masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

介護福祉士

介護職員を介護に専念させる対策を講じないと人材は集まらない



北海道では今月1日から主要都市で、バス料金の値上げとともに大幅なダイヤの減便が行なわれた・・・バス運転手の確保が難しく、今まで通りのダイヤ運航が困難となったからだ。

飲食業も従業員確保が困難となり、営業日を削ったり営業時間の短縮を余儀なくされている店舗が増えている。

そんなふうに全産業で労働力が不足している状態となっている。そのためもともと人材不足が叫ばれていた介護事業者は、今までにも増して人材確保が困難で、人材どころが人員確保もままならなくなっている事業者が少なくない。

そのため何とか人材を増やしたいと考える介護事業者は様々な媒体に介護職員募集の広告を出している。

そのような中で、僕の地元と言ってよい北海道室蘭市求人誌に載せられている某医療機関の介護福祉募集広告がたまたま目に入った。それが下の画像である。
介護福祉士募集広告
この広告の中には、正職員の介護福祉士の業務内容が記されているが、このような業務内容で果たして応募者があるのかと首を傾げた・・・というのも介護職員という貴重な人材に担わせる業務の中に、「ベッドメイク環境整備」が含まれているからだ。

数年前の話ならベッドメイクは、間違いなく介護職員が担うべき業務であったろう。

しかし介護人材が不足する中であっても、介護事業においては利用者対応は常におざなりにできない部分で、特に利用者の暮らしに深く介入し、直接利用者の身体に触れて介助するサービスは、適切に提供しなければならないところである。

だからこそ介護職員がその部分に十分な手間と時間をかけて、サービスの品質が低下しないようにするために、それ以外の行為についてはた職員や、他の方法に置き換えるべきである。

介護職員に代わってテクノロジーが代替できる部分はそうしていくべきであり、例えば生成AIを活用して介護職員の記録ゼロ化に取り組む介護事業者も増えている。

介護DXとしてそうした取り組みを行うことは不可欠な時代になっているのだ。

そうであれば「介護職がやるべきことを整理せずして生産性向上はあり得ない」でも指摘したように、直接利用者の体に触れる行為ではないベッドメイク環境整備などは、介護職以外の職員に担当を振るべきではないのか。

大した専門性の必要がない業務に介護職員の業務時間を削るのはもったいないし、そんなことを介護職員にさせていたら、肝心の利用者の身体に直接触れて行う介護ができなくなってしまうか、その品質が著しく低下せざるを得ないのだ。

この部分の思考変換ができない介護事業者に人材は集まらない。よって事業継続は困難とならざるを得ない。

そうならないための思考回路の変更と、新しい取り組みが早急に求められているのだ。

地域ごとに介護人材は、他事業者との取り合い競争が激化しているのだ。地域の全事業者が必要な介護人材を確保できることにはならない。そうであるからこそ人材確保競争に勝つための新戦略が求めらえることを自覚しないとならない。

それをおざなりにする介護事業者は、廃業を現実的視野に入れざるを得ないだろう。

本記事に貼り付け画像の募集広告主の医療機関は、いまだにそうした発想がない理由は、介護福祉士をはじめとした介護職員を、看護職員と並ぶ重要な職種とは考えておらず、今だに介護職を看護職員が指揮命令する助手扱いしているということではないのだろうか。

そういう意味では、現にそこに勤めている介護職員は、できるだけ早く転職先を探したほうが良いのではないかとさえ思う。
菊地雅洋の波乱万丈選ばれる介護経営塾
メディカルサポネットの連載、「菊地雅洋の波乱万丈選ばれる介護経営塾」の第12回配信記事、『介護のプロとして求められる思考回路』が12/2アップされました。文字リンクをクリックして参照ください。


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介護福祉士国家試験の改革案に触れて〜パート合格について



来年度から見直される、介護福祉士国家試験の新ルールが、「介護福祉士国家試験パート合格の導入に関する検討会(第2回)配付資料」に載せられている。

ここで示されているように見直しの中心は、「パート合格」という新ルールの導入である。

パート合格とは、国試の科目を3つに分けたうえで、最初に受ける試験では全てのパートを受験してもらい、次回以降は不合格のパートのみ受験すればよいとしている。合格したパートについて、その後2年間(翌年翌々年)にわたり受験しなくてもよいルールとし、1年ごとに1パートずつ合格していけば、3年で季語福祉士の国家資格を取得できる仕組みが提案されている。
※合格の有効期限が切れたパートは、改めて受験しなければならない。)

これによって介護職員として働きながら勉強して試験合格を目指す人や、外国人がより資格を取りやすくなることを見込んでいるものと思われるが、それによって介護福祉士を目指す人や、介護福祉士の資格を取る人が増えるだろうか・・・。

新ルールは資格取得のハードルを、間違いなく下げているのだから、介護福祉士という国家資格は取りやすくなるだろう。
介護福祉士国家試験
ご存じのように、平成29年(2017年)4月1日から介護福祉士養成施設卒業者も介護福祉士になるためには介護福祉士国家試験に合格しなければならなくなった。(※新法第39条

しかし新法が施行された平成29年(2017年)4月1日から令和9年(2027年)3月31日までに介護福祉士養成施設を卒業した者については、介護福祉士試験に合格しない者(不合格又は受験しなかった者)については、卒業年度の翌年度から5年間は介護福祉士となる資格を有する者とする経過措置が設けられている。

この経過措置の適用を受けている人で、5年間の間に何としても試験に合格しなければならないと考えている人にとっては、今回の見直しは朗報だろう。

特に試験を受けた人で、合格を勝ち取れなかった人にとっては大いなるメリットだ・・・だがそれは現行制度では合格が難しかった人が、合格できる可能性が上がるということである。

それって頭の悪い介護福祉士が大量生産される結果にならないのかという懸念が生じてもおかしくはない・・・介護福祉士は国家資格とは言っても、養成校を卒業しただけで試験に合格していない有資格者が多く、そのスキルに首をかけげざるを得なかったことが、資格取得過程の見直しに繋がっていったのに、それと逆行する見直しが行われようとしているのだ。

無試験で介護福祉士と名乗ることができる現在より、それはマシな事なのか・・・国はいったいどの方向を見据えて、改革・改正を行おうとしているのか・・・。

ただしこの見直しは、外国人材の方々の介護福祉士が増え、定着することにはつながるかもしれない。

なぜなら知識や技術があっても、試験問題の読み込みが不得手で、合格に結びつかなかった外国人の方々にとっては、段階的に各パートを合格すればよい制度の導入は、合格のハードルを下げると同時に、段階取得という目標をもって勉強することにもつながるからだ。

外国人の方々が介護福祉士資格を得られれば、実質的に永住も可能になるので、長く日本の介護事業者で働くという人の数も増えるだろう。

ただしこのことが日本の介護人材難の解決に向かう一手になるのかと言えば疑問符がつく。

日本で介護職に就きたいという外国人の数自体は増えていないからだ。東南アジアの若者で、介護職を目指す人は、「中東で働きたい」という人が増え、日本で介護技術を学びたい・日本で介護職として働きたいという人が減っているように思える。

そもそも介護福祉士資格が取りやすくなっても、介護の仕事がしたいという人が増えなければ、介護人材難は一段と深刻なものとなる。

生産年齢人口が減って、全産業で労働力不足に陥っている現状を見ると、介護職員の成り手が増える状況は想像できない・・・よって今回の国家試験見直しは、介護職員に占める介護福祉士の割合が少しだけ増えることにしかつながらないように思う。

この問題を解決するためには、介護職の給与が目に見えて改善していくことが必要だろう。

だが今現在のように、介護職が看護職より下層階層に属する職種であるというヒエラルキー意識が社会全体にまかり通っている限り、それは実現しないし、介護人材不足はこのまま解決手段のない永遠の課題で終わることだろう。

どちらにしてもこの見直しは、介護福祉士という資格の価値を、現在より確実に貶めるものとなり、それは介護福祉士という資格が底辺資格と言われる第一歩となるやもしれない。

そんなふうに介護福祉国家試験の見直しは、必ずしも朗報とは言えないわけである。


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介護福祉士等の医療行為拡大論について。


一定要件下において介護福祉士等の喀痰吸引と経管栄養が認められてから10年を経た今日、他の医療行為も行えるようにすべきだという声が挙がり始めている。

そのことを論評する前に、喀痰吸引等が介護福祉士等に認められている要件と経緯を確認してみよう。

2012年(平成24年)4月に「社会福祉士及び介護福祉士法」が一部改正され、2016年1月以降に合格した介護福祉士と、一定の研修を受け「認定特定行為業務従事者認定証」を与えられた介護職員については、下記の条件を満たすことで、喀痰吸引(定期的に痰を取り除く)と経管栄養(体外から管を通して栄養や水分を投与する)を行うことができることになった。

(要件)
・勤めている施設・事業所が、医療と介護の連携を整えて都道府県知事の登録を受けている
・医師から実施に関する指示や業務の流れを、手順書によって共有されている


この法改正によって、それまで当面やむを得ない措置として違法性阻却(形式的には法令に反し、違法を推定される行為であっても、特別な事由があるために違法ではないとすること)という形で認められていた痰の吸引と経管栄養が、時限措置なき違法性のない行為として晴れて認められるようになったわけである。

しかし、摘便褥瘡の処置インスリン注射血糖測定等については、介護福祉士等が行えない医療行為とされたままになっている。

介護職員は医療職ではないのだから、上記の行為ができなくて当然であり、なおかつ闇雲に医療行為を行う特例を拡大してはならないという考え方はあって当然だろう。

だが超高齢社会が進行し続ける中で、医療行為支援を必要とする人の数が増えているという現実があるにもかかわらず、その対応ができる医師や看護師の数が十分確保できない現状もある。その状態をいつまでも放置したままで、医療職以外ができる医療行為を拡大しないことによって、必要な支援が行えずに見捨て死させる人を増やす結果にもなりかねない。(※下記画像は、北海道上富良野の風景:イメージ画像
上富良野の風景
そのため次期介護保険制度改正議論に付随する問題として、介護福祉士等が実施できる特定行為業務を拡大しようという議論が進行している。

特にインスリンを自己注射できない高齢者は少なくなく、それらの人の日常は、家族がインスリン注射をすることによって支えられているという実情がある。

しかし家族と同じ行為(※インスリン注射)を介護職員ができないことによって、糖尿病で毎日インスリン注射が必要な人が特養入所や短期入所生活介護利用ができないケースが相次いでいるのである。そのためインスリン注射を介護福祉士等が実施できるようにすべきだという意見が出されている。

医学の発達は日進月歩と言われるなか、インスリンが発見されてから100年以上になるにもかかわらず、経口摂取できるインスリンはまだ開発されていない。そのためインスリンは注射するしかなく、それができないことで必要なサービス利用ができない人がいることを考えると、その対策は待ったなしである。

介護職ができる行為として、気管カニューレ内部の喀痰吸引という難しい行為まで認めているのだから、家族が注射して問題ないインスリンの注射は、介護職員が行うことができる行為としてよいと考える。

勿論そのような行為を介護業務として認めることは、介護職員の過重労働につながりかねないという懸念は承知の上である。

そうした様々な懸念があるとしても、医療器具や医療材料を日常的に使うことによって日常生活を送ることができる人が増えている今日、時代に合わせてサービスの供給量を、専門技術対応に追いつく方向に改革していく必要性がより認められるということではないのだろうか。看護師も医師しかできなかった行為の一部を行うようになっている改革もその一環だろう。

だからこそ介護機器などのテクノロジーは、介護業務の省力化の方向で開発を急いでほしいし、機器導入によって介護職員配置を削ることなどもってのほかと反対せねばならないわけである。

ということでインスリン注射は、是非とも介護福祉士等ができる行為に含めてほしいというのが、僕の考え方である。

なお、「医療行為には該当しない」として現在も介護職員に認められている行為には、以下のような行為がある。
■ 体温計を用いた体温測定
■ 自動血圧測定器を用いた血圧測定
■ 酸素濃度測定器の装着(新生児以外で入院治療が必要な患者さんに対する場合)
■ 軽微な切り傷や擦り傷、やけど等の処置(ガーゼ交換を含む)
■ 湿布の貼付
■ 軟膏塗布(床ずれの処置を除く)
■ 目薬をさす
■ 服薬介助(薬を飲ませる行為)
■ 坐薬の挿入
■ 鼻腔粘膜への薬剤噴霧の介助

また、医師法や歯科医師法、保健師助産師看護師法等の法律上において医療行為とされているものの、規制対象外となる行為は以下の通りである。
■ 耳垢の除去(耳垢塞栓の除去を除く)
■ 爪切り、爪やすり
■ 歯ブラシや綿棒による口腔のケア(歯、口腔粘膜、舌等)
■ ストーマのパウチにたまった排泄物の廃棄
■ 自己導尿補助におけるカテーテルの準備、体位保持
■ 市販の浣腸器を用いた浣腸
※これらの医療行為については、要介護者に異常が見られない場合であれば介護職員が行って問題なしとされている。

本日は、介護職ができる医療行為と、そうではない医療行為、医療行為とはされていない行為等を整理したうえで、特定行為業務の拡大を提案する意味で記事更新している。

皆さんの意見はいかがだろうか・・・。
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介護移動学校への協賛に感謝します


このブログの読者の皆さまに、お知らせと御礼を申し上げます。

2/3に書いた、「出張移動実務者研修実現に協賛ください」で協賛金を呼び掛けていたクラウドファンディングは、107人の支援により2,388,500円の資金を集めることができ、目標金額の200万を超えましたので4/24に募集を終了しました。

皆様のご協力に心より感謝いたします。

この学校の講師陣は全員志を高く抱いている人たちです。介護という仕事にも情熱をもって真摯に取り組んでいる人たちですので、きっと素晴らしい介護福祉士を育ててくれると信じていますし、皆様から集めた貴重なお金を、決して無駄にすることなく介護業界に恩を変える形で大切に使ってくれると思います。

僕は彼らを今後とも応援し続けますので、皆様もぜひ温かく見守って、今後ともご指導とご鞭撻をお願い申し上げます。

彼らに負けないように、僕も北海道で20代の若手介護人材を育てる活動を続けていきたいと思います。(参照:五本の赤い花

ところでこのクラウドファンディングでは、【15,000円の協力提供コースとして、『感謝状+缶バッチ+菊地雅洋の著書「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは」をお届けします。』というコースがありました。 

ここにもたくさんの方々が申し込んでくださいましたので、その方々に僕のサイン入りの本を贈るために、著書にサインを入れて事務局に送りました。
masaのサイン本
お申込みいただいた方々のお手元に、もうすぐこの本が届くと思いますので、今しばらくお待ちください。

介護移動学校の活動については、今後機会を見つけながらこのブログで随時、皆様に紹介したいと思っております。ここから巣立った介護職の方々の、その後の活躍を報告できるようなエピソードが、全国各地に生まれることを期待しています。

それにしてもネットを通じてこんなふうに仲間がつながりあって、決してお金持ちではない人が幾人も集まって、少しずつのお金を出し合いながら、志を持つ人たちに金銭的な援助ができる社会って、やっぱり便利で素晴らしい社会ですね。

そういう意味ではネット社会が作り出した利点は数々あると言えます。

僕が仕事で本格的にPCを使うようになったのは1.999年頃です。

それまでインターネットも利用したことがありませんでした。もし僕の現役社会人中にネット社会となっていなかったら、僕は北海道の田舎の社福職員として、誰にも知られず一生を終えたのではないでしょうか。

本を何冊も出版しているのも、全国のたくさんの場所にご招待を受け講演しているのも、こうしてたくさんの皆さんとコミュニケーションを交わすことができるのも、すべてネット社会のおかげです。

そのことが僕の人生を豊かにしてくれていることに感謝しかありません。このブログを通じてつながっている皆さんにも心より感謝します。あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す。
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出張移動実務者研修実現に協賛ください


まず最初にお知らせです。メディカルサポネットの連載、「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜」の第5回配信記事、「介護事業所で活用される ICT〜その期待と懸念〜」が先ほどアップされました。

使えるICTとは何か、それを具体的にどう使うのかということを示した記事です。

国はICTを人の削減のために活用しようとしていますが、本当に求められることとは、ICTを活用することによって、重労働で生産性が低いという介護労働のイメージを払拭して、介護の仕事をしたいという人を増やすという、介護人材の増加を目指す目的でなければならないということも論じています。

この記事はどなたでも無料登録すれば読むことができますし、僕以外の著名な先生方の配信記事も全て読めます。登録がまだお済みでない方は、今から是非登録して、に張り付けた文字リンクをクリックして記事全文を読んでください。

さて今日の本題に移ります。

介護職員の国家資格は、「介護福祉士」であることは今更いうまでもありません。

しかし介護職員になるために介護福祉士の資格を持たねばならないというわけではありません。

介護保険制度において、介護職に資格が求められているのは、「訪問介護」のみであり、訪問介護員となるためには、「介護職員初任者研修」(旧2級ホームヘルパー養成講座)を受講する必要があります。試験のない研修さえ受講済みとなれば、訪問介護員になることができます。

しかし介護施設をはじめとした、その他の介護事業については、何の資格を持たなくとも介護職員になることはできるのです。

ただし日常生活継続支援加算サービス提供強化加算といった、事業運営に必要不可欠な加算を算定するには、一定割合以上の介護福祉士有資格者を配置している等の要件があることから、多くの介護事業者では、介護福祉士の資格を持つ人材を求めています。

そして多くの介護事業者では、同じ介護職員として雇用する場合も、介護福祉士の資格取得者と、資格を持たない人との間に、待遇差を設けています。

例えば僕が総合施設長を務めていた社福では、介護職員を正社員として雇用する場合は、「介護福祉士資格取得者」であることを条件にしていました。資格がない人については、正社員と賞与などの待遇に差がある、「準社員」として雇用し、資格取得後にはじめて正社員に昇格するシステムとしていました。

そのような状況もあり、働きながら介護福祉士の資格を取りたいという動機付けを持つ人は多いのだと思います。

そもそも介護の仕事に従事する人にとって、介護福祉士とは唯一の介護の国家資格なのですから、その取得を目指すのは当たり前のことです。

その資格を得ることは、その資格にふさわしい知識と技術を身に着けることにほかなりません。同時にその資格をもって介護業務に従事することは、その資格にふさわしい責任を持ち、利用者の方々から信頼を得られる仕事を行うという宣言であり、その証にもなります。

しかし介護福祉士国家資格取得のための実務者ルート(※介護福祉士養成校等を卒業せず、実務経験のみで試験を受けるルート)は2016年度〜介護の実務経験3年と併せて、さらに450時間・6ヶ月の『実務者研修』を受けて、国家試験に合格する必要があることになっています。

そのハードルの高さについては過去に、「介護福祉士の養成ルートの変更について」という記事を書いて論評しているところですが、現に働きながら受験しようとする人にとって、介護福祉士の資格を取るために、現場の仕事から最低限450時間外れることは決して簡単ではありません。

そうした困難を克服して、『実務者研修』を受けようとしても、その研修自体が居住地区で開催されていない地域も多いのです。その場合、どうしても資格を取得したいとなれば、研修開催地に一定期間滞在して受講しなければならなくなります。

研修費用に加えて、滞在費も別にかかるのは大きな負担だ。そのために資格取得をあきらめてしまう人も多いのです。

そこでこの度、『実務者研修』を全国どこにいても受講できるようにする、『介護移動学校』を創設しようとして、仲間が立ち上がりました。

設立メンバーには、「DNAを引き継いでくれる若い力」で紹介した、片山海斗クンも入っています。彼のFBには、この学校について次のような抱負が書かれています。
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人材不足に度々言及する厚労省ですが、2025年に向け国を上げて介護人材を何とか増やすでしょう。
ただそうなると、介護職員の質は問われなくなり目の前の利用者に対しての待遇、接遇。介護施設内で虐待の増加。目に見えています。そんな介護業界誰も望んでいません。(中略)

根本的に介護業界を少しでも良くするためには正しい知識や技術を教えるだけではなく「実学」を教え伝承させ”歴史を刻む”こと。
介護業界を変えるってこういうことだと思います。
介護業界に課題が山ほどある中で上部だけ観てちゃいけないんです。(片山海斗のFBより引用)
----------------------------------------------------
そのために、「1年間で1000人以上の介護福祉士を育成するために介護の学校を全国展開します。」と述べたうえで、「この事業、ぶっちゃけ1000万以上掛かかってます。少しでもご支援していただけませんか。」と呼び掛けています。

そこで、その設立にかかる資金の一部をクラウドファンディングで集めることになりました。
クラウドファンディング
スタートは2月5日です。

このプロジェクトを是非成功に導きたいと思い、僕も協力しています。

それは設立メンバーや、設立団体が利益を得るために協力するという意味ではなく、一般社団法人Create Your Lifeという設立団体が、介護業界に真に必要とされる、「本物の人材」を育成しようと考えているから協力するのです。

そのため講師陣も、その趣旨に沿った有能なメンバーを揃えています。信頼できる仲間の活動を全力で応援したいと思います。

その成果は皆さんの職場に、彼らが育てた人材を送りこむという結果に結びつき、その人材が事業発展に寄与するという形で還ってくるはずです。

ぜひご協力をお願いいたします。
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曖昧模糊となりつつある資格価値


15日に開催された社会保障審議会・福祉部会では、介護人材の確保に関連して、国が介護福祉士を目指す外国人留学生の支援に力を入れていく方針が示されているが、これは介護福祉士の養成校ルートへの国試義務化策送り策とリンクした方針である。

介護福祉士については、2022年度から介護福祉士養成校ルートにも国試を義務化することになっていたが、先の通常国会では国試義務化を5年間先送りすることが正式に決定されている。

これは養成校に通う留学生が大幅に増加している現状を考慮したもので、この流れを止めたくないという国の思惑が強く働いたために、関係団体の反対の声を押し切る形で決められた先送り策である。

昨年度の介護福祉士養成校の入学者全体に占める留学生の割合は約3割に至っているが、一方で留学生にとって国試はハードルが高く、合格率は昨年1月実施分で27.4%にとどまっている。この状態で国試を義務化すれば、養成校への留学生の入学の動機づけが著しく削がれ、増加傾向に水をかける結果につながることが懸念されたものである。それは即ち、我が国の介護人材確保をより一層厳しくするものだからだ。

例えば「特定技能」を持つ外国人が日本の介護事業者で働ける期間は5年で、基本的にはその間に家族の帯同は認められない。しかし介護福祉士の資格を取れば永住への道が開け、配偶者や子を呼ぶこともできるようになる。だからこそ国試義務化されていない状態の現在の養成校ルートは、外国人には魅力的なルートなのである。

そのため国は、国試義務化が先送りされた期間で、国試対策の教材を作成する経費への補助など、必要な財政措置も行いながら教育現場を後押ししていく考えを示したのが15日の方針の意味だ。

つまり介護人材は日本人だけで必要な数を確保できないのだから、より一層外国人労働者が働きやすくするために、国は質より量を選択する道を選んだということになる。先送りした5年間で、教育効果が著しく高まって、外国人の国試合格率が高まる見込みなんてないのだから、この間に実際に行なわれることは、再度の先送り策か国試のハードル下げである。

もともと国試義務化の意味は、介護福祉士の資格の価値や社会的評価の向上を目指したものだが、今、国試義務化を実現したとしても、介護福祉士の数が減るだけで、質は変わらないだろうというのが国の本音だ。それはとりもなおさず、今現在介護福祉士の資格を持って仕事をしている有資格者に対する評価でもある。

このことについては僕も国と同じような意見を持っており、「何が介護福祉士の資格価値を貶めているのか」で指摘しているところであるが、試験を受けて合格した介護福祉士が顧客マナーのない態度で、「してやっている」的な、素人まがいの介護レベルである限り、国の評価は変わらない。

そもそも国試義務化で介護福祉士の社会的評価を高めようと唱えている本人が、介護のプロとしてお客様に対応するにふさわしい仕事ができているのかという問題なのだ。あなたの仕事ぶりは、国家資格にふさわしいスキルが伴ったものなのですかと問われていることを、すべての介護福祉士が自覚しなければならない。

ところで国家資格とえば、現在、都道府県の資格でしかない介護支援専門員の資格は、国家資格化されないのかという議論が根強くある。国家資格化されるべきだと主張する人も多い。

しかしその可能性はゼロだ。

そのことは昨年8月に徳島市で開催された日本介護支援専門員協会の全国大会での、大島老健局長との質疑応答で明確な答えが出されている。

介護支援専門員を国家資格にすべきではないか?」という参加者からの質問に対し、局長は、「ケアマネの役割は非常に大切で、個人的には国家資格にふさわしいものと思っている」というリップサービスを行ったうえで、「国家資格がどんどん出来たこともあって、役所側からもう法案を出さないという国のルールがあります。」・「厚労省がその法案を国会に出すことは難しい」と述べている。

介護支援専門員の全国大会という資格者が集まる大会で、「その資格を国家資格化する法案提出は難しい」と述べている意味は、「厚労省には全くその気はない」という意味でしかない。

そうなると介護支援専門員資格が国家資格化される道は、「議員立法」以外なくなるわけだが、資格者団体の全国組織の組織率が2割程度の資格を国家資格化しよう思う議員がいるはずもなく、政治的に国家資格化へのいかなる流れも造られることはないだろう。

国家試験を受けずに資格が取れる介護福祉士・・・その介護福祉士という国家資格を持っただけでは資格試験が受けられず、実務5年を経てやっと試験が受けられて、その試験に合格して初めて名乗れる介護支援専門員という資格・・・。その資格が介護福祉士の下位資格にあることには大きな矛盾を感じざるを得ないが、現状は介護支援専門員の資格は、永遠に都道府県資格として据え置かれるという見込みなのである。

資格は仕事をしてくれないが、だからと言って国家資格というものの質や重みがあいまいになってよいはずはない。しかし資格取得のハードルの高さや、アウトカム評価が資格の段階を表しているわけではない現状において、私たちは何にその価値を求めればよいのだろうか。

すべての価値観が覚束無く、不確実な社会で誰かの信頼を得るためには、資格というものだけに頼るのではなく、己自身のスキルを鍛え、情報発信能力を鍛えていくしか方法はないのではなかろうか。
※リスクのない方法で固定費を削減して介護事業の安定経営につなげたい方は、介護事業のコスト削減は電気代とガス代の見直しから始まりますを参照ください。まずは無料見積もりでいくらコストダウンできるか確認しましょう。

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介護福祉士国家試験義務化の先送りが決定


現在77歳となった某有名コメディアンの年の離れた若い妻が、「介護職員初任者研修」に合格したことが話題になっている。

自分の父親ほど年の離れた有名人と結婚した妻に対しては、結婚当時、財産目当てではないかなどと中傷が相次いだが、高齢の夫に介護が必要になった時に備えて資格を取得したことに対しては、手に平を返すような称賛の声がネット上で挙がっている。

こんな風にネット上の声とは、中傷であっても称賛であっても、すべて無責任で意味のないものだと思う。そんなものに一喜一憂する方が損であり、気にかける必要は全くないと言ってよい。

それにしてもテレビのワイドショーのこのニュースの取り上げ方は、全くひどいものだ。「介護職員初任者研修」に合格することが快挙のような伝え方はどうかと思う。勿論、家族の介護を担うために、そうした資格を取得すること、そのために勉強することの志は良しとされるべきで、称賛されてよいものだ。しかし資格取得の難易性について誤解を与えるかのような情報の伝え方は、情報操作と同じことであるように思う。

今更言うまでもないが、介護施設等の介護業務に資格は必要とされていない。介護福祉士という国家資格も名称独占の資格でしかなく、業務独占資格ではない。

介護の仕事で唯一資格が必要な仕事は訪問介護だけであり、「介護職員初任者研修」は訪問介護員の資格を得るために受講する研修である。それは過去の「ホームヘルパー2級講座」に替わる研修である。過去の2級ヘルパー講座は受講するだけで訪問介護員となる資格が得られたが、「介護職員初任者研修」については、試験があり合格して初めて訪問介護員となれる。

しかしこの研修は最短だと1.5月程で履修できる。筆記試験も1時間で、それは振り落とす目的の私見ではなく、学んだことを復習するためになると言ってよいものだ。合格基準を70点程度に設定している場合が多いが、万が一不合格になっても追試で全員が合格するというのが実態である。

介護職員初任者研修」は受講したが、試験に不合格のため資格が得られなかったという人がいるなんて言う話は聞いたことがない。つまりこの資格の実態は、金を払って研修受講すれば得られる資格なのである。しかもこれはあくまで基礎資格であり、資格のヒエラルキー上は底辺に位置する資格である。合格は決して偉業ではなく、このことの誤解を与える報道はいかがなものかと思う。

ところで介護職員初任者研修合格者が、資格ヒエラレキーの上位に位置する介護福祉士になるためには、介護の実務経験3年と併せて、さらに450時間・6ヶ月の『実務者研修』を受けて、国家試験に合格する必要がある。これが実務者コースと言われる資格取得コースである。

しかし介護福祉士養成校に入れば、国家試験を受けることなく卒業と同時に資格が得られる養成校コースが別に設けられている。その国試免除が廃止され、2022年度から介護福祉士になるためにはすべての人が国家試験に合格しなければならないとされていたが、この国試完全実施の延期が決まった。

5日に参議院本会議で可決成立した介護関連法案には、介護福祉士の養成校を卒業した人に対する国家試験義務付けについて、5年間先送りすることも盛り込まれていた。これによって国試完全実施は2027年度まで延期されることになった。

このことが介護福祉士の資格の価値を落とすと懸念する声がある。なるほど現在の介護福祉士養成校の卒業生実態を見ると、この状態で資格を与えてよいのかと思えるスキルの低い人が含まれている。介護ができない介護福祉士が、国試というハードルがないことによって生まれていることも事実だ。

だからといって国試に合格した介護福祉士が、すべからくその資格に見合ったスキルを得て、介護業務に携わっているかと言えば、そうではない実態がある。国試というハードルを経ても、なお介護のプロとは言えない仕事しかできない介護福祉士が存在することが問題だ。

僕が特養の施設長を務めていた当時、単独で介護業務ができずに夜勤をさせられない介護福祉士にも出会ったことがある。試験合格した人にそういう人が含まれていること自体が問題なのであり、国試完全実施がされてもこの問題は解決しないのである。

看護師が介護福祉士より社会的評価が高い理由は、国試が完全実施されているかどうかという問題ではなく、看護ができない看護師はいないが、介護ができない介護福祉士がいるという実態が評価につながっているのである。この根本原因をなくそうとすれば、国試を完全実施する前に、介護福祉士資格取得の方法そのものにメスを入れなければならない。

そういう意味でも、国試の完全義務化が介護福祉士の価値を引き上げると考える方がどうかしているのだ。そもそも世間一般的には、介護福祉士の資格取得のルートなんて知っている人は少ないし、そんなことに関心のある人はほとんどいない。試験合格しない介護福祉士が存在するから介護福祉士の価値が低くみられているわけではないことは、そのことでも証明される。

介護福祉士という資格の価値を貶めているものとは、プロ意識に徹しない介護福祉士の存在そのものであり、家族にもできる仕事を、家族レベルでしか行えない介護福祉士が多いからである。プロとしての矜持やマナーがない介護福祉士が自らの資格の価値を貶めていることを自覚しない限り、この問題は解決しない。(参照:何が介護福祉士の資格価値を貶めているのか

むしろ介護事業者は、社会から評価されるサービスの質を自ら作り出す努力を行ったうえで、資格のみで人物・スキル判断をせず、対人援助としてふさわしい仕事ぶりとなっているかを見てスキル判断を行い、その評価に見合った待遇を与えるという意識が必要だ。そうした職場には自然と人材が集まってくるだろう。(参照:今いる場所で咲けないならば、咲く場所を探して居場所を変えて咲きなさい

社会的な評価が得られるような、介護のプロと呼ぶことができる介護職員に、それに見合った報酬対価を与えることが当たり前になれば、それを目指す職員は今以上に増えることは確実である。そのことで介護職そのものに対する評価は高まるだろうし、その流れの中で、国家資格を得ている介護職員は、さらに評価が高くなるのである。

資格という冠だけに社会が評価を与えるものではないということを理解しなければならない。

よって、介護福祉士になるための国試完全実施が5年間先送りされたことに対しては、さほど目くじらを立てる必要なんてないのである。

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何が介護福祉士の資格価値を貶めているのか


現在試験が免除されている介護福祉士の「養成校ルート」は、2022年度から国家試験が義務化されることになっており、現在はそれに向けての猶予期間とされている。

この経過措置に関して、12/10に行われた自民党社会保障制度調査会・介護委員会でも猶予期間の延長を求める意見が相次ぎ、その意見をまとめた期間延長を求める提言が行われることになった。

この件に関しては、11/6に書いた「介護福祉士養成校ルートの国試合格義務化は見送りへ」でも猶予期間延長の機運が高まっていることを情報提供したところだ。その流れは今回の動きでさらに強まったと言えよう。というより猶予期間延長はほぼ決定といってよいと思う。

僕は猶予期間延長に賛成であるし、延長しても何ら問題がないと思っており、リンクを張った記事でもその考えを示しているところだ。

これに対して日本介護福祉士会だけが猶予期間を延長することに反対している。同会の石本淳也会長は、「介護福祉士の資格の価値を落とす。もっと本質的な手を打たなければ、中心となって介護現場を支える人材を確保していく効果は薄い」と主張するが、その意見に賛同する人は少ない。

そもそも介護福祉士の資格の価値を落としている本質は何だろうか。石本会長はそれを見誤っている。

世間一般的には、介護福祉士の資格取得のルートなんて知っている人は少ないし、そんなことに関心のある人はほとんどいない。試験合格しない介護福祉士が存在するから介護福祉士の価値が高くはないと考えている人なんてほとんどいないのである。

しかし介護福祉士の資格の価値が看護師と比較しても低いと考えている人が多いのも事実だ。それは他に理由があるからだ。

その理由の最たるものは、介護福祉士が業務独占資格ではないということだろう。介護福祉士だから可能になる職業も業務も存在していないことが、看護師と比較して専門職という感覚を薄める要因になっている。

介護福祉士が行う業務は、介護福祉士以外の人が行ってよい業務であるだけではなく、その行為自体は、特別な教育を受けなくとも誰もができる行為である。食事介助も排泄介助も、移動介助だって見様見真似で誰もだできる行為だ。そこに専門性を付け加えるのであれば、誰が見ても無資格者とは違うと感じられる一線がなければならない。

それがなければ資格取得ルートのハードルをいくら引き上げたところで、介護福祉士の資格の価値なんて上がらない。世間はその価値を認めないのである。

心身に障害を持つ人に対して、介護福祉士が家族ができることと同じ行為しかできていないとすれば、そんな資格に価値を見出すことなんてできないわけだ。

家族が家族に対して使う、「タメ口」でしか利用者に接することが出来ない介護福祉士がどれだけいるだろう。そんな介護福祉士にプロ意識を感じ取ることはできるだろうか。そんな資格に価値を見出すことはできるだろうか?

誰しもができる行為でお金を稼ぐ仕事であるからこそ、資格のない人との差別化を図らねばならない。そうであれば介護という行為を資格を持つ者が行うに際して、有資格者という矜持をもって顧客に接するというプロ意識がもっと前面に出されてよいのではないか。

プロとして顧客に接するに際し、誰よりも丁寧に介護という誰しもができる行為に携わる必要があるのではないのか。顧客に対するサービスマナーに徹した仕事が行えるようにすべきではないのか・・・。

介護福祉士という資格の価値を貶めている者とは、プロ意識に徹しない介護福祉士の存在そのものである。日本介護福祉士会は、そのことに何らかの警鐘を鳴らしたことがあるか?・・・ない!!一度たりとも、介護福祉士が利用者に対してプロ意識をもって、適切なマナーをもって接しなければならないと提言したこともない。

そういう意味では介護福祉士の資格の価値を貶めているものとは、介護福祉士会という資格価値を高めようとしない職能団体の存在しのものであるともいえる。

そこを改革しなければ介護福祉士の資格価値など上がるわけがないのである。

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介護福祉士養成校ルートの国試合格義務化は見送りへ


介護福祉士の資格取得に関連して、介護福祉士養成校ルートにも2022年度から国家試験合格を義務付けることが既に決まっている。

2017年度から2021年度の5年間は、その猶予期間にあたり、この間に介護福祉士養成校を卒業した人については、5年の間に国家試験に合格して資格を得るか、5年続けて介護実務に従事すれば国試をクリアしなくても資格を与えるルールとなっている。

その経過措置を経て国試合格義務化は2022年度から完全に義務化される予定になっているわけである。

しかしこの決定事項である国試義務化が見直され、2022年度以降も国家試験合格なしに養成校ルートには介護福祉士の国家資格を与える方針転換の可能性が高まっている。

その背景には介護人材不足がある。その対策として2017年9月から外国人の新たな在留資格が創設され、養成校を出て介護福祉士になれば日本で長く働いていける環境が整ったことが関係しているのだ。

このため介護福祉士養成校に入学する外国人留学生が急増し、今年度の入学者数は前年の倍となっており、全体の約3割を外国人の学生が占めるという状態が生まれている。

しかし介護福祉士養成校ルートにも国試合格義務を課してしまうと、日本語スキルの乏しい外国人留学生にとって国試のハードルは高いために、国試に合格せずに、せっかくの在留資格要件緩和が機能しないことになるという懸念が示されるようになった。

そうなればサービスの担い手を量的に確保していく観点からはデメリットが大きいということで、自民党から見直し意見が出され、10/31に開かれた同党の社会保障制度調査会・介護委員会で関係団体の意見聴衆を行なったところ、全国老人福祉施設協議会、全国老人保健施設協会、日本介護福祉士養成施設協会、全国社会福祉協議会から国試義務付けの実施延期の賛成意見が示され、国会議員からの異論が出されなかったことから、養成校ルートの国試義務化はさらに先送りされ、なし崩し的に見送られていく可能性が高くなった。

これに対し当日の参加団体では、日本介護福祉士会だけが、「介護福祉士の資格の価値を落とす。人材を確保は処遇の改善、それに伴う社会的な評価の向上こそ本質的な改善策のはずだ」として義務化延期に反対を主張した。

その反論は、心情的には理解できないわけではない。

しかし養成校ルートの国試義務化と、処遇改善がリンクしているわけではない中で、介護福祉士という資格が業務独占の資格でないことを鑑みても、国試の義務化によって介護福祉士という資格に対する社会的認知度が高まって、待遇が改善し、人材確保につながるという主張は、やや説得力に欠ける。

それよりも介護福祉士になることができる人の絶対数を確保する方が、人材対策としは有効だし、「人口減少社会の中で」という記事で指摘した通り、我が国の人口構造を短期的に改善する手当や政策は存在しないために、全産業分野で日本人だけで人材確保が困難な状況ははっきりしているのだから、外国人がより介護サービスの場に張り付きやすく、定着しやすい環境を創るほうが、人材対策としては有効な政策・手立てになることは間違いのないところだ。

そもそも「国家試験を全ルートに義務化しないと、介護福祉士の資格の価値を落とす。」と主張する日本介護福祉士会の役員に、国試を受けないで介護福祉士資格を取得している人がいるのでは、その意見に何の説得力も感じなくなる。

本当に国試義務化が必要不可欠な対策というのなら、国家試験を経ずに介護福祉士資格を有している役員は、率先して一度資格を返上し、実務者ルートで国家試験を受けなおすべきだろう。そして全ルートの国試義務化が実現した場合は、経過措置期間の卒業生のみならず、現役の全介護福祉士について、一定期間内の試験合格義務を貸す提言を行うことでもしない限り、介護福祉士会の発言に重みは出ない。

人材を求める介護事業者の立場から言えば、従業員の質は資格によって左右されるものではないという現実があり、資格取得過程がどのようなルールになろうとも人材をきちんと見極めて選べばよいだけの話であるのだから、義務化の先送りにデメリットは何も生じない。

むしろもう少し下賤な方向から考えると、国試義務化によって、現在より介護福祉士資格を新たに取得する人の数が減れば、サービス提供体制強化加算等の加算算定に負の影響が生ずることを考えれば、義務化延長を歓迎する介護事業者の方が多いのではないだろうか。

そもそも国試義務化の延期によって、現在の介護福祉士の資格の重みが変わるわけではない。少なくとも現在より、その価値が軽んぜられるわけではないのだ。そうであれば介護福祉士会は、自らの資格価値が社会的に認められるために、介護福祉士としてどのような社会的活動をすべきかを考えたほうがポジティブだ。

介護福祉士の有資格者が、介護の質を担保する存在となっているのか、そのために日本介護福祉士会という職能団体が機能しているのかを自らの活動姿勢で国民全体に知らしめる必要がある。

待遇についても、すでに処遇改善加算や特定加算という改善がされているのだから、その価値にふさわしい介護福祉士であるのか、それよりさらに国費や介護給付費という財源を使って、待遇が改善させるべき価値がある社会活動をしている職種であるのかを示すのが先ではないだろうか。

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介護福祉士のなり手がいなくなる


9月6日付で厚労省から、「第31回介護福祉士国家試験受験申込受付期間の延長について」という文書が発出された。

これは平成30年 9月6日03時08分に発生した北海道胆振東部地震及び平成30年9月4日に日本に上陸し、近畿地方を中心に大きな被害をもたらした台風第21号に伴い、平成30年9月7日(金)までとしていた第31回介護福祉士国家試験の受験申込受付期間を、10月5日(金)までに延長する(※当日消印のあるものに限り有効)ことの告知文書である。

災害のために申し込みが間に合わなかった人にとっては朗報だろうと思うが、これにより改めて受験申込する人が何人いるのか心配になる。

というのも、こうした措置が取られる背景には、受験申込者の極端な減少があったのではないかといううがった見方があるからだ。それだけ介護事業者の人材確保は大変な問題になっている。

介護福祉士の問題に絞って考えても、養成校の受験者数の減少も同時期に報道されている。日本介護福祉士養成施設協会が9/10までに取りまとめたデータによると、全国の養成校の数(課程数)は昨年度の396校から今年度は386校に減ったそうである。生徒募集に応募がないことを理由に、募集をやめたり過程を廃止したりしたところが10校あったという。

その結果、全国の介護福祉士養成校の定員数は385人減の1万5506人となっているが、それに対して充足率はわずか44.2%ある。減り続ける養成校の定員の5割以上が埋まらないという深刻な状況なのだ。

しかも充足している44.2%についても、外国人留学生の占める割合が増えている。全国で昨年度591人だった外国人留学生は、今年度は2倍にあたる1142人が入学。全体に占める割合は8.1%から16.6%まで上昇したというのだ。(国別の内訳は、ベトナム542人・中国167人・ネパール95人・インドネシア70人)

介護福祉士養成校の入学者減少率は、外国人留学生の入学者増加で、少しだけ歯止めがかかっているという状況だ。外国人留学生が介護福祉士の資格を取得し、日本人以上に立派な仕事をしている例はたくさんあるが、しかし将来を考えると、それらの人々が日本の介護事業者を支える人材として定着するかどうかは疑わしい。

優秀な外国人であればあるほど、一定期間日本の介護事業者で働いて、ある程度の経験と技術と知識と収入を得た後は母国に帰って、日本でのキャリアをもとに母国で一定以上の地位で働こうと考えている人が多いからだ。

日本の介護福祉士養成校で教育を受け、介護福祉士の資格を取得しても、それらの人は長い期間介護福祉士として就業しないのである。そうであれば最初から日本の介護事業に定着しない人材を、お金と時間をかけて養成しているということになる。これが本当に求められている人材育成の形なのだろうか。

とは言っても、何をどう対策しても日本人の介護福祉士は十分な数になることはないだろう。奨学金が充実し、介護福祉士の待遇が目に見えて改善することで、多少日本人の入学者が増えたとて、それは日本の近い将来の介護ニーズに対応できるほどの数にはならない。

むしろ国全体で生産労働人口が減少し、全産業で人手不足になっているのだから、人気のない介護業界から人手はさらに減り、一人一人の職員に過重な負担がかかる中、将来苦労することが目に見えている介護福祉士になろうとして、専門学校に入学する人が増える手立てはない。介護福祉士を目指す若者が劇的に増えることを期待することはないものねだりである。

そんな中で介護事業を安定して経営しようとする事業経営者には、ほかの事業者と同じことをしても人は集まらないという意識が求められる。人材は黙っていても湧いてくるわけがなく、自らの知恵と工夫で生み育てるものだという意識改革が必要だ。

最初から人材としてのスキルを持つ人はごくわずかだ。最初は人員でしかない人を、いかに人材としてスキルアップさせるのか。そのノウハウを持った場所には、人が集まるのである。

地域全体で介護人材が充足するとか、介護業界全体で介護職員が充足するなんて言う幻想を捨てる必要がある。国の施策によっては、介護業界に人が集まるなんて言う期待もしてはならない。

自らの力で、自らの工夫と知恵をもって、ほかの事業者にはない方法で人を集め育てないと、今後の介護事業経営はできないと考えるべきである。人材育成の部分では、僕も協力できるので、必要があれば声をかけていただきたい。

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2040年以降を見据えて


今週月曜日から、介護福祉士養成校の今年度担当授業が始まった。

非常勤講師として、講義を行うようになってもう15年以上になるが(正確に何年かは忘れた。)、学生に教えながら、彼らの熱意に触れて僕も刺激を受けることができる機会ともなっており、そこは僕にとって得難い貴重な場所である。

しかし心配なこともある。それは毎年生徒数が減っていることであり、そのことには危機感を抱かざるを得ない。

僕が非常勤講師として担当し始めた当初は、1学年2クラスであったものが、いつのころからか1クラスになり、クラスの中の生徒数も少しずつ減ってきており、今年の2年生は19名である。(途中リタイヤした学生が2名いる。)

僕が現在担当している授業は、社会福祉全領域に関する演習授業である。ちなみに本日午後からの演習は、家庭問題をテーマに、DV(配偶者からの暴力)について考える予定である。全15コマの授業すべてが演習授業のため、クラス内で4グループに分けているが、そのうち1グループは4名のメンバーとなってしまう。ちょっと寂しい感じである。

それにも増して憂慮しなければならないことは、介護福祉士というマンパワーの養成現場が、このような状態であって、果たしてこの地域の人材育成がこのままでよいのかという問題である。僕の受け持っている学生が、全員がこのまま無事に卒業したとしても、当校からは今年度20名に満たない介護福祉士しか世に送り出せないということである。しかも、登別・室蘭・伊達という胆振中部〜東部にかけての広い圏域において、介護福祉士養成校は、ここ1校しかないので、この地域全体で新卒の介護福祉士が20名に満たないという意味でもあり、地域の介護職員のマンパワーの確保という面が懸念される状態といえよう。

しかしこの問題に関していえば、特効薬となる処方箋はないと言って過言ではない。各事業者の人材確保は、それぞれの知恵で行うしかないのが現状である。

そのような状態だから当然、卒業生の就職率は100%である。そういう意味では学生側は売り手市場であって、職場の選択肢も多いと言える。人材不足の中で、介護職員処遇改善加算の影響もあって、他産業より低いと言われる待遇も改善傾向にあるし、そもそもこの地域で言えば、介護職員として正規雇用を受ければ、他産業に比して極端に給与が低いわけでもなく、就職先によってはかなりの高待遇で雇用される場合もある。

よって「安定した雇用が期待できる職業」ともいえるわけであり、そういう動機で入学者が増えてほしいところである。

僕は年度最初の授業では、介護福祉士養成校に入学した動機をテーマにした演習を行っている。その中で、介護福祉士という資格を取得することによって、就職にも困らず、将来にわたって安定した仕事を続けられるという意見が出されたりする。

それに対して僕は、「就職に困らない」という現状認識は良しとしても、「将来にわたって安定した職業である」という点については疑問符を投げかけている。

日本の介護問題は、団塊の世代が後期高齢者となる2025年から約15年間が正念場となる。逆に言えば、2040年以降、介護サービスの必要量は、相当の勢いで減っていくのである。その時に、今と同じ仕事を続けることができるとは限らない。

例えば今年度の卒業予定者の現役世代は、平成9年と平成10年生まれである。男女比で言えば男性6割、女性4割で、介護福祉士養成校もすでに男子の数が女子を上回っている。

そうであれば来春卒業して、介護の職場で働くことになる20歳代の若者が、40歳代の働き盛りの年代に、介護を受ける人が減るという流れ中に身をゆだねることとなる。

僕は教師として、そのことをどう考えるかと問うたうえで、僕なりの分析を披露して、どのような時代になっても、選ばれる介護福祉士になるように、スキルを磨く必要があることを強く訴えている。

介護福祉士の資格見直しに関連して、国家試験を受けずに資格取得できる福祉系養成校卒業生に対する受験合格義務化は、2022年度に先送りになっており、現在の学生は卒業と同時に介護福祉士の資格を得ることができる。そのような状況下で、就職にも困らないという状況であるが、自分を磨かなければ、将来必要とされなくなる恐れがあるとアドバイスしている。

そのために僕もできる限り、知恵を絞って学生に伝えていくつもりであるので、彼らが卒業後に就職する場所の先輩職員が、彼らの理想や思いを壊さずに、延ばす指導を続けてくれるように願ってやまない。
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介護福祉士会の意見はごもっともではあるが・・・。


1月31日に書いたブログ、「介護福祉士国家試験の受験者減も国の政策だぞ」の中で、僕は国家試験受験者数半減の原因は、 実務者研修(450時間)の受講という高い壁ができたためだとし、しかもそのことは前々から予測されていたことであり、国もそのことによって受講者数が減ることは想定済みであると論評した。

しかし一部の関係者からは、受講者数の減少の主たる原因は、実務者研修(450時間)という壁そのものではなく、この壁を避けるためにここ2年ほどの間に、駆け込みで国家試験を受ける人が増えたため、その分の人数が今年減っただけであり、元の受講者数に戻っただけだという声が聞こえてくる。そして、その声に対し無批判に同調する意見も見られる。

だがこの分析は正しいとは言えない。むしろ全く根拠のない間違ったものであるといいたい。

そもそも減少した受講者数の具体的な数と、「駆け込み試験受験者数」と比較したデータは、どこに存在するのかと問いたい。

今年度の介護福祉士国家試験受験者数の半減とは、具体的に言えば、平成27度の国家試験受験者数は16万919人だったが、28度度のその数は7万9113人に減ったというものである。

ではここで下記の表《介護福祉士国家試験受験者数の推移》を見ていただきたい。
介護福祉士国家試験受験者数の推移
29年度介護福祉士国家試験受験者数
介護福祉士国家試験の第1回目は、平成元年度なのだから、回数がそのまま平成の年度に重なる。つまり27回目の試験は、平成27年度試験なのだからわかりやすい。

これを見てわかるように26年度と27年度の受講者数は確かに増加しているが、その数は過去の試験受講者数と比して大幅に増えているものではなく、22年度、23年度試験の受験者数に戻っているだけに過ぎない。28年度はさらに駆け込み受験者が増えていたこともわかる。しかし今年度の受験者数7万9113人という数字は、駆け込み受験がなくなったという理由だけで説明できる数字ではないのである。

受験者数が10万人を切ったのは、平成17年度の90,602人以来だし、その数字は平成16年度の81,008人を下回っているのであるから、この現象に大きく作用しているのは、実務者研修(450時間)の壁そのものであるといってよいと思う。

だからといって介護福祉士だけが介護サービスの人材ではないことから、このことが介護人材不足にさらに拍車をかけるという短絡的な見方にはならない。その影響が出るとしても、ごく短い期間のごく狭い範囲であると国は見ているのだ。さらにいえば、給付財源の削減のなかで、一方ではある程度のサービスの質を確保するための人材を育てるという意味では、必要不可欠な対策であると考えているはずである。そのことについては1/31のブログに書いたとおりである。

また国家試験の受験者数減については、今年度から数年間が底で、少なくとも2022年度(平成でいえば34年度)以降、確実に増加に転じる。なぜなら2022年度以降については介護福祉士養成施設を卒業した者も、国家試験に合格しなければ介護福祉士資格を取得できないからである。

また2017〜2021年度については制度変更までの経過措置期間となり、この期間の卒業生には5年間の期限付きで介護福祉士資格が与えられ、期限内に国家試験に合格するか、もしくは5年間現場で勤続することで正式に介護福祉士の資格が認められるが、期限内にいずれかの条件を満たさなかった場合には資格が失わわれるため、実務についていない卒業生の、この期間の受験が想定されるため、2020年度より早い段階で、受験者数は増加に転ずる可能性がある。

どちらにしても、介護福祉士という資格者については、社会全体の介護職員の数の確保より、質の確保という方向で受験資格や、授業内容が考えられていく時代だ。そのことを見誤ってはならない。

ところで先般の、介護福祉士国家試験受験者数半減報道を受けて、日本介護福祉士会は公式ホームページに、「介護福祉士国家試験の受験申込者半減等の報道について」という声明文を掲載している。

ここでは「資格取得方法の一元化を否定するものではないと考える。」・「今回の介護福祉士国家試験の受験者数の激減を受け、絶対基準を採用している合格基準を、政策的に歪める対応は行われるべきではないことを付言する。」という二つの主張がなされている。

この主張をザックリ解説すると、受験者数が半減したからといって、介護福祉士国家資格の取得新ルールを改める必要はないし、受験者数の激減に怯えて合格基準を引き下げるべきではないということだ。

この主張は至極まともな主張であり、介護福祉士がスキルをアップし、介護職全体のスキルを引き上げるという気概やよしと言いたい。

そもそも受験資格の厳格化と、資格取得のハードルが高くなることは、介護福祉士というの資格の価値を高める可能性を持っているから、その資格者の職能団体にとっては歓迎すべきことなのである。

例えば介護職員処遇改善加算は、無資格者も含めてすべての介護実務に携わる職員を対象とし、これによる介護職員の待遇改善を図って介護職全体の数を担保しようとする国の政策の中で、介護福祉士という有資格者のブランド力をアップさせ、差別化を図って、処遇改善加算プラスアルファの待遇改善を求めるためには、目に見える形のスキルアップが必要だ。

そうであれば介護福祉士等がたん吸引や経管栄養などの医療行為を行えるようになるには、喀痰吸引等研修といった専門資格を修了する必要とされているが、実務者研修のカリキュラムには、喀痰吸引等研修で受講する基本研修も含まれているため、喀痰吸引等研修の基本研修は免除され実地研修を受講するだけで、これらの行為を業務として行うことができるようになる。

養成校ルートも新カリキュラムによって、資格さえ取得できれば、たん吸引や経管栄養などの医療行為を行うことができる。

つまりこれからの介護福祉士はそれらの医療行為を行うことができる有資格者が大多数を占めるという意味であり、そうであるがゆえにより高いハードルを超えて資格を取得することで、従前までの有資格者とのイメージ上の差別化が図れる可能性があるわけで、そこに新たな可能性を求めるためにも、必要な改革といえるのではないだろうか。

同時にこのことは、現在の日本介護福祉士会の役員や会員にも、新しい資格者と同等以上のスキルが求められてくるという自覚が必要だ。

国家試験というハードルを越えていない有資格者や、実務者研修を受講していない有資格者に、今更それと同じハードルを超えよとはいわないが、せめて特定医療行為をできる条件をクリアすることは求められてくるのではないだろうか。

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介護福祉士国家試験の受験者減も国の政策だぞ


先週土曜日、今年度の介護福祉士国家試験を直前に控えて、その介護福祉士の受験申込者数が前年度の半分の約8万人に激減していることがわかったというニュースが流れた。

それに対しSNSなどでは、関係者の間から人材不足に拍車がかかるという声が湧き上がっている。

しかし僕に言わせれば、「何をいまさら」といったところだ。あれだけ長い時間の講習受講義務を課したのだから、その費用と講習時間というハードルを越えられない人が、すごい数になることは予測されたことで、受験者数が半減するのだって予測の範囲内である。

それを予測していた証拠として、今から3年も前に書いた記事、「今後の介護福祉士養成校に求められるもの」を、改めて読んでいただきたい。

ここに「そう考えると、27年度以降は介護福祉士の資格を新たに取得する人の数が、現在より大幅に減るのではないかという予測も立てられる。その数が半減したっておかしくはない。」と予言している。
※この記事で28年度ではなく、27年度と書いているのは、この受験資格の見直し措置は、当初27年度実施予定のものが、一度延長されて、今年度(28年度)〜の実施とされたためである。

受験者半減を、介護従事者のさらなる不足に拍車をかけ、人員の確保がさらに難しくなる問題として声を挙げている人も多いが、ある意味、国はそのことも織り込み済みである。

役人だって馬鹿じゃないし、むしろ僕より頭が良くて、狡猾な人が多いのだから(違うかな?)、僕が3年前に記事に書いた状況くらい容易に予測しているはずだ。

それなのに、なぜ受験者減につながる改正を強行したかといえば、介護人材の質を上げるためといえば聞こえは良いが、それだけではなく、介護の提供主体は、質が高くてお金のかかるサービスと、安かろう悪かろうサービスの2極化の中で、国民の選択にゆだねるという意味である。逆に言えば単価の安いサービスも、ある程度の量が必要だという乱暴な理屈が、そこにあるということだ。

リンクを張った3年前の記事で書いているように、これによって介護福祉士の国家資格を持つ人の価値自体は上がることはあっても、下がることはないので、有資格者の待遇は良くなるかもしれないのである。むしろこのことより問題なのは、介護福祉士養成校の定員に対し、入学者数が5割を切っていることである。介護福祉士という資格を取れば、その資格で働く限り待遇はさほど悪くないという認識を広め、ネガティブキャンペーンに踊らされて、いたずらにその資格取得を否定することのないようにしてほしいものだ。

ただし介護福祉士という資格には、今後お金がかけられる可能性があるとは言っても、それだけお金をかけることができる財源には限りがあるので、この部分のパイは大きくしないというのが、受験資格のハードルを大きく引き上げたことに隠されている意図である。

必要とされるすべてのサービスの質を高品質に保つことができるほどに、介護サービスに国費をかけることはできないので、介護のスタンダードな国家資格者は大量生産・大量排出する必要はなく、受験者も合格者もコンパクトに絞り込んで、数より質を担保し、その代わりに国家資格がなくとも提供できるサービスや、ボランティアで対応できるサービスをどんどん作って、そこは国費をかけるとしても安い費用で提供するサービスにするという意味である。

そもそも介護現場の人材難、人手不足の問題は、無策であっても、あと20年少しで解決に向かう。

2040年ころには、高齢者の数がぐんと減り、サービスの供給過多となり、各地で人員余りが生じてくるだろう。だからそれまでの間に、しっかり質を担保する部分を強固にシステム化し、足りない部分は、この時代に介護を必要とする人に泣いてもらいながら、あと少しの期間だけ歯を食いしばって頑張ってもらおうという、意図的無策がとられているわけである。

その背景には、お金をかけないといっても、介護保険サービス事業には年間11兆円もの岡野がかけられ、自然増を半減するといっても、さらに毎年5.000億円ずつ費用は膨らんでいくのだから、この費用を得ようとする民間事業者はなくなるはずがなく、人材枯渇と人員不足は、国が無策でも、民間事業者が何とかするだろうという、根拠のない見込みがあるのかもしれない。

だから今更受験者数が半減したからといって、驚いている役人はいないし、関係者が介護の危機につながる問題だと、このことを論評しているのを見て、「わかってないな〜。」と鼻で笑っているかもしれない。

だからこの問題に関して、正論は通用しない。

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基金を人材確保に振り向けよという提案に賛同


介護福祉士養成校の非常勤講師をしているが、過去に教えた学生の顔と名前をすべて覚えているわけではない。

というより僕は本業が別にあるので、学校で授業を行っている期間は短いし、せいぜい1学年に対する担当授業は1教科もしくは2教科といったところなので、よほど印象に残っている学生しか覚えていない。しかし学生のほうは僕のことを覚えており、先日も10年前に僕が教えた子から声をかけられた。介護の事業者で働き続けている彼は、僕から見てもすっかり立派になっていてうれしい限りである。

こんなふうに僕の教え子が、たくさん介護サービスの場で活躍して、事業者の中で中心的役割を担う人材に成長している。介護福祉士養成専門学校の非常勤講師という役割をいただいていることを心よりありがたいと思う。

今年度も2年生の後期授業で、「社会福祉主事実習」(実習といっても講義形式の授業である)と、「社会福祉援助技術演習」を担当している。本業である高齢者介護とは分野が全く異なる、障がい者福祉や児童福祉、子育て支援からドメスティックバイオレンス、インフォームドコンセント、ホームレス問題など幅広いテーマの授業を担当しているわけであるが、こうした広範囲の分野を一人で担当できるのも、僕が講師として求められていることであろうと心得、それはそれなりに楽しんでいる。

今年の2年生はやる気があって、まじめな良い子が多いので、授業をしていてもやりがいがある。ただその数が23名であるのが少し寂しい。

僕が授業を担当するようになった当初は、1クラス30名を超え、それが2クラスあった。それゆえにスキルのばらつきはあったとはいえ、それだけ多くの学生が介護福祉士を目指していたわけである。それが今では1クラスのみで、25名に満たない生徒しかいないというのは、介護事業者にとっても人材難につながる深刻な事態といえる。

それでも室蘭にはこの学校があって、介護福祉士を養成できているから良いほうで、例えば僕の現在の職場がある千歳市には養成校がない。全国的に見ても、昨年度より今年度は養成校の数が60校以上減っているそうである。

その最大の理由は、少子化に加えて高校の進路指導の先生が、介護の職業には未来がないとして、生徒の進路として介護福祉士を選ばないように指導しているからである。この状況を何とかしないと介護人材難は、より深刻な状況を生み出し、それは国民の多くが介護難民となりかねないという社会問題と直結してくる。

そんな中、全国老人保健施設協会の東会長が、面白い提案をしている。それは地域包括ケアを推進する原資として各都道府県に設けてある基金の使途の再考だ。

この基金は大きく分けて「施設等整備」と「人材確保」の2つがあるが、両者のバランスを見直してはどうかというのである。昨年度の予算(補正を含め2,285億円)でみると、「施設等整備」に全体の9割を占める2,041億円が充当されている一方で、「人材確保」は244億円にとどまっていることを指摘し、「配分が逆ではないか。そんなに施設ばかり作っても働く人がいない。一体どうするのか」と問題提起をしている。

具体的には、介護福祉士養成校の授業料をすべて免除し、通学している間の生活費も補助する手厚いサポートを行う案を出し、「基金の使い方を変えればできる。それくらいしないと、(介護人材不足は)解決しない」との考えを示している。

僕はこの提案には大賛成だ。前述したように、介護職員のなり手がない根本原因は、介護職員という職業に未来がないと感じている人が多いからである。高校卒業者が介護福祉士養成校に入学しないのもそれが最大の理由で、けんもほろろと言う態度の進路指導教員も多い。この状況を変えるためには、処遇改善加算による待遇改善ではアピール不足である。

東会長が提言を疲労した会見で、「少し極端かも、というくらいでないともうもたない」と発言しているが、その通りである。

そもそも介護サービスの量が不足するからといって、箱物だけを整備してどうするというのだ。そこで実際に介護サービスを提供できる人材がいないから、施設は完成し指定は受けたけど、一部のユニットを開設出来ないという、「空き箱」が全国各地にできているではないか。それほど無駄なものはない。

建物より、サービスを提供する人材、人の暮らしを守る人材の確保にお金を使うべきではないだろうか。
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介護の仕事に就きたいという高校生の相談


今年23歳になる僕の二男は、中学からずっとバトミントンを行っており、今でも休日になると市の総合体育館などで練習や試合をしている。時にはそこで、後輩に指導をしているらしい。

そのような縁もあって、彼を通じて来春卒業予定の高校生から、「介護の仕事をしたいので、就職できないか」という相談を受けた。

その子は特別な介護の授業を受けているわけではないので、専門知識は全くない状態である。しかし介護という職業に憧れを抱いて、将来は資格も取りたいと思っているのだから、来春の卒業を待って、当施設に就職することはやぶさかではない。

しかし当施設の場合は、介護福祉士の有資格者でなければ正規の介護職員として雇用できない規則になっている。資格がない場合は、契約職員として採用することになり、この場合、賞与などはあるが、支給率が正規職員より低くなるし、通勤手当以外の各種手当(住宅・扶養等)も支給されないし、退職金制度などを含む共済制度の対象外職員となってしまう。

もちろん就業後に勉強をして、実務3年を経た後に国家試験を受けて合格し、晴れて介護福祉士の資格を取得すれば、正規職員にすることは可能だが、それには最低でも3年かかる。

たしかにそのようなルートで、現在正規職員として勤めている職員もいる。現に二男の同級生は、高校卒業後に介護とは全く関連のない別職種で働いていたが、1年もたたずにその仕事を辞め、当施設で契約職員として介護を一から学びながら3年後に介護福祉士を取得し、正規職員となり、今では若手のホープとして周囲から期待を寄せられながら、現場リーダーを目指して日々の介護業務にやりがいを感じて頑張っている。

だがそれができたのも、介護業務の実務経験3年で、国家試験を受けることができたからである。しかし、介護福祉士の国家資格を取得するための実務経験ルートについては、2016年度から450時間の実務者研修の受講を義務付けることになっている。

このため来春、契約職員として介護実務を始める人であれば、実務3年で国家試験を受ける際には、その経験だけでは受験資格を得ることができず、就業中に別に時間をとって実務者研修を受講しなければならない。就職して収入がある身とはいえ、経済的負担も馬鹿にできないし、なにより研修受講の時間を作るという苦労があるだろう。

一方で、介護福祉士養成校の卒業生に国家試験を課す時期は、2016年度からさらに延長させ、実施時期を2017年度以降とする方針が決定しているので、来春の高校卒業後に、介護福祉士の養成校に2年通えば、専門技術や専門知識を得るための勉強をしながら、2年後の卒業時点で確実に介護福祉士の資格を取得できる。

そのことを考えると、安易に当施設にその子を契約職員として就業させ、その後の資格取得に向けて指導協力するということが良いのかどうなのか疑問に思えた。

当人は「契約職員で構わない。将来は資格を取って正規職員を目指す」と言ってはいたが、こうした資格取得のルートなどの詳細を知っているわけではないので、きちんとそのことを説明し、熟考したうえで判断してほしいと話した。

同時にこのことは、若者の将来に係る問題で、仮に専門学校にいくという選択をした場合、学費の負担という問題も生じてくるので、親御さんにも理解をえる必要があると思え、昨日その子の父親と電話で話させてもらい、資格のこと、給与を含めた待遇のことなど説明させてもらった。

就職試験を受けるにしても、養成校の受験を選択するにしても、時間はまだ十分あるので、自分の将来設計としてじっくり考えてもらいたいと思った。

だが若い高校生が、真摯に介護の仕事に就きたいと思ってくれることには素直にエールを送りたいと思ったし、ひとりでもそういう人が増えてくれるのを願わずにはいられない。同時に、そうした志を持つ若者に、「介護の仕事は、収入が低いから将来設計ができないので、考え直しなさい」という進路指導が行われないように願うし、そういう進路指導があり得ないような待遇改善につながる、介護報酬の設定を望むものである。

ところで今日は、介護福祉士養成校の授業の日。介護福祉士の養成校の授業ではあるが、今日は来春卒業する2年生が社会福祉主事任用資格を得るための授業である。学校教育法に基づく専門学校において、厚生労働大臣の指定する社会福祉に関する科目を講義することになる。

そのため今日は、相談援助に関する講義であるが、半年後には介護福祉士として介護サービスの場に出て働く彼らに、護るべき介護の誇りをしっかり伝えてこようと思う。

ちなみに午後からの予定は、室蘭の専門学校で90分1コマ授業を2コマ、13:10〜16:20まで行った後、その足で登別市役所に走り、18:00〜認定審査会。審議終了後、一昨日施設で看取り介護が終了した方のお通夜に参列予定である。

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介護福祉士の養成ルートの変更について


7/25、厚労省は介護福祉士の受験資格を得るための、実務経験ルートについて、2016年度から450時間の実務者研修の受講を義務付ける方針を発表した。

一方では、介護福祉士養成校の卒業生に国家試験を課す時期は、2016年度からさらに延長させ、実施時期を2017年度以降とすることとした。これについては、人材確保が困難な折に、卒業生に国家試験受験を課すことは、養成校に入学しても必ず介護福祉士になれるわけではなくなることから、入学者がさらに減るのではないかと懸念する意見があったほか、「中期」の対応と併せた議論が必要だとの結論に達したからだという。

もともとこの二つの受験ルートの変更は、2015年度から実施するとしていたが、2016年度まで一年間先延ばしする改正法が、今年6月に成立していたものだ。
(参照:介護福祉士養成課程見直しの1年延長が決定的に

しかしこの方針決定により、実務者ルートは2016年(平成28年)度の国家試験(2017年(平成29年)1月実施試験)から、450時間の実務者研修を受けないと,受験ができなくなるわけである。

この研修のための時間とお金をかけたくない人は、2016年(平成28年)1月実施試験までに介護福祉士の試験に合格しなければならず、そこまでに受験資格を得られない人や、不合格の人は、以後、実務者研修を受講するために大きな経済的負担を負うことになってしまう。大変大きな改正といえるであろう。

それにしても、国家試験というハードルがある実務ルートに、働きながらこれだけ多くの時間を割く研修が必要だろうかと考えたときに、知識レベルは試験の合格ラインを引き上げるなどで担保すればよいことで、医療知識や特定行為に対する研修などに絞った時間減という考え方があってよいと思う。せめて就業者が受験資格となる実務者研修の受講要件をクリアするためには、国の助成金でそれを受けることができるシステムを作るだとか、職場で研修が受けられるようにするだとかの対策が必要ではないだろうか。

実務者研修を受験要件に義務付けることで、その研修が誰かの利権になるようなら本末転倒である。人材確保とスキルの担保をもっとマクロな視点で考えてほしと思う。


介護福祉士という有資格者の質の引き上げは重要課題である。しかしそのことより優先して解決しなければならない重要課題があると思う。

このブログでは何度も指摘していることだが、国民生活全体を鑑みた時、いま一番求められる施策は、介護難民を作らないことである。介護が必要な人に、必要なサービスが提供される最低限のセーフティネットの構築が最重要課題なのである。

介護福祉士養成校の受験ルートの見直しを延長したからと言って、直接そのことが動機となって、養成校に入学する人の数が増えるわけではない。せいぜい改正による不安から、入学しないとする人の数が多少なりとも減るだけである。しかしもともと介護福祉士養成校は、定員数が埋まらないほど、入学希望者は年々減っており、そのことが介護サービスの事業者における、人材確保の困難性を増大させているのだ。そのことに対する手立ては、受験ルートの改正の見送りではなく、別の手立てが必要とされる。もっと抜本的な改革が必要だ。

介護福祉士になりたいという動機づけが増すために、介護福祉士という職業イメージがアップする手立てが求められるのに、それに対して何の対策もない現状は、介護難民を大量に生みかねない重大な問題であると思う。

さらに2016年度から、介護福祉士の実務者ルートのハードルだけを高くした先に、何が起きるかということを考えると、非常に大きな問題が明らかになる。

つまり実務者ルートで受験しようとする人は、現に働きながら受験しようとする人である。それらの人々が2016年度以降、介護福祉士の資格を取るために、現場の仕事から最低限450時間外れるという意味である。それだけならまだしも、450時間もの時間と、それのかかる費用負担を考えた場合に、介護福祉士の資格取得そのものをあきらめて、実務で資格を取るなら、介護福祉士ではなく、介護支援専門員資格の取得を目指そうとする人が増えるのではないのか?

そのことで、介護支援専門員が増えることは悪いことではないが、それとイコールの結果として、夜勤業務を伴う介護の仕事をする専門家が減るということを考えなければならない。それでこの国の介護は大丈夫だろうか?

団塊の世代が後期高齢者に達し、求められる介護サービスの量がピークに達する、2025年からの15年間を、介護サービス事業者は、サービス提供に必要な数としての人員を確保して、介護が必要な人に、必要なサービスを提供できるのだろうか。この厳しい時代を乗り切ることができるのだろうか?

そう問われたときに、僕自身は大きく首をかしげざるを得ないのである。
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日本介護福祉士会が外国人労働者の受け入れ案に強い反対姿勢


今月14日、日本介護福祉士会は、技能実習制度による介護業界への外国人労働者の受け入れ案に強い反対姿勢を示した要望書を、4人の国会議員に提出した。

「国民の介護を守るための要望書」と題した内容は、同会のホームページから見ることができる。

その中で日本介護福祉士会は、認知症やターミナルケアなどの幅広い業務が求められるため、日本語によるコミュニケーション能力や一定の介護技術がないまま外国人が介護分野に参入することは、介護サービスの質の低下を招き、国民が安心して介護を受けることも出来なくなる懸念があるとしている。 また、安い労働力参入は、現在の介護職員の賃金の低下を招き、更に日本人による人材不足は深刻化する恐れがあり、技能実習制度に基づく外国人の受け入れは、介護業務を単純労働ととらえているとし、同制度による外国人受け入れに強く反対している。

この要望書にも理解できる部分がある。まず外国人技能実習制度の問題である。

これは在留できる期間を3年から最長6年に延長する方針を定めたもので、第1弾として建設業での外国人の受け入れ拡充が検討され、2015年度から五輪開催までの時限措置とするものである。2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて施設の建築需要が急増し、建設業界で大幅な人手不足が予想される労働力不足の急場をしのぐ苦肉の策と言えよう。

政府は、この制度によって、介護の分野でも外国人労働者の活用策の検討を始めるとしているが、それが単に、外国人労働者が就労しやすい条件を整えるだけで、安上がりな外国人労働者の受け入れに終わってしまえば、日本介護福祉士会の懸念の通りになってしまうわけである。そのことに反対姿勢を明らかにするということは、職能団体として会員ニーズに応えるという意味では、分からなくもない。

しかし一方では、介護の現場の人手不足は、ますます深刻化してくるのは確実だという現状がある。政府推計では、2025年までに介護職員を100万人増やす必要があるというが、この100万人という数字は、現在就業している人より100万人多くの介護労働者が必要だという意味で、2025年までにリタイヤする職員の数を補って、さらに100万人の介護労働者を増やさねばならないという意味である。つまり2025人までに新たに確保せねばならない労働者数は100万人+αなのであり、α部分の数字もかなり大きなものになるということだ。

しかも国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2055年の総人口は8993万人となり、いまより3割減少する。しかも、15〜64歳の生産年齢人口は、さらに減少率が大きく、現在のほぼ半分になるという。そんな中で介護労働者を必要数確保が可能なのかという部分にも、何らかの考え方と、その根拠となるデータを示さねば、日本介護福祉士会の主張は、介護福祉士の既得権益を守るためだけの、社会全体の利益を鑑みないあまりに無責任な主張であるというそしりを免れないだろう。

日本介護福祉士会は外国人を介護職員として広く受け入れることに反対するだけではなく、将来的に介護労働力をきちんと確保できる方策を、どこに求めるのかというマクロの視点からの主張も同時に行う義務があると思うが、この要望書からは、そのような主張は見えてこない。

例えば、日本介護福祉士会は、「外国人が介護職員に従事するためには、 現在行われているEPA対応を必須条件として国家試験合格が最低条件とすべき」と主張しているが、経済連携協定(EPA)に基づく外国人の介護労働者の受け入れは、フィリピンとインドネシアの2国だけが対象で、両国の介護福祉士の資格取得を目指して来日する場合に限られている。

しかもこれまでの試験合格者は約240人に過ぎず、そのうちの幾人かは既に帰国してしまっており定着率ははっきりしていない。つまり現状の外国人労働者の受け入れでは、介護業界の人手不足の解消にはほど遠いといいうことで、将来的にもそれは有効な手段とならず、日本介護福祉士会の要望書の内容だけで、介護業界の人手不足は解消できないことは明白である。そもそも外国人労働者の質の担保が、なぜ経済連携協定(EPA)に基づいた人材受け入れでなければならないという理屈と結びつくのか意味不明である、さらに日本人の介護職員全部に介護福祉士の資格を求めているわけではない現状を鑑みると、外国人労働者だけはその資格がないと就労を認めないというのは、あまりに身勝手な主張である。

今後は、リーマンショック後、求人が冷え切った不動産、建設、金融も復活し、2020年のオリンピックに向けて勢いを増して、求人が増えるのである。よって介護業界から、それらのい産業へ流出する人材も増えこそすれ、減ることはないのである。

そのためには、きちんとした待遇を保障できる介護報酬を求めるということも必要で、このことは介護労働者数の増加という背景を背に、現在の日本社会を構成する特定の塊と言える職種である介護労働という側面から、それらの人々の経済に与える影響や効果が小さくない事を主張し、景気回復、デフレからの脱却、経済活性化という視点から介護報酬増を要求していくことは必要だろう。同時に、日本人だけで必要なサービスの量を確保することは困難な中で、どのように質を低下させずに外国人を受け入れていくかを示すべきである。

勿論、外国人労働者を無秩序に受け入れたり、移民政策的な方向に持って行くことは、文化摩擦や治安悪化、日本人労働者の失業問題に繋がっていくのだから、そうしてはならない。その事に対してはきちんとセーフティネットを創っていかねばならないだろうが、しかし現行のままでは、介護労働力はいずれ枯渇し、それは社会全体、国民全体に著しく不利益をもたらすということだ。

そうであるならば、外国人の介護労働者を、経済協定という仕組みの中だけで受け入れていくことでは、介護業界の人手不足は解消できないという観点から、外国人労働者の受け入れとは、我が国の介護労働力の一定量の確保という部分で、必要数を受け入れるという方向に基本姿勢を変えるべきである。そのとき同時に、一定の技能を持つ外国人に門戸を広げなければ、今後の需要はまかなえないという観点から、介護福祉士という資格試験だけではなく、新たな技能検定試験なども検討していくべきである。

こうした議論まで摘み取るような要望があってはならないし、むしろ官民一体となった、国民議論を展開していく必要があると思う。

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何とかしてくれ、介護福祉士合格発表


今年度の社会福祉士と精神保健福祉士の合格発表は3/14であったが、介護福祉士の合格発表は昨日の午後2時からであった。

学科試験のほかに実技試験がある介護福祉士は、毎年他の2福祉士よりも遅く、年度末ぎりぎりの合格発表となっている。

昨日は、社会福祉士振興・試験センターのホームページにアクセスして、合格者を確認したわけであるが、当然のことながら、合格発表の時間にはアクセスが集中して、なかなか繋がらなかったりしてイライラを募らせたりしていた。

なぜ僕がそのサイトで合格者を確認せねばならないのかと言うと、これは個人的な興味という問題ではないのである。

当施設は介護職員が正職員になる条件として、介護福祉士有資格者としており、資格がないことで契約職員のままの身分の人がいるのである。それらの人々で試験に合格して資格をとることができれば、晴れて正職員として採用できる人がいる。

つまり4月1日の辞令交付式で正職員として発令できるかどうかが、この合格発表にかかっている人がいるわけである。だからできるだけ早く合格・不合格の確認が必要になる。

なぜなら職員の採用や昇進、昇給等は施設長決済で認めることができるものではなく、理事長決済が必要になるからである。よって合否確認して、対象となる職員が合格していて初めて、正職員として採用し、〇等級〇〇俸を支給するという決済を挙げることができるわけで、合否確認できないと何もできないわけである。

しかも当法人の理事長は、施設に常駐しているわけではなく、現役医師として忙しく勤務しているわけだから、決済を挙げてすぐにその書類が戻ってくるわけではなく、ライムラグを見越した処理が必要である。

勿論、こうした状況だから、理事長にはあらかじめ、昨日の合格発表を見て決裁書類を挙げることも、合格したものを正規職員に発令する事も、不合格の場合は昇給事例だけになることも説明した上で、口頭では承認を得ている。だからと言って決裁書類が後先にできないわけである。

こうした時間のない状況での処理だから、対象職員が合格した場合と、不合格の場合の、2種類の書類を作っておかなければならないのも大変な手間である。

幸いにして、昨日は対象職員が皆、合格して決裁書類を挙げることができ、その決済も今日戻ってきてホッとしている。合格した皆さん、本当におめでとうございます。

しかしこの合格発表時期、せめてもう1週間早くしてもらえないものだろうか。

合格発表の時期といえば、管理栄養士の合格発表は、もっと困る時期である。その時期は5月となっている。そうすると管理栄養士が退職して、新たに新卒者を採用した場合、新卒者が一番早く管理栄養士の資格を手に入れることができるのは5月であり、栄養ケアマネジメント加算に必要な一連の業務を行っていたとしても、必ず管理栄養士の配置ができない月があることになって、合格発表が行われた5月末までに加算を届け出ても、算定は翌月からだから、2月算定できない月が生ずる。

毎年そうなるわけではないが、管理栄養士が退職して、新卒者を採用するたびにこの状態になる。新卒者が4月時点で、管理栄養士の資格を得ることができる時期に、試験を実施してくれないものだろうかといつも思う。

施設の費用算定や人事管理の都合で、国家試験の時期が決まるわけではないのはわかるが、人材不足の業界なんだから、こうしたことも踏まえて総合的に、試験実施時期を考えてほしいものである。

さて話しは変わるが、来週火曜から4月となり、消費税が8%になる。その時期に僕の新刊本、「介護の詩〜明日へつなぐ言葉」が出版されるわけであるが、4月以降に出版する理由の一つに消費税が上がるということがある。3月に出版してしまうと、翌月に3%価格を上げねばならないからである。

ところで、困るのは『人を語らずして介護を語るな』シリーズだ。現在は3作とも1,800円プラス税で、1,890円となっているが、4月以降は本体1.800円に8%を付加して、税込1.944円となる。4月1日以降に出荷する分は、カバーの定価表示部分に、「本体1.800円+税」と、シール貼りして対応するそうである。(書籍の場合、税込表示しなくてかまわないそうである)

しかしこれでは講演会場で販売する際に1円玉のお釣りが必要になり、販売協力いただく皆さんにも迷惑がかかる。どうしたものか検討中である。どちらにしても店頭販売や、ネットからの取り寄せは、今ならまだ旧価格だ。シリーズ全刊揃えていない方は、お急ぎの購入検討がお得である。

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社会のセーフティネットに穴を開けないために


先週水曜日のブログ記事に書いたが、僕は介護福祉士養成課程見直しの1年延長に賛成であるし、むしろもっと延長期間を長くして、じっくり時間をかけて本当に必要な施策を考えるべきだとさえ思っている。

そういう意味で、この延長に大きな影響を与えた全国老施協の働きかけには拍手と賛辞を送りたいと思う。

しかし一部の関係者は、このことを否定的に捉えているようで、介護サービスに従事する職員のスキルアップの足かせになると憂いている人もいるようである。ころころ変わる国の方針そのものに不信感を持つ人もいるようだ。

それらの人々の考え方もわからないではないが、問題はスキルアップのためだけに一つの資格だけのハードルを高くして問題ないのか?ということなのだ。

介護職の中心を担う基礎資格である介護福祉士のスキルアップを図ることは重要であり、このことに難癖をつけるつもりはまったくない。しかし国民生活全体を鑑みた時、いま一番求められる施策は、介護難民を作らないことである。介護が必要な人に、必要なサービスが提供される最低限のセーフティネットの構築が最重要課題なのである。

それが今危うくなっているという現状があるにも関わらず、その対策はまったくと言ってよいほどとられていない。そうした中で、介護福祉士という一資格だけの取得ハードルを上げることに、どのような意味があり、結果的にどんなことが起こるのかということを考えた時、今早急に、変更時期が決められているという理由だけで資格取得方法を変えるメリットより、デメリットの方が大きくなるということが考えられ、そのためにここで時期を延長することは必要なことなのだと考える。

一番の重要課題である介護難民を作らず、必要なサービスを必要な人に適切に結びつけるためには、介護サービスを提供する人材の質向上を図る方策と、人材確保の方策をセットで考えていくのが本来である。今回の見直しは、前者のみが先行され、後者の施策がまったくとられていない中で行われてしまうことで、介護という社会のセーフティネットに穴があく可能性がある。そのことを鑑みて実施時期をずらしたと考えるべきだろう。

そして延長された期間を利用して、本当に必要な施策を考え直していくことが何より大事である。

ここでは、介護福祉士の資格取得ハードルだけを高くして、介護支援専門員の資格取得ハードルが今のままでよいのかという議論があってもよいと思っている。

特に実務経験ルートについては、実務者研修というハードルの高さによって、実務経験3年で介護福祉士を取得しようとする動機づけは低下し、逆に実務5年で介護支援専門員資格を取ろうとする動機づけは、ますます増加するだろう。

なぜなら実務経験が2年余計に求められると言っても、介護支援専門員の受験資格は、その実務経験だけでよいとされ、実務者研修などのハードルがないからである。介護サービスの職業に従事しながら、勉強して資格を取るのであれば、時間もお金もかかる450時間の実務者研修が必要な資格より、実務だけでお金も時間も別に必要とされない介護支援専門員資格の方が良いと考える人は確実に増えるだろう。

介護支援専門員の資格試験は、かつてより合格率が下がったとはいっても、試験内容を見ると、さほど難解だとは言えず、仕事をしながらきちんと勉強する人は合格できない試験ではない。ハードルが上げられた介護福祉士資格より、介護支援専門員の資格に魅力を感じる実務経験ルート対象者が多くなるだろう。

その中には、本当は介護職を続けたいが、資格のない不安定な雇用状況でそれを続けることも困難で、しかし実務研修を受けるお金も時間も捻出できないために、それが必要とされない介護支援専門員の資格を取得して、本来の望みではないが、正社員ではない非正規の介護職員をやめて、介護支援専門員として正規雇用されるという人もたくさん出てくるだろう。

そうした結果、何が起きるか?介護福祉士の数が減り、介護支援専門員の数が増えるということは、相談援助職に携わる人の数は増えたとしても、介護職員が社会全体からみると大幅に減るということである。

もちろんその先には、介護支援専門員としての就業場所が確保されるのかという問題が生ずるだろうし、介護支援専門員に対しては、近い将来働く場を提供する事業者の方が有利となる、買い手市場という状況が見えてくるであろう。しかしそこに達するまでに、もっと深刻な状況が生まれるだろう。

それは介護職員の確保が難しいという状況がますます深刻化するということだ。

介護職員が、介護福祉士を取得せず、介護支援専門員の資格を得ることによって、介護施設や介護サービス事業所の介護職から離職する人が多くなるだろう。そこでは夜勤などに従事する人の数は、現状よりはるかにその数の確保が困難となり、利用者はいるのに、サービス提供できずに廃業せざるを得ない事業者が爆発的に増えるであろう。

そんなことになってよいのだろうか?

※新刊4月24日発売決定。(新書版・本文216頁:3章立て)
介護の詩

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介護福祉士養成課程見直しの1年延長が決定的に


介護福祉士の資格取得について、27年度(28年1月実施試験)から、養成校卒業者も国家試験を受けて合格しなければならなくなり、実務者ルートでも450時間の実務者研修受講が義務付けられるという問題について、先週「今後の介護福祉士養成校に求められるもの」という記事を書いて、改正要点や問題点を指摘したところである。

ところが、この実施時期が1年延長されることが確実になった。

これは昨日開催された、「社会保障制度に関する特命委員会・厚生労働部会合同会議」で、厚労省が見直しを1年先送りすることを自民党側に伝え、了承されたものである。

この会議では自民党の提出資料にそって話し合いが行われ、ますます深刻化する介護人材不足のなかで、経済状況の好転による他業種への流出懸念が高まっており、資格取得のハードルを上げるだけでは介護業界への入職意欲が削がれる恐れがあり、幅広い方面から人材を確保するための方策を講じる必要性が高まっているとして、以下の2点について、通常国会に提出予定の改正法案に盛り込むとした。

1.介護人材の確保のための方策について、1年間をかけて、検討を行うこと。
2.資格取得方法の見直しの施行時期を1年間延長すること。

もともと資格取得の見直しは、介護福祉士の資質向上のために提案されていたものだが、資格を目指す人のハードルを上げることにも繋がるため、自民党内では、「介護福祉士を目指す人が減る」「人材の確保に逆行する」といった不満の声が出されていた。

介護の人材不足が深刻化している現状では、その対策を行うことなく、介護福祉士の資格取得のハードルだけを上げることが、深刻な現状に拍車をかけてしまう懸念がぬぐえず、資質向上の方策を先送りしても、数の確保を優先させるべきであるという主張に、厚労省側が折れた形である。

この資格取得方法の改正については、以前も実施時期が12年度から15年度に先送りされた経緯があり、延期は2度目となる。さらに「介護人材の確保のための方策について、1年間をかけて、検討を行うこと。」の検討課題の中では、この資格取得見直しが本当に求められることであるのかということも議論されるのではないかと思われる。そうであれば28年度までの延長の再々々延長や、根本的な見直し(資格取得ハードルを上げたルールの撤回)等も議題とされるのではないだろうか。

介護の専門職の資質向上は必要であるが、増え続ける要介護高齢者にサービスを提供する人材の確保は差し迫った課題である。前述したように、そのことに対する具体的な方策がまったくされないままで、資格取得ハードルだけを高めても、それ以後に介護福祉士の資格を取得する人のスキルの最低基準は、ある程度のレベルで担保されるとしても、その資格を持つ人が少なくなるのであれば、最初から介護を職業として選ぶという動機づけを持たない人が増えるだろう。

その中で、介護サービス全体では、安かろう悪かろうという人材をかき集めてサービス提供せざるを得ないか、必要な人材が集まらずに、従業者に過度な負担を強いて、結果的にバーンアウトする人がたくさん生まれ、ますます介護を職業とする人の数が減っていくという悪循環が助長され、介護業界全体のサービスの質は低下が懸念されるだろう。

そういう意味で僕個人としては、今回の延長方針には大いに賛同するものである。

関係者の中には、このことを介護の専門職の地位低下と捉える向きもあるが、国民生活全体を鑑みた時、介護難民を作らないことがまず重要で、質の向上を図る方策と、人材確保の方策をセットで考えていくのが本来であり、後者をおざなりにしたまま、質の担保を先行して図ろうとした厚労省の意図が一旦砕けたことは、勇み足に物言いがついたという意味で、質と数の両面を改善するための必要不可欠な時間がかけられたという意味に捉えた方が良いだろう。

今回の延長の背景には、全国老施協から野田衆議院議員(介護議員連盟会長)への要望と、野田議員からの厚労省への働きかけが大きなきっかけになったようであるが、現場の人材・人員不足に悩む老施協会員施設のトップとして、全国老施協には拍手を送りたいと思う。

特に実務経験ルートは、現状でも全ての人が国家試験を受験して合格した人だけが資格を取得する仕組みになっており、そこで必要な知識や介護実技を審査しているのだから、450時間もの時間とお金をかける実務者研修が本当に資質の担保になるのかという議論があってよいだろうと思う。

例えば養成校では、喀痰吸引等に対応した医療ケアのカリキュラムが50時間増えることになっているが、実務者研修も、実務3年+国家試験というハードルの重みを考えると、この50時間でよいのではないかという考え方もあってよいのではないだろうか。

どちらにしても27年度からの改正は延長されたのだから、実務経験ルートで資格取得を目指す人で、3年の実務に達して受験資格を得られるのが平成27年度試験であった人には朗報だろう。

そのことは今後介護福祉士資格取得を目指す人々に、できるだけ早く情報として伝えてほしいものである。

このことは、介護サービスの深刻な人手不足という問題に対して、具体的な処方がされず、その問題解決の糸口さえ見えないということが根底にあるのだから、政府や厚労省は、抜本的問題書き決に向けた具体的対策に、重い腰を上げて取り組んでほしいものである。

特に介護労働者が、これだけ必要とされる社会というのは、その数が一つのカテゴリーとして社会的な影響を与える数になり、介護労働者の待遇改善が一定の経済効果に繋がるのだから、経済対策として待遇改善ということを考えてほしい。社会保障財源には限りがあるだろうが、経済対策は財源から支出した費用以上の収税効果が期待でき、増え続ける介護職員の給与アップは国民総所得(GNI)のアップ〜国内総生産(GDP)のアップにもつながるのだから、経済対策として国費を投入する価値はあると考えるのである。

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今後の介護福祉士養成校に求められるもの


先週木曜日の記事で、介護福祉士養成校の「就職率100%」というキャッチコピーは、生徒募集・確保の有効な手段にはなっていないことを指摘した。

全員が就職できる専門学校ということより、就職先がすべて将来設計を立てられることができる場であるのかということが就業動機として重要になるのだから、その保障に繋がる資格を得ることができ、給与体系のしっかりした事業者に就職できることを就職担当教員や、学生たちに伝える方向に考え方を変えていかないと、介護福祉士養成校に入学する動機づけには繋がっていかないだろうと思うと書いた。

ところでこのことに関しては、27年度の介護福祉士国家試験から、資格取得の条件・方法が変わるという問題がある。

27年度の介護福祉士国家試験(28年1月実施試験)からは、全ての人が国家試験を受験する必要があり、この試験に合格しないと介護福祉士の資格を得ることはできない。また介護福祉士養成校のカリキュラムも、喀痰吸引等に対応するため、新たに医療的ケア50時間が加えられた新カリキュラムが、27年4月から導入される。

介護福祉士国家試験
上のルート図のように変わるわけであるが、これを見て分かるように26年度試験(27年1月実施)までの、介護福祉士養成校を卒業して自動的に介護福祉士資格が付与されることはなくなるわけである。当然そうなれば、試験に不合格となり、介護福祉士養成校は卒業したものの、資格が取得できないという資格浪人者が出てくるわけだ。

新しい試験ルートのうち、実務経験ルートにも変更がある。新ルートは実務経験(3年以上) → 実務者研修(450時間) → 介護福祉士国家試験とされ、現在のように実務3年で、即試験を受けられるということではなくなり、450時間の実務者研修を受講して初めて、国家試験を受けることができるということになる。これにより実務経験ルートでの受験者数は減少するのではないかと予測される。なぜなら実際に仕事を持っている人が、450時間もの時間を割いて、お金をかけて実務者研修を受けることができるのかという問題があり、そのハードルの高さによって国家資格取得をあきらめてしまう人もいるであろうことが予測されるからである。

そう考えると、27年度以降は介護福祉士の資格を新たに取得する人の数が、現在より大幅に減るのではないかという予測も立てられる。その数が半減したっておかしくはない。

しかしそれは介護福祉士の有資格者の価値を高めるかもしれない。少なくとも介護福祉士の有資格者を一定数雇用・配置して介護報酬上の加算を算定している施設や事業所では、その資格者を求めることが今より難しくなるのだから、売り手市場の中で、介護福祉士の待遇自体は改善の方向にベクトルが向けられるのではないだろうか?

それに見合ったスキルをどう担保するのかは別な課題として残されるが、ますます介護福祉士という資格を持っている人は、就業先の確保には困らなくなることは事実だろう。

だからと言って介護福祉士養成校は、今より生徒確保に困らず、経営が安定するかと考えた時、必ずしもそうとは言えない。

前述したように、介護福祉士養成校で2年間勉強し、無事卒業できたとしても、資格が必ず取れるわけではないのである。そうなると現在は就職率が100%であったとしても、介護福祉士の受験資格があるというだけでは採用しない事業者も多いだろうし、仮に採用するとしても資格試験に合格していない人は正規職員としての採用は難しいであろう。

その結果、就職率は確実に下がり、試験に合格した人は今よりよい待遇で就業できる一方で、資格試験に合格できない人の待遇は、今より格段下がる可能性が高く、その格差がクローズアップされてくる可能性が高い。

そうであれば、そこで介護福祉士養成校に求められるものは、就職率ではなく、国家試験合格率ということになる。

ところで先週の記事でも指摘したが、介護福祉士養成校の人気は必ずしも高くなく、学校数やクラス数も減少傾向にあるが、それは生徒を集められないと学校経営自体が難しくなることを意味しており、入学者をかき集めているという状況が少なからず存在する。それは将来、介護サービスの戦力となり得るスキルを持たない人まで入学してしまうという現状を生んでおり、いくら丁寧に熱心に教育しても、社会から求められているスキルを身につけることができないまま卒業してしまうという学生が少なからず存在する。

卒業審査を厳しくして、入学しても卒業できないという評判がたてば、入学者はますます減り、学校経営は成り立たないわけであるから、そうした学生であっても、教員は追試を何度も行い、最後にはレポート提出でお茶を濁して何とか進級や卒業にこぎつけ、そのことでやっと資格を取っているという学生が少なからず存在するというのが、現在の介護福祉士養成校の一面の真実でもある。そういう学生をどう教育し、試験合格レベルまで知識を獲得させていくかということが重要な課題である。

そして試験合格率の低いところには、ますます生徒が集まらず、経営できない恐れが出てくることを考えると、今後の介護福祉士養成校の教員には、試験合格するための授業が求められてくるであろう。

つまり将来の介護サービスを担う人材としての人間教育より優先して、受験対策としての授業が求められるし、人を成長させる教育に熱心な教員より、試験合格率を上げる手腕に長けた教員が評価されることになるであろう。

試験に合格する程度の知識を身につけることは求められることだろうが、同時に対人援助に必要なスキルとしての、人間教育が片隅に追いやられ、受験テクニックにだけ長けた有資格者が生まれていくことに一抹の不安がないわけではない。

例えば一部の福祉系大学が、社会福祉士合格率を高めようとして、社会福祉士試験予備校みたいな状態になって、研究教育機関としての機能が低下し、社会福祉援助者としての有能な人材が生まれにくくなっているのと同様の状態が懸念されるわけである。

対人援助サービスの質を担保するための人間教育と、資格試験に合格するための受験テクニックという2つの課題を、今後の介護福祉士養成校は背負っていかねばならないことになり、教員の質というものも改めて問われてくるのではないかと考える。

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介護福祉士になりたい人を増やす政策が必要だと思う


全国各地の介護福祉士養成校のホームページやフェイスブックをみると、「就職率100%」を前面に出して入学者を募集しているところが多くみられる。

しかし事実として言えば、介護福祉士養成校は、看護師養成校やセラピスト養成校などより圧倒的に人気がなく、入学応募者が少ないことから養成校の数も減少傾向にある。このことは介護現場の人材不足の大きな要因でもある。

つまり就職率100%という事実は、介護福祉士の資格を得て、介護の職業に就こうという動機づけには結びついていないということである。

介護業界での人材不足・人員不足はますます深刻化しており、異業種からの転職者も無条件で求められているような情勢であり、介護福祉士という国家資格取得者の就職先がないなんてことはあり得ないのである。むしろ仕事があるということが前提で、その仕事でどれだけの報酬が得ることができるのかということの方が問題なのだ。そのことに対する不安や疑問が、介護福祉士養成校の不人気さに現われているということが言えるだろう。

それは、介護を一生の仕事にして、倹しくとも家族を養って暮らしていけるのかということが問題となっているのだということだ。

しかし事実として言えば、当施設で介護福祉士として入職し、長く仕事を続けてくれれば家族を養って暮らしていけるだけの報酬は得られると言ってよい。

具体的に言えば、当施設の新卒者募集条件は、給与142.800円〜313.156円(経験年数を勘案するために幅がある)、賞与・年2回 合計4.5ケ月分、住宅手当、扶養手当、寒冷地手当、特殊業務手当(基本給の16%を加算)、交通費支給 社保完備 昇給あり、これに福祉医療機構から引き継いで、支給額の高い北海道民間社会福祉共済会の退職金制度も完備しており、条件としては悪くはないと思う。

しかし当法人のように、給料表や共済制度が完備されている事業者のみならず、給料表もなく、経営者の時々の判断で定期昇給額が決められ、退職金制度もない事業者もあり、仮に退職金制度があったとしても支給額の非常に低い民間退職金制度のみの事業者も多い。そのため将来の見込みが立たないとして中途退職し、職場を転々と変えて、スキルがアップしていかないという人も存在する。

介護福祉士養成校は、生徒募集では苦戦しているが、就職という面から言えば、売り手市場で、現場から求められる立場であるのだから、単に学生を就職させるだけではなく、就職先の給与を含めた待遇格差にもっと敏感になって、将来設計の立てられる就職先を斡旋し、その実績で高校の就職担当教員や高校卒業者等にアピールしていくべきではないのだろうか。

ところで給与格差という問題は、経営体力という面から大きな差が出る部分であり、ケア単位は小規模化しても、ケアサービス事業を経営する主体は、複数の事業者が乱立するより、ある程度の規模を持った大きな法人組織が統合化され、多様なサービスを提供していく中で、給与等の待遇を向上させていくという視点も必要とされるであろう。そういう意味では、社会福祉法人の合併と統合を進め、サービスを多角化していくという考え方は間違った方向ではない。

さらに介護施設の現状から言えば、対利用者比3:1の看護・介護職員配置基準では、実際には求められるサービスが提供できず、多くの介護施設は2:1の配置で対応している。しかしこの配置職員をすべて正規職員として雇用できる介護報酬体系とはなっていないため、非正規職員として雇用・配置されている職員がかなりの数に昇る。当施設でも、それらの職員がいないと運営に支障を来す状態であるが、雇用形態が多様化するということは、それだけ同じ仕事をしている人の待遇格差が生ずるということであり、それが介護事業者毎の待遇格差の拡大に繋がっていく一要素となっている。

介護保険制度以前と以後では、介護職員として就業する人の数は倍以上になっているのだから、これらの人々の待遇を向上していくことは、経済対策としても有効で、デフレ脱却の方向から考えると、今後ますます必要とされる介護職員の給与をアップすることで、世の中のものが売れるという流れが生まれ、景気がよくなることに繋がり、経済効果も高まると思える。同時にそのことは介護人材確保にもつながり、一石二鳥ではないのだろうか。

そういった面から考えれば、配置基準を2:1とし、それに見合った介護報酬に再編していくという考え方も必要である。非正規職員を雇用しなくともサービス提供が可能な報酬が必要ではないかという議論もされてよいと思う。

介護報酬のアップは、財源を圧迫させるという視点でしか語られないが、これだけ多くの介護サービス関係者がいて、その求められる数はますます増え続けることを考えると、財源となる税金を支払う人々という側面からの視点があってよいだろう。それは消費者として一定規模のカテゴリーとして分類できる数の職種であるのだから、財源となる企業の税金収入を増やすための、購買意欲につながる一般市民の懐具合という面からの考え方でもある。

そうであれば介護職員の処遇改善が継続できるよう、介護報酬改定により対応するということは経済対策としても有効で、超高齢社会のニーズとともに、総合的な視点を鑑みれば必要不可欠であろうと思えるのである。

介護報酬改定と、経済対策を切り離して考えることの方が的外れだと思うのである。

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innocent(イノセント)


社会人入学生を除いて、介護福祉養成校に入ってくる学生は、高校を卒業したばかりで、まだまだ知識も足りないし、見識にも欠けている場合が多い。物事に対する考え方も幼稚さが抜けない部分がある。

それらの学生も2年間の授業を終える頃には、それぞれに成長した姿を見て取ることができる。勿論、能力は様々だから、2年間で獲得する能力には個人差があるし、すべての学生が介護福祉士として恥ずかしくない器量を備えたとは言い難い現状もあるが、入学した直後と比べると確実に成長の跡が見られる。それは人間としての成長という意味も含めてのことである。

特に目に見えて成長を感じるのは、1年生、2年生のぞれぞれの実習を終えた直後である。

学生たちは、初めて経験する介護サービスの実践の場で、利用者に接し、職員の方々から指導を受けることで、学校の教室の中では感じ取れない何かを掴んでくるのだろう。

しかし実習の場は、彼ら学生が期待したことを学び取ってくる場であるだけではなく、彼らが思ってもみなかった負の学びの場であるという一面もある。彼らはそれまで様々な生活歴の中から、それぞれの価値観を持って生きてはいるが、その価値観が根底から覆るような経験をすることもある。

彼らはある意味、実習を経るまで介護に対して、innocent(イノセント)なのである。純真無垢に介護というものが人に役に立つために献身的に行われるものだと信じている場合が多いのだ。

だが実際の介護サービスの場では、「理想と現実は違う」という部分が様々に存在する。彼らは実習中にまざまざとそのことに直面せざるを得ない。しかしそのことはやむを得ないことなのか?理想と現実をイコールにしようとする努力は払われているのか。

少なくとも学生が実習中に感じてくる「介護施設や介護サービスの中に存在するおかしさ」とは、間違いなく正しい感覚である。それを「理想と現実は違う」という理屈で無視して良いのだろうか。言葉遣い一つにしても、利用者を「ちゃん付け」で呼んだり、ニックネームで呼んだり、年上の顧客に対して「友達言葉」「タメ口」で話しかけたり、長い間現場職員が問題意識を持たず変えようとしなかった、「世間の非常識」ではないか。そのことの「おかしさ」「違和感」に気づいてこそ、変えなければならないという動機付けが生まれるし、変えるべき方向性も見えてくるのである。

学生が正常に感じている正しい感覚を麻痺させ、理想とは程遠い現実を学生に押し付けるだけのの実習なら、本来人間として持つべき正しい感覚を麻痺させるために行う実習であるとすれば、そんなものになんの価値があるのか。学生の気づきに、もっと謙虚に対応しようとする我々の姿勢が必要なのではないだろうか。

介護福祉士養成校に入学してくる学生の動機のトップは、いつも「人の役に立つ仕事だから介護福祉士になりたい」というものだ。そういう部分に対してinnocent(イノセント)な学生は、最初の実習現場で、ぞんざいな介護職員の言葉遣いや横柄な態度に驚き、何かが違うのではないかという疑問を持ち帰る。しかし同時にそういう態度の言い訳も持ち帰ってくる。その言い訳とは、介護サービスを提供し、学生を指導する人々の理屈である。

それは果たして仕方のないことなのだろうか。僕はいつも疑問に思っている。

しかし学生時代に、今の介護サービスの現状は何かが違うという問題意識を持って、介護の現状を良い方向に変えたいという志を持って巣立っていく学生の多くが、就業して半年もすれば、彼らが学生時代におかしいと感じて、心のどこかで批判していた対応と方法論をそのまま受け入れて、かつて自分たちが「おかしい」と感じていた対応そのものを行う人になってしまうことが多い。

彼らは介護福祉士としてサービスに従事する中で、なにか大事なものを失っていくことを成長であると間違って捉えているのではないか。世間の波に揉まれて、妥協し、感覚を麻痺させていくことが成長であると勘違いしているのではないのか。

だから僕は学生にいつも、介護の現状が決して全て良いと言えないのであれば、それを変えない責任は、毎年たくさんの人が資格を得て、介護サービスに従事していく介護福祉士が、その責任の多くを負うべきであると言っている。

介護福祉士が悪いと言っている。

数年前、栃木県宇都宮市の老健施設では、職員がベッドの下で四つんばいになっている認知症高齢者を携帯電話で撮影し同僚たちに見せて笑っていた。別の介護職員は、認知症の女性入所者の顔にペンでひげを書き、携帯電話で撮影したというのである。 さらに90代前後の女性入所者を車いすからベッドに移す際、高く持ち上げて乱暴に落とした職員の存在も明らかになった。

運営していた同法人が、介護職員に聞き取り調査をしたところ「親しみを込めてやった。かわいかったから」と話したという。 そして法人理事長は「悪意がなかったため、(虐待に)当たらない」との見解を示し、宇都宮市は市の見解として、職員の行為は虐待には当たらないものの不適切で、職員教育も不十分だったなどとして、同施設に介護保険法に基づく改善勧告を行うにとどめた。

法人も市も常識を失っていないか!!しかし何よりその施設では、不適切な行為を行っていた職員のほかに、それを見て知っていた数多くの職員がいるはずだ。それらの人々は、そうした行為が行われている実態を、理想と現実は違うということだけで受け入れていたと言うことなのか?感覚を麻痺させてしまって、人間として許されない行為が何かということまでわからなくなってしまっていたのではないのか。

我々は人間の命と暮らしに深く関わるのだから、人の暮らしを守るために、人として何をしなければならず、何をしてはいけないのかという部分に関しては、どんなに年をとっても、経験を重ねても、innocentであるべきではないのか。たとえそれが蒼臭いと言われようとも、純真無垢を恥と思わないところからしか見えないものがあるのではないのか。

innocent(イノセント)だけで仕事はできないというのはその通りであろう、しかし残しておくべきinnocentまでを失わせることが、我々の求めるものであるとしたら、それは決して介護サービスという職業が誇りをもつことができるものとは言えないのではないのか。

純真無垢さを失って行くことが、専門職としての成長だとしたら、それは同時に虚しさを伴う歩みとなるだろう。

誇りを持つことができる素晴らしい職業が介護サービスであるために、このことに疑問を持ちながら、自分の中のinnocentを忘れないでいたいと思う。

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待遇を身分だけで判断すると間違える。


実習等のためにずいぶん期間が空いて、今月12日から再開した介護福祉士養成校2年生の授業。

数ケ月ぶりに授業を行なって感じたことは、(クラスの中でも年の差がずいぶんある生徒たちだが)2年生の実習を終えて、当初より随分大人になってきたということである。授業態度にもふわふわしたものが少なくなったように思う。

これから半年、もっともっと鍛え上げて、立派な社会人として通用するように、教職員は汗を流していかねばならないんだろう。僕は1講座の非常勤教員に過ぎない立場だから、これは担任を始めとした、常勤の教職員にお願いせねばならない部分であるが、少しでもそのことに力を貸すことは惜しまないつもりである。

過去の経験で言えば、教壇から見わたす生徒が卒業して、数年後に介護サービスの現場で逢うと、ずいぶん立派になっていたり、まったく立派になっていなかったりで、どちらにしても驚くことがある。どうか前者になっていってください。

進路指導もこれから本格的になるんだろう。早い生徒は、夏休み前に就職先が実質決まっていたりする。介護サービスの世界でも、優秀と思われる生徒は青田買いされていくのが現状だ。なかなか就職が決まらない生徒もいるが、最終的には就職率は100%であることは間違いない。

ただしその結果は、この養成校の卒業生が優秀であるという意味ではなく、介護サービスの量に、人的資源の育成の量が追いついていないため、常に売り手市場で、介護福祉士の養成講卒業生で資格さえあれば、人物がどうあれ、どこかに必ず引っかかるという意味でしかない。このことが我が国の介護サービスの質の面で暗い影を落とす結果になっていることに、多くの関係者は気づいているのに、声を挙げる人は少なく、実際に有効な改善策はないのが現状だ。

残念ではあるが、毎年卒業生の中に、「このまま就職しても大丈夫?」と首を傾げざるを得ない生徒は少なからず存在する。そういう生徒も良い意味で予測を裏切ってくれるとありがたいのだが、予測に違わず、職場を転々としたり、転職したり、どこに行ったのかわからなくなったりする卒業生がいることも事実だ。

それから就職先によっても、ずいぶんと卒業生のスキルに差が出てくることも事実としてある。まだまだ人を育てるということに未熟な職場もある。そもそもそこの管理者のスキルに首を傾げざるを得ない事業者で、若い新卒の介護福祉士がまっすぐ育つわけがないと思う。才能を開花させるのも、枯れさせるのも、最初に出会った上司に左右されるという面もあるのだから、新卒者を教育する介護現場の職員は心して欲しい。

それと待遇もかなり事業間格差がある。無論、学生は正職員を希望し、ほとんどがその希望はかなうのではあるが、正職員とはいっても、その実態はかなり格差がある。特に事業主体の小さな事業者であればあるほど、定期昇給さえまともにない正職員というのもあるし、賞与のない正職員もある。つまり常勤職員ではあるが、まともな待遇ではない正職員も多いので、正職員という言葉だけで選んではいけないという実態がある。

事実、僕の施設には、中途募集をかけると、よそのグループホームの「正職員」が応募してくることが多いが、その正職員の年間収入は、当施設の同じ経験年数の「契約職員」より低い。正職員と比較すれば、はるかに待遇差がある。そう言う意味では、当施設の待遇は、地域の中では極めて良いほうだと思う。現に、僕が講師を努めている専門学校を卒業して、僕の施設に就職している介護職員で、勤続年数が10年以上になっている職員は多いが、それらの職員は主任、副主任クラスになって活躍して、奥さんが専業主婦でもきちんと家族を養っている。

勤続年数に応じた給与を手に入れ、つましくとも、普通に家族を養える待遇ではないと、この職業にに人材は育たないと思う。

そう言う意味では、給料表のない事業者は要注意である。それがないと、定期昇給があるかどうかさえ経営者の胸三寸である。ましてや昇給額もその時になってみないとわからないということになり、人生設計が立てられないのだから。

最近では、退職共済を脱退して、退職金のない職場や、少ない掛金でわずかな金額の退職金しかない事業者も多くなっている。この場合、月の給与手取り額は共済会費のない分高くなるのだが、実質年収は共済会に入っている職場よりかなり低くなるので、生にはその部分も注視して欲しいところである。しかしなかなかそこまで見て職場を選ぶ学生は少ない。せっかく選べる立場にいるのに、もったいないと思う。

どちらにしても学生諸君は、身分だけではなく、その内容もきちんと見て職場を選んだほうが良い。選ぶことができないのであれば仕方ないが、売り手市場なのだから、自らがスキルを高めれば、自ずとそれらを選ぶことができる立場に置くことができるというメリットを活かす自分教育をすべきである。

10年後の自分が、自分自身を後悔しないように。

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巣立つために必要なこと。

昨年度から介護福祉士養成校での授業を受け持っている。

僕が担当するのは「認知症の理解」であり、1年時に15コマ(1コマは90分)、2年時にも同じく15コマ、計30コマである。

そのほかに社会福祉援助技術実習に関連して「相談援助の基礎知識」を4コマ担当している。

そこで考えることは当初「どんな授業をするか」ということであった。つまり自分の担当する授業の内容をいかに理解させるかということが自分にとっての一番の課題だった。

昨年度は1年と2年の両方の授業を担当していると言っても、昨年担当した2年生は、1年生のときはまったく関わりがなく、2年生の1年間だけの付き合いだったので、「認知症の理解」についても後半の半分しか担当していないし、入学時点からの成長の度合いを確認する術はなかった。それゆえに毎回の授業の中でいかに講義内容を「知識」として吸収させるかということを考えるのが精いっぱいだった。

しかし来春3月に卒業する現在の2年生は、新入生として専門学校に入学してきた1年時から関わり、2年間を通して授業を行っており、彼らの様子を観察しているのでその変化がよくみてとれる。彼らが現場に出た時、認知症ケアに対する考え方に問題があるとしたら、それは僕の全面的な責任だろう。近隣施設やサービス事業所の方々は是非直接僕に苦情を挙げてほしい。

授業を受け持ってから2年目の授業もすべて終えた今、僕の興味は、僕が講義する授業内容の理解度にとどまらず、学生がどんな成長を遂げているのかということに関心が向くようになった。

そのため僕自身がどんな指導教官であるべきか、ということを考えることが多くなってきた。

授業内容の理解も大事だが、これから学校を卒業する学生たちが、どのような介護福祉士として巣立っていくのかという部分を強く考えるようになったのである。これは昨年2年時の授業のみを担当した卒業生には考えなかったことである。そもそもそれは1教科を担当する僕の役割ではなく、担任教師の役割と考えていたからだ。

しかし一つの教科と、一つの特別授業にしか関わっていないと言っても、彼らが2年間の学びの時を過ごす専門学校の教員であるという立場は、非常勤という立場を理由にして責任を逃れたり、軽くしたりすることは許されないだろう。特に社会に巣立っていったとき、僕が教えた学生というある意味の「烙印」を背負う学生に対して、社会人としてふさわしいスキルを伝えていくことも僕の責任の一つと思うようになった。

そのための指導も随時心がけてきたが、心がまだまだ未熟な学生には「丁寧に優しく」諭しても勘違いしてしまう場合がある。注意を受けているということを理解出来ない学生もいる。そのため時には強く叱るという形で指導をせねばならない。

しかし僕が専門学校で学生を注意することに関して言えば、それは極めて割の悪い事である。担任でもなく、一つの教科の非常勤講師でしかないことを考えれば、別に注意をしなくとも、叱らなくとも、あたりさわりなく学生と付き合って、自分の担当教科の知識だけを最低限のレベルに持っていけばよい話で、別に「人の道」を説く必要もないし、将来介護の現場にその人がそのままの考え方で入って困ったって知ったことじゃない、という考えも成り立つ。

叱らず優しい教師として自分の存在を規定すれば、そこそこ人気があって嫌われない「虚像」を創ることは簡単である。だがそれは学生自身のためにはならないだろう。

特に僕は授業時間と休み時間のメリハリをきちんとつけるように厳しく指導している。教師が教壇に立つまで廊下でしゃべり続け、教師が生徒が席に着くのを待っているなんていうのはおかしい。僕の授業では時間になったら生徒が席について待つように指導している。時にはそのことを強く厳しく注意する。これは社会人となった後にも注意すべきスイッチ切り替えの訓練でもある。

社会に巣立った際には、プライベートな時間と、職場でスタッフとして働く時間のメリハリをつけることが大事だからだ。介護サービスに従事する人は特にそうだ。プライベートの喜怒哀楽を介護サービス業務の中に持ち込めば、そのデメリットはすべて利用者が受けることになる。介護サービス提供者の感情の揺れが、すべて利用者にぶつけられてしまうのでは、介護サービスの品質保持などあり得なくなってしまう。

日常生活の疲れや悩みを業務の中に持ち込まれてはかなわない。プライベートでなにがあっても一歩職場に入れば、プロとして業務に当たるべきであり、逆に言えばプライベートに「職業」を引きずらないためにもそのメリハリや区分は必要なのである。日常は仕事を忘れ、大いに人生を楽しんで、職場ではプロとして倫理観と理念を持って利用者に対峙するのが介護福祉士である。そのためにも授業と休み時間のメリハリをつける訓練は重要だ。

しかしどうも他の先生はこのことに関する厳しさに欠けているように思う。

先日も「今日はどうしたことか全員席について待っていました。」という教員がいたが、それは僕が強く注意したその日のことである。そうするのが当たり前と考える教師が少ないから、学生がだらけて、スイッチのオン、オフがスムースに切り替えられない人間を、介護の現場に送り出してしまうのだ。ここは大いに反省すべきである。

だがなかなか注意を素直に受け入れられない学生がいることも事実だ。残念ながら僕が関わった学生でも、その態度が直らないまま授業を終えてしまった者もいる。そういう学生は本当に社会人としてきちんとした仕事をこなすプロになることができるのだろうか?大いに心配である。

授業中に寝ている学生を起こすのは当たり前だし、そのことで注意されたら「起こしてくれてありがとう」「寝ないように注意されるのは当然だ」と考えるのが普通の感覚である。にもかかわらず「授業中に寝ないで、きちんとした姿勢で授業を聞け、それが嫌なら単位はやるから教室から出ていけ」と注意されても、ふてくされてだらしない姿勢をあらためない学生に未来はない。

そしてその姿ほど醜いものはない。そういう意味では昨年から受け持っている現在の2年生に対しては、最初の1年生の時の、僕の授業態姿勢に厳しさに欠けるものがあったと反省している。

現在の介護福祉士資格は養成校を卒業さえすれば資格付与される。国家試験が課せられるのは2015年以降の卒業生からである。そうであるがゆえに養成校の学習はより重要である。卒業した瞬間に、社会人として福祉援助や介護サービスの現場で即戦力となる「人間力」をつけねばならない。

国家試験を受けない介護福祉士が現場で評価を下げれば、いずれ介護福祉士の資格は「国家試験介護福祉士」と「無試験介護福祉士」とに区分して評価され、両者の差別化が進行しないとも限らない。だから現在、国家試験を受けずに資格付与されている介護福祉士は、この先試験を受けて資格を得る介護福祉士より、より多くの努力をしてスキルを上げていかねばならない宿命を背負っている。

しかし実情は、すべての卒業生がそうした能力を持つわけではなく、未熟な状態のまま卒業し巣立っていく場合がある。そのことを憂い、その反省に立ち、その状態をなくすために、一非常勤講師という立場ではあるが、僕は時に注意する人になるし、そのことで学生から煙たがられることは恐れない。そんなことを考えるようになった。

先月からは、今年4月に入学した1年生の授業が始まっている。彼らに対しては、今まで以上の思いと厳しさで授業に臨んでいる。

※昨日まで不具合が生じていたライブドアのアクセス解析がやっと正常化したようですから、週間アクセスグラフを再表示します。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

愛する人でいてください

僕が非常勤講師を務める介護福祉士養成校の2年生は、6月中に学生最後の実習を終え、既に通常授業に入っている。

僕は昨年から授業を受け持っているので、2年間ずっと関わって卒業していく最初の学生が彼ら、彼女らである。

思えば考え方も授業態度も、幼かった入学時と比べると2年間の学習と実習を経るとそれなりに大人になっている。考え方もずいぶんしっかりしてきた。
(※個人差があり、まだまだ社会人として通用しない態度や考え方の学生も存在することを否定しない。)

とは言っても僕の担当は「認知症の理解」であり、その時間しか接していないので、彼らの成長に僕はほとんど役立ってはいない。

ただそうした少し遠い存在だから、余計に変化が分かるのかもしれない。担任だと毎日のように接している生徒の変化には気づきにくいだろう。だがこの幼い考えの生徒を毎日指導しなければならない担任は大変だ。授業の理解度だけではなく、人間として成長させるための生活指導も担任の役割なのだから、さぞ苦労が多い事だろうと想像する。

ところで、僕の授業では実習前に学生に2つの課題を与えた。それは

1.実習中に認知症高齢者ケアについてどのようなテーマを持って学びたいか。
2.実習先で、認知症高齢者の方々に対し接する際に自分が一番大事にしたいことは何か。


という2点である。これを実習前の授業で考えさせ、レポートにまとめたものを一端回収し、実習後の最初の授業でそれぞれにレポートを返し、その課題やテーマは的を射たものだったか、その実現度はどうだったかをグループ学習で議論させ、他者の意見も参考にしながら自己評価を書かせた。

実習課題も実習を終えて振り返ると的外れなものや、不十分なものもあったという反省もあったようだ。自己評価は厳しいものが多いが、それだけ高い部分を見ることができるようになったのだとポジティブに評価してよいだろう。

しかし実習を終えてもなお認知症高齢者のケアについて、正しい回答を導き出せなかったという意見がある。これはマニュアルがある世界でもないし、答えは一つではないので、ある意味やむを得ない部分もあるが、しかし実習中に遭遇した個別のケースについて、その実習期間中に行ってきたことや、今後そこで提供されるであろうサービスがよいのかどうなのか分からないという意見もある。これは単に学生の勉強不足とか理解不足と斬り捨ててよいのだろうか?

その意味は、実習先で答えになるような認知症ケアの方法論を学生が見つけられなかったという結果でもあり、同時にそれは学生が求めていた答えなりヒントなりを、現場の担当職員が明らかにできなかったという意味ではないのか?すべての現場関係者、介護福祉士は、そのことを考えるべきではないだろうか。

学生の様々な疑問に実習先の職員はきちんと言葉で説明できていただろうか?それは正しい知識と根拠に基づいたケアで、おかしな理屈で現実のサービスが絶対的なものとして価値観を押し付けるだけだったということはなかっただろうか。

実習先での学生は「おかしい」「違うのでは」と感じても、実習指導者に素直にその疑問をぶつけることには躊躇が伴う。多くの場合、遠慮して指摘できない、尋ねることすらできないというのが現実だ。これは我が身が実習生であったころに置き換えて考えても心当たりのあることだろう。疑問は遠慮なく聞いてよいという実習担当者がいる半面、自分らの行っていることを絶対視し、疑問を批判と受け取り、建設的な指導に結びつかない担当者もいるのが現実だ。ここは介護現場の教育意識をもう少し高めて変えなければならないところである。

学生の感じた「おかしさ」や「疑問」について様々な事例を抽出して検証すると、9割方学生の感覚の方が正常である。頻回に椅子から立ちあがる人の横について、立ちあがるたびに席に着くよう「見守りなさい」と指導された学生が、指導された通り椅子に座るように促し続けて利用者から怒鳴られたケース。「歩きたいから歩くのを手伝った方がよいのでは?」と感じる学生の感覚の方が正常で、「ついこの間も歩いて転んだからそれは駄目」という指導者の感覚の方が異常である。転倒して怪我をしないように注意するのは、歩けなくなっては困るからだ。最初から歩く機会を奪って安全では意味がない。ケアサービスはいつから介護職員や事業者のための「安全安心」が優先されるようになったんだ。安全に安心に暮らすべきは利用者だぞ。立ちあがって転びもしないのに、すぐに立っては駄目だと言われる生活が安心の生活なのか?

ここの感覚麻痺をどうにかせにゃあならない。

しかし感覚を麻痺させているのは、「昨年まで、一昨年まで、そのずっと前までの学生」だという事実がある。僕は今の学生に強くそのことを主張している。あなたがた自身が学生の時に持っていた感覚を、介護サービスを職業にした途端に数カ月で失うことが今の現実を創っていると・・・。それではサービスの質は変わらないと・・・。

現実に流されて現実をより良い方向に変えようとする考えを失ってはいないか。これが永遠のテーマである。適応するのと麻痺するのとは違うのだ。利用者の声なき声を受け止める感性を失わないでほしい。

最初に示した2番目の課題に一言「笑顔を忘れずに接したい」と書いている学生がいた。文章は幼いが、これは大事なことである。ベテランになるほど、この当たり前を忘れがちである。我々の笑顔は、利用者が笑顔になることでより輝けるのだ。そのためには我々が職場で笑顔を忘れないという姿勢も大事だ。ただできれば、プロとしての意識なんか持たなくても、高齢者の方々も介護者も、ともに自然に笑顔になる、そういう介護の現場であれば、これは理想である。そうしなければならない。

少なくともプロであるなら生活の疲れを職場に引きずってはならない。家庭で何があろうと、プライベートな時間に何があろうと、何かあったということが職場の同僚や、利用者が容易に気づくような態度しかとれないのではプロではない。それは素人が素人の援助技術でしか仕事をしていないというレベルで金銭対価を得ている状態と言え、詐欺まがいと言われても仕方がないのだ。

ところで、笑顔と「笑う」という行為は必ずしもイコールではない、ということを考えてほしい。笑うという行為は時として人を蔑んで「あざ笑う」ということを意味する場合がある。それは本当の意味での笑顔ではない。認知症高齢者の顔にクレヨンで絵を書いて「可愛い」と笑って写メを撮り、携帯メールを職員間で回し見して笑っていた宇都宮市の施設の職員の「笑い」とは後者の笑いである。

それは第3者から見ればとても「醜い顔」である。

我々が求める笑顔や笑いとは、人を愛する笑顔である。人が愛されることを尊ぶ笑いである。

どうぞ、人を蔑み、あざ笑う人にならないでください。
どうぞ人の不幸を笑ってみていられる人にならないでください。
どうぞ人を愛する喜びを知る人になってください。
どうぞ人を愛する笑顔が美しいと感ずる人になってください。
どうぞ人を愛する人でいてください。

その時の貴方の笑顔はきっと誰にも負けない素敵な表情になっているでしょう。

(学生にメッセージを送ってください。授業で紹介させていただきます。きっと彼ら、彼女らにとって現場の先輩からの声は勇気になり、励みになると思います。ご協力いただける方は下記投票のコメント欄にご記入協力ください。)

※ケアマネジメントオンラインで僕の著作本が『話題の1冊』として紹介されました。是非この記事もご覧ください。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

最後の国家試験未受験有資格者という意味

介護福祉士国家試験の受験資格が平成24年度から見直されることはご存知の方が多いだろう。

当初、平成24年度(2012年度)から実務経験ルートに課せられる予定であった600時間の養成課程については「介護現場の人手不足や、資格取得を目指す介護職員を抱える事業者らの対応が間に合わないこと」等を理由として3年間延期され平成27年度(2015年度)までこの義務は負わなくてよくなった。さらに現場からの反発(600時間働きながら受講するのは不可能だ)の声が強いので、この600時間受講義務は更なる見直しがされる可能性を残している。

しかし24年度から予定通り実施される改正もある。

それは「介護福祉士養成専門学校」などの卒業者は、国家試験を受けることなく資格が与えられるというルートがなくなり、養成校卒業者でも国家試験を受け合格しないと資格が与えられなくなるという改正である。

この適用となるのは平成24年度であるから、介護福祉士国家試験の実施時期で言えば平成25年1月実施試験からということになる。つまり2年間の養成施設であれば来年4月に入学する学生は、卒業年度が平成24年度(平成25年3月卒業)であるから、すべて国家試験を受けなければならない対象者になるのだ。

ところで、僕は今日から、当地域の「介護福祉士養成校」の1年生の担当授業を行っている。今日のブログ記事は、授業の合間の45分間しかない昼休みにipadを使って更新しているというわけである。(マメでしょ)。

というのも僕の仕事の都合で12月が多忙で、今月は今日3コマ(90分授業を3講座)集中して行っているからだ。あとは1月から2月の授業となる。(前期は2年生を担当していた)

そして、この養成校は2年間授業だから、来春の1年生はもう国家試験を受けねば資格を取れないクラスになる。

逆に言えば、今日から担当しているクラスの生徒が、この養成校においては「国家試験を受けずに資格が付与される最後の生徒」という意味になる。

ここは極めて重要で、大袈裟ではなく介護福祉士の国家資格を考える上では歴史上の意味がある学年になるかもしれない。

なぜなら数年後は介護福祉士といえば「国家試験に合格した者」という認識が当たり前になるだろう。そうすると介護サービスの質が議論され「介護福祉士」に何らかの批判が向けられた際に、国家試験を免除された有資格者が「スケープゴード」にされる可能性があり、その対象となる最後の学年という意味もあるからである。

取り越し苦労かもしれないが、将来的には国家試験を受けずに資格を付与されたことは「幸運」ではなく、「トラウマ」になりかねないと思う。

そうしないためにも、世間から認められるスキルを身につけ、この世代の翌年から生まれる「国家試験に合格した養成校卒業者」の手本になる知識と技術を得ておく必要がある。そういう意味で、このクラスは最初から重い十字架を背負わされて介護サービスの現場に出ていかざるを得ない。そういう自覚を持って頑張って、この国の介護リーダーを目指してほしい。それが僕からのエールだ。

僕自身は講師として、そのことの意味を十分伝えながら、どの世代にも負けないスキルを身につける自覚を促しながら授業にあたりたい。そういう意味では身の引き締まる思い授業に臨んでいるのである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

国家資格に胡坐をかくな

社会福祉士と介護福祉士が国家資格化される以前のことである。

介護職員の地位向上を図るために、全国老施協では「福祉寮母」という独自の「認定資格」を作ってその地位向上を目指したが、なかなか実効性が見えなかった。(当時、福祉寮母を取得した人は懐かしさと、ある種の空しさを感じているのではないだろうか?)

そこで資格法制化を図ろうとする動きが生まれ、やがてそれが介護福祉士という名称独占資格ではあるが、国家資格が誕生したという経緯があった。

しかしその過程では様々な議論の中で、根強い反対論があった。

特に介護の資格を法制化することで、職業を失うのではないかと考えた「家政婦協会」などが強硬な反対論を唱え、旧労働省も反対の立場をとった。

当時の政権政党であった自民党の総務会(政策決定に強い影響力を持っていた)において、強硬に反対意見を唱えたのは、あのハマコー代議士である。そのときの彼の言葉は後に、当時の「介護職員」に対する一般的理解として業界ではかなり有名な言葉になった。その言葉とは

「誰にでもできる仕事に、なんで資格が必要なんだ」

というものである。介護とは一般的にはその程度にしかみられていなかったわけである。それから23年。世間一般の介護福祉士に向けられる目は変わったのだろうか?日本介護福祉士会は、自らの専門性をどのように国民にアピールしてきたのだろう。

なるほど、現場では専門学校で教育を受けた有資格者が、志高く介護業務に携わっている例は無数にある。同時に、専門学校さえ卒業すれば国家試験を受験せずとも付与される資格だから、全然志もなく、技術も知識もない介護福祉士も同じ数だけ存在する。

なるほど、現場では実務3年で国家試験を受験し合格した有資格者の中には、経験と知識と技術を兼ね備えた優秀な介護職員が無数に存在する。しかし一方では、試験には合格したが、付け焼刃の基礎知識しかなくて、介護の現場で心も体も動かさない介護福祉士も存在する。

資格は仕事をしてくれないのだ。だから資格を取得した後の「学ぶ姿勢」が質の担保には必要だし、学んで進もうとしない限り、本当の意味での専門性など生まれない。

本来そのことをサポートすべき職能団体である日本介護福祉士会は、介護福祉士ができる行為を拡大しようとする論議にさえブレーキをかけ、決して国民ニーズに積極的に応えようとはしていない。

僕から言わせれば、現在この職能団体は国家資格に胡坐をかいて、自らのスキル向上に何の興味も示さない姿勢しかとっていない意味のない職能団体に陥っている。

今、介護福祉士に向けられる世間の目、特に他の職能団体や有識者と呼ばれる人々から向けられている目は厳しいぞ。(参照:介護福祉士の専門性を疑う人に応えられるのか?

目を覚ませ。自覚しろ。

このことは社会福祉士にも例外なく問われてくる問題だろう。これに対して社会福祉士会の対応は、すすんで上級資格を別に創設しようというものだ。しかしこれは社会福祉士という国家資格を自ら低い位置に貶めようという馬鹿げた考え方だ。(参照:何のための専門社会福祉士だか・・。

一方介護支援専門員(ケアマネジャー)についてはスキルと地位の向上を目指して国家資格化を図ろうする動きがある。国家資格にするのはよいが、それからが問題だということは他の資格をみても分かる。国家資格化=待遇改善などということにもならないことも、他の国家資格が証明している。国家資格化はあくまで最初の一歩に過ぎないという自覚が必要だろう。
※ただし現況から言えば、この国家資格化の実現可能性はかなり低いことを付記しておく。

だいたい国民の多くは、その資格が国家資格かそうではない資格かなんて、あまり考えていないのだ。その資格を持った人物の顔をみていることを忘れてはいけない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

介護福祉士の専門性を疑う人に応えられるのか?

8/25に「介護福祉士に専門性なんてあるんだろうか?」という記事を書いたところ、今日までに40件以上のコメントが寄せられている。同時に様々な人がこの記事に刺激?をうけて自身のブログで「介護福祉士の専門性」に関連する記事を書いている。

例えばbon01979さんこと古瀬先生の「北海道のmasa氏の問題提起」 ・ gitanistさんの「介護の専門性とは」 ・ ヅカちゃんの「介護福祉士の専門性?あるよ。」などである。

ある意味、僕の「挑発」に対し、このように真面目に反応してくれる人がいることは素晴らしいことだ。それが僕の意見に対する反論であっても、自らの専門性を言葉や文字で表現できることが大事だ。このような人が多いとこの業界の未来、そして介護福祉士という資格に対する未来への展望が開ける。

しかし一方では、専門性はないとあきらめたり、開き直ったりする人がいることも事実で、それは僕の記事に寄せられたコメントでも読みとれる。ここが問題だ。

だから僕が書いた記事は、介護福祉に対する愛情を込めた叱咤激励であり、エールであると同時に、ある種の幻滅感も含んでいることを否定しない。そして近い将来、僕の期待がこの資格に対してなくなってしまった場合、別な方向でアクションを起こすことになる可能性も否定しないのである。

なぜなら家族が行える行為を介護福祉士の手で、という提言を「医療行為に手を出す」とか「医療行為解禁」という方向で捉えて、そこは介護の範囲ではないと考えるスキル自体が問題だと思うからである。それは医療行為解禁という問題ではなく、介護職が医療行為の一部を担うという問題でもない。本来医療行為ではないとしてよい行為をきちんと介護の専門家として対応しようという意味であることを理解してほしい。

何度も同じ主張を繰り返すことになるが、医療行為自体は未来永劫、医師や看護師などの医療の有資格者が行うべきで介護の専門職が手を出すべき範囲ではないから「医療行為解禁」なんか必要ない。

僕が言っているのは医療行為を介護職に解禁せよ、ということではなくて、医療行為という概念が広すぎて実際には医療職以外の者ができる行為までその中に括られ制限されてしまっており、時代のニーズはその制限にそぐわなくなって、特に家族が自宅で安全に行えている行為(インスリン注射等)については、医療法が制定されていた当時、このような超高齢社会で在宅高齢者が自宅でインスリン注射が自分でできなくなるデメリットを想定していなかったんだから、そうした行為は医療行為ではないと、その判断を変えていこうというものである。

狭心症の方に対応するフランドールテープだって医療法制定時になかった方法で、こんなものを医療行為という理由だけでヘルパーが貼れないなんて考えるほうがおかしい。その期待に沿うことは国民ニーズに沿うことで、医療行為ではなく、介護としての支援行為をきちんと担うことである。

ここを理解出来ないなら、そもそもこの議論はいつまでも水かけ論である。

だいたい全国老施協も、介護職員の出来る行為を拡大する方向を「医療行為解禁」とか「違法性阻却」でしか語れないから現場が混乱するのだ。老施協に人材はいないのか?

ところでこの介護福祉士の専門性、どうやら多くの有識者は影では「そんなものないよな」と考えている節がある。そのよい例が、社会保障審議会介護保険部会での介護支援専門員の実務経験に関連する基礎資格見直し議論である。そのいくつかの意見を下記に紹介しておく。

「審議会の各委員意見」

結城康博委員(淑徳大学総合福祉学部准教授)
・(資格の新設から)10年間経った今、受験資格を見直すべき。幅広い職種に受験資格があることのメリットもあるが、検討が必要。

川合秀治委員(全国老人保健施設協会会長)
・医療と介護の適切なマッチングを訓練されているか。当施設のケアマネジャーは、看護職で占めている。事業主としては、医療のわかるケアプランナーを支持せざるを得ない。国家資格にとまでは言及しないが、高度な医療知識が必要ではないか。

齊藤秀樹委員(全国老人クラブ連合会理事・事務局長)
・ケアマネジャーの生命線は中立性にある。事業所併設サービス利用は、現行の集中減算で中立性が確保されているか再考の余地がある。また、保有資格が介護福祉士に偏り、医療的ケアへの知識が十分といえないとの指摘があるため、人材養成の抜本的見直しが急務ではないか。

河原四良委員(UIゼンセン同盟日本介護クラフトユニオン会長)
・ケアマネジャーが独立できない、しないのは、月々の収支が不安定であるから。収入の安定に向けた対策が必要。また、介護の要でありながら、国家資格ではないということは不思議でならない。

日本介護支援専門員協会会長の木村隆次委員
・ケアマネジャーの質の均一化を図るためには、国家資格化と大学教育相当の要請過程が必要、受験要件(基礎資格など)の見直しを行うための検討会を設置することといった大胆な養成見直しが必要である。

以上である。

この意見をよく読むと、基礎資格から外そうとしている第1番目のターゲットは、明らかに「介護福祉士」と「介護業務」である。まあ看護師等医療系の有資格者ではないと適切なケアマネジメントができない、などという全老健協会会長の意見などは偏見にしか聞こえないが、これだけ介護福祉士への評価が低い意味を、この資格を持つすべての人が考えるべきだろう。

単に相談援助職ではなく、介護の専門職だから、基礎資格から外されてもよいのだろうか?それとも社会が、国民が要請する介護職の担う行為の明確化と範囲拡大に二の足を踏み続ける日本介護福祉士会に対する痛烈な評価であるのか?

ここが考えどころである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

介護福祉士に専門性なんてあるんだろうか?

このブログを、多くの介護福祉士有資格者の方々が見ていることを承知で、そしてそれらの方々の中にも優れた資質を持つ人が多いことも承知の上で、あえて挑発的な記事を書かせていただく。

ネット配信ニュースで『日本介護福祉教育学会は8月23日、東京都内で第17回大会を開催し、「介護福祉士の専門性の創造 新カリキュラムの現状と可能性を探る」と題して、講演会や研究報告を行った。』という記事を読んだ。

そしてしらけた気持ちになった。

介護福祉士の専門性って何だろう。そもそも介護福祉士に専門性があるんだろうか?介護福祉士が行っている行為は業務独占行為ではない。では家族と同じことを行って、介護福祉士が行った場合に、より優れた結果を出すというエビデンスを、この資格創設時点から20年以上経った今日まで確立してきたのか?

むしろ医療行為問題で議論になるように、インスリン注射等、同居家族が在宅で行うことができている行為を、介護福祉士は行うことができない。この状況で、家族以上の専門性が介護福祉士にあるなんて発言ができるのだろうか?

特にこの資格の専門性を疑うのは、医療行為議論の中で、胃婁等の経管栄養や痰の吸引を介護職員に行うことができる条件を議論している最中に、日本介護福祉士会等が「そんな行為を行えと言われても困る」という内容の意見書を出すなど、この問題に関して非常に消極的な姿勢を示したことである。

確かに医療行為そのものは、医療の専門家が行うべきで、介護の専門資格である介護福祉士がその行為主体になるというのは筋違いであると考えるのはある程度理解できる。しかし実際には、在宅で同居の家族が安全に行うことができている行為まで、それは介護の専門家の業務ではないと無下に断ることが彼らの専門性なのか?

特養で解禁された痰吸引や経管栄養の取り扱いも、医療行為の一部解禁ではなく、単なる違法性阻却として認められたに過ぎないが、それとて日本介護福祉士会は消極的姿勢であった。超高齢社会で国民が求めているニーズにさえ応えようとしない資格者団体に専門性などあるわけがない。

参照:「存在意義が問われる介護福祉士」・「介護福祉士に告ぐ」・「続・介護福祉士に告ぐ

医療行為解禁議論の中で、現在、今年4月から特養で認められた介護職員による「痰吸引と経管栄養」についての違法性阻却を在宅などにも広げようと議論されている最中である。

僕に言わせれば、こんなことはまったく意味がない。二つの行為だけ、しかも医療行為からこれを外さず違法性を阻却するという条件で在宅に認めたとしても、違法性を阻却する条件のために膨大な書類が必要になるし、2つの行為で救えない在宅者は特養やグループホームにいつまでたっても入所できないという問題の解決にはならない。むしろ痰の吸引にしても、医師会が「医療行為から外せ」といっているんだから、そうすれば良いのである。そして同時に、家族が在宅で行って要介護高齢者を支えている実態があるインスリン注射等も「医療行為ではない」として介護職員等に認めるべきなのである。

医療行為を行うのは医師や看護師等の医療資格者であるべきだが、社会構造や時代のニーズが変化しているのに、医療行為の概念や範囲を旧態前のままで変えようとしないことの方がおかしいのである。

この時、介護福祉士が専門性を持つ有資格者であると主張するのなら、自ら積極的に国民ニーズに応える形で、医療行為から外すべき行為についての提言を行うべきであり、それを行わず、むしろ消極的である現実を鑑みれば「私達に専門性などありません。」と宣言すべきである。

ただでさえ今の介護福祉士の現状は、国家資格を持っていると言っても、国家試験を受けないで取れるルートもある資格でもあり、ソーシャルアクションの観点がなければとても専門性など声高らかに唱えられる資格ではないし、まったくもって評価は出来ないのである。

こうした状況下で、介護福祉士会はじめ、多くの介護福祉士有資格者の意識が変わっていかないと、いつかこの資格は時代から必要されない資格となり、別な資格が介護のスタンダードになってしまうぞ。そのことに早く気づくべきである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

一番近い人でいてください。

今年度の介護支援専門員の合格者総数は全国で29.484人であった。既に実務研修を終えて新しい職務に就こうとしている人も多いだろう。不安は当然あるだろうが、それよりも是非、希望を胸にふくらませて、その希望というエネルギーを利用者の笑顔に結び付けてほしい。

また今月末には介護福祉士の実技試験合格者に通知が送られ、新たな有資格者が全国で13.000人程度誕生すると想定される。資格を得る過程で培った知識や技術は、自分自身の武器という意味だけではなく、社会に対して、相対する利用者に対して、幸福を運ぶための知恵の拠りどころであると考えて、良いサービスを作っていってほしい。

これらの人々に、僕からのエールにかえて送りたい言葉がある。

毎年、たくさんの人々が、このような資格を目指して頑張って勉強している。その結果、合格されたことは大きな喜びだろう。

資格を目指し、その過程で様々な勉強をして努力を続けた経験は貴重なもので、その体験や合格という結果はそれぞれの人々にとって人生の中で得られる「宝物」だと思う。心より拍手を送りたい。しかし同時に資格はゴールではなく、スタートラインに立つ意味であることを忘れないでほしい。

かつて日本女子プロゴルファーとして、国内ではトップの実力をもっていた岡本綾子プロは、全米女子プロゴルフツアーの参加資格を得るために、同じくトッププロの一人であった森口佑子プロらと全米プロテストを受けた。

そのテストで両者は同時に合格したのだが、後に森口プロは回顧談で次のように語っている。

「私は合格して、一つの夢・目標が達せられたと有頂天になっていました。そのとき岡本さんが、側でつぶやいた言葉を聞いて、ああ、私この人には敵わない、と心底思いました・・・。」

その時、岡本プロがつぶやいたという言葉は次の言葉である。

「これからね!」

森口プロにとって全米プロ資格は夢、ゴールであったのに比べて、岡本プロは、そこが始まりに過ぎなかったのである。その後の岡本プロの活躍は、全米メジャートーナメントで優勝するなど、数々のタイトルを取り、日本女子ゴルフ界の歴史を塗り替えるものであったことはここで語るまでもない。

「資格を取ること、取ったこと」をどう考えるか、ゴールなのかスタートなのか、どちらに考えるかで、以後の仕事に対する取り組みも違ってくるのだ。資格を持っても「よいサービス」ができないのでは意味がない。資格を持つということは、対人援助に必要な知識や技術を最低限のレベルで担保していると公に認められた、ということに過ぎず、そのスキルを生かすも殺すも自分自身の心がけひとつである。

「資格は仕事をしてくれない」という言葉を忘れてはいけない。

そして様々な資格をとられた人々に、もう一つ忘れてほしくないことがある。そのことをお願いして今日の記事に変えたい。

あなた方は、せっかく資格をとったのですから、福祉援助や介護を「好き」でいてください。資格をとっていない人より、そのことをもっと「好き」でいてください。それが利用者の願いです。「介護」は心にかけて護る(まもる)、という意味です。利用者を護るのが介護サービスです。介護計画ばかり立てて机に座ったきりの有資格者であってはなりません。利用者の傍らにきちんと寄り添ってください。生活課題を明らかにして計画を立てるだけが私たちの仕事ではないのです。利用者の方々と心の交流を通して分かりあうのが私達の仕事なのです。有資格者はリーダーとしての資質も求められるでしょうが、それは紙の上で計画を立てるだけのリーダーではなく、介護の現場ですべてをやりつくして、苦しみとやりがいを味わったうえで、人の上に立って指導するのです。そうではないと指導される人も利用者も不幸になります。勉強は頭の中だけではできません。実地を通してしか分からないものもあるのです。

利用者の傍らに、誰よりも近く寄り添い、手で触れ、見守ることが資格をとった専門家に何よりも求められていることだということを忘れてはなりません。机の前に座って、手も動かさず、利用者も見つめることなく、考えるだけで福祉援助や介護サービスはできないのです。

資格をとったあなた方だからこそ、どうぞ利用者に一番近い存在でいてください。

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続・介護福祉士に告ぐ。

結婚歴がなく、親族がほとんどいないヨシさん(仮名・84歳)は長く一人暮らしを続けていたが、78歳の時に骨折によって歩行困難になり、自宅近くの特養に入所した。車椅子を使った生活を送っているが、施設内の人間関係も良好で、週末には隣近所の友人や知人も面会に訪れ、何の不満もなく生活している。施設の食事やその他のサービスにも満足されており、ここでの生活は大変気に入っている。

ただ一つの心配は長年患っている糖尿病のため血糖値管理が必要なことである。毎朝自分で注射するインスリンによって、血糖値は正常に保たれ日常生活に支障はない。ただ最近指先が震えて、細かな動作に支障がきたしてきていると感じている。ここでは看護師が早朝には出勤しておらず、朝食前には介護職員しかいないためインスリン注射が自分でできなくなれば、朝食の後、看護職員が出勤するまで注射するのを待つか、ここから10キロ先にある療養型の医療機関に入院するか、その他の施設を探すかの選択が必要だ。

この施設で死ぬまで過ごしたいという思いは強いが、朝食前のインスリン注射ができないことで病状が悪化しないかということも心配で、施設長に相談したこともあるが、現在の勤務体制で毎日早朝の看護師の勤務は不可能で、インスリン注射が自分でできないからといって介護職員が替って注射することは法律違反でできないため、看護師のたくさん配置されている施設に移っていただかざるを得ないと告げられた。

ヨシさんは、友人が自宅で家族に注射をしてもらって暮らしているのに、排せつ介助や食事介助、入浴介助や移動介助で日ごろ自分を助けてくれる介護職員が、友人に家族が行っているのと同じ行為を出来ないことに納得ができない。しかし施設長は法律で決まっていると頑としてそれを認めようとしない。自分はこの施設でいつまで生活が続けられるのだろうか、この手で注射ができなくなったら自分はここの施設から捨てられるのだろうかという不安と悲しみを抱えながら、今日もヨシさんは震える手で自分の肩に注射針を刺し続けている・・・・。(ケース1)

道南の、とある田舎町の小さなグループホームで暮らすカヨさん(仮名・72歳)は、3年ほど前から認知症の症状が出て、家族の顔がわからなくなり、自宅から「帰る」と外に出ることが多くなった。夜中に警察に保護されたり、川に落ちて大騒動になったりした。家族が介護に疲れ果てた2年前に近くにグループホームができた。老健のショートステイを使った際にも、夜間の徘徊と奇声を理由に利用を断られた経験があるカヨさんであったが、家族がわらにもすがる思いで、グループホームに入所申請をしたところ、そのホームの施設長が自宅を訪ね、家族からカヨさんの様子を聞いて、自分が責任もってグループホームでお世話することを約束してくれた。

そしてグループホームに入所したカヨさん。当初はホームから頻回に外に飛び出して、その都度職員が付き添って町内を一回りしたり、カヨさんの自宅まで散歩に連れ出したり大変であったが、入所2月目あたりからカヨさんの表情が柔らかくなり、徘徊も減り、夜も落ち着いて寝てくれるようになった。ホームの職員との関係が濃厚になるにつれ、カヨさんは職員が自分を守ってくれる存在と感じるようになったのか、職員と家事や掃除などの行動を共にすることが一番落ち着ける状態のように変わっていった。この変化に家族も驚くばかりであった。

ところがカヨさんがすっかり落ち着いて数か月経った頃、体調が悪くなり、医療機関を受診したところ、過去に指摘されていた糖尿病の悪化があり、血糖値管理が必要になって、インスリン注射が必要だと言われた。状態が落ち着いたといってもカヨさんに自分でインスリンを打つ理解力はない。そのホームは医療連携加算を算定し、外部の訪問看護ステーションから看護師が週2回健康管理の訪問を行っているが、カヨさんの毎朝のインスリンを注射するために訪れることはできない。このため血糖値が落ち着くまで入院できる医療機関を探すか、別の施設への転入所が検討されたが、今までの経緯から、他の場所で生活することはカヨさんにとって悪い影響が生ずることが容易に予測された。血糖値管理・インスリン注射さえできれば、カヨさんは、このままホームで、落ち着いた彼女らしい生活が続けられるのに・・・。

悩んだ施設長は「自分が一切の責任をとる」として、介護職員に毎朝インスリン注射を打つことを指示し、自分は辞表を書き、それを常に懐に入れている・・・・。そんな状況もまったく理解できないカヨさんであるが、今日も同ホームでは彼女の柔和な笑顔がみられ、そこに訪れた家族は2年前のカヨさんと家族の疲れ切った状況を思い出しながら、感謝の涙を毎度流すのである・・・。(ケース2)

この2つのケースをみた時、ケース1の施設長は何も批判されるべき問題はない。法令遵守という意味からは、そうした判断しか取れないし、逆にケース2の施設長の判断や行動は、理由がどうあれ現行の日本の法律の中で許されるべき行動ではない。

しかし人間として、その行動を非難することができるかといえば、僕は首を縦にふれない。

もしこの国の法律が在宅で家族が行っている行為を、施設の介護職員に認めているのであれば、2つのケースは共に何の問題も生じない。二人のお年寄りは平和で安全な生活が続けられるのである。

法律による規制とは人の安全と平和を保障するものであるはずで、医療行為の制限も、技術と知識のある専門家により安全にその手技・行為が提供されるための規制である。よってこの制限を全てなくすることはできないし、そのような意見があるとしたらそれはあまりにも乱暴である。しかしその制限は時代のニーズと人間の暮らし方によって時とともに変化せざるを得ない要素を抱えるもので、法解釈も人の生活の変化にマッチして変わっていかねば、規制はただ単に誰かの権益のためだけのもので多くの人々の不幸の台座の上に孤立する状況を生むだろう。

法令遵守は大事であるが、法律は究極的には人間が作った文章であるから、それを守るだけでは人間の暮らしは守ることができず、時には法律以上の規定を自らが課して守る必要もあり、それが職業倫理でありコンプライアンスの思想である。(参照:職業倫理はなぜ必要か)、しかし同時に人間生活にマッチしなくなった法律を変えるために必要なソーシャルアクションを求めることも我々の責務としてあるべきものだ。

今、我が国の状況は、世界をみても類がない、人類がかつて経験したことがない超高齢社会を迎え、医療技術の進歩はその要因になるのと同時に、医療器具や医療処置が常時必要となる人々を増やしている結果をも生んでおり、その支援の人材を過去と同じ範囲でくくっては行為提供者が足りなくなるのが現実である。だから行為提供者の範囲を広げる手立てが不可欠なのである。

そこには当然セーフティネットが必要だろうが、介護職員が利用者に対して提供できる行為を、せめて「在宅で家族が同様に行っている行為」程度までは広げないと支援の光がすべての高齢者や要介護者に届かないのである。

このことを介護福祉士に手渡そうとした時、当の介護福祉士がそれを拒むのは責任放棄である。中には「そんなことまでやらされて何でも屋になるのは困る」という意見があるとのことだが、現実の施設サービスにおいては介護福祉士にしかできない行為など存在せず、ヘルパー資格者や無資格者にも出来る行為しか許されていない。つまり介護福祉士は「なんでも屋」どころか「何にも出来ない屋」にしか過ぎないのが現実だ。

のどの奥も含めた喀痰吸引や濃厚流動食の注入行為を、介護福祉士が中心になって行うことを拒否するのであれば、その有資格者は、医療職の指示のもと、その下請け行為に限って「何かができる」資格でしかなく、国民の期待に添う責務を担えない意味のない資格に過ぎなくなるだろう。

ヨシさんや、カヨさんを救うことができない介護支援者など、介護の専門職とは言えない。

介護福祉士が要介護高齢者を救えないのであれば、この国は新たに社会の求める責務を担うことができる能力がある介護専門資格を、時代のニーズとマッチさせる形で作り出さねばならないだろう。

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介護福祉士に告ぐ。

「特別養護老人ホームの入所者における看護職員と介護職員の連携によるケアの在り方に関する検討会」において特養の介護職員が実施できる行為を拡大しようという議論のさなか、当の介護福祉士の会員組織である介護福祉士会が、会員アンケートの結果として、80%が「吸引は不安」、44%が「吸引を行わないようにすべき」という意見を示し、この問題に消極姿勢をとったことについて僕は「存在意義が問われる介護福祉士」の中で批判した。

その意味を改めてここで補足し、表出した新たな問題を指摘したい。

超高齢社会で医療器具をつけて自宅療養する高齢者が増える社会で、在宅でそれらの方々が生活できるのは家族の医療行為による支援の結果である。それらの高齢者がスムースに施設入所できない理由は、在宅で家族が行っているのと同じ行為を施設の介護職員ができないことによるものだ。

確かに特養には介護職員のほかに、看護職員が配置されているが、看護職員の配置基準は50人施設で2名、100人定員でわずか3名である。多くの特養では配置基準以上の看護職員を雇用し、日中は看護職員がいない日を生じさえないように対応しているが、現行の運営財源である介護給付費で支出できる人件費には限界があり、日によっては看護職員を1名しか配置できない場合もあるし、看護職員の夜勤対応は困難であり、夜間は介護職員しか配置されていない特養が全体の大部分を占める。そのため看護職員による医療行為支援が不可能な時間帯という空白が生じ、例えば早朝、朝食前にインスリンの注射をする看護職員がいないという理由だけでインスリンの自己注射ができない糖尿病の高齢者は特養入所を拒否される場合がある。

これは現実の社会のニーズに沿うものではなく、せめて在宅で同居家族に認めているような行為については特養で介護職員が行ってもよいように規制緩和すべきというのが我々の主張である。何もすべての医療行為の規制を緩和せよといっているのではなく、その基準は在宅の高齢者に「家族が行うことが許されている行為」と限定して主張しているのである。

つまり在宅でケアできていた高齢者が、医療行為に対する支援がネックになって施設入所できないという現状を打破する為には、施設における介護職員がカバーする領域を広げないとならず、それが医療行為の一部を介護職員ができるようにするという意味であり、結果的にそのことは国民のニーズに応えるという意味にほかならない。

しかしそのニーズに対応する役割を担うことに対し、介護福祉士の会員団体が消極姿勢を示すことは、社会的に有益な役割を担ってもらいたいという国民の要望を拒む結果となる。これでは唯一の介護の国家資格である介護福祉士という資格の意義と信頼性が揺らぐだろう。

考えてもらいたいことは、当初老施協は、この一部行為の拡大を担うべき職種については介護福祉士を想定せずに、新たに「療養介護士」という別の資格を導入しようとしていたという事実である。もしこれが実現していたら、介護福祉士の資格の価値も社会的認知も低下することは間違いなく、それは将来的には介護の基礎資格にはなり得ず、療養介護士の下請け的資格になり下がることが必然であった。

しかし結果的には、この案は他団体(日本看護協会等)が「介護の資格を今以上に増やすことは許さない。」という反対論によって見送られた経緯がある。そのことは結果的に介護福祉士資格を救済したことになるはずであった。

ところが、実際には国が介護職員に手渡してもよいのではないか、と検討していた行為について、それを担うべき介護福祉士側が「それを手渡されても困る。」と言ったのである。つまり介護福祉士は「介護福祉士は、それほど社会に役立つ資格ではありません。」と責任を投げ出した結果になるのである。

そしてこの検討会で結論が出され、モデル事業で検証される喀痰吸引や経管栄養に関する介護職員が可能となる行為は非常に範囲の狭い、意味のないものとなったが(参照:医療行為解禁議論の笑える結論)、ここで注目すべきはモデル事業で実施されるのは介護職員の新たな行為だけではなく、それを指導する新たな看護職員の指導も含まれているということである。

つまりこのモデル事業に向けて、看護職員の中の一定条件を備えたものに、一定期間の養成研修を受けさせ「指導看護師(仮称)」に任命して、モデル事業から介護職員に対する指導に携わせるのである。

つまり「介護の資格を今以上に増やすことは許さない」と反対した看護協会側は、このどさくさにまぎれて新たな看護師の資格と権益を手にしたという意味である。介護福祉士会が社会の要請に消極姿勢を示して現状変化・改革をしようとしない中で、看護協会は着々と新しい地盤を固めているという構図が見て取れる。

これにより社会的要請に応える姿勢が疑問視される介護福祉士は、ますます看護職員の管理下でしか仕事のできない存在となる方向に向かわざるを得ない。

介護福祉士という有資格者やその会員組織が社会の要請にもっと積極的に応えようとしない限り、その資格は超高齢社会を担うべき介護の基礎資格とはなり得ず、やがて上級資格が創設され意味のない資格となるか、医療専門職の指揮命令でしか動きがとれない位置づけとされるしかないだろう。

そういう意味では介護の専門資格としての社会的使命とは何かが今後ますます問われることであろうことを、この資格を持つすべての人々は肝に銘じておくべきである。

この記事における警鐘を軽んずるならば、介護福祉士という資格はいずれ社会から大きなしっぺ返しを食らうであろう。

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存在意義が問われる介護福祉士。

今日は怒りモードで記事を書くので、過激な表現となることをあらかじめ断わっておく。

特養で解禁される医療行為について、今年度中にモデル事業を実施して、来年度から条件付で容認することになったが、6/15に書いた「中途半端な医療行為拡大議論」で示したとおり、その内容はまったく不十分なもので、今回モデル実施される行為は、「吸引」と「経管栄養」に関る行為のみである。

しかもその中身が惨憺たるもので、喀痰吸引については在宅では資格がないものにも認められている「咽頭より奥、または気管切開部分の吸引」は除外され、肉眼で確認できる口腔内のみに限定されている。一歩前進とはいっても、これでは看護職員の夜勤がない特養では、夜間に口腔内以外の喀痰吸引が不可能な為、今後も喉につけた人工呼吸器の部分の喀痰吸引が必要なALS(筋委縮性側索硬化症)患者の方々は入所できない。

もっとひどいのは「経管栄養」に関する行為である。今回認められモデル事業で実施する行為とは、タンクへの濃厚流動食の注入行為は除外され、単に「注入中の観察・注入後の頭部の状態維持・看護職員への結果報告・片付け・記録のみ」とされている。

しかしモデル事業で実施後に認められる行為も「今までも出来るんではなかったの?」と首を傾げたくなるような行為ばかりで、こんなことが今更「介護職員でもできるよ。」と言われたからといって、何か現場に変化があるというのだろうか?利用者の暮らしが良くなるのだろうか?

肝心の濃厚流動食の注入が認められないのでは意味がない。また、身体につけられているチューブはともかく、タンクに接続している部分のチューブ交換さえも出来ないのではまったく意味がないだろう。何のための介護職員への医療行為の一部行為解禁だろう。ふざけるのにもほどがある。

この背景には日本看護協会の権益を守るための反対論、限定的解禁の主張や、厚生労働省の「まず安全なところからやりたい」という意向が働いたことが大きいが、それにも増して僕が個人的に問題視していることは、医療行為の一部解禁を担うべき介護福祉士の団体である「日本介護福祉士会」が会員アンケートの結果として、8割が「吸引は不安」。44%が「吸引を行わないようにすべき」という意見を示し、この問題に消極姿勢をとったことである。

この姿勢が「腰砕けの結論」の一要素になっていることは否定できない。

喀痰吸引等の医療行為の一部を介護職員ができるようにするということは、超高齢社会で医療器具をつけて療養する高齢者が、在宅で生活できるのは家族の医療行為による支援の結果であり、それらの利用者が施設入所できない現状を打破する為には、介護職員がカバーする領域を広げないとならないという意味があり、それは国民のニーズに応えるという意味にほかならない。

そういう意味では、日本介護福祉士会が、この問題で消極姿勢をとることは、国が介護福祉士という有資格者に、社会的に有益な役割を与えようとしているのに「いえいえ、私どもにそんな重要な役割を担う、資質も、能力もないので、勘弁してください。介護福祉士なんてそんな大層な資格ではないんです。」と言っているようなものである。

当初、老施協は、これを担える介護職員について、現行の介護福祉士という資格者ではなく、新たに「療養介護士」という資格を創設して、その有資格者に医療行為の拡大解禁した部分を担わせようと運動していた。それに関して僕は介護福祉士という国家資格を持つ者がいるんだから「介護福祉士とういう国家資格を持つ者を信用せずに、別に新たな資格を作らねば医療ニーズに対応できないというは間違い。拡大されるべき行為は、在宅で家族やボランティアが現に行っている行為が中心であるのだから、教育カリュキラムの見直しや、一定の研修受講で対応できる問題で、その中心に介護福祉士を据えるべきである」と主張してきた。
(参照:老施協戦略への疑問〜療養介護士問題

そういう意味では僕は、介護福祉士という資格、その取得者に敬意を持って、その資格による業務従事者を信頼していたのである。

しかし今回の問題に対する、日本介護福祉士会の一連の対応を見ると、この考え方は変えざるを得ない。国民のニーズ、社会の要請に積極的に応えようとしない資格者など、専門資格とはいえない。介護福祉士資格などは単にお飾りに過ぎず、国民が望む行為に応えられない程度の、低いレベルの資格だということがはっきりした。

少なくとも日本介護福祉士会という団体は社会的使命感をまったく持たない団体であることが国民の前に明らかになった。

そうであるなら、こんな資格を介護の基礎資格に置いておくのは間違いである。こんな資質の低い有資格者集団に将来に渡っていかなる分野の業務独占を許してはならない。療養介護士でもなんでも新たに創設して、介護福祉士なんていう資格はなくしてしまうか、療養介護士の下請け資格にするしかないだろう。

世の中に役に立たない国家資格など必要ないのである。

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介護福祉士資格取得新ルートから考えること。

介護福祉士の資格取得の新ルートについて5/8に厚労省から発表されているが、5/18付けの「福祉新聞」の一面でも大きく取り上げられているので関係者の方は注目してほしい。

新ルートとは、2006年にホームヘルパー養成研修を拡充して創設された基礎研修の受講者を対象にしたもので、実務経験が3年以上ある場合、新たに設ける280時間の養成過程を経れば介護福祉士の国家試験を受験できるようにしたものである。今後パブリックコメントの募集という意味のない形式儀礼を通して、6月以降に省令・通知を公布するそうである。

しかしこの意味について、平成19年12月5日の「社会福祉士法及び介護福祉士法の一部改正について」の概要を知っていない人は、ちんぷんかんぷんな理解となろう。そこでそのことも含めて解説し、さらにその影響を考えてみたい。

介護福祉士の資格取得については介護福祉士の改正法が、平成24年4月1日から施行されるので、25年1月の国家試験から受験資格が大幅に変わることを理解しないと、この新ルートの意味も理解困難となる。

つまり24年4月以降の受験資格は次のように大幅に変わっているのである。

1.現在、養成施設(介護福祉士養成校など)の2年以上(1.650時間)の養成過程を卒業すれば自動的に資格付与されていたルートがなくなる。新たな法律では、24年4月以降の養成校卒業者(要請過程時間も1.800時間に増える)は、卒業後「当分の間」は、准介護福祉士の名称を使用できるが、介護福祉士については国家試験を受験し、合格しないと資格付与されない。

2.福祉系高校の養成過程も1.800時間とし、国家試験を受験。(経過措置あり)

3.実務経験ルートは、現在、介護施設などでの実務3年だけで国家試験受験資格を得られるが、このルートが廃止され、実務経験3年以上かつ養成施設6月(600時間程度)を経た上で国家試験を受験できる。

以上のように変わっている。8日に厚生労働省が発表し新ルートとは、3の実務経験ルートに、基礎研修の受講者の280時間の養成過程時間のルートを加えたもので、基礎研修を受講しておれば600時間の養成研修を必要としないルートであると考えて良い。例えばヘルパーの資格を持たない者でも、300時間の基礎研修を受けていれば、実務3年以上になると280時間の養成過程を経て国家試験受験が可能になるという意味である。
(ヘルパー1級は基礎研修200時間+養成過程280時間・ヘルパー2級は基礎研修350時間+養成過程280時間で受験資格となる。)

厳しくなった受験資格の中で、働きながら受験資格を得る為には、600時間ルートが近道なのか、基礎研修+280時間ルートが近道なのかという判断があり得ると思うが、もともと基礎研修を受講しなければならなかったホームヘルパー有資格者等には、受験の近道ができるという意味だろう。基礎研修のみの受験資格では、600時間の養成過程との不公平と不均衡が生ずるとの批判に対する新ルートである。その評価は関係者それぞれで考察していただきたい。

ただ考えねばならないことが別にある。例えばこの新ルートがなくとも、新しい受験資格の影響を一番受けるのは介護福祉士養成校であるという問題である。

卒業=資格という道がなくなったのであるから、実務ルートで受験しようとする考える者が増え、養成校への入学者数は激減するかもしれない。養成校にとっては死活問題だし、養成校が減ることは結果的に、介護職員の供給源が減ることだから、この影響が介護職員離れを一層助長して、介護の現場の人手不足も一段と進む可能性がある。なぜなら養成校があるから介護職員という職業への就業動機が成立した、というルートが細るからである。

また、この新しいルールは決して受験者にとって歓迎できるものではない。スキルアップのために一定の養成過程が、すべての受験者に必要だといっても、費用のかかる問題である。しかも研修に要する時間を確保する為には、現に実務に就いている人々にとっては、職場を一時的に休んだり、退職しなければならない事態が考えられる。

費用も何十万円とかかるだろう。600時間の養成課程や、基礎研修+280時間の養成課程の費用は一体いくらになるんだろう。つまりこの受験資格の見直しは、介護福祉士のスキルアップを標榜した、厚生労働省の新たな権益とも言えなくもない。

それだけの費用と時間をかけて手にした資格により、得れれるものが、単にスキルであるとすれば、それは「介護福祉士は霞を食べて生きていけ」というようなものである。

こうした形で、受験のハードルを高くするのであれば、その後に資格を所得した有資格者の待遇も同時にアップせねばならないはずで、それは介護報酬で見ないとならないはずである。

またスキルアップの措置がとられるならば、当然、今以上に可能となる行為も広く見なければならないはずで、家族が行える程度の医療行為も当然介護福祉士が行えるように「でいること」を拡大するのは当然の視点である。

後者は「特別養護老人ホームの入所者における看護職員と介護職員の連携によるケアの在り方に関する検討会」で議論されているが、前者の措置は一切ない。

資格や義務のハードルだけを高くして、それに見合った待遇を与えないのであれば、介護職員になろうとする若者の動機付けはますます減退するだろう。理想だけを追って現実を見ないのであれば、それは単なる幻想の世界である。

こうしてみると最近の厚生労働省の施策はどれもこれも「浮世離れ」の施策である。その向こう側にあるものが職員不足による介護崩壊社会であるとしたら、その責任は万死に値する。

だが過去の例を見てわかるように、省庁も高級官僚も決して責任をとることはない。責任をとらない人々が権限を持って、この国を動かしている。日本はそういう国になってしまっている。

この現実をどこかで変えねばならないはずである・・。

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専門介護福祉士の資格創設が動き出した。

現行の介護福祉士の上級資格として「専門介護福祉士」という新たな資格制度を創設しようとする動きがあることと、それに対する批判について、今年3月6日のブログ「介護福祉士の上級資格を創設〜方向性が間違っていないか。」に書いている。

このことについては5月14日、厚生労働省内に「専門介護福祉士の在り方に関する研究会」が設けられ、5月29日には、厚生労働省の考え方として、2009年度内を目指して、この資格を認知症患者への対応など分野ごとの介護福祉士の上級資格として創設する方針であると報道機関へリークされている。

今日はこの話題について3月6日のブログと重複する点があることを恐れずに、再度取り上げてみようと思う。どうにも考え方として納得がいかないからである。

介護福祉士の上級資格であるところの「専門介護福祉士」の資格取得過程は、介護福祉士を取得していることを条件に、一定期間の実務経験を経た上で、指定研修を受講した者が認定対象となる。

当然、資格取得を目指すものは、この研修を受ける為に、仕事を休まねばならないし、費用もそれなりにかかる。資格取得のための研修だから、そう安い金額にはならないだろう。

この際、資格試験的な選抜が行われるか否かは今後「専門介護福祉士の在り方に関する研究会」の中で議論されることになるが、問題は介護福祉士が国家資格であるということに対して、この「専門介護福祉士」は国家資格ではなく、介護福祉士会などの全国組織による認定資格に過ぎない、という点にある。

全国組織とはいっても介護福祉士会にしても会員が任意加入の団体に過ぎず、現場で働く介護福祉士の全てが加入しているわけではない。

中にはその活動主旨に賛意が示せないから、あえて会員とならないという人々もいる。であれば、ある日急に、そうした団体が認定したからといって、その会員ではない介護福祉士に対し「私は専門福祉士だからあなたの上級資格として指揮命令をします」といわれても無視されかねない。

良い例が「認定ケアマネ」であろう。日本ケアマネジメント学会が認定している、この資格を介護支援専門員の上級資格と認知しているケアマネはいないだろう。ただ介護支援専門員については、ケアマネジメントリーダーとか、制度改正で位置づけられた、地域包括支援センターの配置職員としての主任ケアマネなど、様々な位置づけがあり、そう単純な比較はできないかもしれない。

厚労省は「専門介護福祉士」の資格創設の意味を『介護福祉士は「仕事がきつい割に給料が安い」とされ、人手不足に陥っており、キャリアアップの道を示すことで介護職離れを食い止めたい考え』としているが、問題の解決が介護福祉士の上級資格創設で図られるというのは幻想だろう。

社会福祉士という国家資格も、現実の職場では給与等の待遇改善に直接は結びついていない現実がそれを証明している。

ましてや介護給付費という一定のパイの中で配分される給与が、新資格が出来たからといって、その対象職員に厚く配分される保障はどこにもない。待遇改善が出来る条件は、

1.この上級資格に対して加算報酬が出来る
2.一定の配置義務が課せられる
3.一部業務独占となる、

どれかに該当しなければならない。しかも問題なのは、介護報酬のアップがない状況で2ないし3の条件が付けられれば、専門介護福祉士の給与はアップするかもしれないが、その分を他の職員、つまり現行の介護福祉士などから補う部分を引っ張ってこなければ運営できない施設や事業所が出てくるということである。逆に介護福祉士の待遇低下に繋がりかねない。

よって、この上級資格、しかも単なる認定資格ができても、現場の多くの介護職の待遇改善には繋がらないばかりか、逆に現行の介護福祉士という資格の価値が低く見られる傾向となる可能性もあり、待遇も悪化する可能性もある。ますます介護の現場から人が離れる状況が生まれるだろう。准介護福祉士という資格?とあいまって現場の職員待遇が複雑化、劣悪化、格差助長されるだけの結果になるのではないか。

介護給付費が上がらなければ、お金をかけて資格を取ったその対象者自信にもメリットがないものになるかもしれない。単に国が研修費用を丸儲け、という状況が生まれかねない。

有能な人材が長くこの業界で活躍できるのには、それに見合った待遇ができる介護報酬の水準が守られることが唯一の方法で、施設サービスの加算評価がきちんとアウトカムの評価として見られるようになる仕組みが大切である。それがない状況で、新らしい資格をいくら作ったところで意味がない。

まったく馬鹿げた考え方ではないかと思う。

介護・福祉情報掲示板(表板)

准介護福祉士創設の背景とその意味。

昨日から表の掲示板でも話題になっているが、今国会提出予定の「社会福祉士及び介護福祉士法等の一部を改正する法律案」の中に『准介護福祉士』という新たな位置づけ(あえて資格とは言わない)が盛り込まれていることが明らかになった。

法律案によると『准介護福祉士』とは、養成施設卒業者で介護福祉士の国家試験に合格していない人(不合格者のほか未受験者も含まれる:厚生労働大臣指定の登録機関への登録が義務)を対象としている。

この准介護福祉士創設の背景と意味には様々な複合的要素があることを忘れてはならない。

つまり今回『准介護福祉士』が含まれた法律案は、あくまでも介護福祉士の資格取得方法の見直しに関する法律案の中のものである。

新たな法律案では、今まで養成校を卒業したものには国家試験免除で資格が与えられていた『試験なし』ルートがあったが、これををなくして、すべての介護福祉士は国家試験に合格したものでなければ資格が与えられないようにするというもので、教育課程の義務研修時間の拡充なども含んで資格としての重みを増すような改正であり、結果として質の向上を目指したものだ。

当然、その向こうには、将来的に、この資格が名称独占という現在の位置づけから、業務独占へという流れを作っていくという一連の過程の中にあると考えてよい(立場によって、その考えにはかなりの温度差があるのが事実であるが)。

なぜなら誰でも業務ができる、報酬上の評価がない資格であれば、正も准も必要ないからだ。

だからこの問題の背景には、別に議論されている、介護の基礎資格を「介護福祉士」に統一し、ホームヘルパー1級、2級という資格は将来的に廃止する、という議論とも大きく関連しているという意味である。

さらに現在施設の介護については「資格」がなくても誰でもできるというのが現状であるが、これについても将来的には業務独占とはならないにしても、有資格者について報酬上の一定の評価をしようという考え方があり、これと関連している。

つまり厳しい財政事情のなか、社会保障費削減目標の実現を図らねばならないという状況下で、時期報酬改正の際にも、介護報酬の本体報酬を一律引き上げることはできないが、必要なマンパワーの確保の観点からは人材を雇用できる報酬水準が必要で、これを資格加算で対応しようとする考えがある、ということであり、これについては「次期介護報酬改訂に関する社会援護局長の考え方から見えるもの」で述べているところである。(参照していただきたい。)

この実現も現実には厚生労働省内でも、老健局と社会援護局で考え方に相違があるし、財務省はそれとはまったく違う考えを持っているから、次期介護報酬については、不透明というより真っ暗闇の状況であるが、少なくとも有資格者の一定割合以上の配置に対する加算という可能性はあるわけで、そうなった場合は、准の位置づけも何らかの評価基準にならないとも限らないという意味もあるんだとは思う。

しかしこの『准介護福祉士』創設の一番の意味は、経済連携協定(EPA)に基づくフィリピン人介護士受け入れ対策上の問題に他ならない。

つまり、EPAで受け入れた外国人労働者は滞在期間中(最大4年間)に介護福祉士資格を取得することが条件付けられている。資格を取れない場合、帰国せねばならない。この問題について昨年8月に書いた「介護福祉士の資格で情報錯そう? 」の中で僕は

『我々に身近なある組織の圧力によるもの、外国人労働者の受入れ問題と関連して、これを推進する観点から、国家試験を経ないで資格付与される道が残されるように、動いている団体があり』

と書いているが、今回このことが『准介護福祉士』創設という別な形で実現されたという意味である。

介護福祉士の資格取得ルート自体は国家試験免除のルートを残す、ということはできなかったが、外国人労働者が4年間で国家試験に不合格となっても、国家試験受験資格さえ持っておれば准介護福祉士として継続して就労できる道を作った、という意味に他ならない。

ここでは我々にも関連する団体の主張が通ったという結果に見えるが、百戦錬磨の厚生労働省の官僚が、単に我々の関連組織の圧力に屈したと思うのはあまりに浅はかな考えで、その裏に、どのような意味が含まれているのか、そのことはもう少し後からでないと結果や意味として表に出ては来ない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護福祉士の上級資格を創設〜方向性が間違っていないか。

今日付けの読売新聞の報道によると、「厚生労働省は5日、重度の認知症患者などを世話し、介護事業で指導的役割を担える介護福祉士の上級資格として「専門介護福祉士」(仮称)制度を創設する方針を固めた」との事である。

その理由として全労働者平均給与より100万以上年収が低い現状から、介護福祉士の離職率の高くなっており、「業務内容に比べて賃金水準が低い」との指摘もあり、待遇改善により人手不足を解消しようとするものである。

しかしこれが本当に待遇改善、人手不足解消に結びつくのかと首をかしげている人のほう多いだろう。しかも介護福祉士の資格見直しの最中の状況資格の創設である。どのような意味があるのだろうか。

介護福祉士の地位向上、待遇改善が進まないもっとも大きな要因は、この資格が名称独占の資格で、業務独占になっていない為であろう。しかし業務独占とするのは、その資格取得過程が、看護師資格と比して、あまりに統一性や専門性に欠けている構造になっており、一方では専門学校を卒業するだけで資格が付与され国家試験が免除されている。一方、実務経験での受験の場合、国家試験合格が必要だが、専門的な研修が行なわれているとはいい難い。

看護師の養成、資格付与過程と比して上記の点で著しい差があるのが現状で、資格付与体系の見直しが行なわれ、国家資格や基礎研修を全対象者に義務付ける等の検討がされている最中での、今回の上級資格論である。

むしろ上級資格を作る前に、基礎資格の底上げ、社会的信用を担保する資格取得システムを構築した上での、介護業務への資格評価報酬の導入などを図っていくべきではないのだろうか。

実は昨年8月に僕は「介護福祉士の資格で情報錯そう? 」というブログを書いており、この中で

≪国家試験を全員に義務付けるという部分については既に、「ぽしゃった」という情報がある。しかもその原因は、ある組織の圧力によるもの、外国人労働者の受入れ問題と関連して、これを推進する観点から、国家試験を経ないで資格付与される道が残されるように動いている団体があり〜。≫

と書いたことがあるが、今回の上級資格者の問題も、外国人労働者の受け入れ問題と絡めて、外国人労働者は将来的に継続してわが国で介護労働に就く条件の一部に、介護福祉士資格の一定年限での取得が条件になっている為、この資格の取得難易度自体を高めるのはやめて、このハードルは低くしたままで、という意図があり、それに替わって別の上級資格を作ろうとするものではないかと考えてしまう。

同時に将来的に介護の基礎資格は介護福祉士に一本化してヘルパー資格をなくそうという議論がされていることの影響も無視できない。このためにもハードルを上げない、ということではないか。しかしこれは現場のニーズにも、国民ニーズにも合致した考え方ではないと思う。

上級資格ができた場合、介護福祉士資格というものは、どのような価値があるのだろうか。非常に危惧されるところである。

しかも厚生労働省が先に「将来的にすべての介護職員に義務付ける」としている500時間の「介護職員基礎研修」については、先行して動き出している地域では、その費用が一人30万から50万かかる研修になっている。こうした基礎研修の上の、さらなる上級資格を取得する為に、現行の介護福祉士はいくら自己負担しなければならないのだろう。

その結果として上級資格を取得して待遇、給与アップが図れるのだろうか。図れるとして、どのくらいの水準になるのか。

介護給付費というもともとのパイが上がらねば、その水準はしれているし、上がった分を、どこで補填するのか、ということで言えば、現行のヘルパーや介護福祉士等の待遇はますます悪化するのではないだろうか。

少なくとも上級資格に対する、報酬加算の方向性が示されなければ、格差の助長にしかならない。

これも改正とはいい難い考え方である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護福祉士資格取得方法の見直し案

介護福祉士資格取得方法の見直し案が、厚生労働省の検討会に報告書の骨子として示された。

本年度に導入される介護職員基礎研修修了者については受験に必要な実務経験を3年から2年に短縮されている。

そのほか養成校での教育時間が拡充さるるべきとしているほか、その内容も「基本科目」「心と体の仕組み」「介護」の3領域に再編するとしているほか、実習施設の範囲もグループホーム等を対象にし拡充するとしている。

実習施設の拡充は大いに賛成だ。大規模施設しか介護福祉士の実習に適しているなんていうことはない。

むしろ実習で小規模施設でのサービスの基本を学んだ若い世代が、その方法論を積極的に規模の大きな施設のサービスに取り入れる提言を行えるように育ってもらいたい。

大規模な施設にとっても、そうした新しい感性を持った職員が増えることはサービスの質を向上させる要因になるのではないだろうか。

さて、この方法見直しで一番大きな改正点は、すべての資格取得希望者は国家試験に合格しなければならなくなったことだ。

これは大きな改革だ。

今までのように、養成校に入学しさえすれば、そこを卒業できれば自動的に国家資格としての介護福祉士資格が与えられるということではなくなった。国家試験というハードルが全過程の対象者に義務付けられたのだ。

これは極めて常識的な判断だろう。実務経験者で資格取得するコースだけ試験が課せられている現在のルールのほうがおかしい。

特に、今後は介護福祉士がすべての介護サービスの基礎資格になっていくのだから、ある程度、ハードルを高くしておかないと、質の確保は図れないと考える。

こうした改革案を見て思うことは、介護福祉士試験だけでなく、介護支援専門員の受験資格も是非、見直してほしい、ということだ。試験のハードルは高くしても良いが、実務経験5年という期間を短縮してもらわないと若い有能な人材が、ケアマネジメントの実務を行うのに、「待機」しなければならない期間が長すぎる。

実質、社会福祉士としてケアマネジメントを含めたソーシャルケースワーカーとして福祉、介護の現場で能力を発揮している人材は多い。5年の実務で得られるものの重要性はわかるが、試験というハードルがあるのだから、せめて社会福祉士という福祉の専門有資格者などは2年なり、1年なりに実務経験を見直してもらいたい。

介護福祉士の歴史と将来

今日は介護福祉士いう資格が生まれた背景や、当時の議論を思い出して、今後のこの資格のあり方を考えてみたい。

歴史というには、あまりに若い資格であるが、介護福祉士は、1987年5月26日に制定された介護福祉士法により、「介護 福祉士の名称を用いて、専門知識及び技術を持って、身体上もしくは精神上の障害が あることにより、日常生活を営むのに支障がある者につき入浴・排泄・食事、その他 の介護を行い、並びにその者及びその介護者に対して介護の指導を行うことを業とする者を言う」と定義している。

これをみて解るように、この資格は業務独占ではなく、あくまで名称独占の資格であり、介護福祉士の資格がないから介護施設の介護職員や在宅介護に携われないということではない。

しかも、この資格を得るために、必ず国家試験を受けなければならないというものではなく、実務経験者は国家試験で合格する必要はあるが、養成校で必要な科目を履修して卒業した者は国家試験免除で資格が付与される。

どうしてこのような中途半端(?)な資格になってしまったかご存知だろうか。

そもそもわずか19年前には介護の資格は公的には全くなく、介護職員の地位向上とスキルアップの両面を睨んで、老施協は独自に「福祉寮母」という養成資格を作っていた。そして同時に介護の国家資格を作ることを大きな目標としていた。

その際、もっとも抵抗勢力となっていたのは、家政婦協会である。

介護の国家資格化により、医療機関等に派遣されている(当時の医療機関は現在のように、医療機関の責任での介護が義務付けされておらず、基準看護をとっていない医療機関の大部分は、介護者として患者自己負担で外部の派遣職員を受け入れていた)家政婦の職が奪われるという理由で、旧労働省をバックに、介護の資格化に真っ向対決姿勢を打ち出していた。

しかも、国会議員の中にもこの資格を疑問視する勢力は、かなり大きく、有名な話では、あのハマコー氏などは、自民党の総務会で「誰にでもできる仕事に、なぜ資格が必要なんだ」と発言し大きな話題にもなっていた。

こうした抵抗勢力があるにも関わらず、介護の専門性が必要であるという一方の認識も徐々に広がる中、両者の妥協として、業務独占ではない、名称独占という形で、資格ルートも複数化して取得の幅を広げるという形で資格制度がスタートした、というのが実態だろう。最初から名称独占のみを目指した資格ではなかったはずだ。

しかし今日、特に介護保険制度以後、介護サービスが多様化して、国民の負担において、それらのサービスが提供される実態が、国民の目にも直接的に触れる機会が多くなったことで、給付費の適正化という問題ともあいまって、介護サービスの質の保持を、有資格者によるサービス提供で担保し、かつ、その基礎資格をヘルパーではなく介護福祉士としよう、という議論がある。

介護の質を管理する、資格のあり方を議論することは大いに結構であるし、介護福祉士の技術や知識に信頼を置く方向の議論であれば、これは有意義である。

ただ、現行の介護福祉士を、もっと「とりやすい」資格にして、広くこれを与えようとするのでは意味がない。

やはり看護師の養成過程を基準にするなり、要請過程の充実を図るとともに、すべての資格取得ルートに対し、国家試験なり、都道府県の認定試験なりの選考を経た上での資格付与でなければ信頼感は薄くなる。その上で、業務上の「できる行為」の明確化と規制緩和、単なる名称独占でない専門職としての地位確保が必要ではないか。

少なくとも介護福祉士という有資格者を大量生産する視点では、困るのである。

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