masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

看取り介護

高齢期の生き方を考える先にある看取り介護


今月に入って高齢者介護に関連して重要な国の統計が複数示されている。

9日に公表された2018年版の厚生労働白書は、統計不正問題等に関連して異例の、「お詫び」の言葉が冒頭の「はじめに」から並べられている。

これに関して、「謝れば済めば警察はいらない」などの批判的なコメントも寄せられているが、白書で謝罪するということはかなり大きなことではないかと思う。省内でこのような文言を入れることに全く抵抗がなかったとは思えず、謝罪の文言を入れるに際して、作文した人にはかなりの勇気と覚悟が必要だったのではないだろうか。

白書という閣議了解を必要とする公的資料に、このような謝罪を載せたこと自体に大きな意味があると思え、このあたりは相応の評価をして良いのではないだろうか。

ただ今後は厚労省が集めたデータをもとに、「自立支援介護」のガイドライン作りが進められるのだから、この部分への監視は欠かせない。ここに不正統計があっては、自立支援の名の給付抑制が進められるだけの結果になるので、注意深く見守りたい。どちらにしても国の分析を無批判に受け入れるだけでは、施策も制度も良くならないことを関係者は自覚すべきだ。

特に介護保険制度の中心職種と言える介護支援専門員に、制度の知識が無かったり、国が示した方針を無批判に受け入れる傾向が強いことは気がかりだ。日本介護支援専門員協会という職能団体は、介護支援専門員全体の利益代表ではないということにも注意して、それぞれのステージで、国から出されるデータなり、方針なりを分析する知識と気構えを持っていただきたい。

そのほか今週出された統計の中では、10日に総務省から公表された、住民基本台帳に基づく今年1月1日時点の人口動態調査の結果が気になるところだ。

それによると、日本人の人口は前年より43万3239人少ない1億2477万6364人。減少は10年連続で、今回は過去最大の減り幅となっている。この現象の根っこには、出生数が減り続け過去最低数になっているという自然減という最大要因があり、それは将来にわたって生産年齢人口が減少し続けるという意味を含んでいる。

日本全体の労働力が日本人だけでは賄えないことが明白になるなかで、介護労働力をどのように確保するのかという問題の解決策はないと言って過言ではない。そうであるからこそ介護事業者は、国の施策に頼るだけではなく、それぞれの事業者の企業努力と覚悟も必要になるのである。この部分で後塵を拝しては、事業経営が困難となることを自覚していただきたい。

また2日には、国民生活基礎調査(2018年)が公表されている。

それによれば全世帯に占める高齢者世帯の割合は27.6%と過去最高になっており、このうち「単独世帯」の性別は、男性32.6%に対して女性67.4%と、圧倒的に女性の比率が圧倒的に高くなっている。しかし「孤立死」・「孤独死」する人の7割は男性だという事実がある。

これは何を示しているのか・・・。高齢者支援として何が求められているのかという答えがそこにはあるのではないだろうか。僕の「看取り介護講演」では、(120分以上になれば)このことも含めてお話しすることが多い。
孤独死の現状
画像のスライドは、8月5日(月)に島根県松江市で行われる、島根県老人福祉施設協議会主催・看取り介護研修会での5時間講演で使うスライドの中の1枚である。

看取り介護と言えば、回復不能の終末期と診断された人に対するケアに特化して考える人が多いが、僕はそれは少し違うのではないかと考えている。

看取り介護とは高齢者の生活支援全般を考えるうえで、最終的にたどり着くケアステージであり、決して特別なケアではない。そこに至る過程では、終末期になった場合にどこでどのように過ごしたいのかという、リビングウイルの確認支援という重要な役割が介護支援者すべてに求められてくるし、一見看取り介護とは関係性がないと思われている、「孤独死」の問題についても、高齢者が仕事をリタイヤした後などに、どのように社会性を保ち、地域社会と分断されないかという観点から、その問題を考えることが最終的にはすべての地域住民が、最期の時間を安らかに過ごすことができるということにつながっていくのではないかと考えている。

だからこそ孤独死問題と看取り介護は無縁ではないし、関連性が高い問題であるのだと思う。

そして看取り介護に関して言えば、人が最期の瞬間まで生きる喜びを感じることができることを信じて、そうした生き方を支える介護であり、介護関係者が看取り介護を、「する・しない」、「できる・できない」と判断するのではなく、日常介護の延長線上に、ごく当たり前のように看取り介護の実践があると考える介護業界になってほしいと思っている。

島根県松江市の看取り介護講演の前にも、今月25日は札幌で2時間の看取り介護講演、27日には東京神楽坂で4時間の看取り介護講演を行なう予定だ。(参照:masaの講演予定

それらの講演は加算を取るための方法論を教えるためのものではなく、看取り介護とは何かということを伝える講演である。それは人が生きる過程を支えるという意味で、誰にでも提供されるべきケアであり、日常支援の一つとしてごく当たり前に関わるべきケアであることを伝えたい。

今年1月に上梓した、「看取りを支える介護実践〜命を支える現場から」も同じ目的で書いた本である。是非一度手に取って読んでいただきたいと思う。

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安楽支援の基盤


今僕は、東京都品川区五反田の学研ビルに向かっている最中だ。

今日はそこで行われる株式会社学研ココファン・ケア品質向上大会に講師としてお招きを受けている。僕の講演は90分であるが、13:30〜18:10まで行われる大会の全日程に参加し、職員の皆様の研究発表などを聴こうと思い、朝早い便に乗って北海道からこの時間までに駆けつけた次第である。

ただ搭乗便に遅れが出たため、予定時刻に到着するかは微妙な時間になってきたが、仮に遅れたとしても、大会自体には支障はない。開始時刻に間に合わせようとしているのは、あくまで僕の都合だからである。

介護の実務に携わっている人たちが、どのような思いを持ちながら、どんなふうに日々の業務に取り組んでいるかを知ることは、僕の活動にとても非常に重要になる。そういう意味では、今日のような機会は得難い貴重な機会であるといえる。

その大会の中で行う僕の講演は、看取り介護をテーマにしたものだ。
看取り介護講演
看取り介護とは、終末期を過ごす人々が安心と安楽な状態で過ごすためのケアである。それは日常介護の延長線上にあるもので、決して特別なケアではないが、看取り介護対象者が、本当に安楽に過ごせるために、必要な知識と技術はしっかり備え老いておかねばならない。

間違ってはならないことは、終末期だからといってずっとベッドに横たわり、安静にしなければならないとは限らないということだ。安楽とは、「安らか」であるに加えて、「楽しむ」ということも必要になる場合があるのだ。終末期にもバイタルが安静しているときには、活動参加機会があってもよいし、先日紹介したように、VRを利用した終末期支援があってもよい。

しかしいくら環境が整えられ、立派な機械・設備があろうと、それだけで人が安楽になることはない。本当に人が求める安楽とは、自分に思いを寄せてくれる誰かがそこに存在することだと思う。最期に残された時間であるからこそ、その限られた短い時間の中だからこそ、その関係性と愛情が求められるのだと思う。

人と人の間で刻んだ営みを思い、人としてこの世に生きてきた喜びを確かめるためにも、それは最も求められることなのだろうと思う。

逝かんとする人の傍らに、家族や親族がいない場合は、看取り介護に係る関係者が、その役割をしっかりと担う必要があると思う。逝かんとする人に、人間としての愛情を寄せ、手を握り、そのぬくもりを伝えることができるということが、看取り介護では最も重要なことなのかもしれない。

そのためには、介護支援に関わる関係者は、誰かの最期の瞬間に、「傍らにいることが許されるもの」となるために、日々の関係性づくりに努力を惜しんではならないのだと思う。

終末期支援の知識や技術もしっかり伝えてくるが、そうした思いも、同時に伝えることができる講演にする予定である。

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看取り介護を通じて伝えるべきもの


看取り介護とは、人が最期の瞬間まで生きる喜びを感じることができることを信じて、そうした生き方を支える介護だと思う。

人として、この世に生を受けたこと自体が尊い。人として生まれ、人生という旅を歩むことができることが貴重なのだと思う。だからこそ命が燃え尽きるその瞬間まで、生きるを支えたいと思う。そういう意味で、「看取り介護」とは、この世に生まれたことへの感謝を失わないように、生きる過程で刻んだたくさんのエピソードを思い出してもらいながら、最期の瞬間まで安心と安楽に過ごしてもらうために必要な介護だと信じている。

看取り介護の質を高めようとする理由や動機づけとは、人としてこの世に生まれ、生かされていることの感謝にしか過ぎない。それ以外の意味を見出す必要もないと思っている。

だからこそ介護関係者が看取り介護を、「する・しない」、「できる・できない」と判断するのではなく、日常介護の延長線上に、ごく普通に看取り介護の実践があって当然であると考える介護業界になってほしい

看取り介護を特別な介護であると思い込む、「誤解」をなくしたい。そのために、「看取りを支える介護実践〜命を支える現場から」という本を今年1月に上梓させていただいた。

だからと言ってこの本は、人にものを教えるような本ではない。命の尊さを伝えたいと思うだけだ。そうだ…命の尊さとは、教えるものではなく、伝えるものだからだ。

全国各地で行う「看取り介護セミナー」も、加算を取るためのセミナーにはしたくないと思っている。看取り介護とは何か・・・それは人が生きる過程を支えるという意味で、誰にでも提供されるべきケアであり、介護支援者が、するとかしないとか決めるような介護ではなく、日常支援の一つとしてごく当たり前に関わるべきケアであることを伝えたい。

勿論そのための知識や方法論も伝えている。それは誰しもできる方法である。

尊い命が燃え尽きる瞬間まで、人は人との間で、様々なエピソードを刻むことができる。それは人がこの世に生きるという意味だろうと思うし、そのエピソードの記憶を、逝くものと残されたものにつないでいくことが、命のリレーであり、それが人の歴史を創っていくのだろうと思う。

僕が総合施設長を務めていた特養では、末期がんで亡くなられた70歳代の女性が、亡くなる前日に元気だったころにいつも参加していた「療育音楽」という音楽療法の場に参加する場面があった。その場面を施設に泊まり込んで付き添っていた家族が見つめ、残されたわずかな時間の中で周囲の人と関係性を紡ぐ姿に感動し泣いている姿があった。

そのエピソードは、葬儀の際に親族や知人に繰り返し語られ、心に残る思い出となっていくのである。

そういうエピソードがまったく存在せず、「看取り介護」を受けているという人の姿が見えない特養やグループホームはおかしい。密室の中で何が行われているかわからない場所の看取りは怖い。そこで行われているのは看取り介護ではなく、放置介護であるようにも思え、その場所で死に至る人の状態とは、周囲に人がいたとしても、「孤独死」ではないかとさえ思う。群衆の中の孤独死を生まない看取り介護が求められている・・・。

そういう意味では、看取り介護とは、最期の瞬間まで人と人との交わりを支える介護でもある。

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VRを利用した看取り介護


VRとは、バーチャル・リアリティ( virtual reality)の略語で、「仮想現実」と訳されている。

VR体験装置を装着した経験を持っている方も多いだろう。一番普及しているのは、頭部に装着してすっぽりと視界を覆う「ヘッドマウントディスプレイ」(HMD:Head-Mount Display)装置である。でっかい水中メガネのような機械である。

幻視のある認知症の人たちが、どんな日常の中にいるのかを体験するためにVR体験装置を装着した経験のある介護関係者は多いのではないだろうか。そこでは実際にないものが見えたり、空間認知機能の低下した認知症の人には、段差が巨大化して見えたり、平衡感覚を失って立ちくらみするのと同じ体験をすることができ、認知症の人が生きる現実の一部を知ることができる。

その体験は、認知症の人に対するケアを考える上では、相手の立場に立って考えるための助けになるだろう。(※だからと言って、認知症の人の現実のすべてが理解できたと勘違いされては困るのであるが・・・。)

このVRをターミナルケアの場において利用しているところがあることを、神戸新聞のネット配信記事が紹介している。

終末期のがん患者の願いをかなえるため、兵庫県芦屋市朝日ケ丘町の市立芦屋病院の緩和ケア病棟で、仮想現実(VR)の装置が活用されているという記事である(6/7(金) 10:28配信 )。ネット配信記事は一定時間経過後に削除されてしまうので、一部を下記に転載させていただく。
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中皮腫を患い、緩和ケア病棟で過ごす同県尼崎市の男性(66)は5月末〜6月初旬、ベッド上でVRヘッドセットを装着した。「自宅を見たい」という男性の願いを受け、妻(59)と三女(26)が、360度カメラで撮影したリビングや寝室、ヤマモモやモクレンが育つ庭、愛車などの映像が流れた。

妻と三女は「本人目線で、歩いているように撮影した。パパがいつも座っていたソファに座り、好きなゴルフ番組にチャンネルを合わせた。13年間乗った車の運転席では、運転気分を味わえるよう工夫した」と話す。男性は「まさか見られると思ってなかった」と感想を漏らし、特に愛車の場面の再生を繰り返した。
(中略)
ふるさとや結婚式をした思い出の地、旅行先など患者の望みに応じ、関西や九州など各地で映像を撮影。衛星写真による「グーグルアース」も活用した。飛騨高山でバスの運転手をしていた男性は「運行ルートをたどりたい」と要望した。自宅の仏壇の前に座りたいという人もいた。

体験前と体験後にアンケートで感想を尋ねたところ、不安感が減り、楽しみや幸福感が増す傾向が見られたという。(転載ここまで)
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このブログで何度も書いてきたように、看取り介護とは安心と安楽が必要とされるケアであり、同時に人生の最終ステージを過ごす人の、「命のバトンリレー」の場でもある。そのためには逝く人と残される人の間で、様々なエピソードを刻まれて、それが両者の記憶に残されていくことが大事である。

そこでは逝く人が余命宣告を受けている場合もあり、自らの人生の最終ステージを意識したエピソードの刻印も重要となることが多い。そんなときに、思い出の場所や憧れの場所に、VRを利用して行った気分になれたり、したかったけれど、できなかったことを体験した気分になれることはとても素敵なことではないかと思う。

僕とFBでつながっている医療ソーシャルワーカーの島崎友香さんは、自らの体験に基づいて、終末期のVR利用の効果について、次のようにFBにコメントを書いてくださっている。
末期がんの患者さんと話をしている時、どこでもドアやタイムマシンがあったらな〜と毎度思います。
実際に、状態の良い時を見計らってなんとか行きたいところに行けた、会いたい人に会えた患者さんの最期は安らかです。見送るご家族の表情も違います。
また、患者さんが喜んでいる姿という、末期においてなかなか見ることのできない光景を医療職が見る、その感情をご家族含め共有するというのは大きいです。介護でも、このような使い方ができるといいですね。
余談ですが、うちの兄は闘病中吉田類の酒場放浪紀を見て幸福感を得ていました。(笑。


こんな風に人生の終末期に人は、かつての思い出の場所や憧れの場所に思いを馳せたりするのである。その時、仮想現実とは言えVRが「どらえもんのどこでもドア」のように思いを馳せた場所に人を連れていくことができるとすれば、それは終末期の暮らしに潤いを与えることではないだろうか。

そういう意味では、看取り介護の時期の安楽な過ごし方や、残された貴重な時間を有効に使う方法として、VRは様々な可能性を生み出すと言っても良いように思う。

だからこそ看取り介護に取り込む特養などでは、その導入を積極的に検討する価値は十分あるだろう。

僕が今後行う、「看取り介護講演」でも、看取り介護期にVRを利用したケースを紹介していこうと思ったりしている。

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終末期の安楽支援に必要な知識


死の直前に必ず現れる状態の一つに、下顎呼吸(かがくこきゅう)がある。

これは酸素の取り込みが少なくなることで、顎と喉の筋肉を動かして酸素を取り込もうとする呼吸状態で、あえぐような状態になる。そのため下顎呼吸を一度も見たことがない人は、その状態を苦しんでいる状態と考え、なぜ酸素吸入をしないのかと疑問を持つ場合がある。

しかし下顎呼吸状態のときは、酸素の取り込みが少なくなって体内の二酸化炭素濃度が上がるために、脳からエンドルフィンという麻薬物質が出て、下顎呼吸を行っている当事者は恍惚状態になる。つまり苦しくはないわけである。この時に酸素を入れてしまえば、体内の二酸化炭素濃度が下がり、エンドルフィンが出なくなるので、対象者を苦しませることになる。

だから死を直前にして下顎呼吸を行っている人に対し酸素吸入することはない。この時間違ってはならないことは、下顎呼吸は意識が無い状態だから苦しまないということではないということだ。あくまでエンドルフィンの生成によって恍惚状態になって苦しくならないのであり、酸素吸入しても意識は戻らないが、恍惚状態ではなくなり苦しんでしまうということである。

このことを看取り介護に携わる人々は、事前に家族等に説明しているだろうか?

また看取り介護の際に、対象者の意識が無い状態で、息をするたびにのどの奥でゴロゴロと音がする ことがある。呼気・吸気両方で音がする場合が多いのだが、この状態を死前喘鳴:しぜんぜいめい(デスラッセル:Death Rattle)と呼ぶ。
(※意識があり、咳き込みながら、喉がごろごろと音がすれば、死前喘鳴ではないことに注意が必要だ。)

死前喘鳴は、数時間ないし数日間で死に至る可能性があるということを示す徴候で、48時間以内にお別れの瞬間が来るといわれている。

このとき家族等から苦しそうな音を出しているから、痰を吸引してほしいと言われることがあるが、吸引しても痰がない場合がほとんどであり、音は消えない。

死前喘鳴の原因音は、喉の奥で唾液が溜まっていたり、気道の分泌物が鳴る音であったりするので、痰が原因ではなく、苦しみも伴わないものなのである。よってのどの奥にチューブを突っ込んで、痰を吸引することはかえって苦痛を与えることになってしまう。むしろ口腔内の唾液を綿花などでとるだけにとどめたほうが安楽を阻害しないだろう。

そのことも事前に家族等に説明しているだろうか?

死前喘鳴という状態がみられ、家族が痰の吸引を望んで訴えたときに、そうしたことを説明するのではなく、看取り介護に移行する際に、終末期の身体状況として予測される状態については、あらかじめ説明しておくことが大事である。

下顎呼吸や死前喘鳴などは、苦しんでいる状態ではないことを説明し、原因や対処法はこうですよと明らかにしておくために、「愛する人の旅立ちにあたって」というパンフレットを作ったのは平成22年のことである。

そのパンフレットは、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」に最新バージョンを掲載しているので、参考にしてそれぞれの事業者に見合った説明書式を作成していただきたい。看取り介護対象者を適切に安楽に送り出すために、僕の著作本が利用されるなら、それは願ってもないことなので大いに利用してもらいたい。

看取り介護では、「安楽と安心の介護」が何よりも必要なのだから、こうした知識は看取り介護に携わる職員全員が持ってほしいものだ。

ところで死前喘鳴の人に痰吸引を試みることは、かえって看取り介護対象者を苦しませかねないと書いたが、看取り介護対象者の中には、毎日痰吸引が必要とされている人がいる。その人たちは、痰吸引によって、安楽が得られているのだろうか?

そもそも痰吸引は、安楽介護なのだろうか?痰を吸引されている人の表情を見ると、痰が出てむせているとき以上に苦しがっていないだろうか?

そう考えると、痰が出て吸引すればよいと考える以前に、痰がなぜ吸引しなければならないほど出るのだろうと考える必要もあるのではないだろうか。

足がパンパンに腫れているにもかかわらず、まだ続けられている意味不明の点滴が痰の原因なのかもしれない。足の腫れを見て点滴をやめた途端に、痰が出なくなる人は多いことを知っているのだろうか・・・。

看取り介護の場で不必要な点滴を続けられている人に対し、一生懸命に痰の吸引をしながら看取り介護対象者を苦しめている看護職員や介護職員が、この国に何百人もいるのではないだろうか。そういった間違った看取り介護の方法論を変えていく必要もあるのではないだろうか。

知識がないということは、特定場面では罪深い問題なのだということを心してほしい。

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人生の最終ステージを支える責任


現在全国の特養の8割以上が、「看取り介護加算」の算定届を出している。

つまり特養の8割以上が、「看取り介護」を実施できる施設であるということになる。・・・しかしその実態は、本当に終末期支援としてふさわしい支援行為となっているだろうか。

看取り介護加算を算定できているということは、その算定要件をクリアしているのだから、法令上の看取り介護を実施していないということにはならない。しかし法令で定められた要件をクリアしていたとしても、即ちそれが安らかな終末期支援を意味しているとは限らないのである。

看取り介護を行う際に一番大切なことは、看取り介護対象者が、「安心して安楽に過ごすことができる」ということだ。特に病気が原因となっている「痛み」に苦しまないように、痛みをコントロールすることは一番大事である。もしそれができないのであれば、痛みのコントロールが可能なホスピス等に、対象者を転院するなどの支援を行うことが最重要な支援となり、決して無理して看取り介護を行なおうとしてはならない。なぜならそれは看取り介護対象者を、人生の最終ステージという大切な場所で、苦しめるだけの結果しか生まないからだ。

このように看取り介護が何たるかという理解がないままで、終末期の人をそこで看取ればよいというだけの知識で、痛みを無視して、看取り介護対象者の苦痛を見逃すなんてことがあってはならない。

そういう意味では、安楽な体位の支援を常に行ったり、体位交換も適切に行って皮膚障害による痛みが出ないようにすることも大事である。そして看取り介護対象者が死への恐怖におびえることがないように、安らかな気持ちで過ごすことができる精神的支援などをすべて含んだ総合的支援が行われなければならない。このことを看取り介護に携わるすべての関係者が理解しておく必要がある。

看取り介護とは日常支援の延長線上にある終末期の介護であり、それは決して特別な介護ではなく、看取り介護ができない特養というものが存在してはならない。しかし同時に、前述したような終末期支援の際に重要になることは何かという知識は当然求められるのであるから、すべての特養経営者は、職員にその知識を身に着けさせるように教育を行う必要は当然あるということだ。

終末期特有の身体症状としてはチェーンストークス呼吸や、デスラッセルという症状も起こり得るし、下顎呼吸は必ず起こる自然現象なので、その状態になった時に慌てないように、あらかじめそれらの知識を持っていることも不可欠となる。(※拙著、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」には、それらの説明も詳しく書いているので参照願いたい。)

これらの知識は日ごろから、「看取り介護研修」をきちんと行って、職員全員に周知すべき知識だ。看護職員や介護職員だけではなく、相談員や事務職を含めたすべての職員が、そうした知識を持っていないと、間違った形で看取り介護が行われてしまう。

間違った形で看取り介護が行われた結果、加算算定ができなくなる程度の問題ならば、それはさほどの問題とは言えない。それは職員に知識を与えないまま、そうした大事な介護を行わせていた経営者の自己責任に過ぎないからである。

しかし間違った形で看取り介護が行われた結果は、加算算定の問題にとどまらず、看取り介護対象者の人生の最終ステージに、取り返しのつかない後悔を与える結果にななることが多い。そうなっては困るのだ。そのような状態には決して陥らないという覚悟が求められる。

拙著でも指摘しているように、看取り介護を行う前提条件は、医師の医学的見地によって、きちんと終末期判定が行われ、余命診断が行われるということだ。しかしそうした当たり前の知識に欠ける特養では、終末期判定があいまいに行われ、場合によっては経管栄養となった人をすべて看取り介護対象としているなんていう信じられない状態が起こってるのだ。

その状態はあまりにも無責任である。それは人の命に深くかかわる看取り介護において、真摯な姿勢のかけらも見つけられない状態と言える。そうした状態を放置しておく人が、対人援助を行う事業の経営者であってはならないのである。

だからこそ看取り介護に携わるすべての関係者の皆さんに訴えたい。

看取り介護とは単に加算を算定するためだけの行為ではないのです。それは誰かの人生の最終ステージに関わるという行為なのです。その場面で関わる人と、看取り介護対象者の関係性によって、誰かの人生の幸福度が変わってくるかもしれないのです。人としてこの世に生まれてよかったと思いながら旅立っていくことができるかどうかは、看取り介護という場面で、そこに携わる人々がどう関わっていくかで左右されてしまうかもしれないのです。

だからこそ、命を尊く思ってください。儚い命を大切に思ってください。その命が燃え尽きる瞬間まで、命を愛おしく思ってください。

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看取り介護の場の多様化に備えて


僕の最新著作本「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」は、張り付いたリンク先から購入できるが、そのリンク先には在庫数が表示されている。

その数字がほぼ毎日変化しているということは、どこのどなたかはわからないものの、毎日誰かがこのサイトから僕の本を購入してくれているという意味である。本当にありがたいことである。

講演会場でもこの本の売れ行きは良くて、とても驚いている。なぜならこの本は、「看取り介護」をテーマにしているだけに、購入者層は過去の僕の出版本よりも狭くなるのではないかと予測していたからだ。そんな予測が出版社や著者にとっては良い方向に外れている。それだけ様々なステージで、看取り介護の実践が求められているという意味ではないのだろうか。

この本では、僕が今まで実践してきた看取り介護のケースを紹介するだけではなく、看取り介護指針や、終末期の身体状況の変化を説明するパンフレット、デスカンファレンスのための一連書式など、実務書類も多々掲載しているので、看取り介護の実践書としても利用できる。さらにそこで紹介しているケースを読むと、命と向き合う介護の現場の使命と責任という意識も持つことができ思う。何より看取り介護を通じて、介護そのもののあり様を考えることができる実践書となっているので、ぜひ一度手に取って読んでいただきたい。

我が国では国民の8割以上が医療機関で亡くなっているという現状があるものの、医療機関以外で死亡する人の割合が少しづつではあるが増えている。自宅で亡くなる人の割合も、0.数ポイントという割合で増え続けており、それに伴い当然のことながら医療機関で亡くなる人の割合が少しだけ低下しているのがここ数年の傾向である。

それは在宅療養支援診療所が医療保険に位置付けられて以来、在宅ターミナルケアの専門医が増えていることによって、自宅等の住まいで亡くなることができる人が増えているという意味である。その中には、一旦医療機関に入院したとしても、そこで入院し続けたまま亡くなるのではなく、回復不能と診断された後に、自宅に戻って人生の最終ステージを過ごす人も含まれている。

医療機関でターミナルケアを専門とした病棟として、「ホスピス緩和ケア病棟」があるが、そこは末期がんの方しか入院できないのだから、こうした変化はとてもありがたいことで、終末期の選択肢が増えていることを意味している。そのため在宅ターミナルケア専門医の増加によって、末期がんの方であっても、あえて緩和ケア病棟に入院せず、自宅で亡くなるというケースも増えている。

このことに関連して、「生きるを支える」という記事の中で、福岡市で在宅ターミナルケア専門医として活躍している、強化型在宅支援診療所・まつおクリニックの松尾 勝一院長の話を紹介している。

松尾Drは、「医療機関で行う終末期医療・緩和ケアについて、在宅で行うことができないものはないが、在宅で行うことができることで、医療機関で行うことができないことは結構多い」と言い、その理由として、「畳が敷かれ、仏壇があり、家族がいる」と述べておられた。

勿論、緩和ケア病棟にも畳があるところもあるし、仏壇を持ちこむこともできる。さらに家族がそこで一緒に付き添って最期の時間を過ごすこともできるだろう。しかしその仏壇や畳や壁の一つ一つの存在に、過去の暮らしとの連続性があって、それを見て思い出が浮かんでくるかどうかということはまた別の問題である。

家族が単に看取り介護の場に居るのではなく、馴染みのある空間に家族と共に過ごすことで、過去の様々な思い出が浮かんできて、最期の時間を過ごす際の安らぎにつながっていくということが、人生の最終ステージを過ごす際には重要な要素になるのである。

だから松尾先生は、ターミナルケアを実践する場、終末期を過ごす場所として、自宅に優るものはないと言っておられる。

人生会議:ACPという考え方が普及する過程では、終末期を迎えた人の、本当の気持ち・思い・希望に寄り添った場所で過ごす方法が追及されるのだから、こうして自宅で最期の時間を過ごす人も増えるだろう。(参照:人生会議の可能性

そしてリビングウイルの支援者としての介護支援専門員等の役割もいっそう重要となるだろう。その過程では、数カ月〜半年程度の期間を終末期支援の期間とし、自宅で過ごす方が通所介護に通って心身活性化を図るというケースも増えていくのではないかと考える。

看取り介護の対象者が、訪問系サービスのみならず、通所系のサービスも利用することによって
、様々な居所で終末期を過ごすことができるのだ。サ高住が最期の居所となっている方は、その場で訪問系サービスを利用しながら、週の何回かは通所介護に通って、馴染みのある人々との交流機会を途切れさせずに終末期を過ごす計画も普通に考えられるようになるだろう。

終末期を自宅で過ごす方にも入浴支援は重要であるが、それが一律訪問入浴ということにはならない。社会的関係を途絶させず、寂しい終末期にならない方法と入浴支援の方法をセットで考えて、通所介護で他者と交流して心身を活性化できる機会を持ちながら、入浴支援を受けるという計画だってありだと思う。

よって通所介護の従業員の方々も、終末期の方々の身体状況の変化の特徴や、終末期支援として関わる際に持つべき知識等について勉強しておくことは非常に重要となるのである。通所介護の職員だから、看取り介護には関わらないだろうという考え方は完全に否定されなければならない。

これからの社会では、すべての介護関係者が、他の領域の専門家と連携しながら、終末期を含めた高齢者の暮らしを護るという意識が必要だ。それが介護のプロとしての意識につながり、そうした意識を持つ専門家が存在することが、本当の意味での地域包括ケアシステムの基盤となるのである。

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特養を墓場に化す安易な看取り介護判定


僕は今、岡山空港でこの記事を更新している。これから羽田空港を経由して新千歳空港に向かう予定だ。先週木曜日から始まった、東京〜福岡〜岡山の講演の旅を終えて、いったん自宅に帰るためである。

昨日は岡山市で行われた日総研看取り介護セミナーで5時間の講演を行った後、日ごろ何かとお世話になっている、川上中国大学の元教授のお誘いで、岡山の人気店でオフ会を行い、2次会のカラオケまで楽しんで過ごした。(参照:masaの血と骨と肉「信号はまだ、赤だし、動けません。」)

おかげで今朝は目覚めもさわやかで、ホテルのチェックアウトまで連載原稿の執筆作業をおこなっていたが、順調に作業も進んだ。

この旅の土曜と日曜の講演で、今年度の日総研看取り介護セミナーが無事終了することになった。全国7カ所を、このテーマで回る旅も、もう4巡目になったが、いまだに看取り介護に対する大きな誤解や、不適切な状態で看取り介護が行われている状態がなくならないのが非常に残念である。

今年度、全国を回って新たに問題だと感じたことは、「余命診断が行われていない看取り介護はあり得ない」という記事で指摘した不適切な状況が思った以上に多いということだ。

終末期判定がきちんと行われず、余命診断も行われていない状態の、偽物の「看取り介護」がまかり通っていることは、今年1月に上梓した、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」でも問題提起している。

そうした偽物の看取り介護を行っている特養が、日本全国に存在している。

今回のセミナーに参加した人の中にも、自分が所属する80名定員の特養で、現在18人もの多人数の利用者が「看取り介護」とされていることに疑問を感じ、僕の講義を聴いて「看取り介護」とは何かを確認したいという動機付けを持たれている人もいた。

聴けばその特養では、利用者の家族が「看取り介護を希望する」ことが、看取り介護実施の条件と根拠になっているという。

とんでもないことだ。看取り介護とは、治療により回復の見込みがなく、数週間〜半年程度で死を迎えるだろうと予想される終末期であると判定された人に対し実施される介護のことであり、それを判定するのは医師以外の者には許されていない。もし家族の希望で一律、看取り介護としているのが本当なら、それは緩やかな死への誘導ともとられかねず、著しい人権侵害が疑われる。

それとは別の特養では、経管栄養になった人は全員看取り介護と判断しているという。馬鹿も休み休み言え!経管栄養とは、食物の経口摂取が困難になった人の延命を図るために行われる行為である場合が大半で、それは看取り介護とは対極に位置するものだ。食物の経口摂取が不可能かつ、その状態が治療によっても回復しないと医師が判断した場合に、安楽な終末期を過ごすために、『経管栄養を行わない』と判断して行う介護が、本来の看取り介護である。

またある特養では、利用者の半数以上が看取り介護対象で、その期間も一年以上に渡っている人が珍しくなく、中には数年に渡る期間となっている人もいるという。その状態とは、医師が真面目に終末期判定を行なっている状態とはとても思えない。

それは医師の責任を果たしていない状態と言えるし、そういう医師の判断に寄りかかっていたり、あるいはそういう判断に誘導している特養は、道義上の責任を問われて然るべきであるし、そういう施設のトップは、社会から厳しく糾弾されるべきである。

繰り返しになるが、終末期とは余命が半年以内と判定される時期のことを言い、看取り介護は長くてもおおよそ半年間という期間になるのが常識で、予測が外れても年単位で実施される介護ではない。

真面目に適切に看取り介護を行なっている施設において、看取り介護の実施期間は、看取り介護加算の最長算定期間である30日を下回るのが普通である。

なぜなら看取り介護とは、対象者もしくはその家族に対し、余命診断という形で命の期限予測を告げた上で、残されたその期間に、出来ること・したいことを実現できる期間という意味があるからだ。それは対象者や家族に、死に備えた覚悟を促すことにもなるのだから、治療により回復不能であるという判断も、余命が半年以内であるという判断も、必然的に慎重にならざるを得ないからだ。

そうであるにもかかわらず、終末期判定をおざなりにし、余命診断も行わずに、多数の利用者を半年を超える長期に渡って看取り介護の対象としている施設とは、介護施設でも、暮らしの場でもなく、単なる墓場の中継地にしか過ぎない。

恥を知れと言いたい。

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すべての介護関係者に求められる看取り介護スキル


今日も僕はこの記事を空の上から更新しています。搭乗機は、まもなく羽田空港に降りる予定です。

目的地は高井戸の認知介護研究・研修東京センターです。今日は午後4時過ぎから社会福祉法人の職員さんなどに向けて、「看取り介護講演」を行う予定となっています。

しかし今回の旅はそれで終わりではありません。今日から東京(杉並と新宿で2講演)〜福岡(博多)〜岡山(岡山市)と回り、北海道の自宅に戻るのは来週の月曜日・夜になる予定です。

今日は講演後、渋谷のホテルに泊まる予定になっていますが、夜は明日の講演の主催者である、東社協の関係者の方々と新宿駅近くでオフ会が予定されています。呑みすぎないように気を付けるつもりはありません(笑)

明日の講演は午後からですが、その前に泊まっているホテルで、午前中いっぱい出版社の取材予定が入っています。この取材は、僕のインタビュー本を発刊するための取材で、今年の夏ごろには出版にこぎつけることができるように準備を進めています。ただしこれはあくまで僕のインタビューを中心に、出版社の編集者が文章をまとめるもので、僕の著作とは異なるものです。どんな本になるかは僕も予想がつかない状態です。今日も含めて何回かに分けて行われるインタビューがまとまって、本になる日までのお楽しみというところです。もしかしたら僕の「伝記」のような本になるかもしれません。伝記ができたらもう死ななければならないなんて言っているのは誰でしょうか?死んだら化けて出ますよ。

明日は、あいおいニッセイ同和損保新宿ビルで行われる、『東社協・東京都高齢者福祉施設協議会主催・生活相談員研修』の中で、「生活相談員が担うべき人材確保および定着」というテーマで150分の講演を行ないます。介護事業者のおける頭脳役としての役割を持ち、かつ中間管理職として、あるいは将来施設長という期待も寄せられる相談員に向けて、今後の介護事業における人材確保と育成スキルを磨いてもらうべくレクチャーしてきます。

その講演を終え、質疑応答などすべてが終わるのは午後5時過ぎになりますが、その後が大変です。新宿から品川に移動し、新幹線に乗り換えて福岡県の博多に向かわねばならないからです。

本来なら博多へ行くには、羽田空港から飛行機でに乗った方が早く着くことができるのですが、羽田に移動して飛行機に搭乗し、さらに福岡空港を降りた後に、地下鉄に乗って博多に移動する乗り継ぎの手間を考えると、新幹線で品川から乗り換えなしで移動して、移動中に駅弁食いながら酒でも飲んでいた方が心身ともに安らげるような気がして、今回は新幹線で約5時間かけて博多へ移動する手段を選びました。

ということで土曜日は福岡市、日曜日は岡山市で日総研看取り介護セミナーです。このセミナーは座学だけで5時間の長時間セミナーですが、このテーマで全国7カ所を廻るのはもう4廻り目に入りました。今年度は岡山会場が最終セミナーとなります。

ここで福岡セミナー受講者の方にお知らせとと願いがあります。既に日総研から連絡が入っていると思いますが、セミナー会場が変更されています。当初は福岡商工会議所での開催を予定していましたが、そこからすぐ近くの第7岡部ビル(日総研研修室)が新たなセミナー会場となっています。福岡商工会議所と第7岡部ビルは、目と鼻の先くらいの距離になりますが、くれぐれもお間違いのないようにお願いいたします。

このように今回の4泊5日の旅は、4会場で4講演(合計講演時間14.5時間)ですが、明日の新宿講演以外は、「看取り介護講演」です。今後死者数が増えるわが国では、どこで、どのように最期の時間を過ごすかが大きな問題となり、そのためすべての介護事業者が看取り介護に関わっていく必要があります。よって今後も看取り介護を学ぶセミナーは重要だし、そこに参加する関係者の皆さんも年々職種も人数も増える傾向にあります。

その理由は、地域包括ケアシステムによって作り出したいシステムの一つが、「死ぬためだけに医療機関に入院しなくて済むシステム」であり、そのために医療関係者のみならず、すべての福祉援助・介護サービス関係者に、「看取り介護スキル」が求められているという意味があると思います。

そうしたニーズに応えるために、今年1月には日総研出版社から、「看取りを支える介護実践〜命を支える現場から」という本も出版させていただきました。その本も各講演会場で販売させていただいておりますが、おかげさまを持ちまして売れ行きも好調です。貼りついた楽天ブックスのリンク先には、本の在庫数が表示されますが、その数字も毎日変わっており、毎日誰かが僕の本を買ってくださっているのだと感激しております。

そんな僕の本の書評がCBブレインに掲載されました。看取り介護はスタッフを成長させる 【気になる一冊】 。是非参考にご覧になってください。

もう一つ下記の画像は、今月のシルバー産業新聞に掲載された書評です。過分な評価をいただき恐縮しております。
書評
今回の4つの講演会場でも、この本は販売し著書価格としてお得に購入できますので、是他会場で手に取ってご覧の上、ご購入いただければ幸いです。

それでは今日から日曜日にかけての、四会場でお会いする皆様、当日は是非よろしくお願い申し上げます。

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安静とは、寂しい状態ではない


一昨日東京の社会福祉法人・浴風園さんで「看取り介護」について講演を行なった。
社会福祉法人浴風会主催看取り介護講演
講演は、同会職員さんだけではなく、近隣の施設などの関係者の方も受講されていた。特養の職員研修ということで、介護施設における看取り介護の方法論を中心にお話ししたが、在宅介護関係者の方からも、参考になったと声をかけていただいた
社会福祉法人浴風会オフ会
その日の夜は法人職員さんとのオフ会を楽しんだ。浴風会の皆さん、ありがとうございます。

来月も浴風会さんにお邪魔して、今回受講できなかった方に同じ話をする予定になっているので、近隣の施設・事業所の皆様も、是非3月14日(木)16:15〜認知介護研究・研修東京センター2階大会議室までお越しいただきたい。

そんなオフ会を終えた後、登別に戻って認定審査会に参加した。PM21の影響なのか、北海道に到着する時間が30分以上遅れたが、午後6時からの審査会には遅れずに参加できた。

そして今日は新千歳空港〜女満別空港に飛び、網走にお邪魔する予定である。この記事も新千歳空港のさくらラウンジで更新中だ。ところで道外の人から『登別って北海道のどこなんですか?』と聞かれることがある。そういう人は登別と網走の距離感は理解できないだろう。そこで参考までに下の地図を見ていただきたい。
北海道地図
登別は左下の海岸沿い・太平洋に面した場所にある。一方、これから向かう網走市は右端に近い、オホーツク海沿いに位置している。僕の家の最寄り駅である東室蘭駅から、JRを利用して網走に行こうとしたら、札幌で乗り換えて10時間以上かかるのである。しかし新千歳空港から女満別港空港までのフライト時間は30分弱だから、前後の移動を入れても飛行機利用の場合は3時間程度で到着できる。ただしオホーツク地方は雪が多い場所だから、冬は着陸できない日も多い。幸い今日はそのような心配はない。ということで道内の旅と言っても、移動手段に飛行機を選択するのは必然である。

網走の講演は明日の午後からだ。そこでも看取り介護講演を行なうが、明日の受講者は主に在宅介護に携わる方であり、ホームヘルパーさんや介護支援専門員の皆さん、そして地域包括支援センターの皆さんがである。看取り介護の方法論は、施設と居宅で変わるものではないが、講演内容そのものは在宅における視点を中心に語ろうと思っている。

看取り介護には、いくつかの間違ったイメージが付きまといがちである。例えば看取り介護というと安静が必要で、看取り介護を行う部屋から一歩も外に出ないというケースもある。

しかしそれは間違っている。病状によって安静は必要であるが、それは部屋に閉じこもることではない。安静が求められても、バイタルが安定しているときは、人の輪の中で関係性を紡ぐことがあっても良いのだ。

安静が必要だからと言って湯船に浸かる生活習慣を奪う必要もなく、湯船につかる入浴支援をすることがあっても良い。部屋に閉じ込め、カーテンを閉ざして、介護する人以外の誰の顔も見ることなく寂しく旅立つことがあってはならないのだ。

僕が総合施設長を務めていた特養では、末期がんで亡くなられた70歳代の女性が、亡くなる前日に元気だったころにいつも参加していた「療育音楽」という音楽療法の場に参加することがあった。その場面を施設に泊まり込んで付き添っていた家族が見つめ、残されたわずかな時間の中で周囲の人と関係性を紡ぐ姿に感動し泣いている場面がみられた。

そうした場面は、葬儀の際に親族や知人に向かって繰り返し語れる、新たな思い出となっていく。それもすべて遺族になった方の心に残る思い出となるのである。それが命のバトンリレーとなるのである。

そういうエピソードがまったく存在せず、「看取り介護」を受けているという人の姿が見えない特養やグループホームはおかしい。密室の中で何が行われているかわからない場所の看取りは怖い。

そこで行われているのは看取り介護ではなく、放置介護であるようにも思え、その場所で死に至る人の状態とは、本当の意味での「孤独死」ではないかとさえ思う。

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人として生を受け、生かされてきた者ができること


特養で30年以上勤めてきたので、そこで様々な「」を看取ってきた。

中には親子2代にわたってお看取りしたケースもある。20数年前に親を看取った子が、やがて年老いて自らの子に看取られていくときに、最期に過ごす場所として、僕が働いている施設を選択してくれたことに感謝と縁を感じながら、その人が最期の時間をできるだけ安楽に過ごしてもらうことを第一に考えて関わってきた。

その繰り返しが、僕が特養の中で他の職員とともに実践してきた、「看取り介護」である。

その実践論をまとめた「看取りを支える介護実践〜命を支える現場から」が今年1月に刊行されて、既に1月以上が過ぎた。おかげさまでたくさんの皆様がその本を購入してくださっている。

文字リンクに張り付いているのは、送料無料で取り寄せができるサイトであるが、ここも一旦売り切れとなり、再入荷して発売が再開されたものだ。そこに表示されている「在庫の残りはあと何冊」の数字が毎日減っていくのを見て、また売り切れになりそうで、その前に再入荷してくれたらよいのに・・・と思ったり、いったいどんな方が、どんな思いでこの本を購入してくださっているのだろうと考えたりしている。

この本は、旅立って行かれる方が最期の時間を過ごすときに、この世に生まれてよかったと心から思うことができるように、その「実践」を支える皆様のヒントになることを願って書いた本である。そうであるからこそ、看取り介護に係るすべての人に、ぜひ一度手に取って読んでいただきたいと思う。そしてできることならば、本を読んでいただいた方がそこで書かれている実践論を参考にして、それぞれのステージで看取り介護を実践し、その質を高めてくださることを願っている。

看取り介護とは、人が最期の瞬間まで生きる喜びを感じることができることを信じて、そうした生き方を支える介護だと思う。

人として、この世に生を受けたこと自体が尊い。人として生まれ、人生という旅を歩むことができるそのことが貴重なのだと思う。だからこそ命が燃え尽きるその瞬間まで、生きるを支えたいと思う。そういう意味で、「看取り介護」とは、この世に生まれたことに感謝する気持ちを捨てることがないように、そこでたくさんエピソードを刻んだことを思い出してもらいながら、最期の瞬間まで安心と安楽に過ごしてもらうために必要な介護だと信じている。

看取り介護の質を高めようとする理由や動機づけとは、人としてこの世に生まれ、生かされていることの感謝にしか過ぎない。それ以外の意味を見出す必要もないと思っている。

だからこそ介護関係者が看取り介護を、「する・しない」、「できる・できない」と判断するのではなく、日常介護の延長線上に、ごく普通に看取り介護の実践があって当然であると考える介護業界になってほしい。看取り介護を特別な介護であると思い込む、「誤解」をなくしたい。

この国に住む民(たみ)が、最期の時をどこで迎えようとも安心して安楽に過ごすことができるような社会になってほしい。そのことに不安を感じる人がいない国にしていきたい。それが今この時代に、介護という職業にかかわっている我々の使命ではないのだろうか。

是非そのためにも僕の看取り介護セミナーに参加してほしい。話を聞いた後に、そのことを本を読んで振り返り、皆さんの実践に生かしてもらいたい。

看取り介護についてたっぷり5時間学ぶことができる日総研看取り介護セミナーは、いよいよあと2カ所を残すのみである。
日総研看取り介護セミナー
3/16(土)の福岡セミナー福岡商工会議所)と3/17(日)の岡山セミナー福武ジョリ―ビル)は、まだ参加申し込み受付しているので、お近くの方は参加を検討してもらいたい。

そのほかにも「看取り介護講演」は全国各地で実施予定だ。2/27(水)と3/14(木)には、東京杉並区の社会福祉法人・浴風園さんの職員研修として、2度にわたって同じ内容の「看取り介護講演」を行う。同会に問い合わせていただくと、お近くの方は受講が可能かもしれないので一報を入れてみてほしい。

北海道では網走市のオホーツク・文化交流センターで、3/2(土)に、ホームヘルパーの研修会として、「看取り介護講演」を行う。非会員は参加費3000円となるが、希望者はどなたも参加できるので、網走市東部、呼人、南部地区地域包括支援センターの山西さんに問い合わせていただきたい。

沖縄でも「看取り介護セミナー」を実施予定だ。
沖縄看取り介護講演
年度末の3月30日(土)13:30〜16:15、うるマルシェ(沖縄県うるま市)で実施予定の、「琉球介護コミュニティ協会 主催セミナー」の中で、120分の看取り介護講演を行うので、文字リンク先からお申込みいただきたい。

なおこのセミナーに先駆けて、前日には沖縄県豊見城市でサービスマナー研修を行う。
沖縄サービスマナー研修
沖縄では、1月のうるま市に引き続いて、2回目のサービスマナー研修となるが、定員が限られているので、お申し込みは早めがお勧めである。

今年度の締めとなる沖縄2講演なので、是非たくさんの皆様に受講していただきたくお願い申し上げます。うるま市と豊見城市で愛ましょう。

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看取り介護の神髄


看取り介護対象者は、特別な医療対応が必要な状態像ではない。

勿論、終末期にも医療対応や看護処置が必要なくなることはないが、それは日常の医療・看護サービスの域を超えるものではない。

むしろ不必要な延命措置や、苦痛につながる医療は徹底的に排除され、その延長線上に点滴や経管栄養を行わないという判断がされるケースも多くなる。だからそこでは日常生活の場で療養生活を送る範囲で対応可能な医療・看護サービスに限定されて提供されると考えてよいもので、自宅やサ高住、グループホームや特定施設、そして特養で日常的に行われる介護の域を出て、特別な対応が必要とされるわけではない。(参照:看取り介護の本質

だからと言って経管栄養が絶対されないわけではないし、経管栄養をすべて悪ものと思い込むことも間違いであるということは、このブログで再三書いてきた。

鼻腔栄養の苦しみをなくすために胃婁を増設することだってあるだろうし、安楽な終末期に苦痛なく緩やかに移行する段階として、胃婁対応の時期がある場合も想定される。何より本人が望んだ場合は、延命第一で胃婁対応するケースが否定されて良いわけがないのである。

そのような場合は適切な胃婁管理が必要になるし、それ相応の医療サービスが基本サービスとして提供されるように、医療・介護連携のチームを組んで対応すべきである。そのことは施設・在宅に関わらず視野に入れて行われなければならない対応であり、今の時代、看取りの場がどこであろうと、医療と介護がそれぞれ別個にサービス提供を行わねばならないとか、別個でないとサービス提供ができないとか考えるほうがどうかしている。

医療も介護もハイブリッド化して、適切な連携を組むシステムが地域包括ケアシステムなのであり、施設サービスも、居宅サービスも区別なく、そのシステムに含まれて行かねばならない。

しかしその際も、医療や看護が担うのは最先端の医療科学分野ではなく、日常生活の場で対応可能な、ごく一般的な医療・看護サービスと言える。医師はそこで、どこまで胃婁対応などの医療を提供するべきかという判断を常に視野に入れてしかるべきである。

終末期を迎える高齢者が、息を止めるまで一度増設した胃婁を使い切るという必要はないわけである。ある時期は、その対応により安楽が保たれた人であっても、そろそろそれさえも必要がない時期になっていくという判断をしないことには、いたずらに延命して苦しみを引き延ばす結果になりかねない。

一時の安楽支援が、苦しむ時期を後にずれ込ませるだけの結果になるのはあまりにも対象者にとって過酷な運命と言える。だから医師による、「しなくてよい医療行為の判断」は、終末期を迎える人にとって何よりも重要となる。何でもできる医師だからこそ、「しなくてよい」という医師の判断には信頼を寄せられるし、安心できるのだからこそ、その役割を適切に果たしてほしいものだ。

そのうえで、終末期とはどのような時期で、そこで必要な支援とは何かを今一度安心・安楽な介護という原点に戻って考えてもらいたい。人が「生きる」とは、どういう意味があるのかを同時に考えてもらいたい。あなたが終末期をどのように過ごしたいのか、どう生きたいのかを考えてほしい。

終末期を過ごしている人が痰にむせこんでいる状態を見て、喀痰吸引こそが安楽支援にとって何より必要だという考えには全く賛同できない。それは完全に間違った考え方である。なぜなら喀痰吸引されている人が一番苦しむのは、痰にむせている時ではなく、喀痰吸引されている時だからである。そこで必要なのは痰が出ないように、不必要な点滴を終了することではないのだろうか。

肺がんで禁煙を余儀なくされた人の終末期にまで禁煙の継続が必要だろうか。勿論無理してまで煙草を吸わせる必要はないが、「せめて今際の際(いまわのきわ)に煙草を一本吸って旅立ちたい。」という人の願いをかなえることは、そんなに難しいことなのだろうか。最期は1日1本でも良いから、我慢していた煙草を吸えるように援助することが必要ではないのだろうか。そのために煙草を吸うことを阻害しているものは何かというアセスメントが求められ、その結果、不必要な医療対応、過剰な医療行為があぶり出されるのではないだろうか。

糖尿病に長く苦しんでいた方が、合併症を防ぐために我慢していた「甘いもの」を、心おきなく食べることができるのは、命の期限が切られた終末期であるからこそである。心おきなく食べることができると言っても、その量は自ずと限られてくる。ほんの一口や二口、あんこを食べることができたと喜んでくれる人の傍らで、我々は一体何をすればよいというのだろうか。その笑顔だけを寿(ことほ)げばよいだけの話ではないのだろうか。

もう一度温泉にゆっくり浸かって死にたい」と言っている人に、一生懸命、「湯船につかるのは体力が奪われるからよした方が良いです」と説得することに何の意味があるのか・・・。

看取り介護とは、「命の期限」が予測されている人に対する支援行為である。だからこそ、その時期であるからこそ、「できること」・「やれること」は、命の期限が不明な人より数多く存在することになるわけだ。そこでできることはとても多くなるのである。それを支援者が狭めてどうするのだろうか・・・。

だからこそ、看取り介護・ターミナルケアは日常の暮らしの場で行うことができるものだし、暮らしの場である特養で行えないと考えるほうがどうかしているのである。そうした特養は、「暮らしの場」とも、「終生施設」とも言えないのである。

そうした特養は、その看板を下ろすべきである。

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看取り介護の本質


先々週の土曜日から始まった旅を終え、僕は今、関西空港から旅立って北海道に戻ろうとしている。

東京〜千葉県松戸市〜愛知県碧南市〜安城市〜名古屋市〜大阪市の旅は、いつものことながら素敵な出会いと再会の旅でもあった。世に財産と呼ばれるものは数あれど、人とのつながりに勝る財産はないし、そのつながりは、「見えない絆」によって繋がれているからこそ、決して消えない繋がりでもある。

そんな繋がりの中で、旅の途中で続々と講演依頼のメールや、口頭での依頼をいただいた。年度末の予算執行や、来年度の事業計画に取り掛かる中で、この時期に研修予定が追加されたり、来年度の予定が早々と決まったりしているのかもしれないが、そのような依頼をいただくことができるのも日ごろの繋がりのおかげである。

改めて人は人とのつながりの中で生かされているのだと思う。僕だけでできることは何もない。

旅の途中なので、「masaの講演予定」はまだ更新しておらず、家に着いてから更新アップしようと思うが、具体的には6講演の予定が新たに入り、そのほかに4講演が調整中である。僕を必要として呼んでくださる方が、全国にこんなにもたくさんいることに、この場を借りて感謝を申し上げたい。

さて今回の旅は、6地域で8講演を行ってきたが、そのテーマも制度改正・報酬改定の内容を精査して先を読むものや、介護支援専門員の役割に関するもの、介護実務に関するものや、サービスマナーなど多彩な内容となっている。

こうした広いテーマを話すことができる理由は、僕自身が相談援助業務や管理職として、様々な介護事業に携わってきた経験があるからであり、そこでの実践が利用者や家族や、地域の住民の皆様に評価されてきたという実績があるからだ。そこで語っているのは、結果責任をきちんと意識した実践論であり、机上の空論など一切入っていないのである。

そんな中旅の初めの東京講演と、旅の終わりの名古屋と大阪の講演は、日総研出版社主催・看取り介護セミナーの5時間講演であった。

決して安くないセミナー受講料金を支払って、5時間という長時間のセミナーに参加してくれた皆様には、それに見合った実践方法を、心を込めて伝えたつもりである。決して5時間という時間の長さを感じさせないように、無駄な内容は一切入れずに話をさせていただいたつもりでもある。

今回の受講者の中にも、「看取り介護を実践したいと思うが、上司や同僚等の賛同を得られずに、それが行えていない。」という現状を訴える人がいた。どうしたらそれを変えられるのかと相談される人もいた。

看取り介護が特別なケアでないことを同僚にも伝え、それを理解してもらう人を一人ずつ増やしながら、現場の大きな声としてそれを高め、上司に訴え出ることが唯一無二の手段だろうと思う。できればその過程で、同僚や上司が、僕の看取り介護セミナーを受講していただきく機会が持つことができるのならば、その人たちの意識を劇的に変えることができるのにと思ったりした。

特養や老健で、看取り介護・ターミナルケアを実施していない施設の場合、終末期になった際に、併設や関連機関である療養型医療施設や一般医療機関に機械的に送るということが常態化しているそうだ。それは終末期となった利用者のニーズを一切顧みずに、暮らしの場から死に場所へ向かわせているだけの居場所変更に過ぎない。そしてそれは、大切な誰かを棺桶に順送りするシステムに胡坐をかいているだけのシステムで、人生の最後を過ごす人の意思も希望も、すべてを顧みないシステムに過ぎない。

そもそも特養で看取り介護ができない理由は何だろう。看取り介護とは看護ではなく「介護」である。ターミナルケアとは、「ケア」である。

看取り介護対象者とは、無理な点滴で体を溶かしながら、足をぱんぱんに腫らせてい苦しく生き続けないように、基本的に点滴などが必要がない介護のことだ。老衰に限って言えば、その終末期の安楽につながる点滴があるなどという幻想をなくさねばこのことは理解できない。だからといって看取り介護対象者は、のどが渇くこともないし、脱水によって苦しむことがないのが終末期である。

口から栄養を摂取できなくなって、その状態が回復不能と判断された際に、経管栄養を行って心臓の強制鼓動を持続的に促すことで、対象者を苦しめることがないように、自然死を阻害する経管栄養を行わないのが看取り介護である。

そこでは栄養補給という部分で、医療行為も特定医療行為も必要なくなる。なぜそうした時期の対応が、医療機関でなければならないと考えるのだろう。

急死する人と、看取り介護の結果死を迎える人の、死の直前までの支援方法に大きな違いはない。どんな人であっても、日常的に人としての尊厳が守られ、身体の清潔を保持し、安楽過ごす支援方法に違いがあるわけがない。

そうであるにも関わらず、命の期限がある程度予想できるというだけで、どこかほかの場所に順送りせねばならないと考えるのはどうかしている。

むしろ命の期限が予測されるからこそ、その時間を大切にしたお別れができるのだ。その中で思い出が生まれるのだ。そうしたエピソードを創る機会を設けることが看取り介護の本質だ。その場所とは、暮らしの継続性がある場所に越したことはない。それを強制的に途切れさせる行為が、看取り介護になった途端に別に機関に送ってしまうシステムである。

それは看取り介護期間中に生まれる様々なエピソードに触れて、職員は成長する機会も奪うことであるし、介護の本質に触れて、介護の仕事を一生の仕事に生とする人々のモチベーションアップの機会を奪うものでもある。そういう機会を失う施設は、職員の定着率も低下するだろう。
日総研セミナー日程
そうしたことを伝える、「看取り介護セミナー・すべての介護関係者に求められる生きるを支える看取り介護」はとうとう、残すところあと2会場になった。

3月16日(土)は福岡商工会議所で、3月17日(日)は岡山市の福武ジョリービルで、今年度最後のセミナーを行うので、お近くの方はぜひ会場までお越しいただきたい。

看取り介護の本質に触れ、それを実現する具体論を学べる機会であるので、是非この機会を逃さないでください。魂の叫びを伝えます。

生きるとはどういうことか。その終末期に臨んだ時、人は何を求め何を訴えるのかを、ともに勉強しましょう。その答えは一つではなくとも、答えを探す道に、何かしらの共通項はきっとあるはずです。思いを一緒にできる何ものかが、きっと見つかるはずです。福岡と岡山の会場で待っています。

そこで大切な目に見えない絆をつなぎあいましょう。

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新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)のネットからの購入はこちらからお入りください。こちらの楽天ブックスは送料無料です。

フィクションではない介護実践


僕は今、東京に移動している真っ最中です。今日から9泊10日の講演旅行で、東京(文京区本郷)〜松戸碧南安城名古屋大阪と回ってきます。北海道の冬の嵐もひとまず収まって、飛行機もJRも通常運行に戻っているのでほっとしております。

今日と明日は水道橋で一人呑みです。どこかいいお店ありましたら教えてください。

さて発刊されたばかりの僕の新刊本、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」が、やっと手元に届きました。作者なのに読者よりも実物を手にするのが遅くなるのは、田舎に住んでいる者の宿命です。まあ作者本人ですから、改めて読む必要性も薄いわけで、製本状態がどうなっているかを手に取ってみたいだけですから大した問題ではありません。

今週中に本が届いた方々は、是非この土日を利用してじっくり読んでください。
看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から
ということで土曜日はあまり記事更新をしないのですが、本日は本が届いたということで、紹介記事を更新させていただいております。
看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から
看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から
フィクションではない、実践できる介護のありようを、文章や写真などで伝えておりますので、是非確認していただければと思います。

介護の仕事なんてどうしようもなくダメな職業だとか、高齢者のためになぜ若者が介護に疲弊して、人生を台無しにしたり、踏み外さなきゃあならんのかとか、いろいろなことをいうやつらが引きも切りませんが、介護の仕事が嫌いな連中は、さっさとこの業界から出てけばいいんです。人材不足・人員不足だからと言って、能力も適正もない連中を集めて、数だけそろえりゃ何とかなると考えるのがそもそもの間違いです。

介護の仕事が報酬が低くて社会の底辺でしか生きられないといっている連中は、介護の業界で稼ぐスキルがないだけでしょう。普通に働けば、介護職員だって年数を重ねて給料は上がるし、良い人材は引き抜かれたり、這い上がったりして、立派に家族を養うだけの収入を得ているじゃあないですか。

それができない程度でしかない連中は黙って別の仕事すればいいのに、別の仕事も見つけられずに、この業界にとどまってごちゃごちゃ言ってるんですかね。阿保としか言いようがないです。この業界からはみ出してまで、愚痴を言い続けている奴らはもっと悲惨ですよ。ポジティブに人生を生きられないってことですから。

そんな連中は放っときましょう。知能と技術の低い連中の恨み節に付き合う必要はないし、そんなの無視してればいいんですよ。

介護の職業には、もっと可能性も未来もあります。介護の仕事をしてきらきら輝いている人がたくさんいます。それも結構若い人たちが、介護の仕事の中できらきら輝いて、希望も収入も得ているじゃあないですか。それはもう「きらきらポエム」とは言えません。事実です。その事実が歴史になるんです。

底辺にいるのは、経営者に搾取されたり、高齢者に卑下されている連中ではなく、能力のない人間だということに気が付いてください。

しかし間違ってはなりません。良い介護とは、サービス提供者の目線から評価するのではなく、サービスを利用した人の感情を見つめて評価するものだということがわかる人だけ、わかろうとする人だけが、介護の仕事に就いて、介護の仕事を続ければよいだけの話です。僕の本はそういう人に気づきを与え、少しだけ道標の役割となることを願って書いたもの。

己のスキルの低さを棚に上げて、介護の職業を貶める言動に終始する人間には、この本を目にしてほしくもないです。介護という職業を通じて、誰かの心に寄り添おうという気持ちのない人には、読んでいただかなくて結構です。

介護の仕事をつづけながら、人の幸せに寄与することで生活の糧を得ることを喜びとして、人生を謳歌したい人だけが読んでくれれば満足です。僕と一緒に、「誰かのあかい花」になりたいと思う人の、その道しるべになればありがたいです。
看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から
ちなみに、。僕のうちまで買いに来てくれた方には消費税サービスで、サインもしちゃいます。

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人生会議は愛を語る場


介護業界には訳の分からない略語・略称が多すぎる。略している本人だけが理解していて、聴いている側に意味が伝わらないものもある。

略しすぎて認知症を「ニンチ」なんて言っている馬鹿もいる。「認知症がない」と「認知がない」という言葉は、意味が反対になるということに気づいたら、こうした馬鹿な言葉遣いはできないのが本来だ。
(参照:認知症をニンチと略すな!!

略語とは異なるが、日本語で表現できるものを、わざわざ英語で表現していることもある。その頭文字をとって略称としていることも多いが、頭文字の略称に馴染んだ人は、元の意味が解らなくなっていたりする。

例えば認知症の人の症状で、かつては「周辺症状」と表現していた症状を、BPSDと表現する人が多くなった。しかしそのもともとの言葉がなんであるのかということを正確に答えられる人は少なく、その意味は何かと尋ねても、「BPSDはBPSDだよ。」と訳の分からない答えをする人もいる。BPSDとは「Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia」の略称であり、ビヘイビオラルアンドサイコロジカル、シンプトムス オブ ディメンティアと読む。

それは「行動・心理症状」と日本語訳できるもので、意味が解らずBPSDなどと口にするのではなく、きちんと「行動心理症状」と呼べばよいのである。

ところで最近よく使われるようになった言葉として、ACPという言葉がある。それはAdvance Care Planning(アドバンス・ケア・プランニング)の略称であり、意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ、終末期を含めた今後の医療や介護について、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に話し合って考えておき、本人に代わって意思決定をする人も決めておくプロセスを意味している。

このACPについて厚生労働省は11月30日、愛称を「人生会議」に決定したと発表した。この愛称は、ACPの認知度向上を図るために厚労省が広く一般から募集し、応募総数1,073件の中からACP愛称選定委員会が決定したそうである。

なかなかわかりやすくて良いのではないかと思った。少なくともJR東日本が新駅名を公募の上、130番目の人気しかなかった「高輪ゲットウエイ」を選んだセンスよりは格段優れていると思う。

今後僕はACPという言葉に変えて「人生会議」という愛称を積極的に使っていこうと思う。そして元気なうちから口からものを食べられなくなったらどうしたいのかをはじめ、リビングウイルについて、家族間で意思を確認する過程で、医療・介護の連携チームと人生会議を行って、情報提供してもらいながら決めごとを確認していくように勧めたいと思う。

人生会議とは、愛する誰かの人生の最終ステージまで見つめ、愛を語る場であることを伝えていきたい。

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看取り介護計画書作成の要点


僕は今新千歳空港の搭乗口に居る。今日から4日間、愛媛県松山市に滞在し、明日・明後日と講演予定が入っている。

今年から新千歳空港〜松山空港間は、ANAの直行便が復活したので便利になった。JALがホームの僕は、ANAの搭乗口はややアウエー感があり、ラウンジも使えないことは不便ではあるが、経由便より断然時間短縮となる直行便を利用しない手はないというものだ。

明日は松山市男女共同参画推進センターコムズで行われる、「えひめ医療福祉従事者連絡会つどい」という任意団体が主催する講演会で、2講演を予定している。テーマは、『医療福祉における問題点と今後の介護保険制度の方向性について』と『割れ窓理論を踏まえた介護サービス事業所のサービスマナーについて』である。

この研修では制度改正・報酬改定の意味を紐解きながら、今後予測される社会情勢の変化とそれに対応する制度の方向性を読んでいく。その中で今後ますます介護事業者に必要とされる「サービスマナー」を学ぶことができるという、盛りだくさんの内容だ。

参加申込者も既に定員いっぱいの150名程に達しているようである。受講者の皆さんの貴重な時間を無駄にしないような話をしてきたい。

その翌日の明後日は、愛媛県総合福祉会館で行われる、『愛媛県老人福祉施設協議会主催・看取り介護研修会』となる。

愛媛県老人福祉施設協議会さんには、ここ数年の間に何度も講師としてご招待いただいており、今年も3回目の講演となるが、今回のテーマは「看取り介護計画の作成方法」というである。

看取り介護の実践論は、今まで全国各地で何度もお話ししているし、その中で「看取り介護計画」に触れる内容にも触れているが、看取り介護計画作成に絞ったテーマは、僕にとっても初めてである。

当日は午前中110分の講義を行った後、午後からは120分のグループワークとなる。そこでは事前に提出いただいたケースを検討して、グループごとに看取り介護計画を策定してもらうことになっている。

僕の講義はその策定演習につながるものであるが、単に看取り介護計画書の作成技術を教えることにとどまらない。

看取り介護計画の法的位置づけや作成ルール、作成の視点などを細かく解説する必要はあるが、そもそも看取り介護には何が求められ、どういうふうに支援者が関わっていくことが求められているのかという根底部分に話が及ばないと、計画は立案できるけど、人の暮らしとしてふさわしい支援方法に結び付かないという本末転倒が生じてしまうことになりかねない。そうであっては困るわけだから、誰かの人生の最終ステージに関わる人々が、常に考えなければならないことは何かということを、十分に理解してもらう必要がある。

そもそも特養で作成する看取り介護計画書については、施設サービス計画書そのものであり、標準様式を使って作成するのが原則であるし、そうであれば指定介護老人福祉施設の人員、設備及び運営に関する基準第十二条 (施設サービス計画の作成)1〜12までの一連の過程に沿った計画作成になる。

そのルールをしっかり押さえておくことが前提になるが、この場合、サービス担当者会議と担当者に対する照会は同列であり、居宅サービス計画書作成ルールとと異なり、やむを得ない理由がなくともサービス担当者会議を開催せず、担当者に対する照会によって「看取り介護計画書」を作成することは可能であるということも確認・理解してもらわねばならない。

それに加えて、施設サービス計画書の第1表に、「看取り介護」として必ず記入しておきたい要点などについてのお話をすることになる。

例えば看取り介護の場合、余命がほぼ1週間以内と予測される短期間の介護であるという場合があるが、その際の長・短期目標の考え方なども示してくる予定だ。

しかし一番大事なことは看取り介護計画書は、あくまでツールであり、使いこなすものであって、そてに縛られて実際の支援方法が硬直化し、できることよりできないことを数多くするものになってしまっては困るということだ。

看取り介護期間中には、想定外の様々なことが起こり得るが、その際に「計画書に書かれていないから、そこまでする必要はない。」として、できること・しなければならないことをしないということがあってはならないわけである。サービス提供側の都合に沿ったアリバイ作りのために「看取り介護計画書」が存在するわけではないことを徹底的に理解してもらう必要がある。

そういう意味では、看取り介護計画書を使いこなす「看取り介護」がその日の講演のテーマになるのかもしれないと思っている。

ということで今回の3泊4日の愛媛県松山市講演は、盛りだくさんの内容で、皆さんと学びの場に立つことになる。

手前味噌であるが、制度論や実践論を交えたこの3つのテーマの講演を一人でできる講師というのも、全国を見渡してもさほど多くはないのではないかと思う。講演できるテーマは、もっと広いし、具体的なケースも数多く持っているので、講演講師をお探しの方は、「masaの講演予定」を参照いただいて、講演依頼の相談をお気軽にお申し出いただきたい。よろしくお願いします。(※ちなみに1/28:水曜日、東京方面で体が一日空いております。その日投球周辺でしたら講演料のみで、交通費と宿泊費がかからないで講演を行うことだできますので、ご相談ください。早い者勝ちです。)

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終末期の「生きる」を支えるために何が必要なのかを問う


約1カ月で85〜97歳の女性6人が死亡した鹿児島県鹿屋市の住宅型有料老人ホーム「風の舞」の事案については、先週木曜日に「医療があっても介護が存在しない終末期支援の恐ろしさ」という記事を書いて問題点を指摘したが、続報として県などが立ち入り検査した今月16日にも、別の入居女性1人が死亡していたことが分かった。

これにより極めて短い期間で7人もの高齢者が死亡したことになるわけである。記者会見したグループ法人の総括(医師)と施設長は、「末期がんなど重症者を受け入れてきたので、寿命というしかない」と説明し、「医療は適切で問題ない。」としているが、実際にこの施設で人生の最期の時間を過ごした方のお気持ちはいかばかりだったのだろうか・・・。

報道によると先に死亡が明らかになった6人については、ほとんどが点滴を受け寝たきりの状態で、自ら食事を取ることができなかったという。介護職員がすべて退職した施設で、そうした状態の人に対して、満足に食事介助さえできない状態であったとしたら、急激に体力は衰え健康状態は悪化しただろう。それは寿命を縮める結果としか言えず、本来の寿命とは言えないのではないか?寝たきりの重症者だからそれは問題ないと言えるのだろうか・・・それは違うと思う。

さらに恐ろしことには、介護職員が退職後に、褥瘡ができた入居者が増えたと報道されており、実際に鹿屋市が父入り検査を行った際に、入居者3人に褥瘡があるのを確認しており、さらに口腔内の不衛生な状態と、室内の清掃が不十分であることも確認されているという。

人は死を迎える瞬間まで生きているのだ。死を迎える何日かの間に、苦しみ、悲しみ、寂しがらせないように寄り添うのが看取り介護だ。しかるに介護の存在しないこの施設では、最期を迎えるまでの間、不衛生な環境で、満足に体位交換や清潔支援も行われていなかったと思われる。垢と糞尿にまみれて最期の時を誰にも看取られずに死んでいった人がいたとしたら、それは極めて悲惨な死に方でしかない。

命に深くかかわる医師や介護施設の長が、この状態を問題ないとうそぶく気持ちが理解できない。それは人として許されない態度ではないかとさえ思う。

今後検査結果を踏まえた行政指導があり、それによりこの施設の運営体質が改善されることを期待する声があるが、介護保険制度上の指定施設ではない「住宅型有料老人ホーム」については、「有料老人ホーム設置運営標準指導指針」(平成 14 年7 月18 日付け老発第 0718003 号厚生労働 省老健局長通知)に基づいた指導を実施しているに過ぎず罰則もない。実質それは勧告レベルにとどまり、あの上から目線の記者会見を行ったツートップが、そのことで恐れ入るとは思えない。改善は期待薄だろう。

そんなことを考えながら思い出したことがある。それは僕がとある施設を見学したときのことだ。

その際に見学施設の説明をしてくださった職員の方が、「この方が今、看取り介護の最中です。」と示された方の表情を見ると、苦し気に目をつぶっていた。ベッド回りも整理・整頓がされておらず、日中もカーテンが閉ざされた暗い個室で、一人寂しくベッドに寝かされていた。

そういう人が看取り介護を受けていると説明されると、何かが違うと感じてしまう。安静が必要とされる人であったとしても、看取り介護対象者の周囲には人間関係が存在し、人の心のぬくもりが感じられなければならない。一人寂しい状態が安静や安楽ではないのだ。

整理整頓された清潔な環境や、爽やかな空気の流れは当然保証されなければならない。よどんだ空気の中で、整理整頓のない部屋で放置され、いつの間にか息を止める死であったとしても、「看取り介護加算」は算定できるが、それは看取り介護やターミナルケアとは言わないのだ。

看取り介護とは「終末期だから何も対応しない」・「高齢者だから対応の必要はない」という考え方を徹底的に排除したうえで、なおかつ延命のための医療対応が必要ではない時期と判断して必要な介護を行うことを言う。

そこでは身体介護は決しておざなりにできないのである。看取り介護であるからこそ安心と安楽のための介護には気を遣わねばならず、特に清潔支援や安楽の環境を作り出す支援は必要不可欠である。そのための医療・看護サービスも当然不可欠であり、看取り介護に移行したからといって、医師や看護師の対応や処置が皆無になるわけではない。

看取り介護期は、体力や免疫力の低下が想定される時期であるから、感染症にかかるリスクも高い。感染症にかかれば対象者の「苦しみ」が増幅するのだから、感染症を防ぐ清潔支援は最も必要とされるべきであるし、清拭は毎日複数回行うのが「安楽支援」である。看取り期であるからといって「体力が弱って入浴できない」と考えることも間違いで、身体状態を正確に把握し、バイタルが安定しておれば、そのタイミングをはかって、看取り介護期間中に浴槽に浸かって入浴することも可能である。それを望む方も多いのだ。

食事摂取も徐々に困難となり、やがて禁食という状態になる。しかしそうなった後も最期の瞬間まで「好きなもの」を口にする機会を奪わぬよう、その可能性を常に考慮して対応されるべきである。栄養補給としての食事はできなくとも、味わう愉しみをすべて奪ってよいことにはならないのだ。その準備は怠りなくされるべきである。

そんなことができていない「放置死」や「偽物の看取り介護」が存在する現状を少しでも改善しないと、その負の遺産は自分や自分の愛する子や孫に降りかかってくる問題となるのかもしれない。そうしないためにも全国で「生きるを支える終末期支援」につての講演活動は、まだまだ続けていかねばならないと思った。

その一つである「日総研・看取り介護セミナー、すべての介護関係者に求められる生きるを支える看取り介護」は張り付いたリンク先で詳細を見て申し込むことができる。参考に下記に画像も貼り付けておく。過去の受講者の声も是非読んでいただきたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2
このセミナーで全国を回るのは3年目になるが、過去の受講者の声を下記にて紹介しておく。

●看護師/うちの特養がまずとり取り組まなくてはならない課題が明確になった。
●看護師/現在行っている看取りの足りないところに気づくことができた。
●特養看護師/様々な事例を聞くことができ、その時の場面を想像しやすかった。看取りの素晴らしさを感じることができた。
●特養副施設長/看取り介護は特別なことではなく、日々のケアの延長であることを改めて感じた。
●特養副施設長/改めて介護に携わる者として、考えさせられることがたくさんあった。今日、参加できてとても良かった。
●特養介護福祉士/とても分かりやすく、また自分のできていない点、施設でまだまだできることをたくさん考えることができた。
●特養介護支援専門員/エピソードも多く、大変分かりやすい言葉で伝えてもらえた。
●特養介護福祉士/看取りの事例について、手順など具体的なケアを分かりやすく学ぶことができた。

これらの声を参考にして、1月の仙台セミナーをはじめとした各会場への参加お申し込みをしていただきたい。看取り介護を学ぶことは、介護そのものを考え学ぶことなので、このセミナーが看取り介護・ターミナルケアの実践論にとどまらないことも理解していただきたい。

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審判しないの意味は、尊重し支持し護るということ


バイスティックの7原則の一つに、「非審判的態度」というものがある。その意味については、僕が過去に書いたブログを参照いただきたい。

対人援助におけるソーシャルワーカーの役割の中には、利用者と社会資源を有効に結び付けるという役割もあるが、その際に、利用者に成り代わってソーシャルワーカーが何事もすべて決定するわけではない。ソーシャルワーカーとしてしなければならないことは、利用者のニーズや課題を明らかにし、それらに対応する社会資源についての情報を利用者に正確に伝え、選択肢を示したうえで、自己決定を促すことである。

勿論、何らかの事情で自己決定能力に欠ける人に対しては、ソーシャルワーカーが代弁機能を発揮して、利用者に成り代わって物事を決定しなければならないが、その場合でも、ソーシャルワーカーの価値観の押し付けにならないように最大限の注意と配慮を行ったうえで、利用者の過去の生活習慣や、ものの考え方を思い起こしながら、利用者の望みを実現する方向で物事を決めなければならない。

どちらにしても、自己決定の制限対象者でない限り、利用者の意思を何よりも尊重しなければならないのである。

介護保険制度における介護支援専門員の役割も同じであり、居宅サービス計画にしても、施設サービス計画にしても、介護支援専門員の価値感の押し付けのような計画は最悪であり、利用者の意思をニーズを結び付けて考えなければならない。これができない人は、いずれAIにとってかわられるのかもしれない。

徹底的に利用者本位を貫いて、自己決定を支援すること・・・それは終末期の過ごし方の選択についても同様に言えることだ。

例えば経管栄養については、このブログでも何度か論評している。そこでは終末期を過ごす方々のQOLを下げるばかりではなく、意思疎通ができない状態で経験栄養によって命をつないで何年も生きている人のうち、気管切開している人などは、数時間おきに気管チューブから痰の吸引をするたびに、もがき苦しむ姿が存在しており、その人たちはまるで、もがき苦しむために延命されているように見えるなどという実態を指摘している。だからと言って経管栄養が「必要ないもの」とか、「悪者視」されてはならない。

経管栄養とは医療技術の一つに過ぎず、安楽な終末期に繋がる必要な胃婁増設という考え方も成り立つし、経管栄養によって延命したいという希望もあって当然である。

延命のために経管栄養にするかしないかは、治療にあたる医師が、本人の意思を無視して決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではなく、対象となる本人の意思によって決めるものである。利用者自身が経管栄養を行うか否かを選択した後は、その判断が良かったのか、悪かったのかさえ審判する必要はなく、対象者の判断を尊重すべきである。

食事の経口摂取ができなくなった状態が治療によっても回復せず、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態であると判定されたとしても、それでもなおかつ生命維持のために経管栄養を行ってほしいという人がいた場合、その意志が何よりも尊重されなければならないし、その際に周囲の人々は、それがベストの選択であると利用者の決定事項を支持しなければならない。

このように終末期の利用者の選択に対する非審判的態度とは、単に審判しないだけではなく、積極的支持が求められるものだと思う。そうしないことには利用者自身や周囲の人々に不安を与えてしまうからである。

自らの価値観はともかくとして、自分が関わる利用者の決定事項については、決して疑わずに支持するということでしか、その利用者の尊厳を護ることにはならないということを理解しなければならない。

そんな風なことを含めて、終末期を過ごす人の支援方法を考える「看取り介護セミナー」が始まっている。第1回の札幌セミナーを終えたばかりであるが、少し期間をおいて年明けから仙台〜東京〜名古屋〜大阪〜岡山〜福岡と、残り6会場を回る予定である。

札幌会場の受講者からも、5時間という長丁場を感じさせない、内容の濃いセミナーであると評価をいただいている。看取り介護セミナーという文字に張り付いたリンク先から詳細を確認し、参加申し込みできるので、お近くの会場にぜひお越しいただけるようにご検討いただければ幸いである。

看取り介護セミナーではあるが、このセミナーは介護の質を向上させるために必要な具体策が満載されている。そういう意味で、介護サービスの品質向上を目指している介護事業経営者の方は、是非、ご自身並びに職員さんの派遣を検討していただきたい。
看取り介護セミナー2
看取り介護セミナー1

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一人で旅立ちたいという人の思いも様々


今日僕は、明日の講演に備えて夕方札幌に移動する予定だ。

講演は明日からであるが、午前10時開始のセミナーなので、僕の自宅から当日移動しようとすると、朝7:10東室蘭駅発の特急に乗らねばならないために、家を6時台に出なければならない。それは良いとして、あまり信用できないJR北海道のダイヤが少しでも乱れたら、セミナー開始時間に間に合わないので、雪も降りそうなこの時期には前日移動をするようにしている。

そんなわけで今日は移動日で札幌泊ということで、今晩は明日のセミナーを受講してくれる大学時代の同級生らとプチ前夜祭を行うことにしている。

今回は明日の札幌講演を皮切りにその後、東京〜大阪と7日間の講演の旅が続く。

札幌講演は、日総研出版社が主催する看取り介護セミナーである。札幌会場を皮切りに来年3月まで仙台・東京・名古屋・大阪・岡山・福岡と全国7カ所で行うこのセミナーは、「看取り介護セミナー」と冠しているが、そこでは人生の最終ステージに寄り添う責任を含めて、介護の本質を伝える内容となっているので、本物の介護を共に学びたい方は、是非お近くの会場にぜひお越しいただきたい。

ところで先日、このセミナーをはじめとした看取り介護講演に関連して、ブログ読者の皆さんにアンケートへの投票を呼びかけた。たくさんの皆様に回答していただき、改めてこの場でもお礼を申し上げたい。その結果については、「看取り介護アンケートの結果報告〜ご協力に感謝いたします」で報告しているので参照していただきたい。

その結果について、今日は別角度から考えてみたい。
アンケート結果
アンケートは二つあるがその中の一つ、『自分の最期の瞬間を誰かに看取ってほしいと思いますか?〜介護が必要な人が周囲に支えられていれば、旅立つときに側に誰もいなくとも、それは孤独死ではなく「ひとり死」であるといわれ始めました。あなたは周囲に支えられながら旅立つときに誰かに側にいてほしいですか?』というフォームへの投票結果を見ると、「ひとりで旅立ちたい」と答えている方の数が思った以上に多い。(※上のグラフを参照してください。)

そう考える人がいて当然だし、誰もその考え方を否定できるものではない。「ひとりで旅立ちたい」と考えている人が、「誰にも知られず終りたい。」・「孤独死はさびしいとか言われるがさびしいと思うのは周りの人が言うだけで本人はわからない。人は一人で生まれて一人で死んでいく。だからひっそりと一人で人生を終えたい」とコメントしている気持ちも十分理解できる。最期はひっそりとと考えているのだろう。

遺される人に思いを馳せて「ひとりで旅立ちたい」と答えている人もいるように思える。コメントの中には、「成人した娘が2人いますが心配掛けたく無いです」・「誰にも面倒を掛けたくない」・「苦しむ姿などを、人に見せたくない」など、旅立つ自分のことよりも、残される人に思いを寄せた選択であるかのような意見も見られるからだ。自分の終末期の援助のために、周囲の人に迷惑をかけたくないと考えている人も多いということだろう。

そのほかのコメントを見ても、決して投げやりに選択肢を選んでいるわけではなく、まじめに素直に自分自身だけではなく、遺される家族に思いを寄せていることが伝わるコメントが多かった。そのことに対して「」を感じると言ってしまえば、すごく薄っぺらい言葉になってしまうかもしれないが、それが僕が今感じている本当の思いだ。

このアンケートの前提は、「周囲に支えられながら旅立つとき」という前提だから、一人で旅立った後、自分の遺体が誰にも発見されず長い期間放置されるという心配をしないで答えてくれたものと考える。

そんなこともあってか「ひとりで旅立ちたい」と答えた人のコメントの一つに、「人間は一人で産まれ一人で死んでいくから孤独ではない。孤高死だと言える。生前迷惑がかからないように色々準備して、死んだら後始末をしてくれたら充分。」という意見も見られる。

これは結構大事な視点かもしれない。孤独死とか孤立死と言われる状態で「」を迎えざるを得なかった人の中には、数週間あるいは数カ月、その遺体が誰にも発見されず放置されてしまう場合がある。そのような遺体が発見された際には、特殊清掃が必要となり、その場所はもう誰も住めない状態になることが多い。

それだけではなく、そこに残された様々な遺品も廃棄せざるを得ない場合が多いそうだ。そうなると亡くなられた方が、遺された誰かに伝えたかった思いもその場所で途切れてしまう。自分の思いやエピソードを伝える、命のバトンが途切れてしまうわけである。

そのことも別に何とも思わないという人も多いのかもしれない。しかし逝く人がそうであっても、遺される者も何も感じないとは限らない。どんなに関係が悪化していても、血のつながりのある人が、逝く人に最後にどう思うかは様々だ。遺される者たちに、最期に逝く人の思いを伝える術があれば、それに越したことはないように思う。

そんな意味でもエンディングノートは、良いツールなのかもしれない。

明日からの看取り介護セミナーを前にして、今日は徒然と思いつくままのことを文字にした。その分、まとまりのない雑文になってしまった感がある。そんな文章に、お付き合いいただいた皆様に感謝である。

週末、札幌・東京・大阪でお会いする皆さんには、引き続き熱い思いと、最新の情報を伝えるつもりなので、会場でともに学びあいましょう。それではよろしくお願いします。

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介護の本質を語るのが看取り介護講演


今週の土曜日(11/3:文化の日)に札幌の道特会館で看取り介護セミナーがスタートする。

このセミナーは、日総研出版社が主催するもので、札幌を皮切りに、仙台・東京・名古屋・大阪・岡山・福岡と全国7か所を回るもので、今年で3廻り目のセミナーとなる。

その内容は当然、介護保険制度改正や報酬改定と連動し、なおかつ新しい情報も組み入れて、前2回とは異なる内容も含まれているが、このセミナーを単に看取り介護・ターミナルケアを学ぶセミナーとは考えてほしくない。そのために今回の講演スライドの1枚目は、下記画像のスライドとしている。
日総研・看取り介護セミナー
看取り介護とは決して特別な介護ではなく、日常介護と全く変わることのないものである。ただその対象者の命の期限がたまたま予測されているだけに過ぎず、丁寧な日常支援に心がけることは、看取り介護対象者であっても、そうでない人に対してであっても、決して変わることはないし、変えてはならないものでもある。

ただ看取り介護においては、命の期限を意識した関わりの中で、様々な「記憶しておくべきエピソード」が生まれる。看取り介護に関わる介護の専門職は、看取り介護対象者と家族の間に、そうしたエピソードを意図的に作り出すことも求められるかもしれない。そんな中で、命の尊さや人の尊厳を護ることの大切さを知り、人間愛のなせる業(わざ)に気づくことができる。

それは対人援助に関わる我々が気が付くべき、「本質」に触れるものだと思うので、看取り介護セミナーでは、そうした観点からケース分析を行い、我々に求められていることを示している。

今、全国の8割を超える特養で、「看取り介護」が行われているという。しかしそれは嘘だ。そこで8割以上の施設で行われているとされる行為は、単に「看取り介護加算」を算定できる行為を行っているに過ぎない。しかし看取り介護加算の算定要件で示された最低限の行為を行ってさえいれば、「看取り介護対象者」の人生の最終ステージが、その人にとって望まれる支援に結び付いているとは限らない。安心して安楽に最期の時間を過ごしているとは限らないのである。

施設見学をして、「この方が今、看取り介護の最中です。」と示された方の表情を見ると、苦し気に目をつぶっていたりする。ベッド回りも整理・整頓がされておらず、日中もカーテンが閉ざされた暗い個室で、一人寂しくベッドに寝かされている人が、「看取り介護の最中」であるとされたりする。

それは違う。安静は必要でも、看取り介護対象者の周囲には人間関係が存在し、人の心のぬくもりが感じられなければならない。一人寂しい状態が、安静や安楽ではないのだ。整理整頓された清潔な環境や、爽やかな空気の流れは当然保証されなければならばい。

よどんだ空気の中で、整理整頓のない部屋で放置され、いつの間にか息を止める死であったとしても、「看取り介護加算」は算定できるが、それは看取り介護やターミナルケアとは言わないのだ。施設内孤独死をさせておいて、看取っているなどと言ってはならないのだ。

そうであるがゆえに僕の看取り介護講演では、看取り介護を通じて介護の本質に迫り、介護とはどうあるべきか、介護に関連する職業携わっている人々には、どのようなスキルが求められ、何をしようとするべきかを問い続けることになる。まさに「天のない介護サービス」の答えを探して、受講者の方々と共に学ぶセミナーとなるだろう。

日総研出版社の「看取り介護セミナー案内」には、「※最少催行人数18人。これに達しないときは,開催を中止する場合がございます。」と書かれているが、幸い札幌セミナーは実施できる人数に達している。

一番集客が難しい北海道のセミナーが開催できたことで、他の地区も開催できると思ってはいるが、他の地域は年明けの開催なので、これから申込者が増えると期待している。今のところ仙台や名古屋などが申込者が少ない状態なので、同地域の関係者の申し込みを是非お願いしたい。

札幌セミナーに備えて、僕は2日に札幌入りするが、その日は知り合いも受講者の中に含まれているので、プチ前夜祭を行う予定だ、札幌グランドホテルで4.000円会費の前夜祭に参加したいという方は、ぜひ連絡をいただきたいと思う。

なお札幌セミナーも引き続き申込受付を行っているので、今から都合がつく方は、ぜひ参加を検討願いたい。よろしくお願いします。

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看取り介護と称するエセ介護をなくさなければ・・・。


昨日は午前10時から昼休みの1時間をはさんで午後3時まで、「姶良・伊佐地区老人福祉施設協議会・事務員研修」として4時間の講演を行った後、さらに17:30〜19:30まで、「社会福祉法人・政典会 職員研修会」として講演を行った。

1日で6時間、ずっと立ったままでお話ししているわけであるが、そのことは僕にとって当たり前のことなので、全然大変なことではない。むしろ2時間とか、4時間とか、じっと座って勉強のために話を聞いてくださる人のほうが大変だろう。

特に昨日の夕方の講演は、火曜日という週の初めに、通常業務を行って業務を終えたその足で、会場に駆けつけて講演を受講することになる。それはかなり体力も気力もいる行為と思われ、それらの方の時間を無駄にしないように、実務に生かせるお話に努めたつもりである。

夕方の講演は法人職員研修ということであったが、近隣の他施設の関係者の方も参加していたようで、100人近い参加者数になったようである。テーマは「看取り介護」であったが、僕はそのテーマで終末期支援について語っているつもりはなく、看取り介護を通じて「介護」」そのものを語っているつもりである。

今、全国の特養の8割以上で看取り介護を実践しているという・・・。それは嘘だ。僕が知る限り、看取り介護加算を算定している行為であっても、本当の意味で人の人生の最終ステージを支援する行為にふさわしい、「看取り介護」を実践している施設は少ないと思っている。

例えば僕の著書、「人を語らずして介護を語るな〜masaの介護福祉情報裏板」の165頁「見捨て死の現状」では、終末期支援と称して、口腔ケアも清潔支援も、満足な排泄支援も行わずに、それを看取り介護としているグループホームの現状を明らかにしている。そこには終末期を過ごす人が、つらく・苦しく・痛い状態で旅立っている姿があるが、そういう状態であっても「看取り介護加算」の算定要件をクリアさえしておれば、加算算定できるわけである。

そういう悲惨でむごい行為でも加算を算定し、看取り介護と称することができるのだ。そんなことが許されてよいはずがない。そんなことがあって良いはずがない。そんな行為が本当の意味での「看取り介護・ターミナルケア」であるわけがない。

介護に携わるすべての人が、人として真剣に他者に向かい合う必要があると思う。

11月3日の札幌セミナーを皮切りに行う「日総研出版社主催・看取り介護セミナー」は、そういう偽物の看取り介護を糾弾し、本当の意味で誰かの人生の一部に寄り添うことができる「介護」そのものを考える内容に努めたい。それは看取り介護を通じて、介護の本質に迫るセミナーであるといえるだろう。
(※すでに札幌会場は最低受講人数に達しており、開催が決まっている。申し込み受け付けはセミナー当日まで可能なので、お近くの方はぜひ参加を検討をお願いします。1月の仙台セミナーは、まだ申し込み人数が少ないので、お近くの方の申し込みを待っております。よろしくお願いします。

これから僕は明日、明治記念館で行われる「内田洋行主催 IT-Fair2018 in Tokyo」で講演を行うために、霧島市を後にして東京に向かう。先程黒須の産地にある鄂櫂譽好肇薀鵑如抜群に美味しい酢豚ランチを摂ったところだ。日田〜霧島の4日間は良い旅になった。

今日泊まる場所は、渋谷のシティホテルである。都会のスマートでセンスの良いホテルもよいのだが、一昨日は霧島温泉郷の風情ある旅館で命の洗濯をしてきた。ちょっとその旅館を紹介したい。

本館
おりはしの本館と食事場所であるが、僕が泊ったのは一軒家として独立して建てられている「別館」。

宿泊場所
この広い別館で一人で過ごすという贅沢を味わわせていただいた。

玄関ホール
玄関を入るとホールがある。

和室
床の間
その右手に広い床の間付きの和室。

ベッドルーム
和室の隣には広いベッドルーム。一人で寝るには贅沢である。

内風呂
ベッドルームに隣接して脱衣所があり、そこから内風呂に入ることができるが、内風呂には外に続くドアがある。

専用露天風呂
なんとこの別館専用の露天風呂がある。一昨日から昨日朝にチェックアウトするまで、なんども露天風呂を楽しむことができた。まさに命の洗濯だ。

しかも食事も豪華である。その模様については、「masaの血と骨と肉〜秋茸に、あきたっけ。」で詳しく紹介しているので、そちらをご覧いただきたい。

ただしご覧になるとお腹がすくのは間違いないので、覚悟してください。(笑)

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終末期支援の場での礼儀作法はなぜ大事なのか


介護施設に入所されていた利用者が亡くなった際に、当該施設の職員がジャージ姿で告別式に駆けつけ、遺族の顰蹙をかったというケースがある。

当該職員が礼服を着ることもなく告別式に駆けつけた理由はきっとあるのだろう。しかしこれは世間の常識からみれば、「非常識極まりない行為」であると言われても仕方がないし、「死者を冒涜する行為である」と批判されても仕方ない行為である。このようなことで遺族の方々の悲憤を買い、嫌な思いをさせることは絶対に避けなければならない。

当該職員に悪気がないから、そうした行為が許されることにもならないわけである。

そうであるがゆえに、我々は世間一般的に身に着けるべき礼儀作法というものを軽視してはならないのである。

対人援助の場でも礼儀作法は重要である。相手はお客様であり、高齢者介護の場合は人生の先輩である。そうした方々に接するのだから、2重の意味で礼儀作法は必要となる。外国と違ってわが国では、年下の人が年上の人にフレンドリーにタメ口で話しかけるという文化はないし、現在、高齢期を迎えている人ならなおさら上下関係を基盤にした礼儀作法が染みつているのだから、そのことには十分配慮が求められる。

礼儀作法に配慮することは、お客様に対して「真のおもてなしの心」を持つことにもつながるが、それ以前に大事なことは、そうした礼儀作法を護ることで、知らず知らずのうちに人の心を傷つける行為をなくすという意味がある。

介護サービスを受ける方々は、身体の不自由な方も多く、心のどこかで介護してくれる人に対する遠慮がある場合が多い。文句を言ったらきちんと世話してくれなくなるのではないかと考えている人もいる。もっと丁寧に接してほしいという思いを持っていても、口に出せない人が多いのだ。

介護職員の悪気のないタメ口に、いつも傷ついている誰かがいるということを忘れないでほしい。

特に看取り介護の場面で、悪気のない言動で対象者を傷つけてしまったとしたら、それはもう二度と取り戻すことができない失敗となってしまう。看取り介護対象者は、人生の最後の場面で嫌な思いをして、その悔しさに胸をかきむしりながら、心の中に血の涙を流しつつ、息を止めていくのではないだろうか。

そうしないために、すべての対人援助関係者は日ごろから利用者に対する「礼儀作法」を護る習慣を身に着け、対人援助のプロとしてのコミュニケーション能力として丁寧語を使いこなすよスキルを持つように心掛ける必要がある。

特に終末期で体調の変化があり、精神的にも揺れ動く幅が大きいことが予測される方々には、細心の注意が求められる。そのように考え、11/3(土)の札幌会場を皮切りに全国7カ所を回る、「日総研出版社主催・看取り介護セミナー」の講演用に作成したPPTスライドの一枚が次の画像である。
看取り介護セミナーPPTスライド
旅立つ人を送るたときに、決して犯してはならない間違いとは何か。どんなところに気を配るべきなのか。それらのことを伝えるために、終末期にも生かしたいサービスマナーという観点から話をさせていただくので、是非お近くの会場にお申し込みいただきたい。特に近直の札幌にお住まいの方、日曜日まで申し込みを受け付けているので、よろしくお願いします。
※10/26追記:最低受講人数を超えたため、予定通り実施します。

あなたはどんな言葉で最期を看取ってほしいですか?

最期の瞬間、息を止めようとするときに、若い職員から馴れ馴れしい言葉で話しかけられたいと思う人が何人いるのでしょうか?

旅立ちを、家族でもない若輩者に、ため口で送ってほしいと思う人がいるのでしょうか?

逝く方が寛大な心で許してくれるとしても、一緒に看取ろうとしている家族は不快な思いを持たないのでしょうか?他人である年下の職員が、ため口で言葉を掛ける姿を見て、親しみを感じる前に、慇懃無礼な馴れ馴れしさに不快感を持たないのでしょうか?

そんなことを共に考えるセミナーにしたいと思う。会場で語り合いましょう。

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看取り介護アンケートの結果報告〜ご協力に感謝いたします


インターネットのアンケートフォームを通じて、9月28日〜10月15日の期間において、「看取り介護」に関連する二つのアンケートを実施しました。その結果が出ましたので、報告させていただきます。(※貼り付けたリンク先からアンケート結果をダウンロードすることができるほか、このブログ記事後半に結果画像などを貼り付けていますので、ご覧ください。)

その結果は早速分析したうえで講演に反映します。すでに講演スライドを送っていた10月21日(日)に日田商工会議所で行う、「アローチャート天領会主催 講演会」のスライドは修正し、当日新データを反映したもので講演させていただきます。

10月23日(火)に鹿児島で行う、「社会福祉法人政典会・職員研修」のスライドはぎりぎりまで待っていただいておりましたので、昨日新データを反映したスライドを送付いたしました。

11/3の「日総研・看取り介護セミナー・札幌会場」以降の看取り介護講演では、すべて新データの分析に基づいた講演となります。ちなみに札幌会場の申し込みはまだ受け付けております。19日までに最低人数に達しない場合は、セミナー開催を見送ることがありますので、そうならないように是非お近くの方のお申し込みをお願いします。看取り介護・ターミナルケアの知識のみならず、これからの介護サービス全般に必要な情報と知識を得ることができる内容となっておりますので、よろしくお願いします。

さて結果について少しだけ解説しておきます。

自分の最期の時を、どこで過ごしたいですか。」には、522件の回答をいただきました。その結果、最期の時を過ごしたい場所のトップは「自宅」(48.1%)であり、次に「最期に過ごしていた場所」(27.2%)と続き、両者を合わせると75%を超えております。

このことは、医療機関で8割以上の方がなくなっているわが国の現状とはマッチしておらず、それは「自分が死にたい場所と、親を死なせてる場所が異なる」という意味になると思われます。

また「その他」(6.1%)を選んだ人のコメントを読むと、場所は問題ではなく、家族や親しい人など、愛する誰かに見守られていれば場所はどこでもよいという意見が多かったようです。

自分の最期の瞬間を誰かに看取ってほしいと思いますか?」には、397件の回答をいただきました。その結果、「家族など親しい人に側にいてほしい」(56.2%)と過半数を超えて一番多い回答数になっております。次に「その時にならないとわからない」(13.1%)、「どちらでもよい」(12.1%)、「一人で旅立ちたい」(10.1%)と続いています。

このアンケートは前提条件として、「介護が必要な人が周囲に支えられていれば、旅立つときに側に誰もいなくとも、それは孤独死ではなく「ひとり死」であるといわれ始めました。あなたは周囲に支えられながら旅立つときに誰かに側にいてほしいですか? 」として問いかけているのですが、それにもかかわらず過半数を超える方が、「親しい人には側にいてほしい」と答え、さらに「誰でもよいから側にいてほしい」という回答が5.8%あることを考えると、「孤独死ではない、ひとり死」を受け入れる考え方は、広く浸透していないといえると思います。

また「一人で旅立ちたい」や「どちらでもよい」と回答した方々のコメントには、「最期はどうせ意識はないし、家族にも迷惑をかけたくない」というふうに、残された遺族や親しい人を思いやってのコメントが多々見られました。そうであるがゆえに、実際にその人たちが旅立つ際に、愛する誰かが手を握ってくれるとしたら、それは必ず意味があることに思えるし、「一人で旅立ちたい」や「どちらでもよい」と回答した方であっても、本当にその時に側に誰もいなければ寂しい気持ちで旅立っていくのではないかと思ったりしました。そういう場面での「おせっかいの寄り添い」はあってもよいのかなと勝手に思ったりしています。

なおこのアンケートに回答してくれた方の割合は、下記の円グラフの通りで、30代〜50代の方で大半を占めいます。そうするとその世代の方でもこうした意識結果が出ていますので、我々が看取り介護・ターミナルケアの主な対象とする80代以降の方々は、もっと多くの方が「自宅や最期に過ごしていた場所で死にたい」と思い、「家族や親しい人に看取られて旅立ちたい」と思い、それがかなわない場合でも旅立つ瞬間を、「誰でもよいから看取ってほしい」と思っているのかもしれませんね。

下記画像も参考にしてください。
自分の死期を過ごす場所2

自分の死期を過ごす場所

旅立つときに誰かに看取ってほしいか
このアンケートは各末端から1回限りしか回答できないように設定しておりますので、回答数は極めて実人数に近い数字であると言えます。最後に回答にご協力いただいた皆様に、心より御礼申し上げ、ご報告に代えさせていただきます。本当にありがとうございました。

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終末期における医師の役割り〜金谷先生の金言


先週土曜日は福島県いわき市で行われた、「福島県介護支援専門員協会」の研修で講演を行なってきた。

同協会での講演は、あの3.11の翌年7月に郡山で行われた研修以来2度目であった。今回のテーマは介護保険制度論や報酬改定に関するものではなく、「看取り介護」であった。これは担当事務局の希望によって決まったテーマである。

社会の少子高齢化が止まらない我が国において、死者数が大幅に増える社会情勢を考えると、終末期をどこでどのように過ごすのかということが切実な問題になりつつある。本来ならば、すべての人が人生の最終ステージをどこで過ごそうと、最期の瞬間まで安心・安楽の支援ができる社会が理想であるが、孤独死や孤立死が増えているし、看取り介護・ターミナルケアの間違った理解によって、悲惨な死に方を余儀なくされている人も存在する。

そんな中でケアマネジャーをはじめとしたソーシャルワーカーにも、そこにどのように関わっていくかが問われてくるわけである。そのため4月の介護報酬改定でも居宅介護支援事業所にターミナルケアマネジメント加算を新設したり、末期がんの方のケアマネジメントに関連して、状態変化に応じた迅速なサービス提供が可能となるように、ケアプランの変更作成ルールを改正したりしている。

さらに在宅においても、施設においても、どのように終末期を過ごすのかということを本人の意思に基づいて決定する必要性が叫ばれており、あらゆる人々に対するリビングウイルの支援が重要となってくる。その役割をケアマネジャーが担っていく必要性も高まっている。そのような中で、「看取り介護」を学ぶということは、それは単なる介護実践論を学ぶにとどまらず、人間の尊厳をどのように護るかという「人間尊重」の価値前提を確認するということでもある。まさにケアマネジャーをはじめとしたソーシャルワーカーが学ぶべき大切なテーマであるといってよい。

当日は午後2時からの講演であったが、事務局の方々と少し早めの昼食を摂りながら歓談し、早めに会場に着いた。そのためネットサーフィンしながら、つながりのある人のフェイスブックを見ていたところ、札幌麻酔クリニックの金谷先生が、在宅での終末医療に関わる医師の姿勢に関して素晴らしく感動的なコメントを書いておられた。そのコメントの言葉を是非、福島県の介護支援専門員の皆様にも知ってもらいたいと思い、メッセンジャーで金谷先生に次のようなメッセージを送った。

僕は今福島県いわき市に来ており、これから福島県介護支援専門員協会の皆様に、看取り介護の講演を行う予定なのですが、『ひとつの熟成されたいのちのお手入れ』という言葉にえらく感銘を受けています。講演の中で金谷先生の言葉として紹介させてください。

すると数分後に金谷先生から次のようなメッセージが届いた。

マサさん、どうぞどうぞ。大変恐縮です。」
(※このやり取りは「金谷先生のフェイスブック」の10/13、8:55発信の『さいごのお手入れ』を参照してください。)

ありがたいことであり、講演開始前の既にセッティングが終わっていたステージに立ちながら、講演ファイルのパワーポイントを編集して作成したスライドが下記である。
終末期における医師の役割り
医師という立場の方が、終末期にこのような温かくかかわってくれるのであれば、これほど安心できることはないと思う。

上で紹介した金谷先生のフェイスブックには昨日も、『死亡診断をするのは確かに医師ですが、医師は「死の専門家」ではありません。〜ただその方のいのちの灯火が小さくなった時、或いは消えた時にどのように在るべきかを真摯に考えることが「人の終わりらしさ」かもしれません。』という言葉が書かれている。

まさに金言といえるが、金谷先生はこの金言を、実践の中で自然に発しているところにある種の『凄味』があるといえるのではないだろうか。

北海道には、こうした素晴らしい医師の方々がたくさんおられる。医師以外にも素晴らしい活動をしている多くの仲間たちがいてくれる。だから僕は北海道が好きである。

11/3(土:文化の日)は、札幌の道特会館で、10:00〜16:00まで『看取り介護セミナー』を行う予定になっており、今回紹介した内容なども含めて、看取り介護は、日常的ケアとは異なる特別なケアではないことを伝えられると思う。

まだ参加申し込みは間に合うので、「お申込みはこちらから」をクリックして、申し込んでいただければ幸いである。

対象者が最期まで尊厳ある個人としてその人らしく生きることができる看取り介護の実践論を是非学んでください。

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のである。

看取り介護講演を受講した方の感想


6/15に閣議決定された「骨太の方針2018」では、人生の節目で、人生の最終段階における医療・ケアの在り方等について本人・家族・ 医療者等が十分話し合うプロセスを全国展開するため、関係団体を巻き込んだ取組や周知を行うとともに、本人の意思を関係者が随時確認できる仕組みの構築を推進するとしている。要するに今医療の場で盛んに言われているACPを推進しようというものだ。
※ACPとは、Advance Care Planning(アドバンスケアプランニング)の略。

また、住み慣れた場所での在宅看取りの先進・優良事例を分析し、その横展開を図るともされている。ということであらゆる介護サービスの場で、看取り介護の推進は次期制度改正・介護報酬改定に向けても進捗されていくのである。

その流れに乗ってきちんと看取り介護・ターミナルケアの実践が可能になる職場づくりが、すべてのサービス種別で求められていく。看取り介護の実践リーダーの育成も急務である。

そのため僕は全国各地で「看取り介護セミナー」を行っているが、先日も愛知県一宮市で「生きるを支える看取り介護〜〜最期まで自分らしく生き抜くためのサポート〜」という3時間講演を行なった。
一宮看取り介護講演
講演会場は一宮駅直結のビル最上階で、収容人数が400人という大ホールであった。事前申し込みなしに来場するセミナーだったので、3連休直後の最初の出勤日となる火曜日の午後に、どれだけの人が集まってくれるか心配したが、セミナー開始が近づくにつれ続々と人が集まり、その中には以前僕を講師として招待してくださった愛知県内の顔見知りの方もおられた。
一宮シビックホール
遠くは長野県から足を運ばれた方もいて、画像の通り大ホールも8割がた埋まった状態である。大変大勢の方にお集まりいただき感謝であるが、それだけ「看取り介護・ターミナルケア」というものが重要なテーマになってきているという意味だろうと思う。

その講演を受講してくれた方が、表の掲示板の関連スレッドに次のようなコメントを書いてくださっている。

掲示板より転載1
私は特養の介護福祉士ですが、普段の職場は先生の話の中にあった介護の世界とは程遠く、職員の都合で仕事をする施設、入居者に興味も示さない職員ばかりでなぜ同じ特養なのにこんなにも不幸な最後の人生を過ごさなければいけないのかと毎日モヤモヤしながら仕事をしていました。最後の人生をこの施設で良かったと思ってもらえるように頑張ろうと言ったところ、他の職員にリーダーの言っている事は理想論だと言われ、何を言っても心に響かないのかなと落ち込んでの参加でした。今日の三時間はとても短く、最後には泣きそうになりました。私も諦めず、施設の中で赤い花になれるように頑張ります。ありがとうございました。

僕の看取り介護講演で紹介するケースは、以前僕が勤めていた特養での実践事例がほとんどであるが、同じ特養でも環境は様々で、職員のスキルや考え方も様々である。よってこの方のように、やる気のある方の思いがなかなか受け入れられない職場も少なくないのだろうと思う。

しかし僕が総合施設長として勤務していた特養も、最初からスキルの高い職員が大勢いたわけではないし、様残なバリアが存在し、看取り介護どころか日常のケアのレベルもかなり低い時代があったのである。その状態に慣れることなく、その状態をあきらめることなく、様々なバリアや偏見と闘って、ケアサービスの在り方を変えていった結果が、講演の中でお話しした様々な実践ケースにつながっていったのである。是非、そこを目指して頑張ってほしい。

幸いなことに、「私も諦めず、施設の中で赤い花になれるように頑張ります。」という言葉で、コメントが締めくくられているので一安心である。陰ながら応援したいと思うので、何かあったら掲示板で相談したり、場合によっては直接連絡してきてほしいと思う。できるだけの手助けはさせていただく所存である。

さてもう御一方コメントを書いてくださった方がいるので、その方のご意見も紹介したい。
掲示板より転載2
講演ありがとうございました。また講演を無料で公開された社会福祉法人・愛知県慈恵会にも大変感謝しております。講演を拝聴して
・普通の介護の延長線上に看取りがあり看取りは特別なことではない
・看取りの始まりは看取り計画が始まってからではなく利用者様が入所されたときから始まっている
・どのように死ぬかではなくどのように最後を生きるのかという視点が正しい
・利用者様自身が主役。そのうえでご家族様がグリーフケアにつなぐ必要がない程の看取りを行える環境を作ることが必要
看取り介護について当たり前のことを理解していなかったと反省しています。


僕の伝えたいことを、このように理解していただけると本当にありがたい。これを機会に、新たなステージでの看取り介護の実践を期待したいと思う。

愛知慈恵会の皆さんと
コメントくださった方が書いているように、このような機会を作ってくれた社会福祉法人・愛知県慈恵会さんには、僕が感謝せねばならないだろう。(画像は、セミナー終了後に社会福祉法人・愛知県慈恵会さんの皆さんと記念撮影したもの。)

看取り介護セミナーは、今後もいろいろな形で、いろいろな場所で行う予定があるが、2時間とか3時間では伝えきれない内容もある。そのため全国7カ所で、1回5時間の看取り介護セミナーを行う予定になっている。(参照:日総研出版社主催看取り介護セミナー・すべての関係者に求められる生きるを支える介護

その幕開けは、11月3日(土:文化の日)に道特会館で行うセミナーだが、まだ開催が決定する最低人数に達していないそうだ。せっかくの機会であるのに、僕の地元の北海道だけ開催できないというのも悔しい。道内の皆様、ぜひ文化の日は札幌で、「本物の看取り介護」を学んでみませんか。

なお北海道以外の同セミナーの予定は下記の通りである。
仙 台地区:2019年1月26日(土)ショーケー本館ビル
東 京地区:2019年1月27日(日)LMJ東京センター
名古屋地区:2019年2月2日(土)日総研ビル
大 阪地区:2019年2月3日(日)田村駒ビル
福 岡地区:2019年3月16日(土)福岡商工会議所
岡 山地区:2019年3月17日(日)福武ジュリービル

いずれも10:00〜16:00(昼休み休憩1時間)の予定である。是非お近くの会場にお越しいただきたい。

また看取り介護講演に関連して、そこでお話しする内容につながるデータを集めている。「アンケートへの協力をお願いします。」にご協力いただけると大変ありがたい。こちらへの投票も、よろしくお願いします。

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アンケートへの協力をお願いします。


僕が実施する看取り介護講演のためのデータとして、8年ほど前にインターネットを通じて、皆さんの意見を集めさせていただいたことがあります。

その時に投票していただいた意見については、現在でも講演で紹介させていただいておりますが、8年という時間の流れを考えると、意識の変化ということも無視できなくなってきました。そのため改めて意識調査を行って、最新の数値データを集めてみたいと思いました。

そこで当時と同じ内容でアンケート投票フォームを作成しましたので、下記のフォームに投票し、ご意見があればそのフォームのコメント欄に記入していただきたくお願い申し上げます。

アンケートは2種類で、10/14までの受付とさせていただきます。結果については、後日このブログ記事にて分析・報告させていただきますが、すべての方が「結果を見る」をクリックしていただくと、リアルタイムで投票結果を確認することができます。

すべての人が安心と安楽の終末期を過ごすことができるために、終末期支援として何が必要かを知りうえで必要不可欠なデータとなりますので、どうぞご協力をお願いします。

皆さんのご協力をお願い致します。

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ニセモノの看取り介護は許されない


昨日から愛知県一宮市に滞在している。今日の一宮は朝から曇り空で、先ほどから小雨が降ってきた。少し心配な天気だが、気温は高すぎず過ごしやすい日になっている。

これからホテルをチェックアウトし、一宮駅直結のiビルに向かう。ビルの最上階シビックホールで講演を行う予定である。そのためブログ記事の更新時間もいつもより早くなっている。
一宮iビル
この白い建物がiビルである。ここにJR尾張一宮駅と名鉄一宮駅も入っており、6階は一宮市立図書館となっている。そのほか各種商業施設が入った複合ビルとなっている。とても立派なビルである。

昨日は3連休の最終日で天気も良かったこともあるのか、このビル内の休憩スペースに、たくさんの市民の方々が憩っている姿が見られた。このような素晴らしい場所で講演を行わせていただくことになり非常に光栄である。

僕が一宮市で講演を行うのは、今年2月以来2度目のことである。

2月の講演は、社会福祉法人・愛知慈恵会さんの職員研修ということで、「萩の里」という特養で講演を行った。

今回は介護関係者のほか一般市民も対象にしたオープン講演ではあるが、主催は前回と同じく愛知慈恵会さんである。参加料が無料という太っ腹の講演会で、13:00〜16:00まで「生きるを支える看取り介護〜最期まで自分らしく生き抜くためのサポート〜」をテーマにお話をさえていただく。途中休憩をはさんで170分の講演となる予定だ。

事前申し込みは必要なく、駆け込みでも無料で受講できるセミナーなので、急に時間ができた近くの方、ぜひ一宮駅までおいでいただきたい。

死者数が増え続ける中で、高齢者夫婦世帯や独居世帯が増えるわが国では、2030年には約160万人の死亡者のうち、47万人ほどが死に場所の定まらない「みとり難民」になる危険性がある。

そんなことがないようにするためには、暮らしの場で看取り介護ができる仕組みを創り、人生の最終ステージをどこで過ごそうと、最期の瞬間まで安心・安楽の支援ができる社会を実現する必要がある。

しかし実際には独居世帯が増える中で、「特殊清掃」が必要になるほど、長い時間遺体が放置されて発見されない「孤独死・孤立死」が増え続けている。医療機関や介護施設等では、「ターミナルケア」・「看取り介護」と称した「見捨て死」のような状態も存在している。

そこでは「痛いよ!!苦しいよ!!悲しいよ!!つらいよ!!」という声なき声が無視されるような悲惨な死に方をしている人が存在しているのだ。

全国の特養の8割以上が、「看取り介護」を実施できるとされているが、そこでも単に看取り介護加算を算定できるだけの「ニセモノ看取り介護」が横行している。

そこでは安心と安楽もなければ、看取り介護対象者本人の意思とは程遠い形での終末期の過ごし方が強要されていたりする。看取る人と看取られる人の間の心のつながりも存在せず、心に残るエピソードも生まれない放置死も見受けられる。それはまさに「死」を待つだけの放置であり、生きることを少しも支えていない状態といえる。

それは看取り介護ではないのだ。看取り介護とは、「死」というゴールがあるとしても、その本質は、「生きるを支えること」なのだということを忘れてはならない。

この世に人として生まれ、生き抜いてきた人たちの、「人生の最終ステージ」を心安らかなものにし、「いろいろあったけど、よい人生だった」、「生まれてきてよかった」と思うことができる時間を過ごせるようにしたい。長い人生を振り返って、残される愛する人に思いを伝えることができる時間を創りたい。そのために僕たちには何ができるのだろうか。

そのことをしっかり伝えたいと思う。

なお11月以降は、5時間の「看取り介護セミナー」を全国7カ所で実施する予定である。張り付いたリンク先から詳細をご覧いただき、お近くの会場で「生きるを支える介護」をじっくり学んでいただきたい。

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人生に死あり、という真理。


この国では毎日たくさんの人が亡くなっている。その死のほとんどは、ニュースになることさえなく、社会の片隅でひっそりと失われていく命である。

そんな中で、今週は大きく報道された二つの死があった。

数年前から「全身癌」であることを告白していた、女優の樹木希林さんは15日、75歳で旅立たれた。癌を抱えながら女優として仕事を続ける傍ら、「ものを残さない」として、終活にも努めてきた晩年だったようだ。

18日に胃がんのため、41歳という若さで旅立った山本KIDさんは、死とは最も遠いところにいると思えるようなファイターだった。リングに復帰を目指して闘病していたようであるが、願いかなわず旅立たれたことは無念であったろう。

お二人のご冥福を心から祈りたい。

しかしスポットライトが当たらない多くの「死」にも、様々なエピソードがあり、そこには旅立っていった人を、唯一無二の人と思う人々の深い悲しみや慟哭が伴う思いが存在する。

北海道を襲った震度7強の胆振中部地震でも、41名もの尊い命が失われた。そのことも決して忘れてはならない。

年々死者数が増え続けるこの国では、死に場所や死に方がますます多様化せざるを得ない。それはある意味、死ぬ瞬間までどう生きるのかが問われてくる問題とも言え、高齢者介護に関わる関係者には、やがて訪れるであろう、サービス利用者の「死」と「死に向かう過程」にどうかかわるのかということが問われてくる。

それは直接死の場面で関わりを持つことに限定されず、リビングウイルの支援とか、孤独死をしないように日ごろ関わるとか、様々な場所や形で、「死」というものを意識した接点が求められるという意味である。

今僕は、この記事を仙台のホテルの中で書いている最中だ。仙台の空を眺めながら、「死」とは何かと考えついて、脈絡もなくこんな記事を書いている。

今回仙台に来ている理由は、ある社会福祉法人さんの職員研修講師をと止めるためである。7月から月1回行ってきたその研修も、昨日の3回目でいったん終了となった。最終回のテーマは、「看取り介護」であったため、こんなことを思い立ったのかもしれない。

次に仙台に来る予定は、来年1月26日(土)であるが、その時に行う講演は、日総研出版社主催の看取り介護セミナーである。

この看取り介護セミナーは2年ぶりに行われる。

日総研セミナー自体は、昨年度も行っていたのであるが、テーマを「虐待防止」として、同時にそれは「介護の誇り」出版記念セミナーとして実施した。そのセミナーが全国を一回りして終了したので、今年度は改めて「看取り介護セミナー」として全国7カ所を回る予定になっている。

11/3(土:文化の日)に道特会館(札幌市)をスタートにして行うこのセミナーでは、看取り介護・ターミナルケアに関する最新事情と情報を満載にして、すべての介護関係者が取り組まねばならない実践論を伝えるつもりなので、お近くの会場にぜひ参加いただきたい。

5時間という時間を感じさせない内容であると評価されているので、参加料金が高くて恐縮だが、皆さんの貴重な時間とお金を無駄にしないセミナーとすることをお約束するので、ぜひ多くの人に聴いていただきたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2

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命と向き合う現場からの発信


国が発出している資料「2018年介護報酬改定の概要」には、地域包括ケアシステムの推進として、どこに住んでいても適切な医療・介護サービスを切れ目なく受けることができる体制を整備すると記されている。

そのために本年度からの介護報酬改定では次の3点を評価したとしている。
・ターミナルケアの実施数が多い訪問看護事業所、看護職員を手厚く配置しているグループホーム、たんの吸引などを行う特定施設に対する評価
・特養の医療体制の充実に対する加算を新設するとともに、その体制を整備した特養での看取り介護加算については、従前より高い単位を算定できるように評価
・居宅介護支援事業所にターミナルケアマネジメント加算を新設


つまり本年の介護報酬改定でも、看取り介護・ターミナルケアが重要であるとして、加算等で評価されているということになる。

これはわが国の死者数の増加と関連した対策である。2040年には2010年と比較して46万人死者数が増えることが予測されていることと関連したもので、医療機関以外の場所で、看取り介護・ターミナルケアを行っていかないと、増加する死者数46万人が、そのまま「看取り難民」となってしまう恐れがあり、そうならないように対策するという意味がある。

人はどこでも死ぬことができる。よって看取り難民とは死ねなくなる人という意味ではなく、死に際して誰にも支援を受けることができず孤独に死の瞬間を迎えることを言うのだろう。その中には、終末期の必要な支援を受けることができずに、悲惨な状態で最期の時間を過ごさねばならない人も含まれてくる。

孤独死の場合は、死後までその悲惨な状態が継続し、長期間遺体が発見されずに、「特殊清掃」が必要になるケースもある。そういう場所は、もう二度とだれも住めない状態になることが多い。

そうしないためにはどうしたらよいのだろうか。それは孤独死を、死の瞬間の問題として限定的に捉えることなく、高齢者等が地域社会や地域の人々とつながりをなくさないように支援することである。

一方、看取り介護が行われているという現場でも不思議な現象が起きている。看取り介護対象者を救急車で医療機関に運ぶべきかなどという議論が起きていたり、救急車をタクシー代わりにして、死亡診断を受けるためだけに息を引き取った利用者を医療機関に搬送したりするケースさえある。

看取り介護が年単位で行われて、看取り介護計画を更新しなくてよいのかなどという不思議な疑問が生じている現場さえある。

これらはすべて看取り介護に対する基本理解がないところから生じている問題である。ある意味それは、「看取り介護」と称する不適切対応が行われているという意味にもつながっている。

こうした状況をなくさねばならない。本当の意味での「看取り介護・ターミナルケア」が実践されなければ、将来自分の家族や自分自身の人生の最終ステージが、自らの望みとかけ離れたものになってしまう恐れがある。

そうした疑問や問題点をなくすために、今年も全国7カ所で1日5時間の「看取り介護セミナー」を行う予定になっている。

その皮切りは、僕の地元である北海道のセミナーだ。11月3日(土:文化の日)に道特会館(札幌市中央区)で10:00〜16:00の予定で開催される、日総研出版社主催・看取り介護セミナーにぜひ足を運んでいただきたい。

本物の「看取り介護・ターミナルケア」の実践論を、新情報を交えてお話しする予定である。日ごろの疑問の解決、新しい発見につながるセミナーと評判の高いこのセミナーは、北海道ではこの日、ここだけの開催となる。

忙しい中勤務調整して出席しても価値があるセミナーにする所存なので、ぜひ多くの人に会場にお越しいただきたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2

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救急車を呼ばなければならない看取り介護ってあり得るのか?


先日、講演依頼を受けている機関の担当者と、講演の打ち合わせをメールでしていたところ、講演テーマに関連して質問を受けた。それは介護施設の看取り介護に関する質問で、その内容とは以下の通りである。

>施設の方からの話で、「看取りをすると決めていても、実際に看取りをする際にパニックになり、職員が救急車を呼んでしまうこともある」と伺いました。施設で看取りをしていく中で救急搬送のことについて、どのような取り決め等をされているのかお聞きできればと思っています。

この質問をいただいて僕が最初に感じたことは、実際に介護施設で「看取り介護」を行っているケースで、このような状況があるとしたら、まだまだ看取り介護とは何ぞやという基本理解ができていないまま、看取り介護と称した「低品質ケア」を実施している施設があるのだなということである。

そこで僕は次のような回答をした。

「そもそも救急救命と看取り介護は相反するもので、救命処置をとらないのが看取り介護の原則ですから基本的な看取り介護の理解ができない状態で、加算をとるためだけに対応している施設がそのような状態になります。まずは看取り介護の教育がされなければならないものと思います。当然のことながら看取り介護計画書に同意をいただく際には、同意者に救急対応が必要でないことを説明しております。」

終末期とは、医師によって不治の病であると診断をくだされ、それから先数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)のうちに死亡するだろうと予期される状態になった時期をいう。この段階で、積極的な延命治療を行わずに緩和治療だけを行いながら、残された時間を、その人にとって大切な人生の最終ステージと考えて、それにふさわしい過ごし方ができるように支援を受けることを選択した場合、その瞬間に対応の主役は、キュアからケアに変わる必要があり、そのことを「看取り介護」というのである。

そして看取り介護で一番大事なことは、対象者が最期の瞬間まで「安心・安楽」に過ごすということである。

しかしそれは「死」に向かう過程であり、対象者は確実に死の瞬間を迎えるのである。その際にバイタルが急に低下するなどの急変はあって当然である。あらかじめ想定されるそのような変化は、救急対応して改善を図る種類のものではない。

不必要な延命治療を行わないことが看取り介護の前提であることを理解すべきである。

そもそも看取り介護は、「医師が一般的に認められている医学的知見から回復の見込みなしと診断した者」とされているのだ。回復の見込みがないのだから、救急救命が必要な状態になることは通常想定されない。よって看取り介護対象者の急変時に救急救命搬送することなどあり得ないのである。そのことを理解し、スタッフ間で意思統一を図ることが重要である。

このことに関連して考えなければならないことは、看取り介護に移行する判断基準の問題である。前述したように終末期とは、余命がおよそ半年以内の時期であり、それより短い余命診断はあり得ても、それより長い余命診断がされる時期に、「終末期」と判定されることはないというのが一般的な解釈である。

そうした「終末期判定」がきちんとされているのだろうか。もしかしたら看取り介護対象者を緊急搬送する施設では、終末期でない人もその対象としているのではないかという疑問が生じざるを得ない。

終末期判定さえきちんとできておれば、看取り介護対象者への救急救命などという発想には至るわけがないのである。

救急車の問題で言えば、死亡確認のために救急車で遺体を病院に運んで死亡診断をしているような介護施設もあると聴く。こうした施設では施設所属医師が何をしているのかと問われてくるだろう。

看取り介護加算を算定することができる体制にある特養は、全国で8割を超えている。老健でのターミナルケアも、在宅復帰機能に反するものではないとして、少ずつ実施施設の数が増えている。その中で看取り介護の正しい理解がされないまま、「看取り介護」と称したニセモノの対応が行われているのは問題である。

終末期判定と余命診断がきちんと行われる必要があることも含め、看取り介護の関する様々な誤解や疑問を解くために、今年も11月からぜんこく7カ所で1日5時間の「看取り介護セミナー」(日総研出版社主催)を行う予定になっている。

その皮切りは、11/3(土:文化の日)の札幌セミナーである。人生の最終ステージに寄り添うための正しい理解を促すセミナー内容とするつもりである。それは看取り介護の場面だけではなく、ケア全般に通じる考え方と方法論でもある。

このセミナーを高齢者介護に携わる多くの方に聴いていただきたい。札幌を皮切りに、仙台、東京、名古屋、大阪、福岡、岡山と回る予定である。必ず実りのある時間にすることを約束するので是非会場までお越しいただきたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2

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余命診断が行われていない看取り介護はあり得ない


看取り介護を実施するにあたって、対象者が終末期であると判断することは医師にしかできない。

医師は看取り介護対象者となる可能性のある人について、病状を把握して、その状態について医学的知見に基づいて終末期判定を行うわけである。

この時、終末期という概念が問題になるが、それは数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)のうちに死亡するだろうと予期される状態になった時期のことを意味しており、それが「一般的に認められている医学的知見」ともいえる。

このように終末期は人によって数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)という開きがあるのだから、医師は終末期診断に際して、同時に余命診断が同時に求められる。

なぜなら終末期であると判断した後、看取り介護に移行する場合に、お別れの時間がどれだけの残されているのかという予測は、看取り介護対象者・支援者双方に重要な意味があるからだ。当然それは看取り介護対象者の旅立ちに備えた、双方の心の準備という意味もある。

勿論、余命診断は目安であり、完全かつ正確にその期間内で看取り介護が終了するとは限らない。予測よりも短時間で別れの時を迎える場合もある。そこには様々な不確定要素が含まれているのだから当初診断された時期に多少の長短が生じることも当然あるだろう。

だからといってその時期が大幅にずれ込んで、年単位で看取り介護を行うということにはならない。もしそんなことがあるとすれば、それは終末期であるという診断自体がきちんとされていないという意味になる。

終末期判定がきちんと行われず、余命診断も行われていない状態の看取り介護があってよいわけがない。そもそも看取り介護がいつまで続くかもわからない状態は、看取り介護対象者と家族及び支援者にとって、先が見えないという状況を作り出し、最期の時間を共有しながら、お別れに伴うエピソードを作ることの大きな障害にもなりかねない。その状態は対象者も家族も常に不安を抱え、何をどうして良いかわからない状態に陥らせるかもしれない。当然それはQODにも影響し、その質は低下せざるを得ない。そうしてはならないのである。

ところが先日、ある方からメールで次のような質問を受けた。「看取り介護になってから1年を経過して、長期目標の期間が過ぎましたが、状態もほとんど変化はないのに、看取り介護計画であっても、更新作成が必要ですか?

はあっ?看取り介護が1年以上続いているって、どういう状態だろう。その施設で看取り介護対象者を終末期と診断した医師は、終末期判定をどのように理解しているのだろう。前述したとおり、終末期とは、治療を行っても元の状態に戻ることは不可能で、積極的な延命治療を行わねば、余命がおよそ半年以内であるという状態である。これは一般的に認められている医学的知見である。

そして前述したように余命診断は看取り介護を開始するにあたって重要となるし、余命診断がきちんとできておれば、「看取り介護になってから1年以上経過しているが、計画は見直す必要はないか?」などという、おかしな質問がされるわけがない。

繰り返すが、本来終末期とは、余命半年以内の状態をいうものである。予想外の回復がないとはいわないが、その場合は看取り介護をいったん終了せねばならず、看取り介護を1年以上継続して、看取り介護計画を更新作成するということにはならない。

基本的には1年以上にもわたる看取り介護というものが存在することの方がおかしい。医師はそのことをどのように判断しているのか逆に聴いてみたい。終末期判定と余命診断を行うという医師の重要な役割を放棄しているとしか思えないのである。

9.25・尾張一宮講演
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すべての介護事業関係者に求められる生きるを支える看取り介護スキル


多死社会を迎えているわが国では、2040年には死に場所が定まらない47万人の看取り難民が生ずる可能性があると言われています。

そのため医療機関以外に死に場所を求めるために、これまで様々な取り組みが行われてきました。

例えば2006年の診療報酬と介護報酬のダブル改定では、診療報酬に在宅療養支援診療所という、在宅のターミナル診療を行う医療機関を位置付け、介護報酬では特養の加算として看取り介護加算を新設しました。それ以降、診療・介護両報酬の看取り介護加算・ターミナルケア加算を拡充させて、医療機関以外の暮らしの場で看取り介護・ターミナルケアを行うための改革が続けられているわけです。

2018年の診療・介護報酬のダブル改定も同様の主旨で改定が行われました。地域包括ケアシステムの推進策として、どこに住んでいても適切な医療・介護サービスを切れ目なく受けることができる体制を整備することが目的といることがそれにあたります。それは終末期の医療や介護も、地域の暮らしの場で受けることができるという意味で、死ぬためだけに居場所を変えなくてよいようにするための改革でもあります。

そのため介護報酬改定では、ターミナルケアの実施数が多い訪問看護事業所、看護職員を手厚く配置しているグループホーム、たんの吸引などを行う特定施設に対する手厚い評価がされるとともに、特養の医療体制の充実に対する加算を新設し、その体制を整備した特養での看取り介護加算については、従前より高い単位を算定できることとしました。さらに居宅介護支援事業所の加算報酬としてターミナルケアマネジメント加算を新設したのです。

これらは介護施設などの居住系系施設も地域社会の中の居所であることを明確に示すとともに、その場所で安らかに死の瞬間を迎えることができる体制を整備しようとしているわけです。このように死ぬためだけに入院しない社会の実現を目指すことは、すなわちすべての国民の死に場所が定まるという意味に通じ、その場所で最期まで人間らしく生き続けられるということを意味しています。

よって看取り介護・ターミナルケアとは、死ぬ瞬間のケアにとどまらず、そこにつながる生き方そのものに対するケアなのです。このことを間違ってはなりません。

一方で現代社会は、独居死、孤立死、孤独死などの変死体に対する特殊清掃が増えている社会でもあります。それは隣人の存在を死臭によってはじめて知る社会という意味でもあります。それでよいのでしょうか?

そうした状況に至る孤独死の7割を男性が占めています。それは男性が仕事をリタイヤした後、社会との接点をなくして、地域の中にいても誰ともつながっていない例が多いことを表しているのではないでしょうか。

それは死に方は生き方と関係しているという意味ではないでしょうか。社会とどのようにつながりながら暮らしているかが大きな問題なのです。

そうであれば特殊清掃に至らないような死に方を模索するのであれば、死の瞬間をいかに支援するかを考える以前に、その人たちが社会とつながりながら、地域の一員として営む暮らしの支援がまず大事であることに気づきます。そういう意味でも、看取り介護・ターミナルケアを考えることは、死の瞬間だけを見つめるのではなく、そこに至る生き方=日常の暮らしぶりを見つめることに他ならないのです。

介護関係者の皆様は、自分の担当利用者にだけ関心を寄せるのではなく、自分の担当利用者が住む地域に関心を寄せ、地域社会にどのような人が、どのように暮らしているのかに関心を寄せてほしいと思います。それが地域包括ケアシステムが深化するための第一歩だと思うのです。

今年度もそうしたメッセージを伝えるためのセミナーを、11月〜来年3月までの予定で、全国7カ所で実施します。日総研出版社主催・看取り介護セミナーすべての介護関係者に求められる生きるを支える看取り介護〜最終ステージの判断基準・家族対応を学ぶ」は下記の日程となっております。

札幌地区:2018年11月3日(土・祝)10:00〜16:00 会場:道特会館
仙台地区:2019年1月26日(土)10:00〜16:00 会場:ショーケー本館ビル
東京地区:2019年1月27日(日)10:00〜16:00 会場:LMJ東京研修センター
名古屋地区:2019年2月2日(土)10:00〜16:00 会場:日総研ビル
大阪地区:2019年2月3日(日)10:00〜16:00会場:田村駒ビル
福岡地区:2019年3月16日(土)10:00〜16:00会場:福岡商工会議所
岡山地区:2019年3月17日(日)10:00〜16:00会場:福武ジョリービル


4年目を迎えるこのセミナーの過去の参加者の声の一部を紹介します。
看取り介護セミナー参加者の声
看取り介護は、日常的ケアとは異なる特別なケアである←間違っています。
看取り介護は、職員に過度なストレスを与え、離職率が高まる恐れがある←間違っています。
看取り介護を実施するためには、特別な医療支援体制が必要とされる←間違っています。

看取り介護とは決して特別なケアではなく、日常介護の延長線上にあるものであり、日頃の介護の質を高める努力と、高齢者の最晩年期の暮らしを護るという理念が求められます。そして看取り介護とは死の援助ではなく、人生の最終ステージを「生きる」ことをいかに支えるかが問われるものです。本セミナーでは、そのために何をすべきなのか、看取り期の判断基準や本人および家族の同意、職員教育の実際等についてわかりやすく解説します。

これらのことを理解して、適切な看取り介護・本物の看取り介護を実践する施設は、職員の定着率が高まり、地域住民からも選択される施設になっています。そうした実績があるセミナーです。

今から勤務調整を念頭に置いて、是非会場にお越しください。

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思いをつなぎ、命をつなぎ、歴史がつながれる


今僕は松山市の「愛媛県総合福祉会館」という場所にいる。

今日は午前10時から愛媛県老施協が主催する管理職員研修の講師として、このあと15:30まで講演を行なう予定になっている。正味4時間30分の講演であるが、この記事はその合間の昼食休憩時間を利用してあわただしく更新しているので、思いつくままにいつもより短い記事の更新になると思う。

何を書こうかと考えていたが、思いつくままに(以前にも何度か書いたことと重複はするが)看取り介護という言葉の表現について書こうと思う。

2006年の介護報酬改定時に、特養のターミナルケアが始めて報酬上の評価となり「看取り介護加算」が新設された。「看取り介護」という言葉は、その時初めて造られた言葉である。

従来から使われていたターミナルケアという言葉は、医療機関や医療系サービスで使うべき言葉だから、介護保険サービスの介護系サービスに新設される加算名は別の言葉を使うべきだとして、関係職能団体が宿題を与えられた結果、この言葉が生まれたわけである。

ターミナルケアを日本語に訳すとすれば、終末期介護という表現が考えられるが、「終末」という言葉を使うと、それがあたかも「」の支援であるかのような誤解を与えかねない。ターミナルケアは、命の炎が燃え尽きる時期が間近であることが明らかな人に対するケアであるとしても、それは旅立つ人が死の瞬間を迎えるまで、尊厳ある人としての暮らしを支える行為であり、あくまでも生きることを支援する行為である。

よってこうした誤解を与えかねない名称は好ましくないとして、新しい表現方法がないかと関係者は悩まされたわけである。その時古くから日本語として存在していた、看取り、看取るという言葉からヒントを得て、「看取り介護」という新語をひねり出したのが、この加算名の裏に隠されたエピソードである。

しかし突き詰めて考えると、この言葉は少々おかしい。看取り・看取るとは、死に行く人を看護するという意味だけではなく、「病人の世話をする。看病する。」という意味もあり、看取り=看護なのである。そうすると看取り介護という表現は、「看護介護」という表現ともいえ、日本語としてはやや不自然である。

そこで僕は、「看取り介護」という言葉を、「つなぎ介護」という言葉に変えたらどうかと提案しているところだ。

看取り介護は特別な介護ではなく、日常介護や日常生活とつながっている介護だ。そのことはこのブログ記事で何度も訴えてきた。

そして実際に誰かの旅立ちを見送る瞬間や、そこにつながる日々の中では、看取る人と看取られる人との間に様々なエピソードが生まれ、そのエピソードが人々の心に刻まれることによって、旅立つ人と残された人の間で命のバトンリレーが行われる行為でもあることも紹介してきた。

それはまさに旅立つ人の命が、残された人につなげられていくという意味である。

様々なつながりがそこには存在し、人の命が思い出として誰かの心につながって残されていくことが、人の歴史をつくっていくのではないだろうか。そしてつなぐ・つながれていくというのは一方的な行為ではなく、看取る人、看取られる人、双方に意味があり、双方の思いが込められた言葉でもある。

それは様々な場面で心を紡ぎ、ご縁を紡ぐという意味なのだから、人にとって最も大事な行為が死の瞬間まで続いていくという意味にもなる。それは人がこのように生まれ、様々な人生を生きる意味にもつながっていくのではないだろうか。人はこの世に生まれ、日々の営みを続けていくそのことだけでも意味があるということだ。

そういう意味でも「つなぎ介護」という表現が、ターミナルケア・看取り介護に替わる言葉として、最もふさわしいのではないかと考えるのである。

一般的にも浸透した「看取り介護」という言葉を、今更変える必要を感じない人のほうが多いのではないかと思うが、ターミナルケアとは「生きるを支え」、「看取る側の人と看取られる人の双方に意味がある」という観点から,名称見直し議論が起きないものかと期待している。

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看取り介護は介護事業者に課せられる基本介護です


多死社会を迎えている我が国では、2040年には死に場所が定まらない47万人の看取り難民が発生する可能性がある。

そのため国は対策を進め、2006年以降診療報酬に在宅療養支援診療所を位置付け、介護報酬では看取り介護加算・ターミナルケア加算を新設・拡充してきた。つまり医療機関以外の暮らしの場で看取り介護・ターミナルケアを行うための制度改正、診療・介護の両報酬改定が行われてきたわけである。

2018年ダブル改定も同様の主旨となっており、どこに住んでいても適切な医療・介護サービスを切れ目なく受けることができる体制を整備することが目指された。具体的には介護報酬改定では、居宅介護支援事業所にターミナルケアマネジメント加算を新設したほか、ターミナルケアの実施数が多い訪問看護事業所や、看護職員を手厚く配置しているグループホーム、たんの吸引などを行う特定施設に対する評価を手厚くしている。

さらに特養の医療体制の充実に対する加算を新設するとともに、その体制を整備した特養での看取り介護加算については、従前より高い単位を算定できるようにした。しかしこのことは看取り介護を行えない特養はいらないという国のメッセージが含まれているという意味にもなり、特養関係者はそのことを強く自覚してほしと思う。

どちらにしてもこれからの我が国では、死ぬためだけに入院しない社会の実現が急がれていることは間違いのない事実である。

さてここで注目したいのは、今回国が示した「看取り難民」の意味である。それは「死に場所が定まらない47万人の看取り難民」という表現となっている。

人は必ず死ぬ。そしてどこであろうと死ねないということはない。そうであるにもかかわらず「看取り難民」という言葉を使う意味は、死に方も問われているという意味で、それはとりもなおさず人として最期までどう生きるのかという、「生き方」が問われているという意味である。

つまり死に場所が定まるということは、その場所で最期まで人間らしく生き続けられるということに他ならない。

例えば平成25年3月に示された、地域包括ケアシステムにおける今後の 検討のための論点(地域包括ケア研究会)では、『毎日、誰かが訪問してきて様子は見ているが、翌日になったら一人で亡くなっていたといった最期も珍しいことではなくなるだろう。』・『常に「家族に見守られながら自宅で亡くなる」わけではないことを、それぞれの住民が理解した上で在宅生活を選択する必要がある。』として、死の瞬間が誰からも看取られなくとも、そこに至る過程で、必要な支援が適切に行われておれば、それは決して孤独死ではなく、 『在宅ひとり死』であり、それは否定されるものではないという考え方が、『国の資料』として示されているのである。

それが本当に孤独死ではないのかという判断は、個人の価値観によって違うだろうし、違って構わないと思う。要はすべての日本国民が、最期の時間を過ごせる場所と、そこまでの過程でどのような支援を受けることができるかを選択できる社会が求められているということだ。

そうであれば保険・医療・福祉・介護の関係者は、どのステージであっても、どんな職種であっても、看取り介護・ターミナルケアに関わって、適切に支援できるスキルを備えおく必要があるということになる。その際に勘違いしてはならないことがある。

看取り介護は、日常的ケアとは異なる特別なケアであるという考えは間違っている。

看取り介護は、職員に過度なストレスを与え、離職率が高まる恐れがあるという考えは間違っている。

看取り介護を実施するためには、特別な医療支援体制が必要とされるという考えも間違っている。

看取り介護とは日常介護の延長線上にあるものであり、日頃の介護の質を高める努力と、高齢者の最晩年期の暮らしを護るという理念が求められるものの、その考え方さえしっかり持っている場所であれば普通に実践できるケアである。そもそも看取り介護とは死の援助ではなく、人生の最終ステージを「生きる」ことをいかに支えるかが問われるものなのだから、それは介護支援の本旨であり、それができない介護事業者など本来あってはならないのである。

たしかに看取り介護には医療的支援が欠かせないが、それはあくまで緩和医療であり、治療的関わりではないし、対象者が旅立つ瞬間に医師や看護師が居なければできない支援行為ではない。これは「介護」であることを忘れてはならない。

そしてどこで終末期を過ごすのかという判断は、サービスや施設の種別で選ぶべき問題ではなく、その実践力があるかどうかという判断で選ばれることになり、そこで選択される事業者になることが、厳しい時代で介護事業の経営を続けいていく重要な要素につながっていく。

僕の看取り介護講演では、そのようなことをノウハウを含め、かつ具体例を交えてお話しさせていただいている。介護事業関係者の方には是非一度受講していただきたい。

誰でも参加できるオープンの看取り介護講演として、6月16日(土)14:00〜16:00・パルティとちぎ男女共同参画センター(栃木県宇都宮市)で行われる『訪問看護ステーション花みずきセミナー』が予定されている。参加料は500円(資料代)で、どなたでも参加できるセミナーなので、お近くの方は是非お越しいただきたい。

また6月30日(土)13:30〜17:00・三間コスモスホール(愛媛県宇和島市)で行う、『宇和島地区広域事務組合主催・意識改革研修』の中でも、90分間看取り介護講演を行う。こちらは前半の90分が、「介護サービスの質を担保する意識改革」というテーマで両方の講演が無料で聴くことができる。こちらにも是非お越しいただきたい。

詳細は、それぞれの講演名に張り付いたリンク先から見ることができるので、確認願いたい。

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日本在宅医学会第20回記念大会(講師・シンポジスト)報告


世間はゴールデンウイーク真っ最中だが、僕は土曜日から品川に滞在し、昨日と今日グランドプリンスホテル新高輪 国際館パミールで行われている、「日本在宅医学会第20回記念大会」に参加している。

この大会には全国の医療関係者、福祉・介護関係者、行政関係者2800人が参加している。シンポジウムやセミナー等は10カ所に分かれた会場で同時進行し、参加者はそれぞれ希望する会場を自由に渡り歩くスタイルだ。

僕は昨日の午前中にシンポジストとして登壇し、介護施設での看取り介護の実際や、その際における相談援助職や介護職員の役割、実際にしていることなどをお話しした後、ほかの3人のシンポジスト(医師2名、厚労省医療課長)と、多死社会における医療・介護連携と終末期援助の在り方について討議した。

そのあと午後から職域横断セミナーの基調講演として「死を語ることは愛を語ること」をテーマに、介護施設での見取り介護で生まれる様々な物語とその意味を中心に語り、看取り介護とは死の瞬間をいかに看取るかというだけではなく、そこまで生き続ける対象者の暮らしにいかに寄り添うかという過程が重要であることを、具体例を示しながら語ってきた。

日本在宅医学会
この学会は在宅医学会ということで、医療関係者が参加者の多数を占めていることから、13:30〜行われた僕の基調講演の会場には、参加者が少ないのではないかと心配していたが、予想を超えて会場がほぼ満席に埋まる盛況ぶりだった。

しかも受講者は福祉・介護関係者だけではなく、在宅ターミナルケアにかかわっている医師や看護師さんも多数おられた。

うれしいことに質疑応答では、在宅医療にかかわっている医師の方から、「質問ではなく感想として、大変すばらしい実践の報告に感動した。自分のモチベーションも上がった」という意見もいただいた。

会場では顔見知りの方も幾人かおられた。かねてより知り合いの方で、何年かぶりにお会いする人もいて懐かしかった。その中には僕が施設長をつとめていた社会福祉法人の母体医療法人に勤めていた懐かしい顔もあった。北海道からもたくさんの関係者が参加していた。

新しくつながることができた人もたくさんおられた。その一人であるシンポジストの司会を務めたS先生は、長崎市で在宅医療にも力を入れている内科病院を経営しておられるそうであるが、特養も経営しているとのことで、僕の話を聞いてぜひその特養の職員にも話を聞かせたいとして、7月に同市で講演を行う依頼を受けた。講師業を中心に個人営業で飯を食っている僕としては大変ありがたい話である。喜んでお受けさせていただいた。

このほか道内や青森、東京、福岡などからも講演を行ってほしいという話をいただいたので、ぜひ具体化してほしいと思っている。全国どこでも駆け付けますよ。

surface
今回の旅は、sarfaceを新規購入して初の旅となった。やはり使い勝手がよくて便利である。こんなふうに羽田空港の「さくらラウンジ」で、この記事を更新しているが、家の書斎でPC作業をしているのと同じで、まったくストレスがない。

そうであるにもかかわらず重量が結構軽いので、スーツケース(キャリーバッグ)で持ち歩く必要はないので、今後の夏の移動なら2泊くらいまで薄いビジネスバッグを片手に一つ持つだけで移動できそうだ。手荷物の大きさと重さが減ることは、旅の多い僕にとってこのことはとても重要なことである。今後の旅がますます楽しくなる。

それにしても、看取り介護は今後、あらゆる場所で求められていくが、看取り介護とは何か、どういう状態を看取り介護というのかは、まだまだ理解されていない部分が多い。それは死の瞬間をいかに支えるかに限るものではなく、死に行く過程までの「生きるを支える介護」である。その中で看取られるものと看取るものとの間に、様々な物語を紡ぎ、命のバトンリレーを行うことであり、看取り介護加算・ターミナルケア加算を算定していること=看取っている、ということにはならない。

こうした正しい知識を示し、職員の使命感と感動につながり、モチベーションがアップする看取り介護の方法論を示す「看取り介護セミナー」をご用命の方は、是非お気軽にメール等で連絡していただきたい。職員の定着率アップにもつながる、真実の看取り介護を伝授します。

いきなりの連絡も何ら失礼ではないので、遠慮なさらずに一度打診していただきたい。それでは全国の皆様からの連絡をお待ちしております。

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旅立つ瞬間を看取る意味


我が国において現在、「孤独死」の明確な定義はない。

一般的に孤独死とされているものは、事件・事故以外の病死・自然死等で、「自室内で、誰にも看取られず孤独のまま死亡すること」と解釈されている。だが孤独死の法的な定義が存在しないため、こうした状態は、警察の死因統計上では「変死」という扱いになるほか、行政においては「孤立死」という言葉で表現されることもある。

そしてこうした場合、第三者や身内の方に発見されるまで、しばらく期間が経過していしまうケースが多くなり、遺体が発見されても身元が確認できなかったり、いわゆる特殊清掃が必要になるケースも多い。

向こう三軒両隣の関係が希薄になった現代社会では、隣人の存在を死臭によってはじめて意識するというケースも珍しくなくなっているのである。

そういうケースをできるだけなくそうというのが、地域包括ケアシステムの目的の一つでもある。

ところで、僕が行う看取り介護講演では、医療機関や介護施設で死の瞬間を迎えるからといって、必ず看取り介護・ターミナルケアが行われているわけではないとしたうえで、そこには「医療機関内孤独死」・「施設内孤独死」が存在すると指摘している。それは医療機関入院中の方や、施設入所者の方が、見回りと見回りの間に息を止めて、死の瞬間を誰も看取ることのできなかった死のことを指した表現だ。

それに対して、死の瞬間を看取ることができないからといって、きちんとした終末期の対応が行われておればよいのではないかという意見もある。そこまで頑張る必要はないのではないかという意見もある。

確かにそうだろうと思う。終末期であるというコンセンサスのもとに、適切な対応さえできて居れば、死の瞬間を必ずしも看取らねばならないことではないという意見に反論はない。

在宅死であっても、死の瞬間に誰かが傍らについていなくとも、日常の支援行為が適切に行われておれば、それは孤独死ではなく、「在宅ひとり死」に過ぎないので、見回りの際に息を止めていることが確認される死も、「ひとり死」であり孤独死ではなく、それは不適切ではないという考え方はあって良い。それは一つの価値観として認められて良いだろうと思う。

もともと人間は一人で旅立っていくのが本来の姿なのかもしれない。一人でどこにいても死ぬことができるのが、命ある者の姿なのかも知らない。まして医療機関や介護施設で旅立つ人が、その瞬間を誰からも看取られずとも、その遺体が何時間も放置されることはないのだから、問題はないともいえるわけだ。

しかし同時に思うことは、誰しもが「ひとり死」を受け入れるわけではないということである。そういう人たちの傍らで、手を握って声をかけるために僕たちに何ができるかを考え続けるためにも、医療機関の中でも、介護施設においても、孤独死は存在すると訴え続けたい。

そして旅立つ場面で傍らで看取る誰かが存在するということによってしかできないこと、生まれないものがあるのだということも訴え続けたい。

家族などの親しい関係の人が、旅立ちの瞬間を看取ることで生まれる物語がある。そこには旅立つ人の思いや看取る人の思いが、残された方々の胸に深く刻まれる様がある。それを僕たちは命のリレーと呼んでいる。

家族が旅立ちの瞬間を看取ることができないケースも多々ある。高齢ご夫妻で、連れ合いの死の瞬間を看取りたいと希望しても、自分の体調がそれを許さないケースもある。その時、その人に替わって施設の職員が旅立ちの瞬間を看取ることができたならば、息を止める瞬間にどんな様子だったのか、最期に発した言葉はないのかを、看取ることができなかった遺族に伝えることができる。そこに居たものにしか伝えられない言葉により、遺族は臨場感をもってその思いを受け取ることが可能になる。そこでも命のリレーは生まれるのだ。

想像やフィクションでしかない事実だけが伝えられるものがあるということだ。

90代の夫の死の瞬間を看取ることができなかった80代の妻は、最期の瞬間を看取った職員に、その場面の様子を確認するように問いかけた。「苦しまなかったかい。」・「痛がらなかったかい」・「寂しがっていなかったかい」・・・。安らかに眠るように旅立っていった様子を聴きながら、うなづいきながら涙をぬぐった妻は、その時に介護職員から聴いた話を、お通夜の席で家族や親せきに向かって何度も語り聞かせた。その話の内容は、あたかもそこに自分がいるかのようであった。・・・それはきっと意味のあることなんだろうと思う。

僕達の仕事は、一見無駄と思えることであっても、できることを真摯に続けていくことに意義があるのだろうと思う。そこまで頑張らなくてよいよといわれようが、頑張ることができることは続けていこうと思う。

それは、人間と命という最も崇高なものに向かい合うものの責任である。

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自宅での看取り介護に必要とされるもの


我が国では昭和20年代まで自宅で亡くなる人の割合が、全死者数の8割を超えていた。

調査データが存在する範囲で言えば、その数値は昭和26年をピークに減少が続き、医療機関において死亡する人の割合が年々増加し、昭和51年にその数値が自宅で死亡する者の割合を上回り、現在、医療機関における死者数は、全死者数の8割を超える水準となっている。

国は多死社会に備え、在宅でのターミナルケアを推進するために、2006年(平成18年)に診療報酬上の評価として、在宅療養支援診療所が設けたが、それにより在宅で亡くなる方の割合も徐々には増えている。

同時期に特養の介護報酬に看取り介護加算が新設されたことをきっかけに、他の介護施設や特定施設・グループホームにも看取り介護・ターミナルケアに関する加算評価がされるようになったことで、それらの施設で亡くなる方の数も増えている。しかし医療機関で亡くなる人の割合が8割を超えていることに変わりはない。

しかしこの割合は、今後大きく変化せざるを得ない。

死者数の増加に比例して、医療機関のベッド数が増えるわけではなく、むしろ減ることになるために、医療機関で亡くなる人の割合は、必然的に減っていくのである。そのため自宅や介護施設、居住系施設で亡くなる人の割合が増えることになる。

それは好む好まざるにかかわらず、身内の最期の瞬間を、医療機関以外の別な場所で看取らねばならない人が増えるという意味だ。

特養や特定施設、グループホームは看取り介護を行うことが常識であると考えねばならないし、それは単に看取り介護加算を算定するだけの意味ではなく、終末期を迎えた方を最期の瞬間まで安心・安楽の環境を保ちながらケアするという意味であることを理解せねばならない。そこに家族が関わりながら、旅立つ人々の人生の最終ステージの物語を紡いでいくことが、それらの施設に求められていくことも見据えていく必要があるだろう。

僕が特養で総合施設長を務めていた際、その特養に40日間泊まり込んで母親を看取った50歳代の主婦の方が居られた。その方は亡くなられた方の一人娘であり、そのケースは当該施設に家族が連泊した最長日数であるが、それには訳がある。

僕がいた施設は、北海道の登別市の施設だったが、娘さんが住んでいる場所は、神奈川県の川崎氏だった。もともとは登別市の母親の家の近くに住んでいたものの、夫の転勤により遠く離れることになっていたのだ。そのため何かあってもすぐ駆けつけてこれないことを慮って、看取り介護に移行する前の段階で、何かあっても慌てないように、体調が不良であることについて連絡を入れた。

今後看取り介護に移行する可能性があることを伝えたに過ぎなかったが、その時娘さんは、「すぐにそちらに行きます」といわれた。そん必要はまだないことを告げる僕に対して娘さんが言われたセリフは次のような内容であったと記憶している。

「私、嫁に行ってから母さんと一度も一緒に暮らしていないんです。娘として何もしていない自分が、母の死に目にあえないとしたら、私一生後悔すると思うので、母がそのような体調であることを知って黙って待っていることはできません。長くなることも覚悟しているので、側に居させてください。」

そんな風にして、川崎から駆けつけた娘さんは、結局40日間特養に泊まり込んで母親を看取った。

もしこれに似たケースで、自宅が入所施設の近くにある場合、そのように長い期間、特養に泊まり込んで看取ることができるならば、母親を自宅に引き取って看取ることも可能なのだろうか。

しかし長年別居していて、家庭を持っている方が、夫の身の回りの世話をはじめとした家事をしながら、自宅で看取り介護を行うことは、介護施設に泊まり込んで、職員の支援を受けながら看取り介護に関わることとは根本的に違いがあるだろうと思う。

昭和20年代に自宅で家族の旅立ちを看取ることができた大きな理由は、子供の数が多かったからという理由だけではなく、親と同居している子が多く、同居世帯を看取り介護の拠点にできたという意味があるように思う。

果たして一人暮らしの自分の親を、別居している子がどこで看取ることができるだろうか。おそらく看取り介護が必要になったことを理由に、自分の自宅に親を引き取ってケアできると考える人は多くはないだろう。むしろそれまで暮らしていた親の自宅で、家族が関わりながら看取ることはできないかと考える人が多いのではないか。

そうすると、今後在宅での看取り介護・ターミナルケアを増やしていくためには、一人暮らしの高齢者に対し、子供をはじめとしたインフォーマルな支援者がどう関わるかということが重要な課題となる。その中には、「終末期の支援行為を自分ができるのだろうか」という心理的なバリアの克服という問題も含まれるだろう。

そうであれば今後ピークに達する多死社会に備えて、今から我々関係者は、地域社会に向けて、自宅での看取り介護・ターミナルケアの際に、医療の専門家でも介護の専門家でもない家族であっても、できることがたくさんあり、特別なことをせずとも、自宅で家族の旅立ちを看取ることは可能であるといことをきちんと啓もうするとともに、在宅の看取り介護・ターミナルケアの際にどのような社会資源を利用できるのかを、広く周知する必要があるだろう。

在宅でのターミナルケアを専門としている医師の存在も知らない人は多いし、訪問看護師や介護支援専門員等が多職種連携チームを組んで支援してくれることを知らない人も多い。「多様化する看取り介護の場所と方法」という記事の中で紹介している、非接触バイタル生体センサーなどを利用して遠隔で安否確認ができる見守りシステムも知らない人が多い。そうした機器を活用して、地域の医療機関(基幹医院、かかりつけ医など)、民間企業(タクシー会社・弁護士など)と家族を医療の視点でつないで、在宅での看取り介護支援を行っているワーコンプロジェクトのような会社もある。

こうした情報を地域に発信しながら、医療機関で亡くなることが当然だという意識を変えていく必要があるのではないだろうか。

医介塾総会
画像は3/31に東京都大田区で行われた医介塾総会での記念写真。ここでも保健・医療・福祉・介護関係者が一堂に会して看取り介護・ターミナルケアの在り方を議論した。

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居住系施設における看取り介護


僕は特別養護老人ホームに三十数年間務めてきたので、全国各地で僕が行う介護実務の講演も、取り上げるケースは特養時代のものが主である。

看取り介護の実践も特養という場において行ってきたため、看取り介護講演で取り上げるケースも、すべて特養での実践ケースである。だからといってそれが在宅での看取り介護と、まったく異なる方法論であるということではない。

そもそも特養に入所する人は、そこを死に場所にしようという動機づけを持っているわけではないし、死ぬことを目的に入所してくるわけでもない。

特養で暮らす人々は、何らかの理由で自宅での暮らしが困難となり、新たな暮らしの場所として特養を選択して入所してくるわけである。それが利用者自身の意志ではなく、家族の意志としての選択であったとしても、暮らしの場の選択肢として特養が選ばれていることに変わりはない。

そうした特養の使命や機能をきちんと理解してサービス提供されている施設では、利用者の方々はいつしかそこを終生の暮らしの場と感じてくれるようになる。いやいや入所した施設であっても、いつしかそこが自分にとっての安住の場に変わっていく。そしてそこで治療不可能な終末期を迎えたときには、死ぬためだけに居所を変えたくないと考え、暮らしの場である特養で最期の時間を過ごしたいと考えるのである。
(※逆に言えば、利用者の多くがそう思うことができない特養はいらない施設だ・・・残念なことに実際にはそういう施設も少なからず存在している。)

それが特養における看取り介護である。つまりこの選択は、自宅で暮らしている人が、終末期を迎えて、そのまま住み慣れた自宅で最期の時間を過ごしたいと考えることと、何ら変わりはないのである。

今求められている地域包括ケアシステムとは、慢性疾患を抱えた高齢者も、医療機関に入院したまま一生を終えるのではなく、むしろ医療機関の入院期間をできるだけ短縮して、地域で暮らすために適切な医療・介護サービス等を切れ目なく受けることができる地域体制である。死ぬためだけに居所を変えなくてよい体制が地域包括ケアシステムなのである。

そのためには心身の状態に応じた住み替えが必要とされており、特養や特定施設、グループホームなどの居住系施設は、その住み替え先として選択される居所である。その場所できちんと看取り介護が行われなければならないのだ。

繰り返しになるが、特養における看取り介護とは、住み慣れた暮らしの場で最期の時間を過ごしたいという希望を叶えるための介護であり、それは自宅における看取り介護となんら変わらないわけである。

特養の看取り介護と、自宅での看取り介護に違いがあるとすれば、前者における介護の主役がインフォーマルな支援者ではなく、特養の職員に置き換わっているだけである。そこに家族が一緒に関わることができるならば、特養の様々な職種=医療・看護・介護の専門家が適切な支援やアドバイスを受けながら、旅立つ人を家族が看取ることができるという意味である。

もしかしたら自宅で看取ることができない家族が、そこで特養の職員とともに、看取り介護に関わることによって、そこでしか生まれない物語が生まれるのかもしれない。その物語によって、逝く人に対する思いが、残されたものの心に刻まれていくことが命のバトンリレーである。

家族単位が小さくなり、親と子が同居していない世帯が増えている今日であるからこそ、特養をはじめとした居住系施設が看取り介護の場になることは、家族支援という意味でも非常に重要なことであろうと思う。

そのような機能を発揮できる特養でなければ意味がない。それができない特養は、地域包括ケアシステムの一翼を担えない施設として、この制度の中から退場しなければならないのである。

そして看取り介護とは、単にその施設で亡くなることを意味せず、最期の瞬間まで安楽な状態が保たれ、看取り介護対象者旅立つ瞬間まで、対象者も家族も安心して過ごすことができるケアである。

できることなら看取り介護対象者が息を止める瞬間も、きちんと看取ることができて、その瞬間まで物語ることができる命のバトンリレーを大切にしたい。

息が止まるその瞬間、周囲に誰もおらず、その死を見回りの時間しか気づいてもらえないような「施設内孤独死」を、くれぐれも看取り介護と勘違いすることがないようにしたいものである。

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顔が見える関係だけで多職種連携はできない


地域包括ケアシステムとは、住み慣れた地域(自宅とは限らない)で暮らし続けるために、心身の状態に応じた住み替えを勧めながら、医療や介護のみならず、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で適切に提供できる体制のことを言う。

しかし医療や介護や福祉サービスについてもその財源には限りがあるのだから、できるだけお金がかからないようにすることが前提とされている。

そのため医療費もできるだけ抑制しなければならないので、診療報酬改定では、入院期間をできる限り短くして、回復期の一部や慢性期の医療は、医療機関に入院したまま行うのではなく、地域における暮らしの場に戻って、そこで外来治療を中心にして行おうというものである。このようにして慢性疾患を抱えた高齢者については、できるだけ医療機関に入院せず、地域の中で慢性疾患対応を行い、身体機能の低下を防ぐサービスは積極的に取り入れ、それでもなおかつ心身の機能低下による生活障がいが出現した場合には、介護サービスや福祉援助でそれらを補う必要がある。

さらに死者数が増加し続けるわが国では、死ぬためだけに医療費をかけないようにすることが求められており、死ぬためだけに医療機関に入院するのではなく、地域の暮らしの場で死の瞬間を看取ることが重要な課題とされている。そもそも医療機関のベッド数は、死者数が増えることに対応して増えるわけではなく、むしろ減っていくので、地域で看取り介護の体制がなければ、「看取り難民」が生まれるのは必然の結果であり、その数は2030年で47万人にのぼるとされている。

その時に「看取り難民」とは何ぞやという疑問が生ずる。人は必ず死ぬし、どこでも死ねるのだ。そうであれば死ぬ瞬間がどこで、どうあろうと問題はないのではないかという議論がある。

しかし人の死に方は様々であるが、人は死ぬ瞬間まで人は生きているのだ。尊厳を持った人として生きる姿が死の瞬間まで続くのだ。そうであるからこそ、死の瞬間をどこで、どのように迎えるかが問われてくるのであり、人としての尊厳を護りながら、できるだけ不安な思いを抱えることなく、できれば安楽に、生きてきて良かったという思いを持てる形で「看取る」ということは、求められて良いことだと思う。それは決して過度な要求でも、ぜいたくなことでもない。

そういう意味で「看取り難民」とは、死の瞬間を本人が望む状態で迎えられない人のことをいうのではないかと思う。その中には、生から死につながる場面で、必要な介護を受けられずに苦痛と悲嘆の中で死んでいく人の状態も含まれてくるのではないだろうか。そのような死に方が、「仕方ない」とされる社会は寒々しく恐ろしいと思う。

そんな社会にしないためにも、多職種協働による暮らしの場での看取り介護が求められてくる。

死を間近にした人が暮らす様々な場面で、様々な場所で看取るためにも、保健・医療・福祉・介護連携が求められてくるわけであるが、この多職種協働が機能するために、「顔の見える関係」が必要だと言われる。それを否定する何ものもないが、一方で僕は、顔の見える関係だけで多職種協働が機能すると考えるのはずいぶん能天気であるとも思う。

顔の見える関係は、あくまで入り口に過ぎず、それをきっかけに「物を言い合える関係」まで発展させないと多職種協働など絵空事である。バックグラウンドや法人が異なる様々な職種がどう優れたチームを作るのかが一番の課題であるが、チームの中で医者に遠慮してソーシャルワーカーがものを言えなかったり、医療関係者の言葉を介護関係者が理解できないということであっては困るわけである。

そうしないためには、場合によっては相談援助職や介護職の側からも、自分の専門領域については、医師や看護師や理学療法士等にコンサルテーションを行うことができる能力が求められる、そのためにはそれなりの知識と技量が求められるのである。

多職種協働チームにおける相談援助職の役割りは何だろう。それは単に居宅サービス計画を作成したり、利用者の相談に乗るだけではなく、他の職種と比べ、利用者と密接にかかわる場面が多い職種であるがゆえに、他の専門職が気づかないような利用者の訴えや思いをくみ取り、それを本人に代わって周囲に伝えていくような代弁機能が、他の専門職からより強く求められるのではないだろうか。その時医療職種にその思いを伝えるコミュニケーション能力は、最も求められることだ。

そのためにも日ごろ、医師をはじめとした医療職種(看護師を含む)の方々が何を考え、何を課題と認識しているのかを知ることは必要だ。福祉・介護職の人々が、医療関係との合同研修に参加する意味はそうしたところにもあるのではないだろうか。

つい最近も、東京大田区でそのようなセミナーに参加することは「一人称の死を考える」で紹介したばかりである。そのセミナーでも大変貴重な学びをいただいたし、あらたなつながりを得るという貴重な機会にもなった。本当にありがたい機会だった。

同じように医療職の方々と、福祉・介護職の方々が一堂に集って語り合える機会が4/29(日)〜4/30(月:祝日)にある。メインテーマとして「いのちと生活を支える医療介護多職種チームの使命〜病院・行政・市民とともに取り組む街づくり」を掲げた、日本在宅医学会 第20回記念大会は、品川のグランドプリンスホテル新高輪・国際館パミールで行われる。

詳細は、パンフレットを参照いただきたいが、僕も微力ながらこの学会に協力している。

在宅医学会
第1日目(4/29)の午前の拡大シンポジウムのシンポジストとして、午後の基調講演の講師として参加予定である。(参照:4/29日程表)午前のシンポジウムでは、後ろ向きに30年ダブル報酬改定を眺めるのではなく、今後医療介護がどんな方向を目指していくべきなのかについて、制度が目指すべき方向、学会が取り組むべき活動などなど、広い視野で議論するような企画されている。当学会の メインシンポジウムであるため、医療や介護のあり方など大きな方向性を語る場となる。シンポジストにはできるだけ前向きの、未来に向けたメッセージとなるようなプレゼンテーションが求められおり、各演者から20分のプレゼンテーションを行った後、ディスカッションに入る予定だ。

シンポジストの提言内容は以下の予定だ。

1.菊地 雅洋 先生:(内容)「介護の領域からの発表(リビングウィル、ACP)」
2.佐藤 龍司 先生:(内容)「老人保健施設、施設看取り、在宅復帰等」
3.鷺坂 英輝 先生:(内容)「医療・介護保険制度から見た在宅ケアについて話題提起」
4.迫井 正深 先生:(内容)「今後の医療・介護の将来像=“かくありたい、という「夢」を語る”」

午後からは、僕単独で「死を語ることは愛を語ること」をテーマに第8会場で基調講演を行う。看取り介護の場で生まれる「物語」の意味を考えていただきたい。

こんなふうに日本全国から保険・医療・福祉・介護の最前線に立つ錚々たるメンバーが一堂に集まる貴重な機会である。初日の日程終了後には、名刺交換会も兼ねた懇親会も行われ、新たなつながりも作れる機会ともなっている。

ゴールデンウイークのスタートとなる時期ではあるが、国際館パミールという導線の短い会場だけで、バラエティに富んだ様々な講義やデスカッションを聴くことができるまたとない機会である。是非時間をとって、グランドプリンスホテル新高輪までお越しいただきたい。

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一人称の死を考える


死の瞬間まで人は生き続けなければならない。限りある命の最期の瞬間を、どのように生き、どのように旅立っていくのか・・・。このことを自分の問題として考えている人はどれだけいるのだろうか。

旅立つ最期の瞬間まで、その生を支えるのが看取り介護・ターミナルケアである。

そうした看取り介護・ターミナルケアの重要性は、医療・保健・福祉・介護関係者が認識するだけではなく、一般市民の方々が自らの問題として認識しなければならない。

自分の親しい身内が亡くなる時にどうしたいのかというだけではなく、自分自身がどこでどのように死の瞬間を迎えたいのかということを真剣に考えることは、人としてこの世に生まれた最終ステージをどう生きるかを考えることであり、それは自分の人生とはどのような意味があったのか、自分はなんのためにこの世に生かされていたのかを真剣に考えることとつながる問題だ。

死者数が増加し続ける我が国では、2030年には47万人の人が「看取り難民」となる危険性が叫ばれている。勿論、人はどこでも死ぬことはできる。しかしその時、どういう状態で死の瞬間を迎えたいのかを自らの問題としてそれぞれの国民が真剣に考えなければならない。

医介塾つい最近までは、そんなことを考えずとも、死の場面が近づいた人を、家族が医療機関に入院させ、そこで息を引き取ることができたのである。そうして国民の8割以上の人が医療機関で死の瞬間を迎えることができたのである。そこで本当に死の瞬間が看取られていたかどうかはともかくとしても、場所としての死に場所が医療機関のベッドであるという状態は、8割以上の国民に保障されてたのである。そうではなくなってくるのだ。

死者数が増えるだけ、医療機関のベッド数が増えるわけではない。むしろ減る中で、医療機関は急性期と回復期の患者を治療する場所にシフトしていき、慢性期の患者は地域で暮らすことを求められるのである。そこに実体としての地域包括ケアシステムというものが実際に存在するかどうかは別として、そうしたシステムが存在することを前提に、高齢者で持病を抱えている人も、それだけで入院させてくれる社会ではなくなっているのだ。ましてや死ぬためだけに入院させてくれる医療機関は丼損少なくなる。

そうであるがゆえに、死に近づいている人々が暮らす場所であれば、どこであっても死の瞬間まで、人間と手の尊厳を護り、安心と安楽が保たれながら生きる支援が求められるわけである。それが看取り介護・ターミナルケアであり、まさにそれは生きるを支える支援行為である。

明日土曜日に、東京都大田区産業プラザPIO 大ホールで、大田区第2期一般社団法人医介総会が行われる。そこにご招待を受け、医療社団法人焔 やまと診療所院長 一般社団法人医介理事 医師 安井祐 氏と、医療法人社団晃徳会横山医院 緩和ケア内科・腫瘍内科 Co-Minkan 普及実行委員会共同代表 医師 横山太郎 氏のお二人の先生とトークセッションを行う予定になっている。

同会は定期的に行われているものであるが、僕は初参加である。シンポジウム全体の主旨について次のように問題提起されている。

通常は三人称で職業としての死を扱っている業界ではありますが、「看取る」で二人称になり、
自分の死は一人称になります。 今回のシンポジウムが、皆さんが一人称の死を考えるきっかけとなり、今後大きな課題となる「看取り」の問題について、業界を問わず、興味をもつきっかけになればと思います
。 』

お近くの方は今からでも間に合うので、是非張り付いたリンク先を参照になって、会場まで足を運んでいただきたい。トークセッションは12:45〜13:45の予定であるが、その後14:25まで各塾からの発表が行われるほか、15:00〜17:00の予定で懇親会も行われるので、そこでも参加者の方々と貴重な意見交換ができると思う。なかなかない機会だと思うで、この機会をお見逃しなく。

ところで僕は、その後も予定が入っている。

懇親会が終わったらその足で御成門の株式会社メディカ出版の東京オフィスに移動予定だ。同社で発行している『医療と介護Next』の取材を受ける予定が入っている。同誌の創刊時より「地域包括ケア対談(医療の言い分、介護の言い分)」を連載している、在宅医の川越正平先生(松戸市のあおぞら診療所)のご指名ということで、同氏と対談を行い、「地域包括ケア」「医療・介護連携」を中心に、今回の診療・介護同時改定についても話が及ぶ予定だそうである。

田舎者がたまに上京すると、何かと忙しいのである。それでは皆様、明日東京でお会いしましょう。

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在宅独居者も決して独りで逝かせない、という取り組み


先週土曜日は、午後3時30分からの講演のために、新千歳空港11時発の飛行機で福岡空港に向かう予定だった。

福岡空港は、地下鉄を使って博多まで2駅でたどり着ける便利な場所にあり、新千歳空港から直行便があるために、その時間の講演ならば当日入りで十分間に合うわけだ。

ところが当日、10時に搭乗口に入ろうとしたら、係員から僕の乗る予定の便の搭乗手続きが中断されているので、出発ロビーでもうしばらく待ってほしいと止められてしまった。

この日の新千歳空港周辺はやや曇っていたが雪は降っておらず、フライトに問題はないと思えた。そもそも日本全国が穏やかな天候で、航空機の発着時間が遅れる理由がわからなかった。

ところがこの日の朝、福岡空港に着陸した某LCC(格安航空会社)便のタイヤがパンクして、滑走路で動けなくなっているとのこと。福岡空港の唯一の欠点は、滑走路が1本しかないことだ。それが使えなくなったというのである。そのため到着便が、佐賀空港や北九州空港に到着地を振り替えているという情報も入ってきた。復旧の見込みも未定ということで、どんどん時間が過ぎていく。

これでは今回の講演はできないかもしれないと思い始めていた時、当初の出発時間の30分前になって、福岡空港の滑走路が空いて点検も終えたということで、何とか20分遅れで出発できることになった。結局、福岡空港の到着時の混雑によって、当初の到着予定時間より30分遅れて到着したが、講演には全く問題なかった。

過去に天候以外では、バードストライクで出発が遅れた経験があるが、それ以来のことである。そう考えると、道外講演はできれば前日入りしたほうが良いのかもしれないと思ったりしているが、今週土曜日の東京講演も当日入りの予定だ。しかも朝5:55に高速バスに乗って、新千歳発9:00の便に乗る予定である。思わぬハプニングが起きないように祈りたい。

ところで今回の福岡講演は、株式会社ワーコンプロジェクトさんが主催する、「看取り介護」に関する研修会であった。定期的に福岡で行われている研修で、僕は昨年の10月以来、2回目のお招きを受けた。

このブログで何度も指摘しているように、「地域包括ケアシステム」によって作りたい仕組みとは何かを考えたとき、その一つとして、死ぬためだけに医療機関に入院しなくてよい仕組みが挙げられる。そのために暮らしの場で看取り介護ができる仕組みを全国津々浦々で構築しないことには、死者数が増える日本では、2030年になると47万人の「看取り介護難民」が生ずる恐れがあるため、これは緊急的な課題でもある。

そのために国は、地域包括ケアシステムにおける今後の 検討のための論点(地域包括ケア研究会)という文書の中で、次のような指摘をしている。

・毎日、誰かが訪問してきて様子は見ているが、翌日になったら一人で亡くなっていたといった最期も珍しいことではなくなるだろう。
・常に「家族に見守られながら自宅で亡くなる」わけではないことを、それぞれの住民が理解した上で在宅生活を選択する必要がある。


住み慣れた地域で暮らし続けられるという意味は、そこで最期の時間を過ごすことができるという意味ではあるが、その時に息を止める最期の瞬間まで、誰かが側にいて看取ってくれることまでは期待してはいけないと、すべての国民に覚悟を促しているわけである。

しかし今回の講演を主催している、株式会社ワーコンプロジェクトの青木代表は、このことに問題提起するかのように、在宅で一人暮らしをしている人であっても、「決して独りで逝かせない。」としている。

青木代表は看護師さんであるが、ワーコンプロジェクトのスタッフも、営業担当の方以外は、すべて医療経験者である。夜間など最期の瞬間を誰も看取ることができないケースがあることを熟知したうえで、現場を熟知したスタッフが、遠隔で生体信号を測定するシステムなどを駆使し24時間で見守るシステムとして「ウォッチコンシェルジュ」サービスを行っているのが同社である。

生体センサーにより、呼吸や脈、そのほか複数の数値データからより看護に必要な情報を解析し、コミュニケーションがとれる見守りロボットも導入して、看取り介護対象者にストレスがない方法で、常時の状態確認と様々な判断が可能になっている。これによって確実に利用者が最期の瞬間を迎える時間も予測できるために、それに合わせた訪問看護を行うことで、最期の瞬間を確実に看取ることができるという方法だ。

その詳しい内容は、リンクを張り付けた同社の公式サイトを参照いただきたい。

僕は特養という場で、看取り介護の実践を続けてきたが、そこでのコンセプトの一つに、「寂しい看取りは嫌だ〜最期の瞬間を寂しくさせない」を掲げてきた。夜間の巡回と巡回の間に、寂しく息を止める人がいる状態は、看取り介護ではなく、施設内孤独死だと主張してきた。そうした看取りのいう名の施設内孤独死を避けるために何が必要かを全国各地でお話しさせていただいている。

青木代表が僕の講演を聴いてくれて、そうした僕の考え方に共感していただいたのが、同社と僕の繋がりのきっかけとなっている。僕の目指すものと、ワーコンプロジェクトの目指すものが一致しているとも言える。そのため今後の同社の研修は、福岡で何度も行われる予定だが、僕もそのお手伝いに駆けつけることがあるだろう。

その際には、是非会場に足を運んでいただき、僕の講演だけではなく、ワーコンプロジェクトさんが行っている在宅でのターミナルケアの取り組みを聴いていただき、ここまで在宅看取りが深化しているのだということを知っていただきたい。

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利用者のリビングウイルを阻害する思い込み


先週・金曜日に、新宿で行われた東京都高齢者福祉施設協議会・生活相談員研修で講演を行ってきた。

この研修は当初200人定員で募集されていたが、受講希望者が殺到し、最終的には300人を超える方の申し込みがあったそうだ。1職種の研修で、このように多くの方が集まるというのは、さすがに大都会である。当日は相談援助業務の専門家である皆さんに、介護事業経営の視点も含めたメッセージを送ると共に、特養と通所介護を中心に介護報酬改定のポイントを整理するとともに、次期改正への布石なども解説してきた。

その中で、特養については入所者の医療ニーズへの対応強化が図られ、強化体制をとる特養の看取り介護加算の算定単位が引き上げられていることについての意味を解説するとともに、看取り介護ができない特養であってはならないし、そんな中で相談援助職に求められる重要な役割として、「リビングウイルの支援」があることを解説してきた。

その講演の後、ある施設の相談員さんから悩みを打ち明けられた。それは施設長をはじめとした施設職員が「看取り介護に取り組みたい」という思いをもって、施設所属医師に協力をお願いしても、その協力が得られずに、看取り介護を行えないというのである。具体的には、看取り介護に取り組みたいと医師に協力を求めても、点滴対応など終末期に必要な医療行為を施設で行うことは認められていないと拒まれてしまうというのである。しかし実際にはそのような禁止の法令は存在しない。

例えばリビングウイルの宣言を行っている人が、老衰で食事の経口摂取ができなくなった際に、経管栄養を行わずに枯れゆくように旅立つ際にも、安楽支援の観点から、わずかな量の点滴を行うケースは考えられる。

このようなケースで、長い間問題とされていたのは診療報酬の算定ルールであった。特養等の診療などの算定ルールを定めた厚生労働省保険局医療課長通知、「特別養護老人ホーム等における療養の給付の取扱いについて」の規定として、この通知が発出された当初から2016年3月まで、「特別老人ホーム等の職員(看護師、理学療法士等)が行った医療行為については、診療報酬を算定できない。」というルールが存在していた。このため医師が必要な指示を行って、特養の看護職員が点滴を行っても、その費用はどこからも出ない(診療報酬の算定ができないため)ことになっていたため、それは緩和治療を十分できないことにもつながるとして、そのことがネックとなって特養での看取り介護を実施することに二の足を踏む施設もあった。

しかしこの通知は2017年4月に改正され、次のようなルールに変更された。
「特別養護老人ホーム等の職員(看護師、理学療法士等)が行った医療行為については、診療報酬を算定できない。だし、特別養護老人ホーム等に入所中の患者の診療を担う保険医の指示に基づき、当該保険医の診療日以外の日に当該施設の看護師等が当該患者に対し点滴又は処置等を実施した場合に、使用した薬剤の費用については診療報酬の算定方法(平成20年厚生労働省告示第59号)別表第1第2章第2部第3節薬剤料を、使用した特定保険医療材料の費用については同第4節特定保険医療材料料を、当該患者に対し使用した分に限り算定できるまた、同様に当該看護師等が検査のための検体採取等を実施した場合には、同章第3部第1節第1款検体検査実施料を算定できる。なお、これらの場合にあっては、当該薬剤等が使用された日及び検体採取が実施された日を診療報酬明細書の摘要欄に記載すること。」

これにより配置医師のいない日も特養の看護職員によって、配置医師が指示した点滴等の医療行為を行い、医療材料費を含めた診療報酬を算定できるようになったのだから、看取り介護の実施に何の支障も生じないことになった。このような診療報酬算定ルールを確認することもなく、特養では必要な治療処置ができないという医師の思い込みによって、看取り介護の実施が阻害されることは本来あってはならない。

地域包括ケアシステムとは、住み慣れた地域の居所において暮らし続けることができるシステムを全国に創るという目的がある。それは死ぬためだけに医療機関に入院しなくてよい社会を創るという意味でもある。特養は心身の状態に応じた住み替え先の一つであり、要介護高齢者にとってはまさに「暮らしの場」であるのだから、終末期で延命治療が必要とされなくなった場合であっても、最期までそこで過ごすことができる場所でなければならない。それは社会的に求められる使命であり、特養の基本機能とさえいえる。そうであるがゆえに正しい法令理解のもとに、適切に看取り介護が行われる場所であってほしい。

そもそも看取り介護とは、医療でも看護でもなく介護である。看取り介護に付随した医療処置・看護処置も当然必要となる者の、中心的サービスはあくまで介護なのである。看取り介護を実施している特養の大部分では、看護職員の夜勤体制はなく、オンコール対応のみで看取り介護を行い、看取り介護対象者が息を引き取る瞬間にも、枕辺で家族と介護職員だけで看取るケースも多い。在宅で看取られている人も、旅立つ瞬間に傍らにいるのは、家族であって、訪問医師や訪問看護師が旅立つ瞬間にその場にいるケースは少ない。そうであるからといって何の支障もないわけである。

看取り介護対象者の、ほぼすべての方が、最後には食事も水分も摂取できなくなるが、だからといってそうした方々に必ず点滴が必要となるわけでもない。看取り介護とは、日常介護の延長線上に、たまたま終末期であることがあらかじめ診断されている人がいて、その人に対して実施されるケアであるが、その目的は最後の瞬間まで安心と安楽の暮らしを送るためのものであり、完全看護の体制が求められているわけでもなく、24時間の医療サポートが求められるわけでもないのである。このことを理解して関わるべきだ。

さてこのことに関連して、今年度の看取り介護講演としては、最終講演となるセミナーが、今週末福岡で行われる。3月24日(土)15:30〜16:20、電気ビル共創館(福岡県福岡市)で行われる「WCP(ワーコンプロジェクト)主催 セミナー」で、「生きるを支える看取り介護」というテーマで60分話をする予定だ。

同セミナーは、昨年10月に続いて2度目の登場だ。下記のポスターに掲載されているが、前半の講師・青木ワーコンプロジェクト代表は、「多様化する看取り介護の場所と方法」で紹介した、在宅看取り介護を支援する非接触バイタル生体センサー(見守りセンサー)の活用を推進されている方であり、今回のセミナーでは、その話しも聴くことができると思う。お近くの方は、是非会場までお越しいただきたい。お申し込みはFAX092-260-7619 ワーコンプロジェクトまでお願いします。

※すべての居所で看取り介護・ターミナルケアの取り組みがますます必要になります。年3月24日(土)午後14:00から、電気ビル共創館(福岡県福岡市)で看取り介護セミナー行いますので、お近くの方はぜひおいでください。
無題

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多死社会に対応するための看取り介護


厚労省のサイトに掲載されている、平成30年度介護報酬改定に関する審議報告の概要では、この報酬改定の目的の一つに、「地域包括ケアシステムの推進」が挙げられている。そのために中重度の要介護者も含め、どこに住んでいても適切な医療・介護サー ビスを切れ目なく受けることができる体制を整備する必要があるとして、「中重度の在宅要介護者や、居住系サービス利用者、特別養護老人ホーム入所者の医療ニーズへの対応 」のための改訂を行ったことが示されている。

その具体策によって終末期の医療対応も、それぞれの住民の居所で行なえることにつながり、終末期であるという理由だけで、医療機関に入院しなくてよい人たちが増えることが期待される。

具体的には、ターミナルケアの実施数が多い訪問看護事業所、看護職員を手厚く配置しているグループホーム、たんの吸引などを行う特定施設に対する評価を設けている。

ターミナル期に頻回に利用者の状態変化の把握等を行い、主治の医師等や居宅サービス事業者へ情報提供するケアマネ事業所に対する評価として、居宅介護支援費にターミナルケアマネジメント加算 が新設されたほか、末期の悪性腫瘍と診断された場合であって、日常生活上の障害が1ヶ月以内に出現すると主治の医師等が判断した場合については、居宅サービス計画書の変更の際に、サービス担当者会議の招集を不要としている。

看取り介護実績が多く、今後もその機能強化が期待される特養については、特養の配置医師が施設の求めに応じ、早朝・夜間又は深夜に施設を訪問し入所者の診療を行う際の評価を行うことで、特養内での看取りを進めるほか、そのような医療提供体制を整えた特養内で、実際に利用者を看取った場合の評価をさらに充実させた。

在宅復帰機能をより評価する方向が示された老健についても、ターミナルケア加算は引き続き算定できる費用としており、老健の在宅復帰機能とターミナルケア機能が矛盾するものではないとしている。

新設された介護医療院も医療ニーズに対応できる新施設であるとともに、ターミナルケアの機能を持った新施設であるともいえるわけである。

このように介護報酬改定では、多死社会に備えて、「看取り介護難民」が生じないように対策されているのである。

そうであるがゆえに、保健・医療・福祉・介護関係者は、医療と介護のすべての場面で、看取り介護に対応する基礎知識と援助技術を備えておかねばならない。

看取り介護・ターミナルケアは、特別な介護ではなく、日常介護の延長線上にある必然の介護として、どこに住んでいても看取り介護が受けられる地域社会でなければならないのである。

そのため来年度も、昨年度、一昨年度に引き続いて、全国7ケ所で「看取り介護セミナー」を行う予定にしている。制度の流れからみた看取り介護への流れ、報酬改定における看取り介護・ターミナルケアに対する具体的評価を含めて、関係者がそこで期待される役割を、尊厳ある高齢者の人生の最終ステージを生きるために何が必要かという観点から、「生きるを支える看取り介護」の実践論を展開する予定である。

今年8月の大阪セミナーを皮切りに、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、岡山、福岡というふうに全国7ケ所を廻る日総研出版社主催・看取り介護セミナーでは、2018年の同時改定において求められる看取り介護実践、そのために何をすべきなのか、看取り期の判断基準や本人および家族の同意、職員教育の実際等についてわかりやすく解説する予定である。是非お近くの会場にお越しいただきたい。

またこのセミナー開催に合わせて、セミナー主催者である日総研出版社から、『(仮称)生きる”を支える看取り介護』という本を出版する方向で話が進んでいる。

出版が決まったら、早速執筆作業に取り掛かる予定であるが、現在はその内容の企画案を出版担当者と打ち合わせている最中だ。本書が世に出るかどうかの結論は、4月ころまでに出される予定だ。もし出版にこぎつけた場合は、看取り介護は特別なものではなく、日々の介護の延長線上にあり、そしてそのことに携われるという事はとても素晴らしい事であるということが伝わる内容にしたいと思う。

どうぞ皆さんの応援をよろしくお願いします。


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終末期医療の指針が改定されますね。


終末期医療に関連して、治療方針の決定手順などを定めた国の指針(ガイドライン)について、厚生労働省は今月中に有識者検討会に改定案を示したうえで、3月末までに新しい指針をまとめる方針を示している。

現在の指針は、2007年に策定されたもので、その策定のきっかけになったのは、2006年に発覚した事案である。富山県の医療機関で、2000年から05年にかけ、医師2名が50代〜90代の末期患者6人の延命治療を中止するとして、人工呼吸器を外し死亡させたとされることが問題視され、それぞれ殺人容疑で富山地検に書類送検された。(※のちに富山地検は、呼吸器の装着から取り外しまでの行為を「延命措置とその中止であり、殺人の実行行為と認めるのは困難」と判断したため不起訴として事件化しなかった。)

この問題を巡っては、当初から当該医師を「赤ひげ先生」として称賛する声と、殺人事件であると批判する声の両方があったが、結果的に遺族が厳しい処罰を望んでいなかったことも影響し、不起訴処分となっている。勿論理由はそれだけではないが、今回の記事は主旨が異なるので詳しい解説は割愛する。

どちらにしてもこの事案がきっかけとなり、終末期医療について延命中止の判断等において、患者や家族の同意をどうするのかなどが問題となり、現在の指針が策定されたわけである。

しかし策定から10年が過ぎて、社会情勢が著しく変化してきた。国民の8割以上が医療機関で亡くなるといった状況に変化はないものの、徐々に在宅死の割合が増えてきており、ターミナルケアの専門医師も増えている。

さらに死者数が大幅に増加するわが国では、医療制度改革により医療機関のベッド数が減るだけではなく、医療機関の入院日数制限が厳しくなり、入院期間が短縮され、居住系施設(特養・グループホーム・特定施設等)を含めた在宅復帰が強く求められている。そのため死ぬためだけに入院することは難しくなってきており、2030年には47万人の看取り難民が生まれる危険性が指摘されているところである。

そのため暮らしの場での看取り介護・ターミナルケアの実践がさらに求められるわけであるが、現在の指針は、終末期医療を受ける場所を医療機関と想定した内容であるために、居住系施設や自宅で亡くなる人が今後も増えるであろう実態にそぐわなくなってきている。そのため在宅医療や介護施設での看取り介護もカバーしうる内容に変更しようというものである。

ここで重要となるのは、近年取り組みが進んできた「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」という考え方である。それは患者と家族・医師らが治療内容や療養場所を繰り返し話し合って決めるという取り組みであるが、看取りの場の選択という意味では、ここにソーシャルワーカーが深く介入する必要もあると考えている。

余談だが、「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」という言葉・・・もっとわかりやすい日本語に替えてくれないだろうか?患者本人や家族もわかりやすい言葉で、終末期の居所や過ごし方・医療の在り方を説明して考えることが、専門職と患者・家族の協働・連携には何より必要なことだと思え、専門用語や略語・わかりづらい外国語をできるだけ使わないという配慮も必要とされるのではないだろうか。

どちらにしても患者不在の終末期医療など、くその役にも立たないのであって、そのことを徹底的に排除し、患者本人の意思が最大限に守られる終末期医療の在り方が議論されることは良いことだ。

それにしても、「患者と家族・医師らが治療内容や療養場所を繰り返し話し合って決める。」ということは、医師の側の説明責任がより重要になるという意味である。医療の専門家ではない患者や家族に、きちんと伝わる言葉で話せるかどうかが終末期医療にかかわる医師のスキルとして問われてくる。

一方的な指示・命令を説明と勘違いするような医師であっては困るわけである。

特に終末期医療にかかわる医師の言葉は、患者や家族にとって安心や安楽に重要な役割を果たす、「言霊ことだま」であることを十分理解してほしいと思う。
2/24(土)は福岡で、2/25(日)は岡山で、介護の誇り出版記念セミナー介護施設・事業所で虐待を発生させない〜介護サービス質向上の具体策を行います。お近くの方は是非この機会にこちらをクリックしてお申し込みください。


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特養の看取り介護に新たな医療連携の提案


医療・介護の総合情報サイト、CBnewsが今朝配信したニュースの中に、【中医協】介護施設の看取りケア要件を見直しへ 〜外部の診療所や訪問看護の参入促すというものがある。

8日に行われた中央社会保険医療協議会で、特養等の看取り期介護に対し、外部の機関による訪問診療や訪問看護を導入して、施設側と協働した場合、診療所や訪問看護ステーションでも、診療報酬を算定可能にすることが提案されたものである。

医政局通知「特別養護老人ホーム等における療養の給付の取扱いについて」では、がん末期及び看取り介護加算の施設基準に適合している介護施設が看取り介護を行った場合で死亡日から遡って30日間に行われた訪問診療は診療報酬が算定可能であるし、がん末期の医療保険訪問看護も診療報酬の算定が可能である。しかし当該訪問診療や訪問看護について、介護施設側が介護報酬における『看取り介護加算』を算定している場合、診療報酬の在宅ターミナルケア加算及び看取り加算については算定できないというルールになっている。(参照:気づいてる?特養の療養給付変更。 特養入所者への訪問診療と訪問看護

中医協での提案は、この加算の算定を可能にするものであると同時に、特養等の利用者に、外部の医療機関や訪問看護ステーションから、訪問診療や訪問看護を提供できる条件について、がん末期や、看取り介護加算の施設基準に適合している介護施設が看取り介護を行った場合で死亡日から遡って30日間に行われた場合という条件を緩和し、特養等の看取り介護対象者であれば、原則すべての人に訪問診療や訪問看護の提供を可能にしようというもので、外部の医療機関や訪問看護ステーションと協力しながら、より介護施設での看取り介護の実施を促進しようとするものである。

そもそも訪問診療の「死亡日から遡って30日間に行われたものに限る。」という条件は、実質この訪問診療を不可能にさせている欠陥条文である。なぜなら死亡日は推測・想定しかできない問題で、推測が外れることもあるのだから、いざ終末期で余命いくばくもないからと訪問診療を開始したとして、小康状態が予測以上に続いて30日を超える訪問診療の提供となった場合に、死亡日から30日を超える以前の対応については報酬算定ができないということになるため、訪問診療医はその間、どこからも報酬を得ることができなくなる。そのようなリスクのある訪問診療を行ってくれる医療機関は多くはないだろう。

リンクを貼った記事でも紹介されているが、そもそも医師配置のある特養で、なぜ外部の医療機関の医師の関わりが必要なのかという疑問に対し、診療側委員からは、配置医は非常勤で、入所者の日々の健康管理や療養支援を行う立場なので、看取りへの対応を求められても、外来診療中で対応できないことも多いという説明がされたそうだが、まさにその通りで、利用者の日常の健康管理を行うための配置医師が、看取り介護の際の夜間救急対応や、終末期の緩和ケアの対応がほとんどできないために、看取り介護を行うことができないというケースは実際に存在するので、外部の医療機関や訪問看護ステーションが関わりを持つことができるという選択肢が広がることは悪いことではない。

ただし看取り介護は、チーム内の適切な情報共有と連携が不可欠で、単に外部機関の職員が特養のできない部分を補うということではなく、外部機関の職員であっても、特養内の看取り介護チームの一員として協力し合うという意識が不可欠で、訪問診療医も単に施設職員に指示命令を下すのではなく、利用者が安らかな終末期を過ごすために、特養等の職員が何を目的に何を具体的に行っているのかを理解しながら、そこに終末医療に携わる専門家として、適切な協力を行うという意識が不可欠で、その意識がないと、単に混乱させる私事にとどまり、特養の看取り介護の質は下がってしまうだろう。

どちらにしても2010年と比べ、2030年には我が国の死者数は40万以上増え、そのときに病院のベッド数は減るために、47万人の看取り難民が生まれる可能性がある。

そうならないために、医療機関だけではなく、暮らしの場所で看取り介護ができる体制を全国津々浦々まで作らなければならない。特養等の介護施設も、看取り介護を特別視することなく、日常の介護の延長線上に、ごく普通に看取り介護という時期があり、それは決して特別な介護ではなく、日常介護であると捉え、すべての特養で看取り介護を実施していく必要がある。

現在全国の特養の8割以上が看取り介護を行っているというが、それは単に『看取り介護加算』が算定できると届け出ている特養が、8割以上であるという意味で、本当にそこで誰かの終末期の暮らしを護る、安心と安全が担保された看取り介護が行われているのかは、また別の話である。

本当の意味での看取り介護の実践法を伝えるために、来年度も僕は全国各地で看取り介護セミナーを行うが、夜間の対応や、緩和ケアという部分の医療支援体制に不安をもっているために、適切な看取り介護ができないという施設にとっては、医療や看護支援の提供レベルが高まることにつながる、医療・看護・介護連携の選択肢が広がることは悪いことではない。

要はそれをどう的確に利用して、本来の目的である利用者に対するケアの質を高めていくかということが重要なのである。
2/24(土)は福岡で、2/25(日)は岡山で、介護の誇り出版記念セミナー介護施設・事業所で虐待を発生させない〜介護サービス質向上の具体策を行います。お近くの方は是非この機会にこちらをクリックしてお申し込みください。


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自然死を阻害しないために


高齢者の場合、最も安楽な死に方は老衰だと言われる。枯れ行くように自然に息を止めることを自然死というなら、老衰こそが自然死であると言えよう。

老衰という文字は、老い衰えると書くために、その字面から悲惨な死に方を想像してしまう人がいるかもしれないが、決してそのようなことはない。

加齢に伴い内臓や血管などの各器官の機能が徐々に衰えていく過程で、人は少しずつ衰弱していく。そして生命の終わりに近づくにあたって、体は食物も水分も必要としなくなる。そのため死の間際の何日間は、食事も水分摂取もできなくなるが、それは決して餓死ではない。

この時期には、脳内からエンドルフィンという麻薬物質が多量に出て、お腹もすかず、のども乾かない。

それが証拠に、死の間際まで意識がある方もいるが、その方が数日食物も水分も摂取していない状態が続いても、お腹が空いたとかのどが渇いたと訴えることはない。この時期はすでに体が死の準備をしていて、ものを食べなくとも水分を摂取しなくとも体から体液が出てくる。入れていない水分が自然と排出されるのである。体が死の準備をしているとしか思えない。

その時期、死に向かってベッドに横たわる人の表情は穏やかである。苦しみもがく姿はそこには存在しない。

しかしこの時期に、食事も水分も取っていないからと、強制的に点滴で栄養剤を送り込むと何が起きるのか・・・。穏やかな表情で死の準備をしていた人が、点滴の針が刺されることに表情をゆがめ、人によってはその針を抜き取ろうとして手を縛られたりする。しかも強制的に水分を送り込まれた体は、そんなものを入れないでくれというように、手足がパンパンに腫れてくる。そこまでして苦しめてまで、数日間、生命を維持する期間を引き延ばすことに意味があるのだろうか。

経管栄養ならもっと悲惨な状態が生ずる。せっかく自然に逝ける人に、本人の意志とは関係なく胃婁を作って、強制的に栄養を送り込むことで、生命は月単位ではなく、年単位で引き延ばすことは可能だ。場合によっては胃婁を増設しなければ亡くなっていたであろう人の死を、10年引き延ばすことも可能である。

しかし本人の意思に関係なく増設された胃婁からの栄養注入によって、10年生き続ける人の暮らしとは、終日ベッドの上で横たわり、息をするだけの存在として生き続けている。それだけならまだしも、中には痰がつまらないように気管切開されチューブが入っている人がいる。そのような人は、数時間おきに気管チューブから痰の吸引を行う必要があるが、そのたびに苦しみもがく姿がそこには見られる。まるで苦しみもがくために延命されているとしか思えない。

僕達が実践する看取り介護とは、安楽な自然死を阻害しないことから始まり、最期の瞬間まで対象者の人格が尊重され、できる限り安楽な暮らしを送る先に、最期の瞬間を迎えることを支援するものだ。それは、できることをするが、同時にしてはならないことをしないという考えによって成り立っている。

勿論、自然死を阻害しないという判断は、本人の意志と切り離して考えることはできないが、その意思を確認する努力をせずして、医療者や看護者の思い込みのみで、自然死を阻害する行為は行われていないのかを今一度考えるべきである。食べることができなくなった人の終末期に、経管栄養や点滴がどれほど求められるのかを、過去の価値観を拭い去ったうえで、改めて自身の良心に問い直すべきである。

老衰で枯れるように死に向かいつつある人に何が求められているのかを、個人の単位で徹底的に考える。それがなければアセスメントは、単なる形骸化したマニュアルにしか過ぎなくなる。そんな不確かなものに頼るのは、誰かの最終ステージに寄り添う身としては許されないことだと思う。

介護を職業としている身の者が、家族以外の誰かの人生の終わりに寄り添うことは、最も厳粛な場面であると自戒して、介護のプロとしての矜持を持ちながら関わる必要があるはずだ。

その基盤が、もっともエビデンスになりにくい人間愛であるのは皮肉だが、それなしに僕たちは何をよりどころにするというのだろう。ぬくもりのないエビデンスなど、対人援助という場面で求められるものではないと思っている。

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多様化する看取り介護の場所と方法


わが国では、現在死者の8割以上が医療機関で「死の瞬間」を迎えているが、多死社会を迎えた中で、医療機関のベッド数が減る状況を鑑みると、この割合は減らざるを得ない。

しかも2030年には約160万人の死亡者のうち、47万人ほどが、死に場所の定まらない「みとり難民」になる恐れがある。

そのため社会の様々な場所で、看取り介護・ターミナルケアを行うことができる体制を整えねばならず、そのためにも地域包括ケアシステムをしっかり地域ごとに創り、様々な場所で所属機関の異なる多職種が連携して、協働することができる体制づくりが急がれている。

つまり地域包括ケアシステムは、そのシステムを作ることが目的ではなく、そのシステムによって、入院しても、円滑に退院が可能となるようにすることで、医療が必要な高齢者や重度の要介護高齢者についても、可能な限り地域(住まい)で生活できるようにすることであり、一人暮らし高齢者や、虚弱な長寿高齢者を地域(すまい)で支えることができるようにすることであり、増加が見込まれる「認知症高齢者」が地域(住まい)で生活できるように支えることを目的としているのである。

その先に、暮らしの場で看取り介護ができるようにすることを目的ともしている。つまり死ぬためだけに医療機関に入院しなくてよい社会を作るために、地域包括ケアシステムが求められているともいえるわけである。

このように、地域包括ケアシステムと看取り介護・ターミナルケアが密接に関連しているのである。このことについては、平成25年3月に地域包括ケアシステム研究会が作成した「地域包括ケアシステムの構築における 今後の検討のための論点」の中でも、次のような内容として記されている。

・毎日、誰かが訪問してきて様子は見ているが、翌日になったら一人で亡くなっていたといった最期も珍しいことではなくなるだろう。
・常に「家族に見守られながら自宅で亡くなる」わけではないことを、それぞれの住民が理解した上で在宅生活を選択する必要がある。


つまり報告書では、国民に対して在宅でサービスを受けながら死を迎えることについて、死の瞬間に誰かが側にいて看取った状態で、その瞬間を迎えられないことの覚悟を促したうえで、それは孤独死ではなく、「在宅ひとり死」であるとして、不適切な状態ではないという理屈を創りあげているわけである。

それが正しい理屈であるのか、その方向性が良いのかどうかはわからない。少なくともそうした「在宅ひとり死」を望まない国民もいるだろうとも思う。こういう社会情勢であったとしても最後まで傍らで寄り添う看取り介護の取り組みも必要だとは思う。しかしながらすべての国民が、最後の瞬間まで誰かが側について看取ることができないのも事実であり、その際は、誰かの死に気が付かずに、死後遺体が長期間放置される状態となることだけは避けたい。隣人の存在を、死臭によってはじめて知るような社会になっては困るわけである。

そのための看取り介護の取り組みの中で、おもしろい(と言ったら語弊があるか・・・。)機器を紹介していただいた。

在宅の看取りに取り組んでおられるWCP(ワーコンプロジェクト)の青木代表から、在宅看取り介護を支援する非接触バイタル生体センサー(見守りセンサー)の存在を教えてもらった。

これは在宅療養中の利用者の生態データを、24時間リアルタイムでモニタリングできるもので、その情報をもとに離れた場所から医療チームが即座に訪問して対応できるというものだ。離れた場所にいる在宅療養者の、「現在の状況」がわかるだけではなく、蓄積されたデータから解析して、今の生態データと比べることにより、センサ―使用者の、「看取りの段階」を知ることもできるとされ、例えば逝く日や時間を予測して対応できるそうである。

既にいくつかのケースで実用されているそうで、今後、こうしたセンサーなど様々な機器を使って、日本社会の様々な場所で、様々な形の看取り介護が行われていくことになるのだろう。

介護施設でもこうしたセンサーは利用できるだろう。毎日のバイタルチェックなどの業務の省力化にも結び付くかもしれないし、看取り介護対象者の、最期の瞬間を見逃さない対策の一助にもなり得るだろう。次期介護報酬改定で取り入れられる可能性のある、介護ロボット導入加算の対象になるやもしれない。

そういう意味では、これからの介護事業者は、常に情報のアンテナを張りながら、新たな機器をサービス資源に変えていく、「学びの機会」も大事にしていかねばならないと思うのである。

ただし大事なことは、そういう便利な機器に囲まれる社会になったとしても、介護サービスに携わる我々は、そこで機器に頼り切るのではなく、使いこなしながら、看取り介護対象者に向ける愛情を忘れてはならないし、そこで持つべき使命感も失ってはならないということだ。

そんな意味を含めて、これからも全国各地で、「看取り介護講演」は続けていく予定である。

ちなみに10月14日(土)、福岡市の電気ビル共創館で、WCP(ワーコンプロジェクト)主催 セミナーが行われるが、僕も講師として15:30〜「生きるを支える看取り介護」という50分の講演を行うので、お近くの方は是非、会場までお越し願いたい。

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受講者が看護師さんのみの看取り介護講演


昭和60年代に特養でターミナルケアの取り組みを行おうとした当時、相談援助業務(当時は生活指導員)だった僕は、他の職員たちとターミナルケアの研修を受講したいと、道内のいろいろな情報を探ったが、なかなかそうした研修は見つからなかった。

そこでとある医療機関とタイアップして、看護師さんを派遣してもらって、定期的にターミナルケアの研修を受けることにした。

当時を思い返すと、そこでターミナル期の対象者の方々の変化や、予測される容態、それに対応する方法など、それなりに学びはあったのであるが、介護施設として、そこで看護職員ではない他職種の職員が、自らの役割を理解して、何をすべきかということが中々見えなかった覚えがある。

そんな中で、僕たちは自らの実践の中で真理を探し、それを言葉や文章にして伝え、介護施設での看取り介護の意味や役割を、自分たちの言葉で伝えようと考えるようになった。

その中心的役割を担った僕には、いつしか医師会や看護協会から、「介護施設におけるターミナルケア」をテーマにした講演依頼が舞い込むようになった。

看取り介護という言葉もなく、看取り介護加算という算定費用もない時代から、そんなお話をしている。その後加算が新設され、僕自身がオリジナルの「看取り介護指針」を作成したことがきっかえで、看取り介護をテーマにした講演依頼が増えて、今では全国各地で、「看取り介護」をテーマにお話しさせていただけるようになった。

そんな中、北海道看護協会が毎年実施している、「介護保険施設等における看護職のためのリーダーシップ‐日常生活支援から看取りまで」という研修の中で、「看取り期のケアの理解」という1講座を担当するようになって、かれこれ5年になる。毎年講師としてご招待を受けるということは、僕の講義がそれなりに、看護師の皆さんの学びになっていると評価を受けているという意味だと考え、大変ありがたく思っている。

今年もその講座が明後日、年9月2日(土)13:30〜16:00、北海道ナースセンターで行われる予定である。

この研修の目的は、
(1) 施設での看取りのケアについての概念が理解できる。
(2) 施設での看取りに必要な知識技術について理解できる。
(3) 介護保険施設等の看取りの実践例から本人、家族への支援について理解できる。


とされており、具体的には、

・施設における看取りのケアの考え方
・看取りのケアの実際
・利用者、家族の自己決定への支援
・施設におけるグリーフケアの実際


についてお話しする予定である。

これからの時代、日本で暮らす人々は、いろいろな場所を死に場所としていかねばならない。できれば暮らしの場所が、最期の時間を過ごす場所でありたいと思う人も増えるはずだ。

そこで看取り介護の対象となる人の状態像とは、延命治療を必要とせず、看護師が対応しなければ安楽な状態を保つことができない人とも限らない。在宅であっても、訪問診療や訪問看護で、医師や看護師が関わっていたとしても、大部分は家族などのインフォーマルな支援により、死の瞬間は家族が手を握って看取っていくことになる。

医療従事者が大部分の支援を行わねば適切ではないという偏見をなくし、死の瞬間に医師や看護師がそこにいなければ安楽と安心は得られないという偏見を超えて、新しい安心と安楽な看取り介護を作り上げていくという姿勢が、すべての保健・医療・福祉・介護関係者に求められるのではないだろうか。

自分が将来、どこでどのように死にたいかを考えながら、今より死者数が405千人増える社会の中で、すべての国民が安心して看取り介護期を過ごすことができるように知恵を絞っていかねばならない。そして・・・安心・安楽に最期の瞬間を迎えられるかということが、財産や収入の多寡で決定づけられ、格差が生じたり、自己責任という言葉で放置されてはならないことだけは強く主張しておきたい。


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看取り介護を学ぶことはケアそのものを学ぶことです


全国7ケ所の会場で行ってきた日総研出版社主催の、「看取り介護セミナー」は、8/6の岡山セミナーが今年度の最終回となった。

このセミナーは、昨年度から行っているので、これで二回り目(全14回)を終了したことになるが、すべての会場に、毎回50人前後の受講者が集まってくれており、盛況のうちに終えることができた。

勿論、人がたくさん集まるセミナーはたくさんあって、50人という数は決して多くはないだろう。しかしこのセミナーは、1回5時間の座学のみのセミナーで、参加料も一人18.000円(日総研の会員は15.500円)ということを考えると、毎回50人近く、会場によっては100人を超える受講者が集まってくるることは、介護のセミナーとしては異例のことだと評価していただいている。

セミナー受講者の方には、アンケ―トに答えていただいているが、参加動機は様々で、自ら望んで参加した方もいるし、職場の業務として参加している方もおられる。僕の別の講演を聴いて、このセミナーにも参加を希望したという人もいるし、中には、「所長から講師の先生がよいから行ってきなさいと研修費用を出して行かせて下さった。」といううれしいことを書いてくれている人もいた。

参加職種も様々で、特養や老健の施設長、看護師、介護職員、相談員、介護支援専門員のほか、医療機関の看護師さんも多数参加してくれた。グループホームや特定施設の職員さんや、居宅介護支援事業所の介護支援専門員の方も多かった。その中では、「当法人の特養の全職種が参加させていただきました。多職種が看取りに対して同じ認識を持ち、同じベクトルの方向で入居者様のケアが出来るようにしたいと思い参加しました。うちの特養がまずとり取り組まなくてはならない課題が明確になりました。」というありがたい言葉もいただいている。

どちらにしても受講後の満足度で、不満と回答した方はいなかったのが幸いである。受講料が無駄になったと感じる人もおらず、ホッとしているところである。

このセミナーは「看取り介護セミナー」と銘打っているが、ここでは看取り介護の方法論を学ぶだけでは終わっていないはずだ。看取り介護は、その対象者の命の期限がある程度予測されているという特徴はあるが、そこで行うことは日常の介護と変わりないものである。

僕達が介護サービスの場で、利用者の死に相対する場面は多々あるが、それが予測できない突然の死であったとしても、ある程度予測された看取り介護の最中の死であったとしても、そこで僕たちが利用者と相対するときに、僕たちに求められる使命や方法論に違いがあるというのだろうか?看取り介護だからといって特別なケアが必要になるだろうか?そうではなく、日常介護の延長線上に看取り介護が位置し、そのつながりにおいて、看取り介護も日常ケアであるというのが僕の考え方である。

その中で、ある程度命の期限が明らかな人に対し、その不安や不安定な身体状況に対して、どのように配慮しながら関わるかということを通じて、人の尊厳を護り、最期の瞬間まで安心と安楽のケアとは何かを具体化することによって、介護の品質向上につなげるのが看取り介護セミナーの真の目的である。

限りある命にも深く関る介護の使命から、人の存在とは何かを考えるのがこのセミナーの目的である。その結果、適切な看取り介護を行おうとすれば、それ以前に日常のケアの品質向上が必要となることに気づき、そのために何をすべきかを明らかにするのが本セミナーの真の目的である。

そのことは受講者の皆様にきっと伝わっていることと思う。そして受講された方々は、新たなステージで新たな取り組みをされていることと思う。

前述したように、このセミナーはひとまず終了したが、日総研セミナーとしては、『介護の誇り出版記念セミナー・感覚麻痺・不適切ケアの芽を摘む!〜介護保険施設・事業所で虐待を発生させない〜介護サービス質向上の具体策』が、10/22(日)の大阪会場を皮切りに、全国7ケ所(大阪・東京・名古屋・札幌・仙台・福岡・岡山)で行われる。このセミナーも、看取り介護セミナーとは異なった角度から、介護の品質向上につながる具体策を示す実践論を目指し、現在講演内容を構成中である。こちらにも是非参加していただきたい。

来年度以降、看取り介護セミナーを続けるかどうかは未定であるが、これだけ多くの方が会場に足を運んでくださっている現状を考えると、このセミナーを続ける意味もあるように思え、来年度以降の継続に努めたいと思う。日総研出版社からは、看取り介護に焦点を当てた本の出版の企画も出されるかもしれない。

また看取り介護に関する講演は、今後もたくさん予定があり、例えば10/14(土)電気ビル共創館(福岡県福岡市)で行われる、WCP(ワーコンプロジェクト)主催 セミナーでも、『生きるを支える看取り介護』というテーマで、120分講演を行う予定なので、福岡の方はそちらにもお越しいただければと思う。

僕の講演予定は、随時更新しているので、こちらで確認して、機会とご縁のある場所で皆様とつながっていきたいと思う。

それでは今後ともよろしくお願いします。


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医師による死亡診断に基準緩和の動き


医師が常駐していない特養で、看取り介護を行う場合に、死亡診断がネックになっているという施設がある。

義務配置されている医師が常駐ではないからといって、死亡確認に支障をきたすという状態はいかがなものかと思うが、実際に医師が何らかの事情で死亡確認・死亡診断に訪れることができず、長時間遺体を施設にとどめ置いたり、死亡確認のために救急車を要請し、それに死体を乗せて医療機関に搬送する不適切事例も見られる。(参照:看取り介護講演で考えたこと

そんなこともあってか、自宅や介護施設で患者が亡くなった際の死亡診断を、遠隔地にいる医師が看護師を通じてできるように、厚生労働省が月内にも規制を緩和する方針が示されている。準備期間を経て、九月以降に新制度が始まる見通しとのことだ。

具体的には、医師が遠隔地にいる場合など、日ごろから死亡対象者の訪問看護を担当する看護師等が、患者宅で心停止や呼吸停止、虐待が疑われる外傷の有無など体の状況を観察したうえで、タブレット端末のような情報通信技術機器を活用して画像やデータを医師に報告し、医師はそれを基に死亡診断を行い死亡確認後、遺族にテレビ電話などで状況を説明し、看護師に死亡診断書の代筆を指示するというものだ。

遠隔死亡診断を認める前提として、患者の死期が近いことを想定したうえで、以下の条件にするとしている。
1.終末期の対応を医師と看護師が事前に十分連携しており患者や家族の同意がある
2.医師がすぐに訪問できなことが想定できる
3.看護師が医師の判断に必要な情報を報告できる


看護師が遠隔死亡診断を担当するには、5年以上の勤務実績に加え、3年以上の訪問看護の経験などが必要とすることも検討している。早ければ九月ごろ、希望する看護師に患者の状況把握に必要な法医学分野の研修を実施し、研修後すぐに現場で活動を始めるそうである。

これは多死社会を迎える中で、医療機関のベッド数が減る現状を踏まえ、在宅での看取り介護、介護施設での看取り介護・ターミナルケアをより増やす取り組みの一環である。

しかしこれによって安易に機械的に、遠隔からの死亡診断が行われるようになり、死亡確認のためだけの施設訪問を行わないことを原則にする施設医師が多くなっても困るわけである。

医師が直接遺体を確認しないことで、不審死が深い闇に隠されてしまっては困るわけである。

例えば別事件ではあるが、千葉県の老人ホームに勤務していた准看護師が、同僚に睡眠導入剤を混ぜたお茶を飲ませ、交通事故を起こさせたとして逮捕された事件で、施設に保管されていた睡眠導入剤を含む薬は、准看護師が、ほぼ1人で管理していたことが明らかになっている。

こうしたニュース報道を目にすると、看取り介護・ターミナルケアに唯一の医療専門職として一人の看護職だけで関わって、その職員が死亡診断の実質的な判断にも関わるということに、危うさも感じるのは僕だけだろうか。それは考え過ぎなのだろうか。

どちらにしても死亡診断に対する医師の社会的責任、道義的責任を果たすという意識を重ねたうえで、多死社会における様々な死亡場所に対応した新基準という意味では、このことは求められる対応なんだろう。

現在、死者を救急車で搬送して死亡確認しているような特養は、早急に新基準に備えたシステム作りに取り掛かる必要があるだろう。

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