masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

看取り介護

終末期支援の場での礼儀作法はなぜ大事なのか


介護施設に入所されていた利用者が亡くなった際に、当該施設の職員がジャージ姿で告別式に駆けつけ、遺族の顰蹙をかったというケースがある。

当該職員が礼服を着ることもなく告別式に駆けつけた理由はきっとあるのだろう。しかしこれは世間の常識からみれば、「非常識極まりない行為」であると言われても仕方がないし、「死者を冒涜する行為である」と批判されても仕方ない行為である。このようなことで遺族の方々の悲憤を買い、嫌な思いをさせることは絶対に避けなければならない。

当該職員に悪気がないから、そうした行為が許されることにもならないわけである。

そうであるがゆえに、我々は世間一般的に身に着けるべき礼儀作法というものを軽視してはならないのである。

対人援助の場でも礼儀作法は重要である。相手はお客様であり、高齢者介護の場合は人生の先輩である。そうした方々に接するのだから、2重の意味で礼儀作法は必要となる。外国と違ってわが国では、年下の人が年上の人にフレンドリーにタメ口で話しかけるという文化はないし、現在、高齢期を迎えている人ならなおさら上下関係を基盤にした礼儀作法が染みつているのだから、そのことには十分配慮が求められる。

礼儀作法に配慮することは、お客様に対して「真のおもてなしの心」を持つことにもつながるが、それ以前に大事なことは、そうした礼儀作法を護ることで、知らず知らずのうちに人の心を傷つける行為をなくすという意味がある。

介護サービスを受ける方々は、身体の不自由な方も多く、心のどこかで介護してくれる人に対する遠慮がある場合が多い。文句を言ったらきちんと世話してくれなくなるのではないかと考えている人もいる。もっと丁寧に接してほしいという思いを持っていても、口に出せない人が多いのだ。

介護職員の悪気のないタメ口に、いつも傷ついている誰かがいるということを忘れないでほしい。

特に看取り介護の場面で、悪気のない言動で対象者を傷つけてしまったとしたら、それはもう二度と取り戻すことができない失敗となってしまう。看取り介護対象者は、人生の最後の場面で嫌な思いをして、その悔しさに胸をかきむしりながら、心の中に血の涙を流しつつ、息を止めていくのではないだろうか。

そうしないために、すべての対人援助関係者は日ごろから利用者に対する「礼儀作法」を護る習慣を身に着け、対人援助のプロとしてのコミュニケーション能力として丁寧語を使いこなすよスキルを持つように心掛ける必要がある。

特に終末期で体調の変化があり、精神的にも揺れ動く幅が大きいことが予測される方々には、細心の注意が求められる。そのように考え、11/3(土)の札幌会場を皮切りに全国7カ所を回る、「日総研出版社主催・看取り介護セミナー」の講演用に作成したPPTスライドの一枚が次の画像である。
看取り介護セミナーPPTスライド
旅立つ人を送るたときに、決して犯してはならない間違いとは何か。どんなところに気を配るべきなのか。それらのことを伝えるために、終末期にも生かしたいサービスマナーという観点から話をさせていただくので、是非お近くの会場にお申し込みいただきたい。特に近直の札幌にお住まいの方、日曜日まで申し込みを受け付けているので、よろしくお願いします。
※10/26追記:最低受講人数を超えたため、予定通り実施します。

あなたはどんな言葉で最期を看取ってほしいですか?

最期の瞬間、息を止めようとするときに、若い職員から馴れ馴れしい言葉で話しかけられたいと思う人が何人いるのでしょうか?

旅立ちを、家族でもない若輩者に、ため口で送ってほしいと思う人がいるのでしょうか?

逝く方が寛大な心で許してくれるとしても、一緒に看取ろうとしている家族は不快な思いを持たないのでしょうか?他人である年下の職員が、ため口で言葉を掛ける姿を見て、親しみを感じる前に、慇懃無礼な馴れ馴れしさに不快感を持たないのでしょうか?

そんなことを共に考えるセミナーにしたいと思う。会場で語り合いましょう。

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看取り介護アンケートの結果報告〜ご協力に感謝いたします


インターネットのアンケートフォームを通じて、9月28日〜10月15日の期間において、「看取り介護」に関連する二つのアンケートを実施しました。その結果が出ましたので、報告させていただきます。(※貼り付けたリンク先からアンケート結果をダウンロードすることができるほか、このブログ記事後半に結果画像などを貼り付けていますので、ご覧ください。)

その結果は早速分析したうえで講演に反映します。すでに講演スライドを送っていた10月21日(日)に日田商工会議所で行う、「アローチャート天領会主催 講演会」のスライドは修正し、当日新データを反映したもので講演させていただきます。

10月23日(火)に鹿児島で行う、「社会福祉法人政典会・職員研修」のスライドはぎりぎりまで待っていただいておりましたので、昨日新データを反映したスライドを送付いたしました。

11/3の「日総研・看取り介護セミナー・札幌会場」以降の看取り介護講演では、すべて新データの分析に基づいた講演となります。ちなみに札幌会場の申し込みはまだ受け付けております。19日までに最低人数に達しない場合は、セミナー開催を見送ることがありますので、そうならないように是非お近くの方のお申し込みをお願いします。看取り介護・ターミナルケアの知識のみならず、これからの介護サービス全般に必要な情報と知識を得ることができる内容となっておりますので、よろしくお願いします。

さて結果について少しだけ解説しておきます。

自分の最期の時を、どこで過ごしたいですか。」には、522件の回答をいただきました。その結果、最期の時を過ごしたい場所のトップは「自宅」(48.1%)であり、次に「最期に過ごしていた場所」(27.2%)と続き、両者を合わせると75%を超えております。

このことは、医療機関で8割以上の方がなくなっているわが国の現状とはマッチしておらず、それは「自分が死にたい場所と、親を死なせてる場所が異なる」という意味になると思われます。

また「その他」(6.1%)を選んだ人のコメントを読むと、場所は問題ではなく、家族や親しい人など、愛する誰かに見守られていれば場所はどこでもよいという意見が多かったようです。

自分の最期の瞬間を誰かに看取ってほしいと思いますか?」には、397件の回答をいただきました。その結果、「家族など親しい人に側にいてほしい」(56.2%)と過半数を超えて一番多い回答数になっております。次に「その時にならないとわからない」(13.1%)、「どちらでもよい」(12.1%)、「一人で旅立ちたい」(10.1%)と続いています。

このアンケートは前提条件として、「介護が必要な人が周囲に支えられていれば、旅立つときに側に誰もいなくとも、それは孤独死ではなく「ひとり死」であるといわれ始めました。あなたは周囲に支えられながら旅立つときに誰かに側にいてほしいですか? 」として問いかけているのですが、それにもかかわらず過半数を超える方が、「親しい人には側にいてほしい」と答え、さらに「誰でもよいから側にいてほしい」という回答が5.8%あることを考えると、「孤独死ではない、ひとり死」を受け入れる考え方は、広く浸透していないといえると思います。

また「一人で旅立ちたい」や「どちらでもよい」と回答した方々のコメントには、「最期はどうせ意識はないし、家族にも迷惑をかけたくない」というふうに、残された遺族や親しい人を思いやってのコメントが多々見られました。そうであるがゆえに、実際にその人たちが旅立つ際に、愛する誰かが手を握ってくれるとしたら、それは必ず意味があることに思えるし、「一人で旅立ちたい」や「どちらでもよい」と回答した方であっても、本当にその時に側に誰もいなければ寂しい気持ちで旅立っていくのではないかと思ったりしました。そういう場面での「おせっかいの寄り添い」はあってもよいのかなと勝手に思ったりしています。

なおこのアンケートに回答してくれた方の割合は、下記の円グラフの通りで、30代〜50代の方で大半を占めいます。そうするとその世代の方でもこうした意識結果が出ていますので、我々が看取り介護・ターミナルケアの主な対象とする80代以降の方々は、もっと多くの方が「自宅や最期に過ごしていた場所で死にたい」と思い、「家族や親しい人に看取られて旅立ちたい」と思い、それがかなわない場合でも旅立つ瞬間を、「誰でもよいから看取ってほしい」と思っているのかもしれませんね。

下記画像も参考にしてください。
自分の死期を過ごす場所2

自分の死期を過ごす場所

旅立つときに誰かに看取ってほしいか
このアンケートは各末端から1回限りしか回答できないように設定しておりますので、回答数は極めて実人数に近い数字であると言えます。最後に回答にご協力いただいた皆様に、心より御礼申し上げ、ご報告に代えさせていただきます。本当にありがとうございました。

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終末期における医師の役割り〜金谷先生の金言


先週土曜日は福島県いわき市で行われた、「福島県介護支援専門員協会」の研修で講演を行なってきた。

同協会での講演は、あの3.11の翌年7月に郡山で行われた研修以来2度目であった。今回のテーマは介護保険制度論や報酬改定に関するものではなく、「看取り介護」であった。これは担当事務局の希望によって決まったテーマである。

社会の少子高齢化が止まらない我が国において、死者数が大幅に増える社会情勢を考えると、終末期をどこでどのように過ごすのかということが切実な問題になりつつある。本来ならば、すべての人が人生の最終ステージをどこで過ごそうと、最期の瞬間まで安心・安楽の支援ができる社会が理想であるが、孤独死や孤立死が増えているし、看取り介護・ターミナルケアの間違った理解によって、悲惨な死に方を余儀なくされている人も存在する。

そんな中でケアマネジャーをはじめとしたソーシャルワーカーにも、そこにどのように関わっていくかが問われてくるわけである。そのため4月の介護報酬改定でも居宅介護支援事業所にターミナルケアマネジメント加算を新設したり、末期がんの方のケアマネジメントに関連して、状態変化に応じた迅速なサービス提供が可能となるように、ケアプランの変更作成ルールを改正したりしている。

さらに在宅においても、施設においても、どのように終末期を過ごすのかということを本人の意思に基づいて決定する必要性が叫ばれており、あらゆる人々に対するリビングウイルの支援が重要となってくる。その役割をケアマネジャーが担っていく必要性も高まっている。そのような中で、「看取り介護」を学ぶということは、それは単なる介護実践論を学ぶにとどまらず、人間の尊厳をどのように護るかという「人間尊重」の価値前提を確認するということでもある。まさにケアマネジャーをはじめとしたソーシャルワーカーが学ぶべき大切なテーマであるといってよい。

当日は午後2時からの講演であったが、事務局の方々と少し早めの昼食を摂りながら歓談し、早めに会場に着いた。そのためネットサーフィンしながら、つながりのある人のフェイスブックを見ていたところ、札幌麻酔クリニックの金谷先生が、在宅での終末医療に関わる医師の姿勢に関して素晴らしく感動的なコメントを書いておられた。そのコメントの言葉を是非、福島県の介護支援専門員の皆様にも知ってもらいたいと思い、メッセンジャーで金谷先生に次のようなメッセージを送った。

僕は今福島県いわき市に来ており、これから福島県介護支援専門員協会の皆様に、看取り介護の講演を行う予定なのですが、『ひとつの熟成されたいのちのお手入れ』という言葉にえらく感銘を受けています。講演の中で金谷先生の言葉として紹介させてください。

すると数分後に金谷先生から次のようなメッセージが届いた。

マサさん、どうぞどうぞ。大変恐縮です。」
(※このやり取りは「金谷先生のフェイスブック」の10/13、8:55発信の『さいごのお手入れ』を参照してください。)

ありがたいことであり、講演開始前の既にセッティングが終わっていたステージに立ちながら、講演ファイルのパワーポイントを編集して作成したスライドが下記である。
終末期における医師の役割り
医師という立場の方が、終末期にこのような温かくかかわってくれるのであれば、これほど安心できることはないと思う。

上で紹介した金谷先生のフェイスブックには昨日も、『死亡診断をするのは確かに医師ですが、医師は「死の専門家」ではありません。〜ただその方のいのちの灯火が小さくなった時、或いは消えた時にどのように在るべきかを真摯に考えることが「人の終わりらしさ」かもしれません。』という言葉が書かれている。

まさに金言といえるが、金谷先生はこの金言を、実践の中で自然に発しているところにある種の『凄味』があるといえるのではないだろうか。

北海道には、こうした素晴らしい医師の方々がたくさんおられる。医師以外にも素晴らしい活動をしている多くの仲間たちがいてくれる。だから僕は北海道が好きである。

11/3(土:文化の日)は、札幌の道特会館で、10:00〜16:00まで『看取り介護セミナー』を行う予定になっており、今回紹介した内容なども含めて、看取り介護は、日常的ケアとは異なる特別なケアではないことを伝えられると思う。

まだ参加申し込みは間に合うので、「お申込みはこちらから」をクリックして、申し込んでいただければ幸いである。

対象者が最期まで尊厳ある個人としてその人らしく生きることができる看取り介護の実践論を是非学んでください。

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のである。

看取り介護講演を受講した方の感想


6/15に閣議決定された「骨太の方針2018」では、人生の節目で、人生の最終段階における医療・ケアの在り方等について本人・家族・ 医療者等が十分話し合うプロセスを全国展開するため、関係団体を巻き込んだ取組や周知を行うとともに、本人の意思を関係者が随時確認できる仕組みの構築を推進するとしている。要するに今医療の場で盛んに言われているACPを推進しようというものだ。
※ACPとは、Advance Care Planning(アドバンスケアプランニング)の略。

また、住み慣れた場所での在宅看取りの先進・優良事例を分析し、その横展開を図るともされている。ということであらゆる介護サービスの場で、看取り介護の推進は次期制度改正・介護報酬改定に向けても進捗されていくのである。

その流れに乗ってきちんと看取り介護・ターミナルケアの実践が可能になる職場づくりが、すべてのサービス種別で求められていく。看取り介護の実践リーダーの育成も急務である。

そのため僕は全国各地で「看取り介護セミナー」を行っているが、先日も愛知県一宮市で「生きるを支える看取り介護〜〜最期まで自分らしく生き抜くためのサポート〜」という3時間講演を行なった。
一宮看取り介護講演
講演会場は一宮駅直結のビル最上階で、収容人数が400人という大ホールであった。事前申し込みなしに来場するセミナーだったので、3連休直後の最初の出勤日となる火曜日の午後に、どれだけの人が集まってくれるか心配したが、セミナー開始が近づくにつれ続々と人が集まり、その中には以前僕を講師として招待してくださった愛知県内の顔見知りの方もおられた。
一宮シビックホール
遠くは長野県から足を運ばれた方もいて、画像の通り大ホールも8割がた埋まった状態である。大変大勢の方にお集まりいただき感謝であるが、それだけ「看取り介護・ターミナルケア」というものが重要なテーマになってきているという意味だろうと思う。

その講演を受講してくれた方が、表の掲示板の関連スレッドに次のようなコメントを書いてくださっている。

掲示板より転載1
私は特養の介護福祉士ですが、普段の職場は先生の話の中にあった介護の世界とは程遠く、職員の都合で仕事をする施設、入居者に興味も示さない職員ばかりでなぜ同じ特養なのにこんなにも不幸な最後の人生を過ごさなければいけないのかと毎日モヤモヤしながら仕事をしていました。最後の人生をこの施設で良かったと思ってもらえるように頑張ろうと言ったところ、他の職員にリーダーの言っている事は理想論だと言われ、何を言っても心に響かないのかなと落ち込んでの参加でした。今日の三時間はとても短く、最後には泣きそうになりました。私も諦めず、施設の中で赤い花になれるように頑張ります。ありがとうございました。

僕の看取り介護講演で紹介するケースは、以前僕が勤めていた特養での実践事例がほとんどであるが、同じ特養でも環境は様々で、職員のスキルや考え方も様々である。よってこの方のように、やる気のある方の思いがなかなか受け入れられない職場も少なくないのだろうと思う。

しかし僕が総合施設長として勤務していた特養も、最初からスキルの高い職員が大勢いたわけではないし、様残なバリアが存在し、看取り介護どころか日常のケアのレベルもかなり低い時代があったのである。その状態に慣れることなく、その状態をあきらめることなく、様々なバリアや偏見と闘って、ケアサービスの在り方を変えていった結果が、講演の中でお話しした様々な実践ケースにつながっていったのである。是非、そこを目指して頑張ってほしい。

幸いなことに、「私も諦めず、施設の中で赤い花になれるように頑張ります。」という言葉で、コメントが締めくくられているので一安心である。陰ながら応援したいと思うので、何かあったら掲示板で相談したり、場合によっては直接連絡してきてほしいと思う。できるだけの手助けはさせていただく所存である。

さてもう御一方コメントを書いてくださった方がいるので、その方のご意見も紹介したい。
掲示板より転載2
講演ありがとうございました。また講演を無料で公開された社会福祉法人・愛知県慈恵会にも大変感謝しております。講演を拝聴して
・普通の介護の延長線上に看取りがあり看取りは特別なことではない
・看取りの始まりは看取り計画が始まってからではなく利用者様が入所されたときから始まっている
・どのように死ぬかではなくどのように最後を生きるのかという視点が正しい
・利用者様自身が主役。そのうえでご家族様がグリーフケアにつなぐ必要がない程の看取りを行える環境を作ることが必要
看取り介護について当たり前のことを理解していなかったと反省しています。


僕の伝えたいことを、このように理解していただけると本当にありがたい。これを機会に、新たなステージでの看取り介護の実践を期待したいと思う。

愛知慈恵会の皆さんと
コメントくださった方が書いているように、このような機会を作ってくれた社会福祉法人・愛知県慈恵会さんには、僕が感謝せねばならないだろう。(画像は、セミナー終了後に社会福祉法人・愛知県慈恵会さんの皆さんと記念撮影したもの。)

看取り介護セミナーは、今後もいろいろな形で、いろいろな場所で行う予定があるが、2時間とか3時間では伝えきれない内容もある。そのため全国7カ所で、1回5時間の看取り介護セミナーを行う予定になっている。(参照:日総研出版社主催看取り介護セミナー・すべての関係者に求められる生きるを支える介護

その幕開けは、11月3日(土:文化の日)に道特会館で行うセミナーだが、まだ開催が決定する最低人数に達していないそうだ。せっかくの機会であるのに、僕の地元の北海道だけ開催できないというのも悔しい。道内の皆様、ぜひ文化の日は札幌で、「本物の看取り介護」を学んでみませんか。

なお北海道以外の同セミナーの予定は下記の通りである。
仙 台地区:2019年1月26日(土)ショーケー本館ビル
東 京地区:2019年1月27日(日)LMJ東京センター
名古屋地区:2019年2月2日(土)日総研ビル
大 阪地区:2019年2月3日(日)田村駒ビル
福 岡地区:2019年3月16日(土)福岡商工会議所
岡 山地区:2019年3月17日(日)福武ジュリービル

いずれも10:00〜16:00(昼休み休憩1時間)の予定である。是非お近くの会場にお越しいただきたい。

また看取り介護講演に関連して、そこでお話しする内容につながるデータを集めている。「アンケートへの協力をお願いします。」にご協力いただけると大変ありがたい。こちらへの投票も、よろしくお願いします。

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アンケートへの協力をお願いします。


僕が実施する看取り介護講演のためのデータとして、8年ほど前にインターネットを通じて、皆さんの意見を集めさせていただいたことがあります。

その時に投票していただいた意見については、現在でも講演で紹介させていただいておりますが、8年という時間の流れを考えると、意識の変化ということも無視できなくなってきました。そのため改めて意識調査を行って、最新の数値データを集めてみたいと思いました。

そこで当時と同じ内容でアンケート投票フォームを作成しましたので、下記のフォームに投票し、ご意見があればそのフォームのコメント欄に記入していただきたくお願い申し上げます。

アンケートは2種類で、10/14までの受付とさせていただきます。結果については、後日このブログ記事にて分析・報告させていただきますが、すべての方が「結果を見る」をクリックしていただくと、リアルタイムで投票結果を確認することができます。

すべての人が安心と安楽の終末期を過ごすことができるために、終末期支援として何が必要かを知りうえで必要不可欠なデータとなりますので、どうぞご協力をお願いします。

皆さんのご協力をお願い致します。

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ニセモノの看取り介護は許されない


昨日から愛知県一宮市に滞在している。今日の一宮は朝から曇り空で、先ほどから小雨が降ってきた。少し心配な天気だが、気温は高すぎず過ごしやすい日になっている。

これからホテルをチェックアウトし、一宮駅直結のiビルに向かう。ビルの最上階シビックホールで講演を行う予定である。そのためブログ記事の更新時間もいつもより早くなっている。
一宮iビル
この白い建物がiビルである。ここにJR尾張一宮駅と名鉄一宮駅も入っており、6階は一宮市立図書館となっている。そのほか各種商業施設が入った複合ビルとなっている。とても立派なビルである。

昨日は3連休の最終日で天気も良かったこともあるのか、このビル内の休憩スペースに、たくさんの市民の方々が憩っている姿が見られた。このような素晴らしい場所で講演を行わせていただくことになり非常に光栄である。

僕が一宮市で講演を行うのは、今年2月以来2度目のことである。

2月の講演は、社会福祉法人・愛知慈恵会さんの職員研修ということで、「萩の里」という特養で講演を行った。

今回は介護関係者のほか一般市民も対象にしたオープン講演ではあるが、主催は前回と同じく愛知慈恵会さんである。参加料が無料という太っ腹の講演会で、13:00〜16:00まで「生きるを支える看取り介護〜最期まで自分らしく生き抜くためのサポート〜」をテーマにお話をさえていただく。途中休憩をはさんで170分の講演となる予定だ。

事前申し込みは必要なく、駆け込みでも無料で受講できるセミナーなので、急に時間ができた近くの方、ぜひ一宮駅までおいでいただきたい。

死者数が増え続ける中で、高齢者夫婦世帯や独居世帯が増えるわが国では、2030年には約160万人の死亡者のうち、47万人ほどが死に場所の定まらない「みとり難民」になる危険性がある。

そんなことがないようにするためには、暮らしの場で看取り介護ができる仕組みを創り、人生の最終ステージをどこで過ごそうと、最期の瞬間まで安心・安楽の支援ができる社会を実現する必要がある。

しかし実際には独居世帯が増える中で、「特殊清掃」が必要になるほど、長い時間遺体が放置されて発見されない「孤独死・孤立死」が増え続けている。医療機関や介護施設等では、「ターミナルケア」・「看取り介護」と称した「見捨て死」のような状態も存在している。

そこでは「痛いよ!!苦しいよ!!悲しいよ!!つらいよ!!」という声なき声が無視されるような悲惨な死に方をしている人が存在しているのだ。

全国の特養の8割以上が、「看取り介護」を実施できるとされているが、そこでも単に看取り介護加算を算定できるだけの「ニセモノ看取り介護」が横行している。

そこでは安心と安楽もなければ、看取り介護対象者本人の意思とは程遠い形での終末期の過ごし方が強要されていたりする。看取る人と看取られる人の間の心のつながりも存在せず、心に残るエピソードも生まれない放置死も見受けられる。それはまさに「死」を待つだけの放置であり、生きることを少しも支えていない状態といえる。

それは看取り介護ではないのだ。看取り介護とは、「死」というゴールがあるとしても、その本質は、「生きるを支えること」なのだということを忘れてはならない。

この世に人として生まれ、生き抜いてきた人たちの、「人生の最終ステージ」を心安らかなものにし、「いろいろあったけど、よい人生だった」、「生まれてきてよかった」と思うことができる時間を過ごせるようにしたい。長い人生を振り返って、残される愛する人に思いを伝えることができる時間を創りたい。そのために僕たちには何ができるのだろうか。

そのことをしっかり伝えたいと思う。

なお11月以降は、5時間の「看取り介護セミナー」を全国7カ所で実施する予定である。張り付いたリンク先から詳細をご覧いただき、お近くの会場で「生きるを支える介護」をじっくり学んでいただきたい。

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人生に死あり、という真理。


この国では毎日たくさんの人が亡くなっている。その死のほとんどは、ニュースになることさえなく、社会の片隅でひっそりと失われていく命である。

そんな中で、今週は大きく報道された二つの死があった。

数年前から「全身癌」であることを告白していた、女優の樹木希林さんは15日、75歳で旅立たれた。癌を抱えながら女優として仕事を続ける傍ら、「ものを残さない」として、終活にも努めてきた晩年だったようだ。

18日に胃がんのため、41歳という若さで旅立った山本KIDさんは、死とは最も遠いところにいると思えるようなファイターだった。リングに復帰を目指して闘病していたようであるが、願いかなわず旅立たれたことは無念であったろう。

お二人のご冥福を心から祈りたい。

しかしスポットライトが当たらない多くの「死」にも、様々なエピソードがあり、そこには旅立っていった人を、唯一無二の人と思う人々の深い悲しみや慟哭が伴う思いが存在する。

北海道を襲った震度7強の胆振中部地震でも、41名もの尊い命が失われた。そのことも決して忘れてはならない。

年々死者数が増え続けるこの国では、死に場所や死に方がますます多様化せざるを得ない。それはある意味、死ぬ瞬間までどう生きるのかが問われてくる問題とも言え、高齢者介護に関わる関係者には、やがて訪れるであろう、サービス利用者の「死」と「死に向かう過程」にどうかかわるのかということが問われてくる。

それは直接死の場面で関わりを持つことに限定されず、リビングウイルの支援とか、孤独死をしないように日ごろ関わるとか、様々な場所や形で、「死」というものを意識した接点が求められるという意味である。

今僕は、この記事を仙台のホテルの中で書いている最中だ。仙台の空を眺めながら、「死」とは何かと考えついて、脈絡もなくこんな記事を書いている。

今回仙台に来ている理由は、ある社会福祉法人さんの職員研修講師をと止めるためである。7月から月1回行ってきたその研修も、昨日の3回目でいったん終了となった。最終回のテーマは、「看取り介護」であったため、こんなことを思い立ったのかもしれない。

次に仙台に来る予定は、来年1月26日(土)であるが、その時に行う講演は、日総研出版社主催の看取り介護セミナーである。

この看取り介護セミナーは2年ぶりに行われる。

日総研セミナー自体は、昨年度も行っていたのであるが、テーマを「虐待防止」として、同時にそれは「介護の誇り」出版記念セミナーとして実施した。そのセミナーが全国を一回りして終了したので、今年度は改めて「看取り介護セミナー」として全国7カ所を回る予定になっている。

11/3(土:文化の日)に道特会館(札幌市)をスタートにして行うこのセミナーでは、看取り介護・ターミナルケアに関する最新事情と情報を満載にして、すべての介護関係者が取り組まねばならない実践論を伝えるつもりなので、お近くの会場にぜひ参加いただきたい。

5時間という時間を感じさせない内容であると評価されているので、参加料金が高くて恐縮だが、皆さんの貴重な時間とお金を無駄にしないセミナーとすることをお約束するので、ぜひ多くの人に聴いていただきたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2

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命と向き合う現場からの発信


国が発出している資料「2018年介護報酬改定の概要」には、地域包括ケアシステムの推進として、どこに住んでいても適切な医療・介護サービスを切れ目なく受けることができる体制を整備すると記されている。

そのために本年度からの介護報酬改定では次の3点を評価したとしている。
・ターミナルケアの実施数が多い訪問看護事業所、看護職員を手厚く配置しているグループホーム、たんの吸引などを行う特定施設に対する評価
・特養の医療体制の充実に対する加算を新設するとともに、その体制を整備した特養での看取り介護加算については、従前より高い単位を算定できるように評価
・居宅介護支援事業所にターミナルケアマネジメント加算を新設


つまり本年の介護報酬改定でも、看取り介護・ターミナルケアが重要であるとして、加算等で評価されているということになる。

これはわが国の死者数の増加と関連した対策である。2040年には2010年と比較して46万人死者数が増えることが予測されていることと関連したもので、医療機関以外の場所で、看取り介護・ターミナルケアを行っていかないと、増加する死者数46万人が、そのまま「看取り難民」となってしまう恐れがあり、そうならないように対策するという意味がある。

人はどこでも死ぬことができる。よって看取り難民とは死ねなくなる人という意味ではなく、死に際して誰にも支援を受けることができず孤独に死の瞬間を迎えることを言うのだろう。その中には、終末期の必要な支援を受けることができずに、悲惨な状態で最期の時間を過ごさねばならない人も含まれてくる。

孤独死の場合は、死後までその悲惨な状態が継続し、長期間遺体が発見されずに、「特殊清掃」が必要になるケースもある。そういう場所は、もう二度とだれも住めない状態になることが多い。

そうしないためにはどうしたらよいのだろうか。それは孤独死を、死の瞬間の問題として限定的に捉えることなく、高齢者等が地域社会や地域の人々とつながりをなくさないように支援することである。

一方、看取り介護が行われているという現場でも不思議な現象が起きている。看取り介護対象者を救急車で医療機関に運ぶべきかなどという議論が起きていたり、救急車をタクシー代わりにして、死亡診断を受けるためだけに息を引き取った利用者を医療機関に搬送したりするケースさえある。

看取り介護が年単位で行われて、看取り介護計画を更新しなくてよいのかなどという不思議な疑問が生じている現場さえある。

これらはすべて看取り介護に対する基本理解がないところから生じている問題である。ある意味それは、「看取り介護」と称する不適切対応が行われているという意味にもつながっている。

こうした状況をなくさねばならない。本当の意味での「看取り介護・ターミナルケア」が実践されなければ、将来自分の家族や自分自身の人生の最終ステージが、自らの望みとかけ離れたものになってしまう恐れがある。

そうした疑問や問題点をなくすために、今年も全国7カ所で1日5時間の「看取り介護セミナー」を行う予定になっている。

その皮切りは、僕の地元である北海道のセミナーだ。11月3日(土:文化の日)に道特会館(札幌市中央区)で10:00〜16:00の予定で開催される、日総研出版社主催・看取り介護セミナーにぜひ足を運んでいただきたい。

本物の「看取り介護・ターミナルケア」の実践論を、新情報を交えてお話しする予定である。日ごろの疑問の解決、新しい発見につながるセミナーと評判の高いこのセミナーは、北海道ではこの日、ここだけの開催となる。

忙しい中勤務調整して出席しても価値があるセミナーにする所存なので、ぜひ多くの人に会場にお越しいただきたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2

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救急車を呼ばなければならない看取り介護ってあり得るのか?


先日、講演依頼を受けている機関の担当者と、講演の打ち合わせをメールでしていたところ、講演テーマに関連して質問を受けた。それは介護施設の看取り介護に関する質問で、その内容とは以下の通りである。

>施設の方からの話で、「看取りをすると決めていても、実際に看取りをする際にパニックになり、職員が救急車を呼んでしまうこともある」と伺いました。施設で看取りをしていく中で救急搬送のことについて、どのような取り決め等をされているのかお聞きできればと思っています。

この質問をいただいて僕が最初に感じたことは、実際に介護施設で「看取り介護」を行っているケースで、このような状況があるとしたら、まだまだ看取り介護とは何ぞやという基本理解ができていないまま、看取り介護と称した「低品質ケア」を実施している施設があるのだなということである。

そこで僕は次のような回答をした。

「そもそも救急救命と看取り介護は相反するもので、救命処置をとらないのが看取り介護の原則ですから基本的な看取り介護の理解ができない状態で、加算をとるためだけに対応している施設がそのような状態になります。まずは看取り介護の教育がされなければならないものと思います。当然のことながら看取り介護計画書に同意をいただく際には、同意者に救急対応が必要でないことを説明しております。」

終末期とは、医師によって不治の病であると診断をくだされ、それから先数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)のうちに死亡するだろうと予期される状態になった時期をいう。この段階で、積極的な延命治療を行わずに緩和治療だけを行いながら、残された時間を、その人にとって大切な人生の最終ステージと考えて、それにふさわしい過ごし方ができるように支援を受けることを選択した場合、その瞬間に対応の主役は、キュアからケアに変わる必要があり、そのことを「看取り介護」というのである。

そして看取り介護で一番大事なことは、対象者が最期の瞬間まで「安心・安楽」に過ごすということである。

しかしそれは「死」に向かう過程であり、対象者は確実に死の瞬間を迎えるのである。その際にバイタルが急に低下するなどの急変はあって当然である。あらかじめ想定されるそのような変化は、救急対応して改善を図る種類のものではない。

不必要な延命治療を行わないことが看取り介護の前提であることを理解すべきである。

そもそも看取り介護は、「医師が一般的に認められている医学的知見から回復の見込みなしと診断した者」とされているのだ。回復の見込みがないのだから、救急救命が必要な状態になることは通常想定されない。よって看取り介護対象者の急変時に救急救命搬送することなどあり得ないのである。そのことを理解し、スタッフ間で意思統一を図ることが重要である。

このことに関連して考えなければならないことは、看取り介護に移行する判断基準の問題である。前述したように終末期とは、余命がおよそ半年以内の時期であり、それより短い余命診断はあり得ても、それより長い余命診断がされる時期に、「終末期」と判定されることはないというのが一般的な解釈である。

そうした「終末期判定」がきちんとされているのだろうか。もしかしたら看取り介護対象者を緊急搬送する施設では、終末期でない人もその対象としているのではないかという疑問が生じざるを得ない。

終末期判定さえきちんとできておれば、看取り介護対象者への救急救命などという発想には至るわけがないのである。

救急車の問題で言えば、死亡確認のために救急車で遺体を病院に運んで死亡診断をしているような介護施設もあると聴く。こうした施設では施設所属医師が何をしているのかと問われてくるだろう。

看取り介護加算を算定することができる体制にある特養は、全国で8割を超えている。老健でのターミナルケアも、在宅復帰機能に反するものではないとして、少ずつ実施施設の数が増えている。その中で看取り介護の正しい理解がされないまま、「看取り介護」と称したニセモノの対応が行われているのは問題である。

終末期判定と余命診断がきちんと行われる必要があることも含め、看取り介護の関する様々な誤解や疑問を解くために、今年も11月からぜんこく7カ所で1日5時間の「看取り介護セミナー」(日総研出版社主催)を行う予定になっている。

その皮切りは、11/3(土:文化の日)の札幌セミナーである。人生の最終ステージに寄り添うための正しい理解を促すセミナー内容とするつもりである。それは看取り介護の場面だけではなく、ケア全般に通じる考え方と方法論でもある。

このセミナーを高齢者介護に携わる多くの方に聴いていただきたい。札幌を皮切りに、仙台、東京、名古屋、大阪、福岡、岡山と回る予定である。必ず実りのある時間にすることを約束するので是非会場までお越しいただきたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2

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余命診断が行われていない看取り介護はあり得ない


看取り介護を実施するにあたって、対象者が終末期であると判断することは医師にしかできない。

医師は看取り介護対象者となる可能性のある人について、病状を把握して、その状態について医学的知見に基づいて終末期判定を行うわけである。

この時、終末期という概念が問題になるが、それは数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)のうちに死亡するだろうと予期される状態になった時期のことを意味しており、それが「一般的に認められている医学的知見」ともいえる。

このように終末期は人によって数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)という開きがあるのだから、医師は終末期診断に際して、同時に余命診断が同時に求められる。

なぜなら終末期であると判断した後、看取り介護に移行する場合に、お別れの時間がどれだけの残されているのかという予測は、看取り介護対象者・支援者双方に重要な意味があるからだ。当然それは看取り介護対象者の旅立ちに備えた、双方の心の準備という意味もある。

勿論、余命診断は目安であり、完全かつ正確にその期間内で看取り介護が終了するとは限らない。予測よりも短時間で別れの時を迎える場合もある。そこには様々な不確定要素が含まれているのだから当初診断された時期に多少の長短が生じることも当然あるだろう。

だからといってその時期が大幅にずれ込んで、年単位で看取り介護を行うということにはならない。もしそんなことがあるとすれば、それは終末期であるという診断自体がきちんとされていないという意味になる。

終末期判定がきちんと行われず、余命診断も行われていない状態の看取り介護があってよいわけがない。そもそも看取り介護がいつまで続くかもわからない状態は、看取り介護対象者と家族及び支援者にとって、先が見えないという状況を作り出し、最期の時間を共有しながら、お別れに伴うエピソードを作ることの大きな障害にもなりかねない。その状態は対象者も家族も常に不安を抱え、何をどうして良いかわからない状態に陥らせるかもしれない。当然それはQODにも影響し、その質は低下せざるを得ない。そうしてはならないのである。

ところが先日、ある方からメールで次のような質問を受けた。「看取り介護になってから1年を経過して、長期目標の期間が過ぎましたが、状態もほとんど変化はないのに、看取り介護計画であっても、更新作成が必要ですか?

はあっ?看取り介護が1年以上続いているって、どういう状態だろう。その施設で看取り介護対象者を終末期と診断した医師は、終末期判定をどのように理解しているのだろう。前述したとおり、終末期とは、治療を行っても元の状態に戻ることは不可能で、積極的な延命治療を行わねば、余命がおよそ半年以内であるという状態である。これは一般的に認められている医学的知見である。

そして前述したように余命診断は看取り介護を開始するにあたって重要となるし、余命診断がきちんとできておれば、「看取り介護になってから1年以上経過しているが、計画は見直す必要はないか?」などという、おかしな質問がされるわけがない。

繰り返すが、本来終末期とは、余命半年以内の状態をいうものである。予想外の回復がないとはいわないが、その場合は看取り介護をいったん終了せねばならず、看取り介護を1年以上継続して、看取り介護計画を更新作成するということにはならない。

基本的には1年以上にもわたる看取り介護というものが存在することの方がおかしい。医師はそのことをどのように判断しているのか逆に聴いてみたい。終末期判定と余命診断を行うという医師の重要な役割を放棄しているとしか思えないのである。

9.25・尾張一宮講演
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すべての介護事業関係者に求められる生きるを支える看取り介護スキル


多死社会を迎えているわが国では、2040年には死に場所が定まらない47万人の看取り難民が生ずる可能性があると言われています。

そのため医療機関以外に死に場所を求めるために、これまで様々な取り組みが行われてきました。

例えば2006年の診療報酬と介護報酬のダブル改定では、診療報酬に在宅療養支援診療所という、在宅のターミナル診療を行う医療機関を位置付け、介護報酬では特養の加算として看取り介護加算を新設しました。それ以降、診療・介護両報酬の看取り介護加算・ターミナルケア加算を拡充させて、医療機関以外の暮らしの場で看取り介護・ターミナルケアを行うための改革が続けられているわけです。

2018年の診療・介護報酬のダブル改定も同様の主旨で改定が行われました。地域包括ケアシステムの推進策として、どこに住んでいても適切な医療・介護サービスを切れ目なく受けることができる体制を整備することが目的といることがそれにあたります。それは終末期の医療や介護も、地域の暮らしの場で受けることができるという意味で、死ぬためだけに居場所を変えなくてよいようにするための改革でもあります。

そのため介護報酬改定では、ターミナルケアの実施数が多い訪問看護事業所、看護職員を手厚く配置しているグループホーム、たんの吸引などを行う特定施設に対する手厚い評価がされるとともに、特養の医療体制の充実に対する加算を新設し、その体制を整備した特養での看取り介護加算については、従前より高い単位を算定できることとしました。さらに居宅介護支援事業所の加算報酬としてターミナルケアマネジメント加算を新設したのです。

これらは介護施設などの居住系系施設も地域社会の中の居所であることを明確に示すとともに、その場所で安らかに死の瞬間を迎えることができる体制を整備しようとしているわけです。このように死ぬためだけに入院しない社会の実現を目指すことは、すなわちすべての国民の死に場所が定まるという意味に通じ、その場所で最期まで人間らしく生き続けられるということを意味しています。

よって看取り介護・ターミナルケアとは、死ぬ瞬間のケアにとどまらず、そこにつながる生き方そのものに対するケアなのです。このことを間違ってはなりません。

一方で現代社会は、独居死、孤立死、孤独死などの変死体に対する特殊清掃が増えている社会でもあります。それは隣人の存在を死臭によってはじめて知る社会という意味でもあります。それでよいのでしょうか?

そうした状況に至る孤独死の7割を男性が占めています。それは男性が仕事をリタイヤした後、社会との接点をなくして、地域の中にいても誰ともつながっていない例が多いことを表しているのではないでしょうか。

それは死に方は生き方と関係しているという意味ではないでしょうか。社会とどのようにつながりながら暮らしているかが大きな問題なのです。

そうであれば特殊清掃に至らないような死に方を模索するのであれば、死の瞬間をいかに支援するかを考える以前に、その人たちが社会とつながりながら、地域の一員として営む暮らしの支援がまず大事であることに気づきます。そういう意味でも、看取り介護・ターミナルケアを考えることは、死の瞬間だけを見つめるのではなく、そこに至る生き方=日常の暮らしぶりを見つめることに他ならないのです。

介護関係者の皆様は、自分の担当利用者にだけ関心を寄せるのではなく、自分の担当利用者が住む地域に関心を寄せ、地域社会にどのような人が、どのように暮らしているのかに関心を寄せてほしいと思います。それが地域包括ケアシステムが深化するための第一歩だと思うのです。

今年度もそうしたメッセージを伝えるためのセミナーを、11月〜来年3月までの予定で、全国7カ所で実施します。日総研出版社主催・看取り介護セミナーすべての介護関係者に求められる生きるを支える看取り介護〜最終ステージの判断基準・家族対応を学ぶ」は下記の日程となっております。

札幌地区:2018年11月3日(土・祝)10:00〜16:00 会場:道特会館
仙台地区:2019年1月26日(土)10:00〜16:00 会場:ショーケー本館ビル
東京地区:2019年1月27日(日)10:00〜16:00 会場:LMJ東京研修センター
名古屋地区:2019年2月2日(土)10:00〜16:00 会場:日総研ビル
大阪地区:2019年2月3日(日)10:00〜16:00会場:田村駒ビル
福岡地区:2019年3月16日(土)10:00〜16:00会場:福岡商工会議所
岡山地区:2019年3月17日(日)10:00〜16:00会場:福武ジョリービル


4年目を迎えるこのセミナーの過去の参加者の声の一部を紹介します。
看取り介護セミナー参加者の声
看取り介護は、日常的ケアとは異なる特別なケアである←間違っています。
看取り介護は、職員に過度なストレスを与え、離職率が高まる恐れがある←間違っています。
看取り介護を実施するためには、特別な医療支援体制が必要とされる←間違っています。

看取り介護とは決して特別なケアではなく、日常介護の延長線上にあるものであり、日頃の介護の質を高める努力と、高齢者の最晩年期の暮らしを護るという理念が求められます。そして看取り介護とは死の援助ではなく、人生の最終ステージを「生きる」ことをいかに支えるかが問われるものです。本セミナーでは、そのために何をすべきなのか、看取り期の判断基準や本人および家族の同意、職員教育の実際等についてわかりやすく解説します。

これらのことを理解して、適切な看取り介護・本物の看取り介護を実践する施設は、職員の定着率が高まり、地域住民からも選択される施設になっています。そうした実績があるセミナーです。

今から勤務調整を念頭に置いて、是非会場にお越しください。

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思いをつなぎ、命をつなぎ、歴史がつながれる


今僕は松山市の「愛媛県総合福祉会館」という場所にいる。

今日は午前10時から愛媛県老施協が主催する管理職員研修の講師として、このあと15:30まで講演を行なう予定になっている。正味4時間30分の講演であるが、この記事はその合間の昼食休憩時間を利用してあわただしく更新しているので、思いつくままにいつもより短い記事の更新になると思う。

何を書こうかと考えていたが、思いつくままに(以前にも何度か書いたことと重複はするが)看取り介護という言葉の表現について書こうと思う。

2006年の介護報酬改定時に、特養のターミナルケアが始めて報酬上の評価となり「看取り介護加算」が新設された。「看取り介護」という言葉は、その時初めて造られた言葉である。

従来から使われていたターミナルケアという言葉は、医療機関や医療系サービスで使うべき言葉だから、介護保険サービスの介護系サービスに新設される加算名は別の言葉を使うべきだとして、関係職能団体が宿題を与えられた結果、この言葉が生まれたわけである。

ターミナルケアを日本語に訳すとすれば、終末期介護という表現が考えられるが、「終末」という言葉を使うと、それがあたかも「」の支援であるかのような誤解を与えかねない。ターミナルケアは、命の炎が燃え尽きる時期が間近であることが明らかな人に対するケアであるとしても、それは旅立つ人が死の瞬間を迎えるまで、尊厳ある人としての暮らしを支える行為であり、あくまでも生きることを支援する行為である。

よってこうした誤解を与えかねない名称は好ましくないとして、新しい表現方法がないかと関係者は悩まされたわけである。その時古くから日本語として存在していた、看取り、看取るという言葉からヒントを得て、「看取り介護」という新語をひねり出したのが、この加算名の裏に隠されたエピソードである。

しかし突き詰めて考えると、この言葉は少々おかしい。看取り・看取るとは、死に行く人を看護するという意味だけではなく、「病人の世話をする。看病する。」という意味もあり、看取り=看護なのである。そうすると看取り介護という表現は、「看護介護」という表現ともいえ、日本語としてはやや不自然である。

そこで僕は、「看取り介護」という言葉を、「つなぎ介護」という言葉に変えたらどうかと提案しているところだ。

看取り介護は特別な介護ではなく、日常介護や日常生活とつながっている介護だ。そのことはこのブログ記事で何度も訴えてきた。

そして実際に誰かの旅立ちを見送る瞬間や、そこにつながる日々の中では、看取る人と看取られる人との間に様々なエピソードが生まれ、そのエピソードが人々の心に刻まれることによって、旅立つ人と残された人の間で命のバトンリレーが行われる行為でもあることも紹介してきた。

それはまさに旅立つ人の命が、残された人につなげられていくという意味である。

様々なつながりがそこには存在し、人の命が思い出として誰かの心につながって残されていくことが、人の歴史をつくっていくのではないだろうか。そしてつなぐ・つながれていくというのは一方的な行為ではなく、看取る人、看取られる人、双方に意味があり、双方の思いが込められた言葉でもある。

それは様々な場面で心を紡ぎ、ご縁を紡ぐという意味なのだから、人にとって最も大事な行為が死の瞬間まで続いていくという意味にもなる。それは人がこのように生まれ、様々な人生を生きる意味にもつながっていくのではないだろうか。人はこの世に生まれ、日々の営みを続けていくそのことだけでも意味があるということだ。

そういう意味でも「つなぎ介護」という表現が、ターミナルケア・看取り介護に替わる言葉として、最もふさわしいのではないかと考えるのである。

一般的にも浸透した「看取り介護」という言葉を、今更変える必要を感じない人のほうが多いのではないかと思うが、ターミナルケアとは「生きるを支え」、「看取る側の人と看取られる人の双方に意味がある」という観点から,名称見直し議論が起きないものかと期待している。

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看取り介護は介護事業者に課せられる基本介護です


多死社会を迎えている我が国では、2040年には死に場所が定まらない47万人の看取り難民が発生する可能性がある。

そのため国は対策を進め、2006年以降診療報酬に在宅療養支援診療所を位置付け、介護報酬では看取り介護加算・ターミナルケア加算を新設・拡充してきた。つまり医療機関以外の暮らしの場で看取り介護・ターミナルケアを行うための制度改正、診療・介護の両報酬改定が行われてきたわけである。

2018年ダブル改定も同様の主旨となっており、どこに住んでいても適切な医療・介護サービスを切れ目なく受けることができる体制を整備することが目指された。具体的には介護報酬改定では、居宅介護支援事業所にターミナルケアマネジメント加算を新設したほか、ターミナルケアの実施数が多い訪問看護事業所や、看護職員を手厚く配置しているグループホーム、たんの吸引などを行う特定施設に対する評価を手厚くしている。

さらに特養の医療体制の充実に対する加算を新設するとともに、その体制を整備した特養での看取り介護加算については、従前より高い単位を算定できるようにした。しかしこのことは看取り介護を行えない特養はいらないという国のメッセージが含まれているという意味にもなり、特養関係者はそのことを強く自覚してほしと思う。

どちらにしてもこれからの我が国では、死ぬためだけに入院しない社会の実現が急がれていることは間違いのない事実である。

さてここで注目したいのは、今回国が示した「看取り難民」の意味である。それは「死に場所が定まらない47万人の看取り難民」という表現となっている。

人は必ず死ぬ。そしてどこであろうと死ねないということはない。そうであるにもかかわらず「看取り難民」という言葉を使う意味は、死に方も問われているという意味で、それはとりもなおさず人として最期までどう生きるのかという、「生き方」が問われているという意味である。

つまり死に場所が定まるということは、その場所で最期まで人間らしく生き続けられるということに他ならない。

例えば平成25年3月に示された、地域包括ケアシステムにおける今後の 検討のための論点(地域包括ケア研究会)では、『毎日、誰かが訪問してきて様子は見ているが、翌日になったら一人で亡くなっていたといった最期も珍しいことではなくなるだろう。』・『常に「家族に見守られながら自宅で亡くなる」わけではないことを、それぞれの住民が理解した上で在宅生活を選択する必要がある。』として、死の瞬間が誰からも看取られなくとも、そこに至る過程で、必要な支援が適切に行われておれば、それは決して孤独死ではなく、 『在宅ひとり死』であり、それは否定されるものではないという考え方が、『国の資料』として示されているのである。

それが本当に孤独死ではないのかという判断は、個人の価値観によって違うだろうし、違って構わないと思う。要はすべての日本国民が、最期の時間を過ごせる場所と、そこまでの過程でどのような支援を受けることができるかを選択できる社会が求められているということだ。

そうであれば保険・医療・福祉・介護の関係者は、どのステージであっても、どんな職種であっても、看取り介護・ターミナルケアに関わって、適切に支援できるスキルを備えおく必要があるということになる。その際に勘違いしてはならないことがある。

看取り介護は、日常的ケアとは異なる特別なケアであるという考えは間違っている。

看取り介護は、職員に過度なストレスを与え、離職率が高まる恐れがあるという考えは間違っている。

看取り介護を実施するためには、特別な医療支援体制が必要とされるという考えも間違っている。

看取り介護とは日常介護の延長線上にあるものであり、日頃の介護の質を高める努力と、高齢者の最晩年期の暮らしを護るという理念が求められるものの、その考え方さえしっかり持っている場所であれば普通に実践できるケアである。そもそも看取り介護とは死の援助ではなく、人生の最終ステージを「生きる」ことをいかに支えるかが問われるものなのだから、それは介護支援の本旨であり、それができない介護事業者など本来あってはならないのである。

たしかに看取り介護には医療的支援が欠かせないが、それはあくまで緩和医療であり、治療的関わりではないし、対象者が旅立つ瞬間に医師や看護師が居なければできない支援行為ではない。これは「介護」であることを忘れてはならない。

そしてどこで終末期を過ごすのかという判断は、サービスや施設の種別で選ぶべき問題ではなく、その実践力があるかどうかという判断で選ばれることになり、そこで選択される事業者になることが、厳しい時代で介護事業の経営を続けいていく重要な要素につながっていく。

僕の看取り介護講演では、そのようなことをノウハウを含め、かつ具体例を交えてお話しさせていただいている。介護事業関係者の方には是非一度受講していただきたい。

誰でも参加できるオープンの看取り介護講演として、6月16日(土)14:00〜16:00・パルティとちぎ男女共同参画センター(栃木県宇都宮市)で行われる『訪問看護ステーション花みずきセミナー』が予定されている。参加料は500円(資料代)で、どなたでも参加できるセミナーなので、お近くの方は是非お越しいただきたい。

また6月30日(土)13:30〜17:00・三間コスモスホール(愛媛県宇和島市)で行う、『宇和島地区広域事務組合主催・意識改革研修』の中でも、90分間看取り介護講演を行う。こちらは前半の90分が、「介護サービスの質を担保する意識改革」というテーマで両方の講演が無料で聴くことができる。こちらにも是非お越しいただきたい。

詳細は、それぞれの講演名に張り付いたリンク先から見ることができるので、確認願いたい。

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日本在宅医学会第20回記念大会(講師・シンポジスト)報告


世間はゴールデンウイーク真っ最中だが、僕は土曜日から品川に滞在し、昨日と今日グランドプリンスホテル新高輪 国際館パミールで行われている、「日本在宅医学会第20回記念大会」に参加している。

この大会には全国の医療関係者、福祉・介護関係者、行政関係者2800人が参加している。シンポジウムやセミナー等は10カ所に分かれた会場で同時進行し、参加者はそれぞれ希望する会場を自由に渡り歩くスタイルだ。

僕は昨日の午前中にシンポジストとして登壇し、介護施設での看取り介護の実際や、その際における相談援助職や介護職員の役割、実際にしていることなどをお話しした後、ほかの3人のシンポジスト(医師2名、厚労省医療課長)と、多死社会における医療・介護連携と終末期援助の在り方について討議した。

そのあと午後から職域横断セミナーの基調講演として「死を語ることは愛を語ること」をテーマに、介護施設での見取り介護で生まれる様々な物語とその意味を中心に語り、看取り介護とは死の瞬間をいかに看取るかというだけではなく、そこまで生き続ける対象者の暮らしにいかに寄り添うかという過程が重要であることを、具体例を示しながら語ってきた。

日本在宅医学会
この学会は在宅医学会ということで、医療関係者が参加者の多数を占めていることから、13:30〜行われた僕の基調講演の会場には、参加者が少ないのではないかと心配していたが、予想を超えて会場がほぼ満席に埋まる盛況ぶりだった。

しかも受講者は福祉・介護関係者だけではなく、在宅ターミナルケアにかかわっている医師や看護師さんも多数おられた。

うれしいことに質疑応答では、在宅医療にかかわっている医師の方から、「質問ではなく感想として、大変すばらしい実践の報告に感動した。自分のモチベーションも上がった」という意見もいただいた。

会場では顔見知りの方も幾人かおられた。かねてより知り合いの方で、何年かぶりにお会いする人もいて懐かしかった。その中には僕が施設長をつとめていた社会福祉法人の母体医療法人に勤めていた懐かしい顔もあった。北海道からもたくさんの関係者が参加していた。

新しくつながることができた人もたくさんおられた。その一人であるシンポジストの司会を務めたS先生は、長崎市で在宅医療にも力を入れている内科病院を経営しておられるそうであるが、特養も経営しているとのことで、僕の話を聞いてぜひその特養の職員にも話を聞かせたいとして、7月に同市で講演を行う依頼を受けた。講師業を中心に個人営業で飯を食っている僕としては大変ありがたい話である。喜んでお受けさせていただいた。

このほか道内や青森、東京、福岡などからも講演を行ってほしいという話をいただいたので、ぜひ具体化してほしいと思っている。全国どこでも駆け付けますよ。

surface
今回の旅は、sarfaceを新規購入して初の旅となった。やはり使い勝手がよくて便利である。こんなふうに羽田空港の「さくらラウンジ」で、この記事を更新しているが、家の書斎でPC作業をしているのと同じで、まったくストレスがない。

そうであるにもかかわらず重量が結構軽いので、スーツケース(キャリーバッグ)で持ち歩く必要はないので、今後の夏の移動なら2泊くらいまで薄いビジネスバッグを片手に一つ持つだけで移動できそうだ。手荷物の大きさと重さが減ることは、旅の多い僕にとってこのことはとても重要なことである。今後の旅がますます楽しくなる。

それにしても、看取り介護は今後、あらゆる場所で求められていくが、看取り介護とは何か、どういう状態を看取り介護というのかは、まだまだ理解されていない部分が多い。それは死の瞬間をいかに支えるかに限るものではなく、死に行く過程までの「生きるを支える介護」である。その中で看取られるものと看取るものとの間に、様々な物語を紡ぎ、命のバトンリレーを行うことであり、看取り介護加算・ターミナルケア加算を算定していること=看取っている、ということにはならない。

こうした正しい知識を示し、職員の使命感と感動につながり、モチベーションがアップする看取り介護の方法論を示す「看取り介護セミナー」をご用命の方は、是非お気軽にメール等で連絡していただきたい。職員の定着率アップにもつながる、真実の看取り介護を伝授します。

いきなりの連絡も何ら失礼ではないので、遠慮なさらずに一度打診していただきたい。それでは全国の皆様からの連絡をお待ちしております。

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旅立つ瞬間を看取る意味


我が国において現在、「孤独死」の明確な定義はない。

一般的に孤独死とされているものは、事件・事故以外の病死・自然死等で、「自室内で、誰にも看取られず孤独のまま死亡すること」と解釈されている。だが孤独死の法的な定義が存在しないため、こうした状態は、警察の死因統計上では「変死」という扱いになるほか、行政においては「孤立死」という言葉で表現されることもある。

そしてこうした場合、第三者や身内の方に発見されるまで、しばらく期間が経過していしまうケースが多くなり、遺体が発見されても身元が確認できなかったり、いわゆる特殊清掃が必要になるケースも多い。

向こう三軒両隣の関係が希薄になった現代社会では、隣人の存在を死臭によってはじめて意識するというケースも珍しくなくなっているのである。

そういうケースをできるだけなくそうというのが、地域包括ケアシステムの目的の一つでもある。

ところで、僕が行う看取り介護講演では、医療機関や介護施設で死の瞬間を迎えるからといって、必ず看取り介護・ターミナルケアが行われているわけではないとしたうえで、そこには「医療機関内孤独死」・「施設内孤独死」が存在すると指摘している。それは医療機関入院中の方や、施設入所者の方が、見回りと見回りの間に息を止めて、死の瞬間を誰も看取ることのできなかった死のことを指した表現だ。

それに対して、死の瞬間を看取ることができないからといって、きちんとした終末期の対応が行われておればよいのではないかという意見もある。そこまで頑張る必要はないのではないかという意見もある。

確かにそうだろうと思う。終末期であるというコンセンサスのもとに、適切な対応さえできて居れば、死の瞬間を必ずしも看取らねばならないことではないという意見に反論はない。

在宅死であっても、死の瞬間に誰かが傍らについていなくとも、日常の支援行為が適切に行われておれば、それは孤独死ではなく、「在宅ひとり死」に過ぎないので、見回りの際に息を止めていることが確認される死も、「ひとり死」であり孤独死ではなく、それは不適切ではないという考え方はあって良い。それは一つの価値観として認められて良いだろうと思う。

もともと人間は一人で旅立っていくのが本来の姿なのかもしれない。一人でどこにいても死ぬことができるのが、命ある者の姿なのかも知らない。まして医療機関や介護施設で旅立つ人が、その瞬間を誰からも看取られずとも、その遺体が何時間も放置されることはないのだから、問題はないともいえるわけだ。

しかし同時に思うことは、誰しもが「ひとり死」を受け入れるわけではないということである。そういう人たちの傍らで、手を握って声をかけるために僕たちに何ができるかを考え続けるためにも、医療機関の中でも、介護施設においても、孤独死は存在すると訴え続けたい。

そして旅立つ場面で傍らで看取る誰かが存在するということによってしかできないこと、生まれないものがあるのだということも訴え続けたい。

家族などの親しい関係の人が、旅立ちの瞬間を看取ることで生まれる物語がある。そこには旅立つ人の思いや看取る人の思いが、残された方々の胸に深く刻まれる様がある。それを僕たちは命のリレーと呼んでいる。

家族が旅立ちの瞬間を看取ることができないケースも多々ある。高齢ご夫妻で、連れ合いの死の瞬間を看取りたいと希望しても、自分の体調がそれを許さないケースもある。その時、その人に替わって施設の職員が旅立ちの瞬間を看取ることができたならば、息を止める瞬間にどんな様子だったのか、最期に発した言葉はないのかを、看取ることができなかった遺族に伝えることができる。そこに居たものにしか伝えられない言葉により、遺族は臨場感をもってその思いを受け取ることが可能になる。そこでも命のリレーは生まれるのだ。

想像やフィクションでしかない事実だけが伝えられるものがあるということだ。

90代の夫の死の瞬間を看取ることができなかった80代の妻は、最期の瞬間を看取った職員に、その場面の様子を確認するように問いかけた。「苦しまなかったかい。」・「痛がらなかったかい」・「寂しがっていなかったかい」・・・。安らかに眠るように旅立っていった様子を聴きながら、うなづいきながら涙をぬぐった妻は、その時に介護職員から聴いた話を、お通夜の席で家族や親せきに向かって何度も語り聞かせた。その話の内容は、あたかもそこに自分がいるかのようであった。・・・それはきっと意味のあることなんだろうと思う。

僕達の仕事は、一見無駄と思えることであっても、できることを真摯に続けていくことに意義があるのだろうと思う。そこまで頑張らなくてよいよといわれようが、頑張ることができることは続けていこうと思う。

それは、人間と命という最も崇高なものに向かい合うものの責任である。

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自宅での看取り介護に必要とされるもの


我が国では昭和20年代まで自宅で亡くなる人の割合が、全死者数の8割を超えていた。

調査データが存在する範囲で言えば、その数値は昭和26年をピークに減少が続き、医療機関において死亡する人の割合が年々増加し、昭和51年にその数値が自宅で死亡する者の割合を上回り、現在、医療機関における死者数は、全死者数の8割を超える水準となっている。

国は多死社会に備え、在宅でのターミナルケアを推進するために、2006年(平成18年)に診療報酬上の評価として、在宅療養支援診療所が設けたが、それにより在宅で亡くなる方の割合も徐々には増えている。

同時期に特養の介護報酬に看取り介護加算が新設されたことをきっかけに、他の介護施設や特定施設・グループホームにも看取り介護・ターミナルケアに関する加算評価がされるようになったことで、それらの施設で亡くなる方の数も増えている。しかし医療機関で亡くなる人の割合が8割を超えていることに変わりはない。

しかしこの割合は、今後大きく変化せざるを得ない。

死者数の増加に比例して、医療機関のベッド数が増えるわけではなく、むしろ減ることになるために、医療機関で亡くなる人の割合は、必然的に減っていくのである。そのため自宅や介護施設、居住系施設で亡くなる人の割合が増えることになる。

それは好む好まざるにかかわらず、身内の最期の瞬間を、医療機関以外の別な場所で看取らねばならない人が増えるという意味だ。

特養や特定施設、グループホームは看取り介護を行うことが常識であると考えねばならないし、それは単に看取り介護加算を算定するだけの意味ではなく、終末期を迎えた方を最期の瞬間まで安心・安楽の環境を保ちながらケアするという意味であることを理解せねばならない。そこに家族が関わりながら、旅立つ人々の人生の最終ステージの物語を紡いでいくことが、それらの施設に求められていくことも見据えていく必要があるだろう。

僕が特養で総合施設長を務めていた際、その特養に40日間泊まり込んで母親を看取った50歳代の主婦の方が居られた。その方は亡くなられた方の一人娘であり、そのケースは当該施設に家族が連泊した最長日数であるが、それには訳がある。

僕がいた施設は、北海道の登別市の施設だったが、娘さんが住んでいる場所は、神奈川県の川崎氏だった。もともとは登別市の母親の家の近くに住んでいたものの、夫の転勤により遠く離れることになっていたのだ。そのため何かあってもすぐ駆けつけてこれないことを慮って、看取り介護に移行する前の段階で、何かあっても慌てないように、体調が不良であることについて連絡を入れた。

今後看取り介護に移行する可能性があることを伝えたに過ぎなかったが、その時娘さんは、「すぐにそちらに行きます」といわれた。そん必要はまだないことを告げる僕に対して娘さんが言われたセリフは次のような内容であったと記憶している。

「私、嫁に行ってから母さんと一度も一緒に暮らしていないんです。娘として何もしていない自分が、母の死に目にあえないとしたら、私一生後悔すると思うので、母がそのような体調であることを知って黙って待っていることはできません。長くなることも覚悟しているので、側に居させてください。」

そんな風にして、川崎から駆けつけた娘さんは、結局40日間特養に泊まり込んで母親を看取った。

もしこれに似たケースで、自宅が入所施設の近くにある場合、そのように長い期間、特養に泊まり込んで看取ることができるならば、母親を自宅に引き取って看取ることも可能なのだろうか。

しかし長年別居していて、家庭を持っている方が、夫の身の回りの世話をはじめとした家事をしながら、自宅で看取り介護を行うことは、介護施設に泊まり込んで、職員の支援を受けながら看取り介護に関わることとは根本的に違いがあるだろうと思う。

昭和20年代に自宅で家族の旅立ちを看取ることができた大きな理由は、子供の数が多かったからという理由だけではなく、親と同居している子が多く、同居世帯を看取り介護の拠点にできたという意味があるように思う。

果たして一人暮らしの自分の親を、別居している子がどこで看取ることができるだろうか。おそらく看取り介護が必要になったことを理由に、自分の自宅に親を引き取ってケアできると考える人は多くはないだろう。むしろそれまで暮らしていた親の自宅で、家族が関わりながら看取ることはできないかと考える人が多いのではないか。

そうすると、今後在宅での看取り介護・ターミナルケアを増やしていくためには、一人暮らしの高齢者に対し、子供をはじめとしたインフォーマルな支援者がどう関わるかということが重要な課題となる。その中には、「終末期の支援行為を自分ができるのだろうか」という心理的なバリアの克服という問題も含まれるだろう。

そうであれば今後ピークに達する多死社会に備えて、今から我々関係者は、地域社会に向けて、自宅での看取り介護・ターミナルケアの際に、医療の専門家でも介護の専門家でもない家族であっても、できることがたくさんあり、特別なことをせずとも、自宅で家族の旅立ちを看取ることは可能であるといことをきちんと啓もうするとともに、在宅の看取り介護・ターミナルケアの際にどのような社会資源を利用できるのかを、広く周知する必要があるだろう。

在宅でのターミナルケアを専門としている医師の存在も知らない人は多いし、訪問看護師や介護支援専門員等が多職種連携チームを組んで支援してくれることを知らない人も多い。「多様化する看取り介護の場所と方法」という記事の中で紹介している、非接触バイタル生体センサーなどを利用して遠隔で安否確認ができる見守りシステムも知らない人が多い。そうした機器を活用して、地域の医療機関(基幹医院、かかりつけ医など)、民間企業(タクシー会社・弁護士など)と家族を医療の視点でつないで、在宅での看取り介護支援を行っているワーコンプロジェクトのような会社もある。

こうした情報を地域に発信しながら、医療機関で亡くなることが当然だという意識を変えていく必要があるのではないだろうか。

医介塾総会
画像は3/31に東京都大田区で行われた医介塾総会での記念写真。ここでも保健・医療・福祉・介護関係者が一堂に会して看取り介護・ターミナルケアの在り方を議論した。

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居住系施設における看取り介護


僕は特別養護老人ホームに三十数年間務めてきたので、全国各地で僕が行う介護実務の講演も、取り上げるケースは特養時代のものが主である。

看取り介護の実践も特養という場において行ってきたため、看取り介護講演で取り上げるケースも、すべて特養での実践ケースである。だからといってそれが在宅での看取り介護と、まったく異なる方法論であるということではない。

そもそも特養に入所する人は、そこを死に場所にしようという動機づけを持っているわけではないし、死ぬことを目的に入所してくるわけでもない。

特養で暮らす人々は、何らかの理由で自宅での暮らしが困難となり、新たな暮らしの場所として特養を選択して入所してくるわけである。それが利用者自身の意志ではなく、家族の意志としての選択であったとしても、暮らしの場の選択肢として特養が選ばれていることに変わりはない。

そうした特養の使命や機能をきちんと理解してサービス提供されている施設では、利用者の方々はいつしかそこを終生の暮らしの場と感じてくれるようになる。いやいや入所した施設であっても、いつしかそこが自分にとっての安住の場に変わっていく。そしてそこで治療不可能な終末期を迎えたときには、死ぬためだけに居所を変えたくないと考え、暮らしの場である特養で最期の時間を過ごしたいと考えるのである。
(※逆に言えば、利用者の多くがそう思うことができない特養はいらない施設だ・・・残念なことに実際にはそういう施設も少なからず存在している。)

それが特養における看取り介護である。つまりこの選択は、自宅で暮らしている人が、終末期を迎えて、そのまま住み慣れた自宅で最期の時間を過ごしたいと考えることと、何ら変わりはないのである。

今求められている地域包括ケアシステムとは、慢性疾患を抱えた高齢者も、医療機関に入院したまま一生を終えるのではなく、むしろ医療機関の入院期間をできるだけ短縮して、地域で暮らすために適切な医療・介護サービス等を切れ目なく受けることができる地域体制である。死ぬためだけに居所を変えなくてよい体制が地域包括ケアシステムなのである。

そのためには心身の状態に応じた住み替えが必要とされており、特養や特定施設、グループホームなどの居住系施設は、その住み替え先として選択される居所である。その場所できちんと看取り介護が行われなければならないのだ。

繰り返しになるが、特養における看取り介護とは、住み慣れた暮らしの場で最期の時間を過ごしたいという希望を叶えるための介護であり、それは自宅における看取り介護となんら変わらないわけである。

特養の看取り介護と、自宅での看取り介護に違いがあるとすれば、前者における介護の主役がインフォーマルな支援者ではなく、特養の職員に置き換わっているだけである。そこに家族が一緒に関わることができるならば、特養の様々な職種=医療・看護・介護の専門家が適切な支援やアドバイスを受けながら、旅立つ人を家族が看取ることができるという意味である。

もしかしたら自宅で看取ることができない家族が、そこで特養の職員とともに、看取り介護に関わることによって、そこでしか生まれない物語が生まれるのかもしれない。その物語によって、逝く人に対する思いが、残されたものの心に刻まれていくことが命のバトンリレーである。

家族単位が小さくなり、親と子が同居していない世帯が増えている今日であるからこそ、特養をはじめとした居住系施設が看取り介護の場になることは、家族支援という意味でも非常に重要なことであろうと思う。

そのような機能を発揮できる特養でなければ意味がない。それができない特養は、地域包括ケアシステムの一翼を担えない施設として、この制度の中から退場しなければならないのである。

そして看取り介護とは、単にその施設で亡くなることを意味せず、最期の瞬間まで安楽な状態が保たれ、看取り介護対象者旅立つ瞬間まで、対象者も家族も安心して過ごすことができるケアである。

できることなら看取り介護対象者が息を止める瞬間も、きちんと看取ることができて、その瞬間まで物語ることができる命のバトンリレーを大切にしたい。

息が止まるその瞬間、周囲に誰もおらず、その死を見回りの時間しか気づいてもらえないような「施設内孤独死」を、くれぐれも看取り介護と勘違いすることがないようにしたいものである。

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顔が見える関係だけで多職種連携はできない


地域包括ケアシステムとは、住み慣れた地域(自宅とは限らない)で暮らし続けるために、心身の状態に応じた住み替えを勧めながら、医療や介護のみならず、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で適切に提供できる体制のことを言う。

しかし医療や介護や福祉サービスについてもその財源には限りがあるのだから、できるだけお金がかからないようにすることが前提とされている。

そのため医療費もできるだけ抑制しなければならないので、診療報酬改定では、入院期間をできる限り短くして、回復期の一部や慢性期の医療は、医療機関に入院したまま行うのではなく、地域における暮らしの場に戻って、そこで外来治療を中心にして行おうというものである。このようにして慢性疾患を抱えた高齢者については、できるだけ医療機関に入院せず、地域の中で慢性疾患対応を行い、身体機能の低下を防ぐサービスは積極的に取り入れ、それでもなおかつ心身の機能低下による生活障がいが出現した場合には、介護サービスや福祉援助でそれらを補う必要がある。

さらに死者数が増加し続けるわが国では、死ぬためだけに医療費をかけないようにすることが求められており、死ぬためだけに医療機関に入院するのではなく、地域の暮らしの場で死の瞬間を看取ることが重要な課題とされている。そもそも医療機関のベッド数は、死者数が増えることに対応して増えるわけではなく、むしろ減っていくので、地域で看取り介護の体制がなければ、「看取り難民」が生まれるのは必然の結果であり、その数は2030年で47万人にのぼるとされている。

その時に「看取り難民」とは何ぞやという疑問が生ずる。人は必ず死ぬし、どこでも死ねるのだ。そうであれば死ぬ瞬間がどこで、どうあろうと問題はないのではないかという議論がある。

しかし人の死に方は様々であるが、人は死ぬ瞬間まで人は生きているのだ。尊厳を持った人として生きる姿が死の瞬間まで続くのだ。そうであるからこそ、死の瞬間をどこで、どのように迎えるかが問われてくるのであり、人としての尊厳を護りながら、できるだけ不安な思いを抱えることなく、できれば安楽に、生きてきて良かったという思いを持てる形で「看取る」ということは、求められて良いことだと思う。それは決して過度な要求でも、ぜいたくなことでもない。

そういう意味で「看取り難民」とは、死の瞬間を本人が望む状態で迎えられない人のことをいうのではないかと思う。その中には、生から死につながる場面で、必要な介護を受けられずに苦痛と悲嘆の中で死んでいく人の状態も含まれてくるのではないだろうか。そのような死に方が、「仕方ない」とされる社会は寒々しく恐ろしいと思う。

そんな社会にしないためにも、多職種協働による暮らしの場での看取り介護が求められてくる。

死を間近にした人が暮らす様々な場面で、様々な場所で看取るためにも、保健・医療・福祉・介護連携が求められてくるわけであるが、この多職種協働が機能するために、「顔の見える関係」が必要だと言われる。それを否定する何ものもないが、一方で僕は、顔の見える関係だけで多職種協働が機能すると考えるのはずいぶん能天気であるとも思う。

顔の見える関係は、あくまで入り口に過ぎず、それをきっかけに「物を言い合える関係」まで発展させないと多職種協働など絵空事である。バックグラウンドや法人が異なる様々な職種がどう優れたチームを作るのかが一番の課題であるが、チームの中で医者に遠慮してソーシャルワーカーがものを言えなかったり、医療関係者の言葉を介護関係者が理解できないということであっては困るわけである。

そうしないためには、場合によっては相談援助職や介護職の側からも、自分の専門領域については、医師や看護師や理学療法士等にコンサルテーションを行うことができる能力が求められる、そのためにはそれなりの知識と技量が求められるのである。

多職種協働チームにおける相談援助職の役割りは何だろう。それは単に居宅サービス計画を作成したり、利用者の相談に乗るだけではなく、他の職種と比べ、利用者と密接にかかわる場面が多い職種であるがゆえに、他の専門職が気づかないような利用者の訴えや思いをくみ取り、それを本人に代わって周囲に伝えていくような代弁機能が、他の専門職からより強く求められるのではないだろうか。その時医療職種にその思いを伝えるコミュニケーション能力は、最も求められることだ。

そのためにも日ごろ、医師をはじめとした医療職種(看護師を含む)の方々が何を考え、何を課題と認識しているのかを知ることは必要だ。福祉・介護職の人々が、医療関係との合同研修に参加する意味はそうしたところにもあるのではないだろうか。

つい最近も、東京大田区でそのようなセミナーに参加することは「一人称の死を考える」で紹介したばかりである。そのセミナーでも大変貴重な学びをいただいたし、あらたなつながりを得るという貴重な機会にもなった。本当にありがたい機会だった。

同じように医療職の方々と、福祉・介護職の方々が一堂に集って語り合える機会が4/29(日)〜4/30(月:祝日)にある。メインテーマとして「いのちと生活を支える医療介護多職種チームの使命〜病院・行政・市民とともに取り組む街づくり」を掲げた、日本在宅医学会 第20回記念大会は、品川のグランドプリンスホテル新高輪・国際館パミールで行われる。

詳細は、パンフレットを参照いただきたいが、僕も微力ながらこの学会に協力している。

在宅医学会
第1日目(4/29)の午前の拡大シンポジウムのシンポジストとして、午後の基調講演の講師として参加予定である。(参照:4/29日程表)午前のシンポジウムでは、後ろ向きに30年ダブル報酬改定を眺めるのではなく、今後医療介護がどんな方向を目指していくべきなのかについて、制度が目指すべき方向、学会が取り組むべき活動などなど、広い視野で議論するような企画されている。当学会の メインシンポジウムであるため、医療や介護のあり方など大きな方向性を語る場となる。シンポジストにはできるだけ前向きの、未来に向けたメッセージとなるようなプレゼンテーションが求められおり、各演者から20分のプレゼンテーションを行った後、ディスカッションに入る予定だ。

シンポジストの提言内容は以下の予定だ。

1.菊地 雅洋 先生:(内容)「介護の領域からの発表(リビングウィル、ACP)」
2.佐藤 龍司 先生:(内容)「老人保健施設、施設看取り、在宅復帰等」
3.鷺坂 英輝 先生:(内容)「医療・介護保険制度から見た在宅ケアについて話題提起」
4.迫井 正深 先生:(内容)「今後の医療・介護の将来像=“かくありたい、という「夢」を語る”」

午後からは、僕単独で「死を語ることは愛を語ること」をテーマに第8会場で基調講演を行う。看取り介護の場で生まれる「物語」の意味を考えていただきたい。

こんなふうに日本全国から保険・医療・福祉・介護の最前線に立つ錚々たるメンバーが一堂に集まる貴重な機会である。初日の日程終了後には、名刺交換会も兼ねた懇親会も行われ、新たなつながりも作れる機会ともなっている。

ゴールデンウイークのスタートとなる時期ではあるが、国際館パミールという導線の短い会場だけで、バラエティに富んだ様々な講義やデスカッションを聴くことができるまたとない機会である。是非時間をとって、グランドプリンスホテル新高輪までお越しいただきたい。

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一人称の死を考える


死の瞬間まで人は生き続けなければならない。限りある命の最期の瞬間を、どのように生き、どのように旅立っていくのか・・・。このことを自分の問題として考えている人はどれだけいるのだろうか。

旅立つ最期の瞬間まで、その生を支えるのが看取り介護・ターミナルケアである。

そうした看取り介護・ターミナルケアの重要性は、医療・保健・福祉・介護関係者が認識するだけではなく、一般市民の方々が自らの問題として認識しなければならない。

自分の親しい身内が亡くなる時にどうしたいのかというだけではなく、自分自身がどこでどのように死の瞬間を迎えたいのかということを真剣に考えることは、人としてこの世に生まれた最終ステージをどう生きるかを考えることであり、それは自分の人生とはどのような意味があったのか、自分はなんのためにこの世に生かされていたのかを真剣に考えることとつながる問題だ。

死者数が増加し続ける我が国では、2030年には47万人の人が「看取り難民」となる危険性が叫ばれている。勿論、人はどこでも死ぬことはできる。しかしその時、どういう状態で死の瞬間を迎えたいのかを自らの問題としてそれぞれの国民が真剣に考えなければならない。

医介塾つい最近までは、そんなことを考えずとも、死の場面が近づいた人を、家族が医療機関に入院させ、そこで息を引き取ることができたのである。そうして国民の8割以上の人が医療機関で死の瞬間を迎えることができたのである。そこで本当に死の瞬間が看取られていたかどうかはともかくとしても、場所としての死に場所が医療機関のベッドであるという状態は、8割以上の国民に保障されてたのである。そうではなくなってくるのだ。

死者数が増えるだけ、医療機関のベッド数が増えるわけではない。むしろ減る中で、医療機関は急性期と回復期の患者を治療する場所にシフトしていき、慢性期の患者は地域で暮らすことを求められるのである。そこに実体としての地域包括ケアシステムというものが実際に存在するかどうかは別として、そうしたシステムが存在することを前提に、高齢者で持病を抱えている人も、それだけで入院させてくれる社会ではなくなっているのだ。ましてや死ぬためだけに入院させてくれる医療機関は丼損少なくなる。

そうであるがゆえに、死に近づいている人々が暮らす場所であれば、どこであっても死の瞬間まで、人間と手の尊厳を護り、安心と安楽が保たれながら生きる支援が求められるわけである。それが看取り介護・ターミナルケアであり、まさにそれは生きるを支える支援行為である。

明日土曜日に、東京都大田区産業プラザPIO 大ホールで、大田区第2期一般社団法人医介総会が行われる。そこにご招待を受け、医療社団法人焔 やまと診療所院長 一般社団法人医介理事 医師 安井祐 氏と、医療法人社団晃徳会横山医院 緩和ケア内科・腫瘍内科 Co-Minkan 普及実行委員会共同代表 医師 横山太郎 氏のお二人の先生とトークセッションを行う予定になっている。

同会は定期的に行われているものであるが、僕は初参加である。シンポジウム全体の主旨について次のように問題提起されている。

通常は三人称で職業としての死を扱っている業界ではありますが、「看取る」で二人称になり、
自分の死は一人称になります。 今回のシンポジウムが、皆さんが一人称の死を考えるきっかけとなり、今後大きな課題となる「看取り」の問題について、業界を問わず、興味をもつきっかけになればと思います
。 』

お近くの方は今からでも間に合うので、是非張り付いたリンク先を参照になって、会場まで足を運んでいただきたい。トークセッションは12:45〜13:45の予定であるが、その後14:25まで各塾からの発表が行われるほか、15:00〜17:00の予定で懇親会も行われるので、そこでも参加者の方々と貴重な意見交換ができると思う。なかなかない機会だと思うで、この機会をお見逃しなく。

ところで僕は、その後も予定が入っている。

懇親会が終わったらその足で御成門の株式会社メディカ出版の東京オフィスに移動予定だ。同社で発行している『医療と介護Next』の取材を受ける予定が入っている。同誌の創刊時より「地域包括ケア対談(医療の言い分、介護の言い分)」を連載している、在宅医の川越正平先生(松戸市のあおぞら診療所)のご指名ということで、同氏と対談を行い、「地域包括ケア」「医療・介護連携」を中心に、今回の診療・介護同時改定についても話が及ぶ予定だそうである。

田舎者がたまに上京すると、何かと忙しいのである。それでは皆様、明日東京でお会いしましょう。

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在宅独居者も決して独りで逝かせない、という取り組み


先週土曜日は、午後3時30分からの講演のために、新千歳空港11時発の飛行機で福岡空港に向かう予定だった。

福岡空港は、地下鉄を使って博多まで2駅でたどり着ける便利な場所にあり、新千歳空港から直行便があるために、その時間の講演ならば当日入りで十分間に合うわけだ。

ところが当日、10時に搭乗口に入ろうとしたら、係員から僕の乗る予定の便の搭乗手続きが中断されているので、出発ロビーでもうしばらく待ってほしいと止められてしまった。

この日の新千歳空港周辺はやや曇っていたが雪は降っておらず、フライトに問題はないと思えた。そもそも日本全国が穏やかな天候で、航空機の発着時間が遅れる理由がわからなかった。

ところがこの日の朝、福岡空港に着陸した某LCC(格安航空会社)便のタイヤがパンクして、滑走路で動けなくなっているとのこと。福岡空港の唯一の欠点は、滑走路が1本しかないことだ。それが使えなくなったというのである。そのため到着便が、佐賀空港や北九州空港に到着地を振り替えているという情報も入ってきた。復旧の見込みも未定ということで、どんどん時間が過ぎていく。

これでは今回の講演はできないかもしれないと思い始めていた時、当初の出発時間の30分前になって、福岡空港の滑走路が空いて点検も終えたということで、何とか20分遅れで出発できることになった。結局、福岡空港の到着時の混雑によって、当初の到着予定時間より30分遅れて到着したが、講演には全く問題なかった。

過去に天候以外では、バードストライクで出発が遅れた経験があるが、それ以来のことである。そう考えると、道外講演はできれば前日入りしたほうが良いのかもしれないと思ったりしているが、今週土曜日の東京講演も当日入りの予定だ。しかも朝5:55に高速バスに乗って、新千歳発9:00の便に乗る予定である。思わぬハプニングが起きないように祈りたい。

ところで今回の福岡講演は、株式会社ワーコンプロジェクトさんが主催する、「看取り介護」に関する研修会であった。定期的に福岡で行われている研修で、僕は昨年の10月以来、2回目のお招きを受けた。

このブログで何度も指摘しているように、「地域包括ケアシステム」によって作りたい仕組みとは何かを考えたとき、その一つとして、死ぬためだけに医療機関に入院しなくてよい仕組みが挙げられる。そのために暮らしの場で看取り介護ができる仕組みを全国津々浦々で構築しないことには、死者数が増える日本では、2030年になると47万人の「看取り介護難民」が生ずる恐れがあるため、これは緊急的な課題でもある。

そのために国は、地域包括ケアシステムにおける今後の 検討のための論点(地域包括ケア研究会)という文書の中で、次のような指摘をしている。

・毎日、誰かが訪問してきて様子は見ているが、翌日になったら一人で亡くなっていたといった最期も珍しいことではなくなるだろう。
・常に「家族に見守られながら自宅で亡くなる」わけではないことを、それぞれの住民が理解した上で在宅生活を選択する必要がある。


住み慣れた地域で暮らし続けられるという意味は、そこで最期の時間を過ごすことができるという意味ではあるが、その時に息を止める最期の瞬間まで、誰かが側にいて看取ってくれることまでは期待してはいけないと、すべての国民に覚悟を促しているわけである。

しかし今回の講演を主催している、株式会社ワーコンプロジェクトの青木代表は、このことに問題提起するかのように、在宅で一人暮らしをしている人であっても、「決して独りで逝かせない。」としている。

青木代表は看護師さんであるが、ワーコンプロジェクトのスタッフも、営業担当の方以外は、すべて医療経験者である。夜間など最期の瞬間を誰も看取ることができないケースがあることを熟知したうえで、現場を熟知したスタッフが、遠隔で生体信号を測定するシステムなどを駆使し24時間で見守るシステムとして「ウォッチコンシェルジュ」サービスを行っているのが同社である。

生体センサーにより、呼吸や脈、そのほか複数の数値データからより看護に必要な情報を解析し、コミュニケーションがとれる見守りロボットも導入して、看取り介護対象者にストレスがない方法で、常時の状態確認と様々な判断が可能になっている。これによって確実に利用者が最期の瞬間を迎える時間も予測できるために、それに合わせた訪問看護を行うことで、最期の瞬間を確実に看取ることができるという方法だ。

その詳しい内容は、リンクを張り付けた同社の公式サイトを参照いただきたい。

僕は特養という場で、看取り介護の実践を続けてきたが、そこでのコンセプトの一つに、「寂しい看取りは嫌だ〜最期の瞬間を寂しくさせない」を掲げてきた。夜間の巡回と巡回の間に、寂しく息を止める人がいる状態は、看取り介護ではなく、施設内孤独死だと主張してきた。そうした看取りのいう名の施設内孤独死を避けるために何が必要かを全国各地でお話しさせていただいている。

青木代表が僕の講演を聴いてくれて、そうした僕の考え方に共感していただいたのが、同社と僕の繋がりのきっかけとなっている。僕の目指すものと、ワーコンプロジェクトの目指すものが一致しているとも言える。そのため今後の同社の研修は、福岡で何度も行われる予定だが、僕もそのお手伝いに駆けつけることがあるだろう。

その際には、是非会場に足を運んでいただき、僕の講演だけではなく、ワーコンプロジェクトさんが行っている在宅でのターミナルケアの取り組みを聴いていただき、ここまで在宅看取りが深化しているのだということを知っていただきたい。

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利用者のリビングウイルを阻害する思い込み


先週・金曜日に、新宿で行われた東京都高齢者福祉施設協議会・生活相談員研修で講演を行ってきた。

この研修は当初200人定員で募集されていたが、受講希望者が殺到し、最終的には300人を超える方の申し込みがあったそうだ。1職種の研修で、このように多くの方が集まるというのは、さすがに大都会である。当日は相談援助業務の専門家である皆さんに、介護事業経営の視点も含めたメッセージを送ると共に、特養と通所介護を中心に介護報酬改定のポイントを整理するとともに、次期改正への布石なども解説してきた。

その中で、特養については入所者の医療ニーズへの対応強化が図られ、強化体制をとる特養の看取り介護加算の算定単位が引き上げられていることについての意味を解説するとともに、看取り介護ができない特養であってはならないし、そんな中で相談援助職に求められる重要な役割として、「リビングウイルの支援」があることを解説してきた。

その講演の後、ある施設の相談員さんから悩みを打ち明けられた。それは施設長をはじめとした施設職員が「看取り介護に取り組みたい」という思いをもって、施設所属医師に協力をお願いしても、その協力が得られずに、看取り介護を行えないというのである。具体的には、看取り介護に取り組みたいと医師に協力を求めても、点滴対応など終末期に必要な医療行為を施設で行うことは認められていないと拒まれてしまうというのである。しかし実際にはそのような禁止の法令は存在しない。

例えばリビングウイルの宣言を行っている人が、老衰で食事の経口摂取ができなくなった際に、経管栄養を行わずに枯れゆくように旅立つ際にも、安楽支援の観点から、わずかな量の点滴を行うケースは考えられる。

このようなケースで、長い間問題とされていたのは診療報酬の算定ルールであった。特養等の診療などの算定ルールを定めた厚生労働省保険局医療課長通知、「特別養護老人ホーム等における療養の給付の取扱いについて」の規定として、この通知が発出された当初から2016年3月まで、「特別老人ホーム等の職員(看護師、理学療法士等)が行った医療行為については、診療報酬を算定できない。」というルールが存在していた。このため医師が必要な指示を行って、特養の看護職員が点滴を行っても、その費用はどこからも出ない(診療報酬の算定ができないため)ことになっていたため、それは緩和治療を十分できないことにもつながるとして、そのことがネックとなって特養での看取り介護を実施することに二の足を踏む施設もあった。

しかしこの通知は2017年4月に改正され、次のようなルールに変更された。
「特別養護老人ホーム等の職員(看護師、理学療法士等)が行った医療行為については、診療報酬を算定できない。だし、特別養護老人ホーム等に入所中の患者の診療を担う保険医の指示に基づき、当該保険医の診療日以外の日に当該施設の看護師等が当該患者に対し点滴又は処置等を実施した場合に、使用した薬剤の費用については診療報酬の算定方法(平成20年厚生労働省告示第59号)別表第1第2章第2部第3節薬剤料を、使用した特定保険医療材料の費用については同第4節特定保険医療材料料を、当該患者に対し使用した分に限り算定できるまた、同様に当該看護師等が検査のための検体採取等を実施した場合には、同章第3部第1節第1款検体検査実施料を算定できる。なお、これらの場合にあっては、当該薬剤等が使用された日及び検体採取が実施された日を診療報酬明細書の摘要欄に記載すること。」

これにより配置医師のいない日も特養の看護職員によって、配置医師が指示した点滴等の医療行為を行い、医療材料費を含めた診療報酬を算定できるようになったのだから、看取り介護の実施に何の支障も生じないことになった。このような診療報酬算定ルールを確認することもなく、特養では必要な治療処置ができないという医師の思い込みによって、看取り介護の実施が阻害されることは本来あってはならない。

地域包括ケアシステムとは、住み慣れた地域の居所において暮らし続けることができるシステムを全国に創るという目的がある。それは死ぬためだけに医療機関に入院しなくてよい社会を創るという意味でもある。特養は心身の状態に応じた住み替え先の一つであり、要介護高齢者にとってはまさに「暮らしの場」であるのだから、終末期で延命治療が必要とされなくなった場合であっても、最期までそこで過ごすことができる場所でなければならない。それは社会的に求められる使命であり、特養の基本機能とさえいえる。そうであるがゆえに正しい法令理解のもとに、適切に看取り介護が行われる場所であってほしい。

そもそも看取り介護とは、医療でも看護でもなく介護である。看取り介護に付随した医療処置・看護処置も当然必要となる者の、中心的サービスはあくまで介護なのである。看取り介護を実施している特養の大部分では、看護職員の夜勤体制はなく、オンコール対応のみで看取り介護を行い、看取り介護対象者が息を引き取る瞬間にも、枕辺で家族と介護職員だけで看取るケースも多い。在宅で看取られている人も、旅立つ瞬間に傍らにいるのは、家族であって、訪問医師や訪問看護師が旅立つ瞬間にその場にいるケースは少ない。そうであるからといって何の支障もないわけである。

看取り介護対象者の、ほぼすべての方が、最後には食事も水分も摂取できなくなるが、だからといってそうした方々に必ず点滴が必要となるわけでもない。看取り介護とは、日常介護の延長線上に、たまたま終末期であることがあらかじめ診断されている人がいて、その人に対して実施されるケアであるが、その目的は最後の瞬間まで安心と安楽の暮らしを送るためのものであり、完全看護の体制が求められているわけでもなく、24時間の医療サポートが求められるわけでもないのである。このことを理解して関わるべきだ。

さてこのことに関連して、今年度の看取り介護講演としては、最終講演となるセミナーが、今週末福岡で行われる。3月24日(土)15:30〜16:20、電気ビル共創館(福岡県福岡市)で行われる「WCP(ワーコンプロジェクト)主催 セミナー」で、「生きるを支える看取り介護」というテーマで60分話をする予定だ。

同セミナーは、昨年10月に続いて2度目の登場だ。下記のポスターに掲載されているが、前半の講師・青木ワーコンプロジェクト代表は、「多様化する看取り介護の場所と方法」で紹介した、在宅看取り介護を支援する非接触バイタル生体センサー(見守りセンサー)の活用を推進されている方であり、今回のセミナーでは、その話しも聴くことができると思う。お近くの方は、是非会場までお越しいただきたい。お申し込みはFAX092-260-7619 ワーコンプロジェクトまでお願いします。

※すべての居所で看取り介護・ターミナルケアの取り組みがますます必要になります。年3月24日(土)午後14:00から、電気ビル共創館(福岡県福岡市)で看取り介護セミナー行いますので、お近くの方はぜひおいでください。
無題

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多死社会に対応するための看取り介護


厚労省のサイトに掲載されている、平成30年度介護報酬改定に関する審議報告の概要では、この報酬改定の目的の一つに、「地域包括ケアシステムの推進」が挙げられている。そのために中重度の要介護者も含め、どこに住んでいても適切な医療・介護サー ビスを切れ目なく受けることができる体制を整備する必要があるとして、「中重度の在宅要介護者や、居住系サービス利用者、特別養護老人ホーム入所者の医療ニーズへの対応 」のための改訂を行ったことが示されている。

その具体策によって終末期の医療対応も、それぞれの住民の居所で行なえることにつながり、終末期であるという理由だけで、医療機関に入院しなくてよい人たちが増えることが期待される。

具体的には、ターミナルケアの実施数が多い訪問看護事業所、看護職員を手厚く配置しているグループホーム、たんの吸引などを行う特定施設に対する評価を設けている。

ターミナル期に頻回に利用者の状態変化の把握等を行い、主治の医師等や居宅サービス事業者へ情報提供するケアマネ事業所に対する評価として、居宅介護支援費にターミナルケアマネジメント加算 が新設されたほか、末期の悪性腫瘍と診断された場合であって、日常生活上の障害が1ヶ月以内に出現すると主治の医師等が判断した場合については、居宅サービス計画書の変更の際に、サービス担当者会議の招集を不要としている。

看取り介護実績が多く、今後もその機能強化が期待される特養については、特養の配置医師が施設の求めに応じ、早朝・夜間又は深夜に施設を訪問し入所者の診療を行う際の評価を行うことで、特養内での看取りを進めるほか、そのような医療提供体制を整えた特養内で、実際に利用者を看取った場合の評価をさらに充実させた。

在宅復帰機能をより評価する方向が示された老健についても、ターミナルケア加算は引き続き算定できる費用としており、老健の在宅復帰機能とターミナルケア機能が矛盾するものではないとしている。

新設された介護医療院も医療ニーズに対応できる新施設であるとともに、ターミナルケアの機能を持った新施設であるともいえるわけである。

このように介護報酬改定では、多死社会に備えて、「看取り介護難民」が生じないように対策されているのである。

そうであるがゆえに、保健・医療・福祉・介護関係者は、医療と介護のすべての場面で、看取り介護に対応する基礎知識と援助技術を備えておかねばならない。

看取り介護・ターミナルケアは、特別な介護ではなく、日常介護の延長線上にある必然の介護として、どこに住んでいても看取り介護が受けられる地域社会でなければならないのである。

そのため来年度も、昨年度、一昨年度に引き続いて、全国7ケ所で「看取り介護セミナー」を行う予定にしている。制度の流れからみた看取り介護への流れ、報酬改定における看取り介護・ターミナルケアに対する具体的評価を含めて、関係者がそこで期待される役割を、尊厳ある高齢者の人生の最終ステージを生きるために何が必要かという観点から、「生きるを支える看取り介護」の実践論を展開する予定である。

今年8月の大阪セミナーを皮切りに、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、岡山、福岡というふうに全国7ケ所を廻る日総研出版社主催・看取り介護セミナーでは、2018年の同時改定において求められる看取り介護実践、そのために何をすべきなのか、看取り期の判断基準や本人および家族の同意、職員教育の実際等についてわかりやすく解説する予定である。是非お近くの会場にお越しいただきたい。

またこのセミナー開催に合わせて、セミナー主催者である日総研出版社から、『(仮称)生きる”を支える看取り介護』という本を出版する方向で話が進んでいる。

出版が決まったら、早速執筆作業に取り掛かる予定であるが、現在はその内容の企画案を出版担当者と打ち合わせている最中だ。本書が世に出るかどうかの結論は、4月ころまでに出される予定だ。もし出版にこぎつけた場合は、看取り介護は特別なものではなく、日々の介護の延長線上にあり、そしてそのことに携われるという事はとても素晴らしい事であるということが伝わる内容にしたいと思う。

どうぞ皆さんの応援をよろしくお願いします。


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終末期医療の指針が改定されますね。


終末期医療に関連して、治療方針の決定手順などを定めた国の指針(ガイドライン)について、厚生労働省は今月中に有識者検討会に改定案を示したうえで、3月末までに新しい指針をまとめる方針を示している。

現在の指針は、2007年に策定されたもので、その策定のきっかけになったのは、2006年に発覚した事案である。富山県の医療機関で、2000年から05年にかけ、医師2名が50代〜90代の末期患者6人の延命治療を中止するとして、人工呼吸器を外し死亡させたとされることが問題視され、それぞれ殺人容疑で富山地検に書類送検された。(※のちに富山地検は、呼吸器の装着から取り外しまでの行為を「延命措置とその中止であり、殺人の実行行為と認めるのは困難」と判断したため不起訴として事件化しなかった。)

この問題を巡っては、当初から当該医師を「赤ひげ先生」として称賛する声と、殺人事件であると批判する声の両方があったが、結果的に遺族が厳しい処罰を望んでいなかったことも影響し、不起訴処分となっている。勿論理由はそれだけではないが、今回の記事は主旨が異なるので詳しい解説は割愛する。

どちらにしてもこの事案がきっかけとなり、終末期医療について延命中止の判断等において、患者や家族の同意をどうするのかなどが問題となり、現在の指針が策定されたわけである。

しかし策定から10年が過ぎて、社会情勢が著しく変化してきた。国民の8割以上が医療機関で亡くなるといった状況に変化はないものの、徐々に在宅死の割合が増えてきており、ターミナルケアの専門医師も増えている。

さらに死者数が大幅に増加するわが国では、医療制度改革により医療機関のベッド数が減るだけではなく、医療機関の入院日数制限が厳しくなり、入院期間が短縮され、居住系施設(特養・グループホーム・特定施設等)を含めた在宅復帰が強く求められている。そのため死ぬためだけに入院することは難しくなってきており、2030年には47万人の看取り難民が生まれる危険性が指摘されているところである。

そのため暮らしの場での看取り介護・ターミナルケアの実践がさらに求められるわけであるが、現在の指針は、終末期医療を受ける場所を医療機関と想定した内容であるために、居住系施設や自宅で亡くなる人が今後も増えるであろう実態にそぐわなくなってきている。そのため在宅医療や介護施設での看取り介護もカバーしうる内容に変更しようというものである。

ここで重要となるのは、近年取り組みが進んできた「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」という考え方である。それは患者と家族・医師らが治療内容や療養場所を繰り返し話し合って決めるという取り組みであるが、看取りの場の選択という意味では、ここにソーシャルワーカーが深く介入する必要もあると考えている。

余談だが、「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」という言葉・・・もっとわかりやすい日本語に替えてくれないだろうか?患者本人や家族もわかりやすい言葉で、終末期の居所や過ごし方・医療の在り方を説明して考えることが、専門職と患者・家族の協働・連携には何より必要なことだと思え、専門用語や略語・わかりづらい外国語をできるだけ使わないという配慮も必要とされるのではないだろうか。

どちらにしても患者不在の終末期医療など、くその役にも立たないのであって、そのことを徹底的に排除し、患者本人の意思が最大限に守られる終末期医療の在り方が議論されることは良いことだ。

それにしても、「患者と家族・医師らが治療内容や療養場所を繰り返し話し合って決める。」ということは、医師の側の説明責任がより重要になるという意味である。医療の専門家ではない患者や家族に、きちんと伝わる言葉で話せるかどうかが終末期医療にかかわる医師のスキルとして問われてくる。

一方的な指示・命令を説明と勘違いするような医師であっては困るわけである。

特に終末期医療にかかわる医師の言葉は、患者や家族にとって安心や安楽に重要な役割を果たす、「言霊ことだま」であることを十分理解してほしいと思う。
2/24(土)は福岡で、2/25(日)は岡山で、介護の誇り出版記念セミナー介護施設・事業所で虐待を発生させない〜介護サービス質向上の具体策を行います。お近くの方は是非この機会にこちらをクリックしてお申し込みください。


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特養の看取り介護に新たな医療連携の提案


医療・介護の総合情報サイト、CBnewsが今朝配信したニュースの中に、【中医協】介護施設の看取りケア要件を見直しへ 〜外部の診療所や訪問看護の参入促すというものがある。

8日に行われた中央社会保険医療協議会で、特養等の看取り期介護に対し、外部の機関による訪問診療や訪問看護を導入して、施設側と協働した場合、診療所や訪問看護ステーションでも、診療報酬を算定可能にすることが提案されたものである。

医政局通知「特別養護老人ホーム等における療養の給付の取扱いについて」では、がん末期及び看取り介護加算の施設基準に適合している介護施設が看取り介護を行った場合で死亡日から遡って30日間に行われた訪問診療は診療報酬が算定可能であるし、がん末期の医療保険訪問看護も診療報酬の算定が可能である。しかし当該訪問診療や訪問看護について、介護施設側が介護報酬における『看取り介護加算』を算定している場合、診療報酬の在宅ターミナルケア加算及び看取り加算については算定できないというルールになっている。(参照:気づいてる?特養の療養給付変更。 特養入所者への訪問診療と訪問看護

中医協での提案は、この加算の算定を可能にするものであると同時に、特養等の利用者に、外部の医療機関や訪問看護ステーションから、訪問診療や訪問看護を提供できる条件について、がん末期や、看取り介護加算の施設基準に適合している介護施設が看取り介護を行った場合で死亡日から遡って30日間に行われた場合という条件を緩和し、特養等の看取り介護対象者であれば、原則すべての人に訪問診療や訪問看護の提供を可能にしようというもので、外部の医療機関や訪問看護ステーションと協力しながら、より介護施設での看取り介護の実施を促進しようとするものである。

そもそも訪問診療の「死亡日から遡って30日間に行われたものに限る。」という条件は、実質この訪問診療を不可能にさせている欠陥条文である。なぜなら死亡日は推測・想定しかできない問題で、推測が外れることもあるのだから、いざ終末期で余命いくばくもないからと訪問診療を開始したとして、小康状態が予測以上に続いて30日を超える訪問診療の提供となった場合に、死亡日から30日を超える以前の対応については報酬算定ができないということになるため、訪問診療医はその間、どこからも報酬を得ることができなくなる。そのようなリスクのある訪問診療を行ってくれる医療機関は多くはないだろう。

リンクを貼った記事でも紹介されているが、そもそも医師配置のある特養で、なぜ外部の医療機関の医師の関わりが必要なのかという疑問に対し、診療側委員からは、配置医は非常勤で、入所者の日々の健康管理や療養支援を行う立場なので、看取りへの対応を求められても、外来診療中で対応できないことも多いという説明がされたそうだが、まさにその通りで、利用者の日常の健康管理を行うための配置医師が、看取り介護の際の夜間救急対応や、終末期の緩和ケアの対応がほとんどできないために、看取り介護を行うことができないというケースは実際に存在するので、外部の医療機関や訪問看護ステーションが関わりを持つことができるという選択肢が広がることは悪いことではない。

ただし看取り介護は、チーム内の適切な情報共有と連携が不可欠で、単に外部機関の職員が特養のできない部分を補うということではなく、外部機関の職員であっても、特養内の看取り介護チームの一員として協力し合うという意識が不可欠で、訪問診療医も単に施設職員に指示命令を下すのではなく、利用者が安らかな終末期を過ごすために、特養等の職員が何を目的に何を具体的に行っているのかを理解しながら、そこに終末医療に携わる専門家として、適切な協力を行うという意識が不可欠で、その意識がないと、単に混乱させる私事にとどまり、特養の看取り介護の質は下がってしまうだろう。

どちらにしても2010年と比べ、2030年には我が国の死者数は40万以上増え、そのときに病院のベッド数は減るために、47万人の看取り難民が生まれる可能性がある。

そうならないために、医療機関だけではなく、暮らしの場所で看取り介護ができる体制を全国津々浦々まで作らなければならない。特養等の介護施設も、看取り介護を特別視することなく、日常の介護の延長線上に、ごく普通に看取り介護という時期があり、それは決して特別な介護ではなく、日常介護であると捉え、すべての特養で看取り介護を実施していく必要がある。

現在全国の特養の8割以上が看取り介護を行っているというが、それは単に『看取り介護加算』が算定できると届け出ている特養が、8割以上であるという意味で、本当にそこで誰かの終末期の暮らしを護る、安心と安全が担保された看取り介護が行われているのかは、また別の話である。

本当の意味での看取り介護の実践法を伝えるために、来年度も僕は全国各地で看取り介護セミナーを行うが、夜間の対応や、緩和ケアという部分の医療支援体制に不安をもっているために、適切な看取り介護ができないという施設にとっては、医療や看護支援の提供レベルが高まることにつながる、医療・看護・介護連携の選択肢が広がることは悪いことではない。

要はそれをどう的確に利用して、本来の目的である利用者に対するケアの質を高めていくかということが重要なのである。
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自然死を阻害しないために


高齢者の場合、最も安楽な死に方は老衰だと言われる。枯れ行くように自然に息を止めることを自然死というなら、老衰こそが自然死であると言えよう。

老衰という文字は、老い衰えると書くために、その字面から悲惨な死に方を想像してしまう人がいるかもしれないが、決してそのようなことはない。

加齢に伴い内臓や血管などの各器官の機能が徐々に衰えていく過程で、人は少しずつ衰弱していく。そして生命の終わりに近づくにあたって、体は食物も水分も必要としなくなる。そのため死の間際の何日間は、食事も水分摂取もできなくなるが、それは決して餓死ではない。

この時期には、脳内からエンドルフィンという麻薬物質が多量に出て、お腹もすかず、のども乾かない。

それが証拠に、死の間際まで意識がある方もいるが、その方が数日食物も水分も摂取していない状態が続いても、お腹が空いたとかのどが渇いたと訴えることはない。この時期はすでに体が死の準備をしていて、ものを食べなくとも水分を摂取しなくとも体から体液が出てくる。入れていない水分が自然と排出されるのである。体が死の準備をしているとしか思えない。

その時期、死に向かってベッドに横たわる人の表情は穏やかである。苦しみもがく姿はそこには存在しない。

しかしこの時期に、食事も水分も取っていないからと、強制的に点滴で栄養剤を送り込むと何が起きるのか・・・。穏やかな表情で死の準備をしていた人が、点滴の針が刺されることに表情をゆがめ、人によってはその針を抜き取ろうとして手を縛られたりする。しかも強制的に水分を送り込まれた体は、そんなものを入れないでくれというように、手足がパンパンに腫れてくる。そこまでして苦しめてまで、数日間、生命を維持する期間を引き延ばすことに意味があるのだろうか。

経管栄養ならもっと悲惨な状態が生ずる。せっかく自然に逝ける人に、本人の意志とは関係なく胃婁を作って、強制的に栄養を送り込むことで、生命は月単位ではなく、年単位で引き延ばすことは可能だ。場合によっては胃婁を増設しなければ亡くなっていたであろう人の死を、10年引き延ばすことも可能である。

しかし本人の意思に関係なく増設された胃婁からの栄養注入によって、10年生き続ける人の暮らしとは、終日ベッドの上で横たわり、息をするだけの存在として生き続けている。それだけならまだしも、中には痰がつまらないように気管切開されチューブが入っている人がいる。そのような人は、数時間おきに気管チューブから痰の吸引を行う必要があるが、そのたびに苦しみもがく姿がそこには見られる。まるで苦しみもがくために延命されているとしか思えない。

僕達が実践する看取り介護とは、安楽な自然死を阻害しないことから始まり、最期の瞬間まで対象者の人格が尊重され、できる限り安楽な暮らしを送る先に、最期の瞬間を迎えることを支援するものだ。それは、できることをするが、同時にしてはならないことをしないという考えによって成り立っている。

勿論、自然死を阻害しないという判断は、本人の意志と切り離して考えることはできないが、その意思を確認する努力をせずして、医療者や看護者の思い込みのみで、自然死を阻害する行為は行われていないのかを今一度考えるべきである。食べることができなくなった人の終末期に、経管栄養や点滴がどれほど求められるのかを、過去の価値観を拭い去ったうえで、改めて自身の良心に問い直すべきである。

老衰で枯れるように死に向かいつつある人に何が求められているのかを、個人の単位で徹底的に考える。それがなければアセスメントは、単なる形骸化したマニュアルにしか過ぎなくなる。そんな不確かなものに頼るのは、誰かの最終ステージに寄り添う身としては許されないことだと思う。

介護を職業としている身の者が、家族以外の誰かの人生の終わりに寄り添うことは、最も厳粛な場面であると自戒して、介護のプロとしての矜持を持ちながら関わる必要があるはずだ。

その基盤が、もっともエビデンスになりにくい人間愛であるのは皮肉だが、それなしに僕たちは何をよりどころにするというのだろう。ぬくもりのないエビデンスなど、対人援助という場面で求められるものではないと思っている。

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多様化する看取り介護の場所と方法


わが国では、現在死者の8割以上が医療機関で「死の瞬間」を迎えているが、多死社会を迎えた中で、医療機関のベッド数が減る状況を鑑みると、この割合は減らざるを得ない。

しかも2030年には約160万人の死亡者のうち、47万人ほどが、死に場所の定まらない「みとり難民」になる恐れがある。

そのため社会の様々な場所で、看取り介護・ターミナルケアを行うことができる体制を整えねばならず、そのためにも地域包括ケアシステムをしっかり地域ごとに創り、様々な場所で所属機関の異なる多職種が連携して、協働することができる体制づくりが急がれている。

つまり地域包括ケアシステムは、そのシステムを作ることが目的ではなく、そのシステムによって、入院しても、円滑に退院が可能となるようにすることで、医療が必要な高齢者や重度の要介護高齢者についても、可能な限り地域(住まい)で生活できるようにすることであり、一人暮らし高齢者や、虚弱な長寿高齢者を地域(すまい)で支えることができるようにすることであり、増加が見込まれる「認知症高齢者」が地域(住まい)で生活できるように支えることを目的としているのである。

その先に、暮らしの場で看取り介護ができるようにすることを目的ともしている。つまり死ぬためだけに医療機関に入院しなくてよい社会を作るために、地域包括ケアシステムが求められているともいえるわけである。

このように、地域包括ケアシステムと看取り介護・ターミナルケアが密接に関連しているのである。このことについては、平成25年3月に地域包括ケアシステム研究会が作成した「地域包括ケアシステムの構築における 今後の検討のための論点」の中でも、次のような内容として記されている。

・毎日、誰かが訪問してきて様子は見ているが、翌日になったら一人で亡くなっていたといった最期も珍しいことではなくなるだろう。
・常に「家族に見守られながら自宅で亡くなる」わけではないことを、それぞれの住民が理解した上で在宅生活を選択する必要がある。


つまり報告書では、国民に対して在宅でサービスを受けながら死を迎えることについて、死の瞬間に誰かが側にいて看取った状態で、その瞬間を迎えられないことの覚悟を促したうえで、それは孤独死ではなく、「在宅ひとり死」であるとして、不適切な状態ではないという理屈を創りあげているわけである。

それが正しい理屈であるのか、その方向性が良いのかどうかはわからない。少なくともそうした「在宅ひとり死」を望まない国民もいるだろうとも思う。こういう社会情勢であったとしても最後まで傍らで寄り添う看取り介護の取り組みも必要だとは思う。しかしながらすべての国民が、最後の瞬間まで誰かが側について看取ることができないのも事実であり、その際は、誰かの死に気が付かずに、死後遺体が長期間放置される状態となることだけは避けたい。隣人の存在を、死臭によってはじめて知るような社会になっては困るわけである。

そのための看取り介護の取り組みの中で、おもしろい(と言ったら語弊があるか・・・。)機器を紹介していただいた。

在宅の看取りに取り組んでおられるWCP(ワーコンプロジェクト)の青木代表から、在宅看取り介護を支援する非接触バイタル生体センサー(見守りセンサー)の存在を教えてもらった。

これは在宅療養中の利用者の生態データを、24時間リアルタイムでモニタリングできるもので、その情報をもとに離れた場所から医療チームが即座に訪問して対応できるというものだ。離れた場所にいる在宅療養者の、「現在の状況」がわかるだけではなく、蓄積されたデータから解析して、今の生態データと比べることにより、センサ―使用者の、「看取りの段階」を知ることもできるとされ、例えば逝く日や時間を予測して対応できるそうである。

既にいくつかのケースで実用されているそうで、今後、こうしたセンサーなど様々な機器を使って、日本社会の様々な場所で、様々な形の看取り介護が行われていくことになるのだろう。

介護施設でもこうしたセンサーは利用できるだろう。毎日のバイタルチェックなどの業務の省力化にも結び付くかもしれないし、看取り介護対象者の、最期の瞬間を見逃さない対策の一助にもなり得るだろう。次期介護報酬改定で取り入れられる可能性のある、介護ロボット導入加算の対象になるやもしれない。

そういう意味では、これからの介護事業者は、常に情報のアンテナを張りながら、新たな機器をサービス資源に変えていく、「学びの機会」も大事にしていかねばならないと思うのである。

ただし大事なことは、そういう便利な機器に囲まれる社会になったとしても、介護サービスに携わる我々は、そこで機器に頼り切るのではなく、使いこなしながら、看取り介護対象者に向ける愛情を忘れてはならないし、そこで持つべき使命感も失ってはならないということだ。

そんな意味を含めて、これからも全国各地で、「看取り介護講演」は続けていく予定である。

ちなみに10月14日(土)、福岡市の電気ビル共創館で、WCP(ワーコンプロジェクト)主催 セミナーが行われるが、僕も講師として15:30〜「生きるを支える看取り介護」という50分の講演を行うので、お近くの方は是非、会場までお越し願いたい。

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受講者が看護師さんのみの看取り介護講演


昭和60年代に特養でターミナルケアの取り組みを行おうとした当時、相談援助業務(当時は生活指導員)だった僕は、他の職員たちとターミナルケアの研修を受講したいと、道内のいろいろな情報を探ったが、なかなかそうした研修は見つからなかった。

そこでとある医療機関とタイアップして、看護師さんを派遣してもらって、定期的にターミナルケアの研修を受けることにした。

当時を思い返すと、そこでターミナル期の対象者の方々の変化や、予測される容態、それに対応する方法など、それなりに学びはあったのであるが、介護施設として、そこで看護職員ではない他職種の職員が、自らの役割を理解して、何をすべきかということが中々見えなかった覚えがある。

そんな中で、僕たちは自らの実践の中で真理を探し、それを言葉や文章にして伝え、介護施設での看取り介護の意味や役割を、自分たちの言葉で伝えようと考えるようになった。

その中心的役割を担った僕には、いつしか医師会や看護協会から、「介護施設におけるターミナルケア」をテーマにした講演依頼が舞い込むようになった。

看取り介護という言葉もなく、看取り介護加算という算定費用もない時代から、そんなお話をしている。その後加算が新設され、僕自身がオリジナルの「看取り介護指針」を作成したことがきっかえで、看取り介護をテーマにした講演依頼が増えて、今では全国各地で、「看取り介護」をテーマにお話しさせていただけるようになった。

そんな中、北海道看護協会が毎年実施している、「介護保険施設等における看護職のためのリーダーシップ‐日常生活支援から看取りまで」という研修の中で、「看取り期のケアの理解」という1講座を担当するようになって、かれこれ5年になる。毎年講師としてご招待を受けるということは、僕の講義がそれなりに、看護師の皆さんの学びになっていると評価を受けているという意味だと考え、大変ありがたく思っている。

今年もその講座が明後日、年9月2日(土)13:30〜16:00、北海道ナースセンターで行われる予定である。

この研修の目的は、
(1) 施設での看取りのケアについての概念が理解できる。
(2) 施設での看取りに必要な知識技術について理解できる。
(3) 介護保険施設等の看取りの実践例から本人、家族への支援について理解できる。


とされており、具体的には、

・施設における看取りのケアの考え方
・看取りのケアの実際
・利用者、家族の自己決定への支援
・施設におけるグリーフケアの実際


についてお話しする予定である。

これからの時代、日本で暮らす人々は、いろいろな場所を死に場所としていかねばならない。できれば暮らしの場所が、最期の時間を過ごす場所でありたいと思う人も増えるはずだ。

そこで看取り介護の対象となる人の状態像とは、延命治療を必要とせず、看護師が対応しなければ安楽な状態を保つことができない人とも限らない。在宅であっても、訪問診療や訪問看護で、医師や看護師が関わっていたとしても、大部分は家族などのインフォーマルな支援により、死の瞬間は家族が手を握って看取っていくことになる。

医療従事者が大部分の支援を行わねば適切ではないという偏見をなくし、死の瞬間に医師や看護師がそこにいなければ安楽と安心は得られないという偏見を超えて、新しい安心と安楽な看取り介護を作り上げていくという姿勢が、すべての保健・医療・福祉・介護関係者に求められるのではないだろうか。

自分が将来、どこでどのように死にたいかを考えながら、今より死者数が405千人増える社会の中で、すべての国民が安心して看取り介護期を過ごすことができるように知恵を絞っていかねばならない。そして・・・安心・安楽に最期の瞬間を迎えられるかということが、財産や収入の多寡で決定づけられ、格差が生じたり、自己責任という言葉で放置されてはならないことだけは強く主張しておきたい。


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看取り介護を学ぶことはケアそのものを学ぶことです


全国7ケ所の会場で行ってきた日総研出版社主催の、「看取り介護セミナー」は、8/6の岡山セミナーが今年度の最終回となった。

このセミナーは、昨年度から行っているので、これで二回り目(全14回)を終了したことになるが、すべての会場に、毎回50人前後の受講者が集まってくれており、盛況のうちに終えることができた。

勿論、人がたくさん集まるセミナーはたくさんあって、50人という数は決して多くはないだろう。しかしこのセミナーは、1回5時間の座学のみのセミナーで、参加料も一人18.000円(日総研の会員は15.500円)ということを考えると、毎回50人近く、会場によっては100人を超える受講者が集まってくるることは、介護のセミナーとしては異例のことだと評価していただいている。

セミナー受講者の方には、アンケ―トに答えていただいているが、参加動機は様々で、自ら望んで参加した方もいるし、職場の業務として参加している方もおられる。僕の別の講演を聴いて、このセミナーにも参加を希望したという人もいるし、中には、「所長から講師の先生がよいから行ってきなさいと研修費用を出して行かせて下さった。」といううれしいことを書いてくれている人もいた。

参加職種も様々で、特養や老健の施設長、看護師、介護職員、相談員、介護支援専門員のほか、医療機関の看護師さんも多数参加してくれた。グループホームや特定施設の職員さんや、居宅介護支援事業所の介護支援専門員の方も多かった。その中では、「当法人の特養の全職種が参加させていただきました。多職種が看取りに対して同じ認識を持ち、同じベクトルの方向で入居者様のケアが出来るようにしたいと思い参加しました。うちの特養がまずとり取り組まなくてはならない課題が明確になりました。」というありがたい言葉もいただいている。

どちらにしても受講後の満足度で、不満と回答した方はいなかったのが幸いである。受講料が無駄になったと感じる人もおらず、ホッとしているところである。

このセミナーは「看取り介護セミナー」と銘打っているが、ここでは看取り介護の方法論を学ぶだけでは終わっていないはずだ。看取り介護は、その対象者の命の期限がある程度予測されているという特徴はあるが、そこで行うことは日常の介護と変わりないものである。

僕達が介護サービスの場で、利用者の死に相対する場面は多々あるが、それが予測できない突然の死であったとしても、ある程度予測された看取り介護の最中の死であったとしても、そこで僕たちが利用者と相対するときに、僕たちに求められる使命や方法論に違いがあるというのだろうか?看取り介護だからといって特別なケアが必要になるだろうか?そうではなく、日常介護の延長線上に看取り介護が位置し、そのつながりにおいて、看取り介護も日常ケアであるというのが僕の考え方である。

その中で、ある程度命の期限が明らかな人に対し、その不安や不安定な身体状況に対して、どのように配慮しながら関わるかということを通じて、人の尊厳を護り、最期の瞬間まで安心と安楽のケアとは何かを具体化することによって、介護の品質向上につなげるのが看取り介護セミナーの真の目的である。

限りある命にも深く関る介護の使命から、人の存在とは何かを考えるのがこのセミナーの目的である。その結果、適切な看取り介護を行おうとすれば、それ以前に日常のケアの品質向上が必要となることに気づき、そのために何をすべきかを明らかにするのが本セミナーの真の目的である。

そのことは受講者の皆様にきっと伝わっていることと思う。そして受講された方々は、新たなステージで新たな取り組みをされていることと思う。

前述したように、このセミナーはひとまず終了したが、日総研セミナーとしては、『介護の誇り出版記念セミナー・感覚麻痺・不適切ケアの芽を摘む!〜介護保険施設・事業所で虐待を発生させない〜介護サービス質向上の具体策』が、10/22(日)の大阪会場を皮切りに、全国7ケ所(大阪・東京・名古屋・札幌・仙台・福岡・岡山)で行われる。このセミナーも、看取り介護セミナーとは異なった角度から、介護の品質向上につながる具体策を示す実践論を目指し、現在講演内容を構成中である。こちらにも是非参加していただきたい。

来年度以降、看取り介護セミナーを続けるかどうかは未定であるが、これだけ多くの方が会場に足を運んでくださっている現状を考えると、このセミナーを続ける意味もあるように思え、来年度以降の継続に努めたいと思う。日総研出版社からは、看取り介護に焦点を当てた本の出版の企画も出されるかもしれない。

また看取り介護に関する講演は、今後もたくさん予定があり、例えば10/14(土)電気ビル共創館(福岡県福岡市)で行われる、WCP(ワーコンプロジェクト)主催 セミナーでも、『生きるを支える看取り介護』というテーマで、120分講演を行う予定なので、福岡の方はそちらにもお越しいただければと思う。

僕の講演予定は、随時更新しているので、こちらで確認して、機会とご縁のある場所で皆様とつながっていきたいと思う。

それでは今後ともよろしくお願いします。


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医師による死亡診断に基準緩和の動き


医師が常駐していない特養で、看取り介護を行う場合に、死亡診断がネックになっているという施設がある。

義務配置されている医師が常駐ではないからといって、死亡確認に支障をきたすという状態はいかがなものかと思うが、実際に医師が何らかの事情で死亡確認・死亡診断に訪れることができず、長時間遺体を施設にとどめ置いたり、死亡確認のために救急車を要請し、それに死体を乗せて医療機関に搬送する不適切事例も見られる。(参照:看取り介護講演で考えたこと

そんなこともあってか、自宅や介護施設で患者が亡くなった際の死亡診断を、遠隔地にいる医師が看護師を通じてできるように、厚生労働省が月内にも規制を緩和する方針が示されている。準備期間を経て、九月以降に新制度が始まる見通しとのことだ。

具体的には、医師が遠隔地にいる場合など、日ごろから死亡対象者の訪問看護を担当する看護師等が、患者宅で心停止や呼吸停止、虐待が疑われる外傷の有無など体の状況を観察したうえで、タブレット端末のような情報通信技術機器を活用して画像やデータを医師に報告し、医師はそれを基に死亡診断を行い死亡確認後、遺族にテレビ電話などで状況を説明し、看護師に死亡診断書の代筆を指示するというものだ。

遠隔死亡診断を認める前提として、患者の死期が近いことを想定したうえで、以下の条件にするとしている。
1.終末期の対応を医師と看護師が事前に十分連携しており患者や家族の同意がある
2.医師がすぐに訪問できなことが想定できる
3.看護師が医師の判断に必要な情報を報告できる


看護師が遠隔死亡診断を担当するには、5年以上の勤務実績に加え、3年以上の訪問看護の経験などが必要とすることも検討している。早ければ九月ごろ、希望する看護師に患者の状況把握に必要な法医学分野の研修を実施し、研修後すぐに現場で活動を始めるそうである。

これは多死社会を迎える中で、医療機関のベッド数が減る現状を踏まえ、在宅での看取り介護、介護施設での看取り介護・ターミナルケアをより増やす取り組みの一環である。

しかしこれによって安易に機械的に、遠隔からの死亡診断が行われるようになり、死亡確認のためだけの施設訪問を行わないことを原則にする施設医師が多くなっても困るわけである。

医師が直接遺体を確認しないことで、不審死が深い闇に隠されてしまっては困るわけである。

例えば別事件ではあるが、千葉県の老人ホームに勤務していた准看護師が、同僚に睡眠導入剤を混ぜたお茶を飲ませ、交通事故を起こさせたとして逮捕された事件で、施設に保管されていた睡眠導入剤を含む薬は、准看護師が、ほぼ1人で管理していたことが明らかになっている。

こうしたニュース報道を目にすると、看取り介護・ターミナルケアに唯一の医療専門職として一人の看護職だけで関わって、その職員が死亡診断の実質的な判断にも関わるということに、危うさも感じるのは僕だけだろうか。それは考え過ぎなのだろうか。

どちらにしても死亡診断に対する医師の社会的責任、道義的責任を果たすという意識を重ねたうえで、多死社会における様々な死亡場所に対応した新基準という意味では、このことは求められる対応なんだろう。

現在、死者を救急車で搬送して死亡確認しているような特養は、早急に新基準に備えたシステム作りに取り掛かる必要があるだろう。

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看取り介護を通じて伝えられること


僕が講演を行うことができるテーマは複数あり、それもかなり広範囲に及んでいると思う。(参照:masaの講演予定

その理由は、僕が特養・老健・居宅介護支援事業所・通所介護等で、介護支援専門員業務を含めた相談援助業務や管理業務に携わった実務経験があって、その実務に基づく方法論を言語化できているからだと思う。

最近は管理職向けのテーマ依頼も増えて、「働き甲斐のある職場づくり」・「職員の離職を防ぐ取り組み」・「介護サービスの場でのストレスマネジメント」などのテーマで講演することが多くなった。また時節柄、「介護報酬改定」・「介護保険制度改正」・「地域包括ケアシステム」に関する講演依頼も多い。

しかしそれにも増して依頼が多いテーマは、「介護実務」についてである。

介護サービスの場で、間違った介護の方法論がとられている事例がたくさんあり、そのことによって悪意がないのに、利用者の福祉の低下につながっているケースがたくさんある。良い介護をする前に、当たり前の介護を実現することで、利用者が笑顔になって、職員のモチベーションのアップにつながる事例がたくさんある。そのことを実践できる方法論として言語化して伝えることができているから、講演を聴いた方の満足度が高いという結果につながり、講演を聴いた方が、他の職員にも同じ内容を聞かせたいと、さらに講演依頼をしてくれる結果にもつながっているものと思う。

7/2(日)に博多で行った、「看取り介護セミナー」のアンケート結果が早速届いた。最近は特養だけではなく、老健や医療機関、在宅の看護・介護関係者の受講者も増えているこのセミナーは、毎回好評をいただいているが、それは「看取り介護・ターミナルケア」という時期の方法論を学ぶという意味ではなく、看取り介護・ターミナルケアの実践は、日常のケアの延長線上にあるもので、決して特別なケアではなく、その実践を図る過程で必ず、日常のケアの高品質化が必要となり、日常の中で、利用者と職員のより深い信頼関係の構築が必要になるということを多くの受講者が理解してくれるからだと思う。

その結果、このセミナーを受講した方が、自らの所属する組織団体でも、看取り介護をテーマにした講演会を開きたいと考えてくれて、僕を講師に招いてくれたりする。講演予定に掲載している、7/13に尼崎で行う講演も、大阪での看取り介護セミナーを受講された方が、セミナー終了直後に依頼されて実現した研修会である。

そういう意味では、看取り介護・ターミナルケアに携わっていない方々にも、ぜひ受講していただきたいのが看取り介護をテーマとした講演である。それは日常のケアの大切さ、そこで何をすればよいのかが新たに見えてくる研修会だと思う。

日総研セミナーのアンケート結果の中から、いくつかの声を紹介したい。

・今介護現場では人材不足に陥ってしまい、悪循環で沢山の仲間が退職しています。今日の講義を聞き、又、是非、現場で働きたいと強く思いました。退職した元同僚にもブログ、本を紹介しています。自分自身を今日はリセットする事が出来ました。生きた講義を聞けました。元気が出ました。ありがとうございました。私も再び利用者様に寄り添い現場に戻りたいです。頑張ります。

・看取りをしていることを他の入所者に知らせるべきなのかどうか課題になっていました。先生の経験上、知らせるべきだと(個人個人で違ってくると思いますが)きいてそのほうこうで進めていこうとおもいました。

・看取り開始後の医療行為に対してとまどいがありましたが、家族の要望などで変っていくものなのでその都度対応していこうと思います。

・看取りは日常からの支援の延長であり、普段から本人家族との関係性をしっかりと構築していく事が重要であることが理解できた。

・看取り介護は決して特別な介護ではなく日々の介護の延長線上であること。本日の研修会で話された全ての事がとても良かったです。ご利用者にその方のことを伝えても普通と変わらなかった事を思い出しました。

・菊地先生のご講義の全てが聞けてよかったです

・看取りを他のご利用者に伝えるかどうかについて、密室ではいけない事をきけてすっきりしました。

・看取りに付いての本当の意味、われわれに何ができるのかわかりました。

・様々な事例を聞くことができ、その時の場面を想像しやすい。看取りの素晴らしさを感じる事ができた。

・介護の仕事への考え方や誇りが持てた。


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必要な救命治療と不必要な延命医療の線引き(後編)


前編から続く。)高齢者の点滴や経管栄養を、不必要な延命治療のごとく論ずるのは間違っている。

脳梗塞や誤嚥性肺炎など、特定の病気を繰り返している高齢者などの場合でも、治療を試みて状態を改善させようとすることは当然であり、仮のその人が100歳であるからといって、その治療を試みないという判断があってはならない。

状態改善・症状緩和につながる点滴や経管栄養は、必要な治療であり、高齢を理由にしてそれらの行為を否定することは許されない。

そもそも経管栄養と一言で言っても、それはいろいろな状態が考えられ、経口摂取だけでは十分栄養改善ができない場合に、経管栄養で補う方法もあり、それは必要な対応である。場合によっては食事を経口摂取し、薬や水分のみ経管摂取しているという事例も見られる。それは必要な医療行為である。

このように食事の経口摂取ができない人だけが経管栄養を行っているということではなく、高齢者の経管栄養を一律否定するような偏見はあってはならないのである。

しかし一方では、終末期で回復が期待できない状態であるにもかかわらず、点滴や経管栄養で延命を図っているケースがある。その際の点滴や経管栄養が、終末期を生きるためのQOLの改善につながるのなら必要な行為といえるだろうが、我が国の現状からいえば、決してそうではない事例が多々見られる。点滴や経管栄養により、心臓を動かし続ける時間を長くできたとしても、そのことが点滴や経管栄養を施されている人にとって、苦しみの時間を長くしているに過ぎないケースが多々あるのだ。

自然死しようとする人の死を阻害することは、そのまま苦痛を引き延ばすことではないのだろうか。二人の医師の言葉がそれを表している。

・老衰の終末期を迎えた体は、水分や栄養をもはや必要としません。無理に与えることは負担をかけるだけです。苦しめるだけです。(石飛幸三医師著:「平穏死のすすめ」講談社)

・点滴注射の中身はブドウ糖がわずかに入った、スポーツドリンクより薄いミネラルウォーターです。「水だけ与えるから、自分の体を溶かしながら生きろ」というのは、あまりに残酷というものではないでしょうか。(中村仁一医師著:「大往生したけりゃ医療とかかわるな」・幻冬舎新書)


特養や老健で、自然死を阻害する点滴により、足がパンパンに腫れた状態で寝かされている人に、QOLは存在するのだろうか。それは必要な治療行為といえるのだろうか。

経管栄養にしても、それによってQOLが改善できるのであればよいが、苦痛や不快感を増す経管栄養がそこかしこに存在する。そもそも経管栄養によって、すべての対象者の機能状態や生命予後が改善されるというのは神話の世界で、機能状態や生命予後の改善は末期の状況では期待できない。それは自然死を阻害し、苦しみを増す行為にしか過ぎなくなる。

療養病床の一室で、経管栄養によって命をつないでいる人が、痰がつまらないように気管切開され、チューブが入っている状態を想像してほしい。それらの人たちは、意思疎通もできず、起きているのか眠っているのかもわからない状態で、日がな一日ベッド上で寝て過ごしている。しかしそれらの人が、1日数回の気管チューブから痰の吸引のたびに、体を震わせて苦しんでいるのだ。これが生きるということなのだろうか。ここに過度な延命行為は存在しないのだろうか。

これが世界一の長寿国・日本の姿である。この陰の部分を見直す必要があるのではないだろうか。

例えばアルツハイマー型認知症の方の、晩期の摂食障害をどう考えたらよいだろうか。

アルツハイマー型認知症の症状のひとつとして、脳細胞が減って、口や喉の筋肉の動きをコントロールできなくなるためむせやすくなるという症状がみられる。そうなった場合、一時的には食事形態を工夫することでむせないで食べることができるが、しかし症状は確実に進行し、再びむせるようになる。そして口を開けなくなったり、咀嚼せず、いつまでも口の中に食べ物をためたりするようになる。舌の上で食べものをもてあそび、いつまでも呑みこまない人がいる。この場合は経管栄養とする以外、栄養摂取できる方法はなくなる。しかしその状態で経管栄養を施し、年単位で命をつなぐことができたとしても、果たしてそれが求められていることなのであろうか?

この状態は、体が食べ物を必要としなくなっている状態といえるのではないだろうか。終末期の選択肢のひとつといえないだろうか。

そうではないとして、もはや口から栄養摂取ができなくなったアルツハイマー型認知症の人に胃瘻を増設した場合に、「胃ろうカテーテル」(カテーテル=管、チューブ)を抜いてしまうことが多い。その行為は、胃壁内部を損傷させ命にかかわる場合があるとして、身体拘束禁止の例外に当たるとして、一時的と称され手をベッド柵に縛られてしまう。その状態が嫌だともがき苦しんでいる認知症の人が全国に何万人いるだろう。

しかしその行為は、胃瘻を造り、そこに差し込まれたカテーテルの違和感を我慢できないという理由によるものだ。その違和感の元凶である胃瘻から栄養を注ぎ続けるために、手足を縛られる人の苦しみが増すことはやむを得ないことと無視されてよいのだろうか。そもそもその胃瘻は、必要だったのだろうか。

自分にその状態を置き換えたとき、そうまでして自然死を阻害し、命を永らえることをあなたは望むだろうか。それを望む人は決して多くはないだろう。

そうした観点から、介護施設や在宅で、看取り介護やターミナルケアに関わる関係者が、「自然死を阻害しない」・「不必要な延命行為は、ターミナルケアの対極にある」ということを理解し、チームでコンセンサスを交わしたうえで、看取り介護・ターミナルケアに関わる必要があるのだと思う。

老健でターミナルケアに取り組む際には、医師を巻き込んで、看護チーム全体が、こうした視点から点滴と経管栄養のあり方を確認しあうところから始めないと、大きな混乱につながる恐れがあるので、くれぐれもご注意願いたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2

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必要な救命治療と不必要な延命医療の線引き(前編)


今日書こうと思うテーマは、おそらく長くなる。いつもの倍くらいの長い記事になろうと思うので、あらかじめ今日と明日の2回に分けて書く予定であることをお断りしておこう。

さて本題。

今年で2年目を迎えた全国7ケ所を舞台にして行う、正味5時間の看取り介護セミナー(日総研出版社主催)も、今年度も残すところ7/2(日)の福岡セミナーと、8/6(日)の岡山セミナーのみとなった。

このセミナーの最少催行人数は13人として設定されており、5時間という長時間の座学であり、かつ決して参加料が安いセミナーとは言えないことを考えると、その人数さえも集まるだろうかと懸念した時期もあるが、幸いにして2年間ともに、最少催行人数を気ににかける必要もないほどたくさんの方が受講してくださり、50人超えは当たり前で、会場によっては100人を超える受講人数だったこともある。

セミナー後のアンケートもおおむね好評で、受講料に見合った内容であると評価を受けている。

うれしいことに、最近は老健の看護職員の方々の受講が増えている。僕がかねてより、老健の在宅復帰機能・中間施設としての機能と、看取り介護・ターミナルケア機能は相反するものではなく、「老健でのターミナルケア・看取りは、利用者の長期間の在宅療養支援の結果として行われるものである(27年報酬改定の要点より)」と主張してきたが、そのことが多くの老健関係者に認められつつあるのではないだろうか。

現に一般型老健と在宅復帰加算型老健では、在宅復帰率が高い老健ほど、ターミナルケア加算算定率が高いし、在宅復帰率が80%を超える在宅復帰型老健においても、76%の施設でターミナルケアが行われているのである。

つまりこれからの老健は、在宅復帰機能と同時に、繰り返し何度も老健を利用している利用者の、人生の最終ステージをもカバーする機能が求められてくるわけで、その機能を放棄する老健に未来はないとさえいえるわけである。

そんな中、ソーシャルワーカーとして、施設管理者として、僕ほど多くの看取り介護実践に関わってきた人材はそう多くないと言えるし、かつ特養と老健の実務経験を持っているという意味において、『「生きる」を支える看取り介護の実践』というテーマで、特養・老健・療養型医療施設・在宅のすべての領域に共通する看取り介護・ターミナルケアの話をできる講師としても貴重な存在ではないかと自負している。

看取り介護・ターミナルケアに関する講演依頼のある方は是非お気軽に相談いただきたい。おっと、そんな宣伝はどうでもよいが、ここで考えておかねばならないことがある。

老健でターミナルケアを実践しようとする際に、事前に十分職員間のコンセンサスをとっておかないと、後々厄介となる問題がある。それは『自然死とは何か?』というコンセンサスであり、そのことに関連して、経管栄養や点滴をどう考えるのかという問題である。

それは老健には医師が常勤配置されており、なおかつ過半数の老健は、看護職員の夜勤体制もあり、24時間医療行為ができる施設であるという側面があるからだ。つまり医療行為ができるだけに、可能な医療行為である点滴の実施、経管からの栄養補給について、『行わない』とする判断が難しいのである。

できる行為をしないためには、「しなくても良い」あるいは「しないほうが良い」という判断基準が必要である。その根拠を看護職員が十分理解しないまま、ターミナルケアを実施すると、実施中に「経管栄養をなぜ行わないのか」、「経管栄養をしないという治療の中止は倫理上・道義上の問題ではないのか」という疑問が一部の職員に生じかねない。

そうなるとその施設におけるターミナルケアは、職員の意志不統一の状態で、バラバラの考え方と思惑が交差している中で行われるという意味になり、それはターミナルケア対象者や、その家族にとって、何よりの不安要素である。そのような状態で、ターミナルケアが実施されることは防がねばならず、そのために事前の教育と意思統一は不可欠なのである。

しかしながらそれは、高齢者の点滴や経管栄養を全否定するような論理であるはずがない。必要な救命治療と不必要な延命医療の線引きをどうするかという問題であって、この点が明確化され、コンセンサスを得られれば良いわけである。

この部分の議論や教育は避けて通れないところであり、それをきちんとレクチャーできる講師役が内部にいない場合、講師を外部に求めなければならないこともあるわけである。(明日に続く)
看取り介護セミナー
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看取り介護対象者の入浴支援を考え直すきっかけになったエピソード


Tさんはパーキンソン病を患い、手の震顫(しんせん)に悩みながらも、特養で一部介助を受けながら、自分でできることを頑張ってし続ける芯の強さをもった方だった。

身体状況には日内変動があり、その状況も月日の流れとともに緩やかに衰え続けていたが、決して絶望することなく、周囲に笑いを振りまく明るい性格の方でもあった。

Tさんの最大の楽しみは、「入浴」である。手の震えのため、洗身は介助が必要だったが、身体を支えてもらいながら浴室内を移動し、大きな浴槽につかるのがTさんにとっては至福のときである。

幸いその特養には、源泉かけ流しの天然温泉浴室があり、(曜日は決まっているが)希望すれば夜間入浴もできたし、ほぼ毎日入浴できる施設だったため、Tさんにとっては満足度の高い暮らしを送ることができる場所であったといってよいだろう。

そんなTさんに肝臓がんが見つかった。そのときは手術で癌を切除したが、1年後に再発しただけではなく、他の臓器にも転移しており、「がん末期」という診断を受けた。年齢がまだ60代と比較的若かったことも、がん進行の一因であったかもしれない。

Tさんは余命半年と診断され、施設で看取り介護を行うことになったが、そのことはTさん自身には知らされることはなかった。しかし徐々に身体が弱り、看取り介護に移行してから数ケ月後には、ベッドから離れられない状態となり、Tさん自身、察するものがあったようで、自分がもう長くはないという覚悟をもたれていたように見えた。

そんなある日、Tさんから「風呂に入りたい。」という希望が出された。

Tさんの現況は、身体状況の悪化と体力の低下で、入浴ができない状態と判断されていたため、我々はTさんに対して毎日体清拭を行って保清援助を行っていた。そのためTさんがお風呂に入れなくなってすでに10日が過ぎていた。

そのような中の希望であり、本当に入浴が可能かどうかを話し合った。特に浴槽に入ることは体力を奪うことにつながらないかと考える人も多く、様々な意見が出された。しかしTさんの希望をかなえてあげたいという気持ちは、全員共通していたので、担当医に相談を持ちかけた。

その結果、バイタルが安定しているのなら、湯船に浸かる時間があまり長くならないように注意して入浴することはやぶさかではないという指示を得た。

ただこのときのTさんは、ベッドに臥床状態が続いていたので、特浴で入浴支援を行うことが当然のように考えられており、事実我々は特浴対応で入浴支援を行った。

Tさんはさぞかし喜んでくれると思った我々は、無事入浴支援を終えて数時間後に、「お風呂気持ちよかったですか?」と尋ねてみた。そのとき帰ってきた答えは、「風呂?そんなものに入っていない。」であった。

もともとTさんは認知症ではなく、記憶障害の症状も見られていない方である。がん症状の進行で、身体レベルが低下したとしても、数時間前の入浴を覚えていないわけがない。しかしその表情は険しく、希望がかなってうれしいような表情は見て取れなかった。

そのとき我々は気づかされた。

それは、Tさんが望んだ「風呂に入りたい」という状態は、機械浴で流れ作業のようにお湯に浸かることではなく、臥床状態になる前のTさんが、大きな浴槽の中で手足を伸ばして気持ちよさそうにお湯に使っている、あの姿を望んでいるのではないかということにである。

「もしかしてTさん、温泉に浸かりたいですか?」、その問いかけにTさんは当然のようにうなづいた。

Tさんの希望が単に入浴するという行為を行うことではなく、以前のようにくつろいで温泉に浸かりたいという希望であることに気がつけず、入浴できさえすればよいと思い込み、Tさんがそれまで入ったこともない機械浴で対応することは、Tさんにとっては何も意味のない行為であったのだ。

その2日後、体調を身ながら、二人がかりで温泉浴に入ってもらったときのTさんの表情は、それはもう晴れ晴れとした表情であった。その日から12日後にTさんは旅立たれたが、それまでの間にも数回の温泉浴支援を受けて、その都度満足そうな表情をされていた。

このケースから我々は、看取り介護対象者の方でも、湯船に浸かるという、日本人が長く続けてきた文化を護って支援することの重要性を再認識するのと同時に、支援対象者の生活習慣に応じた入浴方法という配慮が求められることも再認識した。

そして看取り介護対象者だからといって、湯船にゆったりと浸かってお風呂に入る機会を、簡単に奪ってはならないことを肝に銘じ、以後、看取り介護対象者がいつまで入浴支援を受けることができたのかを必ず記録し、その時期や方法について適切なものであったかを、デスカンファレンスで話し合うことを通例とした。

このことに関連して、特養の医師も勤めている中村 仁一氏は、ベストセラーになった著書「大往生したけりゃ医療とかかわるな〜「自然死」のすすめ」(幻冬舎新書)の中で、特養において看取り介護対象者の入浴支援に取り組む職員の姿を、『生前湯かん』と書き、『やりすぎ』というニュアンスで論評されている。

しかしTさんのように、残されたわずかな時間の中で、お風呂に入りくつろぐことを最大の楽しみにしていた人がいたという事実は、利用者が望むことで、それが少しでも実現可能であれば、そのことに向けて我々が最大限のエネルギーを注ぎ込むことに意味があることを示しているように思う。

看取り介護期の、『あきらめない介護』の中には、「湯船に浸かって入浴する機会を作ることもあきらめない」ことが含まれているのである。

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次期報酬改定では看取り介護を行わない特養の存在意義が問われる


2018年の診療報酬・介護報酬の同時改定では、特養をはじめとした介護保険施設での看取りが、大きなテーマとなる見通しとなっている。

このことは先日行われた「医療と介護の連携に関する意見交換」でも議論となっており、ここでは特養での医療に在り方や、看取りを行っていない特養が存在することが議題となった。

そのため次の報酬改定では、特養の体制の強化として、看取り介護機能強化と外部医療サービスの導入が検討されることになる。

つまり看取り介護を行っていない特養では、医療支援体制が整っていないことがネックになっているのではないかとされ、それを外部の訪問診療や訪問看護で補うことによって、看取り介護の実施に結びつけようというものだ。

特養の利用者に対して、今以上に外部の医療サービスが使いやすくなることを否定する何ものもない。しかし現在のルールの中で、外部の医療サービスや看護サービスの提供の規制が、特養の看取り介護実施のネックになっているという考えは違っていると思う。

現に僕が以前所属していた特養は、自前の医療・看護体制の中だけで看取り介護を実施していたし、外部の医療サービスを使うことができないから看取り介護ができないというケースはなかった。

かつてのルールで、看取り介護のネックになっていたものとして、医政局通知:「特別養護老人ホーム等における療養の給付の取扱いについて」で定められている、「8 特別養護老人ホーム等の職員(看護師、理学療法士等)が行った医療行為については、診療報酬を算定できない。」というルールがあった。

看取り介護対象者でも何らかの医療対応が必要な人がいた場合、その医療対応に必要な行為について、診療報酬を請求する必要がある際に、特養の看護職員が実質的に対応できないことになっていたのである。

しかしこのルールも、昨年3月に「特別修護老人ホーム等における療養の給付の取扱いについて」の一部改正について という通知が出され改正された。

その通知により、7 特別養護老人ホーム等の職員(看護師、理学療法士等)が行った医療行為については、診療報酬を算定できない。ただし、特別養護老人ホーム等に入所中の患者の診療を担う保険医の指示に基づき、当該保険医の診療日以外の日に当該施設の看護師等が当該患者に対し点滴又は処置等を実施した場合に、使用した薬剤の費用については診療報酬の算定方法(平成20年厚生労働省告示第59号)別表第1第2章第2部第3節薬剤料を、使用した特定保険医療材料の費用については同第4節特定保険医療材料料を、当該患者に対し使用した分に限り算定できる。また、同様に当該看護師等が検査のための検体採取等を実施した場合には、同章第3部第1節第1款検体検査実施料を算定できる。なお、これらの場合にあっては、当該薬剤等が使用された日及び検体採取が実施された日を診療報酬明細書の摘要欄に記載すること。とされたため、配置医師のいない日も特養の看護職員によって、配置医師が指示した点滴等の治療行為を行うことができるようになり、診療報酬を算定し、その中で医療材料費もでるのだから、看取り介護の実施に何の支障も生じないことになった。

そもそも看取り介護とは、医療でも看護でもなく介護である。看取り介護に付随した医療処置・看護処置は必要になることもあるが、中心的サービスはあくまで介護なのである。

看取り介護を実施している特養の大部分では、看護職員の夜勤体制はなく、オンコール対応のみで看取り介護を行い、看取り介護対象者が息を引き取る瞬間にも、枕辺で家族と介護職員だけで看取るケースも多い。在宅で看取られている人も、旅立つ瞬間に傍らにいるのは、家族であって、訪問医師や訪問看護師が旅立つ瞬間にその場にいるケースは少ない。そうであるからといって何の支障もないわけである。

看取り介護対象者の、ほぼすべての方が、最後には食事も水分も摂取できなくなるが、だからといってそういう状態で点滴が必ず必要となるわけではないことは、「終末期を過ごす人々が望むもの、望まないもの」で解説しているとおりである。

看取り介護は、日常介護の延長線上に、たまたま終末期であることがあらかじめ診断されている人がいて、その人に対して実施されるケアであるが、その目的は、最後の瞬間まで安心と安楽の暮らしを送るためのものであり、完全看護の体制が求められているわけでもなく、24時間の医療サポートが求められるわけでもないのである。

それが必要だと勘違いしている人がいるとすれば、それは看取り介護が何たるかを分かっていないという意味である。

そのことを正確に知る機会を得たいという方や、特養等の介護施設での看取り介護に不安を抱いている方は、全国7会場で行われる、日総研出版主催・看取り介護セミナーを是非受講していただきたい。

セミナーは今週土曜日の仙台会場を皮切りに、16日(日)は東京会場〜月を替えて札幌・大阪・名古屋・岡山・福岡で開催する予定である。どの会場も直前まで申し込み可能である。

そこでは5時間たっぷりと、看取り介護の実践論を解説する。実践できる看取り介護を、わかりやすく伝えるので、お近くの会場までお越しいただきたい。
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終末期を過ごす人々が望むもの、望まないもの


地域包括ケアシステムの目的の一つは、死ぬためだけに医療機関に入院しなくてよい社会を作ることにあるのだから、特養だけではなく、老健も含めたすべての介護施設で、看取り介護・ターミナルケアに取り組むべきであることを繰り返し提言している。(参照:地域包括ケアシステムでは、住み慣れた地域で終末期をどう過ごすかが問われる

今後、間違いなく介護施設には看取り介護・ターミナルケアの機能が求められてくるであろうし、それに応えた実践に取り組む施設も増えるだろう。

この時に問題になるのが、点滴や経管栄養の問題である。特に老健施設の場合は、医療機関が母体である場合が多く、医師も常駐し看護職員が夜勤を行っている施設が多いために、点滴や経管栄養に対応できる体制がある分だけ、それをしないで看取るという考え方になりにくい。

特に点滴の場合、脱水を防ぐことが安楽な終末期につながり、血管ルートがとれるのであれば点滴を行わないという結論はあり得ないと考える職員が多いのではないだろうか。

また点滴による水分補給も、経管栄養による栄養補給も行わない行わない状態を、餓死と同じと考えて、悲惨な状況で死を迎えることを想像する人がいるかもしれない。

例えば砂漠に置き去りにされた人が、のどの渇き飢えに苦しむ姿を想像し、介護施設の高齢者の終末期がそうであってはならないと考える人もいるかもしれない。

しかし自然死は、老衰のことであり、そしてそれは餓死(飢餓・脱水)なのだと言い切っている人がいる。

大往生したければ医療と関わるな〜「自然死」のすすめ:幻冬舎新書」の中で、その著者である中村仁一先生は、その状態について、「同じ飢餓・脱水といっても、死に際のそれは違うのです。いのちの火が消えかかっていますから、腹も減らない、のども乾かないのです。」と解説している。逆に死を目前にして食欲のない高齢者に、無理やり高カロリーの食物を食べさせることは、死に行く人を苦しめる行為でしかないと断定している。

終末期支援にかかわるすべての関係者は、「自分が何をしたいか」ではなく、命の期限が切られて死を目前にしている人にとって、何が最も必要なのかを考えていく必要がある。点滴で水分やごくわずかの栄養を送る行為が果たして死を迎えようとしている人に必要な行為なのか・・・。

食事とは本来、人にとって最も喜びとなる行為であるはずなのに、食事を見ても食欲がわかない人、わずかな量の食事に嘔吐してしまう人にとって、それが果たして必要なのか・・・。経口摂取ができない人に、死の直前まで強制的に栄養を送る経管栄養は求められているのか・・・。

この部分の疑問を解決して、何をすべきで、何をしないのかという意思統一がない状態では、看取り介護・ターミナルケアの実践はできないと思う。新たに終末期支援に取り組もうとする施設関係者は、職場全体で、そのことのコンセンサス形成を行うことが一番先に求められることである。

僕が以前勤めていた特養では、この問題について話し合う過程で、前述の中川先生の著書と、石飛幸三先生の「平穏死のすすめ:講談社」という2冊の本を教科書として、抄読会などで勉強を積み重ねた記憶がある。

その結果、点滴を行わない安楽な過ごし方という選択肢もあるという意識共有がなされ、水分摂取ができなくなった人であっても、必ずしも点滴は必要ではなく、まさに枯れるように静かに息を引き取るという、安楽な終末期の過ごし方もあるのだということを理解しながら、看取り介護の実践につなげていった。

以下に参考にした2冊の本の文章を紹介しておきたい。

・点滴注射の中身はブドウ糖がわずかに入った、スポーツドリンクより薄いミネラルウォーターです。「水だけ与えるから、自分の体を溶かしながら生きろ」というのは、あまりに残酷というものではないでしょうか。(中川仁一医師著:「大往生したけりゃ医療とかかわるな」P78〜79・幻冬舎新書)  

・せっかく楽に自然に逝けるものを、点滴や経管栄養や酸素吸入で無理矢理叱咤激励して頑張らせる。顔や手足は水膨れです。我々は医療に依存し過ぎたあまり、自然の摂理を忘れているのではないでしょうか。(石飛幸三医師著:平穏死のすすめP85〜86・講談社

繰り返しになるが、看取り介護・ターミナルケアを実践するにあたって、終末期の点滴や経管栄養をどう考えるのかということを、明確にして意思統一しておかないと、ケアの実施途中で職員が混乱したり、対立したりしかねない。家族の疑問にも明確に応えられないような状態は、看取り介護としてふさわしい状態とは言えない。

この部分の理解を促して、意思統一し看取り介護に関わることが一番重要である。

来週末から、全国7ケ所の会場で看取り介護セミナーを行う予定になっているが、このこともシッカリ内容に含めて説明してくるつもりだ。来週土曜日の仙台セミナーと、日曜日の東京セミナーに来場される方にも、そのことはシッカリ伝えてきたい。
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リビングウイルの確認が難しいって本当か?


2018年度の診療・介護報酬の同時改定に向けて、先週水曜日(3/22)に、第1回目の「医療と介護の連携に関する意見交換」が開催された。

これは中央社会保険医療協議会と社会保障審議会・介護給付費分科会の委員が、医療と介護の連携の視点から意見交換を行う場であるが、先週のテーマは「看取り」と「訪問看護」であった。

このうち看取り介護については、終の住処であるはずの特別養護老人ホームの一部に看取りを行っていない施設がある点に、多くの委員が問題意識を表明した。特養関係者はこのことを重く受け止め、地域包括ケアシステムの中で、特養が求められる居所となるためにも、日常ケアの延長線上に、ごく普通に「看取り介護」が行われるように意識転換をしていくべきだろう。

生活施設であるという意味は、終生施設であることが必然の結果であることを理解すべきである。

このことに関連して厚労省は、医師法第20条がネックになって看取り介護が行われていないケースがあることを紹介している。

つまり利用者の死亡時に医師の立ち会いがない場合も、死亡後に改めて診察し、生前に診ていた疾患に関連した死と判定できる場合は、死亡診断書を作成できるにもかかわらず、医師法第20条を誤解し、診察から24時間を超過しての死亡は、異状死として警察への届出が必要があって、担当医が死亡診断書を作成できないと考え、看取り介護に二の足を踏んでいる施設があるという意味だ。

このことに関連しては、「看取り介護講演で考えたこと」の中でも、図とともに考え方を示しているが、嘱託医師として利用者の健康管理をしている場合は、死亡から24時間過ぎたとしても、日常の診療と関係のある死亡原因と考えられるなら、死亡診断書は発行できるので、何のネックにもならないものである。

また事前に看取りに関する患者本人や家族の意思(リビングウィル)を確認することの難しさも指摘され、このことが看取り介護実施のネックの一つであるかのような意見も出された。

しかしリビングウイルの確認の重要性を理解しているか、リビングウイルについて話し合う気があるかという問題でしかなく、僕は難しいこととは思わない。勿論、特養の場合は入所時点で、」リビングウイルについて理解できず、その表明もできない利用者が決して少なくはないが、だからといってこの問題の重要性を家族に告げて、信頼関係を構築した後に話し合い、家族が利用者を代弁したリビングウイル宣言をすることは決して難しくないし、リビングウイルについて理解可能な利用者ならば、しかるべく信頼関係を構築した後に、利用者本人と、「死と生き方」について話し合う機会を持ち、リビングウイルの宣言をしていただくことも決して難しいことではないはずだ。(参照:リビングウイルに関連したブログ記事

そして特養には、その宣言を支援する専門職として、相談員や介護支援専門員といったソーシャルワーカーがいるのだから、彼らの役割りとしてリビングウイルの確認を位置づけることが一番求められることである。

委員の中には、75歳を迎えて後期高齢者医療制度の保険証を交付するタイミングでリビングウィルの書面で提出を求めるなど、制度化することを提案した人もいるが、こうした宣言は、義務として制度ルール野中で機械的に行っても血の通った決定にならず、宣言者の本意から外れてしまうことが多い。

そうではなく、宣言の必要性を丁寧に説明し、宣言に至る過程を支援し、場合によっては制限に伴うストレスなどを含め、精神的にフォローする支えとなる人が必要で、そうした専門職がフォローすることで、より自分の求める形に近い宣言ができるのだということを忘れないでほしい。

そういう意味でも、特養のソーシャルワーカーには、リビングウイルの宣言を支援するスキルを身につけてほしいものである。
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看取り介護における施設相談員の役割り


今年度の最終講演は、今日午後2時から行う群馬県老施協・生活相談員研究部会での講演となる。今年度の講演回数としては48回目である。

今、新前橋駅前で食事を摂り、すぐ近くの会場(群馬県社会福祉総合センター)に向かうところである。

この研究部会で講演を行うのは、2011年の7月以来、ほぼ6年ぶりで2回目ということになる。そのときの会場も今日と同じだった。しかしこの研究部会とのつながりは、もうすこし以前からのもので、本来なら2011年3月に最初の講演が行われることになっていた。

その講演が幻になった理由は、日本人なら日付をみただけで分かるだろう。

あの3.11が起きて、その数日後に予定されていた研修会が中止になったのである。その予定が流れて、4ケ月後に、再度お招きを受けて行った研修では、「施設相談員の役割りと実務」についてお話した。

今日の講演は、それ以来ということになるが、そういう意味ではあの震災の年から縁をいただいた群馬県老施協・生活相談員研究部会の皆さんとのつながりが、今日までずっと続いているという意味である。

今日のテーマは、事務局の希望により、「生きるを支える看取り介護から考える多職種連携」としている。

看取り介護における相談員の役割りとは、施設入所後に利用者や家族と、早い時期に信頼関係を構築し、利用者自身の終末期をどう過ごしたいのかを確認する役割りから始まる。そういう意味では、施設の看取り介護における重要な役割りを相談員が担っているということができる。

具体的業務を挙げるとすれば、家族との連絡調整・家族関係への支援・家族の悲嘆感への支援・他職種への情報周知・連絡調整・諸手続き代行支援・職員の精神的負担の援助を含めた総合評価(デスカンファレンス等)・看取り介護を通じた地域への啓発活動というものが挙げられるが、総括するとPDCAサイクル構築及び検証のリーダー役と規定することができるだろう。

今日はそうしたことをお話ししてくる予定である。
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人の死に向き合うために


人はいつか死んでいく生き物だ。しかし今この世に存在している人で、死を経験した人はいない。

死に行く人を看取る人は、その時死に臨む人々が何を感じ、どんな思いで旅立っていくのかを、想像するしかない。

過去にたくさんの死に直面し、その経験から死に行く人びとの肉体的な変化の知識をいくらたくさん得ようとも、我々には想像がつかないものがあるのかもしれない。万能の神ではない人間として、そこの部分は謙虚に、真摯にこうべを垂れて相対する必要がある。

だから我々は、我々の知ることができない死を見つめる前に、生を見つめて関わろうとする姿勢が求められると思う。

旅立つ人が、息を止めるその瞬間まで、確かにこの世に生きているのだという視点で、生きることを支えながら、安らかに旅立って行くことができるように、我々のできる限りの知恵と力で支え続ける必要があるのではないだろうか。

我々にできることは限りがあるし、その力は強くはなくとも、できる限りのことを悔いなく行いたい。いつか燃え尽きようとも、そこに生命が存在している限り、我々にはできることがあるはずだ。

小さな事しかできない人間であっても、大きな愛を贈ることはできるだろう。

愛などという抽象的な表現で介護を語ることを否定する人も多いが、人としての愛情や、心の温かさを感じられない方法で介護を受けることを望むのだろうか?

いくら技術や手法を手に入れても、手を差し伸べるベキ目の前の人々が望まない形での手技・手法など迷惑でしかない。ましてやこの世で最後に差し伸べられる誰かの手が、愛も温もりもない、無機質の機械のような手であって良いのだろうか?

僕は、人の思いが伝わるケアを目指したい。そういう方法論を創っていきたい。笑顔も涙も、そのためのエッセンスだ。感情のある人間同士のふれあいだからこそ、それぞれの感情に寄り添う方法を大切にしたい。しかしそれを単なる感覚的問題として終わらせることなく、根拠と理論に基づいた方法論として伝えたい。

愛情は理屈では語れないし、愛情や思いを理論化することは難しいだろう。しかし愛のある方法論を理論化することは可能ではないのか。愛のある方法論の先に、どのような結果が生まれるのかを説明することも可能なのではないか。

なぜなら僕には、実践結果という何にも替え難い根拠があるからだ。そこで事実として交わされた愛の風景を語ることで、伝えられるものがあるはずだ。

そんな方法論を全国7ケ所で伝える、「日総研看取り介護セミナー」が、いよいよ来月からスタートする。今年のテーマも昨年同様、「PDCAサイクルの構築による命のバトンリレー〜介護施設で〈生きる〉を支える看取り介護の実践」とした。

新年度最初のセミナーは、4/15(土)の仙台セミナーが皮切りとなる。

仙台周辺地域の皆さんは、ショーケー本館で、10:00〜16:00まで行うセミナーにぜひおいでいただきたい。

翌日の4/16(日)は、東京都千代田区の損保会館で、同じセミナーを行う。

そのあと5/14(日)札幌の道特会館、6/10(土)大阪市の田村駒ビル、6/11(日)名古屋市の日総研ビル、7/2(日)福岡市の福岡センタービル、8/6(日)岡山市の福武ジョリービルと続いていくので、お近くの方は是非会場までお越しいただきたい。

受講料は少々高いが、内容はそれに見合った実践論になっていると思うので、是非ご期待いただきたい。

それに先駆けてというわけではないが、明日24日(金)14:00〜16:00、群馬県社会福祉総合センター(群馬県前橋市新前橋)で行われる「群馬県老人福祉施設協議会、生活相談員研究部会」でも、「生きるを支える看取り介護から考える多職種連携」というテーマでお話ししてくる。同会での講演は6年ぶり2度目である。

群馬県の相談員の皆さん、明日はよろしくお願いします。
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地域包括ケアシステムでは、住み慣れた地域で終末期をどう過ごすかが問われる


2/5(日)にシンポジストとして参加した、「日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会IN久留米」には、1974名の有料参加者があった。これに市民公開講座(無料)の参加者を合わせると、2500名程の方に参加いただいたことになるそうだ。

僕が参加した、「看取りに携わるスタッフの教育・ケア」のシンポジウムは、久留米座という場所で行われ、そこは座席数が399席であった。その座席はほぼ埋まり、さらに会場入り口のスクリーンには、100名以上の方が立ち見状態だったそうである。

入り口にいた会場責任者よりシンポジウム担当者に対し、「みなさん熱心に聞いておられ、良い表情で帰られていましたよ。大盛況でよかったですね」と良い評価を頂たそうである。その担当者の方は、翌月曜日に主任介護支援専門員更新研修の講義に博多まで行ったそうであるが、そこでも多数の受講生がいて、「とてもいい勉強になりました。元気がでました。」と感想を多数いただいたそうである。

多死社会において、看取り介護・ターミナルケアは、どの場所でも求められる利用者支援の機能であり、すべての保健・医療・福祉・介護関係者が興味を寄せている問題だということだろう。

それは一人ひとりの利用者が、人生の最終ステージをどう生きるのかという問題に関わってくる。そしてどこで終末期を過ごすのかという問題は、サービスや施設の種別で選ぶべき問題ではなく、そこで何ができるのかという個別性で選択することが大事になる。

そのためにも、日頃からの情報収集が大事となるが、多くの一般市民にその情報が届けられていない。居宅介護支援事業所の介護支援専門員なども正確な情報を持っているとは限らない。

そういう意味で、看取り介護・ターミナルケアに取り組む施設等は、積極的に地域に向けて、看取り介護・ターミナルケアの取り組み情報を発信していく必要がある。特養の看取り介護加算の算定要件である、PDSAサイクルの構築における、地域へのアクション(啓蒙活動)とは、そういう意味もある。

5日のシンポジウムでは、20分の発表の後、3人のパネラーが司会者と助言者を交えて、その後1時間近くディスカッションしたが、なにしろ時間が少なくて、十分な情報提供ができなかったという思いがある。

決められた時間で伝えられないというのは、僕自身の力量不足であるが、看取り介護を適正な品質を保って行うことが職員の定着率のアップにつながるという事例として、そこで生まれる様々なエピソードによって職員が何を感じ、どういう思いを抱く結果につながったかについて、フィクションではなく事実として伝えるのが一番の早道である。そうであればいくつものケースについて紹介したいところでもあった。

今回はひとつのケースしか紹介できなかったが、来年度も今年度に引き続いて、4/15の仙台に始まり、4/16東京、5/14札幌、6/10大阪、6/11名古屋、7/2福岡、8/6岡山という全国7ケ所で、1日5時間という長丁場の看取り介護セミナーを予定している。(案内と申込みは、こちらをクリックしてください

毎年、多数の参加申込みがあって、場合によっては皆様に受講していただけるように会場変更する場合もあり、キャンセル料はかかりませんので、受講希望の方は、ぜひお早めにお申込みください。
看取り介護セミナー「生きるを支える看取り介護の実践」


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グリーフケアチームに参加して考えたこと


僕は長年、特別養護老人ホームで看取り介護にかかわってきたが、そこではグリーフケアが必要となるケースはほとんどなかった。

「大往生」という言葉があるように、長命の末の死は、周囲の人々もその事実を受け入れやすいいし、そうした中での自然死であれば、一時的な哀しみの気持ちを持ったとしても、その死が安らかであることで、看取る人々の心の安寧(あんねい)につながることによって、その死によって悲嘆感にくれ、グリーフケアが必要になることはほとんどなかったのであろう。

しかし例外がないわけではない。

過去にグリーフケアが必要になったケースでは、認知症で意思確認できない利用者が、食事の経口摂取ができなくなった際に、娘が経管栄養を行わないと判断したケースがある。

その方の最期は安らかであったし、娘さんも枕辺で手を握りながら看取ることができ、死の瞬間は涙を流しながらも、取り乱すことはなく、グリーフケアが必要な状態とは思えなかった。

しかし四十九日を迎えたころから、娘さんの精神状態が不安定となり、親を失った悲嘆にくれるような状態が出始めて、グリーフケアが必要とされ、我々が関わりを持つ必要が生じた。後々明らかになったことであるが、四十九日が迫るにつれて、娘さんの気持ちの中で、「自分があの時に経管栄養をしないと決めなければ、母親はまだ生きていたのではないか。結果的に自分が親の死を早めてしまったのではないか」と考えるようになったことが、悲嘆感を持つにいたる原因だった。

この時点で彼女の親は、僕の施設を死亡退所していたわけで、僕が彼女の支援に関わる状態ではなかった。しかし彼女が通院していた医療機関が、僕の施設と関連深い医療機関で、当該医療機関の担当MSWとも親しい間柄であったため、グリーフケアが必要になった経緯から、亡くなられた母親の担当をしていた僕も支援チームの一員として参加したという経緯がある。

このとき僕自身もたくさんの学びをいただいた。多職種協働のチームの中に、精神科のソーシャルワーカーと、介護施設のソーシャルワーカーと、2人の同職種が参加しても、それぞれ専門性の違う場所からの気づきがあり、それぞれがそこに参加していることに意味があることも知った。

母親の死の悲嘆感に陥っている人に、いくらその死の瞬間が安らかであり、娘の決断が死を早めるものではなく、自然死につながる安らかな最期の時間を過ごせることにつながる決断だったかということを説明したとしても、それは単なる説得に過ぎず、そんなことで娘さんの心の傷が癒せることはないことを知った。

終末期に母親がどう過ごしたかのみならず、さかのぼって母親と娘の間にどんなエピソードがあり、そこにどのような愛情の物語があったのかを傾聴しながら、娘さんの悲しみを理解しようとする先に、解決の糸口が見つかっていった。

それは僕たち支援チームが解決したのではなく、母親の愛を思い出しながら、娘さんが自分で解決していったといえよう。その詳しい経緯については、別に書く機会があるだろうが、ここでは本題と外れるので触れない。

どちらにしても、命や死に関わる判断は、人によっては心の傷になりかねないものである。その判断自体が心の重荷となって、精神を押しつぶす場合があるのだ。そうならないための唯一の方法は、あらかじめ親から子に、自分がどのような状態で終末期を過ごしたいのかという希望を伝えておくことだ。親の代わりに重い判断をするのではなく、親の意向に沿った意思表示ができるとすれば、子の心の負担は、ずいぶん軽いものとなるだろう。

今健康で死とは程遠い場所に居ると思える人であっても、いつまでも健康で暮らし続けることはできないのだから、自分の死に場所や死に方について、一度真剣に考えた上で、そのときに何をどうしてほしいのかを、身の回りの親しい人に告げておくべきである。死を間近にした人は、自分の力でできなくなることの方が多い。そのときには他人に何かを委ねなければならないが、何をしてほしいかという重い判断さえも第3者に委ねてはならないのである。

自分の子や親だからという関係に甘えて、愛する人の死に方まで決めなければならないという重たい判断を任せてはならない。それは愛する肉親に対しても、あまりに酷な十字架を背負わせることになりかねないからだ。自分の死、肉親の死を語ることは、決して縁起の悪いことではなく、タブー視するようなことでもない。死について語り合うことは、愛を語ることに他ならないからである。

1月に日総研出版社から創刊される、「エンド・オブ・ライフケア」で、連載させていただく予定になっているが、そんな思いを様々な角度から伝えていこうと思う。

ぜひご期待いただきたい。
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心や愛はエビデンスにならないなんて思わない


群馬県で最初に講演を行ったのは、今からさかのぼること6年前、群馬県老人福祉施設協議会・生活相談員研究部会さんから依頼されて、平成23年6月に群馬県社会福祉総合センターで講演を行ったときのことである。

その講演が印象深く記憶されているのにはわけがある。当初はその講演は23年3月に行うことになっていたものが、同年6月に変更になったからである。

変更理由は、日付をみていただくと気づかれた方も多いだろう。そう、あの東日本大震災・3.11の影響である。

当初予定の講演がキャンセルされた理由は、未曾有の天災であるのだから、研修主催者には何の落ち度もないにもかかわらず、当時の事務局担当者の方が非常に恐縮されて、交通費のキャンセル料を支払ってくれただけではなく、図書券まで送っていただき、僕自身も非常に恐縮した思い出がある。

その後、再度研修予定を組んでくださり、僕も再び講師として招待いただいた。あの時は確か、前後に別の講演予定が入っていた関係で、新前橋駅近くのホテルに2泊した覚えがある。その際に、連日事務局の方がご馳走してくださり、講演前日はイタリア料理のお店で、おいしいイタリア料理とワインで酔っ払い、後泊の夜は新前橋駅近くの日本料理店で、日本酒をしこたま飲んで前後不覚になった覚えがある。テーブルに置けないために手に持ち続けなければならない「お猪口」を面白がって飲みすぎた覚えがある。

研修会での講演は、施設相談員の業務と役割がテーマであったと記憶している。

その群馬県老人福祉施設協議会・生活相談員研究部会さんから、再び依頼を頂き、前回と同じ群馬県社会福祉総合センターで、再び講演を行う機会をいただいた。おそらくその講演が、平成28年度の最終講演となるだろう。(参照:masaの講演予定

今回いただいたテーマは、「看取り介護」である。その中で生活相談員の役割や他職種連携、家族連携、スタッフのケアや教育などの話が聴きたいという依頼を受けた。そのため講演テーマを、「生きるを支える看取り介護から考える多職種連携」とさせていただいた。

僕の看取り介護講演を通じて学んでいただくことは、看取り介護・ターミナルケアの時期の特別な方法論ではない。看取り介護に通じる日常ケアを大切にする先に、看取り介護が存在するということを学んでいただき、そのために日ごろからどのような多職種連携が必要になるのかを考えていただきたい。だから実際に僕が経験したたくさんの看取りケースの中から、いくつかの事例を紹介しながら、その具体策を考えていただく。

僕が今まで経験してきた看取り介護の場面では、一人ひとりの尊い命と向かい合いながら、時にはともに喜び、時にはともに感動し、時にはともに涙して様々なエピソードを積み上げてきた。そこには対人援助の専門家としての専門性はなかったのかもしれない。

しかしそんなものより、人として命の尊さを思い、そのはかなさを憂い、消えゆく命の灯を哀しく思いながら、逝く人の命の光が誰かの心につながっていくようにお手伝いすることが大事だろうと思ってきた。

感情を制御して、心を震わせないでいることで、見逃してしまうものがあるとしたら、それは決して取り返しのつくものではなく、二度と手に入れられない大切なものを失うということなのかもしれない。

その中でたくさんのエピソードが生まれてきた。僕がそのエピソードを語り、耳を傾けてくれる人々が、同じような志を持って、様々なステージで看取り介護・ターミナルケアに取り組み始めている。そんな実践につながるお話をしたい。

先に紹介した僕の講演予定には、来年度以降の予定もいくつか掲載しているが、今年度全国7ケ所を回って開催した、日総研出版看取り介護セミナーが、来年度も開催される予定になっている。4月から8月まで、仙台セミナーを皮切りに、東京、札幌、大阪、名古屋、福岡、岡山と7会場で実施予定だ。今年度受講できなかった人は、ぜひこの機会に受講していただきたい。

ちなみに年明け最初の講演は、29年1月20日(金)14:00〜16:30新潟ユニゾンプラザで行われる新潟県老人福祉施設協議会主催研修にて「平成30年トリプル改正が迫る中、介護に係るすべての人々の使命と役割は何か」をテーマにした講演である。

この研修は非会員の方も、参加費3.000円で参加できるそうである。現在参加申し込みを受付している最中なので、お近くの方でお申し込み希望の方は、新潟見老施協事務局025-281-5534まで連絡いただければ幸いである。

新潟は日本酒の種類が豊富で、しかも旨い酒が多いのが一番の楽しみである。

1月はこのあと、29年1月30日(月)のALVE 秋田市民交流プラザ(秋田県秋田市)での講演になる。秋田も米と日本酒の旨いところで、新年早々から酔いどれが続きそうである。
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新設特養は、最初から看取り介護をシステム化するべきである。


12月に入り、今週末あたりからは忘年会という言葉が飛び交うことだろう。

この時期は研修会も少なくなる時期であり、僕が講師を務める機会も減る時期でもある。過去の例では、クリスマスイブの夜に、研修講師として招かれたことがあるが、これは異例中の異例であろう。そのときは、「今日、今の時間に、研修会をやっているのは日本広しと言えどもここだけだと思います。」と第一声を発した思い出がある。

昨年も年内の最終講演は12月第一週の土曜日であったが、今年は来週の日本福祉大学・名古屋キャンパス北館8階での看取り介護セミナーが、今年の最終講演となる。

この講演は午前〜午後にかけて4時間という長時間、座学のみで看取り介護について語るセミナーであるが、当初の定員80名に対して、申込者はすでにその数を超えてしまったために、主催者のご配慮で急遽席を増やしていただいた。そのためまだ受付可能なので、お近くの方で興味のある方は、張り付いたリンク先から申し込んで、ぜひ会場で僕の今年最後のセミナー講演を聴いていただきたい。

今年も様々なテーマの講演を全国各地で行った。介護保険制度改正や報酬改定の動向に関するものも依頼が多かったし、地域包括ケアシステムに関する講演、多職種協働に関するもの、社会福祉法の改正に関する問題、法令遵守や職業倫理に関するテーマでもお話した。

介護実務としては、介護サービス全般、リスクマネジメント、虐待防止、認知症ケアなど多岐にわたるテーマでお話しする機会をいただいたが、看取り介護・ターミナルケアに特化した研修会・セミナーの数は、例年以上に多かった年であった。それだけ看取り介護の取り組みに注目が集まっており、その傾向は来年以降も続くと予測している。

その背景には2010年と比して、2030年には日本人の死者数が40万人以上増えるにもかかわらず、病院のベッド数が減るという社会情勢があって、現在日本人の8割以上の人が、医療機関で亡くなっている現状を考えたときに、死に場所が見つからない、「看取り難民」・「死に場所難民」が問題となっているということがある。

そのため施設・在宅問わず、暮らしの場で看取り介護・ターミナルケアを受けられるということが、地域包括ケアシステムの目的のひとつでもあり、どこでも誰もが安心して最期の時を過ごすことができるための研修会がより求められているということであろう。

僕がお話しする看取り介護とは、施設サービスに限った内容ではなく、どこでも通用する介護実践論であるし、それは特別な介護ではなく、日常介護の延長戦であり、基本的に介護ができる場で、看取り介護ができないわけがないことをわかりやすく解説しているつもりである。

勿論、その時期に注意しなければならない点、持つべき基本知識なども解説しているが、それについても介護職員が基本的に身につけておく必要がある知識や援助技術であって、特別な知識や援助技術ではないことを説明している。

看取り介護をおこなう場の管理者の方には、看取り介護の実践は、職員に過度なストレスを与え、人材難に拍車をかけるという考え方は誤解であり、その実践はむしろ、職員のモチベーションを高め、スキルアップにつながるだけではなく、離職率の低下・定着率のアップにつながり、地域にも評判が口コミで伝えられ、職員確保と利用者確保の両面でメリットが生まれることを具体的に説明している。

僕の看取り介護講演を受講した事業者の管理者の方、職員の方から、今年も数々の感謝の声をいただいているが、「高品質な看取り介護の実践が、職員の離職率を下げる」ことが本当だったと言う声も多数いただいている。よってそれは、現場の実践で証明されている真実であるといえるであろう。

そこでひとつ提案がある。

特養の新設の相談、新設施設の研修講師の依頼などもいただく機会があるが、そのときに始めから看取り介護の実践に取り組もうという施設はあまり多くない。

とりあえず看取り介護は横に置いておいて、施設運営が軌道に乗ったら、その時点で看取り介護の実践に取り組もうと考えている施設管理者の方が多いように見受けられる。

しかしそれはもったいない考え方である。残念な考え方である。むしろ特養は看取り介護を行うのが当然であると考えて、最初から施設サービスのシステムの中に、看取り介護を組み入れて、最後の旅立ちのときまで、安心して安楽に生きるための施設というコンセプトで、施設経営のグランドデザインを考えたほうが良いと思う。そのためのレールを敷いて、職員教育をしながら、最期の旅立ちまで見守るケアをしていくほうが良いと思う。そしてそれはさほど困難なことではない。

最後までその人らしく生きるための支援を行うという意識付けを、最初から職員に課したほうが、スムースに看取り介護まで行える施設になっていくし、それは結果的により高い品質の施設サービスを提供できる職員のスキルにつながっていく。

新設特養であるからこそ、特養は看取り介護まで行うのが当たり前なのだという前提で、サービスのありようを考えて言ったほうが、職員も受け入れやすくなる。そこでは日常介護の延長線上に看取り介護を位置づけるという意識が自然発生して、職員の取り組みも、自然に構えることなく実現できるだろう。

1年後、2年後の看取り介護実践を目指すのではなく、最初から看取り介護ができるように準備を進めたほうが(それも特別なじょんびではないが)、特養の社会的使命と責任を職員が理解できるし、そのことによって社会から求められる本物の特養となる早道となるだろうと思う。

特養経営者の方々には、ぜひそうした方向で新設施設を導いていただきたい。
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つなぎ介護という提案


昨日は、兵庫県小野市で行われた兵庫県老健協の研修会で、「老健施設のターミナルケア」をテーマに講演を行った。ところで特養などの福祉系サービスでは、ターミナルケアを、看取り介護と呼んでる。

「看取り介護」という言葉は、2006年の介護報酬改定で、特養の加算評価として、「看取り介護加算」が新設された際に、初めて造られた言葉である。

それまでは特養で行われていた終末期支援については、老健などの医療系サービスと同様に、「ターミナルケア」と表現していた。

しかし加算新設の折、国は全国老施協に対して、ターミナルケアは医療系サービスで使う言葉で、福祉系サービスである特養の加算としてはふさわしくないので、別な表現はないかと宿題を与えた。
(※それまでも医療系サービスではリハビリテーション、福祉系サービスでは機能訓練と表現を変えている。)

ターミナルケアを日本語に訳すとすれば、終末期介護が考えられるが、「終末」という言葉を使うと、それがあたかも「死」の支援であるかのような誤解を与えかねない。ターミナルケアは、命の炎が燃え尽きる時期が間近であることが分かっている人に対するケアであるとしても、それはあくまで生きることを支援する行為であり、死にゆくための支援行為ではないからである。

そのため老施協は、古くから日本語として存在していた、看取り、看取るからヒントを得て、「看取り介護」という新語を造ったというわけである。

しかし突き詰めて考えると、この言葉は少々おかしい。

看取り・看取るとは、死に行く人を看護するという意味だけではなく、「病人の世話をする。看病する。」という意味もあり、看取り介護という表現は、「看護介護」という表現ともいえるからである。

介護保険制度のサービスの中には、「訪問看護介護」という名称も存在するが、介護保険制度以外のどこを見渡しても、看護介護などという表現は見当たらない。少なくともその表現は自然な日本語の文章ではないように感じられる。

そのことは別にしても、「看取り介護」という言葉について、僕には一つの宿題が与えられていた。

僕は2013年まで、日本死の臨床学会・北海道支部の代表世話人を務めていたが(公私とも多忙で、総会等に出席できないために現在は辞退している)、2009年の総会の折、市民代表委員の方から次のような意見をいただいた。

「看取り介護」とか「看取り介護加算」という言葉は、利用者不在の意味に聞こえる。「看取る」のは介護者の視点であり、そこには看取られる側の「人」が存在しない言葉ではないでしょうか。もっと良い表現、呼称に変えていただきたい。

なるほどと思い、「別な表現方法がないか考えておきます。」とその時に答えたが、その後、なかなか看取り介護に替わる良い表現方法が見つけ出せず、そのうちに「看取り介護」という言葉は、介護関係者だけではなく、一般市民の間にも浸透していくようになった。

そのためその時の宿題も忘れてしまい、いつの間にかそれから7年の歳月が流れた。

その間にも僕は、全国各地で看取り介護について講演を行い続けていたわけであるが、先週北海道看護協会で、このことを話している最中に、突然2009年の総会のことを思い出し、同時にそれまでなかなか見つけられなかった、「看取り介護」に替わる言葉がひらめいた。

それは、「つなぎ介護」という言葉である。

看取り介護は、特別な介護ではなく、日常介護や日常生活とつながっている介護である。それだけではなく、看取り介護の場では、看取る人、看取られる人との間に様々なエピソードが生まれ、そのエピソードが人々の心に刻まれることによって、旅立つ人と、残された人の間で命のバトンリレーが行われる。

それはまさに旅立つ人の命が、残された人につなげられていくという意味である。

様々なつながりがそこには存在し、人の命が思い出として誰かの心につながって残されていくことが、人の歴史をつくっていくのだろうと考えた。

そしてつなぐ・つながれていくというのは一方的な行為ではなく、看取る人、看取られる人、双方の思いが、様々な場面でつながっていくのだから、看取られる人の存在なしではつながりはできないという意味でも、「つなぎ介護」という言葉はふさわしいのではないかと思った。

僕の一つの提案として考えていただきたい。
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看護協会でターミナルケアを語りながら考えたこと


先週の土曜日は、札幌市白石区の北海道看護協会で2時間半の講義を行ってきた。

毎年行われている北海道看護協会主催で、北海道の補助事業でもある、「介護保険施設等における看護職のためのリーダーシップ〜日常生活支援から看取りまで〜」という研修での講義である。

僕は3年連続で講師役を拝命しているが、特に今年は当初の研修予定日が、僕が熊本のアローチャート学会での講演を行う日と重なり、都合がつかないということで、わざわざ研修日程をずらしていただくという配慮をいただいた。本当にありがたいことである。

この研修は2日間にわたっており、僕はその2日目の最終講義を担当し、「看取り期のケアの理解〜介護施設の看取り介護の視点から」というテーマでお話をさせていただいている。

受講者は毎年50名を少し超える程度で、全道各地から参加してくださっているようだ。

3年前の研修時は、医療機関所属の看護師さんが多かったように記憶している。しかし今年の所属を見ると、老健施設の看護師さんが多く、そのほか特養や医療機関所属の方々などである。

そうであるがゆえに、この研修の冒頭では、在宅復帰施設である老健に、なぜターミナルケアの機能が求められるのかということから説明させていただいた。

講義終了後には、これからターミナルケアに取り組みたいと思っているという老健の看護師の方々から、いくつかの質問を受けた。ぜひ頑張ってもらいたい。

どちらにしても、看護協会という職能団体が主催するリーダー研修で、ターミナルケアをテーマにした講座の講師が、医師や看護師ではなく、僕のような介護施設の職員という立場の者が呼ばれるということは、一昔前までなら考えられなかったと思う。それだけ介護施設での看取り介護の実践レベルが認められてきたものと考えたい。

介護施設のターミナルケアは、施設によってはかなり以前から実施されていたものと思うが、平成18年の介護報酬改定で、特養の加算として「看取り介護加算」が新設され、その算定要件として、最低限の実施基準が定められたことが大きな転換期であったと思う。

その後この加算は、グループホームの報酬加算にも適用され、老健でもターミナルケア加算が新設されるようになり、介護施設全般で看取り介護・ターミナルケアの取り組みが進められるようになった。

しかし看取り介護加算が新設された当時の、各地の看取り介護に対する研修会を振り返ると、その講師役はほとんどの場合、医師であることが多かった。全国老施協の看取り介護研修も、在宅療養支援診療所で、在宅者のターミナル訪問診療を行っている医師を講師に呼んだりしていたように記憶している。

各施設で独自に研修企画する際も、ターミナルケア=医療というイメージで、医師もしくは看護師を講師に招いて勉強会を行うケースが多かったのではないだろうか。

僕が3月まで勤めていた施設も同様で、加算新設に先駆けて、「看取り介護指針」は、僕が自分で作成したが、研修については看護師を招いて行っていた。

勿論、その当時の研修が無駄であったということではないし、ターミナルケア期の状態像の変化や、それに対する対応方法を学んだことには意義があった。しかし何かが欠けているように感じたことも事実だ。

それは介護施設での看取り介護には、どのような意味があって、8割以上の国民が医療機関でなくなっている現実の中で、介護施設で看取ることが許されるのかという視点であり、そこでは何ができて、何ができないのかということだった。そのことを明らかにする必要があるのではないかと感じていた。

そうであるなら、僕たちには過去の実践と、その中で考えてきたこと、反省しなければならないことがあったので、それをもとに自分たちに何ができているのか、何が欠けているのかを自分の言葉で表現しようと考えたのが、僕が看取り介護講演を行うきっかけになった。

このことはやがて施設内の研修会〜地域の介護関係者に対する研修会と発展し、口コミで評判が高まり、インターネットの影響もあって、医師会主催のターミナルケア研修の講師やシンポジストとして、全国からご招待を受けるようになった。

そこで自らの実践例を中心に、お話ししていることは、看取り介護・ターミナルケアは、特別な介護でもなく、看取り介護を行うことが、職員の介護負担の増加につながるものではないということだ。むしろその実践は様々なエピソードを生み、そのエピソードに感動を覚えることによって、職員のモチベーションは高まり、それは自らのスキルアップの動機づけとなったり、介護という職業に誇りを感じ足りすることのきっかけとなることで、介護の仕事を続ける動機づけにつながるものである。

看取り介護・ターミナルケアとは、日常介護の延長線上に、たまたま命の期限がある程度明らかになっている人がいて、限られた時間を意識して介護にかかわるというだけの話で、そこですべきことは日常介護そのものである。

むしろ人の尊厳を護り、人の幸福を願って日常介護に努めることこそ重要で、そのことを続けていれば、看取り介護・ターミナルケアは、その必然の結果として、提供しうる支援行為なのである。

そんなことを、これからも伝え続けたいと思う。うれしいことに最近では、老健協会がターミナルケア研修を企画することも多くなっている。今週の水曜日も、兵庫県介護老人保険施設協会、北播・但丹支部研修会に講師としてお招きを受けているが、こうした研修会が全国に広がっていくことを願っている。

北海道老健協でもぜひ企画してほしいものである。
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死について語ることを拒否する人への対応


リビングウイルの気持ちが揺れたらどうするか、の続き)
当日のアンケートには、リビングウイルに関連して次のような質問も寄せられている。

質問:元気なうちに、死について語ることはとても難しい。何度も話し合おうとしたが、どうしても受け入れてもらえない場合は、どうしたらよいのでしょう。いやだといわれたら、それ以上、繰り返せません

僕自身は、以前務めていた特養で、数え切れない利用者の方と、終末期の希望確認に関連して、「死」について語り合ってきた。そのとき、話し合いを拒否された経験はない。その際の経験から言えば、そうした話を切り出すタイミングは、人それぞれで、厳粛な雰囲気で話しかけたほうが良い人がいる反面、少し砕けた話の中で、そうした話に方向転換していくことが話を引き出せる人もいて、このあたりの空気を読む能力が、ソーシャルワーカーには求められてくるように思う。

どちらにしても、リビングウイルに関連して、利用者自身の死に関連した問題について、利用者の本当の、「お気持ち」を引き出すためには、聴く側に真摯な対応が求められ、そのためにはそうした場を設けて、話をしていただける信頼感をもたれなければならにという前提がある。

そのために、「終末期の宣言書」については、「担当のソーシャルワーカーと利用者間のラポールが形成された段階で確認に務める」という不文律があった。
※ラポールとは、「心が通い合っている」・「どんなことでも打明けられる」・「言ったことが十分に理解される」と感じられる関係。

そのためにソーシャルワーカーは、新入所者に対して、リビングウイルについて説明できる関係構築に努めているわけである。この入り口段階の努力なくして、死を語ることができるようになるわけがない。ここは強調しておきたいところである。

とはいっても、「自らの死」を話題にすることや、そのことについて他人と語り合うことに抵抗感を持つ人がいることは事実である。

僕のフェイスブックに寄せられたコメントの中にも、「都会はどうか分かりませんが、地方においてはまだまだ死について口に出すことが良くない風潮があります。」という指摘がある。

それだけこのことは微妙な問題であり、地域により、個人により、受け止め方はいろいろあるのだろうと思う。

だからこそ僕は、死を語ることをタブー視しない社会にしようと訴えている。そうした訴えをこれから先も続けていかねばならないと思っている。

そのために、全国の様々な場所で行う、「看取り介護講演」は貴重な機会だと思う。「終活セミナー」で講師を務める機会も貴重である。

近直の看取り介護講演としては、11月30日(水)に、うるおい交流館エクラ(兵庫県小野市)で行われる、「兵庫県介護老人保険施設協会、北播・但丹支部研修会」での「介護老人保健施設でのターミナルケア」と題した講演機会がある。

老健という在宅復帰機能を中心に持つ施設の職能団体が、「看取り・ターミナル」をテーマにした研修会が増えていることは非常にうれしいことだ。老健のターミナルケアの意味は、「地域包括ケアシステムの中での老健の機能を考える」で示しているところで、過去には千葉県の老健協でも、2年続けてターミナルケアの研修会講師を務めたことがある。

老健が在宅復帰を目指すからといって、ターミナルケアの機能は必要ないという考えは古いのである。療養型老健だけではなく、在宅復帰型老健も、ターミナルケアに積極的に取り組むことが、地域包括ケアシステムの中では求められてくるのである。

そういう意味では、老健の職能団体には、ターミナルケアに関する研修会を実施することが、今後より求められてくると思うし、その場合は、老健のターミナルケアについても語る機会の多い僕を、ぜひ講師としてお招きいただければ幸いである。その中で、死を語りあうことの意味や、そうしたことが当然となる社会がなぜ必要かについて語ることができるだろう。

看取り介護に関連しては、今年度、日総研出版主催のセミナーを、全国7ケ所で開催したが、同出版社から来年3月、「エンド・オブ・ライフケア」という機関誌が創刊されることになっている。

僕はその機関誌に、「死を語ることは愛を語ること」をテーマに、連載記事を書く予定になっている。

2月に1回発刊予定の機関誌に連載を持つことによって、僕の連載は7社8本になり、ますますプライベートの時間を削らないとならなくなるが、これもうれしい悲鳴であると思い込んで、頑張って訴えていこうと思う。

愛にあふれた命のバトンリレーのために・・・。
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リビングウイルの気持ちが揺れたらどうするか。


看取り介護の対象となる可能性のある人がいる場合、医師はその方が終末期であるといえるかどうかを判断することになる。

このとき回復が期待できない嚥下困難か、回復が期待できない嚥下不可能な状態の人をどう判断するかという問題がある。そしてそれは決して簡単な判断ではない。

そうした時期であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能であり、場合によってはその延命期間は年単位で長期に及ぶ場合があるからだ。

しかし延命期間が年単位であるとしても、そうした状態は、高齢者自らの生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよいというのが、京都保健会盛林診療所所長・三宅貴夫氏が示している判断基準であり、僕が施設長を務めていた特養でも、その基準に沿って、医師が判断をしていた。

しかしこの場合も、利用者本人の意思が尊重されなければならず、医師を始めとした施設関係者が、胃婁による経管栄養をしてはならないと決めることはできない。

経管栄養とは医療技術の一つであるのだから、特段それを無用の長物と決め付けたり、悪者扱いするのはどうかしており、安楽な終末期に繋がる必要な胃婁増設という考え方も成り立つし、経管栄養によって延命したいという希望もあって当然であり、そうした考え方は尊重されねばならない。

延命のために経管栄養にするかしないかは、治療にあたる医師が、本人の意思・意向を無視して決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではない

今現在の嚥下困難な状態を、医師が専門性に基づいて客観的に見て、回復不可能であると判断したとしても、患者自身が経管栄養による栄養管理を希望し、回復を願い治療を続けることはあって当然である。

そして利用者自身が、経管栄養を行うかどうかを選択した後は、その判断が良かったのか、悪かったのかさえ審判する必要はなく、対象者の判断を尊重すべきである。

だからこのことを家族が決めるのではなく、できるだけ本人が決めるべきであり、家族同士でお互いが元気なうちから、それぞれの意思を確認し合っておくことが、当たり前であるという社会にしてほしい。それが僕の主張である。つまり自分の死、愛する誰かの死について語ることを、タブー視させない社会が求められているのである。

僕が行う「看取り介護講演」では、このことを説明し、リビングウイルやエンディングノートを記録し始める時期に、「早過ぎる」という時期はないと主張させていただいている。

自分で決められなくなる前に、間に合わなくなる前に、自分が一番信頼し愛する誰かと、お互いの人生の最終ステージの過ごし方を確認し合っておくことが重要である。

介護施設における看取り介護の場合は、施設担当者は、利用者との信頼関係を得ることができた時点で、終末期の医療や、口から物を食べられなくなったらどうしたいのかなどを文書で確認しておくことが大事だ。そのことも講演で主張していることである。

福岡ケアマネゼミ・チーム篠木のセミナーでも、そのことを説明してきたが、終末期にどうしたいのかという文書確認(介護施設)について、以下のような質問がアンケートに書かれていた。

質問:(終末期の宣言書を書いた後に)本人の気持ちが揺らぐことについて、どう考えるのでしょうか。

この答えは、さほど難しくはない。気持ちが揺らぐのは当たり前だからである。

講演では説明が不足していたが、終末期の宣言書を書いてもらう際には、記入者に、「この宣言書は、いったん書いたら変えられないわけではなく、むしろ何度も変更してよいもので、気持ちが変わるたびに書き直しのお手伝いをしますので、その際は申し出てください。」と言っている。

そもそも介護施設と利用者の間で交わす、「宣言書」とは、法的にはほとんど意味のないものであり、確認書類というレベルでしかない。

例えばそれは、子が親の意思や希望を確認できないまま、親が回復不可能な嚥下不能状態になったとき、経管栄養で延命するか、そのまま自然死を選ぶかという重大な決断を強いて、この心に重たい十字架を背負わすことがないように、事前に意思確認するためのものに過ぎない。

以前にも書いたが、特養で親を看取る子が、グリーフケアが必要な精神状況に陥ることはほとんどない。それは孝養を尽くしたというよりも、逝く親の年齢を考えて、「大往生」と考える人が多いということだろう。

しかしそうした長寿の親を看取る場合にも、例外的に深い悲嘆感を持ったり、著しい精神的落ち込みが見られるケースとは、親の意思が確認できないまま、経管栄養等の延命治療を一切しないで、そのことで結果的に親の寿命を縮めたのではないかと思い悩むケースである。

こうしたケースが、できるだけ生じないように、親が元気なうちから、その意思を確認しようという意味の宣言書なのであるから、意思表明ができるうちに、意思が変わるたびごとに、宣言内容も変えるというのが健全な発想である。

気持ちが揺れて、その都度相談員に話を聴いてもらい、自分の死について考える機会を何度も持つことは、それだけでも意味があり、必要なことだと思うのである。

さて、アンケートには、もうひとつ別な質問が記されていた。長くなったので、その質問と回答については、明日のブログに書くとしよう。
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生きるを支える


先週末の土日は、九州の2ケ所(福岡・熊本)で講演を行い、総勢350名を超える方々にお話を聴いていただいた。

今日と明日の記事では、両会場で学びあったことや、エピソード等を紹介したいと思う。本日は、まずは福岡編。

大好きな街、博多に行くのは8月の福岡県老人福祉施設協議会研修以来である。

久しぶりの福岡講演入りする前日に、見慣れた博多駅前の幹線道路が陥没したのには驚いたが、特に交通障害もなく金曜日の午後に、予定通りの時間で福岡入りし、その日の夜は、チーム篠木のオフ会に参加した。(参照:masaの地と骨と肉、今8時ですか?クジラ!!

セミナーは、翌土曜日の午後から、福岡国際福祉医療学院ももち国際ホールに、定員いっぱいの210名が集まる中で行われた。

このセミナーは、リーガル・ソーシャルワーク、ケアマネゼミチーム篠木特別講演会として、「看取り介護」をテーマに、僕のほか、強化型在宅支援診療所・まつおクリニックの松尾 勝一Drと、弁護士法人 翼・篠木法律事務所の篠木 潔代表弁護士(ケアマネゼミ チーム篠木主宰者)の3人の講演という形で行われた。

高崎さんと飯山さん
機械設定は、人に踏まれるのが好きな高崎さん。カメラ撮影は、背後霊の飯山さん・・・。

福岡講演
僕は介護施設の看取り介護の実践例を通じて、看取り介護は、どこで行われても良いもので、むしろ多死社会の中では、すべての高齢者サービス事業者が、その機能を併せ持つべきであり、それは特別な介護ではなく、日常介護であること。そこで必要なスキルを獲得することによって、職員の定着率は高まるし、利用者からも選択される事業者になることを、具体的に説明した。・・・そうした僕の看取り介護の実践例は、このブログで再三書いているので、今日の記事では、そのことはさて置いて、他のお二人の方の講演内容に触れてみたい。

松尾先生
講演当日の朝も、担当患者さんのお看取りをしてきたという松尾先生の講演は、福岡市における訪問診療と在宅緩和ケアの状況を詳しく解説され、その中で松雄先生がどのように看取り介護対象者の方に向かい合っているのかということが具体的に説明された。

一番印象に残ったことは、医療機関で行う終末期医療・緩和ケアについて、在宅で行うことができないものはないが、在宅で行うことができることで、医療機関で行うことができないことは結構多いという言葉である。

畳が敷かれ、仏壇があり、家族がいる自宅だからこそ、可能となる看取り方があるということが具体的になるにつれ、先生が患者さんや家族から、何を求められ、そこで何を実際にしているのかということが良く理解でき、大変参考になる講演だった。福岡にお住まいの方は、是非松尾先生のお話を聴く機会を得るようにお勧めしたい。

篠木先生
篠木先生の講演は、「看取り介護の法的課題」がテーマで、そもそもの根源的問題として、看取り介護の定義はどうなっているのかという検証から始まり、看取り介護における医療の提供について、患者の意思確認が出来る場合と、そうでない場合に分けて、それぞれにどのような課題があるのかが解説された。後者の意思確認が出来ない場合も、家族の医師が確認できる場合とそうでない場合も有り、家族がどこまで決定できるかということにも解説が及んだ。

そして死後事務の法的課題が整理されたが、この中で4月に法改正され、28年10月13日から成年後見人に限って、死後事務が一部行われるようになる法律が施行されることも解説された。

僕自身はその法律改正に気がついていなかったので、貴重な学びになった。

さらに篠木先生は、遺産の継承や家族の財産管理、身上監護の手配だけではなく、看取り対象者の、残された家族への思いを、死後にいかに実現するかも、「看取り介護」の守備範囲であり、法律の専門家が看取り介護チームに加わる必要性を提言されていた。

さらに看取り介護の類型化とマニュアルの作成の必要性を提言されるとともに、看取り介護以前の大切な課題として、生きがいある人生を支援する必要性を強調されていた。

この部分は、まさに看取り介護が、日常の暮らしや日常の支援行為とつながっているものであり、日常生活から離れたものではないという僕の主張と同じであると感じた。

お二人の講演をお聴きして、新たな知識を得ることもできたが、僕とは立場が異なる方々で、遠く北と南と離れているにもかかわらず、似たような思いを持って、それぞれの職務に取り組んでいる姿を知ることができ、何よりも力と勇気をいただいた。
福岡講演2
このような貴重な機会を頂き、チーム篠木の皆様に、この記事を借りて感謝申し上げたい。

本の販売
また今回も、たくさんの方々に、僕の著作本を購入いただき、心より御礼を申し上げたい。そして販売に協力いただいた、チーム篠木のメンバーの皆さんにも、あらためて感謝申し上げたい。
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生きるを支えるのが、「看取り介護」


僕が依頼される講演テーマは、介護実務から制度論まで多岐にわたっている。

最近では、社会福祉法の改正に伴う社会福祉法人のあり方とか、介護保険制度の改正議論に関連したテーマの依頼も多いが、11月〜12月の講演テーマを見ると、「看取り介護」に関する講演が5件も入っている。

その講演主催者は、社会福祉法人、老健協会、ケアマネ関連団体、大学、看護協会と多岐にわたっている。

つまり所属も職種も異なる様々な人々が、医療機関だけではなく、施設サービスや居宅サービスなどの多岐にわたる場所で、看取り介護に取り組んでいるということだろう。そこで僕の出番も多くなっているというわけである。

そもそも僕に対する、「看取り介護講演」の依頼が増えたのは、平成18年度からである。

その理由は、その年度に介護報酬改定があって、特養の加算項目として「看取り介護加算」が新設され、その加算の算定要件の中で、作成義務を課せられた、「看取り介護指針」について、僕がいち早く作成し、インターネットでダウンロードできる形で公開したことによるものと思われる。

勿論、そうした指針を作成した背景には、その当時僕が施設長をしていた施設で、早くから看取り介護(当時は、ターミナルケアと呼んでいた。)の取り組みが行われていたからであるが、世間一般では、僕が新たに設けられた看取り介護加算の要件をも加えた、「看取り介護指針」を、我が国で最初に作成した人として認識されて、そうした指針に則った看取り介護に詳しい人として、講演依頼が増えたのだろう。

僕が行う看取り介護講演は、「あるべき論」をできるだけなくして、看取り介護の具体例を数多く紹介しながら、理念や知識や介護技術とケースを結び付けるようにしている。そして看取り介護講演を始めた頃から現在に至るまで、一貫して主張していることは、「看取り介護は、決して死の援助ではない。」ということであり、特別なケアでもない、ということである。

命の期限がある程度分かっている人に対するケアであるとしても、それは決して死に向かうための準備ではなく、生きることを、その暮らしを支えるケアであるべきだと思っている。

人生の最終ステージを、安楽で安心のうちに過ごすためのケアであると同時に、息を止める瞬間まで、人としてその尊厳が護られて、その人らしく最期まで生きぬくための支援が求められているのだと思う。そしてそれは日常ケアと切り離して考えられるものではなく、看取り介護はケアそのものなのである。

つまり看取り介護は、対象者の死を待ちながら見守るということではなく、人として生きる過程で、その瞬間・瞬間に必要な支援を考え抜くことが必要なのだと思っているので、その実践例を数多く紹介して、そこで求められる考え方を示すようにしている。

そのため最近の僕の看取り介護講演は、「生きる、を支える看取り介護」とすることが多いのである。

ところで、こうした看取り介護に、特別なストレスがあると考える向きがある。昨年度の報酬改定でも、看取り介護加算の算定要件に加えられたPDCAサイクルの構築要件にも見られる傾向で、そこでは「多職種が参加するケアカンファレンス等を通じて、実施した看取り介護の検証や、職員の精神的負担の把握及びそれに対する支援を行う」と記されている。

こうした規定は悪いことではないが、勘違いしてほしくないことは、看取り介護が、その時期以外の介護に比して、特段の精神的負担があるというわけではないということであり、利用者が看取り介護に移行した後に、職員により強いストレスが生じるということではないということだ。

看取り介護が特別なケアではないという一面は、看取り介護だからといって、そこに特別な重圧が存在するわけではないということだ。

もともと対人援助は、人の感情に巻き込まれやすいという特徴があり、統制された情緒関与の原則を意識して関わらねばならないなどの注意点は必要だが、それは看取り介護に限ったことではない。

むしろ看取り介護は、人の命とその期限と向き合うことによって、命の尊さをより強く意識する結果を生み、看取る人と看取られる人の、双方が作り出す様々なエピソードに触れることで、人としてこの世に生きる意味を知り、そのことが様々な感動を生む。

その状態で、僕たちはストレスを感じて精神的な負担を抱える暇などない。常に感動に包まれながら業務に当たっているといってよいだろう。

看取り介護の実践が、職員のストレスとなって、精神的負担を増すとしたら、それはやり方が間違っているのである。
※10月28日(金)18:30〜20:30・ビエント高崎エクセルホール(群馬県高崎市)での看取り介護講演と、11月12日(土)13:00〜17:30・福岡国際福祉医療学院2F・ももち国際ホール(福岡県福岡市 )での看取り介護講演、12月12日(月)10:00〜15:00・日本福祉大学名古屋キャンパス北館8階会場(愛知県名古屋市)での看取り介護講演は、それぞれ文字に張り付いたリンク先を参照ください。
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死と向き合う時間を持つ意味


病院のベッド数が減る中で、死者の数が増え続ける我が国では、2030年には年間死者数が161万人を超えて、47万人の人の死に場所が見つからないと言われている。

これがいわゆる「看取り難民」とか、「死に場所難民」などといわれる問題である。

逝く人すべてが息を止めるその瞬間に、傍らに誰かが居て、手を握って看取る必要があるわけでもないし、そうできるわけでもない。死に至る過程で、安らかな時を過ごすことができるのであれば、死の瞬間に寄り添う人がいないことを、ことさら哀しむ必要は無いのかもしれない。

だからといって、第3者に看取られずに逝くことを薦めるのもどうかしている。その覚悟を促さざるを得ないケースはあると思うが、一人寂しく逝くことを推奨する必要は無い。それは個人レベルで考えるべき問題であり、どうするべきかという問題ではないし、その判断に影響を与えるような容喙(ようかい)や誘導があってはならない。

少なくとも、逝く人が誰からも看取られずに息を止め、遺体が長い時間放置され、死臭によってその死が知られるという社会が当たり前だということになっても困るわけである。

現在我が国において、「孤独死」の定義は確立していないが、例えばそれを、殺人や事故死以外の病死・自然死(老衰)で、死の瞬間誰にも看取られることなく、その遺体が24時間以上誰からも発見されずに、放置されている状態と仮定するとしたら、2030年にはそうした孤独死が、年間10万人を超えるのではないかと予測されている。

そうならないように、病死・自然死する人が、最期の瞬間まで安心して過ごすことができる地域社会を創るというのが、地域包括ケアシステムの目的のひとつでもある。

そのシステムの中の居所として、施設サービスも存在するわけであって、看取り介護・ターミナルケアができない施設があってはならないし、居宅サービスの最終章も看取り介護・ターミナルケアである必要がある。つまりすべての介護関係者がその取り組みに関わっていく必要があるのが、超高齢社会における地域包括ケアシステムなのである。

それは同時に、地域に住まう一人ひとりの住民が、自分と死ということについて、考える時間を持つ必要があることを意味している。

人の致死率は100%なのだから、今健康で死とは程遠い場所に居ると思える人であっても、いつまでも健康で暮らし続けることはできないという観点から、自分の死に場所や死に方について、一度真剣に考えた上で、そのときに何をどうしてほしいのかを、身の回りの近しい人に告げておくべきである。

死を間近にした人は、自分の力でできなくなることのほうが多い。そのときには他人に何かを委ねなければならないが、何をしてほしいかという重い判断さえも第3者に委ねてはならない。

高齢者施設で亡くなる人がいる場合、それらの死はたいてい「大往生」と表現される。そうした死をも悼むことは当然であったとしても、大往生と表現される死に対し、一時的な哀しみの気持ちを持ったとしても、その死によって悲嘆間にくれ、グリーフケアが必要になることはほとんどない。

例外があるとすれば、子が親の意思を確認できない状態で、経管栄養を行わず、その死の瞬間が安らかであったとしても、結果的に死期を早める判断をしてしまったことに対し、自責の念を持ったときである。

自分の子や親だからという関係に甘えて、そのような重たい判断を任せてはならない。それは愛する肉親に対しても、あまりに酷な十字架を背負わせることになりかねないからだ。

自分の死、肉親の死を語ることは、決して縁起の悪いことではなく、タブー視するようなことでもない。

死について語り合うことは、残される家族に対して、重い十字架を背負わせないという意味で、愛を語ることに他ならないからである。

そういう語り合いが、普通にできる世の中になってほしい。同時にそこで語られた思いが実現できるためには、社会の様々な場所で、それぞれの思いに寄り添う看取り介護・ターミナルケアができる体制が求められているという意味で、我々介護関係者はそのための準備をしっかりしておく必要がある。

このことに関連して、10月28日(金)18:30〜20:30、ビエント高崎エクセルホール(群馬県高崎市)で行われる、「社会福祉法人ようざん会主催看取り介護研修会」では、「生きるを支える看取り介護〜看取り難民を生まないため」というテーマで講演を行う予定である。どなたでも無料で参加できる研修会なので、お近くの方で都合の着く方は、張り付いたリンク先から詳細を確認した上で、会場までお越しいただきたい。
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看取り介護は日常ケアです


北海道で一番大きなセミナーを実施できる会場といえば、札幌コンベンションセンターだろう。

ここは2500人収容の大ホールのほか、6カ国語の同時通訳ブースを備えた特別会議場や中・小ホール、会議室などを備えている総合型コンベンションセンターである。

そこを会場に、第40回日本死の臨床学会年次大会が、先週の土日(10/8〜10/9)に開催された。僕は数年前まで日本死の臨床学会・北海道支部の常任理事を務めていたが、公私とも多忙で、定期に行われる会議や総会に出席できないことが多く、退任させていただいたという経緯がある。しかし今回は1年以上前から、この大会のお手伝いをするように声をかけていただいたので、前日から札幌に泊まり込んで開会式前に会場入りした。

日本死の臨床学会
そんな早い時間にも関わらず、すでに受け付けは込み合っていた。今年も全国から2.500人以上の関係者が集まる盛況ぶりである。ちなみに、お昼の弁当を配布するコーナー近くを通った際には、すれ違うことが難しいと思うほどの人並みだった。渋谷のスクランブル交差点を初めて渡った時のことを思いだした。

受付を終えて2階の講師控室に向かう途中、何気なく1階会場を見下ろすと、受付の横の方に何やら人だかりができていた。

日本死の臨床学会年次大会
なんとカニやいくら、ホッケなどの生鮮食料品が売られているコーナーが設置されていた。北海道らしいなあと思った。ちなみに毛蟹とタラバガニの足のセットで、8.500円という値段がつけられていたが、大きさからすると、ぼったくり価格ではないようで、会場でお土産に買われた人も満足しているのではないだろうか。(※少なくとも新千歳空港で買うよりは、お得な値段設定と思える。)

さてこの日僕に与えられたのは、1日目 9:40〜11:40(第5会場/204会議室)のパネルディスカッション「老いのプロセスにある生と死〜介護から見える最期の風景〜」のパネラーの役割である。

座長で司会進行役は、油谷香織さん(ノマド福祉会 総合施設長)。僕以外のほかの二人のパネラーは、宮崎直人さん(グループホームアウル 代表)と、佐々木聖子さん(株式会社日本レーベン ウィステリア事業部部長)である。

油谷さんと佐々木さんとは、この日が初対面であったが、宮崎さんは、同じ地区(日胆地区)での仕事仲間であり、若いころからよく知っている方で、認知症のキャラバンメイトの養成セミナー講師としてご一緒したこともあり、久々のコラボである。

この日は3人のパネラーが、それぞれ25分の講演を行った後、5分間の質疑応答を行い、そのあと油谷さんの司会進行でディスカッションを行うといった形である。

日本死の臨床学会僕が普段看取り介護について講演する際は、90分〜300分ぐらいの内容で行うことが多い。それを25分で行うとなれば、当然内容はぎゅっと絞る必要があり、今回は看取り介護とは特別な介護ではなく、日常介護の延長線上というよりむしろ、日常介護そのものであって、看取り介護ができないというのは、介護をしないという意味と同じであるというお話をし、さらに事例を挙げて、看取り介護の実践が、職員の特別な精神的・肉体的負担になるという考え方は間違いであり、看取り介護の実践によって、そこで生まれる様々なエピソードによって、いかに職員がモチベーションを挙げ、介護という職業にやりがいと誇りと持つことができ、スキルアップをアップさせることができるかをお話しした。

今般における介護施設の経営リスクは、職員不足だけではなく、利用者確保が難しくなりつつある現状そのものにあるが、そうであるがゆえに、看取り介護の実践は、安心して住み続けることができる施設として、利用者に選ばれると同時に、職員の定着率も高まり、利用者と職員がセットで確保できるメリットにもつながるということを、実例を挙げて説明させてもらった。(左の写真は、宮崎さんに撮影していただいたもの

後半の討論では、職員教育について話が及んだ。

僕は看取り介護の指針や、フローチャート、パンフレット「愛する人のたびだちにあたって」も自ら作成しているので、これらの具体的な方法について教育することもしているが、それはあくまでガイドラインであって、個別の具体的方法は、一人一人の対象者に向かい合ってしか見えないものが多い。そういう個別性を見出すための教育には力を入れている。しかしそれは看取り介護期の教育ではなく、介護教育そのものだと思っている。
※僕に対して、看取り介護の実践に関する講義・講演を依頼したい方は、「北海道介護福祉道場 あかい花」のホームページ右上の、メール画像をクリックして依頼メールを送ってください。

パネルディスカッションの議論では、この辺りで他の方と僕の考え方に温度差が見られたのかもしれないが、もう少し時間があったら、このギャップは埋められることができたろう。いかんせん今回は、時間が足りなかった。(後半の討論時間は、実質的に30分程度しか取れなかった。)

思えば札幌コンベンションセンターでお話をするのは、今回が5回目になる。2003年ころに、初めてこのセンターでお話をした時も、看取り介護がテーマだったが、その時は経管栄養を選択しないでターミナルケアに移行したケースの報告について、ある医師の方から、「餓死を誘導させているのではないか」という指摘を受けたこともある。

しかし看取り介護になって、食事を摂れなくなった人が、お腹を減ったと訴えるケースに出会ったことがない。食事や水分を摂取していないのに、体液が出てくる人が多い。これは人間の肉体が死に向けて体を整理している家庭ではないかと評論する人もいて、この時期はエンドルフィンという麻薬物質が脳内から出ているので、苦しくもなく、お腹が減っているわけでもないのだ。

健康な人が何らかの理由で食べられなくなって死に至る餓死とは異なるという理解で、安心と安楽の支援を行うことが看取り介護だと思う。そんなことも懐かしく思い出しながら、当日の役割を終えてきた。

今回も貴重な機会をいただき感謝の気持ちでいっぱいである。この場を借りて深くお礼を申し述べたい。
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