職率のアップに歯止めがかからなくなる実態で現われるという危機感を、「介護労働実態調査」から関係者は読みとって、国に、馬鹿な介護給付費分科会委員に声を挙げていく必要があるのだ。

まったく老施協委員の大人しさ(馬鹿さ加減と言ってもよいだろう)には歯がゆくなる。自分があの分科会に出てたら切れてるぞ。だが切れる代わりに言うべきことは言うけれど・・・。そんなことを考えながら怒りの矛先をどこに向けようかストレスをため続ける毎日である。

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最大不幸社会

生活保護の見直しが進められている。

そのお題目は「就労支援を通じて受給者の自立を図る」というものだ。自立できる人を支援して、生活保護を受給しなくてもよい「暮らし」が実現するならそれに越したことはない。

しかし今このことが議論される裏には給付抑制の意図が見え見えで、「生活保護を受給せずに正社員になれば、保護が不要なうえ税なども負担してもらえるため、1人につき生涯9.000万〜1億6.000万円ほど財源が浮く。」という考え方がある。

本当は働くことができるのに「やる気がない」「働く意欲がない」という理由で生活保護を受給している人が多いというなら、法律そのものや、その運用を変えて対応することも必要だろう。大阪市の平松邦夫市長の「雇用政策で対応すべき人を生活保護で支えるのは問題だ。制度をこのままにしておくことは許されない」という主張も理解出来ないわけではない。

ただしここには慎重に考えねばならない問題が含まれている。

生活保護の運用を、一部の不適切ケースを排除するために硬直的に、制限を強くして運用してしまえば、暮らしが成り立たず命さえ失いかねない人がいることだ。不適切ケースを排除するため、守るべき命が危険にさらされることがあってはならないのである。なぜならこの国には、本当に保護が必要な人まで、過度な制限で保護受給できなくなった時にそれを救う別のセーフティネットは事実上存在していないからだ。

政府は簡単に「就労支援」などというが、正職員になれない非正規労働者が巷にあふれ、新卒者や、若い労働者も正社員として就業できない人が多いという現状がある限り、被保護者が生活保護を受給しなくてもよい経済状況まで上がってくことは簡単ではない。何より求められるのは、社会全体の雇用改善だ。非正規労働者や派遣労働者が経済活動を支える構造ではこの国に未来はない。

決して贅沢ではなくとも、額に汗して働く労働者が、家族を養って生活が成り立つだけの収入が得られる社会に戻していく施策が政治には求められる。
(※あえて「戻していく」という言葉を使っている。この部分では過去より現在の状況が後退していると思うからだ。)

デフレを進行させる社会のゆがみは、すべて国民全体の不利益に繋がっていることを理解せねばならない。物を安く買うことができる社会は、反面それ以上に国民に渡る金の流れが滞るという意味である。そしてその一番のしわ寄せを受けるのは経済弱者であり、格差社会は広がり続けるのである。

正規労働者を増やし、派遣労働者を減らし、社会全体の労働人口の収入を上げ、国民全体の購買力を引き上げねば豊かな社会は続かない。なぜ政治はそのことにもっと力を入れないのか?しがらみだらけの族議員が、一部の利権者の利益だけ守ろうとするから社会がよくならないのだ。そういう政治家を選ぶ国民が悪いというが、他に誰か選択肢が示されているというのか。政権をとった途端に馬脚を現す政治家ばかりではないか。

そうした状況下で社会保障費をどんどん削って行けばこの世は闇だ。どこかの馬鹿が「最小不幸社会」を実現するとほざいたが、実際に奴らがやっていることは嘘だらけ、形式主義の政治ごっこではないか。政治主導というスローガンはいつの間に消えたのか?官僚の手のひらの中でしか動けない政治家が本当に必要なのだろうか?

恐ろしい事に、この国の役人は時として人でなしになる。特にお上の「お墨付き」を得た場合の制限については人の皮をかぶった鬼のように冷たく庶民をあしらう。

覚えているか2007年の小倉北福祉事務所に関連した被保護者餓死事件を。あのときは病気を理由に保護受給していた52歳の男性が、「そろそろ働いたらどうか」と保護取り下げ書を書くことを迫られ、保護を打ち切られた後に、「働けないのに働けと言われた」「おにぎり食べたい」などと窮状と空腹を訴える言葉を日記に残し、やせ細り餓死してから1月後に発見されたではないか。

そういう餓死者が存在する国家を先進国と言ってよいのか?

社会保障費も震災復興を理由に削減することが当然とされている。現首相は政府与党の「集中検討会議」で、社会保障給付費の削減を含む効率化策を検討するよう指示した。消費税の引き上げはこれにより早まり、高所得者層の基礎年金は最大50%カットされる方向だ。介護保険制度では、保険料の算定方法を総報酬割として大企業のサラリーマンの負担を重くする案や、要介護度が低い人の自己負担引き上げが検討されている。保険料を40歳以下からも徴収する案も課題となっている。

それらを決して全否定しないが、セーフティネットをきちんと整備しておかないと、ごく近い将来に、この国は最大不幸社会を迎えることになる。今そのカウントダウンが始まってしまっているのではないか。

政治家はやるべきことをやった上で国民の負担や忍耐を求めていると言えるのだろうか。まずすべきは政党助成金の大幅な削減と、国会議員の議員年金の廃止と、議員報酬の半減である。

余計な有識者会議もすべてなくすべきだ。何のために国会議員があんなにたくさんいるんだ。国会議員の頭では足りないから有識者会議が必要と言うなら、その費用は議員報酬から負担しろ。国会議員の数だってもっと少なくしてよい。議場で眠っている議員は即刻首にしろ。審議中に携帯を操作している議員や週刊誌を読んでいる議員は国家反逆罪で収監しろ。そこから法律を変えろ。

同じような問題の議論に委員会ばかり作っても、責任と権限が分散されるだけで、重要なことは何も決まらないではないか。この国にリーダーとなれる政治家は存在しないのだろうか。

どちらにしても自らの血を流さず、国民だけに負担を負わせることを許してはいけない。この国の民は、そういう意味ではあまりにお上品でおとなし過ぎるのではないだろうか。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

風吹けば・・・。

5月は決算理事会の時期である。そこでは昨年度予算の執行状況を説明し、収支報告をしなければならない。しかしその状況は年々厳しくなりつつある。

どんなに理想を高く掲げようとも、事業経営として成り立たなければサービスは成立しない。介護施設と言えど、赤字を出してしまえば運営そのものができなくなってしまう。

しかし施設サービスの介護報酬には上限があり、利用定員を超えたサービス提供ができない現状は、良いサービスをしても収益が増えないという意味であり、上限のある一定の介護報酬のパイの中で運営していかねばならないということだ。

つまりここで問われる経営能力は、サービスの品質をよくして収益を挙げるという方向ではなく、いかに一定のパイの中で収益率を高くしようという方向だから、支出をできるだけ少なくする、という方向に向かわざるを得ない。

その中でも一番支出部門に占める割合が高いのが人件費であるから、この支出を少なくしようとすれば、従業員の数を減らすか、給与を減らすしかない。しかしこのことは諸刃の刃で、介護サービスの質は、サービスを提供する人材の質に大きく左右されるのだから、ここの費用削減は結果的にサービスの質の低下を招き、それはサービスを利用する要介護高齢者の不利益に直結するものである。

恐ろしい事に、2000年4月に創設された介護保険制度において、一番介護報酬の高かった時期は2000年度から2003年度までの3年間で、それ以降は介護給付費引き下げで(2008年度にはわずかな引き上げがあったが当初の額に達していない)11年前より少ないパイの中での運営が強いられているわけである。

考えてみてほしい。11年前より低い報酬で運営するということは、職員の定着率が高く、きちんと定期昇給していけば、それだけで経営は圧迫されるという意味だ。しかも事実そうさせられているということは、将来の経営リスクを考えると、その少ないパイの中で将来に備えた繰越金を出し続けていかねばならないという考えになり、こんな状況で有能な人材を雇用し続け、労働対価に見合った給与を支払い続けるというのは至難の業である。

介護職員の待遇改善が掛け声だけに終わる理由は、国の施策そのものにあると言ってよいだろう。この状況を変えない限り、この国においては、本当の意味での安心の老後保障などあり得ない。

ところで施設運営に不可欠なランニングコストの中で、ここ数年不安定要因となっているのが燃料費である。北海道の場合は冬場の暖房費は大きな支出であるが、夏であっても風呂の温度管理などの燃料は常に必要となるもので、その額は非常に大きな額になる。燃料として使っているのは「重油」であり、これは施設内のあらゆるエネルギー源であるが、この費用が10年前に比べるとかなり高額になっており、さらに最近の国際事情による原油価格の高騰が、そのまま重油代に跳ね返るため、非常に厳しい状況がここでも生まれている。

特に今年に入ってから上がり続ける原油価格は、介護施設の経営者としては、ある意味「恐怖心」をもって注目しなければならない問題であった。

この原油価格が今月に入ってまた大きく変動した。

下がる要素がないと言われていたのに、原油先物市場が大きく動き1バーレル115ドルであったものが、一気に100ドルの大台を割り込んだ。

なぜだろうと思ったら、どうやらそれがアメリカ政府によるビンラディン容疑者の殺害と関連しているということである。

もともと原油価格の高騰は、中東の地政学的リスクの高まりを囃して巨額の投機資金が流入し原油先物価格を押し上げたのが過去の経緯であった。そして今回、ビンラディン容疑者の殺害により地政学的リスクが低下し、原油先物買いのポジションのリスクが高まったと判断した為、先物市場が反応したようである。どこまで下がるか予想は難しいが、専門家によれば、シェールガス(頁岩層から採取される天然ガス)開発の台頭等原油を取り巻く環境を冷静に考慮すれば80ドル以下も充分あり得る、とのことである。

きっかけは別にして、原油価格が下がり、重油の価格が下がることは、介護施設の経営にも大きな関連性があるということだ。ということは国際情勢が、介護サービスの経営にも大きく影響してくるという意味にもなる。

このように世の中はいろいろなものが全部繋がっているんだと思う。だから何事も「人ごとは我関せず」ではなく、自らの身に置き換えて考えねばならないと思ったりする。・・・少し強引なこじつけになってしまったかもしれない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

公募型補助金支給決定過程の透明化を求める。

次期改正会介護保険制度における居宅サービスには「地域包括ケア」の考え方が取り入れられる。

この報告書をまとめたのは「地域包括ケア研究会」であるが、実際には三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社というシンクタンクが、国の老人保健健康増進等事業を受託してまとめたものである。

しかもこれは「公募型の補助金であり、同社からの応募に基づき、外部の有識者等からなる評価委員会において審査の上、採択を決定したもの。」(厚生労働省老健局総務課)としており、一般競争入札などで落札されたものではない。

そしてこの報告書の取りまとめにより同社に支払われた事業費は、2008年度と2009年度の合計で約3.000万円近くにも及ぶ。(2008年が1.100万円、2009年が1.875万円)2010年度もこの事業費支出はされている。

しかも同シンクタンクは、これだけではなく「24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会報告書」も作成受託している。そうすると国から同じように数千万単位の事業費が同社に支払われているということであろう。しかしその報告書の内容たるや、現場を知らない素人が書いたとしか思えない幻想的で、見込みの甘い内容でしかない。
(参照:24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会報告書を読んで1〜4

これらの財源となる補助金とは、一般財源ではなく、各省庁の裁量権が広く及ぶ特別財源によるものと思える。そしてこれらのほとんどは、あの「事業仕分け」の対象にもなっていない。

これら特別会計から支出される補助金の問題をめぐっては「全精社協事件」も起きている。その支出に不明瞭な点も多い。過去にもこうした補助金にメスを入れるべきであると主張してきているが(参照:不必要な補助金にもメスを)、そのことは全く行われる様子もない。

三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社は、あの大混乱を引き起こした認定ソフトの改正にも携わっていたと記憶している。

そこで疑問になるのは国の報告書はなぜ特定シンクタンクが受託するのか?ということである。

特定のシンクタンクが特定の省庁の補助事業を受託して、それによって国民の血税を元にしている多額な補助金を受領しているのであれば、そのことには最大限の透明性が必要となるのではないだろうか。

そうであれば国は単に「公募であるから同社からの応募に基づき、外部の有識者等からなる評価委員会において審査の上、採択を決定したもの。」というだけではなく、この報告書をとりまとめるための受託先を、どのように公募して、どのような企業等がそれに応募して、どのような審議過程で最終的に受託業者が決まったのかを広く国民に対して明らかにすべきではないのだろうか。加えて外部の評価委員の人選はどのような経緯で行われ、誰が委員となっているのかも明らかにせねばならないだろう。

そうしたことを行わないで、無駄遣いや癒着はないと言って、だれが信じるだろう。

こうした情報を国民に周知しないで、逆進性がある消費税アップなどの新たな国民負担を求めて誰が納得するのだろうか。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

サービス付高齢者向け住宅に注目

次期制度改正のキーワードとなっている「地域包括ケア」を巡っては「24時間対応の定期巡回・随時対応サービス」が注目され、制度改正の中心議論になっている感があるが、それはあくまで「地域包括ケア」の仕組みを支える基礎的なサービスの一つとして位置付けられているだけで、それだけが地域包括ケアのすべてではないという理解が一方では必要である。

特に昨年5月に公表された地域包括ケア研究会報告書では「地域包括ケアの定義」について「ニーズに応じた住宅が提供されることを基本とした上で〜」として、高齢者の新しい暮らしの場の構築を前提条件にしていることを忘れてはならない。

このことは昨年10/26の「24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会 中間とりまとめの公表について」の中でも触れられており、その4ページに「過疎地等では、サービスの展開が困難な地域も想定されるが、『集合型の高齢者住宅(高齢者が住み続けるために配慮されたバリアフリーの住宅)』と本サービスを含めた『外付けサービス』の組み合わせで移動コストを低減させることにより、効率的なサービス提供が期待できるのではないか。」と指摘し、過疎地等では、要介護高齢者の積極的な「住み替え施策」が必要であることを示唆している。

過去のこのブログ記事「小さな福祉ニーズは守ることができるのか」でも指摘しているが、この住み替え施策、住み替え政策は、僕は反対ではない。限界集落の数が増大する北海道ではむしろその推進策が必要不可欠になると思う。

次期制度改正において、地域包括ケアを推進する制度のコンセプトと、暮らしの場の移動と地域再生が一体となり、その改革がセットでスムースに進めば、これは超高齢社会の地域の再生という方向に繋がって行く可能性があるものだと評価できる可能性がある。

しかしそのためには、そのことを意識した政策誘導と、そのための制度の瑕疵修正が不可欠で、何もしないで自然の流れの中で、このことが結び付くわけがない。この意味を分かっている政治家がいかに力を発揮できるのかが、一つの重要な要素である。そして瑕疵修正としては、18年改正で予防と介護を分断したことにより崩壊したワンストップサービスを復活させることが何よりも必要だ。

今のように予防と介護の区分で、介護サービス担当者がくるくる変わる状況では、30分で移動できる圏域の中に生活拠点を移しても、高齢者の生活がその狭い圏域内側でさえ、空間と時間の連続性が保障されない。介護計画担当者の交代によりそれが途絶えてしまうのである。これではケアは包括されない。

この部分の改善は是非とも必要だと思うのだが、ケアマネ不要論は議論されても、予防から介護までケアマネが連続一体的にケアマネジメントを行い、ワンストップサービスによって、利用者のニーズ把握のブレを失くしていこうという議論は皆無である。これって本当に検討課題としなくてよいのだろうか?僕は大いに不満である。

ところでこの問題と関連して注目していることがある。それは「あらたな住まい」として介護・医療と連携し、高齢者を支援する「サービス付き高齢者向け住宅」の登録制度の創設を盛り込んだ高齢者の居住の安定確保に関する法律(高齢者住まい法)等の一部を改正する法律案が8日、閣議決定されたことである。

「サービス付き高齢者向け住宅」は、住宅、有料ホームを横断する優良なサービス付きの住宅として、有料ホームの横断的な受け皿にし、建設費補助や税制優遇で登録を誘導し、市場の適正化を目指すのが制度の狙いで、特徴的なのは厚生労働省・国土交通省の共管を強く打ち出している点である。

入居者は高齢者本人と配偶者としており、一定のハード基準(基準面積を設けている)をクリアしバリアフリー基準に適合することが条件でとしている。契約についても「家賃などの前払い金以外に権利金その他の前払い金」の受領を禁じているほか、入居後の一定期間内の退去や死亡の場合は、全額前払い金を返還する義務を負わせている。

そして行政による報告徴収、立ち入り検査、指示などを権限として認め、名称独占とし、有料老人ホームとしての届け出は不要としている。

有料老人ホームでの多額な契約金未返還トラブルを受けての新たな住まいであるが、行政の指導監督権がある程度及び、費用面で返還トラブルのリスクが減ることなどを考えると、利用者ニーズに合致してかなりのスピードで増える可能性がある。

何より地域包括ケアをビジネスチャンスと見る事業者の立場に立てば、この「サービス付き高齢者向け住宅」を建設して、「24時間対応の定期巡回・随時対応サービス」を外部サービスとして提供することで、かなり高い収益を見込むことが可能になる。「24時間対応の定期巡回・随時対応サービス」を行う複合事業所が、圏域で一社独占となれば、その収益性はさらに高まる。

2つの省を横断して共管するというシステムは、ある意味歴史的な意義をそこに加えて考えるべきで、両省ともこのサービスを守ろうとする意識が働くだろうから、パブリックバックボーンを意識した運営も可能かもしれない。

どちらにしても有料老人ホームや高専賃にとって替って、今後の高齢者の介護付き住居の主流となる可能性を持った「サービス付き高齢者向け住宅」からは、今後しばらく目が離せない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

ペイアズユーゴー原則を考える

社会保障審議会介護保険部会等で話し合われた次期制度改正の方向性は、認知症高齢者を含めた在宅の重介護者(要介護3以上を想定)を地域で支える新しい介護システムを作りを中心に制度を再設計するというものだ。つまり現在は在宅重介護者を地域で支えるサービス提供ができていないという評価がそこには存在する。

しかしそのために新しいシステムを作るに際して、現行の介護給付費を維持して、新たな給付を上乗せしようという考え方ではなく次のような考え方に基づいて制度改正は議論されている。

1.新しい財源を求めるか、どこかの給付を削らないと新しいことはできない。
2.新しいことを始めるに当たって、誰に負担を求めるのかを考えていかねばならない。
3.新しい財源がない場合は、給付の抑制か、給付対象者を狭めるしかない。

という条件が前提になっているのである。

このことは本年6月22日の閣議決定が大きく影響していると思える。そこで決められた新成長戦略では、公的保険サービスを補完し、利用者の多様なニーズに応える介護保険外サービスの利用促進策(地域における提供促進体制の構築強化を含む)の検討・実施が謳われている。(2011,2012年)。つまり保険給付は出来るだけ抑えて自己負担や地域サービスでそれを補完する方向性が示されたわけである。

同時に「ペイアズユーゴー原則」として、歳出増か歳入減を伴う施策の導入や拡充を行う際、それに見合った恒久的歳出削減、歳入確保による安定的財源を確保することを原則にする ことも決められた。

よって財源を他に求めるような政治力がない介護保険部会等では、介護保険制度の中だけで歳出と歳入のバランスをとるしかないので給付抑制策は必然の議論となってしまう。だから現行サービスの中で財源を別に得ようとすれば、軽度者の家事援助制限や、ケアプラン作成に係る居宅介護支援費(現在全額保険給付)に自己負担を導入しようとか、現在の1割負担を高額所得者などについては2割負担にしようとかいう結論にならざるを得ない。

同時に、そうであるがゆえに介護保険制度改正と報酬改定議論に際しては、すべてのサービスは現行の介護報酬を0ベースから見直して、そして財源がない限り、現行報酬は上げることができないという結論にならざるを得ない。介護職員処遇改善交付金は再来年3月までの限定措置だから、その後、この部分が2012年4月からの介護報酬改定の際に上乗せされて査定される保障もない。

2009年4月に改訂された介護報酬と、介護職員処遇改善交付金で、なんとか職員の給与改善に努めてきた介護サービス事業者は、いきなり梯子を外される可能性がないと言えない。収益を大きく挙げている事業者以外は、このとき人件費を下げて対応するしかないのだろうか?しかしそれでは人は集まらず、事業展開自体が困難になりかねない。

しかも制度全体の見直しとは別の部分で、前任の厚生労働大臣と政務官の思いつきのような「通所介護のお泊りサービスの保険給付化」という新しい給付を国民議論がされないまま作ってしまって、財源がないから他のサービス給付費を下げてこれに充てるという。・・・なんという戦略性に欠けた馬鹿げた制度改正だろう。長妻昭さんと、山井和則さんという2人の前大臣と前政務官ほど、関係者から期待され、そしてその期待を裏切ったタッグはかつてないだろう。

しかし先の衆議院選挙前まで民主党は、介護職員等の給与は月額40.000円上げると言っていたではないか。その方針はどこに行ったんだ。大丈夫かこの政党は・・・。

我々が報酬アップを求める理由は、自分の懐を温めるためではなく、介護サービスに従事する職員に対して定期昇給をきちんと保障した労働対価に見合った報酬を与えない限り、すぐ近い将来に人手不足で介護サービスは崩壊することを肌で感じているからなのだ。

これは介護サービス事業者だけの問題ではないことにすべての国民が気付くべきだ。なぜなら75歳以上の高齢者人口の割合が2007年の約9.9%から、2030年には約19.7%、2055年には約26.5%と増大するのである。この状況を正しく理解しようとすれば、我が国においては、国全体が「危機意識」を持つべきなのでえある。なぜなら介護施設や、居宅サービス事業所が人手不足でサービス提供体制を縮小せざるを得ない地域では、そのしわ寄せは介護を必要とする人自身と、その家族に対して「必要なケアが提供されない」ということによって現実化するからだ。

つまり制度の光の当たらない場所で「野垂れ死に」する国民が増えるという意味だ。そういう国家が先進国とか、民主主義国家と名乗れるのだろうか?そういう国家の政治家は何に向けて責任ある政治活動をしていると主張できるのだろうか。ましてやそういう社会が「最少不幸社会」であるわけがない。しかしペイアズユーゴー原則を社会福祉政策にも適用する限り、そうしう社会になることは確実なのである。

どう考えても、医療や福祉・介護などの制度にその原則を適用することは、国民の生命や暮らしを脅かす結果となり問題であり、医療や福祉政策にペイアズユーゴー原則は適用すべきではないと僕は思う。  

もしこの原則が福祉や介護サービスにも絶対条件であるなら、歳入財源としての税負担を論じることができない有識者介護で制度改正を議論するべきではない。歳入方式も議論できる政治家が制度設計しないとならないはずだ。

そろそろ学者の非現実的な財政論で固まった制度改正議論はやめにして、政治家と言える人々がもっとグローバルな視点から近未来社会づくりの制度改正論をせねばならないのではないか。

政治主導をスローガンに挙げていたのは、いったいどこのどいつだったのか、もういちど振り返ってみるべきである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

団塊世代の既得権を作るな、という主張

このブログも最近、制度改正に関する話題が多くなっているが、11月中に制度改正議論をまとめると国が言っているのでこの話題が多くなることをご了承いただきたい。

今週は25日に社会保障審議会介護保険部会が開かれ、その後に、来年1月からの通常国会に提出する改正法案が作られるという流れになる。

ところで25日の「介護保険部会」で何か新しい動きがあるんだろうか?実はこの部会の議論自体はあまり意味がない。ここで議論されていない「案」が老健局から次々に出され、審議会は形骸化していると嘆く委員もいる。ある人からの情報によると厚生労働省の官僚は、この部会を「ガス抜き」と呼んでいるそうだ。本当の論議は非公開の別な場所で行われているのだ。

だから25日に審議会に示される内容も、今まで審議したことのまとめと、国の方針を示すことに過ぎず、提出法案に関する部分についてはむしろ「24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会」の影響力が強くなってくるだろう。そして介護保険部会の議事録だけでは読みとれない様々な罠が仕掛けられて法案が作られることになる。例えば今まで家事援助などの給付制限の対象者は「要支援者」という言葉を使っていたが、今後は「要支援者等」あるいは「要支援者及び要介護状態が軽度の者」という具合に、いつのまにか要介護者も含んでくることが予測される。このことを見逃してはいけない。

ところで介護保険制度改正議論で盛んに強調される給付抑制策。なぜ国や介護保険部会等の委員はサービスを削減することに躍起になっているのだろう。その答えの一つを見つけた。

「24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会」の委員でもある龍谷大学の池田省三教授は、自身の論文の中で次のように述べている。

『「団塊の世代」は、2012年から介護保険の第1号被保険者になっていく。この「団塊の世代」に介護保険に対する「既得権」が生じてしまうと、改革は極めて困難になる。』として今回の制度改正での介護サービス給付を厚くしてはいけないと結論付けている。

「団塊の世代」も随分馬鹿にされたものだ。

その世代の人々が既得権にしがみついて、国のあり方を決める際の抵抗勢力になると決めつけられているのである。高度成長期の貴重な頭脳や労働力として日本を背負ってきた「団塊の世代」は老後も自己責任で自分の力で生きろと放り出されているようなものだ。

この国を先進国と呼ばれるレベルまで発展させてきた原動力となった人々に対して、あまりに失礼な理屈ではないのかと怒りの声を挙げたくなる。もっと人に対して「優しい心」を持った人が制度構築案を提言しないと、冷血の介護サービス制度になり下がって、人を救うより、人を踏み台にする制度になってしまう。

日本を支えてきた団塊世代の人々は、国の行く末にそう無関心ではないはずだ。きちんと必要な負担は納得してくれるはずであり、必要な自己負担を頭から拒否するものではないと思う。しかし同時に、それらの人々は、国や国の研究委員会等に所属する学者が、いかに社会の財を食い物にして無駄金を使ってきたか知っている。この国が本当の意味で「平等社会」ではないことも知っている。それらの人々が一つの勢力となり、現在の利権を脅かすことが怖いから、必要以上に団塊の世代を狙い撃ちにする視点からしかものが見えないんではないのか?

むしろ既得権を持ち続け、それを離そうとしないのは、官僚とその組織であり、官僚と癒着する学者などの国の研究機関の委員ではないか。

そういう学者から、団塊の世代は「既得権を作らせない」という理屈で、必要な福祉援助や介護サービスの社会資源を奪われていくのである。

団塊の世代と呼ばれる人々はもっと怒ってよいはずだ。

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国勢調査に対する疑問

10月1日を基準に行われた国勢調査に携わっている人も多いだろう。

我が国の国勢調査は、人口の状況を明らかにするために大正9年から、ほぼ5年ごとに(現在は5年に一度が基本だが、そうでない年もあったのでこういう表現にした)行われており、現在調査票を回収している本年度の国勢調査は19回目に当たるものである。

国勢調査の結果は平均寿命の計算式における基礎データにもなるし、選挙区の画定や議員定数の基準、福祉政策や防災対策など国や地方公共団体の行政施策での利用を始め、個人の生活設計や企業の事業計画など様々な場面において利用されるため、けっして無駄ではないと思う。・・・そう思いたい。

この調査は日本に居住している外国人も対象になるし、住所不定のいわゆるホームレスと呼ばれる方々も対象になる全件調査を基本としており、データの収集や集計にはかなりの人手と手間がかかる調査である。

当然、ここには国費が投入されているわけであるが、前回(2005年)の国勢調査には約650億円の予算が計上されている。しかもその前年には予備調査費として20億円がかけられており、さらにこの調査に係る地方自治体職員の時間外手当などをすべて計算するともっと大きな金額になる。そしてその8割は人件費であるといわれている。

実際にそれだけの人手と手間がかかっているんだからそれはやむを得ないだろうか?しかし無駄な費用が全くないわけではなく、むしろ削減すべき費用というものもかなりある。今回の調査にかけられている費用の中から具体的にその費用を指摘しておく。

緊急防犯ブザー
画像は、今回の国勢調査で全国約70万人といわれる調査員全員に配られている防犯ブザーである。実物から判断し販売価格は1.500円くらいのものだろうと思うが、単純計算でこの費用だけで実に11億2千万が支出されることになる。(画像はクリックすると拡大表示します。)

確かに夜間調査票を回収しなければならない場合もあるだろうし、女性の夜道の一人歩きは危険だろうが、全調査員一律にこんなブザーを配る必要があるだろうか?男性調査員はほとんど使わないだろうし、僕の家に調査票を回収に来た調査員はたまたま女性だったので尋ねてみたが、持って歩くことはないという。必要なら市町村に備え置いたものを貸し出す仕組みにすればよいことで、これも無駄の一つである。

穿った見方をすれば、こんなものを調査員全員に配る必要性はないのに、そうしているというのは、この防犯ベル業者と国の癒着があるのではないかと思ってしまう。

こういう無駄を一つ一つ洗い出していけば、かなり不必要な経費は出てくるだろうに・・。

ところで国勢調査のデータは本当に信頼できるのだろうか?

国は基本的にこのデータについて、全件調査で対面して調査依頼をするし、調査票を回収できないケースについてもすべて聞き取り調査で実態把握しているので、間違いのない正確なデータであるという。しかし調査票を回収できないケースも回を追うごとに増えているというし、聞き取り調査も不可能なケースが増えている。

そもそも各家庭に配布した調査票は封をして調査員に渡されるほか、今回からは郵送することも可能になっているが、そこに果たして正確な情報が書かれているのか確認する術はない。

とすれば本当に正しい事実がその調査票に書かれているのか疑わしくなる。例えば今年話題になった「消えた高齢者問題」にしても、国勢調査ではそのような誤ったデータは入ってこないとはいいきれない。死んだ親の年金を受給している世帯では、その親が生きているとして調査票に生存データを書いて封書に入れるだろう。そういう数値は「外れ値」として無視できるものなのか?大いに疑問である。

どちらにしても様々な施策において財源論が議論されるこの国において、5年に一度700億円近い国費をかけて行われる調査の結果が無駄になっては困る。有効な調査となることを願ってやまないが、実に疑わしい。

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新型サービス3本柱にもの申す。

昨日様々なニュースソースから『菅首相が介護保険制度改正を巡って「場合によっては介護保険制度の整備法といった新規立法も含めた対応が必要ではないかと思っている」と述べた。』ことが伝えられている。

この背景としては、全国で所在のわからないお年寄りが次々に明らかになる中、家族や地域から孤立しがちな高齢者への支援が欠かせないと判断したことで、高齢者の独り暮らしや夫婦だけの世帯向けに、新たな生活支援策を追加する必要があると判断したもので、要介護高齢者の生活支援というこれまでの介護保険の目標に、新たに「孤立化のおそれがある高齢単身者や夫婦のみの世帯の生活支援」を追加する、というものである。

そして具体的には、
(1)24時間地域巡回・随時訪問
(2)見守り付き高齢者住宅、住み替え支援
(3)認知症支援(はいかいSOSネットワーク、予防・治療・支援の一貫サービス体系、成年後見)
以上の3点を高齢単身・夫婦のみ世帯に対する「新型サービス3本柱」として介護保険の対象に加え、全国的に普及させるとしている。

みなさんは、このことに関してどのように考えているのだろう。

僕から言わせれば「おいおい消えた高齢者問題まで介護保険制度で何とかしようというのはおかしいんじゃないの?」である。

そもそも消えた高齢者の問題は、「高齢者の独り暮らしや夫婦だけの世帯」の問題とは全く別な状況下で発生している問題ではないか。実際には同居の子や孫がいる世帯で、親や祖父母の状況に無関心か、あるいはその精神的絆を切ってしまっていることで発生している問題だろうに。

普通の親子関係で、親の居場所が分からないのに年金だけもらい続けているようなことがあろうはずがないし、親が死んでも葬式もあげず、死亡届も出さずに、年金を受給し続けているわけがない。

むしろこのことは現代の貧困問題として、しっかりとした所得保障、生活保護の適正給付問題として考えるべきである。

同時に親が死んで供養さえしない、あるいはできない心の荒みを生む社会全体の「闇」が何が原因になっているのかをきちんと考える視点が必要だ。

そして自己責任主義、市場原理主義による弱肉強食社会を高齢期まで持ちこませない施策がまず必要なのであって、高齢者の介護サービスの法制度である「介護保険制度」から手当てしようとしても無理がある。

そもそも消えた高齢者の問題と、年金の不正受給の問題をリンクして考えるならば、年に一度行っている年金継続支給に必要な現況届が機能していないという問題だから、このことに罰則を設けるなど、機能するようにするだけで、新たにお金をかけずに改善できることではないか。それをしないで、他の制度でこの問題の解決を図ろうとして、現況届も現行方式で継続させるのでは、税金の無駄遣い以外のなにものでもない。

消えた高齢者問題を解決するためには、介護サービスの制度を使って何とかするんではなく、性善説に基づいた届け出制度を改正するしか方法はないだろう。具体的には前述したように、年金の現況届の虚偽届には厳罰主義で臨むとともに、戸籍上生存している人で、3年以上現況届が出されないケースについては、すべて市町村の強制調査権に基づく確認調査ができるようにして、その際に所在が確認できない場合は戸籍の抹消など必要な措置をとれるようにすればよい。

独居や高齢者生体の見守りは大事だか、それは消えた高齢者問題とは別な角度からサービスのあり方を考えるべきで、介護サービスで消えた高齢者問題を同時に解決しようとする考え方はどちらも中途半端な方策で終わってしまうことになりかねない。

新3本柱にしても、この整備で今後の高齢者介護問題が劇的に変わるなんてことはあり得ない。特に地域包括ケアは30分以内の移動範囲の中で、訪問介護を中心に、訪問介護や、かかりつけ医師の介入さえも含めてサービスをパッケージで提供しようとするシステムだから、大都市モデルとしか思えない。移動距離が格段に遠くなる北海道郡部の過疎化地域やいわゆる中山間地域になじむサービスではないだろう。しかもその理念や方法論は良しとするところがあっても「地域包括ケア報告書」に基づくシステムであれば、まず包括報酬ありきでサービスプランを決めねばならず、必要なサービスがきちんと使えない可能性が高い。

現首相は、この新・在宅3本柱が機能して、高齢者の暮らしが本当に守られると思っているんだろうか?少なくとも国民ニーズとしてみれば、在宅生活が限界に達した時の、特養への入所ニーズは拡充する一方だし、それが完全に満たされることはなく、見守りつき高齢者住宅でケアできない人の方が多く増える現状で、施設整備や、それに必要なマンパワー確保の問題が、何一つ解決されない柱では、屋根を支えることさえできないではないか。

党代表選〜首相再選までの流れの中で、なんでもアピールしようという姿勢が、中身をよく考えないで国民にとって耳触りのよい政策を垂れ流す結果に繋がっていないのか大いに首を傾げるところである。

この国の最近の政治家は、なぜトップになった途端に雲の上からおかしな政策しかしなくなっちゃうんだろう。位打ちで惚けちゃったんではないのか?

あんたが目指すという「最少不幸社会」なるものって、そんなもんなのかい?そんな程度じゃ僕は大いに遺憾の意を表し「い菅ぞ!あ菅ぞ!」といいたいのである。

※落ちがイマイチであることは許してください。
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最少不幸の社会への政策課題

日本人の平均寿命と平均余命という言葉はよく聞く。その意味は「老老介護の本質(前編)」で確認してもらいたい。

ところで日本人の平均年齢というものを意識したことがあるだろうか?現代社会のそれはいくつなのか知っているだろうか?ふと気になって調べてみた。

社会の平均年齢の意味は説明するまでもないが、0歳時〜最高年齢者まで社会全体のすべての人の合計実年齢(満年齢)を実人口で割った数値である。すると1945年(昭和20年)我が国の平均年齢は26歳である。僕が生まれた1960年(昭和35年)のそれは28.5歳である。

ちなみに当時、高齢化率はわずかに3%である。この数字は地域社会で33人の人間を集めて、やっと65歳以上の高齢者が一人いるか・いないか、という数字である。

しかし日本人の平均年齢も、高齢化率も年々上昇を続け1995年(平成7年)には社会の平均年齢が40歳に達し、それ以後も上昇し続けている。この社会全体でみると日本は既に青年期を過ぎ、壮年期も超えようとしているのである。高齢化率も25%に達し、地域によっては30%を超えている場所もある。

社会の平均年齢が40歳を超えている状況を考えると、この国の抱えた問題が余計クローズアップされてくる。社会全体で活力を失わずに、豊かさを保っていくことは簡単ではない。

そういう状況で政治は常に「財政の健全化」という課題を背負わねばならない現実がある。しかし財政の再建は倹約だけでは実現しないのは歴史が証明しているので、経済力の強化として景気の回復と安定した経済成長は絶対条件である。

さらに社会の高齢化は、社会保障費の自然増をはじめとした負担を必要とする社会であり、かつ有権者の大半が社会保障給付を自分の問題と考える世代であるのだから、このことを無視した政治なり政策なりは実現困難となる。

特に「最少不幸の社会」の実現を政治の目的に掲げた現政権において、財源論で社会保障費を簡単に切り捨てることは困難であろう。

するとこれからの政治は、経済の発展・財政の再建・社会保障の充実という三兎を追う必要がある。「二兎を追う者、一兎も得ず。」ということを言っておられるような状況ではないのである。こういうことが現実として可能なのかという議論をしている間もなく、それをせねば国家が破綻するのである。

であれば当然、税負担は今のままでは済まないだろう。消費税引き上げ論は当然の国民議論となろうが、同時に消費税は考えられているほど公平な税制度ではないので(参照:『消費税率アップがもたらすもの』 『税制論議に置き忘れられているもの』)格差が今以上に広がらないように所得税の累進課税の高額所得者負担率にも手を入れる必要があると思う。高額所得者には今以上の負担をお願いして、社会の「財」の再分配政策は一層推し進める必要があり、それは早急な課題である。

ただ法人税について言えば、現代社会においては国内企業だけで経済成長を促すのは難しく、経済発展のためには国外からの投資や、国外企業の進出が不可欠要素であり、その促進を図るのであれば法人税率は逆に引き下げる必要がある。

そうなると巷では、国民に厳しく企業に優しい税制なのか!という疑問と不満の声が上がることは必然であり、この部分については丁寧な説明責任が政府や政治家には求められる。

そして何よりも国民が不満を持っている「税金の使われ方」は一層透明性を高めて、官僚機構の無駄遣いを徹底的に排除する「強い政治」が必要だ。天下りのための機関は大胆に撤廃すべきだ。

国民負担を求めるのだから国会議員の報酬や年金、議員数も手をつけないと信頼は得られない。政治家自身が血を流す覚悟がない限り、この国の未来を保障する新たな税負担など導入できるはずがない。

ここの覚悟を政治家が始めに持つことによって、国民の覚悟に繋がっていくのだろうと思う。

どちらにしても国民負担の増加は必然で、それは避けて通れないことだろう。しかしその前提は、国が国民の血税を無駄遣いしないということであり、そのことを明確にしていかねばならず、政治家も官僚も国民もスクラムを組むために、それぞれの利益に偏らない「正直さ」が求められていくのだろう。

ここの方向性を間違うと、最少不幸の社会は単なる「最少不幸の役人社会」にしか過ぎなくなってしまう。

「清貧を徳とすれ」などとは言わないが、我々の国を守るために、この国の未来を子や孫などの子孫に、よりよい形で手渡していくために、個人の問題をさておき、マクロな視点から何が必要かを考えることがより重要になってくるだろう。

来るべき参議院選挙では、そういう志を持った政治家であるかを見極めて投票行動につなげるのが、この国の未来のために必要である。

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群衆の中の孤独

孤独とは深い闇の中に一人残される不安と関連しており、人が生きる過程で自分一人では何一つできないことと関連している。

周囲に誰もいないわけではなくとも人は孤独を感じることがある。たくさんの人間に囲まれ、ざわめきうごめく人々の息吹を感じているときでさえ人は孤独である。雑踏の中で、群衆の中で、人は孤独に打ちひしがれている。

なぜならば自分のことを誰も認めてくれず、無視され、頼る人さえいないときに人は孤独であるからだ。

孤独とは心が繋がる人が誰ひとり存在しないことである。そしていつまでも孤独に耐え続けられる強い人間などいないはずだ。孤独を好む人もいることを否定しないが、多くの場合、それは限定された場面における孤独でしかない。

我々は社会福祉援助や介護サービスを通じて、様々な利用者と向かいあっている。その時我々は、それらの人々の孤独感を受け止める感性を持っているだろうか。決して孤独感を感じないように心の回線を繋げあっているだろうか。

介護施設で、居宅サービスの現場で、多くの人々に囲まれながら孤独を感じている人はいないだろうか。

自分を誰ひとり分かってくれない、自分のことを理解してくれない、という心の叫びを発している人はいないだろうか。

認知症の人々が歩き回っているのは、自分のことを理解してくれる誰かを探し続けているからではないのか。1日の大半をベッドの上だけで過ごす人々の視線が追っているのは、自分のことを気にかけ、自分のことを見つめてくれる誰かではないのか。

人を認めているか。人を求めているか。人を愛しているか。

社会福祉援助者に知識や技術は必要不可欠であるが、人の心を思う感性や、目に見えない人を愛おしく思う感情は、その前提条件としてなくてはならないものだと思う。

人を人として愛(いつく)しみ、故郷を愛し、自然を愛(め)で、命を大切にする心を持つことが何より大切である。

我々は誰かの不幸の上にのっかった自己の幸福を欲しない。人の流した涙の川で自らの体を清めることを欲しない。

全ての人が、人として遇され、心から愛される地域や国や世界であってほしいと望むものである。それは夢物語で現実としてはあり得ないというが、そうした現実を求めないのであれば人間の存在とは何と空しいものなのだろう。

誰かの哀しい叫びに耳をふさいで生きて行くことが大人になることだとしたら、人間の成長とは心を閉ざし、心を失っていくことなのだろうか。心を殺せ、殺せと言い聞かせなければ生きていけないとでもいうのだろうか。

群衆の中の孤独に手を差し伸べる人が一人でも増え、この世界に笑顔が満ちて行くことを我々は欲してこの業界に足を踏み入れた。理想はいつしか現実の荒波に揉まれ、掲げた旗は、いつしか色あせ、破れかけようとしているのかもしれないが、この部分の「青さ」を失ってしまわないようにしたい。

この国の新しいリーダーは「政治の役割は、国民や世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか『最少不幸の社会』を作ることだ。」と語っている。その通りだと思う。しかしその言葉をスローガンだけに終わらせないように、具体的政策の中にその実現性を取り込んでいくことが政治家には何より求められる。その時に「青さ」を失ってしまえば、それは単なる幻想社会に終わってしまうだろう。

すべての人々が、この国から、世界から見捨てられ「群衆の中の孤独」に陥らないように、全ての人々が自分以外の誰かを暖かく見つめる目が必要だ。一人でもそういう人が増えることによって、誰かの孤独や不幸に少しだけ光を当てられる。その光が少しずつ増え続けて行けば「ぬくもり」は社会の隅々に満ち溢れていくことだろう。小さなことから、それは始まる。

人の世の 旅人として生かされて 終の日までも夢に生きたし(読み人知らず)

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エイジズムを克服せよ

とあるネット掲示板をチラッと覗いてみた。めったに見ることがない場所であるが気になるスレッドがあった。

それは老人会(老人クラブのようなものか?)で介護保険の説明を依頼されたのだが、どのような内容にしたらよいかという相談で、それに対して「老人会なら難しい制度の説明をしても理解できないから、相談窓口の紹介とか、Q&Aや事例紹介が良いだろう」というような主旨のレスポンスがついていた。

老人会も随分馬鹿にされたものである。こういう「高齢者問題史観」がいまだに存在して、それも介護支援専門員と思われる人の偏見としても存在しているんだと唖然とした。

正直言って、分かっていないなあ、と思った。確かに老人クラブ内部での高齢化問題も深刻化している現状はあるが、それでも会員の属性は様々で「老人会侮るなかれ」と声を大にして言いたい!

老人クラブ等で制度の説明をしても、あまり反応がなかったり、評判が芳しくない結果に終わる最大の原因は「難しい話は理解できない」からではなく「話がおもしろくない」「説明が下手で分かりづらい」からである。つまり聞き手の能力ではなく、話し手の能力の問題であるのだ。この点を間違えてもらっては困る。

難しい内容でも、興味がある方向から話をすれば高齢者の集まりだって十分理解してくれる。地域の老人会に参加している人ならなおさら積極的な人が多くて、お元気で地域において活動されている人なんだから、政治的関心も強く、経済面の動向にも興味を持っているし、自身に関係する問題として語れば十分理解してくれる。むしろ今地域で老人クラブの活動に参加している人々は、数年単位あるいは十年単位で遡れば地域のリーダー的役割で活躍されていた方も多く、高学歴の人も多いのだ。けつの青いそこいらの介護支援専門員より知識も経験も豊富な先輩方だぞ。我々より難しい話だって分かっているのだ。あまり思いあがらない方が良い。

僕も老人クラブの方々に対して短い時間で介護保険制度の説明を行う機会はあるが、例えばその際、介護保険制度の創設にしても、それは介護保険料という強制・掛け捨て保険料を40歳以上のすべての国民から原則徴収するという「国民負担増」という意味があって、消費税の引き上げに対しては、常に国民の強い反対感情があって選挙対策上も難しい面があるが、介護保険の創設という形で、介護保険料という新たな国民負担を作り出したことを国民はほとんど認識しないまま受け入れたと説明している。そして過去の首相の支持率低下や退陣問題が、大型間接税問題とどのように関連していたかをエピソードとして取り上げ、政治と経済状況という観点から介護保険制度創設を説明して、その制度の中身についても、利用者負担がなぜ必要で、受益者負担がどのような形で取り入れられているかという面から話をしている。そうすると非常に反応がよい。

政治との関連では、過去に議論された大平内閣時の「売上税」とか、中曽根内閣時の「一般消費税」、そして現在の消費税導入後の税率引き上げ議論の際に細川内閣で取り上げられた「国民福祉税」とかいう言葉に反応する方も多いし、その中には現在の高齢者の方に馴染みのある歴代首相名が出てくるので反応は実によいのだ。しかもそういう話題になると、僕の知らない様々な知識さえ披露してくれて、こちらの方が勉強になる。

つまり制度というものは、本来難しい説明を伴うものであるが、それを理解できるかどうかは、聞き手の知的レベルの問題ではなく、話し手の説明の仕方の問題であり、老人会など高齢者の集まりであるから理解力が低いなんて言うのは、講師側の勝手な思い込みであり、自己の説明能力の問題でしかない。

介護関係者は得てして、高齢者の大部分は介護や何らかの支援が必要な人と捉えがちであるが、実際には高齢者の数が大幅に増えている現状においても、高齢者のマジョリティは「在宅元気高齢者」であり、その割合は85%といわれている。それらのマジョリティに属する高齢者までが弱者扱いされ「老人クラブの会員には難しい話の理解は無理だ」という偏見がはびこる現状こそエイジズムにほかならない。

老人クラブに所属する高齢者の方々の方が、よっぽど我々より知恵や知識が豊富な例は枚挙にいとまがない。

なにより介護支援専門員等の介護関係者こそ、こうした「高齢者問題史観パラダイム」に反省を加え、高齢化する時代の全体社会像を新たに抽出し、エイジズムを克服して、超高齢社会における柱になる元気で明るい高齢市民の姿を描き出すべきである。

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税制論議に置き忘れられているもの

消費税の引き上げ議論がタブーではなくなりつつある。

国民の意識の中にも、この国のごく近い将来を見据えた時に、消費税は引き上げざるを得ないだろうというある種のあきらめをともなった意識が芽生え始めている。それはやはり少子高齢化社会の進行で、実際に高齢者の社会に占める割合が増えているということを身近な地域社会の実感として感じ、このままの税制度であれば、近い将来に年金を含む社会保障費が足りなくなり、安心して高齢期を過ごせないのではないかという自らの将来に対する不安が現実味を帯びてきているからであろう。

しかし消費税引き上げという総論に賛成する人が増えているとしても、その税率をはじめとした各論部分では様々な意見があるだろう。例えばこのまま出生率が増加しなければ消費税率は最低でも20%にしなければならないという研究結果が公表されたりしているが、現時点で2割の消費税に賛成する人はいないだろう。

そうなると総論賛成、各論反対がうずまく状況で、税率が実際に引き上げられるとき、10%を基準に考えるとした場合を想定してみても、そのときには「いきなり倍では国民生活が持たない」という声が強まるだろう。そうなると7%なら良いのか?いや、それでは端数が出るから財布の中が1円玉であふれるので端数の出ない8%がよい、等という議論になりかねず、それでは財政議論ではなくなってしまう。ここが難しいところだ。

ところで以前にも論じたが、消費税というのは決して公平な税負担ではない。国民全部が等しい負担割合であるといっても、資産のある人も、収入のない子供も、同じ割合で負担するのだから、例えば1万円という金額に変わりがなくとも、その価値は個々の状況で異なるという部分への配慮がない税制度だからである。極端な例でいえば、金持ちは物を買えても、貧乏人は買うのを我慢しろ、ということにもなりかねず、税率負担が重くなればなるほど、この格差は拡大せざるを得ない。

経済格差がある実態は、富める人と貧する人が社会に混在するという意味で、資本主義社会であればそれは当り前であるが、しかし経済活動を通じて得た富は、もともと社会の「財」であり、近代国家における政府の責任は、この財をきちんと再分配して、貧する人々も社会通念上の最低限度の文化的生活を営む権利を有するものとして、その生活水準を守る施策をとる責任を持つものである。現にわが国の憲法はその権利を保障している。そういう意味で消費税という間接税に財源を求める手当だけではなく、直接税の累進課税制度はきちんと社会の「財」の再分配として機能しているのかという検証と見直しが不可欠である。

介護保険制度に絞って、消費税引き上げ論との関係を考えるならば、現行の保険制度の財源構造のままでは消費税を引き上げてもほとんど意味はなく、給付費の増加に対しては介護保険料負担額を上げる以外に財源を補う方法はない。なぜならその給付費財源は公費と保険料が1:1なのだから、給付費が増え、公費手当が増えても、それは同時に社会保険料を財源とする支出も同じ比率で増えざるを得ないからだ。

しかし地域によって、この保険料負担はそろそろ限界に達している。そうなれば当然のことながら、消費税率引き上げと同列に、介護保険における現行50%の公費負担率の見直しがされなければならない。当然その際には、公費負担率だけではなく、現行のサービス利用に際しての利用者1割負担という「自己負担率」も同時に議論されていくことになるだろう。

税制改正、消費税引き上げの大前提は、国費の使われ方の検証、無駄な公費支出をなくす、ということであるが、歴史から我々が学んできたことは、公明正大を目指しても、決して100%の完全なる無駄のない財政運営ということは実現したことがなく、無駄な国費の支出も無くなったことがないということであり、官僚の全てが清廉潔白で完全な人格を持つわけではないということである。そうであればどこかで最大公約数を見つけながら新しい社会システムへの変換を進める必要があるもので、公費支出問題が完全にクリアされないから税負担議論が進められないということではないという理解は必要だろう。

こうした財源論から国民負担の増加問題が生ずると、社会保障費は国家のお荷物のように考える人もいるようだが、しかし例えば国民皆保険という制度は、我が国の国民の健康保障に果たした役割は大きく、それは結果的に医療機関に受診できない人を作らなかったことに繋がっており、そのことが健康な労働力をたくさん生みだし、同時に大量の消費活動を生みだしてきたという意味もある。高度経済成長を支えたものが国民皆保険制度であったという側面もあるのだ。

そうなると老後の福祉・介護不安を生まない社会システムも同様に効果を生む可能性があり、例えば老後の不安がない社会では、現役世代に老後に備えた過度の貯蓄意欲は必要なくなり、経済活動に回るお金が増え経済は活性化するが、社会保障が貧弱で老後の不安がぬぐえなければまったく逆の現象によって経済活動も停滞するだろう。

もっと積極的な意味を福祉・介護サービスに求めるとすれば、今後30年以上は安定して顧客確保が見込まれる領域である介護サービスは、一面大量雇用の場であるのだから、そこに公費負担を増やしても、それは今後ますます必要となる介護サービス従事者によって経済活動を活性化させる重要な要素になり得るという側面がある。介護従事者を労働力供給源及び大消費層とみる施策も経済政策として有効だという意味である。

斜陽産業から、必要とされる介護の職種に人が集まる基盤を公費によって整備することにより、雇用・経済・介護問題が一体的に手当てされるという側面にもっと注目してもよいのではないだろうか。

こうした部分での「財」の再分配政策はあってよいと思うのであるが、実際の政治家からそうした声は挙がって来ない。どうしたもんだろう。

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不必要な補助金にもメスを。

栃木県介護支援専門員協会の研修に参加した方からメールをいただき、次のような情報提供があった。

講師・日本介護支援専門員協会・木村会長。冒頭からいきなり協会加入への勧誘。同会長曰く
「日本介護支援専門員協会は協会に賛同する会員のみしか守りません。保護を受けたければ会費払って会員になりなさい!」(4,500円払って帰りなさい)との事。
その後は4時間延々と協会がケアマネの加算について尽力してきたこと、政界に太いパイプがあることを話し続けた。

要旨は以上である。

情報を送ってくださった方は、この会長発言に憤っておられた一人である。つまり職能団体の実態は、そのトップの実態は「こんなにひどい状態」なんだという憤りであろうと想像する。

職能団体だから、専門職としての待遇や利益を保持・改善するための組織活動をすることは当然だが、同時に職能団体とは専門的資格を持つ専門職従事者が、自己の専門性の維持・向上を図り社会貢献する、という目的が当然ベースにあらねばならないはずだ。特に介護支援専門員は社会福祉援助者として、社会的弱者にも手を差し伸べて、この国の社会福祉水準を向上させるという目的があるのだから、後者の視点こそ大切である。

しかしながら同会長の発言は、自らの利益しか念頭になく、社会福祉援助者として国全体の福祉水準の向上の視点を全く持たず、会員にならない介護支援専門員は「むしけら」のごとく見下ろす視点でしかないように聞こえ不愉快と感じる人が多いのではないか?同会にとっては「会員にあらざれば、人にあらず」という考えなのだろうか?少なくとも同会長の脅し発言はそうとられても仕方がない。

政界との太いパイプを誇っているようだが、確かに彼の人脈は豊富なんだろう。しかし現政権とのパイプも同じように太いのかはいささか疑問である。民主党議員の一部は、同協会に渡っている補助金について首を傾げている人もいるし、過去の補助金交付過程を調査していた議員もいるということだけは事実である。
(参照:国から日本介護支援専門員協会に渡される7.700万円

某県協会幹部の中には「日本に入らないと県にも加入させない。そうなれば県協会での活動もできない」と公言してはばからない人も存在する。日本協会から都道府県協会への圧力や、県協会からの有資格者個人への強引な勧誘・圧力。どうもこの団体のやり方は、強圧的で民主的ではない。しかも執行部独裁だから、執行部の意に沿わない会員の意思は無視され顧みられることはないが、それでもその団体トップは会員の為に寝食を忘れて働いていると喧伝する。

あくの強い政治家としては、あり得る態度なんだろうが、介護支援専門員の組織のトップとしてはいささか品性に欠けるのではないか。なるほど品性より実利か?しかしそれは本当に少ない給与から会費を払っている会員の「民意」を反映したものなんだろうか。個人の実利を追うものではないのだろうか。会費を払っている皆さんは、ここのところをもっと真剣に考えたほうが良い。

貼り付けた過去の記事において、この団体は、既に国の「ひも付き団体」で、国の意思に反したところでのソーシャルアクションは不可能なことを指摘している。そういう組織に国民としては何を期待しろというのだろうか?

ところで国がひもをつける手段としての補助金は、今後も、この団体に今まで通り、手渡されていくのだろうか。

厚生労働省の補助金に関連しては「全精社協事件」もあった。(参照:全精社協事件の本質は何だ)こういう補助金が各省の裁量権が強く及ぶ「特別会計」から支出されていることは大いに問題である。

現政権は特別会計に踏み込むと言っているし、事業仕分けも継続するんだから、ここの不透明な補助金支出に大ナタを振りおろすべきだろうと思う。国民の利益に結びつかない、やっても・やらなくとも大差なく、社会的に意味がない研究に、補助金という名目の国費をつぎ込むより、国民が求めているところにお金を回した方が良い。

日本介護支援専門員協会の補助事業における研究だって、そんなものなくても誰も困らない程度のもので、それは単に補助金という名目で、会の運営資金を得る手立てにしかなっていない。そこまでして協会を残さねばならない意味があるのだろうか。

少なくとも事実として言えることは、この団体は決して現場の介護支援専門員の大多数を代表してはいないし、大多数からの支持を受けてもいないということである。現場の声を代表していない典型例は、この団体が意味のない介護サービス情報の公開制度にも賛同しているし、その制度を廃止せよとの声も無視し続け、継続に手を貸している。また介護支援専門員の資格更新制度にも積極的だ。教員などの他資格は、更新制度が質を担保しないとして廃止の方向にあるのに、まったく時代遅れの考えだ。福祉系サービスだけにターゲットを絞っている「特定事業所集中減算」というおかしなルールにも賛同し手を貸している。ここのところを勘違いしてはならない。騙されてはならないのである。

この厳しい財政事情と経済事情の中で、そんな団体を存続させるために「特別会計」から査定を受けない国費が回されるのは大問題である。ここにしっかりメスを入れる必要がある。

それは結果的に国民すべてが望んでいることだろうと思う。

どちらにしても、ある程度の見識をお持ちの介護支援専門員なら、こうした団体には加入してはいけないと思う。会費が納めることができるというだけで、安易に入会することで日本の福祉はどんどん悪くなってしまう。

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民の声にも間違ったものはある。

介護サービス情報の公表制度がいかにサービスの質を担保しないか、あるいは国民にとって全く意味のない情報の垂れ流しでしかないことは、このブログ記事でも再三取り上げて警鐘を鳴らしている。(参照:公表制度についてのブログ記事

あの情報は、単に指定された書式上の「記録があるか、ないか」しか確認していないので、その内容に沿った実際のサービスが適切に行われているかさえ調査員は確認しないのである。だから公表センターの公開情報だけで事業者を選択することほどリスクを伴うものはない。そうした実態を表さない情報を「公の機関」として公表センターが開示していること自体が「社会悪」とさえ言えるのではないだろうか。

毎年定期的に全介護サービス事業(現在、随時拡大中で今年度までは対象になっていないサービスもある)を対象に行う調査によって支払われる調査・公表費は膨大な額に上っている。

例えば我が事業所についていえば、介護老人福祉施設としての施設サービスと併設短期入所生活介護事業・居宅介護支援事業所・通所介護を行っているので調査対象指定事業数(特養と併設ショート及び予防と介護は一体とする)は、施設サービスが1・居宅サービスが2ということになり、調査事務手数料は29.200円+21.200円×2=71.600円ということになる。今年から調査員は1名体制になって、1日(と言っても3〜4時間程度である)で全事業のチェックを行うだけで、これだけの費用を支払わねばならない。さらにこれに上乗せして公表事務費がそれぞれ9.700円も上乗せされ、全体で100.700円の負担になっている。これでも以前より安くなっているのである。しかしこの程度の調査・公表の手間でこの金額は「良い商売」だ。

つまりあの公開情報は、一人の調査員で3つのサービス事業(併設ショートを含めると実際に4事業)をわずか3〜4時間で調査した結果でしかなく、情報としての価値がどの程度のものか素人でも想像がつくだろう。しかもそれにより事業者は毎年10万円以上の負担を強いられているわけである。これが永遠と毎年続き調査公表機関にとって「顧客」がなくなることはない・・・。さらに調査のたびに、介護サービス事業者は忙しい職員を調査員の「子守り」に貼り付けねばならず、書類の準備や後片付けを含めて、これも無駄な業務負担である。負担費用も事業者にとっては無駄金・死に金でしかないとしか考えられない。

例えば当登別市の居宅介護支援事業所・通所介護事業所・訪問介護事業所という3つのサービス事業に限定して考えても、事業所数は27事業所あるので(実際にはもう少し増えているのかもしれない)、これらの事業所だけから調査・公表機関が毎年、定期的に得られる収入を考えみると、その金額は834.300円にもなる。これにその他の施設サービス等を加えて、全サービス・全道規模で考えれば、どれだけ多くの費用が支払われているかがわかるだろう。しかもこれは増えることはあっても(事業者数が減っていないので)決して減ることはなく、かつ毎年支払われる安定収入なのである。

だからこの制度の意味は、事業者から調査費用と公表費用という名目で金を定期的に、かつ確実に分捕り、それによって利益を受ける一部の人々の懐を肥やすためだけに存続していると言ってもよいだろう。しかし突き詰めれば、それは介護給付費から支払われているんだから、国民の税金と保険料から支払われているのである。つまり何の意味もない調査と、その情報公表という名目のものに、国民が汗水たらして納めた公費が無駄に使われているという意味にもなる。

この公表センターの役割を、都道府県の社会福祉協議会が担っている地域があるのも問題である。こんな意味のない情報を流す主体に社協という組織がなっていることが国民の目を狂わす元凶でもある。僕は心の中で「社協マンとしての誇りも見識のかけらもないのか」とつぶやきたくなることがある。それほどの意味のいない調査情報なのである。

しかしその実態を知ることがない一般国民・一般市民は、「情報公開」と冠がつくことは悪いことではなく、ないよりはあったほうが良いだろうとしか認識していない。税金や保険料という公費がいかに無駄に使われているかということを認識していない。

だから事業者が、こんなもの続ける価値がないと声高に叫んでも「多くの国民は、それは必要なことだと支持している」として制度反対・廃止を求める声は、単に「事業者エゴ」として処理され、顧みられることはない。

僕は、情報開示自体を否定しているわけではなく、それは必要なんだから、むしろもっと有益な情報として、実地指導の結果や書面審査である「指導調書」の内容を公開するシステムにすればよいと提言している。これなら既に行われていることで別に費用や業務負担が生ずることはないのだ。それによって国民にとって何の意味もない公表制度の調査や公表情報に金や時間を使う無駄も省け、さらには余計なエネルギーを省くことで、現場の介護サービスにそれを回してサービスの質が向上することだって可能になるかもしれない。

かつて昭和の黄門さまと言われた福田赳夫総理大臣は、党の総裁選で大平正芳氏に敗れた際に「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな」と言ったことがある。国民の声にも「変な声」はあるのだ。しかも悪いことに、それは決して悪意のない声であり、時として「悪意はないが間違った声」が世論の多数を占める結果になることがある。

介護サービス情報の公表制度に関する、一般国民・一般市民の声も同様である。

問題意識を持って、なんとか介護サービスの質を向上させようとしている多くの関係者が、そのことにこの制度が百害あって一利なしと考えて声を挙げているにも関わらず、この制度の見直し議論が進まないのは、善意の国民がこうした自らの「変な声」に気がついていないからである。

本質を見つめることなく「介護サービス情報公表制度は必要な情報公開」と間違ってしまっている国民の声が世論の一部を形成してしまっている状況が利権に群がる一部の人々の懐を肥やし続けているのだ。

このことに国民自らが気付かない限り、国家予算は常に誰かの食い物にされ、制度の光を当てる必要がある人々の闇は永遠に晴れることがなく、陽のあたる場所は利権を得ている者たちによって占有され続けていくだろう。

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介護保険制度へと続く道


我が国の高齢者福祉対策は1963年に制定された「老人福祉法」に基づいて行われ、老人保健医療対策も同じく「老人福祉法」に基づいて行われてきた。その中で1973年から高齢者の医療費を公費負担する「老人医療費支給制度」が発足し、70歳以上の一定所得以下の高齢者医療費の無料化が実現した。これにより高齢者の受診率が大幅にアップした。

しかしこの時期オイルショックにより実質経済成長率が戦後初のマイナスとなり、健康保険料収入は大幅に落ち込んだ。これにより高齢者の加入率が高い国民健康保険財政は急激に悪化した。

このような情勢下で、旧厚生省は1976年から省内に「老人保健医療対策室」を設置し、高齢者医療の患者負担を復活させようとしたが、当時の三木内閣、福田内閣では世論の反発を恐れ選挙対策としの戦略上の見地から高齢者医療費の有償化は見送られ続けた。

1980年、行政管理庁が高齢者の過剰な多受診傾向を監査結果として示し「老人医療費支給制度」の早期見直し勧告を出すことにより潮目が変わった。そして1983年、老人保健法が施行されることにより我が国の老人保健医療対策は、老人福祉法から離れ同法に移行し「老人医療費支給制度」も廃止された。

1986年には国保財政の一段の悪化を背景に、老人保健法改正議論が大きく取り上げられ、高齢者対策企画推進報告として
1.自立自助と支援システムの構築
2.社会の活力の維持
3.地域における施策の体系化と家族への支援システム強化
4.公平と公正の確保
5.民間活力の導入

以上の5つの基本原則が示された。これをみると、このころから介護保険制度に繋がる基本原則の考え方が萌芽しているといえる。そしてそれは1988年の「高齢社会の福祉ビジョン」の国会提出へと繋がり、2000年度末までホームヘルパーを50.000人、ショートステイを50.000床、デイサービスセンターを10.000箇所、特養と老健を500.000床増やすという在宅サービスと施設サービスの緊急整備目標が示される流れに繋がっている。(1989年高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略:ゴールドプラン)

1993年厚生省内に「高齢者介護問題に関する省内検討プロジェクトチーム」が設置され1994年には「21世紀福祉ビジョン」を示し、新ゴールドプラン策定と新介護システムの構築が提言された。この背景には厚生官僚の中に「租税・社会保障負担率」(対国民所得比)は当時35%位であったが、このまま何の対策もとらねば、これが50%を超えることは時間の問題で、そうなればヨーロッパ先進国のように先進諸国病に取りつかれ社会の活力を失うという危機感があった。つまりサービスは増やすが、その利用については「自己責任」原則を導入し、国民に新たな負担を求めざるを得ない、という考え方が根底にあったものである。

そしてこの「新介護システムの構築」提言がきっかけで、1995年2月老人保健福祉審議会において「新介護システムの審議」が開始され、同年7月「介護保険制度の創設」が勧告された。(政治的背景をみると、自・社・さ連立政権における社会党の村山富市が首相であった。)

この最終報告が1996年(この年1月11日、村山首相退陣、自民党総裁の橋本龍太郎氏が首相就任)に出され、介護保険制度案大綱が6月17日に諮問・答申された。それにより
1.関係者の意見に基づき介護保険制度要綱案を基本とする
2.懸案事項について解決を図り必要な法案作成作業を行う
3.次期国会に法案を提出する

という与党合意事項が示され、同年6月25日に「与党介護保険制度の創設に関するワーキングチーム」が設置された。その後、臨時国会への「介護保険関連3法」法案提出、2回の継続審議を経て・1997年末に審議・可決成立へと繋がっていったわけである。

法案成立に至る過程では、与党内でも足並みがそろわず、故・梶山静六議員をはじめとした自民党の有力代議士が制度創設に異論を唱えるなど、水・木の記事に書いたような様々な紆余曲折があった。しかし介護保険制度の創設議論の当時の政権は「自・社・さ連立与党」であったことが法案成立には大きく影響した。

どちらかと言えば農村部を選挙基盤にしている代議士が多かった自民党が、国民の新たな負担が伴う介護保険制度には消極的で、介護負担に対しては現金給付によって支持を広げようとしたことに対し、公的介護保険制度の創設議論が盛んになった当時の連立政権が社会党の村山内閣であったことにより、同党の支持基盤が自治労を中心にしたサラリーマン層であり、共働き世帯の支援策として「介護の社会化」が支持されたことと、その後、橋本内閣に変わって法案が国会提出された際の国会審議の過程においては、連立政権の枠組みが変わり野党として誕生した民主党の支持基盤もサラリーマン層であり、さらに同党の有力代議士である菅直人衆議院議員が、与党時代には、第1次橋本内閣の厚生大臣として同法立法化に積極的であったことなどから、この法案成立に協力しやすかった、という背景があることは先日の記事にも書いたとおりである。

さらにいえば、財政事情は何らかの形で新たな国民負担を求めざるを得ず、既に3%〜5%に引き上げが決まっていた消費税の税率再アップは国民感情を逆なし、政権への支持を失いかねず、別な形でのソフトランディングの方法を模索する中で「社会保険方式」「一定年齢以上の強制加入方式」という形の「静かな国民負担」が考えられた結果である。

どちらにしても自民党の一党支配時代には旧態勢力として厚生省に深く根をおろしてきた「厚生族議員」の力が、政界再編と連立政権下で衰えて行った過程で、政権与党〜野党に横断的に戦略的なメリットがあった新制度創設議論と相まった。これによって厚生官僚の模索する新たな介護システムとしての制度が日の目を見る間隙が生まれていたということが大きいであろう。

自民単独政権下で族議員が跳梁跋扈していた状況であれば、この制度は議論段階でつぶされていたであろう。

なお旧大蔵省(現財務省)は、介護保険制度について税方式を主張していた。これに対して厚生省は「介護報酬による収入の6〜8割は人件費として支出されるのだから、経済状況によって歳入が大きく左右される税によらず、安定した財源として保険料方式が望ましい」と対峙した。

この背景には税方式とすれば一般会計となり、大蔵省が財源を持つことに変わりはなく、大蔵省主導により財政状況で常に介護保険財源が削減対象になり、厚生省の所管が及びがたくなるのに対して、保険料方式の場合は、大蔵省の厳しい査定を受ける一般会計ではなく、特別会計に計上されるので、その場合、厚生省として独自財源となり省の裁量権を大きく確保することになることが主たる理由であったろうことは想像に難くない。そして決して力の強くない厚生省の主張が、巨大権力を持つ大蔵省の主張を押しのけて通った理由は、税という形の負担を増やせない政治事情があったということで、そのことは前述したとおりである。

つまり結果として言えば、厚生省は介護保険特別会計という独自の財源をこれにより確保することになるわけである。

記事の本旨とはいささか外れるが、こうした各省の独自財源となっている特別会計に、政治力でどこまで切り込めるかが、グローバルな視点からの政府の財源運営には必要であり、現政権が来年度以降に特別会計へ切り込むことができるのか、その対応と結果が注目されるだろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護保険・夜明けの雷鳴2


(昨日からの続き)
6月23日、読売新聞の世論調査で83%の国民が介護保険制度の導入に賛成と高い支持が集められた。しかしこの時期、国民には介護保険制度が強制加入の掛け捨て保険であり、40歳以上の国民から「介護保険料」を税金とは別に強制徴収するなどの情報は十分に伝えられておらず、調査に回答した国民は、単に新たな介護サービスの制度が創設される、という片肺情報により、新制度の内容をよく理解しないまま賛成した傾向が強い。
※なお蛇足であるが、この時期、ヘルパー講習などの場でmasaは「税金とは別に強制的に保険料という形での国民負担があることを分かっているんですか?それらを含めて、新制度のすべてがYESなんですか?」と疑念を呈していた。

7月3日、介護保険制度の推進の旗振り役として厚生労働省保健局長の岡光序冶が事務次官に就任。厚生省内には「岡光ならやるだろう。手腕を発揮して介護保険制度はものになる」という空気が生まれた。まさに颯爽とエース登場という雰囲気であった。

7月13日、与党公的介護保険制度創設ワーキングチームの第1回地方公聴会。橋本首相は、社民党に沖縄米軍基地問題でも譲歩協力を得ようと、介護保険法案の秋の臨時国会への法案提出に前向きの姿勢を示したが、与党内には自民党を中心にした根強い反対勢力があり、その溝は大きかった。

8月9日、全国町村会は、都道府県単位での65歳以上保険料の統一化、保険料未納分の国費補てん、家族介護への現金給付を骨子とした「公的介護保険制度に関する要望」を発表。この時期以前から町村会は制度反対の方向を条件闘争へと転換している。さらに経団連も事業主負担の在り方に異議を示しながらも、制度創設自体には反対しないという姿勢を示していた。

9月6日、将来の老後に不安を持った50代の人々が中心となって「介護の社会化を進める1万人委員会」発足。世論は介護保険制度創設に向かい、全国市長会や全国町村会でも制度反対より、財源手当てを見据えた議論に向かいつつあった。

9月16日、与党ワーキングチーム(座長・山崎拓自民党政調会長)は、在宅と施設のサービスを同時実施する座長試案をまとめた。

9月18日、在宅と施設の段階実施案であった厚生労働省は、岡光次官が橋本首相に「与党案の同時実施案に沿って政府案を出したい」と報告。翌19日、政府与党首脳連絡会議で介護保険法案の国会早期提出で合意された。
法案提出に反対論が強かった自民党も、小選挙区制の導入を控え、市町村長の影響力が強まることを無視できず、さらに選挙後の連立体制を考えれば、制度導入に積極的だった社民・さきがけ・民主党との深刻な対立は避けたく、介護問題への積極姿勢を示さざるを得なかった。

11月5日、介護保険法案全容が明らかになる。ここでは市町村負担に配慮して市町村関連事務費の1/2を国負担とし、都道府県の関与を拡大し、実施時期を2000年4月から在宅・施設のサービスの同時開始と当初案より先延ばしし、保険料も同年4月から徴収とした。

選挙を控え、自民党内では「法案をつぶしたら選挙で批判される」派と、「負担の話になれば票にならない」とする派の対立で混乱し、一方、社民・さきがけ両党も、民主党旗揚げに伴う離党問題を抱え「介護の議論どころではない」という空気が生まれ、この間隙をついて厚生省官僚主導の法案創りが進んだ。

11月7日、内閣改造、第2次橋本内閣発足。厚生大臣は菅から自民党の小泉純一郎へと引き継がれる。
(菅は後に民主党共同代表として野に下る。)

11月16日、岡光次官の関与した「彩福祉会汚職事件」が明るみになり、同次官は小泉純一郎厚相に辞表提出。この事件は彩福祉会が運営する特別養護老人ホームの建設補助金をめぐって、不正な水まし請求が行われ、建設補助金が不正受給されたもので、当時許認可権を持つ老人保健福祉部長という立場にいた岡光が深く関与し、金品を受け取っていたとされ、11月18日、警視庁と埼玉県警は厚生省課長補佐の茶谷滋と社会福祉法人「彩福祉」グループ代表の小山博史を贈収賄の容疑で逮捕し、12月4日、小山代表から6.000万円を受け取っていた疑惑で岡光序治も収賄容疑で逮捕した。後に岡光は懲役2年の実刑判決を受け服役している。この時期、小泉厚生大臣も、岡光次官の辞表を受け取り退職金が支払われる形での退任を認めたことで世論の批判を受けた。
エースの大暴投で法案の行方にまたもや暗雲がたちこめた。

※もしこの事件がなかったら岡光は介護保険を作った人として、我が国の歴史に名を残したかもしれないが、逆にこの事件によって厚生省の「たかりの象徴」として逮捕実刑判決を受けた事務次官経験者として歴史に汚名を残すことになった。

※脱線を続けるが、非常に悲しいことではあるが事件当時、中学生という多感な時期にあった小山の長女が、この時期から精神不安定となり、2004年の9月に自殺してしまった。事件は様々な人を巻き込んで、その後の人生を狂わせている。合掌。

11月21日、自民党総務会で法案了承。

またまた脱線するが、この時期、介護保険法案の原文を読んだ小泉厚相は、その中にたくさんのカタカナが記載されていることを発見し、「日本の法文は日本語で書け」と事務当局に指示を出した。これによりグループホームは「痴呆対応型共同生活介護」に、ホームヘルプは「訪問介護」に、ショートステイは「短期入所」に変えられるなどの作業が行われたが、さすがに「通所リハビリテーション」「訪問リハビリテーション」まで「通所機能訓練」「訪問機能訓練」に変えろという指示は出なかった。このことから考えるに、僕個人の意見としては、グループホームはグループホームのままでよかったのではないかと思っている。

11月29日、国会に法案提出。しかし野党・新進党の西岡幹事長は、厚生省汚職(彩福祉会事件)に触れ「厚生関係議員のトップ」としての首相の責任を追及するとともに、厚生省に対しても介護保険制度の旗振り役の事件を引き合いに出し「法案提出自体が不見識」「汚職事件の中心人物が法案作成にかかわったのであり、撤回すべし」と審議入りそのものを拒否し、通常国会に新たな法案を提出するように求めた。

12月13日、橋本首相は衆議院本会議において「介護保険法案は内閣の最重要課題の一つ。厚生省の不祥事を理由にして法案成立を先送りすべきでない。」として「介護保険関連3法案」は衆議院厚生委員会に付託され、17日に同会で提案理由を説明したが、時間切れで19日臨時国会は閉会し、同法案は継続審議となった。

翌1997年1月20日、通常国会開会。26日、介護保険3法案審議再開。

5月9日、自民党・村岡国会対策委員長と民主党・赤松国会対策委員長会談。翌週、介護保険法案を衆議院本会議で採決することに合意した。与野党合意ができたことで法案成立は間違いなしと思われた。

5月22日、介護保険法案は衆議院厚生員会で、自民・民主・社民の3党と無所属議員で構成する「21世紀」の賛成多数で可決。午後に衆議院本会議可決。参議院送致。反対は新進党と共産党であった。しかし参議院厚生委員会では医療保険制度改革関連法案の修正問題で審議が遅れ、介護保険法の審議に時間が取れなくなった。

6月18日、会期切れ。介護保険法案は臨時国会まで再度継続審議となる。

7月、厚生省内に「介護保険制度準備室」が発足。この時期は、通常国会で介護保険法案は継続審議となったものの、論議が尽くされた感があり、野党民主党の合意を得ていることもあって、秋の臨時国会で可決成立することは間違いないという空気ができていた。

10月21日、介護保険法案参考人質疑(参議院厚生委員会)で、看護師・医療ソーシャルワーカー・自治体首長などが意見を述べた。

12月2日、同委員会で政府責任を明確にする修正を加えたうえで自民・社民・民主・太陽党の賛成多数で法案可決。反対は、全額税制方式を主張した平成会(新進党と公明党の参議院院内合同会派)と、現行老人福祉制度と保険方式の組み合わせを訴えた共産党。

12月23日、衆議院で2ヶ所の法案修正と16の付帯決議が行われ、参議院で1ヶ所の法案修正と19の付帯決議が行われ採決・成立した。新進党は欠席し採決に加わっていない。

このように1996年の通常国会では法案提出が見送られ、その秋の臨時国会で法案提出された後、2度の継続審議を経て、1997年秋の臨時国会終盤の同年暮れに介護保険法案は国会を通過し2000年4月からの同法施行が決まったのである。

では、公的介護保険制度の創設に至る機運がどのように生まれてきたのか、日本の福祉政策、医療保険政策の変換史から、そのことを考えてみたい。(介護保険に続く道、に続く)

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護保険・夜明けの雷鳴1


公的介護保険制度法案の国会提出機運が盛り上がり、その動きが具体化してきた1996年初頭の通常国会召集前から時系列で、介護保険制度法案成立に至るまでの経緯について、関連する政治的な動きを中心に振り返ってみたい。本日と明日の2日続きで、このことをまとめて、建国記念の日で記事更新を1日休んだ後に、今週金曜日の記事で、時系列の動き以前の政策動向を含めて介護保険制度誕生に至る我が国の高齢者福祉関連制度の流れをまとめてみたい。

1996年1月5日、公的介護保険制度創設を支持してきた社会党の村山富市首相が突然の退陣表明。村山は94年6月25日に羽田内閣総辞職を受けて、自由民主党総裁・河野洋平が日本社会党委員長首班の連立政権を打診し、新党さきがけを含めた自社さ共同政権構想に合意し首班指名されていた。
「自・社・さ連立政権」では最大議員数を自民党が握っているものの、社会党の村山内閣ということで、同党が都市部のサラリーマン層を中心に支持されていた経緯があり、1993年頃から構想され厚生省官僚が法案提出を勧めてきた「公的介護保険制度創設」は共働き世帯を支援する同党の政権構想とマッチし、これを指示していた。一方連立政権内部では、新党さきがけも法案支持の立場であったが、農村部の第1次産業を支持基盤とする議員が多い自民党が、家族介護にこだわる傾向が強く、公的介護保険制度より、介護する家族などに現金給付を行う政策を支持する議員の力も強く、介護保険制度創設には反対論も多かった。これに介護保険制度を創設すれば将来の財政支援が必ず必要になり財政悪化の要因になるとして大蔵省や自治省が同調し、自民の反対勢力を支持してきた経緯がある。

1月5日、村山首相退陣表明を受け、同日、自・社・さ政権協議にて、自民党総裁・橋本龍太郎を首班とする連立で合意。自民党内には公的介護保険制度創設反対論も根強く、その動向が注目された。

1月8日、自・社・さ連立政権で村山首相退陣後のあとを受ける橋本龍太郎自民党総裁は年頭の記者会見で「高齢化社会対策として介護保険制度創設の必要性」を訴え、通常国会への公的介護保険制度関連法案提出への意欲を示した。

1月11日、村山内閣総辞職。第1次橋本連立内閣発足。注目の厚生大臣は、介護保険制度導入に前向きな新党さきがけの菅直人が指名される。(菅は同年9月、さきがけの鳩山由紀夫が民主党を設立すると鳩山と共同代表として同党に参加し、後に政権離脱した。)
※なお社会党はこの月、党名を「社民党」に変更した。

1月24日、厚生省は通常国会に法案提出を予定している「公的介護保険」について保険の運営主体として市町村案を検討していることを表明。なお最初の法案では制度の実施時期は1997年〜とされていた。

2月8日、老人保健福祉審議会第2次中間報告。

2月15日、同審議会では保険の主体をどこにするかについて、実施主体とされた市町村が財政的裏付けがないと猛反発。大揉めに揉め、決着を先送りし3月中の法案提出が困難となった。この間、与党内部には自民党を中心に「国民の新たな負担を強いる保険の導入は総選挙に不利」として法案提出見送りの慎重論も生まれた。

3月14日、自民党・丹羽雄哉元厚生大臣は「ヘルパーなど在宅サービスだけを対象とする介護保険を前提的に導入する」という私案を与党のプロジェクトチームに示した。

4月22日、老人保健福祉審議会は 菅直人厚生大臣(菅氏は1996年1月、村山内閣総辞職後成立した第1次橋本内閣で厚生大臣として入閣した後、1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が民主党を旗揚げすると、これに参加。後に野に下り介護保険制度の議論では菅氏は与党の担当大臣〜野党の有力議員として関わる結果になった。)に最終報告書を示した。この中では1997年実施を目指した「介護保険制度」について準備期間を置くように求めたほか、家族介護に現金給付をすることの是非について賛成と反対の両論を併記した。

4月23日、丹羽私案。制度は1998年からとし、在宅サービスを先行させる保険制度の段階導入方式を求めた。

4月26日、社民党により「1998年度からの在宅、施設の介護サービスを供給するとし、2002年を目途に供給対象を20歳以上とする」とした意見が出される。

5月16日、厚生省は老人保健福祉審議会に「サービスの受給対象、保険料負担対象年齢は40歳以上とする」私案を示した。制度開始時期は在宅が1999年、施設が2001年からという段階実施案であった。しかし同日、自民党・梶山静六官房長官が、法案提出に積極的な菅直人厚生大臣に、住専への財政資金投入問題を抱える状況で、1997年の消費税引き上げ(3%〜5%へ)と介護保険を導入することによる国民負担が増加すれば「国民の逆鱗」にふれ選挙が戦えないとして慎重対応を求め、自民党の加藤紘一幹事長も梶山発言に理解を示した。橋本首相もこのことについて「異論があることは事実」として内閣と与党の不統一を認めた。同日、丹羽元厚相が首相官邸を訪ね、介護保険制度の必要性を訴えたが、首相は「市町村の理解を得なければならない問題だ」と協力の明言を避けた。

5月17日、新党さきがけの鳩山由紀夫代表幹事は自民党内の慎重論について「薬害エイズ問題で国民の注目と支持を集めた菅厚生大臣への反発である。」と認識を示し不快感を表した。この間、大蔵省は「介護保険は将来の公費負担の増加に結び付く」として自治省とともに異論を唱えた。

5月22日、橋本首相と菅厚相の会談。首相が厚相に「今国会の法案提出は難しい」と見通しを伝え理解を求めたという報道がされるが、菅厚相は「難しいが互いに努力しようと、ということ」と解説した。同日、厚生省は全国市長会と町村会に市町村の財政負担を軽くする「介護保険運営安定方策」を示し、市町村が保険者を受けるように強く要請した。しかし両会とも財政的裏付けが乏しいと、これを拒否。

5月24日、「高齢社会をよくする女性の会」の樋口恵子代表が、千代田区の主婦会館で「介護の社会化を1歩も緩めるな」とアピール。しかし同会の中でも本国会への法案提出に対する反対論も出て、機運としては法案の国会提出が難しくなるという状況であった。

6月6日、介護保険制度の骨格となる「新制度案大綱」を老人保健福祉審議会と社会保障審議会に諮問。

6月10日、医療審議会が、介護保険関連法案として諮問していた医療法改正要領を諮問通り答申。療養型病床群が19ベッド以下の診療所にも設置可能とした。この間連立与党プロジェクトチームの強い要請で厚生省私案が方向転換し
1.保険料負担・受給は共に40歳から
2. 制度は在宅、施設の同時実施。
という修正方針を示した。これに対し「負担は20歳、受給は65歳から、在宅、施設の段階実施」という案でまとまっていた老人保健福祉審議会は「一夜で内容が変わるなんて無節操」と猛反発した。

6月12日、自民党社会部会では結論が出ず「継続審議」。しかし社民党・新党さきがけ両党は法案の今国会提唱を了承した。これを受け厚生省は「介護保険法及び介護保険法施行法案要旨」を与党福祉プロジェクトチームに示した。このころ既に新党さきがけの鳩山由紀夫は、さらなる新党構想を掲げ、菅厚生大臣もこれに参加する意思を示しており、閣内にいては政治行動がとりにくので、介護保険法案の国会提出が見送られた場合、これを理由に辞表を提出するのではないかという憶測が流れ、自民党内に「自民党だけが悪者にされ選挙で負ける」という空気が広がり、加藤紘一が菅に電話で辞任する意向がないことを確かめたりした。連立与党の内情は大揺れであったのである。

6月13日、与党調整会議。法案提出賛成派は社民・さきがけ・厚生省。反対派は自民党・自治省。

6月15日、政府・与党は介護保険法案の国会提出を見送る方針を固めた。この際、連立与党3党は秋の臨時国会に法案を提出するとの合意文書を交わしたが、関係閣僚の署名が中止され早くも暗雲が漂った。
明日に続く

介護・福祉情報掲示板(表板)

日本の介護はどうなる?

人口減少社会に入った我が国ではあるが、少子高齢化は一層進行し、高齢化率は拡大の一途をたどっている。既に団塊の世代が65歳を超えたが、それらの世代の人々が後期高齢者となるにしたがって介護を必要とする人の数は爆発的に増えて行く。人口との反比例現象が広がるわけである。

そのような中、厚生労働省が昨年9月に2006年度からの特別養護老人ホームなど介護保険施設の整備計画の達成率が71%にとどまったと発表し、さらに12月には、特別養護老人ホームの待機者数(入所申込者数)が約42万1000人に上ると発表した。そして、この原因が第3期介護保険事業計画期間(06〜08年度)に介護施設の整備が進まなかったことと結論付けている。

この中で注目すべきは待機者の半数以上が要介護1〜3の高齢者であるということである。要介護度が4以上の重度者でなくとも在宅生活を続けるためには家族をはじめとしたインフォーマルな支援が必要不可欠で、居宅サービスだけで在宅生活を継続することは、インフォーマルな支援者が年を重ねるごとに困難になる傾向を示している。
※なお待機者全体に占める在宅者の割合は47.2%で19万8677人。在宅でない人は52.8%で22万2582人だった。

待機者の増加の要因を「第3期介護保険事業計画期間に介護施設の整備が進まなかった」と結論付けていることから、今後は国の尻たたきを受ける形で各市町村においては、第4期介護保険事業計画期間(09〜11年度)の達成率のアップが至上命題になるだろう。そして必然的に施設整備も促進される。特養などの介護施設だけではなく、グループホームやケアハウス、有料老人ホームも建設認可される件数が増えるだろう。

その時に何が起こるか?それらの施設が整備されても施設入所待機者数は0にならず、顧客確保に苦労するということにはならないが、一番の問題は職員確保である。行政は整備計画を財源からしか考えないが、果たして全ての施設等が必要な介護職員を確保することができるかと言えば答えは「NO」である。仮に数字の上での確保ができるとしても、それは単に「人員確保」に過ぎず「人材確保」は困難である。しかしこの状況は現時点でも同様であり、今後は前者の「人員確保」さえ難しくなってくるだろう。

介護サービスを必要とする人材量を供給するシステムは、現在のわが国には存在していないと言ってよい。

就職難と言われる未曾有の大不況下で、高校生の進学率が就職率を上回るほどアップしているのに、介護福祉士養成専門学校は相変わらず不人気で、学校数やクラス数が減っている。就職率100%の専門学校に人が来ない状況なのである。

だから新規事業者が職員を募集しても、若い新卒者を採用するのは至難の業である。

結果的に、年齢に関係なく、現に他事業者で働いている現役介護職員を引き抜くなりして採用するケースが今以上に増えることになる。つまり言葉は悪いが、介護事業者から介護事業者へと「渡り鳥」的に職場を変えるケースがさらに増加するということだ。これは人手が足りないことから、とりあえず手を挙げる人は誰でも雇用するという事業者が多いという一面があり、簡単に就業できることが、逆に職場離れを加速し「安易な職場間移動」が需要と供給バランスが崩れた状態で行われる現象をも加速する。そういう現場でサービスの質など向上するわけがない。

他事業種からの離職者を介護事業に転職させるシステムも重要であろうが、それだけで介護職員数が確保できるわけがなく「即席養成システム」は逆に質の担保という面ではマイナスである。現行の経済連携協定(EPA)に基づく外国人介護職員受け入れ策は「焼け石に水」とまでは言わないが、受け人数や条件の厳しさを考えれば、それは人手不足の解消策ではなく、国際間の政治的取り引きでしかなく、根本的な労働力確保にはつながらない。

だからこの国の介護サービス全体の質がアップするのは現実には不可能だ。必要なサービス量の確保だってままならない。

そのような隙間を縫って、介護を食い物としか考えない経営者の数も今以上に増えるのだろう。それにより劣悪な介護サービス事業者も増えこそすれ、なくならない。サービスの質などどうでもよいと考える経営者がたくさん出てきて、とりあえず何でもよいから職員の数だけ確保し、劣悪なサービスを提供し、具合が悪くなれば途中でそれを放り出すケースが続出するだろう。

そのため介護サービスの短・中期的見込みとしては、サービスは2極化が進行し、介護サービス事業所間の質の差が激しくなるだろう。しかし長期的に見れば、介護職員不足は全ての介護サービスに負の影響をもたらし、業界全体を慣らしてみても介護事業者の質を低下させる恐れさえある。

この状況を変えるためには、若い新卒者が、介護サービスを職業として選択できる政策が必要不可欠なのである。介護を一生の職業として選べるためには、普通以上のサービスを行っておれば経営者が適切な給与を支払うことができる収入体型が不可欠である。

これを財源論だけで削ることは亡国の施策であることに気がつかない政治家がどうかしている。「誰が選んでいるんだ!」と言われても、選択肢が限られている中で、我々は本当に真に必要な人を国政に送り出すことができる権利を与えられているのだろうか?今のようにお金や組織がないと国政選挙に立候補できないシステムで、国民に「選択責任」を負わせるのはいかがなものか?

現行の政権選択選挙も、例えるなら我々は「砂糖」を選びたいのに、それは不可能だから、小麦粉と澱粉を目の前において、どちらかより近いものを選べと言われているのに過ぎないのではないか?本当の意味で国民の意思に基づく選択とは言えないのである。話がそれた・・・。

行政の役割を考えると、地域の中で、介護保険事業計画を立案する行政職員は、地域の介護サービスに必要な人材量の見込み考慮しながら計画する、という視点が必要なのだ。ましてや市町村の首長は政治家なんだから、その部分の政治判断をすべきである。

介護はロボットやコンピューターソフトで代替できない部分が多いのだから、この視点に欠けた財政論だけの計画とその執行では、結果的に地域の福祉・介護サービスは崩壊の一途をたどらざるを得ないだろう。

結果的にそのことは国民の生命に関連する問題であり、基本的人権としての生存権が脅かされるのだから、人としてこの国の中で一生を送ることの危機であり、国家としての存亡にかかわる問題である。

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診療報酬プラス改定をどう読むか。


11/30日に「診療報酬はどうなる」という記事を書いて、その行方を注目していたが12/23大臣折衝で来年度予算における診療報酬のアップが決まった。その内容は

1. 診療報酬のうち、医師の技術料などに当たる「本体部分」は1.55%のプラス改定で、医療費ベースで約5700億円の増額。
2. 医科は1.74%増で、4400億円が病院中心の入院に付けられ、うち4千億円は救急、産科、小児科などの入院初期の医療に充て。
3. 診療所中心の外来は400億円という小幅増にとどめる。
4. 医薬品などの「薬価部分」は約5千億円引き下げ。

以上である。これによって診療報酬は10年ぶりに引き上げられることになったが、財源不足の影響から改定率は0.19%増(医療費ベースで約700億円、国費ベースで約160億円の引き上げ)という小幅改定にとどめられた。

今後、中央社会保険医療協議会(中医協)において報酬配分が具体的に検討され、増額分を「事業仕分け」で指摘された開業医と病院勤務医の収入格差や診療科間の格差是正の方向で振り分けられることになる。医療関係者はこの行方にも注目していることだろう。

今回の診療報酬に関しては、事業仕分けで全体の報酬総額は引き下げることが求められ、財務省も厳しい財政事情からその方針を守るという姿勢を崩さず、官僚ベースの協議ではこの殻を破ることができなかった。民主党の山井厚生労働政務官は自身のメルマガで、この折衝が大変困難となっている状況を何度か紹介している。しかし昨日の大臣折衝で厚生労働省側が要求した予算が通った。つまり政治判断で予算が復活した、という意味である。
※なお本日の山井氏のメルマガでは「医療が冬の時代から、春の時代に変わった」と予算復活が熱く語られている。〜春とまでは感じていない関係者も多いのかもしれないが、マイナス査定を覆した努力は評価されてもよいだろう。

プライマリーバランス0を目指して、毎年2.200憶円の社会保障費を削減する政策自体は、既に前政権の麻生内閣時に実質的に方針転換されていたが、新政権がマニュフェストで掲げる社会保障の充実という基本構想が来年度予算でどのように反映されるのかが、診療報酬の動向に注目する一つの意味であった。その結果が小幅であっても報酬全体が今年度よりアップされたということは、今後の新政権の社会保障政策に対する一定の姿勢を示したものと思え、長妻厚生労働大臣も「医療崩壊を食い止める改革の第1歩」と今回の報酬改定を評価するコメントを出している。

つまり次の診療報酬改定でも引き続き、報酬改善に努めて行きたいという意図を示したものと思える。次期診療報酬改定は2012年4月からの報酬改定である。つまりその時には、介護保険制度改正における介護報酬の改定時期と重なる、いわゆる「ダブル改定」である。

介護職員処遇改善交付金という事業はあくまで「時限措置」であり、これが2011年度末までという意味は、次期介護報酬改定で、この交付金分を介護報酬に上乗せしたうえで査定するという含みを持ったものであるが、交付金の申請率が9割を超えないと「必要な費用」と認められず、上乗せされない恐れもあるし、何より予算は経済状況と連動しているので、財政事情が厳しければ楽観できないという面があるが、今回の厳しい状況で診療報酬がアップしたということは、介護報酬を考える上でも(その部分のみではあるが)決して暗い材料ではないだろう。

しかし年明けには景気の2番底が間違いなくやってくる。それによって参議院選挙への影響もあるだろう。なにより景気がこれ以上悪化すると国の財政事情はますます苦しくなる。埋蔵金という1年限りの財源に頼るなんていう政策は「綱渡り」にもならないか細いものだから、景気回復は何より求められるが、トヨタ自動車が下請け各社に部品などの費用3割減を求める状況などをみると、経済状況は来年益々厳しくなる。

その中で、医療や介護の法定費用がアップするということは、国の財源面からのみならず、国民自身の財負の中身にも直接影響することで、例えば厚生労働省の試算では、今回の診療報酬アップは、年収374万円のサラリーマンで年間285円の保険料負担増となり(年収を380万に満たないモデルに置いた意味は、負担感をできるだけ軽くするために、負担増となる年収の高いモデルを意識的に排除したためだろう)、外来の1月平均の負担も7.8円増となっている。

国民負担を伴い、厳しい経済状況の中での報酬アップについて、社会全体の承認を言えるためには、社会保障費が国民の生命や暮らしを守るために最低限必要な費用であるとの国民全体のコンセンサスが必要だ。国の予算というレベルで、我々現場のサービス従事者ができることは少ないが、現場で一人一人の利用者に適切なサービスを提供して、信頼を得ることは我々サービス従事者にしかできないことである。国民に保健・医療・福祉サービスがそっぽを向かれるような状況が一番怖いことなのである。

結果的にサービスに対する高い理念を持たないと、近い将来には医療費や介護給付費も下げられ、我々の業界全体が大打撃をこうむることになる。ここの方向性を間違えてはいけないだろうと思う。

それにしても今回の診療報酬改定では、歯科の改定率が医科を上回る2.09%アップとなっている。これは全体の予算配分の中では異例の措置ともいえる。この増額の意味は何のか、その背景に何があったのかが個人的には非常に気になるところである。

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白い冬。

赤エゾ松北海道に住んでいると、雪は生活障害そのものであるが、同時にクリスマスに雪のない風景には違和感を持ってしまう。生活に様々な不便を生じさえる雪を、心のどこかで待ち望むという矛盾がある。
(参照:ぷわり、ぷわりPUWARI・PUWARI

僕の思い出の中では、高校1年生の冬が根雪となった時期が一番遅くて25日のまさにクリスマスまで雪がなかった記憶がある。

就職するまでは北海道でも豪雪地帯と呼ばれる下川町や岩見沢市に住んでいたのに、やはりこの時期の雪はある意味「恋しかった」のである。今住んでいる登別市というのは、北海道でも太平洋側で、雪は比較的少ない地域である。しかしここに住んで20年以上経つが、クリスマスに雪景色になっていなかった記憶はない。今年は11月の後半に一度街が雪化粧した後、一旦それがすべて溶けて、その後は雪の訪れが遅かった。しかし昨晩あたりから本格的な雪になり、街の景色が一晩ですっかり変わっている。今年もやはり「白い聖夜」になるようだ。やはり北海道の冬は白い冬が似合う。

貼り付けた画像は、今朝の当施設・屋外ステージ前広場の風景である。
※クリックすると画像は拡大します。

左下のログハウスが屋外ステージだが、その屋根よりはるかに高くそびえたっている「えぞ赤松」の葉に「雪の華」が咲いている。この松は、当施設が開設した昭和58年に、常陸宮妃殿下が来園された折に記念植樹とて植えられた「松」である。当時わずか数十センチしかない苗木であったのに、今では空高くそびえたっている。この松の成長が施設の歴史とかぶっているのである。

しかし果たして我々のサービスが、地域の人々に木陰のような優しさや、雨風を防ぐ枝葉になっているかということは永遠のテーマである。

前述したように、北海道の冬は厳しい。それに加えて地域の住民の高齢化は、その不便に拍車をかけている。年々暮らしが不便になってくる高齢者世帯が増えている。厄介なことに、その不便から生活に支障をきたしている高齢者自身は、そのことに気がつかず、発見された時には悲惨な状況に陥っているケースも右肩上がりに増えている。地域の中で「声なき声」に対していかに耳を澄まし、訴えなき生活障害を発見するのかが、今後の地域福祉の大きな課題である。老老介護や認認介護は既に身近な問題である。

介護保険制度などの公的支援でカバーされていないサービス。例えば自宅の敷地の除雪は、地域独自のサービスがなく、家族以外のインフォーマルな支援がない地域では、自己責任で対応せねばならない。そのため玄関から道路までの除雪ができないことで、冬場の外出が不可能と諦めている高齢者世帯では、ひと冬の「社会的要因により強いられた引きこもり」によって、認知症と身体機能の廃用がセットで進行してしまうケースがある。

こうした部分の福祉援助を「ローカルな判断」でしか対応できない状況が正しいのかどうなのかという検証は、国レベルではまったく行われていない。これで超高齢社会は支えていけるのだろうか?

財政事情から、保健・医療・福祉サービスには「これ以上費用がかけられない」という。しかしニーズは間違いなく増大しているのである。ここにどう対応していくのか、このことについて我が国の政治の行方は極めて不透明で、長期的ビジョンは庶民からは見えない。これが最大の社会不安要因だろう。

小さな政府で保健・医療・福祉サービスを切り捨てて行くのか、高福祉高負担社会をやむを得ないとするのか、あるいは第3の道として、(医療を含めた)社会福祉を充実した小さな政府、という理論が成り立つのか、そういうことを国民的な議論としていく必要があるだろう。

今年1年もあっという間に過ぎて行くが、今この国は、1年を重ねるごとに、高齢者数が増加して、福祉ニーズが増加し、その中身も複雑化しているという事実から目をそむけてはいけない。

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デフレ背景には社会保障不安も。

我が国の経済状況は、デフレーション(物価が持続的に低下していく経済現象)が進行し、緩やかなデフレスパイダル(物価の下落が経済活動を停滞させる要因となり、賃金の下落や失業、ひいては消費支出の減少とさらなる企業活動の停滞をもたらす要因となること)に陥りつつあると心配されている。

なるほど物の値段は確かに下がっている観がある。スーツやGパンなどの衣料品は、かつて考えられないほど低価格の商品が出回っているし、外食産業の値引き合戦、スーパーやコンビニの弁当の低価格競争などは、もっとも身近にデフレを感じることである。

景気後退によって世の中全体の手取り収入が減って、生活が厳しくなっているのだから、なるべく生活必需品は安いものを購入したいと思うのは人情で、デフレを回避するために「高い商品を買いましょう!」「安売り品に飛びつくのは結果として収入をさらに減らすよ!」と呼びかけても「はいわかりました」ということにはならない。実際に使えるお金のパイが減っているのだから、必需品の量を確保するなら、同じ製品ならば安い方に手を出してしまうのは当然である。庶民は「私は安いものしか買えませんから、お金持ちの方はできるだけ高価な買い物をして経済を活性化させてください。」と考えるのがせいぜいである。

しかし結果的にデフレ進行が、さらに収入を減らし、住宅ローンなどの債務は逆に物の価値が下がることで実質増加になるのだから、これは大問題である。

ここを抜け出すためには、内需が増えねばどうしようもなく、世の中にお金を回さねばならない。企業にも資金が不足している以上、この状況下では、財政が厳しいとはいっても、国が資金を市場に流す方法以外の有効対策はないと思う。こういう場合の経済対策で「兵力の逐次投入」的な対策は無意味で、各個撃破されないように、国費の集中投資を政治的判断で行わねばならないのではないのだろうか。

そういう意味でも介護サービスの現場においては、様々な問題と矛盾がある介護職員殊遇改善交付金についても、これを国からきちんといただいて介護職員の給与・待遇改善に努めるべきであり、賞与レベルもなるべく維持していかねばならないだろう。

こうした観点から世の中全体をみると、厳しい経済状況でも、介護事業者の場合、介護報酬のアップ分や介護職員処遇改善交付金事業などで、従業者全体の年収は確実に上がっていると思え、若い世代の人々は、この業種をもう一度職業として選択する価値があることを見つめ直してほしい。

ところでデフレの要因は、景気悪化で労働者の手取り収入が減っているという要因だけではなく、世の中に流通しない資金が増えているということが問題である。多額の資金が経済活動に回らず、「たんす預金」(家庭などに埋蔵されており、商品やサービス等の購入に使われていないお金)などとして家庭に眠っている、と言われている。

現在日本の「たんす預金」の総額は、30兆円以上あると言われている。特に高齢者の購買力の低下が、たんす預金の額の増加につながっていると問題視されることがある。このため高齢者の皆さんに、もっと物を買って、家庭で眠っているお金を使ってくださいとお願いする声が聞かれる。

しかし高齢者のたんす預金が増える背景を、単に高齢期という時期における購買力の低下と見るのでは問題の本質が見えなくなる。高齢者のたんす預金を含めた貯蓄全体が増えているのは、将来の社会保障不安と連動した問題で、年金や医療や介護が「お金がなくても」最低限の保障がされるという安心が持てないから、将来に備えた貯蓄をするためにお金が市場経済に回らないのである。

少し前までは、たんす預金を増やす理由を「葬式代のため。」と理由づけて語る高齢者が多かったが、現在は、葬儀を出す前に、葬式までたどり着くために「お金を使わないで貯めておく」という人が増えている。生きていく過程で何の保障もないから現金に頼らざるを得ない、と考える高齢者が増えているのである。

これは高齢者だけではなく、現役世代のサラリーマン全体にも見られる傾向で、子育てが終わって、家計に多少余裕が生まれても、将来の年金が確実に保障される見込みもないし、これだけ寿命が延びている現状方考えることは、介護が必要になったらサービスを利用するために生活費以外に、ある程度の「資金」が必要だということで、生活レベルを上げるためにお金を使うより、貯金して将来に備えようと考えるのは当然の結果である。これでは経済は活性化しない。

それだけ現在の少子高齢社会の中で、社会保障の実情に不安を覚えている人が多いということだ。お金がなくとも必要なサービスを受けられ、人間らしい暮らしが保障されるという安心感がどこにもないのである。

医療費の自己負担が増えているのに、地域から必要な医療サービスが減りつつある。介護サービスを受けるためにもお金が必要だが、制度改正のたびに給付制限が厳しくなって必要なサービスが受けられなくなりつつあるのに加え、介護福祉士の養成校の生徒がどんどん減って、将来には介護のなり手がなくて、お金を今以上に使わなければ介護を受けられないかもしれない。そういう不安を皆が持っている。

医療や介護にかける費用を財政論だけで減らし続けている「つけ」である。

むしろ保健・医療・福祉というものは、社会のセーフティネットとして機能するものであり、この部分は谷間がないように、必要なサービスをどのような状態になっても受けることができるという安心感が持てるように社会を再構築する必要がある。そういう社会が実現すれば現在の生活レベルを落としてまで、貯蓄に励む必要もなくなって、たんす預金などの経済活動に回らないお金も減ることだろう。

この部分を財政論でズタズタに切り裂くことが、結果的には経済の悪化も招いているように思える。

今現在、お金を使えるようにするには、安心して将来の暮らしが成立する社会システムが必要なのだ。つまり保健・医療・福祉にお金をかけることは、聖域としてそれらを特別視するという意味ではなく、それらを社会のセーフティネットとして機能させないと市場そのものが破綻するという意味で、社会のセーフティネットは、市場の安定競争と補完関係になるという「セーフティネット張り替え論:慶応大学・金子勝教授」における市場原理主義を排除し、考え方を180度転換した「福祉を拡充する小さな政府理論」にも繋がっていくだろう。

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診療報酬はどうなる?

国の予算に関する行政刷新会議の「事業仕分け」が終わった。その結果はともかく、予算編成の中身が一部であってもこういう形で「国民にみえる」ということはよいことだろう。

ところで、この中で来年度改正の診療報酬については、収入の高い診療科の見直しと開業医と勤務医の平準化など「配分見直し」と査定されたが、もともと財務省の方針が「診療報酬全体のパイは引き上げない」ということであり「診療報酬全体のパイを引き下げたうえで、医療費を抑制して、配分を見直す」という結論になっている。

これに対して長妻厚生労働大臣は「コストが引き下げられる分は、できるだけ引き下げて改定率の上昇はできるだけ抑えたい。」としたものの「診療報酬全体のパイを引き上げたうえで、配分を見直すことが必要。」として診療報酬の削減に反対している。そのために現在、厚生労働省内では独自の「新たな事業仕分け」に取り組んでいるという。

今後、政治判断でこのことが変わっていくのかが大いに注目される。

なぜなら新政権になって初めて診療報酬が改定されるというは、現政権の医療・保健・福祉対策に対する予算措置の方向性が示されるという意味があるからだ。そうなるとこれは次期介護報酬の改定にも少なからず影響してくると考えられる。

もともと民主党のマニュフェストでは「自公政権が続けてきた社会保障費2200億円の削減方針は撤回する。医師・看護師・その他の医療従事者の増員に努める医療機関の診療報酬(入院)を増額する。」とされている。つまり少なくとも「入院の診療報酬」は増額が明記されているのだ。このことの実現が図られるのか、という結果が今回の診療報酬の結論で見えるというわけである。

診療報酬は2年に1度改定されるが、今議論されている改定の次の改定は、2012年度予算に関わるもので、この時は介護報酬とのダブル改定である。

その時、同マニュフェストに書かれている「認定事業者に対する介護報酬を加算し、介護労働者の賃金を月額4万円引き上げる。」という方針が実現されるのかといことが、今回の結果で見えてくる可能性がある。

どちらにしても来年度の予算編成の結果と、マニュフェストの整合性がどのように説明されるのか、ということが最大の関心事である。

社会情勢は、ここにきてデフレの加速・ドバイショックなど、新たな景気低下懸念が生じ、財源の確保は非常に厳しいという現実があることは承知している。しかし医療や介護は、人の生命と生活を守るために不可欠なものであり、ここをおざなりにして、財源論によって予算を削ってしまえば医療や介護サービス自体が成り立たなくなる。そのことで医師や看護職員・介護職員・介護サービス従事者が必要数確保できなければ、どのような政策をとってもサービスを受けられない国民が続出するという結果になる。それでは国自体が存亡の危機に立つ。

医療を含めた社会福祉政策というものは、国を守る社会全体のセーフティネットなのだという意味を考えて予算を作るのが政治家の役割だろうと思う。
(※参照:金子教授のセーフティネット張り替え論

ここは霞が関ではなく永田町が主導すべき問題ではないだろうか。

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介護の日は政策を振り返る日に

舛添前厚生労働大臣の置き土産といってよいだろう。今日11/11は「介護の日」である。昨年のパブリックコメントの募集で「いいひ いいひ」の語呂合わせで選ばれた日だ。

僕は、昨年のパブリックコメント募集中に「介護の日・現場は冷ややか」という記事を書いて、こんな日が定められてもあまり意味はないし、こんな暇な議論をしているならもっと差し迫った問題を考えたほうが建設的だろうと批判した。

しかし既に決まって動き出したものだから、そのことを今更廃止せよとか、必要ないとか言うつもりはない。昨年の意見を繰り返すつもりも毛頭ない。そんなことにエネルギーを使うことは無駄である。

ただ介護の日を定めるに際しては、お金(国費=国民の税金)も時間もかけているという事実があるから、何らかの形でこのことをポジティブなものと考えて、国民の利益に結び付けていかねばならないだろう、と思う。

国民の多くが介護の日が制定されたことも記憶から薄れている。最初から興味なく知らない人も多い。介護に携わっている人々も同様で、そういう日があることを知っていたとしても、それが今日であることを知らない人が多いだろう。なんとなくテレビ等で「介護の日」であるという話題が出て、はじめて「今日だったのか」と気付く人がほとんどだ。特に若い人たちには11/11は「ポッキーの日」という認識が広がっているので「介護の日」を思い浮かべる人は少ないようである。

ナイチンゲールの誕生日である5/12が「看護の日」と定められていることを知らない人が多いのと同じことだから、これは今更のことで予想されたことである。だから今更それを嘆く必要もないだろう。

介護の日を作れば国民が介護の重要性を認識してくれるなんてこと自体が、政治家や一部の有識者と呼ばれる人々の幻想でしかないのだから、これは予測された結果である。

そうであれば「介護の日」は、そういう幻想で「時間と国費」を使った政治家や国の審議会に居座る有識者と呼ばれる人々が、介護の日を制定する過程や、その議論を振り返って、いかに不毛な議論に時間と国費を費やしたかを反省する日にした方が良いのではないのか。

同時に、この国の保健・医療・福祉政策というものが、どのように構築され、どのように運営され、その結果が今どうなっているのか、全ての政治家や官僚が振り返る日にすればよいのではないだろうか。

介護の日は、それらの人々、いや全ての日本国民がこの国の社会福祉政策を振り返る日であると考えたほうが良いのかもしれない。

その結果は「悔悟の日」であるかもしれない。

そうであったとしても、未来に向けてこの国の社会福祉制度を、どういう方向に向けてかじ取りが必要かということを、もう一度真剣に考えて行くことが必要だろう。そうしなければ、この国の未来は荒野でしかなくなる。

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全精社協事件の本質はなんだ。

社会福祉法人「全国精神障害者社会復帰施設協会」(全精社協)の不正経理事件では元事務局次長が逮捕されているが、この事件に関連し大阪地検特捜部は10月7日から、厚生労働省障害保健福祉部の職員の事情聴取を始めている。

事件は、全精社協が厚労省から07年度に3130万円、08年度に1980万円の交付を受けた補助金を、福祉施設「ハートピアきつれ川」の運転資金などに流用した疑いを持たれているもので、同施設への運営経費に補助金を充当することに決めた理事会に厚労省の担当者ら2人が同席したが、目的外使用の問題性を指摘することなく、補助金1980万円は翌月交付されたというものである。

業務上横領容疑で逮捕された次長は補助金不正流用については「厚労省側も知っていた」と供述。
さらに読売新聞は、関係者が「協会幹部の会議で、補助金の目的外使用について言及があった際、厚労省担当者が『聞かなかったことにする』と話した録音テープがあると、同容疑者から聞いたことがある」と証言している、と報道している。

このため大阪地検特捜部は、厚生労働省障害保健福祉部の担当者を任意で事情聴取し、補助金が目的外使用されることを事前に知っていたとして補助金適正化法違反で刑事責任が問えるかどうかを慎重に検討しているとのことである。

つまり問題は、全精社協が補助金を不正流用したことが本件であるが、補助金を不正流用することを事前に知りながら交付決定したのではないかとして厚生労働省の職員を関連で捜査しているものだ。

よって補助金そのものが問題となっているわけではない。

しかしこうした研究補助金とは、そもそも研究費だけに使われる実費という意味ではなく、研究費用として交付されている資金が実質、交付された団体の運営資金となっている場合が多い。それは不正流用にならないのだろうか?不正ではなくとも最初から目的が研究そのものではなく特定団体の運営資金とすることに使われているとすれば、これは国民の税金の無駄遣い以外のなにものでもない。つまり不正流用事件では補助金そのものの問題とは言えないが、その根は補助金そのもののあり方と深く関わっているのではないかということだ。

しかも研究補助金といっても、ほとんど意味のない研究に交付されている国費があまりにも多い。その交付決定過程も不明瞭で、特定団体に複数の研究事業補助金を認めていること自体が国費の無駄遣いではないのか。これをやめれば埋蔵金と呼ばれる財源はさらに増えるのではないのだろうか。

そういう意味でも本件のような刑事事件とは直接関係ないとしても、様々な研究補助金について透明性を確保してもらいたと思うし、必要ない研究補助金はなくすべきである。

かつてこのブログで「国から日本介護支援専門員協会に渡される7.700万円」という記事を書いたが、いまだから白状すると、この補助金の情報源は民主党の関係者であり、この調査には複数の国会議員が陰で協力してくれている。

その中身を再度示すが、それは08年度の分として

(※予算科目:高齢者日常生活支援等推進費・老人保健事業推進費等補助金)
1.介護支援専門員職能研修体系及び研修講師養成システム検討事業(三千万円)
2.施設系・居住系施設等におけるケアマネジメント手法及び介護支援専門員のあり方調査研究事業(一千万円)
3.ケアマネジメントにおける多職種連携のための調査研究事業(九百万円)
4.ケアマネジメントの資質の向上に資するためのITの有効活用についての調査調査研究事業〜サービスの質の向上に向けたケアプランと記録データの新たな活用方策の開発と試行〜(一千二百万円)
5.居宅介護支援事業所の適切な運営(あるべき姿)の調査研究事業(八百万円)
6.地域包括支援センター及び居宅介護支援事業所主任介護支援専門員の実態調査及びあり方調査研究事業(八百万円)

である。

こんな研究が現場の介護支援専門員の役に立っているだろうか?そもそもそういう研究が行われて、その結果がどうなっているかということを知っている介護支援専門員が全国で何人いるだろうか?こんな研究事業などなくても困らない程度のものである。研究費としてこれだけの国費をかける価値のない研究事業であると思う。内容からして研究費の額も大き過ぎるだろう。しかもその受領総額たるや全精社協の受領額よりかなり多額となっている。

少なくとも同協会は、2008年度においては補助金収入を除けば運営収支は赤字であると言われている。つまり赤字分を研究補助金として国から穴埋めしてもらっているのである。これは同会に対する研究補助金だから同会の運営赤字を補てんしても流用にはならず、法的には問題ないということだろうか?この点も大いに疑問である。

補助金予算は特別会計として、厚生労働省がある程度自由に使うことができる予算だろうし、その支出が研究補助金名目で特定団体に、このように複数の研究事業を委託し、多額の国費が回されているという現状を放置してよいのだろうか。

全精社協事件にしても、その根は、不透明な補助金交付そのものだから、ここの部分の膿を徹底的に絞らねば、問題は繰り返される恐れがある。

純粋な学問としての研究や、差し迫った課題に対応する研究事業は必要だろうが、資金を渡すこと自体が目的ではないかと疑われるような研究補助事業が多すぎる。これこそ国の無駄遣い以外のなにものでもない。

そういう形で国費を手渡すのは、その団体を国のひも付きにする意図があるか、天下り先にする意図があるとしか考えられない。であればそういう団体に会員の声、現場の声を代表して「国に物申す」力もあるわけがない。

研究補助事業の大いなる見直しを一国民の立場として求めたい。

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憲法25条の責任の担い手という指摘への疑問。

老施協の役員セミナーの講演抄録を読んでみると、ここの「制度ビジネスと福祉経営」という講演で、福祉医療機構の経営支援室経営企画課長・千葉 正展氏が社会福祉法人の役割について次のように語っている。

「社会福祉法人の立ち位置があいまいになっています。社会福祉法人ではなくてもいい時代になったともいえます。しかし特養でなくてはできない介護、社会福祉法人にしかできない固有の社会福祉があると思います。固有性とはなにか。企業経営を考えるのが社会福祉法人かといえば違和感があります。しかし公益性が高いだけでは存在がアピールできない。結論は浅いかもしれませんが、本来は憲法25条の責任の担い手として存在していると思います。」

以上である。そう長くない言葉であるが様々な示唆に富んだ内容であると思う。(もちろん賛否は様々にあるだろう。)

ただ一口に「社会福祉法人は本来、憲法25条の責任の担い手として存在している。」といっても、この規定がどう解釈されているかを知るものとしては、どうも首をかしげざるを得ないところである。もちろん社会福祉法人が介護サービスの現場で、利用者の基本的人権をきちんと守って、健康で文化的な生活を保障するという観点は必要であるが、憲法25条を持ち出すならば、その法的解釈論を抜きにして「健康で文化的」という文言だけをクローズアップして責務論を語るのは間違いではないかと思う。そのことを少し考えてみた。

憲法25条とは言うまでもなく社会権である生存権と国の社会的使命の規定であり
「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

以上の条文を指したものである。

この生存権と国の責務を考える際に避けて通れないのが有名な「朝日訴訟」であり、社会福祉を志したものなら、そのことについては何らかの形で学んでいるはずである。ただ朝日氏が亡くなり最高裁で訴訟終了の判決(実質敗訴)が下りて40年以上を経た今日では、そのことが取り上げられる機会も少なくなったので改めてその内容を確認してみたい。

朝日訴訟とは、岡山国立療養所で療養入院する重症結核患者であった朝日茂氏の「人間裁判」といわれた戦いである。

朝日氏は戦時中の1942年から入院し、生活保護を受け療養治療していた。生保受給状況は厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額たる月600円の日用品費の生活扶助と、現物給付としての給食付医療扶助である。ところが1956年福祉事務所が20年も音信不通であった兄を探し出し、無理に月1.500円の送金をさせ、それにより津山市社会福祉事務所長は、月額600円の生活扶助を打ち切り、兄の送金額から日用品費を控除した残額900円を医療費の一部として朝日氏に負担させる旨の保護変更決定をした。つまり朝日氏は生活扶助費を打ち切られたうえ、仕送りの1.500円も全額受け取ることを許されず生活扶助費の日用品費と同額の600円のみ自身の生活費として受領するという命令である。

その後、朝日氏の不服申し立てが却下されたため厚生大臣を被告として、600円の基準金額が憲法の規定する健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりないものであると主張して争った裁判である。

一審では日用品費月額を600円にとどめているのは「健康で文化的な最低限度の生活の保障」を定めた法律違反であるとして福祉事務所長の裁決を取り消した原告全面勝訴(1960年・東京地裁)であったが、2審では600円はすこぶる低い額であるが不足分は70円に過ぎず、憲法25条違反の域には達しないとして原告の請求棄却という逆転敗訴(1963年・東京高裁)となり、最高裁で係争中に朝日氏が死亡、養子夫妻が訴訟を続けたが最高裁判所は保護を受ける権利は相続できないとして本人の死亡により訴訟は終了したという判決を下した。(1967年・最高裁)

結果として憲法25条規定論議について明確に原告主張を却下したものではなかったが、しかし最高裁は判決後「念のため」として「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合理的な裁量に委されている」という異例の意見を述べている。

この意見は「念のため判決」と通称されているが、判決主文について判示したものではないにしても、最高裁判事15名の合議による意見として重みがあるとされ、いまだにこの意見が生存権規定である憲法25条の解釈基準とされているものである。

そしてその意味するところとは、憲法25条はあくまでプログラム規定、つまり「特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない。」とする考え方である。この解釈は年金の併給禁止規定で争った堀木訴訟(1970年)でも踏襲され原告敗訴につながっている。

つまり我が国の憲法で規定されている生存権とは「抽象的あるいは具体的な権利規定」ではないとされているもので、「国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。」と結論付けられているものであり、社会福祉法人にその責任の担い手としての役割を求めるのは的を射た考え方ではないと思う。

逆に言えば、このプログラム規定論が法解釈である限り「憲法25条の責任の担い手」とは、財源によって左右される給付費の水準に基づいて専門的に判断するものであるとして、社会福祉法人が本来期待されている社会的使命とは相反する基準を尺度とする意味となる可能性が高い。

もし憲法25条がプログラム規定ではなく、抽象的あるいは具体的な国民の権利規定であるという立場であれば「健康で文化的な最低限度の生活」を社会福祉法人がその基準を現場から押し上げて守ろうという考え方は正しくかつ重要と思うが、国の判例に基づくプログラム規定論を放置しての責務の押し付けはいかがなものだろうかと思う。

もちろん朝日訴訟自体は裁判の過程で生活保護基準が段階的に引き上げられるなど、その果たした意義はきわめて大きなものであったといえるし、我が国の社会保障闘争史の中で意味深いものであるが、生存権の解釈が40年以上前の「念のため判決」による状態が続いていて、そのことの見直しがされていない状態で、現場の特定事業主体にその実現を図れと言われても意味がないように思う。福祉医療機構の千葉さんはこの法的解釈を理解して発言しているんだろうか?大いに疑問である。

むしろ過去の論争を理解せず、生存権という言葉だけが独り歩きして、法律上のプログラム規定という概念や解釈に何ら変更の手が加えられないことは危険なことではないかと思う。

憲法25条の責任を担うということであれば、そこで規定された生存権はきちんと国民の絶対的な権利として存在するという法解釈の変更が必要になってくるのではないだろうか。

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現代社会における孤立の構造。

現在の我々は様々な物質とサービスにあふれた文明社会に住んでいる。

しかし人の欲望には限りがなく、豊かな社会であるがゆえに抱えるストレスも多い。自殺者の数がこの豊かな文明社会においても増え続けていることがそれを現わしている。インターネットで瞬時に世界中の情報を手に入れた便利さよりも、ブロードバンドではない接続速度の遅さにストレスを感じるように、人の欲望には限りがなく、手に入れることができる様々な物の最高を手にしない限り完全に満足することはない。いや最高を手に入れた人でさえ、それを失わないように不安とストレスを抱えることが弱き人間の宿命である。

しかもそうした文明社会の中で日本人は大切な人との関係をますます希薄化させ、人とのつながりを失くした孤独の殻に自らを閉じ込めようとしている。携帯電話でしか繋がりのない希薄な関係を社会との唯一の接点とする人や、インターネットの中の人格を自分自身と思いこむ人々が増えている。

かつて人々は自然の脅威に対して一致団結して事にあたった。地域という概念以前に、共に身を守る運命共同体としてのつながりがあった。しかし時の流れと共にそうした関係は神話の時代の絵空事になりつつあり、現代社会は人間関係の希薄化、個人単位の領域では非人格化と孤立化・無力化が広がっている。

日本の伝統社会では子供を産んでも、両親に変わってその親類縁者が必要な期間、赤ん坊を十分面倒をみられる地域社会が存在したが、現在では親にさえも頼ることができないことで子供を産めない夫婦が少なからず存在する。清潔な社会環境で赤ん坊の死亡率が非常に少なくなっても、生む環境がない社会では子供は増えない。核家族の進行が言われて久しいが、すでにそれは核家族化によって小単位ごとに分離した世帯が、親類縁者との関係をも希薄化させ、それぞれの家族や世帯単位で、望むと望まざるにかかわらず社会の中で孤立する可能性を抱えている。社会とのつながりが職場を通じた細い糸でのみ繋がっている世帯は、一家の主が現役をリタイヤした途端に孤立する可能性を持っている。

そういう意味では現代日本の社会構造は孤立家族・孤立世帯の集合体ともいえる。

自宅で亡くなる人が社会全体の8割を超えていたのはわずか60年前の話である。その時代はもしかしたら今のように優れた医者や看護師・設備や薬がなかったかもしれない。しかしそこには看病に専心する人々との暖かい心のつながりがあり、希望があった。死を間近に見詰めても、そこには家族や親類縁者・友人知人の温かな眼差しがあった。

しかし8割以上の人々が自宅以外の場所で亡くなる現代社会において、死の間際まで人々は清潔な環境で、最新の設備と技術で専門医療を受けることができても、つまるところ病者はベッドの中で孤独である。枕辺に誰一人としていない中で息を止める人々が数多く存在する。人々が今際の際(いまわのきわ)に望んでいるものは最新の医療技術ではなく、家族の温かい手を握ることであったとしても、現代社会ではむしろそのほうが手に入れ難くなっている。

この社会で生き抜くために人は孤独に対する耐性を持たねばならないのだろうか。孤立に耐えることが人間の資質になっていくのだろうか。それではあまりにも非人間的であり哀しい。

人は、自分と繋がる様々な人々との関係の中に生きており、心の通う相手があり、共に生きていくという実感によって安定し希望を持てる存在である。物質的援助も身体的援助も必要ではあるが、それだけで人の安心や希望は生まれない。物質的身体的援助を超えて人々との心通う関係の中で人は社会とのつながりを見出し、安心と希望を持つことができる。

社会福祉援助とは究極的には人と社会の接続の援助である。その時に社会福祉援助に関わる専門家は、ソーシャルワーカーとして個人の最もよき理解者として存在していくものであろう。

愛という言葉は抽象的すぎ、感情論であるから社会福祉援助という専門技術の領域であっても使うべきではないという意見があるが、人を愛し敬うということをなくして人の幸福は実現しない。愛すべきすべての人々がその愛に包まれて生きる喜びを感じることが人として求めることではないのだろうか。

青臭く、使い古された言葉であったとしても「愛」という言葉を抜きにして技術論だけで語れないのが社会福祉ではないのだろうか。

新しい政権のスローガンは「友愛」である。愛という言葉が本当の意味するところの人間社会を作る方向に政治家の視点は向かっていくのだろうか。愛という言葉を便利遣いして、実は自己責任や自己犠牲だけが求められる社会とはなっていかないだろうか。我々はそのことをしっかり見つめ、そして評価する義務と責任がある。

そして社会福祉援助に関わる人々は、社会の隅々から本当に人が人を愛し、人が人から愛される社会を実現するために行動し続け、声を挙げ続けなければならない。

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大きな力を手にした権力者諸君

政権が変わった。しかし我々の日常は今のところ何の変化もない。その影響が生活者たる国民自身が実感するのはどのような形で、その時期はいつになるのだろう。

今回の選挙の投票率は現行選挙制度下では最高の69.28%であったという。おそらく選挙前から政権交代が予測されており、その現場に自身も投票という形で参加して、自分の1票が世の中を変えた、という実感を持ちたかったという動機を持つ人々が多かったんだろう。それは前回自民党が下野した時と違って、どの党とどの党の連立による新政権が生まれるかという状況ではなく、自分が投票した党が政権を担うという意味を感じての2大政党制の特徴的投票行動であろう。

これらの人々が政治に無力感を感じて次回から投票所に足を向けなくなるような政治を行ってもらっては困る。

それにしても投票率が最高といっても3割以上の選挙権を持つ人々が、その権利を自ら放棄していることは嘆かわしことである。ソーシャルアクションは小さな力の結集であることを理解してほしい・・・。

今度日本の政治のトップに立つ人は、ここ登別も含まれた「北海道9区」選出の人物である。今回の小選挙区でも対立候補に大差をつけての圧勝であった。その結果、日本の憲政史上初めて北海道選出の総理大臣が生まれることになる。

しかし道民宰相というキャッチフレーズが聞かれないように、道民にとって彼が「おらが町の総理大臣」という感覚はないだろう。もともと田園調布に自宅を持ち、当地域に何の地盤もなかった落下傘候補であるから、その存在はあまり身近に感じない。どちらにしても国政のトップとして良い日本を造ってほしい。

次期首相の政治信条として使われる「友愛」という言葉について、政権獲得後の記者会見で彼は「決して恵むだけの意味ではなく、国民にしっかり自立していただく、その自立支援を政治がしっかり行うという意味だ。」と述べている。自立支援とはどこかで聞いたような言葉だが、選挙前に国民が抱いた優しいだけのバラ色のイメージを次期政権に求めるとしたらそれは大きな間違いで、国民生活にも痛みとして求められるものがたくさんあることを心すべきだろう。

これから政治が保健・福祉・医療の領域にどのように影響してくるのかは不透明である。

現在の我が国は小泉改革の影響を色濃く受けている社会情勢と言える。かの改革の歴史的評価は後世にゆだねる必要があり正当な評価は100年後でないと出来ないのかもしれないが、一つだけ現状認識として言えることは、小泉改革によって地方は疲弊し、保健・福祉・医療の領域は打撃を受け、その負の影響は、自己責任という理屈で「社会的弱者」に押しつけられてきた、ということである。

一方では、国の財(予算のことではない)は決して減っておらず、しかしそれは特定部分に偏在している。かつての財閥以上に財を抱える企業や個人が存在する一方で、餓死する国民がいるという現実を小泉改革は改善するどころか助長した。郵政民営化などという枝葉を政治理念とする改革がどれだけ間違ったものであったか、その実感を持つ人々は社会の隅で、政治の光が当たらないところに数多く存在している。

そのベクトルは変わるのだろうか。変えられるのだろうか。

しかし郵政民営化選挙と言われる前回選挙で、その改革を選んだのも今回と同じ国民自身であった。国民の選択がいつも明るい未来を切り拓くということではない証明でもある。

今回の選挙で、これだけ現政権が国民に否定された理由は様々だろうが、マニフェストの中身が十分理解できない国民でも、1点だけ理解したことがある。それは現政権が官僚主導にまったくメスを入れないことに対し、次期政権を担う党は、官僚主導の政治手法にメスを入れると主張したことである。これが役人の個人攻撃になっては困るし、官僚主義はもう国の隅々のシステムとして根を張っているので決してなくなることはないだろう。シンクタンクとして変わるべきものも現状ではない。

しかしだからといって国民は官僚が国費を無駄遣いする実態を何とも思っていなかったわけではない。道路特定財源が国土交通省の役人の介護保険料(労使折半分の役所負担分)に支出されていたという実態。その他にもカラオケセット・マッサージチェア・野球グラブ・アロマ器具など、道路行政とは関係ない支出に化けている実態。国民の健康と福祉を守り、介護サービス事業を監督するべき厚生労働省に至っては毎年会計検査院から指摘事項が一番多いという実態。ずさんな社会保険庁の年金処理問題をみて国民の怒りはピークに達していた。そこを変えるという政党に支持が集まるのは当然で、そのことは置いておいて官僚システムの良いところしか見ないで国民に負担を求める政党が国民から見放されるのは必然の結果だろう。

また「国から日本介護支援専門員協会に渡される7.700万円」でも指摘した通り、国民が選出した政治家の知らないところで官庁と特定団体の不透明な癒着とも疑われる関係が広がっていることも問題である。

弱肉強食という資本主義の論理は、経済理論の中だけの論理で、社会福祉の理念と相入れるものではないし、大きな政府であろうと、小さな政府であろうと、社会福祉政策は国家を運営する政権の義務である。そういう形で社会のセーフティネットを構築しないと人間社会としての国家は成立しない。

良い国とは究極的に国民全てが幸せを感じることができる国家であり「この国に生まれてよかった」と思える国だろう。政治家がそういう国家を目指さずに何を目的とするというのか・・。

今回選出された国会議員の人々に「ゆず」の「午前9時の独り言」の次の一節を送ろう。

(北川 悠仁作詞:ゆず・午前9時の独り言より)
どこかの親が自分の子供を傷つける、
どこかの子供が自分の親を傷つける。
どこかで少女の自由が奪われている、
どこかで少年の心が歪み始めている。
政治家のおじいちゃん。
大きな力を手にした権力者諸君、
自分の地位や名誉や金のためではなく、
どうかこの国を考えてください・・。

※YouTubeでこの唄が聴けます。BGMとして流しながらこの記事を読んでみてください。

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医療・介護改革調整会議の設置に思うこと

7/24厚生労働省内に「医療・介護改革調整会議」が設置された。

この会議の目的は省内の医政局・老健局・保険局の連携が必要な政策の調整を図るものであるとしている。つまり、省内にも存在する縦割りの解消に目を向けたものであろうと思えるが、それが本当に実効性のあるものになるのだろうか?その根は深く、どこまでこの問題にメスが入れられるのか注目したいところである。

3年前に書いた記事「縦割り行政の弊害」のなかで、当施設併設の居宅介護支援事業所の係ったケースについて、道の組織の縦割りによって、支援がスムースに行かなかった事例を紹介したことがある。

しかし、こうした縦割り行政の弊害は北海道に限った問題ではなく、国レベルでも様々な形で国民生活に影を落としている。

介護保険制度においても、これは同様で、例えば介護給付費決定の重要な要素である「経営実態調査」にさえ、この縦割りの影が落とされていることを気付いている人は少ない。

経営実態調査とは、それぞれの事業者の1年間の収支状況をみるものであるが、それは年度会計の結果として見るものであり、本来正確なデータを求めるとしたら、この会計の基準が統一されていないとおかしい。しかし実際には介護保険制度上、この会計についての統一基準はない。

社会福祉法人が経営する特別養護老人ホームに限ってみても会計の方法は「会計基準」と「指導指針」という二通りの方法がある。しかも前者は厚生労働省の社会援護局が推奨し、後者は同省の老健局が推奨するという図式になっている。つまり同じ省内で部局によって推奨する会計の方法が異なっているのである。

この背景には、もともと特養を運営する社会福祉法人を監督する部局が社会援護局であったという理由があり、措置費の時代は、例外なく特養を運営する社会福祉法人は「会計基準」を用いていた。しかし措置から契約、措置費から介護保険制度に移行して、その監督官庁部局は老健局に移った。その途端、社会福祉法人に対しても会計を新たに「指導指針」において行うように指導されている。老施協もこれを推奨し、結果的に多数の社会福祉法人が、介護保険制度移行をきっかけに「会計基準」から「指導指針」に自法人の会計を変更した。

しかし社会援護局は、現在も「指導指針」を認めていないので、「会計基準」をそのまま使うことを推奨している。よって「指導指針」に移行しない社会福祉法人も少なからず存在し、同じ特養でも、施設によって会計の方法が違っている状態が継続しており、経営実態調査の結果も不二つの会計の方法に基づく結果が混在しているんだから、単純に平均値を算出しても正確なデータにはなり得ないのである。

また実際の利用者処遇に係る問題では、特養の利用者の医療費算定の問題が縦割りであるがゆえに矛盾を抱えている問題がある。

特養の利用者の医療費は、老健と異なり「マルメ」ではない介護給付費に含まれない費用で、外枠で算定できるので、特養入所中の利用者が、特養内で診療を行って医療材料などが必要になっても、別途医療保険に診療報酬として医療材料費等を算定できることになっている。

しかし配置医師がいる特養において、配置医師が行うべき医療対応の区分や、配置医師としての業務以外で診療報酬を算定できる内容などについては「特別養護老人ホーム等の療養の給付について」という厚生労働省医政局通知によって定められている。

この中で、施設利用者に対する診療は所属医師の専門外にわたる診療ではない限り、所属医師以外が「みだりに診療を行ってはならない」ことが定められているほか、施設所属医師には日常の健康管理業務が必然的に生ずるので、診療報酬の中の「指導料」等は別途算定できないことが定められている。

しかし治療に必要な医療材料費は、施設配置医師が所属する医療機関から別途診療報酬として請求算定し、施設利用者の治療として使うことができるとされ、例えば点滴が必要な利用者に対して点滴という医療材料費は別途診療報酬算定できるもので、利用者個人や施設が負担する必要はない。

ところで問題なのは、この診療報酬算定ルールの中に「特別養護老人ホーム等の職員(看護師、理学療法士等)が行った医療行為については、診療報酬を算定できない。」とするルールがあることだ。

この規定に基づく限り、特養で点滴が必要になった利用者に対し、施設医師の指示で特養の看護職員が点滴の針を刺せば、診療報酬が算定できなくなる。これはおかしい。何のために特養に看護職員の配置義務があり、ましてや「看取り介護」の算定要件に看護師(准看護師のみでは算定不可)配置規定があるのか。必要な行為ができない職員を配置しても意味がない。

※なお点滴材料費を診療報酬として算定できないからといって利用者負担にすることはできない。なぜならそれでは保険診療と保険外の診療が混在する「混合診療」となり、それは法律で禁止されているからである。点滴材料費を診療報酬算定できない場合、施設所属医師の医療機関でその負担を行う(特養も介護報酬にそれは含まれていないので費用負担不可)しかないが、そのような持ち出しを行って治療をしてくれるような医療機関はあり得ない。

よって、このルールがあることで、点滴が必要な利用者を特養で対応できなかったり、必要な治療の一部を制限してしまう可能性がある。

これは配置基準や運営基準と明らかに矛盾している問題であるが、この制限ルールは、あくまで医療機関に向けた通知で、発出部署は、介護保険とは直接的に関係のない厚生労働省・医政局である。つまり、ここでも老健局とのすり合わせができていないと思われる縦割りの弊害が出ているとしか思えないのである。

こんな矛盾をいつまでも放置していること自体が、国民全体の不利益で、だれも責任を取らなくてよい官僚にのみ許されている悠長な対応と言わざるを得ない。

こういう縦割りシステムを変えることが必要とされる行政改革だろうと思うのであるが・・。

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お金で人生は買えないというけれど・・。

社会福祉援助に携わる人々は、援助対象者の過去の生活歴に触れる機会が多い。

特養でもこれは同様で、利用者の家族関係や生活歴は重要な情報である。もちろんそのことが不明な場合もあり、だからといって援助ができないということもないが、生活歴の中には、現在問題になっている人間関係や健康問題につながる情報が隠されていたり、今後の支援方法を考える上で重要な要素となる生活習慣の情報が含まれていたりする。

よって援助を行う上でそれは不可欠ではなくとも、確認しておくべき必要がある情報といえる。

僕自身も利用者の生活歴を調べて、記録にまとめる機会は多いし、あるいは他機関を経て入所された方の場合などは、当該機関の前任担当者がまとめた生活歴情報を読んで確認することも多い。

前任者の記録を読むと、それぞれ特徴があり、こうやって記録すれば良いのか、という気付きやヒントになるものもあるし、逆に、何を書いているのか前後の文脈のつながりのない読みにくいものもある。決して文章がうまくなくても良いから、情報として第三者に伝わる記録として丁寧にまとめることが一番重要であろう。

ところで、我々は、これらの生活歴情報を決して興味本位で読んでいるわけではないが、しかし明治・大正・昭和初期という時代に生きた人々の生活歴は、読んでいて仕事を忘れて、ついつい引き込まれてしまうような壮絶な半生記であったりする。

我々の現在の生活からは想像できないほど凄惨であったり、過酷であったりする「人生」をその中から読みとることも多い。

例えば、一口に貧困と言っても、現在の貧困と過去の貧困では、レベルというより、その質がかなり違っているように思う。人の生存がぎりぎりに近いところでやっと維持され、生活が極限状況で営まれているような状態がときに垣間見られる。

中には、自ら進んで破滅の道にひたすら歩き続けるような人生がある。その原因が時として、酒であったり、薬であったり、バクチであったり、男女関係であったりする。しかしほとんど全てといってよいくらい、そこには金の問題(経済問題というほどきれいな問題ではないだろう)が絡んでいるように思える。

今回改めて考えさせられたのは、あの消えた年金問題である。

ある利用者の年金受給資格が確認され、未支給年金分として数百万円の額が通帳に振り込まれ、今後の年金収入も生活に困らない額の支給がされるようになった。

そのこと自体は大変に喜ばしいことである。だが、この方は生活保護を受給しており、今回の年金支給で保護が必要ないとして打ち切られることになった。そのこと自体も問題ではない。

この方の人生を振り返ると、年金収入を始めとした収入がないという問題が、高齢期にさしかかった後半生に大きな影を落とし、生活保護受給に至るまでの間に、様々な問題を生じさせ、妻や子供といった家族をすべて失い、親戚を始めとした知人・友人との関係を全て失い、身体の健康も、精神の安定もすべて失って、その後にはじめて入院先で生活保護を受け、今に至っている。

もし年金記録が正常に保管され、受給できる時期に年金が給付されていたら、この人は失わずに済んだものも多いのではないかと思った。もちろん、これまでの状況に至る全ての原因が金銭ではないし、個人的資質の問題もまったく関係ないとはいえないが、しかし経済的基盤ということは人間生活にとって非常に重要な要素で、この方の後半生にも大きな影響があったと考えざるを得ない。

金で人生を買うことはできないが、金がないから失ってしまう人生がある。しかし、そのことが後に明らかになっても、過去を金で買い戻すことはできない。

記録が失われたことにより支給されなかった年金が、当事者のその後の人生に大きなマイナスの影響を与えていたとしたら、余りにもそれは哀しいことであるし、社会保険庁の罪は重い。

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裁判員制度を考えてみた。

裁判員制度がスタートし、最初の該当裁判は8月に行われるという。

この制度については、本当に必要な制度なのか賛否両論があるところであるが、僕自身は、どちらが良いと結論を出せるほどその問題に精通していない。判断基準となる知識も持ち合わせていない。

ただ個人の感想というレベルで言わせてもらえば「人を裁く」という行為には、できれば関りたくない。自分自身に「その資質があるか?」ということが大いに疑問だからである。少なくとも、人を裁くには、法律等に関連した、それなりの専門知識が必要だろうが、僕はそのいかなる知識も持ち合わせていないので不適格だと思う。人格としても、人の模範になるような生活を送ってはいないので、人に範を示すような「裁き」が出来るわけもない。

この制度は3審制度の1審のみに適用される制度で、必ずしも最終判決に関るわけではないというが、控訴しなかったら最終判決となってしまうので、とてもではないがそんな重たい責任は負えないという気持ちがある。それは自ら「人を裁く」という行為を生活の糧としている裁判官の責任だろう。

それともう一つの別な問題としていえば、裁判のために仕事を休まねばならないのは介護サービスの現場ではかなり厳しい。

人手が豊富なわけではない職場で、職員の誰かが裁判員に選任された場合にシフト変更をしなければならず、かなり大変だろう。これは介護サービスだけではなく、様々な職場で苦労のあるところであろう。義務だから皆で協力せよと政府は考えているらしいが、組織が大きければあまり影響はないのだろうが、介護の現場のように、一人ひとりの勤務状況が、他の職員や利用者に大きく影響する職場では簡単な問題ではないだろう。場合によっては、小さな訪問介護事業所などでは、裁判員に選任される職員が出ることによって、サービスの一時的な制限があり得るかもしれない。そうなれば不利益は利用者がこうむることになる。この部分の「職業に応じた拒否権」という選択肢はもう少し広げられないのだろうか?

裁判員は無作為に抽出、一定の審査を得て選任されるということであるが、最終的な選任方法について必ずしも機会均等の必要はないのではないだろうか。

裁判員として社会に貢献したいという希望を持っている人がいるとすれば、そうした方々には希望に応じた機会を多く与えてはどうだろう。

また職業を持っている人より、職業を持たない人の中の、希望する人々が選ばれる確率を高くする傾斜配分的方法も必要ではないか。

例えば、団塊の世代と呼ばれる人々の大量離職が始まっているのであるから、リタイヤしていても元気な高齢者はたくさんおられる。それらの人々のうち、職業人としての現役からは離れたとしても、何らかの形で社会貢献したいと考えている人は多いと思え、社会貢献の具体的な形を、裁判員としての役割に求めるという価値観を持つ人々がもしかしたらいるのかもしれない。

高度成長期を生き抜いて、人生経験豊富なそれらの方々は、我々よりずっと裁判員としてふさわしい資質を持っているのではないかと考えている。

仮にそういう方々がおられるのであれば(あくまで希望者がいる場合に限定した考えである。)そういう方々が選任される機会を増やすシステムにしたほうがよいのではないか・・・。

だが待てよ・・・・。そういう単純な問題でもないかと、この記事を書きながら思い始めてきた・・。

この記事を書こうとした「動機」は、高齢者の社会参加という意味で、裁判員制度を利用して、希望する高齢者に傾斜配分をすることにより、社会的役割を継続して持つことも高齢社会では必要と考えたことによるものであったが、記事を書きながら、どうも違う問題が潜んでいるような気がしてきて、ここで急に論旨を変える必要性を感じた。本来なら最初から書き直すべきであろうが、そんな時間もないし、ブログという気軽なツールでの書き込みなので、それも必要ないだろう。このまま書く。

一番心配されることは、この裁判員制度は、殺人などの重大事件が対象のため、裁判員が証拠として示された遺体の写真を見たり、検察側の冒頭陳述などで残酷な犯行状況を聞いたりする可能性がある。そのため精神的なショックを受けた裁判員らの心のケアを充実させるため、最高裁は、臨床心理士らによるカウンセリングを5回まで無料で受けられるようにする方針を決めた、という。

これはある意味、非常に恐ろしいことである。そういうリスクがあることがわかっている制度に国民を強制参加させるということが果たして許されるのだろうか?そういうリスクのある役割を、望まない国民に押し付けることが民主主義のルールと矛盾しないのか?

基本的人権の問題とも絡んでくる問題であり、本来、こうした制度導入の国民議論をもっと尽くすべきであったのに、一部の法曹関係者だけの議論で制度が決められてしまった感が否めない。

馬鹿馬鹿しいことに、このことに関し
「裁判員は非常勤の国家公務員に当たるため、裁判員を務めたことで心的外傷後ストレス障害(PTSD)などになったと認定されれば、国家公務員災害補償法に基づいて補償も受けられる。」
「裁判員の心のケアは、陪審制や参審制を導入している国と比べても遜色(そんしょく)ない対応になると思う」と最高裁が見解を示していることである。

心が傷ついても、保障や治療で解決すると考えている感覚に対しても不信感を持たざるを得ない。

やはり国民には選任に対する拒否権は必要と思う。心に傷を負ってからでは遅すぎる。

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命のリレー

日本の介護問題が抱える最大の課題は高齢化ではなく、少子化ではないかと思う。

いや、そのような難しい理屈をこねなくとも、子供がたくさんいる社会というのは、それだけで可能性を感ずる明るい社会なんだから子供がもっと増えてほしいと思う。赤ん坊の泣き声や、子供達の笑い声が聞かれない地域社会は寂しい。

僕が生まれた昭和35年頃は、地域の中で30人集めてやっと65歳以上の高齢者が一人いるか、いないかであり、逆に子供は小さな町や村にもたくさんいたが、今では地域で4人集まれば必ず一人は高齢者である確率が高く、逆に子供を集めることが非常に難しくなっている。

昔話の巻頭句は「昔々あるところに、おじいさん、おばあさんがいました。」であり、おじいさんと、おばあさんは「あるところ」にしかいなかった。そういう昔話をたくさんの子供達が集まって聞いていたのが日本の伝統的な地域社会であった。しかし今では「あるところ」にしかいないのは「おじいさん、おばあさん」ではなく「子供」になりつつある。

中国のある新聞では、日本の少子化を揶揄して日本人を「絶滅危惧種」と書いていたことがある。そのことに対しては強い憤りを感じるが、現在の状況を鑑みると、その指摘も当たらずも遠からず、であり、真剣に「国が持つのか」ということを考えざるを得ない時期が来るかもしれないなどと考えている。

何しろ、一人の女性が一生の間に生む子供の数を示す「合計特殊出生率」は08年では1.37である。3期連続の上昇でその前年より0.03ポイントアップしているといっても、人口が増加する境目はこの率が2.08といわれており、これを大幅に下回っているんだから大変である。

もちろん子供がほしくても様々な事情で生むことができない女性もいるのだから、単純に子供を産む女性が偉くて、産まない女性は偉くないなどと考えることは間違いであるが、今現在の状況から言えば、たくさん子供を産む女性、あるいは夫婦は、世の尊敬を受けても良いだろうと思う。

ともかく生まれる子供が少ない以上、この世に生を受けた子供を大切に守り育てることは、我が国にとって最重要課題である。地域が子供を守り・育てることが必要なのに、殺伐とした社会情勢は逆に様々な子供を巻き込んだ悲惨な事件・事故を生み出している。こういう社会は何とか改善せねばならない。

少なくとも、自分の周りにいる小さな命は、大人達が責任を持って守ってもらいたい。血の繋がらない他人であっても、日本人としての命のリレーを未来に向けてつなげていかねばならないはずである。

先日外部評価で訪ねたグループホームには、職員の子供が明るい声をふりまき、利用者さんに可愛がられていた。聞けば、保育所が地域にない為(そこはいわゆる郡部の小さな田舎町である)、勤務中は子供を職場につれてきて働いているということであった。厳密に言えば子供をつれての勤務は、業務専従規程に触れるのかもしれないが、認知症の高齢者が、その子を可愛がって落ち着いた生活ができている現状をみると、子供がボランティアとしてそこにいると考えても良いのでは、と感じた。そこのグループホーム利用者に、可愛い家族が一人増えて、子供の面倒を見るという役割を持てる「幸福」を感じているように見えて微笑ましく思えた。そういう意味では、その子は「キッズヘルパー」といえるのかもしれない。

こういう形の就労形態も、様々な業種で可能になるなら少子化対策になるのかもしれない。もっと柔軟に考えて、新しい社会システムとしての就労のあり方を考える必要がある。例えば保育場所と職場を完全に区分しないでも業務に支障がない職業には、それを柔軟に認めるスタイルを積極的に取り入れるべきである。

昨年、初産のため退職した介護職員が、来月から短時間パートで職場復帰する。乳離れした後は自分の親が面倒をみてくれる環境であるから可能になった再就労で、そうでない環境であっても子供を産んでも、きちんと働くことができる環境を広く作り出すことが、子供を産める社会の重要な要素だろう。

命のリレーが、安心して脈々と続いていくことが社会にとって必要だし、マクロな視点からは、そういう政策が求められている。ただこの国には本当の意味での政治家がいないので、そうした部分の具体策がまったく政策レベルで示されないのが問題である。

当法人では、現在デイサービスの看護師が1名産休に入っている。確か7/3が出産予定日である。彼女は出産後も当事業所で継続して勤務してくれることになっているが是非、元気な子供を出産してもらいたい。少し大きくなったらデイで子供が過ごしながら勤務しても良いのではないのだろうか。

その彼女は、今年4月の歓送迎会で、ゆずの「女神」という曲をカラオケで始めて聞いて感動し、早速CDを買ったそうだ。歌の上手なK君(超下手くそで音感のまったくないコバクンのことではない)が唄ったので感動したんだろう。僕が最後まで歌っていたらスルーしていたかもしれない・・。

あらためて彼女の安産を願って、歌詞の一部をプレゼントとして書いてみよう。

(ゆず、女神より)
大きなお腹をなでながら、その眼差しはまっすぐに
あの頃の君はもういなかった
刹那な恋に、胸が痛んだ、青春の光と影
一瞬で君は超えてった
小さな命 僕の掌をけった温かなぬくもりに涙こぼれて
身籠った愛を今 君は強く抱きしめてた。

何千年もの歴史の中で、時には争いの中で
いつの時代も、こんなふうに命のリレーが繋がれてきたんだ

まるで女神 君の前じゃ僕の抱えてきた痛みなんてちっぽけで
全てを受け止めて今、君は「命」慈しんでる。
君は「命」抱きしめてる。

介護福祉士資格取得新ルートから考えること。

介護福祉士の資格取得の新ルートについて5/8に厚労省から発表されているが、5/18付けの「福祉新聞」の一面でも大きく取り上げられているので関係者の方は注目してほしい。

新ルートとは、2006年にホームヘルパー養成研修を拡充して創設された基礎研修の受講者を対象にしたもので、実務経験が3年以上ある場合、新たに設ける280時間の養成過程を経れば介護福祉士の国家試験を受験できるようにしたものである。今後パブリックコメントの募集という意味のない形式儀礼を通して、6月以降に省令・通知を公布するそうである。

しかしこの意味について、平成19年12月5日の「社会福祉士法及び介護福祉士法の一部改正について」の概要を知っていない人は、ちんぷんかんぷんな理解となろう。そこでそのことも含めて解説し、さらにその影響を考えてみたい。

介護福祉士の資格取得については介護福祉士の改正法が、平成24年4月1日から施行されるので、25年1月の国家試験から受験資格が大幅に変わることを理解しないと、この新ルートの意味も理解困難となる。

つまり24年4月以降の受験資格は次のように大幅に変わっているのである。

1.現在、養成施設(介護福祉士養成校など)の2年以上(1.650時間)の養成過程を卒業すれば自動的に資格付与されていたルートがなくなる。新たな法律では、24年4月以降の養成校卒業者(要請過程時間も1.800時間に増える)は、卒業後「当分の間」は、准介護福祉士の名称を使用できるが、介護福祉士については国家試験を受験し、合格しないと資格付与されない。

2.福祉系高校の養成過程も1.800時間とし、国家試験を受験。(経過措置あり)

3.実務経験ルートは、現在、介護施設などでの実務3年だけで国家試験受験資格を得られるが、このルートが廃止され、実務経験3年以上かつ養成施設6月(600時間程度)を経た上で国家試験を受験できる。

以上のように変わっている。8日に厚生労働省が発表し新ルートとは、3の実務経験ルートに、基礎研修の受講者の280時間の養成過程時間のルートを加えたもので、基礎研修を受講しておれば600時間の養成研修を必要としないルートであると考えて良い。例えばヘルパーの資格を持たない者でも、300時間の基礎研修を受けていれば、実務3年以上になると280時間の養成過程を経て国家試験受験が可能になるという意味である。
(ヘルパー1級は基礎研修200時間+養成過程280時間・ヘルパー2級は基礎研修350時間+養成過程280時間で受験資格となる。)

厳しくなった受験資格の中で、働きながら受験資格を得る為には、600時間ルートが近道なのか、基礎研修+280時間ルートが近道なのかという判断があり得ると思うが、もともと基礎研修を受講しなければならなかったホームヘルパー有資格者等には、受験の近道ができるという意味だろう。基礎研修のみの受験資格では、600時間の養成過程との不公平と不均衡が生ずるとの批判に対する新ルートである。その評価は関係者それぞれで考察していただきたい。

ただ考えねばならないことが別にある。例えばこの新ルートがなくとも、新しい受験資格の影響を一番受けるのは介護福祉士養成校であるという問題である。

卒業=資格という道がなくなったのであるから、実務ルートで受験しようとする考える者が増え、養成校への入学者数は激減するかもしれない。養成校にとっては死活問題だし、養成校が減ることは結果的に、介護職員の供給源が減ることだから、この影響が介護職員離れを一層助長して、介護の現場の人手不足も一段と進む可能性がある。なぜなら養成校があるから介護職員という職業への就業動機が成立した、というルートが細るからである。

また、この新しいルールは決して受験者にとって歓迎できるものではない。スキルアップのために一定の養成過程が、すべての受験者に必要だといっても、費用のかかる問題である。しかも研修に要する時間を確保する為には、現に実務に就いている人々にとっては、職場を一時的に休んだり、退職しなければならない事態が考えられる。

費用も何十万円とかかるだろう。600時間の養成課程や、基礎研修+280時間の養成課程の費用は一体いくらになるんだろう。つまりこの受験資格の見直しは、介護福祉士のスキルアップを標榜した、厚生労働省の新たな権益とも言えなくもない。

それだけの費用と時間をかけて手にした資格により、得れれるものが、単にスキルであるとすれば、それは「介護福祉士は霞を食べて生きていけ」というようなものである。

こうした形で、受験のハードルを高くするのであれば、その後に資格を所得した有資格者の待遇も同時にアップせねばならないはずで、それは介護報酬で見ないとならないはずである。

またスキルアップの措置がとられるならば、当然、今以上に可能となる行為も広く見なければならないはずで、家族が行える程度の医療行為も当然介護福祉士が行えるように「でいること」を拡大するのは当然の視点である。

後者は「特別養護老人ホームの入所者における看護職員と介護職員の連携によるケアの在り方に関する検討会」で議論されているが、前者の措置は一切ない。

資格や義務のハードルだけを高くして、それに見合った待遇を与えないのであれば、介護職員になろうとする若者の動機付けはますます減退するだろう。理想だけを追って現実を見ないのであれば、それは単なる幻想の世界である。

こうしてみると最近の厚生労働省の施策はどれもこれも「浮世離れ」の施策である。その向こう側にあるものが職員不足による介護崩壊社会であるとしたら、その責任は万死に値する。

だが過去の例を見てわかるように、省庁も高級官僚も決して責任をとることはない。責任をとらない人々が権限を持って、この国を動かしている。日本はそういう国になってしまっている。

この現実をどこかで変えねばならないはずである・・。

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新型インフルエンザ対策への疑問。

インフルエンザは目に見えないウイルスにより感染が広がるものだし、症状が出ていない感染者からもウイルスは放出されるので、これを完全に防ぐことは無理だ。

新型インフルエンザも、国内で人から人への2次感染が広がっているが、大阪や神戸が初発とは断定できない。季節性のインフルエンザとして処理され治うしたケースにも新型インフルエンザが含まれている可能性は0ではない。今現在も、本当に大阪や神戸や滋賀にしか感染者がいないのかということについては非常に疑問に思っている。

今日確認された滋賀の患者も神戸に滞在した後に発熱したから新型インフルエンザの検査をして見つかったもので、それらの地域に滞在歴のない発熱者はサンプル漏れしている可能性だって否定できない。

少なくとも今年の冬は、日本中に新型インフルエンザが広がり、季節性インフルエンザとの区分さえ難しくなることが考えられる。

幸い現在は弱毒性で、高齢者への感染も少ないといわれているが、新しいウイルスは流行期に変化する可能性もあり、この冬に同じ程度の毒性であると断定はできない。困ったことだ。

ただし現在は、新型インフルエンザに罹患しても、タミフルやリレンザは有効で、早期治療で治うするし、治療せず放置したり、抵抗力が弱い幼児等でない限り生命の危険に繋がるケースはほとんどないので、パニックにならないことが何より大事である。

急な発熱でも医療機関に慌てて行かずに、保健所に設置された発熱センターで指示を受け、その上で治療に結びつけることが必要だといわれている。今現在は、感染者全員が入院隔離されるということにはならず、症状の軽い人は自宅で療養してよいことになった。これは一面では、患者数が増えすぎて、隔離対応が不可能という意味で、これによって感染拡大は間違いなく阻止できないという意味でもある。だからといってパニックになる必要はない。強毒性で致死率が高い感染症ではないのだ。

しかし大阪や神戸の一部の反応は既にパニックに近いものだろう。罹患すれば死に至るような認識を持っている人も実際にはいるようだ。しかし新型インフルエンザの致死率は季節性のインフルエンザに比べても決して高くないし、免疫力の低い手術後の患者や、妊婦、乳幼児などは注意が必要だが、それは季節性のインフルエンザも同じことだ。

この感染が全国に広がることを防ぐのは、まず無理だろう。遅いか早いかの違いだけで、患者は全国に広がるだろう。しかしそのことは決して悲観する必要はないのではと考えたりする。求めて感染する馬鹿はいないが、仮に感染しても普段健康で元気な人であれば、弱毒性であるうちに、感染して免疫を持つ可能性があり、将来、このウイルスの毒性が強まった際には逆にそのことがメリットになって、症状の重篤化を防ぐ可能性だってある、というふうにポジティブに考えたほうがよい。(免疫が必ずつくわけではないが、考え方として悲観するなという意味である)

ましてや感染者に対してバッシングしたり、差別したりするなど、もってのほかだ。感染者がすべて自己責任能力に欠けているということではないのであり、誰しもが感染可能性があるのだ。

新型インフルエンザ以上に、悲観とパニックが一番恐ろしい事態を引き起こすということを忘れてはならない。

その意味でも、毒性の高い新型の鳥インフルエンザを想定した行動計画での対応はやりすぎではないのかと考えている。高齢者の感染者が少ないのも、今回の新型インフルエンザの特徴なんだから、感染者が出た地域の、高齢者通所サービスや滞在サービスに対し一律休業要請する対応が正しいのかどうなのか大いに疑問に思っている。

「高齢者介護施設における新型インフルエンザ対策等の手引き」では、高齢者介護施設のうち短期入所、通所施設等において「新型インフルエンザ患者及び患者と接触した者が関係する短期入所、通所施設等の臨時休業(利用の休止)」が求められている。

その手順については別添の「確認事項」の三(五)において、学校・保育施設等の臨時休業の取扱いが示されており、短期入所、通所施設等についてもこれに沿って、都道府県から直接、あるいは市町村経由で臨時休業が要請されることになる。

16日の発出通知「新型インフルエンザに対する社会福祉施設等の対応について」では「これらを踏まえ、患者や濃厚接触者が活動した地域等の各事業者においては、地域の保健所、各市町村介護保険担当部局、各都道府県介護保険担当部局と十分相談の上、臨時休業等について適切に判断するとともに、あわせて利用者や家族等に対する周知をお願いします。」と自主的な休業判断も求められている。

この影響は計り知れない。

まず学校や幼稚園、保育園が閉鎖休業するということは、そこに子供を預けて働いている「お母さん」達が仕事に出られなくなることを意味している。介護サービス現場でパート職等を勤めている人々への影響は大きいだろう。

そうなると休業要請があるなしに関わらず、介護サービス事業所でサービスに必要な人員確保が難しくなる恐れがある。休業できない施設サービスへの影響はどうなるんだろう。

通所系のサービスは休業せねばならず、利用者の心身状況に関しては短期間であればさほど支障は出ないかもしれないが、長期間に渡る利用ができない際の身体状況の低下が懸念される。引きこもりを助長してしまう結果になることが一番恐い。

ショートの休業の影響は多大だろう。感染者が増える地域では、介護者が感染して介護が不可能な状況になることもあり得る。そのとき訪問系サービスですべて対応できるということにはならないであろう。

急に訪問サービス利用が必要な高齢者が増えても、実際のサービスの確保は困難だろう。場合によっては、新型インフルエンザではなく、適切なサービス利用ができないことで生命の危険が懸念される問題がおきかねない。そのことは手引きやガイドライン等を読んでも想定されていないとしか思われない。

それにもまして深刻な問題は、経営母体の小さな、体力のない事業者が経営する介護サービス事業所の休止による経営への影響だ。休止の間、収入がまったく途絶えるわけだから、これによって事業経営が成り立たなくなったり、職を失う人が出る可能性を否定できない。そうなれば、この不況下で大変な社会的影響が出るだろう。

どちらにしても現在の弱毒性の新型インフルエンザの感染地域が拡大することと、それを防ぐ為、一部の地域の社会活動を停止する対応が、どっちらが社会的損失なのか後々の検証が不可欠だ。

現在の新型インフルエンザの状況に関して言えば、もう感染拡大を防ぐことは無理で、国民の過半数以上が発症する可能性が高いけれど、普段から健康に問題のない人は重篤化しないし、早期治療で「治う」できるのでパニックにならずに、普通の生活を続けるように広報することのほうが社会的には有意義ではないのだろうか。

そういう意味で、政府や厚生労働省の対応には、いささか首を傾げている。

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出てこい地球人。

この国の国民に対し「あなたは何人ですか?」と問いかけるとしたら、ほとんどの人が「日本人です。」と答えるであろう。

「自分は日本人である」という意識を持っていることは常識という以上に自然の概念である。

しかし日本人という概念が成立したのは明治維新以降だといってよい。つまりは明治維新以前に、この国に今の概念でいう「日本人」は存在していなかった。

では維新前に存在していたのは何人であるのだろう。それは、おそらく藩組織を中心としたもっと狭い概念としての自意識であり、徳川家の何某(なにがし)、薩摩人や長州人というものが存在していたとしても、日本人は存在していなかった。江戸市中以外の幕府直轄地の天領においてさえ、そこでの農民は、徳川の百姓(当時の言葉)という意識の中にあった。

そこではまず藩の利益があり、徳川治世の藩の集合体である国家の利益という意識はほとんど見られなかった。むしろ国家=藩という意識であったろう。

その時代の「日本人」という言葉の感覚は、今でいえば「地球人」という語感と同様で、言葉としては成立しても、意味・実体としてはなきに等しい概念であったと考えられる。

日本人という概念が、ひとつの国家意識の下にまとまったのは、明治維新により成立した新政府の廃藩置県を始めとした中央集権政策以後であり、藩閥政治が残存していても、国家としてのエネルギーは、内戦から、日清、日露戦争、そして大戦へという対外戦争へ向う中で、強烈な国民意識として変革していき、やがて太平洋戦争という日本軍の暴走の結果、それが一度破壊されていくことになる。

しかし敗戦で国が荒廃しても、「国敗れて山河あり」という状況において、たくましい復興意識が生まれ、荒れた焦土の中でも日本人の国家意識は滅亡することなく、既に藩人は存在せず、ただ郷土愛を強く持った国民意識が残り、それが高度経済成長期を支えるエネルギーの根源となったといえよう。

とにもかくにも「日本人」という新たな概念を全ての国民が持つようになってから、まだ2世紀もたっていないのである。

ゆえに日本人にとって、国際感覚を身につけることはできても、世界をひとつとしてみる地球人という意識はいまだ空想的でさえある。

しかし、かつて「地球人」と同義語に感じるほどの感覚しかなかった「日本人」が生まれた背景を考えると、その概念が変わっていく可能性がないとも言えない。

少なくとも我々福祉援助に携わる専門家は、誰かの不幸の上に誰かの幸福が乗っかるといった構図を欲しない。それはグルーバルな視点からいえば、地球規模で貧困や様々な障害からすべての人々が解放されるという理念の元に成り立っている。

介護保険は地域保険であり、その中には地域密着型サービスという理念も取り入れているが、保険給付やサービスの形態がそうであっても、達成する目的は地域の中だけで完結することを意味しない。地域において、それぞれの専門家が基盤を整備し、それを支え、そのことが国全体の福祉向上に繋がり、さらにその上に世界を視野に入れた目標達成があるのが人間の幸福追求の本来の姿である。

民間サービスの参入は、社会福祉援助の視点を曇らせる弊害ももたらし、自己の利益のためには、他の競争相手を蹴落としながら収益を挙げるという視野の狭い事業者も増やしているが、適切なサービスを提供する主体であれば、マクロの視点からは、ともにその質を向上させながら、相互協力と連携で共存する中で、地域の利用者に対するサービスの量と質を確保していくという視点がなければならない。

よって、社会福祉援助の質の向上の為の「企業秘密」など本来あってはならないのである。よって質の高いサービスを展開する施設、事業所ほど、その責任において情報公開を進めていかねばならないし、情報交換の中心的役割を担っていくべきである。それをやがては地域から都道府県、全国へ、やがて日本から世界へと広がっていくことを信じ、地球規模で物事を考えて人類の幸福に資するべきである。

そういう意味では、介護施設や事業所の公式ホームページが自己宣伝・自己礼賛だけのマスターベーションのようなツールとして存在しているとすれば情けない。それは本来、社会に向けた有益な情報発信ツールでなければならないし、社会的な評価を受けるための情報発信ツールであるべきではないのか・・・。話がそれた。

社会福祉援助というものは本来、弱肉強食の市場原理とは相容れないものである。介護保険制度はその精神を著しく削いだことに歴史上の罪があるし、自己責任を前面にした諸改革は所詮、強者の論理でしかない。

この反作用は既に社会の隅々に「切り捨てられた社会的弱者」の増大問題として現われている。ここ10年間の政策の歴史上の評価は後世に委ねられているが、その結果はほぼ目に見えている。

そうした状況であっても、社会福祉援助者が、基本となる理念を忘れては、この世は闇である。せめて自分でできることはしっかりと、カバーできる範囲においては、その全力を尽くして、個人の利益を超えた視点で関わっていくべきだろう。それが国や、世界を動かすことを信じて・・。

Think globally、act locally(シンクグローバリー・アクトローカリー:地球規模で物事を考えて、しかし行動するのはまさにそれぞれの地域であるという意味。)の実現は、社会福祉援助者が、まさに地球人としての意識を持つべきことを意味しているのかもしれない。

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今も走って考えている。

若い頃にスポーツをやっていた。中学〜高校は軟式庭球を、大学時代はアルバイト三昧で一時スポーツから離れていたが、社会人になってから軟式野球を30代後半までやっていた。おかげで一部の大会では北海道代表として全国優勝をしたこともある。

今はもう現役で競技に参加することはないが、習性となっているのか体を動かしていないと落ち着かず、休みの日には30〜40分程度軽く走っている。ただし真冬は道がすべるし、歩道が雪に埋もれ車道と区別がなくなり危険なのでその習慣も中断しているのだが、雪解けが進む今頃から再び走り続けている。

昨日も久しぶりに街を走りながら、春に向かう街のにおいを感じて気持ちよかった。一冬を越えると、ある場所では空き家が増えていたり、時の移ろいも感じるのだが、昨日走ったコース上では鉄筋を組み合わせた大きな建物の建設がすすんでいた。

なんだろうと良く見ると、葬儀場の増築である。

自分の親族以外の葬儀に参列するようになったのは、二十歳を超えた頃からであるが、当時昭和の終わり頃、葬儀場といえばお寺が主役で、本堂に座布団が並び、そこに正座して焼香するスタイルがほとんどであった。

それがいつの間にか、街中の葬儀場、葬祭ホールへと、葬儀の主会場が移っていって、今では床に正座して足を痺れさせることもなく、ホールの椅子に座りながら読経を聞くことがほとんどである。それだけ人の「死」に関するビジネスが増えているということだ。

年間死亡者数は2003年に100万人の大台を突破し、2005年は前年比+5.4%の108万4012人となった。国立社会保障人口問題研究所の予測では、死亡者数は一貫して増加傾向をたどり、ピークの2038年には年間死亡者数が170万人になる見込みだ。

しかも様々に節約が叫ばれる世の事情と関係なく、この国の人々は葬儀にかける費用はある意味「どんぶり勘定」で業者の提示する費用を素直に支払う傾向にあるようで、1回の葬儀一式で100万円から200万円という価格帯が、全取り扱い件数の34.2%を占めているそうである。

葬儀ビジネスは2010年には9161.0億円市場に、2020年には1兆985.9億円に、そして死亡者数がピークを迎える2038年には1兆2509.1億円へと拡大するそうである。今後30年以上は安定した収益を見込める市場となるんだろう。

ところで我々高齢者介護サービスも同じように考えられるのだろうか。決してそうではないだろう。財源を税金と保険料に頼っている介護給付費から支払われる費用を唯一の収入源とする構造である限り、葬儀ビジネスほどの費用がそこに回ってこないという意味もあるが、それにも増して深刻な問題がある。

それは顧客あって、サービスなし、という問題である。

2008年の「高齢者白書」によれば高齢者人口のうち、前期高齢者人口は「団塊の世代」が高齢期に入った後に2016年の1,744万人でピークを迎える。その後は、2032年まで減少傾向となるが、その後は再び増加に転じ、2041年の1,699万人に至った後、減少に転じると推計されている。一方、後期高齢者人口は増加を続け、2017年には前期高齢者人口を上回り、その後も増加傾向が続くものと見込まれており、増加する高齢者数の中で後期高齢者の占める割合は、一層大きなものになると見られている。

その一方で、年少人口(0〜14歳)は2039年に1,000万人を割り、2055年には752万人と、現在の半分以下になると推計されている。出生数の減少は、生産年齢人口(15〜64歳)にまで影響を及ぼし、2012年に8,000万人を割り、2055年には4,595万人となると推計されている。

今後、高齢化率は上昇を続け、現役世代の割合は低下し、2055年には、1人の高齢人口に対して1.3人の生産年齢人口という比率になる。

これは財源上の問題だけではなく、単純に考えても、高齢者を世話する介護労働者は自然減していくということである。政府が取り組む潜在介護労働者の掘り起しなど非現実的な政策で追いつく問題ではないのである。

顧客ニーズが明らかにあって、そこでビジネス展開すれば確実に収益が上がると見込まれる場合でも、サービス事業を立ち上げる際に従業員確保ができずに断念せざるを得ない状況が増えるだろうし、サービスを行っている事業者であっても、顧客はいるのに事業継続に必要な人材確保ができずに営業できなくなる事業者が出てくるであろう。結果的に公的サービスに頼らざるを得ない一般高齢者はサービスのないところで野垂れ死にするしかないのか・・。

そうした状況では、必然的に今回火災死亡事故を起こした群馬県の無届の有料老人ホームのように、法律の規制が及ばない、あるいは法律の網の目を抜けたり、違法な状態での高齢者サービスが増えるだろう。

そこでは生活の質以前に、他で暮らせない・行き場所のない人を預かるだけのサービスとなる危険性を常に孕んでいる。理念も見識もない場所で、単に生きながらえるだけの場所でやがて死を迎えねばならない・・・そういう高齢者の悲惨な死に場所が作られていくだろう。

走りながら考えることも、何か憂鬱な方向に向かってしまうことが多くなった。本当の政治家がいない、この国の明日は暗いと思った。

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介護保険が社会保険方式である意味。

旧・厚生省の専門官を経て昨年まで北星学園大学の教授を務められていた島津教授には北星在任中に大変お世話になった。

その島津教授が昨年4月に桜美林大学に赴任する為、我が母校でもある北星学園大学を去ったのは残念極まりない。道内の福祉教育における多大な損失だと思う。母校から有能な教授がどんどん減っている。

我が母校が、かつて全国に誇れた個性ある有能な教授陣はその面影もない。

ところで偶然の機会から同教授が執筆された「介護保険制度と政策形成過程」という冊子を読む機会を得た。これが実に面白い。別に現在、僕が個人的に同教授と親交があるわけではないし、何の利害関係もないので、単なる宣伝ととられては困るが、第3者に紹介して恥ずかしくない著書であると思う。

というのも、この著書が他の制度論を扱った著書と違う点が際立っているからである。

介護保険制度の解説ではなく、介護保険制度が「なぜ」「どのように」立法化されたかについて、この制度が誕生するまでの官僚の動き、政治家との軋轢を含めた様々な関係、当時の大蔵省との綱引きなど、内部にいた者にしかわからない舞台裏も含めて紹介されているからである。

特に介護保険制度の誕生は、自民党単独政権から連立政権(自、社、さ政権)となり、自民党の厚生族が力を失って表舞台から後退したことによって、その政治的空白期に介護保険制度を推進する厚生若手官僚がその間隙をついて成立させたとしており、自民単独政権下の厚生族議員がこの制度には反対勢力であったことがわかるし、旧厚生省の当時の若手官僚の考え方や動きが見えてくる。

そして政党の支持基盤との関連では、社会党が政権党の一翼を担っていたという歴史的な事実が、この法案成立の大きな要素になったと解説されている。つまり同党が都市におけるサラリーマン層を支持基盤とする政党で、当時120万の自治体職員を組織化した自治労が最大支持基盤であったことから夫婦共働きが普通であり、家族介護より居宅サービス導入による「介護の社会化」を当然の結果として求めたことがこの制度の早期成立の後押しになったとしている。そして連立与党の枠組みが変わって、社会党から引き継いだ民主党が野党となっても、介護保険制度成立に向けて協力するということが民主党の支持基盤であるサラリーマン層にとってプラスであったとして、このことが介護保険法を成立される背景であったとしている。

また当時の大蔵省の官僚は介護保険制度も社会保険方式をとらず「税方式」で制度設計を行うことを主張していたという事情も書かれている。

これに対して厚生省は「当然、保険方式の考えをとっていた。」として、その理由について次の5点を挙げている。

1.大蔵省(当時:現在は財務省)が財源を持つと年度毎の財政状況によっては、介護保険財政が削減の対象となる。
2.介護報酬による収入の6割〜8割が人件費であることを想定すると、安定した財源が必要になる。
3.保険料(保険税)の場合は、一般税と比べると経済状況による収入の差異が少ない。
4.厚生省は大蔵省から切り離した独自の財源を持つことにより介護保険制度を維持しようとした。
5.社会保険方式のメリット(厚生省の)として、大蔵省の厳しい査定を受ける一般会計ではなく、特別会計に計上されるので厚生省の裁量が確保できる。

以上のように制度の安定運営と省益が微妙に入り組んだ形で考えられている。建前としては介護サービスの安定的運営であるが、その中に厚生労働省の裁量が働く財源を持つことで省益が生まれるという本音が隠されているということだろうか。

このような観点から現在の動きを読んでみると、制度改正や報酬改定のたびに厚生労働省の官僚が躍起になって「持続可能な制度」といううたい文句を唱える意味の一端がわかろうというものである。他の制度に変わって予算を財務省に持っていかれては困るのである。

まあこういう偏屈な部分からだけ、この問題を評価しては意地悪すぎるだろう。

その他にも制度創設時の「樋口恵子氏」の利用のされ方と、その効果、様々な裏の動きなど、あの時の表に出てきた一連の問題の意味がよく理解できる内容になっている。一度読まれても損はないだろう。

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老施協総研の研究報告。

様々な組織団体に設置されている総研。

これは総合研究所の略称で、主にコンサルティング・リサーチ・システム部門を担当する「組織を側面から支援する知的職能部門」である。つまり頭脳の役割を担っているといえる部門といってよいだろう。

老施協にも「老施協総研」が設置されている。しかしその部門が老施協の活動の道標を示す頭脳の機能を果たしているのかよくわからない。アクセサリーとしての総研では意味がないと思うが・・・。

過去にこの総研が出した研究成果なり、リポートなり、データなりが我々の施設運営に役立っているのかと言えば大いに首を傾げる。そもそも老施協の会員でも、この総研が何を行っているのか「姿が見えない」と感じている人は多い。

ところで北海道で行われた老施協主催の施設長セミナーで、老施協総研から「市場原理を超えた老人福祉施設の使命」という研究に基づく講演が行われた。この部門の姿を垣間見ることができるかもしれないので注目して聞いてみようと思った。

まあびっくりした。近年、これほど当たり前で無意味な講義を聴く例も珍しい。

そもそも本題の市場原理と社会福祉の関係を語る前段で持ち時間90分の半分近い時間を使うのだから「うんざり」である。

しかもその内容たるや、介護保険制度創設につながるゴールドプランや新ゴールドプラン、社会福祉8法改正等々の一連の社会福祉構造改革の歴史説明である。誰が受講対象の研修やねん、といいたくなる。特養の施設長が雁首そろえている中で、今更そんな当たり前の話をして何になるのだろう。

さらにそのあとがいけない。介護支援専門テキストに書いてあるような介護保険制度創設の意味、措置制度の限界だとか、財源面からの新たな社会保険システムの導入だとか、制度開始後から現在までの要介護者数の推移だとか、サービス利用状況だとか、それが財政に及ぼす影響だとか、平成18年の制度改正の意味だとか・・・。

いい加減にしてくれ。総研が報告すべき研究とは、誰でもが既に知っていて、逆に我々が壇上に上がって説明もできるような内容とでもいうのか・・・。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

そもそもそんなものあらためて統計をとって出すデータ数値に基づかなきゃあ分析できない問題でもない。

本題の市場原理と社会福祉サービスは相反するものであるという主張についても今更である。

例えば僕はこのブログでそのことを再三主張してきており「介護施設経営を営利産業と比較できない点。」や「昭和〜そこに置き忘れたもの」等で様々に矛盾を指摘している。

つまり市場原理は基本的に弱肉強食の論理に過ぎず、結果として弱者を切り捨てる論理だから、そこからは格差の拡大という状況しか生まない。社会福祉の理念とは相反するものであるという主張である。

そして僕は慶応大学の金子教授が唱える「セーフティネット張替え論」で提唱されているように「市場原理主義」「上げ潮路線政策」を否定して、雇用・年金・医療などのセーフティネットを制度として機能させる「福祉を拡充させる小さな政府」が必要だという立場に身を置いてきた。

しかし老施協総研の研究報告はそこまでの具体策もなく利用者の重度化や医療ニーズの拡充に比した労働時間の「いびつな拡大」を問題視し、それに対して特養のミッションを明確にして果たしてきた役割と今後果たすべき役割を抽象論で語り、単にグランドデザインを掲げることを唱えるだけで、最終的には「介護保険制度について、良質なサービスを提供する事業者がサービス提供できる制度ルールや報酬基盤を条件として、いつでも、どこでも、だれでもサービスが利用できる制度に再構築する」という、わかるような、わからないような具体策のない結論で結んでいる。

政策、施策として具体的方法が不明瞭な方法論など、研究報告における結論としてお粗末過ぎるであろう。

こうした研究報告しかできないならば老施協総研はいっそ「何をしているか姿が見えない」方がましである。

姿が見えた途端、それは老施協の「盲腸」に過ぎないことがわかってしまうからである。

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国から日本介護支援専門員協会に渡される7.700万円

昨年11月4日に、日本介護支援専門員協会の代表者が、会費未納分の赤字について「国から6.000万円の補助を受けて補填できる見込みである。」と述べていることについて紹介した。そしてこのことに関して僕は「会の独立性」を保てない国のひも付きであると批判的に記事を書いた。

ところで今回、この補助内容が明らかになった。

平成20年度において国から日本介護支援専門員協会に補助金として渡される国費は何と、7.700万円もの大きな金額が計上されている。つまりこの協会は平成20年度は単年度で二千万円の赤字を計上する見込みであったところが、国の補助金収入により逆に六千万円近い黒字になるということだ。なんとも裕福である。

その内訳は下記の通りである。
(※予算科目:高齢者日常生活支援等推進費・老人保健事業推進費等補助金)

1.介護支援専門員職能研修体系及び研修講師養成システム検討事業(三千万円)
2.施設系・居住系施設等におけるケアマネジメント手法及び介護支援専門員のあり方調査研究事業(一千万円)
3.ケアマネジメントにおける多職種連携のための調査研究事業(九百万円)
4.ケアマネジメントの資質の向上に資するためのITの有効活用についての調査調査研究事業〜サービスの質の向上に向けたケアプランと記録データの新たな活用方策の開発と試行〜(一千二百万円)
5.居宅介護支援事業所の適切な運営(あるべき姿)の調査研究事業(八百万円)
6.地域包括支援センター及び居宅介護支援事業所主任介護支援専門員の実態調査及びあり方調査研究事業(八百万円)

以上の合計が七千七百万円である。しかもこの協会の代表者は、少なくとも昨年6月の段階で既に補助金は6.000万円以上という内示を受けていると語っている。これっておかしくないか?

補助金として交付される金であるから、誰からも文句を言われる筋合いもないということなんだろうが、単なる1会員組織に対し、6つもの公的補助事業が集中して委託されている状況を、胡散臭く感じる人間がいても不思議でない。

そもそもこうした補助事業は、すべて公募されて実施主体が公平に選択されているんだろうか?
調査研究事業は本当に必要とされている事業なのだろうか?

日本介護支援専門員協会などという団体は、別にすべての介護支援専門員を代表するような団体ではないぞ。単なる一会員組織にしか過ぎない。

この会がきちんとした見識を持っているならば、国民に向けて、こうした複数の補助事業を実施して7.700万円もの補助を受けることになった選考過程や、補助決定経緯についてガラス張りの情報提供を行うべきである。しかし同会のホームページを見ても、国の補助金について触れた内容は一切見当たらない。

国も、この協会への補助決定過程を明らかにしているような資料を公表していない。何故なのか?ここが不透明なままでは国民が納得しないぞ。一国民として、この経緯をガラス張りにすることを求めたい。

しかもこの補助財源は厚生労働省が財務省の査定を受けないで拠出している費用ではないか?
つまり、これはいわゆる特別会計の中の「埋蔵金」と呼ばれるものと同様の費用ではないか?という意味である。

まさか国費7.700万円もの金を1団体に手渡すのに、その団体の幹部と役人の特別な関係が影響しているなんていうことはないと思うが、様々な財源が厳しいといわれる折に、このことを曖昧、不透明なまま済ませてはいけないだろう。

どちらにしても、こうした補助金を国から受け取って運営しなければならない団体が、毅然として国に必要な意見を言えるはずがない。

利権化した介護サービス情報の公表制度も、この団体は認めているし、あの福祉系サービスだけに限定した馬鹿げた特定事業所集中減算だって、そのまま受け入れている。その理由が、この補助金をみて明らかであるように思える。

そしてこのような多額の費用が、多くの関係者や専門職の支持を受けているわけでもない団体に、その団体が生き残るためだけに国費が補助される状況を不透明にしたまま、財源不足を理由にして消費税を上げるなんていう理屈は通らない。

不透明な過程で補助決定される国費を使ってまでして残す団体ではないだろう。そこまでしてしか生き残れない団体など救う必要はないし、そういうところに補助名目で国費を多額に支出している現状を「無駄遣い」と認識して、これを無くすのが消費税引き上げの絶対条件だろうに。

少なくとも国民の皆さんには、自分の懐から出ている血税が、こういう団体の生き残りのために補助金として年間7.700万円も使われている事実を十分に知っておいてほしい、と思う。

そして地域の一人ひとりが、このことに一市民として抗議していこうではないか。

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国がすべきこと、現場がすべきこと。

介護保険制度の設計思想を読み取ると、中村秀一氏が老健局長になった頃から、ケア単位の小規模化をより推進しようという国側の考え方が色濃くなっているように思え、その流れは18年制度改正、21年報酬改定でも基本的に変わってない。
(これは中村色というより辻元事務次官の考え方の影響が強いのだろうか?それとも「2015年の高齢者介護」で示された考えを踏襲しているという意味だろうか。)

小規模対応型のサービスを推進するのは、集団ケアを否定して、少人数の職員が、少人数の要介護者等に対応することによって気配り目配りが可能となり、それにより行き届いたケアを提供し、できるだけ馴染みの関係を築くことによって心の通ったケアを実現しようとする考え方がその根底にはある。もちろんその原型はグループホーム等のユニットケアに求められるものだ。

その意味自体を否定はしないが、それを推進するべきは国なのか?国が制度として作り上げるものなのだろうか?特に今現在の、日本が抱える世界一の少子高齢社会という現状において国主導で制度の中に組み込むべきものなのだろうか?ここが問題である。

政策というのは理想を掲げても、人間の実生活にきちんと対応できる現実的な方法論を持たねばならない。

要介護者に比して、ケアに携わる人的資源が豊富にある状況下では、ケア単位の小規模化は、人材を選択して、有能な職員を配置し、目配り対応できることが現実的に可能になるので有効な政策となり得るであろう。

しかし現実の日本の状況は、高齢者の数が年々増え続けるのに比して、子供の数も生産労働人口の数も減っている社会である。しかも職業の多様化は、若者が選択する業種を増やす結果ともなっており、かつて3K職業と揶揄された介護サービスは必ずしも人気のある職業ではない。

そんな中で介護職員が足りないといわれ続けているが、介護サービスに従事する人数自体は総数としは減っているわけではないのである。それは介護保険制度を境に事業者や事業種類が民営化の影響もあって増えていることを最大の理由にしているものと考えられる。

平成17年度に国が公開した調査結果の数値をみると、福祉・介護サービスの従事者数は平成5年の約71万人から、4.6倍に増えており、特に高齢者介護サービスにおいては約12倍もの増加がみられ、介護職員に限ってみても平成12年の約55万人が平成17年には約112万人と介護保険制度を境に約2倍増えている。

その後18年度のそれも117万人となっており、こうした総数の増加傾向は19年以降も変わっていないと思われる。

つまり現在の我が国の介護職員不足とは、サービス供給の実態に介護職員の数の増加が追いついていないのが問題の本質なのである。

さらに介護労働の離職率の高さが話題になるが、介護労働に携わる総数が減っていない現状から想像できることは、介護労働からの離職者が必ずしも他職種に流出しているとも限らず、別な介護事業者に再就職する人が少なからずいることを示している。

つまり言葉は悪いが、介護事業者から介護事業者へと「渡り鳥」的に職場を変えている人も多いと言うことである。

このことは、かなりの介護労働現場で人手が足りないことから、とりあえず手を挙げてくる人は誰でも良いから雇用するという一面があって、使ってみて、たいした仕事ができなかったり、職場に何らかの不満を持った人が、簡単に弾かれたり、職場を離れたり、逆に別な職場に簡単に張り付いたりする「安易な職場間移動」 が需要と供給バランスが崩れた状態で生じている結果であるともいえる。そこで介護の質など向上するわけがない。質低下の最たる理由である。

一人の要介護者に手をかける人員を増やさざるを得ない小規模対応型サービスの推進は、この状況により拍車をかけている。

この状況下で、サービスの単位の小規模化をさらに推進すればどうなるか?それはサービス提供の効率化面としてのスケールメリットの否定であり、ひとりの要介護者に手をかける介護職員の数がより必要になるという政策であるから、この政策を続ける限り介護の人手不足が解消されることはない。

それにより介護サービスの現場では人材が足りないのではなく、人員が足りない状況が生まれており、そうした状況は、誰でもよいからとりあえず働ける人材を雇用する、という傾向をさらに強くし、介護に不向きな人物でも、知識や技術に欠ける人物でも、配置さえできればよいという状況が全国津々浦々で生まれることとなる。

結果的に小規模対応型サービスはケアの質を引き上げ、担保するという理想像は崩れざるを得ず、現実にはサービスの品質格差を広げるだけの結果となり、世間一般に高品質サービス事業者としてクローズアップされるサービス提供主体がある反面に、氷山の下に隠れる形で、人権蹂躙ともいうべき貧困なサービスしか提供できない事業者の数を比例して増やす結果となっている。

グループホームなどで虐待や人権蹂躙で指定取り消しになる事業者が各地で出ているのは氷山の一角にしか過ぎないだろう。新型特養や新型老健もハードは新型だが、ソフトとしては機能しておらず、人手の足りなさから既存施設よりサービスが低下している施設も現われている。新型特養に転換して寝たきりや身体拘束の数が増えたという笑えない施設の実例もある。(参照:ユニットケアがおかしい。)それだけ人材の枯渇は劣悪な人員で運営せざるを得ない事業者を増やしているという意味でもある。

国、とくに厚生労働省の官僚主体で進めてきた制度設計の結果が、介護の人手不足とサービス格差というひずみとして現われているのである。

これは制度を作る側の人間が余りに現実を無視した理想論で政策を進めた結果である。国が本来進めるべき政策は、最高基準の引上げではなく、最低基準を一定レベルで守る政策でなければならない。最高のサービスの到達点の引き上げは現場の人材が担う責務であり、政策が担うべき責任は最低基準をきちんと人権が守られるレベルとして設計するものであろう。

国の手のひらの中で現場をコントロールするかのような政策誘導は実現性がない。なにより官僚の感性や知識では現場の実態はわからないからで、見栄えの良いものしか見えないからである。

今必要とされる制度設計は、最低基準をきちんと守ることができるサービスの質の確保であり、ケアの提供方法にもスケールメリットの思想を取り入れ、ケア単位の小規模化だけを唯一のケア品質という考え方を転換して、人手をさほどかけなくてもサービスの質が一定程度に保障できる方法論を構築、導入する視点を持ったシステム作りである。

もちろん現場の職員には倫理観も含めたサービスの質向上の取り組みを担わす役割を負わせる必要があり、そのための人材育成のシステムを同時に推進する必要はあるものの、国の政策が実情を無視して理想に走り過ぎては、ひずみは拡大する一方である。

情報化社会であることは、国民の選択性の保障ということについては比較的容易にそれを担保できるという意味でもあるのだから、国がすべきことと、現場に担わせるべき責任をもっと区分して、新しいシステム作りを目指さねば、この国の介護サービスは持たない。

国は最低基準を守り、サービスの網からこぼれ落ちる人を生まないということをまず考える必要があり、現場は競争を含めてそれを引き上げるという構図が必要とされる制度設計である。

なぜなら介護サービスを含めた社会福祉が担う役割とは、社会全体の最終的なセーフティネットであるのだから、理想論ばかり掲げて、ネットからこぼれ落ちる人々を無視しては意味がないのである。

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無責任な報道で誤解される介護施設の生活。

このブログで何度か書いているように、日本の新聞は我が国の英知を代表するものではなく単に流行を代表するものに過ぎないが、それにしても無責任な情報の垂れ流しが多すぎる。

北海道で一番読まれている「北海道新聞」は通称・ドーシンと呼ばれ、道民にとって、もっとも馴染み深い新聞であるが、介護保険制度に関しては過去にも「北海道新聞の制度改正連載は間違いだらけ」「続・北海道新聞の制度改正連載は間違いだらけ」「続々・北海道新聞の制度改正連載は間違いだらけ」において指摘しているような誤った情報を垂れ流しているし、今回の報酬改定に関しても「軽介護者切捨て誘導報酬」で書いているように大きな誤報を流している。

この問題に限っていえば、まったく無責任な報道機関である、といわざるを得ない。

さらにひどいのは年末08年12月29日付の同紙1面の「卓上四季」というコラムの内容である。

内容は札幌市内の特養に関する話題で、新年を迎える施設の様子について触れたもので、年末年始でも自宅に帰省できない認知症等の重介護高齢者が多数いるなどとして、特別な休みをとることもできず介護に携わる施設職員の労働実態は「大変である」として、介護労働に対し心を寄せた内容となっているように読める。

しかし薄っぺらな理解と不正確な状況判断と、1施設の実態が全ての施設の状況であるかのような作為的な文章により、道民に施設の実態に対し誤解を与えるような間違った情報を垂れ流す結果になっている。

非常に問題である。その内容は

「〜そんなお年寄り達が今年も施設で新年を迎えようとしている。正月でも、もちを詰らせないため、雑煮は出ない。介護福祉士たちはしめ飾りの下で福笑いなどに誘う〜」

正月休みもなく笑顔で施設利用者に接する介護職員の状況を書くのは良いが、これでは「施設に入所したら、正月に雑煮も食べられないのか。」と多くの道民が誤解してしまうではないか。

たまたま取材した施設が、のどつまり事故を防ぐ為に「正月にも雑煮は出さない」というお寒い方針を持っているとしても、その一施設の状況が全部の施設の実態と思ってもらっては困る。正月に雑煮を食べてもらう為に、様々な工夫をしている施設はたくさんある。

元日に雑煮は出さなくとも松の内には必ず雑煮がメニューに載る施設は多いだろうし、それが一般的だろう。鏡開きの日にも、お餅の献立を立てているはずだ。当施設でも毎年、年末に餅つきをして昼食に振舞うほかに、正月には雑煮も出るし、鏡開きの日にはお汁粉を出している。もちろん全員が食べられるわけではないが、摂取できる人にはできるだけお餅を味わってもらう為に、事務員等の職種に関係なく、全職員が見守りと介助に張り付く。

まったく無責任な記事にもほどがある。こういうコラムは自身のブログにでも書くならともかく、新聞という媒体に掲載するのであれば、その状況が一般的なのか、きちんと他施設の状況も問い合わせて比較検討した上で書くべきだ。そうすれば、このような上滑りな文章にはならないはずだ。

コラムは新聞社の記者が担当しているんだろうが、まったくプロ意識に欠ける見識の低さである。

流行を追っているだけならともかく、嘘、偽り、誤報を流す新聞には使命も役割もなきに等しい。ゴシップ週刊誌と同じレベルに自らを貶めているとしか感じられない。

新聞の記事や社説、コラムを鵜呑みにしてはいけない、という典型例である。

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