masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

倫理・コンプライアンス

頭で考える介護・心で考える介護


頭の良い人が、その知能のかぎりを尽くして介護事業経営を考えることで収益は挙げられるだろう。

しかしそのことと介護サービスの品質はイコールではない。頭の良い人が頭で考えるだけではサービスの質は向上しないし、人の暮らしを豊かにすることはできないのである。なぜかと言えば利用者から搾取の限りを尽くして儲ける方法はいくらでもあるからだ。

利用者から搾取するものは、お金だけではなく心も含まれる。利用者の心を奪い、利用者の哀しみや苦しみを無視した介護事業経営を行っている人間は、哀しいことに実在している。

しかし僕はそういう方法で、この仕事に携わることを欲しないし、そうした行為を許されないと憎む立場にいる。

そもそも儲けるためだけなら介護以上に儲かる別の仕事を探した方が良いと思う。

介護という職業には、もっと違うやりがいや喜びがあるからだ。

長年在宅で親を介護していた子にとって、その親を介護施設に入所させるのには一大決心がいる場合が多い。介護している自分も年を取り、体がしんどくなってきたときに、入所申し込みをしていた特養に空きができ、自分の親に入所順番が回ってきたからと言って、すべての人が喜んで親を施設入所させるわけではない。

自分が親の介護を放棄してよいのかとか、施設に入所させることは親を捨てることと一緒ではないかとか、施設が本当に信頼できるサービスを提供してくれる保証はないのではないかと思い悩む人は決して少なくない。

そんな人たちが、やむにやまれず親を施設入所させたときに、心配が杞憂に終わったと安心できるのは、親が家にいるときと同じように介護施設に居場所を見つけ、我が家のようにくつろいで日常生活を送る姿を見ることができたときである。

だからと言ってそこで親が年下の介護職員から、子供が親に話しかけるようなぞんざいな言葉遣いで話しかけられている姿を見て喜んだり、安心したりする子はいない。子ども扱いされている親の姿に心の中で涙を流したり、悔しがったりしている。従業員の礼儀のない失礼な言葉かけに、心の中で罵声を浴びせながらも、表面上はありがたい顔をしている人が多い。人質にとられている親が、自分の見ていない場所で、いじめにあっては困ると考えるからだ。

利用者の家族が本当に安心できる職員の態度とは、いつ見ても丁寧な対応をしてくれることである。言葉遣いも態度も丁寧な職員の姿にホッとして、ここに入所させて良かったと心から思えるのである。

馴れ馴れしい行儀の悪い態度ではなく、家族の介護とは一線を画した介護のプロとして礼儀ある対応に安心感を持つのである。

そういう介護サービスを創り挙げるのが介護事業経営者や管理職の役割である。

対人援助の質を引き上げ、人を幸せにするためには愛情というエッセンスが欠かせないのである。目に見えなくて科学でも説明できない、「人間愛」を加えた介護サービスを設計する視点が、僕たちには求められているのである。

頭だけで介護事業を考えるのではなく、心からケアの本質を考えたいものだ・・・。
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教育的指導とハラスメントはどう線引きすればよいのか


今週火曜から昨日・木曜日まで、「不足感が増す介護人材をどう確保するのか」という記事を、前編中編後編に分けて書いてきた。

そんな記事を今この時期に書いた理由は、この国の介護問題を考えたとき、介護人材不足が最大の課題であるとともに、それは介護事業者にとっても最大の課題であるからである。

だからこそ人材を集めるだけではなく、自らの力で人材を育てるという意識が必要不可欠になることを、それらの記事では強く訴えている。

しかし指導教育の役割を担うリーダーにとって厄介なのは、指導を受ける一部の人の中に、「叱られる」という意味を理解できない人が含まれているということだ。

叱るとは、職制上の部下などの目下の人の悪い点を改善してもらおうと、厳しく注意することをいう。優しく指導することも重要だが、優しい指導だけで態度が改まらない人に対しては、厳しく育てるという視点も必要になってくる。時に叱って改善点を自覚してもらう必要があるのだ。

叱るという行為は、叱る相手の成長を促したり期待したりしているという意味で、ある種の愛情を含んだ行為であるともいえる。感情的に怒ることとは違った行為なのだ。

しかしそれを理解できず、「最近の若い人は、少し厳しく注意をしただけで、すぐやめてしまう」として、叱ることができない指導者がいたりする。叱らないで優しく指導するだけで成長するなら、それで構わないだろうが、叱ったらすぐやめてしまう人の多くは、優しく指導してもさっぱり指導効果が挙がらない人が多い。

辞めてしまうことを恐れてろくに注意もできないという状態は、職場が荒れてサービスの品質が劣化する一番の原因である。

僕は指導者が叱るという行為を一種の、「スクリーニング」であると捉えて、指導者には意識的に厳しく叱らせる場面をつくるべきだと思っている。その時にそれが不満ですぐ辞めてしまう人は、それで良いと思っている。そんな人員が人材に化けるなんていうことはないのだから、採用面接で見抜けなかった成長動機がないという欠点を見抜いて、試用期間中に選別できたと考えればよい。これも、「腐ったミカンの方程式」である。

それは良いとして、厄介なのは叱って厳しく育てる行為と、ハラスメントの区別がつきにくいことだ。

感情的に怒りをぶつけて行動を修正させようとする人は指導者に向かないことは何度かこのブログで指摘しているところだ。根拠ある論理的な説明で行動変容を図るような指導が求められているが、だからと言って教えるものに媚を売るような態度であっては、教育者としての信頼は得られず教育効果はあがらない。

間違っている考え方については、しっかり教育的指導を行わねばならないし、叱って教えることも必要な場面は多い。だからこそ教育指導の役割を持つ人材を育てる過程でも、厳しく育てることと、ハラスメントの違いをしっかり理解できる教育プログラムを導入しておく必要がある。

パワーハラスメントとは、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える、または職場環境を悪化させる行為を指す。

職制上同等の地位にあるものの間であっても、言葉や態度によって相手の人格、尊厳を傷つけ、精神的な苦痛を与える職場での行為についてはモラルハラスメントとされる。

こうしたパワハラやモラハラと、厳しく叱咤激励する行為の明確な線引きは難しく、個々のケースごとの判断に頼らざるを得ない場合が多い。

明確にハラスメントとされる行為の例としては、社員の不適切行動を他の同僚にも周知させるため、「やる気がないから会社を辞めたほうがいいぞ」などの叱責メールを一斉送信するなどの精神的攻撃とみなされる行為が挙げられる。

本人が拒否しているのに私生活のこと(離婚歴等)を詳しく詮索するなどのプライバシーに過度に踏み入り、「個」を侵害する行為はハラスメントと認定されることが多い。

このように見せしめ目的の叱責は侮辱と判断される場合もあるし、退職や解雇、処分をほのめかす言動がパワハラと認められた例もある。

しかし精神的苦痛とは、そもそも相手がどう受け取るのかという問題に帰結してしまうのだから厄介だ。指導側が、「そんなつもりはない」と言っても、相手側が、「ひどく傷つき苦痛によって仕事ができなくなった」とすれば、ハラスメントとされてしまう場合も多いからだ。

「バカヤロウ何やってるんだ」という言葉だけで、ハラスメントとされてしまうことがあるなら、叱るという行為自体ができなくなってしまうと指導側が委縮してしまえば、教育指導なんて形骸化してしまうので、大きな問題と言えよう。

ただ教育指導とは一定の条件が備わった行為だと解釈されており、次の3点に該当する行為は範疇である。
・部下に対し、自らの欠点を自覚させ、併せて長所を気づかせる
・事後的なフォローをすることにより、叱責前の状況よりも引き上げるための努力をする
・叱責や指導の必要性を明確にし、部下に伝える


このことを意識しながら、相手の成長動機を促す視点を忘れないことで、熱心な教育指導をハラスメントと誤解されないで済むかもしれない。どんなに厳しい姿勢を貫いても、そこに人に対する愛情を忘れない限り、憎しみの感情が入り込む余地はなくなるだろう。

どちらにしても人を育てることは、人の成長に感謝することである。教育指導担当者は、叱るという行為の一方で、指導する人の長所を見つけ、長所を認め、結果が良ければ褒めることも忘れてはならない。

人を育てるということは快適な職場環境を作ることだということも忘れてはならない。そのことを目標にして、継続して職場をリードしていくことが大事だ。

すべての職員が一定レベルの仕事ができるように育てること、自分で考えて行動する職員を育てることを目標にして、勇気をもって、温かく、かつ厳しく注意を行うことは決して咎められることではないのである。

叱る勇気を失わないリーダーによって、職場環境やサービスの質が護られることを忘れてはならない。
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人を絶望の淵に追い込む介護をなくしていくために


ALSの女性が嘱託殺人で亡くなった事件について、ネット上でも様々な意見が飛び交っている。

この事件は安楽死や尊厳死とは全く言えない単なる殺人事件だとか、被害者の状態は決して終末期とは言えないとか、たとえ治療法がない難病を患ったとしても生きる希望を失ってはいけないとか、論じられている問題の方向性も様々である。

一つの事件や事案から様々な問題が論じられることは、決して悪いことではないと思う。ただしそのことは興味本位の揶揄に終わるのではなく、悲劇や喜劇を繰り返さない教訓に結び付く議論であってほしい。

僕個人に限って言えば、この事件に関しては被害者となった女性がなぜ絶望してしまったのかを一番に考えたいと思った。彼女を絶望させないためにできる何かがなかったのかということが何より検証されるべきではないかと考えたのである。

なぜならこの事件において、確実に言えることは彼女が死ぬことを何より望んだという事実があるからだ。それは良いとか悪いとか論評できるような問題ではなく、そこに厳然と存在する事実である。そういう気持ちに至ることを誰も止められなかったのである。それはやむを得ないことだったのか、そうではなかったのか・・・。

彼女は病気が発症した当初から絶望していたわけではない。最初から死を望んでいたわけではないのである。そのことは病気が発症した後にも、仲間と連れ立って手を借りながら、旅行を楽しんでいたというエピソードでも垣間見える。その彼女が、「屈辱的で惨めな毎日がずっと続く。ひとときも耐えられない。安楽死させてください」とツイートするに至った過程で、何が彼女の心境をそうさせたのかを考えなければ、同じような過ちで心と命を奪われてしまう人がいないとも限らないのだ。

だからこそ、彼女の体が徐々に動かなくなっていき、寝たきりで生活を送らざるを得ない状態から脱せなくなってきた際に、その恐怖と闘いの過程で、生きる希望を失うまでに気持ちが折れていく過程で何があったのかを考えなければならない。

そのため、「全身まひの人がツイートした看護・介護職への本音」という記事を書いて、周囲の心無い対応が彼女の絶望を助長していった可能性に言及してみたりした。

この記事は特定の個人を誹謗中傷することを目的としたものではない。だが私たちの仕事とは、そこで支援を受ける人に勇気と希望を与えるものでなければならないはずで、そこに少しであっても絶望させる要素が存在してはならないのであるから、こうした事実に向かい合って、同じ過ちを繰り返すことがないように、そこから教訓を導き出さねばならないと思う。

対人援助の場で、自分が何気なく発した一言によって、人を傷つけるだけではなく、誰かを絶望の淵に追い込むことがあることを意識して、そのような要素を徹底的に排除するという姿勢を持ち続けるプロフェッショナルとして私たちが存在しない限り、悲劇はなくならないだろう。

自分の暮らしのすべてを委ねなければならない全身麻痺の人に対して、サービス提供中に愚痴をこぼす姿はプロとは言えないことを、すべての介護支援者が自覚しなければならない。ましてやその愚痴につながる問題の所在が、利用者にあるかのような言葉の暴力を決して許してはならないのである。

仕事中に利用者に対して愚痴や文句を言ってはならないというのは、教育しなくても理解できるレベルの問題である。そうした常識が護られていないという意味は、対人援助として接する個人にプロ意識が欠落しているという意味だ。それは利用者の暮らしを支える身体介護をはじめとする支援行為が、職業として提供されているという意識より先に、施し意識がそこにあるという意味だ。

人の尊厳に対する配慮は、そうした施し意識が欠落させていくのである。そういう状態ではプライベートと仕事の区分が付きにくくなり、顧客に対するサービスであるという意識も欠落する。特に利用者の自宅が密室化し、そこで1対1の関係で接するサービスでは、支援する方が上であるという意識が生まれやすい。

その意識をなくすためには、一つ一つのケースごとに徹底的に人権を護る意識を植え付けるしかない。人の希望はあっという間に失われるが、絶望の淵に立つ人をそこから救うのは、いかに難しいかということを、支援チーム全員で意識する話し合いが持たれなければならない。そのように人の尊厳とは何かということを、徹底的に論じあうメンバーによって支援チームは構成されなければならないのである。

さすればサービス担当者会議とは、単にケアプランンの内容確認に終わることなく、支援対象者の尊厳を護る方法の具体策を論ずる場にしなければならないのではないだろうか。ここを是非意識して会議を進行してほしいと思う。

希望というものは、他人が与えようとしても簡単にそうはいかないものだ。自分の中でゆっくりと養い育てるのが希望である。その希望は支援者一人一人が、真綿にくるむように大切にし、壊れないようにする必要がある。

介護支援チームに求められているのは結果責任である。良かれと思って行った行為が、結果的に支援する人を絶望の淵に追い込むことがあってはならないのだ。そうしないための最大限の努力は、常に続けられなければならない。

そのことを忘れない支援チームであってほしいし、本事件を振り返る過程が、そのための教訓を残すものであってほしいと思う。
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コンプライアンスの概念は変化している


2006年に大手菓子メーカー「不二家」の埼玉工場(埼玉県新座市)が、消費期限切れの牛乳をシュークリームの製造に使っていたことが発覚して大問題となったことがある。

その直前には雪印乳業が青色ブランドを捨て、メグミルクに変わらざるを得なかった、「雪印集団食中毒事件」が起こっていたので、国民の口に入る食品を販売する大手企業としての不二家の不正には多くの批判が寄せられ、営業自粛をせざるを得なくなるなど、一時的に大きな経営危機に陥った。

しかし同社の違反とは、食品衛生法などの関連法に触れる違反ではなく、「社内規定の使用期限」が切れたという問題であった。それでも企業の責任が問われて経営危機に陥ってしまったわけである。

こんなふうに道義的責任が広く問われる現代社会では、法令遵守と職業倫理とは表裏一体とみなされており、コンプライアンとは単に、「法令遵守」を意味するものではなく、企業等がルールに従い、公正・公平に業務を遂行することを指す言葉として、法令だけではなく、社会規範や企業倫理、就業規則といった内容もすべて遵守すべきものとして捉えられている。

さらにこれからの時代のコンプライアンスとは、「社会的要請」へ応えることもより強く求められてくる。介護事業であれば、人の尊厳を護っているかという部分で、より深く・より強くその遵守を求められてくるわけで、その意識が無い事業者は、いつ社会からの糾弾を受け、経営危機に陥らないとも限らない。

だからこそ介護事業者においても、社会の要請や環境変化に素早く対応できる組織として存在していくことを考えるべきである。事業者内のシステムを強化して、コンプライアンスに反する行為を予防する必要があり、「コンプライアンス対応部署」を定め、担当職員を置くことは当然と考えなければならない。

先週の金曜日に書いた「介護福祉事業者に求められるコンプライアンスの視点」で紹介した講演では、そういう話をしてきた。具体的に言えば介護保険法等、我々の仕事の根拠になっている法令等を解説しながら、コンプライアンスの視点を伝えてきたが、先日事務局から受講者アンケートの結果が届いたので以下に紹介したい。

日本生活協同組合連合会・日本医療福祉生活協同組合連合会の合同研修会アンケート結果
・非常にわかりやすく、また何をすべきか提示いただいた 。法令順守の上に、倫理の大切さを感じた 一度お話を伺いたかったのでとてもよかった。
・ 単なる法令遵守のみならず、就業規則や企業倫理等にまで話が及び、大きな課題であると感じた 。
・内部監査や違法性を見抜く重要性を感じた。管理部門の早期立ち上げが課題。
・倫理を含めた広い意味を学べた。とても大切な内容で、もっと介護現場に近い者が話を聞ければよかった。
・終末期ケアの考え、接遇マナーに至るまで帯を締めていただいた コンプライアンス管理部署の必要性を感じた 。
・コンプライアンスを理解していたつもりだったが、幅広いものであった。
・ 事業所の理念をわかりやすい言葉で伝え、やるべきことを明確化すること、とても参考に なった 動画に魂(ソウル)を感じた
・コンプライアンスについて、ここまで詳細に学習したことはなかった。至らぬところ、見直すべきところを洗い出して改善していきたい。
・「腐ったミカン」への対応は、今まさに自法人でも課題としているところ 法律、ルールを守ってさえいればいいというわけではなく、(週 2 回入浴⇒毎日入浴の事例など)さらに利用者を第一に考えたコンプライアンス遵守が大切だと実感した
・サービスマナーについて、話し合う機会を設けようと思う。熱い講演に心の奥まで響いた。
・実際に現場で介護に携わる職員にも聞いてもらいたい
・物事をフラットに見ることが大事だと教わった
・職員が一定の常識を持ち合わせているか、採用時のチェックが困難。 内部の常識は一般の常識ではない、改めて痛感した 法令遵守とは質のレベルアップである事が学べた
・企業理念の理解、強化につなげていきたい 広い知識と現場の経験からのお話、とても理解しやすかった
・法を知らないと利用者も自分も、組織も守れないと感じた
・コンプライアンスに対する考えが変わった。事業所に戻って対応すべき課題が明確になっ た。
・サービスマナー、ルールつくりは急務であると認識できた。
・捉え方のポイントが分かりやすかった。今回書籍も購入でき、理解を進めていきたい
・腐ったミカンは放り投げる。とても衝撃的な内容であった。参考にしたい部分が多かった
・胸に詰まる話だった。言葉使い、人材育成…できることからやっていきたい

以上である。こんなふうに職業倫理・コンプライアンスに関する講演も行っているので、事業者内研修でそうしたテーマの講師求めている方も、ぜひ一度お気軽に声を掛けていただきたい。連絡は、「北海道介護福祉道場あかい花」の文字リンクに、連絡先を載せているので、そちらからメールもしくは電話でお申し込みいただきたい。

話は変わるが、今僕はこの記事を沖縄に向かう空の上から更新している。昨年から新千歳空港から那覇空港までの直行便がANA便で復活したので便利である。

今日のフライト予定時間は約4時間だが、帰りは3時間5分となっている。偏西風の影響だろうが、北海道〜沖縄間だと、風の影響でそれほど時間が違ってくる。今日は天候も良いが、航路の混雑で出発が20分遅れたため到着も遅れるが、フライト自体に問題はなく、快適な旅になるだろう。

沖縄では今日の夜と、明日の午後の2講演を予定している。夜は連日のオフ会で大好きな沖縄料理を堪能する予定だ。

ということで今日から3日間、氷点下の北海道から脱出して、最高気温がまだ20度を超えている沖縄でつかの間の温かさを愉しんできたい。(といっても観光ではなく仕事であるが・・・。)

沖縄の皆さん、よろしくお願いします。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。ンに共感できない職員は、組織の秩序は壊す要素にしかならないのだから、寄ってこなくてよいと割り切って考えるべきである。


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介護福祉事業者に求められるコンプライアンスの視点


今朝9:30新千歳空港発の便で上京してきた。今日の東京は結構冷え込んでいる。

これから僕は渋谷のコーププラザに向かう予定だ。

渋谷で講演を行った経験は何度かあるが、生粋の道産子にとっては近寄り難さを感じる場所であることに変わりはない。やはり人の多さに戸惑ってしまうし、スクランブル交差点を渡るのも勇気が必要だ。それに今の渋谷は、駅前の再開発で工事だらけである。行くたびに様相が変わっているので、田舎者の僕はどこをどう歩けばよいのかわからなくなることがある。地図アプリに頼って何とか目的地にたどり着けることを祈っている。

今日の仕事は、日本生活協同組合連合会・日本医療福祉生活協同組合連合会の合同研修会での講演である。研修会はすでに開始されているが、僕は14:25〜15:45までの登壇予定で、このブログタイトルと同様のテーマでお話をすることになっている。

もともと僕が介護作家として著作本を世に出したデビュー作は、共著本「介護施設と法令遵守」(ぎょうせい)であり、その中で「特別養護老人ホームにおける法令遵守」という部分を書いたことで、そののちの自著本につながっていった。

だから法令遵守やコンプライアンスをテーマにした講演も、過去に何度も行っている。だからテーマ依頼をいただいた後に、講演内容の構成もすんなりと決めることができた。

コンプライアンスの基本は法令遵守である。だからこそ法令を知らなければならない。正しい法令解釈による、正しい理解が行われなければならならないのである。その基盤なきところで、コンプライアンスを考えてもどうしようもない。

実地指導などで不適切運営が指摘されたり、報酬返還指導を受けたりする事業者が、「法令解釈に誤りがあった」と言い訳するケースがあるが、それはこの制度の中で仕事をしているプロとしては、あるまじき姿勢であると言えるわけである。だからこそ介護事業者の管理部門に、きちんと法令解釈に取り組む担当者を置く必要があるというものだ。制度が複雑化される中で、経営の透明性が求められる今の時代の経営リスクマネージメントは、遵法意識が無いと成り立たないのだから、そうした専門部門を置く必要があることを肝に銘ずるべきである。

しかし道義上の責任が広く捉えられている現代社会において、法令を護るだけでは事業者責任は果たせないと考えなければならない。企業等がルールに従い、公正・公平に業務を遂行するためには、法令だけではなく、就業規則や企業論理・社会規範も、すべて遵守すべきものとして捉えられているのである。

よって法令理解を行なったうえで、法令を護るだけではなく、社会ニーズにも対応し、社会の要請に応える事業運営に心がけることが、現代社会に求められるコンプライアンスである。

だからこそ介護事業者に対してどのような社会的要請があるのかを把握する事業者内のシステムの構築も不可欠だ。そのうえでどうしたらその要請に応えられるのかと対策する担当部門が必要になる。そのようにして社会的要請に対応するために介護事業者として明確なビジョンを打ち出す必要があるのだ。加えて介護事業経営者が事業理念を示すことができ、職員全員がそれを理解する必要も当然あるだろう。

そのためには事業所独自のコンプライアンスルールを作成する必要がある。今日は僕が作成したコンプライアンスルールも示す予定だ。

そのほか意外と知られていない介護保険法令上のルールや、ごく当たり前に行われている行為の法令根拠についても解説する予定である。講義を聴いた方は、介護保険法や関連法令が自分の仕事ぶりに与えている影響を改めて考えられるし、それは即ち今後の仕事の効率化にも結び付けられると思う。乞うご期待ください。

ということで会場でお愛する皆様、本日はどうぞよろしくお願い致します。

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介護施設のコンプライアンスとリスクマネジメント


僕の書いた文章が、本になって世に出た最初は、「介護施設と法令遵守」という本である。

ただリンク先の本の画像を見て分かるように、この本は共著本であり、僕は執筆者の一人にしか過ぎないため、本の表紙カバーに僕の名前は載っていない。ここにはこの本の監修者である、多摩市の伊藤介護保険担当課長(当時)と、淑徳大学の結城先生の名前が載せられているだけで、僕の氏名は本の中の著者紹介欄に経歴とともに掲載されているだけである。

それでも記念すべき執筆本第1弾であることにかわりはない。

監修者がある共著本と、自著本の一番の違いは何かと問われれば、それは発生する費用であるということができるだろうか。前者は、僕の収入として懐に入るお金は執筆料のみであるが、後者は出版社との契約に基づく印税であるという違いがある。

それはどのような違いか等については、また別の機会にお話しよう。

ところで僕はこの共著本の、「第3章 特別養護老人ホームの法令遵守」という部分を執筆している。その中で、時代が特養に求めていることは、単に法令を守った運営をすることにとどまらず、法令に精通して、それを守ることはある意味当然であり、それに加え社会的要請にも積極的に応え、国民ニーズにマッチした運営に努めることだとして、フルセットコンプライアンスという考え方を紹介している。

そういうこともあってか、今週末の日曜日(9/4)、東京港区のコクヨホールで開催される、「日経ヘルスケア 介護マネジメントセミナー2016 Summer」で、「介護施設におけるコンプライアンスとリスクマネジメント」というテーマで講演を依頼されている。

この共著本が出版されたのは2010年8月であった。その時期よりさらに、社会から厳しい視線を向けられているというのが、現在の社会福祉法人が置かれている状況である。しかも今後の社会福祉法人は、単なる施設運営ではなく、法人経営が求められるが、そこで必要となる法人経営のリスクマネジメントとは、単に法を護っておれば良いというものではなく、フルセットコンプライアンスの視点はより重要になる。

コンプライアンスの基盤は、法令を理解することであることは言うまでもないが、経営リスクマネジメントに繋がるコンプライアンスとは、単に法文を理解することではなく、法文に繋がっている背景や、その目指す目的を理解して対応することである。

そのために介護施設を運営する法人は、事業に対する社会の要請や環境変化に対応できる組織へと替わっていかねばならない。こうした予防的コンプライアンスの思想がないと、法人の滅亡は現実的なものとなっていくだろう。

あのアミーユ事件をきっかけにして、親会社のメッセージが介護事業から撤退しなければならなかった事例を教訓にするとしたら、介護事業の最大のリスクマネジメントは、「介護サービスの品質管理」であることは間違いが無い。ここを現場任せにする法人にも明日は無いだろう。

特養に限って言えば、待機者の減少が著しいだけでなく、空きベッドが埋まらない地域が出始めている。介護職員が見つからないことが最大の経営リスクであった状況に変化が出始め、利用者確保ができないことが、最大の経営リスクとなりつつある。

これからの社会福祉法人は、保険外事業も含めた事業の多角化が必要だといっても、本体事業が揺らいでいては法人経営はままならない。

9/4は、ここをどうするかという視点からのリスクマネジメント論を展開する予定である。

このセミナーに先駆けて、今週金曜と土曜日は大阪で講演がある。

大阪市老連主催の連続講演も、いよいよ最終回。今回は「『誰かの赤い花になるために』 〜 介護の誇りとは・・・私たちは今なにをすべきか〜 」をテーマにお話しする予定である。9月2日(金)16:00〜18:00、大阪市立社会福祉センター3階までぜひお越しいただきたい。

翌土曜日の13:30〜15:30のmasaの介護福祉情報裏板・リアル!2016本音のトークライブin大阪介護の陣もいよいよ最終回。今回は、多職種連携や介護ロボット、認知症の人に対する介護実践などの話をする予定である。寺田町に建てられたおしゃれなビル、SKアカデミービル2Fセミナールームまで聴きにきていただきたい。

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介護事業におけるコンプライアンスとリスクマネジメント


良い介護を行って当たり前であるという風潮の中で、報道機関に取り上げられる介護のニュースは、待遇の低さであったり、信じがたい虐待であったり、ネガティブなものが多い。

それらの報道の中には、偏見に基づく解説も見られ、そのような情報社会の中で、国民の介護事業に対する視線は、決して好意的ではなく、厳しいものにならざるを得ないのだろう。

僕たちは、そのことも社会の一面として受け入れ、理解したうえで、介護サービスの品質アップに努めながら、批判の的となるような状況をなくしていき、同時に僕たちの世代で、介護のスタンダードを引き上げて、偏見の生まれない良質なサービスの質を作っていく必要がある。

そのためにも世間の偏見を生む元となっている、「不適切対応」の芽を摘むためのマネジメントは不可欠で、すべての介護事業者は、そのことを含めた介護経営リスクマネジメントに取り組んでいく必要がある。

主な収入源が介護給付費という公費である介護保険事業者は、高い倫理観が求められ、それは介護保険事業者の介護経営リスクマネジメントには、コンプライアンス意識が欠かせないという意味にもなる。

コンプライアンスの基盤は、法律を理解することであり、リスクマネジメントにつながるコンプライアンスとは、法文理解にとどまらず、そこにつながる背景や目的を理解することである。

例えば社会福祉法人が、経営リスクマネジメントに取り組もうとすれば、今般改正された社会福祉法の法文を読んで、その内容を理解するだけではなく、社会福祉法改正の背景にある社会福祉法人への批判とは何かということを理解せねばならない。

一例を挙げてみると、内部留保批判の本質とは、個人商店的な法人が、行政事務の受託的な業務だけを行って、公費や介護保険料を財源とした費用を受け取っているだけで、大きな利益を得ているのも関わらず、収益を溜め込んで社会に還元しない姿勢が問われたという意味である。

そうであれば社会福祉法人は、その批判の元になっている内部留保とは、法人の余剰金ではなく、本体事業に必要な建物や土地の資産も含んだ金額であることを明らかにし、さらに2月遅れで支払われる介護給付費のストック分である運営費も含まれているということを、世間にアピールした上で、それらを除いた余裕財産がある場合、それを原資に社会還元するために、地域福祉の向上に繋がるサービス提供の方法を考えていくという姿勢が求められているのである。

ここでは法令に違反しているのか、いないのかのみを基準として、画一的にものごとを考えるのではなく、介護事業者に社会が期待していることに応えられるように、事業運営を考える必要があり、法令に精通した管理部門が、内部監査等を含めて違法性をチェックするとともに、サービスの質を管理する必要がある。

これが、いわゆるフルセットコンプライアンスという考え方であり、これからの介護事業者は、サービス事業ごとに業務管理を行うのではなく、法人全体の管理部門が、法人全体のリスクマネジメントに当たっていく必要があるだろう。

法人の管理部門の責務とは、組織全体を機能させることでビジョンを実現させ、事業に対する社会の要請や環境変化に素早く対応できる組織を作ることによって、コンプライアンスに反する行為を予防する機能を併せ持つべきだ。そこでは内部情報をガラス張りにして公開するとともに、世間の意識・意見も風通しよく引き入れることで、専門バカにならないという、社会とのチャンネルの確保が重要なポイントになる。

そのようなフルセットコンプライアンスの視点で特養の経営を考えると、多死社会の中で、看取り難民が懸念される状況で、看取り介護を行わない、行えない特養は存在意義を失うという結論となり、制度から退場していただく第一候補が、看取り介護を行わない特養だということに気づくだろう。

またフルセットコンプライアンスの要素として、「環境整備コンプライアンス」が存在するが、それは事業者が社会的要請に応えたくても制度や社会環境にそれが阻害される場合、業界団体を組織したり、自治体や国に働きかけて社会的要請に適した環境を作ることを意味する。

そうすると介護事業者が、保険外サービスにも取り組んで、その中で地域住民の福祉の向上に貢献しようとしても、様々な法律の規制により、事業参入がままならない場合がある。これらの規制緩和を働きかけも、コンプライアンスとして考えられて良いもので、ソーシャルアクションが伴わない、フルセットコンプライアンスというものはあり得ないことにも気が付くだろう。

そういえば僕の書いたものが本となった最初は共著本、「介護施設 安心・安全ハンドブック(全6巻)」のなかで、「第3巻・特別養護老人ホームにおける法令遵守」であったが、ここでもフルセットコンプライアンスの考え方を書いている。ずいぶん前のことである。

このことに関連して、9/4(日)東京都港区『コクヨホール』(東京都港区港南1-8-35)で、日経ヘルスケア 介護マネジメントセミナー2016summerが行われるが、僕も講師として、「介護施設におけるコンプライアンスとリスクマネジメント」というテーマで、13:00〜60分のお話をすることになっている。

このセミナーの午前の部では、介護経営セミナーでは日本一講演数が多いと多いのではないかといわれている、小濱 道博先生(小濱介護経営事務所 代表)のお話しも聞けるので、興味のある方はぜひ会場までお越しいただきたい。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。

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100年後にも200年後にも介護サービスは存在するのです。


僕が大学を卒業して特別養護老人ホームの生活相談員として入職した際、周囲の諸先輩の方々からは、特養は暮らしの場であり、「生活施設」のなのだから、自分が暮らしてもよいと思えるホームにしなければならないと言われた。

自分の親を入所させたくなるようなホーム、自分自身が入所したくなるようなホームを創らないとならないと言われた。

その通りであろうし、その考え方は今も同じように考えるべきだろうと思う。

ただ正直に告白すると、僕自身は自分の親が施設に入所する事も、自分自身が将来施設に入所する事も、あまり現実的には想像できていなかった。

僕の父は、デパートで買い物中に心臓発作を起こし、救急搬送中に一度心停止し、病院で一旦蘇生したものの、それから数日後に帰らぬ人となったため、施設入所という経験はせず終わった。

母は、くも膜下出血を自宅で発症し、朝新聞が取り込まれていないのを不審に思った近所の友人により発見され、救急搬送された。僕が病院にかけつけたときは目は開けられなかったが、会話はできたものの、手術後の意識が回復しない状態のまま、今度は脳梗塞を起こして、そのまま意思疎通のできない状態になり、病状が安定した以後は、僕の住む街の介護療養型医療施設で約2年過ごした後に旅立った。母はそういう意味では、介護施設に入所することが現実となったのであるが、医療保険の療養病床と一体的に運営されていた医療機関であったため、「暮らしの場」というより、病院そのものだった。そこにはあまり暮らしは存在せず、特養の方がケアは優れていると感じた。

ただ母は、医療的な対応が常時必要だったため、特養に転入所することは難しかった。

もしあのとき、母が僕の施設に転入所した場合、僕は母が入所させてよい施設づくりをしてきたかが問われたわけであるが、多少の不満はあっても、僕は母がここに入所してもよいと思うことはできる。母が亡くなった介護療養型医療施設よりは、良い暮らしを提供できたのではないかと思う。ただそのことは、僕の施設の現状が、どこに出しても恥ずかしくない暮らしの場になっているという意味ではない。まだまだ足りないところがあるけど、〇〇〇よりはましな暮らしだろうという部分が残っており、親だからこそ妥協して考えてしまう部分があるように思う。

自分はどうだろう?自分ならと考えると、自分が我慢すればよいだけだから、どんな施設でも家族に迷惑をかけないならよいと思ってしまう。

つまり「自分が入りたい施設」というフレーズは、自分の施設の暮らしの質を上げる動機づけとしては、僕自身の中ではあまり機能しない言葉のように思う。むしろ自分以外の、自分が愛する誰かの身になって考えた方が、僕にとっては動機づけが強くなる。

どういうことかって?

日本がこの先、いくら人口減少社会になろうと、高齢化率がやがて下がってこようと、介護を必要とする人は、この国にいつも存在して、介護という職業は、決して必要とされなくなるということはなく、それは介護サービスが、100年後、200年後も存在し続けるという事である。

そうであるならば、僕のように両親が亡くなっている人が、誰のための介護を創ろうと考えるのか?それは必ずしも自分ではなく、自分の愛する子供であったり、まだ見ぬ孫であったり、僕がこの世で逢うことのない子孫であってもよいのではないだろうか。

今介護の現場にある感覚麻痺をなくしていかないと、いずれ自分の愛する子や孫が、介護という名の牢獄の中で、哀しい思いをするかもしれないということだ。介護サービスの中に存在する、「世間の非常識が、介護の常識」という部分を完全に消滅させていかないと、自分の最愛の子や孫が、将来介護を必要な身になったとき、我々がなくせなかったものによって心に深い傷を負う可能性があるという事である。

見知らぬ誰かのためではなく、自分の愛する子や孫のために、今変えるべきものは変えていかないとならないということだ。僕たちの時代で変えていこうではないか。僕たちの時代で、僕たちの愛する子や孫が将来利用した時に、子や孫たちに本当の幸福を作るお手伝いができる介護サービスを創っていこうではないか。

そうでなければ、僕たちは未来に深い禍根を残すことになる。

僕たちが変えなかったものによって、僕たちの子や孫が傷つくとしたら、それは僕たち自身が、子や孫を傷つけることと変わりなくなってしまう。

そんなことがあってよいわけがない。

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法律を守ること、暮らしを守ること

今日のブログ記事は、先週末の柏市講演&名古屋市講演で撮りためた写真画像を使って記事更新しようと思ったが、画像ファイルを保存している媒体を家に忘れてきてしまったため、予定変更が必要になった。その画像を使った記事は、あらためて明日にでも紹介するとして、今日は何を書こうか迷いながらPCに向かったところである。

先週金曜日に書いた「秘密保持を勘違いしている登別市のケアマネの実例」にいくつかのコメントが寄せられている。

これを読んでわかるように、大いなる勘違いをして責任放棄しているケアマネは全国各地にいるようである。

介護支援は多職種協働のチームケアが基本である。それなのに必要な個人情報を適切にチームメンバーに送らないとされれば、機能不全に陥ってしまわざるを得ない。そうであるにもかかわらず個人情報保護という理由で必要な情報が適切に提供されないことが当然だと思ってしまうケアマネは、その状態で適切な支援チームが組めない弊害を法律のせいにしたがる。個人情報保護法があるから仕方ないと言っているケアマネが存在する。

しかし個人情報保護法とは、果たして個人情報を手に入れた事業者が、それを決して漏らさないために定められた法律なのだろうか?必ずしもそうではあるまい。

個人情報保護法の「第一章・総則」には以下のような法文が書かれている。

(目的)
第一条  この法律は、高度情報通信社会の進展に伴い個人情報の利用が著しく拡大していることにかんがみ、個人情報の適正な取扱いに関し、基本理念及び政府による基本方針の作成その他の個人情報の保護に関する施策の基本となる事項を定め、国及び地方公共団体の責務等を明らかにするとともに、個人情報を取り扱う事業者の遵守すべき義務等を定めることにより、個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護することを目的とする。


このように、この法律は「個人情報秘匿法」ではなく、あくまで「個人情報の有用性に配慮した、個人の権利保護」が目的なのだ。

つまりこの法律は、業務上知り得た個人情報を秘匿することを目的としたものではなく、その情報を活用する際に、利用者に説明して同意を得て使うなどの、事業者の義務と適切な運用方法を定めた法律であるといえるものだ。

ということは、先日の記事で指摘したように、基準省令において適切な個人情報の共有ルールを定めているにもかかわらず、それらを無視して、必要な情報をサービス担当者会議等で提供しないケアマネジャーは、個人情報保護法の趣旨を全く理解しておらず、むしろ「個人情報の有用性に配慮した、個人の権利保護」を侵しているという意味において、何もしないことで法律違反を犯しているという理屈も成り立ってくるかもしれない。

どちらにしても、ソーシャルワーカーとして暮らしを守るべきケアマネが、利用者から得た個人情報をチーム全体で活用できるように、利用者や家族に同意を得る努力もしないことは、怠慢でケアマネとしての職務を果たしていないという謗りを受けても仕方ないだろう。

ケアマネが得た情報を、居宅介護支援事業所内から一切出さずに、同じ情報をそれぞれの事業所で得るように強いることで、複数の事業所より介護サービスを受ける利用者や家族は、何度も同じことを聞かれて同じことを話さねばならないという本末転倒な状態に置かれる。そのことを「やむなし」とするケアマネがいるならば、それは対人援助の専門家としては失格である。そのことをおかしいと思わないケアマネは、そもそも対人援助に向いていない。感覚麻痺もいい加減にしろと言いたい。

個人情報を守るだけではなく、適切な活用、個人情報の有用性への配慮が同時に考えられなければならないのである。介護サービス事業者の決定という大事な場面で、個人情報保護を理由にして、利用者の住所を示さずに事業者にサービス可否を決定させようとするケアマネが守っているものは、個人の情報ではなく、自らの身でしかないといえよう。

自己保身のために、「個人情報保護」とか、「守秘義務」とか、「秘密保持」とかいう言葉を使うなと言いたい。

登別市には、「のぼりべつケアマネ連絡会」という組織があって、ほぼ毎月勉強会を開いているのだから、こういうことも少しは勉強したほうが良いのではないか。自分たちの仕事の根幹に関わる事柄の理解も出来ていない状態で、その上に何の知識を積み上げても意味はなく、ケアマネジメントの根幹に関わる、正しい情報保護と伝達のあり方を知らないで、ケアマネジメントに一番必要とされる「調整」なんてできるはずがないのだから。

なお個人情報保護法では、個人情報取扱事業者が、利用者の同意がなくとも個人情報を第3者に提供することができる例外規定を第16条に定めているが、その中には
・人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき。
・公衆衛生の向上又は児童の健全な育成の推進のために特に必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき。


以上の内容が含まれていることを付記しておく。

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利用者宅を牢獄に変えた介護事業者の感覚


介護事業所が施錠していた玄関(神戸市提供)画像は、神戸市が市内の居宅介護支援事業所と訪問介護事業所を6ケ月の事業停止処分にしたことを発表した際に、「利用者が外出できないよう介護事業者が施錠していた玄関」であるとして公表、関係機関に提供したものである。

この画像は、昨晩のインターネット配信記事や、今朝の各社新聞紙上でも掲載されているので、多くの介護関係者は目を止めたことだろう。

そして背筋が凍る思いを抱いたことだろう。牢獄がここに作られているからだ。

人が住んでいる家を外からチェーンで開けられなくすることの恐ろしさを忘れてしまうという感覚麻痺。事業停止になった事業所は、「虐待の認識がなかった」というが、屋内で重大な事故が起こっても、居住者は自力で外に脱出できず、近所の人が駆けつけても、チェーンを切断する方法がないと助け出せないという恐ろしさになぜ気がつかないのだろう。このような状態にドアに細工する行為は、不適切を通り越して、犯罪的でさえある。

この恐ろしい状況を作り出したのは、神戸の居宅介護支援事業所と、訪問介護事業所であるという。

事業停止になった居宅介護支援事業所のケアマネジャーが居宅サービス計画を担当している利用者宅で、訪問介護を受けていた90代の夫と80代の妻が、自宅から深夜外に出て徘徊することを防ぐため、玄関のドアノブと窓の面格子をバイク駐輪用のチェーンで固定し、ドアが開かないようにしていたという。

しかし新聞報道では、「ヘルパーやケアマネジャーが訪問した際は解錠して入室し、介護を終えた後は鍵を閉めていた。」という記述も見られ、これが事実とすれば、この利用社宅のドアは、深夜のみならず、日中もずっと外からチェーンをかけ開けられない状態にされていた疑いがある。

火事になっても外に逃げられない家を作って、なんとも思わなかったのだろうか。感覚麻痺もいい加減にしろと言いたい。人としての、当たり前の心を失ったケアマネによる居宅サービス計画は、人の暮らしも、人の命も守れない。

普通の家を牢屋に変える恐ろしさがそこにはある。

施錠した理由について当該事業所は、「外を歩き回り、転倒や事故に遭わないために必要なことと思った。」と述べていることが報道されているが、外を歩き回る危険性から、いきなり自宅に閉じ込めるという発想に結びつける感覚がどうかしている。認知症による徘徊=閉じ込める、というのは対人援助のプロの考え方とは相容れない。ここにはケアマネジメントなど存在していない。外を歩き回って事故にあわないために、どのような工夫が必要かという結論を、「人を牢獄に閉じ込める」という答えとしてしか出せない人が対人援助に関わって良いはずがない。

「深夜外に出て徘徊すること」の危険性に対応するなら、まず先に、深夜寝ないで徘徊してしまう高齢者の、日中の生活はどうなっているのかというアセスメントが行われ、日中活動することで、深夜に起きずに済む方法はないかということからサービス計画は考られなければならない。

そうした考察がされず、閉じ込めるという手っ取り早い方法で、すべての問題を牢獄と化した密室の中で完結させられていた老夫婦。この方々への訪問介護は、その中で本当に適切に行われていたのだろうか?

人を閉じ込める行為を不適切であるとも、人権侵害であるとも思わない感覚の向こう側に、一体どのような方法論が作られるのであろうか。そら恐ろしいことである。

この状況を作り出した居宅介護支援事業所と訪問介護事業所は、自分の親が同じ状況に置かれても何も感じないというのだろうか。

この居宅介護支援事業所はインターネットで、「高品質のサービスを提供する」と宣伝しているが、彼らの高品質サービスとは、だれかの自宅を牢獄に変えて閉じ込めるサービスであったのだろうか。

虐待しようという意志がなかったとしても、この状況は明らかに人権侵害であろう。

この事業者に所属する介護支援専門員や訪問介護員、そのほかのすべての従業員が、このことを本当に悪いと思っていなかったとしたら、そしてその感覚が麻痺したものではないと思っているとしたら、それは究極の無知である。それは罪である。そもそも対人援助に携わるべきではない人々だということだ。

刑法220条は逮捕・監禁罪を定め、それは「不法に人を逮捕し、または監禁する行為を内容とする。」としている。

今回報道された状況は、明らかにこの逮捕・監禁罪に問われる状況ではないのだろうか。神戸市は、事業停止にするだけではなく、この状況を刑事告訴すべきではないかとさえ思う。

このような人でなしのような行為を、ケアマネジメントと称して行っている限り、介護支援専門員に対する社会的評価は高まらないだろう。そして多くの真面目で適切な仕事をしている介護支援専門員や、居宅サービス関係者が迷惑を被るのである。

高品質のサービスを謳う前に、人間として何を大切にし、何を守らなければならないのかという、当たり前の感覚を失わないようにすべきである。

こんなことは人権意識を育てるという以前に、人が人を閉じ込めては放置することは許されないという一般常識の問題なのだ。それがわからない人は、対人援助に関わるべきではない。

この事件(あえて事件という言葉を使う。)によって、介護事業者が、世間から失う信頼を取り戻すことは非常に難しいと言わざるを得ない。

普通の感覚を失ってしまった人でなしによって被る損害は計り知れないであろう。

牢獄を作り出して、なんとも思わなかった人たちに言いたい。人として、当たり前の感覚を取り戻しなさいと・・・。

地位や名誉やお金のためではなく、愛する誰かのために、介護という仕事に携わらないと嘘だろう!!・・・と。

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妄言に踊らされる事業者であってはならない


法令根拠に基づいたルール確認は大事だ。

しかし基準省令やQ&Aに書いてあることだけが全てであると考えるのは間違いである。なぜならそこには最低限の決まりしか書いていないからだ。

社会人として当然守るべき社会常識や、プロフェッショナルとして持つべき職業倫理なんて、法令に書かれているわけがない。

しかしそれは無視して良いものではない。職業倫理に基づいて考えなければならない問題もあるということを忘れてはならないからだ。

職業倫理と言ったって、決して難しいものではなく、それは当たり前に考えて、人として当然守らねばならないことが大部分を占めているんだから、自分自身の常識や道徳がどれだけしっかりしてるかにかかってくるのである。

そんなことさえわからず、法令文章に書かれていないことはやらないとか、逆に法令文章で禁止されていないことはなんでもできると考える方がどうかしている。

そもそも倫理とは、人として何が大切かという本質を問い続けるものであり、職業倫理とは、我々が生活の糧としている職務に携わるものとして、社会から求められる規範を自ら意識することから始まるものである。それができない人は、その職務に就いてはいけないという意味になる。

国は、私たちにはそうした常識があるってことを前提にして法令文書を作っている。そんなことも理解できない常識のない人間は最低である。当たり前を大事にしない人は最低である。

常識論で言えば、介護サービスは社会福祉(Welfare)である。 そのことを忘れてはならない。

介護保険制度は社会保険方式を取り入れた社会福祉制度である。介護保険は社会保険制度になったのだから社会福祉でなくなったという国の御用聞き学者の妄言を信じてはならない。 それは給付制限して、介護保険制度が人の暮らしを支えなくても良い制度になっても問題ないという理由付けにしか過ぎない。

それは介護保険が人の暮らしを守らず、人の命を守らなくても良い制度であるということのアリバイ作りに過ぎない。そんな妄言で、この国の福祉制度を切り捨ててはならないのである。

社会福祉の分野に、資本主義の弱肉強食理論はそぐわない。自己責任という言葉で、誰かの命や暮らしを切り捨てて良いわけがない。制度の光が届かない影を広げて良いわけがない。

死者に鞭打つつもりはないけど、随分変な遺産を残して死んでいった妄言学者によって、この介護保険という制度は随分歪んだものにされてしまったように思える。

次の制度改正に向けて様々な議論が交わされているが、社会保障審議会の各部会の委員に言いたいことがある。それは、もういい加減に「財源論」という蓑をかぶった給付抑制論はやめてくれ、ということだ。

財源論とは収入と支出の両方を語るべき問題である。しかし現在介護保険部会の委員等が語る財源論は、1割自己負担分の負担割合アップや2号保険料の総報酬割りの導入ということを除いて収入を語ることをしていない。特に税収入のあり方を語ることが全くされずに、既存の税収等で得られる金額をどこにどのように回そうかという議論だから財源論とは言えない。

そうであれば、本来必要なサービスは何かを示した上で、給付抑制論の中で考えるサービスとの格差を、その時起こりうる問題提起と並立して国に示すべきであり、あとは税制という収入部分に手を入れることができる政治の判断でどうぞと、バトンを渡すべきである。

給付抑制の結果、予測されるデメリットを明らかにしながら政治判断を促すべきである。

財源論とは言えない給付抑制論によって、どれだけこの制度が歪められてきたかを振り返るべきである。そうした財源論にもならない財源という言葉が入っただけの屁理屈を振りかざす人々を、とてもじゃないが「有識者」なんて呼べない。

介護保険法の理念のひとつとされている「自立支援」にしても、それは一つの方法論にしか過ぎず、絶対的な価値観をそこに置くことは間違いである。 自己責任という言葉を、人の命や暮らしを守るべき分野で軽々しく使わないでほしい。

社会福祉という分野には、協同の精神こそ必要とされるということを忘れてはならない。

そして高品質サービスは情報公開のないところからは生まれないことも肝に命ずるべきである。 そうであるがゆえに、国は都合の良い情報ばかり表に出して、都合の悪い情報やデータを隠すようなことをして欲しくない。

情報開示は、事業者に求めるだけではなく、国がその範を示すべきなのに、どうやらそうなっていないというのが、関係者の一番の不信感であることを知るべきである。

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戴帽式の意味がなくなるのは寂しいかもしれないが・・・。


医療機関の看護師がナースキャップをかぶらなくなっているらしい。

その理由は、キャップの先端が点滴器具などの医療機器に接触し、「狭い病室で作業しにくい」と邪魔になるということが一つ。さらに「頻繁に洗濯できず衛生的に問題」といった衛生面からの不要論。これに加えて男性看護師が増えてきたことも背景にあるようだ。

確かに男性看護師があのキャップをかぶっている姿は想像したくない。女性看護師であってもキャップをしていないデメリットはあまり考えられない。

強いて言えば、看護学校では戴帽式でナースキャップをかぶることによって、その社会的使命を心に刻み、人の命に関わる責任を自覚するのに、いざ看護師の実務に携わった時に、シンボルであったナースキャップがないということに対して、あこがれを失って残念に思う人がいるということだろうか。

しかしそうしたシンボルは、形に現れるものを冠にするのではなく、心の中に深く刻み込んで、自らのハートの中にキャップがあると考えればよいだろう。看護場面で常にそのことを意識すれことのほうがずっと美しい姿なのではないだろうか。誇りある仕事をする限り、美しい心に刻んだシンボルは、その人の現実の姿に現れてくるものだからだ。

僕が過去にナースキャップに対して持った違和感のことを語りたい。

医療機関によっては、ナースキャップに線を入れて、その線の本数で、職制上の地位を表しているようなところが見られた。ぼくはナースキャップに描かれたその複数の線を見ながら、旧軍人の階級章もしくは軍服の袖章の線を想起せざるを得なかった。

そういう権威を、ナースキャップの上に置く必要があるのかという違和感だ。少なくとも看護にとってそんなものは必要ない。であればそんなものかぶる必要はないのではと思っていた時期がある。

当時若かった僕は、権威というものに対し必要以上に反感を覚えていたため、看護師が権威の象徴のようなキャップをかぶってどうするのだと憤りに似た感情を抱いたのだろう。しかし今でも権威の象徴を冠にすることに対する違和感はなくなっていない。看護にそれは必要ないだろう。

看護師は、豊かな知識と高い専門技術を持った人々だと思う。しかし階級章のような権威を、そのシンボルであるナースキャップに置くことを当然だと思い始めた時から、何かを間違えてしまったのではないだろうか。

その最たるものが、言葉遣いへの鈍感さである。

看護を受ける人々を患者と呼び、あたかもそれらの人々が字のごとく、「心を串刺しにされた者」にしてしまった実態はないのだろうか。

自らの命を人質に取られている人々は、年下の看護師から「タメ口」を叩かれても抗議できない。抗議の声のないことをよいことに、乱れた言葉をつかうことが「親しみやすさの表現である」と勘違いして、言葉遣いに気をつかわず、看護対象者を単に患者としか見ず、顧客とか、人生の先輩ということを全く無視し、人格に配慮しない専門職を生んでしまったのではないだろうか。

患者と呼ばれる人々は、そこでは汚い言葉を「親しみやすい」と感じているのではなく、我慢して慣らされているだけだ。病棟で看護師と患者の間で交わされる会話を聞いていると、時にそれは看護師の一方的なお説教のようにしか聞こえないことがある。日常会話でさえも見られないような汚い言葉が飛び交うこともある。そこには看護の専門性は微塵も感じられない。

専門性とは、家族そのものになることではなく、家族ではない第3者が、家族のような愛を持って接することである。そこでは家族にのみ許される乱れた言葉で接することは許されないはずだ。ここの部分の神経が鈍い看護師が何故多いのだろう。

医療現場で、看護師が自らの言葉遣いに気を使わないから、そこで指示命令を受ける立場である介護職員が正しい言葉を使うわけがない。そうした言葉が当たり前だという考えが、医療機関から始まり介護業界にも蔓延している。このことの罪深さを、このことの責任を、すべての看護師はもっと自覚すべきである。

特に医療機関の師長クラス、看護部長などいう職務に就いている人々は、この問題にもっと敏感にならなければならないと思う。そして変えなければならないと思う。

看護の看とは、手を眉上にかざして見るという意味であり、それは「いつくしむ心」 を表したものである。

しかし患者と呼ぶ人々にぞんざいな言葉遣いでしか対応しない看護師に、「いつくしむ心」など感じられないのは僕だけではないだろう。

ナースキャップという冠を外して、もう一度「手を眉上にかざして」、患者と呼ばれる人々に対する会話の中で、言葉がどう使われているか見つめ直して欲しい。

その時の看護師の姿が美しものであるのかどうか、もう一度「手を眉上にかざして」考えて欲しい。

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問われる労働法規遵守責任

今回の介護保険法の改正では、次のような条項が加えられている。

六 介護サービス事業者の労働法規の遵守に関する事項
1.都道府県知事又は市町村長は、次のいずれかに該当する者については、介護サービス事業者の指定等をしてはならないものとすること。(第七十条第二項、第七十八条に二第四項、第七十九条第二項、第八十六条第二項、第九十四条第三項、第百十五条の二第二項、第百十五条の十二二項、第百十五条の二十二第二項関係)
(一)労働に関する法律の規定であって政令で定めるものにより罰金刑に処せられ、その執行を終わるまでの者、又は執行を受けることがなくなるまでの者
(二)労働保険の保険料の徴収等に関する法律により納付義務を負う保険料等の滞納処分を受け、引き続き滞納している者

2. 都道府県知事又は市町村長は、指定地域密着型サービス事業者が1. (一)に該当するに至った場合には、指定の取消し等を行なうことができることとすること(第七十七条第一項、第七十八条の十、第八十四条第一項、第九十二条第一項、第百四条一項、第百十五条の九第一項、第百十五条の十九、第百十五条の二十九関係)


つまり政令で定められた労働法規に違反して、罰金刑以上になり、その執行が終わっていなかった場合、申請があっても指定を認めないし、現にサービスを提供している事業者なら指定を取り消すという意味である。
※(二)で定めた労働保険料を滞納については、取り消しではなく更新指定をしないという規定になっている

これは介護人材の確保を図るためには、事業者による労働環境整備の取組を推進することが重要だが、介護事業を含む社会福祉関係の事業は、全産業と比較して労働基準法等の違反の割合が高い、という理由により定められた条項だ。

ちなみに平成20年度の労働基準法等違反事業場比率は以下の通りである。

                      (社会福祉施設 )   (全産業
<違反事業場比率>            77.5%        68.5%
<労基法24条 (賃金不払)>       5.8%         3.2%
<労基法37条 (割増賃金不払)>    35.8%        18.1%
< 最賃法4条 (最賃不払)>        4.7%        2.8%

また労働基準法違反による送検事件状況(社会福祉施設)は、11件(平成18年度)、15件(平成19年年度)、11件(平成20年度)となっている。
※ 社会福祉施設には、特養、老健、デイサービスセンター・短期入所施設・訪問介護事業所等の居宅サービス事業所、グループホーム、有料老人ホーム等のほか、保育所や障害福祉関係施設・事業所等が含まれている

このように実際に数字として「介護事業を含む社会福祉関係の事業は、全産業と比較して労働基準法等の違反の割合が高い」ということが明らかにされているわけだから、社会福祉関係事業者は、労働基準法など労働関連法規の正しい理解と、その遵守に一層努める必要があるだろう。違反率が高いままの数字が改善されない限り、国民全体の社会福祉事業者に対する信用は失墜し、その支持を失っていくことに繋がりかねないからだ。

しかしこの法令をよく読むと分かるように、処分対象は「その執行を終わるまでの者、又は執行を受けることがなくなるまでの者」であるから、罰金刑なら、罰金を支払ってしまえば執行を終えていることになる。つまり指定取り消し処分前に罰金を支払ってしまえば、実際にはこの法令に基づく指定取り消しはできないし、更新指定までの間に罰金を支払えば、更新指定を受けられなくなることもないという「ザル法」となっている。

このことについて、厚生労働省老健局は「介護サービス事業者に対して、労働法規を遵守してほしいとの意図であり、これによって事業者を排除したりするまでは考えていない」という見解を示している。

よってこの法令によって指定を取り消されたり、更新指定を受けられなくなる事業者はほとんどないだろうと予測されるが、どちらにしても労働法規は守って当たり前なので、事業管理者は労働基準法の基本的な部分はきちんと把握して、その遵守に努めねばならない。知らなかったでは済まないのだ。変更される最低賃金についても漏れのないように把握していただきたい。

そもそもこんな規定が社会福祉関係者に向けられる創られること自体を恥と考えねばならない。

ところで、この労働法規違反。新制度内の報酬算定との関連では、実はもう一つ大きな影響があるのをご存じだろうか。

それは新設された「処遇改善加算」に関しての算定ルールである。ここでは次のような要件が示されている

「算定日が属する月の前十二月間において、労働基準法(昭和二十二年法律第四十九号)、労働者災害補償保険法(昭和二十二年法律第五十号)、最低賃金法(昭和三十四年法律第百三十七号)、労働安全衛生法(昭和四十七年法律第五十七号)、雇用保険法(昭和四十九年法律第百十六号)その他の労働に関する法令に違反し、罰金以上の刑に処せられていないこと。」

よってこれらの労働法規に違反して罰金刑以上の刑に処された事業者は、その瞬間から以後12ケ月は、この加算を算定できなくなる。このルールによって、遡って費用返還指導されることはあり得るのである。

このこともしっかり把握・理解しておく必要があるだろう。まあ、普通に労働法規を遵守している事業者にとっては、あまり関係のないルールであることは確かである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

虐待は感覚麻痺の延長線上にあり

介護サービスには「闇」の部分があると言われる。

その典型例として様々な「虐待」問題が報道されることがある。そしてそのたびに、虐待は氷山の一角で、まだまだ表面に出てこない虐待問題が数多く存在するのだろうと言われる。

そのことを全否定できるなにものもないが、同時に主張したいのは、虐待などとは無縁の、まっとうなサービス提供をしている介護施設や介護サービス事業所の方が数としては圧倒的に多いということである。

しかしながら表面化する虐待とは、本当に信じられないレベルの行為が多い。

利用者に提供すべき経管栄養の濃厚流動食を捨ててしまったり、トイレで排泄している姿を写メにとって友人に送ったり、顔にクレヨンで落書きしたりオムツを頭に巻いた姿を同様に写メに撮り、同僚間で回し見て笑っていたり、認知症の方に性的行為を強要したり、人間として許されない行為を平気で行っているケースが数多く報道されている。

こういう事業者や、当事者の実態は社会から厳しく糾弾されてしかるべきだし、刑事責任も問われる必要があるだろうと考える。

しかし同時に考えなければならないことは、こうした「信じられないひどい行為」を行っている事業者が、人権意識に欠けるとんでもないレベルの低い職員をたまたま雇ってしまったのかという問題である。

決してそうではないだろう。どの施設も、どの職員も最初から高齢者を虐待しようなどという目的や意思をもっているわけではない。

しかし様々な要因で、介護サービス事業を展開する中で、自分自身が壊れていき、それに気がつかずに「虐待」という行為に及んでいるのだろう。自分自身が行っている行為が、世間一般から見れば「非常識この上ない行為」であることさえ気がつかない状態になってしまっている結果であると思う。

以前取り上げた、栃木県宇都宮市の老健の虐待事件にしても、そこで行われている行為は許されざるひどい行為であるが、そういう行為を行ったり、見たりしている職員は、そのことの重大さに全く気がついている節がない。しかし彼らが最初から、そのような鈍感な人間であったわけではなく、多分様々な日常の「おかしなこと」が積み重なった結果、おかしなことも「施設ではあり」という感覚になって、その非常識さに気づく感覚を麻痺させていった結果が、このような重大な間違いに繋がって行ったのだろうと思う。

この感覚麻痺ほど怖いものはない。

いつしか麻痺された感覚によって、施設の常識が世間の非常識という状態を生んでしまい、そこでは感覚を麻痺させた職員によって「何でもあり」の世界が作られてしまう。それも日常のさりげない「鈍感さ」が引き金になることが多いのだ。

オムツは便器ではなく、排せつ感がある人に「オムツしているから、そこにおしっこして」というのも恐ろしき感覚麻痺だし、「オムツが濡れた」と訴える人に「もう少しでおむつ交換の時間だから、それまで待ってね」というのも濡れたおむつの気持ち悪さを放置して何とも感じないという感覚麻痺である。

ここに気がつかなければ介護施設は「冷たいブラックボックス」でしかなくなる。

こういうことが起きないように、施設や介護サービス事業所の管理者は、時々職員の中に、感覚麻痺が生じていないかをチェックする必要がある。

つい最近、僕が行ったチェックは、男性利用者に対する「髭剃りの方法」から考える感覚のチェックだ。介護施設では男性の介護職員も増えているが、まだまだ女性が多い職場なので「男の髭剃り」が普段どのように行われているか知らない女性もいるため、この部分は「男」の立場としてチェックしておかねばならない。今回確認した感覚は次の3点である。

1.電気シェーバー等は使い回しをしてはいけない。皮膚にあててひげを剃る刃物は本来個人専用。何らかの原因でやむを得なく共有する場合は殺菌効果がある消毒を1回ごとに行う必要がある。

2.食堂など「物を食べる場所」で髭剃り介助を行うのは非常識。電気シェーバーは剃った髭を吸い取らず、周辺にひげのかすを撒き散らしている。家庭で髭剃りは洗面所で行うもの。

3.ひげを剃った後のスキンケア(ローションなどで保湿する)をきちんとしないとヒリヒリして痛いんです。


以上のような確認を全職員で実施した。幸い、この部分での崩れはなかったが、こういう部分の小さなほころびが感覚麻痺に繋がって行くので、定期的に様々な部分で、管理者が「これは大丈夫?」と投げかけて、職員が「普通の感覚とは何か」ということを気がつけるように「考える機会」を与え続けねばならないと思う。

そうしないと、主食であるご飯に「粉薬」を混ぜて、まずい飯を毎日食わせ続けて何とも思わない人間や、廊下からお尻が丸見えで着替えやおむつ交換が行われていることが「ひどい」と感じない感覚を麻痺させた職員を作り出してしまう。

そんな状態が対人援助サービスであってはならないのである。上に書いたようなことを何の疑問もなく行っている介護サービスの現場があるとしたら、そこで働いている職員は、自分が何らかの感覚麻痺に陥っていると考えてよいだろう。

この記事の前半部分で僕は「虐待などとは無縁の、まっとうなサービス提供をしている介護施設や事業所の方が数としては圧倒的に多い」と書いたが、しかしそうした事業者が必ずしもサービスの品質が高いという意味にはならない。なぜなら虐待をしない事業者というのは、本来当たり前の、ごく普通の事業者でしかなく、そのこと自体は何の自慢にもならないからだ。そうした事業者であっても慣れや惰性で行われるケアは必ず質の劣化に結びつくことを心しておかねばならない。

そこは普通のステージで、そこから更なる高みを目指すのが介護の専門職としての矜持である。

しかし同時に考えねばならないことは、高みを目指すことができる絶対条件は、「日常のケア」という基本が守られてこそのものであり、まっとうなサービスのなかに、感覚麻痺に繋がるほころびがないかを考えなくなったときから退化が始まることを忘れてはいけない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

介護サービスにおける法令遵守について

今日の記事は僕の共著本の紹介が主になる予定であった。

しかしその前に昨夕、表の掲示板で情報提供した、厚生労働省老健局内の「次期制度改正と報酬改定」に関する裏情報を、表の掲示板をみていない人のためにここにも書き込んでおく。

(ここから昨夕表の掲示板に書き込んだ内容)
ニュースソースは明かせません。厚生労働省老健局担当者とコンタクトを取った方からの最新情報です。

次期介護報酬は省内の計算上では報酬はすべて減です。アップはありません。前回改定で3%アップしたことと交付金で事業収益はあがっているので上げる理由はないそうです。さらに収益が挙がっているのに職員に報酬として手当てしていないことからこれ以上上げる理由はないとのこと。報酬アップは職員待遇改善が主な理由だったからだし、改訂による経営安定でこれ以上上げる必要もないからとのこと。(儲けてるのは大手企業だけじゃんという理屈は通用しないようです。そもそも国は毎年の定期昇給は見る気がないんでしょうか?

特にケアマネ報酬についてはせっかく勝ち取った医療連携加算や認知症加算、独居加算などは算定率が低いのでなくなるとのこと。全然使ってないのが廃止理由で「もったいないよね」とのこと。(まったく人ごとですね。)もう時間はないけど関係者のアクションがなく社会貢献しているなどのアピールをしていかないと既定方針で行きます、とのこと。

お泊りデイの報酬算定は介護報酬全体では足かせ、これは省内でも皆賛成しているわけではない。これができると全国の宅老所はつぶれるし、小規模多機能居居宅介護は経営危機になるのは分かっているけど、この発案者は山井政務官。

元々は茶〇本舗というデイサービスが1日800円で雑魚寝のお泊りサービスをしている実態について「ひどい状態」なのに、保険外だから国の基準を適用できないことから、保険給付して規定を及ぼそうと考えたことに、一部の成功事例をアピールする人がいて乗ってしまったとのこと。

これはつぶさないといけないけど、つぶすには山井政務官が間違いに気付かないとだめ。

ということで全国の関係者の皆さん、とりあえずは山井さんにメールを送って、お泊りデイの保険給付化は間違っていると意見具申しましょう。

山井政務官のメールアドレスは次の通りである。
tokyo@yamanoi.net

↑ここ宛てにメールを皆で送りましょう。皆の声がたくさん届けば考え直す余地があるのでは、とのことです。

なお介護支援専門員の数は既に充足しているというのが国側の認識。今後は相談援助の専門家しかこの職種につけないようにする方向。現在の有資格者をどうこうする、ということにはならないかもしれないけど、受験資格となる基礎資格について特定の職種を排除するのではなく、相談援助ができない資質の者に資格を与えないようにするのが基本線だそうです。

2年前から報酬請求の際にケアマネ個人の番号が記載されるようになった以後は、国として誰がどんなプランを立て、どのように収益が挙がっているのか個人レベルで把握するデータを持っているので、これに反論できるような数値が示されない限り方針転換はないだろう。とのことです。
(以上、介護報酬改定裏情報終わり)

さて、今日の本題に戻る。僕の共著本がこのたび出版された。その紹介と購入検討のお願いであるが、このお願いを聞きいれて本を購入したからといって、決して損にはならないと思う。それだけ思いを込めて執筆し、出来上がりにも自信を持っているからだ。

介護施設と法令遵守・表紙
その本とは「株式会社ぎょうせい」から出版されている「シリーズ介護施設 安全・安心ハンドブック全6巻」の中の、第3巻「介護施設と法令遵守」である。

僕はこの中の第3章「特別養護老人ホームにおける法令遵守」という箇所を執筆しているが、特養だけではなく、他の介護施設や居宅介護サービスにおいても参考になるように心がけて書いているので、特養以外の方も読んでいただけるものとなっていると思う。僕の担当箇所は、約18.000字で、400字詰め原稿用紙でいえば約50枚弱である。(画像はすべてクリックすると拡大表示されます。)

僕の執筆内容について目次を紹介すると

1.利用者属性から考える法令順守の意味
2.法令遵守と職業倫理
(1)法令遵守と倫理の関係
(2)法律に対する倫理の位置づけ
(3)倫理観を生みだす職場環境
(4)情報公開の必要性
3.法令遵守とコンプライアンス
(1)コンプライアンスとは何か
(2)運営基準減算の考え方
(3)コンプライアンスの実務
4.業務体制整備から考える法令遵守
(1)法律改正の内容と目的
(2)法令遵守責任者の責務
(3)問われる組織内の伝達能力
(4)コンプライアンスルールの必要性
5.法令遵守とソーシャルアクション
(1)法令遵守のもう一つの意味
(2)特養の医療を巡る法整備の必要性
6.今後の展望と課題

以上の内容となっている。この原稿は昨年のゴールデンウイークから7月頃までかけて執筆し、本年6月に最終校正を行い、手を加えて完成させたものである。
巻末・講師紹介特別養護老人ホームにおける法令遵守
本のタイトルは「介護施設と法令遵守」となっているが、実際には介護保険施設以外にも、グループホームや有料老人ホーム(特定施設)、居宅介護支援、訪問介護、通所サービス、短期入所サービスなどの各分野に渡っている。僕の担当を含めた各章のタイトルを紹介すると

第1章「介護保険制度と法令遵守」
第2章「法令遵守の経緯」
第3章「特別養護老人ホームにおける法令遵守」
第4章「老人保健施設」
第5章「通所系サービス・短期入所系サービス」
第6章「介護付き有料老人ホームの契約と顧客満足の介護サービス」
第7章「訪問介護」
第8章「グループホーム」
第9章「ケアマネジャーと法令遵守」
第10章「介護事故訴訟から学ぶ利用者との関係」
第11章「指導監査からみた法令遵守」
終 章「法令遵守と介護現場−措置制度と介護保険」

以上の内容である。第3巻はこれだけの内容をすべて網羅して現在特別割引価格で販売中。1冊2.250円(送料サービス)である。これ1冊あれば、各介護サービス事業における法令遵守の参考書として活用できると思うので、是非ご購入を検討していただきたい。

お申し込みは「FAX申込書」からお願いします。

何か宣伝に終始した手前味噌のような記事になって恐縮だが、それだけ自信を持って勧められるという意味にとっていただきたい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

内部告発者の苦悩

今日は僕の感想をあまり入れずに、主に事実関係だけを紹介する記事となるかもしれない。

表の掲示板に5月26付で「内部告発をしたいです」というスレッドが立てられた。そのレスポンスとして様々な方が意見を述べているが、僕も次のようなレスポンスをつけた。

「介護保険制度以後、特養の虐待事件が公になった最初の事件は札幌市白石区の特養・ルミエールの虐待問題ではなかったでしょうか?この問題は職員の内部告発がきっかけで問題が明らかにされましたが、この施設の問題のように明らかな虐待と思われるケースでも経営者はいまだにそのことを否定し、しかも内部告発者は施設内で嫌がらせを受けたという別問題にな発展しました。その問題、ちょうど昨日札幌高裁の差し戻し控訴審において施設側に対し内部告発をして不利益な取扱いを受けた(罵倒される、会議に出席させない等)職員2人に80万円ずつ、計160万円を支払うように判決が下りました。
このように内部告発者の保護義務があるとは言っても、今現在の状況は内部告発者が全く傷を負わないことにはならず、裁判沙汰にならないと保護されないという状況もあります。このことをまずもって覚悟する必要がありますし、告発するにはそれなりの証拠、正式な記録、録音、録画など証明するものがないと実際に取り上げられるまでにはならないと思われます。まず証明する証拠を握ることが肝心です。」

以上である。

このルミエール事件の経緯は「特別養護老人ホーム ルミエール虐待事件の経緯」「ルミエール内部告発その後」「ルミエール高裁判決」等を参照いただきたい。このほかにもネット検索すれば、数多くヒットするサイト等があり全容が理解できるだろう。

そもそもこうした虐待が日常的に行われていたことが許されないことだし、異常なことであるのに、虐待を行った当事者を処分せず、虐待という事実を隠すために、虐待を告発した職員に対して陰湿な嫌がらせと思える行為や、差別を行うというのは「ひどい」を通り越している。逆にそうした行為に関わった管理職や介護職員が、何も責任をとらず、現在もサービスに関わっているとしたら、これは何を信じてよいのか分からなくなる。

第3者が見ていないところで神様が見ているかどうかは知らないが、少なくとも虐待を受ける利用者や、虐待を行う自分自身は、しっかりそのことを目に焼き付け、心に刻んでいるはずだ。そのことはやがて必ず自らの心に向かう刃になるであろうことを当事者は肝に命ずるべきである。

じっと目を閉じて、一人静かに自らの「心の闇」をみつめなさい。

ところで、このスレッドに内部告発したことによって嫌がらせを受けた当事者の方が5/30付で書き込みをされている。その内容は

「私はmasa様が仰っていた札幌の事件の内部告発当事者です。この掲示板は、以前から参考にさせて頂いていましたが、投稿は初めてです。今回、この話題になっていましたので、躊躇しましたが、体験談を書かせていただきます。
匿名様は、返信がないようですがまだきっと悩んでおいででしょうね。
私の経験からは・・はんかくさい経営者は、決して認めようとしませんからそのおつもりで。そして告発に至るまでに、必ず正当な訴えを職場内で一通りやってみましょう。それをやってしまうと解雇になったりする心配があるのでしょうが、そこでへこたれるのでは、告発など到底無理です。解雇されたら、不当解雇で闘うくらいの気概がなければいけません。
職場内での訴えを怠ると、公になった時の防御が薄くなります。
上記のように、このような行動は、当事者に闘う気などなくても、経営者にとっては宣戦布告ですから、どうしてもひとり孤立した時の支えは準備しておかなくてはなりません。たいてい職場で同じような気持ちの仲間を支えに、と思うでしょうが、それはあてになりません。信用しながらも、信用せずに、証言の記録や録音は用意しましょう。
私の問題では、私より先に市や道に投書などで働き掛けた人が居ましたが隠蔽されました。行政は施設に確認したり、会議などをしなさいと指導しただけでした。その1ヶ月後に、私が施設内での解決を試みましたが、圧力に負けそうになりました。そして2ヵ月後に所属の組合を通じて、今度はもみ消されないように、市への申し入れと同時に新聞に報道してもらいました。
私にとっては、労組の支えがなかったら、精神的にも裁判費用などの金銭面でも耐えられませんでした。職場内の仲間は、土壇場になると経営者と本気で闘う気持ちのある人はなかなかいませんから、孤立は覚悟でするしかありません。
そして、最後まで頑張り続けなければ、自分が犠牲になるだけで、いい事はひとつもないに等しいです。ちなみに私は職場の健全化を訴えて組合の立ち上げから虐待問題を経て、裁判が終わるまで7年半かかりました。その間プライベートも健康も犠牲にしてきました。
匿名さんのような状況は許せませんが、内部での解決へ向けての努力をまずは考えるべきです。自分の職場なのですから、やめる前に出来ることはしてみましょう。方法は告発だけではありません。何をやってみてもだめなら告発も視野に入るのではないでしょうか。長々とすみませんでした。」

以上である。言葉が浮かばないほどショックである。さぞ大変であったろう。しかも過ぎ去った7年以上という月日の重さを考えると内部告発者が守られない状況に対する深い憤りを感じざるを得ない。心の傷を癒し1日でも早くお元気になっていただきたい。

それにしても「私より先に市や道に投書などで働き掛けた人が居ましたが隠蔽されました。」と書かれているが、なぜ行政担当課はこうした問題に踏み込んで人権を守ろうとしないのだろう?ここが一番の疑問である。

この国の福祉や介護には、まだまだ深い闇が残されている。多くの心ある関係者にとっては本当に胸の痛むことであろう。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

社会福祉援助者の良識が問われるとき

4月15日、介護施設関係者には衝撃にニュースが流れた。

宇都宮市平出町の介護老人保健施設「宇都宮シルバーホーム」で、20代の複数の介護職員が、認知症の入所者が上半身裸で四つんばいになっている姿を携帯電話で撮影したり、入所者の顔に落書きするなど、虐待の可能性がある行為を行っていたというのである。

その内容もひどいもので、同法人によると、これらの行為は2年前〜昨年末にかけてあり、認知症の女性の姿を携帯電話で撮影したのは、女性介護職員。自立歩行ができずに、ベッドの下で四つんばいになっている姿を撮影し、同僚たちに見せて笑ったという。このほか、別の介護職員2人が、認知症の女性入所者の顔にペンでひげを書き、携帯電話で撮影したというのである。

同法人が3人の介護職員に聞き取り調査をしたところ「親しみを込めてやった。かわいかったから」と話したという。同法人は3人を訓戒処分とし、始末書を提出させた。 また、男性介護職員は、90代前後の女性入所者を車いすからベッドに移す際、高く持ち上げて乱暴に落としたという。この男性介護職員は既に依願退職している。これだけでも重大な問題なのに、この問題はこれだけで終わらず、さらに重大な問題を引き起こしている。

それは同法人が、このことについて一旦は虐待があったとして謝罪したものの、その後態度を一変させ、90代の女性を高く持ち上げベッドに落とした行為について「乱暴に落下させてはいない」と強調。 上半身裸の写真を撮影するなど一連の行為で「精神的な苦痛を受けた入所者もいるのでは」との質問に対し、尾崎理事長は「悪意がなかったため、(虐待に)当たらない」との見解を示したのである

このような人間の尊厳を犯すような行為について悪意がないから虐待ではないという理屈が社会常識として通用するのか大いに疑問であり、行われた行為は明らかに「人を傷つける行為」以外のなにものでもないし、仮にそのことに気がつかず「善意」のつもりで、この施設の職員がそのような行為を行っているとしたら、相当な馬鹿としか言いようがない。そういう馬鹿な意識を放置した施設管理者の責任はより大きく問われるだろう。

しかし第三者がこの問題を調査したら必ずこのような行為は「虐待」であるいう常識的判断が下され、社会から痛烈な批判が起きることは免れないだろうと思っていたら、その期待も裏切られた。

4月30日に宇都宮市が、市の見解として、職員の行為は虐待には当たらないものの不適切で、職員教育も不十分だったなどとして、同施設に介護保険法に基づく改善勧告を行った、というのである。

このような人権無視の行為を行っていて、これが単に不適切行為であって虐待ではないと考えるとしたら、この国の虐待の垣根はずいぶん高くて、人権意識はずいぶん低いんだろう。そんな国の施設に入所させられている人々は不幸であるといわざるを得ない。なぜこれをきちんと「虐待である」と認定し糾弾し、2度とこのような行為を犯さぬように国全体で考える方向に持っていかないんだろう。こういう施設に対してこそ「指定取り消し」を行うべきである。(老健だから許可取り消しか?)

どちらにしても、当該施設の管理者はじめ役員諸君、職員の皆さん、自己保身に走る前に、自らの良心に基づいて何が起きたのかをきちんと明らかにしてほしいものだ。

そもそも介護職や看護職や福祉援助者を目指した動機は何でしょうか。自分が人の幸せに結びつく援助に関わることができ、我々が向かい合う一人ひとりの方の幸福感や笑顔を作り出すことができることが我々のモチベーションではないのか。

人の大切な顔にいたずら書きをして喜んでもらえると考える人がどこの世界にいますか。介護施設にだけ存在するとしたら何と特殊な世界なんでしょう。裸の上半身の写真を意味もなく撮影されて何が嬉しいなんておかしすぎる。そんな正常な感覚さえも失ってしまう現場が我々のサービスなんだろうか?恥を知るべきは誰か、真剣に考えてほしい。

この問題を同考えるのか緊急アンケートを実施したい。是非回答に協力願います。
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法令遵守は法令理解から。

先日、表の掲示板で北海道内のケアハウス(特定施設)の職員から実地指導を受けた結果の相談があった。

その内容とは、行政側の指導担当者から「ケアハウスが特定施設をとっている以上、介護保険サービスを利用したいといったら、個人契約型の外部介護保険サービスを利用させるのではなく、特定施設の契約をして利用しなければいけないのではないか?」と指摘されたというのである。

つまり当該ケアハウスは、特定施設の指定を受け、特定施設としてサービス提供ができるケアハウスではあるが、利用者の希望で「自分はケアハウスとしてのサービスは受けるが、特定施設としてのサービスは必要なく、外部の居宅サービスを個人契約の介護保険利用で受けたい」という希望がある場合に、これを認めて、当該利用者に対する特定施設の費用を算定せず、当該利用者は個人契約型で外部の介護サービスを利用していたものであるが、これが「特定施設」の指定を受けている以上は不適切で、個人契約型の外部サービス利用は認められず「特定施設としてのサービス提供をせよ」と指導されたという意味である。

しかしこれは基準省令を理解している人なら、誰もが「間違った指導」であると分かる問題である。

特定施設の運営基準等を定めた「指定居宅サービス等の事業の人員、設備及び運営に関する基準(平成十一年三月三十一日厚生省令第三十七号)」の第百七十九条2項において

「指定特定施設入居者生活介護事業者は、入居者が指定特定施設入居者生活介護に代えて当該指定特定施設入居者生活介護事業者以外の者が提供する介護サービスを利用することを妨げてはならない。」と定められている。

つまりあくまで指定は指定として、そこに住まう利用者の暮らしのあり方をよりよい方法で向上せせるという観点から「介護サービス部分に特化した特定施設サービス」については、当該施設利用者の選択の余地があって、特定施設サービスを利用せずに、個人で居宅サービスを別途利用する権利を保障し、特定施設がこの権利行使を「阻害してはならない」としているもので、特定施設は利用者の外部サービス利用を「妨げてはならない。」のである。

よって本来の実地指導においては、利用者が希望する場合に「指定特定施設入居者生活介護に代えて当該指定特定施設入居者生活介護事業者以外の者が提供する介護サービスを利用することを妨げていないか」を指導監督の視点としてチェックするものであり、妨げている状態があれば改善指導をするのが行政職である指導担当者の役割である。

ところが、当該ケースの指導担当者は、基準省令とはまったく逆の「妨げるように」と指導しているのである。

指導担当者として施設やサービス事業所に乗り込んでくる人間が、基本法令も理解していないのは、まったくもって理解できないし、間が抜けているにもほどがある。「運営指導に出る前に基本の勉強をし直して来い!」と言いたいところであるが、同時に指導を受ける側にも問題があると思う。

行政指導担当者とは所詮、サービス事業に関しては素人なのだ。法令理解がなされていない担当者は論外であると言っても、論外な指導に反論できないサービス事業経営者や事業担当者も問題なのだ。

なぜなら、それは自ら提供しているサービスの基本原則に関するものであるのだから、その範囲の法令等に関しては、誰よりも「サービスを提供する専門家」として精通しておらねばならないからである。

そういう基本法令を理解していないと、誤って法を犯し、取り返しのつかない事態に陥るというリスクを抱えざるを得ない。それは事業経営にとって致命的な問題になりかねないのである。

行政の少し知識の足りない「指導担当者」が運営指導を行い、基本原則をまったく理解していない「間抜けな指導」を行わないとは限らないのである。さほど行政職というものを頭から信用してはならないのである。

そうしたおかしな指導を受けた際に、サービス提供の専門家として、きちんと「違うという根拠」を示す必要と責任が我々にもあると考えるべきである。

なにより税金と保険料で運営される「介護サービス事業」においては、国民から「法律は守って当たり前で、それは目標にさえならない」という厳しい目が注がれていることを考えると、法令遵守の基本は、まず法律は何を定め、何を規定し、サービス事業にどのような最低基準が求められているのかを、事業経営者をはじめとしたサービス従事者全体で知る努力をすべきではないだろうか。

実地指導とは、お上に事業者がひれ伏し、ひたすら恭順するものではなく、行政指導の専門家である指導担当者と、介護サービスの専門家である現場の担当者が、それぞれお互いの知識と技術に基づいて議論する場でもある。

特に介護サービス現場で、我々が実践しているサービスの質に関しては「利用者の暮らし」を守るためのものなのだから、おかしな行政指導とは、時に戦う必要もあるのだという覚悟をもつことも必要だろう。

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ケアマネの信用失墜行為に怒り。

ひとりの馬鹿な有資格者によって、真面目に日々の支援業務に取り組む介護支援専門員全部が悪者に見られ、社会的信用を失ってしまう。

本当に困ったことである。

関係者は既にご存じだろうが、兵庫県明石市の男性ケアマネジャー(61歳)が、認知症と寝たきりの姉妹の口座から多額の預貯金を勝手に引き出した疑いがあるとして、事業所から懲戒解雇されていた。このケアマネは利用者の口座から少なくとも5.200万円を引き出し、土地や住宅、車の購入に充てたという。

本件は昨年11月に被害者である妹が、民生委員に「姉が入院した際に預けた通帳を返してもらえない。担当者を代えてほしい」と被害を訴えたことにより発覚したもので、分かっているだけでも08年1月に550万円、同年3月に2.000万円以上、09年2月に1.450万円などが引き出されていた。市によると、引き出した額は計6.000万円に上るという。

毎日新聞の報道によれば、被害を受けたのは寝たきりの姉(92)と認知症の妹(86)とされているが、妹が被害状況を民生委員に訴えていることから、どの程度の判断力の低下があったのかという部分は不明である。ただケアマネジャーは02年ごろから2人を担当していた。

ケアマネジャーは土地を売却するなどして約3.400万円を返したというが、毎日新聞の取材に対し、利用者の預金を引き出した事実を認め、「了解をとったつもりだった。借りたお金や、もらったお金もある」と説明している。

まったくもって理解できない言い訳である。そんなに多額のお金を借りるのに借用書も書いていないなんてことはあり得ないし、担当ケアマネというだけで赤の他人である人間に現金を渡すはずがないし、渡そうとするなら「そういうお金をもらう立場にない。」と断るのが普通の人間の感覚である。ましてや自身の職業上の業務として担当している利用者に、金銭貸借関係を作るなんてことはあってはならないことだという社会人としての常識さえないのだろうか?こんな言い訳が世間に通用するわけがない。職業倫理やコンプライアンスという視点はまったくなかったのだろうか?

この件に関しては民事で終わりにせず、刑事責任が追及されるべきであろう。

そもそも他人名義の預金の引き出しは、その代理権がある者にしか許されていない。例えば成年後見制度では支援形態は「後見」「保佐」「補助」の3類型があるが、このうち代理権があって預金の出し入れができるのは「後見人」のみである。保佐人の場合は、保佐開始の審判のほかに代理権付与の審判が必要で、仮に保佐開始だけで、代理権がなければ、預金の引出しはできないのである。

本件においては、担当ケアマネという立場でしかないものが預金通帳を預かること自体が問題で、そこから預金を引き出すなんてことは、どのような理由があっても許されることではない。これだけで法律を犯していると言ってよい行為である。

ただここで別の面から問題だろうと感じることは、金融機関側の対応である。通帳に記載されている名義人とは性別も年齢も異なり、明らかに預金者本人ではないと分かる人物による「預金引き出し」がどのような経緯で行われたのかが大問題である。金融機関の窓口で引き下ろしたのなら、本人確認や委任状の確認をしていたのかが問われる。適切な確認行為を行っていないのであれば、金融機関側も損害賠償責任が生ずる問題である。

ただこういう問題が起きると、心配になることは、利用者の預金管理に関わったり、通帳を預かったり、預貯金の引き出し行為を行っているケアマネが他にもいないのか?ということだ。それはあってはならない行為である。同時に介護保険制度開始当初は、ヘルパーが預金引き出しを「身体介護」として行っていたというケースも報告されている。そういうことは今現在はないと信じたいが、代理権について、現場の関係者は今一度きちんと認識して適切に対応してもらいたい。

どちらにしても、このような問題は、個人の問題にとどまらず、マスメディアで「ケアマネジャーが〜」と報道されている実態から、全国の有資格者全てに影響が出てくる問題になってしまうだろう。社会全体の意識として、この資格に対する信用失墜となるだろう。

「ケアマネと言っても、簡単に信用できない」という意識が広がることによって、生活支援にも支障が出かねない。困難ケースに真面目に関わっているケアマネが、これによってさらに支援が難しくなるケースも出てくるかもしれない。

介護支援専門員は、独居や高齢者のみの世帯に訪問して、そこでの生活状況を確認して支援に当たらねばならないが、こういう問題によって「他人を自宅に上げるのは危険」という意識で、担当ケアマネに警戒心を持つ利用者が増えることが一番怖いことである。

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罰則から考える職業倫理

介護保険制度には様々な罰則規定がある。

最高に厳しいものが指定取り消しということになるのであろうが、その他にも運営指導において報酬返還指導を受けることも罰則のひとつである。実地指導で口頭指導や文書指導を受けるということも罰則といえるだろう。

またあらかじめ職員配置基準等が基準を下回ってサービスが提供された場合の減算規定も罰則のひとつであろう。

介護保険制度上、この減算規定は様々な分野の様々なルールにおいて設けられている。

多くは基本サービス費の算定が通常の金額の7割しか算定できないというルールであり、基本的に運営基準や職員配置基準を満たさずに提供したサービスについては、サービス提供事業者が自ら減算する、という方法を取ることになり、後から保険者等から指摘されて始めて減算する、というルールではない。

しかし実際には、減算規定を守らずに、実地指導でそのことを指摘されてから過去に遡って減算する、という場合も数多くある。本来それは、基準を守っていないということと、その際の罰則適用ルールをも守っていないという2重の違反を犯していることになる。

つまり減算という本来自主的に行うべき行為も罰則のひとつなのであり、減算しているから問題ないと考えることは間違っているのである。減算という状況を作らないように注意を促す、というのが本来の減算の意味である。

ところが介護事業者の中には、この減算規定を誤って理解して「減算さえしておれば配置基準や運営基準を下回っても良い」と考え、減算を行っておれば「法令遵守している」という誤った考え方をしている人々が存在する。

それは間違いである。減算しなくてもよい適切な状況を作り上げるのが事業者の責任で、減算してサービス提供していること自体が既に法令を遵守していないという意味であることを理解すべきである。

さて、それらの罰則についてあらためて考えてほしい。

法律による罰則に基づく強制力というものは、ある意味で強力な力ではあるが、あくまでそれは後追いの対策であるに過ぎない。

仮に介護サービスの現場で人の生命や尊厳を傷つけた場合、罰則を課しても失われた生命や尊厳は決して元通り回復しないという特性を持つ。そのため実質それは意味を成さなくなる恐れがある。よって後追いの罰則という強制力の執行によらない、事前の抑止力というものは介護施設にとっては深い意味を持つと考えられるのである。

よって罰則を受けない状況を作り出すことが一番大事なのである。そうした不適切な状況を作り出すことの抑止力のひとつとして、我々介護従事者には倫理感が求められるのである。最低基準を満たさない状況で提供されたサービスであっては、たとえ給付費用を減額請求して、自己負担額が減ったとしても、サービスを利用する人々にとって、それは不利益であるという考え方が必要である。そういう状況を作らないという倫理感が必要なのだ。

さらに特養等の介護施設は「生活施設」として、利用者の暮らし全般をサポートするものであり、対人援助関係によって成立するサービスであるから、よりデリケートな部分で、この倫理観による抑止力が求められる。

人の心を傷つける行為や言葉は、法律による罰則が及ばない場合が多いが、だからといってこのことを放置するような介護サービスが許されないのは当然である。

特養の利用者は施設が「暮らしの場」であるがゆえに、そこで尊厳や権利が傷つけられる状況が生じた場合、そこから逃れることができず、その状況が密室化し、利用者の被害は社会の影の部分に深く隠れ、表面に現われない恐れがある。必要なケアを行わずに放置するという虐待は、こうした形で深刻化する恐れがあり、その時に利用者の心の傷は取り返しのつかない状態にまで深く達し、人間としての尊厳や矜持さえ失ってしまう状況が生まれかねない。

そういうことが起きない為にも、施設が組織として持つべき倫理感が、職員全てに浸透して、全ての利用者の人権を守るという意識を、施設全体として常時持つことが介護施設の組織運営に求められる不可欠な視点である。

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職業倫理は何故必要か

福祉施設や介護サービス事業者、医療機関等において法令を遵守する目的のひとつには、そこで生活する人々の暮らしを守る手段としての意味がある。つまり法令遵守は当然の義務であると同時に、利用者に適切なサービスを提供する最低基準を保障するために必要な条件でもある。

当然のことながら我々の目的は、法令を守ることそのものにあるのではなく、法令に則った適切なサービスを提供して利用者の暮らしを守ることなのである。

こうした観点から考えることによって、法律等で定められた最低基準の意味が見えてくる。

つまり、施設サービスなどの対人援助サービスは、人の暮らしを支えるサービスであるがゆえに、生活の質に影響するであろうと考えられる各種要素に、あらかじめ最低基準を設けて、それ以上のサービス提供を求めることによりサービスの質を担保し、個人の権利を守ろうとしているという意味があるのだ。

しかし「法令やルールを守るだけでは人の暮らしは守ることができない。」ということも一面の真実である。だから対人援助サービスにおいて個人の生活や権利を守ろうとすれば法律を守ること以上に、他の要素が加わらねばならないということになる。

なぜなら法律とは究極的には文章である。文章は人の生活の全てを網羅できないから、どうしても穴が開く。その穴をふさぐ為に規制を厳しくすればするほど人は法に縛られて生きていけなくなる。つまり法律とは社会を構成する人間によって良くも悪くも使われるもので、法律で規制すれば生活が良くなるわけではないのである。

法によって、人の自然権を含めた全ての生活を規定するのでは、人は何らかの法律違反に必ず触れ、それを悪用する絶対権力者が現われれば、法律は邪魔者を粛清する道具に使われる恐れがあるという一面を持っている。

そういう意味において、我々の生活の全ての行為が法律で規定できると考えることの方が恐ろしいことなのである。

むしろ網の目のように全ての生活行為に及ぶ法を作ることより、法によらなくとも守らねばならない当然の規律、人として生きるうえで守らねばならない常識としての自律的規範をすべての職業において持つべきであるという考えは、こうした状況を作り出さないための知恵でもある。

これは福祉や介護に関連するサービスでなくとも同様で、営利企業だからといって「法律で禁じられていないことは全て許される。」とする考えは間違っている。社会通念上許されるべきではない行為を指摘された際に「では法律で禁じればよい。」と開き直るのは将来的に個人の生活の自由を侵しかねない危険な論理なのである。

文章である法律の穴を埋めるものとは職業倫理であり、施設で生活する人々の暮らしを守ることは、この倫理感なくしては実現しない。

また別な角度からこのことを考えると次のような意味に気づくであろう。

特別養護老人ホーム等の介護サービスの運営費は、40歳以上の国民から徴収される保険料と公費(税金)を財源とした介護給付費によって賄われている。

しかも介護保険制度は保険料を支払っている人々のうち、サービスを使っている人より、使っていない人のほうが多いという現状があり、そうした側面から介護施設などの運営状況に対しては、より厳しい国民の視線が注がれるという性格を持つ。

それは単に施設運営に要する介護給付費の使われ方が適切かという問題にとどまらず、国民が支払う保険料と税金で運営されている施設である以上、法令を遵守するのは当然のことであり、それは努力目標にすらならないという考え方である。むしろそれ以上に利用者の尊厳を保障する質の高いサービスを提供することも当然という見方である。

そうした国民の厳しい視線と期待感に応えるためにも、より高い倫理観を持った施設・事業運営が全ての介護サービス事業者に求められるである。

大事なことは、法令遵守はあくまで手段であり、それ自体が目的ではないということである。我々の真の目的・目標とは法令を守り職業倫理に則った適切なサービスを提供することにより、利用者の安全・安心を保障し、快適な暮らしの実現を図ることである。

この意味を取り違えてはどうしようもない。

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運営基準減算の意味

特別養護老人ホーム等の介護保健施設や、居宅サービスを提供する介護サービス事業所は、介護給付費と利用者の一部負担金を主な収入源として運営されている。

介護給付費の財源は、国民が負担する税金と保険料が、それぞれ1/2である。よって介護サービス事業者は例え民間営利企業が運営しようと、社会福祉法人や医療法人は運営しようと、経営主体の違いによる区別なく、まさに公費で運営されているといえるのである。

そのため、こうした公費が適切に使われ、一定基準以上のサービスの水準を確保するために「指定介護老人福祉施設の人員、設備及び運営に関する基準」等、それぞれの事業毎に省令で規定された基準を守って運営することが求められている。

これらは毎年行われる集団指導において守るべき重点規準等が繰り返しアナウンスされ、基準を守り適切運営がされていることについては、実地指導(施設サービスは2年に1度、居宅サービスは指定更新期間に最低1回実施)により確認され、基準を満たさずサービス提供されていることが確認された場合、口頭指導、文書指導、報酬返還指導、指定取り消しなどの処分を受けるものである。

しかしそれ以前に、施設や事業所自体が、介護給付費算定の際に、ある一定基準を下回って提供したサービスについては介護給付費を減算請求するという罰則を自主的に適用することが定められている。

例えば介護保険施設の定員超過については1月間(暦月)の利用者等の数の平均を用いて、当該月の全利用者等の延数を当該月の日数で除して得た数が定員超過した翌月から、定員超過利用が解消されるに至った月まで減算(7割算定)しなければならないというルールになっている。しかしこれは逆に言えば、ある特定の日に定員超過があっても、月平均で全利用者等の延数を当該月の日数で除して得た数が定員以内であれば減算対象にならないというルールである。

また通所サービスについても利用定員が月平均で超過している場合のみ減算対象で、日ごとの超過については月平均で定員内とされれば減算しないルールである。ただし通所介護は18年3月以前は日ごとの減算ルールだったものが、予防通所サービスという月額定額が誕生したことから日単位での減算ができなくなったということが主な理由であることを忘れてはならない。

さて、これらのことを誤解すると「減算対象とならなければ不適切運営ではなく法令違反ではない」と考えてしまう向きがある。「減算対象にならない日ごとの定員超過は問題ない」と考えて闇雲に利用者を受け入れる通所事業所などがある。

しかしそれは間違いである。介護給付費減算というのは罰則のひとつにしか過ぎず、罰則がない規準違反は問題とされないという意味ではない。

むしろ罰則がないルールであるからこそ、それを守ることが社会から求められる介護施設や介護サービス事業所の責任であるという理解が必要である。減算に該当する行為は、かなり悪質な違反を継続していることに対して、算定費用を一部返還することにより責任の所在を公に明らかにして改善を促すという、かなり厳しい強制力の行使であると考えるべきである。

特に介護給付費という税金と保険料で運営されるサービスに対しては、国民の厳しい視線が注がれるのが当然のことであり、それは単に、介護給付費の使われ方が適切かという問題にとどまらず、国民が支払う保険料と税金で運営されている施設である以上、公的な性格を帯びたものであり、法令を遵守するのは当然のことであり、それは努力目標にすらならないという考え方である。

むしろそれ以上に利用者の尊厳を保障する質の高いサービスを提供することも当然という見方である。よって減算がないことを理由に、規準違反を繰り返す事業者が存在することに対し、国民から「そうした施設や事業所に税金や保険料を使って良いのか」という議論が当然沸き起こるであろう。

そうした国民の厳しい視線と期待感に応えるためにも、より高い倫理観を持った施設・事業運営が求められるであろう。

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法令遵守責任者の責務

介護保険法及び老人福祉法の一部を改正する法律が平成20年5月28日に公布され、平成21年5月1日に施行された。

この改正は、コムスン事件を受けて、介護サービス事業者の不正の再発を防止し、介護事業運営の適正化を図ることを目的として、指定又は許可を受けている事業所又は施設の開設者や設置者などの法人等に対し法令遵守等に係る業務管理体制の整備を義務付けたものである。

同法によれば介護サービス事業者は指定を受けている事業の数に応じた法令遵守のための業務管理体制を構築する義務が課せられている。

事業数は「みなし指定」を除いた、介護サービス事業、介護予防サービス事業をそれぞれ1として数えるものである。

例えば当法人を例にとれば、事業所数については、特別養護老人ホームが1、併設短期入所生活介護が介護と予防の指定を受けているので2、通所介護も介護と予防の指定で2、居宅介護支援事業所が1となり、合計の事業数は6となる。

この数は法人(事業者)全体としての事業数でみて、規模を区分するものである。その区分は

1.指定等を受けている事業所等の数が20未満の事業者
2.同20以上100未満の事業者
3.同100以上の事業者

以上3区分とされており、1に対しては「法令遵守責任者」の選任を義務付け、2についてはそれに加えて「法令遵守規定」の整備が必要になり、3はさらにそれに加え業務執行上の定期監査を行うことが義務付けられたものである。

つまり今後は(施行は5/1だが経過措置で道の場合10/1までに届け出を行えばよいとのことである。)すべての介護施設が所属する法人等に、最低の条件として「法令遵守責任者」の選任義務を課したもので、まさにこの役割を持つ担当者がコンプライアンスの実務の責任者となるものである。

このことについて、一部の関係者は、その届出をどうしたら良いのか、いつまで、どのように届ければよいのかということについて気を揉んでいるようである。しかし、それは気の揉む方向が違うだろうと思っている。

これは確かに事業者に課せられた義務であるが、同時にその義務については、都道府県の責任において、きちんと「履行させる」必要があるもので、黙っていても、いつまでに、どのような形で届出を行うかを都道府県が示す問題であり、事業者はそれを待てばよい。別段、届出が遅れたり、誤った方法で行ったからといって、指定取り消しなどの重い罰則を課せられる問題ではなく、粛々と指示を待てばよいだけの話である。

むしろ考えるべきは法令遵守責任者の役割を認識して、施設や事業所内で誰を法令遵守責任者として選任し、どのような責務を担ってもらうかという問題である。このことを考えてみたい。

法令遵守責任者については、施設の代表者が選任されることを妨げるものではないとされている。

しかし今後、特養等の介護施設では法令遵守責任者を中心にして、コンプライアンスに対する取り組みを進めていくことになることを考えると、その実務を担うことができる法律等に精通した法務担当者がこの責務を担っていく必要があり、それぞれの施設における実情を考慮して、実務としての機能を発揮できる担当者を選任すべきである。

法令遵守責任者を単に書類上の職務としかしか考えず、それを置くことを行政指導において指導を受けないためと考えるのでは意味がない。むしろその担当者は、今後の介護施設運営のキーマンとなる役割として考えていかねばならない。

なぜなら法令遵守責任者とは、単に法令を守ることを呼びかける形式的な役割にとどまらず、コンプライアンスリーダーとしての役割が求められるものであるからだ。

その担当者は施設運営上のリスクマネージメントとして欠かせない役割を担うものであり、より複雑化する社会情勢や、多様化する利用者ニーズに対応していくためには、その機能は拡大こそすれ、決して必要がなくなるものではないと考えられるからである。そのリスクマネージメント機能を含めて法令遵守責任者の具体的責務を考える必要がある。

法令遵守責任者を選任したからといって自動的に施設内の法令遵守等に係る業務管理体制整備ができたとはいえない。そこで法令遵守責任者が、どのような責務と役割を持ち、そのために何をなすべきかという視点と理解の上で具体的なシステムを構築する必要がある。

コンプライアンスとは法令を守ることにとどまらず、地域の要請にも応え、社会的責任を果たす意味がある。そのことに即して法令遵守責任者の役割を考えると、それは特養に対する地域のニーズを具体的に把握し、それにバランス良く応えていく方針を明確化するという役割を持つことになる。それは結果的に地域における施設の競争力を高め、地域住民に選択される施設に繋がっていくことであるから、「将来に渡る施設の安定的な経営」に直結する役割を持つものである。法令遵守責任者の役割はこの点でも重要である。

さらに特養は、保険料と税金を主な財源として運営される施設であるがゆえに、法律に反した行為を予防することは施設運営に欠かせない視点であり、この対策を具体的に講じていく必要があるだろう。また誤って法律を逸脱した行為が行われた際に、その原因を明らかにして再発防止策などを含めた是正措置を速やかに講じて、施設運営を適正化させるという機能を併せ持たねばならず、これも法令遵守責任者の役割となるであろう。

そういう意味において法令遵守担当者は、適正運営と適正サービスを常に検証し確保するという方法で、施設を守るという役割と機能を積極的に持たざるを得ないのである。

そう考えたとき、むしろ法律の規定がなくとも、そうした役割の職員を配置することは施設運営においては必然の結果といえ、施設や事業所はその選任についてポジティブに考えるべきであろう。

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フルセットコンプライアンスという考え方。

つい最近まで僕は、コンプライアンスは日本語に訳せば「法令遵守」という意味になると思っていたし、人にもそう言っていた。

しかしこの考えはもう古いらしい。

現在ではコンプライアンスとは法令遵守、つまり法律を守ることにとどまらず、法令を守った上で、さらに国民の要請にも応え、社会的責任を果たすことを意味する言葉であると考えられるようになった。

特に介護サービスは対人援助サービスであるから、このことは重要で、法律を守るだけでは守られない人権もあるという視点が重要で「法律を守るだけでは介護の質は高まらない」という理解の元に、職業倫理も含んだコンプライアンスの達成という考え方や視点が大事だということである。

つまり守らなければならないルールの根拠は、法律に置かれるものだけとは限らず、時にそれは法律が規定できない職業上の倫理であったり、市民のニーズであることが考えられるということだ。

そして守らねばならないという根拠には、時として「常識」が拠り所になるものもある、ということも忘れてはならない。

このことについて桐蔭横浜大学コンプライアンス研究センター長である弁護士の郷原信郎氏は、5つの要素を追及する「フルセットコンプライアンス」という考え方を示している。氏の提言するフルセットコンプライアンスとは

(1)その組織に対する社会要請を具体的に把握し、それにバランス良く応えていく方針を明確化すること

(2)その方針が実現できる組織体制を構築すること

(3)組織を機能させ、方針に反する行為が行われることを予防する活動を行うこと(予防的コンプライアンス)

(4)方針に反する行為が行われた場合、またはその疑いが生じた場合に、事実関係を明らかにし、原因を究明して是正措置を取ること(治療的コンプライアンス)

(5)組織が社会の要請に応えることの支障になる環境(法令と実態の乖離、制度の不備など)を是正するための努力を行うこと(環境整備コンプライアンス)

以上であり、平時には(1)を徹底的に行い、(2)(3)の体制を整備して、問題が生じた場合も(4)(5)の機能が発揮され問題を拡大させずに解決するということが大事だとしている。

つまりこの考え方は単に「法令に違反することがない、疑われてはならない」と萎縮するのではなく、もっと積極的に社会が機関に期待していることを把握して、それに応える事業経営を行うことを意味している。

これを介護事業に当てはめると、組織の中で、きちんと法令を読みとる人材が必要とされるにとどまらないということである。法令を読みとるのは既に必要最低限の能力と条件で、制度改正等で解釈通知を読んでも何が書いているのかわからない、ということでは仕事にならないということである。

それ以上に地域におけるサービス事業者への期待や要請がなんであるかという点にもアンテナを張って拾い上げておかねばならないということだ。

介護施設でいえば、この役割は事務管理部門が持つべきであろう。

単に財務給与管理、人事管理を行う部署という位置づけでは古い組織と言うことになってしまう。情報管理をも含め、地域の声をいかに拾い上げ、経営や運営に生かしていくかを分析する機能が求められてくるであろう。これは医療機関も同じことがいえるのではないだろうか。

そういう意味において、これからの厳しい情勢下での保健・医療・福祉サービスにおける事務管理部門の情報分析は経営上の重要な要素にならざるを得ないと考えている。

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コンプライアンスルールを作る。

食の安全を揺るがす偽装問題は、僕の住む登別から1時間ほどの苫小牧市の精肉加工業者ミートポープによる「偽装」をきっかけに日本中を揺るがす大問題になった。

そして今、食に関する問題だけではなく様々な場面で法令遵守や企業倫理の確立が求められている。

介護サービス事業においても、法令遵守の行動規範が求められる状況でコンプライアンスマニュアルを作ることが求められつつある。そこで施設として独自にどのようなマニュアルを作るか研究していたが、自治体や企業のマニュアルを参考にみると、その内容も文書量も膨大なものになっている。

1例を挙げると「セクシュアルハラスメントやパワーハラスメントの禁止」「贈収賄や業務上横領の防止」「利害関係者との関係」「交通法規の遵守」「知的財産権への対応」等多岐に渡っている。

これは本当に日常の業務に生かすことができるマニュアルになるのか?作ることは簡単であるが職員が誰も読まないようなマニュアルでは意味がないし、日常的に振り返り、確認できるマニュアルとは「読むことが出来る文書量」であることにも配慮が必要なはずで、既存のマニュアルの内容には大いに疑問を感じ、介護サービス事業において最低限守るべき職員としての視点を簡潔にまとめられないか考え続けていた。しかしなかなかよいものが作れない状況が続いていた。

そんなとき8/10(日)に行われた北海道社会福祉士会・日胆地区支部「権利擁護セミナー」の中で、NPO法人・宮城オンブズマンネット「エール」の副代表である小湊 純一氏の「施設のコンプライアンス・ルール」という講演を聞いた。

その中で氏は、「介護施設の中でも理念だけを掲げるのではなく、具体的に利用者の権利擁護、虐待防止の為のコンプライアンスルール作りが重要である」と指摘され、具体例としてあるグループホームで作ったコンプライアンスルールを資料で示された。

「目から鱗がおちる」とは、このことで、わずかA4用紙1枚にも満たない内容ではあるが、施設職員が持つべきコンプライアンスの視点がここにすべて網羅されていると思った。細かく様々な分野の法令遵守の具体例を示さなくても、ここで示されている視点が介護現場で守るべき最低限の視点を示していると感じた。

幸いなことに講師の小湊氏から、資料のコンプライアンスルールを複写しても良いから活用してくださいという話があったので、早速、昨日資料を元に、わが施設で使えるコンプライアンスルールを作成することにした。

そして「社会福祉法人 登別千寿会・利用者権利擁護指針(コンプライアンスルール)」というものを作成してみた。大部分は小湊氏の示された資料の内容をそのまま転記した内容となっているが、今後、修正追記していくつもりである。

作成後、ケアマネジャーに内容を確認してもらい意見を求めたところ、現場職員の意思統一にも使えるのではないかということで、今後、最終的に内容を精査して、現場に下ろしてみようと思う。

使える指針にしなければ意味はない。

ところで話は変わるが、何気なくカレンダーを見ると今日は8月12日ではないか・・・。自分でも気がついていなかったが何を隠そう今日が僕の誕生日でもある。またひとつ年を取ってしまった・・。誕生日が嬉しい日ではなくなったのは、いつの頃からだろうか・・。

もうひとつの心配は、妻や子供達がそのことに気付いてくれるだろうかということであるが・・・。無理だろうな。

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コンプライアンスが求められるのは誰?

我々介護サービス事業者は、常に指導官庁の監督を受け、実地指導だけではなく、サービス自己評価や介護サービス情報の公表制度などでも細かな書類の整備をはじめとした指導点検を受けている。

しかもコムスン事件以降は、不正運営を行っているわけではないのにルールの解釈を巡っては、都道府県や市町村の担当者による法令を極端に狭く解釈したわけのわからない指導を受けている事業者が続出している。まったく勝手なものである。

これでは事業者がコンプライアンスの意識を高める以前に権力にひれ伏すがごとく対応する意識となり指導の際の書式さえ整えればよいということで不適切サービスは闇の中に深く潜りこむ結果となるだろう。さらに利用者のサービスの向上より書類上の体裁を整えることに意識がむき、必要なサービスさえも制限してしまう給付抑制の意識だけが現場で醸成されてしまうであろう。

同時にそれは指導担当者の法令にない解釈に対して反論できない現場職員の知識のなさも問題という現状を表すものだ。少なくとも介護保険制度や現場のサービスの専門家は指導担当者ではなく我々である。

特に利用者に必要な介護サービスの解釈、ケアマネジメントから導き出される結果の論証については、指導担当者より我々の専門分野であるはずだ。実地指導は対立の場ではなく、行政の専門的意見を聞くことができる良い機会であると同時に、現場の専門家が指導担当者であるところの行政職員と意見交換、ときには直接的議論ができる良い機会であるのだから、きちんと言うべき意見は出した方が良い。

指導担当者に恐縮しているポーズを見せる場が実地指導ではないのである。

昨年から重視されている「集団指導」だとてこれは同様である。一方的に行政側の価値観を押し付けられて疑問に感じたことを質問もできず、ネット掲示板で愚痴を述べ意見を求めるだけの結果に終わらずに質疑応答の場では質問だけでなく疑問のある指導内容への意見もどんどん投げかけるべきである。

心強い点は、集団指導においては圧倒的に事業者が多いということだ。理不尽な指導に対しての疑問については必ず賛同者が多いということを信じて意見を挙げる勇気を持ってほしい。

同時に集団指導で多数の事業者の前で「指導」する担当者の発言は重たいもので、あとで「間違ってました」ではすまないことなので、きちんと発言には責任を持ってもらいたい。そして法令解釈を勝手に狭く解釈して指導して利用者に不利益が生ずるような場合は、きちんと責任をとってもらうように事業者側も何らかのアクションを起こす必要があるだろう。

介護サービス従事者は、この点いかにもおとなしすぎる。毅然とした対応も時には必要である。

それにしても適正給付のお目付け役である厚生労働省そのものは、毎年会計検査院から一番指導事項が多い省であるそうな・・・。そこから指導される都道府県、そして都道府県からさらに指導を受ける市町村の指導担当者が法令を極端に狭く解釈しすぎるのは、一番上に立つ神輿のよどみが歪んだ形で影響しているのか、単なる馬鹿なのか・・。

指導者が襟を正すことをしないで行われる指導に何の説得力もない。介護サービス計画の作成過程の過誤や書式の不備など、あの消えた年金問題と比べたらどれほど問題なのだろう。

コンプライアンスが重要だと指導する人々の自身が所属する省内で行われている無駄な税金の浪費・・。

そういえば国土交通省の役人の介護保険料(労使折半分の役所負担分)もなんと道路特定財源から支払われていたそうである。我々がガソリンに上乗せして支払っている税金が役人の介護保険料に化けている。これって許される問題なのか?その保険料の支払いで将来彼らは我々の提供する介護サービスを何のためらいもなく受ける権利を持つ。ひどい国である。

そういう国で我々は少ない収入の中から税金を支払っているのである。

宮崎の東国原知事などは道路特定財源がなくなれば地方の財源が困窮すると盛んにその復活を求めているが、それも正しい税金の使われ方があっての話であろう。カラオケセット、マッサージチェア、野球グラブ、アロマ器具など、道路行政とは関係ない支出に化けるお金を何故国民が負担せねばならないのかをまずはっきりさせなさい。

いっそのこと会計検査を民間委託して、民間の介護事業者をはじめとした職場から検査員を出し、国の監査を徹底的に行ってはどうだろうか。不適切な税金の浪費をすべて返納させ、それを社会保障費に回せば毎年2.200億円の社会保障費削減も消費税のアップも必要ではなくなるかもしれない。

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支援者の遺産を相続する感覚は理解不能。

法律を犯さねば何をしても良いということにはならない。

所詮、法律は文章だから人の生活を全て網羅できないし、法律で決められたことだけを守ってさえいれば人の世が健全に流れていくわけではない。

法律を超越したところにも人として守らねばならないものがあり、それが倫理である。そして、ある職業に携わる専門家として持つべき職業倫理は法より上位に位置するものとして考えられるべきもので、それが適切にも守られてこそ人の命や幸福が守られているという側面は大きいのだ。

特に対人援助サービスの専門家は、人の生活に深く密着しているから、より高い倫理観を持たねばならないはずであり、職業として支援に従事する以上、個人的関係をできるだけ排除して生活援助の専門家として係らねば適切な生活支援に支障が来たすだろうと思う。

ところで昨年12月、東京都で成年後見業務を請け負うNPO法人に所属する社会福祉士(日本社会福祉士会会員)が介護と財産管理のため自分が担当していた女性高齢者が亡くなった際に、この女性から遺産として347万円を相続していたことが問題視され新聞報道で取り上げられた(07/12/19・毎日新聞)。

遺産相続した社会福祉士はNPO法人(この問題発覚後解雇)に所属する前の某社会福祉協議会所属時から亡くなった女性の支援担当者であったということであり通算すると10年間、担当者として支援に係ってきたという。

遺言による相続で、相続者となった社会福祉士(女性)は「本人の意思を尊重した」と言っているが、遺言はこの社会福祉士の勧めで作成されている。しかも亡くなられた女性は身寄りのない方ではなく、親族が遺言作成の経緯等に不信感をもって日本社会福祉士会に苦情を申し立てている。

当該社会福祉士と亡くなった女性は、社会福祉士が所属する社協やNPO法人の業務としての「支援行為」という専門職として係る過程がなければ縁も所縁(ゆかり)もなかった人であり、どのような理由があろうと職業を通じた関係から遺言状作成を進めて、その作成を勧めた本人である支援者個人が、その遺産相続を行うことはあってはならないことではないだろうか。

遺言状の作成過程に不透明な部分があるなしに関わらず、間違った対応であると思う。

どうしても貴方に遺産を渡したいと言われても、私は職業として支援者として業務を通じて係っている以上、そうした個人資産を相続することはできません。どうしてもというなら社会福祉事業に寄付するなど世の中に役立つお金の使い方をしてくださいなど、別に遺産を生かす方法はいくらでもあるだろう。

この社会福祉士(女性)が亡くなった高齢者の成年後見人になっていたわけではなく、女性社会福祉士の夫を後見人とする任意後見契約を結んでいたとのことである。問題の所在は相続のことであるから成年後見制度とは直接的な関係はないが、こうした報道がなされると、後見制度への不信感も助長される。

この問題は、専門職業人としてのプライドのひとかけらも感じられない言い訳のできない不適切な相続だと思うが、新聞報道の中で筑波大学の新井 誠教授が「遺贈の受け取りは職業倫理上やってはいけないことだ。NPO法人と日本社会福祉士会も監督責任も重い。」とコメントしている。

「絶対許されない行為」であることは同感だが、職場であるNPO法人と個人加入団体の会員組織である日本社会福祉士会の監督責任を同列に論ずる感覚はどうかしていないか。

職場として監督できる範囲と、有志会員団体の監督範囲は違うだろう。社会福祉士会会員だからといってその会員の職業やプライベートの範囲まで監督することなんてできるはずがないし、それは会の責任範囲でもない。

職業倫理を守るべき教育をグローバルに担うことと、職業上の管理監督責任はまったく違うものだ。雲の上の人の感覚なんだろうか、まったく馬鹿馬鹿しいコメントだし、それをそのまま載せる記者、編集者の感覚もジャーナリストとはなんぞやと言う疑問を生じさせてしまうように思う。

まあ一番おかしいのは支援サービスの利用者というだけの関係の人の遺産を相続する社会福祉士の感覚であることに間違いはないのであるが・・・。

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「すべきことはやった」〜役人としてか、人としてか。

地下街にひとりの老女が倒れている。

通報により駆けつけた救急隊員にその女性は「4日間何も食べていない」と訴える。衰弱した様子はみられたが外傷等がなかったことから(なんだ腹が減っているだけか)と救急隊は女性を市役所に運ぶ。

自力で救急車から降りた女性はそのまま市役所敷地内の花壇に腰を下ろし、まもなくそこに横たわる。

連絡を受けた社会福祉課の職員が駆けつけるが、飯をとりあえず食わしておきゃあ回復するだろうと考えたのか、非常用の乾燥米を袋も開けず、お湯を入れることもなくただ単に手渡した。しかもこの際、一度乾燥米を渡す際に申請書が必要だとして、その申請書を書くことを求めている。

そしてこれを拒んだ(実際には書く気力も失われていたことが想像に難くない)ため、乾燥米を手渡すこともなく一旦役所に戻り、上司に確認の後、再度女性のもとに訪れ渡している。このタイムラグもこうした状況下では致命的なものになるかもしれないなんていう意識はまったくない。あとは守衛に見守りを任せて、その場を離れる。

見守っていた守衛も、渡された乾燥米を食べる支援など命じられていないので、ただ単に様子を見ているだけであった。一度女性が「水がほしい」といったので湯を飲ませた。

その後福祉課の職員や保健師が「見守り」に女性の近くに集まるが何もしない。役所では保護入所などを検討するが、飯を食わせれば回復するだろうと考えたわけでもないのだろうが、担当課が難色を示して何も決まらない。

倒れた高齢女性は、乾燥米をどうやって食べるかの認知があったかも疑わしいが、既にそれを手にとって作って食べる気力もなく、横たわるだけであった。そもそも4日間も食べていない衰弱者が乾燥米などのどに通るのか。子供でも疑問に思うだろう。この間、福祉課職員が具体的に何か援助の手を差し伸べることもない。

やがてそこに野宿者の支援団体のメンバーが偶然通りかかった。

近寄って女性の体に触れ、呼び掛けたが、目を見開いたままほとんど無反応だった。支援団体のメンバーの要請で、このメンバー付き添いの元、救急車で病院に駆けつけたときは、既に手遅れでこの女性は急性心不全で息を引き取った。

支援団体のメンバーが偶然通りかかったとき、役所の職員が路上の女性を囲み、見下ろす異様な光景がそこで現出されている。保健師も誰も体に触れて容体を調べなかった。建物内に入れたり、路上に毛布を敷く配慮もなく非常食は未開封のまま胸の上に置かれていた。動物に与えた餌でもあるまいし・・・・・。

このことを当該市の社会福祉部専門官は「与えられた権限の範囲内ですべきことはやった。職員たちの目に衰弱している様子はなかった。容体急変は医師ではないので予想できない」といい、その後の内部調査結果でも市は「空腹を訴える女性に非常食を渡し、収容可能な福祉施設を検討した。2回目の救急車も要請した。職務逸脱や法的な義務を果たさなかった不作為は認められない」とコメントした。

フィクションではない。事実あった話だ。もちろん明治や大正の時代の話でもない。昨年11月22日、静岡県浜松市で実際に起こったことだ。

法律に触れる行為を犯したものは、そこには誰もいないのであろう。市役所の職員、救急隊員としての業務範囲のなかで不適切な対応をした者もいないのかもしれない。

だから良いのだろうか。「すべきことはやった。」という言葉は、単に役人としてすべきことはやったという意味にしか過ぎない。人としてやるべきことはやったのか。

客観的な見方でいえば、彼らの行為は「放置」にしか思えない。

もし救急車で運ばれ花壇に倒れこんだときに最初に対応したのが市の職員ではなく、支援団体のメンバーであったら、結果は同じではなかったかもしれない。少なくともその後の経過は大きく違うものになったんだろうことは間違いない。

というより支援団体のメンバーではない、一般市民がそこにいても違っていたのではないのか。つまり亡くなられた女性の最大の不幸は、女性が餓死寸前で衰弱している状態のときに係った人間が、すべからく「事なかれ主義」の市職員であったということになるのではないだろうか。

当該市の職員は、救急隊員は、自分達の対応について胸を張って、誇りある行動であったといえるのだろうか。人として・・・。

役人がすべきことという以前に、人としてすべきことを考えない人々が市民サービスを担っているとすれば恐ろしいことである。

この状況に対して「疑問」や「違和感」や「憤り」を感じない人間はどこかが壊れている。

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企業倫理って何よ?

当施設は平成11年に50床の特養単独施設から、通所介護を併せ持つ、100床の特養(+12床のショート事業所を併設)として増改築を行った。

その際、ナースコールについて、広くなった管内で場所によっては、本体の音がなっても聴こえなかったりするということが想像されたので、ハンディナースシステムというPHSでコールを受けるシステムを導入した。もちろんそのもう一つの意味としては、利用者の生活がナースコール音が本体からなり続けることでかき乱されないということも含んでのものである。

このシステムはナースコール本体の会社とは、別個の無線システムで、本体に対応する無線システムを持つ企業は複数社あって、その中から現在のハンディナースシステムを選んだわけである。企業規模としても大きな企業である。

ハンディシステムの子機は普通のPHS電話機である。無線システム自体のトラブルというのは今まで特にないが、携帯電話でコールを受けているのと同じだから、この電話機自体のトラブルは結構ある。

それは機器自体の性能という問題ではなく、介護職員が持ち運んで介護にあたっているのだから、時に落としたり、あるいは水周りの周辺で介助している際に濡らしてしまったり、そのための故障ということがある。

修理できるものもあるが、精密機械だから、落下や水没の場合は、ほとんど修理がきかない場合が多い。不注意というより、介護現場ではやむを得ない状況でのこともあるし、常に持ち運びながら介護しているのでPHSとしての耐用年数は短くなるのはやむを得ない。

だから毎年、ハンディコールシステムのメンテナンスにかかる費用=PHS電話機の買い替え費用は必要経費である。

ところがである。

当施設で使っているハンディコールシステムの企業が、もう一つの大手企業と合併して新会社としてスタートした。その際に、現在のハンディコールシステムサービスから撤退するというのである。よって今後はこのシステムに関わる保守、修理、機器の提供も行わないというのである。

つまり今後は、無線システムは使えるがPHSが壊れても修理も新規購入もできないので、1台ずつ使えなくなって子機が減ってしまうというわけである。もちろんPHS電話機であればなんでも使えるということではなく、他社の無線システムの子機をこのシステム上で使えるわけでもない。

となれば早晩、ハンディナースとしての機能を失ってしまうわけである。コール対応の問題だから「仕方ない」では済まされない。

こうした状況が突然のアナウンスで知らされたわけである。企業が合併して違う社名になって、新たなものになったから、サービスも変わるということで、当施設においては9年経っているシステムといっても、まったく異常も問題もないシステムの変更が迫られているわけである。

ということで他社の無線システムに変えるためにまた数百万円の費用がかかることになるが、命綱としてのナースコールであるから、これはやむを得ないだろう。

しかしこういう数百万円の費用がかかる設備を商品にしている大きな企業が、企業自体がなくなるわけでもないのに合併した途端にそのサービスから撤退して、経過期間も設けず、メンテナンス等も一切行わないというのは問題ないのだろうか。

法律には触れないといっても企業倫理としては最低だろう。

「日※※株式会社」から「N※Cインフロンティア株式会社」に変わったこの企業の対応については大いに憤りを持っている。(※は伏字)

今後この企業と付き合うつもりは一切ないが、同社がもともと、こういう対応を行ったということを関係者は知っておいた方がよい。

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事業譲渡は数十億の商売?

コムスン問題で、全ての事業の譲渡先が決まったというニュースが流れたのは、つい最近のことである。

しかしどうしても理解できないのは、この事業譲渡という結果である。

譲渡とは、事業や財産を他者に譲り渡すことを意味した言葉である。しかし今回の問題の帰結としての事業譲渡とは、介護サービス事業と従業員をひっくるめて売却する、という意味である。

実際に譲渡費用としてコムスン側に莫大な金額の金が流れている。しかもその金額たるやジャパンケアサービスとセントケア・ホールディングに引き継ぐ25都道県分だけで合計37億5400万円である。

これを譲渡と呼ぶのは何故だろうか。売却そのものではないか。

コムスンはこのまま何もしなければ来年3月末で、介護事業ができなくなり自然消滅する。法人内譲渡は法律では禁じられていないが世論の動向から国の圧力がかけられ不可能となった。そうなると手元に入る現金はなくなるわけである。そうなる前に事業譲渡という形での売却を行って、最後まで商売として利益をあげたということだろう。

もちろん事業譲渡という意味は、ひとつには実際にサービスを利用している要介護者等のサービスが継続できるように、現行の介護サービス事業を維持して介護難民を出さないということは百も承知である。

しかしそれとこれとは別問題であり、事業譲渡に伴って莫大な金の動きがあり、悪いことをして、介護事業に対しこれだけ社会の信用を失わせた会社そのものが大きな譲渡収入を得る、ということに対し憤りを感じる国民は多いだろう。しかしそのことを多くの国民が認識していない現実があるのではないか?

譲渡という言葉に惑わされ、あたかもコムスンは無償で別の企業等に事業を譲っていると勘違いしている国民も多いのだろう。それも譲渡という言葉を使う一つの意図なのだろうか。

しかもこうした大きな社会問題を引き起こしても、最高責任者の刑事責任はまったく問われず、現時点まで不正請求分を国に返還したという話も聞かない。もしかして返還費用を譲渡費用の中から捻出する為に、国もこうした取り扱いを認めたのであろうか?ということはこの問題は不正請求として監査で明るみに出た分を国庫に返しさえすれば、コムスンというひとつの会社をなくして問題はジ・エンドということか。

しかもこの一連の譲渡という問題解決過程で、最高責任者である会長はほとんど汗をかいていない。実質、責任を何もとろうとしない姿勢が許されて良いのだろうか?

返還金など個人専用のジェット機をはじめ、介護事業で作った個人資産ですべて返還できるだろうに。結果的に最高責任者が何も責任をとらず、報酬返還だけで済み、介護事業で残した莫大な個人資産は手付かずであれば、逃げ得を許した結果に他ならないのではないだろうか。

悪質な経営者はこの結果では決してなくならないし、歴史は繰り返されるであろう。

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履修単位不足のヘルパ−講座修了証明

北海道旭川市の訪問介護員養成校指定事業者が、資格取得に必要な課程を終えていない受講者82人に修了証明書を交付し「修了した」と道に虚偽の報告をしていた。さらに証明書を交付しながら道に報告していない事例も他に80人近くいて、そのほとんどが履修不足であると報道されている。

介護保険の訪問介護サービスは訪問介護員の有資格者しか行えないことはいうまでもないことであるが、その資格の認定に関してこのようなずさんな取り扱いがされていたということについて考えると、この資格に対して著しく国民の信頼感が損なわれる結果になるのではないかと懸念せざるを得ない。

しかしこの状態は特別なことなのか?実際問題、履修状況を都道府県がすべて正確に把握できるのかということを考えたとき大きな疑問を持ってしまう。

この問題も「告発」により発覚したものであるが、逆に言えば告発がなければ実質行政チェック機能が働いていない、という現況が見て取れるのではないだろうか。

現行では養成事業者が修了証明書を交付してしまえば、道は簡単な書類審査しか行っていないのが実情だから、こうした本来の講習未修了の資格要件に欠けるヘルパーが現場で訪問介護業務を行っていてもわからない、という実態がある。

しかもこうしたずさんな取り扱いをしている事業者の方が、必要な講義等を行わないのだからコストがかからず儲かるし、資格は「とりやすい」ということになると、制度のことを充分知らない受講生は、逆に数多く集まる、ということになりかねない。結果的に不正が明るみになれば受講生自身に被害が及ぶものであるが、そのことまで受講前に認識できる人は少ないだろう。

しかし、こうした状況を放置すればヘルパー資格不要論はますます加速し、結果的に養成事業者自体の首を絞める結果になるのではないのか?介護の基礎資格を介護福祉士に統一しヘルパー資格を無くす、という議論は結論が出ているわけではないが、既成事実としてその流れが捉えられていく中で、この問題は影響が大きいだろう。

またこうしたずさんな取り扱いを行っている事業者で行われる講座が、介護現場の有資格者を養成するのにふさわしい内容で行われているのかさえ疑問をもってしまう。

ただ問題はそれだけにとどまらず、ヘルパー養成講座は学科と実習の両方があるが、学科に試験があるわけでもないし、実習といっても数日間の内容で、履修さえすれば修了証明は受講者全員に与えられる。

僕の施設にも、この実習で勉強にはいる方が年を通じると何人か居られるが「この人がこの実習を終えたら訪問介護員の資格で実際の介護の場に入れるの?」という状態の方もいる。

他者とのコミュニケーションがまったくとれず「性格的に苦手で」と言い放つ状態でも数日間、ここで指導を受ければ資格のための講座修了証明をもらえる。実習先は評価さえできないのだ。

僕の施設で実際にあったケースでは、例え3日間であろうと、その状態で利用者に接することに「危険性」を感じて実習をお断りしたことも過去にはある。そういう方も別な場所で実習を終えれば結果的にヘルパーとして資格を与えられるわけである。

これって結構恐ろしいことのように思える。ゴールドプラン、新ゴールドプランで定めたヘルパー有資格者の養成の数値目標が、歪んだ形で現われているのではないか。

介護の現場では介護職員不足が大きな問題となっており、定着率の低さが低賃金と低待遇の問題として語られているが、それが最大の理由であることに疑いはないものの、こうした有資格者の大量生産により、質の低下が招いた様々なひずみが、志や知識技術の高い有資格者の足を引っ張る原因にもなっている一因に思えてならない。

看護師に比べ、介護職員の待遇が向上しない原因は、歴史的経緯にとどまらず、知識と技術の獲得度合いの差にあることも疑いようのない事実であろう。

数が足りないという問題は大量生産で補えばよい、という問題ではなく、生活に関わる有資格者なのだから、質の確保のための必要な養成課程を考え直すべきだろう。

養成事業者の責任は当然あるし、現時点ではそのモラルに頼らざるを得ない要素は多いが、根本的に介護職員の資格問題は、適切な知識と技術が担保される養成過程の方法の問題として見直していかねばならない。

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コンプライアンスの視点。

法律とは究極的には文章である。文章は人の生活の全てを網羅できないから、どうしても穴が開く。その穴をかいくぐり株式を買い占めていった堀江社長時代のライブドアは条文上では違法性はない。

一方、その穴を知りながら、踏みとどまった多くの企業も実際には存在する。両者の差は経営モラル、職業倫理ということになるだろう。

法律は社会をサポートするもので、人の生活全てを法律に規定してしまったら、人は法に縛られて生きていけなくなる。つまり法律とは社会を構成する人間によって良くも悪くも使われるもので、堀江前社長が「駄目なら法律で規制すればよい」と発言した姿勢に対し、多くの人々が感じた違和感は「違法でなければ何をやっても良いのか」という感情であろう。

その感情を軽蔑する経営者は、社会システムを円滑にする潤滑油としての側面をも持つ職業倫理を否定していることに他ならない。

この職業倫理と、一般に法令遵守と約されるコンプライアンスは表裏一体のものである。

法に完全形のないことは以前から主張している。また法による規制の中にも実生活に合致しないものもある。人の生活を援助する社会保障制度の中の社会福祉制度に関わる法律も、これは例外ではない。

介護保険制度も、この法律が社会福祉制度の法律であるか否かという論議は別にして、介護保険という社会保険で行う国民支援のルールにも様々な問題がある。ルール上の規制のために保険給付ができなかったり、事業所側のルール理解が不十分である為に、一部の条件がクリアできていないことで生じる減算に該当してしまうことがある。

このことを指摘したり、法律上のルールに基づく運営を強調すると「利用者の福祉より法律が大事か」とか「お前は社会福祉援助者ではなく法律の番人か」と非難する人々が、この国には少なからず存在する。

しかし法律上のルールがおかしいからといって、それを個人的な判断で破ってしまえば、この社会は秩序も何も存在しない混乱したものになるだろう。高速道路の料金の算定基準が疑問で高すぎるからといって料金所を強行突破して、料金を支払わない人がいてもよいのだ、ということにはならないし、介護保険ルールがおかしいから、それは担当ケアマネや事業所が書類をごまかして保険給付のサービスをしても良いということがあっては社会自体が成り立たなくなる。

大事なことは、我々社会福祉援助者は福祉の専門家として、ソーシャルアクションという視点も持ち合わせていなければならないので、理不尽なルールや、おかしな算定基準があったとしたら、専門団体等の力を結集して、それを変えるアクションを起こしていくことである。

しかしこうした改革の主張=ソーシャルアクションが社会に認めら、受け入れられる絶対条件は、それを主張する個人なり団体が、法律に基づいた適正な方法で社会秩序を守った活動をしていることに他ならない。コンプライアンスの視点に欠ける個人や団体が何を主張しても、一般国民という市民レベルでの理解は得られない。

話は少しそれるが、そういう意味で光市の親子殺害事件で被告人の弁護団が「死刑は廃止すべきだから」という理由によって裁判で展開している弁護活動は、この社会の許容範囲を超えていると思う。これは別問題なので、別の機会に書こう。)

例えば昨年、道内の特養で問題になった胃婁の方のチューブ交換を介護職員に行わせていた問題について、この行為自体は、体に繋がっているチューブではなく、栄養剤と繋がっている部分のチューブの交換だから、必ずしも医療行為ではないのではないかと言う考え方もわからないではないし、そこまで医療行為とされることについても大いなる疑問を持っているので、その考え方を変えなければならないと思ってはいるが、僕は「医療行為については、何度も主張しているが…。」というブログの中で、あえてそれらの施設のトップに対しては「意識が低すぎる」「脇が甘い」と批判した。

特に一つの特養は管内で、施設長会議でも顔を合わせる機会のあるところだから、この発言はかなり勇気がいる。しかし医療行為の解釈を明確にするとともに、もっと介護職員にできる行為を拡大せよと主張する立場の僕として、この問題で違法性を指摘されるような行為を行っていることは、国からその主張自体を否定される要素とされる可能性もあり許せないものなのである。

それが証拠に、あのニュースの後、道から胃婁のカテーテル交換は医療行為で介護職員は行うことができないという通知が出され規制が強化されたではないか。

法律は完全ではないし、おかしなルールも存在する。変えなければならないことも数多くある。しかし変える理由を、その正論を主張できるのはコンプライアンスの姿勢をきっちり持ったもののみであり、そういう立場からの提言でないと誰も動いてくれないことを、現場の職員も強く意識すべきである。

そうしない限り、制度はよくなるどころか、おかしな制限が増えるだけの結果になるであろう。

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グッドウィル会長のあきれた世論誘導

コムスンの不正問題に関して、グッドウィルグループの責任の取り方に納得していない国民は多いだろう。

コムスンの社長が辞任するのは当然だが、このグループの体制からいって会長の権限と力は絶対的なものであって、辞任した社長だとて将棋の駒の一つに過ぎず、それを自由に手のひらの中で動かしていたのは、折口会長自身ではないか。

その会長がまったく責任を取らず「私が続けないとGWGが社会的使命を果たしていけなくなる」とは何たる言い草であろうか。社会的使命を最初から果たしていないから、今回のような問題が生じたんだろう。そもそも一連の不適切運営や不正請求の元凶自体がこの会長のグループ運営方針にあるのではないか。

コムスンの創業当時の理念は、それなりに立派なもので、サービス内容もそれぞれの地域で信頼を得られていたと思う。それがおかしくなったのは折口会長がコムスンを買収し、旧役員をすべて追い出して、トップダウンで締め付けが厳しくなった時期からではないだろうか。社内の極端な成果主義も同会長が就任した後から導入された方式だろう。

「介護には思い入れを持っているので続けさせてください」と記者会見で言っているが、過去には「介護サービスはビジネスチャンス」と広言してはばからず、利用者を単にサービスを買う消費者、あるいは介護は利益を売る方法という発言もしていた。そのことが今日の状況を作り出していることに気づいていないはずはない。

その会長が日曜には各テレビ局を回って、番組に出演し、お詫びという名の下に、自己弁護と弁明を繰り返している。そしてその中で必ずしも不正を行っていたわけではなく、処理上の問題で制度の理解不足による手続き上のミスが不適切とされたものもあるという発言を繰り返している。

自分と自分の部下が引き起こした問題を何だと思っているんだ。多くのまじめな事業者の信用をも失墜させていることを自覚できない頭の中身はどうなってるんだ。

しかもである。非常に問題なのはテレビという情報媒体を使って国民の世論操作を行おうとする発言である。コムスンのやったことをごまかして正当化しようとしている発言が随所にちりばめられている。国民よだまされてはいけない。

折口会長は不正請求の一部について次のように発言し、その行為を制度の欠陥でコムスンには責任がないかのごとく問題を正当化しようとしている。

折口会長発言:フジテレビ報道2001に於いて

例えばおむつ交換ですが、利用者の方のオムツを交換すると、オムツをあけてみたら汚れている、そこでコムスンは必ず陰部洗浄を行います。しかしケアマネジャーのプランにはおむつ交換としか書いていません。ここが問題で、陰部洗浄も行って、その分も請求するとプランにのっていないから不正請求とされるんです。」

馬鹿をいうな!!嘘をつくな!!制度を充分知らない人々を騙すな!!

おむつ交換とは、汚れてもいないオムツを取り替えるわけではないだろう。当然「おむつ交換」という行為の表現だけで、排泄後後始末の行為をも含んでいるのは常識ではないか。それともおむつ交換は、オムツだけを替えて、お尻や陰部の汚れに何のケアもしないことでもいうのか!!

しかもである「ケアマネジャーのプランにはおむつ交換としか書いていません。」というのは嘘っぱちだ。ケアマネジャーのプランは、おむつ交換という具体的内容を書くのではなく、その行為をも含んだ「身体介護」として時間や日を書くものだ。その時間の中でできる行為を総合的にプランニングしており、おむつ交換の後で陰部洗浄を行ったから、その時は請求単位が違ってくるということはないではないか。こんな事もわかっていないとは言わせないぞ。

しかも、もっとも重要な嘘は、おむつ交換の方法を計画書の中に文言として書くのはケアマネジャーのケアプランではなく、訪問介護事業所の介護サービス計画であり、コムスンがおむつ交換の際に必ず陰部洗浄を排泄後の後始末として行うということは、コムスン自体が立てる訪問介護計画書の中に書かれるべきものだ。

そしてその内容についてサービス担当者会議で事前に話し合われ、それが適当であったらケアマネジャーの計画時間に必要不可欠なサービスとして積算され身体介護に必要な時間が決まってくるんではないか。コムスンが不正請求し返還対象額とされているのは都内だけで2億円を超えているんだぞ、これはみんな国民の懐から出ているお金だ。その大部分が制度の欠陥というのか?

折口会長が報道2001の中で述べている発言は、全くのまやかし発言だ。番組の司会者やコメンテーターも基本の知識がないから、こんなでたらめな発言に対して一言も疑問を呈することができず、結果的に国民の前に間違った情報を垂れ流す結果になる。マスメディアの姿勢の問題も問われてくるだろう。

それにしても自分たちのやったことを制度の不備とするだけではなく、ケアマネジャーのプランが悪いからというが如くの発言を放置していて良いのか。

現場のケアマネジャーは、この事実をよく認識して怒りの声を挙げなければならない。

こんな人物が、何の責任もとらず介護事業を続けるなんて大問題だ。自分の地位をそのままにして傘下の一つの会社だけをなくして、従業員に全ての責任を負わせるなんて許されない。

介護サービスで莫大な資産を築いてるんだから自分の報酬を削るなんていうのは当然で、自分の資産を従業員がこうむる損害の補填に当てて無一文から出直すべきではないか。

他者に事業譲渡(それとも売却?)するとか、今後のことはともかく、ここまで介護を食い物にして世間の信頼を失ってしまった責任をきちんと辞任という形でとるべきで、そして今後二度と介護の世界に指先一つでもかけてはいけないのではないだろうか。それほど大きな問題と思う。

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大手介護事業者の不正問題のこと。

このブログでは、新聞報道等で話題の真っ最中の問題に触れるのは、ワイドショー的になってしまう恐れがあるし、客観的に評価できないことも多いので、できるだけ避けるなり、時間を置いてから触れるなりしてきた。

しかし今回はどうしても、あの問題に触れざるを得ないだろう。今朝も当施設併設の居宅介護支援事業所の担当利用者から今後の不安などについて、問い合わせがあるような状態であるのだから。

昨日の時点では不正が問題となった全国展開する大手介護事業者について、厚生労働省は今後の新規指定申請を4年半認めないほか、現行事業所の指定更新もその間認めないことを都道府県に通知し、同社の約2000事業所のうち1600事業所が順次、介護保険サービス事業を実施できなくなると報道されて、今後の利用者サービスや同社社員の雇用問題など多大な影響が出てくると懸念されていた。

しかし今朝の時点では、同社の介護事業はすべて同じグループ内の子会社に譲渡され、介護サービス事業自体は新会社により継続実施され「利用者のサービスに影響はない(同社:談)」と報道されている。

確かに利用者のサービス確保や、雇用者の問題は大きな社会問題であるし、それに配慮した措置であるという同社の説明も全面否定はできない。

しかし先の事業認可等の不正問題でも指定取り消しをされる直前に、事業廃止届けを出して処分逃れを繰り返し行った同社であるが故に、国民の視線で見れば、ただ単にグループ内の別会社に運営が変わるだけで企業トップも変わることなく、グループ内の手のひらの中で介護事業を動かしたに過ぎない、と映るだろう。

現行法では会社が変われば役員も別になるので、子会社に譲渡されてしまえば指定申請を受けないことはできない。単に審査を厳しくしても別会社として指定せざるを得ず、同社の思惑通りに事業継続が可能となるだろう。

企業倫理をどう考え、どう責任をとるのかという同グループの姿勢はまったくみえてこない。

少なくともジュリアナ東京の事業展開で名をはせた、グループのトップは責任を取って、その地位を降りるのが筋だろう。トカゲの尻尾きりでは何も変わらないと思うのは僕だけだろうか。会社の責任という以上に企業としてのグループ全体の責任と見なければ嘘である。

同グループの一番大きな罪は、利用者や国民の負担金を不正に搾取して国民全体の介護事業に対する不信を広げたことだけにとどまらず、同グループ社員の誇りやプライドもズタズタに引き裂いたことにある。

確かにグループ企業の全体の方針や考え方を受けて、積極的かつ悪質に不正に関わった社員もいて、その方針に従えなかった「心ある職員」は企業から離れざるを得なかったケースもあることが大きく報道されてはいるが、末端の介護現場で働くヘルパーさんなどの多くの方々は、まじめに利用者と向き合って、真摯に介護支援に携わっている方々が多いだろう。

会社組織の不正問題とは別に、真剣に介護サービスに取り組んで、利用者さんから信頼を得ているそれらの介護現場の職員も全て、同社の社員であることで不正に関わったという目で世間から見られてしまうことの責任は同グループのトップはじめ役員が負うべきだろう。

本来更新指定の意味は、こうした悪質事業者を排除してサービスの質を担保するものであるから、会社が変わってもグループ内であれば更新を認めず、一度大掛かりな不正に手を汚した経営者は、この介護サービス事業には二度と参入できないようにすべきである。

一部には同グループが撤退してしまえば必要な介護サービスが提供できなくなるという懸念が広がっているが、短期的一時的には、そうした地域が生まれかねないが、長期的に見ればそういう状況は長く続くことはなく別事業者が事業展開することになる。

なぜなら現在同社が事業運営している地域は、すべて採算ベースにある地域である。過去に遡れば介護保険制度開始当初、各地で事業展開した同社は採算ベースに乗らない地域の事業所を全て切り捨てている。しかも地域によっては、利用者を放り出す形でアフターケアをまったくせず逃げるように事業撤退し、保険者の担当者が怒り心頭に達していたような例もみられた。

だから同グループがなくなったからといって、そこに顧客がいて採算が見込まれる以上新たな介護事業者が必ずサービス提供することになる。雇用されている従業者も別事業者に雇用され全体のサービス供給量は減ることはない。心ある経営者の下で、適切な介護サービスに従事できる可能性さえある。(それは希望的観測に過ぎないが)

どちらにしても子会社譲渡による事業継続は認められても、企業トップの責任がまったく問われないことは問題で、この企業グループのトップの責任はもっと社会問題として問われるべきだ。

プロ野球球団の球場名の冠も当然返上すべきだろう。

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倫理について考える2〜倫理感を醸成する環境について

有名なマズローの段階欲求説は、人間の欲求が下層欲求から5段階に積み上げられたピラミッド型になっているとして、下層欲求が満たされないと上層部分の欲求充足の動機付けが行われる可能性が低くなるとしている説である。

そのピラミッドは

最上位欲求: 自己実現欲求 = 自分が最終的に人として人生の目標としていることを実現したいという欲求

上位欲求: 自己尊厳欲求 = 他人から尊重されたい、認めてほしいという欲求。出世欲、権力欲が代表

中位欲求: 社会的欲求 = コミュニティなど他者の集団に受け入れられたいという欲求

下位欲求: 安全欲求 = 生命の危険なく安全に人生を送りたい、経済的に安定した人生を送りたいという欲求

最下位欲求: 生理的欲求 = 食欲、排泄欲、睡眠欲その他

このように考えられている。今さら説明するまでもないだろうが、この段階欲求説は、下層欲求を満たせば、必ず上層欲求を満たそうとする動機付けが生まれる、という意味ではなく、上層欲求を満たす動機付けには、下層欲求の充足が必要であり、その充足がない状態では上層の欲求を満たそうと考えることは極めて少ない、としているものである。

人の生活に関わる介護サービスの現場でも、人を支援するという動機付けは、介護者自身が劣悪な環境や生活状況に置かれている段階では生まれてこない。だから個人レベルでの肉体と精神の健全さは必要なことといえるであろう。

倫理観も似たようなことが言える。単に倫理が大事であるといっても、職場環境がその倫理観を生み、育むような環境であるかということも大事であろう。

対人関係の悪い職場では、職業上の倫理が生まれる以前に、仕事を単に機械的にこなす、という状況しか生まれないであろうし、個人のレベルに倫理観を育てようとしても、職場自体が法を犯す精神的体質を持っていたり、法律さえ犯さねば何でもあり、と考えている環境では個人の倫理観は育ちにくい。

特に対人援助サービスでは、法律に規程できないけれど、してはいけない行為とか、口に出してはいけない言葉というものが数多く存在する。

なぜなら対人援助サービスというのは形のないサービスで、利用者は試してみないとわからないサービスであるという側面を持ち、お試し利用がきかない、つまり、お試し=サービス利用そのもの、になってしまうため、ここの部分で「試してみることで傷つけられる」という状況が生まれかねないサービスである。故に良いサービスを考える前に、利用者が好まない、嫌だという感情に繋がる援助ではないかという配慮が必要とされるサービスであるといえるのだ。

このことへの配慮や理解も対人サービス援助者が持つべき視点だし、そのために自分がしてはいけない行為とか、関わり方を常日頃考えることが必要で、これは法律や運用ルールに文字として書き表せない部分である。

事業管理者は従業者がそうした倫理観を醸成できる職場環境になっているかという視点でものを考えることも必要なんだろうと思う。

できれば、全ての従業者が、その従事する業務に誇りと喜びを感じることが出来る環境になれば、自ずと倫理観などは育ってくるんだろうと思う。なぜなら我々の仕事の性質上、マズローの欲求段階で最上位欲求であるところの自己実現とは、とりもなおさず、利用者が喜んで受け入れてくれるサービスで、利用者の幸福な生活の達成そのものが、我々の自己実現に繋がる性質のものであり、介護サービス従事者のモチベーションとは、我々の支援行為により、他者がより良い生活が実現できる、という部分に深く関与している性質のものだからである。

ただしそれは、介護サービスに従事する職員や関係者が、霞を食べるような生活で、自らの身を削って奉仕しうるような状況で達せられるものではないだろうと思う。職員待遇というのはそういう意味でも重要な要素であると思っている。

しかしこの職員待遇は悪化する傾向にある。介護給付費により一定のレベルでしか給与配分が出来ない。しかもこの介護報酬は、現状の介護保険ルールでは、いくら良いサービスを利用者に提供しても、財政理論により引き下げられていく方向にあり、さらにアウトカムの評価報酬ではないため、良いサービスを行っていようと、劣悪サービスを提供していようと、同じ報酬である。

極端なことを言えば、人手や人件費をかけない劣悪サービスを提供しておいた方が収益が上がる構図になっているとも言え、健全な考えを持たない経営者が生まれる元凶もそこにある。

こうした状況で倫理観がサービスを変えるという考え方は絵空事に思える。

しかもアウトカムの評価を、いつのまにか単なる資格者配置数や個室のなどの環境空間に対する加算報酬に変容させて評価しようとするから、本当に利用者に喜ばれるために汗をかいている現場の職員の努力は、益々無視され、有能で必要なマンパワーがこの業界からどんどん離れてしまっている。

そこに現在の介護業界の闇が広がっている原因があるように思えてならない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

倫理について考える1〜法より上位にあるという意味。

福祉施設や介護サービスのみならず、職業上の倫理観というのは、すべての職業や、その従業者に求められるものだ。それは法律を遵守するという当たり前の常識を含んだものではあるが、同時に倫理観とは法律より上位にあるものだという理解が必要である。

法治国家において社会生活は法によって律せられる。法には普通罰則規定があり、したがってそれによる強制は強力ではあるけれども、それだけでは全ての人の自然権を守るのには不十分である。

逆に自然権まで全て及ぶような法律を作ろうとすれば、人はこの世の中で正常な社会活動も、生存さえも出来なくなってしまう。

このことは歴史が証明している。中国の歴史で最初に統一国家を作り上げた始皇帝の秦は、法治国家を建設したが、その法治国家は全ての人間生活を法で縛るという極端な思想国家であった。(始皇帝だけが治外法権に置かれていたことは言うまでもないが)そうなると、当時の秦で、ごく普通に生活する人々は生きている営みだけで、何らかの法に触れてしまうという状態が生まれた。

有名な逸話として、始皇帝が亡くなった後、権力を握っていた宦官(かんがい)の趙高(ちょうこう)が、果たして自分はどれほど恐れられているか確かめるため、二世皇帝である胡亥(こがい)に鹿を「馬である」と言って献じた。二世皇帝は「何を馬鹿なことを言っておる、鹿ではないか」と群臣達に言ったものの、群臣達は趙高の権勢を恐れ、「陛下、あれが馬であることをお解りになりませぬか」と答えたとか。(これが馬鹿という言葉の由来であるという俗説もある。)

そのとき「陛下の仰るとおり鹿でございます」といった者は、後に趙高にすべて処刑された。

しかも恐ろしいことに、この処刑とは暗殺などの非合法的な方法ではなく、秦の法に照らした合法的な処刑であった。秦で生活する全ての人は秦の厳格な法律に何らかの形で触れていたので、趙高は自分にとって害があると感じた人間をすべてその法を犯している状況を明るみにしさえすれば合法的に殺せたのである。

つまり法で全ての生活を規定するのでは、人は何らかの法律違反に必ず触れ、それを悪用する絶対権力者によって粛清される道具に使われる恐れがあるということで、我々の生活の全ての行為が法律で規定できると考えることの方が恐ろしいことだ。

むしろ網の目のように全ての生活行為に及ぶ方を作ることより、法によらなくとも守らねばならない当然の規律・人として生きるうえで守らねばならない常識としての倫理観があるべき、という考えはこうした状況を作り出さないための知恵でもある。

例えば食品産業などは法律に該当するものがないからといって、人の健康に重大な支障がある添加物を使用してよいということにはならないのであり、営利企業だからといって「法律で禁じられていないことは全て許される」とする考えは間違っており、社会通念上許されるべきではない行為を指摘された際に「では法律で禁じればよい」と開き直るのは将来的に個人の生活の自由を侵しかねない危険な論理である。

日本プロ野球を面白くなくさせている元凶である某金持ち球団がその昔に関与したドラフト制度の「空白の1日事件;通称・江川事件」などは、もっとも恥ずべき倫理観のない行為といえるのである。(←この部分はガッツ小笠原をとられた、僕の恨みつらみが言わせている個人的感情である:。)

特に我々、介護サービス事業は、人の生活に関わるものだから、よりデリケートな部分で、この倫理観が求められる。人の心を傷つけることは、法律の及ばない場合が多いが、だからといって、このことを放置するような介護サービスが許されないのはあたり前だ。

だから不正を指摘された事業所が、罰則を適用される前に、事業指定廃止の申し出を行って、指定取り消しなどを逃れる行為は、法が規制できなくとも、本来、職業倫理としても許されるものではない。大手介護事業所がこういう行為を繰り返すなら社会的指弾を受けなければならないだろう。

つまり倫理が法の及ばない部分をカバーする意味は、

1.法による制裁は人の自由を束縛(懲役、禁固など)したり、人の財産に干渉(罰金、損害賠償など)する性格のものである。したがって、人の権利を不当に侵害することがないよう、適用の条件が厳格に規定される。その結果、社会から非難されるようなことでも、法的追求を免れ、法の網から漏れるという空白部分が生じる。

2.強力な法律を作って義務として強制しようとすればするほど、人々は、責任を他人に転嫁して逃れようとする。法を積極的に順守するよりも、法による制裁を逃れさえすればよいという消極的な対応になりがちである。そこにも法の空白部分が生じる。

3.事故が起きてから法律によって責任を問い制裁するのは、後追いの手法である。いかに多額の損害賠償を得ても、失われた生命は戻らず、失われた健康はしばしば回復不能である。人の生命や健康にかかわることは、起きないように抑止する歯止めとなる行動が必要だが、それには法による強制はほとんど無力である。

という理解が必要で、法は国家権力等に強制される他律的な規範であり、倫理は自主的な順守が期待される自律的な規範で、倫理のほうが「法より上位のもの」「法より広いもの」という認識が必要であろう。

そういう意味で「倫理」とは「人として何が大切か」という本質を常に問いつづけるものでなければならず、

1.施設や事業所の運営方針とは、場合によって相反する場合がある。
2.経営者の要求とは、場合によって相反する場合がある。
3.自己覚知と密接に関連している。
4.利用者の権利や人権を守る為、高い倫理観をもってサービス提供にあたる必要がある

という側面があることも理解が必要だろうと思う。

介護・福祉情報掲示板(表板)

報道内容だけで不正を追求するほど能天気ではないが・・。

昨日から報道されている大手介護事業者の行政指導について、その不正の実態について、詳しく解説するつもりはないし、報道された内容しかわからない身として、事実を確かめようもないから安易で無責任なコメントも控えようと思っていた。

ブログに書くつもりもなかった。

しかし、ひとつだけ言っておかねばならない問題がある。これは不正請求が事実か否かという問題は別にして、一般の国民の皆さんにも、その問題の本質として知っておいてもらわねばならない事柄である。

不正請求の事実があって、確信犯的に行なわれていたのなら決して許されることではないし、国民の血税と社会保険料を何だと思っているのかと指弾されるべきではあろう。

まじめに事業運営している事業経営者なら、このことで国民全体から介護サービス事業者全体が白い目で見られるのだから、たまったもんではないと思うし、頭にもくる。

報酬返還指導を受けたことは、きちんとした情報も随時開示して国民のお金がどのように使われたのか公開されるべきだが、この問題の処理は当局に委ねるしかないと思う。

しかし問題は、今後明るみに出るであろう様々な事実や、報酬返還などへの対応とは別にして、この大手介護事業所が実際に指定取り消しが内定されていた3つの事業所について、監査結果を通知された直後に廃止届けを出し、処分を免れている点である。

改正介護保険法では、指定の欠格事由に「申請者又は法人役員(施設長含む)が指定の取消から5年を経過しない者であるとき(指定取消の手続き中に、自ら事業を廃止した者を含む。)」という内容が加えられているので、今回、指定取り消しを免れても「指定取消の手続き中に、自ら事業を廃止した者を含む」に該当して、欠格事由は免れることはできないが、しかし、当該事業所については、不正処分による指定取り消しという履歴がないまま自主廃業という形で問題が処理されてしまった、ということになる。

このことを「逃げ得」といわずして何と表現するべきなのか。指定取り消しの処分に異議を唱えることなく事業廃止にした事実は、不正があった事実を把握していて、それを隠していたが、隠し切れなくなったから、処分前に事業廃止して罪の履歴を消しているということではないのか。

これだけは、どんな言いの逃れをしようとしても絶対に許せない行為だと思う。

こういう事業者が、報酬を返還して、管理体制を見直せば「問題解決」とされるんだろうか。答えはいわずと知れ、実際に、解決とされ、今後の営業はずっと継続できるということだ。

経営者は社会的に責任をとるのか?これも怪しい。こんな「逃げ得」だけは許したくはないと思う。関係者や一般国民の方々も、今後の不正処理の問題の前に、この事業者が処分逃れを行なった、というこの事実を是非、認識しておくべきだろうと思う。

今後、どのように報酬返還が行なわれ、管理体制が見直されたとしても、この「逃げ得」の処理の仕方の説明がない限り、けっして当該事業者が「みそぎ」が終えたと思ってはいけない。

そもそも、これだけ全国的に大きな問題を引き起こしているんだから、広報担当部署がコメントを出すだけでなく、経営トップがきちんと説明責任を果たして、責任の所在を明確にすべきだろう。

それができていない現段階で、この事業者のモラルは著しく低いものだと感じている。民間が参入できる事業だから、そういう事業者が出てくる、というのも予測された事態ではあっても、これが社会保障の一翼を担う、社会福祉の実現の為の、介護サービス事業であることに、何の使命も、責任も感じないとしたら、そうした経営者の心の闇は救いようがない。

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介護職員が腹部カテーテル挿入〜その問題の本質。

このブログでは何度か医行為についての話題を取り上げてきた。

僕の主張は一貫して医行為とは何かという部分に対して、グレーゾーンをなくして明確にすることが第1に必要。

その上で、かつて人類が経験したことがない超高齢社会と少子高齢化の波の中で、現実的に様々な生活場面で医療ニーズを併せ持った高齢者を支えようとするならば、医行為について「業」でないという理由で家族が行える行為とされているものについては、一定のセーフティネットを確保した上で、介護職員にも出来るように規制を緩和することが絶対必要、という主張である。

(現在示されている、「医師法第17条、歯科医師法第17条及び保健師助産師看護師法第31条の解釈について」の中の介護職員が行うことが出来る行為だけでは不十分である。)

しかしだからといって現行の法規制を破ってよいということにはならない。

社会福祉援助の専門家として、制度の不備や瑕疵に対して、問題提起したり、ソーシャルアクションの視点を持って行動することは必要だが、その前提は、コンプライアンス(法令順守)の基本姿勢を持って正論を主張するという態度が絶対条件だ。

そうしなければ、一般社会の常識とはかけ離れた、一般国民に受け入れがたい「自己中心的」主張に終わってしまう恐れがある。

しかるに、今回、北海道帯広市の特養で数年にわたり行われていた違法行為は問題がありすぎる。

腹部カテーテルの挿入・抜去について「看護師が足りない」という理由で、日常的に介護職員にその行為を「行わせていた」というものである。

濃厚流動食の注入行為でさえ、状態変化のリスクが大きく介護職員には認められていない行為というのに、カテーテルの挿入、抜去という行為まで、介護職員のルーチンワークにしていたという意識の低さは糾弾されるべきであろう。「消毒はしっかりしており、これまで医療事故は起きていない」という主張は通らないだろう。

僕がいう、その意識の低さとは何か?そこを考えてもらいたい。

ALSの患者さんの痰の吸引という、かなり難しい行為まで一定条件下ではあっても介護職員に認められてきている現状において、行為の内容そのものを問うているのではない。

繰り返しの主張になるが、むしろ将来的には少なくとも家族が行うことが認められている行為については「介護職員も可能」とすべき行為だと思う。

しかし実態として、現在は「認められていない」のである。

高速道路の有料化をけしからんとする人々で作る団体が、けしからんから料金所を無法に強行突破して国民のコンセンサスが得られるのか、という意味の「意識の低さ」である。

僕も、特養の施設長として、医行為としての対応が必要な利用者と、看護職員の数のマッチングが十分でないという状況は理解しているし、医行為の中には、介護職員が行っても問題ないと思われる行為が数多く含まれていることも承知している。

もちろん介護職員の行為拡大が議論されていく過程で、セーフティネットの構築とともに、様々な行為を介護職員にも渡していくことは必要であるが、一足飛びに、十分な教育やリスク管理もないまま、拡大解釈して違法行為を日常化してしまっては、正当な「介護職員が出来る行為を拡大してほしい」という主張にまで水を指す。

しごく迷惑な話である。

今後、行政指導がされるということであるが、この施設の管理者は道義的な意味でも自ら責任の所在を明らかにする必要があるだろう。

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許せない有料老人ホーム園長の言葉。

鹿児島県の介護付有料老人ホームが虐待の疑いで立ち入り検査を受けていることは新聞報道などで皆さんもご存知であろう。

利用者の骨折事故等が虐待に関連しているのか、事故なのかという実態は今後解明されるのだろうが、それ以前に、問題なのは、このホームの園長の人権意識である。

我々が、介護の現場で一番配慮しなければならないのは、利用者の羞恥心に係るケアやプライバシーの保護である。だから実習生であってもいきなり入浴介助やおむつ交換は行わせることはない。それほど羞恥心への配慮というのは大事なのだ。

ところがこの鹿児島のホームは男女混合で入浴援助を行い、そのことを指摘されて答えた園長の言葉というのがあきれてものが言えない程度の、恥ずかしい、見識のまったくない言葉である。

「年を取れば異性も色気も感じない。他施設もやっている。入ろうとするのを止めるのは身体拘束になる」

馬鹿を言うな!!年ととっても、いつまでも男性は男性で、女性は女性だ。そしてその違いによる意識の差や羞恥心は年をとろうが、若かろうが変わりはない。

それは人の尊厳の問題で、頭から「ばか者」の論理でそれを否定し尊厳を犯す行為を奨励しているこのような園長の低俗な意識によって、高齢者の心が傷つき、人としての誇りが汚され、人によっては人格の崩壊にさえ繋がってしまうのだ。

こういう人間が、福祉の現場で、しかも一城の主、とはなんと情けない。このことだけでも人権意識に欠ける尊厳を傷つける虐待行為に他ならないと思う。

思えば、僕がこの業界に入った当時、施設では「男女混合居室」の取組がクローズアップされていた。男女を同室にすることで、身だしなみが自然に良くなるというのだ。

これもまったく馬鹿にした話である。居室というのは自宅と一緒だ。そこで身だしなみを常に気にしてくつろげなくて、どこで心が休まるのか。身だしなみを整えたいなら、ベッド以外の場所で、会いたい人がいて、そこに出向く生活を支援すればよいことだ。

さすがに今、業界でこんな馬鹿な試みは内容に思うが、一般浴はともかく、全介助の機械浴での介助の際、男女が一時的に浴室で同時に居る、という状況で介助している施設はないとは言えないと思う。

しかしこれも配慮に欠けるといわざるを得ない。やってはいけないことだ。

我々施設の従業者が、利用者の尊厳を守る意識がなければ、誰が高齢者の方々を守るというのか!!

今日は朝の朝礼で、このことを話し、同時に、対等な口調での会話も、時には目上の高齢者には虐待だ、と言わせてもらった。

日常の、ちょっとした言葉遣いや態度を改めないと、知らず知らずのうちに、利用者の尊厳を犯す行為が生まれるように思う。

自分の親が他人から、どういう態度で接してほしいかをベースに考えれば、簡単に答が見つかることではないだろうか。

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言葉による虐待

事件、事故に関わるやりきれないニュースが多い中、週末にまたまた気分が重くなるニュースが飛び込んできた。

東京都の特養での言葉による性的虐待のニュースだ。

表面化した問題は言葉による性的虐待であるが、事の発端は日頃から認知症高齢者の体にアザがあったり、オムツに排泄(はいせつ)物がたまっていたりすることに不信感をもった利用者の家族が小型テープレコーダーを置いて録音したものである。

つまり、たまたま偶然あるいは気の緩みで発した言葉が虐待と取られたものではなく、言葉以外にも不適切な介護や、高齢者に対する虐待が疑われるという意味と感じた。

録音された内容も驚きである。

「女性の名前を呼んで性的な行為を求めた」「オムツ交換中のにおいを毒・サリンなどと話す」これらの言葉の暴力を二人の職員が「いやー、やばいっすよ。盗聴されていたら終わりですよ」と笑いも交えながらやりとりしていたというものだ。

まったくひどいものだ。自分の親御さんを預けている施設の介護の実態がこのようなものであると知ったご家族のショックはいかばかりなものであったろうか。察するに余りある。

こういう報道がされると、これが氷山の一角で特養や介護保険施設で状況の差はあれ、日常的に、このような言葉の虐待や身体的虐待が行われていると誤解されるのが一番怖いことだ。

多くの施設では、自分や自分の身内の立場に立ってサービスを考える視点が教育され、適切な介護サービスを行っていると思う。

しかし一部でも、こんなひどい状態があることを我々も関係者として「対岸の火事」的にみたり、発言したりしてはいけないと思う。

少し油断すれば、似たような状況が気づかないうちに自らの施設でも発生するかもしれないという恐れを抱いている。それは「慣れ」が生む油断である。

虐待をする職員、言葉の虐待を行う職員すべてが日頃から「悪いやつ」といえるかといえば、そうでもなく、ごく普通の人が慣れから不適切な言葉や態度に気づかず、それがエスカレートして、密室場面でそのような不適切な態度をとることに罪悪感を感じなくなってしまうという恐ろしさがこの問題には含まれていると思う。

さらにいえば、不適切な態度や言葉は、気の緩みなどで、どこかひとつの場面だけが不適切となってしまったが、そのほかはすべて適切な介護を行っていて100点ということはあり得ない。

そういう不適切な介護に結びつく根本原因がその施設の基本姿勢の中に根深くあるということで、必ず様々な場面で不適切さは生じているのではないだろうか。

こういう慣れを生まないような職場づくり、が必要だとあらためて感じる。

朝のミーティングでは、早速、このニュースを取り上げ、我が施設でもご家族に誤解される状況が少しでもないか振り返ってほしいことを話した。

日頃から利用者の声かけは「丁寧語」を基本として親しき仲にも礼儀ありということを忘れないように指導しているが、なかなか日常的に守ることができない職員もいる。

さすがに虐待と思うような言葉かけに遭遇することはないが、「冷たい」印象を感じたり、「命令」的な雰囲気が感じられる言葉に出会うことがある。僕がその場に居れば、その都度、注意するが、夜勤帯の介護場面、利用者と職員が1対1の場面など、すべてをチェックするわけにはいかない。

そこは「性善説」のみならず、当たり前の考えとして介護は人の幸せのための支援活動であり、人を不幸にする介護サービスや介護者があってはいけないという基本部分を理解してもらうことが重要だと思って日頃から伝えようとしている。

また例えば食堂で食事介助をしている場面で、利用者や食事とはまったく関係のない話題を職員同士で話している場面がないとはいえない。これも不適切であることは間違いないし、利用者を無視した虐待的態度ととられても言い訳ができないと思う。その点についても、あらためて話をさせていただいた。

介護サービスの評価は、良いサービスを行っているかという以前に、不適切なサービス、特に利用者が「嫌だ」と思うサービスではないか、という検証がまず必要なのだ。

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家族の面会を断る施設

昨日取り上げた話題の続きではないが、関連した話題を取り上げる。

指定取り消しを検討されているグループホームについては、どうやら日常的に家族の面会拒否が行われていたようである。

ホーム側の言い分は「会うと自宅に帰りたくなる」というものらしい。

中には昨年5月に入居して、ホーム側から面会を断られ続け、一度も会えないまま、やせ細って2月後の7月に入院したとの連絡を受けた、というケースもある。

昨日も指摘したとおり、報道されている内容の虐待があったかどうかは現時点で確実なことは言えない。

しかし家族の面会を拒否すること自体が大きな問題ではないか。

確かに、住み慣れた自宅から、新たな生活場所である施設に移った方で、特に認知症の方や、本人の意思で入居した方でない場合には帰宅願望が強く出ることがある。

だからといって家族の面会を拒む理由になるのか。僕は全面的にそれには反対だ。

里心がつくから、ということを理由に、最初は面会を控えてもらうように家族にお願いする施設があることは聞いている。しかし、それは違うと思う。

家族と離れて暮らす寂しさや、心細さは、家族が面会に来てくれないことで助長される。たまたま家族が面会に来た後、「帰りたい」と訴えるのは、訴える対象と機会が出来たからだ。

家族が面会に来なければ、その訴えを心の中に閉じ込めて暮らさなければならない。そのストレスは非常に大きい。

施設側からすれば、そういう訴えの対象や機会を出来るだけ作らなければ正面に出てくる帰宅願望という行動が現れないから安心というわけなのだろうが、それは、やがて欝や不安、心気症状など様々な別の問題となって表出してくる場合があり得るのだ。

同じグループホームでも、地域から信頼されているホームの、ある施設長さんに「家族の面会の後に帰りたいという人はいますか」と質問したことがある。

「そりゃあ、あるさ、だって淋しい気持ちはみんな持っているんだから、でも逢えないほうがもっとさびしいよ。家族にはむしろ、ホームにどんどん訪ねてほしいよ。家族が帰った後の寂しさのフォローは、僕らの責任だから」というような話を聞いたことがある。

まさしく、その通りと思う。

かく言う僕の施設でも以前、ケアワーカーが新規入所者の家族に「面会は毎日でもいいんですか」と聞かれて「最初は寂しがるから、慣れるまで面会は控えたほうが良い」という意味の話をしていることがあった。それは違う。施設が面会を規制したり、拒んだりすることはあってはいけないし、施設の環境に慣れることと、寂しさを我慢させることは違うんだということを話し聞かせたことがある。

今、年々あらたな職員が増えており、面会のことを、その都度こうだとは指導していないが、少なくとも「面会はいつでも自由ですよ」と職員は考えていると思う。

そういう雰囲気を作ることがまず大事だ。誰に対しても、誰かにあうことを拒む権利はないはずだ。

面会を制限している施設など、サービスの質は下の下だと思う。

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介護サービス従事者が利用者をみる「目」

世の中の出来事というのは、まったく予想のつかないことが起こるものだ。

北海道で今日一番ショックな事件は、甲子園で2連覇して今年の春も優勝候補とされていた駒大苫小牧高校の野球部員による飲酒、補導事件である。

優勝を目指して練習に励んでいる選手にとって、卒業を控えた3年生元部員の不祥事で春の甲子園に出場できないということにでもなれば、何ともやりきれないだろう。道民はみなショックを受けている。

このニュースにかすんで、道内の老人保健施設が4年間で4億6千万円という道内過去最高額の不正請求を指摘され、ショートとデイケアの指定を取り消されたニュースは、片隅に追いやれられてしまっている印象だ。

常勤医師が週の数日、別の医療機関に勤務していたことで常勤規定違反による不正請求ということであるが、これも道内の地方を中心とした医師不足の問題が根底にある。

タイムカードなどを他の職員が替わって押していたなど、不正の認識は施設としてあったのであろうが、医師をどう確保するかという問題は、他の施設でも悩ましい問題として抱えているのではないだろうか。

しかし余りに巨額な不正請求は言い訳ができないだろうし、過去から現在まで様々な事業領域で刳り返される不正は制度の信頼自体を揺るがしかねない。困ったことだ。

加えて、今日驚かされたのは、愛知の通所リハビリ事業所の職員が、持ち出し不可の利用者情報を送迎中に落として住民に拾われて届けられた、というニュースである。

情報の管理という部分を考え直さねばならないだろうが、そのことのずさんさに驚いたのではなく、拾われた書類に書かれた内容に驚かされるのだ。

「エスケープ要注意」「他の利用者からあまり好かれていない」「ひやりハットNO1」などの表現・・・・。

何のためにこのような情報が必要か、と思ってしまうが、それよりも介護サービスに従事する職員の利用者に向ける目線のおかしさに憤りを感じる。

一体、サービス従事者は何様なんだ。

一人の人間として、人生の先輩として、生活課題を抱えた生活者として、利用者を見るという基本的な視点を持っていないサービス事業者とは何ものなんだろう。

こんなことだから、全体のサービスの質が問われてくるんだ。

福祉サービスだから、とか、顧客サービスだから、という以前に、人としての常識、当たり前の感覚に欠けているのではないか。

自分の親が「ひやりハットNO1」と烙印を押された形で職員に認識されているとしたら、どう考えるのか。

介護現場の常識が、世間の非常識であっては困るのだ。

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言葉は生き物〜幸せにする言葉。傷つける言葉。

視聴率が稼げる有名占い師の番組を視聴者の一人として毎週見ていた時期がある。

しかし今はまったく見る気が起らなくなった。

別に占いが当たらないとか、番組内容がくだらないとか、そういう問題以前に、なにかしら言いようのない不愉快な気持ちになるからだ。

その不快の原因を良く考えると、それは別に、彼女の他人に対する説教の内容とか顔とか言う問題ではないことに気付いた。

言葉なのだ。

特に僕が不快に感じる言葉は「〜じゃん。」という言葉である。若者が街中でそれを使う分には別に気にもならない。

しかしある程度の年齢と立場のある人間が、他人に対し「人の道」を説くときに「〜じゃん。」はないだろうと思う。

言葉とは命あるものなのだ。「とても伝えたがるけど心に勝てない」と言ったのはチャゲ&飛鳥の飛鳥 涼であるが、それゆえに先人たちはとても美しい日本語をつくって日常に潤いを与えてきた。

例えば「黄昏:たそがれ」という言葉である。

真っ暗に暮れるまえの、何ともいえないぼんやりとした風景、これを表すときこれほど適切な語感はない。先人たちは、闇に埋もれる直前の時間にふと道の向こうからやってくる人を見え「あれは誰だろう」と感じる感性を「たそがれ」という言葉にした。

つまり「たそがれ」の語源は「誰そ彼(たれそかれ)」(あれは誰だろうという意味)である。

人生の後半部分のある時期を表す言葉としても美しさを感じられる。人生とはいいものなのだ、という思いを静かに感ずるような言葉だと思う。

外国語を訳した言葉にもすばらしく美しい言葉がある。

ハリウッド映画の永遠の名作といえば「風と共に去りぬ」である。このタイトル原語はGone with the wind (ゴーンウイズザウインド)である。

GONEなんていう過去動詞をどう訳したらよいのか。

このタイトルを日本で最初に訳したのは「サヨナラ、サヨナラ、さよなら」のセリフで有名な映画評論家の故・淀川 長治氏であり、彼の訳では「風と共に飛んでった」とされている。

「風と共に去りぬ」と「風と共に飛んでった」では並べなくともどちらが感性に響くか一目瞭然である。後者のタイトルであったら日本でもあれほどヒットしたか疑問である。

だから言葉は生き物だ。それを使って人を傷つけてしまうこともあれば、不快さを印象付けてしまうことがある。

テレビタレントがへんな言葉を使い不快を与えるのであれば、チャンネルを合わせなければ良いし、こちらには選択権があり、まだましである。

しかし介護の現場で、毎日お世話にならなければならないワーカーや看護師、介護職員が不快な言葉で利用者に接しているのであればこれは最悪だ。

利用者には逃げ場がない。

親しみをこめるためにという理由で苗字にチャン付けで利用者を呼んだり、ニックネームで呼ぶ看護・介護職員がいる。

ぞんざいな言葉が親しみで、丁寧語は他人行儀だという関係者がいる。

そんな言葉や呼びかけでしか親しみを表せないなら、この仕事には向いていないと考えた方が良い。

自分の父親や母親が20も30も年の離れた若い者にチャン付けやニックネームで呼ばれて嬉しいと思う子供がいるのか。自分自身だったらどうか。

我々は介護の場で、利用者を家族と同様に親身になってケアする必要がある。しかし決して家族そのものにはなれないし、なる必要もない。

我々は人の幸せに係る、人の生き様そのものに係る専門家なのだ。専門家として、もっと適切な言葉を考えてもばちはあたるまい。

ユニットケアの本質が、ジーパンとTシャツを着た介護者がぞんざいな口調でケアすることが、そのことが家庭的なケアの方法論だと思ったら大間違いだ。

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