masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

看取り介護

看取対応の充実で求められた新要件は計画反映させる必要があります(後編)


昨日の記事から続く)
看取り介護計画書と、通常の施設サービス計画書の作成方法に違いがあるわけではない。

しかし昨日指摘したように、人生会議というプロセスの中で確認された、「利用者もしくは家族の人生最終段階における医療やケアに対する希望」については、第1表の「利用者及び家族の生活に対する意向」に正確に反映されなければならない。

本人の意思を反映させることは勿論、意思確認ができなかった場合は推定意思をチーム全体で導き出して反映させる必要がある。さらに家族は何を望んでいるのかなどを明確にすることで、看取り介護に関わるチームメンバー全員が、その意志に沿った寄り添い方を意識して関わることができるようになるだろう。だからこそ計画作成者は看取り介護対象者の、「思い」が伝わる文章を綴ることに心がけてほしい。

そうであるがゆえに、計画書に綴る文章は、文例などのデフォルトに頼るのではなく、計画作成者自身の言葉として表現してほしい。そのためには自分が考えたことを文章にできる能力を向上させる日ごろの訓練も必要だ。(参照:求められる文章力を得る手段

第1表にはそのほかに、「総合的な援助の方針」を記載する必要がある。総合的方針なのだから、チームとしてどのようなケアを行おうとするのかという道筋を明確にしておく必要があり、少なくとも次の3点を記載しておきたい。
1.医師が医学的知見から終末期と判断したという事実とその内容
2.余命診断の結果
3.看取り介護対象者の人生の最終ステージを支援するために求められること(繰り返し行ってきた人生会議で確認された内容など)


本来ここにはアセスメント情報を書く必要はない。例えば利用者が脳卒中後遺症の右片麻痺であるなどとは書く必要はないが、看取り介護計画書に限って言えばこの限りではない。看取り介護対象者がどういう状況で回復不能な終末期という診断に至ったのかをチームメンバー全員に知らしめることによって、意思統一を図ることが期待できる。今私たちが行おうとしていることとは、対象者の人生の最終ステージに寄り添うことであり、ゴールは対象者の死の場面なのだから、それまでに残される人との様々なエピソードづくりを支援しようという覚悟を生む効果も期待できる。だからこそ1と2は確実に記載しておきたい情報である。

逆に言えば、1と2が不明確である計画書になっていた時は、本当にその人が看取り介護・ターミナルケアの対象者であると、医師が医学的知見によって診断しているのかという疑いを持たざるを得ない。

本当に対象者の人生の終末期の介護計画であるのかといった、「あいまいさ」が残されていると、チーム全体の意思統一にも支障を来すので、このことは明確にさせておく必要があるという意味で、終末期判定と余命診断は、総合的援助方針の中に記載しておきたいものである。

そのことは出鱈目な終末期判定を防ぎ、看取り介護と称する偽ものを何年もだらだらと続けるという弊害も防ぐ効果も期待できる。(※過去には医師による終末期判定なしに、経管栄養となった人は、一律看取り介護であるとしているひどい施設もあった。)
看取り計画書記載例
これは、僕が総合施設長を務めていた特養で作成された実際の計画書である。文章表現にはさらなる工夫の余地はあるが、第1表として必要な内容は概ね書かれていると思う。

一番の問題は、計画は実行できてこそ意味があるということだ。美文に踊らされて内容が伴わない計画書ほど意味のないものはない。きちんと実行・実現できる内容にしていただきたいことも、併せて指摘しておく。

なお看取り介護計画書の第2表に入れておきたい内容については、次の9点を挙げておく。もちろんこれは例示に過ぎず、それ以外にも必要なことはケースごとに加わってくるだろう。
1.安心のための説明・声かけ
2.安楽のための環境どくり・対応方法(体位交換など)
3.清潔支援・口腔ケアの方法・入浴支援
4.食事支援→食べられなくなっても味わうことは可能であることにも配慮したい。
5.排泄支援→羞恥心と自尊心を失わないために求められる方法論
6.心身活性化→活動参加は看取り介護中でも不可能ではない→安楽姿勢で活動参加
7.睡眠支援
8.医師の関わり→体調変化についての随時説明等
9.家族・親族・知人・職員等との関係を途切れさせないための支援計画


億の看取り介護講演では、この第2表についても記載例を示して説明することが多い。

今月19日から来月12日までの間に、3回に分けて計360分の看取り介護講演をオンライン配信する予定になっているが(京都地域包括ケア推進機構、一般社団法人京都府老人福祉施設協議会、 一般社団法人京都市老人福祉施設協議会共催・施設看取り介護導入研修 機法△修海任2021年度介護報酬改定によって、看取りに関して新たに求められる要件等を解説するとともに、それらに対応した計画作成の方法にも触れる予定である。

本講演を受講予定の方は、そちらで大いに学んでいただきたい。オンラインなので質問もしやすいと思うので、忌憚ない意見をいただくことも期待しています。
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看取対応の充実で求められた新要件は計画反映させる必要があります(前編)


2021年度の介護報酬改定の柱の一つ、「地域包括ケアシステムの推進」の中で、「看取りへの対応の充実」として、看取り期の本人・家族との十分な話し合いや関係者との連携を一層充実させる観点が取り入れられている。

介護施設等の看取り介護加算やターミナルケア加算については、現在は死亡日から遡って30日までしか算定できないが、これを死亡前45日まで遡って算定できるように改定されている。下記は特養の新算定構造図である。
看取り介護加算の新算定構造
このように看取り介護・ターミナルケアについて今以上に報酬評価することによって、その充実を促しているわけである。

またすべてのサービス種別における、看取りに係る加算の算定要件において、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」等の内容に沿った取組を行うことが求められている。

つまり介護事業種別に関係なく、看取り介護加算やターミナルケア加算の算定事業者は、このガイドラインに沿った対応を行っていなければ、当該加算の算定要件違反となり、加算報酬を返還しなければならない事態にもなりかねないという意味である。

ガイドライン自体はA4用紙2枚ほどの内容なので、それをじっくり精読して、何が求められているのかを理解することは難しくないと思うが、国はそのイメージを下記の図で示している。
看取り介護イメージズ
ここで求められていることは、人生の最終段階における医療やケアの在り方について、どのような方法や選択肢があるかということについて、介護サービス利用者に対し多職種連携チームからきちんと説明・情報提供されたうえで、本人の意志を確認し、その意志に基づく終末期支援が行われること、もしくは本人の意思確認ができない場合に、あらゆる情報を参考にしてその意志を推定し、推定意思を尊重した終末期支援が行われることを求めているのである。

ここで重要になることは、「心身の状態に応じて意思は変化しうるため繰り返し話し合うこと」が求められていることであり、人生会議を繰り返し行いながら、リアルタイムの意思確認が求められているということである。

そしてここで必要とされる、「看取りに関する協議等」については、特養では生活相談員、老健では支援相談員の参加が義務付けられることになっている。その意味は相談員がソーシャルワーカーとして、利用者の代弁機能をきちんと果たして、利用者の表出されない意志や希望を含めた、真の思いを引き出す役割が求められているのだろうと思う。

利用者が意思表示できない場合の、「意思推定」における相談員の代弁機能もより重要となり、日ごろのかかわりの中から、どのような思いを持った利用者であるのかを、チーム全体に知らしめる役割も積極的に求められると言ってよいだろう。

例えば僕が以前総合施設長を務めていた特養では、「延命に関する宣言に関わる相談員の役割」という記事で紹介しているように、リビングウイルの宣言として、「延命に関する宣言書」という書式で、利用者もしくは家族の人生最終段階における医療やケアに対する希望の確認事項を記録として残していた。

こうした宣言書も心身の状況の変化に合わせて修正が行われて当然であり、繰り返し行われる人生会議のたびに、以前に作成した宣言書の内容がそのままで良いか、修正する意思はないかということを確認する必要があるだろうし、その役割は相談員が担うべきだろうと思う。
※ちなみに、昨今の押印廃止の流れに基づき、この書式の署名・押印も廃止するべきだろうと思う。

このようにして人生会議では、人生最終段階における医療やケアに対する希望が繰り返し確認されていかなければならないわけだから、いざ看取り介護に移行する際には、看取り介護計画書にも、最終的に確認されたその意志は反映されなければならない。

特に第1表の、「利用者及び家族の生活に対する意向」には、人生会議というプロセスの中で確認された、「利用者もしくは家族の人生最終段階における医療やケアに対する希望」が正確に記載される必要がある。

では具体的にそれはどのように記載されるべきだろうか。2021年介護報酬改定における看取りに係る加算の新算定要件に対応した看取り介護計画書・ターミナルケア計画書の1表・2表の記載例を示したいと思うが、字数が多くなったので、このことは明日の続編に書きたいと思う。(後編に続く)
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ますます重視される看取り介護・ターミナルケア


施設サービスの報酬改定の方向性をみると、特養の看取り介護加算・老健のターミナルケア加算の部分で、その取り組みをより高く評価するルール変更が行われていることがわかる。

両者ともに新たなルールとして、「人生の最終段階における医療・ケア決定プロセスにおけるガイドライン」等の内容に沿った取組を行うことが算定要件に加えられる予定となっている。

このガイドラインは、人生会議(ACP)の取り組みをシステム化するよう促す内容になっていて、終末期の医療やケアの提供方法について、あらかじめ本人による意思決定を基本としたうえで、その意志は変化しうるものであることを踏まえ、本人と医療・ケアチームとの話し合いが繰り返し行われるように促すものだ。

本人が自らの意思を、その都度示すことができるシステムを構築することがなにより重要視されているのである。

そのうえで、終末期における医療・ケアの方針の決定手続について、本人の意志が確認できる場合と、確認できない場合に分けて、複数の専門家からなる話し合いの場を別途設置し、検討・助言を行うシステムを構築するように具体策を示したものである。

今後は、特養の看取り介護と老健のターミナルケアの場面だけではなく、特定施設入居者生活介護と認知症対応型共同生活介護・小規模多機能型居宅介護の看取り介護、居宅介護支援事業所のターミナルケアマネジメント場面でも、このガイドラインに沿った取り組みが求められることになる。

そのうえで特養の算定要件には、看取りに関する協議等の参加者として、生活相談員を明示することとしている。

一方で老健ターミナルケア加算の算定要件に、支援相談員の介入を明示しない理由は、老健が医療系サービスであり、ターミナルケアの専門家である医師が常勤配置され、看護師も多数いることで、それらの職種が介入すれば問題ないからであるという意味だろう。そもそも常勤医師を差し置いて、支援相談員を参加職種と指定することにはばかりがあるのだろうと想像する。

このことは特養の看取り介護加算の要件に、「定期的な看取り介護研修」の実施が求められているのに、老健のターミナルケア加算の要件に、特段の研修要件が存在しないことと似ている。老健は中間施設ではあるが、医療系サービスとしてターミナルケアの専門機関でもあると認められているという意味である。

しかし今回の特養の看取り介護加算と、老健のターミナルケア加算における最も重要な変更点は、算定期間が延長され、看取り介護とターミナルケアの取り組みについて、今以上の報酬評価がされることになるという点だろう。(下図参照)
改定後の特養の看取り介護加算
看取り介護加算
改定後の老健のターミナルケア加算
ターミナルケア加算
このように、現在は死亡日から遡って30日間しか加算算定できないが、2021年4月以降は、死亡日以前31日以上〇日以下の単位が新設される。

これは算定日数期間を超えて看取りに係るケアを行っている実態があることを踏まえ、看取りへの対応を充実する観点から、看取り介護加算の算定日数をより早期とすることにしたものである。

この新設単位は、現在の上限の30日までの算定合計単位の中で振り分けて、死亡日等の算定単位を減らしたうえで、より長い期間の単位算定ができるようにするものではないと思う。

そのような姑息な給付抑制策をとらず、おそらく算定期間が延びる分、看取り介護加算・ターミナルケア加算の最長算定単位数は増額するものと予測できる。よって看取り介護・ターミナルケアの取り組みは、施設経営を考えるうえでより重要になってくるのである。

しかし懸念される問題もある。算定期間が延びるということは、できるだけ最長期間の加算算定を望むあまり、終末期判定が甘くなったり、あいまいになったりしないかという問題である。

現在でも年単位に及ぶ長期間の看取り介護と称する、えせ看取り介護・えせターミナルケアが行われているケースがあり、その最大の原因は、医師の終末期判定や余命診断がきちんと行われていないという問題である。それは医師としての専門性や、倫理観が疑われかねない大問題である。

そうしたことが起きないように、終末期の判定基準も厳粛にして、必ず余命診断も行い、計画書にそのことを含めて記載するようにしていただきたい。
新刊表紙カバー
なお終末期判定や余命診断の問題点や、看取り介護・ターミナルケアの具体的な方法論については、拙著「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」で詳しく解説されており、そこそこ評判も得ているので、ぜひ一度手に取ってご覧になっていただきたい。

看取り介護・ターミナルケア以外の施設サービスの改定動向については、「報酬改定で施設介護職員は業務負担増加へ」で解説した方向性が、昨日(11/26)の介護給付費分科会資料でもそのまま書かれている。

そのほか新たに目についた点としては、老健入所者が退所後に利用を希望する居宅介護支援事業者との連携を評価する新加算が創設されそうであることや、特養の日常生活継続支援加算と、特定施設の入居継続支援加算の算定要件である、「介護福祉士数が常勤換算で6:1」の要件については、テクノロジーを活用することを条件に、「7:1」に緩和する案も示されていることなどが挙げられる。

どちらにしても施設関係者の方は、張り付けた文字リンク先の資料を通読すべきである。
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看取り介護の基本的考え方をまとめたコラムについて


僕は今、介護機関誌や介護関連ネット公式サイトに、4つの連載記事を毎月書いている。

過去には最大7つの連載を持っていた時期があるが、冊子の廃刊や連載の終了などで、現在は定期的に書いているのは4本の連載記事のみである。

だからと言って毎月執筆する原稿が4本しかないわけではない。そのほかに随時原稿依頼が寄せられるので、それに応えることで月に執筆する原稿数は異なってくる。よって執筆すべき原稿数の最低が月4本という意味でしかない。

今月も連載原稿以外の執筆依頼があって、5.000字を少し超える原稿を書いて入稿した。

依頼主さんは、介護・老人ホームに関するWebメディア「老人ホームマスターガイド」を運営する、東晶貿易株式会社さんである。

依頼された内容は、「看取り介護について」ということで、僕の知識や経験をもとに自由に執筆してほしいとの依頼であった。字数も5.000字程度ということだったので、このテーマでその字数であれば、さして苦労せずに書き上げることができる。そういう意味では大変ありがたい依頼であり、喜んで執筆させていただいた。

書き上げた原稿は、昨日までに校正を終え入稿させていただいた。それが今日ネット上にアップされた。

その記事が、「【看取り介護】最期まで人間としての尊厳を保障し命のバトンを繋ごう!」である。

今まで自著本や、このブログでも看取り介護をテーマにした記事はたくさん書いてきたが、今回は今現在の状況も踏まえたうえで、看取り介護とは何かという基本的な考え方についてまとめてみた。

自画自賛するようで恐縮だが、我ながらわかりやすく、うまくまとまっているのではないかと思う。

5000字といえば、400字詰め原稿用紙で13枚弱の量ではあるが、その枚数を感じさせないくらい、読みやすい記事になっていると思うので、是非張り付けたリンク先の記事を参照していただきたい。

今日はそちらの記事をメインに読んでいただきたいので、本記事はいつもより短くなるが、本日はこれで終了とさせていただきたいと思う。
※表の掲示板で今日は通所介護の改定に関する記事を書くと書きましたが、予定変更でその記事は明日に回します。)
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訪問介護の看取り介護加算新設は当然の流れ


22日の介護給付費分科会では、訪問介護・訪問入浴・訪問看護・訪問リハビリ・居宅療養管理指導の論点が検討された。(参照:第189回社会保障審議会介護給付費分科会資料

このうち訪問介護では、「ターミナルケアや看取りに訪問介護員が関わることが不可欠となることから、適切に評価すべきではないか。」として、看取り介護加算の新設が検討課題に挙げられた。

死者数が増える中で、医療機関のベッド数が減る日本社会では、死ぬためだけに医療機関に入院しなくて済むように、居所で最期の瞬間まで、「生きる」支援が重要になる。

地域包括ケアシステムの目的の一つも、住まいがそのまま看取り介護の場となることであるのだから、在宅者の看取り介護を支えるチームの一員となる訪問介護員の役割も益々重要になるという意味では、訪問介護にも看取り介護加算を新設することは当然だろうと思え、来春の報酬改定でその実現が図られることは間違いないだろう。

このことに関連して看取り介護スキルを含めた教育面では、「本人の意思決定支援が重要であり、このような倫理面も含めた研修を各種サービスで充実していくべきではないか。」として、人生会議(ACP)に関与するスキルアップを念頭に置いた課題も示されている。

同日の会議でも、ヘルパーを対象とした適切な看取りに関する研修を充実させるとともに、それを受けやすい環境の整備を図るよう促す声が挙がっている。

そのため今後は、訪問介護員だけではなく、施設・居宅サービスにかかわるすべての関係者に、看取り介護に関する知識を得る機会が重要視されることになる。

そういう意味でも、「看取り介護研修」はとても重要となってくるが、そこで誰が教えるのかということが一番の問題となってくる。当然そこでは医師や看護師を講師に迎えようとする考え方が生まれてくるだろう。しかし僕は看取り介護研修の講師として、医師や看護師はふさわしくないと思っている。

そもそも僕自身や、僕が総合施設長を務めていた社会福祉法人でも、過去に医師や看護師を招いて、ターミナルケア・看取り介護に関する研修を行なた経験はあるが、そのどれもが役に立たなかった。そのため結果的に、僕のいた法人の看取り介護の講師役は、僕自身が務めることが多かった。(参照:看取り介護研修週間について。 ・ 看取り介護研修週間2011

医師や看護師は、ターミナルケアに関する知識と対応技術を備えた職種であることに異議はない。

だからと言ってその講師としてふさわしいかというと首をかしげる。研修講師というのは、自分が知っている知識をひけらかすだけでは意味がないからだ。受講者はどのような行為に対する知識不足の状態なのかを理解し、課題解決のためにどのような知識を求めているかという理解をもとにして、伝えるべき内容を決める必要がある。

自分だけが実践できるターミナルケア・看取り介護の方法であってはならず、チームとして機能するための情報や知識を伝えねばならないのだ。

その為には、医療職と異なり、できる行為に制限がある介護職員等が、できない行為がある中で抱える不安についてもアプローチして、行為として行えないことがあっても、看取り介護の実践の場では、そのことが支障にならないことを伝えねばならない。

医師や看護師から見て、介護職員に単に、「やってもらいたいこと」を話したって意味はないわけである。

介護施設等の居住系施設や居宅という医師や看護師が常時いるわけではない中で、どのように看取り介護が実践できているのかという実態を知悉した上での講義でなければ意味はない。医療機関でしか通用しない方法論も必要ない。

このブログで何度も指摘してきたが、看取り介護に関わる者は、終末期に起きる身体状況の変化に対応する知識などを備え置く必要はあるが、それはあくまで介護の知識であって、看取り介護の知識ではないことを知らねばならない。私たちが向かい合う人が、すべて看取り介護を受けて死を迎えるわけではなく、私たちは急死・突然死にも向かい合う必要があるからだ。

そして看取り介護とは、病状等が回復不能な状態で、かつ延命治療を行わずに概ね半年以内に死を迎えると予測される人に対して行われる介護を意味していることを理解する必要がある。そこで求められるのは、死期が迫ってくるという不安を抱える人の心の支えとなるともに、リビングウイルの視点から苦痛取り除くための医療サービスを結び付けながら、安心と安楽のうちに最期の瞬間を迎える過程を支える日常支援であり、特別な介護ではないという理解も必要だ。

終末期判定があいまいになり、余命診断もしない状態で、「看取り介護対象者」だと決めつけるのはは、「未必の故意による死への誘導」ではないだろうか?夜間の見回りと見回りの間に息が止まっているのは、「孤独死」ではないのか?看取り介護だからと言って、密室の中で日中でも部屋を真っ暗にして放置されている人もいる。それって、「見捨て死」ではないのだろうか?

そんな問題提起と、そうしたことをなくすための具体策も必要だ。

同時に死期がある程度予測されているからこそできることがある。それは旅立ちの瞬間までの間に、この世で縁を結んだ人たちとエピソードを刻みながら、別れを意識した時間を過ごすことである。そのために心を込めて、心にかけて護るという介護の本質を実現することができるのが、「看取り介護」であることを伝えるのが、看取り介護研修講師の役割である。

そんな講師役を京都地域包括ケア推進機構、一般社団法人京都府老人福祉施設協議会、 一般社団法人京都市老人福祉施設協議会共催・施設看取り介護導入研修において、2年連続で務めることになった。

昨年は2日間で6時間の講義を行ったが、今年度は来年1月と2月に、3回に分けてオンライン講演を行なう予定になっている。その内容は以下の通りである。 

看取り介護実践の基本
第1回:ヾ納茲蟆雜遒隆霑鍛亮
・看取り介護とはどのような介護か
・介護施設で看取り介護が求められる背景
・看取り介護に備えるために必要とされるリヴィングウイルの支援とは何か
・死を語る意味とは愛を語ることに他ならない

第2回:看取り介護の開始から終了までの手順
・判定〜説明同意〜計画作成〜連絡・連携〜実施〜終了〜評価までの具体的な流れ
・必要な書式
・求められるPDCAサイクル
・看取り介護加算の算定要件
・職員のメンタルケア
・遺族のグリーフケア

第3回:4納茲蟆雜遒亮尊
・介護施設で行われた看取り介護の事例
・看取り介護の今後の課題 〜Whitコロナの人生会議と看取り介護
・スピリチュアルペインの受容
・命の尊さを理解しながら看取り介護に関わる姿勢

今回も看取り介護の不可欠な基礎知識と、実践に即した方法論を、わかりやすく伝え、受講された皆さんが、看取り介護実践の場で、不安なく適切な支援ができるようになる講義に努めるので、是非楽しみにしてほしい。

今回は会場でお愛できないが、画面を通じて繋がり愛ましょう。
命の尊さ
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高齢者に必要な治療を行わないことを看取り介護とは言わない


全国の特養の8割以上が、看取り介護加算の算定届を行っている。しかし本当の意味で、「看取り介護」を行っている施設はそんなに多くない。

看取り介護加算の算定要件をクリアして、施設内で亡くなる状態を、「看取り介護」と称しているだけの施設も多い。しかしそれだけで看取り介護を行った気になられては困るのだ。

少なくとも看取り介護と称するならば、逝く人・残される人、それぞれが残り少なくなった命の期間を意識した様々な思いが交錯する、「出来事」が生まれなければならない。

褥瘡をつくらず、身体を清潔に保って、安楽に最期の時間を過ごすように支援するのは当たり前である。それは介護のプロとして終末期に関わる者が最低限保証すべき状態であって、特別なことではない。

それに加えて、この世生まれ生きてきた人が最期に刻む、「時:とき」を意識しながら、最期まで人として生きてきたエピソードを刻むための支援が求められるのだ。

漫然と死を待つだけで、看取り介護対象者が他者と十分な関わりも持たずに、寂しく哀しい状態を放置しても、加算の算定要件はクリアできるかもしれない。しかしそれは本当に看取り介護ではない。

日がな一日、カーテンが閉ざされた部屋で、介護職員がルーチンワークをこなすだけで、他の人とは一切関わりを持たずに何日も過ごした挙句、たった一人で旅立っていったとしても加算要件さえクリアすれば看取り介護を行ったということができる。しかしそこで逝った人は、人生の最終ステージに生きる意味や、この世に生きてきた喜びをかみしめることができたのだろうか・・・。

残り少なくなった人生の期間を意識しながら、「自らの人生の最終ステージ」を尊厳ある人として生きることを支えるのが看取り介護である。そこで最期のエピソードを刻むことができることに意義がある。看取り介護対象者に意識が無いとしても、残される遺族や近しい人が、その最期の時間を意識した関わりを持つことができる期間が、看取り介護の実践期間でもあるのだ。

僕が特養の施設長を務めていた際には、看取り介護対象者の部屋には1日最低1回は訪ねて、意思疎通ができない人であっても、非言語的コミュニケーションを取ることに努めていた。僕だけではなく、介護職員以外の事務職等、様々な職種の従業員が看取り介護対象者の傍らで過ごす時間を創り出して、一人で寂しく過ごす時間を少しでもなくすようにしていた。そうした数々の、「思い」が看取り介護対象者のベッドサイドに集まる取り組みを、「看取り介護」と呼ぶのである。

ところで看取り介護の対象となる人とは、「医師が一般的に認められている医学的知見に基づき回復の見込みがないと診断した者であること」とされており、医師の終末期診断が必須とされている。

治療効果がなく回復の見込みがないという確定診断を行っているからこそ、救急救命の対象ではないとして、救急搬送をする必要もなくなるわけだ。

しかしこのことを拡大解釈して、「もう年だし、十分長生きしたので、何かあっても救急車は呼ばずに、そのまま施設で対応してください。」と要求する家族がいて、それに応えるべきか迷っているという相談を受けたりする。(※参照:表の掲示板のスレッド、「施設での救急対応について」

張り付けたリンク先スレッドの僕のコメントも読んでいただきたいが、こんな要求に応えるなんてことは許されない。迷うような問題でもないのである。

我が国では、「尊厳死・安楽死」は認められていないのである。看取り介護はあくまで、「自然死」につなげるものでなければならず、時にそれは「平穏死」などと表現されることはあっても、治療できる病気を放置して、救急救命もせずに死に至らしめることは許されておらず、そんな行為は犯罪でしかない。

一般的に認められている医学的知見とは、「終末期とは、積極的な医療がないと生命の維持が不可能であり、またその医療を必要としなくなる状態には回復する見込みがない状態の時期」でしかなく、どんなに高齢であっても治療を試みてみないことには終末期とは判断できるはずがなく、その治療の試みを行って始めて医師の判断として「回復の見込みなし=終末期」とされるのである。

口からものを食べられなくなった人であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能だが、あえてそれを行わずに死に至るというのは、口から食事を摂取する状態には回復しない状態で、その人自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあると医師が診断して初めて経管栄養を行わないという結論に至るわけである。

医師の診断や介入がない状態で、家族が勝手に救命しないでというのは、「殺人教唆」でしかない。このことを看取り介護に携わる関係者すべてがしっかりと理解しなければならない。

そうであれば、看取り介護にはいかに医師の判断による、終末期診断というものが重要かということがわかろうというものだ。

そして終末期とは、「数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)のうちに死亡するだろうと予期される状態になった時期」であることも、一般的に認められている医学的知見なのであるから、看取り介護が1年にも及んでいる状態がいかに不適切であるかということもわかりそうなものだ。

このあたりの理解不足をなくしていかないと、看取り介護を実践しているという場所で、治療を放棄した緩慢な死への誘導が行われかねないのである。それは殺人と同じである。
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人生会議に介護関係者として参加するための資質


次期介護報酬改定議論の中で、地域包括ケアシステムの推進として<看取りへの対応>が取り挙げられている。

そこでは、「 人生の最後まで、どう尊厳が保持され、本人の意思がいかに尊重されるかということが非常に重要。人生の最終段階における意思決定を行う上で、4つの倫理原則に基づく意思決定支援の在り方を重視していくことが必要ではないか。現場で実行可能で、本人の意思を尊重できるよう、具体的かつ丁寧なガイドラインが必要ではないか。」という課題が挙げられている。

このような観点から平成30年度介護報酬改定においては、訪問看護や看多機等において、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」等の内容を踏まえた対応を行うこととされたところであるが、次期報酬改定でも「人生の最終段階においても、利用者の尊厳を保持し、本人の意思に沿ったケアを進める観点から、どのような方策が考えられるか。」というテーマに沿う形で、看取り介護・ターミナルケアの評価が行われることになる。

ところで本人の意思尊重過程で重要であることが示された4つの倫理原則とは何かがすぐ思い浮かんだ介護関係者はどれほどいるだろうか?

それは以下の4原則だと思う。
1.自立尊重原則(クライエントの自由に独立して考えた事を尊重しこれに従う事)
2.善行原則(クライエントに対して善行を行なう事=クライエントが考える最善の利益も考えに入れた判断を行うこと)
3.無危害原則(人に危害を及ぼすような行動をしてはならない)
4.正義原則(社会的な通念の正義を全うする事)

この原則は生命にかかわる全ての分野で基礎とすべき倫理とされているが、医療関係者には馴染み深いものの、介護関係者にはあまり浸透していない考え方だと思うので、これを機会にその原則を理解していただきたい。なぜならこの4原則は、今後の人生会議では頻繁に使われる言葉となってくるものと思え、その理解がないことが医療関係者との意思疎通の障害となる恐れがあるからだ。

どちらにしても超高齢・多死社会における看取り介護は、そこに至る過程で必要とされる人生会議(ACP)が重要であることが強く意識され、報酬改定もその考え方に沿った内容にシフトしていくと思われる。

いうまでもなく人生会議(ACP)とは、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に、現在の病気だけでなく、意思決定能力が低下する場合に備えてあらかじめ、終末期を含めた今後の医療や介護について話し合うことや、意思決定が出来なくなったときに備えて、本人に代わって意思決定をする人を決めておくプロセスを意味するものだ。

人生会議という過程を踏むことによって、対象者の人生観や価値観、希望に沿った将来の医療及びケアを具体化することを目指しているのである。

人生会議に携わる介護関係者も、その本来の目標を見失わないようにしてほしいし、同時に人生会議の中で、その目標を達成できる情報提供やアドバイスを行なえるようなスキルを身に着けてほしい。

そうしたスキルがなければ、人生会議に携わっても、ただ単にそこに居るだけで、医師や看護師から指示・命令されるだけの存在になりかねないからだ。それでは介護関係者として人生会議に携わる意味がなくなるのである。

看取り介護対象者に必要とされる治療を含めた医療については、不必要な延命治療を行わなくても良いのではないかということを含めて、医師から説明され、その際にほかに取り得る医療サービスの在り方も示されるものと思える。この部分について、介護関係者から対象者本人や家族に示すことのできる情報等はほとんどないだろう。

しかし終末期に必要な暮らしの支援について、介護関係者という立場で情報提供を行うことは非常に重要である。しかしその情報とは、何をするか・どうするかという押し付けではなく、看取り介護対象者や家族が選択しうる情報でなければならない。

自宅で看取る際に使いうる介護サービス情報のほか、どこのどんな場所で、どんなふうに看取り介護が行われ、それは残された遺族にどのような影響を与えているのかという情報も貴重な情報だ。介護関係者は、そうした地域事情に精通して人生会議に臨みたいものである。だからこそ今以上に地域の介護資源情報を集め、精通しておく必要があるのだ。

特に居宅介護支援事業所の介護支援専門員は今以上に、どこでどのような看取り介護が行われているかという情報集めに努めていただきたい。看取り介護と称した、「施設内孤独死」が存在していないのか、看取り介護中に職員のマナー意識のない言葉遣いと対応に遺族が傷ついたり、トラブルになったケースはないのかということには特に注目してほしい。

その前に介護関係者には、看取り介護とはどのような介護なのかということを含めて、基礎からその勉強をしていただきたいと思う。その際にはぜひ僕の看取り介護講演も聴いていただきたい。

そんな看取り介護講演については、僕にとって嬉しい情報がひとつ入ってきた。今年1月、京都府老施協の看取り介護講演(入門編)として2日間で6時間の講演を行なったところ、その内容が大評判となって、来年も同じ講演を行うことが決まったのである。ただし次回は2021年1月〜2月まで1回2時間の講演を計3回、オンライン講演で行う予定にしている。

今後の看取り介護講演は、「withコロナ」の視点を取り入れて、新しい情報と知識も伝える予定なので注目していただきたい。

このようにオンライン講演も随時受け付けているので、興味のある方はメール等で気軽に相談いただきたい。

さて6日(日)から、「介護施設等の人員配置基準緩和(削減)に関するアンケート」を行っている。その結果はこちらからも見ることができ、すでに多くの方々の協力を得ているが、引き続き介護実務に携わる人の生々しい声を集めたいと思っているので、投票がお済でない方は是非協力をお願いしたい。
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withコロナの人生会議(ACP)


介護施設をはじめとした居住系施設では、今現在でも利用者への面会制限が続けられていると思う。

新型コロナウイルスの新規感染者が次々と発生している現在の状況では、共同生活の場である介護施設等でいつクラスター感染が発生してもおかしくないので、そのリスクをできる限る減らすためにも、面会制限は続けざるを得ない。

このように全国のほとんどの介護施設等が、これだけ長期間面会制限を続けているという状況は、この国始まって以来のことではないかと思う。

介護施設が面会制限を行う例は過去にもあった。例えばノルウェー疥癬やインフルエンザ・ノロウイルス感染などの集団発生が見られた施設が、一定期間の面会制限を行った例は数多くある。しかしその際の制限は施設単独で、期間もせいぜい1月程度であったと思う。

しかし今回のコロナ禍での面会制限は、長いところですでに4カ月にも及び、しかも全国ほとんどの居住系施設でその状態が続いているのだから異常である。だからこそ制限が長期間に及んで生ずるストレス管理にも意を用いなければならない。

感染予防がまず大事だといっても、人の暮らしの場でもある介護施設が、利用者の暮らしの不便を完全に無視して制限を続けることに問題がないはずがない。介護施設の関係者の方々は、そのことがどれだけストレスフルな暮らしを生み出しているかということを、自分の身に置き換えて考えてほしい。自分が今いる場所から一歩も外出できず、外の誰とも直接会ってコミュニケーションを交わすことさえできない状態が、これだけ長く続くことが自分の身に降りかかったとしたらという視点で問題を捉えてほしいと思う。

だからこそ常に制限緩和に向けた動きを模索しなければならない。昨日の記事にも書いたが、介護事業経営者や管理職は、制限はどこまで許されるのかという自問自答を常に行わねばならないし、機械的に制限ルールを適用するのではなく、個々のケースで常に例外を考る必要があるのだ。

特に面会制限を行っている施設内で、看取り介護を行っている人に対するケアはどうすべきかは大きな問題である。そのなかでも看取り介護対象者の面会をどのように考えるかということは大きなテーマとなるだろう。

看取り介護とは、その対象者がまさに人生の最終ステージを生きる過程に手を差し伸べる行為だ。そこで機械的な面会制限が行われるということは、家族と直接コミュニケーションを交わすことなく旅立っていかれることになるかもしれないということだ。誰とも会えずに、「寂しい、逢いたい」と言いながら亡くなる人がいるかもしれなくなることは、「仕方のないこと・やむを得ないこと」という一言で片づけてよい問題ではないと思う。

看取り介護の方についてもリモート面会ができ、顔を確かめ会話もできるから問題ないという意見もあるだろう。しかし看取り介護対象者が最終ステージに近づく時期とは、家族との言語的コミュニケーションは極めて難しくなる時期である。そこでは意識が薄れている看取り介護対象者の手を、愛する家族が握りしめ、体をさすりながら非言語的コミュニケーションを交わすことが重要となる。そうした別れ際のエピソードを心に刻むことは、遺される家族にとって非常に意味深いことなのである。リモート面会ではそうしたことは不可能だ。

聴覚障害がない人については、最期まで耳は聴こえると言われており、非言語的コミュニケーションが中心となる時期であっても、家族が意識が薄れた看取り介護対象者に声をかけ続けることは大事である。しかし機械を通して電波によって声を送るという方法が、直接声をかけているときと同じように看取り介護対象者の耳に届き伝わるのかは大いに疑問だ。

もともと高齢者は、直接会話するときに聞き取れている言葉でも、テレビ画面から流れる音声としての言葉を聞き取れない場合が多い。リモート面会では、意識の薄れている人に声が届けられない恐れが多分にあるのだ。

だからこそ健康チェックを受けた家族が、職員と同じように感染対策上の防護対策を取ったうえで、決められた場所と時間において、少人数であっても面会できるように、例外規定を設けることは必要不可欠なのである。面会制限期間であっても、看取り介護対象者の場合の基本原則は、「節度ある方法による面会を、例外的に認める」という考え方でなければならない。

そのために施設側は、面会者に装着するマスクや簡単装着できる「フェイスシールド」くらいは常備して、面会者につかってもらうようにしておくべきだろう。


ただし前述したように、面会時間制限・人数制限・場所指定・予約制などの条件設定は必要だと思える。

このような制限が必要になることを前提すると、人生会議(ACP)のあり方にも影響が及んでくるのではないだろうか。

人生会議(ACP)は、人生の最終段階における医療とケアのあり方を、本人の意思を最大限に取り入れて決めることであり、複数の専門家で構成する話し合いの場を繰り返し設定して、心身の状態によって変化しうる、揺れ動く利用者のリアルタイムの意思を確認する過程を指す。

6/1に行われた介護給付費分科会の資料、【資料3】令和3年度介護報酬改定に向けて(地域包括ケアシステムの推進)の中でも、国民一人一人が、希望する人生の最終段階を迎えることができるようにするために人生会議の重要性は強調されているわけであるが、そうであれば仮に自分が介護施設等で看取り介護を受ける場合、感染症対策として面会制限が適用される時期に、どのような制限を受けざるを得ないかということを、あらかじめ人生会議(ACP)として説明しておく責任が介護施設関係者には生じてくるだろう。

面会制限がどのような状況で行われるのか、リモート面会は可能か否か、面会制限が行われた場合に看取り介護対象者も同じように制限を受けるのか、例外規定はあるのかないのか等々を説明すると同時に、感染予防対策下の場合、「リモート面会のみで良いか」・「特例的に直接会ってお別れしたい人がいるか否か」・「面会が許される場合も、人数制限が行われる可能性が高いが、自分が終末期になった時に逢いたい人の優先順位はあるかどうか。ある場合はどのような人から先にお別れの時間を持ちたいのか」等を確認しておく必要もあるのではないだろうか。

確認事項の中には、聞きづらい内容も含まれてくるかもしれない。特に逢いたい家族の優先順位をつけることには、家族の好き嫌いの順位付けをするようなものだとして嫌悪感を覚える人がいるかもしれない。

しかしこれらの確認は、すべて看取り介護対象者が希望する人生の最終段階を迎えることができるように、本人にとって最善の方針をとるために必要であるという視点から、心理的負担にならないように配慮しながら、確認しておきたいことである。

当然その内容によっては本人や家族が、知りたくない・考えたくない・文書にまとめたくないというものも存在する可能性がある。そうした思いを持つ方々への十分な配慮が必要になることは当然だ。だからこそ自分や愛する誰かの、「死」について語ることをタブーにせず、日常的にそのような話題を挙げて話し合う機会を持つことが出来る社会にする必要があるのだと思う。

そういう社会基盤があってこそ、自分や愛する誰かの死に関して繰り返し話し合うことができ、そこで忌憚のない意見を交わしあって、心身の状態に応じて変化しうる意思に沿った、「安らかに最期の時を過ごす」ということが実現し、安心と安楽の看取り介護につながっていくのではないだろうか。
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人生会議は通過儀礼ではなく免罪符でもない


6月1日に行われた介護給付費分科会資料を読むと、【資料3】令和3年度介護報酬改定に向けて(地域包括ケアシステムの推進)の中では、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)に関連した内容が、そこそこのボリュームで記されていることに気が付く。

ACPとは、「人生の最終段階の医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセス」であり、「人生会議」という愛称がつけられていることは、今更言うまでもない。

地域包括ケアシステムとは、重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、医療・介護・予防・住まい・生活支援が包括的に確保される体制なのだから、死ぬためだけに医療機関に入院しないことを目的の一つとしている。

よって地域包括ケアの更なる深化を目指すために、暮らしの場で最期の瞬間まで過ごせるための取り組みが必要とされる。そのため医療機関以外での看取り介護・ターミナルケアが推進され、診療報酬も介護報酬も、その取り組みに対して手厚く加算等が算定できる方向性がとられている。そして看取り介護の知識や技術の獲得のための方策もとられ、医療関係者だけではなく、介護関係者にも終末期支援のスキルが求められていく。

しかしその前提にあるものは、人生の最終段階において、本人の意思に沿った医療・ケアが行われるようにすることであり、その意志に沿った支援が、いつでもどこでも行われるために、保健・医療・福祉・介護に携わるすべての関係者にそのスキルが求められているという意味である。

「人生会議」はその前提創りに重要な役割を果たすものであるのだから、ここにもすべての関係者の参加・助言できることが望ましいのである。

そのために同資料の39頁には、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」 における意思決定支援や方針決定の流れ(イメージ図) (平成30年版)が示されている。この資料にはとても重要な示唆が含まれているので、是非熟読してほしい。

ここでは人生会議(ACP)について、「心身の状態に応じて意思は変化しうるため 繰り返し話し合うこと」と記されているが、このことは非常に重要な部分である。

人生会議(ACP)として確認しておきたいことは、終末期にどのような治療を受けたいかということのみならず、終末期と診断されたら、どこでどのように過ごしたいのかという意思を確認しておくことも必要になる。その際に口からものを食べられなくなったらどうしたいのかという確認も当然必要になるが、その意思確認を一度行なったらそれでおしまいではない。

意思確認できる間は、本人からの申し出がなくとも、心身の変化や環境の変化のたびに、その意志の変更がないかどうかを確認することを大事である。担当する相談援助職は、その役割が自分にあるということを忘れてはならない。

おかしなことに、こんな基本的な理解もない場所で、「看取り介護」と称する、偽物の介護が行われている。経管栄養を望むか・望まないかという意思を、一度確認したら、それを変更するのに大変な手続きを必要とするような、おかしなルールを勝手に作っているところがある。それはあたかも意思決定の確認の手間を省くための事業者都合でしかないかのようだ。

そもそも意思の変更は、意思表示できる人であるなら、その意志を表明するだけで完結されるべき問題で、手続きのいる問題ではない。

人生会議は、この意思確認や、意思確認できない人の意思推定を繰り返し行う過程であり、本人にとって最善の方針を、本人や家族と支援チームが常に確認し合う過程である。

そこで何かを決めたからと言って、支援機関や支援者個人の終末期支援の責任が軽減されることにはならず、自己責任という言葉を使って、本人や家族への責任転嫁のために何かを決めたり、押し付けたりすることは許されないことである。

痛みが出ても人生会議で医療機関に搬送しないと決めたから問題ないなんて言う考えではだめなのだ。終末期の痛みは最も人を苦しめるものなのであり、医療機関で終末期を過ごしたくない人でも、痛みをコントロールするために、医療機関での支援が必要な場合があることを確認して、その方針を定めておくなど、人生会議の主役となる人の人生の終わり方を、安心と安楽な方向に導くものでなければならない。

そんなふうに人生会議は、徹底的に利用者本人利益を追求する場でなければならないのだ。

終末期支援とは、誰かの人生の最終ステージの生き方の質を左右するものである。そこでは専門職としての知識と技術が求められるだけではなく、そこに生きる人に対する関係者の人間愛が求められていることを忘れてはならない。

人は科学だけで幸せになれない。目に見えるものだけで安寧は得られないのだ。介護の職業とは、科学や目に見えるものを超えて、心を寄せる職業なのである。

愛情を見える化するのが介護という仕事だ。
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いまわの際(きわ)の別れを阻害する権利は誰にもない


新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言が続く中で、介護施設の多くは、「面会制限」・「外出制限」を継続している。

その期間は1月以上になっている施設が多く、少なくとも緊急事態制限が解除されるまでは制限を続けると考えている施設管理者が多い。

入所利用者を感染から護るために、そうした措置を続けることはやむを得ないことだと思う。ただし同時に長期間の制限ストレス対策を同時に取るべきであると、このブログでは再三指摘しているところだ。

面会制限が哀しい無理心中につながったケースもあるのだから(参照:面会制限している施設から退所させた母親と無理心中というニュースに触れて)、そうした悲劇が2度と起きないように、スマホやタブレットを利用した外部の人とのコミュニケーションを取れるようにすることは当然であるし、施設内の活動性の低下に注意する必要もある。外出支援も工夫してできることはないかと考えるべきであり、北海道ならこの時期、桜を見ることができるように少人数でのドライブなどをできるように工夫すべきだ。

国の宣言に基づいて、何でも禁止にすることは素人でもできる。しかし制限の必要な暮らしの中で、できることを見つけ実現する仕事こそプロの仕事である。

そもそも介護施設の面会制限や外出制限自体を、国が命じているわけではない。それらの制限は施設経営者や管理者の判断で行っていることであり、その状態が過度になれば権利侵害の問題につながることを常に意識すべきである。

何とかできませんかという声に耳をふさぐ介護施設は、冷たいブラックボックスだ。そうならないように管理者や職員すべてが、利用者にとって今何が必要なのかを、リアルタイムで考え続ける必要がある。

何度も云う。できないことに甘えるのではなく、できる工夫を続けるのがプロの仕事なのである。

このような状況の中で、いま問題となっているのが、「いまわの際の別れ」を邪魔しても良いのかという問題である。

特養をはじめとした居住系施設では、面会制限の真っ最中にも、「看取り介護」の対象者が居られる。その方が今まさに最期の時を迎えようとしているときに、感染予防のために面会制限中であるという理由で、家族の面会を断ることに何の疑問も感じていない施設関係者は対人援助者としての適性に欠けると言ってよいだろう。そんな冷酷な人が介護に関わってよいわけがないのだ。

看取り介護の意味の一つは、残された時間・お別れの時間を意識したエピソードづくりである。その機会を奪うような面会制限があってはならない。ネット画像を通じてのコミュニケーションだけで、今わの際のお別れが十分にできるわけがないのだ。

息を止める最期の瞬間に、手を握って看取ることができる愛する家族がそこに居るにもかかわらず、面会制限中だからそれは駄目だと断る鬼にような心を持つ人は、介護の仕事を続けるべきではない。

施設の中で看取り介護を受けるケースの大半は個室対応なのだから、遺族となる方々と他の利用者が接触せずに面会することなんて簡単にできる。面会する方には、ガウンやマスク・ゴーグルなどを装着して施設内を移動していただけばよいだけの話だ。

そもそも職員は普通に外から通ってきているのに、看取り介護対象で、今まさに息を止めようとしている方の家族まで、頑なに施設の中に入らせないという考え方がどうかしている。そんな考えは浅はかすぎる。

国は面会制限を指示していないのだから、その特例も示すことはない。だからこそその特例は、施設自身が考えるしかないのだ。面会制限中も常に特例を考えて、面会できる方法を考えるのは施設の務めだ。

面会制限をこれだけ長期間続ける権利が、施設自体にあるのかという議論も存在していることも忘れてはならない。

どちらにしても人の権利を制限する側に、何の配慮も工夫もなくなれば、そこでは必ず誰かが不幸になるのだということを思い知るべきである。
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死生観の押し売りは教育になりません


死生観とは、「死あるいは生死に対する考え方。またそれに基づいた人生観。」である。

誰かの死の場面に向かい合う看護や介護の仕事において、それぞれの死生観がその仕事に影響してくることはあるのかもしれない。だから誰かの人生の最終ステージに関わる、「看取り介護」の教育として、「死生観教育」が必要だと考える人がいることは理解ができないわけではない。

しかし今現在、あなたが胸の中に抱いている人生観とはどういうものだろうか?それは誰かから教えられて、あなたが得た考え方だろうか?同じ死生観を持たねば看取り介護の実践の場で何か支障が生ずるとでもいうのだろうか?

僕はどうも違うような気がする。少なくとも僕の胸の中に、「死生観」と言えるような人生観があるとすれば、それは誰かから、「こう考えなさい」と教えられたものでもなければ、ましてや押し付けられたものではないと思う。

それは自分が今まで生きてきた中で、ごく自然に獲得した観念であり、様々なエピソードを刻んだ経験が大きく影響しているのではないかと思える。様々な死生観を持つ人たちが、様々な形で看取り介護に関わってよいのである。それは決して統一しなければならない観念ではない。

だからあくまで僕の立場は。看取り介護の教育に、「死生観」を教育することなど必要ないと思っているし、教育したって意味がないだろうと思っている。そもそも終末期支援に関わる関係者が、同じ死生観を持つ必要はないのだ。

先日もある知り合いの方からこの問題に関連して相談を受け、回答したやりとりが次のスマホ画像だ。
死生観
死生観2
こんなふうにして、僕の気持ちを受け入れていただきほっとしている。死生観を教えなければならないなんて言う呪縛から抜け出したときに、本当に看取り介護の場で伝えるべきものが見えてくるはずだ。

それは旅立つ人がこの世の中で生きた証を感じることができるように、様々な思い出を紡ぐ人生の最終ステージを支援するという意味だ。命の期限がある程度見えている中で、この世でご縁のあった方々と、限りある時間を意識する中で、最期のエピソードを刻むのが看取り介護・ターミナルケアである。

そこには様々な人が関係してくるのだから、様々な考え方があってよい。人それぞれの思いが交錯しながら、生きるとは何か、死とは何か、人は何故この世に生かされているのかを思い、感じられるのだと思う。それが人間社会だ。

人にはそれぞれの様々な死生観があり、看取り介護の現場に関わる職員は、それらの様々な死生観や価値観に受容的に寄り添うだけで良い。こうした死生観を持ちなさいと言う教育などいらないのだ。そのことは今から12年も前に書いた、「死生観の教育って何をするの?」という記事でも書いている。あらためてリンクを貼った記事を読んでほしい。

僕たちが向かい合うのは人間そのものである。その人たちの暮らしの中に深く介入するのが対人援助だ。そこに居る人々とは、個性の異なる様々な人生を送ってきた人たちであり、みんなが同じ価値観を持っているなんて云うことはあり得ない。そしてそれぞれの固有の価値観は、善悪とか良否判断ができる問題ではなく、人それぞれの個性であり、人生観であると受け入れるしかないのだ。

そうした人生観にかかわる問題を教育しようとするのは不遜だ。

一番大事なことは、看取り介護とは、対象者を最後の瞬間まで安心と安楽の状態で支援する行為であるということを忘れないことだ。そのための基礎知識と援助技術を持つことであり、「生きる」を支える姿勢を失わないことである。
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偽物の看取り介護の怖さ


僕が管理する表の掲示板に次のような質問が寄せられた。
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看護師より「特養で看取りになったときに、もともとの疾患から激しい痛みが発症したときに、苦しんでいるのを放置はすることはできないため、救急搬送が必要であるから、家族にこのことを承諾を取れないと施設で看取ることはできない」と言います。このような時に、どのような判断と対応をされているのでしょうか。アドバイスをよろしくお願いいたします。
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個人的感想を述べるとすれば、「すごく恐ろしいこと」だというしかない。こんなレベルの議論が交わされている場所で、「看取り介護」という誰かの人生の最終ステージに関わる介護が行われているのは実に怖いことだ。

同時に看取り介護が、このように知識がない状態で漫然と行われているのは、命に対する冒とくでしかないと感じた。こんな状態を、「看取り介護」と呼ぶことはできないし、そもそもそういう状態が存在すること自体が、あってはならないのである。

僕がこの質問に、「空恐ろしさ」を感ずる理由は二つある。

一つは質問者のあまりに低レベルな看取り介護の知識に対する怖さだ。こんな理解レベルで、本当に誰かの人生の最終ステージを、その人らしく過ごせるように援助ができているのだろうかという恐ろしさ・・・。

看取り介護とは、「医師が一般的に認められている医学的知見に基づき回復の見込みがないと診断した者」に対する介護であり、概ね余命半年以内と判定された方に対して行う介護を言う。

つまり命の期限がある程度予測されている人が、人生の最終ステージを生きるために必要とされる支援ともいえるわけである。その限られた期間において、様々なエピソードを刻むことによって、この世で縁を紡いだ方々と、命のバトンリレーを行うことができる時期でもある。

そこで最も考えなければならないことは、人は最期の瞬間まで人は生きるのであり、看取り介護は決して死の支援ではないということだ。だからこそ命が燃え尽きる瞬間まで、看取り介護対象者の人としての尊厳が護られる必要がある。

そこで最も求められることは、看取り介護に関わる人々が、対象となる方の最期の瞬間まで安心と安楽を提供することである。

そしてそのために最も重要なことは、「苦痛がない終末期の過ごし方」であり、「痛みの管理」は特に重要である。

例えば、「末期がん」の場合、高齢者であっても痛みの管理(ペインコントロール)が必要な人がいる。その時ペインコントロールができない場所で、それらの方を看取ってはならないのだ。なぜならがんの痛みは、ほぼ完全にコントロールできるのが今の医学レベルだからである。それができない場所で、無理に看取り介護を行うという意味は、看取り介護対象者を痛みで苦しめて、痛みにのたうち回らせながら死なせるという意味にしかならない。それは看取り介護とは程遠い場所に存在するものである。

病状に伴い痛みが出現することが明らかな場合、その痛みをコントロールできないのであれば、その場所で看取り介護はできないのである。してはならないのである。

痛みのある末期がんの人のペインコントロールが不可能な場合には、痛みのコントロールが可能なホスピス・緩和ケア病棟などの医療機関などを紹介して、そこへの転院支援をすることが一番求められることなのである。

相談援助の専門家はそのために存在しているのだ。そうした判断も対応もできない相談援助職は、存在意義がない人間ということになる。

加えてこの質問者の所属する施設のもう一つの恐ろしさとは、看護師のあまりに利用者を無視した傲慢な考え方である。

その施設の看護師は、『救急搬送が必要であるから、家族にこのことを承諾を取れないと施設で看取ることはできない。』と主張していることが書いてある。

これな考え方をする看護師が存在すること自体が恐ろしいことだ。救急搬送で対応しても、痛みに苦しむ状態がそこに存在することに変わりはないわけで、それは看取り介護対象者を苦しませることを前提にした考え方である。そのような予測の元に、そこで看取り介護を行ってはならないのである。

それにしてもこの看護師は、家族の同意が得られれば何でもありだと思っているのだろうか。家族が同意すればコントロール可能な痛みをコントロールせずに、対象者を苦しませる時期があっても良いという意味なのだろうか。痛みに苦しむ人がそこにいたとしても、救急車で病院に送りつけさえすれば済む問題だと考えることの恐ろしさになぜ気が付かないのだろうか。そんな看護師は看護免許を返上してほしいとさえ思う。

仮に家族が、「痛みがでたら救急搬送してくださればよいので、ここで看取ってください。」と希望したとしても、「痛みが出て救急搬送する間に、○○さんは痛みにもがき苦しむことになります。それは今の○○さんが、一番望まない状態と思えますので、痛みが出ないようにコントロールできる場所を紹介しますから、そこで最期の時間を過ごしていただきませんか」とたしなめるのが、看護や介護のプロの役割りだ。(参照:安楽でない看取り介護は許されない

それをしようとしない人間が、看護職に就いていることに恥を知れと言いたくなる。

そもそも終末期の人を痛みで苦しませる同意権なんて家族にもないという当たり前のことになぜ気が付かないのだろう。

そういう理解もない特養が、今現在、看取り介護をしているということは、非常に恐ろしいことだ。それは本当の意味で、「看取り介護」になっているのだろうかと疑問を持たざるを得ない。

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超高齢社会での看取り介護の考え方


ターミナルケアを終末期介護と訳さず、「看取り介護」と訳した経緯については、「私たちが思いを込めた言葉を安易に略したり変えたりしないでください」と言う記事の中で詳しく解説している。

そこでも書いているが、「看取り介護」とは、対象者が人生最期の時間を過ごすにあたって、安心と安楽に過ごす中で、少しでもこの世でつながりのある人たちとエピソードを刻みながら、この世に生まれ生きてきてよかったと思えるように支援する行為を意味するものである。

そのために心を込めて、心にかけて護るという介護の本質を実現することができるのが、「看取り介護」である。

さらに言えば、超高齢社会の看取り介護とは、終末期判定がされた後の介護のことを考えるだけではなく、そこにつながる日常の、「生き方」を考える必要もあると思う。高齢期に地域の中で孤立せず、誰かと繋がって暮らし続けることが、「孤独死・孤立死」を防ぐ唯一の方法である。

隣人の存在を死臭によってはじめて知るような、背筋が寒くなる地域社会としないように、高齢者が地域で孤立することを防ぐ社会にしていくための一連の活動も、看取り介護につながっていくのである。

特に男性高齢者は、仕事をリタイヤした後に他者とのつながりを失い地域社会で孤立してしまう人が多い。女性の方が長寿で一人暮らしの人が多いのに、孤独死している人の7割が男性であるという現実は、高齢期に地域社会から孤立している男性が多いという意味である。

その人たちがどのように地域社会で居場所を確保し、つながりを保っていくのかということが、地域包括ケアシステムを深化させていく過程で考えられなければならないし、看取り介護・ターミナルケアに携わる関係者は、そうした視点からも他職種連携の在り方、地域包括ケアシステムにおける自らの役割を考えていく必要がある。

それらの課題が解説できた先に、人生の最終ステージをすべての人が安らかに、安心して安楽に過ごすことのできる看取り介護支援があるのだということを忘れてはならない。

看取り介護の場は確実に多様化し、新しい方法論も生まれている。「ウォッチコンシェルジュを知っていますか」という記事の中で紹介した博多の、「株式会社ワーコン」は、在宅一人暮らしの方の看取り介護を支援し、「お客様の人生の最後の伴走者でありたい」・「決して、独りで逝かせない」をモットーに様々な人をサポートしている。

我が国では昭和51年以前は医療機関死より在宅死が多かったのである。国民の7割以上が医療機関で死を迎えている今の日本の地域社会は、昭和51年以前に自宅で親の枕辺に集まって子が看取っていた時に、死に行く親から渡されていた命のバトンをなくしてしまっているのかもしれない。そのバトンを取り戻す取り組みが、在宅でサ高住で特養でGHで行われるようになっているのである。

しかし看取り介護・ターミナルケアの場や方法論が多様化しているというもう一つの意味は、看取り介護と称したニセモノの終末期対応も存在しているという意味でもある。

終末期診断があいまいで余命診断もしない状態で、「看取り介護対象者」だと決めつけているところがある。それって、「未必の故意による死への誘導」ではないだろうか?夜間の見回りと見回りの間に息が止まっている人もいる。それって、「孤独死」ではないのか?看取り介護だからと言って、密室の中で日中でも部屋を真っ暗にして放置されている人もいる。それって、「見捨て死」ではないのだろうか?

看取り介護とは、そんなあいまいで、寂しくて暗いものではない。もっと温かくて感動的な時間が看取り介護だ。だからと言って看取り介護は決して特別な医療や特別な看護や特別な介護が必要なわけではないのだ。それは命のバトンリレーを支援することであり、日常ケアの延長線上に、誰かの命が燃え尽きることが予測できる時期に、燃え尽きる瞬間まで、人が人と繋がり生まれるエピソードの中で、命のバトンをつないでいくお手伝いをすることなのである。

そんな看取り介護の実際のケースを紹介するのが、僕の看取り介護講演である。そんな講演を聴いた方の声を是非参照していただきたい。

本年1/9に大村市市民交流プラザ(長崎県大村市)で行われた、「長崎県県央保健所主催・大村市、大村市医師会共催 、看取り介護講演会アンケート集計結果」が、講演事務局から送られてきた。

僕の講演を聴いた方が、受講前に看取り介護に対して持っていたイメージと、受講後に理解した内容があまりに違うので驚いている。しかしその驚きとは、自分にもそこに関わって命のバトンリレーに関わることができるのだという驚きであり、介護という行為の中で実現できることがたくさんあって、そのことを理解できることによって、あらたな意欲と力につながるものでもある。介護の可能性を改めて感じ取ることができ、介護に本気で向き合う活力につながるという意見もある。

文字リンクをクリックして、是非受講された皆さんの声を参照いただきたい。きっとその声は、このブログ読者の心にも響くと思うのである。

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終活に必要な知識


長崎では今、インフルエンザが流行している。

昨日大村市で行った講演会も満員予定であったが、インフルエンザで急遽参加できなくなったという受講者が複数おられ、ところどころ席が空いていた。

体調を崩された方の一日も早い回復を祈るとともに、全国の皆様も体調管理に十分注意して、感染予防と感染拡大防止に努めていただきたい。

僕は今朝10時に諫早市のホテルを経って、さきほど南島原市に到着した。今日は午後2時から、「南島原市主催・住民向け講演会」の中で、「いつまでも安心して住み慣れたまちで暮らしていくために〜終活の視点から看取り介護まで」というテーマで話をする予定だ。そこでは、「終活(しゅうかつ)」という大きなキーワードがある。

終活」という言葉は、2010年の新語・流行語大賞にノミネートされた比較的新しい言葉である。その言葉はもともと、『週刊朝日』とう冊子から生み出された言葉とされており、同誌元副編集長の佐々木広人氏が生みの親とされている。だから終活という言葉について、明確に概念統一されているわけではない。

一般的な理解としては、終活とは人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括したものであり、自分がまだ元気で意思を伝えられる時期に、自分自身のための葬儀や墓などの準備や、財産処分の方法などを決めておくこととされている。

例えば終末期に意思を伝えられなくなったときに備え、リビングウイルの観点から、どのような医療を受けたいのか、口から物を食べられなくなったときにどうするのかなどの、具体的な希望を第3者に伝えて記録しておくことが、「終活」ということになる。

つまり終活とは、死と向き合い最後まで自分らしい人生を送るための準備のことといえるわけであり、「これまでの人生を振り返る」・「残される家族のことを考える」・「友人、知人、今までお世話になった人たちへの思いをつづる」・「やり残したことや叶わなかった夢などを書き出す」などを行うことで、これから先にできること・できないことの整理をする活動ともいえる。

それを行うことで、自分が人生の最期をどこでどのように過ごしたいのかを、一番信頼できる人に伝え託すこと可能となる。さすれば終活とは、自分らしい最期を生きるための準備であるといえるわけである。

繰り返しになるが、終活は元気だからこそ、自分の意思をしっかり表明できるうちだからこそできる活動である。だからこそ自分の「死」を見つめること、語ることを縁起が悪いと言わず、タブー視せず、間に合わなくなるまえに、死ぬ時にどうするか、死んだ後にどうしてほしいかを真剣に考えてほしい。

終活の具体例としては、.┘鵐妊ングノートを書く、遺言状を書く、お墓を決める、じ亀い覆Δ舛ら遺品整理をするなどが考えられる。

そのためには正しい情報が必要になる。特にリビングウイルに関して言えば、延命治療と自然死をどう考えるのかが重要となり、終末期の点滴や、食物の経口摂取が出来なくなった後の経管栄養のメリットやデメリットなどの情報が不可欠だ。

延命のために経管栄養にするかしないかは、治療にあたる医師が、本人の意思を無視して決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではない

だからこそ一人一人の地域住民が、自分の意思として延命治療を受けるかどうかを判断するために必要な情報を得て、そのことを理解しなければならない。さらに自然死を選択した際に、どこでどのように人生の最期を過ごすことが出来るのかという情報も必要だ。

「看取り介護を行えます」・「たくさんの人を看取った実績があります」とアナウンスされている場所で、本当の意味で看取り介護・ターミナルケアが行われているかどうかは、その実態を見なければわからない。少なくとも「看取り介護加算を算定している」=「適切な看取り介護が行われている」ということにはならあにということにも注意が必要だ。

ありえコレジヨホール (長崎県南島原市)では、地域の皆様に向かって、そのような情報をわかりやすく伝える予定だ。

透き通った南島原の青い空が僕を迎えてくれている。

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看取り介護に対する悩みと疑問


日曜の午後に松山から伊丹空港を経由して京都に来ている。

昨日と今日、京都府医師会館で看取り介護セミナーの講師を務めるためだ。このセミナーは、2日間で合計10時間のセミナーで、そのうち僕の講演が6時間半。あとはグループワークと質疑応答の時間である。

セミナー初日となった昨日は、看取り介護とは何かということについて、それが日常ケアの延長線上に過ぎないことを説明しながら、看取り介護とは介護支援者すべてが携わるべきステージで、そのために必要な知識や援助技術を獲得しておくことは、介護を職業とする者の義務であり、使命であるということを伝えた。

さらに看取り介護の前に求められるリビングウイルの支援としての、「人生会議」の必要性などについて2時間の講演を行った後に、今日に向けて何を知りたいのか、看取り介護に関連した不安や疑問などについて、GWで話し合ってもらった。

今回の研修は、「看取り介護の導入研修」ということで、看取り介護の実践経験がないか、経験が浅い人を対象にしているので、様々な不安や疑問が示されている。

終末期を生きる人に苦痛がないように支援することが大事だといっても、そもそも、「苦しい、苦しい」と言って亡くなる人を見たことがないという疑問も示されていたが、人が死を迎える瞬間は、苦痛を緩和してくれる麻薬物質が脳から抽出されて、最期の最期は、苦しまずに逝くとしても、そこに至る過程で、苦しい辛いと言いながら、意識を失っていく人は多い。

看取り介護とは、最期に呼吸を止める瞬間までのケアであるが、その瞬間だけのケアではない。そこに至る過程での苦痛緩和は重要であることを理解しなければならない。

自分が夜勤中に、看取り介護対象者がなくなる際に、どのタイミングで家族に連絡したらよいかわからないという疑問も示されている。

しかし看取り介護とは、急死の場合とは異なる死の迎え方である。あらかじめ医師による終末期判定がなされて、看取り介護計画書にも同意を得ているのだから、家族が傍らにいない状況で、対象者が死を迎えるケースでは、まずは死を迎える人が寂しくないように寄り添うことが大事である。きちんと死の瞬間を看取ることが出来たら、その状況を家族に伝えればよいだけの話で、家族に連絡するのは、死の瞬間を看取ったあとで問題ないと思える。

仮に死の瞬間を家族が看取りたいと思うケースは、家族がそこに泊まり込んでついているだろうから、その場合は、連絡をいつ行うかなんてことを気にする必要すらなくなる。

何らかの事情で家族が、看取り介護対象者の死の瞬間に、そこにいないケースは、家族のケアより、看取り介護対象者のケアを優先するのは、至極当たり前のことである。


そんなふうなことを含めて、先ほどまで午前中2時間半という時間を使って、様々な疑問に応える内容で講義を行っていた。これから昼休みをはさんで2時間の講義を行った後、2日間の講義とGWを経ての学びの確認と、残された疑問点を整理するGWを1時間ほど行った後、質疑応答でセミナーを締める予定である。

午後からのいくつかの疑問に応えながら講義を行う。

看取り介護は、安静と臥床を求められるけど、離床させたいと思うのは間違っているのかという疑問も示されている。安静と称して、「寂しい看取り介護」が、何と多く行われていることか。「寂し看取りは嫌だ」ということを講義の中で伝えて、看取り介護の最中も、活動参加はできることを、事例を通してお伝えしたい。

ということで、この記事も昼休みの時間を使って、ご飯を食べながら慌ただしく更新しているとことだ。今日はこのセミナーを終えた後、京都にもう一泊して、明日10日ぶりに北海道に帰る予定になっている。

残されたわずかの時間であるが、京都の皆さんに、命に寄り添い・生きるを支える看取り介護の実践論を伝えたいと思う。

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介護の本質が問われる看取り介護


僕が総合施設長を務めていた特養では、毎年20人〜40人ほどの人が死亡退所していた。

このうち急死する人や、特養に籍を置いたまま医療機関で治療の甲斐なく亡くなる人以外は、施設で看取り介護を行いながら死の瞬間を迎えることになる。そんなふうにして毎年死亡退所者の9割近い方々が、「看取り介護」の対象になっていた。

だからと言って終末期になった人について、機械的に看取り介護を受けるように施設側が誘導していたわけではない。

その特養では看取り介護を密室化せず、看取り介護に協力してくれる利用者や家族については、看取り介護対象者もしくはその家族の承諾の上で、できるだけ情報を公開し、最後の瞬間までみんなで温かく看取ることができる方法をとっていたため、自分や自分の家族が終末期になっても、住み慣れた施設の中で安心して介護を受けながら、最後の時間を過ごせると考えてくれる人が多くなった結果でしかない。

医師から終末期であることを説明する、「ムンテラ」の際には、ケアマネジャーも同席して、施設で看取り介護を受けるとしたら、どのような課題が想定され、そのことに対してどのような目標を立て、それに対応する具体的なケアサービスはどうなるかを説明し、医療機関に入院するという選択肢もあることを説明したうえで、どうしたいのかという最終確認をしていた。

よって看取り介護計画書は、当該施設で看取り介護を受けることを決定する以前のムンテラの時点で作成を終えて、ムンテラの際に説明・同意ができるようにしていた。それがないと施設で具体的に何をしてくれるかという説明根拠が十分ではなく、説明を受けた人が、どこで自分や自分の家族が終末期を過ごすのかを決定するに際しての根拠も不十分となると考えていたからだ。さらにムンテラの際に看取り介護計画がない場合、看取り介護を受けることを決めた後に、説明内容と実際の支援方法が異なるという訴えにつながりかねないというリスクもある。

そうした不安やリスクをできるだけ排除して、利用者やその家族が終末期の過ごし方を選択できるようにすることも、看取り介護を実施する側の責任であると考える。

そんな過程を経て、長年暮らしていた特養で、残された最期の時間を過ごすと決めた人たちに対して我々ができることは、残されている限られた時間の中で、逝く人と見送る日との間で、できるだけ多くのエピソードを刻み、残される人の心にたくさんの思い出を刻むことだ。それが命のバトンリレーであり、終末期判定と余命診断を医師が責任を持って行うことは、その時間を創り出すという意味があり、それは看取り介護の絶対条件でもある。

看取り介護には、家族や職員だけではなく、実習生も関わることになる。

実習生の中には、将来介護の仕事を職業とすることに迷っている人もいたり、介護を職業とするにしても、どのサービス種別に関わっていきたいかを決めていない学生も多い。そんな学生たちが看取り介護を通じて、看取り介護対象者と家族や職員が、毎日のようにいろいろなエピソードを刻み、そのことを忘れないように思い出に変えている様子を見て、自分もこの施設で働いてみたいと思うようになる。

そんな学生たちの姿を見ると、看取り介護とは、介護という職業の使命や誇りを意識できるステージであることがよく理解できる。

看取り介護は日常の介護の延長にあるもので、それは決して特別な介護ではないけれど、遺された命の時間を意識して関わる介護では、ごく自然に命の尊さと儚さを意識することにつながり、対人援助に何が必要なのか、他人が職業として誰かのプライバシー空間に入っていく際にどんな配慮が必要なのかということを強く意識するようになる。

看取り介護に携わる人は、そのような過程を経て、人間的に成長していくと同時に、確実で安定した介護の知識と技術を獲得していくことになる。看取り介護という命を意識した介護であるからこそ、介護の基本・土台ができていくのである。

そういう意味では、全国で僕が行う看取り介護講演も、看取り介護の方法論を学ぶためだけの研修の場ではないということを理解していただきたい。看取り介護を学ぶ中で、介護従事者としての基本姿勢と技術を獲得するものであることを知ってほしい。看取り介護を学ぶことで、自分が介護の職業を続けていく動機づけにつながる、「土台」が見つけられる内容になっていると思うので、是非機会があれば、看取り介護を行っている・行っていないに関わらず、僕の話を聴いてほしい。

ちょうど1週間後の来週月〜火の二日間、京都府医師会館で京都府老人福祉施設協議会主催・看取り介護セミナー導入編を行う予定になっている。このセミナーは二日間でたっぷり6時間以上の講義と、2時間以上のグループワークを行って、介護の土台を作り上げる内容となっているので、会員施設の方でまだ申し込みしていない方は、ぜひこの機会に参加を検討していただきたい。

とはいっても残りの席はそう多くはないとのことであるが、今ならまだ数席の確保は可能とのことである。お問い合わせは、京都府老人福祉施設協議会・事務局まで電話などで連絡いただきたい。

※もう一つのブログ「masaの血と骨と肉」、毎朝就業前に更新しています。お暇なときに覗きに来て下さい。※グルメブログランキングの文字を「プチ」っと押していただければありがたいです。ンに共感できない職員は、組織の秩序は壊す要素にしかならないのだから、寄ってこなくてよいと割り切って考えるべきである。


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看取り介護を終末期の支援だけに限定して考えてはならない


看取り介護に関するセミナーで、看取り介護・ターミナルケアに関する加算を算定するための要件を説明することが主たる内容であったり、単に終末期支援の方法論をレクチャーして終わっている場合がある。

しかし本当にそれでよいのだろうか。勿論、終末期に起こり得る身体状況や、精神状況の変化について知り、それに対応する方法を学ぶことは大事である。だからと言って、終末期に至るまでの日常支援を無視して、終末期支援の方法論を語っても意味がないと思う。

看取り介護は特別なケアではなく、たまたま命の期限が明らかになっている人に対して行われるケアであるに過ぎず、日常の支援と分断した場所や方法としてで行われるものではなく、過去の暮らしと繋がっているものである。日常ケアが貧困な場所で、看取り介護だけQOLが高まるわけがないし、そんな奇跡があっても意味がないのである。

さらに言えば、看取り介護の方法論を考えるにあたっては、終末期にどのような支援が必要かを考えるだけでは不十分であり、自分が終末期になった場合に、どこでどのように過ごしたいのかということを、愛する誰かに対して表明しておくことが大事であることを理解しなければならない。それを確認したうえで、その希望に沿った支援を行うことが最重要課題となる。

だからこそ看取り介護に先立って、「リビングウイル」の宣言を支援することが、関係者に求められてくることを、しっかりと伝えずして、終末期の介護の在り方だけを語っても国民ニーズに沿った支援には結びつかない。

特定の疾患により終末期と宣言される状態とは異なる、老衰などの自然死を迎える人については、支援対象者がお元気な時期から関わっている介護関係者が、人生会議(アドバンス・ケア・プランニング:ACP)の視点から、リビングウイルの支援に関わっていくことが求められるのだ。

そう考えると看取り介護とは、かつて介護支援の在り方が、ADL支援からそれにとどまらないQOL支援への転換がはかられてきたように、QOLからQOD(Quality of death)まで視野に入れた支援への転換ともいえるのだ。

QODとは、単にターミナルケアの方法論を問うものではなく、そこで暮らし、やがてそこで最期のときを迎えるまで、いかにその人が生命を持つ個人として尊重され、豊かな暮らしを送ることが出来、やがて安らかに死の瞬間を迎えることが出来るかという意味であり、我々がそこで豊かな暮らしを送ることが出来る支援のあり方と、最後の瞬間を看取り・送り出すまで、すべての過程を質の高いサービスとして構築することを意味する概念である。

そなわち看取り介護は、日常支援と繋がっているという意味であり、ごく普通の介護ということを意味することを、関係者はしっかりと自覚すべきだ。そのことを伝えない、「看取り介護セミナー」であっては困るわけだ。そんな意味のないセミナーを受講しても、本当の看取り介護なんてできるはずがない。

12月には愛媛県久万高原町と京都市と東京都世田谷区で、「看取り介護講演」を行う。3会場とも日常のケアと繋がっている看取り介護を語ってくる予定だ。

このうち京都市の看取り介護セミナーは、12/16(月)と12/17(火)二日間にわたるセミナーで、合計10時間の研修講師を、僕が一人で務めることになっている。主催者の希望でグループワークの時間もとっているので、僕の講演時間は2日間で合計6時間40分の予定である。これだけ時間があると、看取り介護について、様々な角度から、様々なケースを取り上げて語ることができる。

ちなみに現在スライド作成中だが、主な内容は以下の通りとしている。

全体テーマ「看取り介護実践の基本
1 看取り介護の基礎知識
・看取り介護とはどのような介護か
・介護施設で看取り介護が求められる背景
・看取り介護に備えるために必要とされるリビングウイルの支援とは何か

2 看取り介護の開始から終了までの手順
・判定〜説明同意〜計画作成〜連絡・連携〜実施〜終了〜評価までの具体的な流れ
・必要な書式
・求められるPDCAサイクル
・看取り介護加算の算定要件
・職員のメンタルケア
・遺族のグリーフケア

3 看取り介護の実際
・介護施設で行われた看取り介護の事例
・看取り介護の今後の課題
・スピリチャルペインの受容
・命の尊さを理解しながら看取り介護に関わる姿勢

この中で終末期診断の在り方、看取り介護計画作成の要点、説明同意に必要な視点、終末期の身体状況変化の特徴やその対処法、各職種別に求められる役割などについてくまなく網羅する予定である。

本研修は実施主体が、京都地域包括ケア推進機構・一般社団法人京都府老人福祉施設協議会・一般社団法人京都市老人福祉施設協議会とされており、会員の方のみの参加になっているが、参加された方々にじっくりと看取り介護の実践論を伝えてきたいと思う。京都の皆さん、会場で愛ましょう。

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まだ若いから終末期ではないと判断することの落とし穴


看取り介護とは、「医師が一般的に認められている医学的知見に基づき回復の見込みがないと診断した者」に対するケアである。

その判断は医師にしかできないが、この際に診断すべき人の、「年齢」によってその判断基準が変わってしまうことがあってはならない。

例えば「がん」の場合の終末期とは「治療効果が期待できなく余命がおおよそ6ヵ月にある時期」とある程度定義付けが可能でありそれが、「一般的に認められている医学的知見」とされている。

ではがん以外の場合の終末期はどのように判定されるのかと言えば、脳梗塞や誤嚥性肺炎など、特定の病気を繰り返している高齢者などの場合でも治療を試みてみないことには終末期とは判断できるはずがない。

その治療の試みを行って始めて医師の判断として、「回復の見込みなし=終末期」とされるのであり、判定すべき対象者が100歳を超えているから治療の必要はないと決めつけたり、治療の効果はないだろうという見込みだけで、「回復の見込みがない終末期である」という判定があってはならないのである。

その際に食事や水分の経口摂取が困難となる人についてどのように判断すべきかという問題が生ずる。

このことについて京都保健会盛林診療所所長・三宅貴夫氏が示している判断基準は、「回復が期待できない嚥下困難か、嚥下不可能な状態の時期であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能であるが、自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよい。」というものだ。

その判断基準を採用して経管栄養を行わずに自然死する人に対しても、看取り介護は行われている。

このことに関連して平成27年以降の介護報酬改定では、居宅サービス・施設サービス全般に、口腔衛生の充実・栄養改善の加算が手厚く評価されており、かつ経口維持加算が手厚く、より算定しやすく改定されてきている。それは食事の経口摂取の維持と、栄養状態の維持・改善がトータルの視点で評価されていることを意味しており、今後もその評価は継続することも意味している。さらに言えば経口摂取を続けることができる生活の質を問い直しており、安易に経管栄養にしないことで護られる生活の質を大切にする視点を介護事業者全体に促していると言える。

その延長線上には、これだけ食物や水分の経口摂取の維持に頑張った先に、経口摂取できなくなった場合の選択について問い直しているという意味もあり、経口摂取ができなくなった人に経管栄養を機械的に行うことなく、食べられなくなった時点で自然死を選択して、看取り介護に移行する選択もあることを示しているともいえるのである。

この方向性は診療報酬改定でも同様であり、例えば胃瘻造設術の報酬単価が大幅に下げられていることも、その方向性を示すものと言える。

ところでこのことに関連して、アルツハイマー型認知症の晩期の摂食障害をどう考えたらよいのかという疑問を持ったことがある人はいないだろうか。

アルツハイマー型認知症の人は時間経過とともに脳細胞が減って、口や喉の筋肉の動きをコントロールできなくなるためむせやすくなる。そのため食事形態を工夫することでしばらくの間はむせないで食べることができるが、脳細胞の減少は続くために再びむせるようになる。そしてだんだんと口を開けなくなったり、咀嚼せずいつまでも口の中に食べ物をためたりするようになる。この状態は体が食べ物を必要としなくなっている状態といえるもので、終末期の選択肢のひとつと言っても良いと思う。

ただここで問題が生ずる。アルツハイマー型認知症の人は、必ずしも高齢者とは限らない。若年性認知症の人で、40代の方が同じ状態になった時に、そのような若い人まで終末期であると判定しても良いのかと悩まれるケースがあることだ。

しかしあくまでも原則は、「年齢」によってその判断基準が変わってしまうことがあってはならないということだと思う。

まだ年齢が若いから終末期ではないという判定があり得るとしたら、その逆も真となり得る。つまりそれはある一定の年齢を過ぎたのであれば、病状が重篤であるという状態だけで、治療の試みもないままに終末期判定がされる恐れが生ずることになってしまうのである。

そもそも若いからという理由だけで、終末期判定が見送られる人がいるとしたら、その人は適切な看取り介護を受ける機会を奪われるかもしれない。人生の最期に周囲の愛する人々とのエピソードづくりの機会を失うかもしれない。人生の最終ステージを自分らしく生きるということができなくなるかもしれない。それは良いことなんだろうか?

だからこそ終末期とは、「治療効果がなく積極的な医療がないと生命の維持が不可能であり、またその医療を必要としなくなる状態には回復する見込みがない状態の時期」であるという判定は、年齢に左右されることなく行われる必要があると考えている。

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看取り師と名乗る者たちの存在意義がわからない


今日も僕は旅の途上にある。これから東京都内の社会福祉法人さんの職員研修のために、羽田空港に向かう機上からこの記事を更新しているところだ。

今回依頼された研修は、全3回を1クルーとしたもので、今月から12月にかけて月1回120分講演を3回行う予定になっている。1回目と2回目は介護事業におけるサービスマナーをテーマにして、最終回は看取り介護がテーマとなっている。

実はこの二つのテーマは、全く別テーマではなく密接にリンクしている。なぜなら日ごろのマナー意識のない特養で、看取り介護を行うのは間違っていると思うからだ。

人生の先輩に対する敬意を込めて、礼儀正しい対応ができる人間にしか、「死」という厳粛な時期に向かう人へのかかわりなどできないのではないかという疑問がある。真摯に人の命に向き合うという意味は、プロとして節度を持って、正しい対応方法で日ごろから関わりを持つ人であることが求められるという意味だと思うからである。

例えば、ホスピス・緩和ケア病棟に務めている看護師の方々が、「傍らに誰かがいると、痛み止めがいらなくなるのよね。」とおっしゃることがある。

まさにそれは「人間関係」という麻薬効果ではないだろうか。

だからこそ傍らにいることが許される関係性を作らねばならない。関係性のない誰かが側にいたとしても、そんな風な効果は現れない。愛せない誰かが傍らにいても、そんな麻薬効果が現れることはないからである。

しかし家族や親族以外の人間が、職業を通じて出会った誰かと人間関係を築こうとするならば、プロとして真摯に礼儀正しく顧客である利用者に向かい合うということでしか、真の関係性は構築できないと思う。マナーと節度をもって顧客に接するという基本姿勢がそこにはなければならないと思う。そういう基本姿勢を日常的に貫くからこそ、看取り介護という、「人生の最終ステージを生きる場」に参加できるのではないだろうか。

そうであるがゆえに、看取り介護・ターミナルケアを、対象者が終末期になってから以降の支援行為と考えることは間違っていると思う。

看取り介護とは、誰かを人として愛し・敬い・心を寄せながらかかわっていった先に、たまたま必要とされる支援行為で、最初からそれを目指すものでもなければ、その時期になってから求められるものではないということだ。

ところで最近、「看取り師」と名乗る人が現れてきた。その人たちは、「看取り」の意味を知っているのだろうか?

私たちが思いを込めた言葉を安易に略したり変えたりしないでください」で指摘したように、看取り介護は終末期支援を表す言葉だが、看取りは必ずしも終末期支援を表す言葉ではない。

いうなれば「看取り師」とは「看護師」と同じ言葉という意味にしかならない。しかしその名称を名乗っている人は、自分が看取り介護・ターミナルケアの専門家だと自負している。

それは誰かの終末期に専門に関わるという意味なのか?そんな専門家が求められていると本気で思っているのだろうか?

回復不能な終末期と診断された人に、その時期だけの支援を行うために、おっとり刀で駆けつける専門職が求められているとでもいうのだろうか。

勿論、終末期の身体状況の変化等の専門知識を身に着けて、それに対する正しい対応方法を身に着けることは大切だ。しかしそれは看取り介護を行う専門家として求められるのではなく、介護支援を職業とするプロとして求められるのである。

だからことさら「看取り師」を名乗るの人を、僕は過度な自己顕示欲を現している人としか思うことはできない。

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私たちが思いを込めた言葉を安易に略したり変えたりしないでください


全国民の8割以上の方々が医療機関で、「死」を迎えるわが国ではあるが、その割合はほんの少しずつ減り続けている。

それは死者数が増えて、医療機関では死ぬことができなくなる社会に備えて、死ぬためだけに医療機関に入院する必要がないように、様々な場所で死ぬことができるようにしようとする取り組みが増えているという意味でもある。自宅だけではなく、特養をはじめとした居住系施設などの暮らしの場で、息を引き取る方々を最期まで支援する取り組みが年々増えている。

それは自宅で「死」を迎える人が過半数であった昭和51年以前の日本に先祖返りしていくかのようなものだ。それは多くの人が自宅で「死の瞬間」を迎えるのが当然だった頃の、この国の人間関係や慣習を取り戻す過程なのかもしれないし、失われた日本人の心を取り戻すことにつながるかもしれないと思ったりしている。

そんな過程において、家族だけではなく、医療・看護・福祉・介護の専門家が全国の様々な場所で死に向かい合う人を支援する機会が増えている。それにつれ死を目前にした方々を支援する一連行為を、「看取り」・「看取る」と表現されることも多くなった。

それは決して間違った表現ではないし、その言葉自体にいちゃもんをつけるつもりはない。しかし私たちが、「看取り介護」という言葉を創り出した経緯を少しだけ理解してほしいと思う。

ここまで読んだ方はおそらく疑問を抱いたであろう。それは、『私たちが、「看取り介護」という言葉を創り出した経緯』ということに対する疑問だと思う。看取り介護という言葉なんて以前からあっただろうと指摘する人がいるかもしれない。

しかしそれは間違った理解だ。『看取り介護』という言葉ができたのはつい最近である。少なくとも2005年まではそのような表現方法はなかったのである。

古来から日本には、「看取り」・「看取る」という言葉はあった。しかし、「看取り介護」という言葉が生まれたのは2005年以降である。

2006年4月からの介護報酬改定時に、特養の終末期支援の取り組みに対して、新しい加算が創設されることになった。その当時、特養の終末期支援も、「ターミナルケア」と表現されることが一般的であった。

しかし介護報酬の基本的考え方では、医療系サービスと福祉系サービスができるだけ区分できるように、両者に共通の行為についても名称を別にするという考え方があった。例えば医療系サービスで、「リハビリテーション」と表現することに対して、福祉系サービスは、「機能訓練」と表現を変えるなどが、その基本に沿った名称区分である。

そのため当時の厚労省の考え方として、ターミナルケアは医療系サービスにおける表現方法であるとして、福祉系サービスである特養の終末期支援に対する新設加算について、ターミナルケア加算という名称はそぐわないので、別の名称を考えてほしいと、全国老施協に打診があったという経緯がある。

その時にターミナルケアは、「終末期介護」と訳すことができるので、「終末期介護加算」にしてはどうかという意見も出された。だが一部役員から、「終末」という言葉はネガティブイメージを与えかねないという意見が出され、他の表現方法はないかと模索する過程で、古来から日本語の表現としてある、「看取り」という言葉に着目し、これに介護をつけて、「看取り介護」という新たな言葉を創ったという経緯がある。

看取りとはもともとは、「病人のそばにいて世話をする」、「死期まで見守る」、「看病する」という意味である。つまり「看取り=看護と介護の一連行為すべてを含むもの」であり、終末期支援だけを意味しない。

その「看取り」という言葉に、「介護」をくっつけることで、「看取り介護」という新たな表現方法を創り出し、それは福祉系サービスを中心にした、「終末期支援全般」を意味する行為としたものである。

その言葉には逝く人を最期の瞬間まで支えることができる介護とは何かという思いが込められている。最期の瞬間に傍らにいてやる介護ではなく、傍らにいることが許される関係性を築く過程を大切にし、その延長線上に命が燃え尽きる直前まで、人として尊厳ある生き方を支えようという思いが込められているのだ。

例えば、医療機関で最期の時間を過ごしている人すべてがターミナルケアを受けているわけではない。ただ単に死に場所が医療機関であるにすぎない人も多い。医療機関でターミナルケアを受けていると言いながら、誰からも看取られず一人寂しく旅立っていく、「医療機関内孤独死」も多い。ターミナルケアと称しているのに、適切な介護が行われず、ターミナルケア中に一度も入浴機会がなく、皮膚の汚れが目立ち、中には褥瘡さえ発生させる状態になってる人もいる。

私たちが造語した、「看取り介護」とは、そうしたエセターミナルケア・偽物の終末期支援を否定し、対象者が人生最期の時間を過ごすにあたって、少しでもこの世でつながりのある人たちとエピソードを刻みながら、この世に生まれ生きてきてよかったと思えるような、人生の最終ステージを過ごすための介護を目指し、心を込めて、心にかけて護るという介護の本質を実現するためのものである。看取り介護という言葉には、そんな意味が含まれているのである。

どうもこの業界の中には、略語が専門用語だとか、略語を使うことが専門性だとか勘違いしている人が多い。認知症を「ニンチ」と略して表現することを恥ずかしいと思えない専門馬鹿も存在する。

看取りという表現方法は、そこまで不適切な問題ではないが、「看取り介護」を安易に、「看取り」と略したり、「看取りケア」なんて表現をする人がいたりすると、当時私たちがその言葉にたどり着くときに、真剣に考えた過程を汚されているように感じたりするときがある。

それは私たちの勝手な「思い」ではあるが、そんな思いのこもった言葉を、せめて老施協関係者や特養関係者だけは大事にしてほしいと思う。

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逝った人からのメッセーズが送られてくるデスカンファレンス


2015年の報酬改定時に、特養の看取り介護加算の算定要件が改定され、PDCAサイクルの構築が義務付けられる中で、「看取り後のケアカンファレンス」が義務付けられている。

そのためこの加算を算定している施設については、必ずデスカンファレンスを開催することになっているはずである。しかしそうした施設でも、看取り介護対象外であった、「急死した人」に対するデスカンファレンスが行われていない場合が多い。

しかし本来のデスカンファレンス目的を考えたならば、看取り介護の実施の有無にかかわらず、それは実施すべきである。

なぜならデスカンファレンスで検証すべきは、「看取り介護中に、何が行われたのか」ではなく、看取り介護の実施時期も含めて、亡くなられた方が施設で暮らしていた間の、私たちが提供したサービスが適切なものであったのかという振り返りであり、それはまさに、「〇〇さんに対する日ごろのケアのあり方」という、ケアの個別性が問われているからである。

しかし看取り介護加算を算定していない特養の場合、利用者が亡くなった後の、デスカンファレンスを一度も行ったことがないという施設が少なからず存在している。それはあまり褒められたことではない。

むしろひとり一人のケアサービスのありようを検証すために、デスカンファレンスだけではなく、退所カンファレンスとして、在宅復帰や医療機関への入院による退所、施設変更のための退所など、すべての退所ケースを検討する機会として、退所カンファレンスも行われるべきである。

前述した看取り介護加算の算定ルール上の、「看取り後のケアカンファレンス」以外に、法令上デスカンファレンスや退所カンファレンスは求められていないが、施設サービスの品質を維持・向上させる、「動機づけ」を生むためには、こうしたカンファレンスが必要不可欠であると考え、退所者が出た場合は、必ず検証のカンファレンス(以下デスカンファレンスとのみ表記)を行うシステムを構築すべきである。

こうした振り返りの機会を持つことによって、職員は必然的に、退所された方に対してどのようなケアサービスが提供されたのかということや、それは果たして適切なものであったのかを考えることになるが、それは単に過去を振り返ることにとどまらず、これから先、今までと同じようなサービスの状態で良いのか、あるいは変えるべき問題があるのかということを検討することにつながるのである。

デスカンファレンスとは、そういう意味で、介護施設の「未来を照らし、未来に導く」検証作業なのである。

デスカンファレンスを通して、職員は対象者が亡くなるまで教えてくれていたと感じていた事が、カンファレンスを通して亡くなったあとでも教えて下さる事の多さ、その大切さを改めて痛感することができる。

さらに誰かの限りある人生の最終場面に、その時期を意識して関りを持つことで、そこで打ち出された課題を一つ一つ改善していくためには、どんな事をしたらよいかと具体的に考える事ができるようになっていく。

そのような意味で、個別の利用者支援を考えるための最後のカンファレンスは、反省・後悔するためだけのものではなく、施設で生活している方たちに、これから活かす・繋げるためのものであると考えるべきである。

看取り介護についていえば、限られた命の時期を周囲の人たちが意識する中で行われる介護であり、対象者の人生の最終ステージにおいて、エピソードを刻み、その記憶を残された人の心に刻んでいくことが大切になる。そのためには利用者の生活史の中でどのようなエピソードがあったかという情報も必要で、特に家族との関係性を表すエピソードが、最期の場面で必要とされる場合がある。

だからこそ家族と一緒に「看取り介護対象者が、その方らしく生きるために何ができるか」を考えるようになる。そうなると職員は、普段からの家族との関わりを大切にし、いろいろなエピソードを聞き出しておきたいという気持ちが湧き上がってくる。それは利用者のみならず、家族との良好な関係性を築くきっかけにも結び付いていく。

そして日常のほんの小さな「気づき」を行動に変える力がついていくのである。それはまさに一番近くで気付く人、一番近くで代弁する人としての介護施設職員の役割を肌で感じ取れるようになることにもつながる。

そんな形で精神面・技術面の向上を目指そうとするスタッフの前向きな姿勢が養われていく。そこにカンファレンスという他職種との率直な意見交換の場を加えることで、それぞれの職員が自分の意見をしっかりと伝える力をつけることができるようになっていくのである。

そこでは、看取り介護になってからの援助よりも、日頃の援助こそが大切であることが再確認できるようになっていくことなるだろう。

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息を引き取る瞬間を看取る意味。それを伝える意味。


昨日から滞在している島根県松江市は日中の最高気温が33度となり、今日は35度まで上がるという。

北海道の人間にとってはきつい猛暑だが、それを癒してくれるのが宍道湖だ。昨日はその宍道湖の有名な花火大会最終日で人手がすごかった。僕は人ゴミがあまり好きではないので、ホテルに籠って食事もコンビニ飯にした。

しかし一昨年見た宍道湖の夕日が忘れがたいので、今日は必ず見に行きたいと思う。
宍道湖の嫁ケ島と袖師地蔵を染める夕日
この美しい宍道湖は、しじみの宝庫でもある。松江に来ると朝からおいしいシジミの味噌汁を飲めるのが楽しみの一つでもある。今朝は早速、ホテルの朝食でシジミ汁を呑んで肝臓も元気になった。

という訳で今日は朝10時から夕方4時まで、いきいきプラザ(島根県松江市)で5時間講演を行なう予定になっている。お昼の休憩時間も著作本販売などのため記事更新の時間が取れないと思い、朝から記事を更新して、講演直前のこの時間を利用してアップしているところだ。

今日の講演は看取り介護セミナーとして行なわれるものであるが、このことに関連しては先週月曜日に、「逝く瞬間を看取る意味をもう一度深く考えよう」という記事を書いて、旅立つ瞬間を看取ることにも重要な意味があり、安易にそのことを、「必要なし」とする風潮があることに警鐘を鳴らした。

看取り介護は対象者が息を止める瞬間を看取るという意味ではない。それはわかっている。看取り介護とは、命の期限がある程度わかっている人に対して、やがて来るであろう(ほぼ半年以内)お別れの時期を意識しながら日常支援を行うことを看取り介護と言う。それはその時期のケアサービスすべてを指すものであり、その時期の日常支援がきちんと行われておれば、旅立つ瞬間に誰かが看取っていないとしても、そのことが重大な問題となるわけではない。そのことは十分理解している。

しかし最初から、「看取り介護対象者が息を引き取る瞬間を看取ることは大した意味がない。」と考えて支援を行う人と、そうではなくできれば息を引き取る瞬間までを看取ってあげたいと考える人の眼差し(まなざし)は違うものになるのではないかと思う。

旅立つ瞬間を看取るためには、その旅立ちがいつになるのかを意識して、そのことに気が付けるように細かな観察が必要になる。結果的に旅立ちを看取れなかったとしても、その瞬間を看取りたいと思って行う日常ケアと、そんなことまでしなくてよいと思いながら行う日常ケアには必ず差が出てくる。

息を引き取る瞬間まで傍らにいようと考えることは、あまりにもおせっかいだと言われても仕方ない。だからといってそれはおかしい考えだとは思わない。尊い人の命が燃え尽きるという厳粛なシーンに寄り添うとすることに何を言われようが揺るぐものはない。

それに息を引き取る瞬間を看取ることができるかどうかは、遺族の方々にとってより大きな意味となるときがある。

様々な事情で家族の旅立ちの瞬間を看取ることができない人たちがいる。その時、愛する家族が旅立った後に駆けつけた家族が、「最期に苦しみませんでしたか?」・「どんなふうに逝きましたか?」と尋ねられた時に、「息を止める瞬間は確認できませんでしたが、それまでずっと必要なケアはできており、○○さんも満足されていましたので、寂しくはなかったと思いますよ」としても良いとは思う。遺族の方々にきちんと説明しさえすれば、納得してもらえると思う。

しかし同じ質問をされたときに、「全く苦しまないで、すーっと眠るように息を止めたんですよ」・「穏やかな顔をされて旅立っていかれました。」・「一度息を止めたように見えたので、大きな声で名前を呼びかけたら、もう一度大きく息を吸ってはいて、そのあと本当に息が止まりました。まるでお別れの挨拶をしてくれているように逝かれました。」と説明できたとしたら、そのことには意味があるのではないかと思う。

だから僕はそういう看取り介護を目指してきた。そこまでしなくてよいとか、やり過ぎでしょうと言われたこともある。でもそんな声はすべて第3者の声である。旅立った人の声は聴くことができないが、遺された方々にその瞬間を説明して迷惑がられたことはない。むしろ涙を流しながらその説明に耳を傾け、感謝の言葉を口にするたくさんの方々と出会ってきた。

学者や官僚が語る看取り介護と、僕が語る看取り介護は、その部分で大きく違ってくるのだ。本当の看取り介護を実践している人間にしか見えないもの、聴こえないものがあるのだ。

息を引き取る瞬間を看取る意味については、僕の最新著作本、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」の194頁に、「旅立つ瞬間を看取る意味」というコラムを書いている。是非そちらも参照していただきたい。

今日の島根県老施協主催・看取り介護セミナーでも、そのことはしっかり伝えてくるつもりだ。

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神の国で語る看取り介護


3年前まで僕が講演を行なったことがない県は、全国で山梨・島根・鳥取・香川の4県であった。

その4県のうち島根県は一昨年、松江市と浜田市で2講演を行った後、昨年も太田市と益田市で講演機会をいただき、さらに今年も松江市で再度講演を行う機会をいただいた。

香川県は昨年初めて高松市で講演を行う機会をいただき、今年も引き続き高松市にご招待いただき2年連続講演を行なっている。

そのため現在、僕が講演を行なったことがない県は、山梨県と鳥取県の2県となっている。当該県の関係者の方に、ぜひご招待いただけるようにお願いしたいものだ。

さて今年で3年連続講演依頼をいただいた島根県であるが、その予定が来週の月曜日に迫っている。今年の島根県講演は島根県老施協の主催する、「看取り介護セミナー」である。朝10時から始まって、終了は午後4時という長丁場の講演で、午前2時間・午後3時間の合計4時間のセミナー内容は、すべて僕の講演でグループワークなどは予定していない。

その内容は、全国7カ所(札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・岡山・福岡)を廻る日総研セミナーと同じであるが、当然のことながら今現在の最新情報を盛り込んで、今地域で求められている看取り介護の実践論をお話しする予定である。

講演事務局からは一昨日にメールが来てその内容は、「会場が定員150名しかないが、すでにその数に達する申し込みがあり、募集を終了した。」とのことである。ということで満員御礼に感謝するとともに、締め切り終了前に受付が終わって参加できなかった人には、この場を借りてお詫び申し上げたい。今回受講できなかった人が、次に受講できる機会を是非作っていただきたいと思う。

ところで看取り介護講演については、先週も札幌と東京でそれを行う機会があったが、そのうち札幌会場(受講者30名:120分講演)を受けた方のアンケート結果が昨日届いた。満足度が高い講演となってホッとしている。受講者の皆様の個別コメントも送られてきたので、下記に照会したいと思う。t当日の受講者のほとんどの方からコメントをいただいているが、それはまさに僕の看取り介護講演の評価であり、今後、僕の講師を依頼しようかと考えている人にも参考になると思うので、是非ご覧いただきたい。
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受講者の方々の声
・看取り介護は今後増すと思いますが、予測できないような事をどのように行うかが課題と思いました。
・色々と考えさせられる内容でした。
・最期の時を家族が元気なうちに話し、また、その様子を子どもたちにも見せたいと思いました。
・現在、看取りケアを行っているが、Drの考え方に納得していなく指示と思って点滴や酸素を行っていたが、今日の研修を受けて自分の考え方が正しかったという事がわかりました。また家族の意見だけではなく本人のリビングウィルは今後必要なことと思いました。
・看取りは、特別なこと、大変なことと思っていましたが、そうではないんだという事に気付かされました。今後、施設で看取りを行うかも知れないので是非参考にしたいと思います。
・最期の時を家族が元気なうちに話し、また、その様子を子どもたちにも見せたいと思いました。
・看取りが、生きていることの延長線上にあるという事が改めて実感できました。
・クレームの判別。対応方法を詳しく説明してもらい勉強になった。
・親の死後に、うつになったというケースから終末期の過ごし方を予め話し合っておく必要性がある事を痛感しました。今後に活かしていきたいです。
・看取りは日常ケアの延長であること。1つ1つのケアの中でも、最後につながることがある。明日から自分がどういうケアをするのか、看取りの時はこういうのが良いのかなど、色々考えることができた。
・直接看取りに関わる事は多くない小規模多機能に所属している為、実際のケースを例としていた内容は理解しやすく、実りある研修に参加できたと思います。
・看取りに限らず、介護に向き合う姿勢を学ぶことができました。一人一人の思いによって、今後の支援も変わるだろうと思い、皆がそれを共用できたら良いと思いました。
・家族ではない他人の看取りに関わる時、自分たちの行うケアにより、人生の最期の時の幸せ度が左右されることを改めて 実感しました。
・看取りは死を待つものとしか考えられなかったが、その人らしい生活を支え、安心・安楽な最期を迎えられるように支援すると学び、考え方を変えることができました。
・実際にあった事例が多く、今ユニットでも看取りの入居者様がいるので実践してみようと思う部分が多くありました。
・看取りのケースが少しずつ増えて、実際に関わる中でDrとの連携ややり取りについて、今後の課題を感じました。
・ご利用者様本位を間違えて捉えることの怖さ。そして、しっかり時間をかけて向き合っていくことの大切さを学びました。
・介護の仕事を始めて4年程で多くの看取りを経験してきましたが、利用者様、ご家族様とどう向き合うかを改めて学べて良かったです。
・今まで看取りを行っていて実感していた内容が多く、自信に繋がりましたが、まだまだ「あなたの大切な人を任せてください」と自信を持って言えないため、知識を付けて本人の代弁者となれるよう努力していきたいです。
・看取りへの心構えや、如何に自分が関わっていくと良いのかの道しるべとなりました。
・元気な時に、人生会議が出来るように、今後の仕事に生かしたいと思いました。そうすることで、残された家族に責任を負わせないようにしたいと、体験からも思います。
・今年、祖母が亡くなり、家族として看取りました。また誰かの看取りに接することがあった時に、本人の幸せを考えられるようにしていきたいと思います。
・ターミナルケアを行う施設、グループホームが多くなると思いますが、看取り介護をご家族にどう説明するかが重要であると思いました。
・とても勉強になりました。施設に戻って学んだ事を職員に伝え、本人やご家族が安心安楽になれる看取りケアを目指していきたいと思います。
・増えてくる看取りとどう向き合うか、どうケアするかをもう一度考えることができて勉強になりました。
・2時間はあっという間でした。ありがとうございました。
・老健での看取り介護の事例が知りたいです。
・接遇に関して、菊地先生のサービスマナーの講義を受講してみたいです
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以上、参考にしていただければ幸いである。

これらのコメントを読んでいただくだけで、僕がどういう方向から、どのような話をしているかわかるのではないだろうか。どちらにしてもそれは、僕が特養という介護施設の中で、ソーシャルワーカーの時代から、総合施設長として施設経営を行っていた時期に、僕の仲間と一緒に作り上げてきた介護の実践論で、そこにフィクションや空想は一つも含まれていない。

それは真実の実践論である。いくつかのケースや、そのまま現場で使える書式は、僕の最新著作本、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」に掲載されているので、文字に張り付いた日総研サイトもしくは下記の取り寄せサイトからご購入いただければ幸いである。

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逝く瞬間を看取る意味をもう一度深く考えよう


先週木曜から上京し、東京飯田橋〜浜松と移動しながら講演を行ない、昨日の夕方北海道に帰ってきた。台風の影響が心配されたが、飛行機も新幹線も定刻運航で、講演に影響が出ることはなくホッとしている。

飯田橋と浜松の両会場とも、100名を超える方々に受講していただいた。暑い中、会場まで駆けつけてくれた方々に、この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。

飯田橋講演は、テーマが「看取り介護」で、4時間の講義と1時間のシンポジウムの長丁場だった。会場で用意した僕の著作本、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」は全冊売り切れてしまって、購入できない方がいて申し訳なかった。会場で購入できなかった方には、文字に張り付けたリンク先より取り寄せいただきたい。

来週の月曜日も島根県松江市で看取り介護講演を行なうが、そちらも5時間の長時間講演となっている。本も販売予定なので、是非会場で手に取ってご覧いただきたい。

死者数が増え続けるわが国において、看取り難民を生まないためにも、様々な場所で看取り介護・ターミナルケアが実践されなければならず、今後も看取り介護をテーマにする研修会は、全国様々な場所で求められていくと考えられる。そして看取り介護・ターミナルケアについてレクチャーできる講師も増えていくことと思われる。

そうなると看取り介護に関して、様々な考え方が示されるようになるだろう。勿論考え方がいろいろあっても良いし、多様な価値観の中から、受講者自身が看取り介護に関わるに際して、最もふさわしい方法論を選ぶことができれば、それが一番良いことだと思う。

しかし様々に示される考え方の中で、看取り介護を受ける人やその家族が不在の、「看取る側の論理」が前面に出され始めていることに危惧の思いを持ち始めている。本当にそれが看取られる人の思いであるのかということを考えてもらいたい・・・。

例えば以前にも紹介したが、息を止める瞬間に傍らに誰かがいないとしても、日常の支援がきちんとできておれば、それは「孤独死」ではなく、「ひとり死」であるという考え方が示されるようになっている。(※参照:在宅ひとり死を他人が推奨する社会は怖い社会かもしれない

そうした考え方があっても良いと思うが、この考え方を押し付けるのはいかがなものかと批評してきた。そもそもこの考え方が示された背景には、在宅独居の方を自宅で看取る際に、24時間巡回サービスなどの社会資源をフル活用したとしても、最期の瞬間までは看取ることができないケースが増えることが確実な社会の中で、国民一人一人に死の瞬間を誰かに看取ってもらうことができないこともあるという覚悟を促しているという意味があることを知ってほしい。

それが決して国民ニーズとかいうわけではないし、大多数の人が賛同すべき、あるいは賛同できる考え方とも限らないのである。

しかし恐ろしいことに、「ひとり死」を推奨するだけではなく、その延長線上に、「看取り介護だからと言って死の瞬間を看取ることに価値があるわけではない」とか、「死の瞬間を看取ることには意味がない」と言い始めている人がいて、その考え方を聴いて、闇雲にその価値観を受け入れてしまう関係者が、「目から鱗です」という意見を述べていたりする。それは極めて危険なことだ。

必ずしも息を止める瞬間、逝く瞬間を看取らなくとも、必ずしもそれが問題ではなく、一番大事なのは終末期という時期の日常支援であるという考え方は理解できる。しかしそうだからと言って、「逝く瞬間を看取ることにほとんど意味はない」と考えるのはどうかしている。それは逝く瞬間を看取ろうとしない人々の言い訳でしかない。

例えば下記のアンケート結果を見ていただきたい。
看取り介護アンケート結果
このアンケートは5年前にも実施し、昨年改めて再調査したものだが、『介護が必要な人が周囲に支えられていれば、旅立つときに側に誰もいなくとも、それは孤独死ではなく「ひとり死」であるといわれ始めました』という前提条件を示しているにもかかわらず、過半数を超える人が旅立つ瞬間に、「親しい人には側にいてほしい」と回答し、かつ「誰でも良いから側にいてほしい」という人も5.8%とはいえ存在するわけである。

しかもネットアンケートに答えられる年齢層の人より上の世代の人は、この数字がもっと高くなると予測できるのではないだろうか。つまり我々が介護施設等で関わる看取り介護対象者の多くの方は、理屈はともかくとして、息を止めるその瞬間に誰かが側にいてほしいのである。

少なくとも、「側に誰かがいてほしい」と答えた人にとって、「旅立ちの瞬間に傍らに誰かがいる」ということは、決して意味がないことではないし、最も求められることであるかもしれないわけだ。それを否定するような考え方があってはならないのである。

僕が特養で看取り介護に関わってきた経験から言えば、「逝く瞬間」を看取ることは、旅立つ人だけではなく、遺された人にも意味がある行為である。

旅立っていく人を家族が傍らで看取ることができないケースがあるが、その際に看取り介護対象者が旅立った後に駆けつけた家族が尋ねることは共通している。それは、「どんなふうに逝ったの
?」・「苦しまなかったかい?」ということだ。

その時、我々が家族に替わって旅立つ瞬間を看取ることができたからこそ伝えられる事実がある。その事実によってしか伝わらないものがある。それは決して無駄なことではないし、目指すべき看取り介護の在り方の一形態である。

それを否定するかのような看取り介護講演は意味がないと思う。

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終末期支援に必要な正しい知識を身に着けるために


僕は先ほど札幌に着いたところだ。今日13:30〜札幌を拠点として道内各地に介護施設や居宅サービス事業所等を事業展開している、「社会福祉法人・渓仁会」さんのから依頼を受けて、「看取り介護講演」を行うためである。

同法人は、地下鉄東西線西28丁目駅直結のビルに研修室を持っているので、そこに向かう前に、札幌ラーメン共和国に寄ってランチをした後、エスタでまったりと時間待ちをしながらこの記事を更新している。

今日の講演受講者は、施設長や経営管理部門担当者などを含めて、看護師・介護支援専門員・社会福祉士・介護福祉士など全職種横断で、主に職場のリーダー的役割の方々が研修会場に集まるほか、テレビ会議システムによるライブ配信を行って、全道各地の事業所内で職員の皆様が受講する予定となっている。

それらの皆様の明日からの実務に活かせる、「看取り介護の実践論」を話すことを心掛けたいと思う。

死者数が増え続けるわが国では、看取り難民を生まないためにも、すべての介護施事業者が「看取り介護」を実践しなければならない。そのため昨年の報酬改定でも、種別横断で様々なサービス事業において終末期支援への取り組みが、何らかの形で加算評価されているし、その流れは今後の介護報酬改定・診療報酬改定の中でも引き継がれていく。そのことの意味を重く受け止める必要がある。

そもそも看取り介護は特別な介護ではなく日常ケアの延長線上にあるもので、看取り介護ができないということはケアができないという意味になり、そんな介護事業者があってはならない。そういう意味では看取り介護とは、事業管理者が、「する・しない」とか「できる・できない」と判断する問題ではなく、高齢者の日常ケアのたどり着く先は、必然的にその人の終末期支援であるという意識のもとに、いつでもどこであっても提供しなければならないケアサービスなのである。

そうであれば当然、介護事業者に所属する職員には、事業種別に関わらず、すべからく終末期を迎えた人の身体状況の変化などの知識が求められ、それを身に着けるための教育も正しく行われる必要がある。

このブログでも何度か書いていた終末期に必ず現れる身体変化や、現れる可能性が高い変化、ごくまれであるが生じる可能性がある身体現象などがあるが、そのようなことを知らずして看取り介護に携わった場合、そうした現象が起きたときに職員が慌てふためくことになるかもしれない。それでは困るわけである。なぜなら職員が慌てふためく状態は、看取り介護対象者やその家族に不安しか与えないからだ。

だからこそ終末期に起こるであろう身体状況についても、きちんと把握・理解しておく必要がある。例えば死を目前にした人に起こる現象として、事前喘鳴やチェーンストークス呼吸、下顎呼吸などがあるが、それは苦しんでいる状態ではないことを説明し、原因や対処法をあらかじめ明らかにしておく必要がある。

そのため僕は、「愛する人の旅立ちにあたって」というパンフレットを平成22年に作成したが、その最新バージョンを、今年1月に日総研出版から上梓した「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」に資料掲載している。それらを参考にしながらそれぞれの施設に見合った終末期支援の説明書式を作成していただきたい。

下顎呼吸の時に、苦しがっているから酸素吸入をしてくれと訴える家族に、その場で、「下顎呼吸は本人に苦痛がない状態であり、逆に酸素吸入をするこがかえって苦しめる結果となるため、その必要がない」ことを伝えても、そんな場面では十分にその理由や意味を伝えることはできないだろう。

切羽詰まった場面でそんな説明を聞かされた家族だって、説明されたことを理解できるわけがない。そうであれば家族は不安と悲しみの中で、看取り介護対象者を見送らねばならなくなる。

そんなふうに不安な状態にしないように、事前に必要な情報提供が求められるのだから、本で紹介した書式は、本来看取り介護を行う事業者すべてが備え置くべき基本書式であると思っている。

加算の算定要件になっているか否かはどうでもよいことで、命に寄り添う場で、最期の瞬間まで看取り介護対象者と、その家族が安心できるためには、何が必要かを考えてほしい。

残念なことではあるが、看取り介護に取り組んでいる介護施設等の職員が、看取り介護に関する基本的な知識を身につけていない現実を、全国のいろいろなところで見てきている。看取り介護加算の算定要件だけを知って、看取り介護の際に求められる基本知識を身に着けたと勘違いしては困るわけである。

そんなことがないように伝えていきたいことがたくさんある。今週金曜日には神楽坂でも看取り介護について話してくる。それは東京都社会福祉協議会・栄養士・看護師・介護士 合同研修会の中での話であるが、当日は講演が4時間、シンポジウムのコーディネートを1時間、その後質疑応答を30分行う予定である。

こんなふうに、正しい看取り介護の知識と支援技術を伝えるために、全国どこへでも飛んでいくので、講演依頼、もしくはその打診等は、メールで気軽にお問い合わせいただきたい。

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高齢期の生き方を考える先にある看取り介護


今月に入って高齢者介護に関連して重要な国の統計が複数示されている。

9日に公表された2018年版の厚生労働白書は、統計不正問題等に関連して異例の、「お詫び」の言葉が冒頭の「はじめに」から並べられている。

これに関して、「謝れば済めば警察はいらない」などの批判的なコメントも寄せられているが、白書で謝罪するということはかなり大きなことではないかと思う。省内でこのような文言を入れることに全く抵抗がなかったとは思えず、謝罪の文言を入れるに際して、作文した人にはかなりの勇気と覚悟が必要だったのではないだろうか。

白書という閣議了解を必要とする公的資料に、このような謝罪を載せたこと自体に大きな意味があると思え、このあたりは相応の評価をして良いのではないだろうか。

ただ今後は厚労省が集めたデータをもとに、「自立支援介護」のガイドライン作りが進められるのだから、この部分への監視は欠かせない。ここに不正統計があっては、自立支援の名の給付抑制が進められるだけの結果になるので、注意深く見守りたい。どちらにしても国の分析を無批判に受け入れるだけでは、施策も制度も良くならないことを関係者は自覚すべきだ。

特に介護保険制度の中心職種と言える介護支援専門員に、制度の知識が無かったり、国が示した方針を無批判に受け入れる傾向が強いことは気がかりだ。日本介護支援専門員協会という職能団体は、介護支援専門員全体の利益代表ではないということにも注意して、それぞれのステージで、国から出されるデータなり、方針なりを分析する知識と気構えを持っていただきたい。

そのほか今週出された統計の中では、10日に総務省から公表された、住民基本台帳に基づく今年1月1日時点の人口動態調査の結果が気になるところだ。

それによると、日本人の人口は前年より43万3239人少ない1億2477万6364人。減少は10年連続で、今回は過去最大の減り幅となっている。この現象の根っこには、出生数が減り続け過去最低数になっているという自然減という最大要因があり、それは将来にわたって生産年齢人口が減少し続けるという意味を含んでいる。

日本全体の労働力が日本人だけでは賄えないことが明白になるなかで、介護労働力をどのように確保するのかという問題の解決策はないと言って過言ではない。そうであるからこそ介護事業者は、国の施策に頼るだけではなく、それぞれの事業者の企業努力と覚悟も必要になるのである。この部分で後塵を拝しては、事業経営が困難となることを自覚していただきたい。

また2日には、国民生活基礎調査(2018年)が公表されている。

それによれば全世帯に占める高齢者世帯の割合は27.6%と過去最高になっており、このうち「単独世帯」の性別は、男性32.6%に対して女性67.4%と、圧倒的に女性の比率が圧倒的に高くなっている。しかし「孤立死」・「孤独死」する人の7割は男性だという事実がある。

これは何を示しているのか・・・。高齢者支援として何が求められているのかという答えがそこにはあるのではないだろうか。僕の「看取り介護講演」では、(120分以上になれば)このことも含めてお話しすることが多い。
孤独死の現状
画像のスライドは、8月5日(月)に島根県松江市で行われる、島根県老人福祉施設協議会主催・看取り介護研修会での5時間講演で使うスライドの中の1枚である。

看取り介護と言えば、回復不能の終末期と診断された人に対するケアに特化して考える人が多いが、僕はそれは少し違うのではないかと考えている。

看取り介護とは高齢者の生活支援全般を考えるうえで、最終的にたどり着くケアステージであり、決して特別なケアではない。そこに至る過程では、終末期になった場合にどこでどのように過ごしたいのかという、リビングウイルの確認支援という重要な役割が介護支援者すべてに求められてくるし、一見看取り介護とは関係性がないと思われている、「孤独死」の問題についても、高齢者が仕事をリタイヤした後などに、どのように社会性を保ち、地域社会と分断されないかという観点から、その問題を考えることが最終的にはすべての地域住民が、最期の時間を安らかに過ごすことができるということにつながっていくのではないかと考えている。

だからこそ孤独死問題と看取り介護は無縁ではないし、関連性が高い問題であるのだと思う。

そして看取り介護に関して言えば、人が最期の瞬間まで生きる喜びを感じることができることを信じて、そうした生き方を支える介護であり、介護関係者が看取り介護を、「する・しない」、「できる・できない」と判断するのではなく、日常介護の延長線上に、ごく当たり前のように看取り介護の実践があると考える介護業界になってほしいと思っている。

島根県松江市の看取り介護講演の前にも、今月25日は札幌で2時間の看取り介護講演、27日には東京神楽坂で4時間の看取り介護講演を行なう予定だ。(参照:masaの講演予定

それらの講演は加算を取るための方法論を教えるためのものではなく、看取り介護とは何かということを伝える講演である。それは人が生きる過程を支えるという意味で、誰にでも提供されるべきケアであり、日常支援の一つとしてごく当たり前に関わるべきケアであることを伝えたい。

今年1月に上梓した、「看取りを支える介護実践〜命を支える現場から」も同じ目的で書いた本である。是非一度手に取って読んでいただきたいと思う。

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安楽支援の基盤


今僕は、東京都品川区五反田の学研ビルに向かっている最中だ。

今日はそこで行われる株式会社学研ココファン・ケア品質向上大会に講師としてお招きを受けている。僕の講演は90分であるが、13:30〜18:10まで行われる大会の全日程に参加し、職員の皆様の研究発表などを聴こうと思い、朝早い便に乗って北海道からこの時間までに駆けつけた次第である。

ただ搭乗便に遅れが出たため、予定時刻に到着するかは微妙な時間になってきたが、仮に遅れたとしても、大会自体には支障はない。開始時刻に間に合わせようとしているのは、あくまで僕の都合だからである。

介護の実務に携わっている人たちが、どのような思いを持ちながら、どんなふうに日々の業務に取り組んでいるかを知ることは、僕の活動にとても非常に重要になる。そういう意味では、今日のような機会は得難い貴重な機会であるといえる。

その大会の中で行う僕の講演は、看取り介護をテーマにしたものだ。
看取り介護講演
看取り介護とは、終末期を過ごす人々が安心と安楽な状態で過ごすためのケアである。それは日常介護の延長線上にあるもので、決して特別なケアではないが、看取り介護対象者が、本当に安楽に過ごせるために、必要な知識と技術はしっかり備え老いておかねばならない。

間違ってはならないことは、終末期だからといってずっとベッドに横たわり、安静にしなければならないとは限らないということだ。安楽とは、「安らか」であるに加えて、「楽しむ」ということも必要になる場合があるのだ。終末期にもバイタルが安静しているときには、活動参加機会があってもよいし、先日紹介したように、VRを利用した終末期支援があってもよい。

しかしいくら環境が整えられ、立派な機械・設備があろうと、それだけで人が安楽になることはない。本当に人が求める安楽とは、自分に思いを寄せてくれる誰かがそこに存在することだと思う。最期に残された時間であるからこそ、その限られた短い時間の中だからこそ、その関係性と愛情が求められるのだと思う。

人と人の間で刻んだ営みを思い、人としてこの世に生きてきた喜びを確かめるためにも、それは最も求められることなのだろうと思う。

逝かんとする人の傍らに、家族や親族がいない場合は、看取り介護に係る関係者が、その役割をしっかりと担う必要があると思う。逝かんとする人に、人間としての愛情を寄せ、手を握り、そのぬくもりを伝えることができるということが、看取り介護では最も重要なことなのかもしれない。

そのためには、介護支援に関わる関係者は、誰かの最期の瞬間に、「傍らにいることが許されるもの」となるために、日々の関係性づくりに努力を惜しんではならないのだと思う。

終末期支援の知識や技術もしっかり伝えてくるが、そうした思いも、同時に伝えることができる講演にする予定である。

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看取り介護を通じて伝えるべきもの


看取り介護とは、人が最期の瞬間まで生きる喜びを感じることができることを信じて、そうした生き方を支える介護だと思う。

人として、この世に生を受けたこと自体が尊い。人として生まれ、人生という旅を歩むことができることが貴重なのだと思う。だからこそ命が燃え尽きるその瞬間まで、生きるを支えたいと思う。そういう意味で、「看取り介護」とは、この世に生まれたことへの感謝を失わないように、生きる過程で刻んだたくさんのエピソードを思い出してもらいながら、最期の瞬間まで安心と安楽に過ごしてもらうために必要な介護だと信じている。

看取り介護の質を高めようとする理由や動機づけとは、人としてこの世に生まれ、生かされていることの感謝にしか過ぎない。それ以外の意味を見出す必要もないと思っている。

だからこそ介護関係者が看取り介護を、「する・しない」、「できる・できない」と判断するのではなく、日常介護の延長線上に、ごく普通に看取り介護の実践があって当然であると考える介護業界になってほしい

看取り介護を特別な介護であると思い込む、「誤解」をなくしたい。そのために、「看取りを支える介護実践〜命を支える現場から」という本を今年1月に上梓させていただいた。

だからと言ってこの本は、人にものを教えるような本ではない。命の尊さを伝えたいと思うだけだ。そうだ…命の尊さとは、教えるものではなく、伝えるものだからだ。

全国各地で行う「看取り介護セミナー」も、加算を取るためのセミナーにはしたくないと思っている。看取り介護とは何か・・・それは人が生きる過程を支えるという意味で、誰にでも提供されるべきケアであり、介護支援者が、するとかしないとか決めるような介護ではなく、日常支援の一つとしてごく当たり前に関わるべきケアであることを伝えたい。

勿論そのための知識や方法論も伝えている。それは誰しもできる方法である。

尊い命が燃え尽きる瞬間まで、人は人との間で、様々なエピソードを刻むことができる。それは人がこの世に生きるという意味だろうと思うし、そのエピソードの記憶を、逝くものと残されたものにつないでいくことが、命のリレーであり、それが人の歴史を創っていくのだろうと思う。

僕が総合施設長を務めていた特養では、末期がんで亡くなられた70歳代の女性が、亡くなる前日に元気だったころにいつも参加していた「療育音楽」という音楽療法の場に参加する場面があった。その場面を施設に泊まり込んで付き添っていた家族が見つめ、残されたわずかな時間の中で周囲の人と関係性を紡ぐ姿に感動し泣いている姿があった。

そのエピソードは、葬儀の際に親族や知人に繰り返し語られ、心に残る思い出となっていくのである。

そういうエピソードがまったく存在せず、「看取り介護」を受けているという人の姿が見えない特養やグループホームはおかしい。密室の中で何が行われているかわからない場所の看取りは怖い。そこで行われているのは看取り介護ではなく、放置介護であるようにも思え、その場所で死に至る人の状態とは、周囲に人がいたとしても、「孤独死」ではないかとさえ思う。群衆の中の孤独死を生まない看取り介護が求められている・・・。

そういう意味では、看取り介護とは、最期の瞬間まで人と人との交わりを支える介護でもある。

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VRを利用した看取り介護


VRとは、バーチャル・リアリティ( virtual reality)の略語で、「仮想現実」と訳されている。

VR体験装置を装着した経験を持っている方も多いだろう。一番普及しているのは、頭部に装着してすっぽりと視界を覆う「ヘッドマウントディスプレイ」(HMD:Head-Mount Display)装置である。でっかい水中メガネのような機械である。

幻視のある認知症の人たちが、どんな日常の中にいるのかを体験するためにVR体験装置を装着した経験のある介護関係者は多いのではないだろうか。そこでは実際にないものが見えたり、空間認知機能の低下した認知症の人には、段差が巨大化して見えたり、平衡感覚を失って立ちくらみするのと同じ体験をすることができ、認知症の人が生きる現実の一部を知ることができる。

その体験は、認知症の人に対するケアを考える上では、相手の立場に立って考えるための助けになるだろう。(※だからと言って、認知症の人の現実のすべてが理解できたと勘違いされては困るのであるが・・・。)

このVRをターミナルケアの場において利用しているところがあることを、神戸新聞のネット配信記事が紹介している。

終末期のがん患者の願いをかなえるため、兵庫県芦屋市朝日ケ丘町の市立芦屋病院の緩和ケア病棟で、仮想現実(VR)の装置が活用されているという記事である(6/7(金) 10:28配信 )。ネット配信記事は一定時間経過後に削除されてしまうので、一部を下記に転載させていただく。
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中皮腫を患い、緩和ケア病棟で過ごす同県尼崎市の男性(66)は5月末〜6月初旬、ベッド上でVRヘッドセットを装着した。「自宅を見たい」という男性の願いを受け、妻(59)と三女(26)が、360度カメラで撮影したリビングや寝室、ヤマモモやモクレンが育つ庭、愛車などの映像が流れた。

妻と三女は「本人目線で、歩いているように撮影した。パパがいつも座っていたソファに座り、好きなゴルフ番組にチャンネルを合わせた。13年間乗った車の運転席では、運転気分を味わえるよう工夫した」と話す。男性は「まさか見られると思ってなかった」と感想を漏らし、特に愛車の場面の再生を繰り返した。
(中略)
ふるさとや結婚式をした思い出の地、旅行先など患者の望みに応じ、関西や九州など各地で映像を撮影。衛星写真による「グーグルアース」も活用した。飛騨高山でバスの運転手をしていた男性は「運行ルートをたどりたい」と要望した。自宅の仏壇の前に座りたいという人もいた。

体験前と体験後にアンケートで感想を尋ねたところ、不安感が減り、楽しみや幸福感が増す傾向が見られたという。(転載ここまで)
--------------------------------------------------------
このブログで何度も書いてきたように、看取り介護とは安心と安楽が必要とされるケアであり、同時に人生の最終ステージを過ごす人の、「命のバトンリレー」の場でもある。そのためには逝く人と残される人の間で、様々なエピソードを刻まれて、それが両者の記憶に残されていくことが大事である。

そこでは逝く人が余命宣告を受けている場合もあり、自らの人生の最終ステージを意識したエピソードの刻印も重要となることが多い。そんなときに、思い出の場所や憧れの場所に、VRを利用して行った気分になれたり、したかったけれど、できなかったことを体験した気分になれることはとても素敵なことではないかと思う。

僕とFBでつながっている医療ソーシャルワーカーの島崎友香さんは、自らの体験に基づいて、終末期のVR利用の効果について、次のようにFBにコメントを書いてくださっている。
末期がんの患者さんと話をしている時、どこでもドアやタイムマシンがあったらな〜と毎度思います。
実際に、状態の良い時を見計らってなんとか行きたいところに行けた、会いたい人に会えた患者さんの最期は安らかです。見送るご家族の表情も違います。
また、患者さんが喜んでいる姿という、末期においてなかなか見ることのできない光景を医療職が見る、その感情をご家族含め共有するというのは大きいです。介護でも、このような使い方ができるといいですね。
余談ですが、うちの兄は闘病中吉田類の酒場放浪紀を見て幸福感を得ていました。(笑。


こんな風に人生の終末期に人は、かつての思い出の場所や憧れの場所に思いを馳せたりするのである。その時、仮想現実とは言えVRが「どらえもんのどこでもドア」のように思いを馳せた場所に人を連れていくことができるとすれば、それは終末期の暮らしに潤いを与えることではないだろうか。

そういう意味では、看取り介護の時期の安楽な過ごし方や、残された貴重な時間を有効に使う方法として、VRは様々な可能性を生み出すと言っても良いように思う。

だからこそ看取り介護に取り込む特養などでは、その導入を積極的に検討する価値は十分あるだろう。

僕が今後行う、「看取り介護講演」でも、看取り介護期にVRを利用したケースを紹介していこうと思ったりしている。

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終末期の安楽支援に必要な知識


死の直前に必ず現れる状態の一つに、下顎呼吸(かがくこきゅう)がある。

これは酸素の取り込みが少なくなることで、顎と喉の筋肉を動かして酸素を取り込もうとする呼吸状態で、あえぐような状態になる。そのため下顎呼吸を一度も見たことがない人は、その状態を苦しんでいる状態と考え、なぜ酸素吸入をしないのかと疑問を持つ場合がある。

しかし下顎呼吸状態のときは、酸素の取り込みが少なくなって体内の二酸化炭素濃度が上がるために、脳からエンドルフィンという麻薬物質が出て、下顎呼吸を行っている当事者は恍惚状態になる。つまり苦しくはないわけである。この時に酸素を入れてしまえば、体内の二酸化炭素濃度が下がり、エンドルフィンが出なくなるので、対象者を苦しませることになる。

だから死を直前にして下顎呼吸を行っている人に対し酸素吸入することはない。この時間違ってはならないことは、下顎呼吸は意識が無い状態だから苦しまないということではないということだ。あくまでエンドルフィンの生成によって恍惚状態になって苦しくならないのであり、酸素吸入しても意識は戻らないが、恍惚状態ではなくなり苦しんでしまうということである。

このことを看取り介護に携わる人々は、事前に家族等に説明しているだろうか?

また看取り介護の際に、対象者の意識が無い状態で、息をするたびにのどの奥でゴロゴロと音がする ことがある。呼気・吸気両方で音がする場合が多いのだが、この状態を死前喘鳴:しぜんぜいめい(デスラッセル:Death Rattle)と呼ぶ。
(※意識があり、咳き込みながら、喉がごろごろと音がすれば、死前喘鳴ではないことに注意が必要だ。)

死前喘鳴は、数時間ないし数日間で死に至る可能性があるということを示す徴候で、48時間以内にお別れの瞬間が来るといわれている。

このとき家族等から苦しそうな音を出しているから、痰を吸引してほしいと言われることがあるが、吸引しても痰がない場合がほとんどであり、音は消えない。

死前喘鳴の原因音は、喉の奥で唾液が溜まっていたり、気道の分泌物が鳴る音であったりするので、痰が原因ではなく、苦しみも伴わないものなのである。よってのどの奥にチューブを突っ込んで、痰を吸引することはかえって苦痛を与えることになってしまう。むしろ口腔内の唾液を綿花などでとるだけにとどめたほうが安楽を阻害しないだろう。

そのことも事前に家族等に説明しているだろうか?

死前喘鳴という状態がみられ、家族が痰の吸引を望んで訴えたときに、そうしたことを説明するのではなく、看取り介護に移行する際に、終末期の身体状況として予測される状態については、あらかじめ説明しておくことが大事である。

下顎呼吸や死前喘鳴などは、苦しんでいる状態ではないことを説明し、原因や対処法はこうですよと明らかにしておくために、「愛する人の旅立ちにあたって」というパンフレットを作ったのは平成22年のことである。

そのパンフレットは、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」に最新バージョンを掲載しているので、参考にしてそれぞれの事業者に見合った説明書式を作成していただきたい。看取り介護対象者を適切に安楽に送り出すために、僕の著作本が利用されるなら、それは願ってもないことなので大いに利用してもらいたい。

看取り介護では、「安楽と安心の介護」が何よりも必要なのだから、こうした知識は看取り介護に携わる職員全員が持ってほしいものだ。

ところで死前喘鳴の人に痰吸引を試みることは、かえって看取り介護対象者を苦しませかねないと書いたが、看取り介護対象者の中には、毎日痰吸引が必要とされている人がいる。その人たちは、痰吸引によって、安楽が得られているのだろうか?

そもそも痰吸引は、安楽介護なのだろうか?痰を吸引されている人の表情を見ると、痰が出てむせているとき以上に苦しがっていないだろうか?

そう考えると、痰が出て吸引すればよいと考える以前に、痰がなぜ吸引しなければならないほど出るのだろうと考える必要もあるのではないだろうか。

足がパンパンに腫れているにもかかわらず、まだ続けられている意味不明の点滴が痰の原因なのかもしれない。足の腫れを見て点滴をやめた途端に、痰が出なくなる人は多いことを知っているのだろうか・・・。

看取り介護の場で不必要な点滴を続けられている人に対し、一生懸命に痰の吸引をしながら看取り介護対象者を苦しめている看護職員や介護職員が、この国に何百人もいるのではないだろうか。そういった間違った看取り介護の方法論を変えていく必要もあるのではないだろうか。

知識がないということは、特定場面では罪深い問題なのだということを心してほしい。

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人生の最終ステージを支える責任


現在全国の特養の8割以上が、「看取り介護加算」の算定届を出している。

つまり特養の8割以上が、「看取り介護」を実施できる施設であるということになる。・・・しかしその実態は、本当に終末期支援としてふさわしい支援行為となっているだろうか。

看取り介護加算を算定できているということは、その算定要件をクリアしているのだから、法令上の看取り介護を実施していないということにはならない。しかし法令で定められた要件をクリアしていたとしても、即ちそれが安らかな終末期支援を意味しているとは限らないのである。

看取り介護を行う際に一番大切なことは、看取り介護対象者が、「安心して安楽に過ごすことができる」ということだ。特に病気が原因となっている「痛み」に苦しまないように、痛みをコントロールすることは一番大事である。もしそれができないのであれば、痛みのコントロールが可能なホスピス等に、対象者を転院するなどの支援を行うことが最重要な支援となり、決して無理して看取り介護を行なおうとしてはならない。なぜならそれは看取り介護対象者を、人生の最終ステージという大切な場所で、苦しめるだけの結果しか生まないからだ。

このように看取り介護が何たるかという理解がないままで、終末期の人をそこで看取ればよいというだけの知識で、痛みを無視して、看取り介護対象者の苦痛を見逃すなんてことがあってはならない。

そういう意味では、安楽な体位の支援を常に行ったり、体位交換も適切に行って皮膚障害による痛みが出ないようにすることも大事である。そして看取り介護対象者が死への恐怖におびえることがないように、安らかな気持ちで過ごすことができる精神的支援などをすべて含んだ総合的支援が行われなければならない。このことを看取り介護に携わるすべての関係者が理解しておく必要がある。

看取り介護とは日常支援の延長線上にある終末期の介護であり、それは決して特別な介護ではなく、看取り介護ができない特養というものが存在してはならない。しかし同時に、前述したような終末期支援の際に重要になることは何かという知識は当然求められるのであるから、すべての特養経営者は、職員にその知識を身に着けさせるように教育を行う必要は当然あるということだ。

終末期特有の身体症状としてはチェーンストークス呼吸や、デスラッセルという症状も起こり得るし、下顎呼吸は必ず起こる自然現象なので、その状態になった時に慌てないように、あらかじめそれらの知識を持っていることも不可欠となる。(※拙著、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」には、それらの説明も詳しく書いているので参照願いたい。)

これらの知識は日ごろから、「看取り介護研修」をきちんと行って、職員全員に周知すべき知識だ。看護職員や介護職員だけではなく、相談員や事務職を含めたすべての職員が、そうした知識を持っていないと、間違った形で看取り介護が行われてしまう。

間違った形で看取り介護が行われた結果、加算算定ができなくなる程度の問題ならば、それはさほどの問題とは言えない。それは職員に知識を与えないまま、そうした大事な介護を行わせていた経営者の自己責任に過ぎないからである。

しかし間違った形で看取り介護が行われた結果は、加算算定の問題にとどまらず、看取り介護対象者の人生の最終ステージに、取り返しのつかない後悔を与える結果にななることが多い。そうなっては困るのだ。そのような状態には決して陥らないという覚悟が求められる。

拙著でも指摘しているように、看取り介護を行う前提条件は、医師の医学的見地によって、きちんと終末期判定が行われ、余命診断が行われるということだ。しかしそうした当たり前の知識に欠ける特養では、終末期判定があいまいに行われ、場合によっては経管栄養となった人をすべて看取り介護対象としているなんていう信じられない状態が起こってるのだ。

その状態はあまりにも無責任である。それは人の命に深くかかわる看取り介護において、真摯な姿勢のかけらも見つけられない状態と言える。そうした状態を放置しておく人が、対人援助を行う事業の経営者であってはならないのである。

だからこそ看取り介護に携わるすべての関係者の皆さんに訴えたい。

看取り介護とは単に加算を算定するためだけの行為ではないのです。それは誰かの人生の最終ステージに関わるという行為なのです。その場面で関わる人と、看取り介護対象者の関係性によって、誰かの人生の幸福度が変わってくるかもしれないのです。人としてこの世に生まれてよかったと思いながら旅立っていくことができるかどうかは、看取り介護という場面で、そこに携わる人々がどう関わっていくかで左右されてしまうかもしれないのです。

だからこそ、命を尊く思ってください。儚い命を大切に思ってください。その命が燃え尽きる瞬間まで、命を愛おしく思ってください。

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看取り介護の場の多様化に備えて


僕の最新著作本「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」は、張り付いたリンク先から購入できるが、そのリンク先には在庫数が表示されている。

その数字がほぼ毎日変化しているということは、どこのどなたかはわからないものの、毎日誰かがこのサイトから僕の本を購入してくれているという意味である。本当にありがたいことである。

講演会場でもこの本の売れ行きは良くて、とても驚いている。なぜならこの本は、「看取り介護」をテーマにしているだけに、購入者層は過去の僕の出版本よりも狭くなるのではないかと予測していたからだ。そんな予測が出版社や著者にとっては良い方向に外れている。それだけ様々なステージで、看取り介護の実践が求められているという意味ではないのだろうか。

この本では、僕が今まで実践してきた看取り介護のケースを紹介するだけではなく、看取り介護指針や、終末期の身体状況の変化を説明するパンフレット、デスカンファレンスのための一連書式など、実務書類も多々掲載しているので、看取り介護の実践書としても利用できる。さらにそこで紹介しているケースを読むと、命と向き合う介護の現場の使命と責任という意識も持つことができ思う。何より看取り介護を通じて、介護そのもののあり様を考えることができる実践書となっているので、ぜひ一度手に取って読んでいただきたい。

我が国では国民の8割以上が医療機関で亡くなっているという現状があるものの、医療機関以外で死亡する人の割合が少しづつではあるが増えている。自宅で亡くなる人の割合も、0.数ポイントという割合で増え続けており、それに伴い当然のことながら医療機関で亡くなる人の割合が少しだけ低下しているのがここ数年の傾向である。

それは在宅療養支援診療所が医療保険に位置付けられて以来、在宅ターミナルケアの専門医が増えていることによって、自宅等の住まいで亡くなることができる人が増えているという意味である。その中には、一旦医療機関に入院したとしても、そこで入院し続けたまま亡くなるのではなく、回復不能と診断された後に、自宅に戻って人生の最終ステージを過ごす人も含まれている。

医療機関でターミナルケアを専門とした病棟として、「ホスピス緩和ケア病棟」があるが、そこは末期がんの方しか入院できないのだから、こうした変化はとてもありがたいことで、終末期の選択肢が増えていることを意味している。そのため在宅ターミナルケア専門医の増加によって、末期がんの方であっても、あえて緩和ケア病棟に入院せず、自宅で亡くなるというケースも増えている。

このことに関連して、「生きるを支える」という記事の中で、福岡市で在宅ターミナルケア専門医として活躍している、強化型在宅支援診療所・まつおクリニックの松尾 勝一院長の話を紹介している。

松尾Drは、「医療機関で行う終末期医療・緩和ケアについて、在宅で行うことができないものはないが、在宅で行うことができることで、医療機関で行うことができないことは結構多い」と言い、その理由として、「畳が敷かれ、仏壇があり、家族がいる」と述べておられた。

勿論、緩和ケア病棟にも畳があるところもあるし、仏壇を持ちこむこともできる。さらに家族がそこで一緒に付き添って最期の時間を過ごすこともできるだろう。しかしその仏壇や畳や壁の一つ一つの存在に、過去の暮らしとの連続性があって、それを見て思い出が浮かんでくるかどうかということはまた別の問題である。

家族が単に看取り介護の場に居るのではなく、馴染みのある空間に家族と共に過ごすことで、過去の様々な思い出が浮かんできて、最期の時間を過ごす際の安らぎにつながっていくということが、人生の最終ステージを過ごす際には重要な要素になるのである。

だから松尾先生は、ターミナルケアを実践する場、終末期を過ごす場所として、自宅に優るものはないと言っておられる。

人生会議:ACPという考え方が普及する過程では、終末期を迎えた人の、本当の気持ち・思い・希望に寄り添った場所で過ごす方法が追及されるのだから、こうして自宅で最期の時間を過ごす人も増えるだろう。(参照:人生会議の可能性

そしてリビングウイルの支援者としての介護支援専門員等の役割もいっそう重要となるだろう。その過程では、数カ月〜半年程度の期間を終末期支援の期間とし、自宅で過ごす方が通所介護に通って心身活性化を図るというケースも増えていくのではないかと考える。

看取り介護の対象者が、訪問系サービスのみならず、通所系のサービスも利用することによって
、様々な居所で終末期を過ごすことができるのだ。サ高住が最期の居所となっている方は、その場で訪問系サービスを利用しながら、週の何回かは通所介護に通って、馴染みのある人々との交流機会を途切れさせずに終末期を過ごす計画も普通に考えられるようになるだろう。

終末期を自宅で過ごす方にも入浴支援は重要であるが、それが一律訪問入浴ということにはならない。社会的関係を途絶させず、寂しい終末期にならない方法と入浴支援の方法をセットで考えて、通所介護で他者と交流して心身を活性化できる機会を持ちながら、入浴支援を受けるという計画だってありだと思う。

よって通所介護の従業員の方々も、終末期の方々の身体状況の変化の特徴や、終末期支援として関わる際に持つべき知識等について勉強しておくことは非常に重要となるのである。通所介護の職員だから、看取り介護には関わらないだろうという考え方は完全に否定されなければならない。

これからの社会では、すべての介護関係者が、他の領域の専門家と連携しながら、終末期を含めた高齢者の暮らしを護るという意識が必要だ。それが介護のプロとしての意識につながり、そうした意識を持つ専門家が存在することが、本当の意味での地域包括ケアシステムの基盤となるのである。

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特養を墓場に化す安易な看取り介護判定


僕は今、岡山空港でこの記事を更新している。これから羽田空港を経由して新千歳空港に向かう予定だ。先週木曜日から始まった、東京〜福岡〜岡山の講演の旅を終えて、いったん自宅に帰るためである。

昨日は岡山市で行われた日総研看取り介護セミナーで5時間の講演を行った後、日ごろ何かとお世話になっている、川上中国大学の元教授のお誘いで、岡山の人気店でオフ会を行い、2次会のカラオケまで楽しんで過ごした。(参照:masaの血と骨と肉「信号はまだ、赤だし、動けません。」)

おかげで今朝は目覚めもさわやかで、ホテルのチェックアウトまで連載原稿の執筆作業をおこなっていたが、順調に作業も進んだ。

この旅の土曜と日曜の講演で、今年度の日総研看取り介護セミナーが無事終了することになった。全国7カ所を、このテーマで回る旅も、もう4巡目になったが、いまだに看取り介護に対する大きな誤解や、不適切な状態で看取り介護が行われている状態がなくならないのが非常に残念である。

今年度、全国を回って新たに問題だと感じたことは、「余命診断が行われていない看取り介護はあり得ない」という記事で指摘した不適切な状況が思った以上に多いということだ。

終末期判定がきちんと行われず、余命診断も行われていない状態の、偽物の「看取り介護」がまかり通っていることは、今年1月に上梓した、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」でも問題提起している。

そうした偽物の看取り介護を行っている特養が、日本全国に存在している。

今回のセミナーに参加した人の中にも、自分が所属する80名定員の特養で、現在18人もの多人数の利用者が「看取り介護」とされていることに疑問を感じ、僕の講義を聴いて「看取り介護」とは何かを確認したいという動機付けを持たれている人もいた。

聴けばその特養では、利用者の家族が「看取り介護を希望する」ことが、看取り介護実施の条件と根拠になっているという。

とんでもないことだ。看取り介護とは、治療により回復の見込みがなく、数週間〜半年程度で死を迎えるだろうと予想される終末期であると判定された人に対し実施される介護のことであり、それを判定するのは医師以外の者には許されていない。もし家族の希望で一律、看取り介護としているのが本当なら、それは緩やかな死への誘導ともとられかねず、著しい人権侵害が疑われる。

それとは別の特養では、経管栄養になった人は全員看取り介護と判断しているという。馬鹿も休み休み言え!経管栄養とは、食物の経口摂取が困難になった人の延命を図るために行われる行為である場合が大半で、それは看取り介護とは対極に位置するものだ。食物の経口摂取が不可能かつ、その状態が治療によっても回復しないと医師が判断した場合に、安楽な終末期を過ごすために、『経管栄養を行わない』と判断して行う介護が、本来の看取り介護である。

またある特養では、利用者の半数以上が看取り介護対象で、その期間も一年以上に渡っている人が珍しくなく、中には数年に渡る期間となっている人もいるという。その状態とは、医師が真面目に終末期判定を行なっている状態とはとても思えない。

それは医師の責任を果たしていない状態と言えるし、そういう医師の判断に寄りかかっていたり、あるいはそういう判断に誘導している特養は、道義上の責任を問われて然るべきであるし、そういう施設のトップは、社会から厳しく糾弾されるべきである。

繰り返しになるが、終末期とは余命が半年以内と判定される時期のことを言い、看取り介護は長くてもおおよそ半年間という期間になるのが常識で、予測が外れても年単位で実施される介護ではない。

真面目に適切に看取り介護を行なっている施設において、看取り介護の実施期間は、看取り介護加算の最長算定期間である30日を下回るのが普通である。

なぜなら看取り介護とは、対象者もしくはその家族に対し、余命診断という形で命の期限予測を告げた上で、残されたその期間に、出来ること・したいことを実現できる期間という意味があるからだ。それは対象者や家族に、死に備えた覚悟を促すことにもなるのだから、治療により回復不能であるという判断も、余命が半年以内であるという判断も、必然的に慎重にならざるを得ないからだ。

そうであるにもかかわらず、終末期判定をおざなりにし、余命診断も行わずに、多数の利用者を半年を超える長期に渡って看取り介護の対象としている施設とは、介護施設でも、暮らしの場でもなく、単なる墓場の中継地にしか過ぎない。

恥を知れと言いたい。

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すべての介護関係者に求められる看取り介護スキル


今日も僕はこの記事を空の上から更新しています。搭乗機は、まもなく羽田空港に降りる予定です。

目的地は高井戸の認知介護研究・研修東京センターです。今日は午後4時過ぎから社会福祉法人の職員さんなどに向けて、「看取り介護講演」を行う予定となっています。

しかし今回の旅はそれで終わりではありません。今日から東京(杉並と新宿で2講演)〜福岡(博多)〜岡山(岡山市)と回り、北海道の自宅に戻るのは来週の月曜日・夜になる予定です。

今日は講演後、渋谷のホテルに泊まる予定になっていますが、夜は明日の講演の主催者である、東社協の関係者の方々と新宿駅近くでオフ会が予定されています。呑みすぎないように気を付けるつもりはありません(笑)

明日の講演は午後からですが、その前に泊まっているホテルで、午前中いっぱい出版社の取材予定が入っています。この取材は、僕のインタビュー本を発刊するための取材で、今年の夏ごろには出版にこぎつけることができるように準備を進めています。ただしこれはあくまで僕のインタビューを中心に、出版社の編集者が文章をまとめるもので、僕の著作とは異なるものです。どんな本になるかは僕も予想がつかない状態です。今日も含めて何回かに分けて行われるインタビューがまとまって、本になる日までのお楽しみというところです。もしかしたら僕の「伝記」のような本になるかもしれません。伝記ができたらもう死ななければならないなんて言っているのは誰でしょうか?死んだら化けて出ますよ。

明日は、あいおいニッセイ同和損保新宿ビルで行われる、『東社協・東京都高齢者福祉施設協議会主催・生活相談員研修』の中で、「生活相談員が担うべき人材確保および定着」というテーマで150分の講演を行ないます。介護事業者のおける頭脳役としての役割を持ち、かつ中間管理職として、あるいは将来施設長という期待も寄せられる相談員に向けて、今後の介護事業における人材確保と育成スキルを磨いてもらうべくレクチャーしてきます。

その講演を終え、質疑応答などすべてが終わるのは午後5時過ぎになりますが、その後が大変です。新宿から品川に移動し、新幹線に乗り換えて福岡県の博多に向かわねばならないからです。

本来なら博多へ行くには、羽田空港から飛行機でに乗った方が早く着くことができるのですが、羽田に移動して飛行機に搭乗し、さらに福岡空港を降りた後に、地下鉄に乗って博多に移動する乗り継ぎの手間を考えると、新幹線で品川から乗り換えなしで移動して、移動中に駅弁食いながら酒でも飲んでいた方が心身ともに安らげるような気がして、今回は新幹線で約5時間かけて博多へ移動する手段を選びました。

ということで土曜日は福岡市、日曜日は岡山市で日総研看取り介護セミナーです。このセミナーは座学だけで5時間の長時間セミナーですが、このテーマで全国7カ所を廻るのはもう4廻り目に入りました。今年度は岡山会場が最終セミナーとなります。

ここで福岡セミナー受講者の方にお知らせとと願いがあります。既に日総研から連絡が入っていると思いますが、セミナー会場が変更されています。当初は福岡商工会議所での開催を予定していましたが、そこからすぐ近くの第7岡部ビル(日総研研修室)が新たなセミナー会場となっています。福岡商工会議所と第7岡部ビルは、目と鼻の先くらいの距離になりますが、くれぐれもお間違いのないようにお願いいたします。

このように今回の4泊5日の旅は、4会場で4講演(合計講演時間14.5時間)ですが、明日の新宿講演以外は、「看取り介護講演」です。今後死者数が増えるわが国では、どこで、どのように最期の時間を過ごすかが大きな問題となり、そのためすべての介護事業者が看取り介護に関わっていく必要があります。よって今後も看取り介護を学ぶセミナーは重要だし、そこに参加する関係者の皆さんも年々職種も人数も増える傾向にあります。

その理由は、地域包括ケアシステムによって作り出したいシステムの一つが、「死ぬためだけに医療機関に入院しなくて済むシステム」であり、そのために医療関係者のみならず、すべての福祉援助・介護サービス関係者に、「看取り介護スキル」が求められているという意味があると思います。

そうしたニーズに応えるために、今年1月には日総研出版社から、「看取りを支える介護実践〜命を支える現場から」という本も出版させていただきました。その本も各講演会場で販売させていただいておりますが、おかげさまを持ちまして売れ行きも好調です。貼りついた楽天ブックスのリンク先には、本の在庫数が表示されますが、その数字も毎日変わっており、毎日誰かが僕の本を買ってくださっているのだと感激しております。

そんな僕の本の書評がCBブレインに掲載されました。看取り介護はスタッフを成長させる 【気になる一冊】 。是非参考にご覧になってください。

もう一つ下記の画像は、今月のシルバー産業新聞に掲載された書評です。過分な評価をいただき恐縮しております。
書評
今回の4つの講演会場でも、この本は販売し著書価格としてお得に購入できますので、是他会場で手に取ってご覧の上、ご購入いただければ幸いです。

それでは今日から日曜日にかけての、四会場でお会いする皆様、当日は是非よろしくお願い申し上げます。

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安静とは、寂しい状態ではない


一昨日東京の社会福祉法人・浴風園さんで「看取り介護」について講演を行なった。
社会福祉法人浴風会主催看取り介護講演
講演は、同会職員さんだけではなく、近隣の施設などの関係者の方も受講されていた。特養の職員研修ということで、介護施設における看取り介護の方法論を中心にお話ししたが、在宅介護関係者の方からも、参考になったと声をかけていただいた
社会福祉法人浴風会オフ会
その日の夜は法人職員さんとのオフ会を楽しんだ。浴風会の皆さん、ありがとうございます。

来月も浴風会さんにお邪魔して、今回受講できなかった方に同じ話をする予定になっているので、近隣の施設・事業所の皆様も、是非3月14日(木)16:15〜認知介護研究・研修東京センター2階大会議室までお越しいただきたい。

そんなオフ会を終えた後、登別に戻って認定審査会に参加した。PM21の影響なのか、北海道に到着する時間が30分以上遅れたが、午後6時からの審査会には遅れずに参加できた。

そして今日は新千歳空港〜女満別空港に飛び、網走にお邪魔する予定である。この記事も新千歳空港のさくらラウンジで更新中だ。ところで道外の人から『登別って北海道のどこなんですか?』と聞かれることがある。そういう人は登別と網走の距離感は理解できないだろう。そこで参考までに下の地図を見ていただきたい。
北海道地図
登別は左下の海岸沿い・太平洋に面した場所にある。一方、これから向かう網走市は右端に近い、オホーツク海沿いに位置している。僕の家の最寄り駅である東室蘭駅から、JRを利用して網走に行こうとしたら、札幌で乗り換えて10時間以上かかるのである。しかし新千歳空港から女満別港空港までのフライト時間は30分弱だから、前後の移動を入れても飛行機利用の場合は3時間程度で到着できる。ただしオホーツク地方は雪が多い場所だから、冬は着陸できない日も多い。幸い今日はそのような心配はない。ということで道内の旅と言っても、移動手段に飛行機を選択するのは必然である。

網走の講演は明日の午後からだ。そこでも看取り介護講演を行なうが、明日の受講者は主に在宅介護に携わる方であり、ホームヘルパーさんや介護支援専門員の皆さん、そして地域包括支援センターの皆さんがである。看取り介護の方法論は、施設と居宅で変わるものではないが、講演内容そのものは在宅における視点を中心に語ろうと思っている。

看取り介護には、いくつかの間違ったイメージが付きまといがちである。例えば看取り介護というと安静が必要で、看取り介護を行う部屋から一歩も外に出ないというケースもある。

しかしそれは間違っている。病状によって安静は必要であるが、それは部屋に閉じこもることではない。安静が求められても、バイタルが安定しているときは、人の輪の中で関係性を紡ぐことがあっても良いのだ。

安静が必要だからと言って湯船に浸かる生活習慣を奪う必要もなく、湯船につかる入浴支援をすることがあっても良い。部屋に閉じ込め、カーテンを閉ざして、介護する人以外の誰の顔も見ることなく寂しく旅立つことがあってはならないのだ。

僕が総合施設長を務めていた特養では、末期がんで亡くなられた70歳代の女性が、亡くなる前日に元気だったころにいつも参加していた「療育音楽」という音楽療法の場に参加することがあった。その場面を施設に泊まり込んで付き添っていた家族が見つめ、残されたわずかな時間の中で周囲の人と関係性を紡ぐ姿に感動し泣いている場面がみられた。

そうした場面は、葬儀の際に親族や知人に向かって繰り返し語れる、新たな思い出となっていく。それもすべて遺族になった方の心に残る思い出となるのである。それが命のバトンリレーとなるのである。

そういうエピソードがまったく存在せず、「看取り介護」を受けているという人の姿が見えない特養やグループホームはおかしい。密室の中で何が行われているかわからない場所の看取りは怖い。

そこで行われているのは看取り介護ではなく、放置介護であるようにも思え、その場所で死に至る人の状態とは、本当の意味での「孤独死」ではないかとさえ思う。

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人として生を受け、生かされてきた者ができること


特養で30年以上勤めてきたので、そこで様々な「」を看取ってきた。

中には親子2代にわたってお看取りしたケースもある。20数年前に親を看取った子が、やがて年老いて自らの子に看取られていくときに、最期に過ごす場所として、僕が働いている施設を選択してくれたことに感謝と縁を感じながら、その人が最期の時間をできるだけ安楽に過ごしてもらうことを第一に考えて関わってきた。

その繰り返しが、僕が特養の中で他の職員とともに実践してきた、「看取り介護」である。

その実践論をまとめた「看取りを支える介護実践〜命を支える現場から」が今年1月に刊行されて、既に1月以上が過ぎた。おかげさまでたくさんの皆様がその本を購入してくださっている。

文字リンクに張り付いているのは、送料無料で取り寄せができるサイトであるが、ここも一旦売り切れとなり、再入荷して発売が再開されたものだ。そこに表示されている「在庫の残りはあと何冊」の数字が毎日減っていくのを見て、また売り切れになりそうで、その前に再入荷してくれたらよいのに・・・と思ったり、いったいどんな方が、どんな思いでこの本を購入してくださっているのだろうと考えたりしている。

この本は、旅立って行かれる方が最期の時間を過ごすときに、この世に生まれてよかったと心から思うことができるように、その「実践」を支える皆様のヒントになることを願って書いた本である。そうであるからこそ、看取り介護に係るすべての人に、ぜひ一度手に取って読んでいただきたいと思う。そしてできることならば、本を読んでいただいた方がそこで書かれている実践論を参考にして、それぞれのステージで看取り介護を実践し、その質を高めてくださることを願っている。

看取り介護とは、人が最期の瞬間まで生きる喜びを感じることができることを信じて、そうした生き方を支える介護だと思う。

人として、この世に生を受けたこと自体が尊い。人として生まれ、人生という旅を歩むことができるそのことが貴重なのだと思う。だからこそ命が燃え尽きるその瞬間まで、生きるを支えたいと思う。そういう意味で、「看取り介護」とは、この世に生まれたことに感謝する気持ちを捨てることがないように、そこでたくさんエピソードを刻んだことを思い出してもらいながら、最期の瞬間まで安心と安楽に過ごしてもらうために必要な介護だと信じている。

看取り介護の質を高めようとする理由や動機づけとは、人としてこの世に生まれ、生かされていることの感謝にしか過ぎない。それ以外の意味を見出す必要もないと思っている。

だからこそ介護関係者が看取り介護を、「する・しない」、「できる・できない」と判断するのではなく、日常介護の延長線上に、ごく普通に看取り介護の実践があって当然であると考える介護業界になってほしい。看取り介護を特別な介護であると思い込む、「誤解」をなくしたい。

この国に住む民(たみ)が、最期の時をどこで迎えようとも安心して安楽に過ごすことができるような社会になってほしい。そのことに不安を感じる人がいない国にしていきたい。それが今この時代に、介護という職業にかかわっている我々の使命ではないのだろうか。

是非そのためにも僕の看取り介護セミナーに参加してほしい。話を聞いた後に、そのことを本を読んで振り返り、皆さんの実践に生かしてもらいたい。

看取り介護についてたっぷり5時間学ぶことができる日総研看取り介護セミナーは、いよいよあと2カ所を残すのみである。
日総研看取り介護セミナー
3/16(土)の福岡セミナー福岡商工会議所)と3/17(日)の岡山セミナー福武ジョリ―ビル)は、まだ参加申し込み受付しているので、お近くの方は参加を検討してもらいたい。

そのほかにも「看取り介護講演」は全国各地で実施予定だ。2/27(水)と3/14(木)には、東京杉並区の社会福祉法人・浴風園さんの職員研修として、2度にわたって同じ内容の「看取り介護講演」を行う。同会に問い合わせていただくと、お近くの方は受講が可能かもしれないので一報を入れてみてほしい。

北海道では網走市のオホーツク・文化交流センターで、3/2(土)に、ホームヘルパーの研修会として、「看取り介護講演」を行う。非会員は参加費3000円となるが、希望者はどなたも参加できるので、網走市東部、呼人、南部地区地域包括支援センターの山西さんに問い合わせていただきたい。

沖縄でも「看取り介護セミナー」を実施予定だ。
沖縄看取り介護講演
年度末の3月30日(土)13:30〜16:15、うるマルシェ(沖縄県うるま市)で実施予定の、「琉球介護コミュニティ協会 主催セミナー」の中で、120分の看取り介護講演を行うので、文字リンク先からお申込みいただきたい。

なおこのセミナーに先駆けて、前日には沖縄県豊見城市でサービスマナー研修を行う。
沖縄サービスマナー研修
沖縄では、1月のうるま市に引き続いて、2回目のサービスマナー研修となるが、定員が限られているので、お申し込みは早めがお勧めである。

今年度の締めとなる沖縄2講演なので、是非たくさんの皆様に受講していただきたくお願い申し上げます。うるま市と豊見城市で愛ましょう。

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看取り介護の神髄


看取り介護対象者は、特別な医療対応が必要な状態像ではない。

勿論、終末期にも医療対応や看護処置が必要なくなることはないが、それは日常の医療・看護サービスの域を超えるものではない。

むしろ不必要な延命措置や、苦痛につながる医療は徹底的に排除され、その延長線上に点滴や経管栄養を行わないという判断がされるケースも多くなる。だからそこでは日常生活の場で療養生活を送る範囲で対応可能な医療・看護サービスに限定されて提供されると考えてよいもので、自宅やサ高住、グループホームや特定施設、そして特養で日常的に行われる介護の域を出て、特別な対応が必要とされるわけではない。(参照:看取り介護の本質

だからと言って経管栄養が絶対されないわけではないし、経管栄養をすべて悪ものと思い込むことも間違いであるということは、このブログで再三書いてきた。

鼻腔栄養の苦しみをなくすために胃婁を増設することだってあるだろうし、安楽な終末期に苦痛なく緩やかに移行する段階として、胃婁対応の時期がある場合も想定される。何より本人が望んだ場合は、延命第一で胃婁対応するケースが否定されて良いわけがないのである。

そのような場合は適切な胃婁管理が必要になるし、それ相応の医療サービスが基本サービスとして提供されるように、医療・介護連携のチームを組んで対応すべきである。そのことは施設・在宅に関わらず視野に入れて行われなければならない対応であり、今の時代、看取りの場がどこであろうと、医療と介護がそれぞれ別個にサービス提供を行わねばならないとか、別個でないとサービス提供ができないとか考えるほうがどうかしている。

医療も介護もハイブリッド化して、適切な連携を組むシステムが地域包括ケアシステムなのであり、施設サービスも、居宅サービスも区別なく、そのシステムに含まれて行かねばならない。

しかしその際も、医療や看護が担うのは最先端の医療科学分野ではなく、日常生活の場で対応可能な、ごく一般的な医療・看護サービスと言える。医師はそこで、どこまで胃婁対応などの医療を提供するべきかという判断を常に視野に入れてしかるべきである。

終末期を迎える高齢者が、息を止めるまで一度増設した胃婁を使い切るという必要はないわけである。ある時期は、その対応により安楽が保たれた人であっても、そろそろそれさえも必要がない時期になっていくという判断をしないことには、いたずらに延命して苦しみを引き延ばす結果になりかねない。

一時の安楽支援が、苦しむ時期を後にずれ込ませるだけの結果になるのはあまりにも対象者にとって過酷な運命と言える。だから医師による、「しなくてよい医療行為の判断」は、終末期を迎える人にとって何よりも重要となる。何でもできる医師だからこそ、「しなくてよい」という医師の判断には信頼を寄せられるし、安心できるのだからこそ、その役割を適切に果たしてほしいものだ。

そのうえで、終末期とはどのような時期で、そこで必要な支援とは何かを今一度安心・安楽な介護という原点に戻って考えてもらいたい。人が「生きる」とは、どういう意味があるのかを同時に考えてもらいたい。あなたが終末期をどのように過ごしたいのか、どう生きたいのかを考えてほしい。

終末期を過ごしている人が痰にむせこんでいる状態を見て、喀痰吸引こそが安楽支援にとって何より必要だという考えには全く賛同できない。それは完全に間違った考え方である。なぜなら喀痰吸引されている人が一番苦しむのは、痰にむせている時ではなく、喀痰吸引されている時だからである。そこで必要なのは痰が出ないように、不必要な点滴を終了することではないのだろうか。

肺がんで禁煙を余儀なくされた人の終末期にまで禁煙の継続が必要だろうか。勿論無理してまで煙草を吸わせる必要はないが、「せめて今際の際(いまわのきわ)に煙草を一本吸って旅立ちたい。」という人の願いをかなえることは、そんなに難しいことなのだろうか。最期は1日1本でも良いから、我慢していた煙草を吸えるように援助することが必要ではないのだろうか。そのために煙草を吸うことを阻害しているものは何かというアセスメントが求められ、その結果、不必要な医療対応、過剰な医療行為があぶり出されるのではないだろうか。

糖尿病に長く苦しんでいた方が、合併症を防ぐために我慢していた「甘いもの」を、心おきなく食べることができるのは、命の期限が切られた終末期であるからこそである。心おきなく食べることができると言っても、その量は自ずと限られてくる。ほんの一口や二口、あんこを食べることができたと喜んでくれる人の傍らで、我々は一体何をすればよいというのだろうか。その笑顔だけを寿(ことほ)げばよいだけの話ではないのだろうか。

もう一度温泉にゆっくり浸かって死にたい」と言っている人に、一生懸命、「湯船につかるのは体力が奪われるからよした方が良いです」と説得することに何の意味があるのか・・・。

看取り介護とは、「命の期限」が予測されている人に対する支援行為である。だからこそ、その時期であるからこそ、「できること」・「やれること」は、命の期限が不明な人より数多く存在することになるわけだ。そこでできることはとても多くなるのである。それを支援者が狭めてどうするのだろうか・・・。

だからこそ、看取り介護・ターミナルケアは日常の暮らしの場で行うことができるものだし、暮らしの場である特養で行えないと考えるほうがどうかしているのである。そうした特養は、「暮らしの場」とも、「終生施設」とも言えないのである。

そうした特養は、その看板を下ろすべきである。

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看取り介護の本質


先々週の土曜日から始まった旅を終え、僕は今、関西空港から旅立って北海道に戻ろうとしている。

東京〜千葉県松戸市〜愛知県碧南市〜安城市〜名古屋市〜大阪市の旅は、いつものことながら素敵な出会いと再会の旅でもあった。世に財産と呼ばれるものは数あれど、人とのつながりに勝る財産はないし、そのつながりは、「見えない絆」によって繋がれているからこそ、決して消えない繋がりでもある。

そんな繋がりの中で、旅の途中で続々と講演依頼のメールや、口頭での依頼をいただいた。年度末の予算執行や、来年度の事業計画に取り掛かる中で、この時期に研修予定が追加されたり、来年度の予定が早々と決まったりしているのかもしれないが、そのような依頼をいただくことができるのも日ごろの繋がりのおかげである。

改めて人は人とのつながりの中で生かされているのだと思う。僕だけでできることは何もない。

旅の途中なので、「masaの講演予定」はまだ更新しておらず、家に着いてから更新アップしようと思うが、具体的には6講演の予定が新たに入り、そのほかに4講演が調整中である。僕を必要として呼んでくださる方が、全国にこんなにもたくさんいることに、この場を借りて感謝を申し上げたい。

さて今回の旅は、6地域で8講演を行ってきたが、そのテーマも制度改正・報酬改定の内容を精査して先を読むものや、介護支援専門員の役割に関するもの、介護実務に関するものや、サービスマナーなど多彩な内容となっている。

こうした広いテーマを話すことができる理由は、僕自身が相談援助業務や管理職として、様々な介護事業に携わってきた経験があるからであり、そこでの実践が利用者や家族や、地域の住民の皆様に評価されてきたという実績があるからだ。そこで語っているのは、結果責任をきちんと意識した実践論であり、机上の空論など一切入っていないのである。

そんな中旅の初めの東京講演と、旅の終わりの名古屋と大阪の講演は、日総研出版社主催・看取り介護セミナーの5時間講演であった。

決して安くないセミナー受講料金を支払って、5時間という長時間のセミナーに参加してくれた皆様には、それに見合った実践方法を、心を込めて伝えたつもりである。決して5時間という時間の長さを感じさせないように、無駄な内容は一切入れずに話をさせていただいたつもりでもある。

今回の受講者の中にも、「看取り介護を実践したいと思うが、上司や同僚等の賛同を得られずに、それが行えていない。」という現状を訴える人がいた。どうしたらそれを変えられるのかと相談される人もいた。

看取り介護が特別なケアでないことを同僚にも伝え、それを理解してもらう人を一人ずつ増やしながら、現場の大きな声としてそれを高め、上司に訴え出ることが唯一無二の手段だろうと思う。できればその過程で、同僚や上司が、僕の看取り介護セミナーを受講していただきく機会が持つことができるのならば、その人たちの意識を劇的に変えることができるのにと思ったりした。

特養や老健で、看取り介護・ターミナルケアを実施していない施設の場合、終末期になった際に、併設や関連機関である療養型医療施設や一般医療機関に機械的に送るということが常態化しているそうだ。それは終末期となった利用者のニーズを一切顧みずに、暮らしの場から死に場所へ向かわせているだけの居場所変更に過ぎない。そしてそれは、大切な誰かを棺桶に順送りするシステムに胡坐をかいているだけのシステムで、人生の最後を過ごす人の意思も希望も、すべてを顧みないシステムに過ぎない。

そもそも特養で看取り介護ができない理由は何だろう。看取り介護とは看護ではなく「介護」である。ターミナルケアとは、「ケア」である。

看取り介護対象者とは、無理な点滴で体を溶かしながら、足をぱんぱんに腫らせてい苦しく生き続けないように、基本的に点滴などが必要がない介護のことだ。老衰に限って言えば、その終末期の安楽につながる点滴があるなどという幻想をなくさねばこのことは理解できない。だからといって看取り介護対象者は、のどが渇くこともないし、脱水によって苦しむことがないのが終末期である。

口から栄養を摂取できなくなって、その状態が回復不能と判断された際に、経管栄養を行って心臓の強制鼓動を持続的に促すことで、対象者を苦しめることがないように、自然死を阻害する経管栄養を行わないのが看取り介護である。

そこでは栄養補給という部分で、医療行為も特定医療行為も必要なくなる。なぜそうした時期の対応が、医療機関でなければならないと考えるのだろう。

急死する人と、看取り介護の結果死を迎える人の、死の直前までの支援方法に大きな違いはない。どんな人であっても、日常的に人としての尊厳が守られ、身体の清潔を保持し、安楽過ごす支援方法に違いがあるわけがない。

そうであるにも関わらず、命の期限がある程度予想できるというだけで、どこかほかの場所に順送りせねばならないと考えるのはどうかしている。

むしろ命の期限が予測されるからこそ、その時間を大切にしたお別れができるのだ。その中で思い出が生まれるのだ。そうしたエピソードを創る機会を設けることが看取り介護の本質だ。その場所とは、暮らしの継続性がある場所に越したことはない。それを強制的に途切れさせる行為が、看取り介護になった途端に別に機関に送ってしまうシステムである。

それは看取り介護期間中に生まれる様々なエピソードに触れて、職員は成長する機会も奪うことであるし、介護の本質に触れて、介護の仕事を一生の仕事に生とする人々のモチベーションアップの機会を奪うものでもある。そういう機会を失う施設は、職員の定着率も低下するだろう。
日総研セミナー日程
そうしたことを伝える、「看取り介護セミナー・すべての介護関係者に求められる生きるを支える看取り介護」はとうとう、残すところあと2会場になった。

3月16日(土)は福岡商工会議所で、3月17日(日)は岡山市の福武ジョリービルで、今年度最後のセミナーを行うので、お近くの方はぜひ会場までお越しいただきたい。

看取り介護の本質に触れ、それを実現する具体論を学べる機会であるので、是非この機会を逃さないでください。魂の叫びを伝えます。

生きるとはどういうことか。その終末期に臨んだ時、人は何を求め何を訴えるのかを、ともに勉強しましょう。その答えは一つではなくとも、答えを探す道に、何かしらの共通項はきっとあるはずです。思いを一緒にできる何ものかが、きっと見つかるはずです。福岡と岡山の会場で待っています。

そこで大切な目に見えない絆をつなぎあいましょう。

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フィクションではない介護実践


僕は今、東京に移動している真っ最中です。今日から9泊10日の講演旅行で、東京(文京区本郷)〜松戸碧南安城名古屋大阪と回ってきます。北海道の冬の嵐もひとまず収まって、飛行機もJRも通常運行に戻っているのでほっとしております。

今日と明日は水道橋で一人呑みです。どこかいいお店ありましたら教えてください。

さて発刊されたばかりの僕の新刊本、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」が、やっと手元に届きました。作者なのに読者よりも実物を手にするのが遅くなるのは、田舎に住んでいる者の宿命です。まあ作者本人ですから、改めて読む必要性も薄いわけで、製本状態がどうなっているかを手に取ってみたいだけですから大した問題ではありません。

今週中に本が届いた方々は、是非この土日を利用してじっくり読んでください。
看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から
ということで土曜日はあまり記事更新をしないのですが、本日は本が届いたということで、紹介記事を更新させていただいております。
看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から
看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から
フィクションではない、実践できる介護のありようを、文章や写真などで伝えておりますので、是非確認していただければと思います。

介護の仕事なんてどうしようもなくダメな職業だとか、高齢者のためになぜ若者が介護に疲弊して、人生を台無しにしたり、踏み外さなきゃあならんのかとか、いろいろなことをいうやつらが引きも切りませんが、介護の仕事が嫌いな連中は、さっさとこの業界から出てけばいいんです。人材不足・人員不足だからと言って、能力も適正もない連中を集めて、数だけそろえりゃ何とかなると考えるのがそもそもの間違いです。

介護の仕事が報酬が低くて社会の底辺でしか生きられないといっている連中は、介護の業界で稼ぐスキルがないだけでしょう。普通に働けば、介護職員だって年数を重ねて給料は上がるし、良い人材は引き抜かれたり、這い上がったりして、立派に家族を養うだけの収入を得ているじゃあないですか。

それができない程度でしかない連中は黙って別の仕事すればいいのに、別の仕事も見つけられずに、この業界にとどまってごちゃごちゃ言ってるんですかね。阿保としか言いようがないです。この業界からはみ出してまで、愚痴を言い続けている奴らはもっと悲惨ですよ。ポジティブに人生を生きられないってことですから。

そんな連中は放っときましょう。知能と技術の低い連中の恨み節に付き合う必要はないし、そんなの無視してればいいんですよ。

介護の職業には、もっと可能性も未来もあります。介護の仕事をしてきらきら輝いている人がたくさんいます。それも結構若い人たちが、介護の仕事の中できらきら輝いて、希望も収入も得ているじゃあないですか。それはもう「きらきらポエム」とは言えません。事実です。その事実が歴史になるんです。

底辺にいるのは、経営者に搾取されたり、高齢者に卑下されている連中ではなく、能力のない人間だということに気が付いてください。

しかし間違ってはなりません。良い介護とは、サービス提供者の目線から評価するのではなく、サービスを利用した人の感情を見つめて評価するものだということがわかる人だけ、わかろうとする人だけが、介護の仕事に就いて、介護の仕事を続ければよいだけの話です。僕の本はそういう人に気づきを与え、少しだけ道標の役割となることを願って書いたもの。

己のスキルの低さを棚に上げて、介護の職業を貶める言動に終始する人間には、この本を目にしてほしくもないです。介護という職業を通じて、誰かの心に寄り添おうという気持ちのない人には、読んでいただかなくて結構です。

介護の仕事をつづけながら、人の幸せに寄与することで生活の糧を得ることを喜びとして、人生を謳歌したい人だけが読んでくれれば満足です。僕と一緒に、「誰かのあかい花」になりたいと思う人の、その道しるべになればありがたいです。
看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から
ちなみに、。僕のうちまで買いに来てくれた方には消費税サービスで、サインもしちゃいます。

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人生会議は愛を語る場


介護業界には訳の分からない略語・略称が多すぎる。略している本人だけが理解していて、聴いている側に意味が伝わらないものもある。

略しすぎて認知症を「ニンチ」なんて言っている馬鹿もいる。「認知症がない」と「認知がない」という言葉は、意味が反対になるということに気づいたら、こうした馬鹿な言葉遣いはできないのが本来だ。
(参照:認知症をニンチと略すな!!

略語とは異なるが、日本語で表現できるものを、わざわざ英語で表現していることもある。その頭文字をとって略称としていることも多いが、頭文字の略称に馴染んだ人は、元の意味が解らなくなっていたりする。

例えば認知症の人の症状で、かつては「周辺症状」と表現していた症状を、BPSDと表現する人が多くなった。しかしそのもともとの言葉がなんであるのかということを正確に答えられる人は少なく、その意味は何かと尋ねても、「BPSDはBPSDだよ。」と訳の分からない答えをする人もいる。BPSDとは「Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia」の略称であり、ビヘイビオラルアンドサイコロジカル、シンプトムス オブ ディメンティアと読む。

それは「行動・心理症状」と日本語訳できるもので、意味が解らずBPSDなどと口にするのではなく、きちんと「行動心理症状」と呼べばよいのである。

ところで最近よく使われるようになった言葉として、ACPという言葉がある。それはAdvance Care Planning(アドバンス・ケア・プランニング)の略称であり、意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ、終末期を含めた今後の医療や介護について、本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に話し合って考えておき、本人に代わって意思決定をする人も決めておくプロセスを意味している。

このACPについて厚生労働省は11月30日、愛称を「人生会議」に決定したと発表した。この愛称は、ACPの認知度向上を図るために厚労省が広く一般から募集し、応募総数1,073件の中からACP愛称選定委員会が決定したそうである。

なかなかわかりやすくて良いのではないかと思った。少なくともJR東日本が新駅名を公募の上、130番目の人気しかなかった「高輪ゲットウエイ」を選んだセンスよりは格段優れていると思う。

今後僕はACPという言葉に変えて「人生会議」という愛称を積極的に使っていこうと思う。そして元気なうちから口からものを食べられなくなったらどうしたいのかをはじめ、リビングウイルについて、家族間で意思を確認する過程で、医療・介護の連携チームと人生会議を行って、情報提供してもらいながら決めごとを確認していくように勧めたいと思う。

人生会議とは、愛する誰かの人生の最終ステージまで見つめ、愛を語る場であることを伝えていきたい。

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看取り介護計画書作成の要点


僕は今新千歳空港の搭乗口に居る。今日から4日間、愛媛県松山市に滞在し、明日・明後日と講演予定が入っている。

今年から新千歳空港〜松山空港間は、ANAの直行便が復活したので便利になった。JALがホームの僕は、ANAの搭乗口はややアウエー感があり、ラウンジも使えないことは不便ではあるが、経由便より断然時間短縮となる直行便を利用しない手はないというものだ。

明日は松山市男女共同参画推進センターコムズで行われる、「えひめ医療福祉従事者連絡会つどい」という任意団体が主催する講演会で、2講演を予定している。テーマは、『医療福祉における問題点と今後の介護保険制度の方向性について』と『割れ窓理論を踏まえた介護サービス事業所のサービスマナーについて』である。

この研修では制度改正・報酬改定の意味を紐解きながら、今後予測される社会情勢の変化とそれに対応する制度の方向性を読んでいく。その中で今後ますます介護事業者に必要とされる「サービスマナー」を学ぶことができるという、盛りだくさんの内容だ。

参加申込者も既に定員いっぱいの150名程に達しているようである。受講者の皆さんの貴重な時間を無駄にしないような話をしてきたい。

その翌日の明後日は、愛媛県総合福祉会館で行われる、『愛媛県老人福祉施設協議会主催・看取り介護研修会』となる。

愛媛県老人福祉施設協議会さんには、ここ数年の間に何度も講師としてご招待いただいており、今年も3回目の講演となるが、今回のテーマは「看取り介護計画の作成方法」というである。

看取り介護の実践論は、今まで全国各地で何度もお話ししているし、その中で「看取り介護計画」に触れる内容にも触れているが、看取り介護計画作成に絞ったテーマは、僕にとっても初めてである。

当日は午前中110分の講義を行った後、午後からは120分のグループワークとなる。そこでは事前に提出いただいたケースを検討して、グループごとに看取り介護計画を策定してもらうことになっている。

僕の講義はその策定演習につながるものであるが、単に看取り介護計画書の作成技術を教えることにとどまらない。

看取り介護計画の法的位置づけや作成ルール、作成の視点などを細かく解説する必要はあるが、そもそも看取り介護には何が求められ、どういうふうに支援者が関わっていくことが求められているのかという根底部分に話が及ばないと、計画は立案できるけど、人の暮らしとしてふさわしい支援方法に結び付かないという本末転倒が生じてしまうことになりかねない。そうであっては困るわけだから、誰かの人生の最終ステージに関わる人々が、常に考えなければならないことは何かということを、十分に理解してもらう必要がある。

そもそも特養で作成する看取り介護計画書については、施設サービス計画書そのものであり、標準様式を使って作成するのが原則であるし、そうであれば指定介護老人福祉施設の人員、設備及び運営に関する基準第十二条 (施設サービス計画の作成)1〜12までの一連の過程に沿った計画作成になる。

そのルールをしっかり押さえておくことが前提になるが、この場合、サービス担当者会議と担当者に対する照会は同列であり、居宅サービス計画書作成ルールとと異なり、やむを得ない理由がなくともサービス担当者会議を開催せず、担当者に対する照会によって「看取り介護計画書」を作成することは可能であるということも確認・理解してもらわねばならない。

それに加えて、施設サービス計画書の第1表に、「看取り介護」として必ず記入しておきたい要点などについてのお話をすることになる。

例えば看取り介護の場合、余命がほぼ1週間以内と予測される短期間の介護であるという場合があるが、その際の長・短期目標の考え方なども示してくる予定だ。

しかし一番大事なことは看取り介護計画書は、あくまでツールであり、使いこなすものであって、そてに縛られて実際の支援方法が硬直化し、できることよりできないことを数多くするものになってしまっては困るということだ。

看取り介護期間中には、想定外の様々なことが起こり得るが、その際に「計画書に書かれていないから、そこまでする必要はない。」として、できること・しなければならないことをしないということがあってはならないわけである。サービス提供側の都合に沿ったアリバイ作りのために「看取り介護計画書」が存在するわけではないことを徹底的に理解してもらう必要がある。

そういう意味では、看取り介護計画書を使いこなす「看取り介護」がその日の講演のテーマになるのかもしれないと思っている。

ということで今回の3泊4日の愛媛県松山市講演は、盛りだくさんの内容で、皆さんと学びの場に立つことになる。

手前味噌であるが、制度論や実践論を交えたこの3つのテーマの講演を一人でできる講師というのも、全国を見渡してもさほど多くはないのではないかと思う。講演できるテーマは、もっと広いし、具体的なケースも数多く持っているので、講演講師をお探しの方は、「masaの講演予定」を参照いただいて、講演依頼の相談をお気軽にお申し出いただきたい。よろしくお願いします。(※ちなみに1/28:水曜日、東京方面で体が一日空いております。その日投球周辺でしたら講演料のみで、交通費と宿泊費がかからないで講演を行うことだできますので、ご相談ください。早い者勝ちです。)

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終末期の「生きる」を支えるために何が必要なのかを問う


約1カ月で85〜97歳の女性6人が死亡した鹿児島県鹿屋市の住宅型有料老人ホーム「風の舞」の事案については、先週木曜日に「医療があっても介護が存在しない終末期支援の恐ろしさ」という記事を書いて問題点を指摘したが、続報として県などが立ち入り検査した今月16日にも、別の入居女性1人が死亡していたことが分かった。

これにより極めて短い期間で7人もの高齢者が死亡したことになるわけである。記者会見したグループ法人の総括(医師)と施設長は、「末期がんなど重症者を受け入れてきたので、寿命というしかない」と説明し、「医療は適切で問題ない。」としているが、実際にこの施設で人生の最期の時間を過ごした方のお気持ちはいかばかりだったのだろうか・・・。

報道によると先に死亡が明らかになった6人については、ほとんどが点滴を受け寝たきりの状態で、自ら食事を取ることができなかったという。介護職員がすべて退職した施設で、そうした状態の人に対して、満足に食事介助さえできない状態であったとしたら、急激に体力は衰え健康状態は悪化しただろう。それは寿命を縮める結果としか言えず、本来の寿命とは言えないのではないか?寝たきりの重症者だからそれは問題ないと言えるのだろうか・・・それは違うと思う。

さらに恐ろしことには、介護職員が退職後に、褥瘡ができた入居者が増えたと報道されており、実際に鹿屋市が父入り検査を行った際に、入居者3人に褥瘡があるのを確認しており、さらに口腔内の不衛生な状態と、室内の清掃が不十分であることも確認されているという。

人は死を迎える瞬間まで生きているのだ。死を迎える何日かの間に、苦しみ、悲しみ、寂しがらせないように寄り添うのが看取り介護だ。しかるに介護の存在しないこの施設では、最期を迎えるまでの間、不衛生な環境で、満足に体位交換や清潔支援も行われていなかったと思われる。垢と糞尿にまみれて最期の時を誰にも看取られずに死んでいった人がいたとしたら、それは極めて悲惨な死に方でしかない。

命に深くかかわる医師や介護施設の長が、この状態を問題ないとうそぶく気持ちが理解できない。それは人として許されない態度ではないかとさえ思う。

今後検査結果を踏まえた行政指導があり、それによりこの施設の運営体質が改善されることを期待する声があるが、介護保険制度上の指定施設ではない「住宅型有料老人ホーム」については、「有料老人ホーム設置運営標準指導指針」(平成 14 年7 月18 日付け老発第 0718003 号厚生労働 省老健局長通知)に基づいた指導を実施しているに過ぎず罰則もない。実質それは勧告レベルにとどまり、あの上から目線の記者会見を行ったツートップが、そのことで恐れ入るとは思えない。改善は期待薄だろう。

そんなことを考えながら思い出したことがある。それは僕がとある施設を見学したときのことだ。

その際に見学施設の説明をしてくださった職員の方が、「この方が今、看取り介護の最中です。」と示された方の表情を見ると、苦し気に目をつぶっていた。ベッド回りも整理・整頓がされておらず、日中もカーテンが閉ざされた暗い個室で、一人寂しくベッドに寝かされていた。

そういう人が看取り介護を受けていると説明されると、何かが違うと感じてしまう。安静が必要とされる人であったとしても、看取り介護対象者の周囲には人間関係が存在し、人の心のぬくもりが感じられなければならない。一人寂しい状態が安静や安楽ではないのだ。

整理整頓された清潔な環境や、爽やかな空気の流れは当然保証されなければならない。よどんだ空気の中で、整理整頓のない部屋で放置され、いつの間にか息を止める死であったとしても、「看取り介護加算」は算定できるが、それは看取り介護やターミナルケアとは言わないのだ。

看取り介護とは「終末期だから何も対応しない」・「高齢者だから対応の必要はない」という考え方を徹底的に排除したうえで、なおかつ延命のための医療対応が必要ではない時期と判断して必要な介護を行うことを言う。

そこでは身体介護は決しておざなりにできないのである。看取り介護であるからこそ安心と安楽のための介護には気を遣わねばならず、特に清潔支援や安楽の環境を作り出す支援は必要不可欠である。そのための医療・看護サービスも当然不可欠であり、看取り介護に移行したからといって、医師や看護師の対応や処置が皆無になるわけではない。

看取り介護期は、体力や免疫力の低下が想定される時期であるから、感染症にかかるリスクも高い。感染症にかかれば対象者の「苦しみ」が増幅するのだから、感染症を防ぐ清潔支援は最も必要とされるべきであるし、清拭は毎日複数回行うのが「安楽支援」である。看取り期であるからといって「体力が弱って入浴できない」と考えることも間違いで、身体状態を正確に把握し、バイタルが安定しておれば、そのタイミングをはかって、看取り介護期間中に浴槽に浸かって入浴することも可能である。それを望む方も多いのだ。

食事摂取も徐々に困難となり、やがて禁食という状態になる。しかしそうなった後も最期の瞬間まで「好きなもの」を口にする機会を奪わぬよう、その可能性を常に考慮して対応されるべきである。栄養補給としての食事はできなくとも、味わう愉しみをすべて奪ってよいことにはならないのだ。その準備は怠りなくされるべきである。

そんなことができていない「放置死」や「偽物の看取り介護」が存在する現状を少しでも改善しないと、その負の遺産は自分や自分の愛する子や孫に降りかかってくる問題となるのかもしれない。そうしないためにも全国で「生きるを支える終末期支援」につての講演活動は、まだまだ続けていかねばならないと思った。

その一つである「日総研・看取り介護セミナー、すべての介護関係者に求められる生きるを支える看取り介護」は張り付いたリンク先で詳細を見て申し込むことができる。参考に下記に画像も貼り付けておく。過去の受講者の声も是非読んでいただきたい。
看取り介護セミナー
看取り介護セミナー2
このセミナーで全国を回るのは3年目になるが、過去の受講者の声を下記にて紹介しておく。

●看護師/うちの特養がまずとり取り組まなくてはならない課題が明確になった。
●看護師/現在行っている看取りの足りないところに気づくことができた。
●特養看護師/様々な事例を聞くことができ、その時の場面を想像しやすかった。看取りの素晴らしさを感じることができた。
●特養副施設長/看取り介護は特別なことではなく、日々のケアの延長であることを改めて感じた。
●特養副施設長/改めて介護に携わる者として、考えさせられることがたくさんあった。今日、参加できてとても良かった。
●特養介護福祉士/とても分かりやすく、また自分のできていない点、施設でまだまだできることをたくさん考えることができた。
●特養介護支援専門員/エピソードも多く、大変分かりやすい言葉で伝えてもらえた。
●特養介護福祉士/看取りの事例について、手順など具体的なケアを分かりやすく学ぶことができた。

これらの声を参考にして、1月の仙台セミナーをはじめとした各会場への参加お申し込みをしていただきたい。看取り介護を学ぶことは、介護そのものを考え学ぶことなので、このセミナーが看取り介護・ターミナルケアの実践論にとどまらないことも理解していただきたい。

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審判しないの意味は、尊重し支持し護るということ


バイスティックの7原則の一つに、「非審判的態度」というものがある。その意味については、僕が過去に書いたブログを参照いただきたい。

対人援助におけるソーシャルワーカーの役割の中には、利用者と社会資源を有効に結び付けるという役割もあるが、その際に、利用者に成り代わってソーシャルワーカーが何事もすべて決定するわけではない。ソーシャルワーカーとしてしなければならないことは、利用者のニーズや課題を明らかにし、それらに対応する社会資源についての情報を利用者に正確に伝え、選択肢を示したうえで、自己決定を促すことである。

勿論、何らかの事情で自己決定能力に欠ける人に対しては、ソーシャルワーカーが代弁機能を発揮して、利用者に成り代わって物事を決定しなければならないが、その場合でも、ソーシャルワーカーの価値観の押し付けにならないように最大限の注意と配慮を行ったうえで、利用者の過去の生活習慣や、ものの考え方を思い起こしながら、利用者の望みを実現する方向で物事を決めなければならない。

どちらにしても、自己決定の制限対象者でない限り、利用者の意思を何よりも尊重しなければならないのである。

介護保険制度における介護支援専門員の役割も同じであり、居宅サービス計画にしても、施設サービス計画にしても、介護支援専門員の価値感の押し付けのような計画は最悪であり、利用者の意思をニーズを結び付けて考えなければならない。これができない人は、いずれAIにとってかわられるのかもしれない。

徹底的に利用者本位を貫いて、自己決定を支援すること・・・それは終末期の過ごし方の選択についても同様に言えることだ。

例えば経管栄養については、このブログでも何度か論評している。そこでは終末期を過ごす方々のQOLを下げるばかりではなく、意思疎通ができない状態で経験栄養によって命をつないで何年も生きている人のうち、気管切開している人などは、数時間おきに気管チューブから痰の吸引をするたびに、もがき苦しむ姿が存在しており、その人たちはまるで、もがき苦しむために延命されているように見えるなどという実態を指摘している。だからと言って経管栄養が「必要ないもの」とか、「悪者視」されてはならない。

経管栄養とは医療技術の一つに過ぎず、安楽な終末期に繋がる必要な胃婁増設という考え方も成り立つし、経管栄養によって延命したいという希望もあって当然である。

延命のために経管栄養にするかしないかは、治療にあたる医師が、本人の意思を無視して決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではなく、対象となる本人の意思によって決めるものである。利用者自身が経管栄養を行うか否かを選択した後は、その判断が良かったのか、悪かったのかさえ審判する必要はなく、対象者の判断を尊重すべきである。

食事の経口摂取ができなくなった状態が治療によっても回復せず、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態であると判定されたとしても、それでもなおかつ生命維持のために経管栄養を行ってほしいという人がいた場合、その意志が何よりも尊重されなければならないし、その際に周囲の人々は、それがベストの選択であると利用者の決定事項を支持しなければならない。

このように終末期の利用者の選択に対する非審判的態度とは、単に審判しないだけではなく、積極的支持が求められるものだと思う。そうしないことには利用者自身や周囲の人々に不安を与えてしまうからである。

自らの価値観はともかくとして、自分が関わる利用者の決定事項については、決して疑わずに支持するということでしか、その利用者の尊厳を護ることにはならないということを理解しなければならない。

そんな風なことを含めて、終末期を過ごす人の支援方法を考える「看取り介護セミナー」が始まっている。第1回の札幌セミナーを終えたばかりであるが、少し期間をおいて年明けから仙台〜東京〜名古屋〜大阪〜岡山〜福岡と、残り6会場を回る予定である。

札幌会場の受講者からも、5時間という長丁場を感じさせない、内容の濃いセミナーであると評価をいただいている。看取り介護セミナーという文字に張り付いたリンク先から詳細を確認し、参加申し込みできるので、お近くの会場にぜひお越しいただけるようにご検討いただければ幸いである。

看取り介護セミナーではあるが、このセミナーは介護の質を向上させるために必要な具体策が満載されている。そういう意味で、介護サービスの品質向上を目指している介護事業経営者の方は、是非、ご自身並びに職員さんの派遣を検討していただきたい。
看取り介護セミナー2
看取り介護セミナー1

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一人で旅立ちたいという人の思いも様々


今日僕は、明日の講演に備えて夕方札幌に移動する予定だ。

講演は明日からであるが、午前10時開始のセミナーなので、僕の自宅から当日移動しようとすると、朝7:10東室蘭駅発の特急に乗らねばならないために、家を6時台に出なければならない。それは良いとして、あまり信用できないJR北海道のダイヤが少しでも乱れたら、セミナー開始時間に間に合わないので、雪も降りそうなこの時期には前日移動をするようにしている。

そんなわけで今日は移動日で札幌泊ということで、今晩は明日のセミナーを受講してくれる大学時代の同級生らとプチ前夜祭を行うことにしている。

今回は明日の札幌講演を皮切りにその後、東京〜大阪と7日間の講演の旅が続く。

札幌講演は、日総研出版社が主催する看取り介護セミナーである。札幌会場を皮切りに来年3月まで仙台・東京・名古屋・大阪・岡山・福岡と全国7カ所で行うこのセミナーは、「看取り介護セミナー」と冠しているが、そこでは人生の最終ステージに寄り添う責任を含めて、介護の本質を伝える内容となっているので、本物の介護を共に学びたい方は、是非お近くの会場にぜひお越しいただきたい。

ところで先日、このセミナーをはじめとした看取り介護講演に関連して、ブログ読者の皆さんにアンケートへの投票を呼びかけた。たくさんの皆様に回答していただき、改めてこの場でもお礼を申し上げたい。その結果については、「看取り介護アンケートの結果報告〜ご協力に感謝いたします」で報告しているので参照していただきたい。

その結果について、今日は別角度から考えてみたい。
アンケート結果
アンケートは二つあるがその中の一つ、『自分の最期の瞬間を誰かに看取ってほしいと思いますか?〜介護が必要な人が周囲に支えられていれば、旅立つときに側に誰もいなくとも、それは孤独死ではなく「ひとり死」であるといわれ始めました。あなたは周囲に支えられながら旅立つときに誰かに側にいてほしいですか?』というフォームへの投票結果を見ると、「ひとりで旅立ちたい」と答えている方の数が思った以上に多い。(※上のグラフを参照してください。)

そう考える人がいて当然だし、誰もその考え方を否定できるものではない。「ひとりで旅立ちたい」と考えている人が、「誰にも知られず終りたい。」・「孤独死はさびしいとか言われるがさびしいと思うのは周りの人が言うだけで本人はわからない。人は一人で生まれて一人で死んでいく。だからひっそりと一人で人生を終えたい」とコメントしている気持ちも十分理解できる。最期はひっそりとと考えているのだろう。

遺される人に思いを馳せて「ひとりで旅立ちたい」と答えている人もいるように思える。コメントの中には、「成人した娘が2人いますが心配掛けたく無いです」・「誰にも面倒を掛けたくない」・「苦しむ姿などを、人に見せたくない」など、旅立つ自分のことよりも、残される人に思いを寄せた選択であるかのような意見も見られるからだ。自分の終末期の援助のために、周囲の人に迷惑をかけたくないと考えている人も多いということだろう。

そのほかのコメントを見ても、決して投げやりに選択肢を選んでいるわけではなく、まじめに素直に自分自身だけではなく、遺される家族に思いを寄せていることが伝わるコメントが多かった。そのことに対して「」を感じると言ってしまえば、すごく薄っぺらい言葉になってしまうかもしれないが、それが僕が今感じている本当の思いだ。

このアンケートの前提は、「周囲に支えられながら旅立つとき」という前提だから、一人で旅立った後、自分の遺体が誰にも発見されず長い期間放置されるという心配をしないで答えてくれたものと考える。

そんなこともあってか「ひとりで旅立ちたい」と答えた人のコメントの一つに、「人間は一人で産まれ一人で死んでいくから孤独ではない。孤高死だと言える。生前迷惑がかからないように色々準備して、死んだら後始末をしてくれたら充分。」という意見も見られる。

これは結構大事な視点かもしれない。孤独死とか孤立死と言われる状態で「」を迎えざるを得なかった人の中には、数週間あるいは数カ月、その遺体が誰にも発見されず放置されてしまう場合がある。そのような遺体が発見された際には、特殊清掃が必要となり、その場所はもう誰も住めない状態になることが多い。

それだけではなく、そこに残された様々な遺品も廃棄せざるを得ない場合が多いそうだ。そうなると亡くなられた方が、遺された誰かに伝えたかった思いもその場所で途切れてしまう。自分の思いやエピソードを伝える、命のバトンが途切れてしまうわけである。

そのことも別に何とも思わないという人も多いのかもしれない。しかし逝く人がそうであっても、遺される者も何も感じないとは限らない。どんなに関係が悪化していても、血のつながりのある人が、逝く人に最後にどう思うかは様々だ。遺される者たちに、最期に逝く人の思いを伝える術があれば、それに越したことはないように思う。

そんな意味でもエンディングノートは、良いツールなのかもしれない。

明日からの看取り介護セミナーを前にして、今日は徒然と思いつくままのことを文字にした。その分、まとまりのない雑文になってしまった感がある。そんな文章に、お付き合いいただいた皆様に感謝である。

週末、札幌・東京・大阪でお会いする皆さんには、引き続き熱い思いと、最新の情報を伝えるつもりなので、会場でともに学びあいましょう。それではよろしくお願いします。

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介護の本質を語るのが看取り介護講演


今週の土曜日(11/3:文化の日)に札幌の道特会館で看取り介護セミナーがスタートする。

このセミナーは、日総研出版社が主催するもので、札幌を皮切りに、仙台・東京・名古屋・大阪・岡山・福岡と全国7か所を回るもので、今年で3廻り目のセミナーとなる。

その内容は当然、介護保険制度改正や報酬改定と連動し、なおかつ新しい情報も組み入れて、前2回とは異なる内容も含まれているが、このセミナーを単に看取り介護・ターミナルケアを学ぶセミナーとは考えてほしくない。そのために今回の講演スライドの1枚目は、下記画像のスライドとしている。
日総研・看取り介護セミナー
看取り介護とは決して特別な介護ではなく、日常介護と全く変わることのないものである。ただその対象者の命の期限がたまたま予測されているだけに過ぎず、丁寧な日常支援に心がけることは、看取り介護対象者であっても、そうでない人に対してであっても、決して変わることはないし、変えてはならないものでもある。

ただ看取り介護においては、命の期限を意識した関わりの中で、様々な「記憶しておくべきエピソード」が生まれる。看取り介護に関わる介護の専門職は、看取り介護対象者と家族の間に、そうしたエピソードを意図的に作り出すことも求められるかもしれない。そんな中で、命の尊さや人の尊厳を護ることの大切さを知り、人間愛のなせる業(わざ)に気づくことができる。

それは対人援助に関わる我々が気が付くべき、「本質」に触れるものだと思うので、看取り介護セミナーでは、そうした観点からケース分析を行い、我々に求められていることを示している。

今、全国の8割を超える特養で、「看取り介護」が行われているという。しかしそれは嘘だ。そこで8割以上の施設で行われているとされる行為は、単に「看取り介護加算」を算定できる行為を行っているに過ぎない。しかし看取り介護加算の算定要件で示された最低限の行為を行ってさえいれば、「看取り介護対象者」の人生の最終ステージが、その人にとって望まれる支援に結び付いているとは限らない。安心して安楽に最期の時間を過ごしているとは限らないのである。

施設見学をして、「この方が今、看取り介護の最中です。」と示された方の表情を見ると、苦し気に目をつぶっていたりする。ベッド回りも整理・整頓がされておらず、日中もカーテンが閉ざされた暗い個室で、一人寂しくベッドに寝かされている人が、「看取り介護の最中」であるとされたりする。

それは違う。安静は必要でも、看取り介護対象者の周囲には人間関係が存在し、人の心のぬくもりが感じられなければならない。一人寂しい状態が、安静や安楽ではないのだ。整理整頓された清潔な環境や、爽やかな空気の流れは当然保証されなければならばい。

よどんだ空気の中で、整理整頓のない部屋で放置され、いつの間にか息を止める死であったとしても、「看取り介護加算」は算定できるが、それは看取り介護やターミナルケアとは言わないのだ。施設内孤独死をさせておいて、看取っているなどと言ってはならないのだ。

そうであるがゆえに僕の看取り介護講演では、看取り介護を通じて介護の本質に迫り、介護とはどうあるべきか、介護に関連する職業携わっている人々には、どのようなスキルが求められ、何をしようとするべきかを問い続けることになる。まさに「天のない介護サービス」の答えを探して、受講者の方々と共に学ぶセミナーとなるだろう。

日総研出版社の「看取り介護セミナー案内」には、「※最少催行人数18人。これに達しないときは,開催を中止する場合がございます。」と書かれているが、幸い札幌セミナーは実施できる人数に達している。

一番集客が難しい北海道のセミナーが開催できたことで、他の地区も開催できると思ってはいるが、他の地域は年明けの開催なので、これから申込者が増えると期待している。今のところ仙台や名古屋などが申込者が少ない状態なので、同地域の関係者の申し込みを是非お願いしたい。

札幌セミナーに備えて、僕は2日に札幌入りするが、その日は知り合いも受講者の中に含まれているので、プチ前夜祭を行う予定だ、札幌グランドホテルで4.000円会費の前夜祭に参加したいという方は、ぜひ連絡をいただきたいと思う。

なお札幌セミナーも引き続き申込受付を行っているので、今から都合がつく方は、ぜひ参加を検討願いたい。よろしくお願いします。

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看取り介護と称するエセ介護をなくさなければ・・・。


昨日は午前10時から昼休みの1時間をはさんで午後3時まで、「姶良・伊佐地区老人福祉施設協議会・事務員研修」として4時間の講演を行った後、さらに17:30〜19:30まで、「社会福祉法人・政典会 職員研修会」として講演を行った。

1日で6時間、ずっと立ったままでお話ししているわけであるが、そのことは僕にとって当たり前のことなので、全然大変なことではない。むしろ2時間とか、4時間とか、じっと座って勉強のために話を聞いてくださる人のほうが大変だろう。

特に昨日の夕方の講演は、火曜日という週の初めに、通常業務を行って業務を終えたその足で、会場に駆けつけて講演を受講することになる。それはかなり体力も気力もいる行為と思われ、それらの方の時間を無駄にしないように、実務に生かせるお話に努めたつもりである。

夕方の講演は法人職員研修ということであったが、近隣の他施設の関係者の方も参加していたようで、100人近い参加者数になったようである。テーマは「看取り介護」であったが、僕はそのテーマで終末期支援について語っているつもりはなく、看取り介護を通じて「介護」」そのものを語っているつもりである。

今、全国の特養の8割以上で看取り介護を実践しているという・・・。それは嘘だ。僕が知る限り、看取り介護加算を算定している行為であっても、本当の意味で人の人生の最終ステージを支援する行為にふさわしい、「看取り介護」を実践している施設は少ないと思っている。

例えば僕の著書、「人を語らずして介護を語るな〜masaの介護福祉情報裏板」の165頁「見捨て死の現状」では、終末期支援と称して、口腔ケアも清潔支援も、満足な排泄支援も行わずに、それを看取り介護としているグループホームの現状を明らかにしている。そこには終末期を過ごす人が、つらく・苦しく・痛い状態で旅立っている姿があるが、そういう状態であっても「看取り介護加算」の算定要件をクリアさえしておれば、加算算定できるわけである。

そういう悲惨でむごい行為でも加算を算定し、看取り介護と称することができるのだ。そんなことが許されてよいはずがない。そんなことがあって良いはずがない。そんな行為が本当の意味での「看取り介護・ターミナルケア」であるわけがない。

介護に携わるすべての人が、人として真剣に他者に向かい合う必要があると思う。

11月3日の札幌セミナーを皮切りに行う「日総研出版社主催・看取り介護セミナー」は、そういう偽物の看取り介護を糾弾し、本当の意味で誰かの人生の一部に寄り添うことができる「介護」そのものを考える内容に努めたい。それは看取り介護を通じて、介護の本質に迫るセミナーであるといえるだろう。
(※すでに札幌会場は最低受講人数に達しており、開催が決まっている。申し込み受け付けはセミナー当日まで可能なので、お近くの方はぜひ参加を検討をお願いします。1月の仙台セミナーは、まだ申し込み人数が少ないので、お近くの方の申し込みを待っております。よろしくお願いします。

これから僕は明日、明治記念館で行われる「内田洋行主催 IT-Fair2018 in Tokyo」で講演を行うために、霧島市を後にして東京に向かう。先程黒須の産地にある鄂櫂譽好肇薀鵑如抜群に美味しい酢豚ランチを摂ったところだ。日田〜霧島の4日間は良い旅になった。

今日泊まる場所は、渋谷のシティホテルである。都会のスマートでセンスの良いホテルもよいのだが、一昨日は霧島温泉郷の風情ある旅館で命の洗濯をしてきた。ちょっとその旅館を紹介したい。

本館
おりはしの本館と食事場所であるが、僕が泊ったのは一軒家として独立して建てられている「別館」。

宿泊場所
この広い別館で一人で過ごすという贅沢を味わわせていただいた。

玄関ホール
玄関を入るとホールがある。

和室
床の間
その右手に広い床の間付きの和室。

ベッドルーム
和室の隣には広いベッドルーム。一人で寝るには贅沢である。

内風呂
ベッドルームに隣接して脱衣所があり、そこから内風呂に入ることができるが、内風呂には外に続くドアがある。

専用露天風呂
なんとこの別館専用の露天風呂がある。一昨日から昨日朝にチェックアウトするまで、なんども露天風呂を楽しむことができた。まさに命の洗濯だ。

しかも食事も豪華である。その模様については、「masaの血と骨と肉〜秋茸に、あきたっけ。」で詳しく紹介しているので、そちらをご覧いただきたい。

ただしご覧になるとお腹がすくのは間違いないので、覚悟してください。(笑)

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終末期支援の場での礼儀作法はなぜ大事なのか


介護施設に入所されていた利用者が亡くなった際に、当該施設の職員がジャージ姿で告別式に駆けつけ、遺族の顰蹙をかったというケースがある。

当該職員が礼服を着ることもなく告別式に駆けつけた理由はきっとあるのだろう。しかしこれは世間の常識からみれば、「非常識極まりない行為」であると言われても仕方がないし、「死者を冒涜する行為である」と批判されても仕方ない行為である。このようなことで遺族の方々の悲憤を買い、嫌な思いをさせることは絶対に避けなければならない。

当該職員に悪気がないから、そうした行為が許されることにもならないわけである。

そうであるがゆえに、我々は世間一般的に身に着けるべき礼儀作法というものを軽視してはならないのである。

対人援助の場でも礼儀作法は重要である。相手はお客様であり、高齢者介護の場合は人生の先輩である。そうした方々に接するのだから、2重の意味で礼儀作法は必要となる。外国と違ってわが国では、年下の人が年上の人にフレンドリーにタメ口で話しかけるという文化はないし、現在、高齢期を迎えている人ならなおさら上下関係を基盤にした礼儀作法が染みつているのだから、そのことには十分配慮が求められる。

礼儀作法に配慮することは、お客様に対して「真のおもてなしの心」を持つことにもつながるが、それ以前に大事なことは、そうした礼儀作法を護ることで、知らず知らずのうちに人の心を傷つける行為をなくすという意味がある。

介護サービスを受ける方々は、身体の不自由な方も多く、心のどこかで介護してくれる人に対する遠慮がある場合が多い。文句を言ったらきちんと世話してくれなくなるのではないかと考えている人もいる。もっと丁寧に接してほしいという思いを持っていても、口に出せない人が多いのだ。

介護職員の悪気のないタメ口に、いつも傷ついている誰かがいるということを忘れないでほしい。

特に看取り介護の場面で、悪気のない言動で対象者を傷つけてしまったとしたら、それはもう二度と取り戻すことができない失敗となってしまう。看取り介護対象者は、人生の最後の場面で嫌な思いをして、その悔しさに胸をかきむしりながら、心の中に血の涙を流しつつ、息を止めていくのではないだろうか。

そうしないために、すべての対人援助関係者は日ごろから利用者に対する「礼儀作法」を護る習慣を身に着け、対人援助のプロとしてのコミュニケーション能力として丁寧語を使いこなすよスキルを持つように心掛ける必要がある。

特に終末期で体調の変化があり、精神的にも揺れ動く幅が大きいことが予測される方々には、細心の注意が求められる。そのように考え、11/3(土)の札幌会場を皮切りに全国7カ所を回る、「日総研出版社主催・看取り介護セミナー」の講演用に作成したPPTスライドの一枚が次の画像である。
看取り介護セミナーPPTスライド
旅立つ人を送るたときに、決して犯してはならない間違いとは何か。どんなところに気を配るべきなのか。それらのことを伝えるために、終末期にも生かしたいサービスマナーという観点から話をさせていただくので、是非お近くの会場にお申し込みいただきたい。特に近直の札幌にお住まいの方、日曜日まで申し込みを受け付けているので、よろしくお願いします。
※10/26追記:最低受講人数を超えたため、予定通り実施します。

あなたはどんな言葉で最期を看取ってほしいですか?

最期の瞬間、息を止めようとするときに、若い職員から馴れ馴れしい言葉で話しかけられたいと思う人が何人いるのでしょうか?

旅立ちを、家族でもない若輩者に、ため口で送ってほしいと思う人がいるのでしょうか?

逝く方が寛大な心で許してくれるとしても、一緒に看取ろうとしている家族は不快な思いを持たないのでしょうか?他人である年下の職員が、ため口で言葉を掛ける姿を見て、親しみを感じる前に、慇懃無礼な馴れ馴れしさに不快感を持たないのでしょうか?

そんなことを共に考えるセミナーにしたいと思う。会場で語り合いましょう。

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看取り介護アンケートの結果報告〜ご協力に感謝いたします


インターネットのアンケートフォームを通じて、9月28日〜10月15日の期間において、「看取り介護」に関連する二つのアンケートを実施しました。その結果が出ましたので、報告させていただきます。(※貼り付けたリンク先からアンケート結果をダウンロードすることができるほか、このブログ記事後半に結果画像などを貼り付けていますので、ご覧ください。)

その結果は早速分析したうえで講演に反映します。すでに講演スライドを送っていた10月21日(日)に日田商工会議所で行う、「アローチャート天領会主催 講演会」のスライドは修正し、当日新データを反映したもので講演させていただきます。

10月23日(火)に鹿児島で行う、「社会福祉法人政典会・職員研修」のスライドはぎりぎりまで待っていただいておりましたので、昨日新データを反映したスライドを送付いたしました。

11/3の「日総研・看取り介護セミナー・札幌会場」以降の看取り介護講演では、すべて新データの分析に基づいた講演となります。ちなみに札幌会場の申し込みはまだ受け付けております。19日までに最低人数に達しない場合は、セミナー開催を見送ることがありますので、そうならないように是非お近くの方のお申し込みをお願いします。看取り介護・ターミナルケアの知識のみならず、これからの介護サービス全般に必要な情報と知識を得ることができる内容となっておりますので、よろしくお願いします。

さて結果について少しだけ解説しておきます。

自分の最期の時を、どこで過ごしたいですか。」には、522件の回答をいただきました。その結果、最期の時を過ごしたい場所のトップは「自宅」(48.1%)であり、次に「最期に過ごしていた場所」(27.2%)と続き、両者を合わせると75%を超えております。

このことは、医療機関で8割以上の方がなくなっているわが国の現状とはマッチしておらず、それは「自分が死にたい場所と、親を死なせてる場所が異なる」という意味になると思われます。

また「その他」(6.1%)を選んだ人のコメントを読むと、場所は問題ではなく、家族や親しい人など、愛する誰かに見守られていれば場所はどこでもよいという意見が多かったようです。

自分の最期の瞬間を誰かに看取ってほしいと思いますか?」には、397件の回答をいただきました。その結果、「家族など親しい人に側にいてほしい」(56.2%)と過半数を超えて一番多い回答数になっております。次に「その時にならないとわからない」(13.1%)、「どちらでもよい」(12.1%)、「一人で旅立ちたい」(10.1%)と続いています。

このアンケートは前提条件として、「介護が必要な人が周囲に支えられていれば、旅立つときに側に誰もいなくとも、それは孤独死ではなく「ひとり死」であるといわれ始めました。あなたは周囲に支えられながら旅立つときに誰かに側にいてほしいですか? 」として問いかけているのですが、それにもかかわらず過半数を超える方が、「親しい人には側にいてほしい」と答え、さらに「誰でもよいから側にいてほしい」という回答が5.8%あることを考えると、「孤独死ではない、ひとり死」を受け入れる考え方は、広く浸透していないといえると思います。

また「一人で旅立ちたい」や「どちらでもよい」と回答した方々のコメントには、「最期はどうせ意識はないし、家族にも迷惑をかけたくない」というふうに、残された遺族や親しい人を思いやってのコメントが多々見られました。そうであるがゆえに、実際にその人たちが旅立つ際に、愛する誰かが手を握ってくれるとしたら、それは必ず意味があることに思えるし、「一人で旅立ちたい」や「どちらでもよい」と回答した方であっても、本当にその時に側に誰もいなければ寂しい気持ちで旅立っていくのではないかと思ったりしました。そういう場面での「おせっかいの寄り添い」はあってもよいのかなと勝手に思ったりしています。

なおこのアンケートに回答してくれた方の割合は、下記の円グラフの通りで、30代〜50代の方で大半を占めいます。そうするとその世代の方でもこうした意識結果が出ていますので、我々が看取り介護・ターミナルケアの主な対象とする80代以降の方々は、もっと多くの方が「自宅や最期に過ごしていた場所で死にたい」と思い、「家族や親しい人に看取られて旅立ちたい」と思い、それがかなわない場合でも旅立つ瞬間を、「誰でもよいから看取ってほしい」と思っているのかもしれませんね。

下記画像も参考にしてください。
自分の死期を過ごす場所2

自分の死期を過ごす場所

旅立つときに誰かに看取ってほしいか
このアンケートは各末端から1回限りしか回答できないように設定しておりますので、回答数は極めて実人数に近い数字であると言えます。最後に回答にご協力いただいた皆様に、心より御礼申し上げ、ご報告に代えさせていただきます。本当にありがとうございました。

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終末期における医師の役割り〜金谷先生の金言


先週土曜日は福島県いわき市で行われた、「福島県介護支援専門員協会」の研修で講演を行なってきた。

同協会での講演は、あの3.11の翌年7月に郡山で行われた研修以来2度目であった。今回のテーマは介護保険制度論や報酬改定に関するものではなく、「看取り介護」であった。これは担当事務局の希望によって決まったテーマである。

社会の少子高齢化が止まらない我が国において、死者数が大幅に増える社会情勢を考えると、終末期をどこでどのように過ごすのかということが切実な問題になりつつある。本来ならば、すべての人が人生の最終ステージをどこで過ごそうと、最期の瞬間まで安心・安楽の支援ができる社会が理想であるが、孤独死や孤立死が増えているし、看取り介護・ターミナルケアの間違った理解によって、悲惨な死に方を余儀なくされている人も存在する。

そんな中でケアマネジャーをはじめとしたソーシャルワーカーにも、そこにどのように関わっていくかが問われてくるわけである。そのため4月の介護報酬改定でも居宅介護支援事業所にターミナルケアマネジメント加算を新設したり、末期がんの方のケアマネジメントに関連して、状態変化に応じた迅速なサービス提供が可能となるように、ケアプランの変更作成ルールを改正したりしている。

さらに在宅においても、施設においても、どのように終末期を過ごすのかということを本人の意思に基づいて決定する必要性が叫ばれており、あらゆる人々に対するリビングウイルの支援が重要となってくる。その役割をケアマネジャーが担っていく必要性も高まっている。そのような中で、「看取り介護」を学ぶということは、それは単なる介護実践論を学ぶにとどまらず、人間の尊厳をどのように護るかという「人間尊重」の価値前提を確認するということでもある。まさにケアマネジャーをはじめとしたソーシャルワーカーが学ぶべき大切なテーマであるといってよい。

当日は午後2時からの講演であったが、事務局の方々と少し早めの昼食を摂りながら歓談し、早めに会場に着いた。そのためネットサーフィンしながら、つながりのある人のフェイスブックを見ていたところ、札幌麻酔クリニックの金谷先生が、在宅での終末医療に関わる医師の姿勢に関して素晴らしく感動的なコメントを書いておられた。そのコメントの言葉を是非、福島県の介護支援専門員の皆様にも知ってもらいたいと思い、メッセンジャーで金谷先生に次のようなメッセージを送った。

僕は今福島県いわき市に来ており、これから福島県介護支援専門員協会の皆様に、看取り介護の講演を行う予定なのですが、『ひとつの熟成されたいのちのお手入れ』という言葉にえらく感銘を受けています。講演の中で金谷先生の言葉として紹介させてください。

すると数分後に金谷先生から次のようなメッセージが届いた。

マサさん、どうぞどうぞ。大変恐縮です。」
(※このやり取りは「金谷先生のフェイスブック」の10/13、8:55発信の『さいごのお手入れ』を参照してください。)

ありがたいことであり、講演開始前の既にセッティングが終わっていたステージに立ちながら、講演ファイルのパワーポイントを編集して作成したスライドが下記である。
終末期における医師の役割り
医師という立場の方が、終末期にこのような温かくかかわってくれるのであれば、これほど安心できることはないと思う。

上で紹介した金谷先生のフェイスブックには昨日も、『死亡診断をするのは確かに医師ですが、医師は「死の専門家」ではありません。〜ただその方のいのちの灯火が小さくなった時、或いは消えた時にどのように在るべきかを真摯に考えることが「人の終わりらしさ」かもしれません。』という言葉が書かれている。

まさに金言といえるが、金谷先生はこの金言を、実践の中で自然に発しているところにある種の『凄味』があるといえるのではないだろうか。

北海道には、こうした素晴らしい医師の方々がたくさんおられる。医師以外にも素晴らしい活動をしている多くの仲間たちがいてくれる。だから僕は北海道が好きである。

11/3(土:文化の日)は、札幌の道特会館で、10:00〜16:00まで『看取り介護セミナー』を行う予定になっており、今回紹介した内容なども含めて、看取り介護は、日常的ケアとは異なる特別なケアではないことを伝えられると思う。

まだ参加申し込みは間に合うので、「お申込みはこちらから」をクリックして、申し込んでいただければ幸いである。

対象者が最期まで尊厳ある個人としてその人らしく生きることができる看取り介護の実践論を是非学んでください。

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のである。

看取り介護講演を受講した方の感想


6/15に閣議決定された「骨太の方針2018」では、人生の節目で、人生の最終段階における医療・ケアの在り方等について本人・家族・ 医療者等が十分話し合うプロセスを全国展開するため、関係団体を巻き込んだ取組や周知を行うとともに、本人の意思を関係者が随時確認できる仕組みの構築を推進するとしている。要するに今医療の場で盛んに言われているACPを推進しようというものだ。
※ACPとは、Advance Care Planning(アドバンスケアプランニング)の略。

また、住み慣れた場所での在宅看取りの先進・優良事例を分析し、その横展開を図るともされている。ということであらゆる介護サービスの場で、看取り介護の推進は次期制度改正・介護報酬改定に向けても進捗されていくのである。

その流れに乗ってきちんと看取り介護・ターミナルケアの実践が可能になる職場づくりが、すべてのサービス種別で求められていく。看取り介護の実践リーダーの育成も急務である。

そのため僕は全国各地で「看取り介護セミナー」を行っているが、先日も愛知県一宮市で「生きるを支える看取り介護〜〜最期まで自分らしく生き抜くためのサポート〜」という3時間講演を行なった。
一宮看取り介護講演
講演会場は一宮駅直結のビル最上階で、収容人数が400人という大ホールであった。事前申し込みなしに来場するセミナーだったので、3連休直後の最初の出勤日となる火曜日の午後に、どれだけの人が集まってくれるか心配したが、セミナー開始が近づくにつれ続々と人が集まり、その中には以前僕を講師として招待してくださった愛知県内の顔見知りの方もおられた。
一宮シビックホール
遠くは長野県から足を運ばれた方もいて、画像の通り大ホールも8割がた埋まった状態である。大変大勢の方にお集まりいただき感謝であるが、それだけ「看取り介護・ターミナルケア」というものが重要なテーマになってきているという意味だろうと思う。

その講演を受講してくれた方が、表の掲示板の関連スレッドに次のようなコメントを書いてくださっている。

掲示板より転載1
私は特養の介護福祉士ですが、普段の職場は先生の話の中にあった介護の世界とは程遠く、職員の都合で仕事をする施設、入居者に興味も示さない職員ばかりでなぜ同じ特養なのにこんなにも不幸な最後の人生を過ごさなければいけないのかと毎日モヤモヤしながら仕事をしていました。最後の人生をこの施設で良かったと思ってもらえるように頑張ろうと言ったところ、他の職員にリーダーの言っている事は理想論だと言われ、何を言っても心に響かないのかなと落ち込んでの参加でした。今日の三時間はとても短く、最後には泣きそうになりました。私も諦めず、施設の中で赤い花になれるように頑張ります。ありがとうございました。

僕の看取り介護講演で紹介するケースは、以前僕が勤めていた特養での実践事例がほとんどであるが、同じ特養でも環境は様々で、職員のスキルや考え方も様々である。よってこの方のように、やる気のある方の思いがなかなか受け入れられない職場も少なくないのだろうと思う。

しかし僕が総合施設長として勤務していた特養も、最初からスキルの高い職員が大勢いたわけではないし、様残なバリアが存在し、看取り介護どころか日常のケアのレベルもかなり低い時代があったのである。その状態に慣れることなく、その状態をあきらめることなく、様々なバリアや偏見と闘って、ケアサービスの在り方を変えていった結果が、講演の中でお話しした様々な実践ケースにつながっていったのである。是非、そこを目指して頑張ってほしい。

幸いなことに、「私も諦めず、施設の中で赤い花になれるように頑張ります。」という言葉で、コメントが締めくくられているので一安心である。陰ながら応援したいと思うので、何かあったら掲示板で相談したり、場合によっては直接連絡してきてほしいと思う。できるだけの手助けはさせていただく所存である。

さてもう御一方コメントを書いてくださった方がいるので、その方のご意見も紹介したい。
掲示板より転載2
講演ありがとうございました。また講演を無料で公開された社会福祉法人・愛知県慈恵会にも大変感謝しております。講演を拝聴して
・普通の介護の延長線上に看取りがあり看取りは特別なことではない
・看取りの始まりは看取り計画が始まってからではなく利用者様が入所されたときから始まっている
・どのように死ぬかではなくどのように最後を生きるのかという視点が正しい
・利用者様自身が主役。そのうえでご家族様がグリーフケアにつなぐ必要がない程の看取りを行える環境を作ることが必要
看取り介護について当たり前のことを理解していなかったと反省しています。


僕の伝えたいことを、このように理解していただけると本当にありがたい。これを機会に、新たなステージでの看取り介護の実践を期待したいと思う。

愛知慈恵会の皆さんと
コメントくださった方が書いているように、このような機会を作ってくれた社会福祉法人・愛知県慈恵会さんには、僕が感謝せねばならないだろう。(画像は、セミナー終了後に社会福祉法人・愛知県慈恵会さんの皆さんと記念撮影したもの。)

看取り介護セミナーは、今後もいろいろな形で、いろいろな場所で行う予定があるが、2時間とか3時間では伝えきれない内容もある。そのため全国7カ所で、1回5時間の看取り介護セミナーを行う予定になっている。(参照:日総研出版社主催看取り介護セミナー・すべての関係者に求められる生きるを支える介護

その幕開けは、11月3日(土:文化の日)に道特会館で行うセミナーだが、まだ開催が決定する最低人数に達していないそうだ。せっかくの機会であるのに、僕の地元の北海道だけ開催できないというのも悔しい。道内の皆様、ぜひ文化の日は札幌で、「本物の看取り介護」を学んでみませんか。

なお北海道以外の同セミナーの予定は下記の通りである。
仙 台地区:2019年1月26日(土)ショーケー本館ビル
東 京地区:2019年1月27日(日)LMJ東京センター
名古屋地区:2019年2月2日(土)日総研ビル
大 阪地区:2019年2月3日(日)田村駒ビル
福 岡地区:2019年3月16日(土)福岡商工会議所
岡 山地区:2019年3月17日(日)福武ジュリービル

いずれも10:00〜16:00(昼休み休憩1時間)の予定である。是非お近くの会場にお越しいただきたい。

また看取り介護講演に関連して、そこでお話しする内容につながるデータを集めている。「アンケートへの協力をお願いします。」にご協力いただけると大変ありがたい。こちらへの投票も、よろしくお願いします。

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