masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

こころ

利用者の否定的感情を無視する介護であってはならない



感情労働と云われる介護という職業では、利用者側のネガティブな感情にも直接相対する必要があり、その影響で支援者自身がネガティブな感情にとらわれてしまって落ち込んでしまう場合がある。

しかもそのことが原因で心を病んでしまう場合さえある。

そうならないように支援者は、利用者の感情に引きずられて冷静な判断力を失わないという、バイスティックの7原則のひとつ、「統制された情緒関与の原則」を意識して関わる必要がある。

さらに様々な困難を乗り越えて有効な支援に結びつけるために、ポジティブシンキングに努めていくことも重要になってくる。

ポジティブシンキングとは、物事を前向きに捉え現実の生活を楽しく望み通りのものに変えていく思考法である。その過程では、自分自身のネガティブな感情(否定的感情)に目を向けずに無視するということも必要になる場合がある。

介護の仕事に就いているプロフェッショナルは、どんな職種であってもそのことを意識して利用者に対応していかねば、利用者支援に行き詰まるだけではなく、自分自身が壊れてしまいかねないという理解が必要である。
白鳥の湖
しかし自分自身の否定的感情を無視するとしても、決して無視してならないのは、支援する相手=介護サービス利用者の否定的感情である。そうした感情を利用者が抱くことは好ましくはなくとも、それはそこに存在する事実であり現実なのである。

その好ましくない現実を乗り越えるためには、その事実をしっかりと受け止め、何がそうした感情に結びついているのかを分析し、それを乗り越えるための具体的方法論を導き出さねばならない。

利用者に寄り添うだけで、そうした困難を乗り越えられるという幻想を抱かずに、利用者に寄り添うことは当然だが、それに加えて知恵を働かせ、分析力を酷使して問題解決に当たるという意識が不可欠であることを忘れてはならない。

例えば介護施設では集団的な対応が行われることがしばしば見受けられる。集団的ケアはすべて否定されるべきではなく、目的が明確になっているグループワークなどは奨励されるべきであるし、利用者の娯楽として、集団的に視聴する機会だって日常に潤いを与えるものだとして肯定的に考えられるべきである。

ただしその際に、そこに集まる利用者の肯定的感情だけにスポットを当ててはならない。

例えば、「○○さんが大変喜んでおられました。」ということだけにスポットを当ててしまえば、その集団の中で、その対応に不満を持っている方、無反応である方の否定的感情を無視してしまうことになりかねない。

たった一人の否定的感情であっても、無視せず放置しないのが対人援助の基本であり、ソーシャルワークの本道である。

私たち対人援助のプロは、世界中の人を幸せにはできない。

だが目の前にいる利用者ひとり一人は幸せにできる可能性をもっているのだ。その可能性を利用者の否定的感情に目をつぶって逃してはならないのである。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

2026年の元旦に際して



明けましておめでとうございます。このブログ読者の皆様にとって、今年の始まりはどのような日になっているでしょうか。

僕は数年前に、「年賀状じまい」を行っています。そのため年賀状を出す習慣をやめており、新年のご挨拶はこのブログでさせていただいております。去年初めて出会った方で、年賀状を送ってくださる方もおいででしょうが、僕から送り返すことはないので、どうかご理解ください。

さて僕が住む北海道登別市は、年末29日まで積雪ゼロの異常気象でしたが、30日から大晦日・今日元旦と降雪が続き、やっといつもの冬らしい銀世界に変わりました。とはいっても雪かきをする必要があるほどの量ではありません。
2026年元旦の鷲別川
画像は2026年元旦の鷲別川。氷点下の気温のため結氷しています。
もともと登別市は道内でも雪の少ない地域ですが、それにしても積雪量は例年より少ないです。

そんな元旦ですが、今年も特別なことはなくとも無事に平穏に過ごせる一年であることを祈ります。

一昨年の元旦・・・何事もなく過ぎ去ろうかと思っていたその日。2024年(令和6年)1月1日16時10分に最大震度7の地震が能登半島を襲った記憶はまだ新しいですよね。

丸2年が経った今でも、その爪痕は深く残っていて、自宅を失った人のうち未だに18.000人を超える人々が緊急仮設住宅に仮住まいを余儀なくされています。その方々の日常は完全には戻っていないことになります。

地震が起きた日、テレビ等の報道映像で家屋が崩れ落ちる瞬間を観て、同じ日本で現実に起きていることとは思えなかった人も少なくなかったでしょう。

その時僕たちは改めて、「何も起きない平穏な日常」がどれほど貴重で有難いものかを思い知ったはずです。あのような悲劇が再び起こらないことを願って止みまないとともに、日常をより大切にしたいと思います。

特別な事より日常が大事なのは、介護事業でも同じです。介護事業を展開する中で、日々向かい合う利用者の方々の日常を護るのが僕たちの仕事です。何かを犠牲にして特別な日を創り出すことより、当たり前の日常が坦々と続けられるように手を差し伸べたいものです。

特別な介護ではなく、当たり前の介護・・・それはごく普通に当たり前のように、介護サービス利用者の方々の暮らしと心を護る介護です。フレンドリーを求めて、言葉や態度を崩してしか利用者対応できない素人の介護ではなく、介護支援のプロとしてお客様に丁寧に接し、感じが良いと思われる介護なのです。

どうぞそのことを忘れない一年にしてください。

さて今日は僕自身のことを少しだけ書き綴ります。

僕は昨年、介護保険の1号被保険者に到達しました。体は元気で特段病気があるわけではないのですが、内臓等が少しずつ衰えてくるのは自然の摂理です。若いころと大きく違うのは、代謝が下がって油断すると内臓脂肪が増えて、様々な検査データが悪化するリスクが高まる年齢です。

ですから毎日有酸素運動に2時間/日に取り組んで、体重維持と筋力維持に努めています。

大晦日も、元日もその習慣は変えません。いつも習慣で行っている運動をしないというのは、何とはなしに落ち着かないものだからです。これって実は運動依存症と言えるのでしょうか?

習慣と言えば、このブログ更新も土日以外の習慣ですが、明日2日(金)はその習慣も休もうと思います。というのも箱根駅伝観戦に集中したいと思うからです。

今年の箱根駅伝は各校のいつ力が伯仲して、5強といわれる大学のどこが勝ってもおかしくありません。それを追う別の大学が勝つ可能性だってあります。ですから一瞬たりとも見逃さずに、テレビの前で観戦するため、記事更新の時間が取れないと思います。そんな正月があっても良いでしょう。

次の記事更新は、5日(月)からにしようと思います。

ただしもう一つのブログ、「masaの血と骨と肉」は毎日更新し続けますので、そちらの方をご覧になって、グルメ人気ブログランキングの文字をクリックして投票いただければありがたいです。

ということで今年もどうぞよろしくお願いいたします
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

誰のためにでもなく



僕は志を高くもって介護業界に就職したわけではない。

大学で社会福祉を学んでいたことがから、卒業した直後に社会福祉法人に就職したわけであるが、そもそも社会福祉を専攻した理由も、自分が得意とする文系分野で、私大の中では一番費用が掛からない大学が社会福祉を専門に教えていたからに過ぎない・・・そのあたりは僕の著書「人を語らずして介護を語るな(THE FINAL) 誰かの赤い花になるために」などにも詳しく書いているので、今更ここで説明する必要はないだろう。

どちらにしてもたまたま自分が求められた職場が、介護という仕事をする場所だったと云うだけである。

しかも僕に介護事業に向くスキルがあったということでもないし、そこで介護の仕事の深奥に触れ、その仕事にのめり込んでいったわけでもない。

むしろこの仕事をやり始め、徐々に仕事を覚えていく中でも、こんな仕事が自分にあっているのかということを常に思い悩んでいたし、就職して数年間は他の職種に転職すべきではないかという思いが常に頭をよぎっていた。

だからこんなに長く介護事業に関わっていくような自分の未来は予想もできなかったのが本当のところだ。

結果的に40年以上も介護業界の中で仕事をし、今現在もこの業界で生きているという結果の一番の要素とは他業種へ転業する勇気がなかったということであるのかもしれない。

特に僕が初めて社会人としてスタートした社会福祉法人は、当時は措置費制度の中で国家公務員準拠とされていた。準拠というのは準ずるということであるが、その実態は国家公務員と同じということであった・・・つまり社福の従業員とは、国家公務員と同じように安定した職業だったわけであり、平均年収が他の職業より大幅に低いということもなかったために、給与面で不満がなかったということもある。
北海道の冬
だからと言って、この仕事を腰掛とうそぶいて自分のスキルを高めようとする努力をしてこなかったわけではない。

どんな理由があるにせよ、縁あって就職した場所で生活の糧を得ているのだから、それにふさわしい仕事をしたいという思いは常に抱き、そこに向かって勉強もして、実績を積み上げてきたつもりである。

その理由は、介護事業という職業には、介護支援を必要とする人々が目の前に存在し、様々な感情を支援者に向けてくるという特徴があったからであると思う。

その人たちの感情を無視して、機械的に相対することを自分自身は許せなかった。

そこに自分が存在するという理由を、自分の生きる意味ではないかと考えたときに、目の前にいる人々の負の感情をそのままに放置するのではなく、出来る限り良い方向に変えたいと思い、その方法を考え続けた。

答えが常に正答だったわけではない。時には間違った答えで、目の前の利用者の方々を困らせたり、不快にしたり、時には哀しませてしまったこともなかったといえない。

だが僕はそのことを恥じる気持ちを失っていないし、正答を引き出す努力はあきらめていない。それがせめてもの僕の償いだろう。

こう振り返ると、僕が介護業界で仕事を続けていることは、誰のためでもなく自分のためであるのかもしれない。他人のために自分を犠牲にするとかいう精神ではなく、自分が幸せになるためには、自分が関わる人々が幸せにならなければならないと思うことが大事ではないかと思っている。

だから行く年・くる年も、介護に関連する仕事を誰のためにではなく、自分のためにやり続けるだろう。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

護らない人々



介護の、「」は、まもるふせぐたすけるという意味の言葉だ。

私たちが向かい合う介護サービス利用者とは、心身の障害等による何らかのハンデキャップを抱えた人たちである。それらの人たちは、本来自らに備わっている様々な権利や自由といったものを、自ら行使できなかったり、十分機能させることが出来なかったりする。

その為私たちは、それらのハンデを抱えている人々に少しだけ手を差し伸べ、心を傾けながら、利用者の様々なものを護らねばならない。人としての尊厳・権利・自由・財産といった有形・無形のものを護る仕事が介護という職業の本質である。

ところが数多い介護関係者の中には、利用者を護るどころか、彼らから様々なものを奪い取ることを目的としているような人の皮をかぶった獣のような人間が存在する。そいつらは自らの立場を利用して利用者の尊厳を奪い、財産さえも奪い取っている。

ごく一握りのそのような輩のために、世間の介護事業への信頼は奪われ、私たち自身もそのような醜い心の持ち主であるかのように見られてしまうのである。

本当に迷惑な話であり、そういう輩は介護事業から一掃されてほしいと心から思う。

つい先日もそう思わざるを得ない卑劣な事件が起きている。

岐阜県羽島市のグループホームで、職員2人が入所者への暴行の疑いで逮捕された事件で、施設の管理者(経営者のことではないかと思われる)が取材に応じ「日頃から入所者へ手を上げる場面があった」と証言している・・・堂々と暴力を肯定するような管理者の考え方が、従業員の日常的な暴力に繋がっているのではないのか。
グループホーム幸の里
このホームでは9/12に施設長で介護職員を兼務していた大塚律代容疑者(72)が、72歳の女性入所者に対し、平手で顔や足を複数回殴ったり、髪を引っ張ったりするなどの暴行を加えた疑いで逮捕されている。しかも16日にも、同じ時間帯にこの女性を含めた入所者3人に暴行したとして、このホームの介護職員・中尾厚代容疑者(57)も逮捕されているのだ。

その発言内容の詳細は以下だ。
施設管理者・78歳
うちはちょっと(症状が)重い人を預かっているので、私はっきり言って手の骨や肋骨を(入所者に)折られた。そういう時は『いい加減にして』と足や手をたたくことがある

認知症の人の行動・心理症状BPSD)が体罰で修正できるとでも思っているのだろうか。認知症の人の足や手をたたくことに何の意味がないばかりか、それは行動・心理症状BPSD)を一層悪化させる原因にしかならないことを理解できない人間がGHの経営をしているとしたら、これほど酷いことはない。介護事業に携わってはならない人間の発言である。即刻退場を願いたい。

兵庫県尼崎市の住宅型老人ホームで先月、男性の部屋に侵入し、現金50万円とキャッシュカードを盗み、その後ATMから50万円を引き出し盗んだとして、29日介護職員(ホームヘルパー)でサービス提供責任者である高見真由美容疑者(61)が窃盗の疑いで逮捕された。犯行は被害男性がデイサービス通っている間のもので、自らの立場を利用した悪質なものであるといえる。こんな奴がヘルパーであれば、常時監視していないと自宅の何を持っていかれるかわからない。こいつも介護等職業に携わってはならない。

10/20の更新記事「防犯意識の欠如が一因と云われても仕方のない殺人事件」で取り上げた埼玉県鶴ケ島市の老人ホームで入所者2人が死亡した事件では、殺人容疑で再逮捕された元職員の男が「死刑になりたかった」と供述していることが12/1分かった。

死にたいなら勝手に自分一人で死ねばよい。なぜ自分のもと職場の、恨みもない利用者を道連れにしなければならないのだろうか。こんな理由で殺された被害者は浮かばれない。遺族の悔しさもひときわだろう。

自分以外の他者を護ることができない人間が介護という職業に就いている不幸がこの国には数多くあるということになる。

そんな国にしないように、この国を少しでも良くするように、人員集めの雇用システムではなく、人材育成のシステムを構築していかねばならない。手を差し伸べ、心を寄せて護る人材を創造していく介護事業であらねばならない。

そのためにはまず、日常のサービスマナーの徹底に努めなければならない。
メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営の最新記事が更新アップされました。
菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営
第12回のテーマは、外国人介護人材受け入れの必然と課題です。文字リンク先をクックしてご覧ください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

愛を語れば生産性は低下しますか・・・。



愛情は与えられるものでもなければ、与えるものでもないと思う。

愛は見えない。そこに存在するかどうかもわからないけれど、ふとした時に感じるものではないのか・・・。

少なくとも愛は誰かに押し付けるものではない。

自分が誰かを愛していたり、誰かに愛されていたり・・・そんなことを常に考えながら生きている人なんているんだろうか。日々の暮らしを送る中ではそれはほとんど意識されず、けれどもふとしたはずみで誰かの愛を感じてホッとしたりするもののように思う。

愛し愛されること・・・それは目的にも目標にもなるようなものではなく、結果としてにじみ出るもののようにも思う。

にじむ、にじみでる、染みる、染み出す・・・そんな言葉が愛には似合っている。真心を込めた行為の先に、にじみでる愛を誰かが感じてくれるのではないだろうか。

私たちが携わる介護という職業でも、そんな実践のあり様が求められるのではないのか・・・。
人間愛
感情労働と云われる介護の仕事も、自分自身の感情を殺して黙々と決まり事をこなす単純作業に貶めることは難しくない。愛のない介護なんて掃いて捨てるほど数多く存在するのも事実だ。

だがそこでは介護サービスを利用する人々の感情も無視されざるを得ず、喜怒哀楽を顧みない機械的作業が黙々とこなされて終わりということになる。

利用者の喜びの感情を無視することと同時に、利用者の哀しみ・苦しみ・慟哭・・・助けてという心の叫びをすべて無視して作業が終えられる。

そのことに耐えられる人はどれだけいるのだろう。

生活の糧を得ることのみを目的としているなら、そのことに何も感じないのかもしれない。

だが僕にはそれは無理だ。自分の感情をいくら押し殺そうとしても、利用者の歓喜の声を聴くのと同時に、悲痛な心の叫びも聴こえてしまう。利用者の笑顔を観るのと同時に、その向こう側にある寂しげな表情が観えてしまう。そのことに心が動いてしまう。

だから僕は介護における愛情表現は単なるエッセンスではなく、本質的なものだと考えたい。

介護を単純作業化せずに、真摯さを伴った専門技術の提供と考えたとき、私たちが利用者に寄せる人間愛にも専門性があるのだと信じたい。真心を込めることこそ、愛を寄せることだと思うのだ。

介護実践にも生産性向上が叫ばれ、そのために介護実践の科学が必要だと云われる今日・・・愛を語ることは時代遅れで恥ずべきこととも思われがちだ。

しかし人の心の温もりを感じられず、人の心に寄せる温かい思いが伝えられない介護が先進的なのだろうか。それが人類を救うのだろうか。

そんなことはない・・・事実として他人に自分の不自由な身体を委ね、日々の暮らしを送りながら、「こんなふうに生きるのなら、長生きなんてしなければよかった」と嘆きながら暮らしている高齢者がいる。

彼らの嘆きは老い衰えた自らに向けたものではなく、愛情の欠片も感じることができない介護という行為に対して向けられている言葉だ。

介護という職業で生活の糧を得ている人々は、その悲痛な声に耳を傾けて、自分たちに何が求められているのか、自分自身が何をすべきかを深く考える必要がある。

真剣に介護サービス利用者の「現状と事実」を見つめる必要がある。
メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営の最新記事がアップされました。
菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営
Vol.11のテーマは、「運営指導に対する介護事業者の心構え」です。文字リンクをクリックして参照ください。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

経験値を上回る想像力は存在しない



仕事をするうえで、想像力を発揮しなければならない場面は多々あり、その想像力の差が仕事の質の差に結びつくことも少なくない。

想像すること・・・思い描くことが仕事のパフォーマンスを引き上げることにつながるのだ。

介護労働でもそれは同じである。こうすればこうなるのではないかという結果を想像して、それを目指した介護実践を行うことが、結果的には方法と結果の因果関係を導き出す。

それが介護のエビデンス科学的介護と云えるのではないだろうか。

だが想像力は経験値によって推し量る力であり、経験値のないところから生まれない。かつて経験したことで学習した内容によって、推し量り見えてくるものが想像力なのである。

同じ読み方をする創造力も同様だ。一瞬のひらめきで創り上がったものがあるといっても、それを創るにしたって自分がいる世界そのものは変えられないのだから、ベースになるのはその人が知っていることである。自分が生きている世界と無関係なものを生み出すことができる人なんていないのだ・・・いるとすればそれは神である。

どんなに斬新なことを考えたとしても、よくよく考えればどれも自分の知識を逸脱するようなものではないことに気が付くはずだ。経験が想像力を生む
逆に言えば、見聞きしたものがないところで想像力も創造力もは生まれないのだ。

繰り返しになるが想像力・創造力とは見聞きしたものをいかに組み合わせるかということであり、想像するということは、経験値を組み合わせることで未知のものを予測するということなのである。

だからこそ経験は大事である。しかし経験するということに失敗が伴うのはある意味当然である。

初めて経験する事柄を、すべて最高の結果で終えられる人はいないのである。中には痛い経験で終わってしまう事柄だってあるのだ。そうした失敗を積み重ねて学習し、より良い結果を生み出していくのが人生であるともいえる。

そう考えると失敗をマイナス点とする人事考課は百害あって一利なしである。マイナス評価を恐れて、経験することそのものを忌避することになるため、そこでは想像力も創造力も生まれなくなるし、生まれたとしても、それはわずかな経験による拙い想像・創造力でしかなくなるのである。

介護事業の生産性を向上させるためには、豊かな想像力・創造力を持つ人材を育て定着させる必要がある。

そうであれば失敗を恐れて新しいことにチャレンジできない職場環境であってはならないことになる。その為には失敗をマイナス点としないで、、それを教訓とできる人事評価システムが必要だ。経験を積むこと自体をプラス評価とする人事評価システムにしていかないとならないのである。

介護人材を確保することが益々難しくなる今後の状況を考えると、単に人材を集めることに躍起になるのではなく、一度張り付いた人材を豊かな才能を持った人財に育て上げる環境づくりが必要である。

その為には、人材育成システムの抜本的見直しが必要な介護事業者が多いという点を事実として指摘しておきたい。
メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営の最新記事がアップされました。
菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営
Vol.11のテーマは、「運営指導に対する介護事業者の心構え」です。文字リンクをクリックして参照ください。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

誰かを支えることにプライドを持つ人になってください



介護事業者で働いている人がすべて、その仕事に就くことを望んでいたわけではないだろう。

いろいろな事情でたまたま介護事業者に所属するようになったという人は数えきれないほど居ることだろうし、その中には介護という仕事を嫌々続けているという人も居てもおかしくはない。

そもそもこの世の中で、自分の望みのままに人生を過ごせている人は幾人いるのだろうか・・・おそらくそんな人の方が少ないのだろうし、抱いた志(こころざし)が打ち破られた人も数えきれないほどいるはずだ。

子供の頃に夢見た人生を送れる人なんてほとんどいないのである。自分のいる場所にたどり着くことができず、思わぬ場所に居座る結果に呆然となり、そのことに怒りや恨みの感情を持つ人も居るかもしれない。

だが人の長い人生を考えると、どのような経緯でそこに居るかを振り返るより、今そこに居るという事実を大切にした方がよいと思う。幸せは自分が感じ取るものなのだから、その場所にいる自分が幸せだと感じられる方が人生が豊かになる。

自分と縁があるとは思えなかった介護という仕事に就いた瞬間から、自分がそこで生活の糧を得るだけではなく、生きる意味をそこで見出そうとする方が良い人生を送ることができる。
美瑛町の雲
自分がどのような経緯で介護という職業を選んだのかはともかく、今自分が介護サービスの場で職を得ているということは、介護という職業が自分を選んだと考えてほしい。

そうであるからこそ介護という仕事に敬意を払い、その仕事に誇りを見出してほしい。

自分を選んでくれた職業に敬意を払わず、就いている職業を憎む人には、その職業は何も与えてくれず得るものも何もなくなる。

自分を選んでくれた職業に感謝し、敬意を払い、その職業を通じて自分自身の最大限の努力を重ねたときに、その職業があなたに微笑み、大切な何かを教えてくれるだろう。

ときにそれはあなた自身の生きる意味であったり、人生が尊いものであると感じさせてくれるものであったりする。

介護という職業が、すべての人に必要な仕事であるとは言えない。

しかし介護支援を必要とする人にとって、介護のプロが寄り添って手を差し伸べてくれる職業ほど貴重なものはない。その事は紛れもない事実だ。

縁あって介護という仕事に就いている人は、そのために選ばれたプロだと思い込み、そのためにプロとしてふさわしい知識と技術を磨いてほしい。誰かにとって自分は確実に必要とされていることを自覚し、自分以外の誰かを支える仕事に就いていることに誇りを持ってほしい。そう思うことが誇り高い人間としての自分の存在に繋がっていくことだろう。

今自分がその場所に居るという事実に関して言えば、自分の何らかの決断がそこに積み重なっているのだということを忘れないでほしい。

人間を創るものは、自らの決断の積み重ねである。重要な決断を避け、他人に決断を委ね続けている人は何ものでもなくなる。

何ものでもない自分ではなく、意味のある人生を送っている自分自身を誇りに感じてほしい。

それとともに、どうぞ誰かを支えることにプライドを持つ人になってください。
メディカルサポネットの連載・菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営の第9回更新記事は、介護生産性向上のための人材活用と業務改革をテーマに9/1更新アップされています。
菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営Vol.9目次
無料登録してどなたでも読めますので、是非サイト登録の上参照してください。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

時代



先週1週間は仕事関連の諸連絡がなく、極めて静かで穏やかだった。

おそらく多くの方々が、お盆休みと夏休みを重ねて取って、仕事も一段落つけていたのだろう。そのためお盆明けの今日から仕事も動き出し、僕の新たな予定も増えていくことと思う。案の定、午前中に複数件の業務関連メールが届けられている。

僕自身は先週1週間で、〆切が近づいていた連載原稿の執筆や依頼を受けていた原稿の監修作業、そして講演スライド作りを行っていた。その作業を予定通り終え、今朝一斉にそれらを関係機関に送った。

そんなふう近直の仕事に必要な準備はあらかた片付いたので、今現在は時間と気持ちに余裕がある。

今週は木曜夕に介護認定審査会に臨んだ後、翌日埼玉県川口市講演を行う予定が入っているだけなので、今日と明日はお盆休みがとれなかった分、英気を養う時間を創ろうと思う・・・忙しくて行けていなかった散髪にも行けるだろう。

それにしてもこの時期にふと思うことがある。

それは日本というこの国に生まれ育った者にとって、8月というこの月は特別な思いを抱く月なのかもしれないということだ。
平和の時代
長崎原爆の日・広島原爆の日・そして終戦と呼ばれる敗戦の日・・・80年前にこの国を焦土と化した太平洋戦争を経験した方々が、この国にはまだ存在している。それらの方々から戦争体験を聴き、そこで起きた様々な悲劇を心に刻み、平和が平凡に思える時期に生まれ育ったことに感謝したいと思う。

僕にとって戦争も、飢えもフィクションの世界であり、本当の意味の貧困も悲劇も経験せずに生き続けてきた。それもこれも僕が生まれるわずか15年前まで、この国を護ろうとして戦火に散っていった人々の存在があるが故のことだろうと思う。

そのことを胸にして、この平和な日本の社会のセーフティネットとしての介護サービスにほころびが出ないように力を傾け、情報を発信し続けたいと思う。

思い返せば、僕が学卒で社福の特養に入職した当時、この時期に戦時中の話を聞かせてくれる入所者は数多く存在した・・・ところが現在は特養入所者の方も、戦争を知らない世代に変わりつつある。

平和が長く続いている証拠としてそれは喜ぶべきことなのだろうが、一方で悲惨な戦争の語りべが居なくなり、この国が戦争という動乱に巻き込まれた時期が風化するのは怖いことではないかとも思う。

その記憶が薄れて、再び間違った道を歩まないようにしたいものだ。

戦争は不幸しか生みださない・・・今月はそのことを胸に、祈りを捧げ続けたい。



※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

広島の空・長崎の空2025



今年もこの日が静かに訪れた。

1945/8/6広島原爆の日・・・1945/8/9長崎原爆の日。戦争を知らない世代の人々も含めて、すべての日本人が戦争と原爆で亡くなった人々に厳かなる祈りを捧げるべき日。

毎年この日かその前後に、「長崎の空・広島の空」というブログ記事を書き続けている。今年でもう何回目の記事更新となるのだろうか・・・。

今年は両市に原爆が投下され、その後終戦を迎えてからちょうど80年目の夏を迎えている。

焼けつくような夏の日差しを注ぐ蒼い澄んだ空からは、わずか80年前にこの国が焼き尽くされたことは想像さえもできない。だがそれは確かに存在した事実なのである。

今日の広島原爆の日に当たって、明々後日の長崎原爆の日にも思いを寄せ、深く祈りを捧げたいと思う。

そんな日でもあるにかかわらず、政治家はこの厳かななる式典でさえも、政治利用しようとしている。権力に居座り続けようとするなりふり構わない姿を国民の前にさらけ出す一国のトップが、戦後80年談話なるものを出そうとしているその姿・・・権力にしがみつく姿は醜悪を通り越して、愚かでみじめにしか映らない。

そのような人物が式典に参加してメッセージを読み上げる姿を、空から見下ろす慰霊されるべき英霊たちは、至極迷惑に感じているのではないだろうか。
長崎平和公園の石碑
画像は長崎平和公園の石碑
私たち日本人は、そのような醜い政治家を無視して、ただただ平和に感謝し、この平和が永遠に続くようにと祈るのみである。

そしてこの平和を手にするために、犠牲となった数多くの御霊に思いを馳せ、安らかなれと頭を垂れて祈るのみである。

同時に、あの戦争で亡くなった方々が、再びこの世に生まれ変わることができるるとしたら、またこの国に生まれ変わりたいと思うことができる日本社会を創り上げたいと強く思う。

唯一の被爆国として大量破壊兵器を否定し、原水爆実験をしない世界を訴え続けなければならないのだとも思う。世界に向けて「あの悲劇を繰り返さないで」と訴え続ける必要があるのだと思う。

戦争や武器といった人が創り出したものを恨むのではなく、それを創り出す人の心を恨み、そんなものを創り出す必要がない社会であれと願うのみである。

小さな力もない自分ではあるが、祈ることだけはできる。今日8/6と明々後日8/9は、その祈りの日である。

メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営の最新記事が8/4更新アップされています。
菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営〜Vol.8
今回のテーマは、「(第8回)介護事業の命運を左右する職員研修の在り方」ですので参照ください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

私の敵は私です。



社会全体のコンプライアンス意識が高まり、過去に許されていた行為がハラスメントとして糾弾される世の中になっている。

そのことをことを肌で感じている人も少なくないと思う。そして介護業界だけがそうした世間の流れの外に置かれ続けるということはあり得ないことも理解できると思う。

そうであれば過去に見逃され、あるいは見て見ぬふりをされてきた利用者に対するタメ口対応も、モラルハラスメントとして糾弾されることに繋がっていくというリスクを意識せざるえを得ない。

そうなる前に一日も早く、従業員に対してサービスマナー教育を徹底させ、介護サービス利用者は顧客であるという意識づけを行うとともに、顧客に対してサービス提供者として護るべきサービスマナー対応を徹底させることが必要になる・・・それは今後の介護事業経営の生命線ともいえるだろう。

僕はそうした教育・指導の一環として、全国各地で介護事業におけるサービスマナーをテーマにして講演を行っているが、そこで話すことは理想論でも空論でもなく、自分が社福の総合施設長として従業員に徹底して護らせてきた、マナーある利用者対応という実践論である。

それを徹底して行ってきたという事実がある限り、他者の空論屁理屈に屈するものは何もない。

そんな僕のサービスマナー講演を聴いて、真剣にマナー改革に取り組もうとしている事業者の中で、なかなか利用者に対するタメ口対応が直せない従業員がいるという話を聴くことがある。介護の仕事に意欲をもって取り組み仕事も出来るのだが、利用者に対して馴れ馴れしい態度、傍から見て聞き苦しい言葉遣いを直せない従業員に対して、どのように指導をするのかと尋ねられることがある。

答えは簡単だ。信賞必罰・・・職場のルールを護り、サービスマナーを意識して利用者対応している職員と、そうしようとしない職員に待遇面での差をつけないと、ルールを護っている職員が馬鹿らしく感じて、ルールを護り続ける意欲をなくしてしまう。

そうしないためにもマナーに欠けるタメ口対応を直せない従業員は、昇進させない昇給させない、処遇改善加算の配分もしないという罰を与えて改善を促すべきだ。

サービスマナー向上の旗振り役のあなたが、そうした注意や罰を与えるということをしないなら、サービスマナーを向上させる敵はあなた自身であると云いたい。

職場のルールとして顧客である介護サービス利用者に対してサービスマナー精神をもって接するということを決めている以上、それは極めて当然のことと考えてほしい。

北海道出身の歌姫・中島みゆきさんが書いた「ファイト」という楽曲の一場面・・・電車の駅の階段から子供を突き落として薄ら笑いを浮かべる女と、転がり落ちる子供のシーンを目撃しながら、何もできなかった自分について、「私の敵は私です」と恥じる場面が書かれている。
私の敵は私です
介護事業におけるサービスマナーの向上にも同じことが言える。いくら自分が介護サービス利用者に対してサービスマナー意識をもって接していたとしても、同じ職場の従業員がお客様に対してマナーに欠けた対応をしている場面を見て見ぬふりをし、放置していたとすれば、サービスマナーが浸透しない一因は自分自身にもあると思い知るべきだ。

そこでは「あなたの敵はあなた自身」であるという状態が生まれているのだ。

そうならないように、自分に厳しい姿勢を貫きつつ、他者に対して毅然と物言う姿勢を貫く人であってほしい。

その時、自分にかける言葉は、「ファイト!!」である。
中島みゆきさんがファイトを書くきっかけになったオールナイトニッポンの放送音声と唄は下記の動画を参照ください

筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

ひまわりの約束



介護保険制度創設以降、介護サービス利用者と介護事業者は契約によるサービス提供に変わった。

そこではサービスの内容や料金等、様々な約束事を介護事業者と利用者間で交わすわけである。

しかし最も大事なことは、私たち介護事業関係者はお金を頂いて介護サービスを提供するプロなのだという矜持を持って契約を交わすということだ。プロフェッショナルとしてふさわしい知識と技術をもってお客様である利用者のケアに従事し、利用者の生活の質を向上させるということである。

それを忘れては、介護サービスなど何の意味のないものになってしまう。

自立支援を唯一無二の御旗にしてはならない。頑張らばなければ寝たきりになるぞと脅しながら、利用者の尻を叩き続けるという契約をしているわけではないのだ。

自立支援も大事だが、それと同時に自立できなくなった部分に温かい手を差し伸べて、生活の質を低下させないように、暮らしが不便にならないように寄り添うという契約を交わさねばならない。

心身の状態が悪化する危険性の身にスポットを当てて、脅迫的な暮らしを送らせるような対人援助者であってはならない。私たちは北風ではなく、太陽のような存在にならなければならないのである。

介護サービス利用者の方々とは、私たちの光を求めて顔の向きを変え続けるひまわりのような存在なのだ
ひまわりの約束
私たち対人援助のプロは、ひまわりが見つけられる光を放つ存在であらねばならない。

だから介護サービスの契約も「ひまわりの約束」だろうと思う。

人生は愉しむためにはあまりにも短いが、悩み続け脅し続けられるとしたら余りにも長い苦しいものになる。

そうしないための介護事業であることを忘れてはならない。

私たちは手を差し伸べすぎることを恐れずに、手を差し出すタイミングが遅きに失することを恐れるべきだ。

対人援助のプロとは、手を差し出してもらうことのできなかった利用者の恐怖・哀しみ・絶望をおもんばかる存在でいなければならない。

ひまわりの約束を護り、その責任を果たす存在でなければならない。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

人にレッテルを貼らない介護



10年前に社会福祉法人を退職した僕は、フリーランスとして活動する前に、介護保険の医療系サービスにも知悉しておきたいという動機づけから、1年間だけ老健施設の事務次長として勤務した経験がある。

その期間に老健の施設サービスだけではなく、通所リハ・訪問リハ・訪問看護といった医療系居宅サービス実務にも触れることができた。

その後、現在のようにフリーランスとして活動するようになったわけであるが、たった1年間の経験も現在の大きな武器となっている。

ところでその老健施設では、施設内の壁面に理念やスローガンを書いた紙が貼られていた。そこには従業員一人一人が、利用者を敬い丁寧に対応しますという意味のことも掲げられていたが、はっきり言ってそれは看板に偽りありという状態だった。

現場リーダーは男性の看護師長であったが、その人自身はカンフォータブルケアを学んで実践しており(参照:カンフォータブルケアに注目が集まりましたね)、利用者に対して目を見て・笑顔で・丁寧に話しかけるというケアが実践できていた。

しかしリーダーシップに欠ける面が見られる人であったため、他の看護・介護職員に対して、そのような態度をとるように導くことはしていなかった。

その為もあってか、看護・介護職員の利用者対応にも大きな個人差があり、しかもそれぞれのやり方に任されて、誰からも注意も指導も受けないという状態であった。

ある一人の看護職員は、特定の人に対しては丁寧語で対応しているのに、別の特定の人にはタメ口対応と、相手によって態度を変えているような姿があった。

そのような区別が、どのような理由で行われているのかと調べてみると、当該看護職員が丁寧語で対応している利用者は認知症のない人であり、タメ口対応しているのは認知症の方々であることが分かった。
差別する人の醜い姿
その姿は差別者そのもの姿であり、恥ずべき醜い姿であると思い、僕はその看護職員を激しく罵った。

上司の看護師長からも注意されなかった人だから、入職したばかりの事務次長という立場でしかない僕から注意を受けて大いにびっくりしただろう・・・だからと言ってその職員が反省して、態度を改めたという事実はなく、つくづくどうしようもない老健だと思ったりした。(幸いなことにそこは経営に行き詰まって老健経営から撤退している。)

認知症の方の行動理解のために、誰それが認知症であるということを認識し、個人別に混乱する場合にこうした行動をとる傾向が強いなどという知識は必要だが、だからと言って日常のあらゆる場所で、その人を認知症という部分から認識することは間違っている。

ひとりの人間として見つめることを忘れてはならないのだ。

介護サービス利用者を、「要介護者」「認知症」などという冠をつけて見ない介護実践が必要だ。

社会福祉の価値前提は人間尊重であることを忘れてはならず、人間尊重とは、人としての存在そのものが尊いものであり、能力や属性など様々な違いがあったとしても、その存在価値に変わりはないとみなす原則である。

認知症や重度の要介護状態区分であるなどという冠は、そうした人間尊重の目を曇らせるものでしかない。

それは極めて傲慢で、鼻持ちならない態度にしか見えない。

そのような醜い姿で、介護支援を必要とする人と相対してはならないのである。
介護とは人を裁くのではなく護る仕事である
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

介護という職業に就く人に考えてほしいこと



介護の仕事をしている人の中に、自分自身と自分の仕事を卑下している人がいる。

自分は、「介護の仕事くらいしかできない」とか、「介護の仕事なんてろくなもんじゃない」と言いつつ、介護職に就いている人がいるのである。

そう考える理由は、介護の職業が他の職業に比べて給料が低いからなのか、はたまた行っている業務が人の役に立つどころか、心身の障害を持つ人物のように扱っているなどして民度が低い労働と感じるからなのかは定かでない。

しかしどちらにしても自分の仕事に誇りを持てない人がいることは事実だ。
仕事へのプライド
勿論、全産業平均より低いと云われる介護職の年収は放置しておいてよいことにはならない。

業界全体で公費を引き上げるためのソーシャルアクションが必要だし、介護事業経営者が従業員に対し仕事に見合った報酬を支払おうとする考え方も求められる。何より介護サービスの品質をアップして、人の役に立つ仕事であると実感できる職場環境を創っていかなければならない。

だが仕事のやりがいは本来、自分自身で見出すものだ。やりがいを見出し、そこに社会的意義を見つけて、それに向かって全力で仕事に取り組む先に、自らの仕事に対するpride:誇りを持つことができるのだと思う。

そんなふうにprideとは、他人から与えられるものではなく自ら勝ち取るものだ。仕事にprideを持てない人は、自ら敗残者に陥っていると云えるのではないだろうか。

勿論、仕事にprideを持つことができない理由、誇りを持つことに対するバリアは多々あるだろう。

例えば介護の職業であれば、自分が利用者に心から善意で寄り添おうとしているのに、先輩や同僚の態度が利用者を見下して、馬鹿にするかのような接し方しかしない等々・・・そこで自分だけが真摯に利用者に寄り添うことが馬鹿らしく思えてしまうという人もいるのかもしれない。

しかし世の中はえてしてそういうものだ。自分が思う理想とは程遠いと思える事柄が多々存在するのが人の世である。

そこで考えなければならないことは、「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えることができる」ということだ。

僕自身も様々なバリアと闘ってきた。そのことについては、「老人ホーム・今昔(こんじゃく)物語(上)」・「老人ホーム・今昔(こんじゃく)物語(中)」・「老人ホーム・今昔(こんじゃく)物語(下)」を参照していただきたい。

特別な身分・特別な環境下に置かれていない人にとって、職業に就くということは生きていくうえで不可欠な事である。

しかし生きるために不可欠な仕事が苦行であっては、はかない人生を辛く苦しいものでしかなくする。

だから・・・どうぞ自分が就いている介護という職業のpride:誇りを見出し、それを忘れない人でいてください。

あなたが向かい合っている介護サービス利用者の方々の心からの笑顔を、どうぞ愛おしく思い、それを引き出す自分を好きになる貴方でいてください。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。
快筆乱麻masaが紐解く介護の今
CBニュースの連載「快筆乱麻masaが紐解く介護の今」の最新記事「ケアマネ不足の原因は国策の誤り」が5/30アップされました。文字リンク先から参照ください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

妬みを超える自分でありたい



人から嫌われたくないとか、人から好かれたいと思う気持ちは誰しも持っているだろう。

僕自身もそのような気持ちは持っている。

だが同時に、すべての人に嫌われない自分、すべての人から好かれる自分なんてありえないとも思う。

そして年と共に、他人から好かれようという気持ちは薄れているように思う。自分を嫌う人がいたっていいやという気持ちが大きくなってきている。

少なくとも人に好かれるために自分を飾ることはしたくない。出来る限り自分らしく、ありのままで生きたいと思う。だから僕と繋がって交流のある人もたくさんいる反面、僕の態度や考え方に反発して嫌う人も少なくない。

その典型が現に僕が管理する介護福祉情報掲示板である・・・そこで僕は、歯に衣着せぬ発言に終始しているので、随分と僕を嫌いな人を増やし続けている。優し過ぎて甘やかす情報掲示板が多い中で、プロである対人援助の専門家を厳しく育てようというコンセプトを揺るがせないという意味で、それはそれで良いと思っている。
登別漁港
だが人から嫌われることを厭いはしないが、自分自身を嫌いになってしまうような自分ではいたくないと思っている。

僕は僕自身が持つ厭(いや)らしさに気が付いている。それは人並み以上に自尊心が強いことだ。だがそんな自分が前面に出ることは恥ずかしいと思っているので、他者の鼻につく態度として表面に現れないようにはしたいと思う。

同時に自尊心の強さは、妬(ねた)みの心を生み出すように思えてならない。

自分より良い立場の人、恵まれている人を羨ましいと感じるだけではなく、それを妬み、そうした境遇の人が一度不運に恵まれれば痛快に思ってしまうことがないとは言えない・・・だがそれは極めて恥ずべき心だ。醜い心である。

世の中の幸福の総量が決まっているわけではない。

誰かが幸福になった分、自分が幸福に恵まれる機会が減るわけではないのだ。だから他人の幸福を妬む必要はない。他人の幸福を心から祝福する気持ちでいる方が健全であるし、自分自身の心も明るくなるはずだ。

それを解かっているにもかかわらず、時として人は他人の幸福や幸運を妬む気持ちを持つ。そしてそういう気持ちを持つことを後になって後悔する・・・その繰り返しである。つくづく人間ができていないと思う。

人を妬ましく思う気持ち、他人を羨ましく思う気持ちを超えて、他者の幸福や幸運をいつでもどこでも祝福できる自分でありたい。

おそらく僕は自分がこの世で生きる人生の半分以上をすでに費やしている。残り時間は今までの人生より少ないだろう。

そうした限られた時間の中で、人を恨んだり妬んで過ごすのは損であると思う。人を愛し祝福する時間を過ごしながら、この世での人生を終えたい。

それが願いである。
メディカルサポネットの連載・菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営〜Vol.5の最新記事が5/14にアップされました。菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営

待ったなしの生産性向上
今回のテーマは、待ったなしの生産性向上です。文字リンクをクリックして参照ください。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

今年の桜が見納めになる人が目の前にいます



僕が住む登別市は、東側に苫小牧市・西側に室蘭市があり、ちょうどその中間地点に位置している。

国道36号線を苫小牧方面から室蘭方面に走ると、登別に入ってすぐの交差点を左折するとJR登別駅がある。その交差点を逆側に右折して山に登っていく道路が登別温泉線という道道で、その名の通り登別温泉まで続いている。

その道路の両側には桜の木が植えられており、開花の時期にはその花がトンネルのように道路を覆っている。そのためその状態は「花のトンネル」と呼ばれている。(下記画像参照ください)
道道登別温泉線花のトンネル
この桜は例年だとGWが終わるころに満開となることが多いが、今年はいつもの年より早くGW真っただ中に満開となり、今は花が散って葉桜になっている・・・しかし遅咲きの八重桜が咲き始めているので、ところどころその花が観光客等の眼を愉しませてくれるであろう。

僕が社福の総合施設長をしていた時には、この時期に特養の利用者をマイクロバスに乗せ、花のトンネルを何度も通って桜を見ていただいていた・・・毎年の恒例行事で、きっと今もそれは行われ続けていることと思う。

だが高齢者介護施設という特性から言えることは、今そこで桜を愛(め)でている人の幾人かは、来年はその花を愛でることは叶わないということだ・・・。

僕たちはそういう人たちに向かい合って、日々の暮らしの支援をしていることを忘れてはならないと思う。

今年の桜がこの世で見る最期の桜になることを意識している人はいなくとも、僕たちはそうなるかもしれない人たちに向き合っているという事実は消すことができない。そういう人たちが日常を営むことに不便が出ないように、地道に黙々と支援の手を差し伸べるのが介護という仕事である。

我慢に我慢を重ねた先に、明るい未来があるとは限らない人々がそこにはたくさん存在するのである。

だからこそ出来ないことから物事を考えて、何もしない人にならないでほしい。できる可能性を求める人であってほしい。

制限ありきの支援思考ではなく、日々の豊かな暮らしを営なむために何をすべきかを考える人であってほしい。

辛い状態・哀しい状態を放置せず、今その状態を変えるために手を尽くすのが真の介護支援である。

哀しみの涙を放置せず、喜びの表情を贈るのが介護である。

対人援助というステージで、利用者の方々と向かい合う貴方・・・どうぞ、そのことを忘れない人でいてください。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

人が人に寄り添う意味を単純化して考える介護



福祉の精神・・・対人援助の理念・・・それが大事であることに異論はない。

だが高邁な精神を求める前に、ごく当たり前に人としてすべきことを考えるのが介護という職業の本質ではないかと考えている。

人と人が向き合う場面がある。そこで手を差し伸べる人と、その手に縋ろうとしている人がいる。その時、手を差し伸べる人が難しい理屈など考える暇はないだろう。もっと本能的に行われるべき行為があるはずだ。

そしてそれこそが介護という行為の本質ではないかと思ったりする。それが人が人に思いを寄せるということだ。

自分以外の他者であっても・・・いや自分以外の他者であるからこそ、その命と存在を尊く思うことが介護の本質ではないか。人はひとりで生きてはいけないのだから、人を支えるのが当たり前だと考えるところが、他者に手を差し伸べることにつながるのではないだろうか。
人間尊重の価値前提
心身に何らかの不便を抱えて他者の支援を求めている人がいる。そうした人々に向き合い、求められる手を差し伸べる役割が求められるとしたら・・・この世で縁があって出会う人は限られている。出会うこと自体が奇跡であるといってよいかもしれない。そこで自分が頼られる時に、どうせなら良い結果を出したい。

勿論私たちはそのことで生活の糧となる金銭対価を得ている。それは何らかの支援を必要とする人に手を差し伸べるプロと言えるのだから、当然のことながら結果責任が生じる。そうした結果を出すための支援の具体的方法、介護サービスの品質。対人援助のプロとして私たちは、根拠を持ってそれらを創造し続ける必要がある。

だがその前に人としてしなければならないことを解かっていないとどうしようもないと思う。根拠ある介護と結果責任・・・それもこれもすべて人が人を敬うこと、人として他者を愛することから始まるのだろうと思う。

よく言われることとして、「努力が報われる社会であってほしい」という考え方がある。

しかしこの世の中には努力するチャンスを与えられていない人も存在するのだ。心身に重たい障害を持って生まれ落ちた人は、その機会に恵まれない。だからと言って人としての価値がないという考えは間違っている。

人は人として存在しているそのことのみに最大の価値があるのだ。それが人間尊重という考え方であり、社会福祉の価値前提でもある。だからこそハンデキャップを持つ人に、ハンデのない人が手を差し伸べるのは当然であると考えるべきではないか。

究極的に言えばそれは人間愛ということだろう。他人であっても人として人を愛する気持ちが介護支援を支えるのだろうと思う。

愛のない介護は、科学のない介護より始末が悪いと思う。
筆者の講演予定はこちらからご覧ください。講演依頼はあかい花公式Web右上のをクリックしてお気軽に相談・お申し込みください。

CBニュースの連載・快筆乱麻masaが読み解く介護の今112,「新人が成長・定着できる職場づくりは不断の努力で」が4/28・10時にアップされました。
masaが読み解く介護の今112
人材確保のポイントは、人集め以前に定着する職場づくりです。こちらをクリックして参照ください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

ありがとうは希望の言葉



僕が大卒の22歳で初めて特養の仕事に就いた。しかしその当時の僕は、対人援助・高齢者介護についてはズブの素人だったといってよい。

勿論大学で社会福祉を専攻し、社会福祉やソーシャルワークについて専門的に学んで知識はそれなりに持っていた。

しかし実務経験もなく人生経験も浅い22歳の若造が、高齢者の方々の相談援助実務に長けているわけがなく、知識があっても技術が伴っていないのが当時の実情だった。

しかも就職した特養は、その年に新設オープンしたばかりの社福特養で、オープニングスタッフは看護職員を除いてほぼ全員実務経験のないスタッフだった。

特に僕はたった一人配置された相談援助職だったために、職場内で相談したり、アドバイスをくれたりする先輩もいなかった。

だから僕の相談援助実務の先生は、そこで暮らしている利用者の方々であった。失敗もたくさんする中で、特養利用者の方々に様々なことを教えていただいた。

そんな経験と実力のない僕に対しても、特養に住んでいた高齢者の方は温かく接してくれた。そしてほとんど実効性の上がらない支援しかできない僕に対して数多くの利用者が、「ありがとう」と声をかけてくださった。

僕にとってその時のありがとうは、お礼・感謝の言葉というより、励ましの言葉のように聞こえた。そしてその言葉が至極僕にとって耳触りがよかった。
ありがとうは温かい言葉
利用者の方々が口にするありがとうは、本当に温かい言葉だった。

そんなふうに僕自身は他者の善意の行為に対して、「ありがとう」と素直に言える人間だろうか・・・残念ながらその言葉を口にすることができず、ありがたい気持ちを素直に表現できないことがすくなくない。

そのことを素直に反省したいと思う。そしてこれから先の人生では「ありがとう」という言葉を数多く口にできる人間でいたい。

今、多くの職場では新人職員さんが仕事を覚えている最中だと思う。先輩職員の皆さんは、そうした人たちに仕事を教えながら、時には叱ったり励ましたりしていることだろう。

だがその時、一つでも成果を上げたら温かい声をかけてほしい。「あなたのおかげで○○さんが、とても喜んでおられたよ。ありがとうね」と言ってあげるだけで、仕事に不安を持っていた新人職員さんが笑顔になることができる。温かい気持ちになることができるのだ。

ほとんどの新人さんが今、頑張っている最中だ。だからこそ「頑張ってね」は禁句にしてほしい。そのかわりに、「ありがとう」と言ってあげてほしい。

その温かい言葉によって、新人職員の方は希望が持てるだろう。そしてリタイヤすることなく、あなたの職場に定着し、将来人財として育ってくれるのではないだろうか。

ありがとうは温かい言葉であると同時に、希望の言葉だと信じてほしい。

だからどうぞ、ありがとうと言える人であってください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

日本人が忘れてはならない日



東日本大震災から14年の今日・・・この日は祈りの日だ。

3.11は金曜日の14時46分18秒に発生した地震から始まった。それに引き続いて発生した津波・原発事故・・・信じられない光景が私たちの目の前に広がっていた。

今日までに関連死を含めた死者数は2万2千人を超えているそうだ。それは大切な人を失ったことを哀しむ人を、2万2千人の何倍も生んでいるということだろう。

月日の流れが哀しみを癒してくれるというのは嘘だと思う。あの日以上に哀しみを深くしている人が何人も居られるのだと思う。

昨年初めて訪れた岩手県釜石市では、3,000人近い小中学生のほぼ全員が避難し奇跡的に無事であったことが釜石の奇跡として伝えられている。しかしその一方で同市ではは1,000人以上が亡くなっており、その中には避難所とされていた公共施設に逃げ込みながら、津波に巻き込まれて亡くなったたくさんの方も含まれている。

その場所には現在、慰霊のオブジェクトが立てられているが、当初亡くなられた方々の名札が飾られていたが、家族別に並べられていなかったそうだ。それを見て多くの方が、家族と離れ離れは可哀想だと、家族別に並べ替えたというエピソードも聴いた・・・被災地には、そのような様々なエピソードが現在進行形で語られているのだ。
東日本大震災
東日本大震災では、私たちの仲間である介護関係者の方々も数多く犠牲となった。介護サービス提供中に利用者と共に命を失った方も少なくない。

津波に巻き込まれて際に、握っていた利用者の手を放してしまい、自分だけが助かったことを今も悔やんでいる人も居た。あなたの責任ではないし、あなたは最善を尽くしたと励ます言葉が、その人に届く日はいつになるのだろうか・・・。
東日本大震災
志半ばで命を失った人に向かって、今この国で生き続けている私たちは、胸を張って何かを訴えることができるだろうか・・・その人たちがまたこの国に生まれ変わりたいと思える国を創る力になっているのだろうか。

もう一度そのことを深く考えたい。そしてあの震災で亡くなったすべての方に対し、心よりのご冥福をお祈りしたい。

日本人にとっての3.11は永遠に祈りの日である。
3/13(木)14時〜90分間の予定で、どなたでも視聴可能な無料オンライン講演を配信します。
つなぐ手ケアマネセンターオープンセミナー
アセスメントに必要な考え方と方法論
を視聴希望される方は、上のチラシのIDとパスコードを入力してZoomに入ってください。事前申し込みは必要ありません。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

言葉を変えるだけで意識が変わることもある



介護保険制度が創設された当時、特養は措置から契約に時代に変わると云われ、それまで被措置者とか入所者とか言われていた方々を、「利用者」と呼ぶように指導された。

それが大きな間違いだったと僕は思っている。

この時にきちんと、介護サービスを利用する方々は単なるユーザーではなく、「お客様」であると呼び、介護事業関係者のすべてにサービスを利用する方々は顧客であるという意識を植え付けるべきだったと思っている。

それをしなかったツケが今随所に現れており、顧客意識を持てない従業員による利用者に対する不適切なタメ口対応・横柄な態度で乱暴に行われるケアがいつまでたってもなくならない。
顧客対応
そもそも顧客(こきゃく)とは、自社の商品やサービスを買い求めに店を訪れる人、あるいはサービス提供を必要としている人(需要者)を指す言葉である。介護事業で言えば、介護サービスを利用する人、利用を必要としている人はすべて顧客である。

そしてそうした顧客が存在することによって、介護事業者は収入(介護給付費及び利用者自己負担金)を得て事業経営できるし、職員はその収入を原資にした給与を得ているわけである。

そうした状況を理解して、介護サービス利用者=顧客であるという意識を持つことができない輩は、相当のへそ曲がりか、脳みそが腐った人間としか言いようがない・・・しかしそうした輩がタメ口対応がフレンドリーな関係を生むとか、家庭的で親しみやすい関係につながると考得ているのだ。そうした知性の低いバカ者どもが利用者の心をあらゆる場面で傷つけている。

そしてその延長線上に毎月のように全国のどこかの介護事業者における虐待報道に繋がっている。そうならないようにするための方策の一つとして、介護事業者で日常的に使っている「用語」を変えてみるという手がある。

例えば入所施設や短期入所の「入退所」という言葉・・・これはいまだに収容などの負のイメージが付きまとう言葉に思える。この言葉を「チェックインチェックアウト」と変えるだけで、従業員の意識の変化が見られるようになった施設もある。

先日、僕がサービスマナー講演講師として訪れた社福でも、この言葉を推奨して実践したところ、朝礼等の引継ぎ時に、従業員がごく当たり前のように、「本日○○時に、○○様がショートチェックインします」・「ショートステイの○○様は、本日○○時にチェックアウト予定です」とアナウンスされ、それに伴って従業員の顧客対応のマナー意識が向上したとの報告があった。

さらに顧客である利用者や利用者に対しても、「本日○○時にチェックアウトしますので、ご自宅に○○様が到着する時間は○○時の予定です」というふうにアナウンスすることに繋がって、利用者や家族もまるでホテル利用しているような気分になり喜ばれているという報告もあった。

そんな小さなことから意識の変化が生まれる可能性があるので、試してみてはいかがだろう。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

風はどこに吹き抜けるのか



今年も残すところ、今日を入れて7日間となった。このブログ読者ん皆様は、残り少なくなった今年をどのように過ごす予定だろうか・・・。

僕は今、札幌行きのJR特急に乗りながらスマホでこの記事を更新している。

今日は午後から札幌市内の社福法人で職員研修の講師役を務める予定だ・・・年末のこの忙しい時期に、わざわざ時間をとって僕の話を聴いてくださる方々の貴重な時間を無駄にせず、しっかり明日からの実務につながる話をしようと思う。

今日は25日なのだから、僕の話が受講者の方々にとってのクリスマスプレゼントになってほしいと願っている。それも僕次第ではある。

振り返れば今年も全国様々な場所で講演を行い、様々な方々と出会うことができた。コロナ禍を経て新しい世界となった感もあるが、人との出会いが貴重であることには変わりない。

来年もまた、新しい出会いや旧交を温める機会がたくさんできるように祈っておこう。
見えない絆は消えない
花はいつか枯れてしまうけれど、目に見えない人の心のつながりは、つながろうとし続ける限り消えることはない。

そういうふうに人は人と繋がり、人を支え支えられて生きている。それを大事に思い続けたい。

これから年末・年始にかけて、それぞれの立場で忙しく準備を整えなければならない人が多いと思うが、気持ちが焦ってもどうしようもない。毎年せわしなくこの時期を過ごしても、坦々と時は刻まれ、その流れの中で僕らの日々の営みも刻まれていく。

それは僕たちの生きる証をこの世に刻んでいくことでもあり、できることを確実に行うように日々精進に努めよう。

年が変わり、松が取れれば早速様々なものが動き始める。介護関連で言えば、2027年度の介護保険制度改正に向けた議論が本格化して行く・・・財源事情がより厳しくなる中、介護業界に向かって厳しい逆風が予測されるが、それに立ち向かって正論でもって風向きを変えていかねばならない。

その為には、何より介護事業がこの国で生きる人にとって必要不可欠なものであることを証明せねばならない。

介護事業とは日本社会を支えるセーフティネットであることを国民にアピールし、理解してもらわねばならない。

介護離職が大きく問題視されているように、身内の介護を個人の問題とせずに、社会全体で解決に導くことがすなわち日本経済を支えることにもなるのである。

だがそれを理解してもらうためには、介護事業が存在するだけでは駄目である。介護サービスの品質が当然問題となり、それが人の暮らしを支えるに十分なものであるかが問われてくる。

不適切サービスが報道されるたびに、それが氷山の一角で、隠れた不適切サービスがどの介護事業にも存在しているのだと思われるような状況をなくしていかねばならない・・・虐待防止未実施減算とか身体拘束廃止未実施減算なんていう恥ずべき減算が新設されないサービスを実現していかねばならないのである。

僕たちの仕事は、目の前にいるわずかな数の方々にしか手を差し伸べることができない仕事である。そんな小さなことしかできないけれど、そこにいる誰かを幸せな気分にできる仕事でもある。それを確実に実行していることで、幸せになった方々の姿を見て、それを喜んでくれる人がどこかに数限りなく生まれるかもしれない。

そんなふうに、小さなことを大きな愛をもって行っていきたい。そうした思いを持つ人と繋がりあって、大きな愛を描いて生きたい・・・。
メディカルサポネットの新連載、菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営12/19アップされました。
菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営
第1回目のコラム記事は、「厳しさを増す介護事業〜経営者に求められるもの」です。是非文字リンク先をクリックして参照ください。
どなたでも無料登録して全文を読むことができます。登録がお済みでない方はお早めに登録してください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

介護という職業に導く見えざる手



もしかしたら世の中には楽な仕事というものがあるのかもしれない。

しかし多くの一般人は、そのような仕事を得ることは困難であり、合法的に生活の糧を得ようとするならば、そこには苦労や痛みも伴うことは当たり前である。

食うために働くのだから、我慢して頑張る場面も多々あるだろう。自分にとって受け入れがたいことも、仕事だから仕方がないとあきらめて受け入れざるを得ないこともあって当然だ。

そんなふうに、仕事をし続けるということは決して楽なことではない。

だが仕事をし続けることが苦行でしかないとしたら、人生とはなんとつまらないものになってしまうのだろうか・・・それはこの世に生まれ、生きる意味が苦行であるということになってしまう。

人が人としてこの世に生まれ、生かされているという意味はもっと他にあると信じたい。

誰しもが必要な命としてこの世に存在するのだと信じたい。そう信じて生きる方が希望ある生き方ではないだろうか。

生きるための仕事も、ただただ苦行であるだけではなく、自分にとって意味のあるものにしたいと思う。その為には、自分自身が積極的に仕事の喜びを見出す必要があるのではないかと思いながら、日々の仕事に向かい合えることに感謝している。

例えば介護という仕事に就く者が、心身に障害を持つ人々を上から目線で見下すのであれば、そこには何の価値も見いだせないつまらないものになってしまうように思う。

心身の障害を抱えて生きる人たちも、人としての価値は健康で障害を持たない人と何ら変わりないと考え、介護を必要とするすべての人がひとりの尊厳ある人として敬われ、健康で障害を持たない私たちが、その人たちの暮らしに関わり不自由な部分に手を貸すことができることに喜びを見出すことができれば、介護を受ける人・手を差し伸べる人の両者が幸せになれるのではないのか。

それが豊かな暮らしと呼ばれるものに繋がっていくのではないか。

私たちの喜びは、私たちが差し伸べた手を介護を必要とする人が笑顔で握ってくれて、頼ってくれることによって介護を受ける人自身の笑顔と豊かな暮らしにつながることだ。

そういう結果があれば、介護の職業に就く動機づけなんてどうでもよい。その動機が偽善であっても何ら問題ない。

だが一度介護という職業に就いたならば、その仕事をあなた自身が選んだのではなく、あなたは介護という職業に選ばれたのだと思ってほしい・・・あなたは必要とされていたのだと思ってほしい。
介護という職業を選んだ意味
偶然ではなく、必然としてあなたは介護という職業に選ばれているのだと信じてほしい。

なぜならそれはあなたの単なる仕事ではなく、生き方そのものにつながるからである。

人の暮らしに寄り添うことで、自分以外の誰かの人生に深く介入し、結果的に介入した相手の人生の幸福度に大きな影響を与える介護という職業は、見えざる手によって導かれた人が就く職業であると考えたい。

その為に私たちはこの世に生れ落ち、生かされているのだと信じたい・・・それが介護という職業に出会い、長年そこで生かされて切る僕自身の思いでもある。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

利用者の心を護ることは、自らの心を護ること



月曜から愛媛県松山市と四国中央市に滞在し、昨日夜8時過ぎに登別の自宅に帰ってきた。

4日ぶりに戻った北海道は、愛媛県より10度近く気温が低いのでさすがに寒く感じるが、今年はもう道外出張はないので、寒い北海道で年を越して寒さや雪が当たり前の感覚になっていく・・・これも毎年のことである。

道外出張がないといっても、年内における道内での出張講演はまだ複数予定している。

実は今日も朝早くに自宅を経ち、自家用車で約1時間走って苫小牧市に滞在している。苫小牧市市民会館で行われている令和6年度・日胆地区老人福祉施設職員研修会で、13:20〜120分講演を行う予定があるためだ。

この時間からの講演だと、昼少し前に自宅を経てばよいのであるが、午前中に北海道老人福祉施設協議会の瀬戸会長が、「令和6年度制度改正の検証」というテーマで講演を行う予定になっていた。

瀬戸会長はかねてからの知り合いで大変お世話になっている方である。その会長がどのような制度改正の検証を行ってくれるのかに興味があったし、ご挨拶もしたいと思い、その講演を聴くために早い時間から会場入りした。

先ほどその講演を拝聴し終えたが、さすがに格調高い講演で大変ためになった。今後の参考になるお話で、早く来た甲斐があるというものだ。

さて午後からは僕の講演が控えている。テーマは、「虐待・不適切ケアを防ぐサービスマナー」である。

瀬戸会長のような格調の高い話はできないが、実務に役立つ話をしようと思う。
新しい介護ストーリー
このブログで何度か指摘しているように、虐待を行わないサービス事業者が良い事業者という訳ではないのである。利用者を虐待しない介護事業者というのは極めて当たり前のことであって、非常識で普通でない状態をなくすというのが虐待防止の本当の意味である。

そのことをしっかりと伝えながら、非常識であり得ない虐待行為として、どのようなことが行われているのかという具体例を示したい。そしてその根本原因と予防対策を具体的に伝えたいと思う。

人の心は案外簡単に殺される・・・しかし他者の心を殺した人間もどこかが壊れていく。そして自身が犯した行為のしっぺ返しを受けるかのように、不幸な末路をたどる例は枚挙にいとまがないほどである。

そうならないための当たり前の介護実践方法を伝える予定だ。それは決して特別な方法論ではなく、難しい方法でもないことを理解してもらいたい。

私たちが携わる対人援助という仕事は、利用者の暮らしを豊かにする仕事である。その本来の目的を忘れずに、利用者の暮らしの質を高めるために手を差し伸べよう日々努力することにやりがいを感ずるような健全な心を持ち続ける原動力は、利用者の心からの笑顔ではないだろうか。

そういう意味で言えば、利用者の心を護り、幸福な暮らしを創造することとは、私たち支援者自身の心を護るということではないかと思ったりする・・・。

その為には何が必要かを考えてほしい。

私たちが介護実践の場で求められている姿勢とは、家族のように遠慮ない関係で、馴れ馴れしく接してサービス提供することではないのだ・・・介護支援のプロとして、適切な知識と確かな技術をもって、利用者に向かい合う場の理念を達成する方法論を持つことで、介護サービスの場は利用者にとって、どこよりも安全で安心した暮らしの場となるのである。

対人援助とは「人権」を護ることを何よりも重要であると考えるべき場であることを忘れないようにしなければならない。その基本原則を守り続ける限り、目の前の一人一人の利用者を幸せにすることができ、その利用者の笑顔や穏やかな暮らしぶりを見る家族の幸せにもつなげることができるのだ。

そのように介護という職業は無限に広がる幸せ樹形図を描くことができる職業だと思う。

しかしタメ口対応をはじめとした、サービスマナー意識のない対応は、幸せ樹形図ではなく哀しみの樹形図を無限に広げる元凶になりかねない。

介護の介とは、「心にかける」という意味である。そして介護の護とは、「まもる」という意味だ・・・心にかけて護るためには、自らの心無い言葉で人を傷つけてしまうことを誰よりも恐れる必要があることをしっかりと伝えたいと思う。

さて、そろそろ準備を始めようか・・・それでは受講者の皆様、あらためて会場で愛ましょう。
快筆乱麻・masaが読み解く介護の今
CBニュースの連載、「快筆乱麻masaが読み解く介護の今107・協力医療機関指定義務化で変化が求められる施設対応」がアップされています。文字リンク先を参照ください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

誰かの人生に関わる職業で大切なことは感じの良さ



介護事業者に就職して、何らかの形で介護サービス利用者の方と関わっている人は、介護職であれ事務職であれ、職種は何であろうとも誰かの人生の一部に関わっているということになる。

人によってはその重みを理解できない方もいるのかもしれないが、それは紛れもない事実である。

介護サービス利用者にとってはそれは極めて重大なことで、自分が何らかの生活支援を受ける際に、その担当者や関係者が自分にとって気に入らない場合でも、生きるために我慢して支援を受けなければならないことが少なくない・・・それは心身に障害を持った以後の人生の幸福度を下げる問題に他ならない。

だが、他者の人生の一部に関わっているという実感をなかなか持つことができない人もいるのは致し方ないことだと思う。

そもそも介護の職業を選ぶ動機も様々で、人様のプライベート空間に踏み込んで生活の糧を得ようとしたわけではないのに、何らかの事情で会社が介護事業を行うことになって、そこで自分の意思とは関係なく介護の仕事をするという人も居るだろう。

そういう人にとっては、仕事として利用者に相対しているだけで、他人の人生に関わるという実感は持ちづらいだろうし、そのような考えは大げさと思うだろう。そして介護対人援助社会福祉事業であるという意識を持つこともできないかもしれない。

しかし心身に何らかの障害を持つ人にとって見れば、他者に自分の身を委ねるということは、決して軽い気持ちではできないことだ。

場合によっては、他人に知られたくない・見せたくないプライバシーをさらけ出して手を貸してもらわねば、日常生活が成り立たない人がいるという事実だけはしっかりと認識してほしい。 

特に認知機能が衰えていない女性の高齢者は、若い男性介護職員に下の世話を受けることを恥辱に思う人は少なくない・・・そこまでいかなくとも、何の抵抗もなく自分より年の若い異性に身を委ねることができる人は多くはないだろう。そうした視点を常に持って支援行為に携わることができるか・そうでないのかということが、利用者が支援者を心から信頼できるか否かの分かれ道につながるような気がしている。

また、介護支援を行う人が常に利用者から受け入れられるというわけではないという事実にも向かい合ってほしい。

このブログを読んでくれている介護関係者の中で、介護関連の仕事に就いた以降、利用者や家族、あるいはその関係者から一度も嫌われたことがないと自信をもっていえる方が何人いるだろう。

僕は我が身を振り返ったとき、幾人もの人に何度か嫌われてきた経験がある。自分が良かれと思った行為が、利用者やその家族に受け入れられず、逆に不快感を与えた経験は決して少ないとは言えない。

若い頃は自分が悪いとは思えないのに、利用者や家族からいわれなき非難を受けることを憤ったこともある・・・しかしそれはいつしか間違った考え方であると思うようになった。

僕自身が正しいと思う行為でも、利用者が受け入れてくれないのであれば、それは決して正解とは言えないからだ。

それぞれ異なる感情を持つ人間は、同じ行為に対して万人が同じ反応を示すことはない。僕の正解は利用者の正解ではないわけである。そして対人援助という場では、支援者たる僕たちは何よりも利用者にとっての正解を導き出すことができるプロでなければならないのである。

そういう意味で介護の職業とは嫌われてなんぼという職業ではなく、好かれてなんぼの職業であると考えるべきだ。

なぜなら嫌いという感情は負の感情で、介護支援を受ける顧客自身がそうした負の感情を抱くことは、その人の人生の幸福度を削る結果にしかならないからだ。嫌だという感情を持つ利用者に、そうした否定的感情を持つことは間違いだと説得することに何の意味もなく、それは利用者にさらに嫌な感情を抱かせるだけの結果にしかならない。

だからこそ僕は、介護の職場に新しく入る職員に最初に掛ける言葉は決まっている。その言葉とは、「どうぞ立派な介護職員になる前に、感じの良い介護職員になってください」という言葉である。
感じの良い介護職員になってください
誰かの人生の一部に関わるという意味は、誰かの人生の幸福度を上げることもできる反面、誰かの人生を不幸なものに変えてしまう恐れをも抱いているという意味だ。

どうかその重みを感じ取れる人間になってほしい。そう思えるかどうかが、その人の品格に繋がっていくのではないだろうか。

そう思えるかどうかが、介護の仕事に使命を感じ、誇りを持て続けられる分かれ道にもなるのではないだろうか。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

告白



三十数年前の話であるが、看護師から告白されたことがある。

とはいっても愛の告白ではなく、「さっきまだ息があると云いましたが、実はあれ嘘だったんです」という告白である。

看取り介護の対象者である女性が、数日小康状態を保っていたのに急変したケースがあった。

その女性の死期が迫っているということで、2日間施設内に宿泊していた長女が小康状態の今は何事もないだろうと考え、家の用事を済ませてくると言って一旦自宅に帰った直後の急変であった。

長女の携帯電話にすぐ連絡を入れて、長女が駆けつけるのを待つ間に、看護職員や介護職員は看取り介護対象者のベッドサイドに集まって、「娘さんが、今すぐ来ますから頑張ってください」などと声を掛ける姿がそこにあった。

死期が迫っている女性の意識はなく、反応もないが、聴覚障害がない限り耳は最期の瞬間まで聴こえていると云われるので、それを知っている職員は懸命に声を掛け続けた。

やがて娘さんの乗った乗用車がホームに到着したが、女性利用者の呼吸が止まったのは、娘さんが車を降りてホームの玄関に入り居室に向かう途中のことであった。

その時、看取り介護対象者である女性の手を握り、呼吸と脈拍を確認していた看護師は、女性が息を止めた瞬間にも手を放さず、話しかけることもやめなかった。そして女性の娘さんが「母さん」と言いながら居室に入って、母親の手を取った直後に、「あっ、今呼吸が止まりました・・・きっと娘さんが来るのを待っていたんですね。」と云った。

厳密に言えば、これは事実と異なることだろう。しかしそれは許される範囲の脚色ではないだろうか・・・もともと看護職員に、死の判定を行う権限はない。それは医師が行うものであって、その場に医師がいない場合は、周囲の人々から情報を得て、総合的な判断から死亡時刻は決定される。

しかし実際には、医療機関で0時の見回りに息をしていた人が、3時の見回りには息が止まっていたので、死亡時刻は2時30分にしようなどという判断は普通に行われていることだ。

そもそも事件や事故ではない自然死の場合、死亡時刻などは余り大きな問題ではなく、1分2分の違いが何かに影響するなんてことはない。

さすれば前述したケースで、娘さんがあと一歩間に合わず、娘さんが母親の手を取る前に息が止まったという事実を伝えることに、どれほどの意味があるだろう・・・。

現にこの娘さんは、自分が駆け付けるまで母親が待っていてくれたと信じ、そのことを葬儀の席でも親族に話して、「母さん、ありがとう」と涙していた。

遺された遺族がそうした思いを持つことは、逝った母親にとっても本望ではないのか・・・。

看取り介護の場面では、実にいろいろなことが起きる。その時々で判断に迷うことも少なくない。そうしたエピソードをデスカンファレンスで話し合って、教訓を得て次の機会に生かすことは大事だが、瞬間瞬間に判断しなければならないこともある。
虚構と真実
その時、二つの選択肢があり、どちらの道を選ばなければならない際に、何を判断基準にすべきだろうか・・・僕の答えは、「できるだけ、愛がある方向を選ぼう」である。

2日前から泊って看取ろうと頑張っていたのに、小康状態だからと家の用事を済ますために、母親の元から少しだけ離れたその時間に、母親が旅立って看取ることができなかったという後悔の念を抱くより、一瞬母親の元を離れたけれど、息を止める瞬間には間に合った。間に合うように母は頑張ってっ私を待ってくれた・・・そんなふうに考えられる方が、愛がある方向なのではないだろうか。

そんなふうに誰かができるだけ幸せや笑顔になれる方法を選ぶ方が良いに決まっている。

だからあの日の看護師の言葉は嘘ではなく、看取り介護対象者とその遺族を愛で包む言葉であったと思う。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

対人援助の使命と責任を果たす条件



介護をはじめとした対人援助を職業としている人だからと言って、聖人君子である必要はないし、天使のような優しさを求められる謂れもない。

ごく普通の人が職業選択の結果、何らかの理由で対人援助の仕事を選んだというだけの話だから、いろいろな性格の人、いろいろな価値観を持つ人がいて当然である。そして人間である以上、人に優れたスキルを持つ反面、欠点を持つことも当然である。

そもそも人間は、誰しもが良い面と悪い面の両面を持っているのだと思う。悪い面がある人が対人援助に向かないとなると、ほとんどその適性のある人は存在しなくなる。

悪い面があるとしても、仕事を行う中ではできるだけその面を自覚し、利用者対応にそうした部分を出さないようにすれば良いだけの話だ。

そういう意味では、すべての仕事において人は、良い自分演じ、良い面しか持たない人として自分を取り繕うことがあっても良いのだ・・・というか、そういうことがないと人は生きて行けないのではないだろうか。

対人援助のプロとして働いている人、これから働こうとしている人も、ごくごく普通に社会のルールを護り、礼儀をもって他者に接することができれば十分である。それができないというのであれば、すべての社会生活に向かないという意味であり、どんな仕事に就いても問題を引き起こしたり、長続きしなかったりするだろう。

そういう意味では、自らが選んで就いた仕事においては、職場の理念を理解し、ルールを護り、パフォーマンスを高めるという努力は欠かせないという理解は必要とされる。

仕事とは、生活の糧を得る手段でもあるのだから、仕事の目的を達するために自らを律する心構えも当然必要とされるのである。

自らを律するために、自らの身に鎖を課す必要もある。動機はともかく、他者の暮らしに介入する対人援助の仕事を選んだものとして、自分自身に鎖を課し、それに耐える義務があるのだと思う。

しかし自分が自分に課した鎖ほど、重たい鎖はないことを忘れてはならない。 

特に対人援助の仕事というものは、他者のプライベート空間に深く介入し、本来他人に知られたくない様々な情報を取捨選択しながら関わっていくという特殊な職業だ。それはまさに、『重き荷を負うて、遠き道を行くがごとき職業』である。

対人援助の仕事を職業として選んだ人は、知らず知らずのうちにそうした道を行くにふさわしい者として選ばれし者だと考えてほしい。私たちは、選ばれし者として自分自身に鎖を課し、それに耐える義務があるのだと思いたい。

そして対人援助の仕事の究極の方針は、シンプルに3つ考えるべきだ。

ひとつは顧客満足。対人援助サービス利用者の満足感を最大限に高め、ゆえに満足感を低下させるような要素は徹底的に排除し、予防措置を最大限に敷いておかねばならない・・・利用者の人権を侵害する、無礼な対応を予防するためのサービスマナー教育は、そういう意味でも重要となる。

いまひとつは、費用対効果。私たちの仕事のほぼすべては、税金と保険料という国民負担で賄われている。私たちの仕事が国民には見えにくいものである以上、私たち自身が常に費用対効果を意識し、いかにして活きた金を使うのかを意識しなければならない・・・対人援助に直接携わる従業員の業務改善の設備に使う費用や、利用者対応の正しい方法を伝え続ける教育に掛ける費用こそ活き金になることを理解せねばならない。

最後の一つは、結果責任・結果指向。一生懸命やることだけを目的にしない。利用者に対し結果を約束し、結局何ができたのかを常に検証しなければならない。

それが人の人生、人の暮らしに関りを持つ職業の最大の使命と責任ではないかと思うのである。
快筆乱麻・masaが読み解く介護の今
CBニュースの連載、「快筆乱麻・masaが読み解く介護の今」の最新記事が昨夕アップされました。是非参照ください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

広島の空・長崎の空2024



今年もこの日がやってきた。

広島に続き、長崎に米軍の原爆が投下されてから今日2024年8月9日で79年になる。人類史上2発目の原子爆弾が投下された日、被爆地では7万人以上が犠牲になった。

日本人はそのこと決して忘れてはならず、そうした戦争の悲惨さを後世に伝えていかねばならない。
長崎原爆資料館
広島と長崎に原爆が落とされた日には、毎年犠牲者を悼み、平和を祈る式典が両市で開催されている。

ところが今年の長崎原爆の日の平和祈念式典には、長崎市がイスラエルを招かなかったことから、G7の大使らが欠席することが話題となってる。

慰霊と追悼の場である式典に、そのような政治を持ち込んでどうするというのだろう。

かつてアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)は、「平和は力では保たれない。平和はただ理解し合うことによってのみ達成されるのだ」と述べたが、歴史を振り返っても、理解し合うことを最も苦手としているのは時の権力者と政治家であることは明白だ。

そんな政治家は、平和祈念式典には最も似合わない存在ではないのか。どちらにしても平和祈念式典を政治利用するのはやめてほしい。

いっそのこと今後は、政治家の招待をやめて、一般市民だけの参加でよいのではないのか。式辞も首相や市長が行うのではなく、遺族代表や未来の平和を担う若者代表にしてはどうか・・・。

そんな思いを強く持った2004年の長崎原爆の日である。

8/6の広島原爆の日と、8/9の長崎原爆の日を挟むように、昨日8/8には日向灘を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生し、「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が発表されている。

それは何かを暗示するかのような気がしてならない・・・。

この国は僕らの世代が現役の最中だけでも大震災と呼ばれる災害が2度(阪神大震災東日本大震災)も起こっている自然災害大国である。

自然災害は避けることはこんなだが、人が引き起こす戦争・紛争は、人によってなくすことができるはずだ。

そういう思いを強くすべき式典が、政治で艶消しにされるのはやりきれない。

せめて自分自身は、まっさらな気持ちで、あの戦争で亡くなったすべての方に慰霊の気持ちを込めて天に祈ろうと思う。

そして全世界に平和が訪れることを強く祈りたいと思う。

長崎の皆さんにエールを込めて創った動画、「LOVE明日につなぐ介護・長崎編」を貼り付けておくので、是非参照願いたい。



※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

他者を幸せにできる条件



福祉や介護という言葉からイメージする言葉の一つに、自己犠牲というものがあるとすれば、それは間違ったイメージであると云いたい。

困っている人が居るときに、自分が手を差し伸べることができるのであれば、手助けするのは当たり前のことだ。だからと言って手助けするものが自己犠牲を強いられるわけではない。できる範囲で、できることをすればよいのである。

また福祉援助によって対価を得ることを心苦しく感ずる必要もない。

ずっと昔、福祉が貧困を救うこと(救貧)を中心に考えられていた時代であれば、お金に余裕がある人が、自分の財産をなげうって、貧困者に手を差し伸べればよかっただろう。そこに心身の障害がある人も存在したとすれば、ボランティア精神で、対価を求めず手を差し伸べることが求められたであろう。

しかし現代社会の福祉ニーズは多様化している。特に高齢者が増える社会では、自然現象である「老い」に向かい合って、様々なニーズが生じ、それに対して多様なサービスが求められる。

そこでは義務や責任が伴わない奉仕の精神で行われるボランティア活動ではなく、知識と技術を提供して対価を得ると同時に、義務と責任が伴うプロフェッショナルが求められるのである。

プロは金銭で出力するのだから、より高品質なサービスに対しては、より多くの対価を支払うという考えが生じても何ら不思議はない。

一方で、国家はすべての国民の福祉を考える義務があるのだから、サービスを買う対価を持たない人、支払う対価に乏しい人に、国としてどう手当てするのかを考えなければならない。社会福祉の光は、そのようにして社会の隅々まで届けられるべきであり、その際にきちんと選択肢が広げられれば良いだけの話である。

対人援助の場面では、ひとり一人の人間やその暮らしに向かい合って、その時々で自分自身が判断して行わねばならないことが多々ある。その判断に迷ったときに道しるべにすべきは、「良心」である。

しかし良心といっても、それは自分をないがしろにした思いのことではない。

良心・・・一つにそれは、人のためにいいことをしたいと願う心であり、もう一つには、自分が幸福になりたいと願う心でもある。
幸福
そのように書くと疑問を持つ人が居るかもしれない・・・例えば、もし誰もかれもが自分が幸福になることばかり考えていたら、世の中はどんどん悪くなるんじゃないかという風にだ。

もしも自分の幸福だけを考えるなら、そういう事態も起こってくるかもしれない。しかし一方で、自分が不幸にうちひがれているとしたら、他人に何かをしてやろうとは思えないだろう。

自分が幸福だと感じられたときに、人は優しい気持ちになることができて、自分の幸福を他人に分けてやることができるだけのゆとりを持つことができるのではないか。

だから自分自身を幸せにすることはとても大切なことだと思う。自分が不幸な人と比べて、裕福であったり、恵まれた環境にあることに罪悪感を持つ必要はない。

対人援助に携わるプロフェッショナルにとって、それはとても大事な事である。例えば、手を差し伸べるべき人に対し、その置かれた環境に嫉妬を覚えるほど劣悪な状態にいる人が、適切な支援行為を行うことができるだろうか・・・それは至難の業である。

介護事業経営者は、そうした側面からも従業員の生活レベルを考えなければならない。人に支援の手を差し伸べるにふさわしい精神状態を保つことができる生活の糧を渡しているのかということは、常に関心事項に入れておかねばならない問題である。

そもそも労使の関係は、winwinの関係でなければならない。

お互いが調和を図り、双方がハッピーになるために必要とされるのが労務管理であることを忘れてはならない。

そうであるからこそ、必要な対価を渡す方法、その対価の財源となる収益を得る方法を、労使共通意識をもって考えることができる環境づくりに努めていかねばならない。

だからこそ収益・お金の話をすることを避ける必要はないし、自分自身の幸福追求など下世話な問題だと卑下する必要もないのである。

きちんと対価を得て、自分自身が幸福になった状態で、人としてごく当たり前に、困難な状況に置かれている人・おかれる可能性のある人に、自分のでき得る範囲で手を差し伸べれば良いのである。

背伸びも無理強いもすることなく、ごく自然にすべての人々が、そう考える世の中になってほしいものである。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

絶望しない介護を創り出すものは何か。



この世の現実とは不条理なものである。

あってはならないとされる差別不公平不平等なんて、実際にはそこかしこに存在している。

格差なんて、ないものを探す方が難しい。

だからこそ人は夢を追う。夢を食って生きるのだ。夢を見る力を失った人生は地獄だ。夢はこの世の不条理を忘れさせてくれるものであり、夢はこの世界が生きるに値するものだと信じさせてくれるからだ。

そうやって自分を騙しおおせて死んでいけたら、それで本望だと僕は思う。

夢は、時として目標という言葉に置き換えられる。夢と呼べば実現不可能な幻想とイメージしてしまうが、同じものを目標と呼べば、手が届くもの・かなうものと思いこめるからだ。

そうした目標に向かう最中に、挫折して絶望という形でピリオドを打つことはたやすい。

しかしそれは戦い抜いての敗北とは意味が違う。絶望は戦いからの逃避であり、ある意味、魂の自殺行為だ。

絶望によって前に進もうという意思にピリオドを打つたびに、人は自らの生の品位を貶める・・・それを繰り返すたびに、人生は腐っていく。

希望は向こうからやってくるとは限らない。迎えに行くのを待っている希望もある。そうであるからこそ前に進めば必ず開ける未来があると信じた方がポジティブだ。

金も才覚もなくとも、今日まで僕が曲がりなりにも一つの業界で生きながらえてきた理由は、絶望禁忌としてきたからである。

それは決して理想論ではなく、僕にとっては現実的思考だ。
絶望と希望
僕たちは対人援助の場で、感情ある人間と向かい合い、その人の暮らしという現実に介入してきた。そこに抽象論が入り込む余地はない。理屈をこねくり回しても、手を差し伸べる具体的方法論がなければ、何も意味をなさないのが対人援助だからである。

そこでは課題解決の手掛かりは、暮らしの場・対人援助の場という「現場」にしか存在しない。頭で想像した状況について議論したって始まらないのだ。

なにより生の現実をこの目で見ることが大事であり、それ以外の方法で答えは見つけられない。

何をすべきかは、国や制度が教えてくれるのではなく、利用者が示してくれるのである。

介護保険制度や介護報酬体系は、年数を経ても成熟せず、ますます複雑になるだけである。それで利用者に寄り添う方法が深化したとか、利用者のQOLが良くなったという事実はない。

それはそうだ・・・生の現実を観ることのない人々が、机上の論理で創り出すものが、正しい答えにつながるわけはないからだ。

だからこそ制度や法令は良いところ取りをして、斜めから見つめていた方が良い。法令は護るが、それで何か良い結果が引き出せるとは思わず、報酬を得る手段としてそのルールから外れないように、そろそろと進む目安と思うだけでよい。

地域住民及び利用者の福祉やQOLの向上とう結果は、それとは別の場所で僕たち自身がエビデンスを生み出して勝ち取るしかない。

その辺の分別は持っておこう。LIFE科学的介護情報システム)によってエビデンスが生まれるなんて言う神話は横に置いておいて、それは加算収入を得る手段と割り切り、僕たちがそんなシステムが存在する以前から脈々と積み上げてきた実績をベースに、僕たちが対人援助の場で行っていることを、他者に伝わるように言語化・文章化していくことが重要だ。

この業界の人材はピンキリである。質の差が大きいことは主知の事実だ。だからこそピンの人は、その知識や技術は秘伝とせず、キリの人の一部でも引き上げられるように、「伝える技術」をもって、広く情報伝達していく必要がある。

達人が、ごくわずかの人を幸せにしたってしょうがないのだ。幸せになる人の数を増やすために何が必要かを考えてほしい。
メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の波乱万丈!選ばれる介護経営の今月更新記事は、科学的介護情報システム(LIFE)の現状と課題です。
菊地雅洋の波乱万丈!選ばれる介護経営
科学的介護情報システム(LIFE)の現状と課題
文字リンクをクリックしてご覧ください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

介護を続ける人々の使命感



介護業界・・・そしてそこで働く人々・・・決してそれらすべてが純粋無垢で、穢れがまったくないわけではない。

場合によっては、利用者から搾取することしか考えていない介護事業経営者によって、介護という名の闇の中に深く閉じ込められ、悲惨な暮らしの中で孤独な死を迎えざるを得ない人を生み出したりしている。

繰り返される介護事業者における虐待の数々も介護の闇の部分であり、汚いエピソードも決して少なくはない。

働く人の置かれた環境も様々で、ボランティア残業が当たり前とされる事業者もあり、待遇も社会の底辺に近い状況で、休みも満足に取れずに働かされている人も少なくない。それはあたかも経営者が従業員から搾取するかのような醜い経営スタイルである。

このようにこの国の介護業界は、多くの矛盾と欠陥を抱えている。

だが決して綺麗事だらけではない介護業界で、献身的に利用者に寄り添う人がいることも事実だ。

彼らは必ずしも公平ではなく、満たされているとは言えない環境下で、歯を食いしばり、身を挺して厳しい仕事に打ち込んでいる。

そういう人々が何万人もいるのも事実なのだ。

彼らは職場での地位が上がったり、誰かから賛美されたりするのを願ってそうしているのではない。

彼らを、肉体的にも精神的にも過酷な職場に繋ぎとめているのは、何よりも使命感なのだ・・・いきすぎた使命感は、確かにある種の横柄さを感じさせるし、権力誇示(けんりょくこじ)もつきまとう。
使命と誇り
だが体の芯から冷え込む寒い夜や、そぼ降る雨の中であっても利用者宅を訪問し、白い息を吐き、凍える指先を温めながら地域を巡回したり、人が寝静まっている夜中に、一人でたくさんの施設利用者のケアをワンオペ状態で続けていられるのは、権力や金銭に対する憧れではない。

誰しもが眼をそむけたくなる汚物に向かいあい、悪臭に耐え、吐き気と闘いながら、短い睡眠時間と疲れ切った体に鞭を打って、誰かの身の回りの世話を行い続ける理由は、誰かから信頼と尊敬を得られると約束されているからではない・・・むしろそのような期待は裏切られることの方が多い。

彼らを動かしているのはすべて、「この仕事をするものが社会に必要なのだ」・「そして自分はそれをすべきである」という使命感にほかならない。

たとえ介護関係者以外の誰一人も認めないとしても、彼らは介護という職業に誇りを持っている。その誇りとは、自らに対する誇りであり、その誇りを失えば仕事を続けられなくなるだろう。

そのような使命感やプライドに頼ってはならないことは言われるまでもない。介護経営者であれば、それに見合った対価を渡す努力をしなければならないこともわかっている。

しかし決して楽をして金を稼げる職業ではない介護の仕事には、使命感を抱くという、そうした部分も必要だと思う。

介護という仕事は、心身が不自由で自分の不利益を他者に訴えることができない人に向かい合うという一面がある。その時には介護者自身が何をすべきか、そのすべての決定権を持つことができるケースが多々あることから、それを権力だと勘違いしてしまうリスクがある。そしてそのように誤解したとき、とめどない腐敗が生じ始める。

そうした密室における決定権を、権力であると誤信している介護支援者がいないわけではない。腐ったミカンの方程式のように、どんな組織であっても、尊厳を失っている、あるいは誤った考えの持ち主は存在する。

腐敗した介護支援者は、多くの場合、介護という職業に対してよりも、所属する、あるいは所属していた介護事業者という組織そのものに絶望し、そのことへの不満が腐敗の原因をつくっている。

しかし腐敗した理由に、一片の正論があろうとも、腐敗したという事実そのものが負けである。そこから正義は生まれない。だから腐ったミカンは箱から取り出し、捨て去らねばならないのだ。

そうしない限り、その腐れに侵されるのは介護サービス利用者になってしまうのである。

そうしないために、私たちは介護という職業に使命感を持って関わり、利用者の暮らしを支える必要があるのだ。

介護サービス利用者を支えること・・・それは国を支えることと同じ意味だ。

国は見えない。だが利用者は見える。ひとり一人のために、ひとり一人が働いている。どれほど目立たない、どれほど地道で、毎日同じ繰り返しで終わりのない行為であっても、それがひとり一人を支えている。

人は自分のための人生を歩む。自分と自分を取り巻く、家族や友人の小さな輪の幸福を願う。幸福はしかし、収入や地位、権力のみではない。自分に問うこと、自分の存在、自分の歩いてきた道が、誰が決めたものでもない自分自身のルールを逸脱していないかどうか・・・ルールに外れていないことを確信することもまた、幸福をもたらす。

僕は自分のためにソーシャルワーカーとなった。その中で社会福祉援助の専門職としてのルールを外さなかったことは誇りであり、幸福である・・・そう言える仲間を、少しでも多く創りたい。

そういう後輩を一人でも多く育てたい。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

思いだけで飯は食えないというけれど



昔々、介護保険制度は社会保険なんだから、社会福祉ではないという大学教授が居た。

その教授の話を聴いた時抱いた疑問は、『高齢者介護の制度を社会福祉から除外することが国民の審判なしにできるか?』ということである。

介護保険制度の創設時に、社会福祉から高齢者介護を除外することであるなんて言う政治家はどこにも存在していなかったし、そうした議論は介護保険制度創設を審議する国会で一度も行われていなかったからである。

高齢者介護を社会福祉制度から除外するのであれば、それが果たして許されるのかどうかという国民審判を受ける必要があると思った。それをテーマにした総選挙が行われていない限り、そんなことはあり得ないだろうと感じた。

そういう意味で、その教授の意見は独断と偏見に満ちた高慢ちきな考え方に過ぎないと思った。しかしそうした傲慢な大学教授が国の審議会の委員を担い、介護事業者団体等の主催する研修会で堂々とそうした乱暴な話をし、なおかつその話を鵜呑みにする関係者もいたのである。

それは介護保険制度が施行された2000年頃のことだ。

だが実際には介護保険制度の創設は、社会保障構造改革の一端として行われたものであり、社会福祉と高齢者介護を切り離すものではないことは明白である。

社会福祉の「福祉」とは、社会の人々にとっては権利である。それに対して社会保障の「保障」とは、人々によって構成された社会として果たすべき組織的な責務(義務)を意味する。

国民の福祉という権利を、国は社会保障という形でその実現を図ることで、国家としての責務を果たすのである。

そういう意味で、国家が人権を護るために存在する限り両者は切り離すことができないものであり、社会保障構造改革の中で創設された介護保険制度は、社会保険方式を取り入れた社会福祉を実現する制度と結論付けてよいものである。

このように障害者福祉の問題は人権の問題であり、人権の問題は社会福祉の問題である。そして社会福祉の問題はすなわち社会保障の問題でもあるのだ。他者を思う心
ここで今一度確認してほしいことは、人はみな人として暮らす権利を生まれながらに有しているということだ。心身に何らかの障害を抱えた人も、障害のない人と同じ権利を有しているのである。

ハンデキャップがあって人並みの暮らしを送るために支障が生じている人がいるなら、それを補うべき責任が国家にはあるのだ。そしてその責務を果たすために創られた制度やシステムの中で働く専門職は、ハンデを持つ人の人権をとことん護り、人間として尊重され、豊かな暮らしを送ることができるように支える使命を持つのである。

そうした使命を持つ専門職に、「」がなければ、制度もシステムも、援助知識も技術もみな空しいものになる。

社会福祉の価値前提は人間尊重なのである。それは人としての存在そのものが尊いものであり、能力や属性など様々な違いがあったとしても、存在価値に変わりはないものと理解することが根っことなる考え方だ。

そのような価値前提は、世の中の人々が心の底から他者を敬うという心づもりがなければ、存在しないのと同じ状態になる。人間愛というものがそこには不可欠なのである。

社会福祉援助の専門家は、この根っこを忘れてはならない。理屈ですべてを処理しようとしてはならないのだ。

だからこそ・・・。

魂を込めて人に関わらないと、人の心の中の哀しみも苦しみも、そこからなくならないのだ。表面だけを取り繕うアプローチでは、人の心の中の哀しみや苦しみは一瞬姿を隠すだけで、心理の奥底に隠れてしまい、油断をした瞬間に人の心をずたずたに切り裂く結果にしかならない。

そうであるがゆえに、人の暮らしに関わる専門家として、「あなたは決して一人ではありません。私が傍らについています。傍らで愛をつむぎます」という「思い」を持ち、「思い」を伝える支援姿勢が求められる。

科学できない「」が求められるのである。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

対人援助のプロが重要視すべき感情とは何か




対人援助に携わる専門職には、「正義感」が必要だろうか?

しかし正義感とは、自分が正しいと思ったことを通そうとする感情であるがゆえに、正義ではないと感じたものとの対立感情を生む元にもなるものだ。時にそれは他者との摩擦や争いを生じさせる元凶にもなりかねない。

しかも正義とは極めて主観的なものである。自分にとっての不正義が、他人にとっては正義であるかもしれず、自分だけが常に正しい判断をできる神のごとき存在ではない限り、その正義感を拠り所に対人援助に携わることには大きなリスクが伴うといってよい。

対人援助の職業とは、人に向かい合う仕事であるがゆえに、怒りや哀しみ、無力感といったものが澱(おり)のようにたまっていく。そうであるがゆえにある面から見れば澱の深さはベテランの証であり、人間への洞察力を生む源になる。

その一方で、澱をためた者は、過去を振り返ることをためらったり、自分とは直接かかわりのない人間の暮らしに対しては目を閉じてしまいがちになる。それは溜まった澱に自らがおぼれないようにする防衛本能のなせるわざにほかならない。

僕は意識してそうしたベテランの対人援助職にならないように努力してきた。哀しみや怒り・無力感といったものを心の底に残さないように努力してきたつもりだ。
積み重ねた行いが業になる
それは僕自身が対人援助のプロにこだわってきたからだ・・・対人援助者である前にまずは人間であれ、というのは耳には心地良いが、それは即ち、怒り、哀しみ、疲れよということに他ならない。

対人援助のプロであっても、その日常から怒りや哀しみを排除するのは不可能なのだ。

対人援助場面で、いかにも事務的に能率よく作業を行う支援者であっても、無感情でいられることはあり得ない。しかしその感情におぼれたときに、利用者の置かれた状況の判断ミスが生じかねない。だからこそ感情の発露が、心と体の両方を疲れさせることを知り、感情をあらわにしないという姿勢が求められる。

バイスティックの7原則の一つ「統制された情緒関与の原則」もそういう意味を含んだ考え方だと思う。

そうした意味から言えば、対人援助のプロを動かすもの、必要とされる感情とは、「使命感」ではないのだろうかと思っている。

怒りや哀しみや正義感ではなく、使命感が僕らを動かすものだと思う。

しかし使命感を持つということと、人間であるということは、突き詰めて言えば矛盾を生む。この矛盾が対人援助者を疲れさせる。その疲れがバーンアウトに向かわせるかもしれない。

自らがそうならないようにするための僕の選択は、対人援助のプロにとことんこだわることだ。人間である自分と、対人援助のプロである自分とを不可分にすることだ・・・それによって怒りや哀しみを感じても、決して無力感は抱かずにいる。

それが時に、第3者からみれば鼻につく態度と映って顰蹙(ひんしゅく)を買うことになっても、決して変えずにいる・・・そもそもそんな顰蹙なんか屁の河童だ。

あるいは気づかずに、自分の中にも澱は溜まっているのかもしれない。だが大切なのは、今いる場所や関わる人間に疲れずにいることだ。

今自分が存在する場所に、自分の居場所を見つけられたという幸福感がある限り、僕はまだこの仕事を続けられるのだろう。

ときに滑稽な人間関係や、計り知れない人の業(ごう)というものが垣間見えるこの職業を、僕は確かに愛しているのである。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

13年目の3.11



気象変動の影響があるのか、我が国はここ何年か毎年大きな自然災害に見舞われており、今年の元日も能登半島地震で年が明けた感がある。

どれだけ警戒しても自然災害に見合われてしまえば、人の力でできることには限りがある。だからこそ過去の災害を振り返って避難経路の確保など、できることはしっかりしておかねばならない。

介護事業者に課せられたBCPの策定も、義務だから策定するのではなく、それが利用者や従業員の命を護るために必要不可欠だから策定するという考えがなければならない。

そんなことを考えたのは今日が3月11日という日だからである。13年前のこの日、東北地方を中心に起こった東日本大震災は、3.11という数字を私たちの記憶の中に深く刻み込んだ日でもある。

大地震と津波・・・そして原発事故という大災害の記憶は決して消えることはないだろう。

最初の地震発生時刻は2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18.1秒・・・あれから13年目の同じ時刻が目前に迫っている。

今日も僕はその時間、静かに目を閉じて被害に遭って亡くなられたすべての方を悼みながら黙とうを捧げようと思う。

13年という月日が流れても、被災地にはまだ哀しみが漂っている。

去年、岩手県介護福祉士会のお招きを受けて、大きな被害を受けた地域の一つ釜石市に訪れ講演を行う機会を得た。

講演を行った翌日、研修主催者の方々に、被害に遭った場所やその周辺地域を案内していただく機会もいただいた。
東日本大震災から13年
震災から復興した釜石市には、大災害の記憶を忘れないための建造物等が残され、そこには未来への教訓も刻まれている。

しかし人々の心の中には、まだ鮮明な記憶として災害時の恐怖や、失われたたくさんの人々を思い浮かべての悲嘆感が残されていた。

福祉・介護関係者の中には、自分の力が及ばず救えなかった命があることを悔やみ、それがあたかも自分の責任であるかのように感じ続けている人も居る。しかしそれは違うと言いたい。自然に向かい合う時の人の力は本当に小さなものだ。自然災害が発生したその瞬間に、すべての人が最善の判断ができるはずもない。それは神ならざる人間の宿命でもある。

力及ばず救えなかったものを、すべて自分のせいにする必要はないのである。むしろそこで生かされ、今を生きている意味を考えてほしい。

きっとそれも天の意思である。

あの震災で亡くなった方が、もし再び生まれ変わる日があるとすれば、この日本の、その場所で生まれ変わりたいと思う地域づくりを、あなたやあなたの仲間に託しているのだと思う。

僕自身も、自分がここで生かされている意味を、そう考えるようにしている。だからこの国を良くしたいと思う。その為に僕ができることは、自身が関わっている対人援助・介護事業の質を少しでも向上させ、人々の豊かな暮らしを支援できる方法を創り出すことだと思っている。

僕のこのブログも、あの震災の直後に一気にアクセス数が減った。被災地で被害に遭われた方がアクセスできなくなったのと同時に、僕が一度も逢ったことがない、見ず知らずの読者の方の幾人かが、あの震災で命を落とされたのかもしれない。

その人たちがしようと思ったこと、志半ばで逝った人たちが成し遂げたかったことを想像し、その人たちに替わって成し遂げられることができるものがないのかを考え行動し続けたい。

今この時間、この瞬間に生かされている私たちには、それができるのである。そのことを決して忘れてはならない。

あと2時間と少しあと、その方々のことを思って祈りたい。お亡くなりになられたすべての方々に対して、心を込めて手を合わせたいと思う。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

人権尊重の意味を取り違えていないか



介護事業関係者にとって、利用者の人権を尊重することは極めて当然かつ重要な姿勢である。

しかし人権尊重が建前にしかなっていなかったり、その方向性が間違っているのではないかと思われる対応がしばしば見受けられる・・・本来そのようなことがあってはならないのである。

そもそも人権とは何だろう。

自分の思ったことを自由に口にすること、自分の選んだ宗教を信じること、自由に学ぶこと、好きな服を着ること、好きな音楽を聴くこと、病気になったら医療を受けること。これらはすべて私たちが持っている「人権」である。

社会全体が護るべき基準(ルール)にのっとり、行使できる権利が「人権」なのである。

そして人権が「日常」・「あたりまえ」をつくっているのである。そこを忘れてはならない。

対人援助とは、この「人権」を護ることを何よりも重要であると考えるべき場である。
富士と桜
しかし利用者の人権が、いつの間にかないがしろにされているケースは少なくない。特に施設入所者について、実質的人権無視が目立つ。

特養や老健に入所したとたん、本人より家族の希望や意見が優先されることがある。施設利用者であっても、自分のことは自分で決められるのに・・・。

高齢者にとって、子は家族であっても保護者ではない。

子を身元引受人として入所時に契約を交わす施設が多いが、身元引受人が居なければ施設入所できないということはないし、身元引受人を立てたとしても、その立場は主に利用者の死後に残置物引き取り契約を交わしているに過ぎない。

身元引受人というだけでは、利用者の代理権を行使することなんてできないのである。もし代理権を行使する人が別に必要ならば、成年後見人を選任する必要がある。

認知機能に問題がなく、そういう必要がない利用者につては、本人の意思が最優先で尊重されるべきである。

例えば利用者から、「施設に管理を任せた自分の預貯金があることを子供に知らせないでほしい」と頼まれた場合は、その希望は当然かなえられてしかるべきである。

にもかかわらず、「身持ち引き受け人の方に知らせないわけにはいかない」といって利用者の要求を拒む施設関係者がいる。

身元引受人に利用者のプライバシーをすべて開示しなければならないなんて言う法的根拠は存在しない。むしろ利用者が秘密にしておきたい情報を、利用者の意志を無視して身元引受人に流す行為は情報漏洩であり、損害賠償の対象ともなり得る犯罪的行為といえる。個人情報保護法にも抵触するだろう。

なにより利用者の人権を護るためには、心無い態度や言葉で、利用者の心を傷つけないことが求められる。

介護事業者におけるサービスマナー意識が大事であると僕が主張する理由も、そのことが人権を侵害する要素を排除するため必要不可欠な意識だからである。

横柄な態度、無礼な言葉遣いは、しばしば人権侵害につながる問題を引き起こしている。そうした問題を引き起こした後で、「悪気はなく、そんなつもりはなかった」という言い訳は、なんの免罪符にもならないのだ。

だからこそ相手から誤解されない対応の基盤となる、「サービスマナー意識」を浸透させる必要がある。対人援助のプロとして、いつでもどこでも、マナーをもって接することができるように訓練する必要がある。それは介護関係者にとって最も必要とされるコミュニケーション技術であることを理解してほしい。

だから・・・どうぞ、よそよそしさを恐れるより、無礼で馴れ馴れしい対応で、利用者の尊厳や誇りを奪い、心を殺してしまうことを恐れる人でいてください。


※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

富士山をみながら考えたこと



昨日までの3日間、静岡市清水区に滞在していた。

ご存じの方も多いと思うが、平成の大合併以前、清水区は静岡市の一部ではなく清水市としての独立行政地域であった。

清水の次郎長でも有名な地域名が区として残っているとはいえ、清水市という市町村名が消えてしまったことは少し残念な気がする。だがこれも人口減少社会に向かう我が国・日本で必要なことであり、ある種の宿命なのだろうか・・・。

それはともかく静岡といえば、天気がよければ富士山を観ることができる地域である。

昔、東京から新幹線で静岡より西へ向かう際には、富士山の見える側の席を指定したものである。しかしいつの間にかそんなこともなくなり、道中富士山を見ないで通り過ぎることも多くなっていた。

それでもやはり現地に滞在した折は、富士山が見える方向はどちらかを必ず確認して、その姿を見て感動するのが常である。

今回宿泊した清水駅近くのホテルの部屋は、窓越しに正面に富士山が見えるというロケーションの素晴らしい部屋だった。
朝日に照らされた富士山
滞在中、天気も良くずっと部屋からは富士山が見えていたが、11日の朝6時ころに窓越しに見た富士山は、昇ったばかりの朝日を浴びて、朝焼けの中に浮かぶような美しさだった。(※スマホ撮影のため画質がイマイチで、その美しさが十分伝わらないのが残念ではある。

静岡の方は、いつもののような神々しい富士山の姿をみられるのだなと羨ましく思った。

だが日本中にこうした美しい光景はあるのだと思いなおした。そうした各地の美しい風景を観ることができる暮らしや生活習慣を護るのが介護という職業の使命でもあるのではないだろうか。

だからこそコロナ禍が終息していないという理由で、今もなお外出制限を続け、故郷の名所を目にすることさえできない人がいることを憂いてほしい。それほど長期に渡り、なおかつ厳格に制限する権利が介護事業者にあるのかということに考えを及ばせてほしい。

制限は馬鹿でもできるのだ・・・いやそれは鈍感な馬鹿であるからこそ、抵抗なく行うことができる行為なのかもしれない。

しかし例外を作るために工夫したり、何かを実現するために新たな方法を創造することは知恵のある者にしかできない。私たちは介護支援のプロとして、利用者の暮らしの質を護り高める知恵を持たねばならない立場にいる。そのための知恵を備えている専門家であると言えなければ偽物といわれても仕方ないのである。そのことを決して忘れてはならない。

それと同時に、この国では「介護」と称する劣悪ビジネスも存在することに目を向けねばならない。

築何十年も経ち、人が住めないようなオンボロの中古アパートを借り切り、そこに生活保護受給者を住まわせて、訪問介護を支給限度額ぎりぎりまで利用させる事業者が存在する。

地域を巡回しないそのような事業者により、密室化したアパートの一室で命が果てるまで置き去りにされるその人たちは、訪問介護を受けるような身になってからの数年間、故郷の景色を観ることもなくこの世を去っていく。

そんな介護であって良いのだろうか・・・。

私たちの職業は、人を不幸にさせる職業ではないはずだ。人に哀しみを与える職業ではないのである。

そうした当たり前のことを忘れずに、自分が居る場所を見渡し、声を挙げ、アクションを起こさねばならない。介護の闇を深めるものを糾弾し、温かな光をすべての地域住民に届ける努力を惜しんではならない。

介護報酬改定のたびに、同一建物減算がなぜ拡大・強化されていくのかを、深く考えなければならない。

そんなことをホテルの部屋の窓越しに、富士山を眺めながら考えていた・・・。

ところで僕が宿泊していた清水駅前近くのホテルからは、清水港もすぐ近くにあり、そこで水揚げされる魚はどれも旨かった。特に鮪が絶品だった。

そこで9日と10日の夜にたべたものは、僕の食ブログmasaの地と骨と肉の、「日本の先行きは、マグロ経済に左右されます」・「錯乱エビ、アン飲んでトレビアン」で詳しく紹介しているので、そちらも参照してほしい。

参照記事が気に入られた方は、ブログ人気ランキングの文字をぷちっと押して投票にご協力ください。よろしくお願いします。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

平等は自分に対して求めるにあらず



社会福祉援助にとって、無差別平等の精神は決して忘れてはならないものである。

社会福祉援助者自身が、援助対象者を差別することがあってはならないし、自分の価値観が偏見に繋がって業務に支障が出ないように自己覚知に努めて、無差別平等の対人援助を貫く必要がある。(参照:価値観が変化する自分を覚知するために

しかし他人を差別せず、平等に取り扱うべきだからといって、自分が差別的に扱われていることを強調して、自分を差別するなとSNSに書き込んで盛んに訴える人には違和感を覚えることがある。

世の中とは、不平等なものが存在しているものなのである。それを知っている僕たち社会福祉援助者は、利用者がそうした不平等にさらされて不利益を得ないように支援するのが仕事である。

だからといって自分に対して、世の中の不平等な不利益をすべて振りかけるなといっても、それはない物ねだりではないかと思うのである。
世の中は不平等
繰り返しになるが・・・人の世はすべてが平等ではないのだ。それが現実だ。

才能に恵まれている人、環境に恵まれている人もいるけれど、それとは正反対の人々が間違いなく存在している。

だから何だと言いたい。だからこそ人は努力すべきである。自分を向上させられるのは自分でしかないのだ。SNSでその状態を他人のせいにして批判を繰り返して何が変わるのだろうか・・・。

だからといって努力がすべて報われるとは言わない。人間には努力が不可欠であるが、同時に生まれながらの才能や環境、そして運に左右されることも少なくはない。努力が徒労に終わることも少なくないのだ。頑張っても結果が必ずついてくるとは限らないのである。

そういう意味では、実質的な機会の平等を求めるあまり、不本意な結果を得た人に対して、「努力しなかった本人が悪い」と決めつけることも問題ではある。

成功したものは、「自分は運も良かった」と自覚し、他人を思いやる気持ちを決して忘れてはならない。

しかし失敗した者も、ことさら自分の今置かれた状況を不平等だと強調して、それを変えろと訴えるばかりでは、ポジティブなものは何も得られないと思うのである。

平等とは他者を護るために訴えるべきものだ。自分に対してそれを求め、自分が不平等だと嘆いたり、その状態を他者批判に向けるだけの行為は、負け犬の遠吠えでしかない・・・いやそれはむしろ愚痴の垂れ流しというレベルでしかないかも知れない。

それは己の恥をネット上にさらしている結果にしかならない。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

お国自慢を他県をけなす形でしかできない人間の了見の狭さ


政治家もいろいろな資質の持ち主がいるが、了見が狭く見識に欠ける人間が上に立って、かつ公の場で、その偏った価値観が絶対であるかのような発言をする姿ほど醜い姿はない。

恥を知らないというその姿は、一政治家の恥だけではなく、その政治家を選んだ有権者の恥でもある。・・・そういう意味で秋田県の人々は、今本当に恥ずかしい思いをしているのではないのか。

秋田県の佐竹敬久知事が、23日、秋田市での講演で、全国知事会で訪れた四国地方の料理について「メインディッシュがいいステーキだと思って開けたら、じゃこ天です。貧乏くさい」「酒もうまくない」などと酷評。高知県で水揚げされる魚「どろめ」を「あのうまくないやつ」とも表現した一方で、「秋田ほどうまいものがある所はない」「秋田にはいかにいいものがあるか。さまざまな自然、風、水、美人。男もいい」と語ったという。

お国自慢もここまで行くと顰蹙(ひんしゅく)ものでしかない。

確かに秋田のお米は旨い。日本酒もうなるほどおいしいものがたくさんあり、新政を呑んだら杯を手放せなくなる。きりたんぽは僕的には好みではないが、僕以外の我が家の家族には大人気だ。そのほか比内地鶏や、稲庭うどんなど美味しいものがたくさんある。何より秋田の女性は美人だ。それは否定しようもない事実だ。

しかし愛媛のじゃこ天は、練り物では常にトップランクに位置する美味しいものだし、そのほかにも鯛めしをはじめとした美味しい食べ物はあまた多い。地酒も秋田に劣らず旨い酒がたくさんある。人は男女ともに優しく素敵な人が多いのも事実だ。

四国全体で言えばそれが4倍になるどころか、それ以上に魅力に満ち溢れて、素敵なところを挙げればきりがなくなる。

そもそも地元と他県を比べて優劣をつけようとすること自体がどうかしている。同じ日本の中で、それぞれ優れたものがたくさんあるのが日本のそれぞれの地域であり、甲乙つけがたいのが日本の都道府県である。それはとりもなおさず、日本という国が、景色と美食に恵まれた素晴らしい国であるということだ。

日本が世界に唯一誇ることができない恥ずかし事は、政治家が厚顔無恥であることくらいではないのかと思う。
すすき
僕は普通の人が他県を訪れるより、はるかに数多く日本中を旅している。講演をしていない県も、山梨県と鳥取県の2県以外ないほどだ。

その僕がいつも困るのは、行く土地行く土地に、様々な美味しいものがあって、1度の訪問ではすべて食べきれないということだ。日本には、まずいものしかない地域なんて存在しないのである。

そもそも自慢は、他のものをけなしたうえに成り立つという考え方が貧し過ぎる。他と比べなくても良いものは良いのである。良いものが唯一無二の存在である必要はなく、他にもそれと並ぶほど良いものがあれば、それは即ち日本が良いという意味なんだから、他県をけなすような言動は厳に慎むべきである。

そういえば介護の世界でも似たようなことは常に起こっている。

日本介護支援専門員協会の柴口会長が24日の記者会見で、協会が介護離職を防ぐ人材を養成していることに言及し、協会が養成し、認定しているのは、『ワークサポートケアマネジャー』としたうえで次のような発言をしている。

『協会は産業ケアマネジャーの養成に一切関与していない』・『ワークサポートケアマネジャー産業ケアマネジャーは全く違うもので、我々協会は充実した研修カリキュラムなどで質の高い人材をワークサポートケアマネジャーとして養成している。』

あたかも協会が養成している『ワークサポートケアマネジャー』が本物とでも言うようないい分であるが、まったく独善的過ぎる発言である。

産業ケアマネも厳格な試験で合否決定し、その中で資格を得た人が、『産業ケアマネ』として介護離職を防ぐ活動を全国で展開しているのだ。その活動によって助けられている人が全国にたくさんいる事実を無視した発言としか思えない。

両資格ともヤングケアラーの支援や、介護離職の防止のために存在するのだから、お互い頑張って世の中を良くしましょうとなぜ言えないのか・・・了見が狭いというより、日本介護支援専門員協会の利益ありきで、国民の利益というものが見えていない人の発言としか思えない。そんなトップをいつまでも仰いでいてよいのだろうか・・・・。

そういう意味で、日本介護支援専門員協会会長の発言も見識に欠け、了見が狭い、あまりに手前勝手は主張と思ってしまうのである。・・・というかこの団体自体が、もともと見識なんてない団体であるのかもしれない。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

ごく当たり前の優しさを失わない人でありたい



見ず知らずの人に、声を掛けるという行為は勇気がいる行為だと思う。

しかし道端に倒れている人が居たら、「大丈夫ですか?」と声を掛けるのは決して難しいことではないし、人として当たり前の行為ではないだろうか・・・。

ましてや自分の行動と関係して人が蹲っているとしたら、そこで声もかけずに我関せずと放っておき、その場を離れようとすることは、人として決して許される行為ではないと思う。

だが、人の優しさの欠片も感じ取れない事件が起きている。なんとも情けない世の中である・・・。
--------------------------------------------------------
ネット配信ニュースから抜粋した事件概要
9月6日午後3時50分ごろ、東京・池袋駅の脇・東口と西口をつなぐ最短通路となる歩道付近でレンタル電動キックボードを運転していた伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)が、60代の女性と衝突後、救護活動もせずに逃走をはかった。
逮捕された伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)
※画像は伊藤明理那(めいりな)容疑者(23歳)
しかしその場で同容疑者は、取り押さえようとした警察官の腕をペットボトルで叩いたとして、公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕されている。その後9月9日、自動車運転死傷処罰法違反と道路交通法違反の疑いで再逮捕された。

事故現場は多くの歩行者が行き交うこともあって自転車通行は禁止の場所であるが、電動キックボードは最高速度を時速6キロ以下の設定に切り替えるなどしていれば、歩道や路側帯での走行も可能となっている。ただし伊藤容疑者が使用していた電動キックボードは最高速度20キロに設定されており、法律上は歩道を走行できない状態だったそうである。

目撃者によると容疑者は、「おばあさんが転倒しても悪びれる様子なく、謝りもせず、まるで『勝手に転んだだけでしょ?』って感じで逃げようとしたみたいです。すごく態度が悪くて警察に対して口答えしてるような口調でした」とされている。
--------------------------------------------------------
数多くの人が行き交う歩道上を、時速20キロものスピードが出る電動キックボードで走行するということ自体が非常識の誹りを免れないが、その行動の影響で誰かが倒れたとき、申し訳ありませんの一言も言わないどころか、黙って逃げるという行動がなぜとれるのだろうか。

それは若気の至りでは済まない行動であるし、人として許されない行動であると思う。

容疑者のような女性が、将来産んで育てる子供がいるとしたら、いったい親として何を教えることができるというのか・・・末恐ろしいとさえ思う。

勘違いしてほしくないことは、社会全体が優しさにあふれかえり、人が皆んな親切心を振りまくような世の中が当たり前だと言っているわけではないとうことだ。それは理想であっても現実としてはあり得ない。

世の中が善行に満ち溢れるなんていうフィクションを期待しているわけではないのである。

悪も無関心も存在し続けるのが人間社会である。善行を重ねる人間だとしても、ある場面だけを切り取ったら、別な一面を見せてしまうことがあるかもしれないのが人間である。僕自身もそんな一面を持っていることだろう・・・それは2面性とも揶揄されるが、そうではなく人は間違える生物であるという意味だと僕は思っている。

しかし人として生きることにおいて、最も必要とされる最低限の人間愛は失わないようにしたいと思う。人としてこのように生まれたからには、人として当然持つべき優しさというものはあるのだろうと思うのである。

特別に優しくなくても良い。特別な人でなくても良い。しかし人としてごく当たり前の優しさを持つ人でありたい。そうした人間性は失いたくない。

だから次の画像のフレーズを大切にしている。これからもずっと大切にしていこうとも思う。
明日へつなぐ言葉






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。


masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

LOVEとの出会い


僕が講演を行う際に、講演のテーマが何であってもその締めとして自作動画を流すことが多い。

その理由は、日ごろ対人援助の場で頑張っている人々に、その仕事は社会になくてはならない尊い職業であり、本来の使命を果たすことができれば、誰もが誇りを持つことができる職業であることを伝えるためである。・・・と同時に、そうした職業に従事している人たちにエールを送るためでもある。

講演を聴いて納得した・・・よくわかったというだけで終わるのではなく、その締めに見た動画で自身の仕事の誇りを改めて感じていただき、送ったエールに応えようと、その日以降の仕事の活力になってもらえるように願いを込めて作成している動画である。

その動画はどんなものか知りたい方は、「未踏の地・せたな町での講演」という記事の中で、ユーチューブ動画のリンクを貼っているので参照してほしい。

それを見てわかるように、講演を行う地域の様々な名所・名跡などを盛り込んで作成している動画である。

これらの動画のBGMとして使っているのは、AAA(トリプルA)のLOVEという楽曲である。

この曲を動画音楽に使っているのは、詩が僕の心の琴線に触れたからである。

ある日、JALの航空機内で偶然この曲を聴いてビビビッときた。「足早にすれ違う人と人の隙間で、こぼれて消える、見えない涙・小さな勇気」という言葉がまず耳に残った。

僕たちの職業でも、知らず知らずのうちに仕事の忙しさや、人間関係の煩わしさにまぎれ、見逃してしまっている見えない涙失くしてしまっている小さな勇気があるんじゃないかと感じた。

それでは駄目だとも思った。だから僕の動画には次のようなキャンプションをつけたスライドを入れている。
タイトルなし
そして次に耳に残った言葉は、下のスライドの言葉だ。
明日へつなぐ言葉
対人援助の職業に就いている僕らであるからこそ、どんな時も立ち止まりそっと手を差し出せる人になりたい・人でありたいとも感じた。

しかし言うは易く行なうは難しである。

先日も東京・山手線で運よく座席に座れた満員に近い電車内で、ドア付近にうつむくように座り込んでいる若い女性がいた。

僕は単にその人が行儀が悪いだけかと思って、声もかけなかった。しかし中年の女性が、「大丈夫?体調が悪いの?」と声を掛け、すかさず席を譲った姿を見て、初めて蹲っている女性が体調が悪かったことに気が付いた。

何故そんなことに早く気づいてやれなかったのかと後悔すると同時に、仮に僕が最初に座り込んでいた女性の体調の悪さに気が付いたとして、とっさに声を掛けることができただろうかと考えたとき、自信をもってできるとは言えない自分が居た・・・。

見知らぬ女性に声を掛ける勇気がなかなか持てないと思ってしまうのだ・・・しかしそれでは駄目だと改めて思った。そんなことで対人援助の本質を、壇上から偉そうに語ることなどできないと思った。

見えない涙を見逃さず、小さな勇気をもって立ち止まって声を掛け、手を差し伸べる人にならなければならないと心から思う。

LOVEは、そんな思いを常に僕に思い出させてくれる楽曲である。

この楽曲は使用料を支払ってルールに沿ってBGMとして使用しているので、ユーチューブで配信しても削除されないことを申し添えておこう。

なお今回は9/22に行われる、「明石市介護事業所連絡会居宅部会主催・ケアマネ対象研修会」に向けた動画を作成したので、下記に紹介しておく。明石市の介護関係者の皆様は是非ご覧になっていただきたい。







※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

戦争を知らない子供たちの世代でもできること


昨日8/15は終戦記念日。僕は戦後生まれだから、太平洋戦争当時のこの国の暮らしがどうであったかということは想像の域を超えない。

しかし戦争体験者から、様々なエピソードを聴かされる機会は少なくなかったように思う。

僕が初めて特養の相談員(※当時の職名は生活指導員)として社会福祉法人に就職した当時は、戦争が終わって40年弱という時期であったため、特養の利用者の多くの方は自身の戦争体験を持ち、その記憶を語ってくれた。

トシさんの戦争体験」で紹介した手紙も戦争の語りべと言える人からのメッセージだった。

日常的に自分の命が危険にさらされ、知り合いの命が消えていくのが当たり前のような毎日を過ごした経験を持つ人々・・・愛する誰かが死んでいくことにも慣れてしまうような日々を過ごした方々がその体験を語ってくれた。

それと同時に固く口を閉ざす方も少なくなかった。

認知症(※当時は、痴ほう症と言われていた)ではなく、記憶力も衰えていないにも関わらず、戦時中の話題に及ぶと貝のように口を閉ざしてしまうのである。
太平洋戦争時の国民生活
そういう人たちにとって、戦争とは、軽々しく口にできないような悲惨な体験ではなかったのだろうか。

その心情を想像すると、この平和な時代に生まれ育ってきた僕たちの世代は、なんと幸運な世代であるのかということに気づかされる。

しかし今年はもう戦後78年・・・。特養の利用者も戦後生まれの方が増えている。

戦時中に出生された方だとしても、その当時は幼児期であった方が多くなり、戦争の記憶もほとんどない人が増えている。特養の利用者さえも「戦争を知らない子供たち」の世代に移り変わっているのだ。

そんなふうにしてやがてこの国は、「戦争を知らない子供たち」の世代しか住まない国になっていく。その人たちが、さらに後世に戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えていくことができるのかが問題である。

しかし世界を見渡せば、今も戦争は行われている。思い返せば僕自身が生きてきた時代で、世界のどこにも戦争が行われていなかった時期というのは、ほとんどないように思える。

たまたま今の日本は戦争とは無縁なだけで、いつこの平和が破られても不思議ではないことに思いを馳せる必要があるのではないだろうか。

僕はたまたま社会福祉法人に就職し、対人援助という職業を通じて利用者の命や暮らしと向き合ってきた。

しかしそれも平和な社会であるからできる仕事であったのかもしれない。過去の戦争では、戦地において他者の支援を必要として生きなければならない人の命や暮らしは、簡単に切り捨てられてきたという歴史もあるのだ・・・。

だからこそ自分より若い世代に、僕が戦争体験者から伝えられたエピソードの数々を伝えていく必要があるのだと思う。戦争を体験した人の思いを、その人たちにこの世で相見えることがない若い世代にもつなげていく必要があるのだと思う。

そんなことを思いながら過ごした終戦の日・・・同時にこの平和な時代で、最も安心すべき介護サービスの場が、利用者の身体や心を傷つける場ではないように、ごく当たり前の介護実践を護るべきことを強く誓ったりもした。

明日はそな思いも込めて、「虐待防止」をテーマにした無料オンライン講演を配信するので、(ID):846 1504 9714パスコード):279279を使って、午後2時までにZoomに入っていただきたい。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

時間(とき)の雫


本来ならば、時間(とき)に区切りはない。それは始まりも終わりもなく、永遠と流れ続けていくものである。

この永遠の流れに、人間(ひと)は便宜上の区切りをつけ月日や時刻を刻んでいる。時を刻んで意味を持たせているのである。

それは人間という存在が永遠の存在ではないからであり、生命(いのち)には限りがあるからなのかもしれない。

時間に区切りをつけることで、人間にとって特別な時間を切り取って、思い出とすることができる。もし時間に区切りがなかったら、そうした思い出も全て流れ消え去ってしまうかもしれない。
湖と花
看取り介護も、終末期という時間区分によって可能になる介護であり、人間の生命体としての寿命が尽きようとしている状況を、人生の最終ステージとして生きる時間として意識することで、様々なことが可能になる。

終末期は徐々に口から食物や水分が摂取困難になる時期である。だからと言って頑張って体に栄養や水分を送り込まなくてよい時期だ。終末期を迎えた体は、水分や栄養をもはや必要としなくなる。無理に与えることは負担をかけるだけだからである。

こうした、「しなくてよいこと。してはならないこと」も終末期という時間区分を意識しないと見えてこないものだ。

人との何気ない出会いや触れ合いも、終末期という時間区分においては特別なものとなり得る。

この世で縁を結んだ人々との最後になるかもしれない出会いとふれあいの時間・・・それらを意識して愛情を確認し合う場が看取り介護の場である。

本物の看取り介護を実践しようとするならば、利用者自身の安楽と安心の身体・精神状況を維持することに最も注意が必要だが、その要素の一つに人間愛を交わし合う時間・・・そうしたエピソードを大切にするという意識が必要になる。

僕は看取り介護について、決して特別なケアではなく日常介護の延長線上にあるものであり、日頃の介護の質を高める努力が適切な看取り介護にもつながると言い続けている。

看取り介護の質を高めるという意識ではなく、日常の介護の質をきちんと担保しつつ、限られた命ある人間に対するケアの在り方として、利用者の方々が生きている時間軸を意識し、そこで最もふさわしいケアを提供するのが私たちの務めであると考えている。

だからこそ僕の看取り介護講演は、日常ケアのあり方も含めて求められる実践方法を話している。看取り介護対象者の人生の最終ステージで創り出される様々な愛情のエピソード造りを支援する具体論を話している。

そんな僕の看取り介護実践論を学ぶことで、受講者は介護という職業の使命と誇りを感じてくれている。さらに日常ケアの品質アップのヒントや動機づけを獲得してくれてもいる。

そういう意味で僕の看取り介護講演は、看取り介護の方法論を学ぶために受講するのではなく、利用者本位という言葉を本音にする、求められる介護の在り方を学ぶために受講すると考えてほしい。

介護事業経営者や管理職の皆様にも、そうした理解で従業員の皆様を、僕の看取り介護講演に派遣してほしい。

今週の水曜日(8/2)は、大阪市老連主催の看取りケア研修会を大阪市立社会福祉センターで行う予定になっている。

1年ぶりの大阪での看取り介護講演は、久しぶりに会場で受講者と対面して行う研修会である。そこから学び取った方法論を、それぞれの職場の実践法に取り入れて、利用者の豊かな暮らしを実現してほしいと願う。

大切な時間(とき)の雫を、手のひらでしっかり受け止めて職場に持ち帰ってほしいのである。

本物の看取り介護の実践論を聴きたい方は、是非会場までお越しください。申し込みは締め切られているようであるが、どうしてもと事務局に頼んだら、もしかしたら特別に席を用意してくれるやもしれない・・・。

それでは皆様、大阪市立社会福祉センターで愛ましょう。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。



※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

百鬼夜行が蔓延(はびこ)ることがない愛ある介護を


科学・生産性・ICT・DX・・・介護事業経営に求められるものとして盛んに取り上げられるキーワードの数々・・・。それに対して人間愛を持ち出すと、非科学的で生産性に欠けると非難される昨今の風潮がある。

果たして愛を語ることは、介護事業を堕落させることになるのだろうか。

しかし科学的介護とは、そんなに優れたものを生み出すのだろうか・・・介護にも科学をと声高らかに唱えられているが、果たして科学は介護サービスの質を本当に高めることができて、利用者を幸せにできるのだろうか。

原因と結果の因果関係がはっきり見えるものを科学(サイエンス)と呼ぶ。それに対して原因と結果の因果関係が全く見えないものは隠秘学(オカルト)と呼ばれる。

しかし隠秘学(オカルト)は、見えていないだけで非科学的認識ではない。つまり科学と魔術も相反するものではなく、科学は見えているだけで、魔術は見えていないものであるにしか過ぎない。

そりゃあ見えた方が、見えないより幾分かましだろう。しかしその違いは、見えていた方がうまく使い分けることができて便利だという程度の違いでしかない。

繰り返しを恐れずに言うが、科学(サイエンス)隠秘学(オカルト)など、本来その程度の違いしかないものだ。

それなのに隠秘学(オカルト)は介護と無縁の存在だと思っている人がほとんどだ・・・いや無縁どころかそんなものは忌避しなければならないもので、積極的に排除しなければならないと考えている人がほとんどだろう。

しかし科学と隠秘学は、前述したように見えているか・見えていないかの違いでしかないのである。

よって科学的介護魔術的介護と置き換えて表現したって、そこで実行するものは大した違いのないかもしれないのだ。
百鬼夜行
そんな不確実なものに寄り掛かった未来志向でよいのだろうか。そこで生まれるのは科学と称する何でもありの介護だ。まさに暗夜に妖怪が列をなすかのような百鬼夜行の介護が生まれかねない。

そもそも100年以上続いてきた介護実践で見つけられなかったものが、科学的介護情報システム(LIFE)によって、にわかに見つけられるのだろうか。

しかもそれは介護実践をしたことがない人が組み上げたシステムが読み込むデータでしかない。さらにそのデータも全国平均値とデータ提出事業者の数値比較とか、前回までの提出データ値と近直データ値7の比較という極めてアナログな、コンピューターを使わなくても抽出できるものでしかない。

そこで新しい効果的な介護の方法論が生まれると考えるのはあまりにも安易ではないだろうか。

それよりも私たちは介護サービスの様々な場面で、ノウハウを得てきているではないか。

認知症で過去の記憶を失って混乱している人にどう接したらよいのかという方法論は、あの手この手と持っている。同じ方法が他人に通用しなくとも、これがダメならあれはどうだというバリエーションを無数に持っているはずだ。・・・重度の身体障碍の方への対応もしかりであり、介護実務で今すぐ通用する科学は、実は私たちの頭の中には存在しているのだ。

それを言葉にして、文章にできるように努力することが大事だ。私たちが努力して蓄積してきた知識や思考の方法は、介護業界全体の財産として私たち自身の言葉と文章で伝える責務があるということだ。

その方法論とは型(かた)に縛られるものではなく、他人(ひと)に対する人間愛を注ぐ方法論であったりする。目に見えない思いを、『思いやる姿勢』という形で見える化する方法論でもあったりするのだ。

そのような方法論を堂々と伝えてほしい。

愛情という言葉を照れずに使い、愛を注ぎ人の暮らしを豊かにする方法論を伝えてほしいと心から思う。

LIFEを利用して国と企業が作り出す科学的介護よりも、それはずっと利用者が幸せになることができる方法論ではないのかと思う。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。



※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

5月病への備えが必要な時期です


先週金曜日(4/22)、室蘭気象台が観測史上最速の桜の開花宣言を出した。

僕の自宅は登別市であるが、数分歩けば室蘭という場所にあるため、自宅近くのエゾヤマザクラも咲いているのかと思って観てみると、案の定開花していた。

週末から今朝にかけて天気も良いため、周囲の桜の期も次々と花を開かせている。僕は現在の家に住んで30年以上になるが、GW前に自宅近くの桜が咲いた記憶はない。それだけ気温が温かいということだろう。

開花した桜はまだ三分咲きという程度なので、GWがちょうど見ごろになるのではないか・・・登別温泉につながる道道は、通称桜のトンネルとも呼ばれているので、観光に来られた方は目の保養ができるのではないか。
エゾヤマザクラ
そんなGWが今週末から始まるが、この時期は介護事業者にとって4月に入職した新入職員に最も気を使わなければならない時期である。

不安を抱えながらも、新しいステージで飛び立つ希望を胸にしていた人たちが、現実とのギャップに悩み始める時期でもあるからだ。・・・指導する先輩職員は、自分自身が新入職員の希望をつぶす元凶になっていないかを振り返らなければならない。

理想と現実は違うなんて、声高に叫んで新人教育を行っている職員がいるが、そんなセリフを口にする前に、自分の現実がいかに貧しいものであるのかを自覚してほしいと言いたくなることもしばしばある。

誰かの心に咲く花のような存在になろうとしている新人に嫉妬を覚えて、その姿勢をつぶすような言動に走る人の心はなんと醜い心であることか・・・そんな姿を自分の家族に見せられるだろうか。

新人職員の抱く理想と、職場の現実が異なるとしたら、その理想に少しでも近づけるように何をすればよいのかを、新人と共に考える指導者であってほしい。どうか若い芽を摘まないでほしい。

またこの時期は、緊張しながら仕事を教えてもらい、一つ一つの作業を覚えているだけの毎日から、少しだけ余裕をもって周囲を見渡すことができるようになってくる。そうであるがゆえに悩みを多く抱える時期でもある。

その悩みを聞いてあげるだけで、不安が解消したり、勇気が湧いたりする新人も少なくない。しかし実際には、その悩みを誰にも打ち明けられず、相談する人がいないとつぶれていく人が多いのだ。

この時に考えなければならないことは、「何かあったら相談してね」はダメだということだ。何かあっても相談できずにバーンアウトする人が多いのだから、相談の時間や機会は、何もなくとも積極的に事業者側や先輩職員が作り出してあげるものであると考えてほしい。

世間がGWに浮かれている時期に、自分はシフト勤務で連休も取れないことに不満や不平を抱える人も居るかもしれない。

介護の仕事はそんなことを言ってられないと放り出すのではなく、そうした不満や不平を抱く背景に、ほかの要因(※例えば仕事を十分に覚えられない・いつもより少ない人員で過重負担が新人にかけられている等)はないのかということも探りながら、本当に困っていることは何かを探る努力を惜しまない組織にしていくことが大事だ。

僕が社福の総合施設長を務めていた時期は、新たに入職した職員については、年齢や経験にかかわらず最低1年間は、「個別面談」を月1回行い悩みや相談事がないかを確認していた。そういう機会を就業時間中にきちんと創って、きめ細かく対応することが大事だ。

人材は、将来人財となる可能性を秘めた人ではあるが、だれしも挫折なしに育っていくとは限らない。一回の挫折でくじけてしまあないように、人材を人財に変えるためのシステムは、多重にきめ細かく構築していくことが大事である。

この時期だからこそ、5月病の芽を摘むシステムが職場に存在するかという振り返りをしていただきたいと思う。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。




※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

受容のまなざし


世の中には様々な個性を持つ人々が存在する。その中には私たちの感性では理解できない人が数多く含まれている。

しかし自分の感性が一般的だとも言い切れない。もしかしたら自分の感性が、一般的な人のそれとはかけ離れていることもあり得るのだ。

少なくとも自分だけが、この世の唯一の常識をもって生きていると考えてはならないのだろう。それはあまりに傲慢不遜な考え方である。

だからこそ何事も、自分を基準にして考えてはならないと心したい。

対人援助という仕事をしていると特にそう思う。

ひとり一人個性の違う人間に相対する職業を選んだのは自分自身だ。そういう職業を選んだという自己責任において、自分ではない誰かの個性や感性をも大切に思う姿勢や、個性を尊重するという考え方を己に課すべきだと思う。

そうすれば自分から見ておかしいと思う他者の行動、納得できない他人の考え方にも、その人なりの事情なり、理由なりがあることに考えが及ぶのではないかと思う。

対人援助には、「受容」の態度が大切だと言われるが、他人を受容するという意味は、他人を理解すること・把握すること・認識することである。そのように他者の価値観を認めることによって援助に結びつく信頼される関係を築くことができるのだろう。

そのようにして初めて対人援助が成り立つのである。

仮に他人の考え方が受け入れ難かったり、自分にとって不愉快な態度や振る舞いがあるとしても、それを他者の「一部分である」として捉え、そうした言動に至る理由に思いを馳せるのが対人援助の専門家に求められる姿勢と言えよう。
それぞれの眼差し
つまり受容とは許容ではないということだ。

あなたのその態度は違うと思うけれど、そうした態度を取らざるを得ないあなたの気持ちを理解しなければ、あなたの課題や問題解決につながらないことを考えて、その態度の意味を深く考えて理解します。・・・それが対人援助のプロとして求められる姿勢だろう。

そしてそれは、「わかる」ことではなく「わかったつもりになる」ことでもない。「わかろうとする」という私たち対人援助としてのプロの姿勢であり、その姿勢を貫く過程そのものでを受容的態度と呼ぶのだろうと思う。

対人援助の場では、予測のつかないいろいろなことが起こる。温厚で尊敬できる人に思えた人が、ある出来事をきっかけにして、我がままで横暴な言動に終始するようになるかもしれない・・・。

自らの死期を静謐(せいひつ)に受け入れた人が、看取り介護の最中に急に死に怯え、恐怖にもだえ苦しむかもしれない・・・。

そこで何が起きたのか、こころの中にどのような嵐が吹きすさんだのだろうか・・・そのことを想像し、理解しようとする人が傍らにいるのか・いないかの違いによって、人の心に安寧が生まれるか、混沌として乱れるかの違いに結びつくのかもしれない。

対人援助のプロである私たちの受容の態度、それに向けた眼差しが、それを左右するのだとしたら、その責任は重大である。

私たちが選んだ対人援助という職業は、他人を裁く仕事ではなく護る仕事だ。そういう職業を私たちは、「生き様」として選んだのだと思ってほしい。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

本物の介護技術とは何を指すのか・・・。


介護は最終的には技術です。そのことに異論はありません。

いくら心を込めても技術が伴わなくては、利用者にとって良い状態は生まれないからです。

心は込めたけれど、やり方が拙くて苦しい思い・恥かしい思い・嫌な思いをさせたけど許してね・・・そんな介護支援はあり得ないし、プロの姿勢ではないのです。

しかし同時にいくら技術があっても、利用者感情を無視して機械的に決められた正しい技術を展開したとしても、利用者の表情は硬く、あるいは乏しいもので終わることも多いのです。

それはなぜでしょう・・・。

それは人は物質的満足を唯一の目的として生きるものではないからです。他者から愛されたり、認められたりする精神的満足も生きるためには必要なのです。

心を込めるという意味は、介護支援という行為を行う対象者に、「精神的満足感」を与えることなのです。

勘違いしてはいけないことは、その満足は私たちの満足ではなく、利用者の方々の満足なのです。介護支援の対象者が、「嫌だ」と言うとすれば、それはいなな行為にほかならず、「そんなことはありません」という言葉は、私たちの満足感の押しつけに過ぎなくなります。それでは困るのです。

だから私たちは、介護を必要としている人たちが、私たちのどのような行為や、私たちが介入したことによる、どのような結果に満足してくださるのかを、常に意識して関わる必要があります。

生きるために、何らかの支援を必要とする人たちの居場所が、冷たい風が吹きすさむ場所でしかなかったら「生きがい」なんてなくなります。

その方々を心にかけて、手を差し伸べるべき対人援助のプロとは、誰よりも温かい手の温もりを届ける人でなければならないはずです。技術があっても冷たい態度で、その技術を提供するだけの人には、利用者は決して心を開きません。

それが介護労働=感情労働といわれる側面の1要素でもあります。
心を癒す介護
だからこそ私たちには人間を愛するという心・・・そうした感情を介護支援を必要とする人に伝える力も、求められる介護技術の一つだといえるのではないでしょうか。

何の愛情も伝えられない介護は、空しいだけの動作援助に終わってしまうでしょう。そのような冷たい技術は、大事なものが欠けた技術と言えるのではないでしょうか。

本物の介護技術とは、目に見えない心=思いやりとか、あなたのことを思っているのよと言う人間愛を伝える技術をも含んだものではないかと思います。

介護を受けて暮らす必要なる人に、言葉ではなく態度で安心感を与えられるのが本物の介護技術です。

介護を受けて暮らす人を大切に思う誰かに、「あなたの大切な人を、どうぞ私に任せてください」と言葉で示すだけではなく、そのことを介護を行う姿勢で示すことができることが真の技術です。

どうか、そうした本物の介護技術を追求する人になってください。どうぞ、そうやって介護を受ける人と、その人を愛する誰かの心を豊かにしてください。

私たちが求める、介護はそういうものであるべきではないかと思います。

そのように心から思うのです・・・。だから僕は、誰かのあかい花になるための実践論を探し続けるのです。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

まごころ


これからの時代は介護事業においても、データとデジタル技術を活用した業務フローの改善や新たなビジネスモデルの確立が必要とされる時代であると言われている。

そのため、「介護保険制度の見直しに関する意見」でも、介護事業介護DX(デジタルトランスフォーメーション)の推進が主要なテーマとして掲げられている。(4頁

さらに生産性の向上が求められていることから科学的介護が必要とされ、その実現が図られる今日・・・。愛情とかという言葉で、「介護実践」を語ろうとする人間は、古ぼけた化石のような存在だと批判を受けるのだろう。

しかし時代がどう変わろうとも、科学技術がどう進化しようとも、人と向かい合う職業や行為には、「真心(まごころ)」が一番大事になるのだと思う。

僕はそれを信じて疑わない。

真心(まごころ)とは、偽りや飾りのない心を意味する。誠意と言い換えることもできる。

知識や技術はどう努力しても、必要なレベルに追いつかない時がある。介護福祉士養成校卒業生に、就業と同時に10年経験がある人と同じ知識と技術を求めても無理がある。

最先端機器を使うことで、より高いレベルでの結果が出せると言われても、そうした機器や道具がどうしても揃わず、アナログ対応しかできない条件下で、介護サービスを提供しなければならないことも多々ある。

しかし真心をもって利用者に接するということは、経験がない人間にもできることであるし、最先端機器が使えない場所でも変わりなく可能となることである。

そして真心は時として、知識や技術を補って余りある、「生の感情」を利用者に与えることがある。

勿論、いつまでも知識や技術が拙く、真心だけで対応して良しとするものではない。真心に追いつき、追い越す知識や技術を獲得する努力はし続けねばならない。そこに真心が加われば鬼に金棒ではないのか・・・。

しかし真心とは、マニュアルを作成して与えられるものではない。教育して持つこともできない。なぜなら真心も人の感情の一つであり、その人の心の中に生まれるものだからである。

介護事業における、利用者に対して真心をもって接するという思いは、人は能力や置かれた状況に関係なく、「ただ人として存在していることに価値がある」という「人間尊重の価値前提」がしっかりと教育されているという基盤のもと、人として人を愛おしく思うという人間愛から生まれるものだと思う。

そこに介護のプロとしての誇りや、介護という職業の使命感を抱くことが加わって、真心をもって利用者に接するという行為が、自然と身について行くのだろうと思っている。

そうした思いを伝える旅を今年も続けていくつもりだ。
masa
ただし思いだけを伝えても形にならないと思っていることも事実で、僕の講演はあくまで実践論である。

僕の講演を受講した後にすぐに実践できる介護実務のノウハウを伝えるとともに、その実践を続けておれば、知らず知らずのうちに思いが形になるエッセンスを込めている。

自分の真心を言葉や文章に表すことができる・・・そんな実践論を語ろうと心掛けている。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

時を超えて


新年、明けましておめでとうございます。

今年も無事に元旦の朝を迎えることができ、こうしてブログ記事を更新できることに感謝しています。

そして元旦という特別な日に、わざわざ僕のブログに来訪し、僕の乱暴につづった文章を読んでくださる方々にも感謝いたします。いつもありがとうございます。
2023年富士山の初日の出
※画像は、富士山ライブカメラより拝借した、2023年初日の出を浴びる富士山
読者の皆様にとってこの2023年という年が、素晴らしく良い年になりますことを祈っております。

僕自身も、今年も健康に恵まれ、全国各地で講演の旅ができ、おいしいお酒を楽しい仲間と飲むことができるように願わずにおれません。どうかそんな1年でありますように・・・。

さて元旦ですので、改めてこのブログのコンセプトについてお知らせしておきます。

以前から何度も書いていますが、このブログは非常に自分勝手な個人スペースです。そのため読者の気持ちを一切顧みず、読み手の希望も一切考慮に入れず、ただただ書き手である自分自身のために心の叫びを文字にして書き殴っております。

自らの心の叫びを、誰にも忖度することなくぶつける場所がこのブログなのです。

そうであるがゆえに、このブログを通じて社会を啓蒙しようという気持ちは一切ございません。誰かを教育したり、何かを変えようとする気持ちもありません。僕の正直な心の叫びを投げつけるだけの場所です。

それに対して共感・共鳴してくださる人が居ることは嬉しい限りですが、それを目的としているわけでもないことをご理解ください。

ここに書いていることが間違ってるとか、そんなことを書くべきではないと批判する人については一切無視します。僕のブログ記事を読んで不快になる人は、わざわざここにつないでくるなと思うだけです。

そのコンセプトは今年も変わりませんので、時には特定の人にとっては不快と感ずるような乱暴な文章を綴って終わりということもあるでしょう。

自分の心にたまった滓(おり)を焼き尽くすためには、それも必要になるのですから、それを許せない人は最初からここに来ないでください。その炎に燃やされてしまうような心の持ち主は、ここにつなげない方が良いと思います。

どうぞそのことをご理解ください。何度も書きますが、理解できない人はわざわざここにつなげないでください。

一言居士のごとく、人を嗜めようとする人は、ここには一番ふさわしくない人です。どうぞそのことをご理解いただきますようお願い申し上げます。

話は変わりますが新年早々に皆さんにお報せしたいことがあります。

それは昨日の大晦日の午後、ユーチューブで僕のインタビュー動画が配信されたということについてです。

配信元は、僕の管理する表の掲示板にバナー広告を掲載されている、「弁護士 外岡 潤が教える介護トラブル解決チャンネル」です。

ここに昨日15時、「菊地雅洋様にインタビュー!その1」がアップされました。

このインタビューは、昨年11/20にJR東室蘭駅近くのレンタルスタジオで録画されたものです。外岡弁護士が、わざわざ東京からこのインタビューのためだけに来道されました。人材育成・科学的介護・サービスマナー・地域包括ケアシステム・介護業界全体に求められる情報発信力等を多角的に論じています。

このうち第1回目は、『どうすれば人が辞めない?新人職員の指導法「叱る」+「〇〇」が超重要』となっています。

今後インタビューの続きを何回かに分けて随時アップされるそうなので、是非ご覧いただければありがたいです。よろしくお願いいたします。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

陽だまり


人が生きるためには、その人にとって柔らかな日差しと温もりがある場所が、どこかに存在している必要がある。

暗闇をさまよい迷っているときも、寒さにこごえ震えているときも、そこに行きさえすれば陽だまりができていて、不安も恐怖も悲しみも慟哭も消し去ることができる。

人間が長い人生を歩んでいるときに、そんな場所を欲するときがある。そんな居場所が必要になるときがあるのだ。

大学生時代、社会福祉学を専攻していた関係で、様々な困難を抱えて暮らしを送る人と出会った僕は、そんな人達もホッとできる場所がどこかにできないかと思った。

せめて社会福祉援助の場をそんな場所にしたいと思って、介護施設を経営する社会福祉法人に勤める道に進んだ。

それは僕の中では理想ではなく、かといって実現可能なゴールでもなく、単なる「思い」でしかなかった。だが、その思いと反するものとは徹底的に戦ってきた。その思いを邪魔するものとは争うことを厭わなかった。

そのために若い頃の僕は、ずいぶんとんがった嫌な奴と多くの先輩方から思われていたろうと思うし。しかも年を取った今現在も、相変わらず戦い続けているので、アンチmasaがたくさんいることを知っている。

でもそんなことはどうでもよいことだ。

思いが実現するかどうかはともかく、実現できない前に妥協してしまうことが一番駄目なことだと思っている。思いを現実に近づける途中で前のめりに倒れることはあるかもしれないが、機会と方法がある限り、消えない思いを追いかけようと思う。

そのために今も信じた道を進んでいる。その思いに共感してくださる人たちとつながりあって、答えを探し続けている。
陽だまり
私たちは、自分自身が光輝く太陽になる必要はない。私たちの役割とは、何かが発した光や誰かの温もりを、利用者に届けるために工夫をすることだ。

光の届かない場所に光を届ける工夫、光の届かない場所に居る人を光の届く場所に連れていく工夫、光のある場所の温もりをできるだけ護る工夫・・・。それができる人が本物の社会福祉援助者だと思う。

介護保険制度にしても、その他の社会福祉制度にしても、所詮は人間が作り出したルールに過ぎない。そんなものがすべての人の救いになるわけがない。

だがその制度を運用する人々が知恵を働かせて、制度の光の部分をできるだけ周囲の人々に届けることはできるはずだ。対人援助のプロとして、私たちはそうした立場で制度を運用する役割を与えられているのだと思う。

この国には、介護サービスを利用する必要があるものの、実際にサービス利用したとたんに、心身の障害を持つというだけで、年端のいかない人生の後輩である若い介護職員にため口対応されて悔しがる介護サービス利用者が存在する。

よそよそしくならないようにという屁理屈で、無礼ななれなれしい言葉遣いを直さない介護職員によって、心を殺される要介護高齢者がなくならない。

そんな偏見やバリアを、一つ一つ壊していくのが僕の役割だと思う。

そのためには特定の介護事業所の民度の低さ・特定の介護職員の知性の低さを遠慮せずに指摘しなければならない時がある。それも厭わずに続けていこう。そのことで誰かに忌み嫌わたとしても本望だ。

今週も北海道の障碍者支援施設を舞台にした虐待が明らかになった。今朝、僕は自分のフェイスブックに下記のように書き込んだ。
-----------------------------------------------------
オホーツク管内西興部村の障害者支援施設「清流の里」での虐待が明らかになっています。男性職員6人が男性入所者13人に対し、全裸で長時間放置するほか、器から盆にこぼれた食事を食べさせたり、病気により身体を動かしづらくなっているのに無理やり動かしたりするなどの行為です。

なぜここまで人は人を傷つけることができるのでしょうか?自ら職業として選んだ職場で、他人に誇ることができない仕事を続けて、楽しいことがあるんでしょうか?

障害者支援施設では、職員が暮らしの伴奏者ではなく、生活指導の教官と勘違いしている人も居ます。障害を持つ方にとって、施設は暮らしの場=逃げ場のない場所です。もっとそのことを重く考えて、利用者対応の在り方を根本から考え直すべきです。
-----------------------------------------------------
こんなことをつぶやかなくてよい社会にならないものだろうか・・・。悪や不正、暴力や非正義をすべて排除する社会は非現実的なのだろう。しかし僕たちの目の前から、少しでもそのようなものがなくなるように、できることをコツコツと続けていくしかないと思う。

傷ついた誰かがその心を癒し、ホッとできる陽だまりをなくさないようにすること・・・その方法を探し続けること・・・それが唯一僕たちができることだ。

そんな知恵と力しか持たない僕ではあるが、その意思を曲げずにその思いを広げるために、志を同じくする仲間とつながり愛たい。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

こもれび


病院という場所は、病を治すために行く場所だ。・・・だが、時としてその場所がそのまま死に場所になることもある。

患者にとって、それは人生の最期に過ごす場所が病院であったという意味にもなる。

しかしその場所が、死を目前にした患者やその家族にとって必ずしも温かい場所ではない場合がある。

その場所が患者にとって冷たければ冷たいほど、その患者の人生の豊かさが削り取られ、貧しい生き方に変えられていくのではないかと思う時がある。

患者は医療機関の中で病気を治すために様々なルールや制限を強いられ、治療のために医師や看護師の指示を護らねばならない。・・・それはやむを得ないことではあるが、その時に医師や看護師に、患者を思いやる姿勢が見られないとき、医師や看護師の指示の言葉は、そのまま患者の心をえぐる刃(やいば)になる。

病をいやす願いを込めて、そうした冷酷な言葉に耐えた先に、「」があるとすればなんと残酷なことだろう。

そんな実態があるからこそ、「あんな場所で、○○を死なせる結果になって悔しくて、哀しくて・・・。」・「なんで死を目前にした患者に、あんな冷たい態度をとるんだろうね」と嘆く遺族が存在する。

そんなつもりはないという言い訳は、ここでは一切通用しない。

そういう思いを抱かせてしまったという、その結果を受け止める必要があり、そういう結果をもたらした自らの態度を振り返って考える必要があるのではないだろうか。
メルヘンの丘
私たちが働く介護の場も、同じ状況を生み出す危険性がある場所だ。

他者への配慮、利用者へのいたわり、すべての人に対する慈しみの気持ち・・・それらが欠けたとき、私たちは知らず知らずのうちに人の心を殺す存在になってしまう。

だからこそ関係者には、「言葉に気をつけなさい」・「態度に気を付けなさい」と繰り返し警鐘を鳴らしている。

それは介護サービス利用者の心を、そんなつもりもなく殺してしまわないための警鐘だ。

自ら欲しない状況で、他者を深く傷つけてしまうという罪を犯さないための戒めである。

人の心はそれほど強いものではない。泰然自若としているように見える人でも、誰しもどこかに弱さを持っている。そうした人間であるからこそ、体と心が弱った状態のときは、いつも以上に心を配って温かい言葉を掛けなければならないと思う。

そもそも高齢者を子ども扱いするのが、親近感の表現と勘違いしている人が多すぎるのではないだろうか。

高齢者とか要介護者とかいう烙印を外して、一人の人間として個別化してほしい。尊厳を持つ一個の人間として見つめてほしいと思う。

介護サービスの割れ窓理論とか、サービスマナーとかを訴えると、言葉遣いにうるさすぎるという人がいるが、言葉遣いに気を遣わな過ぎて、利用者に向ける態度に緩すぎるのが医療と介護の実態である。

そのことがいかに多くの患者・利用者・その周囲の人々の心を傷つけ、場合によっては心を殺し、尊厳を奪ってきたのかという事実を見つめてほしい。

せめて自分自身は、他者に向かって刃となる言葉を投げつけるような支援者にはならないと考えてほしい。

それが対人援助という場で暮らしの糧を得ている者の、せめてもの責任ではないだろうか。
言霊
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

人として人に関わる対人援助


対人援助は、自分以外の誰かの最もプライベートな空間に踏み込んで、本来利用者が他人に知られたくはない部分にも触れて支援を行う行為である。

私たちはそういう行為を職業とするプロフェッショナルだ。だかこそ私たちには、他者の暮らしを護って援助するという自覚に基づいて、相応の倫理観が求められるし、秘密保持などの義務が生ずる。

しかし何よりも大事なことは、人として真摯に利用者に相対し、利用者がどのような状況に置かれていたとしても、その尊厳を護った支援行為に終始しなければならないということだ。その覚悟をどれだけ持てるかがプロ意識として問われてくるし、そのことを建前としないという確固たる姿勢が、世間から信頼を得るための唯一の道だ。

私たちが他者の暮らしを支える際には、暮らしを送る人自身の様々な思いに気づいて、その思いに寄り添う姿勢が必要になる。その時、寄り添うべき思いとは、ネガティブな感情も含まれることになり、そこにどのように寄り添うのかということが、利用者と信頼関係を結ぶうえで重要な要素になることも多い。

それはダメです」・「それはやってはいけません」と、ルールを振りかざして利用者の思いを切り捨てることは簡単だ。しかしそんな形で物事を終わらせるのでは、暮らしの支援に結びつかないという場面がしばしば生ずるのが対人援助である。

理屈は、幸福や暮らしを創らないのである。

私たちにその時求められるのは、援助技術とか専門知識以前の目に見えない、「人間愛」というものなのかもしれない。
誰かのあかい花になるために
それは現在求められている、科学的根拠とは対極にあるもので、非論理的で客観性のないものだと批判されるかもしれない。

だが目に見えない、非科学的なものをすべて切り捨てることによって、人の暮らしという極めて個別性の高い領域が良くなるとでも言うのだろうか・・・。僕はそうは思わない。人には定型化できない感情というものがあるのである。そして感情とはきわめて非論理的で、非合理的なものであり、方法や経緯と結果の因果関係のない場所で生まれるものである。

そうした感情に寄り添うためには、極めて説明しがたい、「人を愛おしく思うという感情」で寄り添うしかないのだ。

しかし・・・問題は援助者たる私たち自身が全能なる神ではないということだ。すべての人を愛することができる天使にもなることはできない。

対人援助という仕事に携わる私たちも感情ある人間の一人にすぎないのであるのだから、他者に対する好き嫌いの感情は当然持っているし、誰かを深く愛することができる反面、他人を妬み、他人を憎む感情も持ってしまうどうしようもない存在だ。

私生活も決して潔癖に送っているわけではない。清貧という言葉から程遠い状態で、みだらな楽しみや遊興にふけることもあろうというものだ。

だからと言ってそれが即ち、対人援助に関わる資格がないと言える問題でもない。人として欠点や短所をたくさん持っているけれども、自分が完璧な聖人ではないという自覚と自己覚知をもって、職業上は利用者に対して真摯に関わればよいということだと思う。

自分の中のネガティブな感情は、自覚してコントロールできるようにするだけの話だ。

そうでも考えない限り、対人援助に関わってよい人などいなくなってしまうのではないかと思うのである。

自分の人格を高潔にしようなんて背伸びなんかせずに、普通の人として、普通に人を愛する気持ちを持ち続けるだけでよいのだろうと思う。

人に秀でて何かを残そうとするのではなく、自分の中の大きな愛を、小さな仕事の中であふれさせることが大事ではないかと思う。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。

自分の職場がどうあってほしいですか?


株式会社マイナビが運営する介護経営支援サイト、「メディカルサポネット」の連載、「菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜」は今回がいよいよ最終回。テーマは、「どうなっていく?介護事業の未来」としておりますので、どうぞ連載名に貼り付けた文字リンク先を参照してください。

さて話は変わって本題に移ろう。

このブログ読者の方々は、ほとんど介護事業に携わっている人だと思う。

そんな方々は、介護という職業がどのような職業であってほしいと願っているのだろう。そして自分の職場がどんな職場になってほしいと思っているだろうか。

例えば介護施設の某職員が、こんなふうに考えているとしたらどう思うだろう・・・。

給料は他と比べても悪くありません。休みもそこそこ取れます。職場の人間関係は、嫌な上司や口うるさい先輩はいるけれども、和気あいあいと話せる同僚もいるし、嫌な人間とはなるべく近づかずに話しかけられても無視してやり過ごしています。
仕事は先輩方のやり方を見よう見まねで覚えたうえで、自分の考えたことを加えたやり方で何とかこなせています。
利用者は認知症の人が多くて、わけのわからない言動に戸惑うことが多いけど、決められた作業を黙々とこなしてさえいれば、文句を言われることもないので辛くはありません。
夜勤はワンオペで大変でしょうと言われるけど、自分で決めたルールで、自分の思い通りに動いて一晩過ごせばよいので、特段苦痛でもありません。むしろ他人の目のない分、気楽なのがワンオペ夜勤も言えそうです。
利用者の暮らしって言いますけど、ほとんどの人が家にいたら一人で生きていけない人たちですから、ここにいるだけで衣食住に困らないのだからそれなりに良い暮らしと言えるのではないでしょうか。適当にレクリエーションの機会はありますし、おもしろくなさそうにそこに座っているだけの人がいたって、問題とは言えないと思います。


・・・このような職場で働きたいと思う人はどれだけいるのだろう。こういう職場で介護の仕事を続けていて、介護の仕事にやりがいや面白みを感じることができるのだろうか。

職業を持つことは生活の糧を得るために必要なことであり、趣味とは違って好きという感情だけで選ぶことはできない。しかし「働く」という行為は、ある一定年齢まで何十年も続けなければならない行為でもあり、嫌々惰性で続けるとしたら、人生の中で大事な時間を無駄にしているように思えてならない。

だからこそ自分の適性に合った職業を選んで、仕事に誇りややりがいを感ずることができるということが非常に大切なことだと思う。それが自らの人生を豊かにすることにもつながるのではないかと考えている。

勿論、生活の糧を得ることが職業を持つことの最大の目的だから、仕事に見合った対価を得ることは非常に重要なことではある。しかしそれが即ちやりがいにつながるとは限らないと思うのだ。

僕は志を高くもって、社会福祉の勉強をしたわけではない。理系が自分には合わないと思ったので、文系の大学に進もうと思った。その時、たまたま道内の大学で社会福祉を選考する道が、自分の能力と適正に見合っているのではないかと思い、恐る恐るこの道に踏み出した。

そして大学生活4年間の中で、様々な他者の「人生」に触れる機会を持った。障がいを抱えた状態でこの世に生まれ出た子やその親、家族に恵まれない子供、家族から理不尽な暴力などの虐待を受け続けている人々・・・。

そのような出会いに困惑したり、否定的な感情を持つことも少なくはなかったが、それ以上に他者の人生の一端に触れて、そこに関ることにやりがいを感じた。自分が関わることで、無表情だった人の顔がほころんだり、心の底から湧きあがる笑顔を見られたときは、自分自身が幸せな気持ちになることができた。
誰かのあかい花になるために
社会福祉事業・対人援助の仕事のだいご味とは、自分が関わりを持つことが許された他者の人生を少しでも豊かにすることだと思う。そこで生まれる心からの笑顔や、穏やかな表情に出会うことができることだと思う。その時の感謝の言葉は、僕たちにとって何よりのご褒美だ。

だから介護事業に携わる以上、そこでかかわる人たちの命をつなぐだけの最低限の関りでよいなんて思わない。制度の光をくまなく届け、私たちのできる限りの支援の手を差し伸べ、我々の支援の手を必要とする人たちの、人としての尊厳が護られ、少しでも幸せを感じてほしいと思う。

少なくとも利用者の哀しみや、苦しみの上に、私たちの暮らしが成り立つことなんてあってはならないと思う。それは人として許されない考えのように思うし、誰よりも貧しい心でしかないと言われても仕方がないことのように思う。

介護事業というものは、決して他の職業より崇高な職業ではないし、数ある職業の一つにしか過ぎないことは事実だ。だけれども介護事業は、そこに自分の人生そのものを預ける利用者の方々の存在によってはじめて成り立つ職業だ。

それは介護という職業が、誰かの人生の幸福度に大きく影響するという意味だ。そのことに使命感と誇りを抱いて、その誇りを護るための知識や技術を磨き、結果を出す介護事業を目指し続けることが、自らの人生を豊かにする唯一の道ではないかと思う。

そうした志を共にする仲間と、つながり続けて歩き続けたいと思う。このブログにも、そういう志を抱く人に集まってもらいたい・・・。

メディカルサポネットの連載、菊地雅洋の激アツ!介護経営塾 〜選ばれる介護事業所であり続けよ〜の最終回は、「どうなっていく?介護事業の未来」です。こちらも是非参照ください。
どうなっていく?介護事業の未来
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。
新刊出版のご案内
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)のamazonからの取り寄せはこちらをクリックしてください。
masaの講演案内
当ブログ管理人masaの講演予定は、こちらからご覧下さい。講演依頼もこのページからできます。
Weekuly Access

    記事検索
    Blog Search
    Google
    WWW を検索
    このブログ内を検索
    ↑こちらにキーワードを入れて過去のブログ内記事を検索できます。
    masa's book 6
    表紙画像(小)
    新刊「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から(2019年1月20日発売)のネットからの購入はこちらをクリックしてください。送料無料です。
    masa's book 5
    新刊介護の誇り
    「介護の誇り」はこちらから購入できます。
    masa's book 4
    介護の詩(うた)  「介護の詩(うた)」はこちらから購入できます。
    masa's book 3
    人を語らずして介護を語るなTHE FINAL 誰かの赤い花になるために  感動の完結編。 「人を語らずして介護を語るな THE FINAL 誰かの赤い花になるために」。 はこちらから購入できます。
    masa's book 1
    表紙カバー、帯付き
    書籍化第1弾「人を語らずして介護を語るな〜書籍masaの介護福祉情報裏板」 はこちらから購入できます。
    Facebook
    masaのフェイスブックはこちらからアクセスしてください。
    Recent Comments
    Archives
    Categories
    Access Counter
    • 今日:
    • 昨日:
    • 累計:

    QRコード
    QRコード