masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

社会福祉援助技術

人を成長させる集団の力。

高齢者福祉サービスの分野では、施設、居宅サービスに関わらず、個別ケアが求められ、集団的ケアは「前時代的で品質が低いサービス」とされている。それはその通りであろう。

しかし人の発達過程において集団経験は非常に重要で、欠くことができない。

周りを見渡すと社会や他者とうまく接することができない若者が増えているように思う。介護実習を行う学生にも、少なからず知識の欠如でない部分で、この仕事に向かないと判断せざる得ない状態の人がいる。それらの人々の生活暦はどうなっているのだろうと疑問を持つことがしばしばあり、特に親子関係が異常な状態(30を超えた大人が親から自立していなかったり、親もそれを自覚していなかったり)という状況に接すると、成長過程でどのような社会との接触が行われてきたのか、考え込んでしまうことがある。

今日は日頃の内容と少し違った角度であるが、人の発達に影響する集団力について考えてみたい。

人は、生まれながらの遺伝的なものだけに基づいて人間としての発達を遂げることはほとんどあり得ない。遺伝的素質とともに、社会生活環境における学習を通して「人間」に創り上げられていくのである。

我々が社会にふさわしい一員として作り上げられていく過程を「社会化」と呼ぶ。

人は通常、まず家族という基本的な集団に生まれ、育てられていく。どんな人も始めは自らの生命の維持も安全も、全て周りの大人に依存する状態であり、1対1の密接な関係から、人間に対する基本的信頼感情を育てていく。

しかし幼児期の非常に早い段階で、人は既に周囲の大人ばかりではなく、自分と同じような仲間との交流を求めるようになり、2歳児は平行的な「遊び」を展開する中で「友達」を意識し、3〜5歳と進むにつれ家族から遊び仲間へと経験の輪を広げ、学童期になると、仲間に受け入れられるか否かは、その子供にとって次第に決定的要因となり始め、大人の支配や保護の及ばぬ子供独自の領域が作り上げられる。

このように子供は家庭、学校、地域社会の中で様々な集団に属し、人間同士の交わりを通し人間性や社会性を獲得していく。親の過度な溺愛は、この部分の発達過程を阻害する場合がある。

学童幼児期は、子供達の集団に、従うべき規律と守るべき秘密があり、大人に依存はしているが大人の干渉は嫌ってくる。そして思春期に入ると自我を確立し、大人になるための既存の価値観や権威と対立する様々な葛藤を経験するが、その不安定な時期を支えるのが仲間との同一視であり、集団の中に安定を求めつつ、やがて社会人として責任を持つようになる。

だからこの時期の引きこもりはその後の発達に重大な関係構築能力に障害をもたらす。ネット社会がもたらす負の遺産も無視できないが、何より、家庭における親の関わり方や役割が重要な問題となってくる。

成人期には、自分の家庭や職場での交わりが大きな比重を占めるが、地域社会への参加や、能力・興味に基づく任意の集団参加を通し社会的役割を果たしながら、人間としての自己能力を伸ばし、人に依存したり、されたりするような体験から情緒的ニーズを満たしていく。

つまり自立だけが重要ではないのだ。人に頼ることができる、その方法を獲得することも成長の一つの過程である。

老年期には、家族構成も変わり、職場も持たなくなったりして、新たな集団参加が必要になる。この点が成人期と異なるが、仲間の持つ意味合いは成人期と変わらず、高齢者であっても、社会において活動的であり、学習し、創造的な活動を行うことは意味がある。その欲求を満たす集団は高齢期でも必要なのだ。

集団処遇は否定されても、集団自体の効用は認めるべきで、施設サービスや集団で利用する通所サービスなどの居宅サービスでは、この集団力を良い方向に個人と接合させる視点が求められてくる。

だから福祉援助の専門家には集団論の理解が不可欠である。

ただし、一言断わっておくが、特養など高齢者施設の生活を「集団生活」というくくりで捉えている人々がいるが、それは大きな間違いで、それら高齢者施設は単なる「共同生活の場」に過ぎず、集団生活を理由にした制限ルールや権利侵害は許されるものではない。

ここは治療を目的とした「入院」などとは違うところである。

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話せばわかる、が成立する条件。

作家の故・松本 清張氏が、自分が生きた時代の史観を書きたいとしてライフワークにした作品に「昭和史発掘」という名作がある。

この4巻目に5.15事件が書かれている。その中で犬養首相が暗殺される場面は次のような描写になっている(一部要約)。

昭和7年5月15日午後5時半頃、首相官邸日本間にいた首相を、土足の軍人達が取り巻いた。犬養は落ち着いた様子で「靴くらい脱いだらどうか」と抑えるような口調で言った。
そのとき三上卓中尉は首相を睨みつけて「靴の世話などどうでもよいこと。話があれば早く言え」と性急に言った。
「騒がんでも話をすれば分かる」と首相は穏やかに言った。三上中尉は拳銃を一旦下ろして話を聞こうとしたが、その時、山岸中尉が「話を聞きに来たのではない。問答無用。射て射て!!」と叫んだ。首相は左手を上げて制止するように「射たんでも・・・」その言葉が終わる前に黒岩少尉の凶弾に首相は前のめりに倒れた。

以上である。

話せばわかる、と言った首相は「問答無用」の一言で命を奪われたわけである。

考えてみれば、この世の中「話せばわかる」のであれば、ほとんど争いも生まれないだろう。しかし現実の社会は「話してもわからない」から様々な問題が多種多様に存在しているのである。

つまり「話せばわかる」というのは事実ではなく、我々の理想とか希望のレベルでしかないのが現実だ。しかし一方「話したらわかった」ということも数多くあるのも事実である。

この「話せばわかる」ということが成立する条件は、唯一『相手が話を聞く気がある』ことである。

最初から聞く耳持たない問答無用の姿勢の人には何を話しても分からないのである。

しかし話してわかる、わかりあえる、ということは素晴らしいことである。我々ソーシャルワーカーは究極的には、話してわかりあえる関係を作る専門家である。

だから、まず我々自身が「聞く耳」を持っていなければならない。「話し合って」「わかりあう」ことの素晴らしさを実現する為に何をすべきかを探求していくのがソーシャルワーカーの責務である。

さらに相手が我々の話を聞いてくれる姿勢を示してくれる関係を築いていかねばならない。

相手が我々を受け入れ、聞く姿勢を持ってくれる為に何が必要か、実はその入り口は、人としてのごく常識的な礼儀であったり、態度や言葉遣いであったり、服装であったりする。これが常識として理解できないことで関係がこじれるという情けないケースも数多くある。これでは援助者とは言えんだろう。

そして、その上で共感的理解の態度が信頼感を生むのである。 全てはそこから始まる。

この入り口部分で立ち止まっている人はいないだろうか。そのとき、何が足りないのか、自身の中に理由を探すことが必要である。

話せばわかる、という素晴らしさを理解して、話せばわかってくれる人々の輪を広げたいものである。

ああ、しかし絶対に話してもわからないという例外の人はいる。初めから聞く耳を持たず、自分の主張だけしかしない、どこかの国の首相なんかはその典型だろう。

政治は国家と国民の為にあるのであり、自らの信念の実現のためにあるわけではないだろう。

犬養首相も天国で嘆いているんではないだろうか。「問答無用の政治はいかん」って。

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タイトルを考える意味〜ケーススタディにも有効。

表の掲示板では、再三にわたって投稿の際には必ず具体的な内容がわかるタイトルをつけるようにお願いしている。

これはタイトルから何の疑問や質問なのかが読む人にわかりやすく伝え、スレッドを開きやすくする、という意味が大きいが、それだけではなく書き込みをする人の立場で考えた結果でもある。

質問や疑問を書きこむ人は、あるひとつの事柄だけがわからなかったり、疑問を持っているわけではなかったりして、複合的な問題について問いたいという場合がある。何を主眼に質問や意見を書けばよいか頭の中の整理がつかないまま、とりあえず思い浮かぶ言葉を書いてしまうことがある。

そういう状況で書かれた文章は第3者に内容が伝わりにくい。何を書いているのかわからないということにもなりかねない。

そのとき、自分で書き込み内容を具体的に表すタイトルを考えると、その過程で自分の頭の中が整理でき、聞きたかったり、書きたかったりする要点が整理される場合がある。

そのためにもタイトルは、とりあえず挨拶を書くより、自分の投稿内容を具体的に示す内容を考えて書き込んだほうが自身のためにもなると思う。決して管理人の都合だけで考えているルールではないことをご理解いただきたい。

さて、このタイトルをつける、ということについては、僕は職員等の研修にも利用する事がある。それは主に事例研究においてである。

事例研究は何より、実際の事例を数多く読むこと自体に意味がある。特にその中から何かを見つけようとしなくても、様々な事例と、その中の対応を読み込む事で自分自身の考え方が構築される要素になるので、読むこと自体が重要だ。判例研究などはその良い例であろう。

そのとき、事例の要点は何かということを読み取るために、事例研究の最後に各自でタイトルをつけてもらう作業を行ってみてはいかがだろう。「あなたならこのケースにどんなタイトルをつけますか。」というふうにである。

事例研究に使う事例は、予め報告者のタイトルがついているものが多いが、その場合もあえてタイトルを隠して読んでもらって、各自でつけたタイトルと、報告者がつけたタイトルの違いを比べて見るのも、ひとつの勉強方法として有効である。それぞれがどこに事例の要点をおくのか、事例が示している問題点や解決方法のどこを重視しているのか、それによって各自の考え方や価値観の違いがわかるし、そのことが自己覚知に繋がる場合もある。

なにより現場で起こっている問題の課題の本質を探るという点では非常に良いトレーニングになる。

確か僕が担当した「のぼりべつケアマネ連絡会」のグループワークにおけるケーススタディの際にも、この方法でタイトルをゆけ、それぞれのグループから発表してもらった事があるが、結構評判が良かったと思う。ずいぶん前の話ではあるが。

特養と老健の職員を対象としたある研究会で講師を務めた際に、認知症で記憶障害があり、いつもお気に入りの「靴」がなくなったといって徘徊する高齢者の事例について、この方法で演習を行ったことがある。

報告者のタイトルには単に「認知症があり徘徊行動を伴う症例」とされてるのに対し、「記憶障害が徘徊行動に結びつく高齢者の1事例」とか、なかなか見事に本質をついたタイトルが出されていた。

同じケースでも、あるグループは「私の靴はどこ?」というタイトルをつけた。

ブログのタイトルなら、これも良いだろうが、事例報告のタイトルとしては文学的表現過ぎて報告内容や事例の中身が見えないので、あまりよろしくはないと思うが、靴がないという不安感が周辺症状に繋がっているという本質理解という面では決して間違いではないだろう。

だから、このようなタイトルもダメだしはしない。ただ事例報告のタイトルとしてはもう少し具体的な表現が良いことを話し合ったりする。

どちらにしてもトレーニングであるから正解も不正解もなく、皆で楽しくタイトルを出し合って批評しあうだけで良い。その積み重ねからケースの本質部分を取られる視点が養われるのである。

皆さんも一度試して見てはいかがだろう。

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受容とは何か〜許容ではない、という意味。

介護の現場では「受容する」という言葉がよく聞かれる。認知症の方の支援には受容的態度が必要だ、という形で使われることがしばしばある。しかし言葉として、これほど数多く使われているのに、実際に、その言葉の意味を自分の具体的行動と結びつけて語られることは非常に少ない。

時には「受容しろ」と言っている側の態度が受容的でない場合もある。言っているほうも、言われているほうも双方意味を理解せずに使っている場合も多い。

そもそも人の行動や行為を「あるがままに受け入れる」ということが社会福祉援助の専門家とはいえ、様々な価値観を持つ別な個人に可能なのであろうか。「受けとめる」「受容する」とはどういう意味であろうか。

おそらくバイスティックの7原則が示された後も、この概念は様々に議論されてきたことと思う。神ならざる我々にとっては完全なる定義を示すことができない領域であるかもしれない。

ただ、我々が利用者に対して、支援者として向かい合うときに、それをどう考えるか、という点に絞ると、ある基本姿勢が見えてくるのではないだろうか。そのことを少し考えてみたい。

認知症高齢者の周辺症状に、暴力や暴言など、反社会的行為が伴うものがある。我々はそのとき、その行動を認知症という状況が引き起こす行動であり、周辺症状は、中核症状がもたらす不自由のために、日常生活のなかで困惑し、不安と混乱の果てにつくられた症状と考え、暮らしのなかで、つまり、ケアによって必ず治る。よくなる。という理解のもと支援活動を行なっている。

これを彼らのパーソナリティとして考え「性格が悪いから仕方がない」と考えるのでは支援行為には結びつかない。我々はあくまで社会福祉援助者であり、評論家や裁判官ではないのである。

つまり、利用者の行動や態度を受容するとは、利用者を理解すること、把握すること、認識することで、援助ができる関係に結びつける行為であろう。そこには、どんな利用者であっても人間として敬意を払ったり、愛されたりすることが必要であるという意味が含まれる。

つまり不愉快な態度や振る舞いがあるとしても、それを利用者の「一部分である」として捉え、あるいは利用者の持っている可能性を捉えることであろう。

援助者が「こうあってほしいと」と望んだり、こうあるべきと考えるのではなく、実際のあるがままの利用者の姿を理解する、ということだろう。しかしその前提には我々の自己覚知が必要で、自分の感情がどう揺れやすいか等を意識することが重要となることは言うまでもない(参照:「面接の技法2〜自己覚知について」)

ただし間違ってはいけないことは、受容と許容は別物であるという理解であろう。

利用者の逸脱した行動や態度、その主張や行動をあるがままに受け止めるという意味は、決してその逸脱に同調して、媚を売り、それを許容するということではないということである。

彼らの行動を真実ないし良いものとして許容するのではなく、彼らを受け止める際に、そのような行動を彼らの現実の一部として認識し、理解することで、その行動が何に基づいているかを理解することにつながり、変容可能性が見出せるというものだろう。

このとき利用者の行動を許容しないということと、見下して敬意を失う感情を同一視すると問題は複雑化する。誰もが持っている尊厳と価値を尊重するという基本がないと援助活動にはならない。この感情を的確にコントロールするのが自己覚知である。そういう意味で、受容と自己覚知は切り離して考えられないのだ。

利用者の否定的態度も彼らの問題を構成している1要素なのである。だから支援の過程ではそれらの態度も表明され、明確化され、整理される必要があるということだ。そして受け止めるものは現実であるということを忘れてはならず、援助者の勝手な想像で非現実を作り出してはならない。

ただこの受容を間違って理解すると利用者の不安をより強くする場合がある。「誰かが私を襲ってくる」という利用者に対する受容は「〜さんを誰かが襲ってくるんですね」という理解ではいけない。「〜さんは、誰かが襲ってくる、と感じるような不安な状況にずっと置かれているんですね」という理解的態度で臨まねばならないという意味ではないだろうか。

ケースワークの原則は使い物にならない古い理論だと主張する人がいるが、原理原則がどうあろうと、我々が介護の現場で、利用者と向かい合うとき、専門家として以上に、人として、支援を求める人に真摯に対応する過程で「受け止める」という理解の態度は普遍的に必要なことだろうと思う。

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自己決定とは何か2〜ケアプランへの希望とニーズの温度差

居宅介護計画は自己作成もできるが、大多数の介護サービス利用者が居宅介護支援事業所の介護支援専門員に作成を依頼している。

この大きな理由は作成依頼しても利用者の自己負担がない点が要因の一つとして挙げられるが、最も大きな理由は専門知識を持つ専門家としての介護支援専門員に任せたほうが適切な支援体制を築いてくれるのではないかという期待があるからであろう。

しかし一方で、利用者やその家族には、介護サービスを受ける際にあらかじめ抱いているサービス利用に対するイメージや理想というものがあり、それに関連して希望するサービスとか、使いたくないサービスがあるわけである。使いたいと希望するサービスの中には、専門家からみれば必要のないサービス、過剰サービス、使うことによって利用者の機能低下が心配される可能性があるサービスさえもあり得るかもしれない。

そのとき、ケースワークの原則である「自己決定」と、本当に必要と思えるケアプランとの温度差の中で介護支援専門員は、どう対処すればよいのであろうか。ここでの自己決定はどう守られ、何を意味するものとなるのであろうか。

自己決定には利用者の能力から生じる制限はあるし、利用者の能力を超えて自己決定を強いるべきではないことは昨日述べた。しかし例えばアセスメントから導き出した課題と合致しない「生活援助としての家事支援」を求める方が「能力から生じる制限」の対象者であるとは言えない。そう都合よく自己決定は制限できないのである。

しかし利用者の希望と本当に必要なサービスが異なることが、介護支援専門員からみて明らかである場合に、それは過剰なサービスだけでなく、必要なサービスを利用者自身が自らの意思で「受け入れてくれず」、必要なサービス利用に繋がらずに、課題解決=適切な生活支援ができないというケースがある。

そのとき我々社会福祉援助の専門家がまず考えなければならないことは何か?
それは、利用者は誰しも問題解決の過程で介護支援専門員などの援助者のサポートを必要としていたとしても、問題解決の方向などを自分で決める自由は持ちたいと願っていることは「当然なのだ」という理解である。

そして、利用者が援助計画を押し付けられたものと感じた場合には、援助活動そのものが無駄に終わってしまう場合も多いという認識で、でき得ることならば、介護支援専門員は利用者との信頼関係を形成する過程の中で、利用者本人や家族にも必要な情報と知識を伝え、彼らとともにケースの進行に応じて成長発達する必要があるということである。

抽象的観念論になりすぎても困るので、具体的な問題に話を戻そう。

介護計画の決定に際しての利用者や家族の自己決定とは、単に利用者や家族の意向だけで物事を決定するということではない。

それは決定の主人公は利用者本人であるということを前提として、それを保障したうえで、介護保険の制度利用を例に挙げれば、専門知識のある介護支援専門員が利用者や家族に、地域に使える資源としての介護サービスとはどういうものが、どの程度あり、どのように使えるかという情報を制度上のルールを含めて明らかにし、そして利用者本人の課題や必要な支援を、アセスメントの結果などから充分説明して、そのことから、介護サービス利用の効果(成果)や、利用者の今後の状況変化の予測等の専門家としての判断を分かり易く情報提供した上で、最終的に決定するのが利用者であるということだ。

その過程で利用者の希望とニーズの相違から生ずる問題についても専門的見地からわかりやすく説明して、理解を求めていくことだろうと思う。

特に希望とニーズが合致しない大きな要因は、利用者や家族が持つ情報や知識は、介護支援専門員が持つそれと量も質も大きく異なり、偏った少ない情報の中から意思決定している例が少なくない、ということである。

その状況を変えていくことから出発する必要があるだろう。
情報を正確に伝えて、そこからサービス利用の効果や予後の予測を伝えることで利用者や家族は、サポートしてくれる介護支援専門員に信頼感を持っていくことになる。

特に介護サービスなど形のないサービスは「使ってみないとわからない」「実際に試すことができず、利用そのものにならざるを得ない」という特性を持っているのだから、正確な情報を噛み砕いて説明してくれて、分析の視点も示されることが利用者や家族にとって重要なのである。

そして同時にサービス利用に対するクレームもきちんと受け止め、嫌だ、という感情にも適切に理解的態度で臨める介護支援専門員に多くの利用者が信頼を寄せ、適切なサービス利用ができる計画へと繋がっていく可能性があることを忘れてはならない。

なお明らかに使うことができないサービスや必要のないサービスについての計画は機関の機能から生ずる制限が適応される場合もあるが、優先されるべきは制限の前に、理解を得る援助姿勢であろう。

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自己決定とは何か1〜バイステックの7原則を都合よく解釈してはならない

社会福祉士の国家試験で過去に最も多く出されている問題が、ケースワークの原則(バイステックの7原則)に関する問題である。

社会福祉士であれば、この原則を諳んじられない人はまずいない、と言ってよいと思う。しかしその内容の理解には差があり、時に「そういう意味じゃあないだろう」と思う考え方をしている人に出会うときがある。しかし理解不足であれば、勉強しなおしてもらえばよいが、時として、勝手に都合よく解釈して、自己の行動の正当化に使う例がみられる。

数年前、表の掲示板で相談されたケースであるが(詳細は覚えていないが)たしか生活保護受給者で認知症が現われてきた独居高齢者宅に保護担当のケースワーカーが訪問した折、当該利用者が高熱を発し、起き上がれない状態で苦しまれていた。しかし保護担当者は状況を確認しているのに、何もせず、自らの調査を終えると役所に戻ってしまった。

あとで大家さんが状態に気づき、あわてて救急車を呼んで、担当のケアマネにも連絡した。

担当ケアマネはその日、保護担当のケースワーカーが利用者宅を訪ねたことを知って、状況の確認とともに、なぜ、そのとき必要な対応や担当ケアマネに連絡してくれなかったのか、ということを保護担当者に問い詰めたところ『救急車を呼ぼうとしたが、利用者本人が「病院には用はない。誰にも連絡せんでも大丈夫だ」と言ったため、それが自己決定である』として、そのまま役所に戻り何の対応もしなかったということであった。こんな対応が許せるでしょうか、という内容のスレッドであった。

実際にこんな対応を行う保護担当のケースワーカーがいることも驚きであるが、相談があったのは事実である(勘違いしないで欲しいが我々の知る周囲の保護担当の方々は、このようないい加減な人はほとんど見当たらない)。

しかしこのケースのような事実が実際にあったということであり、ここでの「自己決定であるからその意思を尊重して何もしなかった」という理屈は開いた口がふさがらない。我々専門職は、そんな理屈に対し、きちんとケースワークの原則の意味に即して反論できなければならない。皆さん、大丈夫だろうか?

「自己決定の原則」とは、ケースワーカーが被援助者の自ら選択して決定する自由と権利とニードを具体的に認識することである。そしてその権利を尊重しニードを認めるために被援助者が利用できる適切な社会資源を地域社会や被援助者自身の中に発見して活用するような支援を行なう責務を持つという意味である。

しかし人が何かを自ら選択し、決定する自由は全てが許されることとイコールではない。

個人の権利は社会における他者の権利によって制限される場合もある。
つまり個人の権利は他者の権利を尊重する義務を伴うものである。人の自由はそれ自体が目的ではなく、幸福な暮らしを手に入れる手段なのだ。

当然、人生における選択と決定を自ら行なう権利は道徳的な悪を選んで行為することを許しているわけではないし、コンプライアンスとしての制限も生じる。何より、被援助者自身の能力を超えてまで自己決定を強いるべきではないとされている。

つまり自己決定の原則は、その前提に、被援助者の積極的かつ建設的決定を行なう能力の程度によって、また市民法・道徳法によって、さらに援助機関の機能によって制限を加える必要が生ずるものであり、自らの命や他者の命を危険にするような自己決定は認められないし、あらゆる手立てを講じても自己決定ができない利用者については援助者が彼らに代わってニーズを表明し、方法を選択し意思決定を代弁することによって利用者の基本的人権を守ろうとすることが優先されるのである。

切迫した状況で命に危険がある状況で、被援助者本人の決定能力が低下している際において優先されるべきものは何か。本ケースの保護担当者の言い訳はいかにケースワークの原則に外れたものかが理解できると思う。

いやケースワークの原則に外れる前に、人の道に外れているというごくありきたりの常識である。

しかし得てして生半可な知識しか持たず「ケースワークの原則」論を振り回す輩には、それ以上の専門知識を「振り上げて」語らんとならん場面もある、ということである。本当はこんなことしたくないんだけど・・・。(続く)

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グループワーク考。

今日は午前中、久しぶりに「回想法」を行った。

火曜の午前中に予定している定番の「遊びリテーション」の指導者が休暇をとったため代行というわけである。

当施設では、火曜と金曜の午後からは療育音楽などというように、予定があらかじめ組まれた集団活動がある。

といえば脱集団処遇を叫ぶ輩からはいかにも「大規模施設における集団的サービス」として批判を受けるであろう。

しかし集団処遇と集団活動としてのグループワークは本来異なるもので、グループワークをすべて否定するのは、いかがなものかと思う。

個別ケアの中にも有効なグループワークを組み込んでサービス提供をしても良いと思っている。

要は、その活動に参加するか、しないかを利用者本人の希望やニーズによって決定できるという、「参加しない権利」が保障されていることと、別の活動に参加する「選択権」があれば良いのだ。

集団的な回想法や療育音楽を否定する人は、一度、私たちが行っているそれらの活動に参加している認知症の方々の表情を見てほしい。

日曜からショート利用している認知症の方で、1日中歩き回って、ひとつの場所にとどまることのない方が、約50分、活動に参加して、いきいきとした表情で過ごしている。

自発動作や、発語が減少している高齢の認知症の方が、経木に包まれた納豆をみて昔の話を大きな声で話し出したり、納豆売りの話に花が咲いたり、毎日炭を熾して煮炊きしていた苦労を懐かしげに話し合ったり、効果がどうのこうの言う以前に、皆で楽しく時間を共有している意味を考えれば無駄な時間でもないし、集団的ケアという批判もあたらない。大切な時間だ。

それは療法ではなく、生活の一部である。特別なことではない。

思えば我が施設で曜日により異なる定番レクリエーションメニューを行うようになったきっかけは、以前、入浴日が固定していたことによる。

今では、毎日入浴ができる体制になっているが、つい数年前まで入浴日は週の2日しかなく、その日に全員の入浴を行っていた。当然、ショート利用者は、その入浴日に利用日が該当しないと入浴をせずに利用終了というケースもあったわけである。

現在では毎日が入浴日だから、その中で希望の日に入ればよいし、ショート利用者も入浴ができないということはあり得ず、毎日入浴する利用者もいる。

話がそれた。
さて入浴日が固定されていた当時、入浴日は介護職員は入浴介助だけで1日が終わるような状態であった。すると職員は「入浴介助」という行為で忙しい日かもしれないが、利用者からすれば、自分が入浴している時間はわずか30分にも満たないが、職員が忙しそうにしているので必要な介助を遠慮して訴えなかったり、入浴以外の時間を過ごす「暇」を持て余す、という状態があった。

そこで入浴日にも、皆が入浴に専従しないで、利用者が楽しめるサービスに係わる職員を作ろうということで、レク担当者といういのを日替わりで決め、担当者は一定時間、入浴等の介助に係わらず、自分で様々なメニューを考え、利用者と「共に過ごす」という形に変えたことがきっかけで始まった。それが、いつか定番のレクメニューと代わっていったものだ。

だから今のサービスの形も、どんどん変化していくだろうし、変化しなければ、利用者の多様なニーズに応えていくことにはならないという側面もある。

なんでも固定的、保守的な考えに偏っては成長しない。

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制度の光をあてるもの。

今年の北海道はこの時期になってもまだ寒い。朝晩などは未だにストーブが必要な日もある。
6月にこんなに気温が上がらない年も珍しいように思う。

昨週は雨の日が多く、すっかり北海道の夏のイベントとして根付いた「よさこいソーラン祭り」も雨にたたられる日が多かった。最終日は何とか雨が降らず良かった。大変すばらしいイベントであるが、各テレビ局どこも「よさこいソーラン」一色の週末で、うんざりしたのは僕だけであろうか。

さて、気のめいるニュースが多い昨今であるが、最近また、介護問題に絡んだ事件が目に付いている。

昨日も、大阪で81歳の夫が、77歳の妻を「看病に疲れ後で自分も死のうと思った」として絞殺する事件が起こっている。

肺気腫などの持病で酸素ボンベが離せない81歳の夫が、10年以上、人工透析を続ける寝たきりの妻の介護に疲れ果てての結果である。

いかなる理由であっても人を殺めることは認められないが、犯罪者となったこの夫一人の問題とするのはあまりに酷な状況であろう。

老老介護の問題、介護の長期化の問題、核家族化による介護問題、思えば介護保険創設時に、介護を個人でなく社会全体で担う、という仕組みの構築の為の理由として指摘された問題がすべて含まれている。

介護保険制度が創出されても、介護の現場にその制度の光が届いていないという現実がまだ数多くあるのだ。

いや介護保険制度ですべての介護問題を解決できるということ自体が幻想だ。制度は、高齢者一般とか、障害者一般とか、不特定多数の最大公約数に対して手当しているもので、社会の隅々に横たわる個々の問題については制度だけでは手当できない。

すべての人に光を当てる制度など、この世に存在しないのだ。

しかしそれらをできるだけ多くの対象者の支援につなげたり、影の部分を減らし、光が届く範囲を広げるためには、ソーシャルケースワークをはじめとした、援助者の活動が不可欠だ。何も社会福祉の専門家の活動だけでなく、地域の人間関係がこの役割を担う場合も多く、過去の日本はこの機能を各地域でたくさん持っていた。

ところが地域社会が変容し人間関係が希薄となりつつある社会が、影の部分に光を当てることができず放置する社会を作っている。

読売新聞社が実施した全国世論調査(面接方式)では、社会の人付き合いや人間関係が希薄になっていると思う人は、2000年7月の前回調査よりも7ポイント増え、80%に達しているそうである。それも希薄になっていると思う人は、大都市よりも、中小都市や町村で急激に増えており、人とのつながりの喪失感が大都市部だけでなく、全国的に広がっていることが浮き彫りとなったとされている。

この結果が地域社会の実情を表している。

また厚生労働省の調査では、高齢者などの介護をしている家族の4人に1人が軽度以上のうつ状態にあることがわかっている。介護者が65歳以上の「老老介護」では、介護者の3割以上が「死にたいと思うことがある」と回答、体の不調を感じている人も5−6割に上り、介護負担の心身への影響の大きさがあらためて裏付けられている。

つまり介護問題から生ずる事件は、人事ではなく、自分がその立場に置かれたとき「どうするのか」という深刻な問題なのである。

そのとき、身近な地域社会に相談できる人や資源があることが重要だ。

しかし在宅介護支援センターがなくなって、地域包括支援センターが、地域での介護問題を「発見できる」システムを持っているのかを考えたとき、現状の地域支援事業と予防プランで手一杯の現状では、そのことは期待薄である。

地域社会が変容し、地域での人間関係が希薄になっている今こそ、地域で支援する行政システムの役割はより重要である。それは行政が何かをする、という意味のみにとどまらず、行政が中心になって支えあう地域社会を再構築するためにも重要な役割があるのだと思う。

しかし現実には、その機能はますます軽視されていく。人を思いやることを大事にしない政策が地域社会を崩壊させていくことを座視していてはいけない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

面接の技法2〜自己覚知について

人の相談にのるということは特別なことではなく、専門職にしかできないことでもない。

人としての真摯な態度が基本にあれば、誰もが良き相談者となり得る。

しかし専門的立場で援助に携わる場合は自ずと責任が生じ、必要な知識や技術をベースに持った上で、まず人として関わる、という態度が必要だ。ソーシャルケースワークの原則もそうであるが、その前に、自分の価値観を一方的に相手に押し付けることがあってはならないという前提があり、その理解に必要なのが自己覚知である。

昨今、自己覚知の必要性が叫ばれることが少なくなってきたように思え、今日はこのことに触れてみたい。

自己覚知とは、自分が今、どのような行動をとり、どのように感じているかを客観的に意識できることである。

普通、人間は他人を見るとき、自分の道徳的標準や感情によって影響されやすく、しかもそのことに気づきにくい。

もしワーカーが利用者との対人関係に自分自身の先入観を持ち込んだり、自然のままに自分の感情で相手を律するなら、その人を受容することにはならない。

そして利用者自身の問題を客観的に理解できず、良い関係にはならない。

またワーカーが内在的葛藤に苦しみ、解決していない場合は利用者の問題解決を援助する能力にまで影響を与える恐れがある。

これらのことを知ることが重要だ。これが自己覚知である。

しかし自己覚知はもっとも重要でありながら、もっとも困難なことでもある。それだけにワーカーは意識して自己覚知に努めなければならない。

例えば、ある出来事に対し、自分と他者の態度に大きな相違が見られる場合がある。

普通、誰でも自分がどんなことに耐え難い感情を持っているかを自覚しており、人によっては飲酒家を許せるが喫煙者には我慢がでないという人もおり、怠惰者に我慢ができない人もいれば、怠惰には何の感情も動かず、嘘をつくことが最大の罪だという価値観を持っている人もいる。

このようにワーカー自身が、けしからんと思うこと、許されないとみなしていることが何なのか発見できるなら、それだけ自分の感情を自律的に統御することが可能になる。

こうした偏見というような感情や意見を持つこと自体は、人間として不自然ではない。

しかし専門職としての立場で偏見が介入するのは、職業上不適当である。

要は、その感情を否定するのではなく、素直に正確に認識することである。

つまり自己覚知とは、自己をあるがままに受け入れることである。

社会福祉援助者の自己成長とは、知識と技術を習得し、それらを職業倫理や、態度、価値の枠組みの中に包合することを意味する。

しかし知るだけでなく、変化しなければならない。しかも知識、技術、洞察力なしには、この変化は不可能である。

ワーカーは自らを振り返って、自己分析を行い、洞察し、自分の心理や行動を理解するように努め専門職業態度への変化に努力してこそ利用者に対して必要な援助をなし得る、と言っても過言でない。

ワーカーは利用者の意識、あるいは前意識の領域を扱うのであり、自分自身の意識の面を整理することが重要で、自己覚知は対人援助の基本なのである。

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面接の技法。

面接の技法といえば、時期柄、入試の面接や、就職面接のテクニックと誤解される向きもあろうが、そうではない。

相談援助場面における、面接の技法について、今日は少し触れてみたい。

ホームヘルパーの養成講座でも、ヘルパーの相談援助に関連して、面接場面の技法に触れざるを得ない部分がある。しかし、その時間はわずか2時間程度である。

もちろんそれ以前に、バイスティックの7原則や、自己覚知について話をする時間を取っているのだが、いかんせん限られた時間の中であり、基本原則しか講義できない。

我々ソーシャルワーカーは、その原理原則を大学時代の4年間で様々な角度から、知識を得て、鍛えて活用するまでに訓練するのだが、ヘルパー講座など短い時間でこのことを説明する際に気をつけなければ、面接を説得術、と間違えて理解させてしまう恐れが多分にある。

まずヘルパーのテキスト内容を見ると、面接技法に関連し、カウンセリング技術が取り上げられ、1.傾聴の技法、2.励ましの技法、3.言い換えの技法、4.要約の技法、5.質問の技法、6.明確化の技法、7.積極技法、などが挙げられている。

これが問題だ。

ソーシャルケースワークの原理原則をきちんと理解しないで、面接場面の技術に捉われてしまうと、利用者の声を聞く、声なき声も聞く、という面接の本来的意味を忘れて、聞くより先に、しゃべりたがる援助者を生んでしまう。

ヘルパーの面接場面に限らず、我々の面接場面というのは面接室で行なう場合に限らず、別な援助を行ないながら、とか、何気ない生活場面の中で急にそういう場面に切り替わる、という状況が極めて多い。

利用者から「話を聞いてほしい」と求められて会話する中で、結果的に面接場面となる場合も多い。

その時、我々に求められていることは、答えを示す、ことではなく、とりあえず訴えに耳を傾ける、ことなのであり、話す、ことより、聞くことなのである。

だから前述したテキストの内容にしても、僕はまず、いかに聞くことが大事であるかを述べた上で、技法としての「傾聴」ではなく、真摯に援助に当たる立場として、あるいは人と向かい合うときの基本姿勢としての「傾聴」が大事であることを強調する。

極端に言えば「傾聴」のない技法は邪魔者以外のなにものでもない。

傾聴できる態度が身についた時、あらためて技法の理解に努めても遅くないのだ。

援助者と被援助者という関係に限らず、我々の日常生活の中でも、3つを聞いて10を理解する、という頭の良い方がいる。人に質問して、答えを完全に示していないのに結論を理解してしまうタイプだ。

あっていることもあるし、まちがっていることもある。

しかし、このタイプが、援助者であってはたまらない。相談者は、あなたの価値観を聞いているんではなく、私の訴えを聞いて欲しいのだ。

友達から恋愛の相談を受けて、何も答えられないで、相槌さえもうてなかったけど、「聞いてくれてありがとう」と感謝されたり、またその逆の経験をお持ちの方は多いのではないだろうか。

面接を単に職業的、専門的な技術として捉えてもらっては困るのだ。

いかなる人にも人生は面接の連続であり、そこで人生の方向が決まる。そこには真摯に人と向き合う姿勢が大切で、必然的に受容と理解の態度が必要になってくるが、その前提は「人の話を聞く」事であることを忘れてはならない。

相談場面で相談者より、あなたの方がしゃべってはいないか、気をつけたほうが良い。

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ソーシャルケースワークとは何か。〜その意味から見えるもの。

私の施設の職名の中に「相談員」という職名はない。

基準配置上、相談員に該当する職員はソーシャルワーカーと呼んでいる。

その理由は、高齢者生活施設の相談援助業務が(相談員という職名になる以前の)老人福祉上の「生活指導員」という呼称に違和感があったからで、総合的な援助を行なう専門職として利用者には解りづらいかもしれないが(どうせ職名で呼ばれることは少ないだろうし)ソーシャルワーカーという職名に統一したものである。

ところで、ソーシャルケースワーク(社会福祉援助技術)とは何だろうか?このことを少し考えてみたい。

ウイットマーはソーシャルケースワークについて「社会福祉の活動は制度的組織の改善に向けられるが、ソーシャルケースワークは、この制度的組織を個人がより良く利用することに向けられる」とし、フィンクは「社会福祉を各部分によって組み上げられた組織体系とし、その内部においてソーシャルケースワークが人々を援助すべく活動する」としている。

このように社会福祉とソーシャルケースワークは、それぞれ制度と対個人援助活動として捉えられており、前者は一般的・固定的と考えられ、後者は個別的・力動的と考えられる。

すなわち社会福祉とは「人々の社会生活をめぐる福祉の達成と維持向上を国家・社会が援助する理念であり、それを具現化した政策・制度のシステム」といえるのである。

そして問題は、その内実が、援助を目標にした具体的制度から成り立っているとはいえ、制度自体がもともと多数な人々の共通のニーズに対応し、一括的処理を目指す画一的側面を否定できないところにある。

例えば、高齢者福祉事業は高齢者一般として一括処理されており、確かにそれによって、ある特定個人は生活が守られ福祉実現に近づくが、制度が真に個人に役立てられ、個人の福祉を確保するためには、その個人を焦点とした、きめ細かな援助活動が不可欠になる。

それを担うのがソーシャルケースワークなのである。

例えば、Aさんという高齢者がいたとして、Aさんは高齢者一般の福祉対策上に捉えられるが、彼は、高齢者であるという以前に、他の高齢者とは事情を異にするAという一人の個人である。

そして、一人ひとりの個人の福祉の実現を完全にするためには、Aさんという一人の人間としての個人に着目する必要があり、そこに個別化というソーシャルケースワークの不可欠要素が生まれるのである。

しかしここで言う「個別化」は、教育場面などでいわれる特定生活場面での「個別化」ではなく、個人そのもの、あるいは全体としての個人の福祉(発展成長)を目的とし、それゆえに生活のあらゆる場面に配慮を及ぼす「個別化」といえる。

個人の能力と環境の諸力を全体として取り上げ、個人の問題解決と福祉の実現を目指す個人的焦点アプローチとしての「個別化」はソーシャルケースワーク固有のものであり、ゆえにソーシャルケースワークは個人との何らかの距離を有する固定的な制度や施策を、個人を焦点にし、個人を中心にダイナミックに援助活動を展開させることで、それら制度・施策が個人に光を当てるものにする可能性を持つのである。

つまり社会福祉が究極的に一人ひとりの個人の福祉の確保、実現だとすれば、ソーシャルケースワークなくして、その具現化は不可能である。

個人が社会に接続される時々において、社会における生活単位としての個人が把握され、その問題が明らかにされ、必要なときに適切な援助が与えられるのがソーシャルケースワークの役割である。

なんのことはない、これはケアマネジメントの理念と同様ではないか、というよりソーシャルケースワークの1援助技術にケアマネジメントが含まれているのだ。

介護保険制度は、たしかに不合理な部分を内包している、制度としても未成熟な部分が多い、しかし我々ソーシャルワーカーやケアマネジャーが、一人ひとりの個人への援助の実現を目指すことで、制度は真に人を救う手立てとなるし、逆を言えばソーシャルケースワークの視点のない制度は真に個人を救済しないのだ。

ケアマネジメントはこうして利用者個人に制度の光を当てるためにあるんだ。事業所の利益誘導のためにそれを利用しているのは、どこのどいつだ!!

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集団処遇と集団活動(グループワーク)の違い

「いまどき、集団の活動プログラムを行なっているんですか?」

当施設を見学していた、ある老健の某職員が、療育音楽を行なっている場面を見ての感想である。

某職員曰く、「施設も個別ケアが重視されてきていて、集団で何かを行なうというのは古いのではないですか。もっと個別ケアをとりいれなきゃあ」
当施設A「個別ケアの取り組みって具体的にどういうことでしょう」
某職員「日課のない生活ですよ。いまどき何曜日の何時にレクリーエーションでもないでしょう」
当施設A「某さんの施設の利用者は、それぞれ日中どんなことをして過ごしてるんですか」
某職員「いろいろですよ。それぞれお部屋で好きなことをしています」
当施設A「中には、することがわからなくて、何もしないでごろごろしてしまう方はいませんか」
某職員「うーん。まあそういう人もいますが、それぞれの生活ですから」

現実の会話である。
日課のない暮らしってあり得るのか?
個別ケアを、施設が何もしない、施設が選択できるプログラムも提供しない、と捉えてしまうから、こんなおかしな考えが生まれる。

求められている個別ケアとは、まさに個人の生活の課題や希望に沿ったケアサービスの提供を意味し、施設の日課や決め事、プログラムに、利用者を無理に合わせようとすることは間違っている。

しかし日課がない、というのは少し違って、施設の日課を利用者に強要しない、利用者の生活は施設の日課により規定されない、というのが正しい。なぜなら、生活を送る上で個人の日課が全くないという人はいないからだ。

朝何時に起、夜何時に寝る。というのは、ほとんどの人は生活習慣上ある程度決まっているはずだ。人によって、入浴は夕食後が良いという人もいれば、食前が良い人もいるし、朝風呂を習慣にしている人もいる。毎日気分で変わるというのは少数派で、人にはある程度、自分なりの生活習慣やスタイルがあるのだ。

個別処遇とはそういう過去や現在の生活習慣を、できるだけ実現してサービス提供ができることだ。

グループワークもそういう個人の生活の一部になれば、これは必要な生活習慣だし、それを行なうことのメリットも大きいと考えられる対象者もいる。そういう方法を選べないのは不幸だ。選択性のある活動を、それぞれの体調や好みで選べるのであれば集団活動=集団処遇にはならない。

今、我々のケアの現場は、ある活動に全員が参加するのではなく、ある人は入浴をし、ある人は外出をし、ある人は療育音楽で手足を動かし、声を出して楽しみながら機能活用をしている、という生活作りを目指している。

むしろ選べるメニューがたくさんあって、その中に自分の居場所を確保できることが、個別ケアの展開過程には重要だ。

何も日課がないから部屋で日がな1日TVを見て過ごすことが個別ケアではない。
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