masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

こころ

人として人に関わる対人援助


対人援助は、自分以外の誰かの最もプライベートな空間に踏み込んで、本来利用者が他人に知られたくはない部分にも触れて支援を行う行為である。

私たちはそういう行為を職業とするプロフェッショナルだ。だかこそ私たちには、他者の暮らしを護って援助するという自覚に基づいて、相応の倫理観が求められるし、秘密保持などの義務が生ずる。

しかし何よりも大事なことは、人として真摯に利用者に相対し、利用者がどのような状況に置かれていたとしても、その尊厳を護った支援行為に終始しなければならないということだ。その覚悟をどれだけ持てるかがプロ意識として問われてくるし、そのことを建前としないという確固たる姿勢が、世間から信頼を得るための唯一の道だ。

私たちが他者の暮らしを支える際には、暮らしを送る人自身の様々な思いに気づいて、その思いに寄り添う姿勢が必要になる。その時、寄り添うべき思いとは、ネガティブな感情も含まれることになり、そこにどのように寄り添うのかということが、利用者と信頼関係を結ぶうえで重要な要素になることも多い。

それはダメです」・「それはやってはいけません」と、ルールを振りかざして利用者の思いを切り捨てることは簡単だ。しかしそんな形で物事を終わらせるのでは、暮らしの支援に結びつかないという場面がしばしば生ずるのが対人援助である。

理屈は、幸福や暮らしを創らないのである。

私たちにその時求められるのは、援助技術とか専門知識以前の目に見えない、「人間愛」というものなのかもしれない。
誰かのあかい花になるために
それは現在求められている、科学的根拠とは対極にあるもので、非論理的で客観性のないものだと批判されるかもしれない。

だが目に見えない、非科学的なものをすべて切り捨てることによって、人の暮らしという極めて個別性の高い領域が良くなるとでも言うのだろうか・・・。僕はそうは思わない。人には定型化できない感情というものがあるのである。そして感情とはきわめて非論理的で、非合理的なものであり、方法や経緯と結果の因果関係のない場所で生まれるものである。

そうした感情に寄り添うためには、極めて説明しがたい、「人を愛おしく思うという感情」で寄り添うしかないのだ。

しかし・・・問題は援助者たる私たち自身が全能なる神ではないということだ。すべての人を愛することができる天使にもなることはできない。

対人援助という仕事に携わる私たちも感情ある人間の一人にすぎないのであるのだから、他者に対する好き嫌いの感情は当然持っているし、誰かを深く愛することができる反面、他人を妬み、他人を憎む感情も持ってしまうどうしようもない存在だ。

私生活も決して潔癖に送っているわけではない。清貧という言葉から程遠い状態で、みだらな楽しみや遊興にふけることもあろうというものだ。

だからと言ってそれが即ち、対人援助に関わる資格がないと言える問題でもない。人として欠点や短所をたくさん持っているけれども、自分が完璧な聖人ではないという自覚と自己覚知をもって、職業上は利用者に対して真摯に関わればよいということだと思う。

自分の中のネガティブな感情は、自覚してコントロールできるようにするだけの話だ。

そうでも考えない限り、対人援助に関わってよい人などいなくなってしまうのではないかと思うのである。

自分の人格を高潔にしようなんて背伸びなんかせずに、普通の人として、普通に人を愛する気持ちを持ち続けるだけでよいのだろうと思う。

人に秀でて何かを残そうとするのではなく、自分の中の大きな愛を、小さな仕事の中であふれさせることが大事ではないかと思う。
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自分の職場がどうあってほしいですか?


株式会社マイナビが運営する介護経営支援サイト、「メディカルサポネット」の連載、「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜」は今回がいよいよ最終回。テーマは、「どうなっていく?介護事業の未来」としておりますので、どうぞ連載名に貼り付けた文字リンク先を参照してください。

さて話は変わって本題に移ろう。

このブログ読者の方々は、ほとんど介護事業に携わっている人だと思う。

そんな方々は、介護という職業がどのような職業であってほしいと願っているのだろう。そして自分の職場がどんな職場になってほしいと思っているだろうか。

例えば介護施設の某職員が、こんなふうに考えているとしたらどう思うだろう・・・。

給料は他と比べても悪くありません。休みもそこそこ取れます。職場の人間関係は、嫌な上司や口うるさい先輩はいるけれども、和気あいあいと話せる同僚もいるし、嫌な人間とはなるべく近づかずに話しかけられても無視してやり過ごしています。
仕事は先輩方のやり方を見よう見まねで覚えたうえで、自分の考えたことを加えたやり方で何とかこなせています。
利用者は認知症の人が多くて、わけのわからない言動に戸惑うことが多いけど、決められた作業を黙々とこなしてさえいれば、文句を言われることもないので辛くはありません。
夜勤はワンオペで大変でしょうと言われるけど、自分で決めたルールで、自分の思い通りに動いて一晩過ごせばよいので、特段苦痛でもありません。むしろ他人の目のない分、気楽なのがワンオペ夜勤も言えそうです。
利用者の暮らしって言いますけど、ほとんどの人が家にいたら一人で生きていけない人たちですから、ここにいるだけで衣食住に困らないのだからそれなりに良い暮らしと言えるのではないでしょうか。適当にレクリエーションの機会はありますし、おもしろくなさそうにそこに座っているだけの人がいたって、問題とは言えないと思います。


・・・このような職場で働きたいと思う人はどれだけいるのだろう。こういう職場で介護の仕事を続けていて、介護の仕事にやりがいや面白みを感じることができるのだろうか。

職業を持つことは生活の糧を得るために必要なことであり、趣味とは違って好きという感情だけで選ぶことはできない。しかし「働く」という行為は、ある一定年齢まで何十年も続けなければならない行為でもあり、嫌々惰性で続けるとしたら、人生の中で大事な時間を無駄にしているように思えてならない。

だからこそ自分の適性に合った職業を選んで、仕事に誇りややりがいを感ずることができるということが非常に大切なことだと思う。それが自らの人生を豊かにすることにもつながるのではないかと考えている。

勿論、生活の糧を得ることが職業を持つことの最大の目的だから、仕事に見合った対価を得ることは非常に重要なことではある。しかしそれが即ちやりがいにつながるとは限らないと思うのだ。

僕は志を高くもって、社会福祉の勉強をしたわけではない。理系が自分には合わないと思ったので、文系の大学に進もうと思った。その時、たまたま道内の大学で社会福祉を選考する道が、自分の能力と適正に見合っているのではないかと思い、恐る恐るこの道に踏み出した。

そして大学生活4年間の中で、様々な他者の「人生」に触れる機会を持った。障がいを抱えた状態でこの世に生まれ出た子やその親、家族に恵まれない子供、家族から理不尽な暴力などの虐待を受け続けている人々・・・。

そのような出会いに困惑したり、否定的な感情を持つことも少なくはなかったが、それ以上に他者の人生の一端に触れて、そこに関ることにやりがいを感じた。自分が関わることで、無表情だった人の顔がほころんだり、心の底から湧きあがる笑顔を見られたときは、自分自身が幸せな気持ちになることができた。
誰かのあかい花になるために
社会福祉事業・対人援助の仕事のだいご味とは、自分が関わりを持つことが許された他者の人生を少しでも豊かにすることだと思う。そこで生まれる心からの笑顔や、穏やかな表情に出会うことができることだと思う。その時の感謝の言葉は、僕たちにとって何よりのご褒美だ。

だから介護事業に携わる以上、そこでかかわる人たちの命をつなぐだけの最低限の関りでよいなんて思わない。制度の光をくまなく届け、私たちのできる限りの支援の手を差し伸べ、我々の支援の手を必要とする人たちの、人としての尊厳が護られ、少しでも幸せを感じてほしいと思う。

少なくとも利用者の哀しみや、苦しみの上に、私たちの暮らしが成り立つことなんてあってはならないと思う。それは人として許されない考えのように思うし、誰よりも貧しい心でしかないと言われても仕方がないことのように思う。

介護事業というものは、決して他の職業より崇高な職業ではないし、数ある職業の一つにしか過ぎないことは事実だ。だけれども介護事業は、そこに自分の人生そのものを預ける利用者の方々の存在によってはじめて成り立つ職業だ。

それは介護という職業が、誰かの人生の幸福度に大きく影響するという意味だ。そのことに使命感と誇りを抱いて、その誇りを護るための知識や技術を磨き、結果を出す介護事業を目指し続けることが、自らの人生を豊かにする唯一の道ではないかと思う。

そうした志を共にする仲間と、つながり続けて歩き続けたいと思う。このブログにも、そういう志を抱く人に集まってもらいたい・・・。

メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜の最終回は、「どうなっていく?介護事業の未来」です。こちらも是非参照ください。
どうなっていく?介護事業の未来
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自分は何者であるか・・・。


自分というものは、他者や外界から区別して意識されるもので、自我とも言い換えることができるものだと思います。

それは肉体そのものではなく、どういう価値観を持つ存在であるのかという意味だと思うのです。

さすれば自分というものは、親からもらった肉体が器の役割をもって、成長過程で様々な情報や知識を受け入れて、それを発酵させるように自分の中にしみ込ませて創り上げていくものではないのでしょうか。
富山のダブルレインボー
自分が経験し、自分が判断した繰り返しで創り上げていくものが「自分」ではないでしょうか。

最初から自分というものが、身体や精神の中に存在して、この世に生まれ出てくるわけではないという意味です。

だから人の成長と共に、あるいは衰えと共に、自分の中にある自分は変わっていくのだと思います。

だから重要な決定の判断を、いつも人に委ねてしまう人には、自分らしさが生まれないのです。それはその人が何者でもないという意味です。それはとても哀しいことではないでしょうか。

ネット社会では、本来生きるうえで体験すべきことをバーチャルに置き換えたり、判断を都合よく人に委ねたりすることが簡単にできるようになります。

だからネット社会だけにある架空の自分しか持てない人が出てきます。一旦ネットを離れた自分が、どんな存在かわからない人がたくさん生まれているのです。

これは恐ろしいことです。大げさではなく、人類はそのことで消滅・絶滅に向かいかねないと思うのです。

ネット上に現実の自分とは別の人格を創り上げていること自体は否定しません。例えば僕は、表の掲示板の管理人として、かなり厳しい人間として見られているようです。そこではとても怖い人とイメージされているようです。

それはある意味、自分が意識して創り上げたイメージでもあります。介護業界で一番長く続く情報掲示板を、20年以上という長い期間途切れることなく運営するためには、それは必要なことだからです。

怠けて他人に尋ねるだけで問題解決を図る人・反対のための反対論・初めからアラシ目的の参加者、そうした人たちの防波堤になるために、それは必要なことだったのです。だから今も続いている。

けれどもその人格を、現実の自分と勘違いしないことが大事です。現実の僕は決して強くないし、怖くないし、清廉潔白ではないのです。ここを勘違いしないことです。

現実社会の中で、自分が何者か意識できない人が、主体的に何かをできるわけがありません。常にそこにある意識や感情や情報に流されて、明日の居場所さえ分からなくなってしまいます。そんな人は、現実社会で生きることが苦しくなるのではないのでしょうか。

自分を創り上げていく過程では、間違いもあるし、挫折もあって当然です。でもそれは自分にしか経験できない貴重な体験なのです。喜怒哀楽の感情は、良い感情だけ切り取って経験することは不可能なのです。

それが生きる意味であり、自分が何者であるのかを探すことなのです。それはこの世に人が生まれ、生かされる意味でもあります。

たくさんの哀しみや怒りの感情を抱えてきた人が、自分自身の力でそれを乗り越えた先に、生きる力とか、他人の痛みを思いやる心とか、自分以外の誰かを人として愛することの尊さとか、生まれ出でてきたときには持ちようがなかった感情や意識を獲得していくのではないでしょうか。

人は人を愛するために、悲しんだり苦しんだり、怒ったりする感情を与えられているのではないでしょうか。

その理由は、どのような能力がある人でも、人に秀でる才能を持っていたとしても、人は人の間でしか生きられない存在だからではないでしょうか。

だからどうぞ、生身の自分を愛してください。人に秀でてなくとも、強くなくともよいのです。あなたという存在は、あなたにしかなれないのです。そのあなたがそこに存在するということには、必ず意味と価値があるのです。

自分は所詮自分でしかないなどと嘆かないでください。それはとても尊いことなんですから・・・。
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77回目の終戦記念日を生きる


昨日はお盆の帰省ラッシュということで、新千歳空港発着便もほとんど満席だったそうである。

今日はそんな帰省ラッシュが見られた翌日の月曜日ではあるが、世間ではまだお盆休みが続いているという人も多いだろう。休みを取れる人は、ゆっくりと体と心を癒していただきたい。

世間を見渡すと夏休みのイベントも各地で開催され、人がたくさん集まっている。そんなふうに3年ぶりのにぎやかなお盆ということになったが、コロナ禍は終息しておらず、むしろこの3年間で最も感染者数が多い中でこうした状況に変わっている。ということは感染予防策としての行動制限の在り方が今一度問い直さされているという意味ではないのだろうか・・・。

そうであれば介護施設のあまりにも長期に渡る面会制限も、その是非が議論されてよい頃だ。

このことは介護・居住系施設やそこに入所している人の問題ではなく、日本人の終末期の過ごし方、つまりは全国民の「生き方」の問題に関わってくるのだということを理解しなければならない。

ところで今日は8月15日。77回目の終戦記念日である。

とはいっても戦争を知らない世代の僕らは、終戦の日の対象になっている太平洋戦争が、どれだけ悲惨な暮らしを日本国民に与えたのかを実感をもって知っているわけではない。人づてに知った知識や情報から、その悲惨さを感じ取るしかないのだから、戦争体験者のそれとは大きな乖離があるのだろう。

だからこそ僕たちにはしなければならないことがある。戦争体験者の方々も年ごとに高齢化が進み、戦時中の記憶が消され始めている。だからこそ今残されている貴重な体験談に耳を澄ます機会を大切にしなければならない。

例えば、「トシさんの戦争体験」で紹介したエピソードなどを数多く集めて後世に伝えていく責任が私たち一人一人にあるのだと思う。

哀しい体験を持つ人ほど、その体験談については黙して語らない人が多いが、終戦記念日にだけは、その重たい口を開いてくれたりする。思い起こすと、「今日は終戦の日じゃねえ。敗戦の日だ。」と漏らしたOさんの面影が脳裏に浮かんでくる・・・。

北海道は終戦の日のわずか1月前に、米軍からの空襲を受けた地域である。「北海道大空襲」と伝えられているその空襲は、北海道のいくつかの地域に残っていた軍需工場を標的にしたものであった。・・・だから北海道の最大都市・札幌は被害を受けていない。

その時、北海道で一番死者数が多かったのが、僕の住む登別市と同じ生活圏域の室蘭市である。国内で唯一、B29というアメリカ軍の戦闘機をう撃ち落とすことができる高射砲を製造していた軍需工場があったために、室蘭市が米軍の最大の攻撃目標になったのである。

しかし空襲2日目は、工場など存在しない市街地に向かって海の上から艦砲射撃が行われた。そこでは軍人はほとんど死んでおらず、女・子供を含めた一般市民が数多く死んでいった。その正確な数は今もってわかっていない。
北海道の田園風景
北海道の広く青い空が、砲煙によって真っ黒に染まり、広くおおらかな大地が無数の砲弾によって火の海となった。

そこで数多くの無辜の民が血を流して死んでいった戦争・・・。そこからまだ77年しか経っていない今、日本人全体が平和ボケして良いはずがないのである。

今日はそういう国で、今平和に暮らしていることに心から感謝し、あの戦争で亡くなられたすべての人々を悼み、繰り返してはならないものがあることを強く心に刻み付ける日である。

縁あって私たちは、対人援助という職業に携わり、人の暮らしと向かい合っている。そこはたくさんの生き様があり、死に様も同様に垣間見る場所だ。だからこそ人の命・心の平安・生きる喜び、そうしたものを深く考える日があっても良いと思う。

今日はそんな日である。
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広島の空・長崎の空2022


今日8月9日は、77回目の長崎原爆の日である。

原爆が投下された午前11時02分には、僕の家からほど近くにある消防署のサイレンが1分間鳴らされた。僕もそれに合わせて黙とうを捧げさせていただいた。

今日はそのとき思ったことを書こうと思うが、その前に僕と長崎県のつながりを少しだけ紹介しておく。

長崎県と僕は縁があって、九州の中では福岡県の次に数多くの講演を行っている場所だ。食事もお酒もおいしく、素敵な人がたくさん住んでいるお気に入りの地域である。

コロナ禍の影響でここ3年間は同県を訪れる機会を持てていないが、それまでは1年に何度も長崎県を訪問する機会を持つことができていた。コロナ禍という状況でも、長崎県の方々からはオンライン講演の依頼を頂いている。近いうちに是非同県を訪れたいものである。

過去長崎県で講演した場所は複数あり、五島列島にある五島市や新上五島町にも行って講演を行ったし、雲仙市・島原市・南島原市・諫早市・大村市・佐世保市・時津町などでも講演を行っている。

しかし長崎県のうちで講演を行った回数が一番多いのは長崎市である。長崎湾を見下ろす稲佐山の中腹にある社会福祉法人さんでも2度ほどお招きを受けて講演を行ったことがあるが、そこからの景色は絶景と言ってよかった。

坂の街でもある長崎市は、風光明媚な街であるが、この稲佐山から見下ろす長崎港の景色が、僕は特に気に入っている。

その稲佐山には、屋外ステージが設置されている広場がある。

そこは歌手のさだまさしさんが、長きにわたって広島原爆の日である8/6の夜にコンサートを開き、広島に向かって2度とあの悲劇が繰り返されないように、平和の願いを歌い続けていた場所でもある。

さださんは長崎から、広島のどんな色の空と景色を見つめていたんだろうか・・・。
広島の空
広島の街はかつてそこが焼け野原になったなんて想像できないほど、とてもきれいで素敵な街並みになっている。

ただ街中には世界遺産に登録されている原爆ドームが被爆体験を伝える貴重な建物として当時の姿を残したまま保存されている。

そのドームを見るまでもなく、かつ今さら僕が言うまでもなく、現在は平和で美しい景色が広がる広島と長崎のその街は、1945年8月6日と8月9日にそれぞれ焼き尽くされている。核兵器というおぞましい武器によって・・・。

次に記した言葉は、さださんが'96年のコンサートで舞台から観衆に語りかけた言葉だ。
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1996.08.06.夏 長崎で、「広島の空」を唄う直前の、さだまさしさんの言葉
このコンサートを始めたときに、あえて核兵器について語ろうとしなかった。
そして、あえて戦争がどうしたこうしたということを、大きな声で発するのをやめた。
8月の6日に、つまり広島の原爆の日に、夜、長崎で広島の空に向かって唄をうたう。
そのことだけで十分じゃないかと思ったんであります・・・。

平和っていうのは、とっても難しい言葉です。
ただ戦争をしていない状態を平和って呼んで、歓迎してニコニコと笑って、
ご飯が食べられて、ちゃんと着るものが着られて、そして平和と・・・。
我々はそこに胡坐をかいていてはいけないんですね。
我々だけの平和にすぎない。それは我々という小さなコップの中の平和にすぎない。

こうしているうちにも、どこかで誰かが撃たれ、
そして何も事情が分からない小さな子供が、小さな地雷を踏んでいる。
そんなことが現実に、この地球上で今まさに起きているのだという痛みを、
私たちはこの飽食の中に忘れ去ろうとしてはいけないんですね。
少なくとも、2度と子供たちや、その子供たちや、さらにその子供たちが、
2度とあんな思いをしないように、そんな思いを込めて唄います。
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今まさに平和な国・日本で、戦争を知らない子供たちが戦後の繁栄を謳歌し、何不自由なく暮らしている一方で、ウクライナでは悲惨な殺し合いが続いている。

平和ボケしている日本の海域では、幾たびもミサイルが領海に打ち込まれ、領土をめぐって領海侵犯の船が航海を続けている。

戦争がないといっても、インターネットを通じて人々の罵りあいが毎日無数に配信され、国会議員という身分の詐欺師が、海外から人権侵害を発し続けている。人々の心の戦争はそこかしこに存在しているのだ・・・。

そんなふうに平和な日本には心の貧しさが満ちて、殺伐としたコミュニケーションが飛び交っているのである。そういう意味では、この国の平和とは砂上の楼閣に立っている危ういものかもしれないのである。

だからこそ、さださんが稲佐山から訴え続けた思いを、私たちも同じく胸に抱いて伝え続ける必要がある。私たちの子供たちの、その子供たちや、さらにそれに続く命と暮らしを護るために。

だが77年前のその日、広島と長崎で何があったのかを伝える歴史の証言者が年々減っている。その悲惨さをどのように後世に伝えていくのかが大きな課題になっている。

決して忘れてはならない人間の意志と手による愚行を、日本人は伝え続けなければならない。戦争を知らない世代の人々も、戦争を経験した人の言葉を聞き取り、後世に伝える責任があるのだ。

原爆投下という人類が最も恥ずべき行為によって命を失った人の中には、即死できずに、熱い熱いともがき苦しみ、水を求めながら死んでいった人も多いと聞く。そいう人たちのために、せめて一杯の水を天に向かって供えたい・・・。

さださんが主催する稲佐山のコンサートは、2006年の20回目のコンサートをもって最終回とされた。

最期のコンサートで語ったさださんの言葉も紹介しておこう。
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2006.08.06.夏 長崎から「FINAL」より
ほんの短い間でいいから・・・。
あなたの大切な人の笑顔を思い出してください。
そしてその笑顔を護るために、あなたに何ができるか考えてください。
そして、もうひとつ・・・考えるだけでは駄目です。
そのために自分の力を使って動いてください。
これが夏・長崎からの、僕の最期の願いだと思います。
そうやってそういう思いで聴いてください。
今度はみんな、この種をあちこちに撒いて
たくさんの花が咲いて
いつか俺が知らない花が、この会場を埋め尽くしてくれるように・・・。
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しかしさださんの遺志を継ぐ形で、今も「稲佐山平和祈念音楽祭2022」が行われており、今年は先週末に当たる6日と7日の両日に渡って開催された。その利益はすべて「国境なき医師団」に寄付されているそうである。

さださんは、今年もそこで唄ったそうである。この唄もきっと広島原爆の日に唄われたんだと思う・・・。

77年目の8月9日・長崎原爆に日に、26年前のさださんの言葉を思い出しながら、広島と長崎の空に向かって祈りを込め、手を合わせて首(こうべ)を垂れているところだ。

もう2度とあんなことが繰り返されないことを祈りながら・・・。
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心に咲く花を大切に育てる介護


株式会社マイナビの医療・介護の経営支援サイト・メディカルサポネットに毎月、「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜」というテーマで連載記事を書いています。

今月の連載記事、「介護事業におけるメンタルヘルスに関する一考察」は昨日アップされています。

メンタルヘルス不調は、誰にでも起こり得る問題です。それは介護事業者にとっては、貴重な人材を失いかねない大きな損失であるとともに、従業員のメンタルヘルス不調を防ぐ責任が雇用側にあるというコンセンサスが形成されている今日においては、従業員がメンタルヘルス不調に陥った場合には、事業者側に損害賠償責任も生じかねない問題となります。

またメンタルヘルス不調の当事者になってしまう人は、それによってそれまでのキャリアをすべて失い、人生の設計図を見失ってしまうだけではなく、家族関係も崩壊してしまうほどの大きな問題になりかねません。

そういうことを防ぐためにも、昨日アップされている連載記事を参照願いたいと思います。

それと共に自分がメンタルヘルス不調に陥らないための、日ごろの心がけも必要なことを知ってください。仕事に対する思いを忘れないことも大事です。介護事業者で働こうとした当初の自分の気持ちを振り返ってみることも大メンタルヘルス不調の予防策になり得ると思います。

だからこそ、どうぞ思い出してみてください。

介護という職業を選んでいるあなたが、最初にその仕事をしようという動機付けはいったい何だったのでしょうか?

今介護の仕事を続けている、あなたはそのことを覚えていますか?

人それぞれいろいろな理由があって、介護という職業を選んだのでしょうし、その動機付けはいろいろであって良いと思います。

しかし介護という職業が、他者の暮らしに寄り添い、心身の不自由な部分を補うために手を差し伸べつ仕事であることを知らない人はいないでしょうから、少なくともそうした人に手を貸しながら、頑張って仕事を続けようとする覚悟や思いは持たれていたのではないでしょうか。

その思いの強さは人それぞれだと思います。ほんの軽い気持ちで、「介護の仕事に携わろう」と思ったって構わないとも思います。思いは膨らませればよいだけの話なのですから。

自分の心の中に、ある日何気なく湧いてきた介護を職業にしてみようかという気持ちは、心の中に花の種が撒かれたという意味なのではないでしょうか。その種に水をまき、芽ぶかせ、花として咲かせることが大事だと思います。(※下記画像は北海道美瑛町の風景。
北海道美瑛町の夏景色
決してその花が枯れることがないように、肥料と水を撒いて大切に育て続けることはもっと大事になります。

その時、一番の必要になるものとは、あなたが最初に介護の仕事をしようと思った動機づけとつながる何かではないでしょうか。

逆に今あなたが働いている場所で、あなたが介護の仕事をしようと思った動機づけと正反対のものしか存在しないとしたら、この仕事を続けようとは思わないのではないでしょうか。その場合は、咲く場所を変える必要もあると思います。(参照:人によって合う職場は異なります

誰かの役に立ちたい。自分の力で誰かの暮らしを少しでも支えられる。自分が仕事をするだけで、「ありがとう」と言ってくれる人がいる。寂しそうに一人ぼっちで佇んでいる人のそばに、自分が寄っていくだけで笑顔になってくれる。人に話せないようなことを、自分にそっと打ち明けてくれる。

そんな何気ないことが、花を咲かせる肥料になってくれることでしょう。

そかしそれは日常の絶え間ない暮らしの支援の中でしか生まれません。特別な何かではなく、当たり前として、そこに何気なく存在しているものなのです。

だからどうぞ利用者の方々の表情を見る目を失わないでください。利用者の方々の喜怒哀楽をしっかり見つめてください。怒りや哀しみの感情を見つけらるからこそ、喜びや幸せを運ぶことができるのです。それが喜怒哀楽に寄り添うという意味なのです。

どうぞそのことを忘れない人になってください。
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法令にない常識理解がないと人の心は護ることができない


CBニュースに連載中の、「快筆乱麻・masaが読み解く介護の今」の今月の連載が、昨日アップされているので、そちらも是非参照いただきたい。

それはさておき、本日の本題に移ろう。

日本には、「人を殺してはならない」という法律はないそうである。

人を殺せば罰せられるという法規定はあっても、人を殺すことを禁ずる法規定はないそうだ。

テレビドラマの、「ミステリと言う勿れ」で、菅田将暉.さんがそう言っていたので間違いないだろう・・・。
ミステリーと云うなかれ
その理由は、人を殺してはならないという法規定を作ってしまえば、死刑制度が成り立たない=死刑執行も人を殺す行為だから、それができなくなるという意味なんだろうか・・・。そんなことはないだろう。死刑執行を殺人ではないと規定すれば済むことだから、それは本当の理由ではないと思う。

本当のことはわからないが、人が人を殺してはならないことは、法規定以前に当たり前のことであり、人間の存在という根源的な問題だから規定されていないのではないのだろうか。

そもそも法律ですべての行為を規定してしまえば、人は生きる行為だけで、知らぬ間に法を犯してしまいかねない。法よりも上位にある倫理観を、人間が持つことができる限り、法で暮らしをがんじがらめにする必要はないわけである。

過去に書いた、「倫理について考える1〜法より上位にあるという意味。」でも指摘しているように、法は国家権力等に強制される他律的な規範であるだけに、法で厳しく規制が強化されることは逆に、法的追求を免れ、法の網から漏れるという空白部分を探して、そこに逃げ込んで責任を免れようとする人間を生み出す元凶になる。

そういう人間が巷にあふれる社会は、決して豊かな社会ではないし、幸せな暮らしが実現できる場所にもならないだろう。

だからこそ自主的な順守が期待される自律的な規範である倫理によって、人の暮らしを護るという意識が重要になるのだと思う。

そういう意味では、介護保険法や各種運営基準に定めのないことが、すべて許されることではないわけである。

例えば、介護施設の多床室に男女の区別なく利用者を入居させることを禁ずる法令規定はない。だからと言って介護事業に携わる専門家が、性差への配慮に欠けて他人である男女を多床室に雑居させることを何とも思わないとしたら、対人援助とはいったい何なのだろうという本質が疑われかねない。

そんなことはしないのが常識だという、「性善説」で法令は定められている部分があることを理解しないと、我々の介護事業にもどんどん制限がかけられ、がんじがらめの身動きできない状態になりかねないのである。

他人である介護サービス利用者は、お客様に他ならないのだから、家族や友人のように砕けた態度で接して、不快にさせてしまうようなことがあってはならないという法令も存在しない。他人である顧客に、節度のある態度で接するのは社会人としての常識だからである。

それを良いことに、砕けた態度やタメ口を家族的な親しみを込めた対応だとして改めない頭の不自由な輩が多いのも介護関係者の特徴だ。それは社会人としての常識を欠く人間が多数、介護関係者に交じっているという意味で、介護業界全体の民度を下げる元凶になっている。

広辞苑を引くまでもなく、タメ口とは、「目上の者が目下の者に対して使う失礼な言葉遣い」だという意味だ。その常識を理解していない輩が、目下でない人たちに非常識にタメ口で話しかけている。そうした態度の横行が、私たちの愛する職業を地に堕としているのである。

家族そのものにはなれない介護従事者が、介護支援の場で利用者に関わるときに求められる態度とは、家族と同じ遠慮ない態度ではなく、介護のプロとしての態度である。信頼のおける知識と技術に基づいた介護支援と接遇ができることはその基盤であるにも関わらず、接遇意識のない輩が多すぎる。

だから介護は誰でできる単純労働だと思われてしまうのだ。頭が多少悪くても、健康で丈夫な体さえあれば介護程度はできるだろうと思われるわけである。そしてその延長線上に、人間ではなくロボットによる介護が実現可能だとも思われてしまうわけであり、人を減らして介護の生産性を高めれば、要介護者が増えても大丈夫と思われてしまう原因にもなっている。

介護という職業は、本来であればロボットが代替できないほど繊細で難しい職業である。巧緻性が求められる行為と、力が求められる行為を、見事につなげあって同時にこなしながら、一人として同じではない感情に相対して、人々の心を癒すために存在するのが介護という職業である。

その尊さを自ら汚すような、「タメ口対応」をなくしていかないと、介護という職業の使命誇りは、決して社会に広く認知されることにはならないだろう。
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感じの良さというスキルを大事にしてください


今後の介護事業における最大の懸念は、人材が確保できずに事業継続できなくなることだ。

制度改正議論でも、この問題の解決が最大の課題となっており、現役世代が急減していく中で、今後の人材確保の難しさを指摘して手を打たねばならないという声が高まっている。

つまり必要な介護人材の確保は困難だと結論付け、今ほど人手を掛けなくても良い介護事業の在り方を、制度全体の整備の中で模索しようとしているのである。

人によるインプットを減らして、自立支援や暮らしの保障などのアウトプットを今以上に引き出すために、介護事業にも生産性の向上が求められているというわけだ。科学的介護の確立もそのために必要とされるのである。

人間でなくてもできる業務をテクノロジーで代替して、介護業務の大幅な効率化を図ろうとする考え方も、その一環として語られているわけである。

しかしその方法を語っている連中が、実際には自分で介護業務をしたことがない連中だから始末が悪い。介護業務の本質を無視して、そのわずかな部分でしかない表面だけを見て、自分がやったこともない行為を、「できるだろう」と決めつけて、機械や素人に任せてよいとする部分を削り取っているだけだ。

その典型が、「間接業務を補助的なスタッフに任せること」である。業務の一部を切り取って、そこを素人のボランティアや一度現役をリタイヤした高齢者に任せて介護業務が減ったとでもいうのか?

そもそも連続した業務の中にある一部分を切り取ったからと言って、そこのつながりが消えたことを補う業務負担も新たに生じている。例えば食事介助を補助的スタッフに任せたとしても、利用者の食事摂取の状況(摂食状態や食事に関する反応など)は情報として引き継がれなければならず、その伝達時間は新たに生ずる業務時間である。ここをおざなりにすると、介護業務に支障が生じてかえって生産性が下がるという事態になりかねないし、最悪の場合、介護事故につながってしまう。

そのほか間接的業務の一部しか任せられない人間の指導や見守り、はたまた尻ぬぐいのためにかえって業務負担が増えたという喜劇も生まれているのではないか。

どちらにしても今、介護サービスの場では、生産性を高める介護という名目の、利用者不在・事業者主体の介護が横行し始めている。

なぜかと言えばそうする方法は簡単だからである。例えば介護という行為を、極めて単純な作業と割り切り、利用者の思いやニーズに寄り添うことを一切せずに、決め事を機械的にこなして、それが終われば次の作業に移ればよいのである。

もっと具体的に言えば、介護業界から退場したメッセージという大手介護事業者が行っていたように、「ライン」と称するシフト表に基づいて15分単位で労働を管理し、介護職個人の裁量で高齢者と接する時間は一切ない方法で介護サービスを提供する、「アクシストシステム」に、ICTや介護ロボット(見守りセンサーを含む)を紐づけて、新しいチャレンジによって生まれた画期的なシステムだと喧伝すればよいだけの話である。

そうした単純作業に専念して、機械的介護を黙々とこなすことで、介護の生産性が向上したと言いふらしている事業者もあるのだ。

そんな形の生産性の向上を図ろうと思えば、今この瞬間からできるのである。

生産性の向上を介護サービスにも求めること自体は、決して否定するものではないが、それがこんな結果を生んでよいのだろうか。

僕は人としてそんなことは許されないと思う。僕が人としてこの世に生かされて、介護という職業にかかわっている時代に、介護をそのような行為に貶めることは恥ずかしいと思う。

介護は感情労働なのだ。感情を持った人に相対する仕事である。感情とは物事や対象に対して抱く気持ちのことであることは今更言うまでもない。喜び・悲しみ・怒り・諦め・驚き・嫌悪・恐怖などの人の心に寄りそい、できるだけ良い感情をもってもらうように努めるのが、介護という職業に従事する者の使命だ。

なぜならこの職業とは、誰かの人生の幸福度に影響する仕事だからである。
感じの良い支援者
だから僕はすべての関係者に、「立派な支援者になる前に、どうぞ感じの良い支援者になってください。」と呼び掛けている。

要領よく仕事をサクサクとこなし、仕事が手早いことは良いが、それだけで利用者は幸せにはならないのだ。

多少要領が悪くても、仕事の手が遅くとも、人当たりが良くて、その人がいるだけで何となく空気が和らぐ・・・そんな人が側にいてくれた方が、人の心は和いで、幸せを感ずることができるのだ。

介護という仕事が、そうした職業であることを誇りに思いたい。人の幸せを運ぶ行為を介護と呼びたい。

だから世の中の流れに乗って、先進的で優れた介護を行っていると言われながら、その陰に涙にくれる人を隠してしまうよりも、世の流行には載っていないかもしれないけれど、目の前の利用者からは、常に感じよく思われる介護のありようを創りたい。

誰かを慰める花でありたい・・・。
誰かを慰めるあかい花

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今年の桜は今だけの桜です


北国にも桜の季節がやってきました。

登別市の桜の開花は、例年より1週間ほど早くなりました。このためGWに登別温泉に訪れた観光客の方々の目を楽しませていることでしょう。
5/4登別鷲別町の桜
僕のウオーキングコースの途中に咲く桜ももう満開になっています。(※画像は5月4日、鷲別町・恵愛病院前の桜

ところで今年は、3年ぶりに行動制限のないGWを迎えています。しかし新型コロナ感染症の新規感染者が減っているわけではないので、引き続き警戒と予防対策が必要と言われています。

そのような中で介護保険施設をはじめとした居住系施設では、この時期も面会制限を続けているところが多いようです。

でもこのブログでは何度も指摘していますが、面会制限がクラスター感染を防止する決め手にはなっていません。面会制限を行っている施設でクラスター感染が発生し、面会制限を行っていない施設で、今まで一度もクラスター感染が発生していないケースが少なからず存在することを考えても、要は予防対策の、「やり方」の問題であるということがわかるはずです。

面会制限をしていても、職員等が外部から自由に出入りする以上、そんな制限にほとんど意味はなく、施設側の自己満足に過ぎません。

むしろ一定のルールを定めたうえで、面会を許可する体制を整えておく方が有効です。なぜならそこでは職員の感染予防策を見本とするようにされますので、日ごろの職員の感染予防意識が高まり、対策も十分施されることで感染は起きないのです。

今年、行動制限が3年ぶりになかったことで故郷に帰省できた方々が、施設に入所している身内と3年ぶりに逢いたいという希望が、施設側の自己保身を理由に拒否されるようなことがあってはならないと思います。

時間や人数を制限したとしても、どうか逢いたい人々の希望を叶える介護事業者であってほしいと思います。お身内の方々には、職員と同じように感染対策を万全にとって施設内に入っていただければ、何も問題ないのですから・・・。

介護にも科学が必要だと言われる今日ですが、時代がどう変わっても、人に対する優しさを失ってはならないのが介護であり、対人援助だと思うのです。「逢いたいという思い」は、「愛たいという思い」です。どうぞ、それを大事にする人になってください。

そして施設利用者の方を街に連れ出し、その方々が住む地域の今年の桜を愛でる機会を創ってください。

オンラインで観る桜・バーチャルな世界の桜と、現実の桜は全く違うのです。3年前の桜や来年の桜と、今年の桜も違っているのです。
生きる証
今この時を大事にすることが、生きる意味になるのです。生きる喜びにつながるのです。どうかそのことを忘れないで、他人に我慢だけを強いる権力者にならないようにしてください。

どうぞ、人に対する愛情や優しさを失わない人であってください。

それから僕にはもう一つ実現してほしい思いがあります。それは志を同じくする人々が、直接つながりあうことができる研修機会を、もっと増やしてほしいということです。

既に、プロ野球等の各種スポーツも入場者制限をしていません。そこでクラスター感染が発生したケースは今のところありません。

そうであれば、感染リスクの低い研修会の会場実施は行われて当然と思います。換気をしっかり行って、受講者同士の間隔を広めにとるだけで、受講者自信が大きな声を交わしあうわけではない研修会は感染リスクがほとんどありません。

オンラインでは伝わらない熱量を伝える会場講演を増やしてほしいです。

幸いなことに、GW明けの5/16(月)と5/17(火)には、兵庫県明石市と西宮市で講演を行う機会があります。そこでたくさんの介護関係者とお愛できることを楽しみにしています。

このうち西宮講演はオープンですので、是非、(株)グローバルウォークグループ合同研修会、「介護職の使命においでください。

一般参加される方は、張り付いた文字リンク先から申込書をDLした上で、必ず事前申し込みをお願いします。参加費 は3,000円で事前振込が必要になります。会場で愛ましょう。お待ちしております。

せっかくの桜の季節ですから、素敵な桜ソングを素敵なハーモニーと共にお楽しみください。

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希望と絶望の境はごくわずかな差でしかない


本日午前5時に、CBニュースの連載・masaの快筆乱麻が更新され、「居宅介護支援費の利用者負担、逆効果の懸念」という記事がアップされている。今後議論される制度改正・報酬改定の方向性等も含めて書いているので、是非そちらも参照願いたい。

さて昨日4/26に更新した記事の中で、「とある有料老人ホームのコンサル業務に出かけた」ことを書いた。

今回のコンサルタント内容は経営コンサルというより、人財マネジメントに関連するコンサル業務である。もっと具体的にいうと、この4月に就職したばかりの新入職員の心の健康度をチェックするための仕事だ。

皆さんの職場では、そうしたチェックをきちんと行っているだろうか。今月入職した新人さんで、表情が暗くなっているや、表情を失った状態で業務を何とかこなしている人はいないだろうか。

実はこの時期の労務管理として、心の健康状態や精神的なダメージをチェックしておくことは、新人の定着率にも大きく影響する重要な対策なのである。

この時期から5月病と言われる『うつ』の症状が出てくる人がいる。症状が出始める前に、何らかの兆候が見られる人も居る。この点を把握できるか、見逃してしまうかが大きな分岐点である。心も体も疲れを感じやすい時期が今なのである。
落ち込む人
仕事のやりがいを感じられない中で、世間は休みの中で自分はシフトの中に入って働く状態がストレスを倍加させる状況もよく見られることだ。

GWはシフト勤務者には関係のないことだと言っても、事業者全体でみれば事務関連職員等が休暇に入り、直接介護職員もいつもよりさらに少ない人数で働く状態になっている事業者が多い。

そのような中で、普段より多くの業務をこなさねばならない状況が生まれたり、新人であるにもかかわらず、自ら責任を負った状態で業務に就かねばならない場面が生まれたりする。その中で自分のやろうとした仕事ができなくなったり、思った以上にできないことが多いと感じてしまうことで、うつ状態は進行していくことが多いのである。

同時に世間の人々が連休を愉しんでいる情報があらゆるところから入ってくると、仕事に悩みを持ち始めた自分が、世間の人が楽しんでいる時期に悩んでいる姿にイラついたり、ストレスを感じる状態となり、それが高じて絶望感を抱くことになる人が少なからずいる。

それがことによってうつ状態になったりするケースが数多くみられる。

世間が連休中に、仕事に行くために朝起きることができなくなってしまったり、周囲の人が何とか起こしても、何かと理由をつけて職場に足を向けようとせず、結局そのまま退職してしまう人も必ずこの時期に見られているのだ。

だからこそ暦の上での連休前の今この時期に、新人さんの表情変化を見逃さず、カウンセリングに結びつけることが重要である。・・・ということで例年この時期に、ある介護事業者さんから新人面談の仕事を依頼されており、毎年チェックに入っている。

そこでは悩みを聴くだけではなく、希望を注入することを心掛けている。

志の高い新人ほど、この時期頑張りすぎてバーンアウト状態に陥る人が少なくない。

それを防ぐためにセルフチェックとセルフケアが必要になるというが、そんなことを自らできる人は少ない。学卒者ならほぼできないといってよいだろう。できもしないことを推奨したって問題は解決しないのだ。

だから新人職員に対する労務管理として、職場の責任として心の健康度を測って、問題がある部分を取り除く必要があるのだ。その際には新人職員全員に対する面談が不可欠になるのである。

というのも仕事に対するモチベーションが高まり、希望を胸にして働き続ける人の動機づけと、仕事に悩んで絶望の淵に追い込まれる人のきっかけは、ほとんど違いのない状況の中で別れていくのである。この時期にどのようなフォローができるかが両者の違いであることが多いので、重要性は高いのである。

今回チェックに入ったところは、職員の心身両面の健康を守るという意識が高いから僕にコンサル依頼をしているのであり、日ごろから対策も講じられているために特段の問題はなかった。

というより面談した職員の方々からは、こうした上司ではない第3者による面談機会があり、いつでも相談ができることで安心感をもっているという意見が多かった。一安心である。

ただし油断は禁物である。最低でも1年間は新人職員として、心身両面のフォローが必要だ。

特に夜勤シフトがある職場であるならば、一人立ちして夜勤を行うようになる前後で、「不安」がないかどうかの確認と、それに応じた相談援助を実施することが大事だ。

大切な若い芽が、周囲の無関心と無理解によって、芽のまま摘み取られないように、細心の注意を払って、きれいなを咲かせることができるように、手を差し伸べていきたい。

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心や思いを大切にしたい


生まれて以来、ずっと平和な日本で暮らしている自分にとって、戦争は現実世界とは思えない出来事だ。

リアル映像で本物の戦争の動画を見ているときも、バーチャル映像を見ている感覚に陥ってしまうこともある。

しかし今、ウクライナでは本当の戦争が行われ、悲惨な殺戮が毎日繰り返されている。そこでは罪なき人々が命を失い、大切な人をなくし、尊厳や心を奪われている。戦争は不幸しか生まないと心の底から思う。
戦場の子供たち
だからと言って僕が何かをできるかと言えば何もできないのが現実だ。勿論、戦火で傷ついた人たちに贈る目的の募金等には協力することはあるが、それとて思いついて機会があった場合に限られている。

僕の現在のほぼすべての日常は、自分が住む星の上で戦争が行われていることも忘れ、自分の暮らしを営むことに精いっぱいであり、何かの拍子に戦場に思いを寄せることがあっても、ただ祈ることしかできない。本当に無力である。

僕のように考える人はたくさんいるのだろうと思う。そんな中で自分が何かできることがないかを考えて、ある日千羽鶴を折って戦地で悲惨な状況にある人に贈ろうと思い立った人がいる。

それに対して一部から批判の声が挙がっている。そのことに対する僕の思いを昨日、SNSでつぶやいた。それはどんな内容かといえば以下の通りである。
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2ちゃんねる」創始者のひろゆきさんが、日本からウクライナに千羽鶴を送ろうとしている団体に対し、「千羽鶴とか『無駄な行為をして、良い事をした気分になるのは恥ずかしい事である。』というのをそろそろ理解して貰いたいと思ってるのは、おいらだけですかね?」と痛烈に批判しましたね。

確かに災害時に折り鶴を送られた側が迷惑をこうむった例などがありますから、お金や使える物資を送る方が良いのでしょう。ただこの問題を突き詰めると、「気持ち」「思い」なんて目に見えないものは不必要というところに行きつきますね。それって世界を暗くする要因につながるのではないでしょうか。難しい問題です。
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これに対して、SNSに複数の人がコメントを寄せてくださった。そこでは千羽鶴を送ろうとする行為に肯定的な意見も、否定的な意見も両方存在している。

それは極めて正常な反応だろうと思う。どちらが良いと白黒つけられる問題でもないし、白黒つけるべき問題でもないと思うからだ。

僕自身は、『どうせ贈るのなら、戦火を受けた場所で必要な実用的なものやお金を贈った方が良い』と考える人間だ。しかしSNSにも書いたように、「気持ち」「思い」も大事だと思うので、千羽鶴を送って心を届けようとする人を批判する気持ちは全く持っていない。

特に「海をわたった折り鶴」のエピソードを知る人なら、戦場に千羽鶴を贈る気になるというのも十分理解できることだ。

僕はお金を贈るのが良いと思うけれど、あなたは鶴を通じて心を贈りたいのだから、その行為にもきっと意味があるし、そのことで心が癒される人もいるのかもしれませんね。そう考えて悪いというのだろうか・・・。

ましてや千羽鶴を送ろうとする人を罵倒し、さらにネット上でさらし者にして、深く心をえぐり続けるような行為については不快感しか感じない。

千羽鶴を送る行為をたしなめるにしても、もっと優しく指摘する方法があるだろうと思う。

僕も自分が管理する情報掲示板では、かなり厳しい指摘をして、時には罵声を浴びせることはあるが、それは対人援助のプロとしての情けない姿勢に対しての場合だけである。

自分の飯の種である専門職業に関して、勉強不足丸出しの知識のない姿勢、甘えた考え方には強い言葉が必要だと思う。

しかし専門家の存在しない善意の場所で、自分と価値観が違う人の行動を、上から目線で攻撃するのはやり過ぎだと思う。特に社会に名の知れた人がそのような罵声を浴びせると、それに乗っかって攻撃にかかる輩が、調子に乗って人権侵害ともいえる行為に走ることがままあり、そのような行為は慎む必要がある。

そもそも戦場で傷ついたり、不安な思いを抱えている人を応援しようとする人なら、理路整然と説明すれば、事の善悪の判断はつくはずだ。

現に鶴を折った人で、それを大変な状況の場所に贈っても処置に困るだけだとたしなめられた結果、折り鶴を贈ることを思いとどまり、別の支援策を模索している人が居るのだ。

何もネット上で厳しく個人攻撃する必要はなく、そういう行為をとろうとする人がいるが、それはかくかくしかじかの理由で思いとどまった方が良いと、意見発信するだけでよいのではないかと思う。

善意の行為が、他者から見て的を射た行為でないというだけで、ネット上でさらし者になって糾弾される社会も、戦場と同じように怖い場所だと思う。

なぜならそこは優しさがいらない、争いだけの場所だとしか思えないからである。僕はそんな場所に居たいとは思わない。

人と人が支えあってこそ社会は成り立っているのだから、人と人をつなぐ『』をもう少し大切にしたい。

目に見えない『思い』を大事にして、生きて行きたい・・・。
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命を選別する論理に巻き込まれないための価値前提


第2次世界大戦中のナチスドイツでは、ユダヤ人の迫害と虐殺だけではなく、ドイツ人の中においても命の選別が行われていたことは有名な話である。

ユダヤ人とその血統の迫害については、職場からの追放策が最初にとられた。血統の正しくない純粋ではないドイツ人の社会からの排斥を促すために、労働者はあらゆる場面で血統証明書を示すことが求められた。そして3代遡って誰もユダヤ人が血統にいないと証明できなければ商取引ができなくなり、職場からも追放される憂き目にあった。

それにとどまらずユダヤ人は強制収容され、収容所の中で悲惨な扱いを受けて、多くのユダヤ人の命が無残に奪われたことは世界中に知れ渡っている事実だ。

そのような命の軽視による死への誘導は、ユダヤ系ではないドイツ人の身にも及んでいた。

その前兆になった、「遺伝病を持つ患者は子孫をつくってはならない」という法律ができたのはナチスドイツが政権をとって間もなくのことである。そのためドイツ国内のそこかしこで断種手術が行われた。いわゆるキン抜き手術であり、睾丸を抜かれた男性患者がたくさん出現した。

その後1934年には、優生結婚優生出産が奨励されるようになった。純粋なドイツ人同士を掛け合わせて、子孫を増やそうとする政策だ。

さらにその政策はエスカレートし、悪名高い安楽死計画指令が出された。

不治の病にかかっている患者は、それとなく臨終させよという命令だ。例えば精神病患者が肺炎にかかった場合、その治療をせずに、緩やかな死への誘導が行われた。拒食症状のある人に対しては、放置して餓死へといざなったのである。

さすがにその命令を無視する医師も多かったが、命令を無視する医療機関の院長は更迭され、ナチス党員の医師が新たに院長に任命された。その結果ある病院では、患者の半数が減ったというところもあった。

この指令は後に法制化された。ヒトラーはついに、安楽死を合法とする命令を下したのである。

その安楽死令は、当初は重病の動けない患者・重症の精神病患者に限定されていたが、間もなく「白痴(はくち)」と診断された乳幼児にも適用されるようになった。

このように安楽死の対象者となったのは、不治の病の対象者であり、必ずしも終末期患者に限っていなかったのである。
許されない命の選別
この指令によって命を奪われた人の中には、重度の精神疾患患者が含まれていたという事実がある。今でいう統合失調症の人や、認知症の人も数多く含まれていたであろうことが容易に想像がつく。

そしてその対象範囲は、最終的に安楽死させることを決定する人間の価値観によって大きく変わっていくことになる。その対象が限りなく広げられていったのである。

ナチスがその施策を喧伝するために作成されたパンフレットには、次のような論旨展開がされている。

精神病患者一人当たりに1日4マルクの費用がかかる。家族一人当たりの収入では、公務員で1日4マルク、未熟労働者で2マルク。全ドイツに30万人の精神病患者とてんかん病患者がいる。1家族5人として、どれだけの家族が彼らのために犠牲になっているのか。
精神病院一つ建設するのに600万マルクかかる。住宅1件は1万5千マルクで建つ。精神病院を1件建てなければ、住宅は400戸建てられる。

このような論法でナチスは国民を説き伏せようとし、事実、戦時下のドイツ国民の多くはこの論法を受け入れ、精神病院は不要なもので精神病患者も存在しないようして浮いた費用を戦費に掛けられる支持したのである。・・・2016年(平成28年)7月26日未明に起きた、『津久井やまゆり園の大量虐殺事件』の犯人である植松 聖死刑囚も、同じ理屈で犯行に及んだことは記憶に新しい。

しかしこの理屈のおかしさは、精神病患者が存在しなくて良いという理屈にはなっていない点だ。単に精神病患者がいなくなって、精神病院を建設する必要がなければ費用が浮くという理屈に過ぎず、現に存在する精神病患者が存在しなくてよい理由や、その人たちに社会的費用をかける必要はないという理屈はどこにも存在していない。

自分と少し様子が違うというだけで、無為徒食と決めつけ、いらない命と切り捨てているのである。

弱いものを鞭打つという考え方は、いったん走り出すと雪だるま式に大きくなるのだ。

例えばその論理は、時の政権に異を唱えるものすべてがいらない命と決めつけられる恐れにつながる。

僕のように文筆活動や講演活動を主な仕事としていることも、無為徒食と決めつけられる恐れがあるということだ。

この理屈がまかり通るところでは、やがて「老い」も不治であると切り捨てられる対象になりかねないのだ。

そんなことがあってはならないのだ。だからこそ対人援助の価値前提は、『人間尊重』であり、人として存在していること自体が尊重されるべきというものなのである。

この価値前提を護らねばならない。

人としてこの世に存在している命の価値に、その存在する状態によって差があるなんてことにはならないのである。

人としてそこに存在する命は存在の仕方がどうあっても全て尊い命である。軽重なんてそこには存在しない。

命の価値に差があるなんて誤解を生まないためにも、僕たちは誰に対しても同じ態度で接する必要がある。認知症がある人とない人で、態度を変えるなんてことがあってはならないのである。誰に対しても真摯に手を差し伸べる必要があるのだ。

強い者は人の手を借りずに生きていける。しかし弱い者の中には人の手を借りないと生きていけない人達がいる。しかし人は人を助けることができる存在である。それは時として人は誰かに頼って助けられてよい存在という意味でもある。弱きものは堂々と強き者に護られる権利があるのだ。

私たちの仕事は、そういう人たちに手を差し伸べる職業なのである。他者に「自己責任」を強いるような存在ではなく、自分が他人に対して与えることができる「優しさ」を護る職業であることを決して忘れてはならないのである。
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忘れてはいけないけれど忘れてしまう・忘れてしまいたいあの日。


昨日は朝から津波警報が出されて驚きましたね。避難された方も多いと思いますが、ご無事でしたでしょうか。

海に囲まれた日本・・・そしてあの3.11で多くの方が津波によって命を奪われたこの国で、津波の予報には、どのように敏感になっても足りるということはないと思います。大丈夫だろうという安易な予測は禁物ですよね。避難指示には素直に従ったが、結果的に避難する必要はなかったと思うよりも、何もなかったことをよかったと思うべきですよね。

気候変動の影響からか、台風や水害といった災害も増えています。油断した心に自然は容赦なく鉄槌を下しますので、日ごろの備えは十分にしておきたいものです。

ところで今日1月17日は、阪神淡路大震災からちょうど27年目の日にあたります。

あの日、ニュース画像に映る神戸周辺の被災状況を見て、まさか自分が生きている間に、こんな大きな災害を目の当たりにするなんて思いもかけていませんでしたので大いに驚き、そして心を痛めた覚えがあります。

僕はその当時、登別市内の特養の課長職を務めていましたが、神戸市で被災した女性の緊急入所対応を行うという経験をしました。

その女性は避難所である小学校の体育館で、濡れたおむつを替えることができずに肺炎を発症して緊急入院しておりました。たまたま登別市に親戚がいるということでしたので、その方が入院先での対応に当たり、最終的に登別市に連れてきたいということで対応しました。

その方が暮らしていた家は全壊でしたので、健康保険証や年金手帳・預金通帳など、すべて失われていましたから、それらがない状態で必要な手続きをするのに四苦八苦した覚えがあります。

幸いその方は無事入所でき、数年後にお亡くなりになるまでずっと僕が勤める特養で暮らしておられました。最期は天寿を全うし安らかに旅立っていかれました。

そのように災害から逃れ天寿を全うできた人もいますが、あの震災では6.434人の方がお亡くなりになっています。

そこで亡くなられた方の死とは、1/6.434の死ではありません。それは一人が亡くなった事案が6.434件あったという意味です。震災後の関連死を含めるとその数はもっと増えるのでしょう。

そして一人ひとりの死の周辺には、その何倍もの哀しみが存在することになるのでしょう。失われた人を思い哀しむ人の心の傷は、27年という時が癒してくれているのでしょうか・・・。

今朝、追悼会場の一つである神戸市中央区の東遊園地では、地震の発生時間である午前5:46に灯篭に灯がともされ、「忘 1・17」の文字が浮かびあがりました。
忘れない阪神淡路大震災
」は公募で選ばれた文字だそうですが、その文字に込められているのは、「忘れてはいけない」との思いだけでなく、「忘れてしまう」・「忘れてしまいたい」などの声も反映しているそうです。

そう聴くと、27年という歳月を経ても癒されない傷を心に残している人がいて、被災地ではいまだに慟哭の声があちらこちらに渦巻いているのかもしれません。

私たちはただ手を合わせて、「安らかなれ」と祈ることしかできません。

思えばこの国ではその震災の後にも、「東日本大震災」という未曽有の災害が発生しています。私たちが生きている間に、生きている国で、2度も大震災が発生しているのです。そして今後もそのような災害が発生しない保証はどこにもありません。

だからと言ってそれに怯えて生きていても仕方がありません。介護事業においては、今年度から義務化されたBCP(業務継続計画)をできるだけ速やかに策定し、従業員全員がその内容を熟知し、実効性のあるシステムとする必要があります。

対人援助のプロとして、私たちが考えるべきこともあります。

他人の暮らしに深く介入して、生活支援のために手を差し伸べる仕事に従事する我々は、いつ何の理由で奪われるかもしれない儚い命に寄り添っているのだという使命と責任を自覚し、誰よりも人の命を尊く思い、人間尊重の価値前提をしっかり護る存在として、そこに居なければならないと思うことが大事ではないのでしょうか。

私たちが利用者の命と尊厳を護ることができたとすれば、数々の災害で失われた方々が、生まれ変わるとしたら、またこの国に生まれたいと思うことができる日本が、そこに存在することになるのではないでしょうか・・・。そんな思いを込めて、今日の記事を締めたいと思います・・・合掌。
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成人の日に思うこと


昨年末の押し詰まった時期に、うっかりミスで自分が業務に使っていたメインPCを壊してしまったことを、「2021年末のハプニング」という記事の中で紹介しています。

その後、新しいPCを発注していましたが、7日に新機材が手元に届いてデータ移行作業などを行い、業務に滞りなく使えるように仕上げることができました。
新しいPC
今は新機材で仕事を進めていますが、さすがに新製品はサクサクと動きが良いですね。デスクトップを開いてすぐ自動で電源が入り、あっという間に立ち上がるのでストレスが全くありません。

今後はこのPCを使って今までよりもパフォーマンスを高めて、より良い仕事をしたいものだと思っています。

さて先週土曜日の記事でも紹介しましたが、メディカルサポネットの連載「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾」が新年早々更新され、「介護事業におけるサービスマナー〜丁寧で真摯な対応が顧客と人材を呼び寄せる〜」がアップされています。

無料登録で記事全文を読んでいただけますが、記事最後尾の左下部分には、「評価のハートマーク ♡♡♡♡♡」があります。もし僕が書いた記事内容に共感いただいた方は、ぜひハートマークをクリックいただきたいと思います。今後の励みにもなりますので、どうぞよろしくお願いします。

ところで今日は成人の日の祝日ですね。僕の住む登別市やお隣の室蘭市など、近隣市町村では昨日のうちに新成人を祝う式典を終えています。新成人の皆さんは昨日ゆっくりお祝いして、今日は二日酔いという人もいるかもしれません。

毎年、新成人になったことを誇るように、人前で煙草を吹かしたり、日本酒の一升瓶をラッパ呑みする人の姿が報道画像として流されたりしますが、煙草を吸ったり酒を呑むことが大人の証(あかし)ではありません。むしろことさらそんな姿を人前でさらすことは恥ずかしいことでしかありません。

そのような画図が残って、「若気の至り」と笑っていられる時期もそう長くは続きません。消したい過去になるのが落ちなのです。

年をとればとるほど、ヘビースモーカーや大酒呑みは、人の迷惑にしか過ぎなく思えます。その姿を自慢すること自体が、尻が青いということなのです。

今年4月には、民法改正に伴い成人年齢が現行の20歳から18歳に引き下げられるそうです。そうなるとまだ高校生のうちに成人となる人も多くなるわけです。

そうなると成人という式典の内容も、新成人の意識も少し変わっていくかもしれませんね。しかし時代がどう変わろうと、一人の大人として自覚していかねばならない普遍的真理というものがあるはずです。

新成人の方々には、そうした真理を追究する姿勢を持ってほしいし、その時に考えてほしいことがあります。昨日そのことは僕のFBに書きましたが、このブログにも同じことを書かせていただきます。

成人式を迎えたということは、社会に大人として認められる年齢を迎えたということです。

そのことをきっかけにして大人とは何かということを考えてください。

例えば、大人の責任と自覚を持って、人に迷惑をかけないようにするという考え方は決して間違ってはいません。正しい考え方だと思います。

しかし人は生きていく中で、誰にも迷惑をかけないことはあり得ないのです。すべての責任を自分でとることも不可能です。

特に若い時期は失敗する時期なのです。だからこそ失敗を繰り返しす度に、そのフォローを誰かにしてもらわねばならないのです。決して失敗せずに、誰かに頼るという経験がないまま、順調に年を重ねている人なんていないのです。

だからこそ、どうぞ人に頼ってください。人に頼ることができる幸運を喜んでください。その代わり、頼った人に助けられた恩や感謝を忘れない人になってください。

人は人を助けることができる存在なのです。そのことが人間という存在の素晴らしさなのだと感じてください。それが何よりも尊いということを理解してください。

そしてどうぞ立派な大人になる前に、感じの良い大人になってください。

それが素敵な大人になるということだと思いますよ。
新成人に捧げる言葉
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命の儚さに触れて思うこと


年の瀬という声が聴こえてくるようになった押し詰まったこの時期に、やりきれない悲惨な事件が起こった。

大阪北新地の精神科クリニックの放火殺人事件は、重体となっている犯人が事前に予行演習として自宅にも放火するなどして、念入りに計画して無差別大量殺人を狙った犯行だったと推察されている。

大阪の繁華街で夜遅くまで、働く人の鬱病やパニック障害・発達障害などをサポートし、患者の希望と呼ばれた49歳の院長をはじめ、尊い24人の命が犠牲となった事件は、犯行動機が何であろうと決してあってはならないし、許すことができない事件である。

このような悲劇に遭遇しても、僕たちにできることは犠牲者の方々に深く哀悼の意を示すことくらいしかない。そしてこのような事件が二度と繰り返されないように祈ることしかできない。しかし過去を振り返ると、こうした悲惨な事件が無くなったためしがないことも事実だ。

そうであれば私たちは、ただ空しく自分の無力を知るだけで、あきらめてしまうことしかできないのだろうか。

決してなくならない悲劇・・・許されない事件の繰り返しに対して、私たちができることは何もないのだろうか。

おそらく直接的に世の中を良くしたり、事件を防いだりする力は、僕たち個人にはないのだろう。

しかし人としてこの社会に生き、様々な社会活動をしている責任ある存在としての自分を考えたとき、私たちが自分の身の回りの中でできることはあるのではないかと思う。そう信じたい・・・。

僕たちは自分以外の誰かの暮らしに深く介入して関わる対人援助の仕事に就いている。それは自分以外の誰かの暮らしに直接かかわりを持つという意味である。時にその仕事は、向かい合う誰かの暮らしを支えるだけではなく、命を支えることにもかかわる仕事である。命が燃え尽きる瞬間まで関わりを持ちながら、最期の瞬間まで尊厳ある人としての暮らしを支える役割をも持っているのだ。

そういう自分が、命の儚さを誰よりも理解し、だからこそ命は尊いのだということを意識して、日々の仕事に向き合うことが大事だと思う。

自分が支援者として関わる利用者に対し、その人が置かれた環境や身体機能の違いに関係なく、人として敬う態度を失わないことが必要だと思う。能力の違いで知らず知らずのうちに人を差別視するようなことがなく、向かい合うすべての利用者を人として愛おしく思い、真摯に寄り添うことができてこそ、人の暮らしと命に向かい合う意味が第3者にも伝わるのではないだろうか。

当たり前のことだが、失われた命は二度と戻ってはこない。命を失った人に対して、そのあとにできることはないのである。だから今日できることは明日まで引き延ばさない心がけが必要だ。日々の営み、日々の関わりに悔いが残らないようにしたいと思う。

そのことをたくさんの仲間と伝え合い、同じ思いを持つ人の輪の中で、幸せや笑顔の樹形図を描く方法論をたくさん見つけていきたいと願うのである。

僕たちに今できることは、尊い命が理不尽に奪われたという現実を直視し、あらためて儚い命の尊さをかみしめて、命は護られなければならないものだということを伝えていくことだろうと思う。

だからこそ僕たち自身が、誰よりも命の尊さを想い抱きながら日々の職務に携わっていかねばならない。

そのことで、誰かに伝わるものがあるとしたら、世の中は0.1ミリでしかないかもしれないけれど、良い方向に進められると信じて、今いる場所で誰かのあかい花として咲き続けたいと思う。
儚い命の尊さ
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報われない努力は、足りていない努力と思おう


何かと話題の日本ハムファイターズ・新庄剛志新監督。

明日30日はファイターズのファンフェスタが札幌ドームで行われる予定だが、新庄ビックボスが参加するということで、北海道では民放地上波で、フェスタが完全生中継されることになった。

19時〜21時までのゴールデンタイムと呼ばれる時間帯のテレビ番組を変えてしまうのだから、すさまじい新庄フィバーである。

そのビックボスが自身のTwitterで、「努力」についてつぶやいている。

努力をしてない人間ほど、すぐ人のせいにし、不貞腐れ自分から逃げる」・「地味な努力こそ派手になれる…。

新庄ビックボスは、派手なパフォーマンスのイメージで捉えられることが多いが、現役時代誰よりも練習を怠らない人であったということを、多くの関係者が証言している。

メジャーリーガーだった当時は、そんな努力に見向きもされず、日本人であるという理由だけで干されて、自分よりずっと成績の悪い白人選手を使い続けた監督の下でもプレーしていた時期もある。それでも決して腐ることなく、努力をし続けたのである。誰も見ていない場所で・・・。

そんな努力を現役を終えるまでずっとやり続けたことが、今につながっていると言えるのではないのだろうか。

そうした努力とは、スポーツだけに求められるものではないことは今更言うまでもない。努力の必要のない仕事なんてあり得ない。

しかも求められる努力とは、決して表に出るものではなく、終わりのあるものでもない。毎日コツコツと、地味に続けていくのが努力の本質である。

なぜなら努力は誇るものではなく、当たり前にするものだからである。

僕たちも介護の場で、そうした努力を続けていかねばならない。人の暮らしに関わっているのだから、これで十分というで立ち止まってしまえば、昨日までの利用者ニーズにしか対応できなくなる。

それは明日からの暮らしに対して、利用者が求めていることには少しずつ足りなくなることかもしれないのである。

介護サービス利用者の方々が、今日良かったと思ってくれることをし続けることも必要だ。しかし介護を必要としている人は、日々困ることが違ってくるのだ。特に高齢になればなるほど心身の衰えは、どんなに頑張ろうと止められないのである。

自立支援が大事なことはわかっているし、人の手を煩わせず自分で何もかもできたらと願う気持ちは誰しも持っている。

その願いや思いも通じなくなる状態変化というものに直面するというのが、介護サービス利用者の方々の現実問題なのである。

そこでは昨日良かれと思った方法論が、今日から全く通用しなくなるということも、ごく普通にある。その変化や新たな対応に、「気づく努力」は、僕たちに毎日求められていくのである。

しかし努力は必ず報われるとは限らない。人の頑張りはすぐに結果に結び付くものではないからである。

でもそれは努力も時には人を裏切ると考えるのではなく、今は努力の途中であって、それに報いる結果は努力をし続ける先にきっと現れるのだと思ってほしい。決して途中であきらめてほしくない。

利用者に丁寧で温かい対応がしたいと思って日々努力しても、周囲がちっとも同調してくれない、変わってくれないと思っている人がたくさんいると思う。だからと言って、あなた自身がその努力をやめてしまえば、その努力に報いる結果は決して現れることはなくなってしまうのである。

あきらめずに努力をし続ける限り、その先には新しいステージが存在することを信じてほしい。

他人と過去は変えられなくとも、自分と未来は変えることができるのである。

僕は北海道の片田舎から毎日コツコツと情報発信をし続けている。インターネットを通じた情報発信を行うようになったのは、介護保険制度創設と時期をほぼ同じくしているので、21年以上そのことを続けている。

もしそんなことを続けていなかったら、出版社数社から自著本を何冊も上梓することもなかったろうし、今のように執筆や講演という仕事をいただいて、そのことによって対価を得ることもなかったろう。

何より僕の主張に耳を貸してくれる人はいなかったろう。

しかし地道な活動をし続けていることによって、「介護サービスの割れ窓理論」を知ってくれる人や、賛同してくれる人もたくさん増えたし、介護事業におけるサービスマナーの必要性を意識してくれる人も全国にたくさん増えている。

竹内理論による水分の大量強制摂取という、根拠なき悪魔のごとき不適切ケアを、批判糾弾する声は僕だけしか挙げていなかった時期もある。

しかし情報発信をし続けたことによって、虐待ともいえる強制水分摂取の実態を告発する情報が集まりだし、僕の意見に賛同する声が増え、それは竹内理論実践施設の声を席巻していった。そして今ではその方法論が間違っていたと、その方法論を推奨していた団体も自己批判するようにまでなった。

介護事業者の数は、介護保険制度がスタートした2000年以降に急激に増えている。だからこそ知識の浅い状態で、過去の間違った方法論に洗脳されたまま、ちっともそこから抜け出せないで、品質の低いサービスにとどまっている状態も見受けられる。

だからこそそうした人々に、変える努力を促すとともに、その人たちが間違った状態に気が付くための、伝える努力もし続けなければならない。

その努力に終わりはないのだと思う。逃げないで続けて、介護によってこの国の未来に光が射すようにしたい。

介護支援が必要な人たちの豊かな暮らしの実現・・・それが介護にとっての「派手さ」であると思っている。
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感動話の影に放置される哀しみがあっては意味がない


介護事業に長年携わっておれば、そこで刻んだ様々なエピソードの中に、人に語れば感動される話なんて山ほど手に入れることができる。

だけどそれが何だと言いたい。

僕たちが求められているのは、利用者の方々の日常支援である。介護を必要とされる方々が、「ごく普通の暮らし」を送ることができるように、支援の手を差し伸べることなのである。

心身に障害を持つ人は、「普通の暮らし」を送ることに支障を来すような様々なバリアに向かいあっている。そのバリアを取り除いて、暮らしを送るための不便が生じないようにアプローチすることが何より大事である。

そうした日常を創り出したうえで、そこに感動的なエピソードが加えられるとしたら、それは歓迎されるべきことだろう。

しかしそうしたエピソードを創り出すことを目的化してはならないのだ。それはあくまで日常のケアの品質を高めた結果として生まれるものでしかない。

むしろ感動的なエピソードの影で、哀しみや苦しみ、痛みや不安に震えている人がいないかということが問題なのである。

誰かの悲嘆の上に積み上げられる感動なんて何の意味もないのだ。

僕たちがどんなに努力しようと、僕たちが向かいあう全ての人を一斉に幸せにしたり、笑顔にしたりするなんてことは出来ない。けれども僕たちの目の前にいる一人一人の哀しみや苦しみ・不安に寄り添うことは出来るはずだ。

哀しんでいる人や苦しんでいる人の傍らに寄り添って、そこから抜け出すには何が必要かということを考え続けることが必要だ。やがてその人たちが笑顔になれるとしたら、そこで僕たちも一緒に笑い合えばよい。

生活支援とはそういうことの繰り返しなのである。特別なことより日常を大切にしなければならないのが、「介護」なのである。そしてそれこそが対人援助の本質といえるのだ。

しかし、「人はパンのみにて生くるものに非ず」ともいう。日常を淡々と創り出しながらも、心弾む機会も創っていきたいと思うのは当然である。

特別な日やイベントは、人の心に潤いを与える大切なエピソードでもある。

だがそこでも勘違いをしてはならない。介護サービスを利用している人を、全員集めて行うイベントを、すべての人が愉しむことができるなんていうことはあり得ないのだ。

好みの問題を別にしても、その時に置かれたその人の状況によっては、愉しむ余裕もなく、愉しめる気持ちになれない人もたくさん居られるのである。

そうした人を無理やり人が集う場所に引っ張り出しても、心身の活性化なんてできるはずがない。

だからこそ何かに参加しないという権利もしっかり護らねばならない。

皆が集う場所に楽しんで参加できない人がいるとしたら、その理由を探り、その人にあった別の活動を探したり、作ったりすることも大事である。ポケットの中に一つの道具しか入れていないのでは選びようはないが、ポケットの中身を増やして、利用者の選択肢を広げることが介護支援者には求められるのだ。

だが人によっては、参加しない理由を詮索されることさえ嫌う人がいる。その思いも受容しなければならない。

自分ではない第3者の暮らしに深くかかわる仕事ということは、そうしたデリケートな思いにも気を配らねばならない仕事なのである。

そもそもQOLとは、いやな活動に参加しても向上することはない。その当たり前のことを忘れずに、それでもなお、「暮らしの潤い」を求めて一人一人の心持ちに思いを寄せ、工夫のための知恵を傾けるのが私たちの仕事である。

そうした精神作業が伴う介護という仕事に、誇りをもって取り組んでほしい。そのことが一条の光となって誰かの心に届くことを、それが希望というものになるということを信じて、「あきらめない介護」を続けてほしいと心から願う・・・。
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あふれだす愛を伝えるために


介護という文字を紐解くと、介とは心にかけるという意味を持ち、護は云うまでもなく護るという意味である。

だからこそ介護という仕事は、単なる動作介助に終わることなく、行為そのものを手助けして、個人の暮らしの質を、心にかけて護ることが求められる仕事である。

そうはいっても現代社会において、介護事業は数ある職業の一つに過ぎない。対人援助に対する志を高く持った人だけが、そこに就職してくるわけではないのである。

しかも介護という行為は、機械が人に替わることができない部分が多く、必然的に多くの人手が必要になる。だからこそ介護事業では常に人手不足で、たくさんの募集が出され、そこに応募してきた人間は、スキルに関係なく貴重視され雇用される傾向が強い。

その中には人に対して思いやりを持つことができない、対人援助という仕事に向かない人も多々含まれることになる。そしてそこには教育の手が届かないどうしようもない人材の残骸も含まれているのである。そういう人も淘汰されずに残ってしまうというのが介護事業の現状でもある。

そもそも仕事を求めてたまたま介護事業者に就職しただけで、そこで教えられた業務をこなしているだけの人に、利用者を心にかけて護れと言われても、その意味さえ理解できないのは当然と言えば当然でもある。

だがそのことを嘆いてもしょうがない。そのような人罪を選別して、人材を育て人財を創り上げている事業者もあるのだから、そうした事業者の存在とノウハウを伝えて、そちらの方向に介護業界全体が向かうことができる指標を示すのが僕たちの仕事でもある。

所詮、きゅうりは茄子には育たないのだから、すべての人が介護人材としてふさわしい仕事ぶりになるなんて幻想を抱かず、介護実務に従事する人のマジョリティは、対人援助のプロとしてふさわしい仕事ぶりであるというふうにしていきたい。

そのために全国の介護人材と繋がりあって、情報交換し合ったりしているが、志を同じくする人々に勇気をもらったり感心させられたりして、僕のモチベーションは維持されている。

家族や友人は勿論のこと、そうした繋がりあっている仲間の存在と、常に静かに見守ってくれているこのブログの読者の存在によって、僕はものを書いたり、話をしたり出来ているわけである。

つまり僕はそうした人々や、僕の周囲の環境によって『生かされている』ということになる。

繋がりのある方々からは、常に様々な刺激をいただいている。それは自分の本質的部分での変化や成長を求められるメッセージと思えることも多い。

生きることの苦しみ、その重さと尊さ、今ここにいられることの『幸い』を、以前にも増してて教えていただいているように思える自分が今ここにいる。

そうしたメッセージや期待に、自分がすべて応えることができているわけではない。

しかしできるだけ嘘のない形で、僕を応援してくださる方の思いに真摯に応えていきたいと思っている。それが自分の現在の仕事や社会活動の支えにもなっている。

介護業界には、自身の心身の健康や、願っていた夢や想い・かけがえのない人といった大切なものを失いながらも、なお他者への思いやりを忘れない人がいる。
あふれだす愛
僕が現役中に起こったいくつかの大災害の最中に、自分が被災していながら、他者を慮って、その人たちの支援のためだけに被災地を走り回っている介護関係者は少なくなかった。

それは決して簡単に実行できることではないだろう。でも介護業界には、幾人もそのような人達が存在していることも事実だ。そのことを誇りに思う。

自分にとって大切な人や物を失った人は、今も完全にその心が癒されているはずがないのに、深く傷ついたゆえに、人の痛みに寄り添うと努めておられる。

そうした人たちが行動で示してくれる愛の形を、文字や言葉にして様々な人に伝え、後世にもその足跡を残していくことが僕の使命でもある。

介護実務に携わる人々の、その周囲にあふれだす愛を伝える仕事が、僕に与えられた仕事だと思う。

そんな僕の活動を紹介する動画、『さくらびとmasa』も是非ご覧になっていただきたい。

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こもれ陽


僕たちが携わっている福祉や介護とは、いまさら言うまでもなく対人援助サービスである。

それは一人一人の個性ある人間に対して向かい合うものだ。

だが、そこではそあくまで職業として利用者に向かい合うのであって、奉仕活動として無償で他者に関わっているわけではない。

福祉援助や介護という職業を続けているのは、そこで生活の糧を得ているからであり、その目的が達せられないとしたら、別な職業を探すことにならざるを得ない。どんなに今の仕事が好きであっても、生きるための生活の糧を得られないのであれば、対人援助という職業に携わり続けていられる人はいないだろうと思う。

そもそも対人援助の職業に携わっている人が、必ずしも高邁な理念や志(こころざし)に根ざして、その職業を選んでいるとも限らない。

たまたま介護の仕事に就いたというだけという人もたくさんいるはずだ。

それはそれで良いのである。動機や理由はどうあれ、対人援助という領域に係るようになった時を境にして、その時点から正しい知識を学び、適切な技術を身に着けて、利用者に真摯に向かい合う姿勢を護ることが大事だ。それさえできれば就業動機なんて関係なくなるのだ。

だからこそ職業として対人援助に関わる以上、福祉援助や介護のプロとして恥ずかしくない知識と技術を身につけなければならない。

介護をしている家族と同じレベルで物事を考えないでほしい。そこで求められる関係性とは、決して家族のように遠慮ない関係性ではなく、介護を受ける方に対するプロの介護支援者としての関係性である。

当然のことながら対人援助のプロとしての、「結果」も求められてくる。

「頑張ったけれど暮らしぶりを良くできませんでした。」・「そんなつもりはなかったけど、気分を害して申しわけありません」・・・そんな言葉も言い訳も通用しないのである。

だからこそ福祉援助や介護という仕事に携わる人には、対人援助とは何かという本質を学びとってほしい。新人教育に当たるリーダーや管理職は、仕事の手順を教える前に、職場の理念とともに、その本質をしっかりと伝えてほしい。

僕たちがどんなに高邁な理念や、高い志を持とうとも、僕たちのできることには限界がある。僕たちの仕事で世界中の人々が幸福になることはないし、世界平和に結びつくこともないだろう。

僕たちができることは、ほんの小さなことにしか過ぎず、僕たちの目の前にいる利用者の方々に、一瞬の笑顔を届けられるだけなのかもしれない。

むしろ目の前の利用者の方々にさえ、僕たちの思いが伝わらない瞬間も多い。だがそのようなジレンマを抱えつつも、利用者の方々の次の瞬間の笑顔を想像して、その笑顔を作り出すものは何だろうと考え続けて関りを持つ先に、「ありがとう」という言葉が返ってくることもある。

そんな小さなことを誇りに思い、喜びを感じる人になってほしい。対人援助のスキルとは、そうした小さな出来事に喜びの感情を持つことが出来ることも含んでいるのだと思う。そのために何が必要で、何ができるのかを想像し、気づくことができ、実践する人が求められているのだと思う。

僕たちは北風に震えるすべての人々に光を当てる太陽のような存在にはなれなくとも、陽の当たらない陰をさまよう人に少しだけ明るさを届ける存在にはなれるのだと思う。

枝葉の間からさし込むほのかな光のように、私たちの目の前の影の中にいる人々にとっての、「こもれ陽」となれるのだと思う。

そのように人に優しい存在になるために何をすればよいのだろうか。そのことを日々考え続け、実践し続ける人がいなくなれば、介護を受けなければならない人の周囲には、深く暗い闇が広がり続けるだろう。

そうならないように、一人一人の福祉援助者・介護職員が、こもれ陽を届ける人になることを願ってやまない。

こもれ陽とは、決してまぶしい光ではなく、優しく温かなものであることを忘れてはならない。
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闇に灯(とも)る月明かりのように・・・。


中秋の名月とは、もともと旧暦8月15日の夜に見える月のことをいいます。

それが新暦では9月21日になるわけです。

昨晩21日(火)は、その中秋の名月が8年ぶりに満月の日付と一致した夜になりました。皆様の地域では月が見えたでしょうか。

道内は昨晩、雲が多い地域が多かったのですが、雲の合間から月が見られる時間もあって、そのタイミングを見計らって写真撮影する人の姿が数多く見られました。

そのためインスタグラムなどのSNSには、夕べからまん丸い月の写真が次々とアップされています。皆さん撮影がお上手ですね。
五稜郭を照らす月
画像は北海道函館市・五稜郭に浮かぶ中秋の名月で、知り合いから送っていただいた画像です。

燦燦と降り注ぐ太陽の光に希望を感じることも多いのですが、淡くほのかに照らしてくれる月明かりは、太陽のない時間の闇を振り払ってくれる、とても心強い灯(ともしび)です。「月明かりを頼りに夜道を歩く」というふうに言われたりしますが、闇を払ってくれる月の灯は、とても頼りになる存在です。

制度がどうなろうと、科学がどんなに進歩しようと、世の中には不公平なことや理不尽なことがたくさん存在し続けます。それは文明がどんなに発達しても決してなくなるものではないのでしょう。

光が降り注ぐ場所がある反面に、影は必ず生まれるのです。

私たちが従事する、「対人援助」という仕事は、そうした不公平や理不尽に手を差し伸べたり、光が当たらない影の部分に灯りをともす仕事です。それはまるで闇に浮かぶ、ほのかな月の灯のようではないですか。

私たち一人ひとりは、世界中に降り注ぐ希望の光にはなれなくとも、その陰に隠れて震える人を見つけ、そっと闇を払うことができるように灯をともす存在になり得るのではないでしょうか。

その灯りは、私たちの身の回りの人にしか届かないものかもしれません。私が一人で世界中に光を降り注ぐことなんてできないのです。でもほのかな灯りを届ける人がつながり広がれば、払われる闇も広がるのです。

そっと差し伸ばす手の届く場所で、わずかな灯りであっても、それを届けることが出来れば、世界は少しだけ明るくなるのです。

私たちの仕事の本質とはそういうものではないのでしょうか。

だからこそ、私やあなたができることは小さなことかもしれませんが、その小ささを決して恥じることなく、行い続けていくことが大事なのではないでしょうか。できることだけで良いから、確実にし続けることが私たちに与えられた使命ではないでしょうか。

私たちの届ける灯りは、とてもほのかで、それは私たち自身さえも気が付かぬ程度の明るさでしかないかもしれません。しかしそのほのかな灯は確実に闇を払い、その闇の中で立ち往生していた人の支えになるのです。

そう信じて、今日も明日も小さな灯をともし続けませんか・・・。優しい月明かりのように、誰かが迷い込んでいる闇を払っていきたいと思いませんか。

どうぞ、同じ思いでつながる人が増えていくことを願います。どうぞ、そういう方々と繋がり続けたいと思います。

そしてどうぞ、私たちとともに手を指し伸ばし続ける人でいてください。
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スキムミルクの雨と焦げた匂いの病室


スキムミルクのにおいがする雨が降っていた夏の午後、飼っていた子犬が天国に逝きました。

幼なかった僕は、その時大きな声で泣きました。だけどいくら泣いても、子犬はピクリとも動きませんでした。

僕が命の儚さを知った瞬間だったかもしれません・・・。

むき出しになった銅のパイプから、焦げた食べ物のにおいがする古い病室で、幼い従兄弟(いとこ)は天国に召されました。

彼が旅立った瞬間を僕は知らずに待合室で寝ていました。大人たちのなんとはないざわめきの中で、そのことを知っても実感がありませんでした。

窓の外には青白い風が流れ吹いている冬の朝のことでした。

子犬も従兄弟も、大人になることができませんでした。そのチャンスを与えられることはなかったのです。

天国に昇ったのだから、もう痛みも苦しみもないのだと大人は言いました。でも僕は痛みや苦しみがあっても、子犬も従兄弟も生きていたかったのではないかと思いました。

でも誰も、子犬や従兄弟を救うことは出来なかった。

病院も医者も看護師も、従兄弟が生きたまま苦しまなくなるようにできなかった。

どんなに小さい命も、愛おしい命も、時によって簡単になくなってしまうことを知りました。

けれども僕たちは今ここに生きています。いつまで生きていくのかはわからないけれど、ここにいます。

小さいまま、幼いままで失われていく命と、そうではない命の違いはどこにあるのでしょう。

人も動物も死ぬために生まれてきたのではないはずです。結果的に死は生きることの先に必ず訪れるけれど、それは生き終わった結果ではないかと思うのです。でも幼くして召された命は、生き終わったのでしょうか。

小さいままで天に召された生命は、どんな意味をその生に与えられていたのでしょうか。

命の儚さや、命の尊さ・・・愛するものと別れることの哀しみやつらさを、人に知らしめるために、その命は存在したのでしょうか。

でもそれは必要なことなのでしょうか。

たった一つだけ確実に言えることは、大切なものであっても、それをいつまでも持ち続けることは、とても難しいことなのだということです。人は簡単に何かを奪われることがあるということです。

だから大切な人や大切なものの、「今」を大事にしなければと思います。

明日じゃなく、今しか大事にできないものがあるのだと思います。

スキムミルクのにおいのする雨は、あれ以来降りません。

むき出しの銅のパイプの病室はもうありません。

今はただ、においも色もない風が僕の周りに吹いているだけです。
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華子さんの約束


僕が総合施設長を務めていた特養では、「看取り介護を密室化させない」というコンセプトがあった。

看取り介護になった瞬間から、その人が施設内で看取り介護を受けていることを隠すかのように、人が訪ねてこない個室に押し込み、そこでどのような介護を受けながら過ごしているのかを、他の利用者がうかがい知ることもできずにいる状態がよいはずがないと考えていた。

同じ施設で暮らしている他の入所者との交流も一切なく、その姿が皆の目の前から消されたまま、やがてひっそりと息を引き取る。・・・それが看取り介護だとしたら、こんな哀しい介護はないし、その最期はあまりにも孤独だと思った。

そのような無情で寂しい旅立ちが、看取り介護の結果であってはならないと思う気持ちは、今も変わらない。

そもそも他者がどのように看取り介護を受けているのか、想像するしかない場所で、自分に残された最期の貴重な時間を使いたいなんて思うことができるだろうか。

看取り介護の実践が見えない場所で、「看取り介護もできますけど、終末期になったとしたら、どうしたいですか」と問われても、そこで看取り介護を受けたいなんて思うわけがない。

特養は、「家」ではないが、「暮らしの場」である。利用者と利用者の関係性とは、「家族」ではないが、「知人」であり、「友人」である場合が多い。

特養という暮らしの場で、縁あって同じ時期に交流機会を持っていた友人・知人として、残された時間がもうわずかであると明らかになった人がそこにいるとすれば、お別れの思い出を刻んだり、お別れの言葉を交わし合ったりする機会を持つことは大切なことである。

自分の命が尽きても、誰かが自分を覚えていてくれると思えたり、思い出してくれると感じることは、自分が生きてきた証を強く実感できることにつながるのではないだろうか。看取り介護とは、そうした思いを得ることができるエピソードっづくりの時間である。

何よりそこでは、「寂しくないよ、怖くないよ」と声をかけてくれる人の存在がある。「死の瞬間」が頭によぎる人にとって、それは何より救いとなる温かい言葉になるのではないだろうか。

誰もいない場所で、「私はどこに行くんだろう」・「寂しくてやりきれない」と感じて過ごすより、誰かがいてくれることだけで、安心できる人は数多いことと思う・・・。

そんな思いを強くさせてくれた理由の一つに、華子さんの存在があった。

華子さんは、「せっかく縁があったんだから、最期まで寂しくさせないようにお手伝いしますよ」と言いながら、看取り介護の対象となった人の傍らで、声をかけたり唄を口ずさみながら、最期の瞬間まで声は届くと信じて寄り添ってくれる人だった。

元看護師だった華子さんは私たちに、「聴覚障害のない人は、耳は最期まで聴こえているんだから、意識がなくても声をかけ続けるのは意味があることなのよ」「聴こえるから寂しがらせないように呼び掛けなさい・声をかけなさい」と教えてくれた。

華子さんはこんなことも言っていた。「私も最期は寂しいのはいやよ」と・・・そして、「でも私は怖がりだから、もうすぐ死ぬということは教えないないでね」と言いながら、「そんなこと言わなくても、きっと最期はわかるから」・「それでも念押ししちゃだめよ。ただ側について、怖くないよ、寂しくないよと声をかけてくれるだけで良いのだから」と言っておられた。

それが華子さんと僕たちの約束事でもあった。

そんな華子さんが、末期がんで旅立たれたのは、看取り介護を受けてからちょうど2週間目の昼下がりのことだった。

その日、柔らかな日差しの中で、家族や施設のスタッフと知人が、たくさん集まった華子さん個室は、順番に人が入れ替わらなければいられないほどのたくさんの訪室者があった。

「華子さん、聴こえるかい」・「私よわかるでしょ。聴こえるでしょ」・・・そんな声はすべて華子さんに届いていたと思う。

亡くなる少し前に、華子さんの頬に一筋の涙が伝った。あれは哀しみの涙ではなく、最期みんなとお別れができたといううれし涙だったと思っている。

そして死期が近いことを告げられることなく、自分で悟った華子さんは、最期は静かに安らかに旅立っていかれた。

私たちと華子さんの約束は、こんな形で果たされた。
無題
※上の画像は看取り介護対象者の白寿のお祝いを1週間早めて実施したときのもの。周囲の人たちが終末期を生きる人を、身体・精神両面で支えるのが看取り介護。人生最終ステージを生きていることを意識しながらも、人生最期の誕生日もみんなで一緒に祝います。(※本ブログで紹介した、華子さんのケースとは別です
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戦争体験者とともに迎える終戦の日に思うこと


北海道は毎年、お盆を過ぎると秋めいた風が吹く日が多くなる。

登別市の今年の夏は、例年になく30度を超える日が続くなど異常な暑さだったが、案の定お盆期間に涼しい風が吹き始めた。

今日と明日の明日の最高気温予測は20度となっているが、今日などは風があるため体幹気温はかなり低い。おそらくもう25度を超える日もなくなると思われる。8/10に台風10号から変わった温帯低気圧が通過した際に大雨になったが、その日が暑い夏から秋に変わる境目になったのかもしれない。

先週はたくさんの人が、週末前からお盆休みに入って、昨日まで連休だったようだ。介護関係者は、そのような休みもとれない人も多いのは承知しているが、運よくお盆休みがとれて英気を養うことができた人は、今日からリフレッシュしてよい仕事をしていただきたい。

私たちが元気に良い仕事をするということは、目の前の対人援助サービスの利用者の方々が、より幸せになってくれるということだ。そういう結果を求め続けるのが、対人援助サービスであることを忘れてはならない。

さて昨日・8月15日は終戦記念日だった。日本にとってそれは敗戦記念の日でもある。

76回目の終戦の日は、あの戦争を経験した世代の方々がまだたくさん生存して迎える日でもある。

僕自身は終戦の日から15年目の8月生まれなので、戦火の爪痕さえ感じることなく生まれ育った、「戦争を知らない子供たち世代」である。

しかし戦争体験者と戦争を知らない世代の我々が、ともに終戦の日を迎える期間はそう長くは続かない。

いずれこの日本は、太平洋戦争を知らない世代の人間だけが暮らす国になる。だからこそそうなる前に、戦争体験者の方々から伝え聞いておくべきものがたくさんあるような気がする。

語り継がれる様々なエピソードを通じて、なぜあの戦争が起こり、なぜたくさんの方々が犠牲にならなければならなかったのかを深く考えなければならない。

戦犯は敗戦国にしか存在しない。しかし人類最大の犯罪は、非戦闘員である無辜(むこ)の一般国民を巻き込んだ大量虐殺である原爆投下ではないのか。ジェノサイドとは、そのことを例外にして語ることはできないのではないのだろうか・・・。過去のことより未来を考えなければならないが、未来を考えるためにもそうした矛盾に目をつぶらず、人類全体でその評価をきちんとしておかねばならないのではないだろうか。

そのうえで考えなければならないことがある。

この日本という国は、ずっと他国と戦争をしなくてよい状態が続いて平和な国でいられるのだろうか。今私たちの周りは本当に平和で安全なのだろうか。平和を護り続けるために私たちは何をすべきなのだろうか・・・。

下記のご像をご覧いただきたい。
終戦記念の日
ある意味、有名なこの1枚の写真は、終戦直後の長崎市で、米国人によって撮影されたものだと言われている。

これは小学生と思しき少年が、亡くなった幼い妹を背負い、焼き場で順番を待ちながら並んでいる写真だそうである。この少年が誰だったのか、その後どういう人生を歩んだのかという消息は伝わってない。撮影者が数年後に消息を調査したが見つからなかったそうだ。

愛する家族を・・・まだ幼いうちに命を落とした妹の亡骸を背負いながら、直立不動の姿勢で焼骨を待つ列に並ぶ少年の気持ちというのは、平和な時代に暮らす私たちの想像の外にある。

ただ一つ言えることは、こうしたやるせない姿を、「やむを得ない」とか、「仕方がない」とかいう時代にしてはならないということだ。愛する家族を戦火で失う日常を創ってはならないということである。

介護という職対人援助という職業を通じて向かい合う人の中には、戦時中、物資が不足するなかで、食べるものがないひもじさを経験し、自分や愛する家族の命がいつ失われるかもしれない怖さと儚さを毎日体験してきた人たちが数多く含まれている。

そういう人たちがあの戦火をくぐりぬけて、「長生きしてよかった」と思うことができるのか、「こんな思いをするのならば、いっそあの時に死んでおけばよかった」と思ってしまうのかは、ひとえに私たちがその方々に向かい合う姿勢にかかってくるのではないだろうか。

対人援助・介護という職業の、そういう重たい使命と向かいあったうえで、その重たさにつぶれず、その重たいものを背負って、その使命を果たす責任を常に意識してほしい。

人の命と暮らしに、真正面から向かい合う職業の使命と誇りを忘れないでほしいと切に願う。
介護という職業
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広島の空・長崎の空2021


平和の祭典であるオリンピックが終わった今日8/9は、振り替え休日で3連休の最終日となっている。

そしてこの日は、76回目の長崎原爆の日だ。

先週金曜日(8/6)の広島原爆の日とともに、日本人が真剣に平和というものを考えなければならないの日でもある。

被爆の日から76年目の広島と長崎に、今どんな時間が流れ、どのような人々の息吹があるのかを改めて考えるとともに、あの戦争と犠牲になった数多くの人々の魂について考えなければならない。

この日の前後に毎年、「広島の空・長崎の空」と題したブログ記事を書いてる。今日も祈りの心と、平和の思いを込めて同じタイトルの記事を書こうと思う。

76年前の長崎のその日は、天気の良い暑い日であったそうである。前日に台風が通り過ぎた長崎の今日も、日中の最高気温が30度を超える暑い日になっているようだ。

歌手のさだまさしさんが書いた、「広島の空」という唱の中に、次のようなフレーズがある。
--------------------------------------------
あの街が燃え尽きたその日、彼は仲間たちと蝉を追い続けていた
ふいに裏山の向こうが光ったかと思うと、すぐに生温かい風が彼を追いかけてきた
蝉は泣き続けていたと彼は言った。あんな日に蝉はまだ泣き続けていたと・・・。
短い命惜しむように・・・。

--------------------------------------------
今日も長崎では蝉が泣き続けているだろうか・・・。

僕は、「戦争を知らない子供たち」の世代だから、自分が生まれたこの国が他国から攻撃を受けて、たくさんの同国民が命が奪われたことを、どこか遠い場所から見たり聞いたりしているだけの実感しかないのかもしれない。

そんな僕らは、実際にあの戦争を生き抜いた人達から見ると、何もわかっていない人間とみられているのかもしれない。

だが僕たちはこの国に生まれ、この国で生き、やがてこの国の土になる存在である。

だからこそ、戦争を知る人たちから教えられたことを、僕らより若い世代に伝え継いで行くという役割があるのではないかと思う。

広島を訪れると街中に近代的な風景が広がっている。そのような周囲の景観とは似合わない、枠組みと外壁だけが残される原爆ドームを目にする。

長崎に行けば、空港から市内に向かうリムジンバスの車窓から、「平和公園」が見えて、祈りの声が聴こえてくるような気がする。

この二つの地に、人類最大の蛮行ともいえる原爆投下がされたのである。

8月6日の広島への原爆投下当時、広島市には居住者、軍人、通勤や建物疎開作業への動員等により周辺町村から入市した人を含め約35万人の人がいたと考えられている。それらの人のうち、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計されている。

8月9日の長崎への原爆投下時、長崎市の人口は約24万人(推定)であったそうだが、12月末までの死者数は7万3884人、重軽傷者7万4909人に上ると推計されている。

こんなに多くの人々が犠牲になっているのだ。広島と長崎という二つの町は、一瞬にして草木も何もない焦土に変えられたのだ。

現在の広島市の中心部は都心のような近代的な街並みが広がっているが、市街地に幾筋もの川が流れ、山すそには懐かしい田園風景が広がっている。広島に面しているのは大小の島々が浮かぶ穏やかな瀬戸内海であり、日本人の帰郷の心を揺さぶる美しい街だ

現在の長崎市も、異国情緒あふれる風光明媚な美しい坂の街である。
長崎の夜景
特に、「稲佐山公園展望台」からの夜景は 、2012 年にモナコ・香港とともに世界新三大夜景に選ばれ、2015 年には札幌・神戸とともに日本新三大夜景都市にも認定されている。

焼野原だけになった街を、こんなに美しく復興させた広島と長崎の人々の心の中には、いったいどんなエピソードが刻まれているのだろう。それは決して感動や歓喜のエピソードだけではなく、慟哭と哀しみのエピソードも数多く含まれているのだろうと想像する。

哀しみの歴史を繰り返してはならないと心から思う。

心からの祈り思いを込めて、
に合わせて黙とうし、犠牲者に祈りを捧げたい。もうすぐその時刻になる・・・。そして僕は今、広島と長崎で出会い・つながっている人々のことを思い出している。

広島では一緒にお好み焼きを食べながら、カープの話を熱く語ってくれた介護関係者の方々がいる。その方々の顔を思い出すことができる。

長崎を訪れるたびにお酒を共にする仲間もいる。一緒に横山五十という地酒を呑みながら、介護を語り合ったあの日を思い出す。僕が2回も講演を行わせていただいた稲佐山の中腹にある介護施設の職員の方々の顔も思い出すことができる。

そんな仲間の顔と名前を思い浮かべながら、介護という職業を通じて平和な未来につなげていきたい。

黙とうをささげたその後、僕が作成した、「LOVE〜明日に繋ぐ介護・長崎編」を改めて視聴いただきたい。

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命の価値に個人差はありません


今週月曜日は、相模原市のやまゆり園大量殺戮事件からちょうど5年目に当たる日だった。

しかし被害者やその遺族、関係者にとって節目などというものは決して存在しないのだろうと思う。事実一部報道では、「節目なんて関係なくずっと悲しいままで苦しい」という遺族の悲痛な声が伝えられている。

犯人は死刑が確定しているが、だからと言ってなんだという問題だろう。失われた命は決して戻らないという重たい事実が遺族の方々を今も苦しめている出あろうことは想像に難くない。

死刑囚となった獄中の犯人の声が、今でも報道機関を通じてつ伝わってくるが、「重度障がい者は、死んだ方が世のためで、家族もそのほうが幸せになれる。」などというとんでもない考え方は今も変わっていないようだ。

暴論を吐き続ける犯人の声に触れた遺族は、今もなお犯人に傷つけられ続けていることと同じである。被害者の方々は、死体にムチ打たれているようなものだ。

ネット報道では、犠牲者(当時19歳)の名前を唯一公表した母親と兄が、「5年を迎えても苦しいままでつらい。今も美帆に会いたくてたまらない」と心境を明かした様子が伝えられている。掛けるべき言葉も見つからない・・・。犯人はこの声に対してなんと応えるのだろうか。

かの事件は人間尊重の価値前提を破壊しようとするテロに他ならない。無差別平等に人間を尊重しようという人間観を持つすべての人を否定・迫害する卑劣な行為でしかない。加害者の醜い衝動を正当化する理屈に、我々は決して屈してはならない。

ちょうど昨日の夜は、熊本県八代市の介護支援専門員協会会員に向けて、虐待につながりかねない不適切ケアを防ぐために、利用者の人権を護るために何をすべきかを伝えるためのオンライン講演を行っていた。

そこでは感情労働である対人援助の従事者は、すべからく、「自己覚知」に努め、自分の価値観のありようを見つめ、感情をコントロールして対人援助に携わることの重要性をレクチャーさせていただいた。人の価値観は多様なのだから、その多様性を認めつつ、様々な価値観を受け入れて、かつ自分の価値観の偏りをコントロールすべきことも話させていただいた。

しかし多様な価値観を認めるとは言っても、そこにいる人に価値がないとか、そこに存在する命は消えてなくなるべきであるという価値観を受容することは出来ない。

人は人として命をさずかっているそのことに価値があるのだということを、改めて確認しなければならない。命の価値は、どのような状況に置かれた人であっても同じように尊いのだ。

しかしその尊い命も、一人の狂った人間の突然の行動によって、簡単に奪われてしまうほど儚い。だからこそ対人援助に携わる我々は、徹底的に人々を護るという意識を持ち続ける必要がある。

同時に我々は社会福祉実践者として、人間尊重をすべての社会で実現するように務めていかねばならない。

重い認知症をもつ利用者や意識障害のある人に対して、そうではない人と違った対応をしていないだろうか。意識障害のある人に対してサービスマナーの低下が見られないかということも検証する必要がある。

介護事業者の職員の中には、利用者に対して丁寧に対応する必要などないと勘違いしている職員も少なくない。現に初対面の利用者に対し、いきなりタメ口で接してくる職員は多い。しかしそうした職員も、利用者の家族に対しては丁寧語で対応している。

利用者と家族のどこに、どんなふうに線引きしたら、そうした対応の違いになるのだろうか。それはその人の意識の中で、人の価値に軽重をつけているという意味でしかない。

それは対人援助に携わる専門職として極めて不適切なことであるだけではなく、人として恥ずべきことである。
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イノセントではいられない。


毎日良いことばかり起きれば、これほど良い人生はないし、生きることは楽ちんだ。しかし実際にそんな人生を送ることができる人はいない。

この世に生きている間には、自分にとって都合が悪い様々なことが起きる。

他人の悪意にさらされたり、憎悪をぶつけられたりすることもある。そうしたものと戦ったり、傷つけ合わなければならないかもしれない。

生きるためにはどうしても、そうしたことを乗り越えていかねばならない。困難やトラブルを、すべて避けて生きていくことなんてできないのである。

人間関係だけじゃなくて、自然現象からも影響を受けることがある。災害・感染症・・・。今まさに我々の暮らしを脅かしているものがそこにある。

辛いことに正面から向き合わねばならないのも人生である。

人がこの世で生きていくってことは、それらを乗り越える、「したたかさ」を身につけるってことだ。

したたかに生きていけば、どうしたって汚れも溜まっていく。そして生きているうちはどうしても汚れはなくならない。イノセントではいられないのが人の宿命だ。

それでも人は与えられた命の期限まで走り続けなければならない。それが人の運命でもあり、使命でもある。

だからこそ辛いとき、苦しい時も歯を食いしばって頑張らねばならない。頑張れば必ず光は見えると信じることが大事だ。

しかし生まれてから死ねまで、ずっと頑張り続けることができる人はいない。頑張るにも限度があるのだ。

きっと人生の中で必死に頑張らなければならないときが何回かあって、その時にきちんと頑張った人が成功するのだろう。

さすれば才能とは、頑張るべき時期を感じ取れることを指すもので、運とは頑張らねばならないときに頑張れるのか、頑張る時期を間違えるのかというちょっとしたタイミングの違いでしかないのかもしれない。人生の成功者と敗残者に、決定的な能力差なんてないのである。

人の価値は、この世で与えられた地位とか名誉とかとは全く関係のない問題だ。ましてや財産の多寡なんて言うものは、人の価値とはまったく無関係だ。

人は人としてこの世に生まれ、生かされていること自体に意味があり、人としての存在自体が尊いのである。

だからこそ忘れないでほしいことがある。

一番大事なことは、「自らを蔑(さげす)まない」ことなのである。それさえ心がければ、頑張らなければならないときに頑張ることができるし、生きる強さも失うことはない。

自分の存在を尊く思い、明日を信じることで自分の歩む先に光を射すことができると信じてほしい。

希望を失うことがなければ、人生とはきっとその人にとって豊かなものとなるだろう。

少なくとも希望を抱いて過ごすことができれば、自分の人生が豊かだと感じ続けることは出来るのだ。

それは他人がどう思おうと、自分自身の中で決して揺るがない真実なのである。

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介護という職業の宿命と使命


様々な職業がグローバル化していく中で、介護の職業はよりローカル化することが求められている。

世界基準よりも、個人基準に寄り添うことが求められるのが介護という職業である。それは個人の暮らしというものが、様々な個性や個別事情を持っていて、その暮らしを営む人自身の価値観で何事も決められるのが基本だからである。

そのため介護という職業には、常に困難な問題が伴う。Aさんの暮らしの専門家は、Aさん以外あり得ないわけであるが、そこに私たちは対人援助の専門家として関わらなければならないからだ。

個人の暮らしの専門性と、私たちの専門性が、そこでバチバチと火花を散らせば、介護はとても怖くて辛いサービスとなってしまう。それはもはや対人援助とは言えなくなるかもしれない。

そうならないように、私たちは利用者の最もプライベートな空間に足を踏み入れるときに、利用者の個性や意向を最大限に尊重しながら、その人の内面にも目を向けて、表明された意思や希望を受容するとともに、表明できない心の声を聴きとろうとする必要がある。

認知症などで意思確認できない人が利用者の場合は、その人にとって何が一番必要なのかということを読み取って、その意思を代弁することも求められてくる。

そこでは、「私たちは、あなたの暮らしの専門家にはなれないけれど、あなたの暮らしをともに支える専門家なのですから、どうぞ私を寄り添わせてください。」と言う姿勢が必要だ。「傍らに寄り添ってあげる人」になるのではなく、「傍らに寄り添うことが許される者」になろうとする姿勢が求められるのだ。

そのような精神作業を日々黙々とし続けていくのが、「介護」という職業である。

そういう意味で、介護という職業は決して派手な職業ではない。むしろ地味で目立たない仕事を積み重ねていくことが介護という職業の宿命だ。

社会の片隅で、ひっそりと息をしている人の傍らに寄り添い、その人たちの暮らしを支えながら、そのことを表立てることもなく、一つのひとつの仕事の成果を世に訴えることもなく、黙々と日々の暮らしに寄り添うのが介護という職業である。

介護が支える誰かの行為にゴールがあるとも限らない。人の暮らしを支えている職業であるからこそ、「生きる」を支えるために、いつ果てるともない毎日繰り返される行為を支え続ける必要がある。

その繰り返しを尊いことだと思いながら、昨日と今日と明日をつなげていくのが介護の使命だ。

そういう意味では私たちは大きな仕事はできないかもしれない。目の前にいるたった一人の誰かしか笑顔にできないかもしれない。

しかし私たちの目の前にいる、その人を笑顔にしなければ、世界から哀しみはなくならない。私たちの目の前にいる、その人を幸せにしなければ、世界から不幸がなくなることはない。
大きな愛
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桜が咲く春。


今年の桜がまた咲いた。(桜咲く場所で思うこと〜咲けない花は場所を変えようも参照ください。)

世間で何が起きていようとも、世界がどう変わろうとも、そのようなことはすべて些事であるかのように、去年と同じ場所で去年と同じ時期に桜は咲き続け、そして散っていく・・・。(画像は5/3朝の自宅付近のエゾヤマザクラ)
5/3登別の桜
そのなかには、たくさんの人がその容姿を愛でる桜もあれば、誰にも見られずにそっと散っていく桜もある。そのようなことに関係なく、桜はその美しい花弁を咲かせ、散ってゆくことを繰り返している。

僕たちが新型コロナウイルスや、日々の仕事や日常生活に右往左往していることを横目に、世の動きに関係なく季節は流れ、今日も歴史は粛々と刻み続けられている。それはいつ果てるともない永遠の繰り返しなのだろうか・・・。

そんなふうにして、僕が生まれる前からこの空間には時が刻まれ、僕が死んだ後もこの大地には、時が静かに滑っていくのだろう。

さすれば僕たちの存在など、その空間や時間の中ではほんの一瞬のものでしかないのかもしれない。長い地球の歴史から見れば、僕たちの生きていく営みは、毎年咲いて散る桜のように、「うたかた」のものなのかもしれない。

そうであったとしても、自分がこの世に生を受け、命を与えられている限り、それは必ず意味のあることなんだと思う。だからこそ今を大切にして、生きる意味を考えながら、己の生きざまを刻んでいきたい。

誰からも愛され、誰しもの心を癒す桜のようにはなれなくとも、せめて僕が仕事として関わる誰かの心の咲く花のようになれたらと思う。

そんな思いを共有できる人とのつながりを大切にしたいと思う。

今朝、自分のフェイスブックにも書いたが、介護施設の入所者が携帯電話で110番をして、『今、監禁されているので、助けに来て』と警察を呼ぶケースが増えているそうである。

コロナ禍で面会制限が長期化しているのを当たり前と思い込んで、十分なアナウンスやカウンセリングをしていない施設では、そういうことが起きて当然だろうと思う。

それにしても、「助けて」という叫びを、施設職員ではなく警察に訴えなければならないというのは、利用者との関係づくりも問題があることが明らかである。

職員は外から通ってきて、日常生活はほぼ不自由なく送っている中で、介護施設の利用者のみ、1年以上にわたる制限を受けることが、「当たり前」であってよいわけがない。

長期化する制限を心苦しく思わず、感染予防のために当然の措置だとしか思っていない人は対人援助には向いていない。何らかの対策を取ろうと考えない人は頭のねじが一つ外れている。そういう人が管理職を務めている介護施設の利用者は不幸である・・・。不幸を創り出す人は一日も早くこの業界から退場していただきたい。それが世のため人のためになる。

人を護るということは、人の体さえ護っておればよいという問題ではない。同時に人の心も、どうすれば護ることができるのかということが問われる問題だということを忘れてはならないのだ。

科学だけでは手の届かないものが人の心だ。だからこそ介護には科学的・論理的ではない部分が必要になる。愛情とか優しさという目に見えない、理論化できないものをエッセンスとして加えるのが、人の心に寄り添うという意味なのだ。

桜の花を見ながら、そのことを今一度思い出してほしい。

対人援助・介護という職業の使命と魅力を伝える動画、「さくらびとmasa」の最新バージョンを、桜の季節に改めてご視聴いただきたい。

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介護を職業として選んだ君へ


今日も自宅近くの桜の画像紹介から始めたいと思いますが、やっと花が開きました。
5/1の自宅近くの桜
まだ2分咲き程度ですが、いつもより1週間ほど早い開花だと思います。これから地域全体を桜が彩ってくれることでしょう。

そんな週末の5連休初日ですが、今日はこの春に介護を職業として選んだ人に贈るエールについてです。

青森県八戸市を拠点に、かっこうの森(サ高住やGH・居宅サービスなど)を経営する株式会社リブライズ・代表取締役、下沢貴之さんが、全国の悩める介護職たちにエールを送る取り組みを考えました。

日々の仕事に疲れ、自信を失い、進路に悩んでいる介護関係者を励ますために、介護の魅力を伝え、エールを送る動画をYOUTUBEにて3〜4か月に1本投稿します。テーマは、『介護を職業として選んだ君へ』です。

その記念すべき第1回動画に僕が出演することになりました。全国に著名な介護関係者が多々おられる中で、真っ先にお声がけいただき大変光栄に思います。ありがとうございました。

ということで先日、自宅でZoom録画し、昨日それを下沢さんが編集してユーチューブにアップしてくださいました。

僕は全国各地で行う講演でも、原稿をつくってそれに沿って話をするということはなく、その場その場の雰囲気を感じながら話をするタイプなので、この録画についても原稿はつくらず、その場で思いつくままに話をさせていただきました。

ですからスラスラと流れるような話になっていないで、ところどころ言葉に詰まるなど、お聞き苦しい点があるやもしれません。しかし伝えたいことは要点を絞って語っているつもりですので、是非お時間のある時に視聴いただければ幸いです。

当初話をする時間は15分程度とお願いされていたのですが、まとまりが悪く17分を少し超えましたので、下沢さんが2分程度編集してくださり、話した一部を削ってくださいました。ですが自分で視聴しても、どこをカットして、どこをつなげたのかわからないくらい自然な編集になっております。

ということでユーチューブでの配信時間は、15分5秒程度ににまとめられています。

ちなみに編集時にカットされている2分弱の部分も、僕のユーチューブに挙げていますので、興味がある方は下記をご覧ください。

僕の話を聞いて、介護の仕事の使命と誇りを感じられる方が、一人でも多くなれば幸いです。
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ごめんなさいは、優しい言葉


介護という職業は、利用者のプライベート空間に立ち入って、利用者の心身に直接的に介入して行う仕事である。

そのために、介護従事者の仕事の仕方そのものが利用者の身体状況に影響が及ぶだけではなく、私たちの仕事ぶりが利用者の揺れ動く感情に直接影響を及ぼさざるを得ない。そうであるからこそ、常に一定以上の仕事の質を担保して、失敗のないサービス提供に心がける必要がある。

逆に言えば、介護従事者の体調や精神状態によって、サービスの質の差が激しくなるような状態は、利用者に望まれるサービスではなく、それは対人援助としてあってはならない仕事ぶりと言えるのである。

サービスを受ける側の利用者にとって、介護支援を受けるということは、生きるために必要なことであり、暮らしが成り立つために必要とする行為でもある。だからこそサービス提供者によって、支援の質に差ができる状態を決して望んではいない。生き方、暮らしの質にそれは直接影響してくる問題だからだ。

よって介護サービス利用者が、「必要なサービスは、それを提供する人間が新人であろうと、ベテランであろうと関係なく、最低限のサービスレベルであってほしい。」と思うのは決して高望みではなく、当たり前のことだ。

その人たちが利用する介護支援とは、インフォーマルサービスではなく、ボランティア行為でもないからだ。国費や保険料と言った公費が使われているサービスに対し、利用者がそのことを理由にして、一定以上の質を望むのは当たり前のことである。

つまり私たちは、利用者やその家族にとっては、介護のプロという立場の専門職であり、それにふさわしい仕事ぶりが求められて当然であると考える必要がある。

失敗をしない人間はいないが、対人援助における失敗とは、時に利用者の心身に深い傷を負わせる結果になりかねないし、「人間だから失敗もあるよね」と笑っていられない深刻な問題が生じては介護という職業がなんのために存在するのかわからなくなってしまう。新人職員だからうまくいかないのも仕方ないねと簡単に許せる問題ではないわけである。

とはいっても、経験のない新人がいきなり介護サービス実務の場で、経験豊富な職員と同じパフォーマンスができるわけがない。利用者のしぐさを同じように観察しても、経験のない職員には気が付かないことも多いのは、相手がそれぞれ個性が違う人間であるい以上仕方がないことだ。

だからこそ新人職員は、利用者に学ぶという謙虚な気持ちを忘れずに、経験豊富な職員の技を学び、それを自分のものとする努力が欠かせないのだ。言葉や動作で教えてくれる以上のものを、日々吸収しようという意欲のない人が、高い介護技術を獲得できるわけがないのである。

人の暮らしを少しでも豊かにしようとする人には、人に対する優しさが欠かせない。それは時に人間愛とも表現されるが、介護にいくらエビデンスを求めたところで、愛情という感情を持たないエビデンスは、所詮、人間を幸福にするものではないと思っている。

今、全国の介護事業者では、介護実践を通じて勉強する日々を送っているたくさんの新人職員がいるだろう。その人たちは、日々小さな失敗を繰り返しながら、「自分に介護の仕事が続けられるのか」と悩んでいるかもしれない。

本来失敗を繰り返すことは許されないが、失敗の中から成長するのも人間である。日々の業務で失敗したときは、「ごめんなさい」という言葉を口にして、心から利用者の方々に謝ってほしい。その言葉は、時に利用者に対して愛情ある、優しさがこもった言葉になるのだ。

そういう優しい言葉を掛けるあなたに対して利用者はきっと、「大丈夫だから気にしないで」と言ってくれるだろう。そして失敗を反省しながら、日々学ぼうとしているあなたに対しては、「今日もありがとう」と言ってくれるだろう。失敗した行為に対しても、「ありがとう」という温かい言葉で励ましてくれるだろう。

そのことに感謝して、どうぞよい介護従事者に成長していってください。
温かい言葉
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人知れずエールを送ってくれる人達を裏切らないように・・・。


本日は、まず1枚の写真画像を紹介してから本題に入りたいと思う。
沖縄市の魚屋さん
この画像は沖縄県沖縄市(旧コザ市)の魚屋さんの店先の画像だ。先週の金曜日に沖縄市〜講演会場のある、「うるま市」に向かう途中の道すがら、ちょうど信号待ちで止まった横にあったお店である。

「沖縄産近海生マグロ」などの張り紙の横に、「医療従事者10%OFF」と書いた紙が張られている。

聴くところによればこの紙が張られたのは昨年11月頃のことらしい。コロナ禍で頑張っている医療従事者にエールを送るつもりで、このような張り紙がされたのではないのだろうか。

この張り紙を見て、「医療関係者ってどのように証明するの」とか、「介護関係者も入れてよ」って考えるのは野暮というものだ。なんの縁も所縁のない人でも、医療関係者というだけで利益を度外視して、応援してあげたいというその心意気を感じ取ってほしいと思う。

この張り紙を考え付いた人は、おそらく全くの善意から、このようなことを行なおうと思ったのではないだろうか。

昨年2月3日に横浜港に入港したダイヤモンド・プリンセス号の集団感染が確認されたのは2/5のことであったが、同船はその前に沖縄に寄港し、感染者が下船しタクシーに乗車していたことが後に明らかになっている。そんなこともあって沖縄では一時、新型コロナ感染が大流行して全島がロックアウト状態になり、医療機関も感染者対応でひっ迫する事態に陥っていた。

その状況を見て、何とか医療関係者にエールを送りたいと思った結果がこの張り紙ではないのだろうか。魚屋さんとしてできること・喜ばれることを考えて、行ったことだろうと思う。

そこでは医療従事者とそうでない人をどう見分けようとか、医療関係者ってどこまでの範囲なのかなどという些末な考え方は一切なく、お店を訪れ医療関係者だと名乗り出た人には割引販売しようという心意気だけがあるのだと思う。

その心意気に感謝しようではないか。大いに拍手を送ろうではないか。

このような沖縄の魚屋さんのほかにも、全国のいろいろな場所で、コロナ禍で頑張っている人たちにエールを送りたいと考えたり、行動したりしている人がたくさん居られると思う。

コロナ対応として国が、介護事業者やそこに勤めている職員を対象にして補助したお金の額も決して少ないものではないし、考え得る限り相当素早く対応されていたことも事実だ。

医療関係者や介護関係者は、今もコロナウイルス感染症に正面から向き合い、戦いを続けていることと思うが、それは決して孤独な戦いではないことを忘れないでほしい。全国のたくさんの人たちが、そこで医療・介護関係者が頑張っていることを認めているのだ。

そうであるからこそ、善意で応援してくれるたくさんの人々の期待に応えるためにも、制限一辺倒ではなく、人権に配慮した感染予防策に努める必要がある。

コロナ禍を理由にして、看取り介護・ターミナルケア対象者が、この世で縁を結んだ人と全く逢えなくなって、お別れの時間を過ごすことができないまま旅立っても仕方がないと考えてはならないのである。

お元気な高齢者の方であっても、これだけ長い期間の制限は、心身に重大なダメージを与えると考えて、できる限りの制限緩和策を取ろうと考えなければ、人としての姿勢が問われようというものである。

人類は今までも様々な困難や苦難に打ち勝ってきた。災害や感染症とは常に戦ってきた歴史がある。

しかしそこで苦難や苦境を乗り越える原動力になったものとは、人が人を支え合う力である。それは人間愛によって苦難を克服してきたという意味であり、愛のない力は存在しないのだと考えなければならないと思う。

今そこかしこに存在する脅威に対しても、私たちは知恵と愛情で向かい合って、コロナ禍という困難を克服しなければならない。

そんなふうにして、人が人を思いやるというその心を忘れない限り、人類は苦難を克服し続けることだろう。

下記の動画は、来週自宅からオンライン講演を配信する兵庫県但馬ブロックの方々に向けたエールを送る動画だ。しかしその内容はすべての介護関係者にエールを送ることにつながるものだと思うので、元気になりたい方はぜひご覧になっていただきたい。

ちなみに兵庫県但馬ブロックとは、豊岡市・養父市・朝来市・香美町・新温泉町の5市町を指す。兵庫県老人福祉事業協会但馬ブロックの皆様、来週月曜日はどうぞよろしくお願いします。

画面を通じてお愛できるのを楽しみにしています。
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余震・・・この国で介護に携わっている意味を考えた日


2月13日(土)23時08分頃、宮城県と福島県で最大震度6強を観測する地震が発生した。

震源が福島県沖ということで、大きな揺れに遭遇した人の中には、場所が場所だけにあの3.11の悪夢を思い起こした人も多いことだろう。その時と違って津波が起こらなく幸いだったが、その後政府の地震調査委員会が、「ギリギリのところで津波が起きなかった」との見解を発表するニュースを観て、肝を冷やした人も居ただろう。

東日本第震災の記憶が古くなる間もなく、その時に心に傷を負った人が、たびたび襲う大きな地震を受けて感じることは恐怖なのか、深い悲しみなのか・・・。その思いを想像するとせつなさがこみあげてくる。

しかしその震度6という大きな地震も、東日本大震災の余震であるという。そして今後も10年くらいは大きな余震の恐れがあるという。被災地で肉親や知人失った人にとって、それは常につらい記憶を呼び戻す過酷な試練と言ってよいものだろう。どうかその中で、心を折らずに強く豊かに生き続けてほしい・・・。

今年は2021年だから、3月11日になると東日本大震災からちょうど10年になる。しかし期間には区切りがつけられても、心には区切りがつけられないだろう。10年という月日は、大切な誰かを失った人にとって、哀しみを癒す期間としてはまだまだ足りない期間だろうと思う・・・いやいくら時間が経ったとしても、本当の意味で心の傷が癒えることはないのかもしれない。

だからこそ、あの震災でたくさんの命が失われた国で生きる意味を考え続けなければならない。たくさんの命が一瞬のうちに失われたこの国で、介護という職業に携わっている意味を考え続けなければならない。

あの震災で亡くなった人の中には、介護を職業にしていた人も多い。地震とそれに伴う津波の発生時間は、午後の仕事の真っ盛りの時間であったから、介護の仕事の最中に命を失われていった介護関係者や介護利用者の方もたくさん居られる。

介護という職業を仕事としてではなく、「生き方」として選んだ人が、その志し半ばで命を失ってしまった人も多いのではないだろうか。さぞや無念であったろう。それらの人々の思いをつなぐために、残された僕たちが替わって実現すべき何かがあるのではないだろうか。

生かされている者にしかできないことがある。生かされている者だからこそできることがある。生かされている者が行動しなければならない。生かされている意味を考え続ける必要もある。

震災からもうすぐ10年ということは、あの震災に見舞われながら無事だった人もそこで10歳年を取ったという意味になる。その中には大切な家族を失ってしまった方々も多いことだろう。

60歳で家も家族も失った人は、70歳の今、頼りにできるもの・頼りにできる人は、介護サービスや介護従事者しかいないかもしれない。その人たちが少しでも心豊かに過ごすことができるように、介護という職業・介護というサービスが存在していく必要があると思う。

身寄りがいなくなった中で年を重ね、心身の衰えを自覚した人が、介護をしてくれる人に遠慮しつつ、何かに耐えながら介護を受けて、「こんなことならあの時家族と一緒に死ねばよかった。」などと嘆かれる介護であってはならないのだ。だからこそ誰の心にも優しく寄り添えるサービスマナー精神をすべての介護従事者が身につける必要があるのだ。

時と場合と人によって変える必要のない、正しいサービスマナーに即した介護支援に努める必要があるのだ。それは人としての道でもある。誰かの尊厳を気づつけてしまった後に、「そんなつもりはなかった」と後悔する介護であってはならないのだ。

介護という職業を、哀しい悔悟に替えることがないように、私たちはプロとしてのスキルを日々向上させ、そこに愛情というエッセンスを加えた支援に日々努める必要があると思う。

その為の方法論を、これから先も一緒に考えていきましょう。誰かのあかい花になるために・・・。
無題
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奪われる人々に向ける視線が、その人の人格につながる


自分のことは自分で決められるのは、至極当たり前でのことである。

しかし社会の規範に外れたことまで、なんでも自分で決めた通りにできるということにはならない。

個人の権利とは、他者の権利を尊重する義務を伴うものである。人の自由はそれ自体が目的ではなく、幸福な暮らしを手に入れる手段なのである。

自己決定という行為も、道徳的な悪を選んで行為することを許しているわけではないし、コンプライアンスとしての制限も生じる。何より、被援助者自身の能力を超えてまで自己決定を強いるべきではないとされており、あらゆる手立てを講じても自己決定ができない人については、援助者が彼らに代わってニーズを表明し方法を選択するという、意思決定を代弁することによって利用者の基本的人権を守ろうとすることが優先されるのである。

この世の中は、自立できない人も共生できるからこそ住みよくなるのだ。

しかし共生社会とは、人を思いやることなしに成立しないのも事実だ。人の足を引っ張ろうとしたり、誰かを絶望の淵に追い込もうとしたら、共に生きることなんてできっこないのである。

奪いあう社会に、「共生」は存在しなくなる。

人の哀しみに目をふさぐことも共生を阻害する大きな要因だ。誰かの憤りの声を無視することも共に生きることを阻害する行為につながる。

今、巷では1年を超えるコロナ禍で、様々な制限が生じている。人の命を護るという意味で、それは必要不可欠な制限であると思うし、そのこと自体を否定することは出来ない。

社会全体が様々な我慢を強いられながらも、それに耐えてコロナ禍を打破しようとすることは、人間の英知が問われているという意味であり、その中で自由を一時的に制限された状態を耐え忍ぶというのは、この時代に生きる人間の義務であるだけではなく、それはこの時代に生きる全ての人々の英知が問われているということだ。

こうした状況の中で、介護施設やその他の居住系施設では、感染予防という大義名分を持って利用者の自由の一部を制限しているわけである。それは仕方ないし、やむを得ないことであるかもしれない・・・。

だからと言って、人の権利や自由を自分の意のままに奪う権利を、施設経営者や管理者・管理職が持っているなどと勘違いしないでほしい。やむにやまれぬ状況の中で、心苦しいお願いをきいてもらっているのだと考えてほしい。

神のごとく何でも決めることができると勘違いしたり、人の自由を制限して権利さえ奪い取ることに何の心苦しさを感じない人は、それだけで周囲に闇をつくっているのだ。見えない涙を見逃しているだけではなく、見える涙さえも目をふさいでみない状態になっているということだ。

制限を強いる必要がある状況の中で、制限を受けている人に、どれだけ優しいまなざしを注ぐことができるのかが問題である。そこでは人類の英知が問われるとともに、己の人格が問われるということを心してほしい。

愛情に欠けた制限は、人として許されないと思ってほしい。人から何かを奪わねばならないときこそ、大きな愛で包み込む気持ちを忘れないでほしい。そのことは、決して難しいことではなく、特別な知識や技術がいることでもなく、気持ちさえ持てば誰にでもできることだということを忘れないでほしい。

今週初めに作成した動画に手を加え、完成版をあらためて今日アップした。

この動画は、介護を通じて誰かのあかい花になろうとする人や、小さな行為を大きな愛を持って行おうとする人々と、全国の様々な場所でつながりを持てたことに感謝しながら、志を同じくする人に届けたいメッセージを込めた動画である。

週末のひと時、5分40秒だけこの動画を観ながら、自分が関わっている介護サービス利用者の方々の顔を思い浮かべていただきたい。僕と一緒に写真撮影したことがある方は、この動画に登場しているかもしれないので、それも確かめてみてください。

それでは皆様、良い週末をお過ごしください。来週は四国・愛媛県と高知県にお邪魔します。そこでお愛する皆さま、どうぞよろしくお願いします。
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新成人の皆様に伝えたいこと


今日は成人の日の祝日で、暦の上では土曜からの3連休だ。

しかし成人の日と言ってもコロナ禍の影響で、この時期の成人式の開催を見送って今年の夏休み時期にずらしたり、時期未定だったりする地域があるだけではなく、今年の成人式を中止すると決めている地域も多い。

それは新成人の方々にとって残念なことだろうが、長い人生を考えたとき将来笑いながら、「僕たちは大変な時期に成人を迎えて、式典さえ開催されなかった。」という懐かしき思い出に変わると信じて、大人の一歩を悲観せず悔やまず歩んでほしい。

そんな大変な時期ではあるが、僕の住む登別やお隣の室蘭市では、昨日、感染予防対策を凝らしたうえで成人式の式典を行ったそうである。新成人を迎えた方には、心よりお祝いを申し上げたいと思う。

それにしても毎年新成人を迎える人の数が減ってることは、日本の未来・・・いや今現在でも大変な不安要素だ。それは社会全体の活力を低下させることにつながるし、経済力の低下にもつながってくる。

介護業界の問題として考えても、成人を迎える人が年々減っていくことは、超高齢社会において、財政・人材の両面で高齢者を支える生産年齢人口の数が年々減っていることを表しており、否応なしに日本の社会資源としての介護サービスは、先細りの一途を辿らざるを得ないことを意味している。科学技術によってこれを止めることは、今のところ現実味を感じるふうにはなっていない。

そのように有効な処方箋のない途を進んでいくのが、高齢者介護事業の実情ではあるが、その中で希望と勇気に結び付く何かを生んでくれることを新成人には期待したいと思う。

そんな人たちに贈りたい言葉がある。それは、「人に頼るという尊さに気が付いてください」という言葉である。

大人になるということは、人としての階段を一歩上がり、人としてのスキルやパフォーマンスを高めることだと思う。

そこでは責任という言葉がよく使われる。大人の責任と自覚を持って、人に迷惑をかけないようにしなさいと言われたりする。その考え方は決して間違ってはいない。

しかし人は生きていく中で、誰にも迷惑をかけないことはあり得ないのである。すべての責任を自分でとることも極めて難しことである。特に若いうちには失敗を繰り返して、そのフォローを誰かにしてもらわねばならないことがしばしばある。そんな失敗を重ね、誰かに頼るという経験がないまま、順調に年を重ねている人なんていないのである。

だからこそ言いたい。

どうぞ人に頼るときは頼ってくださいと・・・。その代わりに、頼った人に助けられた恩や感謝を忘れない人になってください。人は人を助けることができる存在なのだということを忘れないでください。それが何よりも尊いということを理解してください。

そして声高らかに主張しておきたいことがある。

簡単に他人に対し、「自己責任」を強いるような大人にはなるな!

自己責任だけを他者に強いる社会は、自分が他人に対して与えることができる「優しさ」を奪う社会だ。そんな殺伐とした社会にしないことが、大人として求められることだ。

人としてこの世でできることは、人それぞれ違うのです。誰かができないことを誰かが代わりに行い合ってこそ、社会は人によって支えられるのです。

どうぞそうした支えあう・頼りあう優しさを理解する大人になってください。どうぞあなた方の手で、人に優しい社会を創っていってください。

貴方たちによって、私たちができなかった未来を創ることができるのだということを知り、どうぞそのことを大切に思う人になってください。

愛や優しさの形は人の数だけあるのです。ですから立派な大人になんてならなくてよいから、どうぞ感じの良い人になってください・・・。
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一陽来復を胸にして・・・。


正月3が日が過ぎて、今日から新年初出勤という人も多いのではないだろうか。

今年は2日と3日が土日と重なり、休みが少なくて損した気分の人もいるのではないかと思うが、介護事業は世間の暦とは関係なく、1年中シフト勤務している従業員によって支えられているのだから、そのことを考え合わせると、正月3が日を休むことができたことに感謝しつつ、今日から日常に戻ろうと考えたほうが良いのかもしれない。

年明け早々に政府が新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言を再発令する方向で検討するなど、まだ大変な状況が続いているが、明けない夜はなく、冬のあとには必ず春が来るのだから、みんなでもう少しだけひと踏ん張りして、この難局を乗り越えたいものだ。

新年に関連した四文字熟語に、「一陽来復:いちようらいふく」という言葉がある。「一陽」は「春の初めの気」を意味し、「来復」は「またやってくること」である。

つまりこの言葉は、「悪いことが続いたあとに、ようやく運がよいほうへ向かうこと」を表している。私たちも一陽来復を信じて、その言葉を胸にしながら、日々の業務に全力を尽くしていくことが大事だと思う。

嘆いても、愚痴を言っても何も変わらない。古来、日本人は言葉には言霊(ことだま)があると信じてきた。それは言葉に宿っていると信じられていた不思議な力を意味している。人の発した言葉どおりの結果を現す力があるとされているのだ。だからこそこんな時期だからネガティブな言葉を発しないように注意して、人々が元気になる言葉、幸せになる言葉で、周囲を明るくしようと努めたいと思う。

そういえば昨日終わった箱根駅伝では、最終10区で史上まれに見る劇的な逆転劇があった。あの逆転劇も一つの要素ではなく、様々な要素が重なって生まれたものだが、一つだけ言えることは、逆転したランナーが、逆転を信じて自らが発揮できる最高のパフォーマンスを行なおうと頑張った結果だということだ。自らが区間賞の走りができたことが勝利につながったもので、相手のランナーの不調だけが結果につながったわけではないということだ。

周囲がどうあろうと、自分が自分を磨いて、最高のパフォーマンスを引き出せるスキルを手に入れる努力が大事なのである。自分を変えられることができるからこそ、周囲が変わる可能性も生まれるのだ。そのことが未来を変えると信じて、今年も対人援助のプロフェッショナルとしてのスキルを高めていきたいものだ。

さて今年はいよいよ介護報酬改定の年である。年末に、「CHASEのフィードバックとPDCAサイクル推進のイメージ」という記事を書いて、2021年度の介護報酬改定では、施設系サービス、通所系サービス、居住系サービス、多機能系サービスについて、全領域でVISIT・CHASEによるPDCAサイクルの推進が求められることを解説しているが、このうち施設単位・事業所単位で算定できる新加算の名称が、「科学的介護推進体制加算」とされることが算定構造のイメージ案で示された。

この名称も1年もしないうちに介護の場に浸透し、普通に使われるようになるのだろう。

新報酬単価は今月中にも示されることになろうと思う。今年もそれらの情報について、深く分析した記事をアップしていく予定なので、乞うご期待と言いたいところだ。

それでは皆さん、今年も誰かのあかい花になるために、元気にポジティブにつながっていきましょう。
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大人を小馬鹿にするかのような格好をさせて何が楽しいのだろう?


今年も残すところあと6日となった。そのような中で介護サービス事業者でも、年末・年始の準備であわただしい業務をこなしている人が多いだろう。

日本人にとって暦の行事や風習は大切なものだから、利用者の皆様に季節や時期を感じてもらうサービスを提供することは大事だ。

生活の場である居住系施設などでは、毎年暦に基づいていろいろな年中行事が行われ、年末・年始には、そうした行事が集中する時期だが、今年はコロナ禍という特別な状況があって、密を避けなければならないということで、大勢の人が集まっての行事は避けられているところが多いのかもしれない。

それでもフェイスブックやインスタグラムを観ていると、そうしたSNSに介護施設での行事写真などが投稿されていたりする。感染予防について様々な工夫をしながら、利用者の皆さんに楽しんでいただけるように、介護の場で働く皆さんが頑張ってるのだと思ったりする。

しかし・・・である。

そこで行われている中身が問題である。高齢者施設は大人が住まう場所である。にもかかわらずそこで行うお祝いのイベントが、チーチーパッパの世界になってどうするというのだ。

高齢者施設に子供が訪ねてきて、唄や踊りを披露するのは良いだろう。感染予防策を十分とったうえで、そうした行事をしたり、モニターでそうした行事を映して、それを利用者が観て楽しんでいることに何も文句をつけるつもりはない。

しかしクリスマスの行事を鑑賞している高齢者のその姿が問題だ。ステージの前に座っている人が、サンタの赤い帽子をかぶっているのはまだましな方で、中にはクリスマスツリーの飾り物を頭に載せている人がいたり、トナカイの角のつもりなのか、頭に角をはやしている姿で、高齢者の方々がステージの前に座って鑑賞させられていたりする姿がある。

どののどの家庭で、高齢者が仮装してクリスマスを愉しんでいるというのだ?しかも頭にツリーの飾りや角を載せた大人がどこにいるというのだ?今どきそんな恰好は、宴会の下品なかくし芸でも流行らない姿であり、高齢者介護の場でそうした場面を創り出すことについては、高齢者の方々を幼児化する、人を馬鹿にした目線かしか感じられない。

そこで楽しんでいるのは利用者ではなく、その利用者を見て、「可愛い〜!」と茶化す自分自身ではないのかと疑ったことはないのだろうか・・・。

様々な行事を愉しむ高齢者の中には、認知症の方もいて、幼児化した言動をとる人も存在するだろう。だからと言って介護従事者が、それらの人を幼児扱いしてよいということにはならない。幼児化してる高齢者についても、その尊厳を護って、丁寧な言葉遣いと態度で接しておれば、認知症の方の行動・心理症状は落ち着いていくのである。

そもそもそこに居る様々な高齢者の方々には、その背後にその方々を愛しく思う家族や親せきや友人たちがいることを忘れてはならない。その方たちが介護施設で、自分の家族がきちんと護られていると感じることができる職員の姿とは、従業員が自分の家族に馴れ馴れしく接して、子供のように可愛がられることではない。

家族が安心できる従業員の姿とは、自分の大事な父や母や、祖父や祖母を大切に思ってくれていると感じられる姿である。一人の人間として、その尊厳や権利をきちんと護ってくれているなと感じることが、家族にとって最大の安心感につながるのである。

高齢者を子供扱いして、若い職員が自分の親を茶化すような姿勢しか感じられないときに、家族は陰で絶望感を味わい、どこにも吐き出すことができないやるせなさに身を震わすことになるのである。それが証拠にSNSでは、親を介護施設に入所させている子が、「母は震えて顔をゆがめていました。看護師さんは何も感じないのでしょうか?激怒している内心を隠し、何も言えずに帰りました。」・「おいで、おいで はないでしょう。犬じゃないんだから。」・「ちゃん付けはやめてほしい。きちんとさん付けで呼んでほしい。」というように、悲痛な声が多数アップされているのだ。

しかし人質をとられていると同様の家族にとって、この悲痛な声を介護施設の管理職や従業員に直接投げかけるのは難しいという側面もあり、苦情や悲痛な声が表面化しないことも多いのである。

だからこそ我々は、高齢者はどのような精神状態・身体状況であっても、長い人生を歩んできた歴史を持つ一人の人間として、その尊厳や家族の思いを護らねばならない。

そういう意識が無いところで感覚麻痺による、「悪気のない虐待」がはびこってしまうのだ。
見えない涙
「魂」という文字は、人の心根をあらわす文字であり、「それなしではそのものがありえないくらい大事なもの」という意味がある言葉であるが、それは云うという文字があって初めて成り立つ文字でもある。ここから云うという文字がなくなれば、魂は鬼に変わってしまうのだ。

だからこそ何かの行事の時に、「それって大人にさせてよい行為ですか」という声を掛け合ってほしい。おかしなことはおかしいと云いあう勇気を失わないでほしい。そうしないと鬼の心で利用者の方々を扱う結果になってしまうかもしれないのである。

そういう場所に居続けることは、自らの感覚を麻痺させ、鬼の心を持った醜い姿に自分を変えてしまうことに他ならない。自分が今いる場所が、そういう場所であったとしたら、そこでキャリアを重ねても、介護のプロとしての成長はないし、人間として大事なものを失いかねないと思う。云いあって、正論が通じない場所からは、一刻も早く離れて、咲く場所を変えることも必要になる。(参照:置かれた場所で咲きなさい、というけれど・・・。

どうぞ大事なものは何かという視点を失わないようにしてください。私たちは、高齢者の方々を幼児のように扱って笑いを誘うために存在しているのではなく、人として大事なものを失わないように、傍らに居させてもらっているのだということを、どうぞ忘れないでいてください。
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まずは「感じの良い介護支援者」を目指そう


今更言うまでもないことだが、介護の仕事は、利用者の暮らしに深く介入し、自分以外の他者の最もプライベートな領域に踏み込む仕事である。

そんなことは解り切っているという人が多いだろうが、このことは常に介護支援者が自分の胸に置いておかねばならないことだ。

なぜなら、介護の仕事が利用者が羞恥心を持つような行為にまで及ぶことの配慮を忘れたときに、介護支援は人の心を傷つけることに気が付かない、デリカシーに欠ける業務に変貌するからだ。

介護が必要な高齢者にとって、介護支援者の対応の仕方そのものが、自分の暮らしの質に直結するものであり、介護支援者の言動一つで、心が踊ったり沈んだりすることも多い。

だからこそ介護を職業としているすべての人は、常に利用者に対してベストのパフォーマンスを心掛けるべきである・・・。

しかし人間である以上、間違いは犯してしまうし、感情も揺れ動くのは当然のことで、常に一定のパフォーマンスに終始することは極めて困難であると言わざるを得ない。

ましてや経験の浅い人であれば、援助技術の基本を忘れて、間違った方法で失敗をしてしまうことがあるかもしれない。

そんなことはあってはならないと言うが、技術というものは実地の中で経験を重ねて、時には失敗を教訓として、初めて身につくものが多いのだ。感情のある人間が、同じく感情のある人に対して行う仕事の業(わざ)とは、教科書に書くことができない、文字や言葉に置き換えられない様々な領域に及ばざるをものなのである。経験でしか得られないものが必要とされるのが介護という仕事の宿命でもある。

そんなふうにちょっとしたコツが必要になるデリケートな仕事が介護である。だからこの仕事は決して、AIを搭載したロボットでも替わることができないのである。

そのような介護の仕事だからこそ、利用者と初めて向かい合った当初からベストのパフォーマンスを展開するということは難しい。

だからと言ってその状態を当たり前であるから利用者に対して、「我慢しろ」という態度であってはならない。それはプロとして恥ずかしい態度でしかない。

そうであれば私たちにはいったい何が求められるのだろう・・・。

私たちが介護という仕事の中で、利用者に対して最低限担保すべきこととは、ベストのパフォーマンスを展開できない場面でも、決して嫌な思いを利用者にさせないようにする態度を身に着けることだと思う。

申し訳ございません」は優しい言葉であり、「ありがとうございます」は温かい言葉だ。そうした優しくて、温かい言葉を介護の仕事をする中で、普通に使いこなせるようにしたいものだ。

そうした優しさと温かさをもって介護の仕事に励むならば、あなたはきっと素晴らしく立派な介護支援者になることができるだろう。しかし最初から立派な介護支援者にならなくても良いのである。

利用者の方々に、嫌な思いを味合わせない対応。利用者の方々が不快にならないための対応。そういうことを繰り返す先に、仕事を通じてあなた自身が人間的に成長し、いつか人から見習われるような介護支援者になるのである。

だから私たちが最初に目指すのは、「感じの良い介護支援者」である。

サービスマナーを身に着けることは、感じの良い介護支援者になるための絶対条件であり、「介護サービスの割れ窓理論」を理解することは、誰からも求められる介護支援者に成長するための必要条件なのである。

是非そうした態度と理論を身に着けて、この国を支える介護支援者になっていただきたい。

家族と同じように言葉を崩して会話しなければ、親和性を伝えられないとか、タメ口が家庭的な雰囲気につながると勘違いしている輩は、いつまでも「感じの悪い奴」のままである。

その醜い姿に一日も早く気づいてほしいものだ。
感じの良い支援者
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仕方は本当にないのか〜人生の最終盤に関わる重さ


コロナ禍で、「仕方ない」・「やむを得ない」という言葉が飛び交う非日常が続いている。

しかしそのような言葉で日常を奪う毎日が、このように長期間続いてよいのだろうか・・・良いも悪いもなく、それも、「仕方ない」・「やむを得ない」という言葉で片づけられてしまっている。

そんな中、介護保険最新情報Vol.873は、介護施設やその他の居住系施設(ショートステイ含む)に向け、感染予防策を講じている状況で、過度な訪問診療の制限を行わないように通知している。訪問診療に携わる医師が、感染予防に配慮がないわけがなく、それさえ拒むのはどうかしていると思うが、こうした通知が出る背景は、そうしたサービスの拒否が目立っているからである。無知の恐怖が広がっているのではないのか・・・。

面会制限もそろそろ見直しの時期である。クラスター感染が怖いのはわかるが、これだけ長期間面会制限をし続け、リモート面会させているから問題ないとするのは感覚麻痺だ。

例えば北海道は新規感染者が毎日10人前後出ている状況だが、地域別にみると2カ月も3カ月も新規感染者が出ていない市町村は多い。

僕が住む登別市は、室蘭市と生活圏域を同じくするが、両市で新規感染者が出たのは2月以上前である。今現在、この地域のコロナ感染者はゼロである。そうであればこの地域の介護施設等が、一律に面会制限続けるだけで、特例も認めないのは人権無視にも近い対応という批判を受けて当然だ。

感染者が数カ月出ていない地域の人で、2週間以上他地域にも出かけず、他地域の人と接触がないのなら、その人が感染者であるという確率は著しく低い。

そういう人が特養で、特養の職員と同様に感染予防対策を講じたうえで、短時間個別面会するのに何の支障があるだろう・・・。

何度も指摘しているが、介護施設も医療機関も、職員は外から通ってきているわけである。そして外から通ってきている職員は、外では自由に外出し、不特定多数の人と接触し、中には頻繁に外食したり、呑み会に参加している人もいる。

そういう人が介護施設等の利用者と、介護場面で濃厚接触し続けているのに、大切な家族と一切逢わせようとしない・逢わせる努力をしないというのは人権蹂躙でしかない。

条件を付けた面会は許されてしかるべきだ。対策を講じて面会制限を緩めようと考え付かない人は、介護の職業に向かない。

例えば市町村レベルで考えて、2週間以上感染地域に行っておらず、感染地域の人と逢っていない人については、予約制にして面会を再開しても良いのではないか。ぞの際の条件としては、一度の面会を二人まで15分以内に限り、面会前には必ず検温と手洗い・消毒・うがいを義務付けたうえで、マスクを着用し、面会場所は原則、施設内の換気の良い面会室で行い、その際も2メートル以上離れて、アクリル板を間において行うとすれば感染予防策として十分と言ってよいと思う。

移動ができない利用者との面会は、居室での面会を許可し、出入りの際の手指消毒を徹底し、マスクに加えてフェイスシールドをしていただいたうえで、15分以内の時間制限を設けることで問題なく面会は可能だろう。(参照:介護事業者に通常装備が求められるフェイスシールドとマウスシールド

居室内で手を握ることだって、上記の条件を付ければ問題ないのである。

看取り介護の人には、特にそうした方法での面会を許可すべきだ。そうではないと愛する家族との、別れの前に交わす最期のコミュニケーション機会を奪うことになりかねない。そんな機会を奪う権利は誰にもないはずだ。

コンピューターソフトが定期的にアップデートするように、人の命と暮らしを預かる場所の対応は、一度決めたことを漫然と続けるのではなく、人の暮らしぶりに合わせたアップデートが必要になると考えるべきだ。

現に心ある人たちが働く介護施設では、状況に応じた面会の方法が何パターンも準備され、看取り介護対象者には、直接面会を基本にしてお別れの時を作っているのだ。

漫然と制限だけを続けている施設のトップや管理職の方々は、それが感染予防対策としての施設管理であると考えているのではないか。制限していることが対策を取っていることと勘違いしては困る。前述したように、職員のプライバシー空間の管理などできるわけがないのだから、利用者だけの厳しい制限は、尊厳と安寧を奪うことにしかならない。

そもそも施設管理とは、その時々の状況と個別のケースに見合った環境になっているかということを、常に高い木の上から見つめて、正しいと思える方向に職員を導くことである。一度決めたルールに胡坐をかいて全体を見なくなっていては施設管理もくそもない。

この問題に関連して9/25の夕方、朝日新聞東京本社の読者の投書欄「」の担当記者から突然メールが送られてきた。かねてより僕と面識がある記者だったという訳ではなく、初めてコミュニュケーションを交わす人であったが、僕のブログを読んでメールを送ってきたというのだ。

その内容は、介護施設の面会制限の長期化についてこのままでよいのか、看取り介護の人も制限対象とするのはどうなのかなどについて取材したいとのことであった。メールには北海道まで取材に来ても良い旨が書かれていたが、たまたま僕が今月5日に上京するし、その際に仕事をする場所が朝日新聞の本社ビルに近い八丁堀である。そのため時間が空いている6日に、築地にある同社本社ビルまで行って取材を受けることにした。

こんなふうに突然取材の依頼が来ると、自分も意外と有名人なのではないかと思ってしまうが、勘違いしないで舞い上がることなく、当日はきちんと地に足が着いた話をしてこようと思っている。

来週水曜以降に、朝日新聞の「声」に掲載されると思うので、どうか気に留めておいていただきたい。
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そこに居るのは誰かの大切な人です。


介護職員に限らず、介護事業者に勤め介護関連の仕事を長く続けている人は、知らず知らずのうちに利用者の方々に勝手な属性を冠づけてしまうことがある。

認知症のAさん、寝たきりで意思疎通ができないBさん、右麻痺で言語障害があるCさん、軽度の左麻痺だけど頑固で偏屈なDさん・・・。

そうした冠づけを行ってしまう理由は、決して利用者の方々を低い位置において、上から目線で区分しているということではない。それはただ単に個人個人をわかりやすく区別しようとする心理からきており、人によってはそれを個別化だと思い込んでいたりする。

しかしそうした属性は、各自が抱える心身の障害の特徴とか病態にしか過ぎず、その人そのものを表すものではないし、個別化とは似て非なるものだろうと思う。むしろそうした属性は、冠づけられた人を一人の人間として見つめる目を曇らせるかもしれない。例えば認知症の人を、「あのニンチの人が・・・」などと恥ずべき表現を何とも思わずに使ってしまったりすることがその証拠である。こうなってしまえばその区分はもはや個別化どころか、差別や偏見というべき問題に変質してしまう。

そのような差別と偏見につながりかねない属性は、病気や障害を持ったというエピソードをピックアップしているだけで、その人たちが歩んできた人生を表した属性ではない。私たちはそのことをもう少し深く考えるべきではないだろうか。

今現在、片麻痺があって日常生活全般に支援が必要な人であっても、そうした状態になる前には、ある人にとって最も頼ることができる存在で、誰よりも安心できる人であったのかもしれない。

今現在、認知症で暴力的な態度が目立つ人であっても、認知症の症状が出る以前は家族に対して誰よりも優しく愛される存在であったのかもしれない。

病気や症状はそうした過去を消すものではない。何らかの理由で心身の障害を抱え、他人の支援によって暮らしが支えられていようとも、そのことがその人が歩んできた人生の足跡を消しはしないし、汚点を残すことにもならない。

むしろその足跡を消し、汚点を残すことにつながるものが、介護を職業としている人によってもたらされているとしたら大問題だ。私たちが悪意がない状態で、病気や症状を利用者に冠づけて、その状態で区分しようとする無意識の無分別な態度が、誰かの歩んできた道を隠し、染みをつける結果になるとしたら、それは非常に罪深いことである。

人はちょっとした出来事によって深く傷つく存在だ。どんなに強くあろうとも、弱い時を必ず持つ存在でもある。私たちの職業はそうした人に介入して護る仕事だ。だから「介護」と呼ぶのだ。

だからこそ介護という職業に携わる人たちは、そうした人の存在の危うさにも意識を向けて、人が傷ついたり哀しんだりすることに敏感にならなければならない。人が無意識に傷つけられることを防ぐことを視野に入れなければならない。

私たち自身の行為でそうした状態を作り出さないことを前提に、他人の最もプライベートな領域に深く踏み込んでいく仕事だということを忘れてはならないのである。

誰かにとって大切な人を護るのが介護である。誰かにとって大切な人を護り続けることによって、その人の後ろにいるたくさんの人々が幸せになったり、安心したりするのが介護という職業でなければならない。

人の暮らしに寄り添い、人生の一部に関わることを職業にしている人たちは、そのことを決して忘れてはならない。

介護事業であっても収益をきちんと挙げることを考えて経営することは、従業員だけではなく利用者を護るためにも必要なことだ。だからと言ってそのために、利用者の暮らしぶりが無視され、傷つきやすい人間に対する配慮に欠けた経営や運営は許されないことを、「人を護る」という立場で日々考えてほしいと思う。

今、介護という仕事に携わっている一人一人が、自分や自分の職場が、本当に利用者を一人の人間として見つめ、暮らしを護るという本来の目的を達しているのか、日々振り返って考えてほしい。

それができない人たちが、介護という職業を続けて良いわけがないのだから・・・。
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名もなきかけがえのない人々


我が国で現在、介護職として働いている人の数は200万人をやや切る数字と推量される。

この数字は必要とされる介護職員数より20万人以上少ない数字で、介護人材不足を象徴する数字として取り上げられることもある。しかし介護職という職種だけにこれだけたくさんの人が携わっているという事実をも表す数字でもあるとも言える。

しかも職業として介護に携わっているのは介護職員だけではない。相談援助職や事務職も、介護事業者の中で実際には介護という行為に携わる場面は多々あるし、実際には介護職員とほぼ同じ役割を担っている他職種も見受けられる。このように介護職員としてはカウントされないが、事実上介護の一翼を担っている人を入れると、決して少なくない人が介護の仕事に携わっているのである。

そうであるがゆえに、これだけの人の資質をすべて一定以上に保つことは至難の業だ。事実として言えば、介護の専門職としての資質の個人差・いわゆる凸凹は非常に大きいと言わざるを得ない。

だからこそ日本の介護の場のどこかで、利用者に対して人として許されない行為が行われていたりする。そうした行為が虐待として報道されることになるが、それが介護事業での「氷山の一角」でしかなく、介護事業の闇は深いと世間一般に喧伝されたりしている。

しかし僕たちは氷山に隠れて海を漂う存在では決してない。実際には虐待とは無縁の事業者の方が多いことも事実であるし、虐待とは対極にある高品質サービスを目指し、実践している事業者も多々ある。それを支えている志やスキルの高い介護職員も数えきれないくらいたくさん居られる。ただしそれらのほとんどの人が、名もなき知られざる人々だ。

虐待はニュースになっても、日々繰り返される高品質なサービスや、感動的なエピソードはニュースにならない。あたかもそれは、人の幸福は人の不幸より報道価値が低いとみなされているかのようだ。

しかし介護事業におけるサービスの質は、全国津々浦々の介護事業者で働く一人ひとりの名もなき人々によって支えられているのだ。その人たちが名誉も待遇も顧みないところで、日々黙々と誰かの支えになることだけを目的として働き続けている。介護の仕事をしていなければ縁も所縁もなかったであろう人に関わって、その人たちの暮らしを支えているのだ。

名もなき人々が、誰かに幸せや喜びや笑顔を届けている姿も、介護職の真実の一つだ。

そういう人々がいるからこそ介護支援は初めて成立し、介護という行為が制度に組み込まれ、この国を支える原動力の一つとして存在しているのである。

例えば、8月25日に書いた記事に付けられたコメントを読んでいただきたい。

いごっそうさんという方の亡くなられた奥様のエピソードがそこには書かれている。不治の病と向き合いながら、病気になった自分だからこそ病気の人の気持ちがわかるとして、痛みを管理する麻薬を打たねばならないほどの状況でも他者に寄り添い、動くことができなくなるまで介護の仕事を続けていた人がいる。

それは売名・不遜・驕りといった言葉とは全く無縁の姿であり、あくまでも勤勉であり真摯であり謙虚であることを貫いている姿であると言えよう。

きっとそんな素敵で名もない介護職の方々が、日本全国にたくさん居られるのだろう。そんな方々が今この瞬間もどこかで誰かの支えとなっているのだろう。それはまさに人の目に触れない場所でも、綺麗な花を咲かせる名もなき花のような姿であると言えるだろう。

いつか僕は、全国に咲くそのような名もなき花たちのエピソードを集めて、本に書いて伝えたいと思う。そんな日が来ることを信じて、名もなくかけがえのない人々と繋がりあっていきたいと思っている。

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優しさの条件


対人援助の職業には、エビデンスにはならないスキルが求められる。

愛とか優しさはエビデンスにならないし、そんなものに頼る介護は信用できないという人がいるが、時として大きな問題を解決する糸口が、支援者の愛情ある対応や、ちょっとした優しさであったりする。

優しさに欠ける対応によって、認知症の人の行動心理症状はエスカレートする。愛のない言葉かけによって、看取り介護を受けて旅立っていかれる人やその家族が泣いている。

愛情を積み上げ、優しさを忘れないだけで、介護の質は高まり、課題解決にもつながっていくのだ。

そのような不確かなものに頼らなければならない不安や不確かさを嘆くのではなく、愛情や優しささえもスキルに組み込んでしまえばよいのだ。それを持てない人は介護のプロとして認められないようにすればよいのだと思ったりする。

なぜならば対人援助とは、まさに人に相対する職業であり、決して理論化できない人の感情と正面から向き合わねばならないからだ。

人の感情は、こうした場面でこのように対応すれば必ずこうなると言えるものではなく、同じ場面で同じように対応しても、相手が違えばそこで生まれる感情も異なってくるのだ。

喜怒哀楽とは、それぞれの個性ある人の内面に生まれるものなのだから、同じ場面・同じ状況でAという人が喜びの感情を抱いているのに、Bという人は哀しみを抱いてしまうことがある。

そうした不確かな感情に向き合う私たちは、どんな感情に向かい合っても、その感情に巻き込まれずに冷静に対応するというだけではなく、感情ある人と向き合う仕事に喜びを抱き、その感情をできるだけ温かく受け止め、やるせない思いを包み込む人であることが求められるのだろうと思う。

それが他人のプライバシーに踏み込んで生活の糧を得ている私たちの責任だと思っている。

だからと言って自分の性格を変えて優しい人になれと言っているわけではない。そんなことは不可能だし、そんな必要もない。

対人援助に携わる人々にも個性があって、性格的に優しい人と、そうは言えない人があるのは当然だ。しかしどんな職業も自分の性格を丸出しにして全うできる職業はないのである。それぞれの職業のプロとしてスキルを磨く必要があるのだから、利用者に愛情と優しさを持って接するというスキルを身に付ければよいのだ。

愛情を持って優しく接する方法論の中にこそ、私たちが求める答えが存在するのだと信じることが大事だ。

優しさの優という文字は、人を憂える(うれえる)と書く。それは、「よくないことになるのではないかと心配する気持ち」を表す言葉である。向かい合う利用者の様々な事柄に憂える気持ちを持つことが大事だ。私たちが憂えることをしないで放置すれば、壊れてしまう人がそこに居るかもしれないのだ。そうしない唯一の方法は、憂える私たちがそこでできうる限り、愛情と優しがある態度で接することだ。

だが人に優しくするためには条件がある。人に優しくするためには、自分に強くなる必要がある。他の感情に負けないで、愛情を持ち優しさを忘れないという強い心が必要だ。

私たちは自分の中に渦巻くあらゆる感情に身をよりかけることができる。怒りにかませて粗暴にふるまうことほど楽なことはない。自分の感情を抑えたり、自己覚知しようとする努力が必要ないからだ。しかしその感情をぶつける相手が、自らの職業として支援の手を差し伸べる人であれば、そこで関係性は途絶え、私たちの職業が目指すゴールにも決してたどり着くことは出来なくなる。それは職業人としてあるまじき態度であると言ってよい。

優しさに徹する人は、「格好つけてる」・「勘違いしている」・「ポーズがうまいよね」などと様々に揶揄され、時には批判を受けることさえある。しかしそれは優しさを失わないで利用者に接することができない愚か者のやっかみに過ぎない。自分ができない行為に嫉妬する能力の低い人間の戯言に過ぎないのである。そのような愚者の戯言に負けて流されてしまわない強さが必要なのだ。

だから自分に強くなって、優しくなる必要があるのだ。

他人になんか強くなる必要はない。虚勢・意地・暴言・暴力・粗暴。どれをとっても私たちの仕事に必要なものはない。

そんな覚悟を持って、毎日人に向かい合うことを続ける先に、新しい未来が生まれるのだと信じてほしい。きっとそれはあなた自身を照らす光にもなるだろう。
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優しさとは何だ

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遠くへ行きたいのならば・・・。


介護の職業とはある意味、「きりのない仕事」である。ここまでやったら終わりというゴールが見えるわけではないからだ。

今日行ったことがそこに成果として残って、その仕事を終わらせて新たな仕事に取り組むということができない職業が介護という職業の特徴でもある。

今日も明日も同じように繰り返される日常の支援・・・。昨日と同じように排泄ケアを繰り返したり、食事介助を繰り返したり、移動や着替えのお世話を繰り返すことが最も重要となるのが介護職である。昨日排泄介助を重点的に行ったから、今日はその数を減らしてよいということには決してならない職業でもある。

そのことに虚しさや疑問を感じる人は、介護の職業に向いていないと割り切るしかない。そういう人は介護の仕事に就いてはならないのだ。そういう人が疑問を感じている間に、利用者が必要とする、「今」はどんどん流れ去ってしまう。それはその先に取り返すことができない何かを失っていく過程かもしれない。

私たちの職業とは、毎日繰り返される行為を機械的にこなすのではなく、その行為の中に存在する、「人」そのものにスポットを当て、そこに居る一人一人の利用者の感情に寄り添う仕事である。その時に利用者の喜怒哀楽に巻き込まれて、必要な支援行為を見失わないためには、「統制された情緒関与の原則」は決して忘れてはならないが、同時に人として真摯に寄り添うために、「受容の原則」は最も重視されなければならない。

今日笑って喜んでくれた人が、明日同じ行為支援の中で喜んでくれるとは限らない。その時、笑っていた人が哀しんでいる姿を見ないふりするのではなく、その理由を探りアプローチを続けていくのが介護支援の本質であり、終わりのない検証と実践の繰り返しが必要となる。そのことを僕は、「天のない介護」と呼んでいる。

天のないことを空しく感じる人には向かない仕事だ。天のないことを限りない可能性と感じることができる人が続けられる仕事が介護という職業である。それは決して自分一人で黙々と道を切り拓くだけで良いという仕事ではない。

人の感情に寄り添い、人の暮らしぶりを良くするために関わる仕事は、私だけ・僕だけにできればよいということにはならない。私や僕がいないからと言って、誰かが不幸せにならないようにしなければならない。場所や時を選ばず必要な支援の手が差し伸ばされて、誰かが幸せになるためには、私や僕とともに歩む仲間が必要だ。だから、「介護の極意」は一人のものにしてはならない。必要な仕事の方法の伝承法を職人技にしてはならない。伝える責任も介護の一部分だ。そうでないと多くの人を幸せにする方法論にはならないし、そんな介護が必要とされるとは思えないからだ。

だからこそコロナ禍でも多くの仲間に、「人の暮らしぶりを良くする方法論」が伝わる機会をなくさないでほしい。「コロナを理由に職員教育をおざなりにする事業者が落ちる穴」は、事業経営という側面から職員の教育の大切さを指摘しているが、その本質は対人援助サービスが護るべき一番大事なものを失わないために必要なこととは何かという提言でもある。

僕の記憶の片隅に存在する、「急いでいきたいのならば一人で行きなよ。遠くへ行きたいのならばみんなで行きなよ。」というフレーズは、テレビドラマの中で聴いたセリフだろうか・・・。定かな記憶はないが言いえて妙である。僕はまだまだ遠くにある真髄を見極めるために、仲間を集めてゆっくりでも良いから前進し続けたい。
C-MAS介護事業経営研究会2020全国大会のオンライン配信も注目ください。)

どうかそんな介護の職業に誇りを持って、その仕事の中で自分の責任を全うできる人になってほしい。

責任は人をとても成長させるアイテムである。ところで今朝、僕は自分のFBに次の一文を投稿した。

『福利厚生やボーナスはともかくとして、とりあえず月給の高い派遣職に登録する介護職希望者が増えている。それが介護事業者における派遣割合が高まる原因で、派遣に頼らねば運営できない事業者が増えることで運営コストはますます上がっている。しかし派遣を選ぶ人は、重い責任を負わされないことを望み、嫌になったらすぐ辞めて、他の事業所に移ろうという人たちだ。そういう責任感や使命感の薄い人たちで、介護の質は担保されるだろうか。今後の介護人材対策を介護の質と双方で考えるなら、介護職の派遣禁止法案が一番効果をもたらすという考え方は乱暴だろうか・・・。』

ブラックな職場は居続けてもしょうがないが、だからと言っていつまでも派遣という身分に甘んじて、自分に責任も使命感も与えないことは、自分自身の損失でしかない。スキルを高める機会を失わせることは即ち、自分が自分を評価しないという意味でしかない。

派遣という身分に自分を押し込めて、自分の人間性の向上機会や可能性をつぶしてしまうのではなく信頼できる転職サイトを利用するなどして、自分に合った職場で責任ある仕事を背負うべきである。


北海道はお盆を過ぎて、そろそろ秋の風が吹き始めた。登別の僕のウオーキングコースには、秋桜が咲き始め風にそよいでいる。

爽やかな秋風のように、清楚で美しい秋桜の花弁のように、誰かの心を癒すことができる行為となる介護であってほしいと願う。

誰かの心に咲く花になれる介護であってほしいと祈る。
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広島の空・長崎の空2020


今年も暑い夏がやってきた。

戦後75回目の広島原爆の日と長崎原爆の日は、コロナ禍で式典の規模などが縮小する中で行われることになった。しかし人々の平和を祈る気持ちは決して変わることはない。そしてあの戦争で失われた多くの御霊、広島と長崎の原爆投下で失われていった御霊を悼む気持ちも決して変わることはない。

ところで、今年の平和式典における首相のあいさつの文面が、両会場とも酷似しているとして、被爆者から「何のために被爆地まで来たのか。ばかにしている」と怒りの声が挙がっているそうだ。しかし一国の首相とはいえ、たかが政治家の挨拶の言葉に目くじらを立てたってどうしようもない。そのような挨拶しかできない人を可哀そうだなと思えばよいだけである。

ただし世界で唯一の被爆国である国のトップが、自らの言葉で平和の祈りと誓いを語らないのは、残念であるというより、勿体ないことであると思う。自分の思いを伝えようとしない言葉は、何の意味もなさないからだ。

そういえばこの国は、国連で決議されている核兵器禁止条約に署名・批准を拒否している国である。その国のトップが、平和式典で何を言おうと、天国でその言葉を聞く御霊には何も響かないだろう。そんな言葉は単なるセレモニーでの空しい騒音でしかないのだから、そんなものに腹を立てたり、憤ったりすること自体が無駄なことである。

心を静かにして天に召された御霊を悼み、平和を祈り続けることが何よりも大事ではないかと思う。

平和式典が75回目ということは、あの戦争が終わってから75回目の夏が来ているという意味だ。すぐ近くに敗戦の日である8月15日も迫っている。戦争の生きた語り部はどんどん減っているが、まだこの国にはあの戦争を体験した多くの方々が残っている。それらの方々の戦争体験が、生の声として後世に伝えられていく期間もそう長くは残されていない。そうであるからこそそうした機会を貴重に思わねばならない。

同時に高齢者介護・対人援助に携わっている私たちは、あの戦争を経験して、たくさんの愛する誰かを失った哀しい人々の最晩年期に関わっているのだということを強く自覚しなければならないと思う。

戦争で心に深い傷を負った人々を、私たち自身の心無い言葉や態度で傷つけることがないように最大限の配慮をしなければならない。それが介護サービスの割れ窓理論の意味でもある。

対人援助・介護サービスに携わる私たちが、誰かのあかい花になろうとすることは、この国に生まれ育ったすべての人々が、平安の暮らしを送るために必要な最強アイテムでもある。

この国の平和と、人々の心の平安を祈りながら、「LOVE〜明日につなぐ言葉・長崎編」を御覧になっていただきたい。そして私たち一人ひとりが、介護サービスの場で何ができるのかを、改めて考えていただきたい。

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自然災害に向かいあって生きる


7月4日未明に熊本県南を中心に発生した豪雨水害によって、たくさんの人が被害を受けている。心よりお見舞い申し上げたい。

今日午前5時現在、鹿児島県の万之瀬川と加世田川で氾濫危険水位に達しているとの心配な情報も入っている。宮崎県も大雨とのことだ。これ以上の被害が出ないことを祈るしかない。九州各地の皆さん、身の安全にくれぐれも注意してください。

ところで今回の大雨被害の中でも介護関係者がショックを受けたのは、球磨村の特養の浸水被害である。

一昨日の夕方に僕の別ブログ、「masaの徒然草」に、「熊本県の特養水没事故により死者多数の悲報に触れて」という第1報を書いたが、被害にあった施設で心肺停止状態で見つかった14人はいずれも入所者だったことが判明している。残る入所者51人は5日、全員が救助されたそうである。

報道記事では、「死亡」や「死者」という言葉を使わず、「心肺停止」とされているがその理由は、医師による死亡診断がされてはいないが、呼吸が停止していることが明らかであるという意味だろう。何とも痛ましい災害死である。特養という終の棲家で、安心して暮らしていた人の身に、突然ふりかかった災害死という悲劇に対して言葉を失ってしまう思いだ。

被害にあった特養は、球磨川に注ぐ支流の脇に建てられていたそうである。今回の災害は、球磨川という本流が決壊したことにより、支流がせき止められ逆流する、「バックウォーター」という現象が起きたことによるとの見方もあり、浸水が始まってから1階部分が浸水するのもあっという間の出来事だったのだろう。かつてない雨量と川の決壊によって、垂直避難も間に合わないほどの未曽有の災害だったのだと思う。

現に報道でも、1階の入所者を2階に移していた最中に施設内にどんどん水が入ってきて津波のような状態になってどうしようもなかったという証言が伝えられている。

亡くなられた人に心よりご冥福を祈るとともに、このような災害で大切なご家族を奪われた遺族の方々にも心より弔意を捧げたい。

お仲間を失い、自分自身も大変怖い思いをされた生存者の方々の心のケアも大事だ。それは利用者のみならず、施設に勤めている全職員に向けても必要だろう。中にはもっと利用者を救える判断ができたのではないかと悩んでいる人がいるかもしれない。どうか責任を抱え込まないでほしいと思う。

日ごろ災害に注意する意識をいくら持っていても、私たちは想像を絶する自然の力の前に、無力であることも多いのだ。あれもできた、これもしたかったということは、結果がわかってから気が付くことで、予測の範囲を超えた出来事の最中に、すべてベストの判断や選択ができる人は多くはない。くれぐれも過度に自分を責めないでほしいと思う。

勿論、命を失ってしまった人に思いを寄せることは大事だ。

今回の災害で亡くなられた方の命の重みは、大災害で何万人もの人が亡くなった時の一人一人の命の重みと変わらない。だからその命が失われたことを私たちは深く胸に刻まねばならない。このように失われた尊い命、誰かにとってかけがえのない方々が、生まれ変わってまたこの国に生まれたいと思うことができる国を創ることを目指して、一人ひとりの国民が今いる場所で、今できることを続けて行く責任があるのだと思う。

このような大きな災害が起こったからと言って、私たちは自分の日常を変える必要はないと思う。日常の中でできることで支援協力をしていくべきではないのだろうか。今はとりあえず後方支援として義援金等の募金に協力することが最も求められているのではないだろうか。

今朝ネット検索したところ、熊本災害基金<2020熊本水害支援>というサイトにヒットした。今後様々な機関によって義援金が受け付けられていくだろう。

自分のお金をどのように使ってほしいかを、それぞれの皆さんが判断して、最も有効にお金を使ってもらえるところに寄付をすることが大事ではないだろうか。

今は亡くなられた方に思いを馳せ、被害を受けられた方の身を慮り、一日も早く平穏な日が戻ることを祈るのみである。合掌。
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爆ぜるに蒼し(はぜるにあおし)


人にはそれぞれ、「言い分」や「理屈」がある。しかし頑張らない人間のそれは、「言い訳」であり、「屁理屈」にしか過ぎない。

ある行為ができるかどうかは、やってみなければわからない。手足を動かすだけではなく、頭を使って行動を起こして初めて、「できる」・「できない」が評価できるのだ。

何もしようとしないで、最初からできないと決めてかかる人間が、何を主張しようと遠吠えにしか過ぎない。そんな声には反論することさえ無駄だ。黙って無視すればよい。

介護サービス事業の中で職を得て、そこで利用者対応することで生活の糧を得ている人間にとって、利用者は、「顧客」そのものである。それは疑いようのない事実で、この理解ができない人は社会人としてのスキルがないと言える。

自分のお客様が目の前にいて支援を求めているのだから、顧客対応にふさわしい態度や言葉遣いというサービスマナーを身につけて、マナーに徹した顧客対応を行うことは、特別なことではなくごく当たり前のことである。

そのことをいつまでも理解できない人が介護のプロを名乗ってはならないし、名乗る資格もない。そんな輩はその場所にいることさえ許されないと言える。とっとと介護の仕事を辞めて、別の仕事を探しなさい。・・・しかし顧客対応ができない人間にできる仕事が果たしてあるのだろうか。少なくとも医療や介護業界以外では、顧客にタメ口で接するという対応は許されていない。それほどこの業界が温いということだ。

お客様に対してより良いサービスをしようと考えるのは、極めて健全で当たり前の考え方である。介護業界の人手が足りないことも、待遇が決して良くないことも、それを否定する理由にも材料にもならない。

そもそも仕事に真剣に取り組むならば、顧客に対するホスピタリティ精神はごく自然に湧き上がってくるものだ。人の役に立つために、対人援助の仕事に就きたいという動機づけを持つ人ならばなおさら、それは極めて自然で当然の心持である。

現に年齢に関係なく、マナーに徹した対応を行っている人がいる。高品質なサービスを実践している人がいる。

介護施設で人手が足りないから週に2回しか利用者を入浴させられないと嘆いている向こう側には、同じような人員配置で、利用者の希望に応じた入浴回数を確保している施設がある。その違いは文句や愚痴を言っている暇と無駄をなくし、知恵も用いて黙々と手足を動かしていることによるものなのかもしれない。

僕は自分の実践として、マナーーに徹し、顧客ニーズを追求した高品質サービスを実現してきた。このブログに書いていることにフィクションはなく、すべて行ったという事実なのだから、それほど明確な根拠はほかにない。

だから僕が講演で話す内容も実践論である。理想論ではないのだ。それがなぜできないという人がいるのだろう。それは単にやりたくないだけではないのか。面倒な方法や、つらい径を選びたくないだけではないのだろうか。

勿論苦労せずにお金を稼げるのなら、それに越したことはない。しかしそれでよい待遇を与えてくれというのはあまりに図々しい。そんな都合の良い方向に世の中は流れるわけがないのである。

同じ介護の仕事の中で実績を上げ、それに応じた対価を得ている人をやっかむ人がいるが、自分もそうなれると信じて実践すればよいとつくづく思う。

才能がないとか、運が悪いというのも言い訳だ。人には向き不向きもあるだろうし、才能というものもきっとあるんだろう。

しかし生まれ持った能力なんて、仕事の成果を左右するほど大きなものではない。

本当の意味の才能とは、天から与えられるものではなく、自分で掘り起こし作り上げるものだ。必死に仕事をし、階段を一歩一歩歩いてきた人間にだけ見出すことができるものが才能である。

懸命に前に進んでいる人が頂上にたどり着こうとしたときに、何もしようとしない人間は麓(ふもと)でこうつぶやく。「奴には俺と違う才能があるからな」・「奴は運に恵まれただけさ」・・・。

馬鹿を言うな。頂上にたどり着こうとしている人間は、麓で骨休めしている奴やより何十倍も、何百倍も努力を重ね、汗をかき、辛い思いを飲み込んできているのだ。怠けてこなかったのである。

それに比べて若さがあって、時間も体力も感性もあるやつがなんで怠けるんだ。なんでそんなところで停まって愚痴ばかり言っているんだ。それは評論にもなっていない世迷言だぞ。

それに気づかずに老いていき、仕事の上でも敗残者になるのも勝手だが、どうせなら食うためだけではなく、自分の職業に使命ややりがいを感じ取れる道を探し・選んだ方が良いのではないだろうか。
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心を見える化される日も必要なのかな。


1日に発出された介護保険最新情報842で示された通所サービスとショートステイの算定特例が極めて評判悪い。

この特例は、「感染拡大を防止する事業所の対応を適切に評価する措置」であり、通所サービスでは実際にサービスを提供した時間の報酬より2区分上位の報酬を毎月一定の回数に限り算定でき、ショートの場合は緊急短期入所 受入加算を一定回数上乗せして算定できるというもの。

おそらく6月請求分からが対象となると思われるが、自動的・機械的に高い報酬を算定できるわけではなく、特例算定の前提如件として、『介護支援専門員と連携の上、利用者からの事前の同意が得られた場合には〜(以下略)』という風に釘をさす文章も明記されている。

そのため特例算定についてはすべて、後の実地指導において確認されることになろうと思え、その時に同意をいただいたという証拠になるのは同意書をおいて他になく、同意書の取り交わしは必須である。(※算定要件に同意の記録で良いという記載がある場合は、この限りではないが、今回の特例算定はそのような記載がない。)

さらに給付管理を行う担当ケアマネジャーにも十分理解を得ていなければならないが、関係者からは、同じサービスを受けていて、日によって額が異なる状況がおこり利用者の理解が得られないとか、同意を得られた人だけ高い報酬を算定するのは、同意を得られない人と比べて不公平が生ずるとか、計画担当ケアマネが必要性を認めず給付管理上の対応をしてくれないという苦情が続出している。

このように自己負担の伴う特例は問題が大きすぎる。いっそのこと特例算定の上乗せ分については、自己負担をなしにするなどのルールが必要ではないだろうか。

さて話は変わるが今日は6月最初の週末である。緊急事態宣言が解除され、街に人手が戻りつつあるが、東京の新規感染者が一時一桁数になったのに、昨日は20超えてきている。北九州でのクラスター感染も収まっていない。

これ以上感染が広がらないように、まだまだ警戒が必要で、この週末が休みの人もまだまだ不要不急の外出は控えたほうが良いのではないかと思う。家でゆっくりと疲れをとる週末も良いのではないだろうか。そんな方には、『実在する「ボロ宿」を巡りながらドラマは展開します』で紹介しているような無料動画を是非愉しんでいただきたい。

ところで6月と言えば、『父の日』がある。再来週の日曜日がその日になるが、僕は息子たちから何かもらえるだろうか・・・。お父さんがお元気な方は、是非ありがとうの言葉を添えて、気持ちを形にして贈ってほしい。

僕が父を失ってから14年、母を失ってから13年経っているので、自分の両親に物を贈る機会はない。物を贈ることさえできなくなる別れは、ある日突然やってくるのだということを身に染みて感じている。

生前父や母に逢うのは、正月とお盆くらいのもので、それが永遠に続くとは思ってはいなかったが、14年前と13年前のその日に、永遠の別れが来るとは思ってもみなかった。

仕事も一番忙しい時期だったので、孫の顔を見せに帰省することもほとんどないまま「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉は、まさに僕のような薄情な息子のためにある言葉なのかもしれない。

今、ご両親か、そのどちらかがお元気な方は、それが当たり前ではなく、永遠に続くものではないということを思い出して、もしかしたらお別れのカウントダウンが始まっているかもしれないことを心にとめておいてほしい。

感謝の気持ちは、言葉にしないと伝わらないものではないかもしれないが、自分が思ったほど気持ちは相手に伝わらないことも多い。それが人の性でもあるのだから、せめて記念の日には、大切な人に照れずに言葉を贈りたい。その時には感謝の気持ちを形のあるものに込めても良いのではないだろうか。『言葉は心を超えないから、記念の日には心を形にして贈りたい』という記事も是非参照していただきたい。

今朝のニュースでは、高知県の小学校臨時教員が3.11でたくさんの犠牲者を出した宮城県石巻市立大川小学校の児童の遺族3人に殺害予告の手紙を送って逮捕されたと報道されていた。犯人は児童8人が殺害された大阪教育大付属池田小にも遺族殺害予告の手紙を送ってるらしい。

狂っていると思う。こんな仕打ちは心の傷がいえない遺族にとっては2重の苦しみにしかならない。なぜこんな人間がいるのか、しかも小学校の教員なのか理解に苦しむ。

どうぞ人を愛し、人に優しい世の中でありますようにと祈ることしか僕にはできない。短い人の一生で、傷つけあって生きていくのは無駄な過ごし方でしかないと思う。人に対する関心は、愛情のある方法で向けてほしいと思うのである。

どうぞ優しさが、人の心を癒すために、何より必要であることを忘れないでください。あなたは人を愛するために、この世に生まれ、生かされているのですよ・・・。
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バリア(障壁)を生み出すもの


僕が初めて社会人として就職したのは社会福祉法人であり、新設特養の相談員(当時の職名は生活指導員)が最初に拝命した職務だった。

その当時の特養には様々な規則が存在してた。

勿論、今でもそうした規則は存在するのだろうが、当時のそれは融通の全く効かない厳しい制限規則であったと記憶している。起床時間から就寝時間まで規則として押し付け、日課活動も時間割のように定められ、それに従わないことは、「問題行動」であると決めつける職員もいた。家族等の面会時間は制限することが当たり前と考えられていた。

そうした規則は、「集団生活」なのだから当然必要であると言われた。

しかし、「集団論」の立場から言えば、特養の暮らしは、「強いられた共同生活」という概念にしかならず、集団生活には該当しない。よってそのことを理由にした制限は無効であり、規則が必要だとしてもそれは、共同生活の中でお互いの暮らしに不便をかけずに、それぞれの権利を侵害しないよう配慮するために、緩やかな規範を定めおくという意味にとどめなければならない。

そう考えた僕の若い頃とは、様々な制限規則をなくすために、周囲のバリアと闘ってきた日々であったと言えるかもしれない。

仕事の都合で面会時間に訪問できない家族は当然いるのだから、面会時間があっても例外は広く認めるべきだと思った。夜遅くの訪問になったとしても、本人や同室者の迷惑にならない限り、面会は許されてよいのである。

そもそもそういう都合や、利用者にとっての迷惑をアセスメントしていなかった。問題の本質はそこであろうということで、そこから変えなければならなかった。

そうした個別事情を考慮した対応を、すべての生活場面で行おうというところから戦いは始まっていったのである。

就寝時間を超えてテレビを見たい人とは、もともとそうした生活習慣を持っていた人だ。そういう生活習慣を奪うのが特養であるなら、それは社会福祉ではないと思った。

食事提供にしても、せっかく複数メニューを提供できる体制にあるにもかかわらず、それは健康と栄養のためのシステムであると限定的に取り扱われていた。アレルギー等の問題で、お肉メニューが食べられない人には魚メニューを出しているのに、「好き嫌いの」問題であるならば、それは許されないことだった。

しかし人生を70年以上過ごしている方に対し、今更好き嫌いは良くないというのもどうだろう。肉を食べずに長生きしてきた人に、特養に入所したのだから好き嫌いを許さず、肉を食べろと強要するのは虐待と同じではないのか。そもそも肉メニューを提供すれば、食べずに残してしまうのがわかりきった人に対して、それを承知で肉メニューのお膳を出し続けることが、栄養管理として意味があることなのだろうかと思った。

食は人にとって最大の愉しみなのだ。それを苦行に変えてしまっては、栄養管理もくそもない。そう思って、好きなものをおいしく食べられる生活を奪うことは、対人援助として許されることではないだろうと言いながら、栄養士と喧嘩したこともある。そういう主張を理解して、栄養士が考え方を変えたきっかけになったのは、僕の説得ではなく、利用者が生きてきたエピソードそのものであった。(参照:栄養士の役割・食は人生

そういえば2016年4月から、1年間だけ働いた千歳市の老健施設は、その当時でも施設内で利用者が携帯電話を持ち、通話利用することを禁止していた。職員が普通にスマホやタブレットを利用しているのに、さしたる理由もなく利用者には制限を続けているのである。こうした制限が管理だと思っている馬鹿が小権力を持つと、このような不自由を利用者に与え続けることになる。

思えばそうした制限は、すべてバリアである。

そのバリアをつくる要因は、管理者や職員の心の中にある差別意識に他ならない。

そうした人たちが、心の中のバリアフリーを意識しない限り、介護サービスの場からバリアはなくならないのではないだろうか。

暮らしの場にどれだけ制限規則が必要なのだろうか。制限を掛ける不便と、制限のない利便を比較してみてほしい。その制限がないと、そこで人は不幸になったり、不便になったりするのだろうか。

どうか自分や誰かに、規則という名の制限を創り出す権利や権限があるのかどうかを、今一度見つめ直してほしいと思う。厳しさより、優しさでもって対人援助に関わってほしい。

少なくとも制限規則が、そこで暮らす人の幸福感や笑顔を奪っているとしたら、それは恥ずべきルールでしかないと言えるであろう。

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僕の原点


僕の学生時代の専攻は児童福祉であり、実習先は児童相談所や児童施設であった。そこでたくさんの子供たちとの出会いがあり、その中で僕は福祉の道へ進む動機づけとか覚悟を持つに至った。

父親に犯されて妊娠してしまった中学生。親の離婚と育児放棄という状況の中で、生きるために盗みを覚え常習化た小学生の兄弟。継母から虐待を受け、口がきけなくなった小学生。すべて僕が学生時代の実習中に出会った真実のケースだ。

人はいつも正しくは生きていけないのかもしれませんが、せめて大人が子供の心を壊すことがなくなって欲しいと思った。子供の心を壊す親や大人を心から憎んだ。子供を産んだら親としての責任を果たせと言いたかった。いつまでも男と女をやってないで、きちんと親になれと言いたかった。

そんな僕の原点を書いた下記のブログ記事を、まだ読まれていない方には是非読んでいただきたい。
Think about my Daughter 〜「もうひとつの少年期」との出会い
Think about my Daughter 2 〜 僕は天使ぢゃないよ。
Think about my Daughter 3 〜 彷徨(さすらい)
Think about my Daughter 4 〜 最終章:光と影。
THINK ABOUT MY DAUGHTER 2

2005年11/9にこのブログを立ち上げて以来、こんなふう僕の心の叫びを様々に書きなぐってきた。ここは僕のその時々の心情を素直に正直に表す場であり、他人の意見を聞く耳は持たない場所でもある。他人の意見やアドバイスなんてくそくらえだ・・・そんなふうに考えてずっと思いを書き続けている。

それが嫌だとか不快ならつなげるなよと言い続けている。勝手にアクセスして嫌だも読みたくないもないだろうと思う。反論があるなら顔と本名をさらして堂々としかるべき場所で意見しろと思ったりする。そんなわがままで勝手な場所であることを許せる人だけ読んでくれれば良い。

不幸とか幸福とか、好きだとか嫌いだとかという形のない概念は、それを感じる主体によって違ってくるんだろう。だから今の状況が、全ての人に不幸だとか、幸福だとかいうことはできないし、嫌われてもすかれてもどうでもよいと思う。何が正しいのかということの答えは誰も出せない。

現代社会とは、世界中の出来事がモニターの前にいれば瞬時に把握できたり、どんなに遠くにいる人ともリアルタイムでコミュニケーションがとれる便利な社会にはなった。コロナウイルス禍で在宅テレワークが増えてくると、それがスタンダードになっていく職場も増えていく。

そうした状況の中で、人と人のふれあいが希薄になったり、苦手になったりする人が増えるかもしれない。そこでは少しずつ「人に対する優しさ」が失われてしまうような気がしてならない。モニター画面で完結する仕事では、ともに仕事をする人、仕事の対象となる人のリアルタイムの心臓を思いやる必要性が乏しくなるからだ。

僕はそれはとても嫌なことだと思う。

この年になって蒼臭いといわれるかもしれないが、社会全体の優しさが失われていくことに対して、「それは違う」という声を出し続けようと思う。人が人を思いやれない社会はまっとうな社会ではないと言い続けたい。

社会のひずみや影の部分にも目を向けていきたい。光り輝く部分は誰にでも見ることができる。そうではない影を見つめて、光の当たらない場所を温めてくれる存在がないと、人の生きる路には険しさしかなくなる。

地域社会から優しさの量が減り続けるのであれば、人は苦しさから逃れる術を失ってしまう。
人の心は真っ白なキャンパスである
※介護事業経営者の方は、ランニングコスト削減のために、「収益減に対する自己防衛策としてリスクとコストゼロで電気料金を賢くカットしましょう」を是非参照してください。

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命について考えさせられる様々な死の風景


死は誰の身にも訪れる。それは誰しも知っていることであるが、自分や自分の身近な人が、今日突然死の瞬間を迎えることを予測している人は少ない。

健康な人であればなおさら、その人が今日急に命を失うとは思わない。しかし実際には突然の死はたくさんある。日本では一日平均3.279人が死んでいるのだ。その中には、健康に何の問題もなく、死と遠い場所にいると思われていた人が、予測できない理由で死という現象に見舞われることもある。その中には理不尽と思えるような、「死に方」も存在する。

普段そのようなことをあまり深く考えることはないが、「悼む人」という小説を読んだり、それを原作にした映画を観た影響もあってか(参照:悼む人は愛と憎しみ、罪と許しのドラマです。誰に愛され誰を愛し誰に感謝されたことがあるかを思い出してください。)、介護関連の仕事をしている最中に、そこに関連した様々な死のニュースが気になった週である。

5/18、京都府長岡京市内の民家で、76歳の夫が72歳の妻の首を絞めて殺害した後、自らも首をつって死亡しているのが発見された。夫は直前に、「介護に疲れた。2人で楽な道を選ぶことにした」という遺書を長男に送り、長男から通報を受けた向日町署員が、二人の遺体を発見している。

先週の11日には埼玉県入間市でも53歳の息子が、疾患を負った83歳の母親の介護に絡み、「母親を切り、自分も死のうと思ったができなかった」と通報し殺人未遂で逮捕されている。母親は手首を切ったものの命を失わなくて済んだが、これは殺人未遂というより、介護疲れを理由にした心中未遂である。

介護疲れを理由にした心中事件は、介護保険制度が創設され、介護の社会化が叫ばれてもなくならない。数が少なくなったかどうかは不明であるが、人の死の問題は、数の比較をしてもどうしようもないだろう。5/18の心中の遺書のあて先となった長男の方にとって唯一無二のご両親を、このような形で亡くした哀しみは計り知れない。

この世の中は、こうした悲劇から逃れられないのだろうか・・・。

20日午前に奈良県五條市で一家五人が亡くなった火災事故は、寝室に油をまいて放火した無理心中とみられている。遺書があると一部で報道されたが、それは誤報でメモ書きが残されているものの、遺書ではないとのことである。

この一家の主は社会福祉法人の高齢者介護施設で、施設長に就任したばかりという報道もされている。心中の原因が何かはわかっていないが、8歳と6歳と2歳の幼い子供3人を何故道連れにしなければならなかったのか・・・。この一家の主のFacebookには、今も幸せそうにしか見えない5人の家族写真がアップされたままである。それを見るとやっぱりどんな理由があろうとも、家族を巻き込んで死を選択してはならないと思ってしまう。

コロナウイルス関連では、5/20に厚生労働省が介護施設で新型コロナウイルスに感染して亡くなった高齢者の人数について公表している。その数は19日時点で少なくとも61人で、介護施設内で亡くなった高齢者は23人ということだ。

61人−23人=38人は、介護施設内で発症したが、亡くなった場所は入院先の医療機関という意味なのだろう。クラスター感染が発生している札幌の老健内では15人が亡くなっていることがわかっているのだから、その数は公表された23人の65%以上に上っている。ということはやはりこれは異常な数字としか言いようがない。

陽性となった利用者が発生したとの報告を受けた札幌市が、医療機関への転院をせずに施設内での継続介護を求めたことによって感染が拡大し、施設内死者数が増えたと思われるわけであるが、そのことは結果的に同施設の感染者を見捨て、「命の選択」が行われた結果ではなかったのかという検証・議論は、後々必ず必要となるのではないだろうか。

蛇足として書くが、道内のクラスター感染発生施設では、退職者もかなりの数に上っている。そして退職者の状況をみると、看護職員の退職比率が介護職員のそれよりかなり高くなっている。

このように看護職員の方が介護職より感染拡大の場から離脱割合が高い理由は、感染症の恐ろしさを介護職員が十分知っていない結果であるとしたら、それはある意味恐ろしいことであるように思った。
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そこには誰かの特別な人しか居ません


一般市民、平凡なサラリーマン、普通の主婦・・・本当は、この世の中にそんな人はいない。

そこに存在する一人ひとりが誰かにとっては特別な人である。みんなが誰かにとってかけがえのないたった一つの存在なのだ。

僕たちの職業とは、そういう一人一人の大切な魂と向き合う職業だ。だからこそ介護という職業を仕事として選んだのではなく、生き方として選んだと思ってほしい。誰かにとって大切なたった一人の人だという意識を忘れないことから、僕たちに求められるバイスティックの7原則の一つ、「個別化の原則」の理解も始まるのである。

介護サービスの利用者や家族の方々の中には、病気や症状を人の上に冠づけするのは許し難いことだと訴える人がいる。

認知症になって、行動心理症状がある方も、家族にとっては、「認知症高齢者」ではない。そのかけがえのない人は、家族を養ってくれた頼もしいお父さんでしかない。哀しい時、苦しい時に抱きしめてくれた優しいお母さんでしかない。

そういう親に、認知症という冠をつけて呼ばれることを毛嫌いする家族もおられることを理解しなければならない。介護サービスの場で、認知症の○○さんと利用者を表現することは、職業上必要不可欠なことではない。そんな冠などつけずに、○○さんというだけで良い時の方が多い。それなのになぜ無神経な冠をあえてつけて利用者の方々を表現せねばならないのだろうか。

ましてや認知症を、「ニンチ」とわけの分からない略語で呼び、「あの人ニンチだから」・「あの人は、ニンチじゃない」とか平気で言っている人にはデリカシーの欠片も感じられない。そんな人が看護や介護の専門家面するのは、傍からみれば滑稽で醜くさえある。

家族が愛したお父さん・お母さんを私たちはもっと大切に思わなければならない。家族のそうした思いをもっと大切にしなければならない。

人を愛するとは、どういうことを言うのだろうか。男女の恋愛や家族愛以外にも、人間愛というものが存在することを僕たちは知ってはいるが、それをどう考えればよいのだろうか。そんなことを考えながらふと思うことは、誰かのために自分が少しだけでも損をしても良いと思えれば、それは愛と言えるのではないだろうかということだ。

人間愛をあまり高みに置く必要はないのではないかということだ。日常の何気ない心配りに人の情けや愛を感じながら暮らしていくほうが、僕たちはもっと幸せになれるのではないだろうか。誰しもが誰かから愛されていると思うことで、曇って見えなくなっていたものに、少しだけ日が差すのではないのだろうか。

人は誰しも、ずるかったり卑しかったりする部分を持っている。それを否定したって始まらない。そんな一面は誰にでもあるけれど、それにもまして人は愛し愛される存在である。そのことを忘れないで、希望の光は誰にでも差すと信じて生きていく方が心安らかだ。否定的な部分や暗い未来ばかりを考えて自らの心を苦しめる必要はない。

人間の存在の豊かな部分、明るい方向性を少しだけ意識して考えるだけで、きっと明日は変わると思う。辛いという文字は、「一」を足すだけで幸せに変わる。僕たちの職業は、誰かにこの、「一」を足すための職業だ。そして一を足す人を選ばない職業である。どんな人だって幸せになる権利はあるし、私たちは裁く人ではなく、支援する人なのだから・・・。

年を取ったからといって誰も仙人にはならない。性格も過去も様々だ。それらの個性は個別化しても、幸せをつなげる行為に差をつけることがあってはならない。

無差別平等の精神は、対人援助の支援者が常に意識しなければならないテーマだ。しかし無差別平等とは、一律均等に同じことをするという意味ではない。必要な人に必要な支援を行い、同じ必要性のある人であるのにその差をつけてはならないことであって、必要のない人に支援の量や質が変わってくるのはごく当たり前のことである。

人は感情を持った生き物だ。喜怒哀楽は誰にでもあるし、心があるから思い悩みもする。しかし感情があり、感ずることができるから、人は幸せになることができる。生きる意味を見出すこともできるのだ。

だからこそ怒りも哀しみも受容しなければならない。怒る人の思いに寄り添い感情を鎮め、哀しい人に寄り添い宥めることが大切だ。喜びや安楽は、その先にきっとやってくるものだから・・・。

介護事業に携わる人とはそんな存在であることを願ってやまない。介護事業経営者の方々には、従業員がそんな思いを持って介護サービスに従事できる職場を創ってもらいたい。
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