masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

こころ

余震・・・この国で介護に携わっている意味を考えた日


2月13日(土)23時08分頃、宮城県と福島県で最大震度6強を観測する地震が発生した。

震源が福島県沖ということで、大きな揺れに遭遇した人の中には、場所が場所だけにあの3.11の悪夢を思い起こした人も多いことだろう。その時と違って津波が起こらなく幸いだったが、その後政府の地震調査委員会が、「ギリギリのところで津波が起きなかった」との見解を発表するニュースを観て、肝を冷やした人も居ただろう。

東日本第震災の記憶が古くなる間もなく、その時に心に傷を負った人が、たびたび襲う大きな地震を受けて感じることは恐怖なのか、深い悲しみなのか・・・。その思いを想像するとせつなさがこみあげてくる。

しかしその震度6という大きな地震も、東日本大震災の余震であるという。そして今後も10年くらいは大きな余震の恐れがあるという。被災地で肉親や知人失った人にとって、それは常につらい記憶を呼び戻す過酷な試練と言ってよいものだろう。どうかその中で、心を折らずに強く豊かに生き続けてほしい・・・。

今年は2021年だから、3月11日になると東日本大震災からちょうど10年になる。しかし期間には区切りがつけられても、心には区切りがつけられないだろう。10年という月日は、大切な誰かを失った人にとって、哀しみを癒す期間としてはまだまだ足りない期間だろうと思う・・・いやいくら時間が経ったとしても、本当の意味で心の傷が癒えることはないのかもしれない。

だからこそ、あの震災でたくさんの命が失われた国で生きる意味を考え続けなければならない。たくさんの命が一瞬のうちに失われたこの国で、介護という職業に携わっている意味を考え続けなければならない。

あの震災で亡くなった人の中には、介護を職業にしていた人も多い。地震とそれに伴う津波の発生時間は、午後の仕事の真っ盛りの時間であったから、介護の仕事の最中に命を失われていった介護関係者や介護利用者の方もたくさん居られる。

介護という職業を仕事としてではなく、「生き方」として選んだ人が、その志し半ばで命を失ってしまった人も多いのではないだろうか。さぞや無念であったろう。それらの人々の思いをつなぐために、残された僕たちが替わって実現すべき何かがあるのではないだろうか。

生かされている者にしかできないことがある。生かされている者だからこそできることがある。生かされている者が行動しなければならない。生かされている意味を考え続ける必要もある。

震災からもうすぐ10年ということは、あの震災に見舞われながら無事だった人もそこで10歳年を取ったという意味になる。その中には大切な家族を失ってしまった方々も多いことだろう。

60歳で家も家族も失った人は、70歳の今、頼りにできるもの・頼りにできる人は、介護サービスや介護従事者しかいないかもしれない。その人たちが少しでも心豊かに過ごすことができるように、介護という職業・介護というサービスが存在していく必要があると思う。

身寄りがいなくなった中で年を重ね、心身の衰えを自覚した人が、介護をしてくれる人に遠慮しつつ、何かに耐えながら介護を受けて、「こんなことならあの時家族と一緒に死ねばよかった。」などと嘆かれる介護であってはならないのだ。だからこそ誰の心にも優しく寄り添えるサービスマナー精神をすべての介護従事者が身につける必要があるのだ。

時と場合と人によって変える必要のない、正しいサービスマナーに即した介護支援に努める必要があるのだ。それは人としての道でもある。誰かの尊厳を気づつけてしまった後に、「そんなつもりはなかった」と後悔する介護であってはならないのだ。

介護という職業を、哀しい悔悟に替えることがないように、私たちはプロとしてのスキルを日々向上させ、そこに愛情というエッセンスを加えた支援に日々努める必要があると思う。

その為の方法論を、これから先も一緒に考えていきましょう。誰かのあかい花になるために・・・。
無題
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奪われる人々に向ける視線が、その人の人格につながる


自分のことは自分で決められるのは、至極当たり前でのことである。

しかし社会の規範に外れたことまで、なんでも自分で決めた通りにできるということにはならない。

個人の権利とは、他者の権利を尊重する義務を伴うものである。人の自由はそれ自体が目的ではなく、幸福な暮らしを手に入れる手段なのである。

自己決定という行為も、道徳的な悪を選んで行為することを許しているわけではないし、コンプライアンスとしての制限も生じる。何より、被援助者自身の能力を超えてまで自己決定を強いるべきではないとされており、あらゆる手立てを講じても自己決定ができない人については、援助者が彼らに代わってニーズを表明し方法を選択するという、意思決定を代弁することによって利用者の基本的人権を守ろうとすることが優先されるのである。

この世の中は、自立できない人も共生できるからこそ住みよくなるのだ。

しかし共生社会とは、人を思いやることなしに成立しないのも事実だ。人の足を引っ張ろうとしたり、誰かを絶望の淵に追い込もうとしたら、共に生きることなんてできっこないのである。

奪いあう社会に、「共生」は存在しなくなる。

人の哀しみに目をふさぐことも共生を阻害する大きな要因だ。誰かの憤りの声を無視することも共に生きることを阻害する行為につながる。

今、巷では1年を超えるコロナ禍で、様々な制限が生じている。人の命を護るという意味で、それは必要不可欠な制限であると思うし、そのこと自体を否定することは出来ない。

社会全体が様々な我慢を強いられながらも、それに耐えてコロナ禍を打破しようとすることは、人間の英知が問われているという意味であり、その中で自由を一時的に制限された状態を耐え忍ぶというのは、この時代に生きる人間の義務であるだけではなく、それはこの時代に生きる全ての人々の英知が問われているということだ。

こうした状況の中で、介護施設やその他の居住系施設では、感染予防という大義名分を持って利用者の自由の一部を制限しているわけである。それは仕方ないし、やむを得ないことであるかもしれない・・・。

だからと言って、人の権利や自由を自分の意のままに奪う権利を、施設経営者や管理者・管理職が持っているなどと勘違いしないでほしい。やむにやまれぬ状況の中で、心苦しいお願いをきいてもらっているのだと考えてほしい。

神のごとく何でも決めることができると勘違いしたり、人の自由を制限して権利さえ奪い取ることに何の心苦しさを感じない人は、それだけで周囲に闇をつくっているのだ。見えない涙を見逃しているだけではなく、見える涙さえも目をふさいでみない状態になっているということだ。

制限を強いる必要がある状況の中で、制限を受けている人に、どれだけ優しいまなざしを注ぐことができるのかが問題である。そこでは人類の英知が問われるとともに、己の人格が問われるということを心してほしい。

愛情に欠けた制限は、人として許されないと思ってほしい。人から何かを奪わねばならないときこそ、大きな愛で包み込む気持ちを忘れないでほしい。そのことは、決して難しいことではなく、特別な知識や技術がいることでもなく、気持ちさえ持てば誰にでもできることだということを忘れないでほしい。

今週初めに作成した動画に手を加え、完成版をあらためて今日アップした。

この動画は、介護を通じて誰かのあかい花になろうとする人や、小さな行為を大きな愛を持って行おうとする人々と、全国の様々な場所でつながりを持てたことに感謝しながら、志を同じくする人に届けたいメッセージを込めた動画である。

週末のひと時、5分40秒だけこの動画を観ながら、自分が関わっている介護サービス利用者の方々の顔を思い浮かべていただきたい。僕と一緒に写真撮影したことがある方は、この動画に登場しているかもしれないので、それも確かめてみてください。

それでは皆様、良い週末をお過ごしください。来週は四国・愛媛県と高知県にお邪魔します。そこでお愛する皆さま、どうぞよろしくお願いします。
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見て見ぬふりをしない介護でありたい


木村拓哉主演の、「教場」(フジテレビ)という正月特番ドラマの中で、主人公の風間教官が生徒に対して、「警察官として一番大切な資質は、見て見ぬふりをしないこと」だと教えていたというエピソードが紹介されていた。

ドラマはとても面白かったが、この言葉にぐっとくるものがあった。

「見て見ぬふりをする」とは、他人の不正や不誠実な行いを、とがめないで見逃す様を表した言葉であり、よく使われる言葉である。だが日常場面でその言葉を使うことがあっても、そのことに特に感銘を受けることはない。

しかし人の道として、プロフェッショナルのスキルとして、この言葉を当てはめると、とても深いものが見えてくるように思えた。

僕たちが長い人生を生きる中で、見て見ぬふりをすることは決して少なくないはずだ。誰しもが思い当たることは一つや二つで済まないだろう。そんなことはなかったことにしてほしい時、無意識にその行為をなかったものと思い込むために、みなかったことにする心理が働くこともある。

そうしたことが対人援助の場で頻繁にあるとしたら、そこでは私たちが見たくはない何かが行われているという意味だ。私たちにとって現実になってほしくない様々な状況がそこに存在しているということだ。

それはもしかしたら私たちが目にしたくないような、利用者の哀しい姿かもしれない。

例えば、おむつが濡れていることが明らかで、おむつを使用している本人もその気持ち悪さを訴えているにもかかわらず、その声を無視して時間にならないとおむつを交換しないという状況・・・。

要介護高齢者の心の支えになろうとしているのに、同僚や先輩がその方々に荒々しく接していて、それをとがめられない自分の姿・・・。

第3者がいないからと言って、利用者を小ばかにしたりなじったりする言動や陰口が日常化している職場環境・・・。

食事介助を行いながら、利用者を無視するかのように職員同士で、仕事とは全く関係のない会話を交わしている姿・・・。

流れ作業のような介護業務に終始する中で、感情を無視され、機械的に扱われる利用者が、世話になっているのだからしかなないとあきらめている哀しい姿があること・・・。

私たちが介護の業務を通じて、いつの間にかそのような状況を、「見て見ぬふりをする」ようになってはいないだろうか。見えていたものに目をつぶり、見ようとしないで、ないものと思い込んでいないだろうか。

介護を受けるということは、介護を受ける人が人に知られたくない、人に見られたくない恥ずかしい部分をさらけ出して、自らの身体を介護をしてくれる人に委ねなければならない行為だ。そこでは介護を行うものとして、目に見えない利用者の羞恥心にも心を寄せる必要があるはずだ。そうした心配りが欠けたときに、介護サービス利用者は、まるで物のように扱われ、心を閉ざさねば介護が受けられなくなるのだ。

だからこそ私たちは目に見えないものも感じ取るスキルが必要とされるのだ。ましてや目に見えているものから目を背けて、見て見ぬふりをすることは決して許されないのである。

後輩から介護者のスキルで一番大切なものは何かと聞かれたときは、木村拓哉演じる風間教官の言葉を、そのまま介護の仕事のスキルに当てはめて次の言葉を後輩に送ったらどうだろう。

「介護事業に携わる者がすべからく求められる一番大切な資質は、見て見ぬふりをしないことである。」・・・その言葉を送りたい。

そして自分が勤める職場で、「見て見ぬふりをする」という行為をできる限りなくしていこうではないか。そんな行為が頻発する介護の場は、哀しみの場でしかないのだから。

「見て見ぬふりをする」という行為がなくならない介護の場は、長くいてはいけない場である。さすれば転職するかどうかの基準もそこに置くことが出来るかもしれない・・・。
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新成人の皆様に伝えたいこと


今日は成人の日の祝日で、暦の上では土曜からの3連休だ。

しかし成人の日と言ってもコロナ禍の影響で、この時期の成人式の開催を見送って今年の夏休み時期にずらしたり、時期未定だったりする地域があるだけではなく、今年の成人式を中止すると決めている地域も多い。

それは新成人の方々にとって残念なことだろうが、長い人生を考えたとき将来笑いながら、「僕たちは大変な時期に成人を迎えて、式典さえ開催されなかった。」という懐かしき思い出に変わると信じて、大人の一歩を悲観せず悔やまず歩んでほしい。

そんな大変な時期ではあるが、僕の住む登別やお隣の室蘭市では、昨日、感染予防対策を凝らしたうえで成人式の式典を行ったそうである。新成人を迎えた方には、心よりお祝いを申し上げたいと思う。

それにしても毎年新成人を迎える人の数が減ってることは、日本の未来・・・いや今現在でも大変な不安要素だ。それは社会全体の活力を低下させることにつながるし、経済力の低下にもつながってくる。

介護業界の問題として考えても、成人を迎える人が年々減っていくことは、超高齢社会において、財政・人材の両面で高齢者を支える生産年齢人口の数が年々減っていることを表しており、否応なしに日本の社会資源としての介護サービスは、先細りの一途を辿らざるを得ないことを意味している。科学技術によってこれを止めることは、今のところ現実味を感じるふうにはなっていない。

そのように有効な処方箋のない途を進んでいくのが、高齢者介護事業の実情ではあるが、その中で希望と勇気に結び付く何かを生んでくれることを新成人には期待したいと思う。

そんな人たちに贈りたい言葉がある。それは、「人に頼るという尊さに気が付いてください」という言葉である。

大人になるということは、人としての階段を一歩上がり、人としてのスキルやパフォーマンスを高めることだと思う。

そこでは責任という言葉がよく使われる。大人の責任と自覚を持って、人に迷惑をかけないようにしなさいと言われたりする。その考え方は決して間違ってはいない。

しかし人は生きていく中で、誰にも迷惑をかけないことはあり得ないのである。すべての責任を自分でとることも極めて難しことである。特に若いうちには失敗を繰り返して、そのフォローを誰かにしてもらわねばならないことがしばしばある。そんな失敗を重ね、誰かに頼るという経験がないまま、順調に年を重ねている人なんていないのである。

だからこそ言いたい。

どうぞ人に頼るときは頼ってくださいと・・・。その代わりに、頼った人に助けられた恩や感謝を忘れない人になってください。人は人を助けることができる存在なのだということを忘れないでください。それが何よりも尊いということを理解してください。

そして声高らかに主張しておきたいことがある。

簡単に他人に対し、「自己責任」を強いるような大人にはなるな!

自己責任だけを他者に強いる社会は、自分が他人に対して与えることができる「優しさ」を奪う社会だ。そんな殺伐とした社会にしないことが、大人として求められることだ。

人としてこの世でできることは、人それぞれ違うのです。誰かができないことを誰かが代わりに行い合ってこそ、社会は人によって支えられるのです。

どうぞそうした支えあう・頼りあう優しさを理解する大人になってください。どうぞあなた方の手で、人に優しい社会を創っていってください。

貴方たちによって、私たちができなかった未来を創ることができるのだということを知り、どうぞそのことを大切に思う人になってください。

愛や優しさの形は人の数だけあるのです。ですから立派な大人になんてならなくてよいから、どうぞ感じの良い人になってください・・・。
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一陽来復を胸にして・・・。


正月3が日が過ぎて、今日から新年初出勤という人も多いのではないだろうか。

今年は2日と3日が土日と重なり、休みが少なくて損した気分の人もいるのではないかと思うが、介護事業は世間の暦とは関係なく、1年中シフト勤務している従業員によって支えられているのだから、そのことを考え合わせると、正月3が日を休むことができたことに感謝しつつ、今日から日常に戻ろうと考えたほうが良いのかもしれない。

年明け早々に政府が新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言を再発令する方向で検討するなど、まだ大変な状況が続いているが、明けない夜はなく、冬のあとには必ず春が来るのだから、みんなでもう少しだけひと踏ん張りして、この難局を乗り越えたいものだ。

新年に関連した四文字熟語に、「一陽来復:いちようらいふく」という言葉がある。「一陽」は「春の初めの気」を意味し、「来復」は「またやってくること」である。

つまりこの言葉は、「悪いことが続いたあとに、ようやく運がよいほうへ向かうこと」を表している。私たちも一陽来復を信じて、その言葉を胸にしながら、日々の業務に全力を尽くしていくことが大事だと思う。

嘆いても、愚痴を言っても何も変わらない。古来、日本人は言葉には言霊(ことだま)があると信じてきた。それは言葉に宿っていると信じられていた不思議な力を意味している。人の発した言葉どおりの結果を現す力があるとされているのだ。だからこそこんな時期だからネガティブな言葉を発しないように注意して、人々が元気になる言葉、幸せになる言葉で、周囲を明るくしようと努めたいと思う。

そういえば昨日終わった箱根駅伝では、最終10区で史上まれに見る劇的な逆転劇があった。あの逆転劇も一つの要素ではなく、様々な要素が重なって生まれたものだが、一つだけ言えることは、逆転したランナーが、逆転を信じて自らが発揮できる最高のパフォーマンスを行なおうと頑張った結果だということだ。自らが区間賞の走りができたことが勝利につながったもので、相手のランナーの不調だけが結果につながったわけではないということだ。

周囲がどうあろうと、自分が自分を磨いて、最高のパフォーマンスを引き出せるスキルを手に入れる努力が大事なのである。自分を変えられることができるからこそ、周囲が変わる可能性も生まれるのだ。そのことが未来を変えると信じて、今年も対人援助のプロフェッショナルとしてのスキルを高めていきたいものだ。

さて今年はいよいよ介護報酬改定の年である。年末に、「CHASEのフィードバックとPDCAサイクル推進のイメージ」という記事を書いて、2021年度の介護報酬改定では、施設系サービス、通所系サービス、居住系サービス、多機能系サービスについて、全領域でVISIT・CHASEによるPDCAサイクルの推進が求められることを解説しているが、このうち施設単位・事業所単位で算定できる新加算の名称が、「科学的介護推進体制加算」とされることが算定構造のイメージ案で示された。

この名称も1年もしないうちに介護の場に浸透し、普通に使われるようになるのだろう。

新報酬単価は今月中にも示されることになろうと思う。今年もそれらの情報について、深く分析した記事をアップしていく予定なので、乞うご期待と言いたいところだ。

それでは皆さん、今年も誰かのあかい花になるために、元気にポジティブにつながっていきましょう。
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大人を小馬鹿にするかのような格好をさせて何が楽しいのだろう?


今年も残すところあと6日となった。そのような中で介護サービス事業者でも、年末・年始の準備であわただしい業務をこなしている人が多いだろう。

日本人にとって暦の行事や風習は大切なものだから、利用者の皆様に季節や時期を感じてもらうサービスを提供することは大事だ。

生活の場である居住系施設などでは、毎年暦に基づいていろいろな年中行事が行われ、年末・年始には、そうした行事が集中する時期だが、今年はコロナ禍という特別な状況があって、密を避けなければならないということで、大勢の人が集まっての行事は避けられているところが多いのかもしれない。

それでもフェイスブックやインスタグラムを観ていると、そうしたSNSに介護施設での行事写真などが投稿されていたりする。感染予防について様々な工夫をしながら、利用者の皆さんに楽しんでいただけるように、介護の場で働く皆さんが頑張ってるのだと思ったりする。

しかし・・・である。

そこで行われている中身が問題である。高齢者施設は大人が住まう場所である。にもかかわらずそこで行うお祝いのイベントが、チーチーパッパの世界になってどうするというのだ。

高齢者施設に子供が訪ねてきて、唄や踊りを披露するのは良いだろう。感染予防策を十分とったうえで、そうした行事をしたり、モニターでそうした行事を映して、それを利用者が観て楽しんでいることに何も文句をつけるつもりはない。

しかしクリスマスの行事を鑑賞している高齢者のその姿が問題だ。ステージの前に座っている人が、サンタの赤い帽子をかぶっているのはまだましな方で、中にはクリスマスツリーの飾り物を頭に載せている人がいたり、トナカイの角のつもりなのか、頭に角をはやしている姿で、高齢者の方々がステージの前に座って鑑賞させられていたりする姿がある。

どののどの家庭で、高齢者が仮装してクリスマスを愉しんでいるというのだ?しかも頭にツリーの飾りや角を載せた大人がどこにいるというのだ?今どきそんな恰好は、宴会の下品なかくし芸でも流行らない姿であり、高齢者介護の場でそうした場面を創り出すことについては、高齢者の方々を幼児化する、人を馬鹿にした目線かしか感じられない。

そこで楽しんでいるのは利用者ではなく、その利用者を見て、「可愛い〜!」と茶化す自分自身ではないのかと疑ったことはないのだろうか・・・。

様々な行事を愉しむ高齢者の中には、認知症の方もいて、幼児化した言動をとる人も存在するだろう。だからと言って介護従事者が、それらの人を幼児扱いしてよいということにはならない。幼児化してる高齢者についても、その尊厳を護って、丁寧な言葉遣いと態度で接しておれば、認知症の方の行動・心理症状は落ち着いていくのである。

そもそもそこに居る様々な高齢者の方々には、その背後にその方々を愛しく思う家族や親せきや友人たちがいることを忘れてはならない。その方たちが介護施設で、自分の家族がきちんと護られていると感じることができる職員の姿とは、従業員が自分の家族に馴れ馴れしく接して、子供のように可愛がられることではない。

家族が安心できる従業員の姿とは、自分の大事な父や母や、祖父や祖母を大切に思ってくれていると感じられる姿である。一人の人間として、その尊厳や権利をきちんと護ってくれているなと感じることが、家族にとって最大の安心感につながるのである。

高齢者を子供扱いして、若い職員が自分の親を茶化すような姿勢しか感じられないときに、家族は陰で絶望感を味わい、どこにも吐き出すことができないやるせなさに身を震わすことになるのである。それが証拠にSNSでは、親を介護施設に入所させている子が、「母は震えて顔をゆがめていました。看護師さんは何も感じないのでしょうか?激怒している内心を隠し、何も言えずに帰りました。」・「おいで、おいで はないでしょう。犬じゃないんだから。」・「ちゃん付けはやめてほしい。きちんとさん付けで呼んでほしい。」というように、悲痛な声が多数アップされているのだ。

しかし人質をとられていると同様の家族にとって、この悲痛な声を介護施設の管理職や従業員に直接投げかけるのは難しいという側面もあり、苦情や悲痛な声が表面化しないことも多いのである。

だからこそ我々は、高齢者はどのような精神状態・身体状況であっても、長い人生を歩んできた歴史を持つ一人の人間として、その尊厳や家族の思いを護らねばならない。

そういう意識が無いところで感覚麻痺による、「悪気のない虐待」がはびこってしまうのだ。
見えない涙
「魂」という文字は、人の心根をあらわす文字であり、「それなしではそのものがありえないくらい大事なもの」という意味がある言葉であるが、それは云うという文字があって初めて成り立つ文字でもある。ここから云うという文字がなくなれば、魂は鬼に変わってしまうのだ。

だからこそ何かの行事の時に、「それって大人にさせてよい行為ですか」という声を掛け合ってほしい。おかしなことはおかしいと云いあう勇気を失わないでほしい。そうしないと鬼の心で利用者の方々を扱う結果になってしまうかもしれないのである。

そういう場所に居続けることは、自らの感覚を麻痺させ、鬼の心を持った醜い姿に自分を変えてしまうことに他ならない。自分が今いる場所が、そういう場所であったとしたら、そこでキャリアを重ねても、介護のプロとしての成長はないし、人間として大事なものを失いかねないと思う。云いあって、正論が通じない場所からは、一刻も早く離れて、咲く場所を変えることも必要になる。(参照:置かれた場所で咲きなさい、というけれど・・・。

どうぞ大事なものは何かという視点を失わないようにしてください。私たちは、高齢者の方々を幼児のように扱って笑いを誘うために存在しているのではなく、人として大事なものを失わないように、傍らに居させてもらっているのだということを、どうぞ忘れないでいてください。
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まずは「感じの良い介護支援者」を目指そう


今更言うまでもないことだが、介護の仕事は、利用者の暮らしに深く介入し、自分以外の他者の最もプライベートな領域に踏み込む仕事である。

そんなことは解り切っているという人が多いだろうが、このことは常に介護支援者が自分の胸に置いておかねばならないことだ。

なぜなら、介護の仕事が利用者が羞恥心を持つような行為にまで及ぶことの配慮を忘れたときに、介護支援は人の心を傷つけることに気が付かない、デリカシーに欠ける業務に変貌するからだ。

介護が必要な高齢者にとって、介護支援者の対応の仕方そのものが、自分の暮らしの質に直結するものであり、介護支援者の言動一つで、心が踊ったり沈んだりすることも多い。

だからこそ介護を職業としているすべての人は、常に利用者に対してベストのパフォーマンスを心掛けるべきである・・・。

しかし人間である以上、間違いは犯してしまうし、感情も揺れ動くのは当然のことで、常に一定のパフォーマンスに終始することは極めて困難であると言わざるを得ない。

ましてや経験の浅い人であれば、援助技術の基本を忘れて、間違った方法で失敗をしてしまうことがあるかもしれない。

そんなことはあってはならないと言うが、技術というものは実地の中で経験を重ねて、時には失敗を教訓として、初めて身につくものが多いのだ。感情のある人間が、同じく感情のある人に対して行う仕事の業(わざ)とは、教科書に書くことができない、文字や言葉に置き換えられない様々な領域に及ばざるをものなのである。経験でしか得られないものが必要とされるのが介護という仕事の宿命でもある。

そんなふうにちょっとしたコツが必要になるデリケートな仕事が介護である。だからこの仕事は決して、AIを搭載したロボットでも替わることができないのである。

そのような介護の仕事だからこそ、利用者と初めて向かい合った当初からベストのパフォーマンスを展開するということは難しい。

だからと言ってその状態を当たり前であるから利用者に対して、「我慢しろ」という態度であってはならない。それはプロとして恥ずかしい態度でしかない。

そうであれば私たちにはいったい何が求められるのだろう・・・。

私たちが介護という仕事の中で、利用者に対して最低限担保すべきこととは、ベストのパフォーマンスを展開できない場面でも、決して嫌な思いを利用者にさせないようにする態度を身に着けることだと思う。

申し訳ございません」は優しい言葉であり、「ありがとうございます」は温かい言葉だ。そうした優しくて、温かい言葉を介護の仕事をする中で、普通に使いこなせるようにしたいものだ。

そうした優しさと温かさをもって介護の仕事に励むならば、あなたはきっと素晴らしく立派な介護支援者になることができるだろう。しかし最初から立派な介護支援者にならなくても良いのである。

利用者の方々に、嫌な思いを味合わせない対応。利用者の方々が不快にならないための対応。そういうことを繰り返す先に、仕事を通じてあなた自身が人間的に成長し、いつか人から見習われるような介護支援者になるのである。

だから私たちが最初に目指すのは、「感じの良い介護支援者」である。

サービスマナーを身に着けることは、感じの良い介護支援者になるための絶対条件であり、「介護サービスの割れ窓理論」を理解することは、誰からも求められる介護支援者に成長するための必要条件なのである。

是非そうした態度と理論を身に着けて、この国を支える介護支援者になっていただきたい。

家族と同じように言葉を崩して会話しなければ、親和性を伝えられないとか、タメ口が家庭的な雰囲気につながると勘違いしている輩は、いつまでも「感じの悪い奴」のままである。

その醜い姿に一日も早く気づいてほしいものだ。
感じの良い支援者
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仕方は本当にないのか〜人生の最終盤に関わる重さ


コロナ禍で、「仕方ない」・「やむを得ない」という言葉が飛び交う非日常が続いている。

しかしそのような言葉で日常を奪う毎日が、このように長期間続いてよいのだろうか・・・良いも悪いもなく、それも、「仕方ない」・「やむを得ない」という言葉で片づけられてしまっている。

そんな中、介護保険最新情報Vol.873は、介護施設やその他の居住系施設(ショートステイ含む)に向け、感染予防策を講じている状況で、過度な訪問診療の制限を行わないように通知している。訪問診療に携わる医師が、感染予防に配慮がないわけがなく、それさえ拒むのはどうかしていると思うが、こうした通知が出る背景は、そうしたサービスの拒否が目立っているからである。無知の恐怖が広がっているのではないのか・・・。

面会制限もそろそろ見直しの時期である。クラスター感染が怖いのはわかるが、これだけ長期間面会制限をし続け、リモート面会させているから問題ないとするのは感覚麻痺だ。

例えば北海道は新規感染者が毎日10人前後出ている状況だが、地域別にみると2カ月も3カ月も新規感染者が出ていない市町村は多い。

僕が住む登別市は、室蘭市と生活圏域を同じくするが、両市で新規感染者が出たのは2月以上前である。今現在、この地域のコロナ感染者はゼロである。そうであればこの地域の介護施設等が、一律に面会制限続けるだけで、特例も認めないのは人権無視にも近い対応という批判を受けて当然だ。

感染者が数カ月出ていない地域の人で、2週間以上他地域にも出かけず、他地域の人と接触がないのなら、その人が感染者であるという確率は著しく低い。

そういう人が特養で、特養の職員と同様に感染予防対策を講じたうえで、短時間個別面会するのに何の支障があるだろう・・・。

何度も指摘しているが、介護施設も医療機関も、職員は外から通ってきているわけである。そして外から通ってきている職員は、外では自由に外出し、不特定多数の人と接触し、中には頻繁に外食したり、呑み会に参加している人もいる。

そういう人が介護施設等の利用者と、介護場面で濃厚接触し続けているのに、大切な家族と一切逢わせようとしない・逢わせる努力をしないというのは人権蹂躙でしかない。

条件を付けた面会は許されてしかるべきだ。対策を講じて面会制限を緩めようと考え付かない人は、介護の職業に向かない。

例えば市町村レベルで考えて、2週間以上感染地域に行っておらず、感染地域の人と逢っていない人については、予約制にして面会を再開しても良いのではないか。ぞの際の条件としては、一度の面会を二人まで15分以内に限り、面会前には必ず検温と手洗い・消毒・うがいを義務付けたうえで、マスクを着用し、面会場所は原則、施設内の換気の良い面会室で行い、その際も2メートル以上離れて、アクリル板を間において行うとすれば感染予防策として十分と言ってよいと思う。

移動ができない利用者との面会は、居室での面会を許可し、出入りの際の手指消毒を徹底し、マスクに加えてフェイスシールドをしていただいたうえで、15分以内の時間制限を設けることで問題なく面会は可能だろう。(参照:介護事業者に通常装備が求められるフェイスシールドとマウスシールド

居室内で手を握ることだって、上記の条件を付ければ問題ないのである。

看取り介護の人には、特にそうした方法での面会を許可すべきだ。そうではないと愛する家族との、別れの前に交わす最期のコミュニケーション機会を奪うことになりかねない。そんな機会を奪う権利は誰にもないはずだ。

コンピューターソフトが定期的にアップデートするように、人の命と暮らしを預かる場所の対応は、一度決めたことを漫然と続けるのではなく、人の暮らしぶりに合わせたアップデートが必要になると考えるべきだ。

現に心ある人たちが働く介護施設では、状況に応じた面会の方法が何パターンも準備され、看取り介護対象者には、直接面会を基本にしてお別れの時を作っているのだ。

漫然と制限だけを続けている施設のトップや管理職の方々は、それが感染予防対策としての施設管理であると考えているのではないか。制限していることが対策を取っていることと勘違いしては困る。前述したように、職員のプライバシー空間の管理などできるわけがないのだから、利用者だけの厳しい制限は、尊厳と安寧を奪うことにしかならない。

そもそも施設管理とは、その時々の状況と個別のケースに見合った環境になっているかということを、常に高い木の上から見つめて、正しいと思える方向に職員を導くことである。一度決めたルールに胡坐をかいて全体を見なくなっていては施設管理もくそもない。

この問題に関連して9/25の夕方、朝日新聞東京本社の読者の投書欄「」の担当記者から突然メールが送られてきた。かねてより僕と面識がある記者だったという訳ではなく、初めてコミュニュケーションを交わす人であったが、僕のブログを読んでメールを送ってきたというのだ。

その内容は、介護施設の面会制限の長期化についてこのままでよいのか、看取り介護の人も制限対象とするのはどうなのかなどについて取材したいとのことであった。メールには北海道まで取材に来ても良い旨が書かれていたが、たまたま僕が今月5日に上京するし、その際に仕事をする場所が朝日新聞の本社ビルに近い八丁堀である。そのため時間が空いている6日に、築地にある同社本社ビルまで行って取材を受けることにした。

こんなふうに突然取材の依頼が来ると、自分も意外と有名人なのではないかと思ってしまうが、勘違いしないで舞い上がることなく、当日はきちんと地に足が着いた話をしてこようと思っている。

来週水曜以降に、朝日新聞の「声」に掲載されると思うので、どうか気に留めておいていただきたい。
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そこに居るのは誰かの大切な人です。


介護職員に限らず、介護事業者に勤め介護関連の仕事を長く続けている人は、知らず知らずのうちに利用者の方々に勝手な属性を冠づけてしまうことがある。

認知症のAさん、寝たきりで意思疎通ができないBさん、右麻痺で言語障害があるCさん、軽度の左麻痺だけど頑固で偏屈なDさん・・・。

そうした冠づけを行ってしまう理由は、決して利用者の方々を低い位置において、上から目線で区分しているということではない。それはただ単に個人個人をわかりやすく区別しようとする心理からきており、人によってはそれを個別化だと思い込んでいたりする。

しかしそうした属性は、各自が抱える心身の障害の特徴とか病態にしか過ぎず、その人そのものを表すものではないし、個別化とは似て非なるものだろうと思う。むしろそうした属性は、冠づけられた人を一人の人間として見つめる目を曇らせるかもしれない。例えば認知症の人を、「あのニンチの人が・・・」などと恥ずべき表現を何とも思わずに使ってしまったりすることがその証拠である。こうなってしまえばその区分はもはや個別化どころか、差別や偏見というべき問題に変質してしまう。

そのような差別と偏見につながりかねない属性は、病気や障害を持ったというエピソードをピックアップしているだけで、その人たちが歩んできた人生を表した属性ではない。私たちはそのことをもう少し深く考えるべきではないだろうか。

今現在、片麻痺があって日常生活全般に支援が必要な人であっても、そうした状態になる前には、ある人にとって最も頼ることができる存在で、誰よりも安心できる人であったのかもしれない。

今現在、認知症で暴力的な態度が目立つ人であっても、認知症の症状が出る以前は家族に対して誰よりも優しく愛される存在であったのかもしれない。

病気や症状はそうした過去を消すものではない。何らかの理由で心身の障害を抱え、他人の支援によって暮らしが支えられていようとも、そのことがその人が歩んできた人生の足跡を消しはしないし、汚点を残すことにもならない。

むしろその足跡を消し、汚点を残すことにつながるものが、介護を職業としている人によってもたらされているとしたら大問題だ。私たちが悪意がない状態で、病気や症状を利用者に冠づけて、その状態で区分しようとする無意識の無分別な態度が、誰かの歩んできた道を隠し、染みをつける結果になるとしたら、それは非常に罪深いことである。

人はちょっとした出来事によって深く傷つく存在だ。どんなに強くあろうとも、弱い時を必ず持つ存在でもある。私たちの職業はそうした人に介入して護る仕事だ。だから「介護」と呼ぶのだ。

だからこそ介護という職業に携わる人たちは、そうした人の存在の危うさにも意識を向けて、人が傷ついたり哀しんだりすることに敏感にならなければならない。人が無意識に傷つけられることを防ぐことを視野に入れなければならない。

私たち自身の行為でそうした状態を作り出さないことを前提に、他人の最もプライベートな領域に深く踏み込んでいく仕事だということを忘れてはならないのである。

誰かにとって大切な人を護るのが介護である。誰かにとって大切な人を護り続けることによって、その人の後ろにいるたくさんの人々が幸せになったり、安心したりするのが介護という職業でなければならない。

人の暮らしに寄り添い、人生の一部に関わることを職業にしている人たちは、そのことを決して忘れてはならない。

介護事業であっても収益をきちんと挙げることを考えて経営することは、従業員だけではなく利用者を護るためにも必要なことだ。だからと言ってそのために、利用者の暮らしぶりが無視され、傷つきやすい人間に対する配慮に欠けた経営や運営は許されないことを、「人を護る」という立場で日々考えてほしいと思う。

今、介護という仕事に携わっている一人一人が、自分や自分の職場が、本当に利用者を一人の人間として見つめ、暮らしを護るという本来の目的を達しているのか、日々振り返って考えてほしい。

それができない人たちが、介護という職業を続けて良いわけがないのだから・・・。
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名もなきかけがえのない人々


我が国で現在、介護職として働いている人の数は200万人をやや切る数字と推量される。

この数字は必要とされる介護職員数より20万人以上少ない数字で、介護人材不足を象徴する数字として取り上げられることもある。しかし介護職という職種だけにこれだけたくさんの人が携わっているという事実をも表す数字でもあるとも言える。

しかも職業として介護に携わっているのは介護職員だけではない。相談援助職や事務職も、介護事業者の中で実際には介護という行為に携わる場面は多々あるし、実際には介護職員とほぼ同じ役割を担っている他職種も見受けられる。このように介護職員としてはカウントされないが、事実上介護の一翼を担っている人を入れると、決して少なくない人が介護の仕事に携わっているのである。

そうであるがゆえに、これだけの人の資質をすべて一定以上に保つことは至難の業だ。事実として言えば、介護の専門職としての資質の個人差・いわゆる凸凹は非常に大きいと言わざるを得ない。

だからこそ日本の介護の場のどこかで、利用者に対して人として許されない行為が行われていたりする。そうした行為が虐待として報道されることになるが、それが介護事業での「氷山の一角」でしかなく、介護事業の闇は深いと世間一般に喧伝されたりしている。

しかし僕たちは氷山に隠れて海を漂う存在では決してない。実際には虐待とは無縁の事業者の方が多いことも事実であるし、虐待とは対極にある高品質サービスを目指し、実践している事業者も多々ある。それを支えている志やスキルの高い介護職員も数えきれないくらいたくさん居られる。ただしそれらのほとんどの人が、名もなき知られざる人々だ。

虐待はニュースになっても、日々繰り返される高品質なサービスや、感動的なエピソードはニュースにならない。あたかもそれは、人の幸福は人の不幸より報道価値が低いとみなされているかのようだ。

しかし介護事業におけるサービスの質は、全国津々浦々の介護事業者で働く一人ひとりの名もなき人々によって支えられているのだ。その人たちが名誉も待遇も顧みないところで、日々黙々と誰かの支えになることだけを目的として働き続けている。介護の仕事をしていなければ縁も所縁もなかったであろう人に関わって、その人たちの暮らしを支えているのだ。

名もなき人々が、誰かに幸せや喜びや笑顔を届けている姿も、介護職の真実の一つだ。

そういう人々がいるからこそ介護支援は初めて成立し、介護という行為が制度に組み込まれ、この国を支える原動力の一つとして存在しているのである。

例えば、8月25日に書いた記事に付けられたコメントを読んでいただきたい。

いごっそうさんという方の亡くなられた奥様のエピソードがそこには書かれている。不治の病と向き合いながら、病気になった自分だからこそ病気の人の気持ちがわかるとして、痛みを管理する麻薬を打たねばならないほどの状況でも他者に寄り添い、動くことができなくなるまで介護の仕事を続けていた人がいる。

それは売名・不遜・驕りといった言葉とは全く無縁の姿であり、あくまでも勤勉であり真摯であり謙虚であることを貫いている姿であると言えよう。

きっとそんな素敵で名もない介護職の方々が、日本全国にたくさん居られるのだろう。そんな方々が今この瞬間もどこかで誰かの支えとなっているのだろう。それはまさに人の目に触れない場所でも、綺麗な花を咲かせる名もなき花のような姿であると言えるだろう。

いつか僕は、全国に咲くそのような名もなき花たちのエピソードを集めて、本に書いて伝えたいと思う。そんな日が来ることを信じて、名もなくかけがえのない人々と繋がりあっていきたいと思っている。

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優しさの条件


対人援助の職業には、エビデンスにはならないスキルが求められる。

愛とか優しさはエビデンスにならないし、そんなものに頼る介護は信用できないという人がいるが、時として大きな問題を解決する糸口が、支援者の愛情ある対応や、ちょっとした優しさであったりする。

優しさに欠ける対応によって、認知症の人の行動心理症状はエスカレートする。愛のない言葉かけによって、看取り介護を受けて旅立っていかれる人やその家族が泣いている。

愛情を積み上げ、優しさを忘れないだけで、介護の質は高まり、課題解決にもつながっていくのだ。

そのような不確かなものに頼らなければならない不安や不確かさを嘆くのではなく、愛情や優しささえもスキルに組み込んでしまえばよいのだ。それを持てない人は介護のプロとして認められないようにすればよいのだと思ったりする。

なぜならば対人援助とは、まさに人に相対する職業であり、決して理論化できない人の感情と正面から向き合わねばならないからだ。

人の感情は、こうした場面でこのように対応すれば必ずこうなると言えるものではなく、同じ場面で同じように対応しても、相手が違えばそこで生まれる感情も異なってくるのだ。

喜怒哀楽とは、それぞれの個性ある人の内面に生まれるものなのだから、同じ場面・同じ状況でAという人が喜びの感情を抱いているのに、Bという人は哀しみを抱いてしまうことがある。

そうした不確かな感情に向き合う私たちは、どんな感情に向かい合っても、その感情に巻き込まれずに冷静に対応するというだけではなく、感情ある人と向き合う仕事に喜びを抱き、その感情をできるだけ温かく受け止め、やるせない思いを包み込む人であることが求められるのだろうと思う。

それが他人のプライバシーに踏み込んで生活の糧を得ている私たちの責任だと思っている。

だからと言って自分の性格を変えて優しい人になれと言っているわけではない。そんなことは不可能だし、そんな必要もない。

対人援助に携わる人々にも個性があって、性格的に優しい人と、そうは言えない人があるのは当然だ。しかしどんな職業も自分の性格を丸出しにして全うできる職業はないのである。それぞれの職業のプロとしてスキルを磨く必要があるのだから、利用者に愛情と優しさを持って接するというスキルを身に付ければよいのだ。

愛情を持って優しく接する方法論の中にこそ、私たちが求める答えが存在するのだと信じることが大事だ。

優しさの優という文字は、人を憂える(うれえる)と書く。それは、「よくないことになるのではないかと心配する気持ち」を表す言葉である。向かい合う利用者の様々な事柄に憂える気持ちを持つことが大事だ。私たちが憂えることをしないで放置すれば、壊れてしまう人がそこに居るかもしれないのだ。そうしない唯一の方法は、憂える私たちがそこでできうる限り、愛情と優しがある態度で接することだ。

だが人に優しくするためには条件がある。人に優しくするためには、自分に強くなる必要がある。他の感情に負けないで、愛情を持ち優しさを忘れないという強い心が必要だ。

私たちは自分の中に渦巻くあらゆる感情に身をよりかけることができる。怒りにかませて粗暴にふるまうことほど楽なことはない。自分の感情を抑えたり、自己覚知しようとする努力が必要ないからだ。しかしその感情をぶつける相手が、自らの職業として支援の手を差し伸べる人であれば、そこで関係性は途絶え、私たちの職業が目指すゴールにも決してたどり着くことは出来なくなる。それは職業人としてあるまじき態度であると言ってよい。

優しさに徹する人は、「格好つけてる」・「勘違いしている」・「ポーズがうまいよね」などと様々に揶揄され、時には批判を受けることさえある。しかしそれは優しさを失わないで利用者に接することができない愚か者のやっかみに過ぎない。自分ができない行為に嫉妬する能力の低い人間の戯言に過ぎないのである。そのような愚者の戯言に負けて流されてしまわない強さが必要なのだ。

だから自分に強くなって、優しくなる必要があるのだ。

他人になんか強くなる必要はない。虚勢・意地・暴言・暴力・粗暴。どれをとっても私たちの仕事に必要なものはない。

そんな覚悟を持って、毎日人に向かい合うことを続ける先に、新しい未来が生まれるのだと信じてほしい。きっとそれはあなた自身を照らす光にもなるだろう。
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優しさとは何だ

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遠くへ行きたいのならば・・・。


介護の職業とはある意味、「きりのない仕事」である。ここまでやったら終わりというゴールが見えるわけではないからだ。

今日行ったことがそこに成果として残って、その仕事を終わらせて新たな仕事に取り組むということができない職業が介護という職業の特徴でもある。

今日も明日も同じように繰り返される日常の支援・・・。昨日と同じように排泄ケアを繰り返したり、食事介助を繰り返したり、移動や着替えのお世話を繰り返すことが最も重要となるのが介護職である。昨日排泄介助を重点的に行ったから、今日はその数を減らしてよいということには決してならない職業でもある。

そのことに虚しさや疑問を感じる人は、介護の職業に向いていないと割り切るしかない。そういう人は介護の仕事に就いてはならないのだ。そういう人が疑問を感じている間に、利用者が必要とする、「今」はどんどん流れ去ってしまう。それはその先に取り返すことができない何かを失っていく過程かもしれない。

私たちの職業とは、毎日繰り返される行為を機械的にこなすのではなく、その行為の中に存在する、「人」そのものにスポットを当て、そこに居る一人一人の利用者の感情に寄り添う仕事である。その時に利用者の喜怒哀楽に巻き込まれて、必要な支援行為を見失わないためには、「統制された情緒関与の原則」は決して忘れてはならないが、同時に人として真摯に寄り添うために、「受容の原則」は最も重視されなければならない。

今日笑って喜んでくれた人が、明日同じ行為支援の中で喜んでくれるとは限らない。その時、笑っていた人が哀しんでいる姿を見ないふりするのではなく、その理由を探りアプローチを続けていくのが介護支援の本質であり、終わりのない検証と実践の繰り返しが必要となる。そのことを僕は、「天のない介護」と呼んでいる。

天のないことを空しく感じる人には向かない仕事だ。天のないことを限りない可能性と感じることができる人が続けられる仕事が介護という職業である。それは決して自分一人で黙々と道を切り拓くだけで良いという仕事ではない。

人の感情に寄り添い、人の暮らしぶりを良くするために関わる仕事は、私だけ・僕だけにできればよいということにはならない。私や僕がいないからと言って、誰かが不幸せにならないようにしなければならない。場所や時を選ばず必要な支援の手が差し伸ばされて、誰かが幸せになるためには、私や僕とともに歩む仲間が必要だ。だから、「介護の極意」は一人のものにしてはならない。必要な仕事の方法の伝承法を職人技にしてはならない。伝える責任も介護の一部分だ。そうでないと多くの人を幸せにする方法論にはならないし、そんな介護が必要とされるとは思えないからだ。

だからこそコロナ禍でも多くの仲間に、「人の暮らしぶりを良くする方法論」が伝わる機会をなくさないでほしい。「コロナを理由に職員教育をおざなりにする事業者が落ちる穴」は、事業経営という側面から職員の教育の大切さを指摘しているが、その本質は対人援助サービスが護るべき一番大事なものを失わないために必要なこととは何かという提言でもある。

僕の記憶の片隅に存在する、「急いでいきたいのならば一人で行きなよ。遠くへ行きたいのならばみんなで行きなよ。」というフレーズは、テレビドラマの中で聴いたセリフだろうか・・・。定かな記憶はないが言いえて妙である。僕はまだまだ遠くにある真髄を見極めるために、仲間を集めてゆっくりでも良いから前進し続けたい。
C-MAS介護事業経営研究会2020全国大会のオンライン配信も注目ください。)

どうかそんな介護の職業に誇りを持って、その仕事の中で自分の責任を全うできる人になってほしい。

責任は人をとても成長させるアイテムである。ところで今朝、僕は自分のFBに次の一文を投稿した。

『福利厚生やボーナスはともかくとして、とりあえず月給の高い派遣職に登録する介護職希望者が増えている。それが介護事業者における派遣割合が高まる原因で、派遣に頼らねば運営できない事業者が増えることで運営コストはますます上がっている。しかし派遣を選ぶ人は、重い責任を負わされないことを望み、嫌になったらすぐ辞めて、他の事業所に移ろうという人たちだ。そういう責任感や使命感の薄い人たちで、介護の質は担保されるだろうか。今後の介護人材対策を介護の質と双方で考えるなら、介護職の派遣禁止法案が一番効果をもたらすという考え方は乱暴だろうか・・・。』

ブラックな職場は居続けてもしょうがないが、だからと言っていつまでも派遣という身分に甘んじて、自分に責任も使命感も与えないことは、自分自身の損失でしかない。スキルを高める機会を失わせることは即ち、自分が自分を評価しないという意味でしかない。

派遣という身分に自分を押し込めて、自分の人間性の向上機会や可能性をつぶしてしまうのではなく信頼できる転職サイトを利用するなどして、自分に合った職場で責任ある仕事を背負うべきである。


北海道はお盆を過ぎて、そろそろ秋の風が吹き始めた。登別の僕のウオーキングコースには、秋桜が咲き始め風にそよいでいる。

爽やかな秋風のように、清楚で美しい秋桜の花弁のように、誰かの心を癒すことができる行為となる介護であってほしいと願う。

誰かの心に咲く花になれる介護であってほしいと祈る。
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広島の空・長崎の空2020


今年も暑い夏がやってきた。

戦後75回目の広島原爆の日と長崎原爆の日は、コロナ禍で式典の規模などが縮小する中で行われることになった。しかし人々の平和を祈る気持ちは決して変わることはない。そしてあの戦争で失われた多くの御霊、広島と長崎の原爆投下で失われていった御霊を悼む気持ちも決して変わることはない。

ところで、今年の平和式典における首相のあいさつの文面が、両会場とも酷似しているとして、被爆者から「何のために被爆地まで来たのか。ばかにしている」と怒りの声が挙がっているそうだ。しかし一国の首相とはいえ、たかが政治家の挨拶の言葉に目くじらを立てたってどうしようもない。そのような挨拶しかできない人を可哀そうだなと思えばよいだけである。

ただし世界で唯一の被爆国である国のトップが、自らの言葉で平和の祈りと誓いを語らないのは、残念であるというより、勿体ないことであると思う。自分の思いを伝えようとしない言葉は、何の意味もなさないからだ。

そういえばこの国は、国連で決議されている核兵器禁止条約に署名・批准を拒否している国である。その国のトップが、平和式典で何を言おうと、天国でその言葉を聞く御霊には何も響かないだろう。そんな言葉は単なるセレモニーでの空しい騒音でしかないのだから、そんなものに腹を立てたり、憤ったりすること自体が無駄なことである。

心を静かにして天に召された御霊を悼み、平和を祈り続けることが何よりも大事ではないかと思う。

平和式典が75回目ということは、あの戦争が終わってから75回目の夏が来ているという意味だ。すぐ近くに敗戦の日である8月15日も迫っている。戦争の生きた語り部はどんどん減っているが、まだこの国にはあの戦争を体験した多くの方々が残っている。それらの方々の戦争体験が、生の声として後世に伝えられていく期間もそう長くは残されていない。そうであるからこそそうした機会を貴重に思わねばならない。

同時に高齢者介護・対人援助に携わっている私たちは、あの戦争を経験して、たくさんの愛する誰かを失った哀しい人々の最晩年期に関わっているのだということを強く自覚しなければならないと思う。

戦争で心に深い傷を負った人々を、私たち自身の心無い言葉や態度で傷つけることがないように最大限の配慮をしなければならない。それが介護サービスの割れ窓理論の意味でもある。

対人援助・介護サービスに携わる私たちが、誰かのあかい花になろうとすることは、この国に生まれ育ったすべての人々が、平安の暮らしを送るために必要な最強アイテムでもある。

この国の平和と、人々の心の平安を祈りながら、「LOVE〜明日につなぐ言葉・長崎編」を御覧になっていただきたい。そして私たち一人ひとりが、介護サービスの場で何ができるのかを、改めて考えていただきたい。

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自然災害に向かいあって生きる


7月4日未明に熊本県南を中心に発生した豪雨水害によって、たくさんの人が被害を受けている。心よりお見舞い申し上げたい。

今日午前5時現在、鹿児島県の万之瀬川と加世田川で氾濫危険水位に達しているとの心配な情報も入っている。宮崎県も大雨とのことだ。これ以上の被害が出ないことを祈るしかない。九州各地の皆さん、身の安全にくれぐれも注意してください。

ところで今回の大雨被害の中でも介護関係者がショックを受けたのは、球磨村の特養の浸水被害である。

一昨日の夕方に僕の別ブログ、「masaの徒然草」に、「熊本県の特養水没事故により死者多数の悲報に触れて」という第1報を書いたが、被害にあった施設で心肺停止状態で見つかった14人はいずれも入所者だったことが判明している。残る入所者51人は5日、全員が救助されたそうである。

報道記事では、「死亡」や「死者」という言葉を使わず、「心肺停止」とされているがその理由は、医師による死亡診断がされてはいないが、呼吸が停止していることが明らかであるという意味だろう。何とも痛ましい災害死である。特養という終の棲家で、安心して暮らしていた人の身に、突然ふりかかった災害死という悲劇に対して言葉を失ってしまう思いだ。

被害にあった特養は、球磨川に注ぐ支流の脇に建てられていたそうである。今回の災害は、球磨川という本流が決壊したことにより、支流がせき止められ逆流する、「バックウォーター」という現象が起きたことによるとの見方もあり、浸水が始まってから1階部分が浸水するのもあっという間の出来事だったのだろう。かつてない雨量と川の決壊によって、垂直避難も間に合わないほどの未曽有の災害だったのだと思う。

現に報道でも、1階の入所者を2階に移していた最中に施設内にどんどん水が入ってきて津波のような状態になってどうしようもなかったという証言が伝えられている。

亡くなられた人に心よりご冥福を祈るとともに、このような災害で大切なご家族を奪われた遺族の方々にも心より弔意を捧げたい。

お仲間を失い、自分自身も大変怖い思いをされた生存者の方々の心のケアも大事だ。それは利用者のみならず、施設に勤めている全職員に向けても必要だろう。中にはもっと利用者を救える判断ができたのではないかと悩んでいる人がいるかもしれない。どうか責任を抱え込まないでほしいと思う。

日ごろ災害に注意する意識をいくら持っていても、私たちは想像を絶する自然の力の前に、無力であることも多いのだ。あれもできた、これもしたかったということは、結果がわかってから気が付くことで、予測の範囲を超えた出来事の最中に、すべてベストの判断や選択ができる人は多くはない。くれぐれも過度に自分を責めないでほしいと思う。

勿論、命を失ってしまった人に思いを寄せることは大事だ。

今回の災害で亡くなられた方の命の重みは、大災害で何万人もの人が亡くなった時の一人一人の命の重みと変わらない。だからその命が失われたことを私たちは深く胸に刻まねばならない。このように失われた尊い命、誰かにとってかけがえのない方々が、生まれ変わってまたこの国に生まれたいと思うことができる国を創ることを目指して、一人ひとりの国民が今いる場所で、今できることを続けて行く責任があるのだと思う。

このような大きな災害が起こったからと言って、私たちは自分の日常を変える必要はないと思う。日常の中でできることで支援協力をしていくべきではないのだろうか。今はとりあえず後方支援として義援金等の募金に協力することが最も求められているのではないだろうか。

今朝ネット検索したところ、熊本災害基金<2020熊本水害支援>というサイトにヒットした。今後様々な機関によって義援金が受け付けられていくだろう。

自分のお金をどのように使ってほしいかを、それぞれの皆さんが判断して、最も有効にお金を使ってもらえるところに寄付をすることが大事ではないだろうか。

今は亡くなられた方に思いを馳せ、被害を受けられた方の身を慮り、一日も早く平穏な日が戻ることを祈るのみである。合掌。
※介護事業者における固定費削減で収益を確保するために、介護事業のコスト削減は電気代とガス代の見直しから始まりますという記事を参照してください。

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爆ぜるに蒼し(はぜるにあおし)


人にはそれぞれ、「言い分」や「理屈」がある。しかし頑張らない人間のそれは、「言い訳」であり、「屁理屈」にしか過ぎない。

ある行為ができるかどうかは、やってみなければわからない。手足を動かすだけではなく、頭を使って行動を起こして初めて、「できる」・「できない」が評価できるのだ。

何もしようとしないで、最初からできないと決めてかかる人間が、何を主張しようと遠吠えにしか過ぎない。そんな声には反論することさえ無駄だ。黙って無視すればよい。

介護サービス事業の中で職を得て、そこで利用者対応することで生活の糧を得ている人間にとって、利用者は、「顧客」そのものである。それは疑いようのない事実で、この理解ができない人は社会人としてのスキルがないと言える。

自分のお客様が目の前にいて支援を求めているのだから、顧客対応にふさわしい態度や言葉遣いというサービスマナーを身につけて、マナーに徹した顧客対応を行うことは、特別なことではなくごく当たり前のことである。

そのことをいつまでも理解できない人が介護のプロを名乗ってはならないし、名乗る資格もない。そんな輩はその場所にいることさえ許されないと言える。とっとと介護の仕事を辞めて、別の仕事を探しなさい。・・・しかし顧客対応ができない人間にできる仕事が果たしてあるのだろうか。少なくとも医療や介護業界以外では、顧客にタメ口で接するという対応は許されていない。それほどこの業界が温いということだ。

お客様に対してより良いサービスをしようと考えるのは、極めて健全で当たり前の考え方である。介護業界の人手が足りないことも、待遇が決して良くないことも、それを否定する理由にも材料にもならない。

そもそも仕事に真剣に取り組むならば、顧客に対するホスピタリティ精神はごく自然に湧き上がってくるものだ。人の役に立つために、対人援助の仕事に就きたいという動機づけを持つ人ならばなおさら、それは極めて自然で当然の心持である。

現に年齢に関係なく、マナーに徹した対応を行っている人がいる。高品質なサービスを実践している人がいる。

介護施設で人手が足りないから週に2回しか利用者を入浴させられないと嘆いている向こう側には、同じような人員配置で、利用者の希望に応じた入浴回数を確保している施設がある。その違いは文句や愚痴を言っている暇と無駄をなくし、知恵も用いて黙々と手足を動かしていることによるものなのかもしれない。

僕は自分の実践として、マナーーに徹し、顧客ニーズを追求した高品質サービスを実現してきた。このブログに書いていることにフィクションはなく、すべて行ったという事実なのだから、それほど明確な根拠はほかにない。

だから僕が講演で話す内容も実践論である。理想論ではないのだ。それがなぜできないという人がいるのだろう。それは単にやりたくないだけではないのか。面倒な方法や、つらい径を選びたくないだけではないのだろうか。

勿論苦労せずにお金を稼げるのなら、それに越したことはない。しかしそれでよい待遇を与えてくれというのはあまりに図々しい。そんな都合の良い方向に世の中は流れるわけがないのである。

同じ介護の仕事の中で実績を上げ、それに応じた対価を得ている人をやっかむ人がいるが、自分もそうなれると信じて実践すればよいとつくづく思う。

才能がないとか、運が悪いというのも言い訳だ。人には向き不向きもあるだろうし、才能というものもきっとあるんだろう。

しかし生まれ持った能力なんて、仕事の成果を左右するほど大きなものではない。

本当の意味の才能とは、天から与えられるものではなく、自分で掘り起こし作り上げるものだ。必死に仕事をし、階段を一歩一歩歩いてきた人間にだけ見出すことができるものが才能である。

懸命に前に進んでいる人が頂上にたどり着こうとしたときに、何もしようとしない人間は麓(ふもと)でこうつぶやく。「奴には俺と違う才能があるからな」・「奴は運に恵まれただけさ」・・・。

馬鹿を言うな。頂上にたどり着こうとしている人間は、麓で骨休めしている奴やより何十倍も、何百倍も努力を重ね、汗をかき、辛い思いを飲み込んできているのだ。怠けてこなかったのである。

それに比べて若さがあって、時間も体力も感性もあるやつがなんで怠けるんだ。なんでそんなところで停まって愚痴ばかり言っているんだ。それは評論にもなっていない世迷言だぞ。

それに気づかずに老いていき、仕事の上でも敗残者になるのも勝手だが、どうせなら食うためだけではなく、自分の職業に使命ややりがいを感じ取れる道を探し・選んだ方が良いのではないだろうか。
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心を見える化される日も必要なのかな。


1日に発出された介護保険最新情報842で示された通所サービスとショートステイの算定特例が極めて評判悪い。

この特例は、「感染拡大を防止する事業所の対応を適切に評価する措置」であり、通所サービスでは実際にサービスを提供した時間の報酬より2区分上位の報酬を毎月一定の回数に限り算定でき、ショートの場合は緊急短期入所 受入加算を一定回数上乗せして算定できるというもの。

おそらく6月請求分からが対象となると思われるが、自動的・機械的に高い報酬を算定できるわけではなく、特例算定の前提如件として、『介護支援専門員と連携の上、利用者からの事前の同意が得られた場合には〜(以下略)』という風に釘をさす文章も明記されている。

そのため特例算定についてはすべて、後の実地指導において確認されることになろうと思え、その時に同意をいただいたという証拠になるのは同意書をおいて他になく、同意書の取り交わしは必須である。(※算定要件に同意の記録で良いという記載がある場合は、この限りではないが、今回の特例算定はそのような記載がない。)

さらに給付管理を行う担当ケアマネジャーにも十分理解を得ていなければならないが、関係者からは、同じサービスを受けていて、日によって額が異なる状況がおこり利用者の理解が得られないとか、同意を得られた人だけ高い報酬を算定するのは、同意を得られない人と比べて不公平が生ずるとか、計画担当ケアマネが必要性を認めず給付管理上の対応をしてくれないという苦情が続出している。

このように自己負担の伴う特例は問題が大きすぎる。いっそのこと特例算定の上乗せ分については、自己負担をなしにするなどのルールが必要ではないだろうか。

さて話は変わるが今日は6月最初の週末である。緊急事態宣言が解除され、街に人手が戻りつつあるが、東京の新規感染者が一時一桁数になったのに、昨日は20超えてきている。北九州でのクラスター感染も収まっていない。

これ以上感染が広がらないように、まだまだ警戒が必要で、この週末が休みの人もまだまだ不要不急の外出は控えたほうが良いのではないかと思う。家でゆっくりと疲れをとる週末も良いのではないだろうか。そんな方には、『実在する「ボロ宿」を巡りながらドラマは展開します』で紹介しているような無料動画を是非愉しんでいただきたい。

ところで6月と言えば、『父の日』がある。再来週の日曜日がその日になるが、僕は息子たちから何かもらえるだろうか・・・。お父さんがお元気な方は、是非ありがとうの言葉を添えて、気持ちを形にして贈ってほしい。

僕が父を失ってから14年、母を失ってから13年経っているので、自分の両親に物を贈る機会はない。物を贈ることさえできなくなる別れは、ある日突然やってくるのだということを身に染みて感じている。

生前父や母に逢うのは、正月とお盆くらいのもので、それが永遠に続くとは思ってはいなかったが、14年前と13年前のその日に、永遠の別れが来るとは思ってもみなかった。

仕事も一番忙しい時期だったので、孫の顔を見せに帰省することもほとんどないまま「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉は、まさに僕のような薄情な息子のためにある言葉なのかもしれない。

今、ご両親か、そのどちらかがお元気な方は、それが当たり前ではなく、永遠に続くものではないということを思い出して、もしかしたらお別れのカウントダウンが始まっているかもしれないことを心にとめておいてほしい。

感謝の気持ちは、言葉にしないと伝わらないものではないかもしれないが、自分が思ったほど気持ちは相手に伝わらないことも多い。それが人の性でもあるのだから、せめて記念の日には、大切な人に照れずに言葉を贈りたい。その時には感謝の気持ちを形のあるものに込めても良いのではないだろうか。『言葉は心を超えないから、記念の日には心を形にして贈りたい』という記事も是非参照していただきたい。

今朝のニュースでは、高知県の小学校臨時教員が3.11でたくさんの犠牲者を出した宮城県石巻市立大川小学校の児童の遺族3人に殺害予告の手紙を送って逮捕されたと報道されていた。犯人は児童8人が殺害された大阪教育大付属池田小にも遺族殺害予告の手紙を送ってるらしい。

狂っていると思う。こんな仕打ちは心の傷がいえない遺族にとっては2重の苦しみにしかならない。なぜこんな人間がいるのか、しかも小学校の教員なのか理解に苦しむ。

どうぞ人を愛し、人に優しい世の中でありますようにと祈ることしか僕にはできない。短い人の一生で、傷つけあって生きていくのは無駄な過ごし方でしかないと思う。人に対する関心は、愛情のある方法で向けてほしいと思うのである。

どうぞ優しさが、人の心を癒すために、何より必要であることを忘れないでください。あなたは人を愛するために、この世に生まれ、生かされているのですよ・・・。
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バリア(障壁)を生み出すもの


僕が初めて社会人として就職したのは社会福祉法人であり、新設特養の相談員(当時の職名は生活指導員)が最初に拝命した職務だった。

その当時の特養には様々な規則が存在してた。

勿論、今でもそうした規則は存在するのだろうが、当時のそれは融通の全く効かない厳しい制限規則であったと記憶している。起床時間から就寝時間まで規則として押し付け、日課活動も時間割のように定められ、それに従わないことは、「問題行動」であると決めつける職員もいた。家族等の面会時間は制限することが当たり前と考えられていた。

そうした規則は、「集団生活」なのだから当然必要であると言われた。

しかし、「集団論」の立場から言えば、特養の暮らしは、「強いられた共同生活」という概念にしかならず、集団生活には該当しない。よってそのことを理由にした制限は無効であり、規則が必要だとしてもそれは、共同生活の中でお互いの暮らしに不便をかけずに、それぞれの権利を侵害しないよう配慮するために、緩やかな規範を定めおくという意味にとどめなければならない。

そう考えた僕の若い頃とは、様々な制限規則をなくすために、周囲のバリアと闘ってきた日々であったと言えるかもしれない。

仕事の都合で面会時間に訪問できない家族は当然いるのだから、面会時間があっても例外は広く認めるべきだと思った。夜遅くの訪問になったとしても、本人や同室者の迷惑にならない限り、面会は許されてよいのである。

そもそもそういう都合や、利用者にとっての迷惑をアセスメントしていなかった。問題の本質はそこであろうということで、そこから変えなければならなかった。

そうした個別事情を考慮した対応を、すべての生活場面で行おうというところから戦いは始まっていったのである。

就寝時間を超えてテレビを見たい人とは、もともとそうした生活習慣を持っていた人だ。そういう生活習慣を奪うのが特養であるなら、それは社会福祉ではないと思った。

食事提供にしても、せっかく複数メニューを提供できる体制にあるにもかかわらず、それは健康と栄養のためのシステムであると限定的に取り扱われていた。アレルギー等の問題で、お肉メニューが食べられない人には魚メニューを出しているのに、「好き嫌いの」問題であるならば、それは許されないことだった。

しかし人生を70年以上過ごしている方に対し、今更好き嫌いは良くないというのもどうだろう。肉を食べずに長生きしてきた人に、特養に入所したのだから好き嫌いを許さず、肉を食べろと強要するのは虐待と同じではないのか。そもそも肉メニューを提供すれば、食べずに残してしまうのがわかりきった人に対して、それを承知で肉メニューのお膳を出し続けることが、栄養管理として意味があることなのだろうかと思った。

食は人にとって最大の愉しみなのだ。それを苦行に変えてしまっては、栄養管理もくそもない。そう思って、好きなものをおいしく食べられる生活を奪うことは、対人援助として許されることではないだろうと言いながら、栄養士と喧嘩したこともある。そういう主張を理解して、栄養士が考え方を変えたきっかけになったのは、僕の説得ではなく、利用者が生きてきたエピソードそのものであった。(参照:栄養士の役割・食は人生

そういえば2016年4月から、1年間だけ働いた千歳市の老健施設は、その当時でも施設内で利用者が携帯電話を持ち、通話利用することを禁止していた。職員が普通にスマホやタブレットを利用しているのに、さしたる理由もなく利用者には制限を続けているのである。こうした制限が管理だと思っている馬鹿が小権力を持つと、このような不自由を利用者に与え続けることになる。

思えばそうした制限は、すべてバリアである。

そのバリアをつくる要因は、管理者や職員の心の中にある差別意識に他ならない。

そうした人たちが、心の中のバリアフリーを意識しない限り、介護サービスの場からバリアはなくならないのではないだろうか。

暮らしの場にどれだけ制限規則が必要なのだろうか。制限を掛ける不便と、制限のない利便を比較してみてほしい。その制限がないと、そこで人は不幸になったり、不便になったりするのだろうか。

どうか自分や誰かに、規則という名の制限を創り出す権利や権限があるのかどうかを、今一度見つめ直してほしいと思う。厳しさより、優しさでもって対人援助に関わってほしい。

少なくとも制限規則が、そこで暮らす人の幸福感や笑顔を奪っているとしたら、それは恥ずべきルールでしかないと言えるであろう。

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僕の原点


僕の学生時代の専攻は児童福祉であり、実習先は児童相談所や児童施設であった。そこでたくさんの子供たちとの出会いがあり、その中で僕は福祉の道へ進む動機づけとか覚悟を持つに至った。

父親に犯されて妊娠してしまった中学生。親の離婚と育児放棄という状況の中で、生きるために盗みを覚え常習化た小学生の兄弟。継母から虐待を受け、口がきけなくなった小学生。すべて僕が学生時代の実習中に出会った真実のケースだ。

人はいつも正しくは生きていけないのかもしれませんが、せめて大人が子供の心を壊すことがなくなって欲しいと思った。子供の心を壊す親や大人を心から憎んだ。子供を産んだら親としての責任を果たせと言いたかった。いつまでも男と女をやってないで、きちんと親になれと言いたかった。

そんな僕の原点を書いた下記のブログ記事を、まだ読まれていない方には是非読んでいただきたい。
Think about my Daughter 〜「もうひとつの少年期」との出会い
Think about my Daughter 2 〜 僕は天使ぢゃないよ。
Think about my Daughter 3 〜 彷徨(さすらい)
Think about my Daughter 4 〜 最終章:光と影。
THINK ABOUT MY DAUGHTER 2

2005年11/9にこのブログを立ち上げて以来、こんなふう僕の心の叫びを様々に書きなぐってきた。ここは僕のその時々の心情を素直に正直に表す場であり、他人の意見を聞く耳は持たない場所でもある。他人の意見やアドバイスなんてくそくらえだ・・・そんなふうに考えてずっと思いを書き続けている。

それが嫌だとか不快ならつなげるなよと言い続けている。勝手にアクセスして嫌だも読みたくないもないだろうと思う。反論があるなら顔と本名をさらして堂々としかるべき場所で意見しろと思ったりする。そんなわがままで勝手な場所であることを許せる人だけ読んでくれれば良い。

不幸とか幸福とか、好きだとか嫌いだとかという形のない概念は、それを感じる主体によって違ってくるんだろう。だから今の状況が、全ての人に不幸だとか、幸福だとかいうことはできないし、嫌われてもすかれてもどうでもよいと思う。何が正しいのかということの答えは誰も出せない。

現代社会とは、世界中の出来事がモニターの前にいれば瞬時に把握できたり、どんなに遠くにいる人ともリアルタイムでコミュニケーションがとれる便利な社会にはなった。コロナウイルス禍で在宅テレワークが増えてくると、それがスタンダードになっていく職場も増えていく。

そうした状況の中で、人と人のふれあいが希薄になったり、苦手になったりする人が増えるかもしれない。そこでは少しずつ「人に対する優しさ」が失われてしまうような気がしてならない。モニター画面で完結する仕事では、ともに仕事をする人、仕事の対象となる人のリアルタイムの心臓を思いやる必要性が乏しくなるからだ。

僕はそれはとても嫌なことだと思う。

この年になって蒼臭いといわれるかもしれないが、社会全体の優しさが失われていくことに対して、「それは違う」という声を出し続けようと思う。人が人を思いやれない社会はまっとうな社会ではないと言い続けたい。

社会のひずみや影の部分にも目を向けていきたい。光り輝く部分は誰にでも見ることができる。そうではない影を見つめて、光の当たらない場所を温めてくれる存在がないと、人の生きる路には険しさしかなくなる。

地域社会から優しさの量が減り続けるのであれば、人は苦しさから逃れる術を失ってしまう。
人の心は真っ白なキャンパスである
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命について考えさせられる様々な死の風景


死は誰の身にも訪れる。それは誰しも知っていることであるが、自分や自分の身近な人が、今日突然死の瞬間を迎えることを予測している人は少ない。

健康な人であればなおさら、その人が今日急に命を失うとは思わない。しかし実際には突然の死はたくさんある。日本では一日平均3.279人が死んでいるのだ。その中には、健康に何の問題もなく、死と遠い場所にいると思われていた人が、予測できない理由で死という現象に見舞われることもある。その中には理不尽と思えるような、「死に方」も存在する。

普段そのようなことをあまり深く考えることはないが、「悼む人」という小説を読んだり、それを原作にした映画を観た影響もあってか(参照:悼む人は愛と憎しみ、罪と許しのドラマです。誰に愛され誰を愛し誰に感謝されたことがあるかを思い出してください。)、介護関連の仕事をしている最中に、そこに関連した様々な死のニュースが気になった週である。

5/18、京都府長岡京市内の民家で、76歳の夫が72歳の妻の首を絞めて殺害した後、自らも首をつって死亡しているのが発見された。夫は直前に、「介護に疲れた。2人で楽な道を選ぶことにした」という遺書を長男に送り、長男から通報を受けた向日町署員が、二人の遺体を発見している。

先週の11日には埼玉県入間市でも53歳の息子が、疾患を負った83歳の母親の介護に絡み、「母親を切り、自分も死のうと思ったができなかった」と通報し殺人未遂で逮捕されている。母親は手首を切ったものの命を失わなくて済んだが、これは殺人未遂というより、介護疲れを理由にした心中未遂である。

介護疲れを理由にした心中事件は、介護保険制度が創設され、介護の社会化が叫ばれてもなくならない。数が少なくなったかどうかは不明であるが、人の死の問題は、数の比較をしてもどうしようもないだろう。5/18の心中の遺書のあて先となった長男の方にとって唯一無二のご両親を、このような形で亡くした哀しみは計り知れない。

この世の中は、こうした悲劇から逃れられないのだろうか・・・。

20日午前に奈良県五條市で一家五人が亡くなった火災事故は、寝室に油をまいて放火した無理心中とみられている。遺書があると一部で報道されたが、それは誤報でメモ書きが残されているものの、遺書ではないとのことである。

この一家の主は社会福祉法人の高齢者介護施設で、施設長に就任したばかりという報道もされている。心中の原因が何かはわかっていないが、8歳と6歳と2歳の幼い子供3人を何故道連れにしなければならなかったのか・・・。この一家の主のFacebookには、今も幸せそうにしか見えない5人の家族写真がアップされたままである。それを見るとやっぱりどんな理由があろうとも、家族を巻き込んで死を選択してはならないと思ってしまう。

コロナウイルス関連では、5/20に厚生労働省が介護施設で新型コロナウイルスに感染して亡くなった高齢者の人数について公表している。その数は19日時点で少なくとも61人で、介護施設内で亡くなった高齢者は23人ということだ。

61人−23人=38人は、介護施設内で発症したが、亡くなった場所は入院先の医療機関という意味なのだろう。クラスター感染が発生している札幌の老健内では15人が亡くなっていることがわかっているのだから、その数は公表された23人の65%以上に上っている。ということはやはりこれは異常な数字としか言いようがない。

陽性となった利用者が発生したとの報告を受けた札幌市が、医療機関への転院をせずに施設内での継続介護を求めたことによって感染が拡大し、施設内死者数が増えたと思われるわけであるが、そのことは結果的に同施設の感染者を見捨て、「命の選択」が行われた結果ではなかったのかという検証・議論は、後々必ず必要となるのではないだろうか。

蛇足として書くが、道内のクラスター感染発生施設では、退職者もかなりの数に上っている。そして退職者の状況をみると、看護職員の退職比率が介護職員のそれよりかなり高くなっている。

このように看護職員の方が介護職より感染拡大の場から離脱割合が高い理由は、感染症の恐ろしさを介護職員が十分知っていない結果であるとしたら、それはある意味恐ろしいことであるように思った。
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そこには誰かの特別な人しか居ません


一般市民、平凡なサラリーマン、普通の主婦・・・本当は、この世の中にそんな人はいない。

そこに存在する一人ひとりが誰かにとっては特別な人である。みんなが誰かにとってかけがえのないたった一つの存在なのだ。

僕たちの職業とは、そういう一人一人の大切な魂と向き合う職業だ。だからこそ介護という職業を仕事として選んだのではなく、生き方として選んだと思ってほしい。誰かにとって大切なたった一人の人だという意識を忘れないことから、僕たちに求められるバイスティックの7原則の一つ、「個別化の原則」の理解も始まるのである。

介護サービスの利用者や家族の方々の中には、病気や症状を人の上に冠づけするのは許し難いことだと訴える人がいる。

認知症になって、行動心理症状がある方も、家族にとっては、「認知症高齢者」ではない。そのかけがえのない人は、家族を養ってくれた頼もしいお父さんでしかない。哀しい時、苦しい時に抱きしめてくれた優しいお母さんでしかない。

そういう親に、認知症という冠をつけて呼ばれることを毛嫌いする家族もおられることを理解しなければならない。介護サービスの場で、認知症の○○さんと利用者を表現することは、職業上必要不可欠なことではない。そんな冠などつけずに、○○さんというだけで良い時の方が多い。それなのになぜ無神経な冠をあえてつけて利用者の方々を表現せねばならないのだろうか。

ましてや認知症を、「ニンチ」とわけの分からない略語で呼び、「あの人ニンチだから」・「あの人は、ニンチじゃない」とか平気で言っている人にはデリカシーの欠片も感じられない。そんな人が看護や介護の専門家面するのは、傍からみれば滑稽で醜くさえある。

家族が愛したお父さん・お母さんを私たちはもっと大切に思わなければならない。家族のそうした思いをもっと大切にしなければならない。

人を愛するとは、どういうことを言うのだろうか。男女の恋愛や家族愛以外にも、人間愛というものが存在することを僕たちは知ってはいるが、それをどう考えればよいのだろうか。そんなことを考えながらふと思うことは、誰かのために自分が少しだけでも損をしても良いと思えれば、それは愛と言えるのではないだろうかということだ。

人間愛をあまり高みに置く必要はないのではないかということだ。日常の何気ない心配りに人の情けや愛を感じながら暮らしていくほうが、僕たちはもっと幸せになれるのではないだろうか。誰しもが誰かから愛されていると思うことで、曇って見えなくなっていたものに、少しだけ日が差すのではないのだろうか。

人は誰しも、ずるかったり卑しかったりする部分を持っている。それを否定したって始まらない。そんな一面は誰にでもあるけれど、それにもまして人は愛し愛される存在である。そのことを忘れないで、希望の光は誰にでも差すと信じて生きていく方が心安らかだ。否定的な部分や暗い未来ばかりを考えて自らの心を苦しめる必要はない。

人間の存在の豊かな部分、明るい方向性を少しだけ意識して考えるだけで、きっと明日は変わると思う。辛いという文字は、「一」を足すだけで幸せに変わる。僕たちの職業は、誰かにこの、「一」を足すための職業だ。そして一を足す人を選ばない職業である。どんな人だって幸せになる権利はあるし、私たちは裁く人ではなく、支援する人なのだから・・・。

年を取ったからといって誰も仙人にはならない。性格も過去も様々だ。それらの個性は個別化しても、幸せをつなげる行為に差をつけることがあってはならない。

無差別平等の精神は、対人援助の支援者が常に意識しなければならないテーマだ。しかし無差別平等とは、一律均等に同じことをするという意味ではない。必要な人に必要な支援を行い、同じ必要性のある人であるのにその差をつけてはならないことであって、必要のない人に支援の量や質が変わってくるのはごく当たり前のことである。

人は感情を持った生き物だ。喜怒哀楽は誰にでもあるし、心があるから思い悩みもする。しかし感情があり、感ずることができるから、人は幸せになることができる。生きる意味を見出すこともできるのだ。

だからこそ怒りも哀しみも受容しなければならない。怒る人の思いに寄り添い感情を鎮め、哀しい人に寄り添い宥めることが大切だ。喜びや安楽は、その先にきっとやってくるものだから・・・。

介護事業に携わる人とはそんな存在であることを願ってやまない。介護事業経営者の方々には、従業員がそんな思いを持って介護サービスに従事できる職場を創ってもらいたい。
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頭を垂れる稲穂のように


僕は決して度量の広い人間ではないし、謙虚な人間でもない。

むしろネット上ではかなり生意気な人間と思われているようだが、本当の自分はそれほど生意気な奴ではないと思う。だからと言って決して人格者とは言えないことも事実だろう。

だが自分がプロとして対人援助に関わる場所で、利用者や家族に対して、傲慢にみられることがあってはならないと思っている。同時に仕事で関わる関係者との関係も、勝手に上下関係を作って、人を見て態度を変えることはしてはならないと思っている。

その理由は、若いころに小人物が権力を持ったと勘違いして偉そうにふるまう醜さを、嫌というほど知ったからである。

今のようにネット情報がある時代ではない当時、国からの通知はすべて市町村の行政担当課から介護事業者に流されていた。そうした時代の介護事業者に対する行政担当課の影響力は、今では想像ができないほど強いもので、社会福祉法人の若い一職員からすればそれはまさに、「御上様」であった。

その時代に、何かにつけ偉そうにふるまう役人がいる一方で、それとは反対に、若造ともいえる当時の僕に対しても、丁寧に接してくれるずっと年上の行政職の方がいた。そうした姿に触れて、後者のような人にならなければならないという思いを心に刻んだものである。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
実るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺は、対人援助という場でこそ実践しなければならない態度だと思ったものだ。

今、世間はコロナ渦に見舞われ、普通ではないことに満ち溢れているが、その中で介護関係者が今まで見せたことがない裏の顔をのぞかせたりしている。誰にでも嫌な面や異常な面があるのだろうが、その顔をどの場面で出すのかで、その人間の品性と度量が知れるというものだ。

算定特例をあたかも自分の権力のように、一方的に通告して実施するだけの介護事業所が存在したりする。計画変更をするのが当たり前のごとく、変更結果を通告するだけのケアマネジャーがいたりする。多職種連携や協働という言葉は単なるお題目に過ぎないのかと言いたくなる。そんなふうな勝手な振る舞いがこの業界に蔓延している。

介護施設は今、制限のオンパレードだ。面会制限・外出制限。それが当たり前だと思う人と、申し訳ないがやむを得ないと思う人の対応は自ずと異なる。その対応の仕方によって、利用者や家族の心の持ちようは変わってくるのだ。

利用者や家族にあたかも制限が施設の権限であるかのように横柄に命ずる人がいる。それによって利用者や家族は憤ったり、哀しんだり、あきらめたりしてしまう。そんなことは許されるのだろうか。

逆にこちらが恐縮するほど頭を下げて、申し訳なさそうに制限をする理由を説明してくれて、同意を求める人がいる。

同じ制限でも、伝え方で制限を受ける人々の心持は変わろうというものだ。対人援助に携わる関係者は、人の心を慮って伝えるという心配りを忘れないでほしいと思う。

特に制限を受けているのは高齢者の方であることを忘れないでほしい。その人たちは来年の桜を確実にみることができるのだろうか?その人たちは、あと何回自分の愛する家族と会うことができるのだろう?

職員は堂々と外から通ってきている場所で、なんの配慮もなくだらだらと面会制限と外出制限を続け、桜を見る機会も、愛する家族と会う機会も失わせる権利が誰にあるのだろうか。PCやスマホやタブレットを利用して、画面を通じたコミュニケーションをとれば十分だと言ってよいのだろうか。

そのような制限を続ける権限を持つ資格があなたにあるというのだろうか。

知性とは、生業(なりわい)や人にひけらかすために身に着けるものではない。困難に直面したときに、どう立ち向かうべきかを教えてくれるのが知性だ。普通ではない様々な特別なことをしなければならない今こそ、その知性を生かして人に優しい介護事業であることを望む。

勤勉真摯謙虚そして器の大きさ、それらのどれ一つが欠けても人の暮らしに寄り添う資格は無い。売名不遜おごり。どれか一つでも潜んでいれば、知識や技術も人を裏切る。
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風そよぐ


他人のことは解らない。過去のことならなおさらだ。

相談援助職が物知り顔に、誰かの相談に乗ったとて、そこで相談している人の心が見えるわけではない。相談者の気持ちが理解できたような気になっても、それは幻想にしか過ぎないのかもしれない。

だからこそ僕たちは援助を求める人に対し謙虚でなければならないと思う。己の心の中に、他人に対する傲慢さが存在したとしても、目の前の相談者に対しては誰よりも謙虚であろうと思う。

プライベート空間の自分と、仕事をしている自分は違ったって良いのだ。仕事に臨むもう一人の自分を作り上げることもプロの技量だ。

そのために常に自己覚知に努め、受容とは何かを問いかけつつ、答えのない答えを追い続ける。そうし続けることでかろうじて誰かのプライベート空間に踏み込むことが許されるのだと思っている。自分に甘えず、自分の全知全能を鍛えることによって、はじめて他人の心深く介入することが許されるのだと自戒している。それが僕のプロとしての矜持だ。

人が選ぶことのできる道が複数ある時に、どちらの道を選べば正解かなんて誰にも分らない。僕の正解とあなたの正解は違うのかもしれない。迷うのは当たり前だ。でも選ばねばならない。

だったら選んだあとはくよくよ他の道程の結果を考えずに、選んだ道が正しかったと思う方が良い。どうせ考えるならば、少しはましに思える方に考える方がよい。ときどきは信じたくなる方に考えてやらないと、自分の心がつぶされてしまう。

人の暮らしに向かい合い、結果を求めなければならない仕事に就いている人は、「強い人」だと思われる時がある。強くないとだめだという人もいる。

だが強い弱いは簡単に判断できる問題ではない。人はそれぞれある状況には強いけれど、別の状況には弱い。誰かを支える力もあれば、誰かに支えてもらわないと倒れてしまうこともある。それでよいのだと思う。そして支えるというのは、実際に手を貸すことだけではないのだと思う。

人を苦しめるものは、往々にして目に見えない何かである。暗闇の中での想像は、たとえ愛している人でも怪物にしてしまうときがあるものだ。

今僕たちは目に見えないウイルスと闘いながら、日々未知の事柄と相対している。そんな中ですべて正しく対応できる人なんているはずがない。しかしひとたび正しくない行動をとったと誰かに思われたら、たちまちネット上ではその行動を糾弾する言葉があふれ出てくる。

匿名という形で実態を隠した糾弾の言葉は、それだけで暴力だ。そんなものを気にする必要はないし、そんなものに負けないでほしい。

真実を見極めることが大事だ。暗闇の中で愛する誰かを怪物と間違えないように息を継ぎたい。

週末に休みを取れる人は、仕事のことをすっかり忘れて、一日中好きな映画でも見たほうが良いかもしれない。ギスギスした心を安らげるように、童心に還ってみるのもいのかもしれない。(参照:今話題の鬼滅の刃(きめつのやいば)・全26話も無料で見ることが出来ます。

北海道は今からが桜の季節だ。風にそよぐ桜の花びらを見つめて、少し先にある、「」を感じても良いのではないだろうか。

絶望とは、我々を殺すためではなく、我々の中に新しい生命を呼び覚ますために存在するのだ。

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差別はウイルスを駆逐しない。人を救うのは憎しみではなく愛である。


新型コロナウイルス感染症のために、世界中が大変な状況になっているのはわかるが、『自分さえよければ良い的な思考回路』によって、差別的言動を正当化するような風潮に傾いているのが少し気になる。

自分がウイルスに感染しているのを知りながら、悪意を持ってそのウイルスを拡散しようとするような輩は糾弾されてしかるべきである。ウイルス感染リスクが高い場所に、何の対策もなく出入りして感染するような軽率な行動があるとすれば、そのことは非難されてよい場合もあるだろう。

しかし不運にしてウイルスに感染した人が、すべて悪人のようにレッテルが貼られ、感染していない自分こそが正義で、正しい人間だと思い込むのはどうかしている。

ましてや感染者が多い地域や感染した人や家族を、蔑視するような言動が許されてよいわけがない。

感染に注意しながら通常の日常生活を送っていたにもかかわらず、どこで感染したかも不明な状態で、感染症を発症してしまった人もいる。テレワークのできない職業では、混みあう電車で通勤を続けなければならない人も多いはずだ。そういう意味では今感染していない人も、それは偶然と幸運の結果でしかないのかもしれない。

そんな状況の中で、感染者数が多い地域の人が、自分の生活圏に入り込むことを許されないことのような表現で罵倒するのは行き過ぎであると思う。

感染予防のための行動自粛要請に応えることは国民の義務ではあるが、よんどころなく移動しなければならない事情は存在するのだから、その際は感染予防対策に十分配慮するように一人一人が注意して、自分が感染源にならないように促すだけで十分じゃないのだろうかと思う。

少なくとも、「〇〇の人間は来るな」的な表現が日常化して、あたかもそれが正論化される社会は危険である。それが許される風潮があるとすれば、それはどこかが狂っている。何かが壊れかけているとしか言いようがない。

そうした危惧や、危機感を抱くことは間違っているのだろうか?

ウイルス感染に関するあらゆる差別の延長線上には、感染者に寄り添って対応する医師や看護職員、介護職員等とその家族に対する差別と偏見が必ず生まれてくるのは明らかだ。それが正当化される社会は怖い社会だ。

感染者や、その人たちに対応する人に対する差別的表現を許しておくことは、この国の根を腐らせることにしかつながらない。そうであってはならないと思う。

感染予防対策は大事だ。私たち一人一人が自覚を持って、自らを護り他者に迷惑を及ばせないように行動自粛することも大事である。だからと言って感染者に対して、過度の自己責任を求めたり、糾弾したりする必要はない。もっと優しい社会であってほしい。

今こういう時だからこそ、人に優しくする心を失わないでほしい。人が人を思いやるところから、感染予防は始まるのではないかということに、常に思いを至らせてほしい。

人類は様々な困難に打ち勝ってきた歴史を持っている。その時、困難を克服した一番の要素とは、決して憎しみではなかったはずである。人類が困難を乗り越える根底につめにあったものは、人間愛であったのではないだろうか。

人を蹴落とす競争だけで人は豊かになれないのである。人が豊かに反映する根底には、必ず人間愛と、それに基づく知恵があったということを忘れないでほしい。

愛は地球を救うという言葉は、どこかのテレビ番組の謳い文句を超えて、唯一無二の真実を表現しているかもしれないのである。
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桜咲く場所でできること〜さくらびとのように


各地から桜の開花の知らせが届けられている。北海道の桜といえば、清楚な白さが際立つソメイヨシノではなく、ピンク色が鮮やかなエゾヤマザクラが多いが、その花は早い地域でGWの少し前から咲き始める。僕が住む登別はちょうどGWが明けた頃に満開になることが多い。

しかし今年はそんな桜の季節もゆったりと味わってはいられない。お花見気分も新型コロナウイルスの感染拡大で吹っ飛んでしまっているからだ。全国各地の桜の名所では、今年は飲食を禁止しているところが多い。それも仕方のないところだろう。

今年のお花見は桜を見ながら宴会に興ずるのではなく、世間の喧騒と関係なく咲いた花を愛でるだけにしておこう。ドライブの途中に通り過ぎる車窓から、散歩の途中に見上げる視線の先に、桜の季節を感ずるだけにとどめよう。

僕が来週月曜日から仕事で訪れる福岡市の桜の名所、「舞鶴公園」の桜は3/21に開花で、4/2が満開だったようだ。しかし福岡では老健や有料老人ホームとデイサービスでクラスター感染が発生している。わずか半月前に同市を訪れたときとは状況が一変してしまっている。

そのような状況で、介護事業者に勤めている人は、利用者の感染予防対策と日々先送りできない生活支援に汗を流しながら大変な思いをしているのだろう。

長引く感染予防対策のため、面会禁止が月単位で延長しなければならない居住系施設では、利用者の皆さんのストレスケアにも注意している従業員の方が多いと思う。通所サービスでは営業自粛のために収益が減り、今後の経営に不安を抱く経営者や、自分の生活にも支障を来すのではないかと心配する従業員の方が多いだろう。そんな中でも、利用者の方々の暮らしに寄り添いながら、できるだけ不便をかけないように頑張っている人々の姿が目に浮かんでくる。

そういう人たちが少しでも報われる国策を取ってほしいものだ。

介護サービスの場で頑張っている人たちに、北海道出身のGLAYの、「さくらびと」をバックにして僕が作った応援動画を届けたい。休憩のひと時に画面をクリックして3分と少しの動画を観て、介護の使命と誇りを思い出していただきたい。

心のどこかで感染の恐怖におびえながらも、他者と濃厚接触しなければ成り立たない介護という職業を通じ、誰かの人生に寄り添っている皆さんの存在が、利用者の心に咲く花であると信じてほしい。介護事業に従事する人々すべてが、利用者の方々の、「さくらびと」になることを願って、今日も僕は応援を続けている。どうか誰かの心に咲く花になってください。

(※来週の月曜からしばらく、福岡市のワーコンで仕事をしています。筑紫口すぐ近くですから、お近くの方は是非寄ってください。福岡市周辺でしたら、社内職員研修の講師としていつでも駆けつけます。ご用命の方はお気軽にメールか電話で連絡ください。連絡先は、公式サイトあかい花を御覧ください。)
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食は最大の愉しみだからこそ生きる糧になる


生物は食物を摂取することによって生体を維持している。

人間にとって食事とは体を成長させ、機能を保ち、エネルギーを得るために必要不可欠なものである。そして食事によってこの3つの要素をすべて全うできる状態のことを、「栄養状態が良好に保たれている」という。

そういう意味で、栄養が重要なことは今更言うまでもないことだ。それを否定してはならない。

しかし多くの人は、食事をすることに関して、栄養状態を維持するという動機づけを持っているわけではないし、食事をしないと栄養状態が低下するという危機感を持ちながら生きているわけでもない。

健康な人の大部分は、食事は楽しみのために摂っているのであり、お腹がすくから食事をするのである。しかしそのことは極めて重要なことである。

毎日3度3度の食事が苦行であるなら、人はあっという間に、「生きる動機づけ」を失ってしまうだろう。

食事とは人の最大の愉しみだから、毎日食べ続けることが出来て、その結果栄養状態が保たれるのである。

勿論、飽食の時代であることにより、贅沢過ぎる食事や食習慣は、しばしば人の健康を蝕むこともあり、食事の面からの生活習慣の改善ということも課題となってくる場合もある。しかし食べ過ぎを防ぎながら、偏りのない美味しい食事をとり続けていけるとしたら、人はある程度の期間まで健康で幸せに暮らし続けることが出来るのである。

だから一番大事なことは、食事の愉しみを失わないことである。

様々な病気の終末期は、体が自然と食事を受け付けなくなる。それはもう体が死の準備をして、死に馴染んでいく過程といえるかもしれない。そうであるからこそ、食事の愉しみを感じられる期間を大切にすべきである。

だからこそ人の暮らしに深く介入しなければならない介護を職業にする関係者は、栄養士や調理師ではなくとも、様々な立場で向かい合う人たちの、『食の愉しみ』を失わせない対応を考えていく必要がある。

食事摂取介助が必要な人に対する、その方法論を、栄養が摂れるだけの方法論にしてほしくない。食の愉しみを奪わない方法論、食べられる喜びを感じることができる方法論を常に意識してほしい。

自分が食事介助をいている人に対して、美味しく食事を食べてもらうという意識を失ってしまったときに、食事は単なるエネルギー補給の物体に変わるだけではなく、餌としか言えないものに変わってしまうかもしれない。そんな餌を摂取させられ続ければ、苦しくなるだけの結果に終わることは極めて当然のことであり、そこで人は生きる意欲を失ってしまうかもしれない。生きる意味をなくしてしまうかもしれないのだ。

そうしないように栄養の前に、おいしく見た目も美しい食事提供に心がけてほしい。食の愉しみを刺激し食欲がわく食事作りを忘れないでほしい。

介護保険制度になって、その大切な食事提供が、かつてよりおざなりになってはいないか。自立支援が大事だからと言って、食事摂取能力に低下がある人に対しても、適切な食事摂取支援がされないで自力摂取を強い、その結果、その人にとって食事摂取そのものが苦行になってはいないか。

間違ってはならないのは、食事摂取という行為は、日常を護る行為であって、決して医学的・治療的リハビリテーション機会ではないということだ。食事摂取するという行為を、リハビリに置き換えてしまっては、人の尊厳や権利が奪われかねないという理解が必要だ。

自立が大事と言っても、30分以上かけて食事を摂ってるのは問題である。唾液にはアミラーゼという消化酵素が含まれており、例えばお粥は食べているうちにビシャビシャになる。すると窒息の恐れが増す。なぜなら窒息しないでスムースに嚥下できる食形態とは、指でつぶせる柔らかさが必要だからだ。

お茶碗一杯と、副食三品程度の食事を30分かけても完食できない時、その際に食膳として出されているものはアミラーゼによってビシャビシャになってしまう。そうならなくともそれはもはや食の愉しみを味わうことができるものではない。

お粥は唾液が混ざらないように器を小皿に小分けしよう。食事は適切な時間で食べられるように支援しよう。それは自立支援を阻害しない。

リハビリ機会など別な機会はいつでも取れるのだ。毎日の日常を訓練にするな。

そんなふうに、人が生きる上で大切なことは何かという答えを常に求める、介護人(かいごびと)であってほしい。

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限りある時間の中で


今日の午前中に、日本プロ野球界に大きな功績を残された野村克也氏の訃報が全国を駆け巡った。

先月21日にはヤクルトのOB会に参加して、車いすに乗りながらもお元気そうにスピーチしていたことを考えると、突然の訃報で驚いた方が多いだろう。しかし84歳という没年から考えると、決して寿命が短かったわけではないし、自宅で暮らされて未明に救急搬送され、そのまま帰らぬ人になったという一面は、人の世話になるような長患いすることがなかったともいえるわけで、旅立ち方としてはある意味、うらやましい姿といえるのかもしれない。

こんなふうに人は誰しも、限りある時間の中を生きている。終わりがいつ来るのかを知ることはできないとしても、終わりは確実にやってくる。

身分に関係なく、能力に関係なく、人には限られた時間しか与えられていない。肉体的な生命には永遠は存在しないのだ。

限られた時間の中で名声を得て、その名を残したとしても、残された名声が社会活動をするわけではない。名を残すことにどれほど価値や意味があることなのかは誰にもわからない・・・。

だからこそ今この時間を、「生きる」ことを大切にしたい。自分に与えられた時間の中で何ができるのかを考え続けたい。

人は間違える生き物だ。過去を振り返って自分の行為がすべて正義と正当性に満ちているなんてことはありえない。しかし同時に人は、振り返ることが出来、正すことが出来る生き物でもある。そうであれば過去を悔やむより、未来を変えるために自分が変わることを恐れないで生きたいと思う。

そういう意味では、残されている時間とは過去の自分を変えたり、今の自分を高めたりするために残っている時間ともいえるのではないだろうか。

そんな限りある時間の中で、これから先も僕はたくさんの人と出会っていくのだろう。今まで、そしてこれから紡いできた縁・紡いでいく縁を大切にしたい。つながっている人、つながっていく人に感謝したい。

運の良しあしは確実に存在していると思う。そんな運というのは、なにからつながっているんだろう。

それはもしかしたら、この世に生まれた者に与えられている、「使命」と関係しているのかもしれない。何か運が良いことが起きたら、それは自分に与えられた使命を全うさせるために与えられた、「幸運」だと思うことにした方がよいのかもしれないと思っている。その使命を探し続ける旅が、自分に与えられている時間なのかもしれない。

対人援助という職業の中で、たくさんの人生を見てきた僕が今思うことは、物質の豊かさと人の幸福は比例しないということだ。もしそれが比例するのだとすれば、お金持ちの人はすべて幸せになっているはずだ。しかし実際にはそうではない。

お金がたくさんあっても、心の豊かさを得られないことにもがき苦しんでいる人は多い。お金があるがゆえに、家族で憎しみあっている人もいる。そしてそれは時として事件となって社会の表面に現れることもある。

心の豊かさは、幸せと感じる感性の高い人が得られるものかもしれない。小さな出来事に感謝でき、何気ない日常に喜びを感じ取れる人の心は豊かだ。地位や名誉やお金に縛られないで、小さな幸せを感じ取れる人の心は豊かである。

その心の豊さを、人生の敗残者の言い訳だと決めつける人の心は貧しいと思う。大きな幸運に恵まれても、もっと恵まれている人がいると考えて、そのことに喜びを感じない人の心は貧しいといえるのではないだろうか。

どちらにしても、人がこの世に生まれ生かされていることには意味があるのだと思う。そこにいる一人一人の命に使命が存在するのだと思う。その必然を考え続ける旅が人生だ。

そんなことを考えていると、『望まれず生まれてくる人などいない』という、ゆずの唄のフレーズが思い浮かんできた。

久しぶりに、「ワンダフル・ワールド」を聴きたくなった昼下がりである。

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静江さんの折り鶴


とある社会福祉法人の職員研修講師を定期的に行うようになって1年半が経過した。3月に一度、法人職員全体研修にお邪魔して講演を行いながら、介護サービスに従事する職員の動きを見て、気が付いた点をアドバイスしている。

その時に気が付いたことをベースにして、新たな介護の方法論や職場のシステムにつながる改革案を、職員会議の中で提起することもある。

そのため講演の合間の時間に、法人内のサービスの場に足を運んで職員の方々が働いている姿を観察する機会も多いが、職員の方々の仕事の邪魔にならないで、かつそこで暮らす高齢者の方々の目障りにならないように細心の注意を払っている。

その結果、単にサービス現場で職員の仕事ぶりを拝見するのではなく、そこで暮らす利用者の方々と、いろいろなコミュニケーションを交わす中で、職員の仕事ぶりを見させてもらうことが自然であると思うようになって、多くの利用者の方々とたわいのない会話に終始したりしている。

その法人には2ユニットのグループホームが併設されている。そこでも僕は入所している方々とお話ししながら時間を過ごしたりしている。

そこにおられる70代の静江さん(仮名)は、いつも明るい色の洋服を着て、化粧も欠かさないおしゃれな人だ。まさに女性にとっては化粧は療法ではなく、誰かに逢うための、「身だしなみ」でしかなく生活習慣であることを、静江さんは証明してくださっている。

静江さんと逢うたびに、認知症の人は服装をはじめとした身の回りがだらしなくなるなんて言うのも、「思い込み」でしかないことに気づかされる。認知症の症状にも個性があるのだ。

静江さんは直前の出来事を記憶できないし、自分が年を取ったことも理解できていない。だからこそ心は若々しいのかもしれない。私たちはそのような見当識障害を否定するのではなく、若かりし心で生きている静江さんの心に寄り添って、その状態で心の平安が得られるよう支えるだけでよいのではないだろうか。

そんな静江さんには、若いころ病気で長男を失うという哀しい思い出がある。まだ幼かった我が子が、不治の病にかかってしまったことを知った時のショックは図り知ることもできない。そして奇跡が起きてほしいとの願いもむなしく、我が子の命が尽きてしまったときの哀しみと慟哭も察っするに余りある。

しかし現在の静江さんは、我が子を失ったことを忘れている。その代わり自分には病気の子がいて、自分はその子の看病をしなければならないと外に出ようとしたりする。そんな時、職員の方々は、「病気は必ず治るから、お医者さんと看護師さんの邪魔にならないように任せておきましょう。静江さんは、ここで息子さんの病気が治るように祈っていましょう」と言いながら静江を落ち着かせている。

そんな静江さんが、息子さんの病気が治ることを願って千羽鶴を折りはじめてから、すでに3年がたつそうだ。折り鶴の数は、数えきれないくらいになったが、その折り鶴が千羽に達したら息子さんが元気に帰ってくると信じて、折り鶴を折り続けている静江さんの姿がそこにある。

しかしそのグループホームの職員は、折り鶴の数が千羽に達しそうになったら、そっと飾ってある折り鶴を少しの数だけ飾りから外して、決して千羽にならないようにしている。千羽になってもなお、息子さんが元気になって帰ってこないときの静江さんのショックを慮っての対応策がそれである。

それはある意味、嘘と欺瞞という批判を受けかねない行為であるのかもしれない。

しかし静江さんはその嘘に気が付かずに毎日鶴を折り続けている。そして静江さんはそのことを生きがいのように感じて、息子さんが必ず元気になることを信じるための心の支えになっているように思う。

決して千羽にならない折り鶴を千羽にしようと頑張ることが、病気と闘っている息子と一緒に、見えない何かと戦っている姿に見える。静江さんのその姿は、時に神々しくさえある。

だからこの嘘は、静江さんをだましていることにもならないし、小手先の誤魔化しであるという批判には当たらないと思っている。

人の心を救うための善意の嘘は、そのことによって不幸になる人や、だまされて困る人がいない限り許されるのではないだろうか。

愛情に満たされた嘘は、憎しみとか無関心の塊である真実より、大事にされてよい時があるのではないのだろうか。

その法人での僕の役割とは、愛のある嘘をつくことが心の負担とならないように、愛のある人たちの行動を支持することである。

その正しさを言葉と文章にすることによって、そのことが間違っていないと、職員の皆様が自信を持ってくだされば、僕の役割はまっとうできるのではないかと考えている。

人を相手にした職業において、答えがたった一つの正論しかないなんてことは、ありえないのだから・・・。
愛のある嘘

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74回目の終戦の日に思うこと


大型の台風10号がお盆の日本列島を直撃することになった今日は、74回目の終戦の日である。

今日行われる政府主催の全国戦没者追悼式は、戦後生まれの天皇陛下が初めてお言葉を述べられる追悼式でもある。そのことを想うと、時代は確実に変わってきていると言えるかもしれない。(※ちなみに今上陛下と筆者は恐れ多いことに同い年である。)

戦争体験のある人が減り、近い将来確実にそれらの人がいなくなる日本において、戦争の記憶を風化させてはいけないという声も根強い。しかし終戦から15年後に生まれた僕に、その戦争を語るなんてことはできない。

ただ僕が働く場所には、たくさんの高齢者の方が存在し、数多くの戦争体験を持っている人が少なからずいる。しかしそれらの人は、いくらお話し好きの人でも、戦争中の話をすることは少ない。中には戦時中の記憶を一切封印している人もいる。・・・それだけ悲惨な体験の時期だったのではないだろうか・・・。

戦争を体験した人たちは、日常的に愛する誰かとの突然の別れを経験してきた人たちである。こんな風に文字にするのはたやすいが、それがいかに哀しみと慟哭に満ちた体験かということに思いを馳せるとやりきれなくなる。

それに加えて、物がない貧しさや、食べるものがないひもじさ、自分の命がいつ失われるかもしれない儚さを毎日体験してきた人たちが介護施設にはたくさんおられる。あの戦争を生き延びたという思いを持つ人たちにとって、「命の尊さ」というものは、僕たちが思うそれよりももっと重たいものなのかもしれない。

それらの人たちの晩年が、少しでも豊のものになってほしいと思う。それは金銭と物質的な豊かさではなく、心の豊かさという意味である。せめてあの悲惨な時期に生き延びた人たちが、「長生きしてよかった」と思われる時期にしたい。そのためにできることがあるし、しなければならないことがある。

それらの人達の哀しみや苦しみを見逃さずに、そこに寄り添う勇気が必要だ。それが介護の本質だと思う。

「こんなことになるなら、あの時に死んでおけばよかった」と思われる社会や地域であっては、あまりにも悲しい。

そうであるにもかかわらず、つい最近も介護施設における虐待が報道されている。人手が足りなくて、やりたくても十分なことができないという現実があることはある程度理解できる。しかし人が苦しんでいるのがわかりきっているのに、それを無視して放置することなんて理解できない。どうしてそんなことができるのだろう。

40度近い熱が出ていた人を放置し、床ずれができて痛がっている人を放置し、処方薬を本人以外に投与し、多数の入所者に身体拘束をしていた熊本県菊池市の有料老人ホームの職員も、人の子であり人の親であるはずだ。介護の専門職と言う前に、人として何が問われているかを考え直してほしい。

介護サービスの場で、僕たちの手を必要としている人たちがいる。しかしその人たちがいるおかげで、今この日本の繁栄と平和があるのだ。

明日の食べ物の心配をする必要もなく、命の不安に毎日おびえなくともよい環境。大切な人がいつ目の前からいなくなるかを心配しなくてよい日常。それは自然発生したものではなく、戦中・戦後を生き抜いた人たちが努力して整えてくれたものである。

そういう感謝を忘れないための日が、「終戦の日」である。戦争を知らない世代に、そのことを伝え、すべての人の命と平和に敬意を払う日が、この日ではないのだろうか。

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広島の空・長崎の空2019


中学1年生の時、親からフォークギターを買ってもらい、シンガーソングライターを目指して、一生懸命フォークソングの弾き語りの練習をしていた思い出がある。

その時、吉田拓郎の唄は僕らの教本とも言えた。そんな拓郎の唄の中で、この暑い時期になると思い出すのは、「夏休み」という唄だ。

文字に張り付いたリンク先から、その歌詞を見ることができる・・・。しかしこの歌詞にはどんな意味と思いが込められているのかということを、その当時真剣に考えたことはなかった。というより夏休みがあった少年時代を懐かしむ唄としか思っていなかった。

消えてしまった麦わら帽子や田んぼの蛙。どこに行ったか分からなくなった、「あの時逃がしてあげた」トンボ。それは季節が移り替わったという意味だとしか思わなかった。

綺麗だった「姉さん先生」が、もういなくなった理由も、月日が流れたという意味だとしか思っていなかった。

しかし数年前偶然にユーチューブの下記の動画を見る機会があり、違う解釈があるということを知った。
夏休み (本当は切ない反戦歌だった?) 吉田拓郎

麦わら帽子や田んぼの蛙。あの時逃がしてあげたトンボは、原爆で一瞬のうちに消えたということか・・・。綺麗だった姉さん先生も、あの原爆で命を失ったということだろうか・・・。

確かにそういう意味にもとれる歌詞だ。そういえば吉田拓郎は鹿児島県出身とはいえ、大学は広島商科大学卒業だから、青春時代の一時期を広島で過ごしたことになる。さすればそんな拓郎が、被爆地広島で、原爆の悲惨さと戦争の理不尽さに思いを寄せて書いたのが、「夏休み」という唄なのだろうか。

事の真偽は解らない。本当にこの唄が原爆の悲惨さを唄ったものだと断言はできないが、ユーチューブの動画を観ると、「さもありなん」と思えてくる。そしてこんな行為を二度と繰り返してはならないと、そう思いながら毎年この時期になるとこの動画を観る習慣がついた。

そして今年も暑い夏が来た。

毎年「広島原爆の日」である日8月6日と、「長崎原爆の日」である8月9日にかけてのいずれの日かに「広島の空・長崎の空」という同じタイトルでブログを書いている。今日は旅の途中の列車の中でこの記事を更新している。

人類史上最も野蛮な行為と言える、「原爆投下」からすでに74年。それはそのまま太平洋戦争が終わってから今日までの年数を現す数字でもある。

被爆者の方々の平均年齢は今年82歳になったそうだ。その方々が、「生き証人」として、被爆地で何があったかを語ることができる期間はそう長くはない。そもそも平均寿命が82歳ということは、多くの生き証人の方々とは、8歳前後で被爆された方々であり、成人で被爆した人はもうほとんどいなくなっているということかもしれない。だからと言ってこの非道で無慈悲な行為を、決して忘れさせてはならないし、すべての人類に忘れさせないように伝え続ける必要がある。

日本人の中でも、広島県と長崎県にお住まいの方や、ゆかりのある方の思いは特に強いものだろう。その思いを決して忘れないように、すべての日本人が広島と長崎に思いを寄せ、祈る日が8/6と8/9という日である。それは原爆被害にあわれ亡くなられた方々に対し、心からそのご冥福を祈る日でもある。

僕は今、遠軽に向かう列車に乗りながらこのブログ記事を更新している。今晩JA介護センターみどりデイルームで行われる「介護事業におけるサービスマナー研修」の講師を務めるためである。

こんな風に日々高齢者介護サービスについて仲間と学びあうことができるのも、平和な国日本に住み、生きている間に一度も戦争という悲惨な体験を持つことなく過ごせているおかげである。そのことを当たり前と考えずに、平和が続くことへの感謝と努力を忘れないようにしたい。

平和で豊かな国という冠にほころびが見え始めているというが、僕は今までその恩恵を十二分に受けてきているので、その平和と豊さを次代につなげる仕事をしたいと思う。人の暮らしに関わる仕事のやり方を、人の尊厳と幸福を護る方法として伝えていくことも、そのことに関係ないことではないと思っている。

今日という日に深い祈りを捧げるとともに、一日一日が大切な日であることを心して、限りある命をそんな方向に使い切りたい。

広島と長崎の青い空に思いを馳せながら・・・。

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声なき声が聴こえなくならないように


センスという言葉がある。介護のセンスという言い方をしたりする。それは目に見えはしないが、時々そんなセンスを感じる人に出会うことがある。

センスのある介護者は、経験のない若い時にも、いろいろなことに気づくことができる。そんな人に出会うと、僕自身もうれしい気分になれる。

そういう人たちは介護業界にはびこる、「介護の常識は世間の非常識」という状態にも気が付く。それを変えようとして頑張って結果を出している人もいる。しかしその異常さに気がついても、そのことを変えられない現状を認識したときに、介護という仕事に絶望し、バーンアウトしてしまう人も多い。それが何より哀しい。

バーンアウトしないために、自分のセンスに蓋をしてしまう人もいる。

哀しい」・「苦しい」・「助けて」という利用者の声なき声が聴こえていた人が、いつの間にかその声を聴かないようにして、心の耳を塞いでしまったとき、声なき声どころか、実際にそこで発している悲痛な声さえも聴かなくなってしまう。その時、あんなに希望に燃えて就いた介護の仕事に、夢破れ疲れ、惰性でしか仕事ができず、おもしろくない仕事をこなしながら毎日を送るだけの人になる。それでよいのだろうか・・・。

世間一般の非常識が、介護では常識とされる一例として、日常的に「行列」を簡単に作ってしまうということがある。介護施設であれば、1日のうちに必ず1回以上は行列に並ばなければ、日常生活が送れないというとんでもない施設もある。

例えば昨日の記事で指摘したように、入浴支援を受けるために脱衣所にたどり着く前に1時近く廊下に作られた行列に並ばなければならないこともその一つだ。

トイレ介助と称して、トイレにたどり着く前に廊下人並ばされて何十分も放置されるという、「行列」も存在する。そんな行列に並ばされている人の中には、並んでいる最中に失禁してしまい、トイレは自排せつする場所ではなく、失禁の後始末の場所に成り代わってしまっているケースもある。

廊下に毎日のように並ばされている人であっても、そのことに決して慣れることはない。行列に並んでいる間は、いつも不満で、いつも不安だ。

そうした行列は人間と人間の間の隙間をなるべくなくすがごとく、前の人のすぐ後ろに並ばされるから、並んでいる人の顔のすぐ近くに、前に並んでいる人の車いすの背もたれがあるという状態になる。その圧迫感はほとんどの人にとってかなりのストレスだ。だから普段車いすを自走できない人も、そんな行列から脱しようとして、車いすのタイヤを手でつかんで動かそうとする。そうするとその姿を見かけた介護職員が、「危ないから動いちゃダメ!!」とスピーチロックという暴挙に出る。それは行動制限そのものだ。

行列をつくること自体が問題だが、その行列も少しでも動いたら人とぶつかるくらいの近さに、人と人との距離を取らずに人を並べ、そのまま放置しているあなたたちの行為そのものが危険なんだと言いたくなる。

行列に並んでいる人は、並んでいる理由もわからず、いつまで並ばされるかもわからないから、不安が助長される。だから、「誰か助けてください」・「私何をしたら良いのですか」と叫ぶことになる。

そもそも介護サービスの場でつくられる強制的な行列に並ばされている人が、全員おとなしく並んででいられるわけがない。行列を作る全国の介護事業者で、利用者は悲痛な声を挙げ続けている。そのことにストレスを感じている介護職員も多いはずだ。しかしその原因である行列をなくす方法がわからなかったり、行列を失くして利用者の助けてという声が出ないようにしようとする思いが伝わらない現場で、そうした職員は自らの心の耳を塞いでしまう。

声なき声が聴こえていた人が、心を閉じて、声になっている悲痛な叫びさえ聴かない人になる。その時、介護事業者は冷たい箱にしか過ぎなくなる。苦悩を包み隠すブラックボックスにしか過ぎなくなる。そうしてはならないのだ。

介護の常識が世間の非常識と気が付いたら、それを変えなければならない。変えようとしたときに必ず抵抗勢力にぶつかり、何度も跳ね返されるだろう。しかしあきらめてはならないのである。大事なことは、ダメなものはダメという勇気であり、良い方向に変えようとする情熱である。

しかし一度や二度の失敗で消える思いを情熱とは言わない。それは単なる気まぐれである。

利用者の声なき声を聴き続けるためには何が必要なのだろう。大切なのは与えられた才能ではなく、あり余る好奇心だ。それこそが専門家を突き動かす。そこに知性というエッセンスを加えることが大事だ。

知性とは、生業(なりわい)や人にひけらかすために身に着けるものではない。困難に直面したときに、どう立ち向かうべきかを教えてくれるのが知性だ。知識への欲求を捨て、日々同じことを繰り返す人生に意味はない。

勤勉、真摯、謙虚そして器の大きさ、それらのどれ一つが欠けても人の暮らしに寄り添う資格は無い。売名、不遜、おごり。どれか一つでも潜んでいれば、知識や技術も人を裏切る。

僕たちに求められていることは、見えない涙、声なき声を見失わないように、介護の現場で小さな勇気をもって、「利用者本位」の本質を考え続けることだと思う。青臭いと言われようが何だろうが、その一念に優る情熱はない。
見えない涙

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心遣いが見えるときに生まれるもの


岡山に行くといつもお世話になる、川上道子元中国学園大学中国短期大学専攻科教授から、次のようなエピソードを紹介された。

『ある家族の思いを聞いたことがあります。母親を特養に預けたことを心苦しく思っていた。面会に行くと、「昨夜ね、空気が乾燥気味なので、タオルを濡らして干しておきますね。と。そして部屋を出る時に、布団のズレを直した後、足元を軽くポンポンと叩いて空気を抜いてくれたのよ。」と嬉しそうに話す。娘としては、介護職の気遣いはもちろんのこと、母親の笑顔が何より嬉しかったと言われていました。若い男性介護職の優しさに触れたお話でした。』

このエピソードを僕の講演でも紹介しようと思い立ち、川上先生のお許しを得て早速次のようなスライドを作成した。
心づかい
このスライドは、早速明後日の北九州講演で使う予定だ。

というわけで僕は今、福岡行きの飛行機に乗っている最中だ。今回の講演は社会医療法人・北九州病院さんの介護系職員研修として行うものだ。

講演は2日間にわたっており、明日は介護支援専門員の皆様が受講対象で、「介護支援専門員に求められる役割〜医療・介護連携からターミナルケアマネジメントまで〜 」というテーマで講演する。そこでは先の報酬改定について、多職種連携という部分ではどのような方向性が盛り込まれ、介護支援専門員に対しては、どのようなメッセージが込められているのかを解説したうえで、今後の方向性を指し示す予定である。講演時間は90分を予定している。

明後日は10:10〜16:10という長丁場の講演で、介護職員さんが受講対象となっており、「介護のプロとして求められる実践力〜サービスマナーから看取り介護まで」がテーマである。その中で上記のスライドを紹介することにしている。

スライドに書いたように、「この笑顔をつくるものは何か?」ということについて、講演の中で、僕が今まで実践して結果を出してきた様々なケースを通して得た答えを示してきたいと思う。それは実際に僕が仲間とともに行ってきたことだから、理想でも幻でもない実践論である。

だからこそ、やろうと思う人は誰でもできることだ。講演を聴いて、「良い話で良かったね」だけでは終わらない、すぐにでも実行に移すことができる方法論である。あとはやる気があるかどうか、継続する覚悟があるかどうかにかかっているので、そこにつながるモチベーションを上げるような話をしてきたい。

心を込めると何もしないのに笑顔になってくれる人がいる。それは心は見えなくとも、心遣いが見えるからかもしれない。心遣いができる職員を数多く生み出すためにも、マナー教育は不可欠となる。明後日の講演テーマはそれらをすべて網羅したものであり、時間もたっぷりあるため、十分伝えることができると思う。受講した内容を深めて確認するためにグループワークの時間もとっている。北九州病院の皆さん、よろしくお願いします。

対人援助とは目に見えない、「心配り」なしで語ることのできない職業だと思う。しかし心を配るという態度は決して介護報酬上のアウトカム評価の対象にはできない。そういう意味では国が目指す「アウトカム評価につながる介護報酬」=「自立支援介護」とは、その程度のものでしかなく、それを目指すだけで、人を幸福にできないことは明らかである。

ではどうしたらよいのか・・・。根拠ある実践方法の中に心配りというエッセンスを加えるやり方を、伝え続けることでしかその答えは出ない。その答えを伝えていきたい。

そもそも心配りができる仕事は、精神論で創り出すものではなく、自然発生もしない。それはプロフェッショナル意識の中で生まれるものだ。

心配りというのは、ホスピタリティに相通じるものであるが、それが生まれるか否かは、組織風土や職場環境にも左右される。それを創り出す環境とシステムが必要になることも忘れてはならず、そのための考察はおざなりにできないことを、事業経営者は常に意識しなければならない。

心を込め、心を配るだけで、幸せになってくれる人がいるとするなら、こんな素敵なことはない。お金をかけずともできる方法で、誰かが笑顔になってくれるとしたら、それに越したことはない。

そしてそれは案外簡単に手に入れることができる習慣なのかもしれない。そんなふうに思える、目からうろこの話をしてきたいと思っている。

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風が吹いている。


自分は人と比べて優れた存在ではない。むしろ劣ることが多い存在だ。人より誇ることのできる何ものも持っていない。

物心つくころから、そんな風に思い続けてきた。だからこそ人前で、背伸びして実際の自分より良い自分を人に見せようとしていたこともある。その傾向は年を取った今もなくなっていない。

自分のありのままをさらけ出すのは怖いことだ。恥ずかしいことだと思う自分も確かに存在している。若いころはそんな自分を隠して、違う自分を人前で演じることにエネルギーを使うことが多かった。そんなことに疲れて、人の目を気にしない場面が増えてきたように思う。それは自分が少しだけ図々しくなったからに過ぎず、人生に達観したとか、正直になったということではない。人前で自分を飾ることが面倒くさくなっただけだ。

同時に人前で自分を飾ることを少しずつ恥ずかしく思うようになってきた。飾っても飾り切れない人間の本質というものは、誰かの目には見えているのだろうと思う。

いつまでたっても人の目は気になる。人の声が気にかかる。・・・しかしそれはそれでよいのではないかと思うようになった。人は人の中で生きているのだから、周りの人を無視できる方が異常だ。周りのことが気になるのが当たり前だ。それが人間という存在だろう。

僕の人生はもう半分以上過ぎている。若いころと異なり、明日不慮の出来事があってももったいない人生ではないと思う。

世に名を残そうとも思わない。消えてなくなった時に、誰かの記憶に残る必要もない。できれば汚名だけは残したくないと思うだけだ。自分の「老い」に気づかずに、世に迷惑をかけるようなことがないように祈るのみだ。

人は老いる。それは自然の摂理であり、恥ずべきことではないが、だからといって誇ることでもない。老いを自覚し静かに隠棲できることを祈るのみである。

自分は、自分より人生をずっと長く生きてきた高齢者の方々の、最もプライベートな部分に関わることで、「生活の糧」を得てきた。これはある意味異様なことである。異常なことといってもよいかもしれない。人生の先輩に向かって、自分は恥ずかしくない姿で相対してきたのだろうか。

生活支援と称してずいぶん失礼なことをしてきたような気もする。法律に触れるような悪行をしたわけではないが、若気の至りという言葉だけでは済まない業を負うような行為がなかったとは言えない。生意気な行為を繰り返して今の自分があるのかもしれない。そんな繰り言を言っても始まらないし、聞く側の人は迷惑なだけだろう。だから「ごめんなさい。」は自分の心の中だけでつぶやいていればよい。別な誰かには「ありがとう。」と心から声をかけるのみだ。

風はそこにただ吹いているだけなのに、ある時は身を切るように冷たく、ある時は何より心地よく爽やかだ。風は風という存在でしかないのに、自分の身の上の中でその存在感が変わってくる。それを感ずる人のありようで顔を変えているかのようだ。喜び勇むのも、思い悩むのも、地上のほかの存在のせいではなく、身の上のせいでしかない。哀しい自分は誰より哀しいが、うれしさで満ち足りた自分がどこかにあったことや、これからも確かにあることを忘れてはならない。

誰のせいでもなく、誰の責任でもなく、僕は僕として今ここにある。

これから僕はどこに行くのかは、僕も知らない。僕の行こうとする道だけがそこに伸びているわけではない。行きつく先も想像できない。そこにたどり着くのが明日になるのか、はるか遠い日になるのかもわからない。だから人生は面白いと思っていればよい。

不安や心配があって当然だ。それがすべてなくなるのは人としての歩みをやめるときだろう。

人生が面白くないと思うのも自由だが、どうせ自分で自由に決めることができることなら、面白くないことを選ぶ必要もない。面白いと思い込んでおればよい。

ずいぶん年を取ったと思いながら自分が歩んだ道を振り返るのもよいのだろうが、振り返った道に自分の足跡があるわけではない。ただそこには見えない風が吹いているだけだ。

だから今はまだ人生を語らずの心境である。

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思いに気づく、おもいやり。


介護の仕事に専門性を求めようとしたときに、〇〇療法などという言葉に専門性を感じて、なにもかもを療法にしたがる人がいる。

しかし療法という言葉だけが独り歩きして、療法として行われる行為が介護サービス利用者にとって意味のないものになるばかりではなく、至極滑稽で迷惑な行為になっていることもある。それは専門性とはかけ離れたものとしか言えない。

介護というものは特定の病状や非日常をターゲットにするわけではなく、一人一人の生活者の日常の暮らしにアプローチするものであり、極めて個別性の高いプライベート空間に介入していく行為である。そこではある領域のプロ意識以前に、生活者としての常識感覚が必要とされることが多く、療法よりも行為そのものが重要になってくることが多いのだ・・・わかりにくい表現かな?

わかりやすい例として、「化粧療法」なるものを取り上げてみたい。

化粧療法とは、スキンケアやメイクなどの化粧を行うことによって、心身機能やQOLの維持向上など健康寿命の延伸をめざす、アンチエイジングのための療法と言われている。それは高齢者全般を対象とするだけではなく、認知症の人の心身活性化を目指して実施されることも多い。

それが効果的な場面もあるだろう。

しかしそれよりももっと重要な視点が介護には必要なのだ。介護の専門性とは、化粧を療法にすることではなく、女性が化粧をしていきたい場所や、会いたい人を失わないようにすることである。

認知症の人であっても、化粧をしたいと思える日常をつくることこそ、心身機能の活性化につながるし、QOLの維持向上にとって求められることだ。

化粧療法と称する時間をとって、その時に綺麗になったと周りがはやし立て、その瞬間に認知症の人の良い症状を引き出すことに意味がないとは言わないが、化粧療法の前後の日常で、その人が無表情で誰ともコミュニケーションを交わさずにいたとしたら、その療法とは一体何のためにあるのかということになる。

それはまるで、療法という冠がつけられた行為を行う時間をつくるためだけを目的とした行為でしかなく、療法によって日常が良い影響を受けているとは言い難い。化粧をするための目的となる行為があってこそ、日常は変わるのではないのだろうか。

化粧品メーカーの販売戦略に踊らされて、化粧を療法化する介護施設で、日常はどのように創られているのだろうか?

もっと当たり前に豊かな日常を考えて、それに向かった支援の在り方を創造してもらいたい。

離床の目的は、単にベッドから離れることではない。人は行きたい場所があり、会いたい人がいるからこそ、生きたいと思うのである。会いたい人と会うときには、できるだけ見た目もきれいでいたい。そのために女性は化粧をしたくなるし、身だしなみを整えたいと思うのだ。

女性にとって化粧とは、人に会うために施すごく当たり前の生活習慣だから、そんなものを療法にしてはならないのである。

服装をはじめとした身だしなみを整えることは、人と会うために必要な支援行為である。つまり整容介助の意味は「当たり前の暮らしの援助」の域を出ないし、他に意味を見出す必要もない。

だからこそ化粧をして、きれいな服を着て、身だしなみを整えることは重要であり、介護支援を必要とする人が、「生き生きと暮らす」ためには、重要かつ必要不可欠な支援なのである。

逆に言えば、会いたい人のいる場所に行くときに、髪の毛が乱れたままの寝ぐせの状態で、目やにも付いたまま、寝間着も着替えずにそこに連れていかれるとしたら、そんな場所でその人たちが、生き生きと暮らすなんて無理である。

そんな場所で、「生きたくはない」と思われるかもしれない。そんな風に人前に出されるとしたら、もういっそのこと自分というものはこの世に存在しないものと考えて、誰とも会いたくないと思い込み、会いたい人がいることを無理に忘れ、本当の自分を殺して無表情で息をするだけの存在になろうとしている人がいるのかもしれない。

みんなと食事を摂る場所に、車いすで連れていかれる人で、寝間着を着たままでいる人が無表情であることが多いのは、案外そんな理由かもしれない。

利用者の思いに気づき、その思いに寄り添おうという、「思いやり」が失われてしまった場所では、そんなことにも気が付かないのだろう。

それはとても哀しい介護の現実と言えるのではないだろうか。

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祈り・思い。


痛ましいという表現では表したりない悲惨な事件が昨日川崎で起きました。

罪を憎んで犯人を憎まずという言葉がありますが、日本中の大多数の人々が、19人を殺傷した犯人には憤りと憎しみを感じているのではないでしょうか。

被害を受けて亡くなられた方のご冥福を心から祈ります。

けがをされた方も、身体・精神両面の後遺症が心配です。一日も早いご回復を祈ります。突然愛する子や夫を奪われた遺族の方々の気持ちを慮ると、とてもやるせない思いになります。その人たちの哀しみが癒される日は来るのでしょうか・・・。

ある日このように、自分の家族の命が理不尽に奪われたとしたらと考えると背筋が寒くなります。本当に悔しくて、悲しくて、せつない事件です。

犯人が自殺してしまった今、本当の犯行動機なんて明らかにならないでしょう。今後こうした事件を防ぐ手立てだってないでしょう。

自殺を前提にして、その道連れにこうした犯行に及んだとしたなら、この犯人にはどんな罵声を浴びせても、どんな裁きを与えたとしても、それが足りるということはないと思います。しかし罵声も司法の手も届かないところに行ってしまった人間に対して、どう対処したらよいというのでしょう。あまりにも卑怯で、人でなしの犯行と言えます。

命を奪われた人、けがをした人に何の落ち度もありません。送り迎えをしていた学校の安全対策にも全く問題はありません。これ以上の対策なんてあり得ません。それでもこうした事件が起こってしまう。私たちは何をどのように考えてこれから暮らしていけばよいのでしょうか。

狂った人間が凶器を持って無差別に無抵抗な人を襲うなんてことを想像して暮らしている人なんていません。そんなこと考えていたら1秒とて普通の暮らしを送ることはできません。気をつけなさいって言われても、何をどう気を付けたらよいのかわかりません。

考えれば考えるほど憤りの気持ちでいっぱいになってしまいます。憤ってもどうすることもできない現実に、さらに腹が立ってきます。

私たちにできることは、もう二度とこうした悲劇が起きないことを祈ることだけです。

そして尊い命が理不尽に奪われ、幼い子供たちが恐怖の中で心身に傷を負ったという現実を直視し、あらためて儚い命の尊さをかみしめて、命は護られなければならないものだということを伝えていくことだろうと思います。

私たちは対人援助の仕事に携わっているのですから、誰よりも人の暮らしに深く介入していくことになります。そこは命を育む場所ですから、誰よりも命の尊さを想い抱きながら日々の職務に携わっていかねばならないと強く感じております。

殺伐とした世の中においても、人の心が荒廃しないように、真摯に一人一人の暮らしに関わっていくということを続けていくことしかできません。そんなことがこのような悲劇に対して何の意味もないことはわかっていますが、できることを続けることで、あきらめたり、投げやりになったりすることがない姿勢を示さなければと思います。

せめてそのことだけは忘れないようにしなければ、虚しさしか残らないような気がするからです。

それが私たちの生きざまにつながっていくのだろうと思います。

介護という職業を仕事としてではなく、「生き方」として選んだと思いながら、この職業の中で、そんな生き様を刻んでいきたいと思います。

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生命って何だろう・・・。


今日書くことは、多くの方に共感されることはないだろうと思いながら書いている。

このブログは僕の勝手な思いを書きなぐる場所で、人からとやかくいわれる覚えのない場所であって、不快になるならわざわざつなげて読むなと言ってよい場所なので、共感されないことは気にしていない。だけどこれから書こうとしていることは微妙な問題なので、誤解されても困るなと思う。今日書くことは、どっちが良いとか悪いとかいう問題を超えて、別の見方も必要なのではないかという意味の問題提起だということだけは理解いただきたい。

さて本題。総務省が「こどもの日」にちなんで公表した推計によると、今年4月1日時点の15歳未満の人口は前年より18万人少ない1533万人となっているそうだ。

これはとても深刻な問題である。社会全体が老化し活力がなくなるばかりではなく、将来日本という国の国際的な影響力が今よりずっと低下していくことも意味している問題だからだ。

それとともに全産業にわたる人手不足も、さらに深刻になることを意味している。介護業界の最大の悩みも人手不足だが、それは日本全体で生産年齢人口が減り、全産業で人手が足りなくなっていることと繋がっている問題だから、介護難民を生まないためにも、介護業界でサービスの品質競争を促して、介護支援を必要とする人のQOLを担保するためにも、子供の数を増やすことが一番求められることである。

そうであれば社会保障政策として少子化を止め、子供を増やす施策を実現することが政治家に求められると思うのだが、その成果が出るのには10年も20年もかかり、すぐに結果がわかるという問題でははないために票につながりにくい。そのため目先の利益誘導に走って票を獲得しようとする政治屋ばかりの現在、そんな大局観を持った政治活動は期待薄なのだろう。(※政治家ではなく、あえて政治やと呼ぼう)

ところでこの問題と直結しているのは出生者数である。手元にある最新データは2017年度統計である。それによると2017年の新生児は94万1,000人で、調査以来はじめて100万人を割り込んだ2016年(平成28年)の97万6,978人に続き、出生数は2年連続で100万人以下となっている。おそらく2018年度はもっと少なくなっているはずだ。しかしこの出生数には闇が隠されている。

作家であり、医師でもある帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい)氏は、自身の小説の中で、「出生者数と同じ数程度の人工中絶が毎年行われている」と書いている。勿論小説はフィクションであり、この記述自体に何の根拠も証明責任もないし、このことを実証する表立った数値データは存在しない。しかしそれは極めて事実に近いと言われている。

出生率の低下で将来の行く末が懸念されているその国で、出生数と同じだけの堕胎(だたい)が行われているのである。

人工中絶に関して最近話題になったことと言えば、アメリカ・アラバマ州のケイ・アイヴィー知事が、5月14日に人工妊娠中絶を全面的に禁止する法案に署名したことである。これにより母体の健康を損なう以外は人工中絶が認められず、レイプなど性的暴行の被害による妊娠でも中絶が認められないという全米で最も厳しい法律が制定され、人権団体などが抗議の声を挙げている。

この話題については、我が国のテレビ等の報道番組やワイドショーでも取り上げられ、有識者とされるコメンティターが、「レイプ被害者が、レイプによって妊娠させられたケースまで、中絶を認めないのは、女性の権利侵害に等しい」とコメントし、それに対して多くの共感の意見が寄せられていたりする。

その意見を否定するつもりはないし、反論するつもりもない。そもそも僕はアメリカのその法律の是非については、論評する立場にるわけではないことも自覚している。

そのうえで一つだけ意見を述べておきたいことがある。

女性の権利(あるいは人間の権利と表現しても良いのかもしれない)を護るために、場合によっては人工中絶もありとする人たちは、人工中絶される対象となるものにも、すでに生命が宿っていることをどう考えるのだろうか?ということである。

人工中絶によって闇から闇へ葬られる胎児もしくはエンブリオ(受精後8週間以降を胎児と呼び、8週目までをエンブリオと呼ぶ)も生命である。心臓をはじめとした内臓の各器官はすでに人として形成されているばかりではなく、脳も形成されているということをご存じだろうか。

つまり胎児もしくはエンブリオとは、母親の子宮の中に宿されているという以外は、この地球で生きている人と何ら変わりのない存在であるわけである。そうであれば人工中絶とは、すでに生命として存在しているものの命を奪うことに他ならない。母体から離れて人として生きている人を殺せば殺人であるが、母体に宿る胎児もしくはエンブリオの命を奪っても殺人とならないというのは、本来おかしことなのではないだろうか。

人の権利を護るために中絶も必要な場合があると評論する人は、人工中絶で奪われるものも生命であるということを知っているのだろうか。知っていたとしたら、そのことと命の尊さを敬うことと、どのように整合性が取れると主張するのだろうか。

胎児もしくはエンブリオが、人として法律で認められている存在ではないということは僕も十分承知している。しかし法律論だけで生命は語れないのではないか。法的責任や法的問題とは別問題として、「生命とは何ぞや」という視点から議論されるべき問題ではないだろうか。

その中でわが国では、毎年胎児もしくはエンブリオの生命が、出生数と同じ数くらい人工中絶で奪われているということを真剣に考えるべきである。

その先には、「赤ちゃんポスト」とか、子供ができない夫婦が不妊治療のために何千万円も使っているという問題も関連してこようが、その前に、医療科学が発達した今日であるからこそ、貧困を理由にしない「赤ん坊の間引き」がこれほど数多く行われ、その問題が実に軽く取り扱われているという事実について議論すべきではないだろうか。

今日・今この瞬間も、せっかくお母さんの体に宿った命がむなしく消えていくことをどう考えるのかを真剣に議論すできではないのだろうか。それは僕やあなたと変わりのない「生命体」であるという事実とともに・・・。

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看護技術がartではなくなった理由


ナイチンゲールの著書である「看護覚え書」(1860年)は13の章で構成されている。

それはクリミア戦争(1853〜1856)において、イギリス軍の野戦病院に赴た際の看護実践に基づいた内容であり、それぞれの章で書かれていることを要約すると以下のようになる。

1.空気を適切な温度に保ち、換気を十分にすることが大切
2.きれいな水を与え採光などに気を配ることが大切
3.チームの中でリーダーが他の看護師の言動にすべて責任を持つことが大切
4.騒音や内緒話など、不必要な物音は患者さんに不安を与える
5.よい環境の変化が気分転換となり、回復につながる
6.体調などに合わせて、食べられるようにすることが大切
7.栄養バランスが大切
8.こまめにシーツ交換し寝具の環境衛生に努めることが大切
9.健康維持や回復のためには、陽光が必要
10.こまめに掃除を行い、清潔を保つことが大切
11.体を拭いて清潔を保つことが大切
12.よけいな話をして、却って不安を与えず、励まして勇気を与えることが大切
13.表情や顔色、排泄物などを観察して患者さんの体調を確認することが大切


ナイチンゲールは、そのほかにも戦闘で傷ついた兵士に、「故郷に帰る」という動機づけを持たせることにより、勇気を与えることが大切だとも述べている。

上記の内容を読んでわかるように、これらは現在看護というより介護として行われている行為がほとんどである。現代の看護師はこれらの行為より、「もっと高度な看護技術」を行っているとして、看護覚え書きに書かれている行為を、「介護職員」に丸投げしてしまっているような看護現場もある。

その結果患者に勇気を与えるどころか、上から目線の傲慢な言動で、屈辱と不満しか与えない看護師が増殖している。患者を不安にさせない技術など一切持たずに、その存在そのものが不安要素だとしか思えない看護師がそこかしこに存在する。僕が1年間勤めていた千歳市の老健や、その母体病院(精神科)においては特にその傾向が強くみられた。

ナイチンゲールは「看護覚え書」の中で、看護技術をスキル(skill)という言葉ではなく、アート(art)という言葉で表現している。しかし眉に手をかざして患者を見つめることをしなくなった現代看護を、アート(art)と表現することはできない。

介護はそれと同じ轍を踏まないようにしなければならない。

介護は今、看護職が放棄した大事な行為を担っているといっても過言ではない。その行為を介護の更なる下請け職をつくって手渡すのでは、介護職の存在価値そのものがなくなってしまうという危機感を持つべきである。

介護という行為は本来、どこかの場面を切り取って行うことができる行為ではないのだ。介護支援を必要とする人々の暮らしとつながっている行為であるということが、介護の本質である。そのつながりを切ってしまうような専門分化は必要とされないのである。

人を見つめ、身体上の小さな変化を見逃さず、声なき声を聴き、心の動きをも見失わない姿勢が何より求められる。介護技術をいかに高めようと、ナイチンゲールがその著書の中で書いた行為を、誰にでもできる「程度の低い行為」だと勘違いしてはならない。

介護をアートにする必要はないけれど、介護が人の暮らしを護り、人が人として生きていく過程を支援する行為であることを忘れないようにせねばならない。介護という職業を通じて、人の役に立つ喜びを感ずる人であってほしい。そのために何が必要かを日々考えてほしい。

介護とは単なる動作支援ではなく、人の行為を支援するものだからこそ、ナイチンゲールが挙げた13項目が必要かつ大切なものになることを忘れてはならない。

そうであれば介護職のアイデンティティの確立や、学問としての介護の体系化が課題だとされて点についていえば、ナイチンゲールの考え方をそのまま当てはめてもよいのではないのか。ナイチンゲールは「看護覚え書」で看護を学問として確立した功績があるとされているが、ナイチンゲールが当時唱えた看護学とは、前述したように今は介護として行われている行為がほとんどなのだから、それを当てはめればよいだけの話だと思うのだが、それを当てはめて説明できる介護教師がいないということなのだろうか。

そんなことは僕なら簡単にできるのにと思うのである。

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73回目の終戦の日


日本は今日、終戦の日から73年目を迎えている。

73年前の8/16以降に生まれた人はすべて、「戦争を知らない子供たち」というカテゴリーにひとくくりにできることになる。僕らもそのくくりの中にいる。

終戦の日なのか、終戦記念日というべきなのか、はたまた敗戦の日と呼ぶべきなのかは人さまざまに考え方があろうが、どのような形であれ、73年前の今日、あの悲惨で無謀な戦争に終止符が打たれたことは、今この国で平和を謳歌している日本人にとって幸福なことだと思う。

戦争には結果があって、当事国は勝者と敗者に分かれるが、敗者だけではなく勝者にあってさえなお、戦争は悲劇であることに変わりはない。戦争という争いがなければ生まれなかった悲劇が、勝者の側にも、敗者の側にもそこかしこに生まれていくのが戦争の本質だ。一方で、戦争であったからこそ生まれた幸福というものは存在しない。戦争は不幸しか生み出さないのだ。

自然の順番とは逆に、自分より若い命が先に奪われる場面に遭遇する「逆縁」が日常的だった異常な時代に、何よりも大事な我が子の命が、健康な体のままで奪われていくときの親の気持ちはいかばかりのものであったろう。「お国のため」とは言いながら、若い身で命を投げ捨てなければならなかった息子の死出の姿を見守る親は、どのような精神でその悲劇を耐え忍んだのだろうか。

日常に「死」があることに、当時の日本人は、どのように忍びぬいたのであろうか。

終戦によってそのような悲劇渦巻く時代には終止符が打たれたといえる。そん後の平和な時代に生まれた人は、戦争がないという幸運の中で、豊かな社会の恩恵を受けているといえる。

一方で平和ボケの日本人も、そろそろ未来永劫この平和が続く保障がないことに気づき始めている。この平和を守っていくために何をしなければならないのかを真剣に考えないとならない時代であることを実感している。

そうであれば、あの戦争体験者がまだ残っているこの時代に、その方々があの戦争中に経験した悲劇や、その中で抱いた哀しみの感情を拾い集めて、次代に伝えていく必要がある。戦争体験を語ることのできる歴史の証言者たちも、あと20年もしないうちに居なくなるかもしれない。最期の証言者たちがいるこの時代に、目を覆わず耳をふさがずに、どの戦史にも載せられていない名もなき一市民の悲惨な体験談を語り伝えてもらう必要がある。

戦争が終わった昭和20年(1945年)という年は、終戦の年であると同時に、たくさんの日本人が、たくさんの非戦闘員である無辜の民が、無差別に命を奪われた年である。米軍が上陸して陸戦が行われた沖縄で、人類史上最も無慈悲で残酷な原爆被害にあった広島と長崎で、そして日本軍が制空権を牛なったことにより無差別に爆撃された全国各地で、たくさんの悲劇と惨劇が繰り返された。

日本の都市の中では京都市と並んで、札幌市がほとんど被害を受けなかったという奇跡はあるが、北海道全体を見渡すと、終戦の日の1月前である7/14〜7/15にかけて大空襲が行われ、室蘭・釧路・根室・函館・小樽・帯広・旭川を心に甚大な被害が生じた。そこのは戦史に決して載ることがない幾多の哀しみと慟哭が存在していたであろうことは想像に難くない。

今日という日は、すべての戦没者の冥福を祈りながら、この国が再び間違った方向に進むことがないように誓いを胸に刻む日である。平和な時代に生まれたことに感謝しながら、その礎となっているのは何かということにも思いをはせ、いつか来た道を進まない知恵を大切にしなければならない。

そして改めて命の尊さをかみしめながら、命と向かい合う対人援助という職業の中でできることにも、思いを寄せたいものである。

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自立型介護施設で暮らしたいですか?


人は生きるためには自立する必要があるのかもしれない。でもそれは生きるための目的や目標ではないはずだ。

心身に何らかの障害を抱えている人であれば、日々の暮らしを営むためには、その障害を克服して自立することが目標の一つになるのだろう。

しかしながら、その場合でも最大目標が「自立」であるというのは間違っている。ある目標を達成するために、身体的にも精神的にも「自立」が求められることはあったとしても、それだけが目的化されるのはおかしいし、そんな暮らしの中で生きるのは苦行でしかない。

一般論で言えば、自立を目的に生きている人はいないのである。

しかしながら介護保険制度の目的の一つが「自立支援」であることから、対人援助とは誰かを自立させるためにあると勘違いする輩がなくならない。持続できる制度であることのみに偏った制度改正や報酬改定により、介護保険制度とは国民の尻を叩き続ける制度となってしまっているが、そのことに洗脳されてはならないのである。

できる行為を失わないように支援することは大事だが、それは自立が最大の目標だからではなく、できることを続けることによって実現できることがあり、それはその人の幸せにつながるかもしれないからである。自立が目的ではなく、自立の先にある「暮らしの質」が本当の目的なのである。

そうであれば自立できない人に、それを強要するのではなく、誰かが力を貸すことで手に入れることができる「暮らしの質」を求めたって良いのだと思う。

人間は独りぼっちでは生きていけないが、その意味は、人に頼ることができることで社会生活は成り立つという意味だ。

身体機能に障害がある人であっても、自分の意志がしっかりしていれば、他人からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動することができるのだ。その時には人に頼る、委ねるという選択権を持てばよいだけの話で、人に頼ることができるという素晴らしさを忘れてはならないのである。そのことを「自律」と呼ぶのであって、本来介護保険の目的も自立支援ではなく、自律支援であるべきだ。

精神の病などで意思決定ができない人に対しては、周囲の人々が、その人は何がしたいのかを慮って物事を決定するという代弁機能が求められるが、それは人間にしかできない尊い行為ではないのか。だから僕は、アドボケイトのもう一つの意味は「傍らにいることを許される者」になることだと主張している。

そんな風に人は、周りの誰かに頼って生きていくことができるという素晴らしい存在ではないのだろうか。頼ることのできる素晴らしさを忘れていないだろうか。委ねることができる人がいることの尊さを失っていないだろうか。頼ること・委ねることは、共立できるということなんだから・・・。

しかしながら自立支援が最大目標であるかのように勘違いした(あるいは洗脳された)人は、エビデンスのないキャッチフレーズだけの自立支援介護を最高のものだと勘違いしてしまっている。その最たる例は、「竹内理論」と称される、根拠のない強制水分摂取であり、その理論の実践で亡くなガラ暮らしている高齢者が全国にたくさんいるというのが、この国の実態だ。それは恥ずべき姿だ。

さらに恐るべきことに、暮らしの場であるはずの特養にさえ的外れの自立支援が強制される傾向が見える。「お世話型介護施設から、自立型介護施設への脱却」というキャッチフレーズを使って、自立できない高齢者の尻を叩き続ける施設が出現している。いったいいつまで人は頑張り続けねばならないのだろうか。80年も90年も頑張って生きてきた人が、さらに自立を強要される施設で、安心した暮らしを営むことはできるのだろうか。そこで暮らしたいと思うだろうか。

人の暮らしとはもっと多様性があるものだろう。一つの目的だけで表現できない多様性の中に生きるからこそ人生は豊かになるのではないのか。

自立型と謳う介護施設は、その多様性を喪失させてしまうだけのように思えてならない。せめてケアマネジメントをはじめとした、我々の対人援助の視点は、頑張らなくてもよい介護を模索しなければならないのではないだろうか。

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不寛容な時代に持つべきプロの矜持


現代社会は不寛容な社会だ。そしてその不寛容さがピークに達しているのが今という時代ではではないだろうか。

誰もが自分以外の他人を許そうとしない。ネット上では、いつも過度な言葉狩りが行われており、一言の失言も許されないかのようだ。

失言を狩る人間の、その尻馬に乗ろうとする輩も数知れない。それらの多くは、自分の言葉ではなく、誰かの言葉に便乗して人を罵る輩である。せめて自分の言葉を持てと言いたい。

周囲に染まらぬ異分子は抹殺されるのが当たり前という論理がまかり通っているのが今の日本だ。

それはなぜだろう。いつの頃からか社会も個人も希望を失って、その閉塞感が人を保身に走らせているからではないのか。保身は卑屈さの元凶だ。その卑屈さが自分自身の中身を腐らせて、その鬱屈した感情が自分と毛色の違う人間や少数派に向けられるのだ。

周囲と毛色が違う人々を攻撃し排斥しようとする限り、自分は人から攻撃を受ける立場にならないし、卑屈さを感じなくてすむのである。そういう人間が常に攻撃できる誰かを探すことができるツールがインターネットだ。SNSは探し出したターゲットを最も攻撃しやすいツールである。そこでは一般大衆という名の化け物が、不正を糾弾されている人間には問答無用で罵声を浴びせ、自分より上座に居るものの転落を喜ぶ。無抵抗な人間には際限なく悪意を振りかけるのだ。

そんな歪んだ感情が、善意のある人々に牙を向ける例も枚挙にいとまがない。それはさもしい姿でしかないが、それによって傷つき立ち直れない弱者が存在するという事実から、僕たちは眼をそむけて良いものだろうか。

対人援助の世界では、すべての従業者が底辺の暮らしを送りながら強制労働させられているかのような印象操作がされることが多くなった。そういう世界だから虐待する人間がマジョリティーで当たり前であり、それを否定する人間が偽善者とののしられるかのような傾向もみられる。

そんな中では、周囲の誰しもが感動するエピソードは、作為のあるポエム化だと冷笑される。そんなことはないと主張するものなら、悪例や例外をマジョリティー化するさらなる印象操作でもって、本当に綺麗なものさえ「キラキラポエム」という表現でひとくくりにして悪意を持って罵倒される。

それはあたかも五体満足でないものは影に隠れて表に出るなと烙印づけしているかのようだ。

そういう悪意とは戦うべきだし、悪意に対しては悪意を投げつけて糾弾しても良いと思っている。そうした悪意に対する感情は歯に衣着せず、素直に表現すべきだ。介護・福祉に対するスティグマは徹底的に排除しなければならないからだ。

実践が伴わない空虚な人間が語る素敵な物語の中には、フィクションのキラキラポエムもあるだろう。しかしそんな表現とは無縁の経験を、僕たちはたくさん持ち合わせているのである。そういう経験ができなかったレベルの人間に、それはフィクションだろうとか、ポエムだろうと否定される筋合いは一切ない。俺のレベルまで上がってから文句を垂れろと言いたい。

相談援助職とは、ある意味そういう戦いの先頭に立つべき職種である。護るためには戦わねばならないときがあるのだ。

そんな仕事に自分は向かないなんて甘えないでほしい。

仕事の向き・不向きなんていうのは、結局のところその人間の我儘に過ぎないのではないだろうか。

相談員にしろ、事務員にしろ、介護職員であっても、看護職員であっても、医師ですら最初からプロであるわけがない。仕事を続けるうちにソーシャルワーカーは、相談援助職としての頭になっていくし、医師は医師の思考回路になってくのだ。

ある職業に就いて、その中の専門職として役割が与えられてしまえば、素質があるとか、ないとか泣き言は言っていられない。その職業で食っていかねばならないのだから、職業を選択した時点でプロになろうとするのは、社会人として最低限の義務ではないだろうか。

他人と違う道を歩けば、他者とは違う景色がみられる反面、それは時として棘の道かも知れない。未舗装の曲がりくねった道で、時にはぬかるみに足をとられて、どこにたどり着くかもわからない不安に胸を押しつぶされそうになることもあるだろう。しかしそれは自分だけが陥っている状態ではなく、誰しもが多かれ少なかれ経験していることではないのだろうか。そこから逃げようとしている者に、他に行くべき場所があるのだろうか。そんな場所があるわけがない。

その道のプロと呼ばれる人々は、ある一定の性格を持ち合わせた人ではないし、特別な才能がある人とも限らず、多くは諦めないで一つの道を歩み続けた人である。

そういう意味では、器用に何でもできる人がプロらしく見えるわけではなく、不器用に一つの道しか進めない人の方がプロらしく見えるってこともあるのかもしれない。不器用に確実に道を歩むことができる人にしかできないことがあるのかもしれない。

プロになるのに向き不向きは大した問題ではないということだ。だから今いる場所で、どっしり居座ってプロを目指す方が、ポジティブで確実な明日が迎えられると思う。

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権力に求められるもの


介護事業者にとって、行政は間違いなく権力だ。どんなに小さな保険者の、経歴の浅い担当者であっても、指導権限を持って事業者に臨む担当者は、権力そのものである。

彼らは指定権限や指導権限を持つだけではなく、ローカルルールという公的議決を経ない規範さえ創りだせる。行政処分という伝家の宝刀も振るうことが可能だ。介護事業者は、その権力の斧にひれ伏さねばならない場合も多い。

しかし権力を持つものは政治家や行政職員だけとは限らない。

介護事業者においても、経営者や管理者・管理職は一般職員に対して権力をふるうことができる立場だ。小規模の事業者で、事業経営経験も浅く、スキルが伴わない管理職であっても、職員にとっては大きな権力者である。それは一般職員にとって、自分の生活さえも左右される権力といえるかもしれない。

だが一般職員にも、ある種の権力が備わっている場合がある。

例えばどんなに若く、社会的な地位や名誉もない職員であっても、介護施設などのサービスの場で利用者に相対した時、認知症や重度の身体障害を抱えた利用者に対して、どのような行為を行うのかを自らの一存で決定できるという介護従業者は数限りなく存在している。

夜勤時間帯に、フロアにたった一人のサービス担当者として存在する介護職員は、ある意味、利用者にとっての絶対権力者として存在すると言えるのではないだろうか。

そう考えると、人間はある場面では権力に恐れおののき、それにひれ伏す立場であるとしても、場面が変わるだけで、誰かに対して権力を振るう立場に立つ可能性があると言えるのではないか。そうであるがゆえに、権力とは何か、それをどのように使うのかということを常に考える必要もあるのではないだろうか。

知恵のある人間として権力とは何か、権力に求められるものは何かを考えなければならない。この世に人として生まれ、生きるものとして、権力はどのようにつかわれるべきかを考えないと、人は不幸を振りまくために存在してしまうことになる。

僕はそんなふうになりたくないので、権力は常に正義と一体でなければならないと考える。正義のない権力などただの暴力に過ぎないからだ。

そんな権力など存在しない絵空事だと笑ってはならない。

例えば介護支援の場が常に正義にあふれ、正しい方向に進んでいるとは言わない。そこには歪んだ介護が存在することを否定しない。昨日発覚した和歌山県橋本市の老健での虐待事件では、24歳の男性職員が、夜中に大声で叫ぶ96歳の女性入所者に腹を立てて、当該女性の顔や胸に熱湯をかけ、重傷のやけどを負わせたとして逮捕されている。フロアのたった一人の夜勤者として、全ての行為の決定権を持つ絶対権力者が、認知機能が低下するというハンデキャップを負った弱者に対して、正義なき権力を振るった結果が、このような非道な行為に結びついている。

正義を伴う権力を絵空事だと笑う人は、このような行為を是とするか、やむを得ないとあきらめる人である。それではあまりに情けないし許されない。僕はこんな行為を是とすることはできないが、それ以前に手にした力の使い方を間違えないように、人として持つべき心について、常に正論を語り合わねばならないのだと考える立場である。

正論が常に通じる社会はないと論ずる人がいるが、だがそれを以て高邁を画餅と断じるのは妥協ではなく迎合である。理想を掲げることが絵空事だというのは卑怯者の言い訳である。

正論はいつの世でも愚鈍で生真面目で幼稚な真理だ。だからこそ子供にも理解できる。どんな浅学の人間にでも通用する。

所詮人間は自分の決めた規範から逸脱できないようになっている。そうであれば自分の規範は、正義をもって規定したい。

その時、自分の正義に逆らえば、その人は一生自分を責めるようになる。何かの折に思い出し、そのたびに良心の呵責に苦しむ。もちろん正直さが安寧をもたらすわけではなく、自分だけの正義を貫けば周囲との軋轢や現実からのしっぺ返しもあるだろう。どちらを選択してもそれぞれの試練が待っている。そうであれば人としてこの世に生まれたことを感謝する立場から、他人を不幸にだけはしたくないという立場でものを考えたい。

そう考える人が介護の現場にいるだけで、利用者は安心できるのではないか。それを目指さぬ対人援助者とは、どこに存在意義があるというのか?

そのような考え方を笑って馬鹿にする輩とは議論する必要も感じない。愚かなものに倫理を説いたところで無意味である。愚かだから学習能力もない。そんな輩は糾弾することすらもったいないから、嗤うしかない。

僕達の業界の職能団体の中にも、嗤うしかない団体が存在している。そこに会費を支払っている人は不幸だと思うが、それも自己責任だ。そんな話はまた明日の記事に引き継ごうと思ったりしながら、いつものように、自分の心の叫びを書きなぐっている。

それがこのブログの本質である。そんな文章にお付き合いいただいている方々には、心より感謝している。


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咲こうとする人の姿からもらう勇気と希望


介護×経営で「介護現場から未来を変える」人材を輩出する、をスローガンにしているKAIGO LAB SCHOOLの修了式(卒業論文発表会)に参加し、6名のファイナリストの卒論発表を聴いてきた。

どなたも情熱にあふれ、かつ理論的な発表であった。しかもそこにはソーシャルアクションにつながる提言が含まれており、中には地域の中で新しい実践活動を始めて、介護支援の新たな基盤づくりをしている人もいて、大変感銘を受けた。

発表者の中には、他産業に従事している際に、「うつ病」になって仕事ができなくなった後、たまたま介護の職業に就く機会を得ることができた中で、介護の職業を通じて「うつ病」という病気に向き合い、乗り越え、それを治癒することができたという発表があった。

その方は今、介護事業所の管理者を務めているわが身を振り返って、介護はストレスが多く、「うつ病」になりやすい職業ではなく、「うつ病」の人を立ち直らせることができる職業が介護であるという立場からの提言をされていた。

発表者が「うつ病」という病気を、介護という職業の中で克服した理由や条件もいくつか挙げられていた。

介護という新たな未知な職業に就いたとき、自分ができないことはともかく、できることだけを確実に行おうとしたことが、精神科領域の行動療法の効果をもたらしたのではなかという点。

ちょっとした行為で、利用者や同僚から、「ありがとう」といわれ、感謝されることが多い職業に、喜びを感じることができる自分がいたこと。

何より、うつ病という病気で働けなくなったことに、家族を含めた周囲の人々の理解が得られず、怠けているとか、さぼっているという誤解を受け続けたことで、人が自分のありのままを受け入れることの難しさを知る反面、それを理解的に受け入れる喜びやうれしさを知る自分がいたため、介護の職業の中で出会う、認知症の人や、障害を抱えた人の気持ちを理解することに努めた結果、そのことで心の繋がりが生まれたことなどが挙げられていた。

とても良い発表を聞いた。6人の若者には心より感謝したい。

僕も北海道の登別という場所で、毎回2年をかけて5本の「あかい花」を育てている。(参照:5本のあかい花

あかい花道場は、KAIGO LAB SCHOOLと異なり、どこからも資金提供を受けず、あくまで僕のポケットマネーだけで行う活動だ。その理由は、今まで僕が介護という職業を通じて得てきたいろいろな対価を、社会にお返しするという意味だからだ。さらにどこからのしがらみも束縛も受けないためには、わずかであっても資金提供を受けることはできないと考えたためでもある。

そしてその活動内容も、表に出すことはほとんどなく、生徒が誰かも紹介することもない。彼らと僕は師弟関係ではなく、僕はあくまできっかけと兆(きざ)しに過ぎず。彼らは実践の中で、彼らの花を咲かせる必要があるからだ。

KAIGO LAB SCHOOLが、毎年20名の卒業生を送り出しているのとは異なり、僕の道場は、2年間で最高5人の卒業生しか出せないが、そんな小さな活動であっても、体と資金が続き、希望者がいる限り継続していこうと思う。

そんな思いを新たにする一日だった。それにしても、「ありがとう」といわれることを当たり前と思いこまず、その言葉に喜びを見いだせる感性は素敵だ。その言葉に喜びを感じることができる人は幸せだ。
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本当にありがとう。君たちの未来に幸多かれと祈っています。

どうぞ日本の介護の新しいスタンダードを創る人になってください。
2/24(土)は福岡で、2/25(日)は岡山で、介護の誇り出版記念セミナー介護施設・事業所で虐待を発生させない〜介護サービス質向上の具体策を行います。お近くの方は是非この機会にこちらをクリックしてお申し込みください。


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街も暮れゆく


日中の最高気温が20度に達した沖縄県名護市での講演を終え、昨日午後の飛行機で北海道に帰り、降り立った千歳空港の午後5時30分の気温は氷点下3度だった。日本は広い。

そういえば南国の沖縄では「紅葉」の季節はないそうである。そうした常緑の沖縄では、桜祭りが1月に行われるというのにも驚く。

こんなふうにして今年も日本全国をまわり歩いて講演を行い、様々な人々との出会いがあった。そんな旅の中で思うことは、南北に長い日本では、その地域地域で様々な慣習があり、暮らしがあるということだ。

地域包括ケアシステムとは、そうした地域の慣習や、そこで暮らす人々の日々の営みを護ることを目指すものでなければならない。そのシステムがお題目に終わってもならないし、その言葉が給付制限の方便として使われることがあってはならない。

そのためには徹底的に人を見つめ、人を思い、人を護ることが、我々対人援助に携わる者の使命だということを自覚しなければならない。保険・医療・福祉・介護は、経営主体の目的が達せられるために存在するのではなく、この国に暮らす人々の命と暮らしを護るために存在するのだという根幹となるものを揺るがせてはならない。

我々のミッションとは、事業者が潤うこと以前に、支援を受ける人々がこの国で幸福な暮らしを送るということが実現するためのものである。勿論、経営母体の基盤が揺らいでは、支援行為自体が成り立たないので、収益を上げながら経営を続けるためのミッションも必要になる。しかしそれが利用者の生命や生活の質に優先されるものではないことを自覚せねばならない。

残念なことに介護業界には、事業者目標さえ達せられれば、利用者の暮らしの質などどうでもよいと考えている人も存在する。科学的根拠のない理論を普及させるために、利用者の悲哀を無視して、根拠のない行為を続けている事業者も存在する。竹内理論による大量の強制的水分摂取は、その最たるものである。しかし今月22日にNHKがその欺瞞的理論を紹介する番組を放送した。これによって水分の大量摂取が行われて命を落とす人が出てくるかもしれない。NHKはその責任をとれるのだろうか?

脱水によるせん妄は、脱水状態でなくなれば改善するだろうが、大量の水分摂取で認知症が治ることなどありえないことがなぜ理解できないのか。アルツハイマー型認知症は、脳の神経細胞が壊死して症状がおこるのであり、脳細胞が再生しないのに、どうして水分摂取で認知症が改善するなどと言うインチキ理論がまかり通るのだろう。

その番組内容を批判したスレッドが、表の掲示板に立っているが、今更こんな議論がされることが残念である。洗脳介護とはかくも恐ろしいものである。

竹内理論による洗脳介護、そこで行われている人権を無視した強制水分摂取は虐待そのものである。そうしたことを行わずとも、認知症の方々の行動・心理症状は改善することは、カンフォータブルケアの実践でも証明されている。

竹内理論の実践としての、利用者を引きずり回す歩行介助や、舌を血豆だらけにして無理やり口をこじ開けて行う水分摂取は、利用者の家族には見えない場所で密室化されて行われる。カンフォータブルケアの実践は、誰にでも目が届く場所でオープンに行われる。どちらが優れた実践なのかということは、今更言うまでもない。

こんな間違った介護方法がこれ以上広がらないように、科学的根拠に基づいた介護の方法論が浸透するように、来年も僕は全国をまわって伝え続けていくだろう。

介護の質を護る実践論を伝え続けていく。2/24(土)は福岡で、2/25(日)は岡山で、「介護施設・事業所で虐待を発生させない〜介護サービス質向上の具体策」を行う予定である。

人々の暮らしを護る介護実践の具体策を示すセミナーに、是非たくさんの方においでいただきたい。1月に入ったら、このセミナーに備えて是非2月の勤務調整を行っていただき、多くの皆様に参加していただきたい。ぜひよろしくお願いします。

介護の仕事に携わっている人は、年末年始に関係なく働いている方が多いだろう。今日が仕事納めという人もいるかもしれない。僕は2/1まで講演を一時お休みするが、1/4に締め切りとなっている連載原稿の執筆をはじめ、原稿書きで予定が埋まっている。皆さんも体に気を付けて新年を迎えていただきたい。今年のブログ記事は、今日を書き納めにする予定である。

新年は元旦から記事更新する予定であるが、大晦日の酩酊具合によっては予定を変更するかもしれない。

それでは読者の皆さん、今年も僕の拙いブログ記事を読んでいただき心より感謝申し上げます。どうぞ良い年をお迎え下さい。


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広島の空・長崎の空2017


北海道から遠く離れた九州ではあるが、僕は九州の全県で講演経験があり、今現在も毎年数多くの講演依頼を受けて、年間最低10回以上訪問機会がある場所である。

そのためか九州はとても好きな場所で、それは食べ物やお酒がとてもおいしいだけではなく、とても素敵な人がたくさんいて、そんな人たちとの繋がりが広がり続けている場所であり、次はいつ行くことができるかと、いつも心待ちにしている。

そんな九州の窓口を開いてくれた最初の講演地は、長崎県であった。

それが何年前のことか忘れてしまっているが、長崎市や佐世保市、島原市などで過去に数多くの講演機会をいただいている。今年も長崎港からさらに船で100分かかる新上五島町からもご招待を受け、飛行機とバスと船を乗り継いで、2日がかりでたどり着く11月の講演旅行を、今から楽しみにしている。

そのようなご縁をいただいている長崎県の長崎市は、鎖国時代には西洋に開かれた窓口として栄え、開国後も外国人居留地が設けられるなど特異な歴史と文化を育んできた街でもある。そこは海、山、川などの自然と、道路、橋、建築物等の人工的な構造物によって構成される美しい街だ。

しかし72年前の今日、その街は炎と放射能に覆われ、焼き尽くされた過去がある。

昭和20年8月9日午前11時02分に長崎市浦上地区に原爆が投下された。当時の長崎市の人口はおよそ24万人。その年の12月末までに73.844人が亡くなった。

その3日前、8月6日午前8時15分に広島市に原爆が投下れた際には、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。

生き残った人々の人生も無残なものに変えた許されざる行為が、原爆投下である。

毎年、広島原爆の日か長崎原爆の日に、このタイトルでブログ記事を書いているが、年々平和が奪われる脅威が迫っているように思えてならない。この平和な国を守るために僕たちには何ができるだろうかを改めて考えたい。

先ほど11:02に、ここ登別市でも黙とうの合図となるサイレンが鳴り響いた。3日前の8:15にも鳴り響いたであろう(僕は岡山滞在中で聞いておりません)同じサイレンの音を聞きながら、今日も深く頭を垂れ祈りを捧げた。

無辜(むこ)の民を情け容赦なく無差別に殺傷する行為は、人類史に残る汚点である。そのような被害を受けた国に住むものとして、戦争を体験した世代、戦争を知らない世代に関わらず、その理不尽さと平和の尊さを訴え続けていかねばならない。

そんな国の政府は、唯一の戦争被爆国でありながら、7月に国連で採択された核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しなかった。僕にはその姿勢はさっぱり理解できない。恥ずかしいことだと思う。

復興した美しい街並みを見ながら、あの日の長崎、あの日の広島に思いを馳せ、この平和を守り続けるために何ができるのかを考えなければならない。

そしてあの戦争で亡くなったすべての人々に対し、安らかなれと心より祈り、この平和で美しい街並みを、永遠に守り続けることを誓いたい。

悲劇を繰り返さないでと祈り続けたい。



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気づきは才能ではない


対人援助の場は、人の感情が様々に交差する場所である。

そこで僕達は、うごめく感情の渦に巻き込まれないように冷静に対処すると同時に、そこで行き交う感情に敏感になり、見えない涙を見逃さないようにしなければならない。

人は誰も、自分がいる場所に、たくさんの哀しみが存在することを欲しないだろう。欲しないからこそ、そんなことはないという否定的な感性で物事をとらえてしまい、無意識のうちに哀しみや苦しみなどの、否定的感情を見ないようにしてしまうことがある。そこに存在する涙を見逃してしまうことがある。

しかしそれでは現実を変えることはできない。あるものをなかったことにしたり、臭いものに蓋をするのではなく、正しく現状把握して、変えなければならないものは変えようとせねばならないし、失くさなければならないものは取り除かねばならない。

介護施設で大きなイベントをするときに、そこに参加して喜んでいる人の感情にだけ触れようとするのは間違っている。イベントが行われているその同じ場所で、そこに参加することなくベッドの上で横たわっている人は、今何を感じ、何を思っているのかを考えなければならない。

アトラクションを観て笑っている人の傍らで、つまらなそうにしている人や、苦しそうな表情の人がいるのはなぜかを考えなければならない。

大きなイベントの後で、職員がそれをやり切ったという充実感を味わっているまさにその時に、「祭りの後の寂しさ」に表情を曇らせている人はいないかを考えなければならない。

トイレ介助のたびに、長い時間廊下に並ばされる日常を強いられている人たちの表情はどうだろう。その時に、その人たちはどんなことを考えているのだろう。

食事をする愉しみとは程遠い食事摂取をされている人は、そのことをどう思っているのだろう。

プライバシーのかけらもない、排せつ介助や着替え介助を受けている人たちは、恥ずかしさを感じていないのだろうか。それは慣らされて飼われていろといってもよい状態ではないのだろうか。

年下の介護職員にタメ口で話しかけられ、それに対して丁寧語で答えている利用者の思いはどこにあるのだろう。

サービス提供者の都合で、午前中から入浴させられている人が、この暑い最中に午後から汗をかいても、その汗を流す機会もない暮らしを強いられている人は、そのことに何の不満も持っていないのだろうか。そもそも運営基準で入浴支援は週2回以上と定められているからと言って、週2回しか入浴できない生活を強いられている人は、それで満足しているというのだろうか。

よろこびの表情、うれしさの感情だけではなく、辛い・苦しい・哀しいという感情に、誰よりも敏感にならねばならないのが、僕たち対人援助に関わる者の役割りではないのだろうか。

しかしそうした気づきは、才能・能力によって左右されるものではないと思う。そうした気づきは、僕たちの目の前にいる一人一人の方々への関心の寄せ方で左右されるものだろうと思う。対人援助の職業に携わる限り、専門職の姿勢として、一人一人の利用者に関心を寄せることが何よりも大事だ。

無関心は最大の罪である。
心の痛み


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心で泣いて叱る愛


非常勤講師として教壇に立っている介護福祉士養成校の学生の半分は、20歳前後の若者である。

彼ら、彼女らは熱意もやる気もあるのだが、いかんせんそのやる気を示す方向性が違っていたり、ちゃらんぽらんであったりすえることが多い。知識もまだ拙(つたな)く、自分の思いを正しく言語化する術(すべ)を持っていない。

教壇に立つ身としては、学生に対して単に介護の基礎知識を暗記させるのではなく、人として成長させるのが務めと考えているので、彼らのやる気を正しい方向に向かわせ、他者に誤解されないように、彼らの素直な思いを伝えることができるようになる訓練を心がけている。特に学生たちが目指すものは、対人援助の専門家になるということなのだから、人に対して優しく思いやることの意味や、その思いをどう表現するのかということを伝えたいと思っている。

そのため時には、叱咤激励の意味を込めて、強い言葉で叱ることもある。しかしそれは感情にまかせての怒りの発露とは違うと思っている。

僕が6月と7月に担当している授業は、社会福祉演習という授業で、高齢者に限らず社会福祉全体を網羅する事例研究を、演習授業という形で行う授業だ。4人〜5人のグループで、毎回司会進行役、記録係、発表者を順番で担当しながら、それぞれの役割の責任を負い、決められた課題についてグループの意見をまとめて、発表を行うというものだ。

発表者は指定された時間内で発表を終えるだけではなく、指定時間以下の発表も許されないというルールを設けている。

学生にとって上限時間内で話すより、下限時間以上に話をすることのほうが難しいのが実態で、グループでまとめた意見を、単に棒読みするだけではこの下限時間はクリアできない。そのために発表者には、自分の意見を交えながら工夫して話をすることが求められる。そしてどうしても下限時間をクリアできない場合は、授業に関係のないプライベートのことでもなんでもよいから、「話をする」時間が下限時間を超えればよいとしている。

ドメスティック・バイオレンスが行われている家庭で育った子どもが、そのことによって受ける影響に関する演習発表では、自分がその体験者であることを滔々と語る子もいたりして、その話は一教師の講義より学生の心を打つ内容であったりする。僕自身の学びにもなる。

幼児虐待の事例演習では、しつけのための暴力と、虐待といえる暴力はどこに線引きがあるのかという疑問が呈されたりする。

これらの疑問に対して僕は、正答を示すことはできないだろうが、疑問に対する僕なりの見解を示すことは避けることができない。教師の務めとして、疑問に真摯に応えることは避けて通ることができないからである。

僕は二人の子を育てた親として、その意見を述べる。僕自身は、暴力がしつけになるとは思わないが、どうしても子の頬を、自分の掌で打つ必要がある場合、それは自らの感情に任せての行為ではないと思う。親が子の体を痛める行為を行うときは、親の感情で暴力をふるうということではなく、心で泣きながら、自分の掌の痛みも厭わずに、子の頬を打つのだろうと思う。そこにあふれんばかりの愛情があるからこそ、その行為は許され、それはしつけになるのだろうと思う。

そういう前提のない暴力は、すべて虐待行為である。年端のいかない子を、力の強い大人が、その力でもって支配するだけの行為を、「しつけ」とは言わない。愛情の伴わない、「教育」はあり得ないのである。

しかし、最初から親であった親はいない。誰しも親になるときは、初心者なのである。だから間違えることもある。子をやったことがある親であっても、親をやったことのない親は、間違えるのである。だから感情に任せて、子に怒りをぶつけてしまう親も時に入るのだろう。その時に愛情があって、後悔する気持ちがある親なら、愛するあなたのお子さんは、間違うあなたを許してくれるのではないだろうか。

過去に発達心理学を学び、児童福祉の専門家を気取っていた僕であっても、この程度の見解しか示すことはできないが、そのことを心をこめて、真摯に伝えるのが、僕の授業に臨む姿勢である。

そしてこうした教育の場が、僕にとって何よりやりがいのある場所になりつつある。その授業もあと数日で終わり、その授業を受けている学生たちとの別れが近づいている。あと数回の授業で、学生たちに何をどれだけ手渡すことができるかを、寂しさとともに、思う日々が続いている。

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希望を胸にしている人たちへのエール


希望を胸に、社会人として飛び立とうとしているあなた。どうぞその希望を達成するために、前を見続ける人になってください。

時として、あなたのバリアは先輩職員かもしれません。しかし低き意識に迎合したり妥協する必要はないのです。そんなものに押しつぶされてはなりません。イノベーションが必要な職場では、あなた方が吹かせる風が唯一の力なのです。僕はそういう人々を応援して、力になりたいと思います。

新たなステージで頑張ろうとしているあなた。どうぞその気持ちを忘れないでいてください。そして自らの職業に誇りをもてる仕事をしてください。

私たちと同じように介護事業に携わる人は、この仕事が「対人援助」であるということを忘れないでください。

介護事業だからといって、収益を挙げることを心苦しく思う必要はないのです。良い仕事をして、それに見合った報酬をいただくということは何も恥ずかしくないのです。スキルの高い経営者が、介護事業の中で大きな収益を挙げて豊かになることに何の問題もないのです。

けれども忘れてはならないことがあります。護らねばならない一線が存在します。

介護とは人の暮らしを豊かにするために存在するのだという矜持を捨ててはなりません。それを実現するための理念は捨ててはならないのです。

介護サービス事業の利用者の尊厳を無視して、人を不幸にして収益を挙げるのは法律では罰せられなくとも、人として許されることではないことを決して忘れないでほしいと思います。

人を不幸にして儲けたとしても、それは誇りある職業とは言えませんね。そんな誇りなどくそくらえだと思う人もいるかもしれませんが、自らの生活の糧である職業に誇りを持つことができない人は幸福だと言えるでしょうか。自分の親や子に、胸張って自分の仕事ぶりを語って聞かせることができない職業に就いているこ人は、本当にそれで満足なのでしょうか。

お金や物があふれていることだけが幸福なのでしょうか。勿論、お金や物品は必要なものです。それを否定する必要はありませんが、人としてこの世に生を得て、わずか数十年の人生を歩む中で、それだけを目的として生きることが良い人生なんでしょうか。

価値観は人によって様々ですから、幸せも、良い人生も、僕が決められるものではないです。けれど人としてこの世に生きている以上、人を不幸にして、それを踏み台にして自分の幸せが組み立てられるとしたら、それは人として許されることではないし、望むことではありません。それはとても空しいことだとではないでしょうか。僕はそう思います。

最も幸せな人とは、小さなことにも幸せを感じる人ではないでしょうか。最も不幸な人とは、何に対しても満足できない人ではないのでしょうか。

介護という職業は、いつも小さな幸せを見つけることができる職業でもあります。何気ないことを心をこめて行うだけで、誰かが笑顔になってくれたり、感謝してくれたりします。そのことを幸せだと思えるとしたら、あなたも私も、とても幸せな人生を歩むことができるのではないでしょうか。

ただし間違ってはいけないことがあります。介護サービスを利用する人の感情が、常に肯定的なものではないということです。

そこに存在する人々には、喜怒哀楽があり、介護サービスを泣きながら利用している人がいて、どうしてわかってくれないのと悲しんだり、いかったりしている人もいるということです。それらの方々の笑顔や満足感を、どのように引き出すことができるかを考えて実践するのが、私たちの専門性といえるのかもしれません。

誰かの哀しみや苦しみを見逃さないでください。

他者の喜怒哀楽に敏感になって、その感情に寄り添うことができ、少しでもその方の手助けができたと感じられることを喜びにできる人であったら、あなたはとても素敵な人だと思います。

そんな素敵な人たちが増えてくれることを願います。そんな素敵な人となら、きっとどこかでつながることができるでしょう。

そういう人たちが、誇りを胸に働き続けられる職業であることを願います。そのために何をしたらよいのか。それを一緒に考えていきましょう。
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この国で生かされている者として


自然は人々に多くの恵みを与えるが、時に甚大な被害も与える。人類の歴史とは、その繰り返しである。

僕たちが生きるこの時代に、僕たちのすぐ近くでも、大きな自然災害が繰り返し起こっている。そしてそのたびに尊いたくさんの命が失われていった。

僕たちに今できることは、失われた命に思いを馳せ、亡くなられた人々を偲び、祈ることだけである。

今日は、あの阪神大震災から22年目にあたる日だとして、朝からそれに関連するニュースが流されている。大震災の記憶が風化していることや、被災者の高齢化など様々な問題が指摘されている。確かに六千人以上がなくなった大災害が起こった日であるが、その報道時間も年とともに減っているように思う。そして今、神戸に立ち寄っても、あの震災の爪あとを感じるような風景は見えない。

しかしそこで暮らしを営む人々は、僕のような旅人が見ることのない爪あとをまだ感じているのかもしれない。現に震災復興住宅の中での高齢化が問題になっている。そこに住まう人々は、あの震災で家を失った人々であり、そのなかには家族を失った人がいるのかもしれない。

肉親や知人を失った人々の哀しみは決して風化することも、消えてなくなることもないのだろう。

僕たちが、それらの人々の思いを察しようとしても、決してその思いに届くことはないのだろうが、せめて僕たちは、大きな災害が起こったその日に、あらためて命の尊さを思い、失われた人々の無念をかみしめて、残された者たちにできることを精一杯考えたいものだ。この日本という国の中で、何ができるかを考えたいものだ。

今日が阪神大震災の起こった日であることを意識したわけではないが、昨日自分のフェイスブックに、次のような思いを綴った。

人とはどのような存在だろう?

「人は愛するもの」、「愛情を持って接することができるもの」、「想いを寄せ、想いをつなげられるのが人」、「想いのネットワークでつなげられるのが人」。・・・そう思いたい。この答えが的を射たものではないとしても、人ということを語る上で、他者に対して「思い」を馳せる存在としての人を考えることは大切だろうと思う。人を支え、人から支えられる存在として、人の間と書いて「人間」と呼ぶことができる存在として、自らの存在や、人の存在を考えていくことは大事なことだと思う。だから人は愛するものだという場所から、自分や他人を見つめることがあっても良いと思う。

3.11や熊本地震で被災された数多くの人々、命を失った数多くの方々がいる。そうした地域で、日々の支援活動に汗をながし続けている我々の仲間たち全てに思いを寄せて、出来る限りの愛を持って、これからもそれらの人々を想い続けることが、この世に生まれ、今この瞬間もこの世に生かされている我々の務めではないかと思ったりする。


偶然このような思いを綴ったのにも何か意味があるのかもしれない。過去の災害では、僕と縁のあった方々も被害にあわれている。それらの人々にどのような思いを伝え、何を祈ろうとするのかを、今一度深く考えたい。

阪神大震災が起こったのは午前5時46分だったか・・・。早朝の眠りから覚めないまま、命を落とした人がいるのかもしれない。着の身着のままで避難した人々も、この冬の寒さでさらにつらい思いをしただろう。

僕が今ここでできることといえば、頭を垂れて、思いを寄せることだけである。その思いを文字にして伝えることだけである。

今年成人式を迎えた若者が生まれていない日の出来事である阪神大震災。

あの時は介護保険制度も誕生していなかった。3.11や熊本大地震と阪神大震災の違いは、地域の中で支援を必要とする高齢者に、介護支援専門員という担当者がいるか、いないのかという違いでもあって、しかしそのことは、非常に大きな違いであり、介護保険制度によって誕生した、介護支援専門員という有資格者の存在意義は大きいことを、このブログでは何度も指摘してきた。

その思いは今も変わりない。

そうであるからこそ、その資格を持った人々が、使命と誇りを持って人の暮らしを護ることを応援すると同時に、使命感のない、支援スキルのない人に対しては厳しい言葉を投げつけることもある。

しかしその言葉は、他人に対するものという意味だけではなく、自らにも投げかけているものであり。自らの心に問い続けるものでもある。

自分が今この国で何ができるのかを、同じ職業を持ちながら、志半ばで命を絶たれた人の思いを感じながら考えて生きたい。

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2017年の元日を迎えて


明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いしたします。

今年も何事もなく無事に新年を迎えられますたことに感謝しています。我が家は専業主婦の妻のほか、長男は札幌で障がい者福祉関係の仕事に就いており、次男は地元室蘭の一般企業で働いておりますが、どういうわけか、本来は暦に関係ないはずの僕と長男がここ数年は暦どおりの休みで、一般企業に働いているけど、エネルギー部門で、管理が必要な次男だけが、大晦日も元旦も出勤ですが、それでも平穏なお正月を迎えられております。

今年は30年以上働いた職場を退職し、新しい職場に移って迎えた正月になりますが、おかげさまで新たな職場でもストレスなく勤務できており、希望を胸に新しい年を迎えられました。これもひとえに周囲の皆様のおかげです。

介護事業者は、ますます厳しい風を受けます。

来年の介護報酬と診療報酬のダブル改定は、安倍内閣の骨太方針により、社会保障費の伸びを2018年まで、現状の毎年1兆円から五千億円に抑えられるのだから、給付帆自体は増大しますが、単価は抑えられる中で、サービスの効率化が必要な薄利多売戦略の中で、利用者である要介護高齢者から求められる事業者は、顧客をしっかり確保して成長できる反面、知恵のない小規模事業者は淘汰されていきます。、

しかしそういう厳し次代であっても忘れてはならないのは、我々の仕事は書類や数字を相手にしているのではなく、目の前に「利用者」というかけがえのない人々に向かい合っているという事実です。その人たちの命や暮らしを無視した事業戦略であるなら、恥ずべきこと以外何でもありません。

僕たちが相対する人々の笑顔が、今年は去年より多く見られるような「関わり」でなければ、我々の存在意義はありません。僕はそのことだけは忘れません。それが違うという場所からは退場します。それはセンチメンタリズムではなく、僕の生きる証です。

今年も僕たちの周りからたくさんの笑顔を作り出して、社会全体の幸せにつなげていきましょう。

スインクグローバリー・アクトローカリーの精神は、今年も僕にとって大切なキーワードです。

それでは皆さん、今年もよろしくお願いします。誰かの赤い花になるために、カッコ悪くても熱く生きましょう。
無題

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死のある日常風景


幼い頃、親戚の葬儀に出た記憶はほとんどない。祖父や祖母が亡くなったのも、社会人になって以後のことだから、もしかしたら本当に葬儀に出たことはなかったのかもしれない。

どちらにしても、自分の周りに「死」というものが存在することを実感することは少なく、それはずっと遠い場所にあるように考えていた。

高校生のときに、クラスメイトの親が亡くなり、その葬儀に出たことは鮮明に覚えている。親の死に遭遇する同級生がいるということで、死というものが自分達と、さほど遠くに存在するものではないという思いを抱いた覚えがある。

それ以来、葬儀に出る機会は徐々に増えていったが、葬儀に出るからといって、それが死というものを考えることにつながらず、礼を失して恥をかかないようにセレモニーをこなすような意識に気が傾いていったように思う。

そんな風にして、死というものは僕にとって相変わらず、獏(ばく)としたもので、日常に転がっているものではなかった。

僕が社会人として初めて就職した場所は、特別養護老人ホームであった。その施設は僕が就職した半年前に創設された法人が、僕が社会人としてスタートする初日に、特養をオープンさせるという新設施設であった。

特養というものが、介護が必要な高齢者施設である以上、健康な方ばかりが入所してくるわけではないことは理解していたし、設備基準として、「霊安室※下記注釈参考」がある以上、そこで亡くなる方がいるということも十分理解していたつもりであった。
(※設備基準は、その後改正され、現在の特養には霊安室を設備しなくて良いことになっている。)

しかしその特養がオープンした1週間後、ひとりの利用者が亡くなられた。入所後5日目の死であった。

決して病状が悪化しているわけではなく、特養に入所できるくらい安定していた方が急変して亡くなられた。思えば目の前で息を止める人を見たのは、そのときが始めてだったように思う。・・・ショックだった。

周囲では僕と同じようにショックを受けた、新卒の介護職員が泣いていた。

ちなみにその当時は、介護福祉士という資格もなく、男性の介護職員も居らず、専門学校で保母の資格をとった女性が介護職員として雇用されることが多かった。泣いていた職員も、保育の専門学校を卒業したばかりの二十歳の子だった。

その後、僕の回りに日常的に死が存在するようになった。職場では、毎年何人もの利用者が亡くなり、その都度涙を流すような職員も居なくなった。相談員(当時は指導員という職名だった)としての僕は、ご遺族に弔意を述べながらも、空床を埋めるための業務を淡々とこなすようにもなった。いつの間にか誰かの死に対して動揺することもなく、ショックを受けることもなくなった。

それは成長したのではなく、単に慣れただけである。慣れたというもうひとつの意味は、心が麻痺したという意味ではないだろうか。人の死に慣れ、感性を鈍らせていただけである。

しかしそれは駄目なことだと思うようになった。尊い誰かの生命の灯が消えることに、慣れて惰性で仕事をするのでは、対人援助の専門家としての成長はないように思った。

人の死を悼み、哀しく思う感情を失うことは、成長ではなく鈍化にしか過ぎないと思うようになった。感情を失うことは、他人の感情に気がつかなくなることのように思った。

統制された情緒関与の原則が大事であることは理解しているし、人の感情に巻き込まれては困るので、遺族の悲しみに同化する必要はないが、人として縁を得て接してきた一人の命が燃え尽きたとき、そのことに感情を震わせないことがプロフェッショナルだとは思えなくなった。

人として一人の命が失われたことの哀しみを持ちながら、なおかつ職場というステージで、冷静さを失わずに、自らの使命を全うすることがプロの態度と、慣れと惰性で仕事をこなすことは違うのではないのか。

哀しくない自分がそこにいるとすれば、なぜ自分が今心を震わせていないのだろうかということを考える、もう一人の自分を持っていることが必要なのかもしれない。

そんな風に思うようになった。

それは自分が親しいものを送る立場になったから持つようになった思いかもしれない。祖父や祖母だけではなく両親をも看取り、死が自分と意外と近い場所に対峙していることに気がついたからかもしれない。肉親の死というものに向き合ったことが大きいのかもしれない。

それが僕が肉親から渡された、命のバトンなのかもしれない。そう思いながら、僕は看取り介護の場面にスタッフの一人として参加し、対象者やその家族に向かい合っている。それが「生きるを支える」という意味だと思っている。(明日に続く)
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豊かなる心はどこにあるのか


福祉援助は、もともと救貧対策として始められた経緯がある。

そのため「物とお金の豊かさ」を現わす「福」と、「心の豊かさ」を現わす「祉」という文字を組み合わせて表現されている。

そして祉より先に、福があるという意味は、まず人として生き得る最低限のものを得ることを目的としており、それが充足してはじめて心の豊かさが生まれることを現わしている。

つまりここで言う、「物とお金の豊かさ」とは、決して贅沢な暮らしを現わしているわけではないということだ。

何が贅沢で、何が最低限なのかという尺度は存在しておらず、時代とともにその概念も変わっていく。よってその判断は難しいところだ。

現在の我が国の社会情勢を見ると、自家用車は贅沢品ではなく、それは生活を支える収入を得るための移動手段であったり、日常生活を営む上で必要不可欠なツールである場合が多い。例えば公共の交通網が発達していない地域においては、高齢者の暮らしを支える物品を得るために不可欠な移動手段が自家用車であったりする。それらの地域で、そうした人たちは、自家用車が運転できなくなった瞬間から暮らしに困るわけである。

PC、スマートフォン、タブレット、携帯電話も、それを使いこなして生活するのが当たり前の世代にとっては、なくてはならない生活ツールである。なにをもって贅沢であるといえるのかは、難しいところである。

これはもう政治の問題だ。ソーシャルワークの専門技術の中で判断できる問題ではない。

しかしいくら物を手にしたところで、それが心の豊かさにつながるとは限らない。満足しない人の心に豊かさは存在しないからだ。

ある意味、物やお金で済むことなら、問題は複雑ではない。それを手に入れるための過程はともかく、結果としては、目に見えるものを手に入れさえすればよいだけだからである。

そのことに加えて、心の豊かさを求める人々の思いを、僕たちソーシャルワーカーは大切にしなければならないし、求めるものを探すために手を差し伸べる必要がある。

僕たちソーシャルワーカーは、そんなふうに、暮らしを支えるだけではなく、人の心を豊かにするために何が必要かと考え続ける責務がある。答えはひとつではないのかもしれないし、答えが見つからないこともあるだろう。そうであっても目の前の一人ひとりの利用者が、僕たちと縁を結んだ結果、暮らしぶりが良くなることのみならず、心の平安を得て、日々の暮らしに満足して暮らしてもらうために何が必要かを考え続ける必要がある。

そのためには、僕たち自身の感性を磨き、人の心のひだに敏感になり、喜怒哀楽に敏感になる必要がある。そして僕たち自身の中で、人に感謝する心や、人とつながりあうことを尊く思う謙虚な気持ちが必要だ。

対人援助における冷静な対応の基盤は、冷徹な心ではない。冷静な対応の基盤は、人に対する熱い思いである。その熱い思いを失ったときが、ステージを去るときなのかもしれない。

施設サービスの場は、衣食住が満ち足りた場である。しかしそこには満ち足りた思いを持つことができないたくさんの人たちがいる。衣食住が満ち足りても、心の平安が得られない人がいる。心の豊かさを得られない人が存在している。

その人たちが求めているものは、誰かとの関係性である。それが途切れてしまったと感じている人は、途絶えた関係性を紡ぎなおそうと、家に帰るという。雪が降る中を、除雪するために帰るという。すでに亡くなった夫や妻のもとに帰ろうとする。

それは或る意味当然である。それは僕たちが説得してどうこうする問題ではない。その思いに心を寄せて、満ち足りない思いを分かろうとするだけだ。

認知症の記憶障害とか、見当識障がいという捉えかたではなく、人の心のひだを見つめることがもとめられているのだ。そしてそうした形で寄り添うとし続ける限り、僕たちの思いは必ず伝わると信じている。

そんな考え方の先にエビデンスは生まれないといわれても良い。

エビデンスは必要でも、もっと求めるべきものがあるからだ。人の思いを大切にする先にしか見つけられないものがあるからだ。

この思いを言葉や文章で伝えられたときに、僕のつながりは永遠となっていくのかもしれない。
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