masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

こころ

告白



三十数年前の話であるが、看護師から告白されたことがある。

とはいっても愛の告白ではなく、「さっきまだ息があると云いましたが、実はあれ嘘だったんです」という告白である。

看取り介護の対象者である女性が、数日小康状態を保っていたのに急変したケースがあった。

その女性の死期が迫っているということで、2日間施設内に宿泊していた長女が小康状態の今は何事もないだろうと考え、家の用事を済ませてくると言って一旦自宅に帰った直後の急変であった。

長女の携帯電話にすぐ連絡を入れて、長女が駆けつけるのを待つ間に、看護職員や介護職員は看取り介護対象者のベッドサイドに集まって、「娘さんが、今すぐ来ますから頑張ってください」などと声を掛ける姿がそこにあった。

死期が迫っている女性の意識はなく、反応もないが、聴覚障害がない限り耳は最期の瞬間まで聴こえていると云われるので、それを知っている職員は懸命に声を掛け続けた。

やがて娘さんの乗った乗用車がホームに到着したが、女性利用者の呼吸が止まったのは、娘さんが車を降りてホームの玄関に入り居室に向かう途中のことであった。

その時、看取り介護対象者である女性の手を握り、呼吸と脈拍を確認していた看護師は、女性が息を止めた瞬間にも手を放さず、話しかけることもやめなかった。そして女性の娘さんが「母さん」と言いながら居室に入って、母親の手を取った直後に、「あっ、今呼吸が止まりました・・・きっと娘さんが来るのを待っていたんですね。」と云った。

厳密に言えば、これは事実と異なることだろう。しかしそれは許される範囲の脚色ではないだろうか・・・もともと看護職員に、死の判定を行う権限はない。それは医師が行うものであって、その場に医師がいない場合は、周囲の人々から情報を得て、総合的な判断から死亡時刻は決定される。

しかし実際には、医療機関で0時の見回りに息をしていた人が、3時の見回りには息が止まっていたので、死亡時刻は2時30分にしようなどという判断は普通に行われていることだ。

そもそも事件や事故ではない自然死の場合、死亡時刻などは余り大きな問題ではなく、1分2分の違いが何かに影響するなんてことはない。

さすれば前述したケースで、娘さんがあと一歩間に合わず、娘さんが母親の手を取る前に息が止まったという事実を伝えることに、どれほどの意味があるだろう・・・。

現にこの娘さんは、自分が駆け付けるまで母親が待っていてくれたと信じ、そのことを葬儀の席でも親族に話して、「母さん、ありがとう」と涙していた。

遺された遺族がそうした思いを持つことは、逝った母親にとっても本望ではないのか・・・。

看取り介護の場面では、実にいろいろなことが起きる。その時々で判断に迷うことも少なくない。そうしたエピソードをデスカンファレンスで話し合って、教訓を得て次の機会に生かすことは大事だが、瞬間瞬間に判断しなければならないこともある。
虚構と真実
その時、二つの選択肢があり、どちらの道を選ばなければならない際に、何を判断基準にすべきだろうか・・・僕の答えは、「できるだけ、愛がある方向を選ぼう」である。

2日前から泊って看取ろうと頑張っていたのに、小康状態だからと家の用事を済ますために、母親の元から少しだけ離れたその時間に、母親が旅立って看取ることができなかったという後悔の念を抱くより、一瞬母親の元を離れたけれど、息を止める瞬間には間に合った。間に合うように母は頑張ってっ私を待ってくれた・・・そんなふうに考えられる方が、愛がある方向なのではないだろうか。

そんなふうに誰かができるだけ幸せや笑顔になれる方法を選ぶ方が良いに決まっている。

だからあの日の看護師の言葉は嘘ではなく、看取り介護対象者とその遺族を愛で包む言葉であったと思う。


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対人援助の使命と責任を果たす条件



介護をはじめとした対人援助を職業としている人だからと言って、聖人君子である必要はないし、天使のような優しさを求められる謂れもない。

ごく普通の人が職業選択の結果、何らかの理由で対人援助の仕事を選んだというだけの話だから、いろいろな性格の人、いろいろな価値観を持つ人がいて当然である。そして人間である以上、人に優れたスキルを持つ反面、欠点を持つことも当然である。

そもそも人間は、誰しもが良い面と悪い面の両面を持っているのだと思う。悪い面がある人が対人援助に向かないとなると、ほとんどその適性のある人は存在しなくなる。

悪い面があるとしても、仕事を行う中ではできるだけその面を自覚し、利用者対応にそうした部分を出さないようにすれば良いだけの話だ。

そういう意味では、すべての仕事において人は、良い自分演じ、良い面しか持たない人として自分を取り繕うことがあっても良いのだ・・・というか、そういうことがないと人は生きて行けないのではないだろうか。

対人援助のプロとして働いている人、これから働こうとしている人も、ごくごく普通に社会のルールを護り、礼儀をもって他者に接することができれば十分である。それができないというのであれば、すべての社会生活に向かないという意味であり、どんな仕事に就いても問題を引き起こしたり、長続きしなかったりするだろう。

そういう意味では、自らが選んで就いた仕事においては、職場の理念を理解し、ルールを護り、パフォーマンスを高めるという努力は欠かせないという理解は必要とされる。

仕事とは、生活の糧を得る手段でもあるのだから、仕事の目的を達するために自らを律する心構えも当然必要とされるのである。

自らを律するために、自らの身に鎖を課す必要もある。動機はともかく、他者の暮らしに介入する対人援助の仕事を選んだものとして、自分自身に鎖を課し、それに耐える義務があるのだと思う。

しかし自分が自分に課した鎖ほど、重たい鎖はないことを忘れてはならない。 

特に対人援助の仕事というものは、他者のプライベート空間に深く介入し、本来他人に知られたくない様々な情報を取捨選択しながら関わっていくという特殊な職業だ。それはまさに、『重き荷を負うて、遠き道を行くがごとき職業』である。

対人援助の仕事を職業として選んだ人は、知らず知らずのうちにそうした道を行くにふさわしい者として選ばれし者だと考えてほしい。私たちは、選ばれし者として自分自身に鎖を課し、それに耐える義務があるのだと思いたい。

そして対人援助の仕事の究極の方針は、シンプルに3つ考えるべきだ。

ひとつは顧客満足。対人援助サービス利用者の満足感を最大限に高め、ゆえに満足感を低下させるような要素は徹底的に排除し、予防措置を最大限に敷いておかねばならない・・・利用者の人権を侵害する、無礼な対応を予防するためのサービスマナー教育は、そういう意味でも重要となる。

いまひとつは、費用対効果。私たちの仕事のほぼすべては、税金と保険料という国民負担で賄われている。私たちの仕事が国民には見えにくいものである以上、私たち自身が常に費用対効果を意識し、いかにして活きた金を使うのかを意識しなければならない・・・対人援助に直接携わる従業員の業務改善の設備に使う費用や、利用者対応の正しい方法を伝え続ける教育に掛ける費用こそ活き金になることを理解せねばならない。

最後の一つは、結果責任・結果指向。一生懸命やることだけを目的にしない。利用者に対し結果を約束し、結局何ができたのかを常に検証しなければならない。

それが人の人生、人の暮らしに関りを持つ職業の最大の使命と責任ではないかと思うのである。
快筆乱麻・masaが読み解く介護の今
CBニュースの連載、「快筆乱麻・masaが読み解く介護の今」の最新記事が昨夕アップされました。是非参照ください。


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広島の空・長崎の空2024



今年もこの日がやってきた。

広島に続き、長崎に米軍の原爆が投下されてから今日2024年8月9日で79年になる。人類史上2発目の原子爆弾が投下された日、被爆地では7万人以上が犠牲になった。

日本人はそのこと決して忘れてはならず、そうした戦争の悲惨さを後世に伝えていかねばならない。
長崎原爆資料館
広島と長崎に原爆が落とされた日には、毎年犠牲者を悼み、平和を祈る式典が両市で開催されている。

ところが今年の長崎原爆の日の平和祈念式典には、長崎市がイスラエルを招かなかったことから、G7の大使らが欠席することが話題となってる。

慰霊と追悼の場である式典に、そのような政治を持ち込んでどうするというのだろう。

かつてアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)は、「平和は力では保たれない。平和はただ理解し合うことによってのみ達成されるのだ」と述べたが、歴史を振り返っても、理解し合うことを最も苦手としているのは時の権力者と政治家であることは明白だ。

そんな政治家は、平和祈念式典には最も似合わない存在ではないのか。どちらにしても平和祈念式典を政治利用するのはやめてほしい。

いっそのこと今後は、政治家の招待をやめて、一般市民だけの参加でよいのではないのか。式辞も首相や市長が行うのではなく、遺族代表や未来の平和を担う若者代表にしてはどうか・・・。

そんな思いを強く持った2004年の長崎原爆の日である。

8/6の広島原爆の日と、8/9の長崎原爆の日を挟むように、昨日8/8には日向灘を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生し、「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が発表されている。

それは何かを暗示するかのような気がしてならない・・・。

この国は僕らの世代が現役の最中だけでも大震災と呼ばれる災害が2度(阪神大震災東日本大震災)も起こっている自然災害大国である。

自然災害は避けることはこんなだが、人が引き起こす戦争・紛争は、人によってなくすことができるはずだ。

そういう思いを強くすべき式典が、政治で艶消しにされるのはやりきれない。

せめて自分自身は、まっさらな気持ちで、あの戦争で亡くなったすべての方に慰霊の気持ちを込めて天に祈ろうと思う。

そして全世界に平和が訪れることを強く祈りたいと思う。

長崎の皆さんにエールを込めて創った動画、「LOVE明日につなぐ介護・長崎編」を貼り付けておくので、是非参照願いたい。



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他者を幸せにできる条件



福祉や介護という言葉からイメージする言葉の一つに、自己犠牲というものがあるとすれば、それは間違ったイメージであると云いたい。

困っている人が居るときに、自分が手を差し伸べることができるのであれば、手助けするのは当たり前のことだ。だからと言って手助けするものが自己犠牲を強いられるわけではない。できる範囲で、できることをすればよいのである。

また福祉援助によって対価を得ることを心苦しく感ずる必要もない。

ずっと昔、福祉が貧困を救うこと(救貧)を中心に考えられていた時代であれば、お金に余裕がある人が、自分の財産をなげうって、貧困者に手を差し伸べればよかっただろう。そこに心身の障害がある人も存在したとすれば、ボランティア精神で、対価を求めず手を差し伸べることが求められたであろう。

しかし現代社会の福祉ニーズは多様化している。特に高齢者が増える社会では、自然現象である「老い」に向かい合って、様々なニーズが生じ、それに対して多様なサービスが求められる。

そこでは義務や責任が伴わない奉仕の精神で行われるボランティア活動ではなく、知識と技術を提供して対価を得ると同時に、義務と責任が伴うプロフェッショナルが求められるのである。

プロは金銭で出力するのだから、より高品質なサービスに対しては、より多くの対価を支払うという考えが生じても何ら不思議はない。

一方で、国家はすべての国民の福祉を考える義務があるのだから、サービスを買う対価を持たない人、支払う対価に乏しい人に、国としてどう手当てするのかを考えなければならない。社会福祉の光は、そのようにして社会の隅々まで届けられるべきであり、その際にきちんと選択肢が広げられれば良いだけの話である。

対人援助の場面では、ひとり一人の人間やその暮らしに向かい合って、その時々で自分自身が判断して行わねばならないことが多々ある。その判断に迷ったときに道しるべにすべきは、「良心」である。

しかし良心といっても、それは自分をないがしろにした思いのことではない。

良心・・・一つにそれは、人のためにいいことをしたいと願う心であり、もう一つには、自分が幸福になりたいと願う心でもある。
幸福
そのように書くと疑問を持つ人が居るかもしれない・・・例えば、もし誰もかれもが自分が幸福になることばかり考えていたら、世の中はどんどん悪くなるんじゃないかという風にだ。

もしも自分の幸福だけを考えるなら、そういう事態も起こってくるかもしれない。しかし一方で、自分が不幸にうちひがれているとしたら、他人に何かをしてやろうとは思えないだろう。

自分が幸福だと感じられたときに、人は優しい気持ちになることができて、自分の幸福を他人に分けてやることができるだけのゆとりを持つことができるのではないか。

だから自分自身を幸せにすることはとても大切なことだと思う。自分が不幸な人と比べて、裕福であったり、恵まれた環境にあることに罪悪感を持つ必要はない。

対人援助に携わるプロフェッショナルにとって、それはとても大事な事である。例えば、手を差し伸べるべき人に対し、その置かれた環境に嫉妬を覚えるほど劣悪な状態にいる人が、適切な支援行為を行うことができるだろうか・・・それは至難の業である。

介護事業経営者は、そうした側面からも従業員の生活レベルを考えなければならない。人に支援の手を差し伸べるにふさわしい精神状態を保つことができる生活の糧を渡しているのかということは、常に関心事項に入れておかねばならない問題である。

そもそも労使の関係は、winwinの関係でなければならない。

お互いが調和を図り、双方がハッピーになるために必要とされるのが労務管理であることを忘れてはならない。

そうであるからこそ、必要な対価を渡す方法、その対価の財源となる収益を得る方法を、労使共通意識をもって考えることができる環境づくりに努めていかねばならない。

だからこそ収益・お金の話をすることを避ける必要はないし、自分自身の幸福追求など下世話な問題だと卑下する必要もないのである。

きちんと対価を得て、自分自身が幸福になった状態で、人としてごく当たり前に、困難な状況に置かれている人・おかれる可能性のある人に、自分のでき得る範囲で手を差し伸べれば良いのである。

背伸びも無理強いもすることなく、ごく自然にすべての人々が、そう考える世の中になってほしいものである。


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絶望しない介護を創り出すものは何か。



この世の現実とは不条理なものである。

あってはならないとされる差別不公平不平等なんて、実際にはそこかしこに存在している。

格差なんて、ないものを探す方が難しい。

だからこそ人は夢を追う。夢を食って生きるのだ。夢を見る力を失った人生は地獄だ。夢はこの世の不条理を忘れさせてくれるものであり、夢はこの世界が生きるに値するものだと信じさせてくれるからだ。

そうやって自分を騙しおおせて死んでいけたら、それで本望だと僕は思う。

夢は、時として目標という言葉に置き換えられる。夢と呼べば実現不可能な幻想とイメージしてしまうが、同じものを目標と呼べば、手が届くもの・かなうものと思いこめるからだ。

そうした目標に向かう最中に、挫折して絶望という形でピリオドを打つことはたやすい。

しかしそれは戦い抜いての敗北とは意味が違う。絶望は戦いからの逃避であり、ある意味、魂の自殺行為だ。

絶望によって前に進もうという意思にピリオドを打つたびに、人は自らの生の品位を貶める・・・それを繰り返すたびに、人生は腐っていく。

希望は向こうからやってくるとは限らない。迎えに行くのを待っている希望もある。そうであるからこそ前に進めば必ず開ける未来があると信じた方がポジティブだ。

金も才覚もなくとも、今日まで僕が曲がりなりにも一つの業界で生きながらえてきた理由は、絶望禁忌としてきたからである。

それは決して理想論ではなく、僕にとっては現実的思考だ。
絶望と希望
僕たちは対人援助の場で、感情ある人間と向かい合い、その人の暮らしという現実に介入してきた。そこに抽象論が入り込む余地はない。理屈をこねくり回しても、手を差し伸べる具体的方法論がなければ、何も意味をなさないのが対人援助だからである。

そこでは課題解決の手掛かりは、暮らしの場・対人援助の場という「現場」にしか存在しない。頭で想像した状況について議論したって始まらないのだ。

なにより生の現実をこの目で見ることが大事であり、それ以外の方法で答えは見つけられない。

何をすべきかは、国や制度が教えてくれるのではなく、利用者が示してくれるのである。

介護保険制度や介護報酬体系は、年数を経ても成熟せず、ますます複雑になるだけである。それで利用者に寄り添う方法が深化したとか、利用者のQOLが良くなったという事実はない。

それはそうだ・・・生の現実を観ることのない人々が、机上の論理で創り出すものが、正しい答えにつながるわけはないからだ。

だからこそ制度や法令は良いところ取りをして、斜めから見つめていた方が良い。法令は護るが、それで何か良い結果が引き出せるとは思わず、報酬を得る手段としてそのルールから外れないように、そろそろと進む目安と思うだけでよい。

地域住民及び利用者の福祉やQOLの向上とう結果は、それとは別の場所で僕たち自身がエビデンスを生み出して勝ち取るしかない。

その辺の分別は持っておこう。LIFE科学的介護情報システム)によってエビデンスが生まれるなんて言う神話は横に置いておいて、それは加算収入を得る手段と割り切り、僕たちがそんなシステムが存在する以前から脈々と積み上げてきた実績をベースに、僕たちが対人援助の場で行っていることを、他者に伝わるように言語化・文章化していくことが重要だ。

この業界の人材はピンキリである。質の差が大きいことは主知の事実だ。だからこそピンの人は、その知識や技術は秘伝とせず、キリの人の一部でも引き上げられるように、「伝える技術」をもって、広く情報伝達していく必要がある。

達人が、ごくわずかの人を幸せにしたってしょうがないのだ。幸せになる人の数を増やすために何が必要かを考えてほしい。
メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の波乱万丈!選ばれる介護経営の今月更新記事は、科学的介護情報システム(LIFE)の現状と課題です。
菊地雅洋の波乱万丈!選ばれる介護経営
科学的介護情報システム(LIFE)の現状と課題
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介護を続ける人々の使命感



介護業界・・・そしてそこで働く人々・・・決してそれらすべてが純粋無垢で、穢れがまったくないわけではない。

場合によっては、利用者から搾取することしか考えていない介護事業経営者によって、介護という名の闇の中に深く閉じ込められ、悲惨な暮らしの中で孤独な死を迎えざるを得ない人を生み出したりしている。

繰り返される介護事業者における虐待の数々も介護の闇の部分であり、汚いエピソードも決して少なくはない。

働く人の置かれた環境も様々で、ボランティア残業が当たり前とされる事業者もあり、待遇も社会の底辺に近い状況で、休みも満足に取れずに働かされている人も少なくない。それはあたかも経営者が従業員から搾取するかのような醜い経営スタイルである。

このようにこの国の介護業界は、多くの矛盾と欠陥を抱えている。

だが決して綺麗事だらけではない介護業界で、献身的に利用者に寄り添う人がいることも事実だ。

彼らは必ずしも公平ではなく、満たされているとは言えない環境下で、歯を食いしばり、身を挺して厳しい仕事に打ち込んでいる。

そういう人々が何万人もいるのも事実なのだ。

彼らは職場での地位が上がったり、誰かから賛美されたりするのを願ってそうしているのではない。

彼らを、肉体的にも精神的にも過酷な職場に繋ぎとめているのは、何よりも使命感なのだ・・・いきすぎた使命感は、確かにある種の横柄さを感じさせるし、権力誇示(けんりょくこじ)もつきまとう。
使命と誇り
だが体の芯から冷え込む寒い夜や、そぼ降る雨の中であっても利用者宅を訪問し、白い息を吐き、凍える指先を温めながら地域を巡回したり、人が寝静まっている夜中に、一人でたくさんの施設利用者のケアをワンオペ状態で続けていられるのは、権力や金銭に対する憧れではない。

誰しもが眼をそむけたくなる汚物に向かいあい、悪臭に耐え、吐き気と闘いながら、短い睡眠時間と疲れ切った体に鞭を打って、誰かの身の回りの世話を行い続ける理由は、誰かから信頼と尊敬を得られると約束されているからではない・・・むしろそのような期待は裏切られることの方が多い。

彼らを動かしているのはすべて、「この仕事をするものが社会に必要なのだ」・「そして自分はそれをすべきである」という使命感にほかならない。

たとえ介護関係者以外の誰一人も認めないとしても、彼らは介護という職業に誇りを持っている。その誇りとは、自らに対する誇りであり、その誇りを失えば仕事を続けられなくなるだろう。

そのような使命感やプライドに頼ってはならないことは言われるまでもない。介護経営者であれば、それに見合った対価を渡す努力をしなければならないこともわかっている。

しかし決して楽をして金を稼げる職業ではない介護の仕事には、使命感を抱くという、そうした部分も必要だと思う。

介護という仕事は、心身が不自由で自分の不利益を他者に訴えることができない人に向かい合うという一面がある。その時には介護者自身が何をすべきか、そのすべての決定権を持つことができるケースが多々あることから、それを権力だと勘違いしてしまうリスクがある。そしてそのように誤解したとき、とめどない腐敗が生じ始める。

そうした密室における決定権を、権力であると誤信している介護支援者がいないわけではない。腐ったミカンの方程式のように、どんな組織であっても、尊厳を失っている、あるいは誤った考えの持ち主は存在する。

腐敗した介護支援者は、多くの場合、介護という職業に対してよりも、所属する、あるいは所属していた介護事業者という組織そのものに絶望し、そのことへの不満が腐敗の原因をつくっている。

しかし腐敗した理由に、一片の正論があろうとも、腐敗したという事実そのものが負けである。そこから正義は生まれない。だから腐ったミカンは箱から取り出し、捨て去らねばならないのだ。

そうしない限り、その腐れに侵されるのは介護サービス利用者になってしまうのである。

そうしないために、私たちは介護という職業に使命感を持って関わり、利用者の暮らしを支える必要があるのだ。

介護サービス利用者を支えること・・・それは国を支えることと同じ意味だ。

国は見えない。だが利用者は見える。ひとり一人のために、ひとり一人が働いている。どれほど目立たない、どれほど地道で、毎日同じ繰り返しで終わりのない行為であっても、それがひとり一人を支えている。

人は自分のための人生を歩む。自分と自分を取り巻く、家族や友人の小さな輪の幸福を願う。幸福はしかし、収入や地位、権力のみではない。自分に問うこと、自分の存在、自分の歩いてきた道が、誰が決めたものでもない自分自身のルールを逸脱していないかどうか・・・ルールに外れていないことを確信することもまた、幸福をもたらす。

僕は自分のためにソーシャルワーカーとなった。その中で社会福祉援助の専門職としてのルールを外さなかったことは誇りであり、幸福である・・・そう言える仲間を、少しでも多く創りたい。

そういう後輩を一人でも多く育てたい。


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思いだけで飯は食えないというけれど



昔々、介護保険制度は社会保険なんだから、社会福祉ではないという大学教授が居た。

その教授の話を聴いた時抱いた疑問は、『高齢者介護の制度を社会福祉から除外することが国民の審判なしにできるか?』ということである。

介護保険制度の創設時に、社会福祉から高齢者介護を除外することであるなんて言う政治家はどこにも存在していなかったし、そうした議論は介護保険制度創設を審議する国会で一度も行われていなかったからである。

高齢者介護を社会福祉制度から除外するのであれば、それが果たして許されるのかどうかという国民審判を受ける必要があると思った。それをテーマにした総選挙が行われていない限り、そんなことはあり得ないだろうと感じた。

そういう意味で、その教授の意見は独断と偏見に満ちた高慢ちきな考え方に過ぎないと思った。しかしそうした傲慢な大学教授が国の審議会の委員を担い、介護事業者団体等の主催する研修会で堂々とそうした乱暴な話をし、なおかつその話を鵜呑みにする関係者もいたのである。

それは介護保険制度が施行された2000年頃のことだ。

だが実際には介護保険制度の創設は、社会保障構造改革の一端として行われたものであり、社会福祉と高齢者介護を切り離すものではないことは明白である。

社会福祉の「福祉」とは、社会の人々にとっては権利である。それに対して社会保障の「保障」とは、人々によって構成された社会として果たすべき組織的な責務(義務)を意味する。

国民の福祉という権利を、国は社会保障という形でその実現を図ることで、国家としての責務を果たすのである。

そういう意味で、国家が人権を護るために存在する限り両者は切り離すことができないものであり、社会保障構造改革の中で創設された介護保険制度は、社会保険方式を取り入れた社会福祉を実現する制度と結論付けてよいものである。

このように障害者福祉の問題は人権の問題であり、人権の問題は社会福祉の問題である。そして社会福祉の問題はすなわち社会保障の問題でもあるのだ。他者を思う心
ここで今一度確認してほしいことは、人はみな人として暮らす権利を生まれながらに有しているということだ。心身に何らかの障害を抱えた人も、障害のない人と同じ権利を有しているのである。

ハンデキャップがあって人並みの暮らしを送るために支障が生じている人がいるなら、それを補うべき責任が国家にはあるのだ。そしてその責務を果たすために創られた制度やシステムの中で働く専門職は、ハンデを持つ人の人権をとことん護り、人間として尊重され、豊かな暮らしを送ることができるように支える使命を持つのである。

そうした使命を持つ専門職に、「」がなければ、制度もシステムも、援助知識も技術もみな空しいものになる。

社会福祉の価値前提は人間尊重なのである。それは人としての存在そのものが尊いものであり、能力や属性など様々な違いがあったとしても、存在価値に変わりはないものと理解することが根っことなる考え方だ。

そのような価値前提は、世の中の人々が心の底から他者を敬うという心づもりがなければ、存在しないのと同じ状態になる。人間愛というものがそこには不可欠なのである。

社会福祉援助の専門家は、この根っこを忘れてはならない。理屈ですべてを処理しようとしてはならないのだ。

だからこそ・・・。

魂を込めて人に関わらないと、人の心の中の哀しみも苦しみも、そこからなくならないのだ。表面だけを取り繕うアプローチでは、人の心の中の哀しみや苦しみは一瞬姿を隠すだけで、心理の奥底に隠れてしまい、油断をした瞬間に人の心をずたずたに切り裂く結果にしかならない。

そうであるがゆえに、人の暮らしに関わる専門家として、「あなたは決して一人ではありません。私が傍らについています。傍らで愛をつむぎます」という「思い」を持ち、「思い」を伝える支援姿勢が求められる。

科学できない「」が求められるのである。


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対人援助のプロが重要視すべき感情とは何か




対人援助に携わる専門職には、「正義感」が必要だろうか?

しかし正義感とは、自分が正しいと思ったことを通そうとする感情であるがゆえに、正義ではないと感じたものとの対立感情を生む元にもなるものだ。時にそれは他者との摩擦や争いを生じさせる元凶にもなりかねない。

しかも正義とは極めて主観的なものである。自分にとっての不正義が、他人にとっては正義であるかもしれず、自分だけが常に正しい判断をできる神のごとき存在ではない限り、その正義感を拠り所に対人援助に携わることには大きなリスクが伴うといってよい。

対人援助の職業とは、人に向かい合う仕事であるがゆえに、怒りや哀しみ、無力感といったものが澱(おり)のようにたまっていく。そうであるがゆえにある面から見れば澱の深さはベテランの証であり、人間への洞察力を生む源になる。

その一方で、澱をためた者は、過去を振り返ることをためらったり、自分とは直接かかわりのない人間の暮らしに対しては目を閉じてしまいがちになる。それは溜まった澱に自らがおぼれないようにする防衛本能のなせるわざにほかならない。

僕は意識してそうしたベテランの対人援助職にならないように努力してきた。哀しみや怒り・無力感といったものを心の底に残さないように努力してきたつもりだ。
積み重ねた行いが業になる
それは僕自身が対人援助のプロにこだわってきたからだ・・・対人援助者である前にまずは人間であれ、というのは耳には心地良いが、それは即ち、怒り、哀しみ、疲れよということに他ならない。

対人援助のプロであっても、その日常から怒りや哀しみを排除するのは不可能なのだ。

対人援助場面で、いかにも事務的に能率よく作業を行う支援者であっても、無感情でいられることはあり得ない。しかしその感情におぼれたときに、利用者の置かれた状況の判断ミスが生じかねない。だからこそ感情の発露が、心と体の両方を疲れさせることを知り、感情をあらわにしないという姿勢が求められる。

バイスティックの7原則の一つ「統制された情緒関与の原則」もそういう意味を含んだ考え方だと思う。

そうした意味から言えば、対人援助のプロを動かすもの、必要とされる感情とは、「使命感」ではないのだろうかと思っている。

怒りや哀しみや正義感ではなく、使命感が僕らを動かすものだと思う。

しかし使命感を持つということと、人間であるということは、突き詰めて言えば矛盾を生む。この矛盾が対人援助者を疲れさせる。その疲れがバーンアウトに向かわせるかもしれない。

自らがそうならないようにするための僕の選択は、対人援助のプロにとことんこだわることだ。人間である自分と、対人援助のプロである自分とを不可分にすることだ・・・それによって怒りや哀しみを感じても、決して無力感は抱かずにいる。

それが時に、第3者からみれば鼻につく態度と映って顰蹙(ひんしゅく)を買うことになっても、決して変えずにいる・・・そもそもそんな顰蹙なんか屁の河童だ。

あるいは気づかずに、自分の中にも澱は溜まっているのかもしれない。だが大切なのは、今いる場所や関わる人間に疲れずにいることだ。

今自分が存在する場所に、自分の居場所を見つけられたという幸福感がある限り、僕はまだこの仕事を続けられるのだろう。

ときに滑稽な人間関係や、計り知れない人の業(ごう)というものが垣間見えるこの職業を、僕は確かに愛しているのである。


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13年目の3.11



気象変動の影響があるのか、我が国はここ何年か毎年大きな自然災害に見舞われており、今年の元日も能登半島地震で年が明けた感がある。

どれだけ警戒しても自然災害に見合われてしまえば、人の力でできることには限りがある。だからこそ過去の災害を振り返って避難経路の確保など、できることはしっかりしておかねばならない。

介護事業者に課せられたBCPの策定も、義務だから策定するのではなく、それが利用者や従業員の命を護るために必要不可欠だから策定するという考えがなければならない。

そんなことを考えたのは今日が3月11日という日だからである。13年前のこの日、東北地方を中心に起こった東日本大震災は、3.11という数字を私たちの記憶の中に深く刻み込んだ日でもある。

大地震と津波・・・そして原発事故という大災害の記憶は決して消えることはないだろう。

最初の地震発生時刻は2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18.1秒・・・あれから13年目の同じ時刻が目前に迫っている。

今日も僕はその時間、静かに目を閉じて被害に遭って亡くなられたすべての方を悼みながら黙とうを捧げようと思う。

13年という月日が流れても、被災地にはまだ哀しみが漂っている。

去年、岩手県介護福祉士会のお招きを受けて、大きな被害を受けた地域の一つ釜石市に訪れ講演を行う機会を得た。

講演を行った翌日、研修主催者の方々に、被害に遭った場所やその周辺地域を案内していただく機会もいただいた。
東日本大震災から13年
震災から復興した釜石市には、大災害の記憶を忘れないための建造物等が残され、そこには未来への教訓も刻まれている。

しかし人々の心の中には、まだ鮮明な記憶として災害時の恐怖や、失われたたくさんの人々を思い浮かべての悲嘆感が残されていた。

福祉・介護関係者の中には、自分の力が及ばず救えなかった命があることを悔やみ、それがあたかも自分の責任であるかのように感じ続けている人も居る。しかしそれは違うと言いたい。自然に向かい合う時の人の力は本当に小さなものだ。自然災害が発生したその瞬間に、すべての人が最善の判断ができるはずもない。それは神ならざる人間の宿命でもある。

力及ばず救えなかったものを、すべて自分のせいにする必要はないのである。むしろそこで生かされ、今を生きている意味を考えてほしい。

きっとそれも天の意思である。

あの震災で亡くなった方が、もし再び生まれ変わる日があるとすれば、この日本の、その場所で生まれ変わりたいと思う地域づくりを、あなたやあなたの仲間に託しているのだと思う。

僕自身も、自分がここで生かされている意味を、そう考えるようにしている。だからこの国を良くしたいと思う。その為に僕ができることは、自身が関わっている対人援助・介護事業の質を少しでも向上させ、人々の豊かな暮らしを支援できる方法を創り出すことだと思っている。

僕のこのブログも、あの震災の直後に一気にアクセス数が減った。被災地で被害に遭われた方がアクセスできなくなったのと同時に、僕が一度も逢ったことがない、見ず知らずの読者の方の幾人かが、あの震災で命を落とされたのかもしれない。

その人たちがしようと思ったこと、志半ばで逝った人たちが成し遂げたかったことを想像し、その人たちに替わって成し遂げられることができるものがないのかを考え行動し続けたい。

今この時間、この瞬間に生かされている私たちには、それができるのである。そのことを決して忘れてはならない。

あと2時間と少しあと、その方々のことを思って祈りたい。お亡くなりになられたすべての方々に対して、心を込めて手を合わせたいと思う。


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人権尊重の意味を取り違えていないか



介護事業関係者にとって、利用者の人権を尊重することは極めて当然かつ重要な姿勢である。

しかし人権尊重が建前にしかなっていなかったり、その方向性が間違っているのではないかと思われる対応がしばしば見受けられる・・・本来そのようなことがあってはならないのである。

そもそも人権とは何だろう。

自分の思ったことを自由に口にすること、自分の選んだ宗教を信じること、自由に学ぶこと、好きな服を着ること、好きな音楽を聴くこと、病気になったら医療を受けること。これらはすべて私たちが持っている「人権」である。

社会全体が護るべき基準(ルール)にのっとり、行使できる権利が「人権」なのである。

そして人権が「日常」・「あたりまえ」をつくっているのである。そこを忘れてはならない。

対人援助とは、この「人権」を護ることを何よりも重要であると考えるべき場である。
富士と桜
しかし利用者の人権が、いつの間にかないがしろにされているケースは少なくない。特に施設入所者について、実質的人権無視が目立つ。

特養や老健に入所したとたん、本人より家族の希望や意見が優先されることがある。施設利用者であっても、自分のことは自分で決められるのに・・・。

高齢者にとって、子は家族であっても保護者ではない。

子を身元引受人として入所時に契約を交わす施設が多いが、身元引受人が居なければ施設入所できないということはないし、身元引受人を立てたとしても、その立場は主に利用者の死後に残置物引き取り契約を交わしているに過ぎない。

身元引受人というだけでは、利用者の代理権を行使することなんてできないのである。もし代理権を行使する人が別に必要ならば、成年後見人を選任する必要がある。

認知機能に問題がなく、そういう必要がない利用者につては、本人の意思が最優先で尊重されるべきである。

例えば利用者から、「施設に管理を任せた自分の預貯金があることを子供に知らせないでほしい」と頼まれた場合は、その希望は当然かなえられてしかるべきである。

にもかかわらず、「身持ち引き受け人の方に知らせないわけにはいかない」といって利用者の要求を拒む施設関係者がいる。

身元引受人に利用者のプライバシーをすべて開示しなければならないなんて言う法的根拠は存在しない。むしろ利用者が秘密にしておきたい情報を、利用者の意志を無視して身元引受人に流す行為は情報漏洩であり、損害賠償の対象ともなり得る犯罪的行為といえる。個人情報保護法にも抵触するだろう。

なにより利用者の人権を護るためには、心無い態度や言葉で、利用者の心を傷つけないことが求められる。

介護事業者におけるサービスマナー意識が大事であると僕が主張する理由も、そのことが人権を侵害する要素を排除するため必要不可欠な意識だからである。

横柄な態度、無礼な言葉遣いは、しばしば人権侵害につながる問題を引き起こしている。そうした問題を引き起こした後で、「悪気はなく、そんなつもりはなかった」という言い訳は、なんの免罪符にもならないのだ。

だからこそ相手から誤解されない対応の基盤となる、「サービスマナー意識」を浸透させる必要がある。対人援助のプロとして、いつでもどこでも、マナーをもって接することができるように訓練する必要がある。それは介護関係者にとって最も必要とされるコミュニケーション技術であることを理解してほしい。

だから・・・どうぞ、よそよそしさを恐れるより、無礼で馴れ馴れしい対応で、利用者の尊厳や誇りを奪い、心を殺してしまうことを恐れる人でいてください。


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富士山をみながら考えたこと



昨日までの3日間、静岡市清水区に滞在していた。

ご存じの方も多いと思うが、平成の大合併以前、清水区は静岡市の一部ではなく清水市としての独立行政地域であった。

清水の次郎長でも有名な地域名が区として残っているとはいえ、清水市という市町村名が消えてしまったことは少し残念な気がする。だがこれも人口減少社会に向かう我が国・日本で必要なことであり、ある種の宿命なのだろうか・・・。

それはともかく静岡といえば、天気がよければ富士山を観ることができる地域である。

昔、東京から新幹線で静岡より西へ向かう際には、富士山の見える側の席を指定したものである。しかしいつの間にかそんなこともなくなり、道中富士山を見ないで通り過ぎることも多くなっていた。

それでもやはり現地に滞在した折は、富士山が見える方向はどちらかを必ず確認して、その姿を見て感動するのが常である。

今回宿泊した清水駅近くのホテルの部屋は、窓越しに正面に富士山が見えるというロケーションの素晴らしい部屋だった。
朝日に照らされた富士山
滞在中、天気も良くずっと部屋からは富士山が見えていたが、11日の朝6時ころに窓越しに見た富士山は、昇ったばかりの朝日を浴びて、朝焼けの中に浮かぶような美しさだった。(※スマホ撮影のため画質がイマイチで、その美しさが十分伝わらないのが残念ではある。

静岡の方は、いつもののような神々しい富士山の姿をみられるのだなと羨ましく思った。

だが日本中にこうした美しい光景はあるのだと思いなおした。そうした各地の美しい風景を観ることができる暮らしや生活習慣を護るのが介護という職業の使命でもあるのではないだろうか。

だからこそコロナ禍が終息していないという理由で、今もなお外出制限を続け、故郷の名所を目にすることさえできない人がいることを憂いてほしい。それほど長期に渡り、なおかつ厳格に制限する権利が介護事業者にあるのかということに考えを及ばせてほしい。

制限は馬鹿でもできるのだ・・・いやそれは鈍感な馬鹿であるからこそ、抵抗なく行うことができる行為なのかもしれない。

しかし例外を作るために工夫したり、何かを実現するために新たな方法を創造することは知恵のある者にしかできない。私たちは介護支援のプロとして、利用者の暮らしの質を護り高める知恵を持たねばならない立場にいる。そのための知恵を備えている専門家であると言えなければ偽物といわれても仕方ないのである。そのことを決して忘れてはならない。

それと同時に、この国では「介護」と称する劣悪ビジネスも存在することに目を向けねばならない。

築何十年も経ち、人が住めないようなオンボロの中古アパートを借り切り、そこに生活保護受給者を住まわせて、訪問介護を支給限度額ぎりぎりまで利用させる事業者が存在する。

地域を巡回しないそのような事業者により、密室化したアパートの一室で命が果てるまで置き去りにされるその人たちは、訪問介護を受けるような身になってからの数年間、故郷の景色を観ることもなくこの世を去っていく。

そんな介護であって良いのだろうか・・・。

私たちの職業は、人を不幸にさせる職業ではないはずだ。人に哀しみを与える職業ではないのである。

そうした当たり前のことを忘れずに、自分が居る場所を見渡し、声を挙げ、アクションを起こさねばならない。介護の闇を深めるものを糾弾し、温かな光をすべての地域住民に届ける努力を惜しんではならない。

介護報酬改定のたびに、同一建物減算がなぜ拡大・強化されていくのかを、深く考えなければならない。

そんなことをホテルの部屋の窓越しに、富士山を眺めながら考えていた・・・。

ところで僕が宿泊していた清水駅前近くのホテルからは、清水港もすぐ近くにあり、そこで水揚げされる魚はどれも旨かった。特に鮪が絶品だった。

そこで9日と10日の夜にたべたものは、僕の食ブログmasaの地と骨と肉の、「日本の先行きは、マグロ経済に左右されます」・「錯乱エビ、アン飲んでトレビアン」で詳しく紹介しているので、そちらも参照してほしい。

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平等は自分に対して求めるにあらず



社会福祉援助にとって、無差別平等の精神は決して忘れてはならないものである。

社会福祉援助者自身が、援助対象者を差別することがあってはならないし、自分の価値観が偏見に繋がって業務に支障が出ないように自己覚知に努めて、無差別平等の対人援助を貫く必要がある。(参照:価値観が変化する自分を覚知するために

しかし他人を差別せず、平等に取り扱うべきだからといって、自分が差別的に扱われていることを強調して、自分を差別するなとSNSに書き込んで盛んに訴える人には違和感を覚えることがある。

世の中とは、不平等なものが存在しているものなのである。それを知っている僕たち社会福祉援助者は、利用者がそうした不平等にさらされて不利益を得ないように支援するのが仕事である。

だからといって自分に対して、世の中の不平等な不利益をすべて振りかけるなといっても、それはない物ねだりではないかと思うのである。
世の中は不平等
繰り返しになるが・・・人の世はすべてが平等ではないのだ。それが現実だ。

才能に恵まれている人、環境に恵まれている人もいるけれど、それとは正反対の人々が間違いなく存在している。

だから何だと言いたい。だからこそ人は努力すべきである。自分を向上させられるのは自分でしかないのだ。SNSでその状態を他人のせいにして批判を繰り返して何が変わるのだろうか・・・。

だからといって努力がすべて報われるとは言わない。人間には努力が不可欠であるが、同時に生まれながらの才能や環境、そして運に左右されることも少なくはない。努力が徒労に終わることも少なくないのだ。頑張っても結果が必ずついてくるとは限らないのである。

そういう意味では、実質的な機会の平等を求めるあまり、不本意な結果を得た人に対して、「努力しなかった本人が悪い」と決めつけることも問題ではある。

成功したものは、「自分は運も良かった」と自覚し、他人を思いやる気持ちを決して忘れてはならない。

しかし失敗した者も、ことさら自分の今置かれた状況を不平等だと強調して、それを変えろと訴えるばかりでは、ポジティブなものは何も得られないと思うのである。

平等とは他者を護るために訴えるべきものだ。自分に対してそれを求め、自分が不平等だと嘆いたり、その状態を他者批判に向けるだけの行為は、負け犬の遠吠えでしかない・・・いやそれはむしろ愚痴の垂れ流しというレベルでしかないかも知れない。

それは己の恥をネット上にさらしている結果にしかならない。






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お国自慢を他県をけなす形でしかできない人間の了見の狭さ


政治家もいろいろな資質の持ち主がいるが、了見が狭く見識に欠ける人間が上に立って、かつ公の場で、その偏った価値観が絶対であるかのような発言をする姿ほど醜い姿はない。

恥を知らないというその姿は、一政治家の恥だけではなく、その政治家を選んだ有権者の恥でもある。・・・そういう意味で秋田県の人々は、今本当に恥ずかしい思いをしているのではないのか。

秋田県の佐竹敬久知事が、23日、秋田市での講演で、全国知事会で訪れた四国地方の料理について「メインディッシュがいいステーキだと思って開けたら、じゃこ天です。貧乏くさい」「酒もうまくない」などと酷評。高知県で水揚げされる魚「どろめ」を「あのうまくないやつ」とも表現した一方で、「秋田ほどうまいものがある所はない」「秋田にはいかにいいものがあるか。さまざまな自然、風、水、美人。男もいい」と語ったという。

お国自慢もここまで行くと顰蹙(ひんしゅく)ものでしかない。

確かに秋田のお米は旨い。日本酒もうなるほどおいしいものがたくさんあり、新政を呑んだら杯を手放せなくなる。きりたんぽは僕的には好みではないが、僕以外の我が家の家族には大人気だ。そのほか比内地鶏や、稲庭うどんなど美味しいものがたくさんある。何より秋田の女性は美人だ。それは否定しようもない事実だ。

しかし愛媛のじゃこ天は、練り物では常にトップランクに位置する美味しいものだし、そのほかにも鯛めしをはじめとした美味しい食べ物はあまた多い。地酒も秋田に劣らず旨い酒がたくさんある。人は男女ともに優しく素敵な人が多いのも事実だ。

四国全体で言えばそれが4倍になるどころか、それ以上に魅力に満ち溢れて、素敵なところを挙げればきりがなくなる。

そもそも地元と他県を比べて優劣をつけようとすること自体がどうかしている。同じ日本の中で、それぞれ優れたものがたくさんあるのが日本のそれぞれの地域であり、甲乙つけがたいのが日本の都道府県である。それはとりもなおさず、日本という国が、景色と美食に恵まれた素晴らしい国であるということだ。

日本が世界に唯一誇ることができない恥ずかし事は、政治家が厚顔無恥であることくらいではないのかと思う。
すすき
僕は普通の人が他県を訪れるより、はるかに数多く日本中を旅している。講演をしていない県も、山梨県と鳥取県の2県以外ないほどだ。

その僕がいつも困るのは、行く土地行く土地に、様々な美味しいものがあって、1度の訪問ではすべて食べきれないということだ。日本には、まずいものしかない地域なんて存在しないのである。

そもそも自慢は、他のものをけなしたうえに成り立つという考え方が貧し過ぎる。他と比べなくても良いものは良いのである。良いものが唯一無二の存在である必要はなく、他にもそれと並ぶほど良いものがあれば、それは即ち日本が良いという意味なんだから、他県をけなすような言動は厳に慎むべきである。

そういえば介護の世界でも似たようなことは常に起こっている。

日本介護支援専門員協会の柴口会長が24日の記者会見で、協会が介護離職を防ぐ人材を養成していることに言及し、協会が養成し、認定しているのは、『ワークサポートケアマネジャー』としたうえで次のような発言をしている。

『協会は産業ケアマネジャーの養成に一切関与していない』・『ワークサポートケアマネジャー産業ケアマネジャーは全く違うもので、我々協会は充実した研修カリキュラムなどで質の高い人材をワークサポートケアマネジャーとして養成している。』

あたかも協会が養成している『ワークサポートケアマネジャー』が本物とでも言うようないい分であるが、まったく独善的過ぎる発言である。

産業ケアマネも厳格な試験で合否決定し、その中で資格を得た人が、『産業ケアマネ』として介護離職を防ぐ活動を全国で展開しているのだ。その活動によって助けられている人が全国にたくさんいる事実を無視した発言としか思えない。

両資格ともヤングケアラーの支援や、介護離職の防止のために存在するのだから、お互い頑張って世の中を良くしましょうとなぜ言えないのか・・・了見が狭いというより、日本介護支援専門員協会の利益ありきで、国民の利益というものが見えていない人の発言としか思えない。そんなトップをいつまでも仰いでいてよいのだろうか・・・・。

そういう意味で、日本介護支援専門員協会会長の発言も見識に欠け、了見が狭い、あまりに手前勝手は主張と思ってしまうのである。・・・というかこの団体自体が、もともと見識なんてない団体であるのかもしれない。






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ごく当たり前の優しさを失わない人でありたい



見ず知らずの人に、声を掛けるという行為は勇気がいる行為だと思う。

しかし道端に倒れている人が居たら、「大丈夫ですか?」と声を掛けるのは決して難しいことではないし、人として当たり前の行為ではないだろうか・・・。

ましてや自分の行動と関係して人が蹲っているとしたら、そこで声もかけずに我関せずと放っておき、その場を離れようとすることは、人として決して許される行為ではないと思う。

だが、人の優しさの欠片も感じ取れない事件が起きている。なんとも情けない世の中である・・・。
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ネット配信ニュースから抜粋した事件概要
9月6日午後3時50分ごろ、東京・池袋駅の脇・東口と西口をつなぐ最短通路となる歩道付近でレンタル電動キックボードを運転していた伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)が、60代の女性と衝突後、救護活動もせずに逃走をはかった。
逮捕された伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)
※画像は伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)
しかしその場で同容疑者は、取り押さえようとした警察官の腕をペットボトルで叩いたとして、公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕されている。その後9月9日、自動車運転死傷処罰法違反と道路交通法違反の疑いで再逮捕された。

事故現場は多くの歩行者が行き交うこともあって自転車通行は禁止の場所であるが、電動キックボードは最高速度を時速6キロ以下の設定に切り替えるなどしていれば、歩道や路側帯での走行も可能となっている。ただし伊藤容疑者が使用していた電動キックボードは最高速度20キロに設定されており、法律上は歩道を走行できない状態だったそうである。

目撃者によると容疑者は、「おばあさんが転倒しても悪びれる様子なく、謝りもせず、まるで『勝手に転んだだけでしょ?』って感じで逃げようとしたみたいです。すごく態度が悪くて警察に対して口答えしてるような口調でした」とされている。
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数多くの人が行き交う歩道上を、時速20キロものスピードが出る電動キックボードで走行するということ自体が非常識の誹りを免れないが、その行動の影響で誰かが倒れたとき、申し訳ありませんの一言も言わないどころか、黙って逃げるという行動がなぜとれるのだろうか。

それは若気の至りでは済まない行動であるし、人として許されない行動であると思う。

容疑者のような女性が、将来産んで育てる子供がいるとしたら、いったい親として何を教えることができるというのか・・・末恐ろしいとさえ思う。

勘違いしてほしくないことは、社会全体が優しさにあふれかえり、人が皆んな親切心を振りまくような世の中が当たり前だと言っているわけではないとうことだ。それは理想であっても現実としてはあり得ない。

世の中が善行に満ち溢れるなんていうフィクションを期待しているわけではないのである。

悪も無関心も存在し続けるのが人間社会である。善行を重ねる人間だとしても、ある場面だけを切り取ったら、別な一面を見せてしまうことがあるかもしれないのが人間である。僕自身もそんな一面を持っていることだろう・・・それは2面性とも揶揄されるが、そうではなく人は間違える生物であるという意味だと僕は思っている。

しかし人として生きることにおいて、最も必要とされる最低限の人間愛は失わないようにしたいと思う。人としてこのように生まれたからには、人として当然持つべき優しさというものはあるのだろうと思うのである。

特別に優しくなくても良い。特別な人でなくても良い。しかし人としてごく当たり前の優しさを持つ人でありたい。そうした人間性は失いたくない。

だから次の画像のフレーズを大切にしている。これからもずっと大切にしていこうとも思う。
明日へつなぐ言葉






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LOVEとの出会い


僕が講演を行う際に、講演のテーマが何であってもその締めとして自作動画を流すことが多い。

その理由は、日ごろ対人援助の場で頑張っている人々に、その仕事は社会になくてはならない尊い職業であり、本来の使命を果たすことができれば、誰もが誇りを持つことができる職業であることを伝えるためである。・・・と同時に、そうした職業に従事している人たちにエールを送るためでもある。

講演を聴いて納得した・・・よくわかったというだけで終わるのではなく、その締めに見た動画で自身の仕事の誇りを改めて感じていただき、送ったエールに応えようと、その日以降の仕事の活力になってもらえるように願いを込めて作成している動画である。

その動画はどんなものか知りたい方は、「未踏の地・せたな町での講演」という記事の中で、ユーチューブ動画のリンクを貼っているので参照してほしい。

それを見てわかるように、講演を行う地域の様々な名所・名跡などを盛り込んで作成している動画である。

これらの動画のBGMとして使っているのは、AAA(トリプルA)のLOVEという楽曲である。

この曲を動画音楽に使っているのは、詩が僕の心の琴線に触れたからである。

ある日、JALの航空機内で偶然この曲を聴いてビビビッときた。「足早にすれ違う人と人の隙間で、こぼれて消える、見えない涙・小さな勇気」という言葉がまず耳に残った。

僕たちの職業でも、知らず知らずのうちに仕事の忙しさや、人間関係の煩わしさにまぎれ、見逃してしまっている見えない涙失くしてしまっている小さな勇気があるんじゃないかと感じた。

それでは駄目だとも思った。だから僕の動画には次のようなキャンプションをつけたスライドを入れている。
タイトルなし
そして次に耳に残った言葉は、下のスライドの言葉だ。
明日へつなぐ言葉
対人援助の職業に就いている僕らであるからこそ、どんな時も立ち止まりそっと手を差し出せる人になりたい・人でありたいとも感じた。

しかし言うは易く行なうは難しである。

先日も東京・山手線で運よく座席に座れた満員に近い電車内で、ドア付近にうつむくように座り込んでいる若い女性がいた。

僕は単にその人が行儀が悪いだけかと思って、声もかけなかった。しかし中年の女性が、「大丈夫?体調が悪いの?」と声を掛け、すかさず席を譲った姿を見て、初めて蹲っている女性が体調が悪かったことに気が付いた。

何故そんなことに早く気づいてやれなかったのかと後悔すると同時に、仮に僕が最初に座り込んでいた女性の体調の悪さに気が付いたとして、とっさに声を掛けることができただろうかと考えたとき、自信をもってできるとは言えない自分が居た・・・。

見知らぬ女性に声を掛ける勇気がなかなか持てないと思ってしまうのだ・・・しかしそれでは駄目だと改めて思った。そんなことで対人援助の本質を、壇上から偉そうに語ることなどできないと思った。

見えない涙を見逃さず、小さな勇気をもって立ち止まって声を掛け、手を差し伸べる人にならなければならないと心から思う。

LOVEは、そんな思いを常に僕に思い出させてくれる楽曲である。

この楽曲は使用料を支払ってルールに沿ってBGMとして使用しているので、ユーチューブで配信しても削除されないことを申し添えておこう。

なお今回は9/22に行われる、「明石市介護事業所連絡会居宅部会主催・ケアマネ対象研修会」に向けた動画を作成したので、下記に紹介しておく。明石市の介護関係者の皆様は是非ご覧になっていただきたい。







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戦争を知らない子供たちの世代でもできること


昨日8/15は終戦記念日。僕は戦後生まれだから、太平洋戦争当時のこの国の暮らしがどうであったかということは想像の域を超えない。

しかし戦争体験者から、様々なエピソードを聴かされる機会は少なくなかったように思う。

僕が初めて特養の相談員(※当時の職名は生活指導員)として社会福祉法人に就職した当時は、戦争が終わって40年弱という時期であったため、特養の利用者の多くの方は自身の戦争体験を持ち、その記憶を語ってくれた。

トシさんの戦争体験」で紹介した手紙も戦争の語りべと言える人からのメッセージだった。

日常的に自分の命が危険にさらされ、知り合いの命が消えていくのが当たり前のような毎日を過ごした経験を持つ人々・・・愛する誰かが死んでいくことにも慣れてしまうような日々を過ごした方々がその体験を語ってくれた。

それと同時に固く口を閉ざす方も少なくなかった。

認知症(※当時は、痴ほう症と言われていた)ではなく、記憶力も衰えていないにも関わらず、戦時中の話題に及ぶと貝のように口を閉ざしてしまうのである。
太平洋戦争時の国民生活
そういう人たちにとって、戦争とは、軽々しく口にできないような悲惨な体験ではなかったのだろうか。

その心情を想像すると、この平和な時代に生まれ育ってきた僕たちの世代は、なんと幸運な世代であるのかということに気づかされる。

しかし今年はもう戦後78年・・・。特養の利用者も戦後生まれの方が増えている。

戦時中に出生された方だとしても、その当時は幼児期であった方が多くなり、戦争の記憶もほとんどない人が増えている。特養の利用者さえも「戦争を知らない子供たち」の世代に移り変わっているのだ。

そんなふうにしてやがてこの国は、「戦争を知らない子供たち」の世代しか住まない国になっていく。その人たちが、さらに後世に戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えていくことができるのかが問題である。

しかし世界を見渡せば、今も戦争は行われている。思い返せば僕自身が生きてきた時代で、世界のどこにも戦争が行われていなかった時期というのは、ほとんどないように思える。

たまたま今の日本は戦争とは無縁なだけで、いつこの平和が破られても不思議ではないことに思いを馳せる必要があるのではないだろうか。

僕はたまたま社会福祉法人に就職し、対人援助という職業を通じて利用者の命や暮らしと向き合ってきた。

しかしそれも平和な社会であるからできる仕事であったのかもしれない。過去の戦争では、戦地において他者の支援を必要として生きなければならない人の命や暮らしは、簡単に切り捨てられてきたという歴史もあるのだ・・・。

だからこそ自分より若い世代に、僕が戦争体験者から伝えられたエピソードの数々を伝えていく必要があるのだと思う。戦争を体験した人の思いを、その人たちにこの世で相見えることがない若い世代にもつなげていく必要があるのだと思う。

そんなことを思いながら過ごした終戦の日・・・同時にこの平和な時代で、最も安心すべき介護サービスの場が、利用者の身体や心を傷つける場ではないように、ごく当たり前の介護実践を護るべきことを強く誓ったりもした。

明日はそな思いも込めて、「虐待防止」をテーマにした無料オンライン講演を配信するので、(ID):846 1504 9714パスコード):279279を使って、午後2時までにZoomに入っていただきたい。






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時間(とき)の雫


本来ならば、時間(とき)に区切りはない。それは始まりも終わりもなく、永遠と流れ続けていくものである。

この永遠の流れに、人間(ひと)は便宜上の区切りをつけ月日や時刻を刻んでいる。時を刻んで意味を持たせているのである。

それは人間という存在が永遠の存在ではないからであり、生命(いのち)には限りがあるからなのかもしれない。

時間に区切りをつけることで、人間にとって特別な時間を切り取って、思い出とすることができる。もし時間に区切りがなかったら、そうした思い出も全て流れ消え去ってしまうかもしれない。
湖と花
看取り介護も、終末期という時間区分によって可能になる介護であり、人間の生命体としての寿命が尽きようとしている状況を、人生の最終ステージとして生きる時間として意識することで、様々なことが可能になる。

終末期は徐々に口から食物や水分が摂取困難になる時期である。だからと言って頑張って体に栄養や水分を送り込まなくてよい時期だ。終末期を迎えた体は、水分や栄養をもはや必要としなくなる。無理に与えることは負担をかけるだけだからである。

こうした、「しなくてよいこと。してはならないこと」も終末期という時間区分を意識しないと見えてこないものだ。

人との何気ない出会いや触れ合いも、終末期という時間区分においては特別なものとなり得る。

この世で縁を結んだ人々との最後になるかもしれない出会いとふれあいの時間・・・それらを意識して愛情を確認し合う場が看取り介護の場である。

本物の看取り介護を実践しようとするならば、利用者自身の安楽と安心の身体・精神状況を維持することに最も注意が必要だが、その要素の一つに人間愛を交わし合う時間・・・そうしたエピソードを大切にするという意識が必要になる。

僕は看取り介護について、決して特別なケアではなく日常介護の延長線上にあるものであり、日頃の介護の質を高める努力が適切な看取り介護にもつながると言い続けている。

看取り介護の質を高めるという意識ではなく、日常の介護の質をきちんと担保しつつ、限られた命ある人間に対するケアの在り方として、利用者の方々が生きている時間軸を意識し、そこで最もふさわしいケアを提供するのが私たちの務めであると考えている。

だからこそ僕の看取り介護講演は、日常ケアのあり方も含めて求められる実践方法を話している。看取り介護対象者の人生の最終ステージで創り出される様々な愛情のエピソード造りを支援する具体論を話している。

そんな僕の看取り介護実践論を学ぶことで、受講者は介護という職業の使命と誇りを感じてくれている。さらに日常ケアの品質アップのヒントや動機づけを獲得してくれてもいる。

そういう意味で僕の看取り介護講演は、看取り介護の方法論を学ぶために受講するのではなく、利用者本位という言葉を本音にする、求められる介護の在り方を学ぶために受講すると考えてほしい。

介護事業経営者や管理職の皆様にも、そうした理解で従業員の皆様を、僕の看取り介護講演に派遣してほしい。

今週の水曜日(8/2)は、大阪市老連主催の看取りケア研修会を大阪市立社会福祉センターで行う予定になっている。

1年ぶりの大阪での看取り介護講演は、久しぶりに会場で受講者と対面して行う研修会である。そこから学び取った方法論を、それぞれの職場の実践法に取り入れて、利用者の豊かな暮らしを実現してほしいと願う。

大切な時間(とき)の雫を、手のひらでしっかり受け止めて職場に持ち帰ってほしいのである。

本物の看取り介護の実践論を聴きたい方は、是非会場までお越しください。申し込みは締め切られているようであるが、どうしてもと事務局に頼んだら、もしかしたら特別に席を用意してくれるやもしれない・・・。

それでは皆様、大阪市立社会福祉センターで愛ましょう。
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百鬼夜行が蔓延(はびこ)ることがない愛ある介護を


科学・生産性・ICT・DX・・・介護事業経営に求められるものとして盛んに取り上げられるキーワードの数々・・・。それに対して人間愛を持ち出すと、非科学的で生産性に欠けると非難される昨今の風潮がある。

果たして愛を語ることは、介護事業を堕落させることになるのだろうか。

しかし科学的介護とは、そんなに優れたものを生み出すのだろうか・・・介護にも科学をと声高らかに唱えられているが、果たして科学は介護サービスの質を本当に高めることができて、利用者を幸せにできるのだろうか。

原因と結果の因果関係がはっきり見えるものを科学(サイエンス)と呼ぶ。それに対して原因と結果の因果関係が全く見えないものは隠秘学(オカルト)と呼ばれる。

しかし隠秘学(オカルト)は、見えていないだけで非科学的認識ではない。つまり科学と魔術も相反するものではなく、科学は見えているだけで、魔術は見えていないものであるにしか過ぎない。

そりゃあ見えた方が、見えないより幾分かましだろう。しかしその違いは、見えていた方がうまく使い分けることができて便利だという程度の違いでしかない。

繰り返しを恐れずに言うが、科学(サイエンス)隠秘学(オカルト)など、本来その程度の違いしかないものだ。

それなのに隠秘学(オカルト)は介護と無縁の存在だと思っている人がほとんどだ・・・いや無縁どころかそんなものは忌避しなければならないもので、積極的に排除しなければならないと考えている人がほとんどだろう。

しかし科学と隠秘学は、前述したように見えているか・見えていないかの違いでしかないのである。

よって科学的介護魔術的介護と置き換えて表現したって、そこで実行するものは大した違いのないかもしれないのだ。
百鬼夜行
そんな不確実なものに寄り掛かった未来志向でよいのだろうか。そこで生まれるのは科学と称する何でもありの介護だ。まさに暗夜に妖怪が列をなすかのような百鬼夜行の介護が生まれかねない。

そもそも100年以上続いてきた介護実践で見つけられなかったものが、科学的介護情報システム(LIFE)によって、にわかに見つけられるのだろうか。

しかもそれは介護実践をしたことがない人が組み上げたシステムが読み込むデータでしかない。さらにそのデータも全国平均値とデータ提出事業者の数値比較とか、前回までの提出データ値と近直データ値7の比較という極めてアナログな、コンピューターを使わなくても抽出できるものでしかない。

そこで新しい効果的な介護の方法論が生まれると考えるのはあまりにも安易ではないだろうか。

それよりも私たちは介護サービスの様々な場面で、ノウハウを得てきているではないか。

認知症で過去の記憶を失って混乱している人にどう接したらよいのかという方法論は、あの手この手と持っている。同じ方法が他人に通用しなくとも、これがダメならあれはどうだというバリエーションを無数に持っているはずだ。・・・重度の身体障碍の方への対応もしかりであり、介護実務で今すぐ通用する科学は、実は私たちの頭の中には存在しているのだ。

それを言葉にして、文章にできるように努力することが大事だ。私たちが努力して蓄積してきた知識や思考の方法は、介護業界全体の財産として私たち自身の言葉と文章で伝える責務があるということだ。

その方法論とは型(かた)に縛られるものではなく、他人(ひと)に対する人間愛を注ぐ方法論であったりする。目に見えない思いを、『思いやる姿勢』という形で見える化する方法論でもあったりするのだ。

そのような方法論を堂々と伝えてほしい。

愛情という言葉を照れずに使い、愛を注ぎ人の暮らしを豊かにする方法論を伝えてほしいと心から思う。

LIFEを利用して国と企業が作り出す科学的介護よりも、それはずっと利用者が幸せになることができる方法論ではないのかと思う。
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5月病への備えが必要な時期です


先週金曜日(4/22)、室蘭気象台が観測史上最速の桜の開花宣言を出した。

僕の自宅は登別市であるが、数分歩けば室蘭という場所にあるため、自宅近くのエゾヤマザクラも咲いているのかと思って観てみると、案の定開花していた。

週末から今朝にかけて天気も良いため、周囲の桜の期も次々と花を開かせている。僕は現在の家に住んで30年以上になるが、GW前に自宅近くの桜が咲いた記憶はない。それだけ気温が温かいということだろう。

開花した桜はまだ三分咲きという程度なので、GWがちょうど見ごろになるのではないか・・・登別温泉につながる道道は、通称桜のトンネルとも呼ばれているので、観光に来られた方は目の保養ができるのではないか。
エゾヤマザクラ
そんなGWが今週末から始まるが、この時期は介護事業者にとって4月に入職した新入職員に最も気を使わなければならない時期である。

不安を抱えながらも、新しいステージで飛び立つ希望を胸にしていた人たちが、現実とのギャップに悩み始める時期でもあるからだ。・・・指導する先輩職員は、自分自身が新入職員の希望をつぶす元凶になっていないかを振り返らなければならない。

理想と現実は違うなんて、声高に叫んで新人教育を行っている職員がいるが、そんなセリフを口にする前に、自分の現実がいかに貧しいものであるのかを自覚してほしいと言いたくなることもしばしばある。

誰かの心に咲く花のような存在になろうとしている新人に嫉妬を覚えて、その姿勢をつぶすような言動に走る人の心はなんと醜い心であることか・・・そんな姿を自分の家族に見せられるだろうか。

新人職員の抱く理想と、職場の現実が異なるとしたら、その理想に少しでも近づけるように何をすればよいのかを、新人と共に考える指導者であってほしい。どうか若い芽を摘まないでほしい。

またこの時期は、緊張しながら仕事を教えてもらい、一つ一つの作業を覚えているだけの毎日から、少しだけ余裕をもって周囲を見渡すことができるようになってくる。そうであるがゆえに悩みを多く抱える時期でもある。

その悩みを聞いてあげるだけで、不安が解消したり、勇気が湧いたりする新人も少なくない。しかし実際には、その悩みを誰にも打ち明けられず、相談する人がいないとつぶれていく人が多いのだ。

この時に考えなければならないことは、「何かあったら相談してね」はダメだということだ。何かあっても相談できずにバーンアウトする人が多いのだから、相談の時間や機会は、何もなくとも積極的に事業者側や先輩職員が作り出してあげるものであると考えてほしい。

世間がGWに浮かれている時期に、自分はシフト勤務で連休も取れないことに不満や不平を抱える人も居るかもしれない。

介護の仕事はそんなことを言ってられないと放り出すのではなく、そうした不満や不平を抱く背景に、ほかの要因(※例えば仕事を十分に覚えられない・いつもより少ない人員で過重負担が新人にかけられている等)はないのかということも探りながら、本当に困っていることは何かを探る努力を惜しまない組織にしていくことが大事だ。

僕が社福の総合施設長を務めていた時期は、新たに入職した職員については、年齢や経験にかかわらず最低1年間は、「個別面談」を月1回行い悩みや相談事がないかを確認していた。そういう機会を就業時間中にきちんと創って、きめ細かく対応することが大事だ。

人材は、将来人財となる可能性を秘めた人ではあるが、だれしも挫折なしに育っていくとは限らない。一回の挫折でくじけてしまあないように、人材を人財に変えるためのシステムは、多重にきめ細かく構築していくことが大事である。

この時期だからこそ、5月病の芽を摘むシステムが職場に存在するかという振り返りをしていただきたいと思う。
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受容のまなざし


世の中には様々な個性を持つ人々が存在する。その中には私たちの感性では理解できない人が数多く含まれている。

しかし自分の感性が一般的だとも言い切れない。もしかしたら自分の感性が、一般的な人のそれとはかけ離れていることもあり得るのだ。

少なくとも自分だけが、この世の唯一の常識をもって生きていると考えてはならないのだろう。それはあまりに傲慢不遜な考え方である。

だからこそ何事も、自分を基準にして考えてはならないと心したい。

対人援助という仕事をしていると特にそう思う。

ひとり一人個性の違う人間に相対する職業を選んだのは自分自身だ。そういう職業を選んだという自己責任において、自分ではない誰かの個性や感性をも大切に思う姿勢や、個性を尊重するという考え方を己に課すべきだと思う。

そうすれば自分から見ておかしいと思う他者の行動、納得できない他人の考え方にも、その人なりの事情なり、理由なりがあることに考えが及ぶのではないかと思う。

対人援助には、「受容」の態度が大切だと言われるが、他人を受容するという意味は、他人を理解すること・把握すること・認識することである。そのように他者の価値観を認めることによって援助に結びつく信頼される関係を築くことができるのだろう。

そのようにして初めて対人援助が成り立つのである。

仮に他人の考え方が受け入れ難かったり、自分にとって不愉快な態度や振る舞いがあるとしても、それを他者の「一部分である」として捉え、そうした言動に至る理由に思いを馳せるのが対人援助の専門家に求められる姿勢と言えよう。
それぞれの眼差し
つまり受容とは許容ではないということだ。

あなたのその態度は違うと思うけれど、そうした態度を取らざるを得ないあなたの気持ちを理解しなければ、あなたの課題や問題解決につながらないことを考えて、その態度の意味を深く考えて理解します。・・・それが対人援助のプロとして求められる姿勢だろう。

そしてそれは、「わかる」ことではなく「わかったつもりになる」ことでもない。「わかろうとする」という私たち対人援助としてのプロの姿勢であり、その姿勢を貫く過程そのものでを受容的態度と呼ぶのだろうと思う。

対人援助の場では、予測のつかないいろいろなことが起こる。温厚で尊敬できる人に思えた人が、ある出来事をきっかけにして、我がままで横暴な言動に終始するようになるかもしれない・・・。

自らの死期を静謐(せいひつ)に受け入れた人が、看取り介護の最中に急に死に怯え、恐怖にもだえ苦しむかもしれない・・・。

そこで何が起きたのか、こころの中にどのような嵐が吹きすさんだのだろうか・・・そのことを想像し、理解しようとする人が傍らにいるのか・いないかの違いによって、人の心に安寧が生まれるか、混沌として乱れるかの違いに結びつくのかもしれない。

対人援助のプロである私たちの受容の態度、それに向けた眼差しが、それを左右するのだとしたら、その責任は重大である。

私たちが選んだ対人援助という職業は、他人を裁く仕事ではなく護る仕事だ。そういう職業を私たちは、「生き様」として選んだのだと思ってほしい。
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本物の介護技術とは何を指すのか・・・。


介護は最終的には技術です。そのことに異論はありません。

いくら心を込めても技術が伴わなくては、利用者にとって良い状態は生まれないからです。

心は込めたけれど、やり方が拙くて苦しい思い・恥かしい思い・嫌な思いをさせたけど許してね・・・そんな介護支援はあり得ないし、プロの姿勢ではないのです。

しかし同時にいくら技術があっても、利用者感情を無視して機械的に決められた正しい技術を展開したとしても、利用者の表情は硬く、あるいは乏しいもので終わることも多いのです。

それはなぜでしょう・・・。

それは人は物質的満足を唯一の目的として生きるものではないからです。他者から愛されたり、認められたりする精神的満足も生きるためには必要なのです。

心を込めるという意味は、介護支援という行為を行う対象者に、「精神的満足感」を与えることなのです。

勘違いしてはいけないことは、その満足は私たちの満足ではなく、利用者の方々の満足なのです。介護支援の対象者が、「嫌だ」と言うとすれば、それはいなな行為にほかならず、「そんなことはありません」という言葉は、私たちの満足感の押しつけに過ぎなくなります。それでは困るのです。

だから私たちは、介護を必要としている人たちが、私たちのどのような行為や、私たちが介入したことによる、どのような結果に満足してくださるのかを、常に意識して関わる必要があります。

生きるために、何らかの支援を必要とする人たちの居場所が、冷たい風が吹きすさむ場所でしかなかったら「生きがい」なんてなくなります。

その方々を心にかけて、手を差し伸べるべき対人援助のプロとは、誰よりも温かい手の温もりを届ける人でなければならないはずです。技術があっても冷たい態度で、その技術を提供するだけの人には、利用者は決して心を開きません。

それが介護労働=感情労働といわれる側面の1要素でもあります。
心を癒す介護
だからこそ私たちには人間を愛するという心・・・そうした感情を介護支援を必要とする人に伝える力も、求められる介護技術の一つだといえるのではないでしょうか。

何の愛情も伝えられない介護は、空しいだけの動作援助に終わってしまうでしょう。そのような冷たい技術は、大事なものが欠けた技術と言えるのではないでしょうか。

本物の介護技術とは、目に見えない心=思いやりとか、あなたのことを思っているのよと言う人間愛を伝える技術をも含んだものではないかと思います。

介護を受けて暮らす必要なる人に、言葉ではなく態度で安心感を与えられるのが本物の介護技術です。

介護を受けて暮らす人を大切に思う誰かに、「あなたの大切な人を、どうぞ私に任せてください」と言葉で示すだけではなく、そのことを介護を行う姿勢で示すことができることが真の技術です。

どうか、そうした本物の介護技術を追求する人になってください。どうぞ、そうやって介護を受ける人と、その人を愛する誰かの心を豊かにしてください。

私たちが求める、介護はそういうものであるべきではないかと思います。

そのように心から思うのです・・・。だから僕は、誰かのあかい花になるための実践論を探し続けるのです。
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まごころ


これからの時代は介護事業においても、データとデジタル技術を活用した業務フローの改善や新たなビジネスモデルの確立が必要とされる時代であると言われている。

そのため、「介護保険制度の見直しに関する意見」でも、介護事業介護DX(デジタルトランスフォーメーション)の推進が主要なテーマとして掲げられている。(4頁

さらに生産性の向上が求められていることから科学的介護が必要とされ、その実現が図られる今日・・・。愛情とかという言葉で、「介護実践」を語ろうとする人間は、古ぼけた化石のような存在だと批判を受けるのだろう。

しかし時代がどう変わろうとも、科学技術がどう進化しようとも、人と向かい合う職業や行為には、「真心(まごころ)」が一番大事になるのだと思う。

僕はそれを信じて疑わない。

真心(まごころ)とは、偽りや飾りのない心を意味する。誠意と言い換えることもできる。

知識や技術はどう努力しても、必要なレベルに追いつかない時がある。介護福祉士養成校卒業生に、就業と同時に10年経験がある人と同じ知識と技術を求めても無理がある。

最先端機器を使うことで、より高いレベルでの結果が出せると言われても、そうした機器や道具がどうしても揃わず、アナログ対応しかできない条件下で、介護サービスを提供しなければならないことも多々ある。

しかし真心をもって利用者に接するということは、経験がない人間にもできることであるし、最先端機器が使えない場所でも変わりなく可能となることである。

そして真心は時として、知識や技術を補って余りある、「生の感情」を利用者に与えることがある。

勿論、いつまでも知識や技術が拙く、真心だけで対応して良しとするものではない。真心に追いつき、追い越す知識や技術を獲得する努力はし続けねばならない。そこに真心が加われば鬼に金棒ではないのか・・・。

しかし真心とは、マニュアルを作成して与えられるものではない。教育して持つこともできない。なぜなら真心も人の感情の一つであり、その人の心の中に生まれるものだからである。

介護事業における、利用者に対して真心をもって接するという思いは、人は能力や置かれた状況に関係なく、「ただ人として存在していることに価値がある」という「人間尊重の価値前提」がしっかりと教育されているという基盤のもと、人として人を愛おしく思うという人間愛から生まれるものだと思う。

そこに介護のプロとしての誇りや、介護という職業の使命感を抱くことが加わって、真心をもって利用者に接するという行為が、自然と身について行くのだろうと思っている。

そうした思いを伝える旅を今年も続けていくつもりだ。
masa
ただし思いだけを伝えても形にならないと思っていることも事実で、僕の講演はあくまで実践論である。

僕の講演を受講した後にすぐに実践できる介護実務のノウハウを伝えるとともに、その実践を続けておれば、知らず知らずのうちに思いが形になるエッセンスを込めている。

自分の真心を言葉や文章に表すことができる・・・そんな実践論を語ろうと心掛けている。
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時を超えて


新年、明けましておめでとうございます。

今年も無事に元旦の朝を迎えることができ、こうしてブログ記事を更新できることに感謝しています。

そして元旦という特別な日に、わざわざ僕のブログに来訪し、僕の乱暴につづった文章を読んでくださる方々にも感謝いたします。いつもありがとうございます。
2023年富士山の初日の出
※画像は、富士山ライブカメラより拝借した、2023年初日の出を浴びる富士山
読者の皆様にとってこの2023年という年が、素晴らしく良い年になりますことを祈っております。

僕自身も、今年も健康に恵まれ、全国各地で講演の旅ができ、おいしいお酒を楽しい仲間と飲むことができるように願わずにおれません。どうかそんな1年でありますように・・・。

さて元旦ですので、改めてこのブログのコンセプトについてお知らせしておきます。

以前から何度も書いていますが、このブログは非常に自分勝手な個人スペースです。そのため読者の気持ちを一切顧みず、読み手の希望も一切考慮に入れず、ただただ書き手である自分自身のために心の叫びを文字にして書き殴っております。

自らの心の叫びを、誰にも忖度することなくぶつける場所がこのブログなのです。

そうであるがゆえに、このブログを通じて社会を啓蒙しようという気持ちは一切ございません。誰かを教育したり、何かを変えようとする気持ちもありません。僕の正直な心の叫びを投げつけるだけの場所です。

それに対して共感・共鳴してくださる人が居ることは嬉しい限りですが、それを目的としているわけでもないことをご理解ください。

ここに書いていることが間違ってるとか、そんなことを書くべきではないと批判する人については一切無視します。僕のブログ記事を読んで不快になる人は、わざわざここにつないでくるなと思うだけです。

そのコンセプトは今年も変わりませんので、時には特定の人にとっては不快と感ずるような乱暴な文章を綴って終わりということもあるでしょう。

自分の心にたまった滓(おり)を焼き尽くすためには、それも必要になるのですから、それを許せない人は最初からここに来ないでください。その炎に燃やされてしまうような心の持ち主は、ここにつなげない方が良いと思います。

どうぞそのことをご理解ください。何度も書きますが、理解できない人はわざわざここにつなげないでください。

一言居士のごとく、人を嗜めようとする人は、ここには一番ふさわしくない人です。どうぞそのことをご理解いただきますようお願い申し上げます。

話は変わりますが新年早々に皆さんにお報せしたいことがあります。

それは昨日の大晦日の午後、ユーチューブで僕のインタビュー動画が配信されたということについてです。

配信元は、僕の管理する表の掲示板にバナー広告を掲載されている、「弁護士 外岡 潤が教える介護トラブル解決チャンネル」です。

ここに昨日15時、「菊地雅洋様にインタビュー!その1」がアップされました。

このインタビューは、昨年11/20にJR東室蘭駅近くのレンタルスタジオで録画されたものです。外岡弁護士が、わざわざ東京からこのインタビューのためだけに来道されました。人材育成・科学的介護・サービスマナー・地域包括ケアシステム・介護業界全体に求められる情報発信力等を多角的に論じています。

このうち第1回目は、『どうすれば人が辞めない?新人職員の指導法「叱る」+「〇〇」が超重要』となっています。

今後インタビューの続きを何回かに分けて随時アップされるそうなので、是非ご覧いただければありがたいです。よろしくお願いいたします。
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陽だまり


人が生きるためには、その人にとって柔らかな日差しと温もりがある場所が、どこかに存在している必要がある。

暗闇をさまよい迷っているときも、寒さにこごえ震えているときも、そこに行きさえすれば陽だまりができていて、不安も恐怖も悲しみも慟哭も消し去ることができる。

人間が長い人生を歩んでいるときに、そんな場所を欲するときがある。そんな居場所が必要になるときがあるのだ。

大学生時代、社会福祉学を専攻していた関係で、様々な困難を抱えて暮らしを送る人と出会った僕は、そんな人達もホッとできる場所がどこかにできないかと思った。

せめて社会福祉援助の場をそんな場所にしたいと思って、介護施設を経営する社会福祉法人に勤める道に進んだ。

それは僕の中では理想ではなく、かといって実現可能なゴールでもなく、単なる「思い」でしかなかった。だが、その思いと反するものとは徹底的に戦ってきた。その思いを邪魔するものとは争うことを厭わなかった。

そのために若い頃の僕は、ずいぶんとんがった嫌な奴と多くの先輩方から思われていたろうと思うし。しかも年を取った今現在も、相変わらず戦い続けているので、アンチmasaがたくさんいることを知っている。

でもそんなことはどうでもよいことだ。

思いが実現するかどうかはともかく、実現できない前に妥協してしまうことが一番駄目なことだと思っている。思いを現実に近づける途中で前のめりに倒れることはあるかもしれないが、機会と方法がある限り、消えない思いを追いかけようと思う。

そのために今も信じた道を進んでいる。その思いに共感してくださる人たちとつながりあって、答えを探し続けている。
陽だまり
私たちは、自分自身が光輝く太陽になる必要はない。私たちの役割とは、何かが発した光や誰かの温もりを、利用者に届けるために工夫をすることだ。

光の届かない場所に光を届ける工夫、光の届かない場所に居る人を光の届く場所に連れていく工夫、光のある場所の温もりをできるだけ護る工夫・・・。それができる人が本物の社会福祉援助者だと思う。

介護保険制度にしても、その他の社会福祉制度にしても、所詮は人間が作り出したルールに過ぎない。そんなものがすべての人の救いになるわけがない。

だがその制度を運用する人々が知恵を働かせて、制度の光の部分をできるだけ周囲の人々に届けることはできるはずだ。対人援助のプロとして、私たちはそうした立場で制度を運用する役割を与えられているのだと思う。

この国には、介護サービスを利用する必要があるものの、実際にサービス利用したとたんに、心身の障害を持つというだけで、年端のいかない人生の後輩である若い介護職員にため口対応されて悔しがる介護サービス利用者が存在する。

よそよそしくならないようにという屁理屈で、無礼ななれなれしい言葉遣いを直さない介護職員によって、心を殺される要介護高齢者がなくならない。

そんな偏見やバリアを、一つ一つ壊していくのが僕の役割だと思う。

そのためには特定の介護事業所の民度の低さ・特定の介護職員の知性の低さを遠慮せずに指摘しなければならない時がある。それも厭わずに続けていこう。そのことで誰かに忌み嫌わたとしても本望だ。

今週も北海道の障碍者支援施設を舞台にした虐待が明らかになった。今朝、僕は自分のフェイスブックに下記のように書き込んだ。
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オホーツク管内西興部村の障害者支援施設「清流の里」での虐待が明らかになっています。男性職員6人が男性入所者13人に対し、全裸で長時間放置するほか、器から盆にこぼれた食事を食べさせたり、病気により身体を動かしづらくなっているのに無理やり動かしたりするなどの行為です。

なぜここまで人は人を傷つけることができるのでしょうか?自ら職業として選んだ職場で、他人に誇ることができない仕事を続けて、楽しいことがあるんでしょうか?

障害者支援施設では、職員が暮らしの伴奏者ではなく、生活指導の教官と勘違いしている人も居ます。障害を持つ方にとって、施設は暮らしの場=逃げ場のない場所です。もっとそのことを重く考えて、利用者対応の在り方を根本から考え直すべきです。
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こんなことをつぶやかなくてよい社会にならないものだろうか・・・。悪や不正、暴力や非正義をすべて排除する社会は非現実的なのだろう。しかし僕たちの目の前から、少しでもそのようなものがなくなるように、できることをコツコツと続けていくしかないと思う。

傷ついた誰かがその心を癒し、ホッとできる陽だまりをなくさないようにすること・・・その方法を探し続けること・・・それが唯一僕たちができることだ。

そんな知恵と力しか持たない僕ではあるが、その意思を曲げずにその思いを広げるために、志を同じくする仲間とつながり愛たい。
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こもれび


病院という場所は、病を治すために行く場所だ。・・・だが、時としてその場所がそのまま死に場所になることもある。

患者にとって、それは人生の最期に過ごす場所が病院であったという意味にもなる。

しかしその場所が、死を目前にした患者やその家族にとって必ずしも温かい場所ではない場合がある。

その場所が患者にとって冷たければ冷たいほど、その患者の人生の豊かさが削り取られ、貧しい生き方に変えられていくのではないかと思う時がある。

患者は医療機関の中で病気を治すために様々なルールや制限を強いられ、治療のために医師や看護師の指示を護らねばならない。・・・それはやむを得ないことではあるが、その時に医師や看護師に、患者を思いやる姿勢が見られないとき、医師や看護師の指示の言葉は、そのまま患者の心をえぐる刃(やいば)になる。

病をいやす願いを込めて、そうした冷酷な言葉に耐えた先に、「」があるとすればなんと残酷なことだろう。

そんな実態があるからこそ、「あんな場所で、○○を死なせる結果になって悔しくて、哀しくて・・・。」・「なんで死を目前にした患者に、あんな冷たい態度をとるんだろうね」と嘆く遺族が存在する。

そんなつもりはないという言い訳は、ここでは一切通用しない。

そういう思いを抱かせてしまったという、その結果を受け止める必要があり、そういう結果をもたらした自らの態度を振り返って考える必要があるのではないだろうか。
メルヘンの丘
私たちが働く介護の場も、同じ状況を生み出す危険性がある場所だ。

他者への配慮、利用者へのいたわり、すべての人に対する慈しみの気持ち・・・それらが欠けたとき、私たちは知らず知らずのうちに人の心を殺す存在になってしまう。

だからこそ関係者には、「言葉に気をつけなさい」・「態度に気を付けなさい」と繰り返し警鐘を鳴らしている。

それは介護サービス利用者の心を、そんなつもりもなく殺してしまわないための警鐘だ。

自ら欲しない状況で、他者を深く傷つけてしまうという罪を犯さないための戒めである。

人の心はそれほど強いものではない。泰然自若としているように見える人でも、誰しもどこかに弱さを持っている。そうした人間であるからこそ、体と心が弱った状態のときは、いつも以上に心を配って温かい言葉を掛けなければならないと思う。

そもそも高齢者を子ども扱いするのが、親近感の表現と勘違いしている人が多すぎるのではないだろうか。

高齢者とか要介護者とかいう烙印を外して、一人の人間として個別化してほしい。尊厳を持つ一個の人間として見つめてほしいと思う。

介護サービスの割れ窓理論とか、サービスマナーとかを訴えると、言葉遣いにうるさすぎるという人がいるが、言葉遣いに気を遣わな過ぎて、利用者に向ける態度に緩すぎるのが医療と介護の実態である。

そのことがいかに多くの患者・利用者・その周囲の人々の心を傷つけ、場合によっては心を殺し、尊厳を奪ってきたのかという事実を見つめてほしい。

せめて自分自身は、他者に向かって刃となる言葉を投げつけるような支援者にはならないと考えてほしい。

それが対人援助という場で暮らしの糧を得ている者の、せめてもの責任ではないだろうか。
言霊
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人として人に関わる対人援助


対人援助は、自分以外の誰かの最もプライベートな空間に踏み込んで、本来利用者が他人に知られたくはない部分にも触れて支援を行う行為である。

私たちはそういう行為を職業とするプロフェッショナルだ。だかこそ私たちには、他者の暮らしを護って援助するという自覚に基づいて、相応の倫理観が求められるし、秘密保持などの義務が生ずる。

しかし何よりも大事なことは、人として真摯に利用者に相対し、利用者がどのような状況に置かれていたとしても、その尊厳を護った支援行為に終始しなければならないということだ。その覚悟をどれだけ持てるかがプロ意識として問われてくるし、そのことを建前としないという確固たる姿勢が、世間から信頼を得るための唯一の道だ。

私たちが他者の暮らしを支える際には、暮らしを送る人自身の様々な思いに気づいて、その思いに寄り添う姿勢が必要になる。その時、寄り添うべき思いとは、ネガティブな感情も含まれることになり、そこにどのように寄り添うのかということが、利用者と信頼関係を結ぶうえで重要な要素になることも多い。

それはダメです」・「それはやってはいけません」と、ルールを振りかざして利用者の思いを切り捨てることは簡単だ。しかしそんな形で物事を終わらせるのでは、暮らしの支援に結びつかないという場面がしばしば生ずるのが対人援助である。

理屈は、幸福や暮らしを創らないのである。

私たちにその時求められるのは、援助技術とか専門知識以前の目に見えない、「人間愛」というものなのかもしれない。
誰かのあかい花になるために
それは現在求められている、科学的根拠とは対極にあるもので、非論理的で客観性のないものだと批判されるかもしれない。

だが目に見えない、非科学的なものをすべて切り捨てることによって、人の暮らしという極めて個別性の高い領域が良くなるとでも言うのだろうか・・・。僕はそうは思わない。人には定型化できない感情というものがあるのである。そして感情とはきわめて非論理的で、非合理的なものであり、方法や経緯と結果の因果関係のない場所で生まれるものである。

そうした感情に寄り添うためには、極めて説明しがたい、「人を愛おしく思うという感情」で寄り添うしかないのだ。

しかし・・・問題は援助者たる私たち自身が全能なる神ではないということだ。すべての人を愛することができる天使にもなることはできない。

対人援助という仕事に携わる私たちも感情ある人間の一人にすぎないのであるのだから、他者に対する好き嫌いの感情は当然持っているし、誰かを深く愛することができる反面、他人を妬み、他人を憎む感情も持ってしまうどうしようもない存在だ。

私生活も決して潔癖に送っているわけではない。清貧という言葉から程遠い状態で、みだらな楽しみや遊興にふけることもあろうというものだ。

だからと言ってそれが即ち、対人援助に関わる資格がないと言える問題でもない。人として欠点や短所をたくさん持っているけれども、自分が完璧な聖人ではないという自覚と自己覚知をもって、職業上は利用者に対して真摯に関わればよいということだと思う。

自分の中のネガティブな感情は、自覚してコントロールできるようにするだけの話だ。

そうでも考えない限り、対人援助に関わってよい人などいなくなってしまうのではないかと思うのである。

自分の人格を高潔にしようなんて背伸びなんかせずに、普通の人として、普通に人を愛する気持ちを持ち続けるだけでよいのだろうと思う。

人に秀でて何かを残そうとするのではなく、自分の中の大きな愛を、小さな仕事の中であふれさせることが大事ではないかと思う。
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自分の職場がどうあってほしいですか?


株式会社マイナビが運営する介護経営支援サイト、「メディカルサポネット」の連載、「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜」は今回がいよいよ最終回。テーマは、「どうなっていく?介護事業の未来」としておりますので、どうぞ連載名に貼り付けた文字リンク先を参照してください。

さて話は変わって本題に移ろう。

このブログ読者の方々は、ほとんど介護事業に携わっている人だと思う。

そんな方々は、介護という職業がどのような職業であってほしいと願っているのだろう。そして自分の職場がどんな職場になってほしいと思っているだろうか。

例えば介護施設の某職員が、こんなふうに考えているとしたらどう思うだろう・・・。

給料は他と比べても悪くありません。休みもそこそこ取れます。職場の人間関係は、嫌な上司や口うるさい先輩はいるけれども、和気あいあいと話せる同僚もいるし、嫌な人間とはなるべく近づかずに話しかけられても無視してやり過ごしています。
仕事は先輩方のやり方を見よう見まねで覚えたうえで、自分の考えたことを加えたやり方で何とかこなせています。
利用者は認知症の人が多くて、わけのわからない言動に戸惑うことが多いけど、決められた作業を黙々とこなしてさえいれば、文句を言われることもないので辛くはありません。
夜勤はワンオペで大変でしょうと言われるけど、自分で決めたルールで、自分の思い通りに動いて一晩過ごせばよいので、特段苦痛でもありません。むしろ他人の目のない分、気楽なのがワンオペ夜勤も言えそうです。
利用者の暮らしって言いますけど、ほとんどの人が家にいたら一人で生きていけない人たちですから、ここにいるだけで衣食住に困らないのだからそれなりに良い暮らしと言えるのではないでしょうか。適当にレクリエーションの機会はありますし、おもしろくなさそうにそこに座っているだけの人がいたって、問題とは言えないと思います。


・・・このような職場で働きたいと思う人はどれだけいるのだろう。こういう職場で介護の仕事を続けていて、介護の仕事にやりがいや面白みを感じることができるのだろうか。

職業を持つことは生活の糧を得るために必要なことであり、趣味とは違って好きという感情だけで選ぶことはできない。しかし「働く」という行為は、ある一定年齢まで何十年も続けなければならない行為でもあり、嫌々惰性で続けるとしたら、人生の中で大事な時間を無駄にしているように思えてならない。

だからこそ自分の適性に合った職業を選んで、仕事に誇りややりがいを感ずることができるということが非常に大切なことだと思う。それが自らの人生を豊かにすることにもつながるのではないかと考えている。

勿論、生活の糧を得ることが職業を持つことの最大の目的だから、仕事に見合った対価を得ることは非常に重要なことではある。しかしそれが即ちやりがいにつながるとは限らないと思うのだ。

僕は志を高くもって、社会福祉の勉強をしたわけではない。理系が自分には合わないと思ったので、文系の大学に進もうと思った。その時、たまたま道内の大学で社会福祉を選考する道が、自分の能力と適正に見合っているのではないかと思い、恐る恐るこの道に踏み出した。

そして大学生活4年間の中で、様々な他者の「人生」に触れる機会を持った。障がいを抱えた状態でこの世に生まれ出た子やその親、家族に恵まれない子供、家族から理不尽な暴力などの虐待を受け続けている人々・・・。

そのような出会いに困惑したり、否定的な感情を持つことも少なくはなかったが、それ以上に他者の人生の一端に触れて、そこに関ることにやりがいを感じた。自分が関わることで、無表情だった人の顔がほころんだり、心の底から湧きあがる笑顔を見られたときは、自分自身が幸せな気持ちになることができた。
誰かのあかい花になるために
社会福祉事業・対人援助の仕事のだいご味とは、自分が関わりを持つことが許された他者の人生を少しでも豊かにすることだと思う。そこで生まれる心からの笑顔や、穏やかな表情に出会うことができることだと思う。その時の感謝の言葉は、僕たちにとって何よりのご褒美だ。

だから介護事業に携わる以上、そこでかかわる人たちの命をつなぐだけの最低限の関りでよいなんて思わない。制度の光をくまなく届け、私たちのできる限りの支援の手を差し伸べ、我々の支援の手を必要とする人たちの、人としての尊厳が護られ、少しでも幸せを感じてほしいと思う。

少なくとも利用者の哀しみや、苦しみの上に、私たちの暮らしが成り立つことなんてあってはならないと思う。それは人として許されない考えのように思うし、誰よりも貧しい心でしかないと言われても仕方がないことのように思う。

介護事業というものは、決して他の職業より崇高な職業ではないし、数ある職業の一つにしか過ぎないことは事実だ。だけれども介護事業は、そこに自分の人生そのものを預ける利用者の方々の存在によってはじめて成り立つ職業だ。

それは介護という職業が、誰かの人生の幸福度に大きく影響するという意味だ。そのことに使命感と誇りを抱いて、その誇りを護るための知識や技術を磨き、結果を出す介護事業を目指し続けることが、自らの人生を豊かにする唯一の道ではないかと思う。

そうした志を共にする仲間と、つながり続けて歩き続けたいと思う。このブログにも、そういう志を抱く人に集まってもらいたい・・・。

メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜の最終回は、「どうなっていく?介護事業の未来」です。こちらも是非参照ください。
どうなっていく?介護事業の未来
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自分は何者であるか・・・。


自分というものは、他者や外界から区別して意識されるもので、自我とも言い換えることができるものだと思います。

それは肉体そのものではなく、どういう価値観を持つ存在であるのかという意味だと思うのです。

さすれば自分というものは、親からもらった肉体が器の役割をもって、成長過程で様々な情報や知識を受け入れて、それを発酵させるように自分の中にしみ込ませて創り上げていくものではないのでしょうか。
富山のダブルレインボー
自分が経験し、自分が判断した繰り返しで創り上げていくものが「自分」ではないでしょうか。

最初から自分というものが、身体や精神の中に存在して、この世に生まれ出てくるわけではないという意味です。

だから人の成長と共に、あるいは衰えと共に、自分の中にある自分は変わっていくのだと思います。

だから重要な決定の判断を、いつも人に委ねてしまう人には、自分らしさが生まれないのです。それはその人が何者でもないという意味です。それはとても哀しいことではないでしょうか。

ネット社会では、本来生きるうえで体験すべきことをバーチャルに置き換えたり、判断を都合よく人に委ねたりすることが簡単にできるようになります。

だからネット社会だけにある架空の自分しか持てない人が出てきます。一旦ネットを離れた自分が、どんな存在かわからない人がたくさん生まれているのです。

これは恐ろしいことです。大げさではなく、人類はそのことで消滅・絶滅に向かいかねないと思うのです。

ネット上に現実の自分とは別の人格を創り上げていること自体は否定しません。例えば僕は、表の掲示板の管理人として、かなり厳しい人間として見られているようです。そこではとても怖い人とイメージされているようです。

それはある意味、自分が意識して創り上げたイメージでもあります。介護業界で一番長く続く情報掲示板を、20年以上という長い期間途切れることなく運営するためには、それは必要なことだからです。

怠けて他人に尋ねるだけで問題解決を図る人・反対のための反対論・初めからアラシ目的の参加者、そうした人たちの防波堤になるために、それは必要なことだったのです。だから今も続いている。

けれどもその人格を、現実の自分と勘違いしないことが大事です。現実の僕は決して強くないし、怖くないし、清廉潔白ではないのです。ここを勘違いしないことです。

現実社会の中で、自分が何者か意識できない人が、主体的に何かをできるわけがありません。常にそこにある意識や感情や情報に流されて、明日の居場所さえ分からなくなってしまいます。そんな人は、現実社会で生きることが苦しくなるのではないのでしょうか。

自分を創り上げていく過程では、間違いもあるし、挫折もあって当然です。でもそれは自分にしか経験できない貴重な体験なのです。喜怒哀楽の感情は、良い感情だけ切り取って経験することは不可能なのです。

それが生きる意味であり、自分が何者であるのかを探すことなのです。それはこの世に人が生まれ、生かされる意味でもあります。

たくさんの哀しみや怒りの感情を抱えてきた人が、自分自身の力でそれを乗り越えた先に、生きる力とか、他人の痛みを思いやる心とか、自分以外の誰かを人として愛することの尊さとか、生まれ出でてきたときには持ちようがなかった感情や意識を獲得していくのではないでしょうか。

人は人を愛するために、悲しんだり苦しんだり、怒ったりする感情を与えられているのではないでしょうか。

その理由は、どのような能力がある人でも、人に秀でる才能を持っていたとしても、人は人の間でしか生きられない存在だからではないでしょうか。

だからどうぞ、生身の自分を愛してください。人に秀でてなくとも、強くなくともよいのです。あなたという存在は、あなたにしかなれないのです。そのあなたがそこに存在するということには、必ず意味と価値があるのです。

自分は所詮自分でしかないなどと嘆かないでください。それはとても尊いことなんですから・・・。
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77回目の終戦記念日を生きる


昨日はお盆の帰省ラッシュということで、新千歳空港発着便もほとんど満席だったそうである。

今日はそんな帰省ラッシュが見られた翌日の月曜日ではあるが、世間ではまだお盆休みが続いているという人も多いだろう。休みを取れる人は、ゆっくりと体と心を癒していただきたい。

世間を見渡すと夏休みのイベントも各地で開催され、人がたくさん集まっている。そんなふうに3年ぶりのにぎやかなお盆ということになったが、コロナ禍は終息しておらず、むしろこの3年間で最も感染者数が多い中でこうした状況に変わっている。ということは感染予防策としての行動制限の在り方が今一度問い直さされているという意味ではないのだろうか・・・。

そうであれば介護施設のあまりにも長期に渡る面会制限も、その是非が議論されてよい頃だ。

このことは介護・居住系施設やそこに入所している人の問題ではなく、日本人の終末期の過ごし方、つまりは全国民の「生き方」の問題に関わってくるのだということを理解しなければならない。

ところで今日は8月15日。77回目の終戦記念日である。

とはいっても戦争を知らない世代の僕らは、終戦の日の対象になっている太平洋戦争が、どれだけ悲惨な暮らしを日本国民に与えたのかを実感をもって知っているわけではない。人づてに知った知識や情報から、その悲惨さを感じ取るしかないのだから、戦争体験者のそれとは大きな乖離があるのだろう。

だからこそ僕たちにはしなければならないことがある。戦争体験者の方々も年ごとに高齢化が進み、戦時中の記憶が消され始めている。だからこそ今残されている貴重な体験談に耳を澄ます機会を大切にしなければならない。

例えば、「トシさんの戦争体験」で紹介したエピソードなどを数多く集めて後世に伝えていく責任が私たち一人一人にあるのだと思う。

哀しい体験を持つ人ほど、その体験談については黙して語らない人が多いが、終戦記念日にだけは、その重たい口を開いてくれたりする。思い起こすと、「今日は終戦の日じゃねえ。敗戦の日だ。」と漏らしたOさんの面影が脳裏に浮かんでくる・・・。

北海道は終戦の日のわずか1月前に、米軍からの空襲を受けた地域である。「北海道大空襲」と伝えられているその空襲は、北海道のいくつかの地域に残っていた軍需工場を標的にしたものであった。・・・だから北海道の最大都市・札幌は被害を受けていない。

その時、北海道で一番死者数が多かったのが、僕の住む登別市と同じ生活圏域の室蘭市である。国内で唯一、B29というアメリカ軍の戦闘機をう撃ち落とすことができる高射砲を製造していた軍需工場があったために、室蘭市が米軍の最大の攻撃目標になったのである。

しかし空襲2日目は、工場など存在しない市街地に向かって海の上から艦砲射撃が行われた。そこでは軍人はほとんど死んでおらず、女・子供を含めた一般市民が数多く死んでいった。その正確な数は今もってわかっていない。
北海道の田園風景
北海道の広く青い空が、砲煙によって真っ黒に染まり、広くおおらかな大地が無数の砲弾によって火の海となった。

そこで数多くの無辜の民が血を流して死んでいった戦争・・・。そこからまだ77年しか経っていない今、日本人全体が平和ボケして良いはずがないのである。

今日はそういう国で、今平和に暮らしていることに心から感謝し、あの戦争で亡くなられたすべての人々を悼み、繰り返してはならないものがあることを強く心に刻み付ける日である。

縁あって私たちは、対人援助という職業に携わり、人の暮らしと向かい合っている。そこはたくさんの生き様があり、死に様も同様に垣間見る場所だ。だからこそ人の命・心の平安・生きる喜び、そうしたものを深く考える日があっても良いと思う。

今日はそんな日である。
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広島の空・長崎の空2022


今日8月9日は、77回目の長崎原爆の日である。

原爆が投下された午前11時02分には、僕の家からほど近くにある消防署のサイレンが1分間鳴らされた。僕もそれに合わせて黙とうを捧げさせていただいた。

今日はそのとき思ったことを書こうと思うが、その前に僕と長崎県のつながりを少しだけ紹介しておく。

長崎県と僕は縁があって、九州の中では福岡県の次に数多くの講演を行っている場所だ。食事もお酒もおいしく、素敵な人がたくさん住んでいるお気に入りの地域である。

コロナ禍の影響でここ3年間は同県を訪れる機会を持てていないが、それまでは1年に何度も長崎県を訪問する機会を持つことができていた。コロナ禍という状況でも、長崎県の方々からはオンライン講演の依頼を頂いている。近いうちに是非同県を訪れたいものである。

過去長崎県で講演した場所は複数あり、五島列島にある五島市や新上五島町にも行って講演を行ったし、雲仙市・島原市・南島原市・諫早市・大村市・佐世保市・時津町などでも講演を行っている。

しかし長崎県のうちで講演を行った回数が一番多いのは長崎市である。長崎湾を見下ろす稲佐山の中腹にある社会福祉法人さんでも2度ほどお招きを受けて講演を行ったことがあるが、そこからの景色は絶景と言ってよかった。

坂の街でもある長崎市は、風光明媚な街であるが、この稲佐山から見下ろす長崎港の景色が、僕は特に気に入っている。

その稲佐山には、屋外ステージが設置されている広場がある。

そこは歌手のさだまさしさんが、長きにわたって広島原爆の日である8/6の夜にコンサートを開き、広島に向かって2度とあの悲劇が繰り返されないように、平和の願いを歌い続けていた場所でもある。

さださんは長崎から、広島のどんな色の空と景色を見つめていたんだろうか・・・。
広島の空
広島の街はかつてそこが焼け野原になったなんて想像できないほど、とてもきれいで素敵な街並みになっている。

ただ街中には世界遺産に登録されている原爆ドームが被爆体験を伝える貴重な建物として当時の姿を残したまま保存されている。

そのドームを見るまでもなく、かつ今さら僕が言うまでもなく、現在は平和で美しい景色が広がる広島と長崎のその街は、1945年8月6日と8月9日にそれぞれ焼き尽くされている。核兵器というおぞましい武器によって・・・。

次に記した言葉は、さださんが'96年のコンサートで舞台から観衆に語りかけた言葉だ。
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1996.08.06.夏 長崎で、「広島の空」を唄う直前の、さだまさしさんの言葉
このコンサートを始めたときに、あえて核兵器について語ろうとしなかった。
そして、あえて戦争がどうしたこうしたということを、大きな声で発するのをやめた。
8月の6日に、つまり広島の原爆の日に、夜、長崎で広島の空に向かって唄をうたう。
そのことだけで十分じゃないかと思ったんであります・・・。

平和っていうのは、とっても難しい言葉です。
ただ戦争をしていない状態を平和って呼んで、歓迎してニコニコと笑って、
ご飯が食べられて、ちゃんと着るものが着られて、そして平和と・・・。
我々はそこに胡坐をかいていてはいけないんですね。
我々だけの平和にすぎない。それは我々という小さなコップの中の平和にすぎない。

こうしているうちにも、どこかで誰かが撃たれ、
そして何も事情が分からない小さな子供が、小さな地雷を踏んでいる。
そんなことが現実に、この地球上で今まさに起きているのだという痛みを、
私たちはこの飽食の中に忘れ去ろうとしてはいけないんですね。
少なくとも、2度と子供たちや、その子供たちや、さらにその子供たちが、
2度とあんな思いをしないように、そんな思いを込めて唄います。
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今まさに平和な国・日本で、戦争を知らない子供たちが戦後の繁栄を謳歌し、何不自由なく暮らしている一方で、ウクライナでは悲惨な殺し合いが続いている。

平和ボケしている日本の海域では、幾たびもミサイルが領海に打ち込まれ、領土をめぐって領海侵犯の船が航海を続けている。

戦争がないといっても、インターネットを通じて人々の罵りあいが毎日無数に配信され、国会議員という身分の詐欺師が、海外から人権侵害を発し続けている。人々の心の戦争はそこかしこに存在しているのだ・・・。

そんなふうに平和な日本には心の貧しさが満ちて、殺伐としたコミュニケーションが飛び交っているのである。そういう意味では、この国の平和とは砂上の楼閣に立っている危ういものかもしれないのである。

だからこそ、さださんが稲佐山から訴え続けた思いを、私たちも同じく胸に抱いて伝え続ける必要がある。私たちの子供たちの、その子供たちや、さらにそれに続く命と暮らしを護るために。

だが77年前のその日、広島と長崎で何があったのかを伝える歴史の証言者が年々減っている。その悲惨さをどのように後世に伝えていくのかが大きな課題になっている。

決して忘れてはならない人間の意志と手による愚行を、日本人は伝え続けなければならない。戦争を知らない世代の人々も、戦争を経験した人の言葉を聞き取り、後世に伝える責任があるのだ。

原爆投下という人類が最も恥ずべき行為によって命を失った人の中には、即死できずに、熱い熱いともがき苦しみ、水を求めながら死んでいった人も多いと聞く。そいう人たちのために、せめて一杯の水を天に向かって供えたい・・・。

さださんが主催する稲佐山のコンサートは、2006年の20回目のコンサートをもって最終回とされた。

最期のコンサートで語ったさださんの言葉も紹介しておこう。
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2006.08.06.夏 長崎から「FINAL」より
ほんの短い間でいいから・・・。
あなたの大切な人の笑顔を思い出してください。
そしてその笑顔を護るために、あなたに何ができるか考えてください。
そして、もうひとつ・・・考えるだけでは駄目です。
そのために自分の力を使って動いてください。
これが夏・長崎からの、僕の最期の願いだと思います。
そうやってそういう思いで聴いてください。
今度はみんな、この種をあちこちに撒いて
たくさんの花が咲いて
いつか俺が知らない花が、この会場を埋め尽くしてくれるように・・・。
----------------------------------------------------------
しかしさださんの遺志を継ぐ形で、今も「稲佐山平和祈念音楽祭2022」が行われており、今年は先週末に当たる6日と7日の両日に渡って開催された。その利益はすべて「国境なき医師団」に寄付されているそうである。

さださんは、今年もそこで唄ったそうである。この唄もきっと広島原爆の日に唄われたんだと思う・・・。

77年目の8月9日・長崎原爆に日に、26年前のさださんの言葉を思い出しながら、広島と長崎の空に向かって祈りを込め、手を合わせて首(こうべ)を垂れているところだ。

もう2度とあんなことが繰り返されないことを祈りながら・・・。
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法令にない常識理解がないと人の心は護ることができない


CBニュースに連載中の、「快筆乱麻・masaが読み解く介護の今」の今月の連載が、昨日アップされているので、そちらも是非参照いただきたい。

それはさておき、本日の本題に移ろう。

日本には、「人を殺してはならない」という法律はないそうである。

人を殺せば罰せられるという法規定はあっても、人を殺すことを禁ずる法規定はないそうだ。

テレビドラマの、「ミステリと言う勿れ」で、菅田将暉.さんがそう言っていたので間違いないだろう・・・。
ミステリーと云うなかれ
その理由は、人を殺してはならないという法規定を作ってしまえば、死刑制度が成り立たない=死刑執行も人を殺す行為だから、それができなくなるという意味なんだろうか・・・。そんなことはないだろう。死刑執行を殺人ではないと規定すれば済むことだから、それは本当の理由ではないと思う。

本当のことはわからないが、人が人を殺してはならないことは、法規定以前に当たり前のことであり、人間の存在という根源的な問題だから規定されていないのではないのだろうか。

そもそも法律ですべての行為を規定してしまえば、人は生きる行為だけで、知らぬ間に法を犯してしまいかねない。法よりも上位にある倫理観を、人間が持つことができる限り、法で暮らしをがんじがらめにする必要はないわけである。

過去に書いた、「倫理について考える1〜法より上位にあるという意味。」でも指摘しているように、法は国家権力等に強制される他律的な規範であるだけに、法で厳しく規制が強化されることは逆に、法的追求を免れ、法の網から漏れるという空白部分を探して、そこに逃げ込んで責任を免れようとする人間を生み出す元凶になる。

そういう人間が巷にあふれる社会は、決して豊かな社会ではないし、幸せな暮らしが実現できる場所にもならないだろう。

だからこそ自主的な順守が期待される自律的な規範である倫理によって、人の暮らしを護るという意識が重要になるのだと思う。

そういう意味では、介護保険法や各種運営基準に定めのないことが、すべて許されることではないわけである。

例えば、介護施設の多床室に男女の区別なく利用者を入居させることを禁ずる法令規定はない。だからと言って介護事業に携わる専門家が、性差への配慮に欠けて他人である男女を多床室に雑居させることを何とも思わないとしたら、対人援助とはいったい何なのだろうという本質が疑われかねない。

そんなことはしないのが常識だという、「性善説」で法令は定められている部分があることを理解しないと、我々の介護事業にもどんどん制限がかけられ、がんじがらめの身動きできない状態になりかねないのである。

他人である介護サービス利用者は、お客様に他ならないのだから、家族や友人のように砕けた態度で接して、不快にさせてしまうようなことがあってはならないという法令も存在しない。他人である顧客に、節度のある態度で接するのは社会人としての常識だからである。

それを良いことに、砕けた態度やタメ口を家族的な親しみを込めた対応だとして改めない頭の不自由な輩が多いのも介護関係者の特徴だ。それは社会人としての常識を欠く人間が多数、介護関係者に交じっているという意味で、介護業界全体の民度を下げる元凶になっている。

広辞苑を引くまでもなく、タメ口とは、「目上の者が目下の者に対して使う失礼な言葉遣い」だという意味だ。その常識を理解していない輩が、目下でない人たちに非常識にタメ口で話しかけている。そうした態度の横行が、私たちの愛する職業を地に堕としているのである。

家族そのものにはなれない介護従事者が、介護支援の場で利用者に関わるときに求められる態度とは、家族と同じ遠慮ない態度ではなく、介護のプロとしての態度である。信頼のおける知識と技術に基づいた介護支援と接遇ができることはその基盤であるにも関わらず、接遇意識のない輩が多すぎる。

だから介護は誰でできる単純労働だと思われてしまうのだ。頭が多少悪くても、健康で丈夫な体さえあれば介護程度はできるだろうと思われるわけである。そしてその延長線上に、人間ではなくロボットによる介護が実現可能だとも思われてしまうわけであり、人を減らして介護の生産性を高めれば、要介護者が増えても大丈夫と思われてしまう原因にもなっている。

介護という職業は、本来であればロボットが代替できないほど繊細で難しい職業である。巧緻性が求められる行為と、力が求められる行為を、見事につなげあって同時にこなしながら、一人として同じではない感情に相対して、人々の心を癒すために存在するのが介護という職業である。

その尊さを自ら汚すような、「タメ口対応」をなくしていかないと、介護という職業の使命誇りは、決して社会に広く認知されることにはならないだろう。
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今年の桜は今だけの桜です


北国にも桜の季節がやってきました。

登別市の桜の開花は、例年より1週間ほど早くなりました。このためGWに登別温泉に訪れた観光客の方々の目を楽しませていることでしょう。
5/4登別鷲別町の桜
僕のウオーキングコースの途中に咲く桜ももう満開になっています。(※画像は5月4日、鷲別町・恵愛病院前の桜

ところで今年は、3年ぶりに行動制限のないGWを迎えています。しかし新型コロナ感染症の新規感染者が減っているわけではないので、引き続き警戒と予防対策が必要と言われています。

そのような中で介護保険施設をはじめとした居住系施設では、この時期も面会制限を続けているところが多いようです。

でもこのブログでは何度も指摘していますが、面会制限がクラスター感染を防止する決め手にはなっていません。面会制限を行っている施設でクラスター感染が発生し、面会制限を行っていない施設で、今まで一度もクラスター感染が発生していないケースが少なからず存在することを考えても、要は予防対策の、「やり方」の問題であるということがわかるはずです。

面会制限をしていても、職員等が外部から自由に出入りする以上、そんな制限にほとんど意味はなく、施設側の自己満足に過ぎません。

むしろ一定のルールを定めたうえで、面会を許可する体制を整えておく方が有効です。なぜならそこでは職員の感染予防策を見本とするようにされますので、日ごろの職員の感染予防意識が高まり、対策も十分施されることで感染は起きないのです。

今年、行動制限が3年ぶりになかったことで故郷に帰省できた方々が、施設に入所している身内と3年ぶりに逢いたいという希望が、施設側の自己保身を理由に拒否されるようなことがあってはならないと思います。

時間や人数を制限したとしても、どうか逢いたい人々の希望を叶える介護事業者であってほしいと思います。お身内の方々には、職員と同じように感染対策を万全にとって施設内に入っていただければ、何も問題ないのですから・・・。

介護にも科学が必要だと言われる今日ですが、時代がどう変わっても、人に対する優しさを失ってはならないのが介護であり、対人援助だと思うのです。「逢いたいという思い」は、「愛たいという思い」です。どうぞ、それを大事にする人になってください。

そして施設利用者の方を街に連れ出し、その方々が住む地域の今年の桜を愛でる機会を創ってください。

オンラインで観る桜・バーチャルな世界の桜と、現実の桜は全く違うのです。3年前の桜や来年の桜と、今年の桜も違っているのです。
生きる証
今この時を大事にすることが、生きる意味になるのです。生きる喜びにつながるのです。どうかそのことを忘れないで、他人に我慢だけを強いる権力者にならないようにしてください。

どうぞ、人に対する愛情や優しさを失わない人であってください。

それから僕にはもう一つ実現してほしい思いがあります。それは志を同じくする人々が、直接つながりあうことができる研修機会を、もっと増やしてほしいということです。

既に、プロ野球等の各種スポーツも入場者制限をしていません。そこでクラスター感染が発生したケースは今のところありません。

そうであれば、感染リスクの低い研修会の会場実施は行われて当然と思います。換気をしっかり行って、受講者同士の間隔を広めにとるだけで、受講者自信が大きな声を交わしあうわけではない研修会は感染リスクがほとんどありません。

オンラインでは伝わらない熱量を伝える会場講演を増やしてほしいです。

幸いなことに、GW明けの5/16(月)と5/17(火)には、兵庫県明石市と西宮市で講演を行う機会があります。そこでたくさんの介護関係者とお愛できることを楽しみにしています。

このうち西宮講演はオープンですので、是非、(株)グローバルウォークグループ合同研修会、「介護職の使命においでください。

一般参加される方は、張り付いた文字リンク先から申込書をDLした上で、必ず事前申し込みをお願いします。参加費 は3,000円で事前振込が必要になります。会場で愛ましょう。お待ちしております。

せっかくの桜の季節ですから、素敵な桜ソングを素敵なハーモニーと共にお楽しみください。

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希望と絶望の境はごくわずかな差でしかない


本日午前5時に、CBニュースの連載・masaの快筆乱麻が更新され、「居宅介護支援費の利用者負担、逆効果の懸念」という記事がアップされている。今後議論される制度改正・報酬改定の方向性等も含めて書いているので、是非そちらも参照願いたい。

さて昨日4/26に更新した記事の中で、「とある有料老人ホームのコンサル業務に出かけた」ことを書いた。

今回のコンサルタント内容は経営コンサルというより、人財マネジメントに関連するコンサル業務である。もっと具体的にいうと、この4月に就職したばかりの新入職員の心の健康度をチェックするための仕事だ。

皆さんの職場では、そうしたチェックをきちんと行っているだろうか。今月入職した新人さんで、表情が暗くなっているや、表情を失った状態で業務を何とかこなしている人はいないだろうか。

実はこの時期の労務管理として、心の健康状態や精神的なダメージをチェックしておくことは、新人の定着率にも大きく影響する重要な対策なのである。

この時期から5月病と言われる『うつ』の症状が出てくる人がいる。症状が出始める前に、何らかの兆候が見られる人も居る。この点を把握できるか、見逃してしまうかが大きな分岐点である。心も体も疲れを感じやすい時期が今なのである。
落ち込む人
仕事のやりがいを感じられない中で、世間は休みの中で自分はシフトの中に入って働く状態がストレスを倍加させる状況もよく見られることだ。

GWはシフト勤務者には関係のないことだと言っても、事業者全体でみれば事務関連職員等が休暇に入り、直接介護職員もいつもよりさらに少ない人数で働く状態になっている事業者が多い。

そのような中で、普段より多くの業務をこなさねばならない状況が生まれたり、新人であるにもかかわらず、自ら責任を負った状態で業務に就かねばならない場面が生まれたりする。その中で自分のやろうとした仕事ができなくなったり、思った以上にできないことが多いと感じてしまうことで、うつ状態は進行していくことが多いのである。

同時に世間の人々が連休を愉しんでいる情報があらゆるところから入ってくると、仕事に悩みを持ち始めた自分が、世間の人が楽しんでいる時期に悩んでいる姿にイラついたり、ストレスを感じる状態となり、それが高じて絶望感を抱くことになる人が少なからずいる。

それがことによってうつ状態になったりするケースが数多くみられる。

世間が連休中に、仕事に行くために朝起きることができなくなってしまったり、周囲の人が何とか起こしても、何かと理由をつけて職場に足を向けようとせず、結局そのまま退職してしまう人も必ずこの時期に見られているのだ。

だからこそ暦の上での連休前の今この時期に、新人さんの表情変化を見逃さず、カウンセリングに結びつけることが重要である。・・・ということで例年この時期に、ある介護事業者さんから新人面談の仕事を依頼されており、毎年チェックに入っている。

そこでは悩みを聴くだけではなく、希望を注入することを心掛けている。

志の高い新人ほど、この時期頑張りすぎてバーンアウト状態に陥る人が少なくない。

それを防ぐためにセルフチェックとセルフケアが必要になるというが、そんなことを自らできる人は少ない。学卒者ならほぼできないといってよいだろう。できもしないことを推奨したって問題は解決しないのだ。

だから新人職員に対する労務管理として、職場の責任として心の健康度を測って、問題がある部分を取り除く必要があるのだ。その際には新人職員全員に対する面談が不可欠になるのである。

というのも仕事に対するモチベーションが高まり、希望を胸にして働き続ける人の動機づけと、仕事に悩んで絶望の淵に追い込まれる人のきっかけは、ほとんど違いのない状況の中で別れていくのである。この時期にどのようなフォローができるかが両者の違いであることが多いので、重要性は高いのである。

今回チェックに入ったところは、職員の心身両面の健康を守るという意識が高いから僕にコンサル依頼をしているのであり、日ごろから対策も講じられているために特段の問題はなかった。

というより面談した職員の方々からは、こうした上司ではない第3者による面談機会があり、いつでも相談ができることで安心感をもっているという意見が多かった。一安心である。

ただし油断は禁物である。最低でも1年間は新人職員として、心身両面のフォローが必要だ。

特に夜勤シフトがある職場であるならば、一人立ちして夜勤を行うようになる前後で、「不安」がないかどうかの確認と、それに応じた相談援助を実施することが大事だ。

大切な若い芽が、周囲の無関心と無理解によって、芽のまま摘み取られないように、細心の注意を払って、きれいなを咲かせることができるように、手を差し伸べていきたい。

誰かのあかい花になるために・・・。
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心や思いを大切にしたい


生まれて以来、ずっと平和な日本で暮らしている自分にとって、戦争は現実世界とは思えない出来事だ。

リアル映像で本物の戦争の動画を見ているときも、バーチャル映像を見ている感覚に陥ってしまうこともある。

しかし今、ウクライナでは本当の戦争が行われ、悲惨な殺戮が毎日繰り返されている。そこでは罪なき人々が命を失い、大切な人をなくし、尊厳や心を奪われている。戦争は不幸しか生まないと心の底から思う。
戦場の子供たち
だからと言って僕が何かをできるかと言えば何もできないのが現実だ。勿論、戦火で傷ついた人たちに贈る目的の募金等には協力することはあるが、それとて思いついて機会があった場合に限られている。

僕の現在のほぼすべての日常は、自分が住む星の上で戦争が行われていることも忘れ、自分の暮らしを営むことに精いっぱいであり、何かの拍子に戦場に思いを寄せることがあっても、ただ祈ることしかできない。本当に無力である。

僕のように考える人はたくさんいるのだろうと思う。そんな中で自分が何かできることがないかを考えて、ある日千羽鶴を折って戦地で悲惨な状況にある人に贈ろうと思い立った人がいる。

それに対して一部から批判の声が挙がっている。そのことに対する僕の思いを昨日、SNSでつぶやいた。それはどんな内容かといえば以下の通りである。
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2ちゃんねる」創始者のひろゆきさんが、日本からウクライナに千羽鶴を送ろうとしている団体に対し、「千羽鶴とか『無駄な行為をして、良い事をした気分になるのは恥ずかしい事である。』というのをそろそろ理解して貰いたいと思ってるのは、おいらだけですかね?」と痛烈に批判しましたね。

確かに災害時に折り鶴を送られた側が迷惑をこうむった例などがありますから、お金や使える物資を送る方が良いのでしょう。ただこの問題を突き詰めると、「気持ち」「思い」なんて目に見えないものは不必要というところに行きつきますね。それって世界を暗くする要因につながるのではないでしょうか。難しい問題です。
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これに対して、SNSに複数の人がコメントを寄せてくださった。そこでは千羽鶴を送ろうとする行為に肯定的な意見も、否定的な意見も両方存在している。

それは極めて正常な反応だろうと思う。どちらが良いと白黒つけられる問題でもないし、白黒つけるべき問題でもないと思うからだ。

僕自身は、『どうせ贈るのなら、戦火を受けた場所で必要な実用的なものやお金を贈った方が良い』と考える人間だ。しかしSNSにも書いたように、「気持ち」「思い」も大事だと思うので、千羽鶴を送って心を届けようとする人を批判する気持ちは全く持っていない。

特に「海をわたった折り鶴」のエピソードを知る人なら、戦場に千羽鶴を贈る気になるというのも十分理解できることだ。

僕はお金を贈るのが良いと思うけれど、あなたは鶴を通じて心を贈りたいのだから、その行為にもきっと意味があるし、そのことで心が癒される人もいるのかもしれませんね。そう考えて悪いというのだろうか・・・。

ましてや千羽鶴を送ろうとする人を罵倒し、さらにネット上でさらし者にして、深く心をえぐり続けるような行為については不快感しか感じない。

千羽鶴を送る行為をたしなめるにしても、もっと優しく指摘する方法があるだろうと思う。

僕も自分が管理する情報掲示板では、かなり厳しい指摘をして、時には罵声を浴びせることはあるが、それは対人援助のプロとしての情けない姿勢に対しての場合だけである。

自分の飯の種である専門職業に関して、勉強不足丸出しの知識のない姿勢、甘えた考え方には強い言葉が必要だと思う。

しかし専門家の存在しない善意の場所で、自分と価値観が違う人の行動を、上から目線で攻撃するのはやり過ぎだと思う。特に社会に名の知れた人がそのような罵声を浴びせると、それに乗っかって攻撃にかかる輩が、調子に乗って人権侵害ともいえる行為に走ることがままあり、そのような行為は慎む必要がある。

そもそも戦場で傷ついたり、不安な思いを抱えている人を応援しようとする人なら、理路整然と説明すれば、事の善悪の判断はつくはずだ。

現に鶴を折った人で、それを大変な状況の場所に贈っても処置に困るだけだとたしなめられた結果、折り鶴を贈ることを思いとどまり、別の支援策を模索している人が居るのだ。

何もネット上で厳しく個人攻撃する必要はなく、そういう行為をとろうとする人がいるが、それはかくかくしかじかの理由で思いとどまった方が良いと、意見発信するだけでよいのではないかと思う。

善意の行為が、他者から見て的を射た行為でないというだけで、ネット上でさらし者になって糾弾される社会も、戦場と同じように怖い場所だと思う。

なぜならそこは優しさがいらない、争いだけの場所だとしか思えないからである。僕はそんな場所に居たいとは思わない。

人と人が支えあってこそ社会は成り立っているのだから、人と人をつなぐ『』をもう少し大切にしたい。

目に見えない『思い』を大事にして、生きて行きたい・・・。
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命を選別する論理に巻き込まれないための価値前提


第2次世界大戦中のナチスドイツでは、ユダヤ人の迫害と虐殺だけではなく、ドイツ人の中においても命の選別が行われていたことは有名な話である。

ユダヤ人とその血統の迫害については、職場からの追放策が最初にとられた。血統の正しくない純粋ではないドイツ人の社会からの排斥を促すために、労働者はあらゆる場面で血統証明書を示すことが求められた。そして3代遡って誰もユダヤ人が血統にいないと証明できなければ商取引ができなくなり、職場からも追放される憂き目にあった。

それにとどまらずユダヤ人は強制収容され、収容所の中で悲惨な扱いを受けて、多くのユダヤ人の命が無残に奪われたことは世界中に知れ渡っている事実だ。

そのような命の軽視による死への誘導は、ユダヤ系ではないドイツ人の身にも及んでいた。

その前兆になった、「遺伝病を持つ患者は子孫をつくってはならない」という法律ができたのはナチスドイツが政権をとって間もなくのことである。そのためドイツ国内のそこかしこで断種手術が行われた。いわゆるキン抜き手術であり、睾丸を抜かれた男性患者がたくさん出現した。

その後1934年には、優生結婚優生出産が奨励されるようになった。純粋なドイツ人同士を掛け合わせて、子孫を増やそうとする政策だ。

さらにその政策はエスカレートし、悪名高い安楽死計画指令が出された。

不治の病にかかっている患者は、それとなく臨終させよという命令だ。例えば精神病患者が肺炎にかかった場合、その治療をせずに、緩やかな死への誘導が行われた。拒食症状のある人に対しては、放置して餓死へといざなったのである。

さすがにその命令を無視する医師も多かったが、命令を無視する医療機関の院長は更迭され、ナチス党員の医師が新たに院長に任命された。その結果ある病院では、患者の半数が減ったというところもあった。

この指令は後に法制化された。ヒトラーはついに、安楽死を合法とする命令を下したのである。

その安楽死令は、当初は重病の動けない患者・重症の精神病患者に限定されていたが、間もなく「白痴(はくち)」と診断された乳幼児にも適用されるようになった。

このように安楽死の対象者となったのは、不治の病の対象者であり、必ずしも終末期患者に限っていなかったのである。
許されない命の選別
この指令によって命を奪われた人の中には、重度の精神疾患患者が含まれていたという事実がある。今でいう統合失調症の人や、認知症の人も数多く含まれていたであろうことが容易に想像がつく。

そしてその対象範囲は、最終的に安楽死させることを決定する人間の価値観によって大きく変わっていくことになる。その対象が限りなく広げられていったのである。

ナチスがその施策を喧伝するために作成されたパンフレットには、次のような論旨展開がされている。

精神病患者一人当たりに1日4マルクの費用がかかる。家族一人当たりの収入では、公務員で1日4マルク、未熟労働者で2マルク。全ドイツに30万人の精神病患者とてんかん病患者がいる。1家族5人として、どれだけの家族が彼らのために犠牲になっているのか。
精神病院一つ建設するのに600万マルクかかる。住宅1件は1万5千マルクで建つ。精神病院を1件建てなければ、住宅は400戸建てられる。

このような論法でナチスは国民を説き伏せようとし、事実、戦時下のドイツ国民の多くはこの論法を受け入れ、精神病院は不要なもので精神病患者も存在しないようして浮いた費用を戦費に掛けられる支持したのである。・・・2016年(平成28年)7月26日未明に起きた、『津久井やまゆり園の大量虐殺事件』の犯人である植松 聖死刑囚も、同じ理屈で犯行に及んだことは記憶に新しい。

しかしこの理屈のおかしさは、精神病患者が存在しなくて良いという理屈にはなっていない点だ。単に精神病患者がいなくなって、精神病院を建設する必要がなければ費用が浮くという理屈に過ぎず、現に存在する精神病患者が存在しなくてよい理由や、その人たちに社会的費用をかける必要はないという理屈はどこにも存在していない。

自分と少し様子が違うというだけで、無為徒食と決めつけ、いらない命と切り捨てているのである。

弱いものを鞭打つという考え方は、いったん走り出すと雪だるま式に大きくなるのだ。

例えばその論理は、時の政権に異を唱えるものすべてがいらない命と決めつけられる恐れにつながる。

僕のように文筆活動や講演活動を主な仕事としていることも、無為徒食と決めつけられる恐れがあるということだ。

この理屈がまかり通るところでは、やがて「老い」も不治であると切り捨てられる対象になりかねないのだ。

そんなことがあってはならないのだ。だからこそ対人援助の価値前提は、『人間尊重』であり、人として存在していること自体が尊重されるべきというものなのである。

この価値前提を護らねばならない。

人としてこの世に存在している命の価値に、その存在する状態によって差があるなんてことにはならないのである。

人としてそこに存在する命は存在の仕方がどうあっても全て尊い命である。軽重なんてそこには存在しない。

命の価値に差があるなんて誤解を生まないためにも、僕たちは誰に対しても同じ態度で接する必要がある。認知症がある人とない人で、態度を変えるなんてことがあってはならないのである。誰に対しても真摯に手を差し伸べる必要があるのだ。

強い者は人の手を借りずに生きていける。しかし弱い者の中には人の手を借りないと生きていけない人達がいる。しかし人は人を助けることができる存在である。それは時として人は誰かに頼って助けられてよい存在という意味でもある。弱きものは堂々と強き者に護られる権利があるのだ。

私たちの仕事は、そういう人たちに手を差し伸べる職業なのである。他者に「自己責任」を強いるような存在ではなく、自分が他人に対して与えることができる「優しさ」を護る職業であることを決して忘れてはならないのである。
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忘れてはいけないけれど忘れてしまう・忘れてしまいたいあの日。


昨日は朝から津波警報が出されて驚きましたね。避難された方も多いと思いますが、ご無事でしたでしょうか。

海に囲まれた日本・・・そしてあの3.11で多くの方が津波によって命を奪われたこの国で、津波の予報には、どのように敏感になっても足りるということはないと思います。大丈夫だろうという安易な予測は禁物ですよね。避難指示には素直に従ったが、結果的に避難する必要はなかったと思うよりも、何もなかったことをよかったと思うべきですよね。

気候変動の影響からか、台風や水害といった災害も増えています。油断した心に自然は容赦なく鉄槌を下しますので、日ごろの備えは十分にしておきたいものです。

ところで今日1月17日は、阪神淡路大震災からちょうど27年目の日にあたります。

あの日、ニュース画像に映る神戸周辺の被災状況を見て、まさか自分が生きている間に、こんな大きな災害を目の当たりにするなんて思いもかけていませんでしたので大いに驚き、そして心を痛めた覚えがあります。

僕はその当時、登別市内の特養の課長職を務めていましたが、神戸市で被災した女性の緊急入所対応を行うという経験をしました。

その女性は避難所である小学校の体育館で、濡れたおむつを替えることができずに肺炎を発症して緊急入院しておりました。たまたま登別市に親戚がいるということでしたので、その方が入院先での対応に当たり、最終的に登別市に連れてきたいということで対応しました。

その方が暮らしていた家は全壊でしたので、健康保険証や年金手帳・預金通帳など、すべて失われていましたから、それらがない状態で必要な手続きをするのに四苦八苦した覚えがあります。

幸いその方は無事入所でき、数年後にお亡くなりになるまでずっと僕が勤める特養で暮らしておられました。最期は天寿を全うし安らかに旅立っていかれました。

そのように災害から逃れ天寿を全うできた人もいますが、あの震災では6.434人の方がお亡くなりになっています。

そこで亡くなられた方の死とは、1/6.434の死ではありません。それは一人が亡くなった事案が6.434件あったという意味です。震災後の関連死を含めるとその数はもっと増えるのでしょう。

そして一人ひとりの死の周辺には、その何倍もの哀しみが存在することになるのでしょう。失われた人を思い哀しむ人の心の傷は、27年という時が癒してくれているのでしょうか・・・。

今朝、追悼会場の一つである神戸市中央区の東遊園地では、地震の発生時間である午前5:46に灯篭に灯がともされ、「忘 1・17」の文字が浮かびあがりました。
忘れない阪神淡路大震災
」は公募で選ばれた文字だそうですが、その文字に込められているのは、「忘れてはいけない」との思いだけでなく、「忘れてしまう」・「忘れてしまいたい」などの声も反映しているそうです。

そう聴くと、27年という歳月を経ても癒されない傷を心に残している人がいて、被災地ではいまだに慟哭の声があちらこちらに渦巻いているのかもしれません。

私たちはただ手を合わせて、「安らかなれ」と祈ることしかできません。

思えばこの国ではその震災の後にも、「東日本大震災」という未曽有の災害が発生しています。私たちが生きている間に、生きている国で、2度も大震災が発生しているのです。そして今後もそのような災害が発生しない保証はどこにもありません。

だからと言ってそれに怯えて生きていても仕方がありません。介護事業においては、今年度から義務化されたBCP(業務継続計画)をできるだけ速やかに策定し、従業員全員がその内容を熟知し、実効性のあるシステムとする必要があります。

対人援助のプロとして、私たちが考えるべきこともあります。

他人の暮らしに深く介入して、生活支援のために手を差し伸べる仕事に従事する我々は、いつ何の理由で奪われるかもしれない儚い命に寄り添っているのだという使命と責任を自覚し、誰よりも人の命を尊く思い、人間尊重の価値前提をしっかり護る存在として、そこに居なければならないと思うことが大事ではないのでしょうか。

私たちが利用者の命と尊厳を護ることができたとすれば、数々の災害で失われた方々が、生まれ変わるとしたら、またこの国に生まれたいと思うことができる日本が、そこに存在することになるのではないでしょうか・・・。そんな思いを込めて、今日の記事を締めたいと思います・・・合掌。
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成人の日に思うこと


昨年末の押し詰まった時期に、うっかりミスで自分が業務に使っていたメインPCを壊してしまったことを、「2021年末のハプニング」という記事の中で紹介しています。

その後、新しいPCを発注していましたが、7日に新機材が手元に届いてデータ移行作業などを行い、業務に滞りなく使えるように仕上げることができました。
新しいPC
今は新機材で仕事を進めていますが、さすがに新製品はサクサクと動きが良いですね。デスクトップを開いてすぐ自動で電源が入り、あっという間に立ち上がるのでストレスが全くありません。

今後はこのPCを使って今までよりもパフォーマンスを高めて、より良い仕事をしたいものだと思っています。

さて先週土曜日の記事でも紹介しましたが、メディカルサポネットの連載「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾」が新年早々更新され、「介護事業におけるサービスマナー〜丁寧で真摯な対応が顧客と人材を呼び寄せる〜」がアップされています。

無料登録で記事全文を読んでいただけますが、記事最後尾の左下部分には、「評価のハートマーク ♡♡♡♡♡」があります。もし僕が書いた記事内容に共感いただいた方は、ぜひハートマークをクリックいただきたいと思います。今後の励みにもなりますので、どうぞよろしくお願いします。

ところで今日は成人の日の祝日ですね。僕の住む登別市やお隣の室蘭市など、近隣市町村では昨日のうちに新成人を祝う式典を終えています。新成人の皆さんは昨日ゆっくりお祝いして、今日は二日酔いという人もいるかもしれません。

毎年、新成人になったことを誇るように、人前で煙草を吹かしたり、日本酒の一升瓶をラッパ呑みする人の姿が報道画像として流されたりしますが、煙草を吸ったり酒を呑むことが大人の証(あかし)ではありません。むしろことさらそんな姿を人前でさらすことは恥ずかしいことでしかありません。

そのような画図が残って、「若気の至り」と笑っていられる時期もそう長くは続きません。消したい過去になるのが落ちなのです。

年をとればとるほど、ヘビースモーカーや大酒呑みは、人の迷惑にしか過ぎなく思えます。その姿を自慢すること自体が、尻が青いということなのです。

今年4月には、民法改正に伴い成人年齢が現行の20歳から18歳に引き下げられるそうです。そうなるとまだ高校生のうちに成人となる人も多くなるわけです。

そうなると成人という式典の内容も、新成人の意識も少し変わっていくかもしれませんね。しかし時代がどう変わろうと、一人の大人として自覚していかねばならない普遍的真理というものがあるはずです。

新成人の方々には、そうした真理を追究する姿勢を持ってほしいし、その時に考えてほしいことがあります。昨日そのことは僕のFBに書きましたが、このブログにも同じことを書かせていただきます。

成人式を迎えたということは、社会に大人として認められる年齢を迎えたということです。

そのことをきっかけにして大人とは何かということを考えてください。

例えば、大人の責任と自覚を持って、人に迷惑をかけないようにするという考え方は決して間違ってはいません。正しい考え方だと思います。

しかし人は生きていく中で、誰にも迷惑をかけないことはあり得ないのです。すべての責任を自分でとることも不可能です。

特に若い時期は失敗する時期なのです。だからこそ失敗を繰り返しす度に、そのフォローを誰かにしてもらわねばならないのです。決して失敗せずに、誰かに頼るという経験がないまま、順調に年を重ねている人なんていないのです。

だからこそ、どうぞ人に頼ってください。人に頼ることができる幸運を喜んでください。その代わり、頼った人に助けられた恩や感謝を忘れない人になってください。

人は人を助けることができる存在なのです。そのことが人間という存在の素晴らしさなのだと感じてください。それが何よりも尊いということを理解してください。

そしてどうぞ立派な大人になる前に、感じの良い大人になってください。

それが素敵な大人になるということだと思いますよ。
新成人に捧げる言葉
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命の儚さに触れて思うこと


年の瀬という声が聴こえてくるようになった押し詰まったこの時期に、やりきれない悲惨な事件が起こった。

大阪北新地の精神科クリニックの放火殺人事件は、重体となっている犯人が事前に予行演習として自宅にも放火するなどして、念入りに計画して無差別大量殺人を狙った犯行だったと推察されている。

大阪の繁華街で夜遅くまで、働く人の鬱病やパニック障害・発達障害などをサポートし、患者の希望と呼ばれた49歳の院長をはじめ、尊い24人の命が犠牲となった事件は、犯行動機が何であろうと決してあってはならないし、許すことができない事件である。

このような悲劇に遭遇しても、僕たちにできることは犠牲者の方々に深く哀悼の意を示すことくらいしかない。そしてこのような事件が二度と繰り返されないように祈ることしかできない。しかし過去を振り返ると、こうした悲惨な事件が無くなったためしがないことも事実だ。

そうであれば私たちは、ただ空しく自分の無力を知るだけで、あきらめてしまうことしかできないのだろうか。

決してなくならない悲劇・・・許されない事件の繰り返しに対して、私たちができることは何もないのだろうか。

おそらく直接的に世の中を良くしたり、事件を防いだりする力は、僕たち個人にはないのだろう。

しかし人としてこの社会に生き、様々な社会活動をしている責任ある存在としての自分を考えたとき、私たちが自分の身の回りの中でできることはあるのではないかと思う。そう信じたい・・・。

僕たちは自分以外の誰かの暮らしに深く介入して関わる対人援助の仕事に就いている。それは自分以外の誰かの暮らしに直接かかわりを持つという意味である。時にその仕事は、向かい合う誰かの暮らしを支えるだけではなく、命を支えることにもかかわる仕事である。命が燃え尽きる瞬間まで関わりを持ちながら、最期の瞬間まで尊厳ある人としての暮らしを支える役割をも持っているのだ。

そういう自分が、命の儚さを誰よりも理解し、だからこそ命は尊いのだということを意識して、日々の仕事に向き合うことが大事だと思う。

自分が支援者として関わる利用者に対し、その人が置かれた環境や身体機能の違いに関係なく、人として敬う態度を失わないことが必要だと思う。能力の違いで知らず知らずのうちに人を差別視するようなことがなく、向かい合うすべての利用者を人として愛おしく思い、真摯に寄り添うことができてこそ、人の暮らしと命に向かい合う意味が第3者にも伝わるのではないだろうか。

当たり前のことだが、失われた命は二度と戻ってはこない。命を失った人に対して、そのあとにできることはないのである。だから今日できることは明日まで引き延ばさない心がけが必要だ。日々の営み、日々の関わりに悔いが残らないようにしたいと思う。

そのことをたくさんの仲間と伝え合い、同じ思いを持つ人の輪の中で、幸せや笑顔の樹形図を描く方法論をたくさん見つけていきたいと願うのである。

僕たちに今できることは、尊い命が理不尽に奪われたという現実を直視し、あらためて儚い命の尊さをかみしめて、命は護られなければならないものだということを伝えていくことだろうと思う。

だからこそ僕たち自身が、誰よりも命の尊さを想い抱きながら日々の職務に携わっていかねばならない。

そのことで、誰かに伝わるものがあるとしたら、世の中は0.1ミリでしかないかもしれないけれど、良い方向に進められると信じて、今いる場所で誰かのあかい花として咲き続けたいと思う。
儚い命の尊さ
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あふれだす愛を伝えるために


介護という文字を紐解くと、介とは心にかけるという意味を持ち、護は云うまでもなく護るという意味である。

だからこそ介護という仕事は、単なる動作介助に終わることなく、行為そのものを手助けして、個人の暮らしの質を、心にかけて護ることが求められる仕事である。

そうはいっても現代社会において、介護事業は数ある職業の一つに過ぎない。対人援助に対する志を高く持った人だけが、そこに就職してくるわけではないのである。

しかも介護という行為は、機械が人に替わることができない部分が多く、必然的に多くの人手が必要になる。だからこそ介護事業では常に人手不足で、たくさんの募集が出され、そこに応募してきた人間は、スキルに関係なく貴重視され雇用される傾向が強い。

その中には人に対して思いやりを持つことができない、対人援助という仕事に向かない人も多々含まれることになる。そしてそこには教育の手が届かないどうしようもない人材の残骸も含まれているのである。そういう人も淘汰されずに残ってしまうというのが介護事業の現状でもある。

そもそも仕事を求めてたまたま介護事業者に就職しただけで、そこで教えられた業務をこなしているだけの人に、利用者を心にかけて護れと言われても、その意味さえ理解できないのは当然と言えば当然でもある。

だがそのことを嘆いてもしょうがない。そのような人罪を選別して、人材を育て人財を創り上げている事業者もあるのだから、そうした事業者の存在とノウハウを伝えて、そちらの方向に介護業界全体が向かうことができる指標を示すのが僕たちの仕事でもある。

所詮、きゅうりは茄子には育たないのだから、すべての人が介護人材としてふさわしい仕事ぶりになるなんて幻想を抱かず、介護実務に従事する人のマジョリティは、対人援助のプロとしてふさわしい仕事ぶりであるというふうにしていきたい。

そのために全国の介護人材と繋がりあって、情報交換し合ったりしているが、志を同じくする人々に勇気をもらったり感心させられたりして、僕のモチベーションは維持されている。

家族や友人は勿論のこと、そうした繋がりあっている仲間の存在と、常に静かに見守ってくれているこのブログの読者の存在によって、僕はものを書いたり、話をしたり出来ているわけである。

つまり僕はそうした人々や、僕の周囲の環境によって『生かされている』ということになる。

繋がりのある方々からは、常に様々な刺激をいただいている。それは自分の本質的部分での変化や成長を求められるメッセージと思えることも多い。

生きることの苦しみ、その重さと尊さ、今ここにいられることの『幸い』を、以前にも増してて教えていただいているように思える自分が今ここにいる。

そうしたメッセージや期待に、自分がすべて応えることができているわけではない。

しかしできるだけ嘘のない形で、僕を応援してくださる方の思いに真摯に応えていきたいと思っている。それが自分の現在の仕事や社会活動の支えにもなっている。

介護業界には、自身の心身の健康や、願っていた夢や想い・かけがえのない人といった大切なものを失いながらも、なお他者への思いやりを忘れない人がいる。
あふれだす愛
僕が現役中に起こったいくつかの大災害の最中に、自分が被災していながら、他者を慮って、その人たちの支援のためだけに被災地を走り回っている介護関係者は少なくなかった。

それは決して簡単に実行できることではないだろう。でも介護業界には、幾人もそのような人達が存在していることも事実だ。そのことを誇りに思う。

自分にとって大切な人や物を失った人は、今も完全にその心が癒されているはずがないのに、深く傷ついたゆえに、人の痛みに寄り添うと努めておられる。

そうした人たちが行動で示してくれる愛の形を、文字や言葉にして様々な人に伝え、後世にもその足跡を残していくことが僕の使命でもある。

介護実務に携わる人々の、その周囲にあふれだす愛を伝える仕事が、僕に与えられた仕事だと思う。

そんな僕の活動を紹介する動画、『さくらびとmasa』も是非ご覧になっていただきたい。

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こもれ陽


僕たちが携わっている福祉や介護とは、いまさら言うまでもなく対人援助サービスである。

それは一人一人の個性ある人間に対して向かい合うものだ。

だが、そこではそあくまで職業として利用者に向かい合うのであって、奉仕活動として無償で他者に関わっているわけではない。

福祉援助や介護という職業を続けているのは、そこで生活の糧を得ているからであり、その目的が達せられないとしたら、別な職業を探すことにならざるを得ない。どんなに今の仕事が好きであっても、生きるための生活の糧を得られないのであれば、対人援助という職業に携わり続けていられる人はいないだろうと思う。

そもそも対人援助の職業に携わっている人が、必ずしも高邁な理念や志(こころざし)に根ざして、その職業を選んでいるとも限らない。

たまたま介護の仕事に就いたというだけという人もたくさんいるはずだ。

それはそれで良いのである。動機や理由はどうあれ、対人援助という領域に係るようになった時を境にして、その時点から正しい知識を学び、適切な技術を身に着けて、利用者に真摯に向かい合う姿勢を護ることが大事だ。それさえできれば就業動機なんて関係なくなるのだ。

だからこそ職業として対人援助に関わる以上、福祉援助や介護のプロとして恥ずかしくない知識と技術を身につけなければならない。

介護をしている家族と同じレベルで物事を考えないでほしい。そこで求められる関係性とは、決して家族のように遠慮ない関係性ではなく、介護を受ける方に対するプロの介護支援者としての関係性である。

当然のことながら対人援助のプロとしての、「結果」も求められてくる。

「頑張ったけれど暮らしぶりを良くできませんでした。」・「そんなつもりはなかったけど、気分を害して申しわけありません」・・・そんな言葉も言い訳も通用しないのである。

だからこそ福祉援助や介護という仕事に携わる人には、対人援助とは何かという本質を学びとってほしい。新人教育に当たるリーダーや管理職は、仕事の手順を教える前に、職場の理念とともに、その本質をしっかりと伝えてほしい。

僕たちがどんなに高邁な理念や、高い志を持とうとも、僕たちのできることには限界がある。僕たちの仕事で世界中の人々が幸福になることはないし、世界平和に結びつくこともないだろう。

僕たちができることは、ほんの小さなことにしか過ぎず、僕たちの目の前にいる利用者の方々に、一瞬の笑顔を届けられるだけなのかもしれない。

むしろ目の前の利用者の方々にさえ、僕たちの思いが伝わらない瞬間も多い。だがそのようなジレンマを抱えつつも、利用者の方々の次の瞬間の笑顔を想像して、その笑顔を作り出すものは何だろうと考え続けて関りを持つ先に、「ありがとう」という言葉が返ってくることもある。

そんな小さなことを誇りに思い、喜びを感じる人になってほしい。対人援助のスキルとは、そうした小さな出来事に喜びの感情を持つことが出来ることも含んでいるのだと思う。そのために何が必要で、何ができるのかを想像し、気づくことができ、実践する人が求められているのだと思う。

僕たちは北風に震えるすべての人々に光を当てる太陽のような存在にはなれなくとも、陽の当たらない陰をさまよう人に少しだけ明るさを届ける存在にはなれるのだと思う。

枝葉の間からさし込むほのかな光のように、私たちの目の前の影の中にいる人々にとっての、「こもれ陽」となれるのだと思う。

そのように人に優しい存在になるために何をすればよいのだろうか。そのことを日々考え続け、実践し続ける人がいなくなれば、介護を受けなければならない人の周囲には、深く暗い闇が広がり続けるだろう。

そうならないように、一人一人の福祉援助者・介護職員が、こもれ陽を届ける人になることを願ってやまない。

こもれ陽とは、決してまぶしい光ではなく、優しく温かなものであることを忘れてはならない。
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スキムミルクの雨と焦げた匂いの病室


スキムミルクのにおいがする雨が降っていた夏の午後、飼っていた子犬が天国に逝きました。

幼なかった僕は、その時大きな声で泣きました。だけどいくら泣いても、子犬はピクリとも動きませんでした。

僕が命の儚さを知った瞬間だったかもしれません・・・。

むき出しになった銅のパイプから、焦げた食べ物のにおいがする古い病室で、幼い従兄弟(いとこ)は天国に召されました。

彼が旅立った瞬間を僕は知らずに待合室で寝ていました。大人たちのなんとはないざわめきの中で、そのことを知っても実感がありませんでした。

窓の外には青白い風が流れ吹いている冬の朝のことでした。

子犬も従兄弟も、大人になることができませんでした。そのチャンスを与えられることはなかったのです。

天国に昇ったのだから、もう痛みも苦しみもないのだと大人は言いました。でも僕は痛みや苦しみがあっても、子犬も従兄弟も生きていたかったのではないかと思いました。

でも誰も、子犬や従兄弟を救うことは出来なかった。

病院も医者も看護師も、従兄弟が生きたまま苦しまなくなるようにできなかった。

どんなに小さい命も、愛おしい命も、時によって簡単になくなってしまうことを知りました。

けれども僕たちは今ここに生きています。いつまで生きていくのかはわからないけれど、ここにいます。

小さいまま、幼いままで失われていく命と、そうではない命の違いはどこにあるのでしょう。

人も動物も死ぬために生まれてきたのではないはずです。結果的に死は生きることの先に必ず訪れるけれど、それは生き終わった結果ではないかと思うのです。でも幼くして召された命は、生き終わったのでしょうか。

小さいままで天に召された生命は、どんな意味をその生に与えられていたのでしょうか。

命の儚さや、命の尊さ・・・愛するものと別れることの哀しみやつらさを、人に知らしめるために、その命は存在したのでしょうか。

でもそれは必要なことなのでしょうか。

たった一つだけ確実に言えることは、大切なものであっても、それをいつまでも持ち続けることは、とても難しいことなのだということです。人は簡単に何かを奪われることがあるということです。

だから大切な人や大切なものの、「今」を大事にしなければと思います。

明日じゃなく、今しか大事にできないものがあるのだと思います。

スキムミルクのにおいのする雨は、あれ以来降りません。

むき出しの銅のパイプの病室はもうありません。

今はただ、においも色もない風が僕の周りに吹いているだけです。
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華子さんの約束


僕が総合施設長を務めていた特養では、「看取り介護を密室化させない」というコンセプトがあった。

看取り介護になった瞬間から、その人が施設内で看取り介護を受けていることを隠すかのように、人が訪ねてこない個室に押し込み、そこでどのような介護を受けながら過ごしているのかを、他の利用者がうかがい知ることもできずにいる状態がよいはずがないと考えていた。

同じ施設で暮らしている他の入所者との交流も一切なく、その姿が皆の目の前から消されたまま、やがてひっそりと息を引き取る。・・・それが看取り介護だとしたら、こんな哀しい介護はないし、その最期はあまりにも孤独だと思った。

そのような無情で寂しい旅立ちが、看取り介護の結果であってはならないと思う気持ちは、今も変わらない。

そもそも他者がどのように看取り介護を受けているのか、想像するしかない場所で、自分に残された最期の貴重な時間を使いたいなんて思うことができるだろうか。

看取り介護の実践が見えない場所で、「看取り介護もできますけど、終末期になったとしたら、どうしたいですか」と問われても、そこで看取り介護を受けたいなんて思うわけがない。

特養は、「家」ではないが、「暮らしの場」である。利用者と利用者の関係性とは、「家族」ではないが、「知人」であり、「友人」である場合が多い。

特養という暮らしの場で、縁あって同じ時期に交流機会を持っていた友人・知人として、残された時間がもうわずかであると明らかになった人がそこにいるとすれば、お別れの思い出を刻んだり、お別れの言葉を交わし合ったりする機会を持つことは大切なことである。

自分の命が尽きても、誰かが自分を覚えていてくれると思えたり、思い出してくれると感じることは、自分が生きてきた証を強く実感できることにつながるのではないだろうか。看取り介護とは、そうした思いを得ることができるエピソードっづくりの時間である。

何よりそこでは、「寂しくないよ、怖くないよ」と声をかけてくれる人の存在がある。「死の瞬間」が頭によぎる人にとって、それは何より救いとなる温かい言葉になるのではないだろうか。

誰もいない場所で、「私はどこに行くんだろう」・「寂しくてやりきれない」と感じて過ごすより、誰かがいてくれることだけで、安心できる人は数多いことと思う・・・。

そんな思いを強くさせてくれた理由の一つに、華子さんの存在があった。

華子さんは、「せっかく縁があったんだから、最期まで寂しくさせないようにお手伝いしますよ」と言いながら、看取り介護の対象となった人の傍らで、声をかけたり唄を口ずさみながら、最期の瞬間まで声は届くと信じて寄り添ってくれる人だった。

元看護師だった華子さんは私たちに、「聴覚障害のない人は、耳は最期まで聴こえているんだから、意識がなくても声をかけ続けるのは意味があることなのよ」「聴こえるから寂しがらせないように呼び掛けなさい・声をかけなさい」と教えてくれた。

華子さんはこんなことも言っていた。「私も最期は寂しいのはいやよ」と・・・そして、「でも私は怖がりだから、もうすぐ死ぬということは教えないないでね」と言いながら、「そんなこと言わなくても、きっと最期はわかるから」・「それでも念押ししちゃだめよ。ただ側について、怖くないよ、寂しくないよと声をかけてくれるだけで良いのだから」と言っておられた。

それが華子さんと僕たちの約束事でもあった。

そんな華子さんが、末期がんで旅立たれたのは、看取り介護を受けてからちょうど2週間目の昼下がりのことだった。

その日、柔らかな日差しの中で、家族や施設のスタッフと知人が、たくさん集まった華子さん個室は、順番に人が入れ替わらなければいられないほどのたくさんの訪室者があった。

「華子さん、聴こえるかい」・「私よわかるでしょ。聴こえるでしょ」・・・そんな声はすべて華子さんに届いていたと思う。

亡くなる少し前に、華子さんの頬に一筋の涙が伝った。あれは哀しみの涙ではなく、最期みんなとお別れができたといううれし涙だったと思っている。

そして死期が近いことを告げられることなく、自分で悟った華子さんは、最期は静かに安らかに旅立っていかれた。

私たちと華子さんの約束は、こんな形で果たされた。
無題
※上の画像は看取り介護対象者の白寿のお祝いを1週間早めて実施したときのもの。周囲の人たちが終末期を生きる人を、身体・精神両面で支えるのが看取り介護。人生最終ステージを生きていることを意識しながらも、人生最期の誕生日もみんなで一緒に祝います。(※本ブログで紹介した、華子さんのケースとは別です
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戦争体験者とともに迎える終戦の日に思うこと


北海道は毎年、お盆を過ぎると秋めいた風が吹く日が多くなる。

登別市の今年の夏は、例年になく30度を超える日が続くなど異常な暑さだったが、案の定お盆期間に涼しい風が吹き始めた。

今日と明日の明日の最高気温予測は20度となっているが、今日などは風があるため体幹気温はかなり低い。おそらくもう25度を超える日もなくなると思われる。8/10に台風10号から変わった温帯低気圧が通過した際に大雨になったが、その日が暑い夏から秋に変わる境目になったのかもしれない。

先週はたくさんの人が、週末前からお盆休みに入って、昨日まで連休だったようだ。介護関係者は、そのような休みもとれない人も多いのは承知しているが、運よくお盆休みがとれて英気を養うことができた人は、今日からリフレッシュしてよい仕事をしていただきたい。

私たちが元気に良い仕事をするということは、目の前の対人援助サービスの利用者の方々が、より幸せになってくれるということだ。そういう結果を求め続けるのが、対人援助サービスであることを忘れてはならない。

さて昨日・8月15日は終戦記念日だった。日本にとってそれは敗戦記念の日でもある。

76回目の終戦の日は、あの戦争を経験した世代の方々がまだたくさん生存して迎える日でもある。

僕自身は終戦の日から15年目の8月生まれなので、戦火の爪痕さえ感じることなく生まれ育った、「戦争を知らない子供たち世代」である。

しかし戦争体験者と戦争を知らない世代の我々が、ともに終戦の日を迎える期間はそう長くは続かない。

いずれこの日本は、太平洋戦争を知らない世代の人間だけが暮らす国になる。だからこそそうなる前に、戦争体験者の方々から伝え聞いておくべきものがたくさんあるような気がする。

語り継がれる様々なエピソードを通じて、なぜあの戦争が起こり、なぜたくさんの方々が犠牲にならなければならなかったのかを深く考えなければならない。

戦犯は敗戦国にしか存在しない。しかし人類最大の犯罪は、非戦闘員である無辜(むこ)の一般国民を巻き込んだ大量虐殺である原爆投下ではないのか。ジェノサイドとは、そのことを例外にして語ることはできないのではないのだろうか・・・。過去のことより未来を考えなければならないが、未来を考えるためにもそうした矛盾に目をつぶらず、人類全体でその評価をきちんとしておかねばならないのではないだろうか。

そのうえで考えなければならないことがある。

この日本という国は、ずっと他国と戦争をしなくてよい状態が続いて平和な国でいられるのだろうか。今私たちの周りは本当に平和で安全なのだろうか。平和を護り続けるために私たちは何をすべきなのだろうか・・・。

下記のご像をご覧いただきたい。
終戦記念の日
ある意味、有名なこの1枚の写真は、終戦直後の長崎市で、米国人によって撮影されたものだと言われている。

これは小学生と思しき少年が、亡くなった幼い妹を背負い、焼き場で順番を待ちながら並んでいる写真だそうである。この少年が誰だったのか、その後どういう人生を歩んだのかという消息は伝わってない。撮影者が数年後に消息を調査したが見つからなかったそうだ。

愛する家族を・・・まだ幼いうちに命を落とした妹の亡骸を背負いながら、直立不動の姿勢で焼骨を待つ列に並ぶ少年の気持ちというのは、平和な時代に暮らす私たちの想像の外にある。

ただ一つ言えることは、こうしたやるせない姿を、「やむを得ない」とか、「仕方がない」とかいう時代にしてはならないということだ。愛する家族を戦火で失う日常を創ってはならないということである。

介護という職対人援助という職業を通じて向かい合う人の中には、戦時中、物資が不足するなかで、食べるものがないひもじさを経験し、自分や愛する家族の命がいつ失われるかもしれない怖さと儚さを毎日体験してきた人たちが数多く含まれている。

そういう人たちがあの戦火をくぐりぬけて、「長生きしてよかった」と思うことができるのか、「こんな思いをするのならば、いっそあの時に死んでおけばよかった」と思ってしまうのかは、ひとえに私たちがその方々に向かい合う姿勢にかかってくるのではないだろうか。

対人援助・介護という職業の、そういう重たい使命と向かいあったうえで、その重たさにつぶれず、その重たいものを背負って、その使命を果たす責任を常に意識してほしい。

人の命と暮らしに、真正面から向かい合う職業の使命と誇りを忘れないでほしいと切に願う。
介護という職業
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広島の空・長崎の空2021


平和の祭典であるオリンピックが終わった今日8/9は、振り替え休日で3連休の最終日となっている。

そしてこの日は、76回目の長崎原爆の日だ。

先週金曜日(8/6)の広島原爆の日とともに、日本人が真剣に平和というものを考えなければならないの日でもある。

被爆の日から76年目の広島と長崎に、今どんな時間が流れ、どのような人々の息吹があるのかを改めて考えるとともに、あの戦争と犠牲になった数多くの人々の魂について考えなければならない。

この日の前後に毎年、「広島の空・長崎の空」と題したブログ記事を書いてる。今日も祈りの心と、平和の思いを込めて同じタイトルの記事を書こうと思う。

76年前の長崎のその日は、天気の良い暑い日であったそうである。前日に台風が通り過ぎた長崎の今日も、日中の最高気温が30度を超える暑い日になっているようだ。

歌手のさだまさしさんが書いた、「広島の空」という唱の中に、次のようなフレーズがある。
--------------------------------------------
あの街が燃え尽きたその日、彼は仲間たちと蝉を追い続けていた
ふいに裏山の向こうが光ったかと思うと、すぐに生温かい風が彼を追いかけてきた
蝉は泣き続けていたと彼は言った。あんな日に蝉はまだ泣き続けていたと・・・。
短い命惜しむように・・・。

--------------------------------------------
今日も長崎では蝉が泣き続けているだろうか・・・。

僕は、「戦争を知らない子供たち」の世代だから、自分が生まれたこの国が他国から攻撃を受けて、たくさんの同国民が命が奪われたことを、どこか遠い場所から見たり聞いたりしているだけの実感しかないのかもしれない。

そんな僕らは、実際にあの戦争を生き抜いた人達から見ると、何もわかっていない人間とみられているのかもしれない。

だが僕たちはこの国に生まれ、この国で生き、やがてこの国の土になる存在である。

だからこそ、戦争を知る人たちから教えられたことを、僕らより若い世代に伝え継いで行くという役割があるのではないかと思う。

広島を訪れると街中に近代的な風景が広がっている。そのような周囲の景観とは似合わない、枠組みと外壁だけが残される原爆ドームを目にする。

長崎に行けば、空港から市内に向かうリムジンバスの車窓から、「平和公園」が見えて、祈りの声が聴こえてくるような気がする。

この二つの地に、人類最大の蛮行ともいえる原爆投下がされたのである。

8月6日の広島への原爆投下当時、広島市には居住者、軍人、通勤や建物疎開作業への動員等により周辺町村から入市した人を含め約35万人の人がいたと考えられている。それらの人のうち、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計されている。

8月9日の長崎への原爆投下時、長崎市の人口は約24万人(推定)であったそうだが、12月末までの死者数は7万3884人、重軽傷者7万4909人に上ると推計されている。

こんなに多くの人々が犠牲になっているのだ。広島と長崎という二つの町は、一瞬にして草木も何もない焦土に変えられたのだ。

現在の広島市の中心部は都心のような近代的な街並みが広がっているが、市街地に幾筋もの川が流れ、山すそには懐かしい田園風景が広がっている。広島に面しているのは大小の島々が浮かぶ穏やかな瀬戸内海であり、日本人の帰郷の心を揺さぶる美しい街だ

現在の長崎市も、異国情緒あふれる風光明媚な美しい坂の街である。
長崎の夜景
特に、「稲佐山公園展望台」からの夜景は 、2012 年にモナコ・香港とともに世界新三大夜景に選ばれ、2015 年には札幌・神戸とともに日本新三大夜景都市にも認定されている。

焼野原だけになった街を、こんなに美しく復興させた広島と長崎の人々の心の中には、いったいどんなエピソードが刻まれているのだろう。それは決して感動や歓喜のエピソードだけではなく、慟哭と哀しみのエピソードも数多く含まれているのだろうと想像する。

哀しみの歴史を繰り返してはならないと心から思う。

心からの祈り思いを込めて、
に合わせて黙とうし、犠牲者に祈りを捧げたい。もうすぐその時刻になる・・・。そして僕は今、広島と長崎で出会い・つながっている人々のことを思い出している。

広島では一緒にお好み焼きを食べながら、カープの話を熱く語ってくれた介護関係者の方々がいる。その方々の顔を思い出すことができる。

長崎を訪れるたびにお酒を共にする仲間もいる。一緒に横山五十という地酒を呑みながら、介護を語り合ったあの日を思い出す。僕が2回も講演を行わせていただいた稲佐山の中腹にある介護施設の職員の方々の顔も思い出すことができる。

そんな仲間の顔と名前を思い浮かべながら、介護という職業を通じて平和な未来につなげていきたい。

黙とうをささげたその後、僕が作成した、「LOVE〜明日に繋ぐ介護・長崎編」を改めて視聴いただきたい。

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命の価値に個人差はありません


今週月曜日は、相模原市のやまゆり園大量殺戮事件からちょうど5年目に当たる日だった。

しかし被害者やその遺族、関係者にとって節目などというものは決して存在しないのだろうと思う。事実一部報道では、「節目なんて関係なくずっと悲しいままで苦しい」という遺族の悲痛な声が伝えられている。

犯人は死刑が確定しているが、だからと言ってなんだという問題だろう。失われた命は決して戻らないという重たい事実が遺族の方々を今も苦しめている出あろうことは想像に難くない。

死刑囚となった獄中の犯人の声が、今でも報道機関を通じてつ伝わってくるが、「重度障がい者は、死んだ方が世のためで、家族もそのほうが幸せになれる。」などというとんでもない考え方は今も変わっていないようだ。

暴論を吐き続ける犯人の声に触れた遺族は、今もなお犯人に傷つけられ続けていることと同じである。被害者の方々は、死体にムチ打たれているようなものだ。

ネット報道では、犠牲者(当時19歳)の名前を唯一公表した母親と兄が、「5年を迎えても苦しいままでつらい。今も美帆に会いたくてたまらない」と心境を明かした様子が伝えられている。掛けるべき言葉も見つからない・・・。犯人はこの声に対してなんと応えるのだろうか。

かの事件は人間尊重の価値前提を破壊しようとするテロに他ならない。無差別平等に人間を尊重しようという人間観を持つすべての人を否定・迫害する卑劣な行為でしかない。加害者の醜い衝動を正当化する理屈に、我々は決して屈してはならない。

ちょうど昨日の夜は、熊本県八代市の介護支援専門員協会会員に向けて、虐待につながりかねない不適切ケアを防ぐために、利用者の人権を護るために何をすべきかを伝えるためのオンライン講演を行っていた。

そこでは感情労働である対人援助の従事者は、すべからく、「自己覚知」に努め、自分の価値観のありようを見つめ、感情をコントロールして対人援助に携わることの重要性をレクチャーさせていただいた。人の価値観は多様なのだから、その多様性を認めつつ、様々な価値観を受け入れて、かつ自分の価値観の偏りをコントロールすべきことも話させていただいた。

しかし多様な価値観を認めるとは言っても、そこにいる人に価値がないとか、そこに存在する命は消えてなくなるべきであるという価値観を受容することは出来ない。

人は人として命をさずかっているそのことに価値があるのだということを、改めて確認しなければならない。命の価値は、どのような状況に置かれた人であっても同じように尊いのだ。

しかしその尊い命も、一人の狂った人間の突然の行動によって、簡単に奪われてしまうほど儚い。だからこそ対人援助に携わる我々は、徹底的に人々を護るという意識を持ち続ける必要がある。

同時に我々は社会福祉実践者として、人間尊重をすべての社会で実現するように務めていかねばならない。

重い認知症をもつ利用者や意識障害のある人に対して、そうではない人と違った対応をしていないだろうか。意識障害のある人に対してサービスマナーの低下が見られないかということも検証する必要がある。

介護事業者の職員の中には、利用者に対して丁寧に対応する必要などないと勘違いしている職員も少なくない。現に初対面の利用者に対し、いきなりタメ口で接してくる職員は多い。しかしそうした職員も、利用者の家族に対しては丁寧語で対応している。

利用者と家族のどこに、どんなふうに線引きしたら、そうした対応の違いになるのだろうか。それはその人の意識の中で、人の価値に軽重をつけているという意味でしかない。

それは対人援助に携わる専門職として極めて不適切なことであるだけではなく、人として恥ずべきことである。
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イノセントではいられない。


毎日良いことばかり起きれば、これほど良い人生はないし、生きることは楽ちんだ。しかし実際にそんな人生を送ることができる人はいない。

この世に生きている間には、自分にとって都合が悪い様々なことが起きる。

他人の悪意にさらされたり、憎悪をぶつけられたりすることもある。そうしたものと戦ったり、傷つけ合わなければならないかもしれない。

生きるためにはどうしても、そうしたことを乗り越えていかねばならない。困難やトラブルを、すべて避けて生きていくことなんてできないのである。

人間関係だけじゃなくて、自然現象からも影響を受けることがある。災害・感染症・・・。今まさに我々の暮らしを脅かしているものがそこにある。

辛いことに正面から向き合わねばならないのも人生である。

人がこの世で生きていくってことは、それらを乗り越える、「したたかさ」を身につけるってことだ。

したたかに生きていけば、どうしたって汚れも溜まっていく。そして生きているうちはどうしても汚れはなくならない。イノセントではいられないのが人の宿命だ。

それでも人は与えられた命の期限まで走り続けなければならない。それが人の運命でもあり、使命でもある。

だからこそ辛いとき、苦しい時も歯を食いしばって頑張らねばならない。頑張れば必ず光は見えると信じることが大事だ。

しかし生まれてから死ねまで、ずっと頑張り続けることができる人はいない。頑張るにも限度があるのだ。

きっと人生の中で必死に頑張らなければならないときが何回かあって、その時にきちんと頑張った人が成功するのだろう。

さすれば才能とは、頑張るべき時期を感じ取れることを指すもので、運とは頑張らねばならないときに頑張れるのか、頑張る時期を間違えるのかというちょっとしたタイミングの違いでしかないのかもしれない。人生の成功者と敗残者に、決定的な能力差なんてないのである。

人の価値は、この世で与えられた地位とか名誉とかとは全く関係のない問題だ。ましてや財産の多寡なんて言うものは、人の価値とはまったく無関係だ。

人は人としてこの世に生まれ、生かされていること自体に意味があり、人としての存在自体が尊いのである。

だからこそ忘れないでほしいことがある。

一番大事なことは、「自らを蔑(さげす)まない」ことなのである。それさえ心がければ、頑張らなければならないときに頑張ることができるし、生きる強さも失うことはない。

自分の存在を尊く思い、明日を信じることで自分の歩む先に光を射すことができると信じてほしい。

希望を失うことがなければ、人生とはきっとその人にとって豊かなものとなるだろう。

少なくとも希望を抱いて過ごすことができれば、自分の人生が豊かだと感じ続けることは出来るのだ。

それは他人がどう思おうと、自分自身の中で決して揺るがない真実なのである。

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介護という職業の宿命と使命


様々な職業がグローバル化していく中で、介護の職業はよりローカル化することが求められている。

世界基準よりも、個人基準に寄り添うことが求められるのが介護という職業である。それは個人の暮らしというものが、様々な個性や個別事情を持っていて、その暮らしを営む人自身の価値観で何事も決められるのが基本だからである。

そのため介護という職業には、常に困難な問題が伴う。Aさんの暮らしの専門家は、Aさん以外あり得ないわけであるが、そこに私たちは対人援助の専門家として関わらなければならないからだ。

個人の暮らしの専門性と、私たちの専門性が、そこでバチバチと火花を散らせば、介護はとても怖くて辛いサービスとなってしまう。それはもはや対人援助とは言えなくなるかもしれない。

そうならないように、私たちは利用者の最もプライベートな空間に足を踏み入れるときに、利用者の個性や意向を最大限に尊重しながら、その人の内面にも目を向けて、表明された意思や希望を受容するとともに、表明できない心の声を聴きとろうとする必要がある。

認知症などで意思確認できない人が利用者の場合は、その人にとって何が一番必要なのかということを読み取って、その意思を代弁することも求められてくる。

そこでは、「私たちは、あなたの暮らしの専門家にはなれないけれど、あなたの暮らしをともに支える専門家なのですから、どうぞ私を寄り添わせてください。」と言う姿勢が必要だ。「傍らに寄り添ってあげる人」になるのではなく、「傍らに寄り添うことが許される者」になろうとする姿勢が求められるのだ。

そのような精神作業を日々黙々とし続けていくのが、「介護」という職業である。

そういう意味で、介護という職業は決して派手な職業ではない。むしろ地味で目立たない仕事を積み重ねていくことが介護という職業の宿命だ。

社会の片隅で、ひっそりと息をしている人の傍らに寄り添い、その人たちの暮らしを支えながら、そのことを表立てることもなく、一つのひとつの仕事の成果を世に訴えることもなく、黙々と日々の暮らしに寄り添うのが介護という職業である。

介護が支える誰かの行為にゴールがあるとも限らない。人の暮らしを支えている職業であるからこそ、「生きる」を支えるために、いつ果てるともない毎日繰り返される行為を支え続ける必要がある。

その繰り返しを尊いことだと思いながら、昨日と今日と明日をつなげていくのが介護の使命だ。

そういう意味では私たちは大きな仕事はできないかもしれない。目の前にいるたった一人の誰かしか笑顔にできないかもしれない。

しかし私たちの目の前にいる、その人を笑顔にしなければ、世界から哀しみはなくならない。私たちの目の前にいる、その人を幸せにしなければ、世界から不幸がなくなることはない。
大きな愛
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桜が咲く春。


今年の桜がまた咲いた。(桜咲く場所で思うこと〜咲けない花は場所を変えようも参照ください。)

世間で何が起きていようとも、世界がどう変わろうとも、そのようなことはすべて些事であるかのように、去年と同じ場所で去年と同じ時期に桜は咲き続け、そして散っていく・・・。(画像は5/3朝の自宅付近のエゾヤマザクラ)
5/3登別の桜
そのなかには、たくさんの人がその容姿を愛でる桜もあれば、誰にも見られずにそっと散っていく桜もある。そのようなことに関係なく、桜はその美しい花弁を咲かせ、散ってゆくことを繰り返している。

僕たちが新型コロナウイルスや、日々の仕事や日常生活に右往左往していることを横目に、世の動きに関係なく季節は流れ、今日も歴史は粛々と刻み続けられている。それはいつ果てるともない永遠の繰り返しなのだろうか・・・。

そんなふうにして、僕が生まれる前からこの空間には時が刻まれ、僕が死んだ後もこの大地には、時が静かに滑っていくのだろう。

さすれば僕たちの存在など、その空間や時間の中ではほんの一瞬のものでしかないのかもしれない。長い地球の歴史から見れば、僕たちの生きていく営みは、毎年咲いて散る桜のように、「うたかた」のものなのかもしれない。

そうであったとしても、自分がこの世に生を受け、命を与えられている限り、それは必ず意味のあることなんだと思う。だからこそ今を大切にして、生きる意味を考えながら、己の生きざまを刻んでいきたい。

誰からも愛され、誰しもの心を癒す桜のようにはなれなくとも、せめて僕が仕事として関わる誰かの心の咲く花のようになれたらと思う。

そんな思いを共有できる人とのつながりを大切にしたいと思う。

今朝、自分のフェイスブックにも書いたが、介護施設の入所者が携帯電話で110番をして、『今、監禁されているので、助けに来て』と警察を呼ぶケースが増えているそうである。

コロナ禍で面会制限が長期化しているのを当たり前と思い込んで、十分なアナウンスやカウンセリングをしていない施設では、そういうことが起きて当然だろうと思う。

それにしても、「助けて」という叫びを、施設職員ではなく警察に訴えなければならないというのは、利用者との関係づくりも問題があることが明らかである。

職員は外から通ってきて、日常生活はほぼ不自由なく送っている中で、介護施設の利用者のみ、1年以上にわたる制限を受けることが、「当たり前」であってよいわけがない。

長期化する制限を心苦しく思わず、感染予防のために当然の措置だとしか思っていない人は対人援助には向いていない。何らかの対策を取ろうと考えない人は頭のねじが一つ外れている。そういう人が管理職を務めている介護施設の利用者は不幸である・・・。不幸を創り出す人は一日も早くこの業界から退場していただきたい。それが世のため人のためになる。

人を護るということは、人の体さえ護っておればよいという問題ではない。同時に人の心も、どうすれば護ることができるのかということが問われる問題だということを忘れてはならないのだ。

科学だけでは手の届かないものが人の心だ。だからこそ介護には科学的・論理的ではない部分が必要になる。愛情とか優しさという目に見えない、理論化できないものをエッセンスとして加えるのが、人の心に寄り添うという意味なのだ。

桜の花を見ながら、そのことを今一度思い出してほしい。

対人援助・介護という職業の使命と魅力を伝える動画、「さくらびとmasa」の最新バージョンを、桜の季節に改めてご視聴いただきたい。

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介護を職業として選んだ君へ


今日も自宅近くの桜の画像紹介から始めたいと思いますが、やっと花が開きました。
5/1の自宅近くの桜
まだ2分咲き程度ですが、いつもより1週間ほど早い開花だと思います。これから地域全体を桜が彩ってくれることでしょう。

そんな週末の5連休初日ですが、今日はこの春に介護を職業として選んだ人に贈るエールについてです。

青森県八戸市を拠点に、かっこうの森(サ高住やGH・居宅サービスなど)を経営する株式会社リブライズ・代表取締役、下沢貴之さんが、全国の悩める介護職たちにエールを送る取り組みを考えました。

日々の仕事に疲れ、自信を失い、進路に悩んでいる介護関係者を励ますために、介護の魅力を伝え、エールを送る動画をYOUTUBEにて3〜4か月に1本投稿します。テーマは、『介護を職業として選んだ君へ』です。

その記念すべき第1回動画に僕が出演することになりました。全国に著名な介護関係者が多々おられる中で、真っ先にお声がけいただき大変光栄に思います。ありがとうございました。

ということで先日、自宅でZoom録画し、昨日それを下沢さんが編集してユーチューブにアップしてくださいました。

僕は全国各地で行う講演でも、原稿をつくってそれに沿って話をするということはなく、その場その場の雰囲気を感じながら話をするタイプなので、この録画についても原稿はつくらず、その場で思いつくままに話をさせていただきました。

ですからスラスラと流れるような話になっていないで、ところどころ言葉に詰まるなど、お聞き苦しい点があるやもしれません。しかし伝えたいことは要点を絞って語っているつもりですので、是非お時間のある時に視聴いただければ幸いです。

当初話をする時間は15分程度とお願いされていたのですが、まとまりが悪く17分を少し超えましたので、下沢さんが2分程度編集してくださり、話した一部を削ってくださいました。ですが自分で視聴しても、どこをカットして、どこをつなげたのかわからないくらい自然な編集になっております。

ということでユーチューブでの配信時間は、15分5秒程度ににまとめられています。

ちなみに編集時にカットされている2分弱の部分も、僕のユーチューブに挙げていますので、興味がある方は下記をご覧ください。

僕の話を聞いて、介護の仕事の使命と誇りを感じられる方が、一人でも多くなれば幸いです。
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ごめんなさいは、優しい言葉


介護という職業は、利用者のプライベート空間に立ち入って、利用者の心身に直接的に介入して行う仕事である。

そのために、介護従事者の仕事の仕方そのものが利用者の身体状況に影響が及ぶだけではなく、私たちの仕事ぶりが利用者の揺れ動く感情に直接影響を及ぼさざるを得ない。そうであるからこそ、常に一定以上の仕事の質を担保して、失敗のないサービス提供に心がける必要がある。

逆に言えば、介護従事者の体調や精神状態によって、サービスの質の差が激しくなるような状態は、利用者に望まれるサービスではなく、それは対人援助としてあってはならない仕事ぶりと言えるのである。

サービスを受ける側の利用者にとって、介護支援を受けるということは、生きるために必要なことであり、暮らしが成り立つために必要とする行為でもある。だからこそサービス提供者によって、支援の質に差ができる状態を決して望んではいない。生き方、暮らしの質にそれは直接影響してくる問題だからだ。

よって介護サービス利用者が、「必要なサービスは、それを提供する人間が新人であろうと、ベテランであろうと関係なく、最低限のサービスレベルであってほしい。」と思うのは決して高望みではなく、当たり前のことだ。

その人たちが利用する介護支援とは、インフォーマルサービスではなく、ボランティア行為でもないからだ。国費や保険料と言った公費が使われているサービスに対し、利用者がそのことを理由にして、一定以上の質を望むのは当たり前のことである。

つまり私たちは、利用者やその家族にとっては、介護のプロという立場の専門職であり、それにふさわしい仕事ぶりが求められて当然であると考える必要がある。

失敗をしない人間はいないが、対人援助における失敗とは、時に利用者の心身に深い傷を負わせる結果になりかねないし、「人間だから失敗もあるよね」と笑っていられない深刻な問題が生じては介護という職業がなんのために存在するのかわからなくなってしまう。新人職員だからうまくいかないのも仕方ないねと簡単に許せる問題ではないわけである。

とはいっても、経験のない新人がいきなり介護サービス実務の場で、経験豊富な職員と同じパフォーマンスができるわけがない。利用者のしぐさを同じように観察しても、経験のない職員には気が付かないことも多いのは、相手がそれぞれ個性が違う人間であるい以上仕方がないことだ。

だからこそ新人職員は、利用者に学ぶという謙虚な気持ちを忘れずに、経験豊富な職員の技を学び、それを自分のものとする努力が欠かせないのだ。言葉や動作で教えてくれる以上のものを、日々吸収しようという意欲のない人が、高い介護技術を獲得できるわけがないのである。

人の暮らしを少しでも豊かにしようとする人には、人に対する優しさが欠かせない。それは時に人間愛とも表現されるが、介護にいくらエビデンスを求めたところで、愛情という感情を持たないエビデンスは、所詮、人間を幸福にするものではないと思っている。

今、全国の介護事業者では、介護実践を通じて勉強する日々を送っているたくさんの新人職員がいるだろう。その人たちは、日々小さな失敗を繰り返しながら、「自分に介護の仕事が続けられるのか」と悩んでいるかもしれない。

本来失敗を繰り返すことは許されないが、失敗の中から成長するのも人間である。日々の業務で失敗したときは、「ごめんなさい」という言葉を口にして、心から利用者の方々に謝ってほしい。その言葉は、時に利用者に対して愛情ある、優しさがこもった言葉になるのだ。

そういう優しい言葉を掛けるあなたに対して利用者はきっと、「大丈夫だから気にしないで」と言ってくれるだろう。そして失敗を反省しながら、日々学ぼうとしているあなたに対しては、「今日もありがとう」と言ってくれるだろう。失敗した行為に対しても、「ありがとう」という温かい言葉で励ましてくれるだろう。

そのことに感謝して、どうぞよい介護従事者に成長していってください。
温かい言葉
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