masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

こころ

制度に翻弄されないために



介護保険制度の内容・改正の方向性・介護報酬構造と体型の変化の把握・・・介護事業に携わる者にとって、それはとても重要なことだ。

常に最新情報を取り込んで、その情報を読み込み分析し、表面で現れている変化のみならず、そこに隠されている意味や布石を読み取る能力は、今後の介護事業経営のために重要な要素となる。

介護事業経営者のみならず、管理職レベルまでは、その能力と努力が求められるし、情報感知能力と分析力が、管理職としての評価にもなるだろう。

制度を知るということは、制度に精通することに通ずる。しかしそのことによって制度に取り込まれて、制度の中でしか身動きが取れなくなるようなことがあってはならない。

制度を知るという意味は、制度の中でしか動けなくなるのではなく、制度の瑕疵や矛盾もしっかりと把握して、そのデメリットを受けないように最大限の努力をすることに他ならない。

時には制度に潜む問題をあぶり出して、物申して改善につなげるというソーシャルアクションも必要になるのである。制度に精通するということは、そういう意味や姿勢をも含めてのものである。
子福桜(コブクザクラ)
そこで忘れてはならないことは、私たちの携わる事業とは、対人援助という種類の事業であり、それは社会福祉制度の中で生まれ、存在してきた事業であるということだ。

その本質は介護保険制度が、利用者と事業者との契約によるサービスという仕組みとされた後も、変わらないものである。

そうであるかこそ、私たちは決して揺るがしてはならない姿勢を保たねばならない。

制度や報酬体系がどのようになろうとも、私たちが護るべきは利用者の暮らしなのである。その為の介護実践方法を常に模索していく必要があるのだ。

利用者が今いる場所で、できる限り自立支援の視点を含めた豊かな暮らしを送る日常介護が行われ、そこで安心して、安楽な状態で人生の最終ステージを過ごすことができる介護支援が必要とされているという本質を忘れないことが重要となるのだ。

その目的を果たすべく制度に向き合い、その目的を果たすことができるスキルを持つ人材を育み、そうした人材が力を合わせてその目的を達しようと日々努力するチーム作りをしていくことが私たちの使命である。その目的を達したとき、私たちは自分の職業に誇りを持つことができるであろう。

そうした使命と誇りを胸にして、制度改正など様々な世の中の変化に対応していく、柔軟で思慮深い対応が求められているのである。

そのことを忘れてはならない。






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お国自慢を他県をけなす形でしかできない人間の了見の狭さ


政治家もいろいろな資質の持ち主がいるが、了見が狭く見識に欠ける人間が上に立って、かつ公の場で、その偏った価値観が絶対であるかのような発言をする姿ほど醜い姿はない。

恥を知らないというその姿は、一政治家の恥だけではなく、その政治家を選んだ有権者の恥でもある。・・・そういう意味で秋田県の人々は、今本当に恥ずかしい思いをしているのではないのか。

秋田県の佐竹敬久知事が、23日、秋田市での講演で、全国知事会で訪れた四国地方の料理について「メインディッシュがいいステーキだと思って開けたら、じゃこ天です。貧乏くさい」「酒もうまくない」などと酷評。高知県で水揚げされる魚「どろめ」を「あのうまくないやつ」とも表現した一方で、「秋田ほどうまいものがある所はない」「秋田にはいかにいいものがあるか。さまざまな自然、風、水、美人。男もいい」と語ったという。

お国自慢もここまで行くと顰蹙(ひんしゅく)ものでしかない。

確かに秋田のお米は旨い。日本酒もうなるほどおいしいものがたくさんあり、新政を呑んだら杯を手放せなくなる。きりたんぽは僕的には好みではないが、僕以外の我が家の家族には大人気だ。そのほか比内地鶏や、稲庭うどんなど美味しいものがたくさんある。何より秋田の女性は美人だ。それは否定しようもない事実だ。

しかし愛媛のじゃこ天は、練り物では常にトップランクに位置する美味しいものだし、そのほかにも鯛めしをはじめとした美味しい食べ物はあまた多い。地酒も秋田に劣らず旨い酒がたくさんある。人は男女ともに優しく素敵な人が多いのも事実だ。

四国全体で言えばそれが4倍になるどころか、それ以上に魅力に満ち溢れて、素敵なところを挙げればきりがなくなる。

そもそも地元と他県を比べて優劣をつけようとすること自体がどうかしている。同じ日本の中で、それぞれ優れたものがたくさんあるのが日本のそれぞれの地域であり、甲乙つけがたいのが日本の都道府県である。それはとりもなおさず、日本という国が、景色と美食に恵まれた素晴らしい国であるということだ。

日本が世界に唯一誇ることができない恥ずかし事は、政治家が厚顔無恥であることくらいではないのかと思う。
すすき
僕は普通の人が他県を訪れるより、はるかに数多く日本中を旅している。講演をしていない県も、山梨県と鳥取県の2県以外ないほどだ。

その僕がいつも困るのは、行く土地行く土地に、様々な美味しいものがあって、1度の訪問ではすべて食べきれないということだ。日本には、まずいものしかない地域なんて存在しないのである。

そもそも自慢は、他のものをけなしたうえに成り立つという考え方が貧し過ぎる。他と比べなくても良いものは良いのである。良いものが唯一無二の存在である必要はなく、他にもそれと並ぶほど良いものがあれば、それは即ち日本が良いという意味なんだから、他県をけなすような言動は厳に慎むべきである。

そういえば介護の世界でも似たようなことは常に起こっている。

日本介護支援専門員協会の柴口会長が24日の記者会見で、協会が介護離職を防ぐ人材を養成していることに言及し、協会が養成し、認定しているのは、『ワークサポートケアマネジャー』としたうえで次のような発言をしている。

『協会は産業ケアマネジャーの養成に一切関与していない』・『ワークサポートケアマネジャー産業ケアマネジャーは全く違うもので、我々協会は充実した研修カリキュラムなどで質の高い人材をワークサポートケアマネジャーとして養成している。』

あたかも協会が養成している『ワークサポートケアマネジャー』が本物とでも言うようないい分であるが、まったく独善的過ぎる発言である。

産業ケアマネも厳格な試験で合否決定し、その中で資格を得た人が、『産業ケアマネ』として介護離職を防ぐ活動を全国で展開しているのだ。その活動によって助けられている人が全国にたくさんいる事実を無視した発言としか思えない。

両資格ともヤングケアラーの支援や、介護離職の防止のために存在するのだから、お互い頑張って世の中を良くしましょうとなぜ言えないのか・・・了見が狭いというより、日本介護支援専門員協会の利益ありきで、国民の利益というものが見えていない人の発言としか思えない。そんなトップをいつまでも仰いでいてよいのだろうか・・・・。

そういう意味で、日本介護支援専門員協会会長の発言も見識に欠け、了見が狭い、あまりに手前勝手は主張と思ってしまうのである。・・・というかこの団体自体が、もともと見識なんてない団体であるのかもしれない。






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ごく当たり前の優しさを失わない人でありたい



見ず知らずの人に、声を掛けるという行為は勇気がいる行為だと思う。

しかし道端に倒れている人が居たら、「大丈夫ですか?」と声を掛けるのは決して難しいことではないし、人として当たり前の行為ではないだろうか・・・。

ましてや自分の行動と関係して人が蹲っているとしたら、そこで声もかけずに我関せずと放っておき、その場を離れようとすることは、人として決して許される行為ではないと思う。

だが、人の優しさの欠片も感じ取れない事件が起きている。なんとも情けない世の中である・・・。
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ネット配信ニュースから抜粋した事件概要
9月6日午後3時50分ごろ、東京・池袋駅の脇・東口と西口をつなぐ最短通路となる歩道付近でレンタル電動キックボードを運転していた伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)が、60代の女性と衝突後、救護活動もせずに逃走をはかった。
逮捕された伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)
※画像は伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)
しかしその場で同容疑者は、取り押さえようとした警察官の腕をペットボトルで叩いたとして、公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕されている。その後9月9日、自動車運転死傷処罰法違反と道路交通法違反の疑いで再逮捕された。

事故現場は多くの歩行者が行き交うこともあって自転車通行は禁止の場所であるが、電動キックボードは最高速度を時速6キロ以下の設定に切り替えるなどしていれば、歩道や路側帯での走行も可能となっている。ただし伊藤容疑者が使用していた電動キックボードは最高速度20キロに設定されており、法律上は歩道を走行できない状態だったそうである。

目撃者によると容疑者は、「おばあさんが転倒しても悪びれる様子なく、謝りもせず、まるで『勝手に転んだだけでしょ?』って感じで逃げようとしたみたいです。すごく態度が悪くて警察に対して口答えしてるような口調でした」とされている。
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数多くの人が行き交う歩道上を、時速20キロものスピードが出る電動キックボードで走行するということ自体が非常識の誹りを免れないが、その行動の影響で誰かが倒れたとき、申し訳ありませんの一言も言わないどころか、黙って逃げるという行動がなぜとれるのだろうか。

それは若気の至りでは済まない行動であるし、人として許されない行動であると思う。

容疑者のような女性が、将来産んで育てる子供がいるとしたら、いったい親として何を教えることができるというのか・・・末恐ろしいとさえ思う。

勘違いしてほしくないことは、社会全体が優しさにあふれかえり、人が皆んな親切心を振りまくような世の中が当たり前だと言っているわけではないとうことだ。それは理想であっても現実としてはあり得ない。

世の中が善行に満ち溢れるなんていうフィクションを期待しているわけではないのである。

悪も無関心も存在し続けるのが人間社会である。善行を重ねる人間だとしても、ある場面だけを切り取ったら、別な一面を見せてしまうことがあるかもしれないのが人間である。僕自身もそんな一面を持っていることだろう・・・それは2面性とも揶揄されるが、そうではなく人は間違える生物であるという意味だと僕は思っている。

しかし人として生きることにおいて、最も必要とされる最低限の人間愛は失わないようにしたいと思う。人としてこのように生まれたからには、人として当然持つべき優しさというものはあるのだろうと思うのである。

特別に優しくなくても良い。特別な人でなくても良い。しかし人としてごく当たり前の優しさを持つ人でありたい。そうした人間性は失いたくない。

だから次の画像のフレーズを大切にしている。これからもずっと大切にしていこうとも思う。
明日へつなぐ言葉






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今年の敬老の日はどんな日でしたか?


大学を卒業して以来勤めていた社会福祉法人を退職し、独立開業してからもうすでに8年という歳月が経ちました。

この8年間はフリーランスとして全国各地で講演等の活動をしており、所属法人の勤務時間に縛られるということがないために、比較的自由に時間を使えています。この点がフリーランスの一番のメリットだと思っています。

社福に所属していた当時は、法人の規定の中で働いていましたので、自由にできない時間も少なくありませんでした。その為、講演依頼を受けても都合がつかずにお断りするケースも少なくありませんでした。現在はそのようなことがなくなり、ご依頼をくださる方にご迷惑をかけなくて済むようになっております。

社福所属当時の僕は、相談員や介護支援専門員の経験を経て、最終的には法人の総合施設長となりましたので、シフト勤務の経験はなく、土日祝祭日が休みで1日8時間勤務(拘束9時間)という就業形態でした。

その中で、祝日であるにもかかわらず必ず出勤しなければならない日というものがありました。それが今日=敬老の日です。

敬老の日は 2002年までは9月15日でしたので、その日に出勤。2003年からは9月の第3月曜日が敬老の日とされましたので、必ず3連休の最終日となるその日に出勤していました。

というのも、その法人では敬老の日に合わせて「お祭り」を行っていたからです。

そのお祭りは利用者や家族だけではなく、地域の方々も参加できるイベントでしたので、かなり大掛かりに実施されていました。だから祭りの前後の日も、準備や後片付けなどにも手がかかり、この時期は本当に忙しかった記憶があります。
風の盆
そんなイベントもコロナ禍では休止されている状態が続いていたと思います。しかし今年は3年ぶり、4年ぶりに敬老の日を祝うイベントを行っている介護事業者が多いのではないでしょうか。

ただし新型コロナウイルスは感染分類が変更されただけで、なくなったわけではないので、依然としてクラスター感染が発生している施設も少なくないようです。それに加えてインフルエンザが流行している地域もあるようで、感染予防対策に敏感にならざるを得ない事情があり、イベントはなるべく内輪でひっそりと行うというところも多いでしょう。

それぞれの事情に応じてイベント等は企画・実施されてしかるべきですね。ただしどちらにしても主役は、私たちの目の前に居る利用者の方々です。その方々にとって、日々の暮らしが豊かになるように、そのためのエッセンスとしてイベントが行われるべきであるという本質を忘れないで、できることすべきことを考え続けたいものです。

例えば敬老の日を前面に出して派手な形でお祝いをしても、日常に敬老の精神がないのであれば、それは何の意味もないことです。

イベントを盛大に行って利用者に参加してもらって、わずかな時間だけほんの少し愉しむ時間ができても、それ以外の日常を無表情で空しく日々を過ごしているとしたら、その空間には不幸という言葉しか浮かびません。

非日常のイベントを心から愉しむためには、平穏でなおかつ豊かな日常がなければならないということを忘れてはなりません。

特に介護保険施設や居住系施設の関係者は、ひとり一人が平穏で豊かな日常を創造するコーディネーターであると考えてほしいのです。

今日あるいはこの3連休を利用してイベントを実施している介護事業者の方々は、そこに居る利用者の方々の表情を追うだけではなく、イベントの前後の日の利用者の表情をしっかり見つめる眼を持ってほしいと思います。

誰かのあかい花になるために・・・。






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LOVEとの出会い


僕が講演を行う際に、講演のテーマが何であってもその締めとして自作動画を流すことが多い。

その理由は、日ごろ対人援助の場で頑張っている人々に、その仕事は社会になくてはならない尊い職業であり、本来の使命を果たすことができれば、誰もが誇りを持つことができる職業であることを伝えるためである。・・・と同時に、そうした職業に従事している人たちにエールを送るためでもある。

講演を聴いて納得した・・・よくわかったというだけで終わるのではなく、その締めに見た動画で自身の仕事の誇りを改めて感じていただき、送ったエールに応えようと、その日以降の仕事の活力になってもらえるように願いを込めて作成している動画である。

その動画はどんなものか知りたい方は、「未踏の地・せたな町での講演」という記事の中で、ユーチューブ動画のリンクを貼っているので参照してほしい。

それを見てわかるように、講演を行う地域の様々な名所・名跡などを盛り込んで作成している動画である。

これらの動画のBGMとして使っているのは、AAA(トリプルA)のLOVEという楽曲である。

この曲を動画音楽に使っているのは、詩が僕の心の琴線に触れたからである。

ある日、JALの航空機内で偶然この曲を聴いてビビビッときた。「足早にすれ違う人と人の隙間で、こぼれて消える、見えない涙・小さな勇気」という言葉がまず耳に残った。

僕たちの職業でも、知らず知らずのうちに仕事の忙しさや、人間関係の煩わしさにまぎれ、見逃してしまっている見えない涙失くしてしまっている小さな勇気があるんじゃないかと感じた。

それでは駄目だとも思った。だから僕の動画には次のようなキャンプションをつけたスライドを入れている。
タイトルなし
そして次に耳に残った言葉は、下のスライドの言葉だ。
明日へつなぐ言葉
対人援助の職業に就いている僕らであるからこそ、どんな時も立ち止まりそっと手を差し出せる人になりたい・人でありたいとも感じた。

しかし言うは易く行なうは難しである。

先日も東京・山手線で運よく座席に座れた満員に近い電車内で、ドア付近にうつむくように座り込んでいる若い女性がいた。

僕は単にその人が行儀が悪いだけかと思って、声もかけなかった。しかし中年の女性が、「大丈夫?体調が悪いの?」と声を掛け、すかさず席を譲った姿を見て、初めて蹲っている女性が体調が悪かったことに気が付いた。

何故そんなことに早く気づいてやれなかったのかと後悔すると同時に、仮に僕が最初に座り込んでいた女性の体調の悪さに気が付いたとして、とっさに声を掛けることができただろうかと考えたとき、自信をもってできるとは言えない自分が居た・・・。

見知らぬ女性に声を掛ける勇気がなかなか持てないと思ってしまうのだ・・・しかしそれでは駄目だと改めて思った。そんなことで対人援助の本質を、壇上から偉そうに語ることなどできないと思った。

見えない涙を見逃さず、小さな勇気をもって立ち止まって声を掛け、手を差し伸べる人にならなければならないと心から思う。

LOVEは、そんな思いを常に僕に思い出させてくれる楽曲である。

この楽曲は使用料を支払ってルールに沿ってBGMとして使用しているので、ユーチューブで配信しても削除されないことを申し添えておこう。

なお今回は9/22に行われる、「明石市介護事業所連絡会居宅部会主催・ケアマネ対象研修会」に向けた動画を作成したので、下記に紹介しておく。明石市の介護関係者の皆様は是非ご覧になっていただきたい。







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戦争を知らない子供たちの世代でもできること


昨日8/15は終戦記念日。僕は戦後生まれだから、太平洋戦争当時のこの国の暮らしがどうであったかということは想像の域を超えない。

しかし戦争体験者から、様々なエピソードを聴かされる機会は少なくなかったように思う。

僕が初めて特養の相談員(※当時の職名は生活指導員)として社会福祉法人に就職した当時は、戦争が終わって40年弱という時期であったため、特養の利用者の多くの方は自身の戦争体験を持ち、その記憶を語ってくれた。

トシさんの戦争体験」で紹介した手紙も戦争の語りべと言える人からのメッセージだった。

日常的に自分の命が危険にさらされ、知り合いの命が消えていくのが当たり前のような毎日を過ごした経験を持つ人々・・・愛する誰かが死んでいくことにも慣れてしまうような日々を過ごした方々がその体験を語ってくれた。

それと同時に固く口を閉ざす方も少なくなかった。

認知症(※当時は、痴ほう症と言われていた)ではなく、記憶力も衰えていないにも関わらず、戦時中の話題に及ぶと貝のように口を閉ざしてしまうのである。
太平洋戦争時の国民生活
そういう人たちにとって、戦争とは、軽々しく口にできないような悲惨な体験ではなかったのだろうか。

その心情を想像すると、この平和な時代に生まれ育ってきた僕たちの世代は、なんと幸運な世代であるのかということに気づかされる。

しかし今年はもう戦後78年・・・。特養の利用者も戦後生まれの方が増えている。

戦時中に出生された方だとしても、その当時は幼児期であった方が多くなり、戦争の記憶もほとんどない人が増えている。特養の利用者さえも「戦争を知らない子供たち」の世代に移り変わっているのだ。

そんなふうにしてやがてこの国は、「戦争を知らない子供たち」の世代しか住まない国になっていく。その人たちが、さらに後世に戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えていくことができるのかが問題である。

しかし世界を見渡せば、今も戦争は行われている。思い返せば僕自身が生きてきた時代で、世界のどこにも戦争が行われていなかった時期というのは、ほとんどないように思える。

たまたま今の日本は戦争とは無縁なだけで、いつこの平和が破られても不思議ではないことに思いを馳せる必要があるのではないだろうか。

僕はたまたま社会福祉法人に就職し、対人援助という職業を通じて利用者の命や暮らしと向き合ってきた。

しかしそれも平和な社会であるからできる仕事であったのかもしれない。過去の戦争では、戦地において他者の支援を必要として生きなければならない人の命や暮らしは、簡単に切り捨てられてきたという歴史もあるのだ・・・。

だからこそ自分より若い世代に、僕が戦争体験者から伝えられたエピソードの数々を伝えていく必要があるのだと思う。戦争を体験した人の思いを、その人たちにこの世で相見えることがない若い世代にもつなげていく必要があるのだと思う。

そんなことを思いながら過ごした終戦の日・・・同時にこの平和な時代で、最も安心すべき介護サービスの場が、利用者の身体や心を傷つける場ではないように、ごく当たり前の介護実践を護るべきことを強く誓ったりもした。

明日はそな思いも込めて、「虐待防止」をテーマにした無料オンライン講演を配信するので、(ID):846 1504 9714パスコード):279279を使って、午後2時までにZoomに入っていただきたい。






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時間(とき)の雫


本来ならば、時間(とき)に区切りはない。それは始まりも終わりもなく、永遠と流れ続けていくものである。

この永遠の流れに、人間(ひと)は便宜上の区切りをつけ月日や時刻を刻んでいる。時を刻んで意味を持たせているのである。

それは人間という存在が永遠の存在ではないからであり、生命(いのち)には限りがあるからなのかもしれない。

時間に区切りをつけることで、人間にとって特別な時間を切り取って、思い出とすることができる。もし時間に区切りがなかったら、そうした思い出も全て流れ消え去ってしまうかもしれない。
湖と花
看取り介護も、終末期という時間区分によって可能になる介護であり、人間の生命体としての寿命が尽きようとしている状況を、人生の最終ステージとして生きる時間として意識することで、様々なことが可能になる。

終末期は徐々に口から食物や水分が摂取困難になる時期である。だからと言って頑張って体に栄養や水分を送り込まなくてよい時期だ。終末期を迎えた体は、水分や栄養をもはや必要としなくなる。無理に与えることは負担をかけるだけだからである。

こうした、「しなくてよいこと。してはならないこと」も終末期という時間区分を意識しないと見えてこないものだ。

人との何気ない出会いや触れ合いも、終末期という時間区分においては特別なものとなり得る。

この世で縁を結んだ人々との最後になるかもしれない出会いとふれあいの時間・・・それらを意識して愛情を確認し合う場が看取り介護の場である。

本物の看取り介護を実践しようとするならば、利用者自身の安楽と安心の身体・精神状況を維持することに最も注意が必要だが、その要素の一つに人間愛を交わし合う時間・・・そうしたエピソードを大切にするという意識が必要になる。

僕は看取り介護について、決して特別なケアではなく日常介護の延長線上にあるものであり、日頃の介護の質を高める努力が適切な看取り介護にもつながると言い続けている。

看取り介護の質を高めるという意識ではなく、日常の介護の質をきちんと担保しつつ、限られた命ある人間に対するケアの在り方として、利用者の方々が生きている時間軸を意識し、そこで最もふさわしいケアを提供するのが私たちの務めであると考えている。

だからこそ僕の看取り介護講演は、日常ケアのあり方も含めて求められる実践方法を話している。看取り介護対象者の人生の最終ステージで創り出される様々な愛情のエピソード造りを支援する具体論を話している。

そんな僕の看取り介護実践論を学ぶことで、受講者は介護という職業の使命と誇りを感じてくれている。さらに日常ケアの品質アップのヒントや動機づけを獲得してくれてもいる。

そういう意味で僕の看取り介護講演は、看取り介護の方法論を学ぶために受講するのではなく、利用者本位という言葉を本音にする、求められる介護の在り方を学ぶために受講すると考えてほしい。

介護事業経営者や管理職の皆様にも、そうした理解で従業員の皆様を、僕の看取り介護講演に派遣してほしい。

今週の水曜日(8/2)は、大阪市老連主催の看取りケア研修会を大阪市立社会福祉センターで行う予定になっている。

1年ぶりの大阪での看取り介護講演は、久しぶりに会場で受講者と対面して行う研修会である。そこから学び取った方法論を、それぞれの職場の実践法に取り入れて、利用者の豊かな暮らしを実現してほしいと願う。

大切な時間(とき)の雫を、手のひらでしっかり受け止めて職場に持ち帰ってほしいのである。

本物の看取り介護の実践論を聴きたい方は、是非会場までお越しください。申し込みは締め切られているようであるが、どうしてもと事務局に頼んだら、もしかしたら特別に席を用意してくれるやもしれない・・・。

それでは皆様、大阪市立社会福祉センターで愛ましょう。
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百鬼夜行が蔓延(はびこ)ることがない愛ある介護を


科学・生産性・ICT・DX・・・介護事業経営に求められるものとして盛んに取り上げられるキーワードの数々・・・。それに対して人間愛を持ち出すと、非科学的で生産性に欠けると非難される昨今の風潮がある。

果たして愛を語ることは、介護事業を堕落させることになるのだろうか。

しかし科学的介護とは、そんなに優れたものを生み出すのだろうか・・・介護にも科学をと声高らかに唱えられているが、果たして科学は介護サービスの質を本当に高めることができて、利用者を幸せにできるのだろうか。

原因と結果の因果関係がはっきり見えるものを科学(サイエンス)と呼ぶ。それに対して原因と結果の因果関係が全く見えないものは隠秘学(オカルト)と呼ばれる。

しかし隠秘学(オカルト)は、見えていないだけで非科学的認識ではない。つまり科学と魔術も相反するものではなく、科学は見えているだけで、魔術は見えていないものであるにしか過ぎない。

そりゃあ見えた方が、見えないより幾分かましだろう。しかしその違いは、見えていた方がうまく使い分けることができて便利だという程度の違いでしかない。

繰り返しを恐れずに言うが、科学(サイエンス)隠秘学(オカルト)など、本来その程度の違いしかないものだ。

それなのに隠秘学(オカルト)は介護と無縁の存在だと思っている人がほとんどだ・・・いや無縁どころかそんなものは忌避しなければならないもので、積極的に排除しなければならないと考えている人がほとんどだろう。

しかし科学と隠秘学は、前述したように見えているか・見えていないかの違いでしかないのである。

よって科学的介護魔術的介護と置き換えて表現したって、そこで実行するものは大した違いのないかもしれないのだ。
百鬼夜行
そんな不確実なものに寄り掛かった未来志向でよいのだろうか。そこで生まれるのは科学と称する何でもありの介護だ。まさに暗夜に妖怪が列をなすかのような百鬼夜行の介護が生まれかねない。

そもそも100年以上続いてきた介護実践で見つけられなかったものが、科学的介護情報システム(LIFE)によって、にわかに見つけられるのだろうか。

しかもそれは介護実践をしたことがない人が組み上げたシステムが読み込むデータでしかない。さらにそのデータも全国平均値とデータ提出事業者の数値比較とか、前回までの提出データ値と近直データ値7の比較という極めてアナログな、コンピューターを使わなくても抽出できるものでしかない。

そこで新しい効果的な介護の方法論が生まれると考えるのはあまりにも安易ではないだろうか。

それよりも私たちは介護サービスの様々な場面で、ノウハウを得てきているではないか。

認知症で過去の記憶を失って混乱している人にどう接したらよいのかという方法論は、あの手この手と持っている。同じ方法が他人に通用しなくとも、これがダメならあれはどうだというバリエーションを無数に持っているはずだ。・・・重度の身体障碍の方への対応もしかりであり、介護実務で今すぐ通用する科学は、実は私たちの頭の中には存在しているのだ。

それを言葉にして、文章にできるように努力することが大事だ。私たちが努力して蓄積してきた知識や思考の方法は、介護業界全体の財産として私たち自身の言葉と文章で伝える責務があるということだ。

その方法論とは型(かた)に縛られるものではなく、他人(ひと)に対する人間愛を注ぐ方法論であったりする。目に見えない思いを、『思いやる姿勢』という形で見える化する方法論でもあったりするのだ。

そのような方法論を堂々と伝えてほしい。

愛情という言葉を照れずに使い、愛を注ぎ人の暮らしを豊かにする方法論を伝えてほしいと心から思う。

LIFEを利用して国と企業が作り出す科学的介護よりも、それはずっと利用者が幸せになることができる方法論ではないのかと思う。
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甘えも許し、心は鬼にしない介護


対人援助サービスという職業で生活の糧を得ている僕らは、そこで出会う利用者の方々にとって誰よりも頼りにできる存在でなければならない。

金銭対価を得ている以上、プロフェッショナルとして利用者の役に立っているという結果が求められるのである。

しかしそのことを、運動選手のトレーナー役のように勘違いして、利用者の身体能力を引き上げることが支援者の役割だと勘違いしている人がいる。

心を鬼にして利用者の尻を叩き、自己責任という御旗を振ることが結果責任につながると勘違いしている人がいる。

介護支援とはもっと優しいものであるはずだ。時には人に甘えたいという感情も受容するものでなければならない。
すずらん
しかも後期高齢者の方々が多い要介護者は、自分が昨日まで維持してきた機能が失われていくことについて、ある種の恐怖の感情をもって不安に感じている人さえいる。

その人たちにとって私たち支援者が、単に自立することが大事だと訴える人であったり、機能を失わないように頑張れと言い続けるだけの人間になってはならない。年をとれば失う機能もある代わりに、その機能を補う知恵を伝えるために私たちがいるということを伝え続ける役割も大切になるのだ。

失う機能があることは、ある意味当然だと伝え、寄り添う役割もあるという意味である。

そもそも自立支援は介護支援の目的の一つに過ぎない。

生活の質(QOL)の向上や福祉の向上など、目的はもっと多彩だし、自立支援にしても無理強いするばかりが、そのことではないことを「利用者に頑張らせない自立支援マネジメント」でも指摘したが、利用者に直接的な介護を提供する介護職員は、誰よりもそうした勘違いをしないように注意しなければならない。

最も大事なのは、僕たちが利用者に関わることによって、「あなたに出会えてよかったわ」と利用者が思ってくれることだ。そして利用者自身が、「あなたに出会う前よりずっと暮らしが豊かになったわ」と感じ取れることだ。

そうした感情とは、利用者自身がどう感じるかという心の問題が占める割合が大きくなるのだから、利用者が嫌だと思う感情を無視して、法律の理念や法令ルールを押し付けてどうなる問題でもない。

心から利用者のことを大切に思い、その暮らしを少しでも良くしよう・豊かにしようと心掛ける先にしか、そうした結果は生まれないのである。

専門知識や援助技術は大切である。それなしでは結果を引き出し支援行為にはつながらない。しかしそれだけでも結果が引き出せないのが対人援助の難しさである。

ひとり一人、感情がことなるのが人間である。生活歴も違い、今置かれた生活環境も違う人たちが、まったく違った価値観を持つのは極めて当然である。

私たちの価値観をそれらの人に押し付けるだけでは、誰も幸せになれないのである。

だからこそ・・・私たち対人援助のプロは、心を鬼にして利用者を叱咤激励する人であってはならない。徹底的に利用者本位を貫き、それぞれの個性を大切にして、良い感情を引き出す努力を続けなければならない。

鬼コーチや鬼軍曹のような考え方は、介護を知らない官僚や学者に任せておけばよいのだ。

私たちがしなければならないことは、そうした机上の空論を展開する場の理屈を、介護実践の場に持ち込まないようにして、本物の介護実践を貫いて、徹底的に利用者の暮らしを護ることである。

それ以外のことは二の次、三の次でよいのである。
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人を手助けする動機づけなんて何でもよい


介護の仕事をしていると、時折第3者からいわれのない中傷を受けることがある。

自分は利用者に対して施しという意識を持って、支援行為をしているわけではないにもかかわらず、周囲の第3者から「あなたたちの親切は、結局のところ障がい者や高齢者を憐れんで、自分の善行にうっとりしているだけではないか」と言われたりする。

そう思われるほど、自分は利用者に対して上から目線で対応していたのだろうか・・・そんなふうに自己嫌悪に陥ることがあるかもしれない。

純粋に利用者を手助けしたいという気持ちで、対人援助という職業に携わっているのにもかかわらず、中傷的批判を受けるのは何故なんだろうと考えこむ人も少なくはないだろう。

しかしそんなことに思い悩んでいる暇はない。

自分自身の行動や業務姿勢に恥ずべき問題がないと確信できるなら、中傷も批判も気にする必要はないと思う。

人の感情は様々なのだから、第3者がどう思おうと勝手だと割り切る方が良い。介護支援に関わっていない第3者からそんな中傷を受ける理由は、結局のところ妬みでしかないと思った方が良いのである。
人を手助けする動機づけなんて何でもよい
だが手を差し伸べた相手から、直接批判を受けたらどう考えるべきなのだろうか。

例えば困っている人を見て手を差し伸べた相手から、余計なお世話と罵られて、『結局は自分がいい気持ちになりたいだけじゃないのか?』と批判されたりすることがあるかもしれない。

確かに私たちは、誰かに支援の手を差し伸べて助けるときに、いい気持になっているかもしれない。でも、対人援助に携わっていい気持ちになったらいけないのだろうか?なぜそんな心の問題まで指摘されなければならないのか?

私たちが自分の行為に酔ったり、良い気持ちになったとしても、それで助かる人がいればよいのではないだろうか。・・・そんなふうに思う。

介護サービス利用者の方の中には、「自分は、あんたらの自己満足に利用されたくはない」という人がいるかもしれない。

私たちの支援活動に自己満足の一面があったとしても、そんな否定的なことばかりいっていてもしょうがない。それを言ってしまえば人助けという行為は成り立たなくなる。

世の中には、心身に障害をもって日常生活の不便を生じ困っている人がたくさんいる。私たちはそういう人を助けたい。それだけである。

確かに同情されるのは嫌だろうし、頭を下げるのは不愉快だろう。

でも現実に助けが必要なのだから、それは素直に認めてほしい。『憐みの気持ちを持つな』と言われても、気持ちは私たちの努力でどうなるものでもなく、自然と湧きあがってくるものなのだから、それを言われるのはないものねだりだ。

だが、そんなふうな否定的感情を介護サービス利用者の方々が持つことは理解できないわけではない。

それだけ、「人の世話になる」ということは、心の重みになるのだろう。心苦しく思うからこそ自分の矜持を保つために、「自分の本心は、人の世話になんかなりたくないのだ」という思いをアピールするのではないか・・・同情や憐憫はいらないと訴える人の心の中には、複雑な思いが渦巻いているのだろうと想像する。

そうしたネガティブな感情も受け入れる必要があるのだろう。

バイスティックの7原則の一つに『受容の原則』があるが、それは利用者の思いを想像して察するという意味ではない。ひとり一人感情が異なる利用者の本当の気持ちなんてすべて察することができると思う方がどうかしているからだ。

察しようとして、わかろうとして、理解的態度に徹するのが受容の本当の意味なのだ。そこではわかったと思いこまないことも必要とされる。

だから利用者が訴えるネガティブな思いに耳を澄ますことは必要だ。そういう思いを受け止めつつも、それでもなおかつ必要な支援に結びつけようとするのが私たちの職業だろう。

だから・・・自分以外の誰かの豊かな暮らしを実現するために、遠慮なく手を差し伸べようと思う。

偽善だろうと中傷を受けようとも、自己満足だろうと批判されようとも、誰かの手を借りなければならない人がいるときに、私たちがその人たちに手を差し伸べることができるのであれば、その行為を行うことを遠慮したり、躊躇ったりする必要は全くないのである。

そもそも人の手助けをするという行為そのものが尊いのであって、そのための動機づけなんて何でもよいのである。

介護支援に携わる動機付けが自己満足であってもたとしても、誰も満足しない放置よりはよっほどましである。
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5月病への備えが必要な時期です


先週金曜日(4/22)、室蘭気象台が観測史上最速の桜の開花宣言を出した。

僕の自宅は登別市であるが、数分歩けば室蘭という場所にあるため、自宅近くのエゾヤマザクラも咲いているのかと思って観てみると、案の定開花していた。

週末から今朝にかけて天気も良いため、周囲の桜の期も次々と花を開かせている。僕は現在の家に住んで30年以上になるが、GW前に自宅近くの桜が咲いた記憶はない。それだけ気温が温かいということだろう。

開花した桜はまだ三分咲きという程度なので、GWがちょうど見ごろになるのではないか・・・登別温泉につながる道道は、通称桜のトンネルとも呼ばれているので、観光に来られた方は目の保養ができるのではないか。
エゾヤマザクラ
そんなGWが今週末から始まるが、この時期は介護事業者にとって4月に入職した新入職員に最も気を使わなければならない時期である。

不安を抱えながらも、新しいステージで飛び立つ希望を胸にしていた人たちが、現実とのギャップに悩み始める時期でもあるからだ。・・・指導する先輩職員は、自分自身が新入職員の希望をつぶす元凶になっていないかを振り返らなければならない。

理想と現実は違うなんて、声高に叫んで新人教育を行っている職員がいるが、そんなセリフを口にする前に、自分の現実がいかに貧しいものであるのかを自覚してほしいと言いたくなることもしばしばある。

誰かの心に咲く花のような存在になろうとしている新人に嫉妬を覚えて、その姿勢をつぶすような言動に走る人の心はなんと醜い心であることか・・・そんな姿を自分の家族に見せられるだろうか。

新人職員の抱く理想と、職場の現実が異なるとしたら、その理想に少しでも近づけるように何をすればよいのかを、新人と共に考える指導者であってほしい。どうか若い芽を摘まないでほしい。

またこの時期は、緊張しながら仕事を教えてもらい、一つ一つの作業を覚えているだけの毎日から、少しだけ余裕をもって周囲を見渡すことができるようになってくる。そうであるがゆえに悩みを多く抱える時期でもある。

その悩みを聞いてあげるだけで、不安が解消したり、勇気が湧いたりする新人も少なくない。しかし実際には、その悩みを誰にも打ち明けられず、相談する人がいないとつぶれていく人が多いのだ。

この時に考えなければならないことは、「何かあったら相談してね」はダメだということだ。何かあっても相談できずにバーンアウトする人が多いのだから、相談の時間や機会は、何もなくとも積極的に事業者側や先輩職員が作り出してあげるものであると考えてほしい。

世間がGWに浮かれている時期に、自分はシフト勤務で連休も取れないことに不満や不平を抱える人も居るかもしれない。

介護の仕事はそんなことを言ってられないと放り出すのではなく、そうした不満や不平を抱く背景に、ほかの要因(※例えば仕事を十分に覚えられない・いつもより少ない人員で過重負担が新人にかけられている等)はないのかということも探りながら、本当に困っていることは何かを探る努力を惜しまない組織にしていくことが大事だ。

僕が社福の総合施設長を務めていた時期は、新たに入職した職員については、年齢や経験にかかわらず最低1年間は、「個別面談」を月1回行い悩みや相談事がないかを確認していた。そういう機会を就業時間中にきちんと創って、きめ細かく対応することが大事だ。

人材は、将来人財となる可能性を秘めた人ではあるが、だれしも挫折なしに育っていくとは限らない。一回の挫折でくじけてしまあないように、人材を人財に変えるためのシステムは、多重にきめ細かく構築していくことが大事である。

この時期だからこそ、5月病の芽を摘むシステムが職場に存在するかという振り返りをしていただきたいと思う。
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受容のまなざし


世の中には様々な個性を持つ人々が存在する。その中には私たちの感性では理解できない人が数多く含まれている。

しかし自分の感性が一般的だとも言い切れない。もしかしたら自分の感性が、一般的な人のそれとはかけ離れていることもあり得るのだ。

少なくとも自分だけが、この世の唯一の常識をもって生きていると考えてはならないのだろう。それはあまりに傲慢不遜な考え方である。

だからこそ何事も、自分を基準にして考えてはならないと心したい。

対人援助という仕事をしていると特にそう思う。

ひとり一人個性の違う人間に相対する職業を選んだのは自分自身だ。そういう職業を選んだという自己責任において、自分ではない誰かの個性や感性をも大切に思う姿勢や、個性を尊重するという考え方を己に課すべきだと思う。

そうすれば自分から見ておかしいと思う他者の行動、納得できない他人の考え方にも、その人なりの事情なり、理由なりがあることに考えが及ぶのではないかと思う。

対人援助には、「受容」の態度が大切だと言われるが、他人を受容するという意味は、他人を理解すること・把握すること・認識することである。そのように他者の価値観を認めることによって援助に結びつく信頼される関係を築くことができるのだろう。

そのようにして初めて対人援助が成り立つのである。

仮に他人の考え方が受け入れ難かったり、自分にとって不愉快な態度や振る舞いがあるとしても、それを他者の「一部分である」として捉え、そうした言動に至る理由に思いを馳せるのが対人援助の専門家に求められる姿勢と言えよう。
それぞれの眼差し
つまり受容とは許容ではないということだ。

あなたのその態度は違うと思うけれど、そうした態度を取らざるを得ないあなたの気持ちを理解しなければ、あなたの課題や問題解決につながらないことを考えて、その態度の意味を深く考えて理解します。・・・それが対人援助のプロとして求められる姿勢だろう。

そしてそれは、「わかる」ことではなく「わかったつもりになる」ことでもない。「わかろうとする」という私たち対人援助としてのプロの姿勢であり、その姿勢を貫く過程そのものでを受容的態度と呼ぶのだろうと思う。

対人援助の場では、予測のつかないいろいろなことが起こる。温厚で尊敬できる人に思えた人が、ある出来事をきっかけにして、我がままで横暴な言動に終始するようになるかもしれない・・・。

自らの死期を静謐(せいひつ)に受け入れた人が、看取り介護の最中に急に死に怯え、恐怖にもだえ苦しむかもしれない・・・。

そこで何が起きたのか、こころの中にどのような嵐が吹きすさんだのだろうか・・・そのことを想像し、理解しようとする人が傍らにいるのか・いないかの違いによって、人の心に安寧が生まれるか、混沌として乱れるかの違いに結びつくのかもしれない。

対人援助のプロである私たちの受容の態度、それに向けた眼差しが、それを左右するのだとしたら、その責任は重大である。

私たちが選んだ対人援助という職業は、他人を裁く仕事ではなく護る仕事だ。そういう職業を私たちは、「生き様」として選んだのだと思ってほしい。
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本物の介護技術とは何を指すのか・・・。


介護は最終的には技術です。そのことに異論はありません。

いくら心を込めても技術が伴わなくては、利用者にとって良い状態は生まれないからです。

心は込めたけれど、やり方が拙くて苦しい思い・恥かしい思い・嫌な思いをさせたけど許してね・・・そんな介護支援はあり得ないし、プロの姿勢ではないのです。

しかし同時にいくら技術があっても、利用者感情を無視して機械的に決められた正しい技術を展開したとしても、利用者の表情は硬く、あるいは乏しいもので終わることも多いのです。

それはなぜでしょう・・・。

それは人は物質的満足を唯一の目的として生きるものではないからです。他者から愛されたり、認められたりする精神的満足も生きるためには必要なのです。

心を込めるという意味は、介護支援という行為を行う対象者に、「精神的満足感」を与えることなのです。

勘違いしてはいけないことは、その満足は私たちの満足ではなく、利用者の方々の満足なのです。介護支援の対象者が、「嫌だ」と言うとすれば、それはいなな行為にほかならず、「そんなことはありません」という言葉は、私たちの満足感の押しつけに過ぎなくなります。それでは困るのです。

だから私たちは、介護を必要としている人たちが、私たちのどのような行為や、私たちが介入したことによる、どのような結果に満足してくださるのかを、常に意識して関わる必要があります。

生きるために、何らかの支援を必要とする人たちの居場所が、冷たい風が吹きすさむ場所でしかなかったら「生きがい」なんてなくなります。

その方々を心にかけて、手を差し伸べるべき対人援助のプロとは、誰よりも温かい手の温もりを届ける人でなければならないはずです。技術があっても冷たい態度で、その技術を提供するだけの人には、利用者は決して心を開きません。

それが介護労働=感情労働といわれる側面の1要素でもあります。
心を癒す介護
だからこそ私たちには人間を愛するという心・・・そうした感情を介護支援を必要とする人に伝える力も、求められる介護技術の一つだといえるのではないでしょうか。

何の愛情も伝えられない介護は、空しいだけの動作援助に終わってしまうでしょう。そのような冷たい技術は、大事なものが欠けた技術と言えるのではないでしょうか。

本物の介護技術とは、目に見えない心=思いやりとか、あなたのことを思っているのよと言う人間愛を伝える技術をも含んだものではないかと思います。

介護を受けて暮らす必要なる人に、言葉ではなく態度で安心感を与えられるのが本物の介護技術です。

介護を受けて暮らす人を大切に思う誰かに、「あなたの大切な人を、どうぞ私に任せてください」と言葉で示すだけではなく、そのことを介護を行う姿勢で示すことができることが真の技術です。

どうか、そうした本物の介護技術を追求する人になってください。どうぞ、そうやって介護を受ける人と、その人を愛する誰かの心を豊かにしてください。

私たちが求める、介護はそういうものであるべきではないかと思います。

そのように心から思うのです・・・。だから僕は、誰かのあかい花になるための実践論を探し続けるのです。
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まごころ


これからの時代は介護事業においても、データとデジタル技術を活用した業務フローの改善や新たなビジネスモデルの確立が必要とされる時代であると言われている。

そのため、「介護保険制度の見直しに関する意見」でも、介護事業介護DX(デジタルトランスフォーメーション)の推進が主要なテーマとして掲げられている。(4頁

さらに生産性の向上が求められていることから科学的介護が必要とされ、その実現が図られる今日・・・。愛情とかという言葉で、「介護実践」を語ろうとする人間は、古ぼけた化石のような存在だと批判を受けるのだろう。

しかし時代がどう変わろうとも、科学技術がどう進化しようとも、人と向かい合う職業や行為には、「真心(まごころ)」が一番大事になるのだと思う。

僕はそれを信じて疑わない。

真心(まごころ)とは、偽りや飾りのない心を意味する。誠意と言い換えることもできる。

知識や技術はどう努力しても、必要なレベルに追いつかない時がある。介護福祉士養成校卒業生に、就業と同時に10年経験がある人と同じ知識と技術を求めても無理がある。

最先端機器を使うことで、より高いレベルでの結果が出せると言われても、そうした機器や道具がどうしても揃わず、アナログ対応しかできない条件下で、介護サービスを提供しなければならないことも多々ある。

しかし真心をもって利用者に接するということは、経験がない人間にもできることであるし、最先端機器が使えない場所でも変わりなく可能となることである。

そして真心は時として、知識や技術を補って余りある、「生の感情」を利用者に与えることがある。

勿論、いつまでも知識や技術が拙く、真心だけで対応して良しとするものではない。真心に追いつき、追い越す知識や技術を獲得する努力はし続けねばならない。そこに真心が加われば鬼に金棒ではないのか・・・。

しかし真心とは、マニュアルを作成して与えられるものではない。教育して持つこともできない。なぜなら真心も人の感情の一つであり、その人の心の中に生まれるものだからである。

介護事業における、利用者に対して真心をもって接するという思いは、人は能力や置かれた状況に関係なく、「ただ人として存在していることに価値がある」という「人間尊重の価値前提」がしっかりと教育されているという基盤のもと、人として人を愛おしく思うという人間愛から生まれるものだと思う。

そこに介護のプロとしての誇りや、介護という職業の使命感を抱くことが加わって、真心をもって利用者に接するという行為が、自然と身について行くのだろうと思っている。

そうした思いを伝える旅を今年も続けていくつもりだ。
masa
ただし思いだけを伝えても形にならないと思っていることも事実で、僕の講演はあくまで実践論である。

僕の講演を受講した後にすぐに実践できる介護実務のノウハウを伝えるとともに、その実践を続けておれば、知らず知らずのうちに思いが形になるエッセンスを込めている。

自分の真心を言葉や文章に表すことができる・・・そんな実践論を語ろうと心掛けている。
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時を超えて


新年、明けましておめでとうございます。

今年も無事に元旦の朝を迎えることができ、こうしてブログ記事を更新できることに感謝しています。

そして元旦という特別な日に、わざわざ僕のブログに来訪し、僕の乱暴につづった文章を読んでくださる方々にも感謝いたします。いつもありがとうございます。
2023年富士山の初日の出
※画像は、富士山ライブカメラより拝借した、2023年初日の出を浴びる富士山
読者の皆様にとってこの2023年という年が、素晴らしく良い年になりますことを祈っております。

僕自身も、今年も健康に恵まれ、全国各地で講演の旅ができ、おいしいお酒を楽しい仲間と飲むことができるように願わずにおれません。どうかそんな1年でありますように・・・。

さて元旦ですので、改めてこのブログのコンセプトについてお知らせしておきます。

以前から何度も書いていますが、このブログは非常に自分勝手な個人スペースです。そのため読者の気持ちを一切顧みず、読み手の希望も一切考慮に入れず、ただただ書き手である自分自身のために心の叫びを文字にして書き殴っております。

自らの心の叫びを、誰にも忖度することなくぶつける場所がこのブログなのです。

そうであるがゆえに、このブログを通じて社会を啓蒙しようという気持ちは一切ございません。誰かを教育したり、何かを変えようとする気持ちもありません。僕の正直な心の叫びを投げつけるだけの場所です。

それに対して共感・共鳴してくださる人が居ることは嬉しい限りですが、それを目的としているわけでもないことをご理解ください。

ここに書いていることが間違ってるとか、そんなことを書くべきではないと批判する人については一切無視します。僕のブログ記事を読んで不快になる人は、わざわざここにつないでくるなと思うだけです。

そのコンセプトは今年も変わりませんので、時には特定の人にとっては不快と感ずるような乱暴な文章を綴って終わりということもあるでしょう。

自分の心にたまった滓(おり)を焼き尽くすためには、それも必要になるのですから、それを許せない人は最初からここに来ないでください。その炎に燃やされてしまうような心の持ち主は、ここにつなげない方が良いと思います。

どうぞそのことをご理解ください。何度も書きますが、理解できない人はわざわざここにつなげないでください。

一言居士のごとく、人を嗜めようとする人は、ここには一番ふさわしくない人です。どうぞそのことをご理解いただきますようお願い申し上げます。

話は変わりますが新年早々に皆さんにお報せしたいことがあります。

それは昨日の大晦日の午後、ユーチューブで僕のインタビュー動画が配信されたということについてです。

配信元は、僕の管理する表の掲示板にバナー広告を掲載されている、「弁護士 外岡 潤が教える介護トラブル解決チャンネル」です。

ここに昨日15時、「菊地雅洋様にインタビュー!その1」がアップされました。

このインタビューは、昨年11/20にJR東室蘭駅近くのレンタルスタジオで録画されたものです。外岡弁護士が、わざわざ東京からこのインタビューのためだけに来道されました。人材育成・科学的介護・サービスマナー・地域包括ケアシステム・介護業界全体に求められる情報発信力等を多角的に論じています。

このうち第1回目は、『どうすれば人が辞めない?新人職員の指導法「叱る」+「〇〇」が超重要』となっています。

今後インタビューの続きを何回かに分けて随時アップされるそうなので、是非ご覧いただければありがたいです。よろしくお願いいたします。
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偽善であっても良いのじゃないのか


対人援助という職業に関わる人間が、すべて高潔な人格の持ち主とは限らない。

良い面もある反面で、悪い面を持っている人も介護の仕事をしている。

しかしそれをことさら問題視する必要はないと思う。むしろそれは当然であるとも言える。人には誰しも多面性というものがあり、一つの傾向だけを貫いて生きている人は、そう多くはないのだろうと思うからだ。

そもそも多面性を持っていることを自覚していない人も多いし、自分が良かれと思っている一面も、他人から見れば汚いとか、おかしいとか思われることもあるのだ。

神ならざる人間は、清く正しいことだけを貫いて生きていくなんてことができるわけがなく、いろいろな一面を持ちながら、時には間違った方向に向かったり、迷いながら進んだりしなければならないのである。

そもそも清廉潔白で、高潔な心根の持ち主だけが介護者にふさわしいなんてことにはならない。

冷酷非道な人間で、人を傷つけることに何のためらいもない人間が介護という職業に携わって、関わる人々の心を殺してしまうのでは困るが、そのような冷酷な心根の持ち主ではない限り、対人援助の仕事に関わって悪いわけではない。

ごく普通の人が携わることができる職業が介護である。
ほっこり
感情ある人間だから、時には喜怒哀楽の心に揺れながら、対人援助という仕事に関わっていくことも当然である。

ただしどのような職業であっても、自分の生まれながらの性格むき出しで仕事をこなしながら、その責務を果たすことができるなんてことにはならない。

その職業に求められる結果責任を全うするためには、その職業に見合ったスキルを身に着け、経験を重ねて熟練の域に達する努力が求められるのだ。職業人=その道のプロフェッショナルであるという使命感をきちんと持って、自らを成長させる努力を怠ってはならない。

だからこそ自分の感情がどのように揺れやすく、その心の動きが対人援助という仕事の場面でどのような影響を与えるのかを自覚し、できるだけそうした影響がでないように自らをコントロールするための自己覚知は重要になる。(参照:価値観が変化する自分を覚知するために

そのように自分を厳しく戒めて、利用者に真摯に関わろうとする態度は常に忘れてはならないと思う。

しかし時として利用者に接している自分の姿を、「偽善だ」と評されることもある。

自分が対人援助の場で、利用者に相対している際に行っている行為やその際の態度を、本心からではないうわべだけの善行であると評されるのは心外ではある・・・。しかし悪行に走るよりそれははるかにましだろうと思う。

仮にそこで行われていることが偽善であったとしても、その行為によって感謝の気持ちを持つ人が一人でも世の中に増えれば、それは善行以外の何ものでもないと思う。

むしろ偽善者と批判する人は、偽善ほどの人に感謝される行為をほかに行っているのかと問いたい。

世に偽善が増えて、それによって暮らしが豊かになる人が増えるのであれば、それは否定される行為ではないと思うし、そもそも偽善と真の善行の境目なんてあって無いようなものだろう。

むしろ介護という職業に携わっている人々は、偽善であっても善を重ねる行為に終始してほしいと思う。

聖人君子によって成り立つ職業が介護ではなく、ごく普通に生きている平凡な市民が、当たり前の感覚を失わずに、他者の暮らしに寄り添うことが、介護という仕事の本質である。

人を幸せにする前に、自分が関わることで、決してそれ以前よりその人が不幸にならないようにすることが、私たちが心せねばならないことではないだろうか・・・。
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陽だまり


人が生きるためには、その人にとって柔らかな日差しと温もりがある場所が、どこかに存在している必要がある。

暗闇をさまよい迷っているときも、寒さにこごえ震えているときも、そこに行きさえすれば陽だまりができていて、不安も恐怖も悲しみも慟哭も消し去ることができる。

人間が長い人生を歩んでいるときに、そんな場所を欲するときがある。そんな居場所が必要になるときがあるのだ。

大学生時代、社会福祉学を専攻していた関係で、様々な困難を抱えて暮らしを送る人と出会った僕は、そんな人達もホッとできる場所がどこかにできないかと思った。

せめて社会福祉援助の場をそんな場所にしたいと思って、介護施設を経営する社会福祉法人に勤める道に進んだ。

それは僕の中では理想ではなく、かといって実現可能なゴールでもなく、単なる「思い」でしかなかった。だが、その思いと反するものとは徹底的に戦ってきた。その思いを邪魔するものとは争うことを厭わなかった。

そのために若い頃の僕は、ずいぶんとんがった嫌な奴と多くの先輩方から思われていたろうと思うし。しかも年を取った今現在も、相変わらず戦い続けているので、アンチmasaがたくさんいることを知っている。

でもそんなことはどうでもよいことだ。

思いが実現するかどうかはともかく、実現できない前に妥協してしまうことが一番駄目なことだと思っている。思いを現実に近づける途中で前のめりに倒れることはあるかもしれないが、機会と方法がある限り、消えない思いを追いかけようと思う。

そのために今も信じた道を進んでいる。その思いに共感してくださる人たちとつながりあって、答えを探し続けている。
陽だまり
私たちは、自分自身が光輝く太陽になる必要はない。私たちの役割とは、何かが発した光や誰かの温もりを、利用者に届けるために工夫をすることだ。

光の届かない場所に光を届ける工夫、光の届かない場所に居る人を光の届く場所に連れていく工夫、光のある場所の温もりをできるだけ護る工夫・・・。それができる人が本物の社会福祉援助者だと思う。

介護保険制度にしても、その他の社会福祉制度にしても、所詮は人間が作り出したルールに過ぎない。そんなものがすべての人の救いになるわけがない。

だがその制度を運用する人々が知恵を働かせて、制度の光の部分をできるだけ周囲の人々に届けることはできるはずだ。対人援助のプロとして、私たちはそうした立場で制度を運用する役割を与えられているのだと思う。

この国には、介護サービスを利用する必要があるものの、実際にサービス利用したとたんに、心身の障害を持つというだけで、年端のいかない人生の後輩である若い介護職員にため口対応されて悔しがる介護サービス利用者が存在する。

よそよそしくならないようにという屁理屈で、無礼ななれなれしい言葉遣いを直さない介護職員によって、心を殺される要介護高齢者がなくならない。

そんな偏見やバリアを、一つ一つ壊していくのが僕の役割だと思う。

そのためには特定の介護事業所の民度の低さ・特定の介護職員の知性の低さを遠慮せずに指摘しなければならない時がある。それも厭わずに続けていこう。そのことで誰かに忌み嫌わたとしても本望だ。

今週も北海道の障碍者支援施設を舞台にした虐待が明らかになった。今朝、僕は自分のフェイスブックに下記のように書き込んだ。
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オホーツク管内西興部村の障害者支援施設「清流の里」での虐待が明らかになっています。男性職員6人が男性入所者13人に対し、全裸で長時間放置するほか、器から盆にこぼれた食事を食べさせたり、病気により身体を動かしづらくなっているのに無理やり動かしたりするなどの行為です。

なぜここまで人は人を傷つけることができるのでしょうか?自ら職業として選んだ職場で、他人に誇ることができない仕事を続けて、楽しいことがあるんでしょうか?

障害者支援施設では、職員が暮らしの伴奏者ではなく、生活指導の教官と勘違いしている人も居ます。障害を持つ方にとって、施設は暮らしの場=逃げ場のない場所です。もっとそのことを重く考えて、利用者対応の在り方を根本から考え直すべきです。
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こんなことをつぶやかなくてよい社会にならないものだろうか・・・。悪や不正、暴力や非正義をすべて排除する社会は非現実的なのだろう。しかし僕たちの目の前から、少しでもそのようなものがなくなるように、できることをコツコツと続けていくしかないと思う。

傷ついた誰かがその心を癒し、ホッとできる陽だまりをなくさないようにすること・・・その方法を探し続けること・・・それが唯一僕たちができることだ。

そんな知恵と力しか持たない僕ではあるが、その意思を曲げずにその思いを広げるために、志を同じくする仲間とつながり愛たい。
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こもれび


病院という場所は、病を治すために行く場所だ。・・・だが、時としてその場所がそのまま死に場所になることもある。

患者にとって、それは人生の最期に過ごす場所が病院であったという意味にもなる。

しかしその場所が、死を目前にした患者やその家族にとって必ずしも温かい場所ではない場合がある。

その場所が患者にとって冷たければ冷たいほど、その患者の人生の豊かさが削り取られ、貧しい生き方に変えられていくのではないかと思う時がある。

患者は医療機関の中で病気を治すために様々なルールや制限を強いられ、治療のために医師や看護師の指示を護らねばならない。・・・それはやむを得ないことではあるが、その時に医師や看護師に、患者を思いやる姿勢が見られないとき、医師や看護師の指示の言葉は、そのまま患者の心をえぐる刃(やいば)になる。

病をいやす願いを込めて、そうした冷酷な言葉に耐えた先に、「」があるとすればなんと残酷なことだろう。

そんな実態があるからこそ、「あんな場所で、○○を死なせる結果になって悔しくて、哀しくて・・・。」・「なんで死を目前にした患者に、あんな冷たい態度をとるんだろうね」と嘆く遺族が存在する。

そんなつもりはないという言い訳は、ここでは一切通用しない。

そういう思いを抱かせてしまったという、その結果を受け止める必要があり、そういう結果をもたらした自らの態度を振り返って考える必要があるのではないだろうか。
メルヘンの丘
私たちが働く介護の場も、同じ状況を生み出す危険性がある場所だ。

他者への配慮、利用者へのいたわり、すべての人に対する慈しみの気持ち・・・それらが欠けたとき、私たちは知らず知らずのうちに人の心を殺す存在になってしまう。

だからこそ関係者には、「言葉に気をつけなさい」・「態度に気を付けなさい」と繰り返し警鐘を鳴らしている。

それは介護サービス利用者の心を、そんなつもりもなく殺してしまわないための警鐘だ。

自ら欲しない状況で、他者を深く傷つけてしまうという罪を犯さないための戒めである。

人の心はそれほど強いものではない。泰然自若としているように見える人でも、誰しもどこかに弱さを持っている。そうした人間であるからこそ、体と心が弱った状態のときは、いつも以上に心を配って温かい言葉を掛けなければならないと思う。

そもそも高齢者を子ども扱いするのが、親近感の表現と勘違いしている人が多すぎるのではないだろうか。

高齢者とか要介護者とかいう烙印を外して、一人の人間として個別化してほしい。尊厳を持つ一個の人間として見つめてほしいと思う。

介護サービスの割れ窓理論とか、サービスマナーとかを訴えると、言葉遣いにうるさすぎるという人がいるが、言葉遣いに気を遣わな過ぎて、利用者に向ける態度に緩すぎるのが医療と介護の実態である。

そのことがいかに多くの患者・利用者・その周囲の人々の心を傷つけ、場合によっては心を殺し、尊厳を奪ってきたのかという事実を見つめてほしい。

せめて自分自身は、他者に向かって刃となる言葉を投げつけるような支援者にはならないと考えてほしい。

それが対人援助という場で暮らしの糧を得ている者の、せめてもの責任ではないだろうか。
言霊
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人と相対する職業という意味を考える日々


対人援助という職業は、自分以外の誰かの人生に深く関わる職業だ。

そんなことは今更言うまでもないといわずに、そのことをもう少しだけ深く考えてほしい。

この職業を通じて関りを持つ利用者の方々とは、もし自分がこの仕事を選んでいなかったならば出会うこともなかった人たちなのである。

つまり対人援助という仕事に携わらなかったとしたら、自分の人生の中で決して交差することのない人が、自分を頼って支援の手を待っているのである。

自分は自らの意思でこの職業を選んだ。それは他の職業に就いたなら関りを持つことのなかった人々の人生に、自らの意思で深く関与しているという意味だ。

それは縁と呼ぶべきなのか、宿命と呼ぶべきなのか・・・。どちらにしても、自らの意思で対人援助という仕事を選んだ以上は、そこで出会った人々の人生に深く関与する責任を果たさねばならない。

人から与えられたのではなく、自ら選んだ道が、自分以外の誰かの人生に関わるという職業だ。そう言う職業を仕事としてではなく、生き方として選んだと思いたい。

介護サービス利用者の側からこのことを考えると、自分の人生に深くかかわる支援者が、どういう考え方の持ち主で、どのような支援スキルを持っているのかということは、支援を受けた後の人生の豊かさに関わってくる問題である。

それだけ支援者の人となりは重要であるという意味になる。

そのような重要な役割を、私たちは好む好まざるにかかわらず担っているのである。

その使命と責任を忘れないでいたいと思う。
キタキツネ
私たちがその使命を果たすためには、結果責任を常に意識しなければならない。

私たちと出会ってしまった利用者の方々の人生が、私たちと出会う前より豊かになるという結果を求めればならない。

そうしないと私たちの存在意義が失われてしまう。もしも出会った人々が、自分と出会うことで不幸になるとしたら、何のために自分は対人援助という仕事を選んだのかわからなくなってしまうのである。

結果を出すためには、日々努力し続ける必要がある。知識や技術を積み重ねるのは、他人の暮らしに深くかかわり、個人の生活空間に深く介入する以上当たり前のことだ。

努力だけでは何の価値もなく、結果がすべての世界だと自覚しなければならない。

やっていることが正しいと思っても、そこに存在する利用者がその結果を好ましく思ってくれるかどうかが問題だ。答案の答えは私たちが出すのではなく、利用者が出すのだということを決して忘れてはならない。

勤勉・真摯・謙虚、そして器の大きさ・・・。それらのどれか一つが欠けていても人の暮らしに寄り添う資格は無い。

売名・不遜・おごり、そして器量の狭さ・・・。そのどれか一つでも私たちの中に潜んでいれば、知識や技術もいつか自分を裏切る。

そういう職業を・・・そういう生き方を私たちは自ら選んでいるのである。その重さや尊さを決して忘れてはならない。
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人として人に関わる対人援助


対人援助は、自分以外の誰かの最もプライベートな空間に踏み込んで、本来利用者が他人に知られたくはない部分にも触れて支援を行う行為である。

私たちはそういう行為を職業とするプロフェッショナルだ。だかこそ私たちには、他者の暮らしを護って援助するという自覚に基づいて、相応の倫理観が求められるし、秘密保持などの義務が生ずる。

しかし何よりも大事なことは、人として真摯に利用者に相対し、利用者がどのような状況に置かれていたとしても、その尊厳を護った支援行為に終始しなければならないということだ。その覚悟をどれだけ持てるかがプロ意識として問われてくるし、そのことを建前としないという確固たる姿勢が、世間から信頼を得るための唯一の道だ。

私たちが他者の暮らしを支える際には、暮らしを送る人自身の様々な思いに気づいて、その思いに寄り添う姿勢が必要になる。その時、寄り添うべき思いとは、ネガティブな感情も含まれることになり、そこにどのように寄り添うのかということが、利用者と信頼関係を結ぶうえで重要な要素になることも多い。

それはダメです」・「それはやってはいけません」と、ルールを振りかざして利用者の思いを切り捨てることは簡単だ。しかしそんな形で物事を終わらせるのでは、暮らしの支援に結びつかないという場面がしばしば生ずるのが対人援助である。

理屈は、幸福や暮らしを創らないのである。

私たちにその時求められるのは、援助技術とか専門知識以前の目に見えない、「人間愛」というものなのかもしれない。
誰かのあかい花になるために
それは現在求められている、科学的根拠とは対極にあるもので、非論理的で客観性のないものだと批判されるかもしれない。

だが目に見えない、非科学的なものをすべて切り捨てることによって、人の暮らしという極めて個別性の高い領域が良くなるとでも言うのだろうか・・・。僕はそうは思わない。人には定型化できない感情というものがあるのである。そして感情とはきわめて非論理的で、非合理的なものであり、方法や経緯と結果の因果関係のない場所で生まれるものである。

そうした感情に寄り添うためには、極めて説明しがたい、「人を愛おしく思うという感情」で寄り添うしかないのだ。

しかし・・・問題は援助者たる私たち自身が全能なる神ではないということだ。すべての人を愛することができる天使にもなることはできない。

対人援助という仕事に携わる私たちも感情ある人間の一人にすぎないのであるのだから、他者に対する好き嫌いの感情は当然持っているし、誰かを深く愛することができる反面、他人を妬み、他人を憎む感情も持ってしまうどうしようもない存在だ。

私生活も決して潔癖に送っているわけではない。清貧という言葉から程遠い状態で、みだらな楽しみや遊興にふけることもあろうというものだ。

だからと言ってそれが即ち、対人援助に関わる資格がないと言える問題でもない。人として欠点や短所をたくさん持っているけれども、自分が完璧な聖人ではないという自覚と自己覚知をもって、職業上は利用者に対して真摯に関わればよいということだと思う。

自分の中のネガティブな感情は、自覚してコントロールできるようにするだけの話だ。

そうでも考えない限り、対人援助に関わってよい人などいなくなってしまうのではないかと思うのである。

自分の人格を高潔にしようなんて背伸びなんかせずに、普通の人として、普通に人を愛する気持ちを持ち続けるだけでよいのだろうと思う。

人に秀でて何かを残そうとするのではなく、自分の中の大きな愛を、小さな仕事の中であふれさせることが大事ではないかと思う。
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自分の職場がどうあってほしいですか?


株式会社マイナビが運営する介護経営支援サイト、「メディカルサポネット」の連載、「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜」は今回がいよいよ最終回。テーマは、「どうなっていく?介護事業の未来」としておりますので、どうぞ連載名に貼り付けた文字リンク先を参照してください。

さて話は変わって本題に移ろう。

このブログ読者の方々は、ほとんど介護事業に携わっている人だと思う。

そんな方々は、介護という職業がどのような職業であってほしいと願っているのだろう。そして自分の職場がどんな職場になってほしいと思っているだろうか。

例えば介護施設の某職員が、こんなふうに考えているとしたらどう思うだろう・・・。

給料は他と比べても悪くありません。休みもそこそこ取れます。職場の人間関係は、嫌な上司や口うるさい先輩はいるけれども、和気あいあいと話せる同僚もいるし、嫌な人間とはなるべく近づかずに話しかけられても無視してやり過ごしています。
仕事は先輩方のやり方を見よう見まねで覚えたうえで、自分の考えたことを加えたやり方で何とかこなせています。
利用者は認知症の人が多くて、わけのわからない言動に戸惑うことが多いけど、決められた作業を黙々とこなしてさえいれば、文句を言われることもないので辛くはありません。
夜勤はワンオペで大変でしょうと言われるけど、自分で決めたルールで、自分の思い通りに動いて一晩過ごせばよいので、特段苦痛でもありません。むしろ他人の目のない分、気楽なのがワンオペ夜勤も言えそうです。
利用者の暮らしって言いますけど、ほとんどの人が家にいたら一人で生きていけない人たちですから、ここにいるだけで衣食住に困らないのだからそれなりに良い暮らしと言えるのではないでしょうか。適当にレクリエーションの機会はありますし、おもしろくなさそうにそこに座っているだけの人がいたって、問題とは言えないと思います。


・・・このような職場で働きたいと思う人はどれだけいるのだろう。こういう職場で介護の仕事を続けていて、介護の仕事にやりがいや面白みを感じることができるのだろうか。

職業を持つことは生活の糧を得るために必要なことであり、趣味とは違って好きという感情だけで選ぶことはできない。しかし「働く」という行為は、ある一定年齢まで何十年も続けなければならない行為でもあり、嫌々惰性で続けるとしたら、人生の中で大事な時間を無駄にしているように思えてならない。

だからこそ自分の適性に合った職業を選んで、仕事に誇りややりがいを感ずることができるということが非常に大切なことだと思う。それが自らの人生を豊かにすることにもつながるのではないかと考えている。

勿論、生活の糧を得ることが職業を持つことの最大の目的だから、仕事に見合った対価を得ることは非常に重要なことではある。しかしそれが即ちやりがいにつながるとは限らないと思うのだ。

僕は志を高くもって、社会福祉の勉強をしたわけではない。理系が自分には合わないと思ったので、文系の大学に進もうと思った。その時、たまたま道内の大学で社会福祉を選考する道が、自分の能力と適正に見合っているのではないかと思い、恐る恐るこの道に踏み出した。

そして大学生活4年間の中で、様々な他者の「人生」に触れる機会を持った。障がいを抱えた状態でこの世に生まれ出た子やその親、家族に恵まれない子供、家族から理不尽な暴力などの虐待を受け続けている人々・・・。

そのような出会いに困惑したり、否定的な感情を持つことも少なくはなかったが、それ以上に他者の人生の一端に触れて、そこに関ることにやりがいを感じた。自分が関わることで、無表情だった人の顔がほころんだり、心の底から湧きあがる笑顔を見られたときは、自分自身が幸せな気持ちになることができた。
誰かのあかい花になるために
社会福祉事業・対人援助の仕事のだいご味とは、自分が関わりを持つことが許された他者の人生を少しでも豊かにすることだと思う。そこで生まれる心からの笑顔や、穏やかな表情に出会うことができることだと思う。その時の感謝の言葉は、僕たちにとって何よりのご褒美だ。

だから介護事業に携わる以上、そこでかかわる人たちの命をつなぐだけの最低限の関りでよいなんて思わない。制度の光をくまなく届け、私たちのできる限りの支援の手を差し伸べ、我々の支援の手を必要とする人たちの、人としての尊厳が護られ、少しでも幸せを感じてほしいと思う。

少なくとも利用者の哀しみや、苦しみの上に、私たちの暮らしが成り立つことなんてあってはならないと思う。それは人として許されない考えのように思うし、誰よりも貧しい心でしかないと言われても仕方がないことのように思う。

介護事業というものは、決して他の職業より崇高な職業ではないし、数ある職業の一つにしか過ぎないことは事実だ。だけれども介護事業は、そこに自分の人生そのものを預ける利用者の方々の存在によってはじめて成り立つ職業だ。

それは介護という職業が、誰かの人生の幸福度に大きく影響するという意味だ。そのことに使命感と誇りを抱いて、その誇りを護るための知識や技術を磨き、結果を出す介護事業を目指し続けることが、自らの人生を豊かにする唯一の道ではないかと思う。

そうした志を共にする仲間と、つながり続けて歩き続けたいと思う。このブログにも、そういう志を抱く人に集まってもらいたい・・・。

メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜の最終回は、「どうなっていく?介護事業の未来」です。こちらも是非参照ください。
どうなっていく?介護事業の未来
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自分は何者であるか・・・。


自分というものは、他者や外界から区別して意識されるもので、自我とも言い換えることができるものだと思います。

それは肉体そのものではなく、どういう価値観を持つ存在であるのかという意味だと思うのです。

さすれば自分というものは、親からもらった肉体が器の役割をもって、成長過程で様々な情報や知識を受け入れて、それを発酵させるように自分の中にしみ込ませて創り上げていくものではないのでしょうか。
富山のダブルレインボー
自分が経験し、自分が判断した繰り返しで創り上げていくものが「自分」ではないでしょうか。

最初から自分というものが、身体や精神の中に存在して、この世に生まれ出てくるわけではないという意味です。

だから人の成長と共に、あるいは衰えと共に、自分の中にある自分は変わっていくのだと思います。

だから重要な決定の判断を、いつも人に委ねてしまう人には、自分らしさが生まれないのです。それはその人が何者でもないという意味です。それはとても哀しいことではないでしょうか。

ネット社会では、本来生きるうえで体験すべきことをバーチャルに置き換えたり、判断を都合よく人に委ねたりすることが簡単にできるようになります。

だからネット社会だけにある架空の自分しか持てない人が出てきます。一旦ネットを離れた自分が、どんな存在かわからない人がたくさん生まれているのです。

これは恐ろしいことです。大げさではなく、人類はそのことで消滅・絶滅に向かいかねないと思うのです。

ネット上に現実の自分とは別の人格を創り上げていること自体は否定しません。例えば僕は、表の掲示板の管理人として、かなり厳しい人間として見られているようです。そこではとても怖い人とイメージされているようです。

それはある意味、自分が意識して創り上げたイメージでもあります。介護業界で一番長く続く情報掲示板を、20年以上という長い期間途切れることなく運営するためには、それは必要なことだからです。

怠けて他人に尋ねるだけで問題解決を図る人・反対のための反対論・初めからアラシ目的の参加者、そうした人たちの防波堤になるために、それは必要なことだったのです。だから今も続いている。

けれどもその人格を、現実の自分と勘違いしないことが大事です。現実の僕は決して強くないし、怖くないし、清廉潔白ではないのです。ここを勘違いしないことです。

現実社会の中で、自分が何者か意識できない人が、主体的に何かをできるわけがありません。常にそこにある意識や感情や情報に流されて、明日の居場所さえ分からなくなってしまいます。そんな人は、現実社会で生きることが苦しくなるのではないのでしょうか。

自分を創り上げていく過程では、間違いもあるし、挫折もあって当然です。でもそれは自分にしか経験できない貴重な体験なのです。喜怒哀楽の感情は、良い感情だけ切り取って経験することは不可能なのです。

それが生きる意味であり、自分が何者であるのかを探すことなのです。それはこの世に人が生まれ、生かされる意味でもあります。

たくさんの哀しみや怒りの感情を抱えてきた人が、自分自身の力でそれを乗り越えた先に、生きる力とか、他人の痛みを思いやる心とか、自分以外の誰かを人として愛することの尊さとか、生まれ出でてきたときには持ちようがなかった感情や意識を獲得していくのではないでしょうか。

人は人を愛するために、悲しんだり苦しんだり、怒ったりする感情を与えられているのではないでしょうか。

その理由は、どのような能力がある人でも、人に秀でる才能を持っていたとしても、人は人の間でしか生きられない存在だからではないでしょうか。

だからどうぞ、生身の自分を愛してください。人に秀でてなくとも、強くなくともよいのです。あなたという存在は、あなたにしかなれないのです。そのあなたがそこに存在するということには、必ず意味と価値があるのです。

自分は所詮自分でしかないなどと嘆かないでください。それはとても尊いことなんですから・・・。
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77回目の終戦記念日を生きる


昨日はお盆の帰省ラッシュということで、新千歳空港発着便もほとんど満席だったそうである。

今日はそんな帰省ラッシュが見られた翌日の月曜日ではあるが、世間ではまだお盆休みが続いているという人も多いだろう。休みを取れる人は、ゆっくりと体と心を癒していただきたい。

世間を見渡すと夏休みのイベントも各地で開催され、人がたくさん集まっている。そんなふうに3年ぶりのにぎやかなお盆ということになったが、コロナ禍は終息しておらず、むしろこの3年間で最も感染者数が多い中でこうした状況に変わっている。ということは感染予防策としての行動制限の在り方が今一度問い直さされているという意味ではないのだろうか・・・。

そうであれば介護施設のあまりにも長期に渡る面会制限も、その是非が議論されてよい頃だ。

このことは介護・居住系施設やそこに入所している人の問題ではなく、日本人の終末期の過ごし方、つまりは全国民の「生き方」の問題に関わってくるのだということを理解しなければならない。

ところで今日は8月15日。77回目の終戦記念日である。

とはいっても戦争を知らない世代の僕らは、終戦の日の対象になっている太平洋戦争が、どれだけ悲惨な暮らしを日本国民に与えたのかを実感をもって知っているわけではない。人づてに知った知識や情報から、その悲惨さを感じ取るしかないのだから、戦争体験者のそれとは大きな乖離があるのだろう。

だからこそ僕たちにはしなければならないことがある。戦争体験者の方々も年ごとに高齢化が進み、戦時中の記憶が消され始めている。だからこそ今残されている貴重な体験談に耳を澄ます機会を大切にしなければならない。

例えば、「トシさんの戦争体験」で紹介したエピソードなどを数多く集めて後世に伝えていく責任が私たち一人一人にあるのだと思う。

哀しい体験を持つ人ほど、その体験談については黙して語らない人が多いが、終戦記念日にだけは、その重たい口を開いてくれたりする。思い起こすと、「今日は終戦の日じゃねえ。敗戦の日だ。」と漏らしたOさんの面影が脳裏に浮かんでくる・・・。

北海道は終戦の日のわずか1月前に、米軍からの空襲を受けた地域である。「北海道大空襲」と伝えられているその空襲は、北海道のいくつかの地域に残っていた軍需工場を標的にしたものであった。・・・だから北海道の最大都市・札幌は被害を受けていない。

その時、北海道で一番死者数が多かったのが、僕の住む登別市と同じ生活圏域の室蘭市である。国内で唯一、B29というアメリカ軍の戦闘機をう撃ち落とすことができる高射砲を製造していた軍需工場があったために、室蘭市が米軍の最大の攻撃目標になったのである。

しかし空襲2日目は、工場など存在しない市街地に向かって海の上から艦砲射撃が行われた。そこでは軍人はほとんど死んでおらず、女・子供を含めた一般市民が数多く死んでいった。その正確な数は今もってわかっていない。
北海道の田園風景
北海道の広く青い空が、砲煙によって真っ黒に染まり、広くおおらかな大地が無数の砲弾によって火の海となった。

そこで数多くの無辜の民が血を流して死んでいった戦争・・・。そこからまだ77年しか経っていない今、日本人全体が平和ボケして良いはずがないのである。

今日はそういう国で、今平和に暮らしていることに心から感謝し、あの戦争で亡くなられたすべての人々を悼み、繰り返してはならないものがあることを強く心に刻み付ける日である。

縁あって私たちは、対人援助という職業に携わり、人の暮らしと向かい合っている。そこはたくさんの生き様があり、死に様も同様に垣間見る場所だ。だからこそ人の命・心の平安・生きる喜び、そうしたものを深く考える日があっても良いと思う。

今日はそんな日である。
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広島の空・長崎の空2022


今日8月9日は、77回目の長崎原爆の日である。

原爆が投下された午前11時02分には、僕の家からほど近くにある消防署のサイレンが1分間鳴らされた。僕もそれに合わせて黙とうを捧げさせていただいた。

今日はそのとき思ったことを書こうと思うが、その前に僕と長崎県のつながりを少しだけ紹介しておく。

長崎県と僕は縁があって、九州の中では福岡県の次に数多くの講演を行っている場所だ。食事もお酒もおいしく、素敵な人がたくさん住んでいるお気に入りの地域である。

コロナ禍の影響でここ3年間は同県を訪れる機会を持てていないが、それまでは1年に何度も長崎県を訪問する機会を持つことができていた。コロナ禍という状況でも、長崎県の方々からはオンライン講演の依頼を頂いている。近いうちに是非同県を訪れたいものである。

過去長崎県で講演した場所は複数あり、五島列島にある五島市や新上五島町にも行って講演を行ったし、雲仙市・島原市・南島原市・諫早市・大村市・佐世保市・時津町などでも講演を行っている。

しかし長崎県のうちで講演を行った回数が一番多いのは長崎市である。長崎湾を見下ろす稲佐山の中腹にある社会福祉法人さんでも2度ほどお招きを受けて講演を行ったことがあるが、そこからの景色は絶景と言ってよかった。

坂の街でもある長崎市は、風光明媚な街であるが、この稲佐山から見下ろす長崎港の景色が、僕は特に気に入っている。

その稲佐山には、屋外ステージが設置されている広場がある。

そこは歌手のさだまさしさんが、長きにわたって広島原爆の日である8/6の夜にコンサートを開き、広島に向かって2度とあの悲劇が繰り返されないように、平和の願いを歌い続けていた場所でもある。

さださんは長崎から、広島のどんな色の空と景色を見つめていたんだろうか・・・。
広島の空
広島の街はかつてそこが焼け野原になったなんて想像できないほど、とてもきれいで素敵な街並みになっている。

ただ街中には世界遺産に登録されている原爆ドームが被爆体験を伝える貴重な建物として当時の姿を残したまま保存されている。

そのドームを見るまでもなく、かつ今さら僕が言うまでもなく、現在は平和で美しい景色が広がる広島と長崎のその街は、1945年8月6日と8月9日にそれぞれ焼き尽くされている。核兵器というおぞましい武器によって・・・。

次に記した言葉は、さださんが'96年のコンサートで舞台から観衆に語りかけた言葉だ。
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1996.08.06.夏 長崎で、「広島の空」を唄う直前の、さだまさしさんの言葉
このコンサートを始めたときに、あえて核兵器について語ろうとしなかった。
そして、あえて戦争がどうしたこうしたということを、大きな声で発するのをやめた。
8月の6日に、つまり広島の原爆の日に、夜、長崎で広島の空に向かって唄をうたう。
そのことだけで十分じゃないかと思ったんであります・・・。

平和っていうのは、とっても難しい言葉です。
ただ戦争をしていない状態を平和って呼んで、歓迎してニコニコと笑って、
ご飯が食べられて、ちゃんと着るものが着られて、そして平和と・・・。
我々はそこに胡坐をかいていてはいけないんですね。
我々だけの平和にすぎない。それは我々という小さなコップの中の平和にすぎない。

こうしているうちにも、どこかで誰かが撃たれ、
そして何も事情が分からない小さな子供が、小さな地雷を踏んでいる。
そんなことが現実に、この地球上で今まさに起きているのだという痛みを、
私たちはこの飽食の中に忘れ去ろうとしてはいけないんですね。
少なくとも、2度と子供たちや、その子供たちや、さらにその子供たちが、
2度とあんな思いをしないように、そんな思いを込めて唄います。
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今まさに平和な国・日本で、戦争を知らない子供たちが戦後の繁栄を謳歌し、何不自由なく暮らしている一方で、ウクライナでは悲惨な殺し合いが続いている。

平和ボケしている日本の海域では、幾たびもミサイルが領海に打ち込まれ、領土をめぐって領海侵犯の船が航海を続けている。

戦争がないといっても、インターネットを通じて人々の罵りあいが毎日無数に配信され、国会議員という身分の詐欺師が、海外から人権侵害を発し続けている。人々の心の戦争はそこかしこに存在しているのだ・・・。

そんなふうに平和な日本には心の貧しさが満ちて、殺伐としたコミュニケーションが飛び交っているのである。そういう意味では、この国の平和とは砂上の楼閣に立っている危ういものかもしれないのである。

だからこそ、さださんが稲佐山から訴え続けた思いを、私たちも同じく胸に抱いて伝え続ける必要がある。私たちの子供たちの、その子供たちや、さらにそれに続く命と暮らしを護るために。

だが77年前のその日、広島と長崎で何があったのかを伝える歴史の証言者が年々減っている。その悲惨さをどのように後世に伝えていくのかが大きな課題になっている。

決して忘れてはならない人間の意志と手による愚行を、日本人は伝え続けなければならない。戦争を知らない世代の人々も、戦争を経験した人の言葉を聞き取り、後世に伝える責任があるのだ。

原爆投下という人類が最も恥ずべき行為によって命を失った人の中には、即死できずに、熱い熱いともがき苦しみ、水を求めながら死んでいった人も多いと聞く。そいう人たちのために、せめて一杯の水を天に向かって供えたい・・・。

さださんが主催する稲佐山のコンサートは、2006年の20回目のコンサートをもって最終回とされた。

最期のコンサートで語ったさださんの言葉も紹介しておこう。
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2006.08.06.夏 長崎から「FINAL」より
ほんの短い間でいいから・・・。
あなたの大切な人の笑顔を思い出してください。
そしてその笑顔を護るために、あなたに何ができるか考えてください。
そして、もうひとつ・・・考えるだけでは駄目です。
そのために自分の力を使って動いてください。
これが夏・長崎からの、僕の最期の願いだと思います。
そうやってそういう思いで聴いてください。
今度はみんな、この種をあちこちに撒いて
たくさんの花が咲いて
いつか俺が知らない花が、この会場を埋め尽くしてくれるように・・・。
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しかしさださんの遺志を継ぐ形で、今も「稲佐山平和祈念音楽祭2022」が行われており、今年は先週末に当たる6日と7日の両日に渡って開催された。その利益はすべて「国境なき医師団」に寄付されているそうである。

さださんは、今年もそこで唄ったそうである。この唄もきっと広島原爆の日に唄われたんだと思う・・・。

77年目の8月9日・長崎原爆に日に、26年前のさださんの言葉を思い出しながら、広島と長崎の空に向かって祈りを込め、手を合わせて首(こうべ)を垂れているところだ。

もう2度とあんなことが繰り返されないことを祈りながら・・・。
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心に咲く花を大切に育てる介護


株式会社マイナビの医療・介護の経営支援サイト・メディカルサポネットに毎月、「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜」というテーマで連載記事を書いています。

今月の連載記事、「介護事業におけるメンタルヘルスに関する一考察」は昨日アップされています。

メンタルヘルス不調は、誰にでも起こり得る問題です。それは介護事業者にとっては、貴重な人材を失いかねない大きな損失であるとともに、従業員のメンタルヘルス不調を防ぐ責任が雇用側にあるというコンセンサスが形成されている今日においては、従業員がメンタルヘルス不調に陥った場合には、事業者側に損害賠償責任も生じかねない問題となります。

またメンタルヘルス不調の当事者になってしまう人は、それによってそれまでのキャリアをすべて失い、人生の設計図を見失ってしまうだけではなく、家族関係も崩壊してしまうほどの大きな問題になりかねません。

そういうことを防ぐためにも、昨日アップされている連載記事を参照願いたいと思います。

それと共に自分がメンタルヘルス不調に陥らないための、日ごろの心がけも必要なことを知ってください。仕事に対する思いを忘れないことも大事です。介護事業者で働こうとした当初の自分の気持ちを振り返ってみることも大メンタルヘルス不調の予防策になり得ると思います。

だからこそ、どうぞ思い出してみてください。

介護という職業を選んでいるあなたが、最初にその仕事をしようという動機付けはいったい何だったのでしょうか?

今介護の仕事を続けている、あなたはそのことを覚えていますか?

人それぞれいろいろな理由があって、介護という職業を選んだのでしょうし、その動機付けはいろいろであって良いと思います。

しかし介護という職業が、他者の暮らしに寄り添い、心身の不自由な部分を補うために手を差し伸べつ仕事であることを知らない人はいないでしょうから、少なくともそうした人に手を貸しながら、頑張って仕事を続けようとする覚悟や思いは持たれていたのではないでしょうか。

その思いの強さは人それぞれだと思います。ほんの軽い気持ちで、「介護の仕事に携わろう」と思ったって構わないとも思います。思いは膨らませればよいだけの話なのですから。

自分の心の中に、ある日何気なく湧いてきた介護を職業にしてみようかという気持ちは、心の中に花の種が撒かれたという意味なのではないでしょうか。その種に水をまき、芽ぶかせ、花として咲かせることが大事だと思います。(※下記画像は北海道美瑛町の風景。
北海道美瑛町の夏景色
決してその花が枯れることがないように、肥料と水を撒いて大切に育て続けることはもっと大事になります。

その時、一番の必要になるものとは、あなたが最初に介護の仕事をしようと思った動機づけとつながる何かではないでしょうか。

逆に今あなたが働いている場所で、あなたが介護の仕事をしようと思った動機づけと正反対のものしか存在しないとしたら、この仕事を続けようとは思わないのではないでしょうか。その場合は、咲く場所を変える必要もあると思います。(参照:人によって合う職場は異なります

誰かの役に立ちたい。自分の力で誰かの暮らしを少しでも支えられる。自分が仕事をするだけで、「ありがとう」と言ってくれる人がいる。寂しそうに一人ぼっちで佇んでいる人のそばに、自分が寄っていくだけで笑顔になってくれる。人に話せないようなことを、自分にそっと打ち明けてくれる。

そんな何気ないことが、花を咲かせる肥料になってくれることでしょう。

そかしそれは日常の絶え間ない暮らしの支援の中でしか生まれません。特別な何かではなく、当たり前として、そこに何気なく存在しているものなのです。

だからどうぞ利用者の方々の表情を見る目を失わないでください。利用者の方々の喜怒哀楽をしっかり見つめてください。怒りや哀しみの感情を見つけらるからこそ、喜びや幸せを運ぶことができるのです。それが喜怒哀楽に寄り添うという意味なのです。

どうぞそのことを忘れない人になってください。
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法令にない常識理解がないと人の心は護ることができない


CBニュースに連載中の、「快筆乱麻・masaが読み解く介護の今」の今月の連載が、昨日アップされているので、そちらも是非参照いただきたい。

それはさておき、本日の本題に移ろう。

日本には、「人を殺してはならない」という法律はないそうである。

人を殺せば罰せられるという法規定はあっても、人を殺すことを禁ずる法規定はないそうだ。

テレビドラマの、「ミステリと言う勿れ」で、菅田将暉.さんがそう言っていたので間違いないだろう・・・。
ミステリーと云うなかれ
その理由は、人を殺してはならないという法規定を作ってしまえば、死刑制度が成り立たない=死刑執行も人を殺す行為だから、それができなくなるという意味なんだろうか・・・。そんなことはないだろう。死刑執行を殺人ではないと規定すれば済むことだから、それは本当の理由ではないと思う。

本当のことはわからないが、人が人を殺してはならないことは、法規定以前に当たり前のことであり、人間の存在という根源的な問題だから規定されていないのではないのだろうか。

そもそも法律ですべての行為を規定してしまえば、人は生きる行為だけで、知らぬ間に法を犯してしまいかねない。法よりも上位にある倫理観を、人間が持つことができる限り、法で暮らしをがんじがらめにする必要はないわけである。

過去に書いた、「倫理について考える1〜法より上位にあるという意味。」でも指摘しているように、法は国家権力等に強制される他律的な規範であるだけに、法で厳しく規制が強化されることは逆に、法的追求を免れ、法の網から漏れるという空白部分を探して、そこに逃げ込んで責任を免れようとする人間を生み出す元凶になる。

そういう人間が巷にあふれる社会は、決して豊かな社会ではないし、幸せな暮らしが実現できる場所にもならないだろう。

だからこそ自主的な順守が期待される自律的な規範である倫理によって、人の暮らしを護るという意識が重要になるのだと思う。

そういう意味では、介護保険法や各種運営基準に定めのないことが、すべて許されることではないわけである。

例えば、介護施設の多床室に男女の区別なく利用者を入居させることを禁ずる法令規定はない。だからと言って介護事業に携わる専門家が、性差への配慮に欠けて他人である男女を多床室に雑居させることを何とも思わないとしたら、対人援助とはいったい何なのだろうという本質が疑われかねない。

そんなことはしないのが常識だという、「性善説」で法令は定められている部分があることを理解しないと、我々の介護事業にもどんどん制限がかけられ、がんじがらめの身動きできない状態になりかねないのである。

他人である介護サービス利用者は、お客様に他ならないのだから、家族や友人のように砕けた態度で接して、不快にさせてしまうようなことがあってはならないという法令も存在しない。他人である顧客に、節度のある態度で接するのは社会人としての常識だからである。

それを良いことに、砕けた態度やタメ口を家族的な親しみを込めた対応だとして改めない頭の不自由な輩が多いのも介護関係者の特徴だ。それは社会人としての常識を欠く人間が多数、介護関係者に交じっているという意味で、介護業界全体の民度を下げる元凶になっている。

広辞苑を引くまでもなく、タメ口とは、「目上の者が目下の者に対して使う失礼な言葉遣い」だという意味だ。その常識を理解していない輩が、目下でない人たちに非常識にタメ口で話しかけている。そうした態度の横行が、私たちの愛する職業を地に堕としているのである。

家族そのものにはなれない介護従事者が、介護支援の場で利用者に関わるときに求められる態度とは、家族と同じ遠慮ない態度ではなく、介護のプロとしての態度である。信頼のおける知識と技術に基づいた介護支援と接遇ができることはその基盤であるにも関わらず、接遇意識のない輩が多すぎる。

だから介護は誰でできる単純労働だと思われてしまうのだ。頭が多少悪くても、健康で丈夫な体さえあれば介護程度はできるだろうと思われるわけである。そしてその延長線上に、人間ではなくロボットによる介護が実現可能だとも思われてしまうわけであり、人を減らして介護の生産性を高めれば、要介護者が増えても大丈夫と思われてしまう原因にもなっている。

介護という職業は、本来であればロボットが代替できないほど繊細で難しい職業である。巧緻性が求められる行為と、力が求められる行為を、見事につなげあって同時にこなしながら、一人として同じではない感情に相対して、人々の心を癒すために存在するのが介護という職業である。

その尊さを自ら汚すような、「タメ口対応」をなくしていかないと、介護という職業の使命誇りは、決して社会に広く認知されることにはならないだろう。
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感じの良さというスキルを大事にしてください


今後の介護事業における最大の懸念は、人材が確保できずに事業継続できなくなることだ。

制度改正議論でも、この問題の解決が最大の課題となっており、現役世代が急減していく中で、今後の人材確保の難しさを指摘して手を打たねばならないという声が高まっている。

つまり必要な介護人材の確保は困難だと結論付け、今ほど人手を掛けなくても良い介護事業の在り方を、制度全体の整備の中で模索しようとしているのである。

人によるインプットを減らして、自立支援や暮らしの保障などのアウトプットを今以上に引き出すために、介護事業にも生産性の向上が求められているというわけだ。科学的介護の確立もそのために必要とされるのである。

人間でなくてもできる業務をテクノロジーで代替して、介護業務の大幅な効率化を図ろうとする考え方も、その一環として語られているわけである。

しかしその方法を語っている連中が、実際には自分で介護業務をしたことがない連中だから始末が悪い。介護業務の本質を無視して、そのわずかな部分でしかない表面だけを見て、自分がやったこともない行為を、「できるだろう」と決めつけて、機械や素人に任せてよいとする部分を削り取っているだけだ。

その典型が、「間接業務を補助的なスタッフに任せること」である。業務の一部を切り取って、そこを素人のボランティアや一度現役をリタイヤした高齢者に任せて介護業務が減ったとでもいうのか?

そもそも連続した業務の中にある一部分を切り取ったからと言って、そこのつながりが消えたことを補う業務負担も新たに生じている。例えば食事介助を補助的スタッフに任せたとしても、利用者の食事摂取の状況(摂食状態や食事に関する反応など)は情報として引き継がれなければならず、その伝達時間は新たに生ずる業務時間である。ここをおざなりにすると、介護業務に支障が生じてかえって生産性が下がるという事態になりかねないし、最悪の場合、介護事故につながってしまう。

そのほか間接的業務の一部しか任せられない人間の指導や見守り、はたまた尻ぬぐいのためにかえって業務負担が増えたという喜劇も生まれているのではないか。

どちらにしても今、介護サービスの場では、生産性を高める介護という名目の、利用者不在・事業者主体の介護が横行し始めている。

なぜかと言えばそうする方法は簡単だからである。例えば介護という行為を、極めて単純な作業と割り切り、利用者の思いやニーズに寄り添うことを一切せずに、決め事を機械的にこなして、それが終われば次の作業に移ればよいのである。

もっと具体的に言えば、介護業界から退場したメッセージという大手介護事業者が行っていたように、「ライン」と称するシフト表に基づいて15分単位で労働を管理し、介護職個人の裁量で高齢者と接する時間は一切ない方法で介護サービスを提供する、「アクシストシステム」に、ICTや介護ロボット(見守りセンサーを含む)を紐づけて、新しいチャレンジによって生まれた画期的なシステムだと喧伝すればよいだけの話である。

そうした単純作業に専念して、機械的介護を黙々とこなすことで、介護の生産性が向上したと言いふらしている事業者もあるのだ。

そんな形の生産性の向上を図ろうと思えば、今この瞬間からできるのである。

生産性の向上を介護サービスにも求めること自体は、決して否定するものではないが、それがこんな結果を生んでよいのだろうか。

僕は人としてそんなことは許されないと思う。僕が人としてこの世に生かされて、介護という職業にかかわっている時代に、介護をそのような行為に貶めることは恥ずかしいと思う。

介護は感情労働なのだ。感情を持った人に相対する仕事である。感情とは物事や対象に対して抱く気持ちのことであることは今更言うまでもない。喜び・悲しみ・怒り・諦め・驚き・嫌悪・恐怖などの人の心に寄りそい、できるだけ良い感情をもってもらうように努めるのが、介護という職業に従事する者の使命だ。

なぜならこの職業とは、誰かの人生の幸福度に影響する仕事だからである。
感じの良い支援者
だから僕はすべての関係者に、「立派な支援者になる前に、どうぞ感じの良い支援者になってください。」と呼び掛けている。

要領よく仕事をサクサクとこなし、仕事が手早いことは良いが、それだけで利用者は幸せにはならないのだ。

多少要領が悪くても、仕事の手が遅くとも、人当たりが良くて、その人がいるだけで何となく空気が和らぐ・・・そんな人が側にいてくれた方が、人の心は和いで、幸せを感ずることができるのだ。

介護という仕事が、そうした職業であることを誇りに思いたい。人の幸せを運ぶ行為を介護と呼びたい。

だから世の中の流れに乗って、先進的で優れた介護を行っていると言われながら、その陰に涙にくれる人を隠してしまうよりも、世の流行には載っていないかもしれないけれど、目の前の利用者からは、常に感じよく思われる介護のありようを創りたい。

誰かを慰める花でありたい・・・。
誰かを慰めるあかい花

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今年の桜は今だけの桜です


北国にも桜の季節がやってきました。

登別市の桜の開花は、例年より1週間ほど早くなりました。このためGWに登別温泉に訪れた観光客の方々の目を楽しませていることでしょう。
5/4登別鷲別町の桜
僕のウオーキングコースの途中に咲く桜ももう満開になっています。(※画像は5月4日、鷲別町・恵愛病院前の桜

ところで今年は、3年ぶりに行動制限のないGWを迎えています。しかし新型コロナ感染症の新規感染者が減っているわけではないので、引き続き警戒と予防対策が必要と言われています。

そのような中で介護保険施設をはじめとした居住系施設では、この時期も面会制限を続けているところが多いようです。

でもこのブログでは何度も指摘していますが、面会制限がクラスター感染を防止する決め手にはなっていません。面会制限を行っている施設でクラスター感染が発生し、面会制限を行っていない施設で、今まで一度もクラスター感染が発生していないケースが少なからず存在することを考えても、要は予防対策の、「やり方」の問題であるということがわかるはずです。

面会制限をしていても、職員等が外部から自由に出入りする以上、そんな制限にほとんど意味はなく、施設側の自己満足に過ぎません。

むしろ一定のルールを定めたうえで、面会を許可する体制を整えておく方が有効です。なぜならそこでは職員の感染予防策を見本とするようにされますので、日ごろの職員の感染予防意識が高まり、対策も十分施されることで感染は起きないのです。

今年、行動制限が3年ぶりになかったことで故郷に帰省できた方々が、施設に入所している身内と3年ぶりに逢いたいという希望が、施設側の自己保身を理由に拒否されるようなことがあってはならないと思います。

時間や人数を制限したとしても、どうか逢いたい人々の希望を叶える介護事業者であってほしいと思います。お身内の方々には、職員と同じように感染対策を万全にとって施設内に入っていただければ、何も問題ないのですから・・・。

介護にも科学が必要だと言われる今日ですが、時代がどう変わっても、人に対する優しさを失ってはならないのが介護であり、対人援助だと思うのです。「逢いたいという思い」は、「愛たいという思い」です。どうぞ、それを大事にする人になってください。

そして施設利用者の方を街に連れ出し、その方々が住む地域の今年の桜を愛でる機会を創ってください。

オンラインで観る桜・バーチャルな世界の桜と、現実の桜は全く違うのです。3年前の桜や来年の桜と、今年の桜も違っているのです。
生きる証
今この時を大事にすることが、生きる意味になるのです。生きる喜びにつながるのです。どうかそのことを忘れないで、他人に我慢だけを強いる権力者にならないようにしてください。

どうぞ、人に対する愛情や優しさを失わない人であってください。

それから僕にはもう一つ実現してほしい思いがあります。それは志を同じくする人々が、直接つながりあうことができる研修機会を、もっと増やしてほしいということです。

既に、プロ野球等の各種スポーツも入場者制限をしていません。そこでクラスター感染が発生したケースは今のところありません。

そうであれば、感染リスクの低い研修会の会場実施は行われて当然と思います。換気をしっかり行って、受講者同士の間隔を広めにとるだけで、受講者自信が大きな声を交わしあうわけではない研修会は感染リスクがほとんどありません。

オンラインでは伝わらない熱量を伝える会場講演を増やしてほしいです。

幸いなことに、GW明けの5/16(月)と5/17(火)には、兵庫県明石市と西宮市で講演を行う機会があります。そこでたくさんの介護関係者とお愛できることを楽しみにしています。

このうち西宮講演はオープンですので、是非、(株)グローバルウォークグループ合同研修会、「介護職の使命においでください。

一般参加される方は、張り付いた文字リンク先から申込書をDLした上で、必ず事前申し込みをお願いします。参加費 は3,000円で事前振込が必要になります。会場で愛ましょう。お待ちしております。

せっかくの桜の季節ですから、素敵な桜ソングを素敵なハーモニーと共にお楽しみください。

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希望と絶望の境はごくわずかな差でしかない


本日午前5時に、CBニュースの連載・masaの快筆乱麻が更新され、「居宅介護支援費の利用者負担、逆効果の懸念」という記事がアップされている。今後議論される制度改正・報酬改定の方向性等も含めて書いているので、是非そちらも参照願いたい。

さて昨日4/26に更新した記事の中で、「とある有料老人ホームのコンサル業務に出かけた」ことを書いた。

今回のコンサルタント内容は経営コンサルというより、人財マネジメントに関連するコンサル業務である。もっと具体的にいうと、この4月に就職したばかりの新入職員の心の健康度をチェックするための仕事だ。

皆さんの職場では、そうしたチェックをきちんと行っているだろうか。今月入職した新人さんで、表情が暗くなっているや、表情を失った状態で業務を何とかこなしている人はいないだろうか。

実はこの時期の労務管理として、心の健康状態や精神的なダメージをチェックしておくことは、新人の定着率にも大きく影響する重要な対策なのである。

この時期から5月病と言われる『うつ』の症状が出てくる人がいる。症状が出始める前に、何らかの兆候が見られる人も居る。この点を把握できるか、見逃してしまうかが大きな分岐点である。心も体も疲れを感じやすい時期が今なのである。
落ち込む人
仕事のやりがいを感じられない中で、世間は休みの中で自分はシフトの中に入って働く状態がストレスを倍加させる状況もよく見られることだ。

GWはシフト勤務者には関係のないことだと言っても、事業者全体でみれば事務関連職員等が休暇に入り、直接介護職員もいつもよりさらに少ない人数で働く状態になっている事業者が多い。

そのような中で、普段より多くの業務をこなさねばならない状況が生まれたり、新人であるにもかかわらず、自ら責任を負った状態で業務に就かねばならない場面が生まれたりする。その中で自分のやろうとした仕事ができなくなったり、思った以上にできないことが多いと感じてしまうことで、うつ状態は進行していくことが多いのである。

同時に世間の人々が連休を愉しんでいる情報があらゆるところから入ってくると、仕事に悩みを持ち始めた自分が、世間の人が楽しんでいる時期に悩んでいる姿にイラついたり、ストレスを感じる状態となり、それが高じて絶望感を抱くことになる人が少なからずいる。

それがことによってうつ状態になったりするケースが数多くみられる。

世間が連休中に、仕事に行くために朝起きることができなくなってしまったり、周囲の人が何とか起こしても、何かと理由をつけて職場に足を向けようとせず、結局そのまま退職してしまう人も必ずこの時期に見られているのだ。

だからこそ暦の上での連休前の今この時期に、新人さんの表情変化を見逃さず、カウンセリングに結びつけることが重要である。・・・ということで例年この時期に、ある介護事業者さんから新人面談の仕事を依頼されており、毎年チェックに入っている。

そこでは悩みを聴くだけではなく、希望を注入することを心掛けている。

志の高い新人ほど、この時期頑張りすぎてバーンアウト状態に陥る人が少なくない。

それを防ぐためにセルフチェックとセルフケアが必要になるというが、そんなことを自らできる人は少ない。学卒者ならほぼできないといってよいだろう。できもしないことを推奨したって問題は解決しないのだ。

だから新人職員に対する労務管理として、職場の責任として心の健康度を測って、問題がある部分を取り除く必要があるのだ。その際には新人職員全員に対する面談が不可欠になるのである。

というのも仕事に対するモチベーションが高まり、希望を胸にして働き続ける人の動機づけと、仕事に悩んで絶望の淵に追い込まれる人のきっかけは、ほとんど違いのない状況の中で別れていくのである。この時期にどのようなフォローができるかが両者の違いであることが多いので、重要性は高いのである。

今回チェックに入ったところは、職員の心身両面の健康を守るという意識が高いから僕にコンサル依頼をしているのであり、日ごろから対策も講じられているために特段の問題はなかった。

というより面談した職員の方々からは、こうした上司ではない第3者による面談機会があり、いつでも相談ができることで安心感をもっているという意見が多かった。一安心である。

ただし油断は禁物である。最低でも1年間は新人職員として、心身両面のフォローが必要だ。

特に夜勤シフトがある職場であるならば、一人立ちして夜勤を行うようになる前後で、「不安」がないかどうかの確認と、それに応じた相談援助を実施することが大事だ。

大切な若い芽が、周囲の無関心と無理解によって、芽のまま摘み取られないように、細心の注意を払って、きれいなを咲かせることができるように、手を差し伸べていきたい。

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心や思いを大切にしたい


生まれて以来、ずっと平和な日本で暮らしている自分にとって、戦争は現実世界とは思えない出来事だ。

リアル映像で本物の戦争の動画を見ているときも、バーチャル映像を見ている感覚に陥ってしまうこともある。

しかし今、ウクライナでは本当の戦争が行われ、悲惨な殺戮が毎日繰り返されている。そこでは罪なき人々が命を失い、大切な人をなくし、尊厳や心を奪われている。戦争は不幸しか生まないと心の底から思う。
戦場の子供たち
だからと言って僕が何かをできるかと言えば何もできないのが現実だ。勿論、戦火で傷ついた人たちに贈る目的の募金等には協力することはあるが、それとて思いついて機会があった場合に限られている。

僕の現在のほぼすべての日常は、自分が住む星の上で戦争が行われていることも忘れ、自分の暮らしを営むことに精いっぱいであり、何かの拍子に戦場に思いを寄せることがあっても、ただ祈ることしかできない。本当に無力である。

僕のように考える人はたくさんいるのだろうと思う。そんな中で自分が何かできることがないかを考えて、ある日千羽鶴を折って戦地で悲惨な状況にある人に贈ろうと思い立った人がいる。

それに対して一部から批判の声が挙がっている。そのことに対する僕の思いを昨日、SNSでつぶやいた。それはどんな内容かといえば以下の通りである。
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2ちゃんねる」創始者のひろゆきさんが、日本からウクライナに千羽鶴を送ろうとしている団体に対し、「千羽鶴とか『無駄な行為をして、良い事をした気分になるのは恥ずかしい事である。』というのをそろそろ理解して貰いたいと思ってるのは、おいらだけですかね?」と痛烈に批判しましたね。

確かに災害時に折り鶴を送られた側が迷惑をこうむった例などがありますから、お金や使える物資を送る方が良いのでしょう。ただこの問題を突き詰めると、「気持ち」「思い」なんて目に見えないものは不必要というところに行きつきますね。それって世界を暗くする要因につながるのではないでしょうか。難しい問題です。
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これに対して、SNSに複数の人がコメントを寄せてくださった。そこでは千羽鶴を送ろうとする行為に肯定的な意見も、否定的な意見も両方存在している。

それは極めて正常な反応だろうと思う。どちらが良いと白黒つけられる問題でもないし、白黒つけるべき問題でもないと思うからだ。

僕自身は、『どうせ贈るのなら、戦火を受けた場所で必要な実用的なものやお金を贈った方が良い』と考える人間だ。しかしSNSにも書いたように、「気持ち」「思い」も大事だと思うので、千羽鶴を送って心を届けようとする人を批判する気持ちは全く持っていない。

特に「海をわたった折り鶴」のエピソードを知る人なら、戦場に千羽鶴を贈る気になるというのも十分理解できることだ。

僕はお金を贈るのが良いと思うけれど、あなたは鶴を通じて心を贈りたいのだから、その行為にもきっと意味があるし、そのことで心が癒される人もいるのかもしれませんね。そう考えて悪いというのだろうか・・・。

ましてや千羽鶴を送ろうとする人を罵倒し、さらにネット上でさらし者にして、深く心をえぐり続けるような行為については不快感しか感じない。

千羽鶴を送る行為をたしなめるにしても、もっと優しく指摘する方法があるだろうと思う。

僕も自分が管理する情報掲示板では、かなり厳しい指摘をして、時には罵声を浴びせることはあるが、それは対人援助のプロとしての情けない姿勢に対しての場合だけである。

自分の飯の種である専門職業に関して、勉強不足丸出しの知識のない姿勢、甘えた考え方には強い言葉が必要だと思う。

しかし専門家の存在しない善意の場所で、自分と価値観が違う人の行動を、上から目線で攻撃するのはやり過ぎだと思う。特に社会に名の知れた人がそのような罵声を浴びせると、それに乗っかって攻撃にかかる輩が、調子に乗って人権侵害ともいえる行為に走ることがままあり、そのような行為は慎む必要がある。

そもそも戦場で傷ついたり、不安な思いを抱えている人を応援しようとする人なら、理路整然と説明すれば、事の善悪の判断はつくはずだ。

現に鶴を折った人で、それを大変な状況の場所に贈っても処置に困るだけだとたしなめられた結果、折り鶴を贈ることを思いとどまり、別の支援策を模索している人が居るのだ。

何もネット上で厳しく個人攻撃する必要はなく、そういう行為をとろうとする人がいるが、それはかくかくしかじかの理由で思いとどまった方が良いと、意見発信するだけでよいのではないかと思う。

善意の行為が、他者から見て的を射た行為でないというだけで、ネット上でさらし者になって糾弾される社会も、戦場と同じように怖い場所だと思う。

なぜならそこは優しさがいらない、争いだけの場所だとしか思えないからである。僕はそんな場所に居たいとは思わない。

人と人が支えあってこそ社会は成り立っているのだから、人と人をつなぐ『』をもう少し大切にしたい。

目に見えない『思い』を大事にして、生きて行きたい・・・。
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命を選別する論理に巻き込まれないための価値前提


第2次世界大戦中のナチスドイツでは、ユダヤ人の迫害と虐殺だけではなく、ドイツ人の中においても命の選別が行われていたことは有名な話である。

ユダヤ人とその血統の迫害については、職場からの追放策が最初にとられた。血統の正しくない純粋ではないドイツ人の社会からの排斥を促すために、労働者はあらゆる場面で血統証明書を示すことが求められた。そして3代遡って誰もユダヤ人が血統にいないと証明できなければ商取引ができなくなり、職場からも追放される憂き目にあった。

それにとどまらずユダヤ人は強制収容され、収容所の中で悲惨な扱いを受けて、多くのユダヤ人の命が無残に奪われたことは世界中に知れ渡っている事実だ。

そのような命の軽視による死への誘導は、ユダヤ系ではないドイツ人の身にも及んでいた。

その前兆になった、「遺伝病を持つ患者は子孫をつくってはならない」という法律ができたのはナチスドイツが政権をとって間もなくのことである。そのためドイツ国内のそこかしこで断種手術が行われた。いわゆるキン抜き手術であり、睾丸を抜かれた男性患者がたくさん出現した。

その後1934年には、優生結婚優生出産が奨励されるようになった。純粋なドイツ人同士を掛け合わせて、子孫を増やそうとする政策だ。

さらにその政策はエスカレートし、悪名高い安楽死計画指令が出された。

不治の病にかかっている患者は、それとなく臨終させよという命令だ。例えば精神病患者が肺炎にかかった場合、その治療をせずに、緩やかな死への誘導が行われた。拒食症状のある人に対しては、放置して餓死へといざなったのである。

さすがにその命令を無視する医師も多かったが、命令を無視する医療機関の院長は更迭され、ナチス党員の医師が新たに院長に任命された。その結果ある病院では、患者の半数が減ったというところもあった。

この指令は後に法制化された。ヒトラーはついに、安楽死を合法とする命令を下したのである。

その安楽死令は、当初は重病の動けない患者・重症の精神病患者に限定されていたが、間もなく「白痴(はくち)」と診断された乳幼児にも適用されるようになった。

このように安楽死の対象者となったのは、不治の病の対象者であり、必ずしも終末期患者に限っていなかったのである。
許されない命の選別
この指令によって命を奪われた人の中には、重度の精神疾患患者が含まれていたという事実がある。今でいう統合失調症の人や、認知症の人も数多く含まれていたであろうことが容易に想像がつく。

そしてその対象範囲は、最終的に安楽死させることを決定する人間の価値観によって大きく変わっていくことになる。その対象が限りなく広げられていったのである。

ナチスがその施策を喧伝するために作成されたパンフレットには、次のような論旨展開がされている。

精神病患者一人当たりに1日4マルクの費用がかかる。家族一人当たりの収入では、公務員で1日4マルク、未熟労働者で2マルク。全ドイツに30万人の精神病患者とてんかん病患者がいる。1家族5人として、どれだけの家族が彼らのために犠牲になっているのか。
精神病院一つ建設するのに600万マルクかかる。住宅1件は1万5千マルクで建つ。精神病院を1件建てなければ、住宅は400戸建てられる。

このような論法でナチスは国民を説き伏せようとし、事実、戦時下のドイツ国民の多くはこの論法を受け入れ、精神病院は不要なもので精神病患者も存在しないようして浮いた費用を戦費に掛けられる支持したのである。・・・2016年(平成28年)7月26日未明に起きた、『津久井やまゆり園の大量虐殺事件』の犯人である植松 聖死刑囚も、同じ理屈で犯行に及んだことは記憶に新しい。

しかしこの理屈のおかしさは、精神病患者が存在しなくて良いという理屈にはなっていない点だ。単に精神病患者がいなくなって、精神病院を建設する必要がなければ費用が浮くという理屈に過ぎず、現に存在する精神病患者が存在しなくてよい理由や、その人たちに社会的費用をかける必要はないという理屈はどこにも存在していない。

自分と少し様子が違うというだけで、無為徒食と決めつけ、いらない命と切り捨てているのである。

弱いものを鞭打つという考え方は、いったん走り出すと雪だるま式に大きくなるのだ。

例えばその論理は、時の政権に異を唱えるものすべてがいらない命と決めつけられる恐れにつながる。

僕のように文筆活動や講演活動を主な仕事としていることも、無為徒食と決めつけられる恐れがあるということだ。

この理屈がまかり通るところでは、やがて「老い」も不治であると切り捨てられる対象になりかねないのだ。

そんなことがあってはならないのだ。だからこそ対人援助の価値前提は、『人間尊重』であり、人として存在していること自体が尊重されるべきというものなのである。

この価値前提を護らねばならない。

人としてこの世に存在している命の価値に、その存在する状態によって差があるなんてことにはならないのである。

人としてそこに存在する命は存在の仕方がどうあっても全て尊い命である。軽重なんてそこには存在しない。

命の価値に差があるなんて誤解を生まないためにも、僕たちは誰に対しても同じ態度で接する必要がある。認知症がある人とない人で、態度を変えるなんてことがあってはならないのである。誰に対しても真摯に手を差し伸べる必要があるのだ。

強い者は人の手を借りずに生きていける。しかし弱い者の中には人の手を借りないと生きていけない人達がいる。しかし人は人を助けることができる存在である。それは時として人は誰かに頼って助けられてよい存在という意味でもある。弱きものは堂々と強き者に護られる権利があるのだ。

私たちの仕事は、そういう人たちに手を差し伸べる職業なのである。他者に「自己責任」を強いるような存在ではなく、自分が他人に対して与えることができる「優しさ」を護る職業であることを決して忘れてはならないのである。
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忘れてはいけないけれど忘れてしまう・忘れてしまいたいあの日。


昨日は朝から津波警報が出されて驚きましたね。避難された方も多いと思いますが、ご無事でしたでしょうか。

海に囲まれた日本・・・そしてあの3.11で多くの方が津波によって命を奪われたこの国で、津波の予報には、どのように敏感になっても足りるということはないと思います。大丈夫だろうという安易な予測は禁物ですよね。避難指示には素直に従ったが、結果的に避難する必要はなかったと思うよりも、何もなかったことをよかったと思うべきですよね。

気候変動の影響からか、台風や水害といった災害も増えています。油断した心に自然は容赦なく鉄槌を下しますので、日ごろの備えは十分にしておきたいものです。

ところで今日1月17日は、阪神淡路大震災からちょうど27年目の日にあたります。

あの日、ニュース画像に映る神戸周辺の被災状況を見て、まさか自分が生きている間に、こんな大きな災害を目の当たりにするなんて思いもかけていませんでしたので大いに驚き、そして心を痛めた覚えがあります。

僕はその当時、登別市内の特養の課長職を務めていましたが、神戸市で被災した女性の緊急入所対応を行うという経験をしました。

その女性は避難所である小学校の体育館で、濡れたおむつを替えることができずに肺炎を発症して緊急入院しておりました。たまたま登別市に親戚がいるということでしたので、その方が入院先での対応に当たり、最終的に登別市に連れてきたいということで対応しました。

その方が暮らしていた家は全壊でしたので、健康保険証や年金手帳・預金通帳など、すべて失われていましたから、それらがない状態で必要な手続きをするのに四苦八苦した覚えがあります。

幸いその方は無事入所でき、数年後にお亡くなりになるまでずっと僕が勤める特養で暮らしておられました。最期は天寿を全うし安らかに旅立っていかれました。

そのように災害から逃れ天寿を全うできた人もいますが、あの震災では6.434人の方がお亡くなりになっています。

そこで亡くなられた方の死とは、1/6.434の死ではありません。それは一人が亡くなった事案が6.434件あったという意味です。震災後の関連死を含めるとその数はもっと増えるのでしょう。

そして一人ひとりの死の周辺には、その何倍もの哀しみが存在することになるのでしょう。失われた人を思い哀しむ人の心の傷は、27年という時が癒してくれているのでしょうか・・・。

今朝、追悼会場の一つである神戸市中央区の東遊園地では、地震の発生時間である午前5:46に灯篭に灯がともされ、「忘 1・17」の文字が浮かびあがりました。
忘れない阪神淡路大震災
」は公募で選ばれた文字だそうですが、その文字に込められているのは、「忘れてはいけない」との思いだけでなく、「忘れてしまう」・「忘れてしまいたい」などの声も反映しているそうです。

そう聴くと、27年という歳月を経ても癒されない傷を心に残している人がいて、被災地ではいまだに慟哭の声があちらこちらに渦巻いているのかもしれません。

私たちはただ手を合わせて、「安らかなれ」と祈ることしかできません。

思えばこの国ではその震災の後にも、「東日本大震災」という未曽有の災害が発生しています。私たちが生きている間に、生きている国で、2度も大震災が発生しているのです。そして今後もそのような災害が発生しない保証はどこにもありません。

だからと言ってそれに怯えて生きていても仕方がありません。介護事業においては、今年度から義務化されたBCP(業務継続計画)をできるだけ速やかに策定し、従業員全員がその内容を熟知し、実効性のあるシステムとする必要があります。

対人援助のプロとして、私たちが考えるべきこともあります。

他人の暮らしに深く介入して、生活支援のために手を差し伸べる仕事に従事する我々は、いつ何の理由で奪われるかもしれない儚い命に寄り添っているのだという使命と責任を自覚し、誰よりも人の命を尊く思い、人間尊重の価値前提をしっかり護る存在として、そこに居なければならないと思うことが大事ではないのでしょうか。

私たちが利用者の命と尊厳を護ることができたとすれば、数々の災害で失われた方々が、生まれ変わるとしたら、またこの国に生まれたいと思うことができる日本が、そこに存在することになるのではないでしょうか・・・。そんな思いを込めて、今日の記事を締めたいと思います・・・合掌。
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成人の日に思うこと


昨年末の押し詰まった時期に、うっかりミスで自分が業務に使っていたメインPCを壊してしまったことを、「2021年末のハプニング」という記事の中で紹介しています。

その後、新しいPCを発注していましたが、7日に新機材が手元に届いてデータ移行作業などを行い、業務に滞りなく使えるように仕上げることができました。
新しいPC
今は新機材で仕事を進めていますが、さすがに新製品はサクサクと動きが良いですね。デスクトップを開いてすぐ自動で電源が入り、あっという間に立ち上がるのでストレスが全くありません。

今後はこのPCを使って今までよりもパフォーマンスを高めて、より良い仕事をしたいものだと思っています。

さて先週土曜日の記事でも紹介しましたが、メディカルサポネットの連載「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾」が新年早々更新され、「介護事業におけるサービスマナー〜丁寧で真摯な対応が顧客と人材を呼び寄せる〜」がアップされています。

無料登録で記事全文を読んでいただけますが、記事最後尾の左下部分には、「評価のハートマーク ♡♡♡♡♡」があります。もし僕が書いた記事内容に共感いただいた方は、ぜひハートマークをクリックいただきたいと思います。今後の励みにもなりますので、どうぞよろしくお願いします。

ところで今日は成人の日の祝日ですね。僕の住む登別市やお隣の室蘭市など、近隣市町村では昨日のうちに新成人を祝う式典を終えています。新成人の皆さんは昨日ゆっくりお祝いして、今日は二日酔いという人もいるかもしれません。

毎年、新成人になったことを誇るように、人前で煙草を吹かしたり、日本酒の一升瓶をラッパ呑みする人の姿が報道画像として流されたりしますが、煙草を吸ったり酒を呑むことが大人の証(あかし)ではありません。むしろことさらそんな姿を人前でさらすことは恥ずかしいことでしかありません。

そのような画図が残って、「若気の至り」と笑っていられる時期もそう長くは続きません。消したい過去になるのが落ちなのです。

年をとればとるほど、ヘビースモーカーや大酒呑みは、人の迷惑にしか過ぎなく思えます。その姿を自慢すること自体が、尻が青いということなのです。

今年4月には、民法改正に伴い成人年齢が現行の20歳から18歳に引き下げられるそうです。そうなるとまだ高校生のうちに成人となる人も多くなるわけです。

そうなると成人という式典の内容も、新成人の意識も少し変わっていくかもしれませんね。しかし時代がどう変わろうと、一人の大人として自覚していかねばならない普遍的真理というものがあるはずです。

新成人の方々には、そうした真理を追究する姿勢を持ってほしいし、その時に考えてほしいことがあります。昨日そのことは僕のFBに書きましたが、このブログにも同じことを書かせていただきます。

成人式を迎えたということは、社会に大人として認められる年齢を迎えたということです。

そのことをきっかけにして大人とは何かということを考えてください。

例えば、大人の責任と自覚を持って、人に迷惑をかけないようにするという考え方は決して間違ってはいません。正しい考え方だと思います。

しかし人は生きていく中で、誰にも迷惑をかけないことはあり得ないのです。すべての責任を自分でとることも不可能です。

特に若い時期は失敗する時期なのです。だからこそ失敗を繰り返しす度に、そのフォローを誰かにしてもらわねばならないのです。決して失敗せずに、誰かに頼るという経験がないまま、順調に年を重ねている人なんていないのです。

だからこそ、どうぞ人に頼ってください。人に頼ることができる幸運を喜んでください。その代わり、頼った人に助けられた恩や感謝を忘れない人になってください。

人は人を助けることができる存在なのです。そのことが人間という存在の素晴らしさなのだと感じてください。それが何よりも尊いということを理解してください。

そしてどうぞ立派な大人になる前に、感じの良い大人になってください。

それが素敵な大人になるということだと思いますよ。
新成人に捧げる言葉
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命の儚さに触れて思うこと


年の瀬という声が聴こえてくるようになった押し詰まったこの時期に、やりきれない悲惨な事件が起こった。

大阪北新地の精神科クリニックの放火殺人事件は、重体となっている犯人が事前に予行演習として自宅にも放火するなどして、念入りに計画して無差別大量殺人を狙った犯行だったと推察されている。

大阪の繁華街で夜遅くまで、働く人の鬱病やパニック障害・発達障害などをサポートし、患者の希望と呼ばれた49歳の院長をはじめ、尊い24人の命が犠牲となった事件は、犯行動機が何であろうと決してあってはならないし、許すことができない事件である。

このような悲劇に遭遇しても、僕たちにできることは犠牲者の方々に深く哀悼の意を示すことくらいしかない。そしてこのような事件が二度と繰り返されないように祈ることしかできない。しかし過去を振り返ると、こうした悲惨な事件が無くなったためしがないことも事実だ。

そうであれば私たちは、ただ空しく自分の無力を知るだけで、あきらめてしまうことしかできないのだろうか。

決してなくならない悲劇・・・許されない事件の繰り返しに対して、私たちができることは何もないのだろうか。

おそらく直接的に世の中を良くしたり、事件を防いだりする力は、僕たち個人にはないのだろう。

しかし人としてこの社会に生き、様々な社会活動をしている責任ある存在としての自分を考えたとき、私たちが自分の身の回りの中でできることはあるのではないかと思う。そう信じたい・・・。

僕たちは自分以外の誰かの暮らしに深く介入して関わる対人援助の仕事に就いている。それは自分以外の誰かの暮らしに直接かかわりを持つという意味である。時にその仕事は、向かい合う誰かの暮らしを支えるだけではなく、命を支えることにもかかわる仕事である。命が燃え尽きる瞬間まで関わりを持ちながら、最期の瞬間まで尊厳ある人としての暮らしを支える役割をも持っているのだ。

そういう自分が、命の儚さを誰よりも理解し、だからこそ命は尊いのだということを意識して、日々の仕事に向き合うことが大事だと思う。

自分が支援者として関わる利用者に対し、その人が置かれた環境や身体機能の違いに関係なく、人として敬う態度を失わないことが必要だと思う。能力の違いで知らず知らずのうちに人を差別視するようなことがなく、向かい合うすべての利用者を人として愛おしく思い、真摯に寄り添うことができてこそ、人の暮らしと命に向かい合う意味が第3者にも伝わるのではないだろうか。

当たり前のことだが、失われた命は二度と戻ってはこない。命を失った人に対して、そのあとにできることはないのである。だから今日できることは明日まで引き延ばさない心がけが必要だ。日々の営み、日々の関わりに悔いが残らないようにしたいと思う。

そのことをたくさんの仲間と伝え合い、同じ思いを持つ人の輪の中で、幸せや笑顔の樹形図を描く方法論をたくさん見つけていきたいと願うのである。

僕たちに今できることは、尊い命が理不尽に奪われたという現実を直視し、あらためて儚い命の尊さをかみしめて、命は護られなければならないものだということを伝えていくことだろうと思う。

だからこそ僕たち自身が、誰よりも命の尊さを想い抱きながら日々の職務に携わっていかねばならない。

そのことで、誰かに伝わるものがあるとしたら、世の中は0.1ミリでしかないかもしれないけれど、良い方向に進められると信じて、今いる場所で誰かのあかい花として咲き続けたいと思う。
儚い命の尊さ
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報われない努力は、足りていない努力と思おう


何かと話題の日本ハムファイターズ・新庄剛志新監督。

明日30日はファイターズのファンフェスタが札幌ドームで行われる予定だが、新庄ビックボスが参加するということで、北海道では民放地上波で、フェスタが完全生中継されることになった。

19時〜21時までのゴールデンタイムと呼ばれる時間帯のテレビ番組を変えてしまうのだから、すさまじい新庄フィバーである。

そのビックボスが自身のTwitterで、「努力」についてつぶやいている。

努力をしてない人間ほど、すぐ人のせいにし、不貞腐れ自分から逃げる」・「地味な努力こそ派手になれる…。

新庄ビックボスは、派手なパフォーマンスのイメージで捉えられることが多いが、現役時代誰よりも練習を怠らない人であったということを、多くの関係者が証言している。

メジャーリーガーだった当時は、そんな努力に見向きもされず、日本人であるという理由だけで干されて、自分よりずっと成績の悪い白人選手を使い続けた監督の下でもプレーしていた時期もある。それでも決して腐ることなく、努力をし続けたのである。誰も見ていない場所で・・・。

そんな努力を現役を終えるまでずっとやり続けたことが、今につながっていると言えるのではないのだろうか。

そうした努力とは、スポーツだけに求められるものではないことは今更言うまでもない。努力の必要のない仕事なんてあり得ない。

しかも求められる努力とは、決して表に出るものではなく、終わりのあるものでもない。毎日コツコツと、地味に続けていくのが努力の本質である。

なぜなら努力は誇るものではなく、当たり前にするものだからである。

僕たちも介護の場で、そうした努力を続けていかねばならない。人の暮らしに関わっているのだから、これで十分というで立ち止まってしまえば、昨日までの利用者ニーズにしか対応できなくなる。

それは明日からの暮らしに対して、利用者が求めていることには少しずつ足りなくなることかもしれないのである。

介護サービス利用者の方々が、今日良かったと思ってくれることをし続けることも必要だ。しかし介護を必要としている人は、日々困ることが違ってくるのだ。特に高齢になればなるほど心身の衰えは、どんなに頑張ろうと止められないのである。

自立支援が大事なことはわかっているし、人の手を煩わせず自分で何もかもできたらと願う気持ちは誰しも持っている。

その願いや思いも通じなくなる状態変化というものに直面するというのが、介護サービス利用者の方々の現実問題なのである。

そこでは昨日良かれと思った方法論が、今日から全く通用しなくなるということも、ごく普通にある。その変化や新たな対応に、「気づく努力」は、僕たちに毎日求められていくのである。

しかし努力は必ず報われるとは限らない。人の頑張りはすぐに結果に結び付くものではないからである。

でもそれは努力も時には人を裏切ると考えるのではなく、今は努力の途中であって、それに報いる結果は努力をし続ける先にきっと現れるのだと思ってほしい。決して途中であきらめてほしくない。

利用者に丁寧で温かい対応がしたいと思って日々努力しても、周囲がちっとも同調してくれない、変わってくれないと思っている人がたくさんいると思う。だからと言って、あなた自身がその努力をやめてしまえば、その努力に報いる結果は決して現れることはなくなってしまうのである。

あきらめずに努力をし続ける限り、その先には新しいステージが存在することを信じてほしい。

他人と過去は変えられなくとも、自分と未来は変えることができるのである。

僕は北海道の片田舎から毎日コツコツと情報発信をし続けている。インターネットを通じた情報発信を行うようになったのは、介護保険制度創設と時期をほぼ同じくしているので、21年以上そのことを続けている。

もしそんなことを続けていなかったら、出版社数社から自著本を何冊も上梓することもなかったろうし、今のように執筆や講演という仕事をいただいて、そのことによって対価を得ることもなかったろう。

何より僕の主張に耳を貸してくれる人はいなかったろう。

しかし地道な活動をし続けていることによって、「介護サービスの割れ窓理論」を知ってくれる人や、賛同してくれる人もたくさん増えたし、介護事業におけるサービスマナーの必要性を意識してくれる人も全国にたくさん増えている。

竹内理論による水分の大量強制摂取という、根拠なき悪魔のごとき不適切ケアを、批判糾弾する声は僕だけしか挙げていなかった時期もある。

しかし情報発信をし続けたことによって、虐待ともいえる強制水分摂取の実態を告発する情報が集まりだし、僕の意見に賛同する声が増え、それは竹内理論実践施設の声を席巻していった。そして今ではその方法論が間違っていたと、その方法論を推奨していた団体も自己批判するようにまでなった。

介護事業者の数は、介護保険制度がスタートした2000年以降に急激に増えている。だからこそ知識の浅い状態で、過去の間違った方法論に洗脳されたまま、ちっともそこから抜け出せないで、品質の低いサービスにとどまっている状態も見受けられる。

だからこそそうした人々に、変える努力を促すとともに、その人たちが間違った状態に気が付くための、伝える努力もし続けなければならない。

その努力に終わりはないのだと思う。逃げないで続けて、介護によってこの国の未来に光が射すようにしたい。

介護支援が必要な人たちの豊かな暮らしの実現・・・それが介護にとっての「派手さ」であると思っている。
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感動話の影に放置される哀しみがあっては意味がない


介護事業に長年携わっておれば、そこで刻んだ様々なエピソードの中に、人に語れば感動される話なんて山ほど手に入れることができる。

だけどそれが何だと言いたい。

僕たちが求められているのは、利用者の方々の日常支援である。介護を必要とされる方々が、「ごく普通の暮らし」を送ることができるように、支援の手を差し伸べることなのである。

心身に障害を持つ人は、「普通の暮らし」を送ることに支障を来すような様々なバリアに向かいあっている。そのバリアを取り除いて、暮らしを送るための不便が生じないようにアプローチすることが何より大事である。

そうした日常を創り出したうえで、そこに感動的なエピソードが加えられるとしたら、それは歓迎されるべきことだろう。

しかしそうしたエピソードを創り出すことを目的化してはならないのだ。それはあくまで日常のケアの品質を高めた結果として生まれるものでしかない。

むしろ感動的なエピソードの影で、哀しみや苦しみ、痛みや不安に震えている人がいないかということが問題なのである。

誰かの悲嘆の上に積み上げられる感動なんて何の意味もないのだ。

僕たちがどんなに努力しようと、僕たちが向かいあう全ての人を一斉に幸せにしたり、笑顔にしたりするなんてことは出来ない。けれども僕たちの目の前にいる一人一人の哀しみや苦しみ・不安に寄り添うことは出来るはずだ。

哀しんでいる人や苦しんでいる人の傍らに寄り添って、そこから抜け出すには何が必要かということを考え続けることが必要だ。やがてその人たちが笑顔になれるとしたら、そこで僕たちも一緒に笑い合えばよい。

生活支援とはそういうことの繰り返しなのである。特別なことより日常を大切にしなければならないのが、「介護」なのである。そしてそれこそが対人援助の本質といえるのだ。

しかし、「人はパンのみにて生くるものに非ず」ともいう。日常を淡々と創り出しながらも、心弾む機会も創っていきたいと思うのは当然である。

特別な日やイベントは、人の心に潤いを与える大切なエピソードでもある。

だがそこでも勘違いをしてはならない。介護サービスを利用している人を、全員集めて行うイベントを、すべての人が愉しむことができるなんていうことはあり得ないのだ。

好みの問題を別にしても、その時に置かれたその人の状況によっては、愉しむ余裕もなく、愉しめる気持ちになれない人もたくさん居られるのである。

そうした人を無理やり人が集う場所に引っ張り出しても、心身の活性化なんてできるはずがない。

だからこそ何かに参加しないという権利もしっかり護らねばならない。

皆が集う場所に楽しんで参加できない人がいるとしたら、その理由を探り、その人にあった別の活動を探したり、作ったりすることも大事である。ポケットの中に一つの道具しか入れていないのでは選びようはないが、ポケットの中身を増やして、利用者の選択肢を広げることが介護支援者には求められるのだ。

だが人によっては、参加しない理由を詮索されることさえ嫌う人がいる。その思いも受容しなければならない。

自分ではない第3者の暮らしに深くかかわる仕事ということは、そうしたデリケートな思いにも気を配らねばならない仕事なのである。

そもそもQOLとは、いやな活動に参加しても向上することはない。その当たり前のことを忘れずに、それでもなお、「暮らしの潤い」を求めて一人一人の心持ちに思いを寄せ、工夫のための知恵を傾けるのが私たちの仕事である。

そうした精神作業が伴う介護という仕事に、誇りをもって取り組んでほしい。そのことが一条の光となって誰かの心に届くことを、それが希望というものになるということを信じて、「あきらめない介護」を続けてほしいと心から願う・・・。
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あふれだす愛を伝えるために


介護という文字を紐解くと、介とは心にかけるという意味を持ち、護は云うまでもなく護るという意味である。

だからこそ介護という仕事は、単なる動作介助に終わることなく、行為そのものを手助けして、個人の暮らしの質を、心にかけて護ることが求められる仕事である。

そうはいっても現代社会において、介護事業は数ある職業の一つに過ぎない。対人援助に対する志を高く持った人だけが、そこに就職してくるわけではないのである。

しかも介護という行為は、機械が人に替わることができない部分が多く、必然的に多くの人手が必要になる。だからこそ介護事業では常に人手不足で、たくさんの募集が出され、そこに応募してきた人間は、スキルに関係なく貴重視され雇用される傾向が強い。

その中には人に対して思いやりを持つことができない、対人援助という仕事に向かない人も多々含まれることになる。そしてそこには教育の手が届かないどうしようもない人材の残骸も含まれているのである。そういう人も淘汰されずに残ってしまうというのが介護事業の現状でもある。

そもそも仕事を求めてたまたま介護事業者に就職しただけで、そこで教えられた業務をこなしているだけの人に、利用者を心にかけて護れと言われても、その意味さえ理解できないのは当然と言えば当然でもある。

だがそのことを嘆いてもしょうがない。そのような人罪を選別して、人材を育て人財を創り上げている事業者もあるのだから、そうした事業者の存在とノウハウを伝えて、そちらの方向に介護業界全体が向かうことができる指標を示すのが僕たちの仕事でもある。

所詮、きゅうりは茄子には育たないのだから、すべての人が介護人材としてふさわしい仕事ぶりになるなんて幻想を抱かず、介護実務に従事する人のマジョリティは、対人援助のプロとしてふさわしい仕事ぶりであるというふうにしていきたい。

そのために全国の介護人材と繋がりあって、情報交換し合ったりしているが、志を同じくする人々に勇気をもらったり感心させられたりして、僕のモチベーションは維持されている。

家族や友人は勿論のこと、そうした繋がりあっている仲間の存在と、常に静かに見守ってくれているこのブログの読者の存在によって、僕はものを書いたり、話をしたり出来ているわけである。

つまり僕はそうした人々や、僕の周囲の環境によって『生かされている』ということになる。

繋がりのある方々からは、常に様々な刺激をいただいている。それは自分の本質的部分での変化や成長を求められるメッセージと思えることも多い。

生きることの苦しみ、その重さと尊さ、今ここにいられることの『幸い』を、以前にも増してて教えていただいているように思える自分が今ここにいる。

そうしたメッセージや期待に、自分がすべて応えることができているわけではない。

しかしできるだけ嘘のない形で、僕を応援してくださる方の思いに真摯に応えていきたいと思っている。それが自分の現在の仕事や社会活動の支えにもなっている。

介護業界には、自身の心身の健康や、願っていた夢や想い・かけがえのない人といった大切なものを失いながらも、なお他者への思いやりを忘れない人がいる。
あふれだす愛
僕が現役中に起こったいくつかの大災害の最中に、自分が被災していながら、他者を慮って、その人たちの支援のためだけに被災地を走り回っている介護関係者は少なくなかった。

それは決して簡単に実行できることではないだろう。でも介護業界には、幾人もそのような人達が存在していることも事実だ。そのことを誇りに思う。

自分にとって大切な人や物を失った人は、今も完全にその心が癒されているはずがないのに、深く傷ついたゆえに、人の痛みに寄り添うと努めておられる。

そうした人たちが行動で示してくれる愛の形を、文字や言葉にして様々な人に伝え、後世にもその足跡を残していくことが僕の使命でもある。

介護実務に携わる人々の、その周囲にあふれだす愛を伝える仕事が、僕に与えられた仕事だと思う。

そんな僕の活動を紹介する動画、『さくらびとmasa』も是非ご覧になっていただきたい。

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こもれ陽


僕たちが携わっている福祉や介護とは、いまさら言うまでもなく対人援助サービスである。

それは一人一人の個性ある人間に対して向かい合うものだ。

だが、そこではそあくまで職業として利用者に向かい合うのであって、奉仕活動として無償で他者に関わっているわけではない。

福祉援助や介護という職業を続けているのは、そこで生活の糧を得ているからであり、その目的が達せられないとしたら、別な職業を探すことにならざるを得ない。どんなに今の仕事が好きであっても、生きるための生活の糧を得られないのであれば、対人援助という職業に携わり続けていられる人はいないだろうと思う。

そもそも対人援助の職業に携わっている人が、必ずしも高邁な理念や志(こころざし)に根ざして、その職業を選んでいるとも限らない。

たまたま介護の仕事に就いたというだけという人もたくさんいるはずだ。

それはそれで良いのである。動機や理由はどうあれ、対人援助という領域に係るようになった時を境にして、その時点から正しい知識を学び、適切な技術を身に着けて、利用者に真摯に向かい合う姿勢を護ることが大事だ。それさえできれば就業動機なんて関係なくなるのだ。

だからこそ職業として対人援助に関わる以上、福祉援助や介護のプロとして恥ずかしくない知識と技術を身につけなければならない。

介護をしている家族と同じレベルで物事を考えないでほしい。そこで求められる関係性とは、決して家族のように遠慮ない関係性ではなく、介護を受ける方に対するプロの介護支援者としての関係性である。

当然のことながら対人援助のプロとしての、「結果」も求められてくる。

「頑張ったけれど暮らしぶりを良くできませんでした。」・「そんなつもりはなかったけど、気分を害して申しわけありません」・・・そんな言葉も言い訳も通用しないのである。

だからこそ福祉援助や介護という仕事に携わる人には、対人援助とは何かという本質を学びとってほしい。新人教育に当たるリーダーや管理職は、仕事の手順を教える前に、職場の理念とともに、その本質をしっかりと伝えてほしい。

僕たちがどんなに高邁な理念や、高い志を持とうとも、僕たちのできることには限界がある。僕たちの仕事で世界中の人々が幸福になることはないし、世界平和に結びつくこともないだろう。

僕たちができることは、ほんの小さなことにしか過ぎず、僕たちの目の前にいる利用者の方々に、一瞬の笑顔を届けられるだけなのかもしれない。

むしろ目の前の利用者の方々にさえ、僕たちの思いが伝わらない瞬間も多い。だがそのようなジレンマを抱えつつも、利用者の方々の次の瞬間の笑顔を想像して、その笑顔を作り出すものは何だろうと考え続けて関りを持つ先に、「ありがとう」という言葉が返ってくることもある。

そんな小さなことを誇りに思い、喜びを感じる人になってほしい。対人援助のスキルとは、そうした小さな出来事に喜びの感情を持つことが出来ることも含んでいるのだと思う。そのために何が必要で、何ができるのかを想像し、気づくことができ、実践する人が求められているのだと思う。

僕たちは北風に震えるすべての人々に光を当てる太陽のような存在にはなれなくとも、陽の当たらない陰をさまよう人に少しだけ明るさを届ける存在にはなれるのだと思う。

枝葉の間からさし込むほのかな光のように、私たちの目の前の影の中にいる人々にとっての、「こもれ陽」となれるのだと思う。

そのように人に優しい存在になるために何をすればよいのだろうか。そのことを日々考え続け、実践し続ける人がいなくなれば、介護を受けなければならない人の周囲には、深く暗い闇が広がり続けるだろう。

そうならないように、一人一人の福祉援助者・介護職員が、こもれ陽を届ける人になることを願ってやまない。

こもれ陽とは、決してまぶしい光ではなく、優しく温かなものであることを忘れてはならない。
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闇に灯(とも)る月明かりのように・・・。


中秋の名月とは、もともと旧暦8月15日の夜に見える月のことをいいます。

それが新暦では9月21日になるわけです。

昨晩21日(火)は、その中秋の名月が8年ぶりに満月の日付と一致した夜になりました。皆様の地域では月が見えたでしょうか。

道内は昨晩、雲が多い地域が多かったのですが、雲の合間から月が見られる時間もあって、そのタイミングを見計らって写真撮影する人の姿が数多く見られました。

そのためインスタグラムなどのSNSには、夕べからまん丸い月の写真が次々とアップされています。皆さん撮影がお上手ですね。
五稜郭を照らす月
画像は北海道函館市・五稜郭に浮かぶ中秋の名月で、知り合いから送っていただいた画像です。

燦燦と降り注ぐ太陽の光に希望を感じることも多いのですが、淡くほのかに照らしてくれる月明かりは、太陽のない時間の闇を振り払ってくれる、とても心強い灯(ともしび)です。「月明かりを頼りに夜道を歩く」というふうに言われたりしますが、闇を払ってくれる月の灯は、とても頼りになる存在です。

制度がどうなろうと、科学がどんなに進歩しようと、世の中には不公平なことや理不尽なことがたくさん存在し続けます。それは文明がどんなに発達しても決してなくなるものではないのでしょう。

光が降り注ぐ場所がある反面に、影は必ず生まれるのです。

私たちが従事する、「対人援助」という仕事は、そうした不公平や理不尽に手を差し伸べたり、光が当たらない影の部分に灯りをともす仕事です。それはまるで闇に浮かぶ、ほのかな月の灯のようではないですか。

私たち一人ひとりは、世界中に降り注ぐ希望の光にはなれなくとも、その陰に隠れて震える人を見つけ、そっと闇を払うことができるように灯をともす存在になり得るのではないでしょうか。

その灯りは、私たちの身の回りの人にしか届かないものかもしれません。私が一人で世界中に光を降り注ぐことなんてできないのです。でもほのかな灯りを届ける人がつながり広がれば、払われる闇も広がるのです。

そっと差し伸ばす手の届く場所で、わずかな灯りであっても、それを届けることが出来れば、世界は少しだけ明るくなるのです。

私たちの仕事の本質とはそういうものではないのでしょうか。

だからこそ、私やあなたができることは小さなことかもしれませんが、その小ささを決して恥じることなく、行い続けていくことが大事なのではないでしょうか。できることだけで良いから、確実にし続けることが私たちに与えられた使命ではないでしょうか。

私たちの届ける灯りは、とてもほのかで、それは私たち自身さえも気が付かぬ程度の明るさでしかないかもしれません。しかしそのほのかな灯は確実に闇を払い、その闇の中で立ち往生していた人の支えになるのです。

そう信じて、今日も明日も小さな灯をともし続けませんか・・・。優しい月明かりのように、誰かが迷い込んでいる闇を払っていきたいと思いませんか。

どうぞ、同じ思いでつながる人が増えていくことを願います。どうぞ、そういう方々と繋がり続けたいと思います。

そしてどうぞ、私たちとともに手を指し伸ばし続ける人でいてください。
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スキムミルクの雨と焦げた匂いの病室


スキムミルクのにおいがする雨が降っていた夏の午後、飼っていた子犬が天国に逝きました。

幼なかった僕は、その時大きな声で泣きました。だけどいくら泣いても、子犬はピクリとも動きませんでした。

僕が命の儚さを知った瞬間だったかもしれません・・・。

むき出しになった銅のパイプから、焦げた食べ物のにおいがする古い病室で、幼い従兄弟(いとこ)は天国に召されました。

彼が旅立った瞬間を僕は知らずに待合室で寝ていました。大人たちのなんとはないざわめきの中で、そのことを知っても実感がありませんでした。

窓の外には青白い風が流れ吹いている冬の朝のことでした。

子犬も従兄弟も、大人になることができませんでした。そのチャンスを与えられることはなかったのです。

天国に昇ったのだから、もう痛みも苦しみもないのだと大人は言いました。でも僕は痛みや苦しみがあっても、子犬も従兄弟も生きていたかったのではないかと思いました。

でも誰も、子犬や従兄弟を救うことは出来なかった。

病院も医者も看護師も、従兄弟が生きたまま苦しまなくなるようにできなかった。

どんなに小さい命も、愛おしい命も、時によって簡単になくなってしまうことを知りました。

けれども僕たちは今ここに生きています。いつまで生きていくのかはわからないけれど、ここにいます。

小さいまま、幼いままで失われていく命と、そうではない命の違いはどこにあるのでしょう。

人も動物も死ぬために生まれてきたのではないはずです。結果的に死は生きることの先に必ず訪れるけれど、それは生き終わった結果ではないかと思うのです。でも幼くして召された命は、生き終わったのでしょうか。

小さいままで天に召された生命は、どんな意味をその生に与えられていたのでしょうか。

命の儚さや、命の尊さ・・・愛するものと別れることの哀しみやつらさを、人に知らしめるために、その命は存在したのでしょうか。

でもそれは必要なことなのでしょうか。

たった一つだけ確実に言えることは、大切なものであっても、それをいつまでも持ち続けることは、とても難しいことなのだということです。人は簡単に何かを奪われることがあるということです。

だから大切な人や大切なものの、「今」を大事にしなければと思います。

明日じゃなく、今しか大事にできないものがあるのだと思います。

スキムミルクのにおいのする雨は、あれ以来降りません。

むき出しの銅のパイプの病室はもうありません。

今はただ、においも色もない風が僕の周りに吹いているだけです。
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華子さんの約束


僕が総合施設長を務めていた特養では、「看取り介護を密室化させない」というコンセプトがあった。

看取り介護になった瞬間から、その人が施設内で看取り介護を受けていることを隠すかのように、人が訪ねてこない個室に押し込み、そこでどのような介護を受けながら過ごしているのかを、他の利用者がうかがい知ることもできずにいる状態がよいはずがないと考えていた。

同じ施設で暮らしている他の入所者との交流も一切なく、その姿が皆の目の前から消されたまま、やがてひっそりと息を引き取る。・・・それが看取り介護だとしたら、こんな哀しい介護はないし、その最期はあまりにも孤独だと思った。

そのような無情で寂しい旅立ちが、看取り介護の結果であってはならないと思う気持ちは、今も変わらない。

そもそも他者がどのように看取り介護を受けているのか、想像するしかない場所で、自分に残された最期の貴重な時間を使いたいなんて思うことができるだろうか。

看取り介護の実践が見えない場所で、「看取り介護もできますけど、終末期になったとしたら、どうしたいですか」と問われても、そこで看取り介護を受けたいなんて思うわけがない。

特養は、「家」ではないが、「暮らしの場」である。利用者と利用者の関係性とは、「家族」ではないが、「知人」であり、「友人」である場合が多い。

特養という暮らしの場で、縁あって同じ時期に交流機会を持っていた友人・知人として、残された時間がもうわずかであると明らかになった人がそこにいるとすれば、お別れの思い出を刻んだり、お別れの言葉を交わし合ったりする機会を持つことは大切なことである。

自分の命が尽きても、誰かが自分を覚えていてくれると思えたり、思い出してくれると感じることは、自分が生きてきた証を強く実感できることにつながるのではないだろうか。看取り介護とは、そうした思いを得ることができるエピソードっづくりの時間である。

何よりそこでは、「寂しくないよ、怖くないよ」と声をかけてくれる人の存在がある。「死の瞬間」が頭によぎる人にとって、それは何より救いとなる温かい言葉になるのではないだろうか。

誰もいない場所で、「私はどこに行くんだろう」・「寂しくてやりきれない」と感じて過ごすより、誰かがいてくれることだけで、安心できる人は数多いことと思う・・・。

そんな思いを強くさせてくれた理由の一つに、華子さんの存在があった。

華子さんは、「せっかく縁があったんだから、最期まで寂しくさせないようにお手伝いしますよ」と言いながら、看取り介護の対象となった人の傍らで、声をかけたり唄を口ずさみながら、最期の瞬間まで声は届くと信じて寄り添ってくれる人だった。

元看護師だった華子さんは私たちに、「聴覚障害のない人は、耳は最期まで聴こえているんだから、意識がなくても声をかけ続けるのは意味があることなのよ」「聴こえるから寂しがらせないように呼び掛けなさい・声をかけなさい」と教えてくれた。

華子さんはこんなことも言っていた。「私も最期は寂しいのはいやよ」と・・・そして、「でも私は怖がりだから、もうすぐ死ぬということは教えないないでね」と言いながら、「そんなこと言わなくても、きっと最期はわかるから」・「それでも念押ししちゃだめよ。ただ側について、怖くないよ、寂しくないよと声をかけてくれるだけで良いのだから」と言っておられた。

それが華子さんと僕たちの約束事でもあった。

そんな華子さんが、末期がんで旅立たれたのは、看取り介護を受けてからちょうど2週間目の昼下がりのことだった。

その日、柔らかな日差しの中で、家族や施設のスタッフと知人が、たくさん集まった華子さん個室は、順番に人が入れ替わらなければいられないほどのたくさんの訪室者があった。

「華子さん、聴こえるかい」・「私よわかるでしょ。聴こえるでしょ」・・・そんな声はすべて華子さんに届いていたと思う。

亡くなる少し前に、華子さんの頬に一筋の涙が伝った。あれは哀しみの涙ではなく、最期みんなとお別れができたといううれし涙だったと思っている。

そして死期が近いことを告げられることなく、自分で悟った華子さんは、最期は静かに安らかに旅立っていかれた。

私たちと華子さんの約束は、こんな形で果たされた。
無題
※上の画像は看取り介護対象者の白寿のお祝いを1週間早めて実施したときのもの。周囲の人たちが終末期を生きる人を、身体・精神両面で支えるのが看取り介護。人生最終ステージを生きていることを意識しながらも、人生最期の誕生日もみんなで一緒に祝います。(※本ブログで紹介した、華子さんのケースとは別です
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戦争体験者とともに迎える終戦の日に思うこと


北海道は毎年、お盆を過ぎると秋めいた風が吹く日が多くなる。

登別市の今年の夏は、例年になく30度を超える日が続くなど異常な暑さだったが、案の定お盆期間に涼しい風が吹き始めた。

今日と明日の明日の最高気温予測は20度となっているが、今日などは風があるため体幹気温はかなり低い。おそらくもう25度を超える日もなくなると思われる。8/10に台風10号から変わった温帯低気圧が通過した際に大雨になったが、その日が暑い夏から秋に変わる境目になったのかもしれない。

先週はたくさんの人が、週末前からお盆休みに入って、昨日まで連休だったようだ。介護関係者は、そのような休みもとれない人も多いのは承知しているが、運よくお盆休みがとれて英気を養うことができた人は、今日からリフレッシュしてよい仕事をしていただきたい。

私たちが元気に良い仕事をするということは、目の前の対人援助サービスの利用者の方々が、より幸せになってくれるということだ。そういう結果を求め続けるのが、対人援助サービスであることを忘れてはならない。

さて昨日・8月15日は終戦記念日だった。日本にとってそれは敗戦記念の日でもある。

76回目の終戦の日は、あの戦争を経験した世代の方々がまだたくさん生存して迎える日でもある。

僕自身は終戦の日から15年目の8月生まれなので、戦火の爪痕さえ感じることなく生まれ育った、「戦争を知らない子供たち世代」である。

しかし戦争体験者と戦争を知らない世代の我々が、ともに終戦の日を迎える期間はそう長くは続かない。

いずれこの日本は、太平洋戦争を知らない世代の人間だけが暮らす国になる。だからこそそうなる前に、戦争体験者の方々から伝え聞いておくべきものがたくさんあるような気がする。

語り継がれる様々なエピソードを通じて、なぜあの戦争が起こり、なぜたくさんの方々が犠牲にならなければならなかったのかを深く考えなければならない。

戦犯は敗戦国にしか存在しない。しかし人類最大の犯罪は、非戦闘員である無辜(むこ)の一般国民を巻き込んだ大量虐殺である原爆投下ではないのか。ジェノサイドとは、そのことを例外にして語ることはできないのではないのだろうか・・・。過去のことより未来を考えなければならないが、未来を考えるためにもそうした矛盾に目をつぶらず、人類全体でその評価をきちんとしておかねばならないのではないだろうか。

そのうえで考えなければならないことがある。

この日本という国は、ずっと他国と戦争をしなくてよい状態が続いて平和な国でいられるのだろうか。今私たちの周りは本当に平和で安全なのだろうか。平和を護り続けるために私たちは何をすべきなのだろうか・・・。

下記のご像をご覧いただきたい。
終戦記念の日
ある意味、有名なこの1枚の写真は、終戦直後の長崎市で、米国人によって撮影されたものだと言われている。

これは小学生と思しき少年が、亡くなった幼い妹を背負い、焼き場で順番を待ちながら並んでいる写真だそうである。この少年が誰だったのか、その後どういう人生を歩んだのかという消息は伝わってない。撮影者が数年後に消息を調査したが見つからなかったそうだ。

愛する家族を・・・まだ幼いうちに命を落とした妹の亡骸を背負いながら、直立不動の姿勢で焼骨を待つ列に並ぶ少年の気持ちというのは、平和な時代に暮らす私たちの想像の外にある。

ただ一つ言えることは、こうしたやるせない姿を、「やむを得ない」とか、「仕方がない」とかいう時代にしてはならないということだ。愛する家族を戦火で失う日常を創ってはならないということである。

介護という職対人援助という職業を通じて向かい合う人の中には、戦時中、物資が不足するなかで、食べるものがないひもじさを経験し、自分や愛する家族の命がいつ失われるかもしれない怖さと儚さを毎日体験してきた人たちが数多く含まれている。

そういう人たちがあの戦火をくぐりぬけて、「長生きしてよかった」と思うことができるのか、「こんな思いをするのならば、いっそあの時に死んでおけばよかった」と思ってしまうのかは、ひとえに私たちがその方々に向かい合う姿勢にかかってくるのではないだろうか。

対人援助・介護という職業の、そういう重たい使命と向かいあったうえで、その重たさにつぶれず、その重たいものを背負って、その使命を果たす責任を常に意識してほしい。

人の命と暮らしに、真正面から向かい合う職業の使命と誇りを忘れないでほしいと切に願う。
介護という職業
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広島の空・長崎の空2021


平和の祭典であるオリンピックが終わった今日8/9は、振り替え休日で3連休の最終日となっている。

そしてこの日は、76回目の長崎原爆の日だ。

先週金曜日(8/6)の広島原爆の日とともに、日本人が真剣に平和というものを考えなければならないの日でもある。

被爆の日から76年目の広島と長崎に、今どんな時間が流れ、どのような人々の息吹があるのかを改めて考えるとともに、あの戦争と犠牲になった数多くの人々の魂について考えなければならない。

この日の前後に毎年、「広島の空・長崎の空」と題したブログ記事を書いてる。今日も祈りの心と、平和の思いを込めて同じタイトルの記事を書こうと思う。

76年前の長崎のその日は、天気の良い暑い日であったそうである。前日に台風が通り過ぎた長崎の今日も、日中の最高気温が30度を超える暑い日になっているようだ。

歌手のさだまさしさんが書いた、「広島の空」という唱の中に、次のようなフレーズがある。
--------------------------------------------
あの街が燃え尽きたその日、彼は仲間たちと蝉を追い続けていた
ふいに裏山の向こうが光ったかと思うと、すぐに生温かい風が彼を追いかけてきた
蝉は泣き続けていたと彼は言った。あんな日に蝉はまだ泣き続けていたと・・・。
短い命惜しむように・・・。

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今日も長崎では蝉が泣き続けているだろうか・・・。

僕は、「戦争を知らない子供たち」の世代だから、自分が生まれたこの国が他国から攻撃を受けて、たくさんの同国民が命が奪われたことを、どこか遠い場所から見たり聞いたりしているだけの実感しかないのかもしれない。

そんな僕らは、実際にあの戦争を生き抜いた人達から見ると、何もわかっていない人間とみられているのかもしれない。

だが僕たちはこの国に生まれ、この国で生き、やがてこの国の土になる存在である。

だからこそ、戦争を知る人たちから教えられたことを、僕らより若い世代に伝え継いで行くという役割があるのではないかと思う。

広島を訪れると街中に近代的な風景が広がっている。そのような周囲の景観とは似合わない、枠組みと外壁だけが残される原爆ドームを目にする。

長崎に行けば、空港から市内に向かうリムジンバスの車窓から、「平和公園」が見えて、祈りの声が聴こえてくるような気がする。

この二つの地に、人類最大の蛮行ともいえる原爆投下がされたのである。

8月6日の広島への原爆投下当時、広島市には居住者、軍人、通勤や建物疎開作業への動員等により周辺町村から入市した人を含め約35万人の人がいたと考えられている。それらの人のうち、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計されている。

8月9日の長崎への原爆投下時、長崎市の人口は約24万人(推定)であったそうだが、12月末までの死者数は7万3884人、重軽傷者7万4909人に上ると推計されている。

こんなに多くの人々が犠牲になっているのだ。広島と長崎という二つの町は、一瞬にして草木も何もない焦土に変えられたのだ。

現在の広島市の中心部は都心のような近代的な街並みが広がっているが、市街地に幾筋もの川が流れ、山すそには懐かしい田園風景が広がっている。広島に面しているのは大小の島々が浮かぶ穏やかな瀬戸内海であり、日本人の帰郷の心を揺さぶる美しい街だ

現在の長崎市も、異国情緒あふれる風光明媚な美しい坂の街である。
長崎の夜景
特に、「稲佐山公園展望台」からの夜景は 、2012 年にモナコ・香港とともに世界新三大夜景に選ばれ、2015 年には札幌・神戸とともに日本新三大夜景都市にも認定されている。

焼野原だけになった街を、こんなに美しく復興させた広島と長崎の人々の心の中には、いったいどんなエピソードが刻まれているのだろう。それは決して感動や歓喜のエピソードだけではなく、慟哭と哀しみのエピソードも数多く含まれているのだろうと想像する。

哀しみの歴史を繰り返してはならないと心から思う。

心からの祈り思いを込めて、
に合わせて黙とうし、犠牲者に祈りを捧げたい。もうすぐその時刻になる・・・。そして僕は今、広島と長崎で出会い・つながっている人々のことを思い出している。

広島では一緒にお好み焼きを食べながら、カープの話を熱く語ってくれた介護関係者の方々がいる。その方々の顔を思い出すことができる。

長崎を訪れるたびにお酒を共にする仲間もいる。一緒に横山五十という地酒を呑みながら、介護を語り合ったあの日を思い出す。僕が2回も講演を行わせていただいた稲佐山の中腹にある介護施設の職員の方々の顔も思い出すことができる。

そんな仲間の顔と名前を思い浮かべながら、介護という職業を通じて平和な未来につなげていきたい。

黙とうをささげたその後、僕が作成した、「LOVE〜明日に繋ぐ介護・長崎編」を改めて視聴いただきたい。

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命の価値に個人差はありません


今週月曜日は、相模原市のやまゆり園大量殺戮事件からちょうど5年目に当たる日だった。

しかし被害者やその遺族、関係者にとって節目などというものは決して存在しないのだろうと思う。事実一部報道では、「節目なんて関係なくずっと悲しいままで苦しい」という遺族の悲痛な声が伝えられている。

犯人は死刑が確定しているが、だからと言ってなんだという問題だろう。失われた命は決して戻らないという重たい事実が遺族の方々を今も苦しめている出あろうことは想像に難くない。

死刑囚となった獄中の犯人の声が、今でも報道機関を通じてつ伝わってくるが、「重度障がい者は、死んだ方が世のためで、家族もそのほうが幸せになれる。」などというとんでもない考え方は今も変わっていないようだ。

暴論を吐き続ける犯人の声に触れた遺族は、今もなお犯人に傷つけられ続けていることと同じである。被害者の方々は、死体にムチ打たれているようなものだ。

ネット報道では、犠牲者(当時19歳)の名前を唯一公表した母親と兄が、「5年を迎えても苦しいままでつらい。今も美帆に会いたくてたまらない」と心境を明かした様子が伝えられている。掛けるべき言葉も見つからない・・・。犯人はこの声に対してなんと応えるのだろうか。

かの事件は人間尊重の価値前提を破壊しようとするテロに他ならない。無差別平等に人間を尊重しようという人間観を持つすべての人を否定・迫害する卑劣な行為でしかない。加害者の醜い衝動を正当化する理屈に、我々は決して屈してはならない。

ちょうど昨日の夜は、熊本県八代市の介護支援専門員協会会員に向けて、虐待につながりかねない不適切ケアを防ぐために、利用者の人権を護るために何をすべきかを伝えるためのオンライン講演を行っていた。

そこでは感情労働である対人援助の従事者は、すべからく、「自己覚知」に努め、自分の価値観のありようを見つめ、感情をコントロールして対人援助に携わることの重要性をレクチャーさせていただいた。人の価値観は多様なのだから、その多様性を認めつつ、様々な価値観を受け入れて、かつ自分の価値観の偏りをコントロールすべきことも話させていただいた。

しかし多様な価値観を認めるとは言っても、そこにいる人に価値がないとか、そこに存在する命は消えてなくなるべきであるという価値観を受容することは出来ない。

人は人として命をさずかっているそのことに価値があるのだということを、改めて確認しなければならない。命の価値は、どのような状況に置かれた人であっても同じように尊いのだ。

しかしその尊い命も、一人の狂った人間の突然の行動によって、簡単に奪われてしまうほど儚い。だからこそ対人援助に携わる我々は、徹底的に人々を護るという意識を持ち続ける必要がある。

同時に我々は社会福祉実践者として、人間尊重をすべての社会で実現するように務めていかねばならない。

重い認知症をもつ利用者や意識障害のある人に対して、そうではない人と違った対応をしていないだろうか。意識障害のある人に対してサービスマナーの低下が見られないかということも検証する必要がある。

介護事業者の職員の中には、利用者に対して丁寧に対応する必要などないと勘違いしている職員も少なくない。現に初対面の利用者に対し、いきなりタメ口で接してくる職員は多い。しかしそうした職員も、利用者の家族に対しては丁寧語で対応している。

利用者と家族のどこに、どんなふうに線引きしたら、そうした対応の違いになるのだろうか。それはその人の意識の中で、人の価値に軽重をつけているという意味でしかない。

それは対人援助に携わる専門職として極めて不適切なことであるだけではなく、人として恥ずべきことである。
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イノセントではいられない。


毎日良いことばかり起きれば、これほど良い人生はないし、生きることは楽ちんだ。しかし実際にそんな人生を送ることができる人はいない。

この世に生きている間には、自分にとって都合が悪い様々なことが起きる。

他人の悪意にさらされたり、憎悪をぶつけられたりすることもある。そうしたものと戦ったり、傷つけ合わなければならないかもしれない。

生きるためにはどうしても、そうしたことを乗り越えていかねばならない。困難やトラブルを、すべて避けて生きていくことなんてできないのである。

人間関係だけじゃなくて、自然現象からも影響を受けることがある。災害・感染症・・・。今まさに我々の暮らしを脅かしているものがそこにある。

辛いことに正面から向き合わねばならないのも人生である。

人がこの世で生きていくってことは、それらを乗り越える、「したたかさ」を身につけるってことだ。

したたかに生きていけば、どうしたって汚れも溜まっていく。そして生きているうちはどうしても汚れはなくならない。イノセントではいられないのが人の宿命だ。

それでも人は与えられた命の期限まで走り続けなければならない。それが人の運命でもあり、使命でもある。

だからこそ辛いとき、苦しい時も歯を食いしばって頑張らねばならない。頑張れば必ず光は見えると信じることが大事だ。

しかし生まれてから死ねまで、ずっと頑張り続けることができる人はいない。頑張るにも限度があるのだ。

きっと人生の中で必死に頑張らなければならないときが何回かあって、その時にきちんと頑張った人が成功するのだろう。

さすれば才能とは、頑張るべき時期を感じ取れることを指すもので、運とは頑張らねばならないときに頑張れるのか、頑張る時期を間違えるのかというちょっとしたタイミングの違いでしかないのかもしれない。人生の成功者と敗残者に、決定的な能力差なんてないのである。

人の価値は、この世で与えられた地位とか名誉とかとは全く関係のない問題だ。ましてや財産の多寡なんて言うものは、人の価値とはまったく無関係だ。

人は人としてこの世に生まれ、生かされていること自体に意味があり、人としての存在自体が尊いのである。

だからこそ忘れないでほしいことがある。

一番大事なことは、「自らを蔑(さげす)まない」ことなのである。それさえ心がければ、頑張らなければならないときに頑張ることができるし、生きる強さも失うことはない。

自分の存在を尊く思い、明日を信じることで自分の歩む先に光を射すことができると信じてほしい。

希望を失うことがなければ、人生とはきっとその人にとって豊かなものとなるだろう。

少なくとも希望を抱いて過ごすことができれば、自分の人生が豊かだと感じ続けることは出来るのだ。

それは他人がどう思おうと、自分自身の中で決して揺るがない真実なのである。

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介護という職業の宿命と使命


様々な職業がグローバル化していく中で、介護の職業はよりローカル化することが求められている。

世界基準よりも、個人基準に寄り添うことが求められるのが介護という職業である。それは個人の暮らしというものが、様々な個性や個別事情を持っていて、その暮らしを営む人自身の価値観で何事も決められるのが基本だからである。

そのため介護という職業には、常に困難な問題が伴う。Aさんの暮らしの専門家は、Aさん以外あり得ないわけであるが、そこに私たちは対人援助の専門家として関わらなければならないからだ。

個人の暮らしの専門性と、私たちの専門性が、そこでバチバチと火花を散らせば、介護はとても怖くて辛いサービスとなってしまう。それはもはや対人援助とは言えなくなるかもしれない。

そうならないように、私たちは利用者の最もプライベートな空間に足を踏み入れるときに、利用者の個性や意向を最大限に尊重しながら、その人の内面にも目を向けて、表明された意思や希望を受容するとともに、表明できない心の声を聴きとろうとする必要がある。

認知症などで意思確認できない人が利用者の場合は、その人にとって何が一番必要なのかということを読み取って、その意思を代弁することも求められてくる。

そこでは、「私たちは、あなたの暮らしの専門家にはなれないけれど、あなたの暮らしをともに支える専門家なのですから、どうぞ私を寄り添わせてください。」と言う姿勢が必要だ。「傍らに寄り添ってあげる人」になるのではなく、「傍らに寄り添うことが許される者」になろうとする姿勢が求められるのだ。

そのような精神作業を日々黙々とし続けていくのが、「介護」という職業である。

そういう意味で、介護という職業は決して派手な職業ではない。むしろ地味で目立たない仕事を積み重ねていくことが介護という職業の宿命だ。

社会の片隅で、ひっそりと息をしている人の傍らに寄り添い、その人たちの暮らしを支えながら、そのことを表立てることもなく、一つのひとつの仕事の成果を世に訴えることもなく、黙々と日々の暮らしに寄り添うのが介護という職業である。

介護が支える誰かの行為にゴールがあるとも限らない。人の暮らしを支えている職業であるからこそ、「生きる」を支えるために、いつ果てるともない毎日繰り返される行為を支え続ける必要がある。

その繰り返しを尊いことだと思いながら、昨日と今日と明日をつなげていくのが介護の使命だ。

そういう意味では私たちは大きな仕事はできないかもしれない。目の前にいるたった一人の誰かしか笑顔にできないかもしれない。

しかし私たちの目の前にいる、その人を笑顔にしなければ、世界から哀しみはなくならない。私たちの目の前にいる、その人を幸せにしなければ、世界から不幸がなくなることはない。
大きな愛
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桜が咲く春。


今年の桜がまた咲いた。(桜咲く場所で思うこと〜咲けない花は場所を変えようも参照ください。)

世間で何が起きていようとも、世界がどう変わろうとも、そのようなことはすべて些事であるかのように、去年と同じ場所で去年と同じ時期に桜は咲き続け、そして散っていく・・・。(画像は5/3朝の自宅付近のエゾヤマザクラ)
5/3登別の桜
そのなかには、たくさんの人がその容姿を愛でる桜もあれば、誰にも見られずにそっと散っていく桜もある。そのようなことに関係なく、桜はその美しい花弁を咲かせ、散ってゆくことを繰り返している。

僕たちが新型コロナウイルスや、日々の仕事や日常生活に右往左往していることを横目に、世の動きに関係なく季節は流れ、今日も歴史は粛々と刻み続けられている。それはいつ果てるともない永遠の繰り返しなのだろうか・・・。

そんなふうにして、僕が生まれる前からこの空間には時が刻まれ、僕が死んだ後もこの大地には、時が静かに滑っていくのだろう。

さすれば僕たちの存在など、その空間や時間の中ではほんの一瞬のものでしかないのかもしれない。長い地球の歴史から見れば、僕たちの生きていく営みは、毎年咲いて散る桜のように、「うたかた」のものなのかもしれない。

そうであったとしても、自分がこの世に生を受け、命を与えられている限り、それは必ず意味のあることなんだと思う。だからこそ今を大切にして、生きる意味を考えながら、己の生きざまを刻んでいきたい。

誰からも愛され、誰しもの心を癒す桜のようにはなれなくとも、せめて僕が仕事として関わる誰かの心の咲く花のようになれたらと思う。

そんな思いを共有できる人とのつながりを大切にしたいと思う。

今朝、自分のフェイスブックにも書いたが、介護施設の入所者が携帯電話で110番をして、『今、監禁されているので、助けに来て』と警察を呼ぶケースが増えているそうである。

コロナ禍で面会制限が長期化しているのを当たり前と思い込んで、十分なアナウンスやカウンセリングをしていない施設では、そういうことが起きて当然だろうと思う。

それにしても、「助けて」という叫びを、施設職員ではなく警察に訴えなければならないというのは、利用者との関係づくりも問題があることが明らかである。

職員は外から通ってきて、日常生活はほぼ不自由なく送っている中で、介護施設の利用者のみ、1年以上にわたる制限を受けることが、「当たり前」であってよいわけがない。

長期化する制限を心苦しく思わず、感染予防のために当然の措置だとしか思っていない人は対人援助には向いていない。何らかの対策を取ろうと考えない人は頭のねじが一つ外れている。そういう人が管理職を務めている介護施設の利用者は不幸である・・・。不幸を創り出す人は一日も早くこの業界から退場していただきたい。それが世のため人のためになる。

人を護るということは、人の体さえ護っておればよいという問題ではない。同時に人の心も、どうすれば護ることができるのかということが問われる問題だということを忘れてはならないのだ。

科学だけでは手の届かないものが人の心だ。だからこそ介護には科学的・論理的ではない部分が必要になる。愛情とか優しさという目に見えない、理論化できないものをエッセンスとして加えるのが、人の心に寄り添うという意味なのだ。

桜の花を見ながら、そのことを今一度思い出してほしい。

対人援助・介護という職業の使命と魅力を伝える動画、「さくらびとmasa」の最新バージョンを、桜の季節に改めてご視聴いただきたい。

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介護を職業として選んだ君へ


今日も自宅近くの桜の画像紹介から始めたいと思いますが、やっと花が開きました。
5/1の自宅近くの桜
まだ2分咲き程度ですが、いつもより1週間ほど早い開花だと思います。これから地域全体を桜が彩ってくれることでしょう。

そんな週末の5連休初日ですが、今日はこの春に介護を職業として選んだ人に贈るエールについてです。

青森県八戸市を拠点に、かっこうの森(サ高住やGH・居宅サービスなど)を経営する株式会社リブライズ・代表取締役、下沢貴之さんが、全国の悩める介護職たちにエールを送る取り組みを考えました。

日々の仕事に疲れ、自信を失い、進路に悩んでいる介護関係者を励ますために、介護の魅力を伝え、エールを送る動画をYOUTUBEにて3〜4か月に1本投稿します。テーマは、『介護を職業として選んだ君へ』です。

その記念すべき第1回動画に僕が出演することになりました。全国に著名な介護関係者が多々おられる中で、真っ先にお声がけいただき大変光栄に思います。ありがとうございました。

ということで先日、自宅でZoom録画し、昨日それを下沢さんが編集してユーチューブにアップしてくださいました。

僕は全国各地で行う講演でも、原稿をつくってそれに沿って話をするということはなく、その場その場の雰囲気を感じながら話をするタイプなので、この録画についても原稿はつくらず、その場で思いつくままに話をさせていただきました。

ですからスラスラと流れるような話になっていないで、ところどころ言葉に詰まるなど、お聞き苦しい点があるやもしれません。しかし伝えたいことは要点を絞って語っているつもりですので、是非お時間のある時に視聴いただければ幸いです。

当初話をする時間は15分程度とお願いされていたのですが、まとまりが悪く17分を少し超えましたので、下沢さんが2分程度編集してくださり、話した一部を削ってくださいました。ですが自分で視聴しても、どこをカットして、どこをつなげたのかわからないくらい自然な編集になっております。

ということでユーチューブでの配信時間は、15分5秒程度ににまとめられています。

ちなみに編集時にカットされている2分弱の部分も、僕のユーチューブに挙げていますので、興味がある方は下記をご覧ください。

僕の話を聞いて、介護の仕事の使命と誇りを感じられる方が、一人でも多くなれば幸いです。
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ごめんなさいは、優しい言葉


介護という職業は、利用者のプライベート空間に立ち入って、利用者の心身に直接的に介入して行う仕事である。

そのために、介護従事者の仕事の仕方そのものが利用者の身体状況に影響が及ぶだけではなく、私たちの仕事ぶりが利用者の揺れ動く感情に直接影響を及ぼさざるを得ない。そうであるからこそ、常に一定以上の仕事の質を担保して、失敗のないサービス提供に心がける必要がある。

逆に言えば、介護従事者の体調や精神状態によって、サービスの質の差が激しくなるような状態は、利用者に望まれるサービスではなく、それは対人援助としてあってはならない仕事ぶりと言えるのである。

サービスを受ける側の利用者にとって、介護支援を受けるということは、生きるために必要なことであり、暮らしが成り立つために必要とする行為でもある。だからこそサービス提供者によって、支援の質に差ができる状態を決して望んではいない。生き方、暮らしの質にそれは直接影響してくる問題だからだ。

よって介護サービス利用者が、「必要なサービスは、それを提供する人間が新人であろうと、ベテランであろうと関係なく、最低限のサービスレベルであってほしい。」と思うのは決して高望みではなく、当たり前のことだ。

その人たちが利用する介護支援とは、インフォーマルサービスではなく、ボランティア行為でもないからだ。国費や保険料と言った公費が使われているサービスに対し、利用者がそのことを理由にして、一定以上の質を望むのは当たり前のことである。

つまり私たちは、利用者やその家族にとっては、介護のプロという立場の専門職であり、それにふさわしい仕事ぶりが求められて当然であると考える必要がある。

失敗をしない人間はいないが、対人援助における失敗とは、時に利用者の心身に深い傷を負わせる結果になりかねないし、「人間だから失敗もあるよね」と笑っていられない深刻な問題が生じては介護という職業がなんのために存在するのかわからなくなってしまう。新人職員だからうまくいかないのも仕方ないねと簡単に許せる問題ではないわけである。

とはいっても、経験のない新人がいきなり介護サービス実務の場で、経験豊富な職員と同じパフォーマンスができるわけがない。利用者のしぐさを同じように観察しても、経験のない職員には気が付かないことも多いのは、相手がそれぞれ個性が違う人間であるい以上仕方がないことだ。

だからこそ新人職員は、利用者に学ぶという謙虚な気持ちを忘れずに、経験豊富な職員の技を学び、それを自分のものとする努力が欠かせないのだ。言葉や動作で教えてくれる以上のものを、日々吸収しようという意欲のない人が、高い介護技術を獲得できるわけがないのである。

人の暮らしを少しでも豊かにしようとする人には、人に対する優しさが欠かせない。それは時に人間愛とも表現されるが、介護にいくらエビデンスを求めたところで、愛情という感情を持たないエビデンスは、所詮、人間を幸福にするものではないと思っている。

今、全国の介護事業者では、介護実践を通じて勉強する日々を送っているたくさんの新人職員がいるだろう。その人たちは、日々小さな失敗を繰り返しながら、「自分に介護の仕事が続けられるのか」と悩んでいるかもしれない。

本来失敗を繰り返すことは許されないが、失敗の中から成長するのも人間である。日々の業務で失敗したときは、「ごめんなさい」という言葉を口にして、心から利用者の方々に謝ってほしい。その言葉は、時に利用者に対して愛情ある、優しさがこもった言葉になるのだ。

そういう優しい言葉を掛けるあなたに対して利用者はきっと、「大丈夫だから気にしないで」と言ってくれるだろう。そして失敗を反省しながら、日々学ぼうとしているあなたに対しては、「今日もありがとう」と言ってくれるだろう。失敗した行為に対しても、「ありがとう」という温かい言葉で励ましてくれるだろう。

そのことに感謝して、どうぞよい介護従事者に成長していってください。
温かい言葉
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人知れずエールを送ってくれる人達を裏切らないように・・・。


本日は、まず1枚の写真画像を紹介してから本題に入りたいと思う。
沖縄市の魚屋さん
この画像は沖縄県沖縄市(旧コザ市)の魚屋さんの店先の画像だ。先週の金曜日に沖縄市〜講演会場のある、「うるま市」に向かう途中の道すがら、ちょうど信号待ちで止まった横にあったお店である。

「沖縄産近海生マグロ」などの張り紙の横に、「医療従事者10%OFF」と書いた紙が張られている。

聴くところによればこの紙が張られたのは昨年11月頃のことらしい。コロナ禍で頑張っている医療従事者にエールを送るつもりで、このような張り紙がされたのではないのだろうか。

この張り紙を見て、「医療関係者ってどのように証明するの」とか、「介護関係者も入れてよ」って考えるのは野暮というものだ。なんの縁も所縁のない人でも、医療関係者というだけで利益を度外視して、応援してあげたいというその心意気を感じ取ってほしいと思う。

この張り紙を考え付いた人は、おそらく全くの善意から、このようなことを行なおうと思ったのではないだろうか。

昨年2月3日に横浜港に入港したダイヤモンド・プリンセス号の集団感染が確認されたのは2/5のことであったが、同船はその前に沖縄に寄港し、感染者が下船しタクシーに乗車していたことが後に明らかになっている。そんなこともあって沖縄では一時、新型コロナ感染が大流行して全島がロックアウト状態になり、医療機関も感染者対応でひっ迫する事態に陥っていた。

その状況を見て、何とか医療関係者にエールを送りたいと思った結果がこの張り紙ではないのだろうか。魚屋さんとしてできること・喜ばれることを考えて、行ったことだろうと思う。

そこでは医療従事者とそうでない人をどう見分けようとか、医療関係者ってどこまでの範囲なのかなどという些末な考え方は一切なく、お店を訪れ医療関係者だと名乗り出た人には割引販売しようという心意気だけがあるのだと思う。

その心意気に感謝しようではないか。大いに拍手を送ろうではないか。

このような沖縄の魚屋さんのほかにも、全国のいろいろな場所で、コロナ禍で頑張っている人たちにエールを送りたいと考えたり、行動したりしている人がたくさん居られると思う。

コロナ対応として国が、介護事業者やそこに勤めている職員を対象にして補助したお金の額も決して少ないものではないし、考え得る限り相当素早く対応されていたことも事実だ。

医療関係者や介護関係者は、今もコロナウイルス感染症に正面から向き合い、戦いを続けていることと思うが、それは決して孤独な戦いではないことを忘れないでほしい。全国のたくさんの人たちが、そこで医療・介護関係者が頑張っていることを認めているのだ。

そうであるからこそ、善意で応援してくれるたくさんの人々の期待に応えるためにも、制限一辺倒ではなく、人権に配慮した感染予防策に努める必要がある。

コロナ禍を理由にして、看取り介護・ターミナルケア対象者が、この世で縁を結んだ人と全く逢えなくなって、お別れの時間を過ごすことができないまま旅立っても仕方がないと考えてはならないのである。

お元気な高齢者の方であっても、これだけ長い期間の制限は、心身に重大なダメージを与えると考えて、できる限りの制限緩和策を取ろうと考えなければ、人としての姿勢が問われようというものである。

人類は今までも様々な困難や苦難に打ち勝ってきた。災害や感染症とは常に戦ってきた歴史がある。

しかしそこで苦難や苦境を乗り越える原動力になったものとは、人が人を支え合う力である。それは人間愛によって苦難を克服してきたという意味であり、愛のない力は存在しないのだと考えなければならないと思う。

今そこかしこに存在する脅威に対しても、私たちは知恵と愛情で向かい合って、コロナ禍という困難を克服しなければならない。

そんなふうにして、人が人を思いやるというその心を忘れない限り、人類は苦難を克服し続けることだろう。

下記の動画は、来週自宅からオンライン講演を配信する兵庫県但馬ブロックの方々に向けたエールを送る動画だ。しかしその内容はすべての介護関係者にエールを送ることにつながるものだと思うので、元気になりたい方はぜひご覧になっていただきたい。

ちなみに兵庫県但馬ブロックとは、豊岡市・養父市・朝来市・香美町・新温泉町の5市町を指す。兵庫県老人福祉事業協会但馬ブロックの皆様、来週月曜日はどうぞよろしくお願いします。

画面を通じてお愛できるのを楽しみにしています。
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