masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

社会福祉援助技術

価値観が変化する自分を覚知するために


人の価値観は様々である。その多様性は宇宙より広いと言っても過言ではない。

人によっては飲酒は許せるが、喫煙は我慢できないという価値観もあれば、その逆もある。

人によっては怠惰が最も許せないという価値観もあれば、嘘をつくことが最も許せないという価値観を持つ者もいる。

こうした価値観や意見を持つこと自体は人間として不自然ではない。そしてその価値観は、どちらが正しいとか、どちらが間違っているとか言えるような問題ではないのだ。

だからと言って自分の価値観によって受け入れがたい行為だからと、否定的な感情を相手にぶつけることがあっては人間社会は成り立たない。飲酒が許せないという価値観を持っている人が、その感情は決して否定されないからと言って、酒を呑む人に罵倒を浴びせてよいわけがないのである。

しかしこうした極端な例ではなくとも、自らの価値観を根拠に、わけもなく人を非難したり、蔑んだり人がいたりすることも事実だ。ネット社会の中で匿名の批評家が増える中で、こうした風潮が広がっていることは心配なことでもある。

自分の価値観を前面に出すことができるのは、あくまで法律や社会規範に沿って行動していることが前提となるし、他者に迷惑を及ぼす行為はどんな価値観に基づいていても、人としての品性を問われる結果にしかならない。

よってこうした社会だからこそ、感情をどのようにコントロールするのかを真剣に考える時間を持つ必要がある。

ところで僕たちソーシャルワーカーは、職業場面で様々な価値観に向かい合うわけである。そこでまず必要になることは、多様な価値観を受容するということである。

だからと言って、自分独自の価値観を否定する必要はなく、対人援助者であっても、人それぞれに多様な価値観は認められて当然である。

そうであるがゆえに、対人援助の場で対応する相手に対し、否定的な感情を抱くことも、十分あり得ることなのである。それは神ならざる身にとっては、致し方のないことだと言えるのだ。

僕たちに求められているのは、そうした自身の感情を否定するのではなく、素直に正確に認識することである。誰のどのような状況を否定的に捉えやすいのか、あるいは肯定的に受け入れることができるのかという自分の感情のあり様・揺れ方を把握理解することが、対人援助のスキルとして求められているのである。

そのことを自己覚知と呼ぶ。

つまり自己覚知とは自分をあるがままに受け入れることであり、その感情をコントロールすることなのである。

それは対人援助という専門職としての立場に、個人的価値観が影響するのは好ましくないということを意味している。僕たちの仕事は、いろいろな生活歴を持ち、様々な性格を持った人と向かい合う仕事なのだから、偏見や偏った判断を生む要素をできるだけ排除しておかねば、対人援助ではなくなるのだ。

僕たちは援助する前に、「審判」してはならないのだ。

その為の自己覚知は、アンガーマネジメントの基盤ともなる。自己覚知のないところで、怒りが深刻な問題にならないように上手く制御し管理することは不可能だからである。

例えばアンガーマネジメントとしてよく言われていることは、ピークは初めの6秒間であるということは極めてポピュラーな知識である。その6秒間の怒りを鎮めるために、数を数える・深呼吸する・その場から離れる・自分に言葉をかける・考えることをやめることが方法論として挙げられている。

しかしいくらこうした方法論を覚えても、自分の怒りの感情がどのような理由で、どのような方向に向かう傾向があるのかを理解しないと、その場しのぎの継続性がないものに終わってしまう。

アンガーマネジメントは、一時的な怒りの感情を鎮めるためにあるのだから、その場しのぎ良いという意見も当然あろうと思うが、どうせマネジメントするなら、自分自身の成長につながるものであれば、それに越したことはない。自己覚知はその成長を促す、「絶対要素」と言ってよいものだろう。

しかし自己覚知は無意識には生まれない。一旦生まれた自己覚知も、意識のないところで存在し続けることは出来ない。なぜなら自身の価値観は、環境や年齢が作用する要素が強く、常に一定ではないからだ。

だから対人援助に関わる人々は、常に自己覚知を意識して、自分自身の価値観とはどのようなものかを理解する訓練を重ねていく必要がある。

介護事業者の管理職やリーダーの立場の人であれば、自己覚知を部下促していく役割も担わねばならない。
自己覚知を促す演習
その時にどのように自己覚知を促すかというヒントになるのが僕が提唱する、「自己覚知を促す演習」である。そしてこの演習は、やってみると意外と楽しいことがわかる。楽しみながら自己覚知につなげられるのである。

僕の著書、「人を語らずして介護を語るな(THE FINAL)〜誰かの赤い花になるために」では、このことを詳しく解説したコラムも載せているので、是非参考にしていただきたい。

自己覚知を促すことによって、今まで見えていなかった世界を見つける職員も多くなると思う。それはもしかしたら、介護の仕事が益々好きになって、長く続けようとする動機づけにつながるかもしれない出来事なのである。

自己覚知を促す演習は、そうした効果を期待できる有効な機会なのである。
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ソーシャルワークの本質


正月2日と3日の愉しみは、「箱根駅伝」だ。そのため毎年、元旦は早めに寝て、2日の朝は7時前に起きて、日本テレビの駅伝中継開始から終了まで、テレビの前にかじりついて観ている。

今年も1区から様々なドラマのような展開になって、心躍りながら観戦途中である。特に応援する大学があるわけではなく、その時々に感動を与えてくれる、「走り」を応援している。そんな中、今年も北海道出身の選手たちが頑張ってくれているので、うれしい限りだ。

現在4区も終盤に入って、青山学院大学がトップで5区へのタスキ渡しをしそうであるが、これから山登りに入ってゴールに向け、どんなドラマが展開されるのかワクワクである。

それはさておき本題に入る。

僕の専門分野でもあるソーシャルワークとは、援助に携わる者が、援助を必要とする利用者との間で、「援助関係」を築くところがスタートになる。より良い援助関係を築くことが、より良い結果に結び付くともいえる。

しかしその時の考え方が問題である。

関係を良好に築き、その関係を維持しながら、援助技術を使って支援を展開する過程では、「利用者にどのように働きかけるのか」ということが、援助技術としては最も重要だと考える人がいる。

そういう人たちは、どのような助言を行って利用者に働きかけるのか、どの様に共感の態度を示して利用者に働きかけるのかということを重視しようとする。確かにそういう働きかけは、より良い援助関係を築いて保持するためには必要な態度と言えるだろう。

しかしソーシャルワークで、最も重視されなければならないことは、「利用者への働きかけ」ではなく、「ソーシャルワーカー自分自身に働きかけること」であるということに気が付いてほしい。

ソーシャルワークの中核となる実践技術は、「自身への働きかけ」なのである。

「相手への働きかけ」を中核と考えてしまえば、うまく働きかけることにこだわりすぎて、働きかけても何も変わらない、良い結果にならないことに、ワーカー自身がプレッシャーを感じ、ソーシャルワークの本質である、利用者自身が答えを見つけるということを忘れて、ワーカーの価値観を押し付けてしまう結果になりかねない。

そもそも人間は複雑な存在で、働きかけて結果が必ず出るとは限らないのである。

そうであるからこそ、ソーシャルワーカーは自身に働きかけて、利用者に対する偏見や苦手意識を自己覚知することが大事である。それができてこそ無理やごまかしのない、「自然な援助の態度」に至るのである。

援助対象者の中には、「気難しくて苦手な人」も存在するだろう。そういう人に関わることに抵抗を感ずることは決して恥ずかしいことではなく、ごく普通の人間の感情としての自己防衛である。

ソーシャルワークの基本原則が、「丁寧な傾聴」と「受容」であることはわかりきったことではあるが、感情のある人間が常に、何の障壁もなく相手を受け入れられるとは限らない。ワーカーが利用者にマイナス感情を抱くことは有り得ることなのである。

それを克服するための、「自身への働きかけ」は必要不可欠であるが、そうした過程において、自信への働きかけと自己覚知を、すべて自分だけで行う必要はなく、適切な援助やアドバイスを求めることも大事である。

そのためにワーカーが、自分より経験と力量があり、適切なアドバイスができる他のワーカーに援助してもらう過程が、「スーパービジョン」である。

今月1月17日(金)10:00〜16:30の予定で、福井県自治会館で行われる、福井県介護支援専門員協会主催の介護支援専門員資質向上研修研修、「スーパービジョンとOJT」では、『すべての「人財力」を活かす魅力ある職場つくりのために』をテーマに講演予定が入っているが、当日はスーパービジョンを中心にした、ケアマネジャー教育について語りたい。

そのため正月返上で、現在講演スライドづくりをしている最中だ。

なお翌日の1月18日(土)10:00〜16:30は、丸岡総合保健福祉センターいきいきプラザ霞の郷・多目的ホールで行われる、福井県介護支援専門員協会さかい支部主催研修で、『介護保険制度の今後の動向と介護支援専門員に求められる役割〜医療・介護連携からターミナルケアまで』をテーマにした講演も予定している。

福井の皆さん、年明けはどちらかの会場でお愛しましょう。

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ケアマネに対するスーパービジョンに必要なスキル


新人職員を教育する過程で、必要な援助過程としてOJTやスーパービジョン(以下SVと略)、コンサルティング等がある。

この中で専門職が成長動機を持った時に、その動機付けを支持し、専門職として一段高いレベルに引き上げることに有効に作用するのがSVである。しかし日本の介護事業者におけるSVは体系化がされておらず、その過程が存在しない職場が多い。それが介護支援専門員のバーンアウトにもつながっている。そこで今日は介護支援専門員を育てるためのSVについて考えてみたい。

そのためにはまず初めに、OJTとSVの違いを明確にしておく必要がある。

OJTとは、On-the-Job Training(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)の略称で、実際の職場で実務を通して学ぶ訓練のことである。そしてOJTは、ほとんどの職場で新人教育として行われていると思われている。しかし本来のOJTとは意図的・計画的・継続的なものである。

職場全体でOJTに対するそのような理解がなく、トレーニングすべき側の先輩職員にOJTツールが与えられていない状態で、伝え教えるべき知識や技術の根拠も説明できない状態で、単純に作業労働の手順を教えるやり方というのはOJTとは言えない。

自分の仕事ぶりを見せて仕事を覚えさせるのは職人技の世界であり、介護事業者の教育方法としては不適切である。きちんとOJTツールを作って、それに沿って計画的に介護知識と技術を伝えていかねばならない。そのことがサービスの品質の基盤になっていく。

つまり多くの職場においては、作業指導しか行われていないのが実態で、専門技術の指導の基本となる教育課程が存在していないのである。そのような職場においては、良い人材は偶然でしか育たない。よってこの部分からの改善が急がれているといって過言ではない。

ただし介護支援専門員を含めたソーシャルワーカー等の専門職は、OJTだけでは育成できないことにも留意が必要だ。

専門職は単に仕事の手順を教わるだけではなく、スキルアップの動機づけを与えながら自己成長を促す過程が必要不可欠なのである。特に自らのスキルを疑いながら成長しようとする過程が必要で、その時に必要とされる教育課程がSVであり、SVが機能してこそ成長動機を持つ人の背を押すことができて、専門職が一段高いステージに登ることができるのである。

しかしそのSVが存在しない介護事業者の方が多いのが実態である。そのことが日本の介護事業者で介護支援専門員を含めたソーシャルワーカーが育ち難くさせている大きな要因でもある。

介護支援専門員という職種は存在していても、その職種に対して社会が要請する能力に応えられる十分なスキルを持った存在がいない職場では、このSVが存在していないか、機能していない場合がほとんどだ。

ではSVとは何だろうか?

SVとは、「熟練した専門職員が、初級職員等に行う職務能力を向上させるために行う支援」のことである。

社会福祉援助を必要とする人は、それぞれ様々な生活史を持ち、能力や個性も異なる。そうした人が抱える生活課題も多種多様で、生活課題に結び付く原因も生活環境も様々である。だからこそ支援する側が専門的な勉強とトレーニングを積み重ねても、解決困難な事柄がたくさん出てくる。経験を積むだけでは課題解決には限界が生ずるのである。

だからこそ自分より熟練した同じ専門職により、アドバイスや支援を受けられることが重要であり、SVが求められてくるわけである。よってSVにおける指導者(上司・先輩)には経験だけではなく、経験を糧にした熟練の知識と技術を持つことが求められるのである。そうした指導者にSVを受けたいと思う人が、適切にその過程を踏むことが出来る職場が、安定的に専門職を育てることが出来るわけである。

つまりOJTとSVの違いとは、OJTが職場の求める業務を追行できる職員を育てるために行う過程であり、職員がOJTを求めているか否かにかかわらず実施されるプログラムであるのに対して、SVは、上司が部下に対して行う場合であっても、上司(スーパーバイザー:以下SVRと略)が、部下(スーパーバイジー:以下SVEと略)の求めに応じて行うもので、SVを求めるSVEがいない限り成立しない過程である。

またOJTは即戦力の育成を目的として、即実践が前提であり、期間を定めて行うのが普通であるが、SVはSVEの学習速度に合わせて進められ、SVRはそれに寄り添うことが求められ、急がず期間も定められないのが普通である。そういう意味では、SVにおけるSVRとは、「教える」・「導く」人ではなく、SVEに焦点を当て、「丁寧に聞き」・「語りを促す」役割を持つ人と言える。

どちらにしてもSVは、単に仕事ができる人を育てる過程ではなく、より良い仕事を目指す動機づけを持つ人を成長させる過程なのである。

そしてSVRには、SVEが目指す以上の仕事の熟練が求められるだけではなく、SVEが指導を受けたいと思えるような人間的魅力も備えていないとならない。なぜならSVは、職場が命令して受けされるものではなく、SVEが望んで受けるものであり、指導者も職場が決めるのではなく、SVE自らが選ぶというのが基本だからである。

介護支援専門員に対するSVであれば、何よりも介護保険法における介護支援専門員の位置づけを知る人でなければSVRにはなれないし、居宅介護支援におけるケアマネジメントにしても、施設ケアマネジメントにしても、法令・運営基準をしっかり把握していないとSVはできない。

ソーシャルワークとは何ぞやという知識があっても、介護支援専門員の業務の大部分は、制度の中で動くことになるのであるから、制度のルールが把握できていない状態で、SVRの役割は果たせないのである。

ソーシャルワークの原理原則とは関係しない、ケアプラン作成上の担当者会議の法令ルールにおいて、居宅サービスと施設サービスにおいては、異なったルールがあるということなど、細かなルールを知っておかねば本当の意味でのSVはできないものと考えている。

よって昨日までSVができるSVRであっても、明日もその状態でいられる保証はないということだ。毎日変化する社会のニーズや、定期・不定期に更新される法令ルールにも対応しておく気構えとスキルがないと、SVRの役割は果たせない。そういう意味では、情報や知識を常に吸収するエネルギーを持った人しか、SVRの役割は果たせないといえるのである。

ちなみにコンサルテーションとは、独立して職務を遂行できる能力がある専門家が、ある特定の専門領域の秘術や知識について、助言を得る必要があるときに、その領域の専門家に相談し、助言を受ける過程を言う。

つまりコンサルテーションを受ける両者に、上司と部下のような上下関係が存在するものではなく、任意な対等の関係の上で行われる。つまり両者はパートナーの関係であり、SVのように評価の責任を負うものではない。そして一般的にはSVが同一職種間で行われるのに対し、コンサルティングは他職種との間で行われることが多い。(※例外はある。同一職種間でも得意分野が異なればコンサルティングは成立するからだ。)

どちらにしてもSVを有効にするSVRとは、専門知識と技術を持ち、それを生かした熟練の仕事ができる人であり、かつ指導者として人間的魅力にあふれたスキルを持った人が、それにふさわしいと言えよう。

知識や技術や実績があっても、部下を感情的に怒る上司は、その役割を担う存在にはなり得ないといえるのではないだろうか。

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大人の知恵熱を冷ますスーパービジョン


赤ちゃんが生まれて、ちょうど知恵がつき始める生後6か月ごろから1歳ごろまでに、急な発熱が起こることが多い。これは俗称、「知恵熱」と呼ばれている。

あたかもそれは、人が知恵を得るために必ず通らねばならない試練であるかのようだ。しかし人の成長過程では、同じような試練の時期が必ず存在する。大人が成長するための通過儀礼のような辛い時期が誰にでも必ずあるのだ。

社会人としてスタートを切った新人が、意欲と希望に燃えて仕事を覚えていく途中で、自分の能力や仕事の意義に疑問を感じて停滞期に入ることがある。この停滞期を僕は、「大人の知恵熱」と呼んでいる。

それは遅かれ早かれ誰にでも起こる現象で、この時期を乗り切ってこそ、プロとしてふさわしい仕事ができるようになる。そもそも人間の成長曲線が、必ず右上がりの上昇カーブを描くなんてことはあり得ないし、それを期待しても無理だ。上に昇っていく過程では、必ず階段の踊り場があって、そこで立ち止まって休むことがあって当然である。

しかし難しいのは、休んだ後に必ず階段を昇ることができるという保障はないということだ。昇る気力を失ってしまう人がいる。上に続く階段を見つけられない人がいる。そのためせっかく昇った階段を降りてしまう人がいる。それはしばしばバーンアウト(燃え尽き症候群)と呼ばれたりする。

こうしたバーンアウトを防ぐためには、そっと手を差し伸べて、階段を昇る動機づけを与えたり、階段がある場所を見つけるヒントを与えてくれる人が必要になる。いわゆるスーパーバイジーと呼ばれる人の存在が必要になるわけだ。

特に対人援助の場でソーシャルワーク(以下SWと略)に携わる新人の場合、大人の知恵熱が起きやすく、深刻になることが多い。(※ケアマネジャーの仕事もSWであるから、同じ悩みを持つことになる。)

SWの仕事の相手は物ではなく人である。「人」という相手は、こちらが予想できない反応や行動を示すものなのだ。よって先輩から教えられたとおりに事が運ぶわけではなく、様々な感情と触れ合う中で、自分の頭で考え、自分で行動しなければならない。しかも援助の仕事には明確な手順があるわけではなく、思ったような結果に結び付かないことも多い。そのため自分の能力に疑いも持ちやすい仕事がSWともいえるわけだ。

しかも対人援助の専門家になろうと真面目に仕事をしている人ほど、知識や技術の確立に熱心になり過ぎて、全体的な視点を失ったり、してはならないことをしてしまったり、結果が出ないことに過度の自己責任を感じて、「大人の知恵熱」で立ち止まってしまう人が多い。

この時、知恵熱を冷ますことができるのが、「スーパービジョン」である。特にソーシャルワーカーは、介護職員のように先輩・同僚・後輩が数多くいて、同じ職種の中で悩みを共有したり、話し合ったりする機会に恵まれないことが多く、職場内でスーパービジョンを受けるシステムを意識的に作っておかないと、誰にも相談できず、誰にも自分の仕事ぶりを評価してもらえないというジレンマの中で、仕事に煮詰まってバーンアウトしてしまうことが多い。

しかしそうはいってもスーパービジョンができるスーパーバイザーが存在しなかったり、スーパービジョンそのものが理解されておらず、業務として機能していない職場の方が多い。

そもそもスーパービジョンは、アドバイスを受けようとする動機づけを持つスーパーバイジーがいてこそ成立する援助過程である。職場内にスーパービジョンとは何ぞやという理解がないところで、その過程が業務に取り入れられるわけがないのであるから、そこで悩みを持ったり、成長動機を促してもらいたいソーシャルワーカーがいたとしても、スーパービジョンがそれを助けてくれることを知らないことで、その機会を失ってしまう人が実に多い。

このようにスーパービジョンは、その知識がないことによって存在しなくなってしまうという一面を持つのである。だからこそスーパービジョンの理解を促す学びの場が大切になる。SWに携わる者だけではなく、職場の管理的立場に立つ人にも、是非そのことを学んでいただきたい。

来年1/17(金)と1/18(土)の2日間にわたって、福井市と坂井市で1日5時間の講演を2日連続で行う予定になっているが、そのうち17日の福井市では、スーパービジョンを取り入れた魅力ある職場づくりという観点からお話ししようと思っている。この研修は福井県介護支援専門員協会主催・介護支援専門員資質向上研修研修「スーパービジョンとOJT」として行われるもので、講演テーマは、「すべての『人財力』を活かす魅力ある職場つくりのために」である。
(※お問い合わせは、福井県介護支援専門員協会  事務局宛 FAX : 0776-60-1477)
福井市講演
翌18日の坂井市講演は、福井県介護支援専門員協会さかい支部主催研修として行われるもので、テーマは、『介護保険制度の今後の動向と介護支援専門員に求められる役割〜医療・介護連携からターミナルケアまで〜
(※お問い合わせは、ケアマネSAKAI迄 TEL:080-6351-6667)
坂井市講演
チラシ画像を添付しているが、どちらの会場も非会員でも参加できるオープン講演なので、お近くの方はこの機会に是非会場までお越しいただきたい。

スーパービジョンについては、このブログにも随時情報発信していく予定にしている。とりあえず1/17の福井市講演スライドに、その内容を入れて作成している最中である。乞うご期待を・・・。

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審判しないの意味は、尊重し支持し護るということ


バイスティックの7原則の一つに、「非審判的態度」というものがある。その意味については、僕が過去に書いたブログを参照いただきたい。

対人援助におけるソーシャルワーカーの役割の中には、利用者と社会資源を有効に結び付けるという役割もあるが、その際に、利用者に成り代わってソーシャルワーカーが何事もすべて決定するわけではない。ソーシャルワーカーとしてしなければならないことは、利用者のニーズや課題を明らかにし、それらに対応する社会資源についての情報を利用者に正確に伝え、選択肢を示したうえで、自己決定を促すことである。

勿論、何らかの事情で自己決定能力に欠ける人に対しては、ソーシャルワーカーが代弁機能を発揮して、利用者に成り代わって物事を決定しなければならないが、その場合でも、ソーシャルワーカーの価値観の押し付けにならないように最大限の注意と配慮を行ったうえで、利用者の過去の生活習慣や、ものの考え方を思い起こしながら、利用者の望みを実現する方向で物事を決めなければならない。

どちらにしても、自己決定の制限対象者でない限り、利用者の意思を何よりも尊重しなければならないのである。

介護保険制度における介護支援専門員の役割も同じであり、居宅サービス計画にしても、施設サービス計画にしても、介護支援専門員の価値感の押し付けのような計画は最悪であり、利用者の意思をニーズを結び付けて考えなければならない。これができない人は、いずれAIにとってかわられるのかもしれない。

徹底的に利用者本位を貫いて、自己決定を支援すること・・・それは終末期の過ごし方の選択についても同様に言えることだ。

例えば経管栄養については、このブログでも何度か論評している。そこでは終末期を過ごす方々のQOLを下げるばかりではなく、意思疎通ができない状態で経験栄養によって命をつないで何年も生きている人のうち、気管切開している人などは、数時間おきに気管チューブから痰の吸引をするたびに、もがき苦しむ姿が存在しており、その人たちはまるで、もがき苦しむために延命されているように見えるなどという実態を指摘している。だからと言って経管栄養が「必要ないもの」とか、「悪者視」されてはならない。

経管栄養とは医療技術の一つに過ぎず、安楽な終末期に繋がる必要な胃婁増設という考え方も成り立つし、経管栄養によって延命したいという希望もあって当然である。

延命のために経管栄養にするかしないかは、治療にあたる医師が、本人の意思を無視して決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではなく、対象となる本人の意思によって決めるものである。利用者自身が経管栄養を行うか否かを選択した後は、その判断が良かったのか、悪かったのかさえ審判する必要はなく、対象者の判断を尊重すべきである。

食事の経口摂取ができなくなった状態が治療によっても回復せず、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態であると判定されたとしても、それでもなおかつ生命維持のために経管栄養を行ってほしいという人がいた場合、その意志が何よりも尊重されなければならないし、その際に周囲の人々は、それがベストの選択であると利用者の決定事項を支持しなければならない。

このように終末期の利用者の選択に対する非審判的態度とは、単に審判しないだけではなく、積極的支持が求められるものだと思う。そうしないことには利用者自身や周囲の人々に不安を与えてしまうからである。

自らの価値観はともかくとして、自分が関わる利用者の決定事項については、決して疑わずに支持するということでしか、その利用者の尊厳を護ることにはならないということを理解しなければならない。

そんな風なことを含めて、終末期を過ごす人の支援方法を考える「看取り介護セミナー」が始まっている。第1回の札幌セミナーを終えたばかりであるが、少し期間をおいて年明けから仙台〜東京〜名古屋〜大阪〜岡山〜福岡と、残り6会場を回る予定である。

札幌会場の受講者からも、5時間という長丁場を感じさせない、内容の濃いセミナーであると評価をいただいている。看取り介護セミナーという文字に張り付いたリンク先から詳細を確認し、参加申し込みできるので、お近くの会場にぜひお越しいただけるようにご検討いただければ幸いである。

看取り介護セミナーではあるが、このセミナーは介護の質を向上させるために必要な具体策が満載されている。そういう意味で、介護サービスの品質向上を目指している介護事業経営者の方は、是非、ご自身並びに職員さんの派遣を検討していただきたい。
看取り介護セミナー2
看取り介護セミナー1

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ソーシャルワーカーとしての思い


人と人が支えあうということは、本当はすごく何気ないことで、決して難しいものではないのだと思います。

その必要性は理屈で説明するようなことではなく、人として人の存在を尊く思い、命をはかなさを思いつつ、だからこそ命を尊ぶことが誰かを支えようとすることにつながるのだと思います。

ソーシャルワーカーの務めの一つは、このことをみんなにわかっていただけるように活動することなのかもしれません。そんな風に考えています。

私たちソーシャルワーカーが介入するものとは、個人の暮らしという最も個別性の高い領域です。暮らしの専門家とは、その暮らしを営む人自身しかなりえず、誰かの暮らしとは他人にとっては最も非専門的領域であるといえます。

ソーシャルワーカーは対人援助の専門家ですが、あなたの暮らしの専門家ではないのです。そうであるにも関わらず、個別性の最も高い非専門的領域に介入できるという意味は、ソーシャルワーカーが、人の存在を愛おしく思いながら真摯に人に寄り添う存在であるからだと思います。

逆に言えば、自分の価値観を人に押し付けるだけの、傲慢な対応に終始するのは、ソーシャルワークとは言えないのではないかと思います。そのような態度は、人の幸福とは無縁なものだからです。そのような態度は、人に快感を与えないからです。不快なソーシャルワークというものは、本来あり得ないのではないでしょうか。

制度の光は、ソーシャルワークによって、あまねく人々に届くものだということがあります。制度があっても、その光が届かない闇を創らないために、ソーシャルワークによって、制度と人をつなぐのだということがあります。

そうであれば制度を誰よりも深く知らねばなりません。ソーシャルワークは気概だけではできないのです。知識と技術に裏付けされたものである必要があります。同時に制度の光が、人々に届くためには、制度の光がまぶしすぎても困るのです。その人に結び付ける際に、もっとソフトに優しく光が届く必要があるのです。

そのためにソーシャルワーカーは、人に対して柔らかさとやさしさが求められるのです。ソーシャルワーカーがほほ笑むことは、そのための必須ツールなのです。このことを僕は、「微笑み愛」と呼びます。

プライベート空間での僕は決して優しい人間ではないし、自分以外の第3者に対して媚を売ったりへつらったりすることが嫌ですから、時として自分以外の第3者に対して辛らつな態度を取ったり、無礼であったりすることを否定しません。

その言動は、誰かにとっては傲慢に感じられるかもしれません。

しかし対人援助のプロとして利用者に接している以上、利用者に対しては、決して傲慢にならず、真摯に向かい合う謙虚な気持ちを忘れないでいたいと思っています。だからどのような利用者に対しても、言葉を崩すことはありません。

縁あって関わる人々が、心の中で抱く負の感情も含めて、理解するように努めたいものです。喜びも悲しみも、希望も絶望も、すべての感情を包み込んで理解することができれば、その思いに寄り添うことだけはできるでしょう。目の前の人々に関心を持ち続け、小さな感情変化に気づいていくことが大事なのです。それが私のやり方です。つまらないこだわりといわれても、その一線は護っていきたいと思います。

私は今までたくさんの失敗をしてきました。ずいぶん周囲の人に迷惑をかけたと思います。しかし私自身は、周囲の人々の困惑に関係なく、今も仕事を楽しんで続けています。そんな私に文句ひとつ言うわけでもなく、温かく支えてくれた周囲の人々に感謝の思いを持っています。

幸いにも取り返しのつかない大失敗がなかったことがせめてものことです。その恩返しは、「微笑み愛」を広げることではないかと考えています。そしてソーシャルワークという仕事に誇りを持ちながら、この仕事に携わることができたことに感謝し続けたいと思います。微笑み愛ながら・・・。

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豊かなる心はどこにあるのか


福祉援助は、もともと救貧対策として始められた経緯がある。

そのため「物とお金の豊かさ」を現わす「福」と、「心の豊かさ」を現わす「祉」という文字を組み合わせて表現されている。

そして祉より先に、福があるという意味は、まず人として生き得る最低限のものを得ることを目的としており、それが充足してはじめて心の豊かさが生まれることを現わしている。

つまりここで言う、「物とお金の豊かさ」とは、決して贅沢な暮らしを現わしているわけではないということだ。

何が贅沢で、何が最低限なのかという尺度は存在しておらず、時代とともにその概念も変わっていく。よってその判断は難しいところだ。

現在の我が国の社会情勢を見ると、自家用車は贅沢品ではなく、それは生活を支える収入を得るための移動手段であったり、日常生活を営む上で必要不可欠なツールである場合が多い。例えば公共の交通網が発達していない地域においては、高齢者の暮らしを支える物品を得るために不可欠な移動手段が自家用車であったりする。それらの地域で、そうした人たちは、自家用車が運転できなくなった瞬間から暮らしに困るわけである。

PC、スマートフォン、タブレット、携帯電話も、それを使いこなして生活するのが当たり前の世代にとっては、なくてはならない生活ツールである。なにをもって贅沢であるといえるのかは、難しいところである。

これはもう政治の問題だ。ソーシャルワークの専門技術の中で判断できる問題ではない。

しかしいくら物を手にしたところで、それが心の豊かさにつながるとは限らない。満足しない人の心に豊かさは存在しないからだ。

ある意味、物やお金で済むことなら、問題は複雑ではない。それを手に入れるための過程はともかく、結果としては、目に見えるものを手に入れさえすればよいだけだからである。

そのことに加えて、心の豊かさを求める人々の思いを、僕たちソーシャルワーカーは大切にしなければならないし、求めるものを探すために手を差し伸べる必要がある。

僕たちソーシャルワーカーは、そんなふうに、暮らしを支えるだけではなく、人の心を豊かにするために何が必要かと考え続ける責務がある。答えはひとつではないのかもしれないし、答えが見つからないこともあるだろう。そうであっても目の前の一人ひとりの利用者が、僕たちと縁を結んだ結果、暮らしぶりが良くなることのみならず、心の平安を得て、日々の暮らしに満足して暮らしてもらうために何が必要かを考え続ける必要がある。

そのためには、僕たち自身の感性を磨き、人の心のひだに敏感になり、喜怒哀楽に敏感になる必要がある。そして僕たち自身の中で、人に感謝する心や、人とつながりあうことを尊く思う謙虚な気持ちが必要だ。

対人援助における冷静な対応の基盤は、冷徹な心ではない。冷静な対応の基盤は、人に対する熱い思いである。その熱い思いを失ったときが、ステージを去るときなのかもしれない。

施設サービスの場は、衣食住が満ち足りた場である。しかしそこには満ち足りた思いを持つことができないたくさんの人たちがいる。衣食住が満ち足りても、心の平安が得られない人がいる。心の豊かさを得られない人が存在している。

その人たちが求めているものは、誰かとの関係性である。それが途切れてしまったと感じている人は、途絶えた関係性を紡ぎなおそうと、家に帰るという。雪が降る中を、除雪するために帰るという。すでに亡くなった夫や妻のもとに帰ろうとする。

それは或る意味当然である。それは僕たちが説得してどうこうする問題ではない。その思いに心を寄せて、満ち足りない思いを分かろうとするだけだ。

認知症の記憶障害とか、見当識障がいという捉えかたではなく、人の心のひだを見つめることがもとめられているのだ。そしてそうした形で寄り添うとし続ける限り、僕たちの思いは必ず伝わると信じている。

そんな考え方の先にエビデンスは生まれないといわれても良い。

エビデンスは必要でも、もっと求めるべきものがあるからだ。人の思いを大切にする先にしか見つけられないものがあるからだ。

この思いを言葉や文章で伝えられたときに、僕のつながりは永遠となっていくのかもしれない。
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ソーシャルワーカーの旬はまだ先だ


新天地の仕事で一番苦戦しているのは、利用者の名前が覚えられないということだ。

毎日コミュニケーションを交わして、覚えようと努力しているのであるが、100人の利用者の顔と名前がなかなか一致しない。自分が入職以前からいる人の名前が覚えられないのである。

しかし4月以降に、自分が業務の中で関わって入所した人については、その顔と名前を覚えることにl苦労することはない。

この違いは何かというと、記憶の回路の違いだろうと思う。仕事で関わった人の名前は、「手続き記憶」として脳内に残るが、そうでない人々の名前を覚えるということは、「意味記憶」として脳内に残すものなので、なかなか覚えられないということなのではないだろうか。

この記憶の回路については、認知症の人の残される記憶という部分でも、過去に記事を書いているところである。(参照:記憶を失っても、感情が残される理由

どちらにしても、ソーシャルワーカーが利用者の顔を分からないでは話にならないので、意味記憶もしっかり保持したい。

ソーシャルワーカーのスキルのひとつに、記憶力というものが挙げられても良いのかもしれない。それは利用者の顔や名前を覚えるというだけではなく、利用者自身のエピソード、利用者の家族の顔や情報などの記憶が大事である。

様々な場面で調整役を担うソーシャルワーカーは、特に人間関係調整の場面では、たくさんのエピソード記憶を酷使することによって、よりよい援助ができるというものだ。

人の悲しみを覚え、人の苦しみを覚え、人の喜びを覚えることによって、初めて人の感情に敏感になることができるからだ。この敏感さが、「個別化」の第一歩でもある。

そういう意味では、記憶・記銘力が低下しつつある年齢の僕は、ソーシャルワーカーとしてのスキルの低下をどのように防いでいくかが問われてくるのかもしれない。

だからといって、自分がソーシャルワーカーとしての旬を過ぎたとは思いたくはない。記憶力の低下を補って余りある経験と、人間力が備わってくる年になったと考えたい。そういう人になりたい。

その人間力の中には、利用者を人として愛しむ、愛情の発信力というものも含まれていると思っている。

愛情だけでソーシャルワークは展開できないが、愛情のないソーシャルワークは空しい。それはソーシャルワークの名をかたった絵空事に過ぎなくなると思う。

医療機関のソーシャルワーカーと称する人の一部には、愛を感じない人がいる。そこで行われている行為は、退院支援と称した、強制追い出しである。僕たち」介護施設の」ソーシャルワーカーも、その渦に巻き込まれて、困ることがある。

退院させるということは、大切な支援行為になり得るし、そこではソーシャルワーク援助技術が求められるだろう。しかしそれが退院させられる人の状況を無視して、医療機関の一方的な都合で、別の行き場所に追いやるのなら話は別である。

ソーシャルワークには常に、基礎知識と高い倫理観と、人間愛が必要なのだ。青臭いといわれようが、人の命や暮らしに関わる専門職が、愛情というエッセンスを失ったときには、この世は暗闇に覆われるだろう。それほどソーシャルワークは、人にとって大事なものだと、自分に言い聞かせながら日々研鑽している。

僕たちが対称にしているのは、一人一人の心ある人間なのだ。喜怒哀楽の感情を持つ人に、愛情を持って寄り添うのがソーシャルワークである。

そのことは時代が変わっても、変化するものではなく、ソーシャルワーカーが、普遍的に抱くべき思いである。

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施設ケアマネ&相談員に求められる地域福祉のコーディネートリーダーの役割り


本年4月の介護報酬改定時に、特養・老健・療養型共通で、経口維持加算の見直しが行われているが、この見直しは、介護報酬が減額された中では、数少ない収益増につながる改訂であった。
(参照:施設系サービス(共通)の 口腔・栄養に関する報酬は何を示唆しているのか?

リンクを貼った記事にも書いたが、この加算は、経口摂取を続けることで可能となる自立支援や、経口摂取を続けることができる生活の質を評価した加算であることは間違いがない。そのために安易に経管栄養に移行しないというケアの方向性を創るという意図が含まれていることも間違いないだろう。

同時にその先には、経口摂取できなくなった場合の選択について、機械的に経管栄養を行うということではなく、対象者の状態像を精査したうえで、そのまま看取り介護に移行するという選択があることも示唆したものではないかと想像する。

当然そこでは、利用者本人の意思を確認しようとする基本姿勢が求められるべきであり、経験栄養の適応を、施設と家族のみで判断するということではなく、利用者自らが終末期をどう過ごしたいのかという意思を確認する方法やシステムの構築が検討される必要がある。

つまり本年4月の施設報酬改訂の中には、利用者のリビングウイルをどう尊重するかという考えが盛り込まれてきているのだ。

そしてそれは相談援助職にこそ求められる利用者支援であると言え、介護施設のケアマネジャーや相談員は、利用者から信頼感を得て、「死について語ること」をタブー視せず、利用者に自身の死について考えておく必要があることを伝え、その際に必要となる情報と選択肢を示したうえで、もっとも自分にとって望ましい終末期の過ごし方を、あらかじめ選択しておくことができる支援を行う必要がある。

当然そこでは、食事を経口摂取できなくなった場合の選択として、胃瘻を増設するのか、経鼻経管栄養を選択するのか、どちらも選択せず、点滴などの医療行為も必要最低限にとどめ、自然死を望むのかという選択が含まれるであろう。

そのことが日常支援として行われることによって、利用者の終末期に対する意思を確認する役割と、認知症などでその判断ができない人の立場に立って代弁者となる役割がより強く求められるという意味である。

そして人生の最終ステージを安心・安楽のうちに過ごすことができる体制整備をしていく必要がある。そこでは、計画(Plan)、実行(Do)、評価(Check)、改善(Action)の頭文字を取ったPDCAサイクルの構築が求められている。それは看取り介護に関してだけではなく、すべてのサービスにおいて求められてくるものであり、根拠に基づいた計画実施と、その振り返るによる検証作業、地域貢献の視点も含めた実践後の地域住民への傾啓蒙活動というアクションサイクルを繰り返していくことが必要とされるのである。そのサイクルを構築し、検証を重ねる現場リーダーが、施設サービスにおける「頭脳」の役割を担う相談援助職に求められることは明白である。

このように地域包括ケアシステムの中で,多様化せざるを得ない高齢者の「暮らしの場」の選択肢の一つとして,介護施設の存在意義を考えていく必要がある。

自宅介護の限界を肩代わりして、何とか命を繋ぐケアを行うということが施設サービスではなく、自宅で生活困難となった人々の「暮らしの再生」を目指すケアの品質が求められ、結果としてより良い暮らしを介護施設という住まいの中で実現する視点が必要だ。場合によってそれは限界点に達した家族介護によって、崩壊した家族との人間関係を紡ぐことであったり、身体機能や健康状態を向上させる取り組みであったり、生活環境の改善により暮らしが豊かになることを目指すものとなるだろう。

生活課題を解決し得ない状態で、自宅で生活し続けている人々が、介護施設という新たな居所を得ることによって、そこで自らの暮らしを再構築し、自宅で暮らしていた以上の状態で、豊かな暮らしを営むことが求められている。

つまり在宅生活が困難になった人が、介護施設に入所さえすれば問題解決するという考えは間違っており、施設という器の中で限局的に問題発生があっても、家族等のインフォーマル支援者に迷惑にならなければ良いという考えも間違っており、利用者自身が施設内でいかに豊かな暮らしを送ることができ、家族等との関係が途絶せず、幸福感を持って暮らし続けることができるかという結果を求めなければならないということだ。

それを目的としなければ、介護施設の存在意義は極めて薄くなるだろう。

それは地域包括ケアシステムの中で、特養などの介護施設も、「暮らしの場」の選択肢の一つになっていくという意味であり、そう考えると、介護保険制度は近い将来、居宅サービスと施設サービスを区分する必要性はなくなり、住み慣れた自宅以外の「住まう場所」の選択として様々な生活が考えられてよく、「在宅介護の重視」は形骸化した概念とならざるを得ないだろう。

その中で安心と安楽の暮らしを創り、それを護るコーディネーターとしての施設相談援助職は、施設を拠点に街に出て、地域福祉をコーディネートする役割を担うことになり、その重要性はさらに高まるだろう。

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施設サービスにおいて求められる相談援助職員のスキルを考える


介護保険法で規定される施設サービスには、介護支援専門員の配置が義務付けられている。

これは当然のことながら介護保険法が施行されて以後の基準であるが、それ以前の特養と老健には、それぞれ生活相談員と支援相談員という相談援助職の配置が求められていた。

介護保険制度施行以後は、それに上乗せする形で利用者100人に対して1名の介護支援専門員の配置が求められているわけであり、介護支援専門員を配置すれば相談員を配置しなくてよいというわけではない。しかし介護支援専門員は他の職種との兼務が認められており、例えば特養において業務に支障がないと認められれば、100人の利用者に対して一人の職員が、生活相談員兼介護支援専門員として配置しても良いという規定がある。つまり業務に支障がない場合、ひとりの職員だけで、生活相談員としても、介護支援専門員としても、それぞれ常勤専従配置1と認められるわけである。

このように一人の人間が二人分の職員配置基準を満たすという規定になっている理由は、介護保険法施行時、介護施設に介護支援専門員の配置を義務付けたにもかかわらず、その人件費を介護給付費に上乗せしなかったからであり、その理由はそもそも特養や老健では、介護支援専門員の仕事を相談員が行っていたという考え方に基づくものである。

僕はこのことを決して否定的にとらえる必要はないと思う。

利用者100人に対して一人の相談援助職でよいのかという議論は別にして(実際には少なすぎると思うが)、相談員と介護支援専門員の兼務は認めるべきであるというのが僕の持論である。むしろ2つの職種は区分できないと考える。両者はソーシャルワーカーであり、ケアマネジメントは社会福祉援助技術の中の関連援助技術であって、介護支援専門員しか行うことができない援助技術ではないからである。

しかし施設サービスの中では基準省令において、利用者に直接面接してアセスメントを行うことができるのは介護支援専門員だけと定めているだけである。ここは介護支援専門員の資格がない相談員が替わることができない部分だが、これもおかしなルールだとは思う。

もっと問題なのは、相談援助と全く業務内容や立ち位置が異なる看護業務や介護業務との兼務も認めている点で、このルールがあるから介護支援専門員の職務がみえにくくなり、その立ち位置があいまいになる。そのことがソーシャルケースワークのできないケアプランナーができてしまう最大の理由になっているのである。

介護職出身の有能な介護支援専門員が存在するという事実から言えば、介護支援専門員の受験資格となる実務経験に、看護業務や介護業務を入れるなと言う乱暴なことは言わないでおくが、せめて資格試験の段階で、ソーシャルケースワークの技術がない人は合格させないという試験水準の見直しが必要だと思う。

ほとんど相談援助を学んだことがない人が、出題範囲の狭い試験にたまたま受かって、そのあと寝ていても不合格とならない実務研修を受けただけで、相談援助の中心的役割を担う職務に就くということ自体が乱暴すぎるのだ。実務研修は筆記試験合格者に対してアリバイ作りのように実施するのではなく、様々な実務経験者が試験を受ける前のハードルとして、その研修を課して、その中で相談援助の基礎知識をしっかり教えて、その習熟度も筆記試験で問うようにすべきである。そうしないと相談援助ができない介護支援専門員がいなくならない。

施設ケアマネ不要論」でも主張しているが、僕は施設サービスにおいて、ケアマネジメントが必要ではないと主張しているわけではないし、ケアマネジメント技術をもって、その援助技術を展開できる専門職は必要不可欠だろうと思っている。しかしそれは何も介護支援専門員ではなくとも良いという立場である。

なぜなら現行の介護支援専門員の資格付与の方法及び結果を見ると、相談援助職としてふさわしくない介護支援専門員が少なからず誕生しているからである。相談援助ができない有資格者が多すぎると思う。そうであれば施設の相談援助職は、介護支援専門員に限らないだろうと思うし、施設サービス計画作成責任者も介護支援専門員に限る必要はないと思う。

それより実務経験はなくても、大学で4年間社会福祉を専攻して学び、卒業前に社会福祉士の資格試験に合格して人材の方が、ソーシャルワーカーとして優れた仕事ができるという例は枚挙にいとまがない。そういう人であれば5年の実務を課すまでもなく、仕事に習熟した段階で、ケアマネジメントを展開して施設サービス計画実務に就いたって良いだろう。

施設サービスにおいて求められるのは、介護支援専門員という有資格者ではなく、ソーシャルワークの関連技術であるケアマネジメントを展開できるソーシャルワーカーなのである。

例えば特養の配置基準に、介護支援専門員を必須として兼務を認めている現在の基準ではなく、利用者50人に対して1名程度の相談援助職員を配置する規定にし、相談援助職員として配置でいるのは、社会福祉主事を基礎核とするのではなく、社会福祉士または精神保健福祉士としたうえで、加えて相談援助の実務という条件付きで介護支援専門員まで認めるという形の方が、利用者のとって適切な相談援助ができるだろうと思っている。

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ソーシャルワーカーの役割り


今月は金沢、大阪、京都での3講演を予定している。

このうち大阪市老連主催の講演は、「介護保険制度改正」について解説する120分講演であるが、こちらは申し込み受付開始の初日に、受講定員に達してしまい、以後すべての人の申し込みをお断りしているそうである。

講演内容はまだまとめていない。この時期であるから、「制度改正」と言ってもそれは、「報酬改定」を無視した内容にはできないので、ぎりぎりまで講義内容を決められないでいる。120分で制度改正と報酬改定の内容をすべて話すことは不可能なので、受講予定者の所属事業等の属性を見ながら、話す内容を絞り込んでいる最中である。

報酬改定率について、あまり話題になっていないので、あえて指摘しておくと、今回の報酬改訂では、報酬等級地域区分を現在の5段階から7段階に細分化し、1級地の加算率を20%に増やし、その他に属する地域については、現行(見直し前の地域区分)の費用額で除して影響を算出すると約0.7%マイナスとなるという考え方が示されている。大多数の事業者が属する「その他」地域は、最初からこの分のマイナスベースから始まるわけで、それに加えたマイナス改訂で、その他の地域に属する特養や通所介護事業者は大きな打撃を受けると言ってよいだろう。

制度改正・報酬改定については2月にも京都や福岡で講演を行う予定である。厳しい状況を愚痴るだけではどうしようもないので、今回の制度始まって以来の大改正の意味、そこで構築が目指された地域包括ケアシステムの実態と課題、報酬算定上注意すべき点、(実際にあるのかどうかわからないが)厳しい時代の経営戦略に関する部分について、自分なりの解釈を示そうと思う。

ところで今月の京都講演は、制度や報酬の問題とは全くお隣「施設ケアマネジャーに求められる仕事力、期待される役割」でという施設ケアマネ実務に関するテーマである。

この講演は、京都府介護支援専門員会さん主催であり、同会には平成25年の3月に初めて講演依頼を受けてから3年連続でご招待を受けている。前回は「看取り介護における介護支援専門員の役割」についてお話しし、前々回は「施設サービス計画の作成の視点」を法令ルールに沿ってお話ししているので、今回はそれらとは少し異なり、施設ケアマネジメントに必要な視点、アセスメントしなければならないことについて、より具体的にお話ししようと思う。120分なので、作成に関する法令ルールにはあまり触れることはできないと思うが、一昨年講演受講した方が、再受講しても同じ内容ではないので問題ないと思う。

その前に、今年最初の講演となるのは石川県金沢市講演である。石川県は僕がまだ云ったことがない県の一つで、初訪問であり楽しみにしている。今回は石川県老人福祉施設協議会主催の生活相談員研修会の中で、「生活相談員の役割と実務」をテーマにお話しする。受講対象者は、特養・通所介護・特定施設・認知症対応型共同生活介護等の相談員の皆さんである。

京都の「施設介護支援専門員」向け研修と同様に、相談援助職に求められる視点をお話しすることになるが、両研修に共通しているのは、施設サービスの中で、介護支援専門員と相談員の棲み分けがわからないという問題である。それぞれの仕事の区分はどうするのか、連携をどのようにとるのかという問題について悩んでいる人が多く、特に介護支援専門員の資格を持っていない相談員の場合、自分の専門性はどのように発揮すべきなのかという部分で悩んでいる人が多い。

しかし介護支援専門員も相談員も、ソーシャルワーカーであり、社会福祉援助技術を酷使して、利用者の生活課題を克服する際の「頭脳」の役割を持つことに変わりはない。よって基本部分で両者の区分は不可能である、というのが僕の立場である。ただし介護支援専門員の場合は、実務5年以上を経て(この実務が相談援助の実務に限っていないことが問題の本質として存在するのであるが、そのことはまた別の機会に論ずるとする。)資格試験に合格してその職務に就くことができるものであり、相談援助職の中で、ケアマネジメント技術についてはスペシャリストとしての訓練を受け、技術を獲得とした者と位置づけられ、相談援助症の中でのリーダー役と、スーパーバイザーの役割を担うことができる人材と考えるべきであると思う。

逆に言えば、介護支援専門員の資格を取得したとしても、そういう役割を担えないのであれば、あえてそういう人を介護支援専門員として任命する必要性はないとも考えている。(これはあくまで個人的な考え)

そもそもケアマネジメントは、社会福祉援助技術では「関連援助技術」にふくまれるものであり、相談員であれは当然ケアマネジメントを展開できる技術を持っている必要があり、何もその技術は介護支援専門員の専売特許ではないのである。

ただし介護保険制度の中では、老企43号解釈通知で、特養の施設サービス計画の作成について、「作成に関する業務の主要な過程を計画担当介護支援専門員に担当させる」とされ、「計画担当介護支援専門員は、解決すべき問題の把握(以下「アセスメント」という。)に当たっては、必ず入所者及びその家族に面接して行なわなければならない。」と規定されている。さらに省令39号で、サービス担当者会議開催や照会、計画書の説明同意も施設介護支援専門員の役割としており、」この部分は資格のないものが同等の業務を担えることにはなっていない。ここには注意が必要である。

同時にこのことを、「施設サービス計画を作成することが、施設介護支援専門員の仕事である」と限定的に考えてしまうことで、本来ソーシャルワーカーであるはずの介護支援専門員が、ケアプランナーで終わってしまい、利用者の暮らしぶりをよくしないという結果に終わってしまう場合があるのだ。

そういう意味で、他職種との兼務が認められ、他職種と兼務しても常勤専従規定から外れないとされる介護支援専門員であるが、事実上その機能を発揮し、ケアプランナーではなく、ソーシャルワーカーとして機能するためには、相談員との兼務はあり得ても、それ以外の職種との兼務は不可能だし、好ましくないという点をかいつまんでお話しすることになるだろう。

これは金沢でも、京都でも、共通してお話しすることであり、それによって両者の関係性や立ち位置が見えることになって、さらに金沢では、そうであるがゆえに相談員として、どのような役割を持つのか、京都では介護支援専門員として、どのように相談援助職全体を束ねるのかというお話になると思う。

どちらにしても忘れてはならないことは、ソーシャルケースワークという仕事は、一括処理である制度のはざまで、影となった部分に光を届ける仕事だということだ。法律や制度を軽視することは許されないが、同時にそれは所詮人が作るものなのだから、すべての人に光を届ける完ぺきなものは存在しないという理解が大事だ。そこには必ず瑕疵(かし)が存在する。僕たちはそうした瑕疵をみつけて、修正のためのソーシャルアクションを展開していく責務があるのと同時に、瑕疵があるからと言ってあきらめないで、その中で、誰かが闇の中に沈んで見えない涙を流していないかを探り、そうした人々に光を届けるために手を差し伸べる使命があるのだ。この部分の矜持をしっかり胸に抱いて、日々の業務にあたっていただきたい。

金沢と京都の講演ファイルは、すでに完成していて、金沢分は事務局に送付しており、京都分は最終校正作業にかかっている。あとは当日を待って、移動中の天候が荒れないことを祈るのみである。

それでは金沢・大阪・京都の会場でお逢いする皆様、どうぞよろしくお願いします。

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どんな時も立ち止まり手を差し出せる専門職でありたい


介護支援専門員等のソーシャルワーカーが、自宅で家族とともに生活している人を支援する際に、利用者のみに係っていては、生活課題の解決に結びつかない場合がある。

支援すべき利用者の生活課題に大きく影響を及ぼすものが、家族の抱える問題である場合、支援する対象者である利用者本人ではないからと言って、家族の抱える問題を完全に無視することはできない。

例えば精神的な疾患や、アルコール中毒などの問題を抱えている家族が家庭内にいる場合、そのことが利用者自身の解決すべき生活課題と密接に関係している場合がある。

そうしたケースの場合、当事者の通院のための付添いという行為について、介護支援専門員が直接手を貸すということは求められないし、すべき行為でもないと思う。

しかし当事者にとって、通院が必要であるにもかかわらず、実際には通院をしていないようなケースであれば、その家族の心のありように気を配り、場合によっては家族の言葉に耳を傾け、相談援助場面を意識的に作り、通院に結び付ける調整の役割を担うということがあってもよいはずだ。

そのような場合も、その支援行為に対する報酬は発生しない。ある意味それは全くの奉仕行為にしかならないから支援業務とはいえないのかもしれない。だが対人援助の専門家であるソーシャルワーカーが、支援行為として求められることを、経済的対価が発生するか否かという側面からしか判断しないのであれば、それは大きな問題だろうと思う。勿論、ソーシャルワーカーだからという理由で、すべての家族問題に奉仕的なかかわりを求めてよいわけではないが、担当する利用者の環境調整という側面を鑑みれば、家族支援はそこに含まれる場合も多いということに気付くべきである。

ソーシャルワークとは、人の生活上の困難を捉え、介入し、調整し、問題解決の援助をすることである。そこでは人間だけに問題があるのではなく、人と環境が交互に影響を与え合う生活モデルの視点が求められ、治療よりも援助が求められるといわれている。

そうであるがゆえに、ソーシャルワーカーは、援助者中心より利用者中心の視点を持ち、アドボケイトの視点を持ち続けなければならないのである。

その時に支援対象者の心の問題を含めた生活課題を解決しようとすれば、おのずと同居家族の心理的サポートという方向に踏み込まざるを得ない場合もあるのだ。

そのようなサポートを一切行わずに、利用者以外のあらゆる問題には目をつぶり、耳を閉ざし関わらないことで、利用者自身の暮らしぶりがよくならない結果となろうとも、それはソーシャルワーカーとしての責任が問われるような問題ではないのかもしれない。

しかし、「してはならないことをする」ということと、「しなくてもよいことをする」ということは違うと思う。後者には、「しなくてもよいけれど、できることがあって、そうすることによって、利用者を含めた家族の暮らしに改善が見いだせる」というケースもあるのだ。これを線引きが難しいから、一律「しない」という判断しか行わないとしたら、それは対人援助ではなくなるのではないだろうか。

ここの線引きは難しいし、判断は常に正しいとは限らない。だからと言って、「しない人」であってよいのだろうか?その時に我々が考えなければならないことは、ソーシャルワーカーとは、すべての人間を、出自・性別・年齢・身体的精神的状況・宗教文化的背景・社会的地位・経済状況等の違いにかかわらず、「かけがえのない存在」として尊重するという立場にあるということではないのだろうか。

かけがえのない人が困った状態に置かれているときに、手を差し伸べることに様々な理屈や理由が必要とされるのだろうか?

少子高齢社会の進行によって、家族問題はより深く家族の中だけに凝縮され、外部の機関が協力にアウトリーチをかけても表面化しないケースが増えている。

そうした社会情勢の中で、たまたま自分が担当する利用者のすぐそばで、社会的な援助を必要とする家族の問題が表出しているのであれば、対人援助のスペシャリストとして、それを放置するという選択肢はないと思う。

しかるべき支援機関につなげるための調整は、ソーシャルワーカーの社会的責務として行われるべきである。

認知症の人の数が増大する少子高齢社会では、認知症の親の問題が子に影響するケースにしばしば遭遇し、それはレアケースとは言えなくなりつつある。その時、我々の担当する対象者が子であるという理由で、認知症の進行によって親に生じている様々な生活課題に目をつぶってよいわけがない。なぜなら我々は、人の尊厳を護り、社会正義を実現する責務を持つソーシャルワーカーだからである。

そのための知識や援助技術を持つ対人援助の専門家だからである。指をくわえて見ているだけの人にならずに済む知識と援助技術を身につけている専門職だからである。

居宅介護支援事業所の介護支援専門員が、居宅サービス計画を担当する利用者と係る中で、たまたまその家族に社会的な支援が必要であることが明らかになった場合、居宅介護支援としての主業務の中で、家族の支援はできないとされても、ソーシャルワーカーとして対人援助に関わる専門家として、その家族の問題から目を背けることにはならないだろう。

そこにはソーシャルワーカーとして、生活上の困難を解決するために手を差し伸べるという視点から、その人に最もふさわしい援助機関等につなげるという行動が求められるのではないだろうか。

ここの基本姿勢を忘れてしまったとき、介護支援専門員等の支援者は、ソーシャルワーカーではなく、単なる所属機関の歯車にしか過ぎなくなるのだろう。

ソーシャルワーカーの基本は、機関に所属していても、機関の代弁者ではなく、機関の支援を受ける個人の代弁者であることを忘れてはならないと思う。人の存在を、かけがえのない存在として見る視点を、普通に持っている人がソーシャルワーカーであろうと思う。そうであれば、答えは自ずと決まってくるだろう。

支援すべき対象者は、時には所属事業の外に存在するかもしれないし、そこに手を差しのべる職業が、我々の職業ではないだろうか。

困っている人がそこにいる。困っていることを訴えられない人がそこにいる。困っていることさえ理解できない人がそこにいる。それを見つけたソーシャルワーカーのとる行動は、手を差し伸べる以外にないと思う。

そこに存在する、かけがえのない人を護ろうとする行為をしない、行動を起こさないという選択はないと思う。

理屈

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頭脳が手足となる弊害


介護施設の相談員や介護支援専門員は、利用者100人に対して一人を配置するだけで、法令上の配置基準は満たすことになっている。しかも両者は兼務しても、それぞれ相談員常勤専従配置1名、介護支援専門員常勤専従配置1名と、一人で2職種2名分の常勤専従配置規定をクリアすることになっている。

実際上100人の利用者に対し、相談員兼介護支援専門員1名のみで対応することは困難であろうが、配置基準はそうなっているのである。

この配置基準からは、次の2点が見えてくる。

・相談員と介護支援専門員は、まったく同じ配置基準であり、それは両者の役割が同じであると考えられること。

・100人に対して1名しか配置しなくてよい職種は、介護サービスの場で「手足」となって動く役割ではなく、手足となって動く人々を、調整して効率よく、適切にサービス提供できるようにする、「頭脳」の役割を持つということ。
(※頭脳とか、手足という表現は、機能を現わすために浸かっている表現で、どちらも必要なものであり、どちらが上位であるとか、下位であるとかという意味を示すものではない事を断っておく。)

つまり相談員と介護支援専門員と、ソーシャルワーカーとして、施設サービス全体をコーディネートしながら、利用者に最も適したサービスを結びつけるために、指揮をとる役割を持っているのである。

そうであるがゆえに、ソーシャルワーカーである相談員や介護支援専門員が、ケアワーク実務を行うことは好ましいことではない。身体介護をできるというスキルがあることは良いことだが、相談員や介護支援専門員という職務に携わりながら、介護職員と同じように利用者の身体介護を行うことは良い事とは思えず、ましてや相談員や介護支援専門員が介護実務をこなさないと、施設サービスが回っていかないという状態は不健全である。

なぜならソーシャルワーカーとは、ケアワーカーより少しだけ高い位置にある木立の上に立って、看護・介護職員があまりにも利用者との距離が近いがゆえに、見えなくなっているものを、みつめる役割があるからだ。

施設や事業所の管理者は、一番高い木の上から、職場全体を眺め、財務・経理上の問題把握や人事管理等を行うわけであるが、ソーシャルワーカーである相談員や介護支援専門員は、介護サービスの品質管理の現場責任者として、管理者からは見えない介護サービスの現状も把握しながら、ケアワークを行っている人とは別の視点から、「変えなければならないこと」、「新たにしなければならないこと」、「やってはいけないこと」を把握し、サービスを作っていく為のコーディネートしていく役割があるのだ。

この際に、看護・介護職員と同じこと行いながら、ケアワークの主要な役割を担ってしまうと、実際に業務をやっているがゆえに見えなくなってしまうものがあるばかりではなく、業務を行っているがゆえに妥協的に考えて、変えなければならないものを、「でも仕方ない」とい考えてしまい、変えることができない理由を探してし舞う子tになりかねない。これではケアサービスの品質向上が図れなくなる。

介護支援専門員は、相談員以外の書看護職員や介護職員との兼務も認められており、その場合でも一人の職員で2職種の常勤専従配置規定を満たすことになっているがゆえに、介護支援専門員の資格をとった人を、そのまま看護・介護業務に就かせたままで、介護支援専門員と野兼務発令を行い、1日のうち何時間かを看護・介護業務から外して介護支援専門員の業務に就かせているという施設がある。

しかしその際、「介護業務から外して介護支援専門員の業務に就かせているという」という時間帯に、何をさせているかといえば、幾人かの利用者を、その兼務職員の担当にさせ、担当利用者のケアプランを作る作業を行っている場合が多い。

しかしこの実態は、ケアマネジャーでも、ソーシャルワーカーでもなく、単なるケアプランナーである。

施設サービス計画を作成するだけが、ソーシャルワーカーたる介護支援専門員の仕事ではない。

施設サービス計画を作成する過程で、アセスメントを行って利用者の生活課題を把握しながら、施設サービス計画という道具を使いこなして、その課題解決に当たるという一連のケアマネジメントを主とするソーシャルワークを行うのがソーシャルワーカーたる介護支援専門員の仕事である。これはケアプラン作成作業の他にしなければならない業務がたくさんあるという意味でもある。

業務区分ができない相談員と介護支援専門員の兼務は可能であるし、むしろソーシャルワーカーとして区分できない以上、両者の専任化など意味はないと思うが、しかし相談員以外の他の職種と介護支援専門員の兼務は好ましくないし、すべきではない。

ケアワーク業務と兼務させてしまえば、木立の上に立って全体を見渡す機能が低下し、ソーシャルワーカーとしての役割を果たせなくなるという理解を持つべきは、施設の管理者である。このあたりを分かっていない管理者が多いのが一番の問題である。

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自己覚知を促す役割

介護施設や介護サービス事業所の相談援助職とは、ソーシャルワーカーとして、自己覚知に努める責任があるとともに、他の職員に自己覚知とは何かということを教え、自己覚知を促すうように指導する役割を持つべきである。

この役割は、相談援助職だけではなく、施設や事業所の管理者及び管理職も担うべき役割である。

自己覚知とは、自分が今どのような行動をとり、どのように感じているかを客観的に意識することである。人は他者を見るときに自分の道徳的標準や感情で判断してしまうことが多いが、そもそも価値観は多様で、自分の価値観がすべてではないという考え方が求められる。そうであるがゆえに自分がどのような感情や意見を持ちやすいか自覚することが対人援助には不可欠なのである。

それは専門職としての立場に個人的価値観が影響するのは好ましくないという意味であり、偏見や偏った判断を生まないように、自分の感情を否定するのではなく、素直に正確に認識すること が求められるという意味である。つまり自己覚知とは自分をあるがままに受け入れることにほかならない。決してそれは自己否定ではないのである。

介護事業のトップはじめ管理職やソーシャルワーカーは、すべての職員が意識して自己覚知に努めるように教育しなければならない。そうしなければそこでのサービスの質は一定化せず、働く職員の個人的価値感や、その場での感情の揺れによって変動してしまう。そうなれば介護サービスを利用する人々は、サービス提供者の顔色を伺いながら、恐る恐るサービス利用しなければならないなどということになりかねない。

そんなことが実際に起こっているのである。例えば今年8月に明らかになった、大分県別府市の小規模多機能型居宅介護における虐待事例がある。

問題が明らかになるきっかけになったのは「高齢者に対する態度や物言いに問題のある職員がいる」という通報であった。

そこでは女性介護士(65)が、入浴介助中の70代の女性利用者を全裸のままトイレに行かせたりするなどの虐待行為を繰り返していた。 その介護士は、「座る場所が違う」などと脇を持ち上げて激痛を与える身体的虐待 を行ったり、行動の遅い利用者には「一番偉いのは私だ」「早くしろ」などと言葉による心理的虐待を繰り返していた。

介護士は市の調査に「言葉が荒いのは性格的なものだが、優しく接するべきだった」と述べたと報道されていたが、そうであればその介護士自身は、人が「荒い」と感じる言葉を発する性格であるという自覚はあるわけである。その性格自体は、その人間が65年間生きてきた中で備え持ったパーソナリティであろうから、それを教育で180度変えるということは不可能である。しかしそのまま職業の中で、荒い性格をむき出しにした荒い言葉で接して良いということにはならず、この職場の管理職などの責任のある立場の人間は、その介護士に対し、「性格が影響して言葉が荒くなる」という自己覚知を促し、その性格による荒い言葉や、荒い行動になりやすいことも自己覚知するように促し、そうであるがゆえに誰よりも言葉に注意をすることを命じなければならない。

それができないならば、介護職としての適性がないとして、介護サービスの現場から退場させるべきである。

この問題が発覚した際に、この事業所の事務長は「言葉がきつく何度か指導していたが、管理不足だった。再発防止に取り組みたい」と報道機関のインタビューで答えているが、何を温いこと言ってるんだと言いたい。言葉がきついということに気がついていたのなら、そのことが不適切だと指導してもなおかつ、その言葉を直さないという業務命令を無視する態度をとっていたのであれば懲戒対象だろう。しかるにこの事業所では、この問題が明らかになったあとでさえ、この介護士を懲戒もせず、給与規定にない手当を支給して厚遇するという対応をとっていた。(後に批判を受け懲戒解雇)

この事業所は、社会福祉法人が経営しているが、この法人自体に、人材教育を行い、適切なサービス提供を行うとい意識が存在しなかったといわれても仕方がないだろう。

色々な性格の人の集まりが人間社会であり、介護の職業に向いている特定の性格というものがあるということはないだろう。自分の性格を変えなければ介護の職業についてはならないということではないが、しかしどの職業でも自分の性格を、その場所にむきだしにしたまま仕事ができるとういうものではないはずである。そこでは性格を乗り越えた、プロとしての態度が求められる。介護サービスの現場であれば、対人援助にかかわる際の能力として適切なコミュニケーション技術を獲得する努力が必要とされる。

そうであるがゆえに、自分の性格も含めて、どのような感情を持ちやすいのかという自己覚知に日々務めるのが、介護サービスのプロの責任なのである。

同時に、介護サービスという職業に従事するからといって、天使になる必要はなく、普通の人で良いが、普通の人とはどのような人かという理解が求められる。

人の心の痛みを感じられない人、人の哀しみを理解できない人は普通の人とは言えないのである。普通のこと以上を求める必要はないが、人の不幸を何とも感じない人は介護の現場には不向きであり、自己覚知を促してもなお、そのことに努めようとせず、自分の感情の赴くままに、人を人とも思わない態度で、そこで向かい合う人々の心を傷つける人間は必要とされていないし、そう言う人は介護を職業としてはならないのである。

対人援助技術として、介護サービスに携わるすべての人が、日々自己覚知に努める必要があることを忘れてはならないし、管理職やソーシャルワーカーは、自分が自己覚知に務めるだけではなく、他の職員に対しても、それを促す役割を持つという理解が求められる。

(今日の付録)
クリスマスメニュー
※緑風園では昨日、ユニット合同クリスマスパーティーを行い、今日はお昼にクリスマス昼食会を行っている。キャンドルサービスのあとに、スパークリングワインやビール、ジュース等で乾杯したあと、クリスマス用の特別メニューについて、管理栄養士から紹介。画像はそこで出されているメニューである。おすすめは、調理員が心を込めて作った、洋風炊き込みご飯。以前は、オードブルを1テーブルことに盛り付けていたが、自分で手を伸ばせない方や、遠慮する方もいて、結局取り分けることが必要になるため、数年前から一人分ずつ分けてお出しすることにしている。午後からは職員によるクリスマス演芸会を、利用者の方々に楽しんでいただく予定である。
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施設相談員についての質問に答えます

全国6ケ所で行われる日総研セミナー「施設相談員に求められる役割・連携とマネジメントスキル」は、大阪会場と名古屋会場が終了し、残すところ仙台会場(1/25)、東京会場(1/26)、福岡会場(2/22)、岡山会場(2/23)の4会場となった。

このセミナーは、今年度始めて実施されたものなので、セミナー終了後に受講者のみなさんからいただいたアンケート結果を見て、ニーズに合致していない内容ではなかったかなどを判断しながらお話する内容を微調整していこうと思っており、1回目の大阪会場の受講者の方から会場で寄せられた質問や、アンケートの結果をもとに、名古屋会場では新たな内容を組み入れてお話した。当然そうであれば、大阪会場でお話した内容の一部は削っているわけである。

その名古屋会場のアンケート結果が昨日送られてきており、1月の仙台と東京会場のセミナーに向けて、内容を再修正しようと思っているところである。

しかしながら、皆さんの意見を見ていると、僕がセミナーの中で話した内容のうち、「時間をかけなくて良い点」というところでは、「すべて必要」という回答になっていて、「詳しく聞きたかった点」という質問には、様々な意見が出されている。

つまり僕が話を及ばせた部分については、どれも必要な部分であり、それは参考になったのだが、もっと触れて欲しい部分が別にあったり、触れた部分についても、もっと掘り下げた内容を聞きたかったりという意見があるということになる。

しかしその要求にすべて応えることは不可能である。なぜならそこには時間という制約があるからである。

同じ時間の中で、話す内容を広げれば、触れた部分を浅くしなければならないし、内容をじっくり掘り下げる部分を増やせば、話を及ばせる範囲を狭めねばならないというジレンマがある。僕に与えられた講義時間165分の中で話ができる内容には限界があり、今でも時間の制約で割愛したり、ファルは作っているが、深く触れずに、「この部分はあとで読んでおいてください」と説明できなかったりする部分があるわけで、どこを削って何を話すかはかなりギリギリのところで決断しているのである。

よって今話していることの上に、さらに別の内容を積み上げるというのは、セミナー時間が増えない限り不可能で、どうしても優先順位をつけた中で、削ってしまうものもあるということだ。

本セミナーは、10:00〜13:00までの3時間の講義(途中、休憩を15分入れ、賞味165分の講義)+質疑応答が13:30まで30分とっている。受講された皆さんで、講義中に触れられなかったもので、聞きたいことがある方は、30分という十分な時間をとっている質疑応答の際に、ぜひご遠慮なく質問してほしい。それはどのよう内容であっても構わない。出来る限り丁寧に答えたいと思っている。

さて、名古屋会場のアンケートの中に、「詳しく聞きたかった点」という項目があり、そこに書かれている内容は、そのまま質問になると思われるので、この場を借りて回答として僕なりの考え方を示したい。

(質問1)竹内先生の介護力向上について

(回答1)おそらくこの質問は、僕の講義の中で、個別のアセスメントのない状態で、食事以外に一律1.500mlの水分補給を推奨する国際医療福祉大学の竹内孝仁氏の理論を批判的に解説し、そのことが全国老施協の介護力向上講習として行われていることへの危惧を示したことに対する質問と思われる。僕自身はその講習を受けたことがないが、講習を受けた当事者が、僕のブログ記事のコメントや、読者には公開していない拍手コメントに意見を寄せてくれている。そこにはここ書かれていますね。あくまで参加者の主観的な感想ですけど。

竹内さんの検討会に出席しましたが発表者が竹内さんが怖くてなにも言えず言いなりになっているのはおかしい。私は反論しましたが、竹内さんも頭が固かったなー。』

講習会では毎回課題を提出して、進捗状況を報告・発表しますが、リウマチによる関節の変形や強い拘縮があって便座に座れない状態の方でも、「とりあえず座らせてみればいい」と言われ、水分1500ml以上摂取や必ず便器で排泄する事をあまり良く思わない家族がいらして、同意が得られていないケースもあると発表すると、「いちいち家族に同意なんて取らなくていい。うちはこういう方針だからやりますと入居時に伝えればいい」と怒られます。
何より講習会での怒号、罵り方が尋常でなく、内容もさることながら参加施設に言う事を聞かせるための方法も疑問


(質問2)地域とのかかわりを継続的にどのようにするべきか聞きたかった

(回答2)地域と施設と分けて考えるのではなく、地域の中の施設、地域の社会資源としての施設という視点から、利用者が普通に地域に出かけたり、地域の人が普通に施設に訪れることができるといったことを続けるための調整役として相談員がいろいろな方法を考えていく必要があるとお思います。(参照:地域に出るという意味

(質問3)ケアマネと相談員の境界は不要であるが役割分担を知りたい

(回答3)講義の中でお話したとおり、介護支援専門員と相談員の仕事を区分するのは不可能です。どちらもソーシャルワーカーであり、社会福祉園児技術の中で、「関連援助技術」に区分されるケアマネジメントは、本来であればソーシャルワーカーである相談員も使いこなすべき技術です。介護支援専門員という資格は、この中で福祉等関連業種の実務5年を経て、実務者試験に合格した有資格者という意味で、日本の介護保険制度で位置づけられ施設サービス計画等の作成作業や、それに関連した法令に精通したものとして、相談援助職の中のリーダーとなりうる有資格者という意味でしか括れません。(逆に言えば、講義で触れたように資格を持っていても、ソーシャルワークの基礎原理さえ理解していない人は、役に立たない)
しかし、施設サービス計画を立案する際のアセスメントは、介護支援専門員の有資格者が利用者に面接して実施するなど、法令上のルールで行わねばならない業務も定められていますので、きちんとアセスメントとマネジメントを伴う施設サービス計画作成実務を主管するのは介護支援専門員だけです。当施設では、このため相談員と介護支援専門員を兼務させていますが、それは相談援助職のリーダー(主任)という位置づけです。相談員は相談援助過程では対等な立場に位置づけますが、職制上は主任の指揮命令される部下です。また業務上は、ショートを相談員が、その計画も含めて主に担当しています。

(質問4)ベットコントロールや相談員業務の具体的なマネジメントについて

(回答4)質問の意味が効果的・効率的に稼働させるための管理ということでしたら、空床が生じないように待機順番が高い人のインテークなどは、できるだけベッドが空く以前に効率的に行うようにしています。少なくとも待機上位者数名には、常に入所意志の確認の連絡に努めています。

(質問5)専門的知識を身につける方法

(回答5)本や研修で学ぶことは大事ですが、学んだことを実証したり、自分の言葉に置き掛けたりする努力が必要と思います。また情報はたくさん手に入る世の中になりましたが、情報は貯めておくだけでは宝どころかゴミにしかなりません。いかに整理して使うかが問題です。僕のこのブログは自分が得た知識を貯めて整理して、自分の言葉に置き換えるためにツールの一つです。なお得た情報を鵜呑みにせず、それが正しいかどうかの根拠を考える癖をつければ、間違いなくスキルはアップするでしょう。

(質問6)看取りについて

(回答6)これはここのスペースでは語りきれません。是非僕の看取り介護講演を聴きに来てください。近直では来年3月14日(金)18:30〜20:30に行われる平成25年度施設ケアマネジャー研修の「人生の最晩年に関わる介護支援専門員の役割〜看取り介護を通じて考える」があります。

(質問7)相談員の職務中の注意点

(回答7)この答えは難しいですね。職務の性格としては、人一倍ガバメントとかコンプライアンスに敏感になっていないとならないし、コンプライアンスとは、法令遵守にとどまらず、社会的要請にも応えるという、フルセットコンプライアンスの視点が必要だし、職場の組織やルールを守ることも必要です。しかし何よりソーシャルワーカーとして、治療より援助。援助者中心ではなく利用者中心の視点から暮らしを作るという視点が求められるのではないでしょうか。

(質問8)モチベーションの上げ方

(回答8)誰かの赤い花になって、誰かを幸せな笑顔にすることを自身の幸福感と結びつけて考える人なら、その職務を忠実に実行し、あなたの目の前の誰かが幸せな笑顔になってくれることで、自然とモチベーションがアップするのではないでしょうか。

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全国6ケ所で施設相談員セミナーを実施します。


11月以降、日総研出版主催で、僕が講師を務める介護施設相談員と施設介護支援専門員を対象としたセミナーが、仙台・東京・名古屋・大阪・岡山・福岡の6会場で行われる。

テーマは、「施設相談員に求められる役割・連携とマネジメントスキル」である。(リンク先から申し込みができるので、ご覧いただきたい。)

このセミナーは、11/10の日曜日に田村駒ビル(大阪府大阪市)から始まり、12/15(日)の名古屋、1/25(土)仙台、1/26(日)東京、2/22(土)福岡、2/23(日)岡山で、10:00〜13:30(60分講義+10分休憩+60分講義+10分休憩+60分講義+質疑応答10分を含む3.5時間の講義)の予定で実施されるものである。(詳しい内容はリンク先をご覧いただきたい。)

僕がこのテーマの講義を日総研出版社のセミナーとして行うことになったのには、二つの理由がある。

現在僕は同社の季刊誌「相談援助&運営管理」に連載コーナーを持っているが、これは同誌が2010年に刊行されて以来、ずっと続いている連載である。その連載が、同社による読者への電話での聞き取りでも大変評判が良く、訪問営業活動でも、僕の講演を希望される声もあがっていたということが一つ目の理由。

また同社では通信制の社会福祉士養成所を開講し、それは既に13年の歴史があるが、入学者は現任の居宅ケアマネジャーが多いとのことである。それらの人々の入学動機は、ケアマネジメントだけでは限界があり、ソーシャルワークを学び支援の幅を広げたいという理由が多いらしい。

ケアプランを作ることがケアマネジャーの仕事という風に勘違いしている人も多い中で、一方ではそうではなく、ケアマネジメントはソーシャルケースワークの一技術にしか過ぎないことに気がついた人々は、介護支援専門員もソーシャルワーカーであり、そのスキルを身につけないと業務に限界を感じている人がいて、それらの人がソーシャルワーカーとして、施設の中でどのような役割を持ち、何をすべきかということを明らかにするセミナーが」必要となり、その講師役として僕に白羽の矢が立ったということが二つ目の理由である。

セミナーでは、ソーシャルケースワークの基礎援助技術を示すにとどまらず、そうした人々に、施設サービスの質を作り上げる具体的方法論を提示したい。

その時、施設相談員と施設ケアマネジャーの相互関係、業務分掌はどう考えていけば良いのかということを、両者はともにソーシャルワーカーであるという視点から考えていきたい。どちらにしても、概念論に終始することなく、具体的に施設サービスの中で何をする必要があるのかが明確になるように、施設相談員の実務に役立つ内容にする予定である。

主なプログラムは、リンクを貼り付けているセミナー案内で確認できるので、ご参照頂きたい。

なお以下に今週末以降、9月末までの僕の講演予定を掲載しておくので、興味のある方は、ぜひ会場にお越しいただきたい。

25年8月24日(土)10:30〜16:00、愛媛県社会福祉協議会主催・介護支援専門員特別研修(愛媛県総合社会福祉会館)
※申し込みは締め切りました。

25年8月26日(月)10:00〜13:00、千葉県老人保健施設協議会主催・ターミナルケア研修(京葉銀行文化プラザ)、「介護老人保健施設におけるターミナルケアの視点
※同会会員向け研修。詳しくは千葉県老人保健施設協議会にお問い合わせください。

25年8月31日(土)15:00〜17:30、大阪市老人福祉施設連盟主催研修、「制度改正に向けて今しなければならないこと」(大阪市立社会福祉センター)
※参加申し込みなど詳しくは、大阪市老人福祉施設連盟にお問い合わせください。

25年9月1日(日)10:00〜12:00、社会福祉法人健成会 特別養護老人ホーム加賀屋の森・施設開設職員研修、「社会福祉施設職員の使命と誇り〜誰かの赤い花になるために」(特別養護老人ホーム加賀屋の森)
※職員以外の方の参加も可能だそうです。詳しくは社会福祉法人健成会さんにお問い合わせください。

25年9月7日(土)16:00〜18:00、札幌徳州会病院職員研修、「介護従事者に期待するもの〜誰かの赤い花になるために」(ケア付き住宅徳洲会)
※同法人研修。詳しくはリンク先を参照下さい。

25年9月21日(土)15:00〜18:00、福祉現場応援プロジェクト Vol.3・今を生きる介護、特別講演会、「人を語らずして介護を語るな〜誰かの赤い花になるために〜」(十日市きんさいセンター:広島県三次市)
※どなたでも参加可能です。現在申込受付中。貼り付けたリンク先からお申し込みください。

25年9月28日(土)14:00〜16:00、オホーツク地区支部社会福祉セミナー、「人を語らずして介護を語るな〜誰かの赤い花になるために〜」(北見市端野町公民館 グリーンホール)
※近日中に案内する予定です。詳しくはオホーツク地区支部社会福祉会にお問い合わせください。

25年9月30日(月)10:00〜16:00、兵庫県東播磨ブロック老人福祉事業協会・職員研修、「人を語らずして介護を語るな〜誰かの赤い花になるために〜
※会員向け研修。5時間にわたり、介護に求められることを多岐の視点から語ります。詳しくはリンク先を参照下さい。

(10月以降の講演で、既に申し込み受付を開始しているものを以下に示します)
25年10月12日(土)18:00〜20:00、社会福祉法人・援助会主催、市民公開講座、「超高齢化社会と介護サービス
〜時代の変化に応じた介護のあり方〜
」(北九州市黒崎ひび信ホール・ 中ホール)
※どなたでも参加できます。張り付いたリンク先からお申し込みください。

25年10月26日(土)10:00〜11:30、株式会社アクティブライフ設立25周年記念講演、「介護支援専門員の使命と誇り〜これから求められる介護支援専門員〜」(芦屋市民センター・ルナホール)
※どなたでも参加できます。張り付いたリンク先からお申し込みください。

25年10月26日(土)15:30〜17:00、エスティームライフ学園前 設立20周年記念講演会、「介護支援専門員の使命と誇り〜これから求められる介護支援専門員〜」(奈良県新公会堂・会議室1)
※どなたでも参加できます。張り付いたリンク先からお申し込みください。

25年11月24日(日)10:00〜12:00、介護をがんばる友の会主催研修、「人を語らずして介護を語るな〜誇りを持って仕事をするために、介護サービスの常識を問い直そう〜」(ふれあいの里石岡ひまわり)
※どなたでも参加できます。張り付いたリンク先からお申し込みください。

なおそのほか、すべての講演予定については、「masaの講演予定」を参照してください。

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自分を好きでいることが大事




他人に対して、特別な理由もないのに「苦手だな」とか、「なんとなく嫌だなあ」と感じてしまうことがない人なんて存在するのだろうか?

特別な理由があるわけではないのに、他者に対して何となく波長が合わないと感じたり、やることなすこと気に食わなくて悪感情しか持つことができないということは、それほど珍しいことではない。

介護の仕事に携わっている人で、福祉援助や介護サービスの場で、自分が関わる利用者さんにもそうした感情を抱いてしまうことはないだろうか?利用者のちょっとした態度や言葉にイラついたりすることはないだろうか?そしてその時、利用者さんに対して、そういう否定的な感情を覚えることについて自己嫌悪に陥ったりしないだろうか。

しかし、そうした感情を覚えることに罪悪感を抱く必要はないし、そうした感情を抱く自分を責める必要もないと思う。

感情というものは理屈で説明できるものではない。それは自らの意思ですべてコントロールできるものでもない。人間とはそれほど単純な存在ではないのである。人の心まで科学ですべて解明できることはあり得ないし、人の心のすべてが論理的に説明できるわけがない

人の感情が「すべき論」で動くわけがないのである。

しかし福祉援助や介護サービスの現場で、そうした感情が援助関係に影響を及ぼしては困るわけである。

そういう感情を抱いてしまう相手に対しても、適切な援助関係を築かねばならないわけである。プロである以上、我々はそういう感情を超えたところで、適切な支援の手を差し伸べる使命を持っていると考えなければならない。

だから、自分はどのような感情を、どういう時に、どういう人に対して持つ傾向にあるのかを、自らが積極的に知ろうとする必要があるわけだ。そのことを自覚することで、そうした感情が援助関係に影響を及ぼさないように、その感情を制御しながら援助関係を適切な方向に向けることができるわけである。

このような精神作業を積極的に行うことが「自己覚知」につながるのであり、自己覚知は対人援助に関わる全ての人が意識しておかねばならないものである。

例えば、人によって飲酒は許せるが、喫煙は我慢できないという価値観もあれば、その逆もある。 人によって怠惰が最も許せないという価値観もあれば、嘘をつくことが最も許せないという価値観を持つ人もいる。

相談援助や介護サービスの専門家であるとしても、こうした感情や考え方を持つこと自体は人間として不自然ではないのである。

なぜなら人は他者を見るときに、自分の道徳的標準や感情で判断してしまうことが多いからである。それだけ価値観というものが多様なのである。しかしその時考えなければならないことは、自分の価値観がすべてではないということだ。自分が常に正しいわけではないということだ。そうであるがゆえに、自分がどのような感情や意見を持ちやすいか自覚することが対人援助には不可欠なのである。

このように理屈では排除できない様々な感情を持ってしまうということを前提にして、自分が今、どのような行動をとり、どのように感じているかを客観的に意識することが自己覚知である。

そして自ら抱く様々な感情を、正しいとか、正しくないとか審判するのではなく、そうした感情を抱く自分というものを正しく理解して、それさえも受け入れるというのが自己覚知のもうひとつの意味でもある。

僕は基本的に緑風園で暮らす人、緑風園のサービスを利用するお客様、それらの全ての人を愛している。でも時々、その愛する人々のちょっとした態度や言葉に傷つけられ、ときにそのことに対し怒りや嫌悪の感情を覚えてしまう。しかし僕はそうした感情を抱いてしまう自分を否定して、自分自身を責めようとは思わない。それも自分の一部であると受け入れ、そうした感情を抱きやすい自分というものを意識して職務に携わる。

勿論、自分自身の何かを変えなければならないこともあるが、その前に自分自身を受け入れ、自分自身を許し、自分自身を愛せないと、人に対する愛情は持てないのではないかと考えている。

大きな愛になりたいから、自分自身を愛すことから始めようと考えている。

それは自己弁護ばかりして、他罰的な思考に偏ることとは違うと思っている。全ての人の豊かな暮らしを支援する前提として、自らを愛し、他者を愛するという意味だと思う。

福祉援助・介護サービスに携わる全ての人々に言いたい。

どうぞ自分自身を嫌いにならないでいてください。どうぞ自分を愛し、人を愛する人になってください。あなたの素敵な笑顔が、周囲の人々の笑顔と幸福につながることを忘れないで下さい。

人を幸せにするためにある介護サービス。どうぞその「介護の誇り」を忘れないでください。
君しかできない




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ソーシャルケースワークの課題。


自宅で家族と暮らす要介護者を支援する際の難しさとは、家族が抱える問題が、要介護者に影響することを防ぐ手立てが別に必要になるという点である。

要介護者本人と、必要な社会資源の調整ということにとどまらず、要介護者の生活障害の一因になっている家族の問題についても、何らかの形で関わらねばならなくなるケースというのは多いはずだ。

介護支援専門員も、利用者に対する居宅サービス計画を立案し、それに沿った総合的援助を行う際に、居宅サービス計画が機能しない一要因が、家族の存在そのものであるというケースに出くわすことは少なからずあるだろう。

その際には、家族支援は私の仕事ではないと言っておられず、そのことを含めた総合支援能力、調整能力が求められてくる。

例えば、主介護者自身が精神的な障害を抱えて、それ自体が要介護者の生活障害になっているケースなどである。

この場合、主介護者の病状に対するアプローチは不可欠であり、利用者支援と切り離して考えられない。しかし一方で、主介護者からは、介護支援専門員は利用者にだけ関わってくれれば良いので、自分のことは構わずにいてくれと拒否的な態度を取られることも多い。

「あなた自身の問題が、利用者の問題と関わりがあるのです」という説明をしたところで、それを簡単に受け入れてくれるとは限らず、そこでいかに介護支援専門員等のソーシャルワーカーが、主介護者から信頼を得て、主介護者の問題を含めて全体的に関わることができるかが重大な課題となる。そういう意味で居宅における支援というものは独特の難しさがある。

その時必要とされるのは、社会福祉援助技術であることは否定しないが、しばしば「人間力」「包容力」というものが必要不可欠であると感じることがある。そうした力を持っているワーカーは、とても頼もしく思える。

この点で言えば施設サービスの場合は、こうした問題のハードルが在宅時より低くなる。

なぜならそうした問題を抱えたケースでも、施設サービスに移行した途端に、介護施設という新たな居所で、家族の負の影響を排除して、生活支援のみに関わることができるというメリットがあるからだ。

あまり詳しい内容を書く事はできないが、次のようなケースがあった。

介護保険制度が施行された直後のことであるが、高齢者夫婦と、一人息子が同居していた世帯で、脳出血後遺症で左半身麻痺となった夫の介護を、70代の妻が担っていたケースである。

高齢の妻の介護負担を軽減するため、当施設併設の居宅介護支援事業所の介護支援専門員が、ヘルパーとショートステイのサービスを組み込みながら支援していたケースである。僕は当時、ショートステイの担当者として、本ケースに直接関わりを持ち、短期入所生活介護計画を作成していた。

このケースの一番の生活障害は、要介護者の身体状況ではなく、息子の存在そのものであった。

50代の息子は、アルコール中毒症で定職もなく、一家は生活保護を受給して暮らしていた。昼間から酒を飲んで、身体介護のため訪問するヘルパーにからんで、ホームケルプサービス提供そのものに支障が来すことが頻回にあった。

酒を飲んで、親である利用者や妻に暴力を振るうこともあった。当然のことながら、親子関係は非常に険悪なものになっていた。

アルコール中毒の治療が必要だということで、精神科医療機関のソーシャルワーカーの協力も得て、受診・治療につながるアプローチを行ったが、なんとか外来受診につながったものの、酒を飲まずにはいられず、同じことが何度も繰り返され、最後には訪問介護サービスを提供してくれる事業所がなくなって、緊急避難として連続利用30日のリセットルールを使いながらショートステイを長期間利用し、特養の空きベッドが生じた際に入所に至ったケースである。

入所後も、この息子は酔ったまま施設にやってきて、入所中の親に大声で怒鳴り散らしたり、手を挙げそうになったりしたため、妻の同意を得て、息子の面会を制限することにした。酒が入っている状態での面会を禁止した。それでも施設に訪問してくるが、玄関から中に入れないようにして、素面の状態なら会わせると言って、そこから追い帰す様なことが何度かあった。

当施設に入所された父親や、自宅で息子と暮らし続ける母親も、そうした息子の状況に困惑するばかりであった。確かに父親が施設入所したことにより、父親自体の暮らしの障害は大幅に改善した。しかし生活の質という面から考えると、長期的に見れば、息子の状況が改善しない限り、この親子、一家が抱える生活障害が解決されたということにはならず、親子関係が完全に崩れて、家族として成立しない状況になることが考えられた。

このケースでは、やはり息子がアルコール中毒に対する病識をもって、抱える問題を理解することが必要であった。この部分で、施設の介護支援専門員からは主たるアプローチはできなかった。

本ケースでは、精神科の相談員であるPSWが積極的に関わってくれて、いつしか息子の信頼を得るようになり、息子の相談に乗りながら、施設入所している父親に逢うために押しかける理由や、心情を理解し、酒を飲んでいない時に、一緒に施設に訪問して、父親との面会に立ち会うなどの支援を行ってくれた。

施設側も、PSWからもたらされる情報を元に、定期的に息子や母親の状況確認と、父親の様子を伝えるために、電話連絡したり、訪問したりした。

この間は、所属が異なる担当者が、上下関係なく、お互いに必要な情報のやり取りをして、精神科医療機関の医師も巻き込んで、スムースな連携ができた。結果として、息子はアルコール中毒の治療も行うようになり、酔ったまま施設を訪問してトラブルを起こすこともなくなった。

最終的には、ある事情で、息子が先に亡くなってしまったが、親子関係が破綻してどうしようもなくなるまでには至らず、施設入所後な、以前より親子関係の改善が見られ、家庭崩壊とまではならなかったケースである。

その時、プライベートの時間も使って、積極的に介入してくれたPSWの存在がなかったら、もっと問題は複雑化しただろう。彼の調整力のおかげで、少しずつではあるが、親子の関係が改善していった。

本年度の、介護保険制度改正の最大の目的は、地域包括ケアシステム構築のスタートのとしという意味だろうが、その中では保健・医療・福祉の連携が重要になる。そのために介護報酬にも、医療報酬にも、連携に関わる対応の加算が新設されているが、そこにはソーシャルワーカーの介入が条件とされていない。

本来、多職種連携は所属を超えたソーシャルワーカーの介入がより重要になってくるはずだ。

それがなければ、「連携」という言葉が、単に医師が福祉・介護サービスを指揮命令系統の中に組み込んで、指示をして終わりということになりかねないと思う。ここが大きな課題だろう。

どちらにしても、所属する組織の利害を超えて、人の暮らしに関わる使命感を持つ誰かが調整役にならない限り、人の命や暮らしは簡単に崩れてしまうということを忘れてはならないのだろうと思う。そのことができているか、押し詰まったこの時期にもう一度自らを振り返って考えたいと思う。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

生活の個別性・専門性に向き合える相談援助者であるために。


保健・医療・福祉サービスに携わる人々は、専門知識と専門技術を持った専門家であるはずだ。

医師や看護師は、医療や看護の専門家であるし、介護福祉士は介護の専門家でなければならない。

その他、栄養士やセラピストなど、様々な専門家がチームを組んで、ある目的を達成しようとして人に関わるのが我々の職業である。

例えば僕なら、社会福祉士や介護支援専門員やカウンセラー等の資格を持っており、相談援助の専門家と言えるであろう。しかしそれは資格を持っているから専門家ということではなく、知識や援助技術を獲得した結果として資格というものが付与されたという意味において「相談援助の専門家」といって良いものだろうという意味である。

つまり資格を持ち続けたとしても、何らかの理由で知識や技術を失った場合、「専門家」という看板は下ろさねばならないということになる。

そうであれば当然、専門家として自らのスキルを日々アップさせようとする姿勢は常に求められるし、基礎知識や基礎技術を生かす努力を重ねる責任を負っていると考えねばならない。品質保持の努力をしないと製品は劣化するように、我々の専門知識や援助技術も何もしなければ劣化してしまうからだ。

「専門家」という看板を背負っていながら、専門家ではない人より専門領域の知識がないという状態は非常に恥ずかしいことである。そう言う意味では介護保険制度の中で仕事をしているのに、サービス利用している人や、その家族より介護保険制度やサービスの知識が劣るというのは恥ずべきことである。その状態は専門家ではない素人がサービスに携わっているに過ぎない状態と言え、それなりの費用しかかけられないという理屈が成り立ってしまう。我々はそういう状態を打破して、専門家が専門家として働き続けられる環境を作り、報酬を得るためのアクションをし続けなければならない。

そう考えると、専門家とは「専門性」に胡座をかいて、他者を見下しているような暇はなく、常に様々なものから学び研鑽していく人のことを言うのだろうと思う。専門家であり続けるために、常に謙虚な姿勢を持ち続ける必要がある。利用者に対して、社会に対して。

ところで、我々相談援助職にとって、一番厄介なことは、我々が専門性を持って関わるのは、「人の暮らし」そのものであるということだ。

医師や看護師が、その専門性において、ある特定個人の病気そのものを治療したとしても、その後の生活支援をはじめとした、様々な暮らしに介入するソーシャルケースワークの領域においては、それぞれの生活の個別性に焦点を当てざるを得なくなる。

この時、間違えてしまいがちなのは、我々の専門性とは、誰か特定個人の個別の生活の専門家にさえなり得る能力を持っていると考えてしまうことだ。それは間違った考えであり、我々ソーシャルワーカーといえども、特定個人の暮らしの専門家にはなり得ないのである。

そもそも個人の生活とは、最も個別性の高い領域であり、他人の専門性が入り込む余地のないものである。Aさんという個人であれば、Aさん自身の「暮らし」の専門家とは、Aさん自身しかなり得ないのである。

「Aさん、あなたの暮らしぶりは間違っているよ。」という指摘は、専門性に立脚して行っているというより、ソーシャルワーカーの価値観によって指摘しているに過ぎないという一面を持つものだ。だから我々はそういう立ち位置でしか仕事ができない限りにおいて、常に間違ってしまうのだという自覚が必要だ。

Aさんの暮らしとは、Aさんがこの世に生まれ、両親をはじめとした様々な人や環境の影響を受けながら、Aさんとしてのアイデンティティーを確立する中で作り上げられたものであり、善し悪しや、正しいとか間違っているとかという評価の介入の余地さえない部分が多くを占めているのである。

その中で我々が、Aさんという特定個人の生活に介入するという意味は、Aさん本来の潜在能力を含めたすべての能力を引き出して、自分自身の生き方を自分で決めていく力を養い、その暮らしをより望ましいレベルまで向上させるといったことを目的とするエンパワメント介入という意味を持つものであろう。

その時、我々に求められているのは、我々が持つ価値観は、他人のそれとは異なるということであり、我々が常に正しいとは限らないということであり、援助過程で援助を受ける人々からも学び取らねばならないことが多々あるということだ。

そういう真摯さもって、自己覚知に努め、自らの現状のスキルに満足しないで向上心を持ち続けることによって、初めて我々は誰かの個別の暮らしに介入し、傍らにいることが許される存在となり得るのであろう。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

地に堕ちた相談援助職


介護施設や、介護サービスにおける相談援助職の役割とはなんだろうか。それは当然社会福祉援助技術を持つソーシャルワーカーとして、利用者や家族と関わりを持つ役割である。

様々な生活課題を抱えた人々の暮らしをよくするために、それらの人々と、様々な社会資源と結びつけたり、調整したりするケアマネジメントの方法も、ソーシャルケースワークの技術の一部を構成するものだ。

ソーシャルワーカーは、社会生活の中で人の暮らしを支援するのであるから、利用者やその家族の抱える経済的問題についても、適切にアプローチしなければならない。経済的援助が必要な人であれば、様々な社会制度の中で、利用者に結びつけることができる経済的負担を減らす援助方法を探して調整することをもこの援助に含むのは当然である。

しかしそれはあくまで社会のルールとして許された方法でなければならないし、法令を無視してまで援助することが許容されるわけではない。結果的に利用者負担が減って、それで誰にも迷惑がかからなければ良いという理屈は通らない。社会正義というのもを無視して何が相談援助だ。

利用者の利益になりさえすれば、法を無視しても良いと言うことがあってはならないのだ。たしかに法律は所詮、文章にしか過ぎないから、悪法も不完全法も存在する。しかし法律が不備であるという自分の価値観だけで、法律で定められたルールを無視してしまっては、この世は無法地帯だ。そんな社会を自ら創りだす方法論に国民の支持は得られるのか?国費を使うことを認めてくれるのか?

しかし実際には、法令を無視して、法の網の目をくぐって利用者の経済的負担を減らすことを、社会福祉援助だと勘違いしている相談援助職員は多い。利用者の経済負担が減ることが、社会全体からみて不利益になる場合もあるという視点が欠如している相談員が存在する。

「費用的な問題で、必要なサービスを利用できないとなれば、何とかする方法を模索する事は、決して不適切な対応だとは思えません。」という屁理屈で、法律を破って減免適用を受けることができることを勧めることも許されると考えるのは社会に対する無責任だ。ソーシャルワーカーとしての使命感の欠如だ。

それともソーシャルケースワークは、法の網の目をくぐる方法を示唆することだとでも言うのか?そんなの相談援助でもなんでもない。社会福祉援助技術とは言えない。

法律を変える必要性があるという正論を主張するためには、悪法でも法律を守って、なおかつ法の瑕疵を明らかにして、正当な方向に変えるためのアクションを起こすことではないか。

高速道路の料金徴収に反対だからといって、料金所を強行突破する連中にソーシャルアクションが起こせるとでも思っているのか?

許せないのは、施設の相談員という冠をかぶって、施設の中だけでしか責任を負おうとせず、社会全体の視野がない相談員である。経済的負担を減らす方法があるからといって、その方法を適用できない状態であると知っているにも関わらず、認定する機関や担当者は自分ではないから、その方法をアドバイスすることは自分の責任ではないと考える輩がいることだ。

いつからソーシャルワーカーは、特定個人の利益だけを追求して、社会全体のあるべき姿を見失う人になったんだ。自由で公平で幸福な社会とは、ルールを無視する人が得をする社会なのか?

参照:表の掲示板:「世帯分離の考え方について

それとこのような相談援助者が多いという実態は、将来的には社会全体の不利益となることを指摘しておきたい。

制度改正議論の際に、いつも議論されるのは、施設サービス費に減免制度があることはおかしいという議論だ。今まではその必要性が認められて、減免をなくそうという意見は阻止できてきたが、実態の伴わない世帯分離という方法を、施設の相談援助職という専門職が勧めているという実態が明らかになれば、減免制度の悪用ということで、この制度そのものの存続が危うくなるだろう。

そうすると真に経済的負担の減免が必要な人が、救済不能となるだろう。一番経済的援助を必要とする人が、一番困る結果になるということだ。そういうことまで考えているのだろうか?

その時、実態の伴わない世帯分離を勧める人々はどのように責任を取るのだろうか。
法令遵守


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介護・福祉情報掲示板(表板)

カイゴのイノチ


我々の職業は、誰かに施す(あわれみの気持ちで、人が困っている状態を助けるような行為をする。)職業ではない。

我々の仕事は単に行為を手助けする職業ではない。

介護とは、人が人として生きる為に、人として当たり前にみんなで助け合うことだ。この世に生を受けたすべての人間が幸福に暮らすことが出来る社会を目指して、ごく普通に助け合うという行為に、適切な援助知識と援助技術を加味して専門性をもって支援する職業だ。

当然そこで生活の糧を得ている限り、その専門性とは科学を持たねばならないが、しかし厄介なことに対人援助とは人の感情にアプローチすることが必然となる。化学はここに届くのか?

造られた援助知識と技術に基づく専門性に、この感情にアプローチする方法論を加味することは非常に困難を伴う。ソーシャルケースワークの原子原則の中に、「意図的な感情表出の原則」や「統制された情緒関与の原則」があるという意味は、この感情に適切にアプローチしようという方法論であるが、この原則さえ守っておれば、信頼を得て支援行為がスムースになるということではない。

人は人を信頼して頼るときに、自分の感情がいかに相手に受け入れられ、いかに相手がそれに真摯に反応してくれるかということを自然と感じととって生きている。波長が合う合わないということは、この感情に合う合わないということと密接に関連している。

だから福祉や介護サービスを職業とする人が、単に職業的に、専門職としての立ち位置だけで利用者にかかわるとしたら、大きな失敗を犯すであろう。

人として、人を愛し、人を幸せにしたいという豊かな感情を持ち、人々の喜怒哀楽に敏感であり、人々の穏やかな微笑みを自らの幸福と感じる延長線上に、本当の意味での信頼を持たれる可能性があるのだろう。

人として、人の幸せを願い、共に歩むということが、動作を援助するだけではない、「行為援助」につながっていくのだろう。

援助者である前に、人として何が大切かを見つめることを忘れないでほしい。その上に、自分以外の他者の生活に介入するための専門知識と技術があるということを忘れないでほしい。人としての豊かな感情がベースにない限り、対人援助は成立しないということを忘れないでほしい。

大切な根っこを間違えないでほしい。そのことを見つめ続ける先に、我々は利用者の「傍らに寄り添うことが出来る者」となる可能性を持つことが初めてできるのである。

そして介護とは、決して施しの動作援助ではないことに気付くことが出来るであろう。

kaigo

熊本県の講演の旅の途中で、矢部大矢荘さんの事務室のPCを使ってこんな記事を書いている。これも人とのつながり、ネットワークがあるから出来ることだ。そういう環境にいる僕は幸せ者だ。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

人を語り、介護を語る。

介護サービスの現場は、「人の暮らし」という最も非専門的な領域に関わる仕事である。この「非専門領域」という自覚がないと我々は常に間違ってしまう。

社会福祉援助の専門家が存在するとしても、誰か他人の暮らしの専門家など存在しないのである。このことを自覚しないと、自分の価値観を強引に誰かに押し付けて自己満足するだけの行為を、「社会福祉援助」だと勘違いしてしまう。それがこの仕事の恐ろしいところである。

僕自身が考える「良い状態」は、果たして利用者が考えるそれと同じなのかという問いを繰り返していかないと、他者の生活を、ある一定の枠組みにはめ込むことが「生活支援」であると思い込んで、その枠の中で、もがき苦しみ、哀しんでいる人々の姿さえ見えなくなってしまう。

そういう状態に陥った社会福祉援助者は、その人自身が「生活障害」そのものである。それは専門家ではなく、専門知識をかじった悪魔である。

法律は一括処理を原則としている。例えば介護保険法は、対象となる高齢者等をひとくくりにして法文が書かれているために、この街に住むAさんや、Bさんに法の光が届かないことがある。ソーシャルケースワークとは、この影の部分を照らすために存在する援助技術なのに、それを使う専門家が「闇」を創り出してしまってはどうしようもない。介護保険制度を手直しする専門部会は、結果的には光の届ける範囲を狭める方向にばかり制度を誘導してしまっているのだから、光を届けるべき我々の役割はより重要になっているのである。

我々は誰かの暮らしを支援するといっても、それは我々の持つ知識や思いの範疇から答えを与えるものではない。

支援を必要とする対象者自身が答えを見つけるために、我々が持つ専門知識や技術を酷使しながら「ともに答えを探す」ことが求められているのである。そうしたケアパートナーとしての自覚がなくなれば、暮らしを支援する方法は常に、援助者の知識と価値観の範疇を超えないことになる。それでは生活の「個別化」など不可能になる。アセスメントも形骸化するだろう。

共に歩むケアパートナーであろうとする限り、そこには利用者の思いに寄り添おうとする自覚が生まれるだろう。だから我々は利用者に対して無関心ではいられないし、関心を持って真剣に利用者に思いを寄せるのである。どんなに知識があっても、この「思い」がなければ、本当の意味での「暮らしの支援」など不可能ではないだろうか。

だが注意して欲しいことがある。

誰かのことを真剣に思うことは大切なことである。しかし「思う」という言葉には、否定的な意味もある。「思い込む」という言葉は、誤解するという意味にも通じる。勝手な「思い込み」は、これも自身の価値観の押し付けにつながりかねないのだ。

「思いつめる」という言葉もある。何か困難があってもひとりで思いつめてはいけない。人は誰しも誰かに手を貸してもらわねばならないことがあるのだ。思いつめた状態では、人は自らの心を壊してしまう。

思いつめると、思うという文字には、角が生え、しっぽが生えてくるのだ。そうなると「思」という文字は、「鬼」という文字に変わってしまう。だからひとりで思いつめないことも大事だ。

我々に必要とされる「思う心」というのは、利用者の様々な状況を考え、その原因を想像し、その状況より良い暮らしがあるとすれば、その向こうに実現する暮らしを想像し、そこに至る可能性を創造することである。

その「思い」が真剣でさえあれば、我々と「虐待」とは無縁であるだろう。

しかし人を思うことを放棄し、日々の生活の疲れに流され、心を麻痺させた時に、人は人の悲しみをなんとも思わなくなるのだろう。虐待とはそこから始まるものであり、僕やあなたと全く無縁なものでもないという自覚も必要だろう。

僕や僕の仲間たちが、そんな状態に陥らないために、僕は人を語り、介護を語り、愛を語り続けるだろう。そういう僕の言葉に耳を傾けてくれる人々がいる限り、僕の旅は続いていくだろう。

そこで僕の考え方や、やり方に共鳴してくれる人との繋がりが、我々自身の力になっていくのではないだろうか。そう信じていたい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

THINK ABOUT MY DAUGHTER 2

時として、自分のことさえ分からなくかるのが人間という存在である。

自分のことは、自分が一番よく分かっているというのは幻想だ。自分のことだからこそ分からなくなることがある。鏡に映る自分は、真の自分の姿ではないように、第3者からしか見えないものがある。それは姿・形という意味ではなく、自分の内面をも含めての問題だ。

だから自分の事が良くわからなくて、袋小路に入ったように不安を持つことは、決して不思議なことではない。誰しもそういう状態に陥る可能性を持っているのである。自分の全てが分かるほど、神は人間に能力を与えてくれているわけではないのだ。

時に人は、自分が見えなくなり、道に迷うことがある。それが人間の持つ宿命である。そこから前を向き歩き続けるというのが人生である。それは自分だけに課せられたいばらの道ではなく、人であれば誰しも背負う業(ごう)である。

そして人間とは必ず間違える存在でもある。

数十年生きてきた人が、自分の前半生を振り返って、まったく後悔がないなんて言うことはあり得ないだろう。その時はベターの選択だと思ったことであっても、あとから別の道を選べば良かったと後悔することだってある。それは極めて普通のことで、悔いの多い人生だからと言って、そのことを背負って自分自身を押しつぶしてしまってはならない。多かれ少なかれ誰しも後悔を背負って生きているのである。

だが、神は我々に後悔ばかりして生きることがないように、「忘れる」という能力を人に与えたもうた。つらい過去を忘却し、明るい未来に向けて前を向くことが許される旅が人生である。反省は必要だが、反省ばかりでは何も生まれない。反省を明日へ繋げるのは、「希望」ではないだろうか。少なくとも僕はそれを信じて生きる人でありたい。

人の強さとは、生きていく強さとは、ある意味その人物のなかに「いい加減さ」があることだと思う。何でもかんでも真面目に考えすぎないことだ。形からはみ出したものを全て否定してしまわないことだ。

たいした根拠がないことでも「何とかなるさ」という良い意味でのいい加減さが必要だと思う。それを人はプラス思考とか、ポジティブな考え方と呼ぶのではないのか?開き直らなくとも前を向ける「いい加減さ」を持つことは悪いことではないじゃないのか。それはチャラチャラした「いい加減」ではなく、「良い・加減=塩梅」である。それってadjustment じゃないのか。

僕は、僕自身の中に存在する「ある種のいい加減さ」に気がついている。だからと言ってそんな部分を持つ自分を否定するつもりはない。

人がどう思おうと、そのいい加減さが、自分にとっての幅(はば)である。その幅によって僕はいろいろなものを受容することができる。その幅によって僕は、様々なものを許すことができる。ソーシャルワーカーが持つべき「自己覚知」は、その能力を引き上げる要素になり得るだろうが、同時にそれだけではどうしようもない部分を、僕のいい加減さは補ってくれるのである。

それは親からもらった命を尊ぶ心と結びついている。僕の血の中に脈々と続くものがあり、そこから受け継いだものがある。それを否定せず、ありがたく思うことが、自分自身を受容し、自分自身を否定しないことである。

自分は世に秀でた能力を持つ存在ではないし、なにか自慢できる個性を持つ存在でもないが、自分自身の存在を自らが敬い、自分自身を誇りに思うことは、自分を創り上げてくれた様々なものに感謝することである。親から、あるいはご先祖からいただいた血脈・命に感謝することが、自分にできる一番の恩返しである。

同じように、人は誰しもがその存在自体に価値があるものだろうと思う。

社会福祉援助は、そうした尊厳ある人間の幸福を追求して、人が人として敬われ、人としてその持ち得る能力を最大限に発揮して暮らすことができることを支援するものではないだろうか。

幸福と贅沢は異なるものだろう。人間の真の幸福とは、心の豊かさ・心の平安を伴うものであり、物質の上に胡坐をかいて、心の豊かさや平安を伴わないものは、本当の意味での幸福ではないのではないのか。

我々が目指す「幸福追求」とは、倹(つま)しくとも、人間らしい暮らしの中にある日々の喜びを、全ての人々が感じられる社会を目指すことなのかもしれない。

だからといって、幸福追求という「斧」を大上段に振りかざして、他人(ひと)に何かを押し付けることを欲しているわけではない。そういう存在は必要とされないだけではなく、他人にとっては迷惑だろう。

見知らぬ街の見知らぬ路上で、なんかに困っている人がいた時に、そっと声をかけ、手助けをして、名を知られることもなくその場から消え去る存在であれば、それが一番である。さわやかな風のように、吹き去れば消えてなくなる存在が一番だろう。社会福祉援助や、その援助者とは、本来そうした存在である。

名もなき一市民として、歴史の中に埋もれた多くの先人たちにより、我々はその援助理論や技術を受け継いでいくのであり、歴史に名を刻む著名人だけから手渡されたものだけが積み重なっているわけではないのだ。

名もなき存在としてでも、社会の片隅で、それぞれのステージで人を愛し、人を見つめ、人とともに歩む人々が存在する。その向こうに、皆が笑って生きることができる、倹しくても優しい豊かな社会を目指して、一歩ずつ前に進もうとするのが僕達のやり方である。

それは僕の中のいい加減な部分をも含めて受容してくれる周囲の人々によって支えられているものでもある。

一人でできることなんて何もない。だから「アリガトウ」は大事な言葉である。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

自己覚知を促す方法を模索して

僕は神様ではないからすべての人間を好きにはなれない。当然のことながら嫌いなタイプの人間がいて、嫌いな特定個人がいて、付き合いたくない人間がいる。

嫌いな特定の個人であれば、別段スクラムを組んで仕事をする必要はないし、プライベートを含めて付き合う必要を感じなければ無視して生活することは可能である。実際に自分の心の領域からは排除して、存在を無視している特定個人も存在する。

とは言っても自分の嫌いなタイプの人間を全て排除して生活を送ることは不可能だ。そもそも嫌いである原因というのは必ず相手側に原因があるとは限らず、自分の側に原因があることも多い。

つまり「好き嫌い」という感情は自分自身のものであり、この世で最も個別的な感情であって、自分としては嫌いな理由を相手側の様々な問題に結びつけて「事情がある」という理屈を組み立てて生じさせる感情であっても、第3者から見てその感情を持つべき理由が必ずしも合理的で正当な理由ではないことも多い。しかし合理的で正当ではないことを客観的に説明されたとしても「嫌い」という感情が消えてなくなるわけではない。それだけ好悪の感情とは単純なものではない。

だからといって人間は好き嫌いの感情だけをそのままむき出しにして、その感情の赴くままに何でもしてよいということにはならない。日常や仕事を含めた人間生活全体を考えると、そこでは自分自身の感情を抑えて、社会生活が円滑に流れるように「嫌いなタイプの人」との関係性を持たねばならない場面が多々ある。

さらに自分の嫌いなタイプの人間が、福祉援助の対象者であった場合は、それはまた次元の違う話になる。この場合はもっと積極的に自分の好まない感情を自覚して相対する必要がある。これは感情を隠して表面上の言葉や態度を取り繕うという意味ではなく、福祉援助のプロフェッショナルとして、自分の否定的感情をも理解し、自分自身がその感情を分析し、その感情をコントロールして相手を受容し、好ましい関係を構築する必要がある。これが「自己覚知」である。

今、僕は介護福祉士養成校で「認知症の理解」という授業を受け持っている。この中でも受容することの大切さを教えるとともに、受容の前提に「自己覚知」があることを教えている。

加えて、社会福祉援助技術実習に関連した基礎授業も担当しており、この中では時間は非常に短いが(90分授業を4コマ担当している)、社会福祉援助技術の基礎を講義している。

ここではバイスティックの7原則を中心に社会福祉援助技術を教えることとなる。単に原則の意味を教えるにとどまらず、例えば「バイスティックの7原則を居宅介護支援に当てはめると(1) ・ 同(2)」のような具体例を示して、その原則について理解を促したりする。

しかしその前に、「自己覚知」について、その考え方を示し理解を促す必要がある。これが理解出来ねば本当の意味の「受容の原則」も理解出来ないし、全ての原則に繋がっていく考えだからだ。それだけこの考え方、概念は重要なのである。

しかしこの概念について理解ができたとしても、いざ自分自身の事になると、果たして充分な自己覚知ができているかといえば、そこは怪しいところだ。考えようによっては、それは永遠の課題とも言える。自分のことは自分が一番良く知っているという考えは大きな勘違いで、第3者からみた評価が自分のそれとは異なる部分が多々あり、それは自分自身の考え方が唯一無二の真実だとしても、客観的な評価としては他人のそれが正しいという場合がある。この際の本当の意味の自己覚知をどう考えるかはなかなか難しい問題である。

例えば僕自身のことに関して言えば、僕は服装や髪形の乱れには人より寛容的であるが、言葉の正しい使い方をできない職員に対しては否定的な感情を持ちやすいという「自己覚知」がある。整理整頓に無頓着な人は許せても、時間にルーズな人を許せないという感情を持っているという「自己覚知」もある。頭の切れる女性に対して尊敬する前に「可愛くない」と思ってしまいがちであるという「自己覚知」もある。しかしそれが僕のすべてを自信が分析的に覚知していることになるかといえば疑わしい。だから毎日自分が何者であるかを考え続けることが僕自身の鍛錬である。

どちらにしても他人が自分の事をどう評価しているかという部分も含めて、自分の事を客観的に冷静に見つめる「もう一人の自分」というものを持つ必要がある。別に2重人格になれという意味ではなく、冷静に自分自身のことを考えることが必要だという意味である。

これはある程度の訓練を要する問題で、人生経験を積みさえすれば自己覚知が促されるということではない。意識して自己覚知に努めない限り覚知できないのである。

このことを学生にどのように伝え、今現在の彼らの自己覚知をどのように促すべきなのか・・・。この授業に関連するシラバスを考える際に、このことは重要な課題となる。

そんなことを考えながら休日にウォーキングを行っている際に、ふと思いついた方法がある。それは3人一組にした演習である。自分の事をどれだけ自分自身が知っているか、それは他人の評価と同じなのか、違うのかを演習形式で露わにしてみようと思った。

勿論、年ごろを考えると、様々な事柄に揺れ、傷つきやすい微妙な年齢層の学生も多いので、他人の評価が心を刺さないようにそれなりに工夫が必要であるが、適切なアドバイスがあればそれは問題なく可能となる方法だろうと考えて来月の授業で実践してみようと思った。

そのことの結果については、いずれ機会があったらブログ記事として書くことがあるかもしれない。

このようにして、歩きながら考え思い浮かべることが実に多い。このブログ記事も、そういう時に思い浮かんだテーマで書いたりしている。少なくとも僕のブログには、ねじり鉢巻きでテーマを考えて辞書を引きながら書くような記事は存在しない。

だから読者の方々もその程度と思って気楽に読んでくださればありがたい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

どちらになりたいのですか?

社会福祉援助や介護サービスの現場は、様々な人に向かいあう現場でもある。

それは人の暮らしに向かいあい、人の心に向かいあう現場である。

Shanさんのブログ記事では池田省三介護給付費分科会委員が、「すぐに現場を知らないって言われるが、ふざけるなと言いたい。実習関係で150以上の現場を知っているんだ!!介護従事者より良く知っている。」と怒っている発言が紹介されている。しかし彼が知っているのは実習生を通しての現場であり、他人の目を通したり、別なステージから覗く利用者と介護従事者の姿でしかない。

我々がいう「現場」の意味は、そこで息をし、暮らしを営む人々とその暮らしを支える人の、それぞれの喜怒哀楽がうごめく場所であり、制度の光が当たる場面と、光の届かない影の部分の両方で、泣いたり笑ったり、喜んだり苦しんだりしている人々の息吹きを直接感じる場所である。

池田省三氏が言う現場とは、彼の概念の域を出ない彼が見える範囲の狭い部分でしかなく、本当の生活者が存在する場所ではない。それは我々が言う「現場」ではない。見たくないもの、聞きたくない声に蓋をして、自らの価値観の中で泳ぎ続けるのもそれなりの見識だろう。揺れ動かないという頑迷さは、それなりに支持する人もいるのだろう。

まあそんなことはどうでもよい。今日は雲の上の話で終わってはいけない。本題はここからだ。

介護サービスの現場は、様々な感情のるつぼであるがゆえに、援助する側の感情も激しく揺れ、時にその感情から心を壊してしまう人がいる。何もかもが分からなくなって逃げ出してしまいそうになる人がいる。志を高く持っていたはずなのに、現場で自らの無力さに気が付き打ちひしがれ、いつしかそこから逃げ出したいと思うことしかできなくなる人がいる。

そのような人は、もともと社会福祉援助や介護サービスの現場に向いていない人ではなかったのではないのかという人がいるが、決してそうではないだろう。人間はさほど強い生き物ではなく、誰もが心を壊してしまう危険性を持っているのではないだろうか。

人間は人を見つめすぎると間違ってしまう。見つめた人の、いいものも、悪いものも自分に感染って(うつって)しまうからだ。その時冷静なもう一人の自分をきちんと意識して関わって行くことができるかどうかが専門家としての社会福祉援助者に問われてくる。

バイスティックの7原則の中の「統制された情緒関与の原則」とは、そういう意味も含んでの原則だと思う。だから相談援助の基礎知識がなく、バイスティックの7原則も分からない人が、ある日急に介護支援専門員の資格を得たからといって、たった一人で現場に放り込まれても相談援助がその日からできるわけがないのである。だから相談援助の現場に出た時に戸惑って壊れてしまうケースが増えている。

そのことを理解してくれる人、専門知識を得る手伝いをしてくれる人が本来いなければならない。

日本の介護保険制度の失敗の一つは、介護支援専門員という資格を得るための実務経験の範囲を広げ過ぎたにもかかわらず、その資格制度創設を急ぎすぎたあまり、このソーシャルケースワークの基礎知識を理解し、利用者に適切に関わる方法論を教えるシステムをおざなりにしてしまったことである。その欠陥が心を壊してしまう有資格者を増やしてしまうという結果になって現われている。アセスメントツールの使い方と、サービス計画書の標準様式の記載方法を覚えたからと言ってケアマネジメントができるなんてことは本来あり得ないのである。

本来そこにはきちんと状況を見つめてアドバイスしてくれるスーパーバイザーとしての上司や、同僚や、友人や、仲間の存在が必要不可欠である。「見つめすぎないで」という声をそっとかけてあげられる存在が必要なのだ。

制度のシステムにそのことが組み込まれていない以上、どうぞそこで業務に携わるすべての専門家は、後輩や同僚に対し、時にスーパーバイザーとして「見つめすぎないで」と声をかけることを忘れないでほしい。

介護を一生の仕事にしようとする人々の動機で常にトップに挙げられるのは「人の役に立ちたい」という動機である。それは言葉を変えれば「人を愛する」という意味であり、人を愛したいという動機である。

しかしそのような動機を持つ人が、いつしか人を愛する方法を失い、人を愛せなくなり、自分自身さえ愛せなくなる。それはとても不幸なことであると同時に、重大な社会的損失である。

どうぞ間違わないでください。

愛し方が下手だと恥じる必要はないのです。愛せないのに恥じない人のほうが多いのです。そちらの方がずっと恥ずかしいことなのです。愛せる人はそれだけで、そのことを誇ってよいのです。だから悩まなくてよいのです。強そうに見えてもみんな同じなのです。

強くなりたくても強くなれないと言うけれど、いったい君は誰より強くなる必要があるのですか?そんなに強くならなくても、普通の人でよいはずです。時には弱くてもよいのです。弱くても自分を変えることだけはできるのです。その時は誰かに支えてもらえばよいのです。

でも君は支える人と、支えられる人のどちらになりたいのでしょう?ねえ、どちらを望んでそこにいるんでしょう?

私たちが利用者に対してできることは、社会全体からみればとても小さな、とるに足らないことです。だけど小ささを恥じて、それをしまいこむ人が多すぎるんです。小さな事ができる人がいるから、誰かが幸せになれるのです。どうぞその小ささを恥じずに誇りを持って続けて下さい。

時には日々行っていることがすべて空しく感じることもあるでしょう。良かれと思って行っていることに対し、相手から拒否されたり、嫌がられたり、無反応であったりする時に、自分の行為を振り返って無力感に打ちひしがれることもあるでしょう。

しかし我々は人の幸福を目指したとしても、我々自身が望む利用者の反応をそこに求める必要はないのです。あくまでそこにいる人にどういう意味があるのか、ということに答えられる行為であるなら、それは間違ってはいないはずです。結果責任とは、利用者が我々の望む反応をしてくれるかどうかに求めるのではなく、客観的に評価した時に「暮らし」が良くなっているのか、暮らしが支えられているのかという結果を問うものなのです。そこではただ「続ける」ということが貴重なこともあるのです。

時にはそのことに疑問を持ち、誰かに慰められたいと思い、優しくしてほしいと感じる人もいるでしょう。それはそれで否定されるべき感情ではないし、そうしてもらうことも必要な場合があるでしょう。

しかし忘れないでください。貴方がそこを目指した理由を。あなたが目指した場所に何を見つめていたかということを。

このブログを読んでくださっているすべての人々に、僕が大事にしている言葉を送ります。

君はどっちになりたいですか?赤い花に慰められる人と、慰める赤い花と・・・。」

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傾聴=沈黙ではない。

社会福祉援助者として、利用者との面接場面で持つべき「必要なスキル」に関するいくつかの記事を過去に書いてきた。
(参照:「面接の技法」「共感的理解とは何か」etc.)

そこでは「話し上手になるよりも、聞き上手になることが大事」であることや、「良き指導者ではなく、良き聞き手になれ」という主張を繰り返してきた。

このことは、相談員やケアマネジャーだけではなく、看護職員や介護職員も同様に持つべき視点だと思う。現場の生活場面での「日常会話」もある種の面接場面と言えるから、利用者がくつろいで、相談員やケアマネや看護師やケアワーカーに「自分が最も心にひっかかっているもの」「他人に話したことがない気持ち」を話すことができることは、両者の信頼関係を築く上で重要だからである。

そうした利用者の心の叫びを深く傾聴することにより、利用者は今まで抑圧してきた思いを「発言」することができ、そのことにより浄化することができる。このことを専門用語では「カタルシス」と呼び、その結果として利用者自身は精神的安定を獲得することも可能となる。

そうした場面で話を傾聴する者にとっては、援助者自身がどのような職種であろうと、利用者が信頼して心の中身を吐露してくれることによって、自分の予測を超えた利用者の状況を推察し得るという意味をもつこととなり、貴重な情報を得る結果となり得る。

だから、こうした場面では利用者自身が自由に気兼ねなく話しをすることができることが重要である。

しかしここで間違ってはいけないことは、「利用者が自由に話せる」ということは、社会福祉援助者が沈黙して、何の介入もせずコントロールしないことではない。

利用者は、自身の心に最もひっかかっていることや、あるいは秘密にしておきたいことを自由に話すことができることによって、自分自身の問題が何なのか理解できるようになるかもしれないし、その原因も明らかになるかもしれない。社会福祉援助者が大事にする傾聴とは、その目的を達するためのものであり、そのために利用者が自由に話すという意味があるのだから、社会福祉援助者はニーズに接近するように方向付けを行う必要も一方ではあるという理解が必要だ。

だから自由に話すとは、一方的に援助者が聞くだけで、言葉を発しないことを意味しないし、傾聴とは聞く側が黙ることを意味しない。

その時に必要なことは、利用者の発する思いに歩調を合わせた「返事」を随所に返したり、必要不可欠な「質問」を随所に入れることである。利用者の生活課題やニーズや、それに向かう目標がどの方向にあるのかという道標となり得る方向に向けた質問はあってよいのである。

では具体的に相手の思いに歩調を合わせて、向かうべき方向を示す質問とはなにか?

これは「個別の状況に応ずる」と言われてしまえばそれまでで、それ以上何もなくなり、それは職人技あるいは神の領域になりかねない。

高齢者等の生活支援の場合に、そのような職人技や神技を持たなくとも、一定の援助技術と知識を持つものであれば誰でもそういう道標となる方向付けができるように標準化されたツールの一つが「アセスメントツール」である。生活課題を引き出し、ニーズを見つけるために必要な情報を得るためのツールとして、それは存在しており、最低限知るべき情報がそこには標準化されている。

逆に言えば、あのアセスメントシートをすべて埋めるだけの質問攻めをするのがアセスメントとかケアマネジメントではない。

日常会話や面接場面の中で、利用者がストレスを感じず、自由に話していると感じながら、その中で一定の方向性を示す質問を織り交ぜながら、利用者が自身の課題やその問題に気づくためのコミュニケーションが求められているのである。

相手の話を遮ってまで質問する必要はないし、それは傾聴とは程遠いものであるが、一方、何の工夫もせずに相手がたどり着こうとする答えのある場所から遠い場所をさまようことを放置することは社会福祉援助の専門家の対応としては「貧しき対応」と言わざるを得ないのである。

どちらにしても社会福祉援助者であれば、魂を込めて相手の話に耳を傾けるという姿勢を常に持たないとどうしようもないということだ。

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困る宿命をもった人間の知恵。

人は様々な悩みを持ちながら生きる運命を背負っている。何の悩みもないまま一生を送る人はいない。

だから人として生きる以上、自らの悩みを一つ一つ自分自身で解決していかねばならない。その時決して忘れてならないことは「どんな深刻な悩みであっても解決できない問題はこの世に存在しない。」ということだ。どしゃ降りの雨でも、晴れない雨はないということを忘れないでほしい。

明治維新に繋がる一連の流れの中で、革命という時期に、その天才性を発揮し世間を常に驚かした長州藩の高杉晋作≪司馬遼太郎さんは、このことについて、幕末には、竜馬をはじめ、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)など、雲のごとく人物が出たが、かれらは革命期以外の時代に出ても使いみちのある男どもだが、 高杉晋作は、革命以外には使いみちがないほどの天才であった。と著述している。≫は、その短い生涯で様々な奇跡を演出したが、それらを生むモットーとなったことは彼自身の言葉で言えば「男子たるもの決して困ったという言葉を吐くな」という精神だったそうだ。人間は困れば袋小路に入ってしまい知恵も分別もなくし思考力を失ってしまう。そうすれば「窮地が死地になって活路が見出されなくなる」だから高杉は生涯「困った」と口にすることはなかったという。

しかしこのことは高杉が決して「困らない人間」ではなかったということを示している。高杉ほどの人物でも、何度も窮地に立たされ、困り、悩み続けたが、そこから活路を見出すために常に「困っていない」と思いこんで頑張ったという意味なのである。

人間だれしもがそう強くいられるわけでもないし、時に困った状態になるのは当たり前だ。凡人たる我々は人生の中で何度も「困る」のであり、「困って」当たり前なのだ。しかしそのたびに困り事には必ず解決策があることを信じる必要がある。要はそれをどう克服するかという問題で、解決してみれば、あれほどの困りごとが笑い話にも変わることがあり得るのだ。

そしてしばしば人は悩みを持った時、その解決方法として家族や親しい友人にその悩みを打ち明けて解決を図ろうとする。

これは人間だけに与えられた最高の知恵である。相談するということは、相談する側にとっても、相談を受ける側にとっても尊い行為なのである。

その時に「悩みある人」の相談を受ける側に、資格や専門知識は必要とされない。それは人間としてごく当たり前に、目の前の悩める人の「思い」を真摯に受け止めて、その悩みの解決のために自分が役に立とうと思うことそのものが相談を受けることができるという意味だからだ。そういう気持ちさえ持っておれば人は誰しも「良い相談援助者」になり得るのである。

例えば「恋の悩み」。そんなものに専門家がいるはずはなく、人の恋愛感情を正しく分析できる専門家などいないはずだ。恋に悩む君が愛する人を思う感情は、君自身のものであり、第3者がその感情をいかに理解しようとしても、君自身の感情と同一化は出来ない。だから君の思いに共感しようとしても、君の思い自体をすべて理解できるわけでもない。

「あいつは悪い奴だから好きになるな」と理屈で諭しても、「好きだ」という感情はそれによって決して変わるはずがないのであり、恋の悩みは自身の感情を自らコントロールできる状態にすることでしか解決しない。だから相談を受ける側は、答えを与えるのではなく、共に悩みの本質を考えて、一緒に答えを見つける手助けをするだけである。

そのときしばしば、その手助けをする行為は「うなづくだけ」である場合も多い。「そうかそう考えているんだね」「なるほどあんたは今そう思っているんだ」と、善悪や好悪の感情を排除して、その思いに共感共鳴するだけで相談する側が心安らぐことがある。「自らの悩み」を口にして誰かに聞いてもらえるだけで「心の中で思っていたこと」に気がついて、「ああ自分はこう考えていたんだ」「そうか自分の悩みってこういうことなのか」と自らが気づくことが問題の解決に繋がることがある。

これが大事なのである。

介護サービスという専門職業の中で、利用者の生活上の様々な課題に対応する「相談援助者」も同様である。そこで求められているのは「答え」という名の「相談者の価値観の押しつけ」ではない。

相談する側が、いかに自身の問題に気づいて、自身で解決の道筋を見出すことができるのかを「手伝う」ことであるという基本を忘れないでほしい。

認知症などで、判断力が低下あるいは喪失した方の場合であっても、その方に替って、その方自身の最も良い方法を探すためには、今現在自分が持つ価値観だけに依らず、もっとも必要とされていることを、その時々の状況の中において真剣に、真摯に考えることが求められているのである。

考えることをやめた時、相談援助者は単なる「押しつけ屋」に陥ってしまう。説得することが相談援助の答えであると勘違いしてはいけないのである。

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ソーシャルワークの科学性

人を援助するためには個々の人間・人格に対するある種の尊敬を要する。

それは、人は自分の生活を自分で支え、自らを支配する権利とその自由を持っている存在としての立場を尊重する姿勢である。しかし、そのことは同時に、人は他人の幸福を守り、自身が暮らす社会への責任を持つと同時に、自分のやり方で自分の幸福を追求する権利を持つ存在という意味である。自信のみの快楽を求めることが「幸福追求権」ではないのである。

このことは「人は人生において満足できるように社会とともに発展調和する能力を有し、自分で問題を解決する要素を持っている」という考えが基になっている。よって、年齢的未熟や身体・精神上の能力の欠落のため、自分や他人を傷つけずには生活を営めない人の自己決定や自由は例外として制限される場合があるものだ。

また人は理性的な存在であるという定義は決して正しいとは言えない。確かに人は理性的に思考する能力ももち、その判断に基づいて行動することも可能ではあるが、常に理性的行動をとることができるわけではなく、合理的判断能力が日常で果たす役割は信じられているほど大きくはない。しかも厄介なことに、人は自分の非合理的行動には気づきにくいが、他人のそれは容易に指摘できるという特性を持っている。人間関係が簡単なものではないという一つの要素に、この特性が大きく関わっている。

人の幸福感ということを考えると、その感性(幸せの感じ方)とそこに繋がる行動は、大部分が個々のパーソナリティを構成する機能によっている。そしてパーソナリティとは、その人が経験する身体的・心理的・社会的環境に関連する継続的な相互作用の中で生ずるもので、そこには遺伝的・素質的要因も深く関わっている。つまりパーソナリティとは生来の素質と生後の経験が結合して作る「個性」と言える。だから個体としての人間は例えば脳の構造や内臓や血管の位置などの個体差がまったくないにもかかわらず、パーソナリティに違いが生ずるのである。

しかも生来の素質と生後の経験が結合して作る「個性」ということであれば、それは両者が強く影響し合っているということになり、人格形成はこのことと深く関わってくると考えることができ、それは各年齢層において、あるいは生活部面の全てにおいての社会関係で影響を受け変動する可能性を持ち、同時にそれは逆に社会関係にも影響を与えるものであると言える。

こう考えると我々の現在の存在自体が生来のものと生後の経験の結合結果であるばかりではなく、将来あらんとするものの過程であるとも言えるのである。

人間の存在をこのように考えることも、社会福祉援助者として人間行動に係る際には必要なことではないかと思う。それは誰しも、経済的なものや社会の枠などに関係なしに人の問題処理は不可能だからである。

社会福祉援助者にも様々なパーソナリティの持ち主がいることは、こう考えると当然であり、社会福祉援助者であっても人間としての偏見や特殊な意見を持つことは不自然ではなく否定されるべき問題でもない。ただし専門的職業的立場として偏見が介入するのは、仕事を進める上では不適切であるから、自身の感情のありようを正しく認識し受け入れる「自己覚知」が求められるわけであり、それが社会福祉援助に携わる基本的条件とされるのである。

そういう意味では社会福祉援助は極めて科学的な要素を持つものといえる。ただしそれは数値を求め、それによってパーソナリティの類型を求め、正確に分類するという科学ではない。それは援助対象となる個人を「ある環境における全人的存在」として理解する科学である。

そのためにはソーシャルケースワークの場面では、対象者の問題解決に必要な事実に焦点を合わせて、それを評価しうる基礎知識が必要で、事実をつかみ、問題解決を援助してゆく技術が必要である。なぜならソーシャルケースワークにおける科学性とは、ある現象の因果関係をたどって検討することだからである。そのための具体的手法の一つがケアマネジメントであり、手法を導く根拠としてアセスメントが位置づけられる。つまりケアマネジメント技術を磨くということは、社会や人間に関する科学知識の取得、人間関係における技術の修練という意味にもなり得る。

しかしソーシャルケースワークにおける科学性と、ソーシャルケースワークの目的とは分離することはできないもので、それは人間への尊敬と愛情が前提となるものである。この前提条件が根本思想となって組み立てられ生みだされた技術であることを忘れてはならないのである。

だから社会福祉援助者には、目に見えない「人間への尊敬と愛情」というものが求められているわけで、それを持たない口先だけの援助技術は必要とされていないのである。

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虚心になることより大事なこと

「虚心」とは「心に何のこだわりも持たずに、素直であること。」という意味である。

似たような言葉で「無心」という言葉あるが、こちらは「無邪気であること」「心の動きが停止していること」という意味であり、社会福祉援助者が利用者に対する心構えを考える際に使う言葉としては「虚心」の方がふさわしいのではないかと思う。

しかし我々が相談援助場面や介護サービスの現場で、常に利用者に対して「虚心」で対応できるかと言えば、それは不可能である。神ならざる身であるがゆえに、社会福祉援助者といえども様々な感情を持って相対することは仕方のないことなのだ。

しかしだからと言って、そうした感情をコントロールできずに、自分の感情の赴くままに利用者にそれをぶつけてしまうのでは、これは専門援助でも支援行為でも無くなってしまう。ここをきちんとコントロールすることがプロフェッショナルとしての専門技術であるし、そのために我々は自らが持つ感情のありようを自覚して専門援助に関わるために「自己覚知」に努めるわけである。
(参照:面接の技法2〜自己覚知について

つまり社会福祉援助者が利用者やその家族に対して真摯にかかわることは必要であるが、だからといってすべての場面でそれらの人々に否定的な感情を持たないという保障はないし、それは不可能である。よって否定的感情を持ってしまった援助者が、そのこと自体で自らを責めたり、人から非難されるべきではない。そうした感情を一切持つなということであれば、それは神もしくはロボットにしか求めることが出来ないからである。

社会福祉援助者であろうと人間である以上、価値観は様々で、それに基づいた様々な感情を持つことは当然であり、否定的な感情もその一部である。社会福祉援助者だからといって、全ての人間を好きになることはできない。合う・合わないという部分で、どうしても否定的感情を持ってしまう人に相対することだってあるのだ。

しかし専門家としてそうした感情を、どういう場面で持ちやすいかということを自ら自覚・意識して援助関係に影響が出ないように自らの感情をもコントロールしつつ援助に当たるというのが専門的態度であり、このことを「自己覚知」と呼ぶものである。日々の生活の中でも、このことを自覚できる訓練を意識することで、より的確な自己覚知に繋がるものである。

自分自身のことは自分が一番よく知っているというのは、ある意味大きな誤解で、他人からしか見えない自身の欠点や弱点を持っているのが人間である。しかしだからと言って自己覚知が誰かに替って「してもらえるか?」といえば、それはそうではない。自らのことを自らが知るということ自体は、誰に替ってもらうことができないものである。そして覚知したという意識を持つことも自身にしかできないことである。ただそれが正しい自己覚知であるかということについては、他者の評価や第3者の声に耳を傾けながら自らが再評価していくという鍛錬が必要だろう。

そういう意味で社会福祉援助者というのは、常に他人の目に届かないところで、孤独な精神作業を繰り返して行かねばならない。このことはある意味、この職業を持つ者の宿命ではあるが、その向こう側には「豊かな社会の実現」に向かうという意味がある。そうであるがゆえに様々な人々の生活課題を解決するという方法によって「幸福な暮らしを実現する」ために関わることができるということに、自分なりの人間として「この世に生きること」の意味を見い出そうとする自己実現動機が必要なんだろうと思う。

このように論理的に考えなくとも、支援過程で幸福感を感ずることができる人々は、この職業に最も向いている人だろうし、社会福祉援助に関わりながら、そのことに悩み迷っている人に対しては「その人にとっての自己実現」の意味を見つける手助けをすることも必要なことだろうと思う。

人間社会で「支えあう」ということは、そういうことも含めたことなのであろうし、それができるのは「人としてこの世に生かされている」我々人間だけである。

神様は我々に、そういう機会や権利を与えてくれているんだと思いながら、今自分が立っているであろうステージの上で全力を出しながら走り続けたいと思う。

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介護支援専門員諸君!!

介護保険制度とは一般には高齢者介護サービスの制度であると考えられている。

しかし2号被保険者は40歳からであるから、介護保険サービスは単純に高齢者介護サービスであるということはできない。仮にそのことを考えなくとも、一口に高齢者といっても60代と90代では、身体・精神機能の低下の程度は統計上、後者の方が明らかに大きいという違いは顕著で全てを高齢者というだけの同一カテゴリーではくくれないという問題がある。さらに特定集団で比較すれば、年齢層の高い集団ほど身体・精神機能の低下の程度の個人差は大きいといえるから、ここでも高齢者というくくりだけでみてしまっては真実が見えにくくなる。

また一般的に高齢者が虚弱で介護が必要になるという考え方は間違っており、我が国における65歳以上の高齢者のマジョリティーは元気で介護が必要でない高齢者であり、その比率は85%であると言われている。そして80代後半でも女優として現役で頑張っておられる森光子さんのような方々も数多くおられるのである。

むしろ個人差が大きいということが高齢者の特性で、高齢期の支援を考える上で個人差への着目評価はそういう意味でも不可欠であり、それは身体・精神機能にとどまらず、教育歴・職業歴・家族歴その他による生活経験の違いや、現在おかれている社会・経済環境の違いのよってもたらされる特性を含んだ個別性評価であらねばならない。

しかし一方では福祉援助というのは科学的、専門的領域であるから、一般化できる部分については、その最低限の基準となる援助モデルを示す必要がある。そういう意味では、ある環境に置かれた、ある現象の因果関係をたどって結論付けられる方法論を具体的に示すことは必要不可欠であり、それがないと社会福祉は専門援助技術にも、学問にもなり得ない。

そうすると高齢期の特性から基本援助モデルを考察する思考回路は次のようになるのではないか。

例えば高齢期の生活問題は基本的に身体・精神機能の低下によってもたらされるという仮説が成り立ち、一般的には高齢者は複数の病気を抱えている場合が多い。また認知機能低下でコミュニケーションが困難になっているケースが他の年齢層に比べて多いということも「認知症の最大の危険因子が加齢である」という事実に基づく因果関係として言えるであろう。

そうなると加齢に伴う身体機能低下や、認知機能低下がもたらすものは、孤立化や引きこもりであることが考えられ、生活障害を持つ高齢者本人が援助機関に積極的に出向いて援助を求めることは少なくなるという仮説が成立し、そのため高齢者支援に先駆けてワーカビリティ(援助を受けようとする身体・精神。情緒的能力)の低下に対する評価が欠かせないという理論が成り立つ。

そしてここではアウトリーチが重要となる。アウトリーチとは支援する側が支援を必要としている人に対し、その要請がない場合でも積極的に現場に出向いて手を差し伸べることを意味しているが、高齢者の場合は、上記の理由に限らず、公的支援を受けることに対し自尊心が傷つくという拒否反応を持つ場合も多く、援助を受けることに消極的であったりする。その場合に必要に応じて支援を行う側が積極的に働きかけることは重要なのである。

また高齢期は複合喪失の時期であり、社会との接続機会の減少や、家族や友人・知人などの親しい人々との様々な別離、活動機会の減少や経済能力の減少などを経験し、悲哀・不安・不満・孤独などの感情が強まる可能性が高まる時期であるといえ、援助過程でこうした状況と感情への共感的理解を示す必要があるといえる。

同時に高齢者の支援に関わる専門家の大多数が人生経験では支援を受ける人にかなわないという特性を持つ。このことも重要で、援助者は人生の先輩として高齢者を尊敬し、高齢者の生き方から学ぼうとすることも必要である。誰しも課題や問題を解決するためには過去の方法に従うものだから、高齢者の生活歴に耳を傾け、過去の生活困難にどのように対処したかを調べることは大事なことである。

社会福祉援助過程において、アドボカシー(代弁機能)はどの年齢層の援助においても重要であるが、心身の機能低下の状況と心理機能、認知症の出現率を考えると高齢者援助の視点としてはそれは特に強調される必要があるだろう。その中から本人が気付かない「生きる希望の援助」として、生きがいの発見ということも重要になるのではないだろうか。その方法は人さまざまであるが、その第1歩は、高齢者の支援に関わる社会福祉援助者との信頼関係の中から生まれ、それがやがて周囲の支援者や仲間の存在につながっていくことで得られるものではないだろうか。人は最後まで、人との関係の中で生きていくものなのだと思え、人との接点の中に「生きがい」を見出せるような支援が求められてくるであろう。

どちらにしても、この制度の支援の中心に位置づけられている介護支援専門員諸君に言いたい。ケアマネジメントというのは社会福祉援助技術のごく一部にしか過ぎないのである。ケースワークの原則はじめ社会福祉援助技術の基本を理解しない状態で、利用者に関わっても能力の限界を感じる時が必ず来るぞ。

ここで示した援助技術も、その一部であるが、ここで書いてある言葉や内容をまったく知らないケアマネは知識と技術が足りないと考えたほうが良い。人間は死ぬまで学習し続けることができるんだから、そこに気がついた介護支援専門員は、今からしっかり社会福祉援助技術の基本を勉強し直すべきである。

専門家であるか否か、あるいは支援者としてセンスがあるか否か、ということは汗をかく気持ちがあるかどうかで決定されてくるもので、生まれ持った資質はさほど重要ではないことを忘れてはならない。

人の生活に関わる以上、それなりの資質向上を図って社会や社会と接続する個人の幸福につなげたいものである。

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コーチングの概念理解は難しい・・・。

当地域の介護支援専門員の組織「のぼりべつケアマネ連絡会」は北海道では2番目に生まれた地域介護支援専門員組織である。介護保険制度誕生時はアセスメントツールの使い方を主に勉強しながら、ケアプラン作成方法を学習する場であった。
(ちなみに年会費は月100円という考えから1.200円である。)

それが継続して10年目の活動に入っているわけであるが、現在でも年間10回の定例会として勉強会と情報交換を行っている。その内容は参加会員をグループ分けし、それぞれのグループが担当月の勉強内容を企画運営するというスタイルである。内容は講演やケース検討会、グループワークなど様々である。

また定例会のうち1月には保健・医療・福祉関係者に向けた公開セミナーを、道内外の著名な講師の方を呼んで開催している。これまでにも認知症やうつ病に関する対応、嚥下機能障害の対応、専門治療プログラムとしての回想法の実施方法など様々なテーマの講演を行っている。

そのほか地域ケアマネ会としては非常にユニークな取り組みとして医師会との定例意見交換会も開催している。

そしてもうひとつ特筆すべき活動として、近隣他地域のケアマネ会との合同研修会を継続して開催していることである。
参照:3市1町ケアマネ合同研修会

会の代表としては、会員に対し年会費以上のメリットある活動や研修の場を提供していると自負している。それを生かすも殺すもひとえに会員自身の考え方、取り組み方にかかっていると思う。

さて、前述した合同研修会が先週9/12土曜、伊達市の「だて歴史の杜・カルチャーセンター」で開催された。今年は日本コーチ協会・北海道チャプター代表・宮崎 順一氏を招いて「ケアマネジャーの為のコーチング」をテーマに、3時間の講演が行われた。とはいっても3時間ずっと話を聞いているのではなく、コーチングを理解するため実技というか、2人一組になっての対話を行いながら解説を聞くという感じであった。そのため3時間という長さを感じず勉強させていただいた。

ただ僕の理解力がついていけないのか「コーチングとは何ぞや?」という根本部分が最初から最後まで理解できずに終わったことを正直に告白しておく。

講師の方も最初に「コーチングは概念が確立されていない、学問として成立していない支援方法である。」ということをアナウンスしておられた。対話によって対象者を勇気づけ潜在的能力を引き出すコミュニケーションスキルであることは何となく理解できたし、そしてコーチングは心理的援助=カウンセリングではなく、あくまで心理的支援=コーチングであると述べられていた。

それは、一方的に専門家が援助するのではなく対象者自身の気付きを促進させ、その能力を最大限に引き出すサポートをするという意味だと繰り返し述べられていたが、実際にカウンセリングとコーチングの区分を語る言葉としては(僕個人の感想として言えば)あまり説得力があるものではないと感じたし、実際に対面して行う方法でもカウンセリングのそれと技術的な差はほとんど感じられなかった。(ちなみに僕は家庭生活総合カウンセラーという資格を持っている。)

まあ僕のつたない理解でいえば、コーチングがカウンセリングと異なる点は治療的アプローチではないということであり、そのことが一番の違いなんだろうと思った。ただどうしても残る疑問は、コーチングの様々な提起されている概念から突き詰めて考えればカウンセリングもコーチングの1領域に入ってしまうんではないのかということである。考え過ぎだろうか?

またコーチングとスーパービジョンの違いもよくわからない。もちろんスーパービジョンはスーパーバイザーが行うものに限定され、指導的意味があって、コーチングによる支援はそういう指導ではなく、さらにスーパーバイザーが行う方法とは限らず、コーチもさらに誰かにコーチングを受けることがあり得るという意味で、援助技術や知識を豊富に持つものが教育的に行うものではないという違いはわかる。

しかしスーパービジョンも、ワーカーの心理的支援の為に行う場合があり、コーチングとまったく同じ状況で展開される場面も想定されるのではないかということを鑑みると、コーチングはスーパービジョンをも包括してしまう概念あるいはスーパービジョンの1領域にコーチングという場面があると言えなくもない。

特に今回の研修でレクチャーされていた支援方法は、我々が社会福祉援助技術(ソーシャルケースワーク)として習ってきたバイスティックの7原則に沿った内容で、特にその中で面接場面における共感的理解による受容を基本にした面接技法を中心とした内容であり、その技術を使う方法論としてスーパービジョンとコーチングの差はないように思えた。ここが両者の区分を行う際の最大の問題で、わかりづらい点である。

もちろんこの理解の困難さとは、講師の側の問題ではなく、講義を聴く僕自身の基礎知識のなさということが最大の問題なのであろう。だからコーチングについては個人的に少し身を入れて研究してみようかと思っているところである。

しかし約130人の受講者で、今回コーチングというものを皆が理解できたのであろうか?僕のような疑問を感じた人がいなかったんだろうか。

皆が理解した中で、僕だけがこのように感じていたとすれば、よっぽど僕の理解力が衰えているのではないかと少し心配である。

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受容の真の意味

社会福祉援助に携わる者は、対人援助場面で利用者(被援助者あるいはクライエントという言い方が正しいかもしれないが、ここでは介護サービスの利用者という意味で利用者に統一)を受容することが大事だという。

つまりソーシャルワーカー等の援助者は自分の標準に反するあらゆる行動を非難しがちな、人間として自然な傾向を打破することを学ばねばならないし、そのためには自らの感情を「自己覚知」によって統御する訓練が必要である。そういう意味では自己覚知は人をあるがままに受け入れるための能力を生みだすためにも必要だと言える。

利用者をあるがままに受け入れるということは、利用者の行動がどうであっても、接する場面がどのような状況であっても、例え利用者が攻撃的であっても、援助者に敵意を抱いていても、依存的であっても、ワーカーにとって不愉快であっても、あるがままに受容することである。

しかし「受容とはないか〜許容ではないという意味」という記事でも書いたが、それは全ての行動や行為を仕方ないと諦めたり、やむを得ないと許容することとは少し違う。

学生などに受容の話をすると、あらゆる行為を受け入れ、その善悪や良否の判断を下さないということについて「では犯罪者の支援に関わる際には、その犯した罪となる行動まで受け入れるのか?」という疑問が必ず出るが、その行動を受け入れ許容するわけではないし、反社会的行動そのものは少しも受け入れることはないのである。そもそも「行為を受け入れ、その善悪や良否の判断を下さない」ということは受容のすべてではなく、その概念の一部分を説明したものにしか過ぎない。

真の受容とは利用者の感情を積極的、能動的に受け入れることであり、例えば盗みを犯した人を非難するのではなく、窃盗という罪を犯したといえども一人の人間として受け入れ、そして盗みという行為を是認するのではなく、彼がなぜ盗みをせざるを得なかったのか、その原因を理解しようと努め、彼がそうせざるを得なかった感情を受け入れる、という意味である。

つまり受容とは、問題の表面の現象に眼を奪われ批判的態度で臨むことではなく、その人なりの真の問題の意味を理解しようとする冷静で客観的な態度である。

人を受容して援助に関わることは、そうしない限り利用者が援助者に適切な感情を示して信頼を持てないということにとどまらず、その根底には人間はそれぞれ違った個性をもってはいるが基本的人権には違いはなく、人として尊敬されるべき存在であるという意味があるのだろう。

自分の尺度に合わない他者を批判的にしか見られないのであれば、習慣や文化の違いによる差をも否定しなければならない。人種や容貌は様々でも、置かれた環境が異なり競争原理の経済社会の中では勝者と敗者に分かれていようとも、生まれた環境上の問題で生活条件や文化に差があったとしても、さらに究極的には犯罪の加害者と被害者という決定的な違いがあったとしても、社会福祉援助者はそのことで差別することなく、道義や行動規範に逸脱している人であっても援助は与えなければならないし、持っている基本的欲求は同じであるという理解が必要だ。

援助者と利用者の関係は個人的関係ではなく、あくまで専門職業的援助関係である。

よってそれは技術として適切なレベルでなければならない。そこには当然科学的であることが要求される。しかし社会福祉援助における科学とは、利用者のパーソナリティを分類して類型にはめ込んで数値化することではない。

社会福祉援助における科学とは、人間を全人的存在として理解することを前提にして、ある環境に置かれた、ある現象の因果関係をたどって検討することであり、そのためにケーススタディが重要視されるのである。

しかし人間は極めて複雑な生命体であり、それを囲む環境も様々である。その中で援助者のとった措置と結果の因果関係の明確化は非常に困難な作業ではある。しかし人間の幸福に携わろうとする以上、この科学的検証作業は不可欠であり、そこから人間科学や行動科学は発展してきたものだろう。

そして社会福祉援助は科学的であることと、人間への尊敬と愛情が前提になることを矛盾としない学問である。なぜならそれは人間の基本的人権を守るために、人間の基本的欲求は平等に守られることを前提に考えられているものだからである。

受容とはそういう学問の中で人間理解のために必要な援助技術としてだけではなく、人が人の精神や人間性に関わる際に、真摯に関わるために必要な精神作業としての意味があるんだろうと個人的には考えている。

ただしこういう考えは教科書や理論にはなりにくいものである。

明日は登別市社会福祉協議会50周年記念事業として市民対象の公開セミナー「認知症って何?〜認知症高齢者を地域で支えるために」が午後1時半から登別ポスフールで開催されます。僕はこのセミナーの講師と、パネルディスカッションのアドバイザーを務めるため、その準備作業やら何やらで、ほぼ半日お手伝いのため施設に不在となります。このため明日9/15(火)はブログ記事更新をお休みしますのでご了承ください。
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相談援助職の守備範囲は広いほうがよい

特養の相談員が場合によっては「何でも屋」的な見方をされ、非専門的な領域まで業務の中で求められる傾向にあることについて、必ずしもそのことをネガティブに考える必要はないのではないかということについて、かつて「相談員には雑学も大事だよ」で書いたことがある。

もちろん便利屋的に扱われるのは困るが、生活支援というのは、まさに人間生活のあらゆる領域をカバーするんだから、生活相談に係って、その解決手段を探す場合に、必ずしも医療・保険・福祉領域に限った社会資源と利用者を結びつけるとは限らず、世の中のあらゆる社会資源との接点を仲介するのが我々の役割なのだから、その守備範囲は無限の広さがあるといって過言ではない。

しかし業務分掌とか、専門性の名のもとに、この守備範囲を狭く解釈する相談援助者も数多いし、個人の雑多な日常生活に係るのは非専門的で相談援助者の仕事ではないと考えている人も多い。

しかし直接介助ではないけれど、日常生活の個人的問題におけるこの部分で支援してくれるのはソーシャルワーカー以外存在しないことが多く、相談援助者が投げ出してしまえば自己解決の不可能な個人は解決手段を見つけられないまま放置される危険もある。そういう意味で、相談援助者の守備範囲は広いほうがよいし、相談援助に該当するかしないか迷った場合は、まず支援を行う方向から物事を考えるべきだと思っている。

さて僕個人の過去に困った問題であるが、母親が1昨年倒れて、現在寝たきりに近い状態になっている。

倒れる寸前まで元気で「一人暮らし」をしていたので、実家から僕も弟も離れて暮らしており、倒れた際は実家のある地域の市立病院に入院した。

今は僕の自宅近くの医療機関に入院しているが、急性期から回復期にかけては、実家のある場所の医療機関に入院を続けていたわけで、その間、必要な医療侵襲同意などのたびに往復4時間ほどの医療機関へ出向いていた。ここで問題となったのは入院期間中の私物の洗濯である。基本的に患者の洗濯ものまで医療機関で対応してくれないが、5日程度でたまってしまう洗濯ものを引き取りに往復4時間かけて病院に通うほどの時間は僕にはなかった。お金がかかってもよいから何とかしてほしいと思っても病院自体は、この件にノータッチである。相談室があるといっても、それは医療相談ではないから「お役に立てない」ということで門前払いである。

しかしそれでよいのだろうか?僕が困ったからではなく、洗濯ものを処理できないために入院に支障がきたすとしたら、その支援を行うことも必要な支援業務ではないかと疑問に感じた。

結果的に僕の場合は、亡父の妹が市内に住んでいて毎日のように通ってくれ、洗濯もしてくれて実質的に困ることはなかったのであるが、その叔母がいなかったらどうしたのだろうと思った。叔母も70代で、車の運転ができるわけもなく、毎日バスで病院通いをするのは大変だったろうが、こうした親族に頼る以外に方法がないとしたら、今後の社会情勢ではますます入院さえ困難な人が増えるだろう。

同じようなことが我が施設の入所者にも起こった。一番近くの近親者が札幌に住む息子さんで、遠いながらいつも親身に協力してくれるのであるが、この方が一時的に医療機関入院が必要になり、この洗濯の問題が生じた。医療機関ではいかなる対応もできないということで、札幌の息子さんに1週間に1度は洗濯ものを取りに来てほしいと連絡があったそうで、施設側に何とかならないのかと連絡があった。

当然、息子さんの仕事の状況もわかっているので、なんとかせねばならないと、当施設のソーシャルワーカーが、施設の出入りのクリーニング業者を斡旋し対応した。もちろんそのこと自体は我々の役割で、場合によっては施設がクリーニングの支援をすることもあり得ると考えているが、こうした問題を医療機関や、その相談室などの担当課が「我れ関せず」という態度が当たり前という状況は、あまりにも杓子定規で、相談援助とは何ぞや、ということになるように感じている。

こうした問題を「非専門的で患者個人の問題」と放置する社会が正しいとは思わないのである。

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経験の生かし方。

上から目線という言葉を聞く機会が増えたように思うが、少なくとも我々ソーシャルワーカーが援助過程で、利用者に対して上から目線で対応することは許されない。そのことは今更指摘するまでもなく誰もが理解できる常識だろう。

しかし実際に、援助場面で上から目線で対応する場面はしばしば見られる。それは無意識に自分の経験と知識を過信した態度として現われてしまう姿であり、豊かな経験が時として目を曇らせるのである。

特に相談援助場面においては、経験からわかりきった問題と認識するソーシャルワーカーの玄人としての視点が「上から目線」での対応に終始してしまう場面を作り出すことがあるので注意が必要である。

医療機関では経験の豊富な看護師が、患者の相談に対し、耳を傾けるのではなく、説得に終始する場面が見られる。場合によっては、それは説教にしかなっていないことがある。患者が自らの身の上に関する深刻な問題を若い看護師に訴えて埒があかないときに、婦長などに訴えた途端、訴えを聞いてくれるどころか説教されてはかなわない。こうなると「経験」というものの意味を考え直してみる必要があるだろう。

かつて経験は必ずしも知恵にならないことを「経験の功罪〜知恵とカキガラ」の中で指摘したことがあるが、ソニーの創始者である井深 大氏が似たような言葉を残している。

「経験など尊重する必要はない。我々は新しいことをどんどんやっていかなければならないのだから、過去の経験に頼る人よりも、どんな問題がでてきても驚かない度胸を持った人のほうがずっと貴重である。」と語っている。

僕自身の個人的意見でいえば、経験のあることは決して悪いことではないだろうと思う。

しかし人間は経験によって成長することもできるが、同じ経験の中で退廃も起こりうるのである。特に経験を重ねることが、物事に感動しない心を生むとすれば、それは「動じない心」ではなく「鈍った心」に繋がりかねない。よって経験の行き着く先として、常に「恍惚の人」に繋がる可能性があることを心するべきである。

さらにいえば経験とは貴重な体験ではあったとしても、それらはすべて過去のことである。しかし過去と似たようなことは未来に起り得ても、過去とまったく同じことが起こる確率は極めて少ない。だから経験は必ずしも未来の課題に通用するとは限らないのであり、いたずらに経験を誇ってもどうしようもないともいえる。

経験を過度に評価するあまり、今までのやり方に固執してしまう人は、歴史の新しい波の中で消え行く存在となろう。

重要なことは経験を通して自らが成長することであり、それは成長しようという意識を持つ人のみが獲得できるもので、経験そのものが成長ではないという意識が必要である。

そういう意味で、人が成長するためには、ひとつ、ひとつの経験の中から、どんな状況にも通用する何かを身につけようとする意識が必要なんだろうと思う。

それがソニー創始者の井深さんにとっては「度胸」であると考えたのかもしれないし、別の人にとっては「愛情」と考えるのかもしれないし、時には「共感」なのかもれない。

その答えを探すのが我々の人生(たび)の目的であり、生きる意味だろう。しかし少なくともその意味は介護保険制度の理念の一つである「自立」でないことは確かである。

なぜなら人とは関係の中で生きることができるものであり、一人だけの力で生きるなんてことはありえないからである。自立より「共生」のほうが、よっぽど大事であるからだ。

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共感的理解とは何か。

相談援助で一番大事なことは「傾聴の姿勢」であると過去の記事で書いたことがある。(参照:面接の技法。

傾聴ができて初めて、相談場面がスタートするといってよいが、当然のことながら、傾聴と同様にソーシャルケースワーカーには様々に求められる必要な態度があり、受容の態度も同じく重要である。(参照:受容とは何か〜許容でないという意味。

そして受容の根底には、共感的理解が不可欠である。相談者の訴えについて「評価的態度」をとらずに共感することが大事とされている。しかし世の中の価値観も、個人の好みも様々である。ソーシャルワーカーといえど本当に全ての人々の訴えに共感的理解が可能なのだろうか。どうしたら我々は、価値観や生活歴の異なる他人の考え方に共感できるのだろうか。そんなことを少し考えてみたい。

共感的理解を単に「わかること」と考えるのは間違いだろう。そもそも「わかる」という言葉は実に多様に使われ、例えば、僕が忙しく仕事をしている最中に、部下であるソーシャルワーカーが仕事内容の報告をしてきた場合、それがさして重大な問題ではないと感じた際に「わかった。わかった。」と言うとしたら、それは「うるさいから黙ってくれ、もういいよ。」という意味であるかもしれない。しかし「うん、よくわかった。」というと、正しく伝達事項を受け取って了解したという意味になる。

「君のいうことはわかった、でもそれは違う」と言えば、それは理解ではなく評定である。「わかった、僕も同意見だ。」といえば共鳴あるいは同意であろう。「わかったよ。そういう考えならしょうがないな。」といえば妥協であり、ある意味投げ出した結果とも言える。わかり方にもいろいろあるのである。これらは共感的理解とはいえないだろう。

こう考えると共感的理解とは、結果として「わかる」ことではなく「わかったつもり」になることでもなく「わかろうとする」という過程そのものではないのだろうかと考えられる。しかし「わかろうとする」ことは、わかろうとする他人のことをすべて知ろうとすることではなく、自分とは違う他人である人と「ともに理解しようとする姿勢」ではないかと考えられる。

結果的に、社会福祉援助の専門家であっても、他人と同じ価値観を持つことは出来ないし、その必要もない。同じ事象を見ても、その判断や考え方は異なって当然である。だから第三者と同じ価値観や結論を持つことを共感的理解というのではなく、なぜそのように彼(彼女)は考えるのだろうかというふうに理解しようとする過程から「貴方にとっては、こんなふうに感じるんだなあ」という思いに至ることが共感的理解といえるのではないだろうか。

つまり、人はそれぞれ違った考え方や感じ方を持ち、そこに人の独自の生き方があるのだから、その全てを許容しないとしても「そういう考え方もあるのだ」というふうに受容することが共感的理解であろう。

コミュニケーションというのは、場合によっては容易であり、場合によっては困難である。例えば言葉を交わさなくても、相手の心の動きや感情が理解できる関係がある。家族や恋人や、親友の関係にしばしばみられる例である。

しかし他人とのコミュニケーションは、言葉で伝達しあう方法が主となるが、言葉を交わしてもなお誤解が生ずることがある。コミュニケーションとはそれだけ難しいのであり、我々ソーシャルワーカーが、赤の他人であるクライエントと対するときは、常にそうした困難さを抱えざるを得ない。

だから、どんなに経験をつんで知識を得ても、常に他人の気持ちをともに理解しようとする基本態度が不可欠であるし、常日頃、そのことを意識して関る必要があるのだろうと思う。

そうした理解的態度を身につける訓練としてスーパービジュンやコンサルテーションは重要な機会であり、クライエントの感情を様々な角度から推測できる訓練になるであろう。

大事なことは、我々ソーシャルワーカーは社会福祉援助の専門家であり、専門知識と技術を持つものであるが、だからといって、クライエントの全ての問題を解決する答えを持つわけではないということである。我々はその答えを引き出す手助けをするために、ともに悩み、ともに考え、ともに歩むのである。

その基本原理と、それを促す修練をやめたとき、我々は、単なる説教マシーンとなり、クライエントにとって必要ない存在になるであろう。

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心の弱さを恥ずべきではない。

悩みを持つ人がいる場合、ベテランで腕の良いという評判がある相談援助の専門職員に相談すれば、常に正しい「答え」を示してくれると考えるのは大きな間違いである。

相談援助の専門家が示すことができるものは、例えば制度で決められているルールや手続きの方法など、決まりきったものの専門知識のみであり「個別の心の悩みの答え」という引き出しは持っていない。

相談援助者が持つ技術や能力とは「心の悩み」を持つ人の立場にたって、それを共感的に理解して、その訴えを受け止めて、ともに考えて、相談する人自身が答えを引き出す手助けをすることである。

逆に言えば簡単に答えを示す相談援助者というのはろくなものではない。それは単に自分の価値観を他人に押し付けて説得するだけの結果でしかないといえる。

答えを示すより大事なことは、答えをともに探すことである。それゆえ話を聞く、という姿勢は常に持ち続けなければならない。この姿勢を失ってしまえば相談援助者としての資格はない。

それぞれの人の生活や心とは、この世の中でもっとも個別な領域であり、それゆえ最も非専門的な領域であるといえる。だからその個別性の専門家など他者ではあり得ない。自分自身しか自分の専門家になり得ないのである。

しかも厄介なことに、自分自身の心の悩みというのは、理屈で説明したり、解決したりできる種類のものではなく、理屈はそうであっても現実の自分は心配でたまらないというような、自分自身でコントロール不能な状態や感情なのである。それだけ人間の感情や思考は複雑であるという意味でもある。だから説得で悩みは消えることがなく、自身で答えを引き出すことしか解決の道はない。

自分自身の専門家は自分以外なり得ないと言っても、だからといって、自分自身のことは自分が一番良くわかっている、というのは真実ではない。自分のことさえもわからなくなるのが悩みの原因であり、感情のコントロールができない状態で、客観的な視点をもてない精神状況のとき、そのことに簡単に気付かないのが人間の複雑さなのである。自分のことであるから、自身で見えなくなってしまうこともあるのだ。

だから困ったときは、迷ったとき、悩んだときは是非、相談してほしい。どんなに忙しいときでも、相談のチャンネルは常時開かれている。それがソーシャルワーカーの務めでもある。

ソーシャルワーカーはそのとき、悩みを解決する手助けをする専門家であり、答えのヒントになるものについて様々な引き出しを持って、その引き出しをあけながら真摯に関わる方法を身につけている。しかし答え自体がワーカーの掌の中にあるということではない。

時には、引き出された真実や答えの中身はワーカーの想像や知識の範囲を超えることがある。

また、優秀なソーシャルワーカーだから、自分自信の悩みを持たないということもあり得ない。

他人の悩みの相談を受けることはできても、自分自身の身に降りかかった問題まで、すべて自分自身で解決できるというほど人間は単純ではなく、強くもないのである。

人間は決して強くない。自立だけが求められる価値観ではなく、時には誰かに頼って、誰かに支えられて生きていくのが人間である。弱いことは決して恥ずかしいことではなく、人間として当たり前のことだ。時には「自立なんて、くそくらえだ!!」と考える場面があって良いのが人間社会だ。人と人が支えあうのが本当の人間社会なんだから。

誰かによりかかって、しっかり支えてもらって、慰めてもらったり、励まされたり、ときにはそっと寄り添ってもらうことが必要なのである。

心の弱さ、自分の弱さを恥ずる必要は一切ない。それが人間の本来の姿なのだから・・・。

悪夢の原因。

昭和58年に当施設が開設して以来ずっと運営にご協力してくださっているY氏は、現在でも二月に一度、施設の行事に協力するために園を訪れてくださっている。

そのY氏と雑談を交わしている中で興味深いお話を聞かせていただいたので、ご紹介したい。

当施設内は禁煙であるし、僕も非喫煙者なので、施設長室の応接の場にも灰皿などは置いていない。Y氏にお茶をお出しして会話をしている中で「ここは禁煙で灰皿もありませんが、Yさんは煙草を普段吸われますか?」と何気なく聴いたところ、氏は笑いながら「白状すると、高校3年生の頃から吸い始めて、20年以上吸ってましたが、交通事故で片肺を失ってからやめて、現在は吸っていません。」とのことであった。

Y氏の交通事故は、ここの施設ができて、Y氏がここで活動し始めた当初のことで、僕もよく記憶している。

登別市は温泉で有名だが、ここはあくまで観光地で、市内に住む住民が日常的に温泉に入浴するのは、登別温泉に出かけるより、すぐ隣の白老町虎杖浜温泉に向うことが多い。ここに「日帰り専用」の温泉が結構たくさんあるし、料金も公衆浴場なみだからである。もちろん自宅に風呂がある家がほとんどだが、定期的に温泉に入浴する為に通う人は多い。

Y氏はその日、虎杖浜温泉で入浴後、自宅に帰ろうとして国道を青信号で右折しようとした。そのとき無免許の高校生が運転する乗用車が赤信号を無視してY氏の乗用車に激突したもので、Y氏側に非がまったくない事故であった。幸いなことに加害者側の高校生は大きな怪我はなかったが、Y氏は重症で、結果的に片側の肺をこの事故で失う結果となった。

ところでY氏がこの事故で片肺を失った後、即、煙草をやめたわけではないそうだ。

闘病・リハビリを終えて退院後は、好きな煙草を再び吸い始めたそうである。それも徐々に事故前と同じ本数を吸うまでになっていたそうである。

ところで、この時期、Y氏は毎晩のように「同じ夢」、それも「悪夢」にうなされるようになったそうだ。

その夢とは「溺れて苦しい」とか「土に埋まって苦しい」とかいう夢で、毎晩のように繰り返され、苦しくて目が覚める、という状態であったそうである。事故の後、退院してから見るようになった夢で、片方の肺がないということが元になって事故の後遺症として精神的な症状なのかと悩んだY氏は、知り合いの医者にそのことを相談したという。

するとその際に医師が最初に言った言葉が「煙草、吸ってないか?」という言葉である。

驚いたY氏が退院後は以前と同様に煙草を吸っていることを医師に告げると、すかさずその医師は「片方の肺がなくなっているんだから、喫煙で酸欠を起こして、苦しいからそんな夢を見るんだろう。」と言われたそうである。

煙草を吸っている最中に自覚症状がなかったY氏は半信半疑で、そういうものかと煙草をやめてみたところ、それ以来、悪夢にうなされることはなくなった。

不思議なもので自覚症状がなくとも、片肺という機能低下の悲鳴を、悪夢という形で体がサインを送ったということだろう。人間の体は神秘である。

ところで、この話のどこに僕が興味を惹かれるか、というと、医者という科学者の視点が興味深いのである。

悪夢を見るということになると、僕らはどうしてもストレスとか、トラウマとか、精神的問題に起因すると考えがちである。実際に片肺と喫煙から、酸欠症状が夢になるなんていう考え方には至らないだろう。

そういう意味での専門知識に畏敬を感じるとともに、あくまで物事を論理的、科学的に解明しようとする考え方が大変面白く感じるのである。

人間の生活は論理だけで事を運ぶことはできないし、情からものごとを考えないとならない場面も多々ある。しかし論理的、科学的に考証しなければならない部分まで、能力を持たない人々はその作業を放棄して、全てを情で考えてしまったり、ときに実態のないものでごまかしてしまうことがある。

ここのバランスは大事だなと思うわけである。

同じ相談を、悩みをもった人々が、いかがわしい人に相談して「霊的現象」といわれて、厄除けと称して高額な物品を買わされたりするケースもある。人間の不安や悩みに付け込んだ阿漕(あこぎ)な商売であるが、心が弱っているとき、わらにもすがりたい気持ちになっているとき、人は通常の判断能力を失っている場合も多いのである。

そういうときに、暖かくかつ冷静に、専門家が物事を論理的、科学的に判断して支援してくれるということは非常に大事なことだなと考えたわけである。

我々の社会福祉援助もかくあらねばならない。そういう意味でも、ケアマネジメントを始めとした人間支援に関わる仕事は「奥が深い」などと自らの仕事に絡めて考えたりした次第である。

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自己決定を阻害する要因

昨日、北海道社会福祉士会・日胆地区支部の研修会として「権利擁護セミナー」を実施した。

2題の講演が行われたが、高齢者や障害者の権利擁護とコンプライアンスルールの考え方について興味深く拝聴させていただいた。

その中で、あらためて自己決定の支援の大切さや、自己決定をできない人の判断をどのような基準におくのかを考えさせられた。今日は思いつくままに、その問題を考えて見たい。

ソーシャルケースワークの原則に含まれる「自己決定の原則」は介護保険制度の理念である「自立支援」とも深く関連している。

そしてその意味については「自己決定とは何か2〜ケアプランへの希望とニーズの温度差」で書いているし、その原則には制限があることについても「自己決定とは何か1〜バイステックの7原則を都合よく解釈してはならない」で考え方を示している。

この「積極的かつ建設的決定を下す利用者の能力から生ずる制限」については、特に高齢化が進行し、認知症の方が増えている我が国の現状においては、介護支援専門員始め様々な場面でソーシャルワーカーが常に直面する問題である。

利用者に自己決定能力が備わっていない場合、その能力を超えた判断を求めてはならず、アドボカシー(代弁機能)の観点から、介護支援専門員などの社会福祉援助者が認知症高齢者に替わって判断する場面も増えてくるだろう。

しかしこの場合でも、もっとも重要な視点は、社会福祉援助の専門家として「利用者の自己決定能力には個人差がある」ということを前提にして、その能力を適切に判断することである。

問題なのは、認知症ではない高齢者で、「うつ傾向」等の精神症状がみられる方で自己決定が苦手な人がいるが、これらの人も「すべての決定が正しい判断で出来ない」と決め付けて、援助者がすべてを決めてしまうようなケースが見られることである。

自己決定が苦手であることと、自己決定が出来ないことは「天と地」ほどの違いがある。

社会福祉援助者の「自己決定能力を適切に判断する」ことの意味は、適切に自己決定できることを支援するのが一番の目的であって、自己決定をさせない、自己決定を阻害することが目的ではないのである。

ここを安易に、間違って捉えるととんでもないことになる。時として利用者の不安や不穏を助長させる結果となりかねない。

ある利用者は、自分が判断した決定事項を、いつも不安から変えようとすることがある。だがそれは人間として当たり前の感情の揺れであり、特に施設入所やサービス選択などの自分の「生き方」に係る選択では不安や揺れを感じない方がおかしい。

その場合、決定がコロコロ変わることをもって、自己決定能力に欠けるという判断をする以前に、その不安の原因は何かという考えがなければならず、時には決定事項を再確認して、その考えを支持することにより、利用者の決定を支持することが大切である。

正しい選択であるかどうかは、利用者自身にも結果が出てからしかわからないことが多いのが人間の生活であるのだから、結果が出てしかわからないことを、先走って評価するより以前に、自分で決めたというその行為そのものを支持することが大事な場面も多いのである。

介護支援専門員も含めたソーシャルケースワーカーとは、利用者の自己決定を支援する役割を持つ職業であって、それを阻害する役割ではないという理解が必要である。

残念なことに、社会的地位が上がって、偉くなってしまったソーシャルワーカーに、阻害要因となる行動が数多く見られるというのは、僕の思い込みなんだろうか・・・。

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バイスティックの7原則の読み方

ソーシャルケースワークの原則と呼ばれる「バイスティックの7原則」については、社会福祉士の国家試験でも何回も手を変え、品を変えして繰り返し出題されている。

それだけこの原則が大事であるということだろうし、その原則を守る姿勢が援助関係を形成するために必要であるということについては、時代が変わった現代社会おいても同様であると考えられているということであろう。

僕もこのブログの中で、その原則に触れた話題を何回も書いており、その原則の意味や理解の仕方についても説明したりしている。(参照:この原則に触れた過去のブログ)

しかしこの原則がケースワークのすべてで、少しでもこの原則に則らない行為や考え方は間違っていて、社会福祉援助技術としての本来の姿ではないという極端な意見にぶつかると首を傾げるし、それこそ間違った考えであるといわざるを得ない。

バイスティックがこの原則を書いて初版を発刊したのは1957年である。日本ではその8年後に「ケースワークの原則〜より良き援助を与えるために」として田代不二男・村越芳男の両氏によって格調高い文章の訳書が発刊されている。1960〜1970年代の日本のワーカーは、この訳書によって、それを学び影響を受けたものと思える。

しかし僕らがその原則を学んだ訳書は、それとは異なり、内容も違ってきている。僕の手元にあるものは1996年が初版の尾崎新・福田俊子・原田和幸の3氏によって訳されたものであるが、副題からして「援助関係を形成する技法」と変わっている。

このことについて尾崎新氏は訳書の中で『学生時代にこの本を読んだときの感想として「より良き援助を与えるために」という副題は間違いではないかと考えました。援助とは与えるものではなくクライエントが自ら活用するもののはずだと考えました』と延べている。その考え方が副題の修正に繋がっているんだろう。

また訳書を書くに当たって原本のキーワードである Casework Relationship については「厳密に訳せばケースワーク関係とすべきでしょうが」と断った上で、臨床で日常的に使われている言葉として「ケースワークにおける援助関係」と変えた、と述べている。このように、初版本の内容と、その後に出された数々の訳書の内容は、それぞれ微妙に、あるいは箇所によっては大胆に意味が違っているのである。

つまり、それぞれの訳書で勉強した個人の理解の仕方も違う部分があるといえる点が一つ。それにも増して以下のような指摘がある。

原本の内容について尾崎氏は「バイスティックがこの本を書いた当時の時代背景を学習し、私自身の臨床体験を題材にして、バイスティックの論述に見られる内容の不明確さや不自然な点も洗い出し、議論もしました。これらの作業を通し、私はやはりこの本がケースワークの歴史の中で始めて援助関係という基本にこだわり援助関係の意義を具体的に提示し、さらに関係形成の技法を確立したという意味で大きな意義があることを確信しました。」と述べている。

しかし同時に氏は、この原則をそのまま臨床場面で使っても解決しない問題がある点について本書の「あとがき」の中で説明している。これは大事なことなので、一部抜粋して以下に紹介したい。
(一部僕がまとめる形で文章は修正していますが意味は変えていません。)

バイスティックはケースワーク臨床のもっとも重要な基礎が援助関係を形成することでありケースワークの技術とは援助関係を形成する技法であるという主張をその当時に行ったのです。おそらく当時のアメリカはクライエントの秘密を的確に守ることや、問題解決の方向やペースをクライエント自身が自分で選択することなどが重視されていなかったはずで、援助の基本が「熱意」や「善意」であるという考えが色濃く残っていた時代であったはずです。

その当時のバイスティックの主張は現在でも学ぶべき点は多いと思われます。しかしこの本は「古典」であるだけに我々が読む際に気をつけねばならない点があります。それは内容にも不自然・無理と思われる箇所がないわけではなく、われわれがバイスティックの原則を忠実に守ろうとするだけではかえって自分を抑制するだけの堅苦しい援助態度を身につけてしまって、結局それはクライエントにも伝わり堅苦しい援助関係しか作れないという事態を招く危険性があります。

我々はこの本がソーシャルワーカーの持っていた人権意識や倫理観が現在以上に磨かれていなかった時代に書かれたという時代背景を何度も確認しながら読み勧める必要性があります。バイスティックの書いた本は、あくまで原則・基礎を論ずるところにとどまっていることも忘れてはならないことです。

彼の主張だけを鵜呑みにして、それだけに頼っても様々な臨床場面に対応することは困難です。臨床は原則だけでは身動きがとれません。原則に加え、臨機応変で柔軟な思考や判断が求められます。また援助者の一人はそれぞれに自分に適した原則の生かし方を発見して開発していく必要もあります。

すなわちバイスティックは我々が援助関係を形成していく際の大まかな「羅針盤」を提示したに過ぎません。我々にとって大切なことはバイスティックの残した遺産を学んだ上で、一人ひとりが彼の議論を様々な形・方向で発展させることだといえます。

(引用要約以上)

つまりこの本を読んで形だけをまねても、臨床場面の相談援助がうまく展開できるというものではない、という理解も必要で、その原則の深い意味を考えながら、われわれに今求められている本質を探す日々の研鑽が不可欠であるということである。

少なくともこの原則を自分の都合のよいところだけつまみ食いのように使って言い訳にしてはならない。

必要な援助をしないことを「自己決定の原則」という言葉で屁理屈をこねてごまかしているのは、どこのどいつだ。

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ソーシャルワークの神髄

いま我々は様々な物質とサービスと情報にあふれた社会に住み、わずか10年前の生活条件に比べても便利な生活を送っている。僕が生まれた1960年代と比較するなら、多くの人々が快適で、豪華ですらある生活を送っているかもしれない。

しかし一面それは別な問題を引き起こしている。様々な財貨やサービスが無限に存在すること自体が人々のストレスの供給源になっているからである。

例えば大量生産を大量消費に直結させるための効果的な広告宣伝があふれる中で、人々の欲望を抑えるのは難しい。あれも欲しい、これも欲しいし、そのためにもっと収入を得たいと考えるのは人情であり、しかもその欲望はとどまることを知らない。カラーテレビが「3種の神器」のひとつであった時代は遥か遠い昔となり、今やパソコンや携帯電話は生活必需品であり、大型液晶テレビが茶の間にないと我慢できないという人々が増えている。

巷(ちまた)に物やその情報があふれていることによって、そのすべてを手にできることが不可能である限り「現代人」は常に不満である。その結果、欲望を満足させる手段として「労働」を喜びや生きがいを感じる社会活動と思う以前に、収入を得るための無限な、そして細分化された単純反復作業としか感じない人々が増え続ける。

そうした社会の特異的側面は、人間関係の希薄化、非人格化と個人の孤立化、無力化を助長するであろう。犯罪心理学はこの部分にもっとアプローチせねばならないし、その心理的側面にアプローチできるのはソーシャルケースワークの機能しかないのではなかろうか。

しかも現代の文明社会を生きるためには、人々は様々な物品をそろえなければならない。流行は生存のために必要不可欠なものではないが、しかしそれは現実には贅沢ではなく生活に必要なものとなっている。そして自給自足的な生活が絵空事になっている社会において、金銭なくして生活は成り立たない。

それは現在でも今後の社会においても「所得保障」を確実にしなければならないことを意味し、それには収入が得られる職業が保障され、万一病気や災害で困窮に陥った場合でも、この現代文明社会において「健康で文化的な最低限の生活」が可能となる金銭とサービスの給付が不可欠であることをも意味している。生活保護費における老齢加算や母子加算の廃止などは、そういう意味でも過度な給付抑制策である。骨太改革は財政改善に役立っても、財政の基盤である社会そのものが国民生活の崩壊によってズタズタにされている。庶民の涙の上に胡坐しているすべての政治家は万死に値する。

便利で快適で豪華でさえある社会といっても、すべての国民がそれを甘受しているわけではない。昔と違って今の貧困者は「飢え死」からは守られ、その状態ははるかに良くなっているというのは幻想・虚像である。

全体的な生活水準は上がり、人間の生活そのものも変わってきているが、「豊かな日本」においてなお貧窮者はますます貧しく惨めであり、上層階層との格差はますます広がり、貧窮者は疎外感と不満に打ちひしがれている。それは我々の生活水準を基点として貧窮者をみても明らかである。

富める者の莫大な資産がマスメディアを通して社会の前面に出され、その結果、社会の下層で暮らす人々の実態を隠している。この歪を直さねばならない。貧窮者の生活水準を高めて、いかに格差を縮小あるいは解消するかが現代の貧困問題解決の最大の課題である。

ところで社会福祉は全国民を対象にして公的責任において行われる。

しかしこのことは社会福祉の諸制度がその組織を巨大化して官僚機構の中に組み入れられることをも意味している。その負の遺産が人間社会にどう影響するのかということは歴史が証明するまでもなく、現在の日本社会の実態として現われている。

それは官僚機構の都合によって仕事の能率は考えられ、問題は限局され、資格条件は厳格化され、利用者の声は無視され、組織自体の目的のために組織はひとりで動き、真にそれを必要とする個人が利用することが二の次になってしまっている、という事実である。

その無反応な管理社会において唯一、民衆の側に立ち、民衆の権利や要望を実現するため積極的役割を果たすものがソーシャルケースワークであり、個人が社会と接続される時々において、社会における生活単位として個人の全体を把握し、その個人が内蔵する問題を明らかにし、必要なときに適切な援助を与える役割を担うものでもある。

そう考えるとソーシャルケースワークとは社会福祉の領域に限らず、人間尊重の社会を実現するための担い手なのである。

日本は、そしてこの人間社会は今後どうなってしまうのだろう。人類の繁栄とは単に物質文化が向上することではないし、文明とは科学技術や機械構造物によってしか象徴されるものでもないだろう。精神的な豊かさを失った社会は繁栄した社会とはいえないのではないだろうか。

その行き先がどこか、たどり着く先がどこなのか、力のない個人としての僕には答えが出せるわけもない。

ただひとつ言えることは、ソーシャルワーカーとしての役割は、今、我々の支援を必要としている様々な個人の生活をより安定した快適なものにする一方、ソーシャルワーカーとしてケースの中に社会問題を発見し、その根源を究明し、制度改革へと向うアクションをも起こしていくことだということである。

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非審判的態度を貫く苦悩

ソーシャルケースワークの援助関係を形成する原則として「バイスティックの7原則」があることは今更言うまでもないが、この中の「非審判的態度の原則」について、果たして自分自身は、どこまでその態度を貫くことができるだろうかという疑問を常に持っている。

この原則は例えば罪を犯した者の、その罪まで許して許容するという意味ではないことはいうまでもないし、講義等でこの原則を教える場合に『行われた犯罪は「行為」については善悪を判断する必要があっても、それはその行為を行った人を援助するために必要な判断であり、人を裁くために判断するのではないということです』という話をしている。

罪を犯した個人を「援助する価値がある」とか「援助する価値がない」と区別していては対人援助は成立しないし、罪を犯した個人を援助することとは、その個人が自分の犯した行動を否定的部分をも含めて受け止め、深く反省する過程をも含んでおり、その結果を導く為には、人間としての個人の存在そのものまで非難し否定することはできない、という意味であり、社会福祉援助とは人を裁くものではないという意味もある。

つまりそれは「罪は愛すべきではないが、罪人は愛すことができる」もしくは「罪を憎むとしても、罪を犯した人まで憎むべきではない」という考え方に基づいたものであろう。

・・・・そのほか、非審判的態度の原則については深い意味と過程があるが、そのことを主題にしているわけではないので、ここではそれは省略する。(詳しくは、バイスティックの「ケースワークの原則」の日本語訳の本も出されているので、そちらをご覧いただきたい。)

ただ僕が常に抱いている疑問と恐れとは、本当に僕自身が、重大な罪を犯した人間の援助に関わった場合、果たしてその人自身を非難したり、審判したりすることなく対応できるかということである。

大きな事件、特に罪のない善良な市民が無差別に殺戮される事件や事故が起こるたびに考えてしまうことであるが、仮にそういう事件の犯人と何らかの形で係るとした場合、僕自身がケースワークの原則を貫くことができるのだろうか。ここに不安を持っている。

弁護士の方々もある意味、ソーシャルワーカーといってよいだろう。彼らは、重大犯罪を犯した人々も弁護しなければならない。世間からは「あのような非情な犯罪を犯した凶悪犯を弁護する気持ちが理解できない」という批判の声が挙がる。そのとき彼らは、同じように罪を憎んで人を憎まずという態度でそこに臨んでいるのだろうか。

そうであれば立派だと思うし、尊敬できるが、時として単に自らの信条を貫く為に、あるいは自己顕示のために裁判を利用しているだけではないかと思えることがある。・・・話がそれた。元に戻そう。

秋葉原でのあの無差別大量殺傷事件。罪もなく突然命を奪われたたくさんの人々を思うとき、僕の心の中には言いようのない怒りの炎が燃え上がる。気づかぬうちにその怒りは、犯罪行為に向けられるもの以上に犯人そのものに向っている。

光市の親子殺人事件、池田小学校の児童無差別殺傷事件、オウム真理教による地下鉄サリン事件、・・・数え切れないやりきれない事件の犯人を憎まずに、罪だけを憎むという気持ちにはなれないのが正直な気持ちである。そういう気持ちを持っていたり、そういう感情を持ちやすいのが自分であるという自己覚知をしているという言い訳はあまり通用しないだろう。

この矛盾を自分の中でどのように処理したらよいのだろうか。つくづく修行が足りず、人間ができていないし、社会福祉援助者として未熟であると自己嫌悪に陥るときがある。

だから休みの1日、バイスティックの「ケースワークの原則」を書棚から取り出して、読み直すということを何度か繰り返している。

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訴えの本質〜失敗と教訓。

僕の出勤時間は定刻よりもかなり早いことが多い。特養の日勤職員がまだ誰も来ていない時間に出勤することがほとんどである。

であるから、その時間は利用者の皆さんがまだ朝食の時間である。

ところで数年前の話ではあるがこんな失敗談がある。

その日もいつものように出勤して、ホールで朝食を摂られている方々に挨拶しながら自室に向かおうとしていた。すると男性利用者のAさんが強張った表情で僕の方に向って歩行器を押しながら歩いてきて大声で怒鳴っている。Aさんは認知症自立度で言えばbという状況である。

怒鳴り声であるので最初聞き取りにくく「どうしましたか」と聞くと、「○○はどこだ!!」とAさんの居住棟の担当グループのリーダーの名を挙げて怒っている。

僕「○○はまだ来ていません。どうしました。」
Aさん「○○に話があるんだ。」

そのときチラッとAさんが座っている場所にお膳が出されているのを見たのがまずかった。そのことで僕は間違った対応をしてしまったのである。
「○○は、もっと遅い時間の勤務なので○○時にならないと来ませんよ。本人が来たらお知らせしますから、まずごはんを食べましょう。」
Aさん「・・・・・。」
僕「責任をもって○○が来たら知らせますから安心してください。さあ席に戻りましょう。」
Aさん「バカモンそれじゃあ駄目なんだ!!」

この時点で自分の失敗に気付いたが、時すでに遅し。Aさんの怒りは収まるどころかヒートアップしてしまっている。

もうお気付きだろうが、この日の僕の失敗は利用者の訴えに対し、それを傾聴しようとする態度ではなく、利用者の行動を抑えようとする態度に走ってしまったということである。ソーシャルワーカーとして一番大事な「受容」の態度を忘れて「説得」に走ってしまったのである。朝でエンジンがかかっていなかったことと、自分なりの朝のルーチンワークをするために気持ちに余裕がなかったとはいえ、普段言っていることが実践できていないということであり、まったく情けないことである。いくら反省してもし足りない。

この場合「席に戻りましょう。」という説得は必要のないことであり、まずなぜAさんがグループリーダーを呼ぼうとしているのかというAさんの訴えの本質を受け止める「理解的態度」即ち「受容の態度」が必要だったのである。グループリーダーに代わって僕自身がAさんの訴えをしっかり受け止めることが求められていることだ。

朝ごはんなど、少々時間がずれて食べても良いもので、食卓にお膳が出ているから「ご飯が冷める」なんてことを心配して一番大事な対応を行わなかったことは非常に恥ずべきことであると反省している。

Aさんはグループリーダーを呼びたかったのではなく、訴えたいことがあったのがその行動の本質であり、グループリーダーというのは自分の訴えを受け入れてくれるであろう一番信頼できる対象として名を呼んでいるだけであり、グループリーダーがいなければAさんの訴えを誰も聞かないという対応が一番まずいのである。Aさんが求める「人」がいなくても、Aさんの「思い」はしっかりうけとめられなければならないはずなのに、そこに気付くのが遅れてしまった。

こういう際の仕切りなおしというのはなかなか難しい。一旦壊れたリズムを引き戻そうとしても、不自然さが伴うものであり、ぎこちない会話を続けてやっとこさ態度を変えることができる。

なんのことはない。最初にしっかりAさんの思いを受け止めておれば、ものの数分程度で解決した問題を、最初の僕の対応がまずいばかりに何十分も余計な時間を費やす結果となってしまった。その間、Aさん自信にも嫌な思いを持続させていたということになる。

まず何よりそうした正しい対応の方法を考えなくても、それは自然に態度として行えることが当たり前なのに、そうした態度は身についていると日頃は思っていたのに、できない状況があったということは自分の中の何かが足りない、欠けているということであろうと思う。

つくづく修行が足りないという思いを感じさせられた1日の始まりであった。そういえば朝のテレビ番組での運勢はかなり悪い日であったことを思い出した・・・。本当は、運勢の問題ではなく資質であるといわれれば反論のしようはない・・。

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悪平等の弊害・平等とは何か。

平等という言葉を知らない人はいないし、誰もが様々な場面で使う言葉であろう。しかし悪平等という言葉を聴いたのは、この業界に入る直前のことであった。

何でもかんでも同じではいけないという意味だろうが、その時は、言葉の意味が良く分からなかった。その後、特養の相談・援助業務を通じて、その意味を自分なりに理解するようになった。

介護サービスとは、その時々で支援する方法や頻度が変化するという特徴を持つ。根本部分はケアプランに落として実施できるが、それは計画上の基本サービス事項であるに過ぎず、その人の体調や気分、例えば風邪気味だとか、熱っぽいとかいった身体状況にも左右され変化がある。

つまり身体介護の量(時間)は同じ人に対してでも、その時々で変化があるし、精神的ケアという面でも、常に傍らで見守ったり、会話の時間を多く持つ必要がある人がいたりして一定ではない。

そのとき、我々は、必要な関わりを、必要な人に対して行う。

介護サービスという目に見えないサービスで言えば、そのとき、さほど支援の量が必要とされない状況の人には、サービス量が減る結果になることがある。

例えば、同じ要介護3の人でも、Aさんには1日の大半見守りや、声かけが必要で対応を行うが、Bさんは、さほどサービス時間が必要でなく、身体介護としての直接的支援以外の時間、声かけや見守りをほとんど行なわなくてよい、という場合がある。

そしてそれは時として、非常に大きなサービス時間の差となって現れることがある。そのとき、同じ費用と契約内容であるのにも関わらず、介護の現場で決定的にサービス提供時間が違うのは「平等」の精神に反して問題があるから、Aさんに行っている46時中のサービスというものは全員に行えないのだから、そこまで関わることはない、できないという意見があるとする。

しかしこれこそ間違いであり、そのときにサービスの量や支援の時間が大きな違いが生じているとしても、それは平等の精神に反しないという理解が必要である。

今必要なサービスをAさんに行っている結果がその状況であって、Bさんに対してはAさんほどのサービス提供時間がなかったとしても、それは今現在Bさんには、さほどのサービスが必要ではないという結果であり、仮にBさんが、現在のAさんと同じ状況に置かれたら、我々はやはり今Aさんに行っているのと同じような支援をBさんにも行います、というのが真の平等である。

仮にBさんが、現在のAさんと同じ状況に置かれた状況となったにもかかわらず、そのとき、Aさんに行っているのと同じような支援をBさんに行わないで放っておくような状況が生じた場合、はじめてそれは不平等ということになる。

つまり介護サービスというものは、目に見えないサービスで、人間生活に深く関わるものであるから、いつも同じではないという意味は、誰にでも一定の量のサービスを提供しておれば良い、という問題でもないということだ。

そこを取り違えて、すべて同じ場面でのサービス量の平等を求めることを我々は「悪平等の弊害」と呼ぶものである。

何かを行おうとしたとき、できることより、できないことから発想する人々がいる。そのとき良く使われる理由として「そんなことを全ての人に行うのは無理だ」というものがある。しかし全ての人に、それが求められるとは限らないし、今できることからはじめて、必要な人に必要なサービスを行なうことを積み上げながら、介護サービスの品質を向上させていくという発想が必要で、全員にできないことは低いレベルで均して質の低いサービスを均等に提供する、という発想こそ悪平等の弊害そのものであろう。

つまり悪平等とは、サービスを受ける側の視点に立っているかのように装って、実はサービス提供側の都合にしか過ぎない論理であるともいえるものである。

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続・自己決定の原則を都合よく解釈するな

以前、自己決定の原則の勝手な解釈にまつわる問題について書いたことがある(参照:自己決定とは何か1〜バイステックの7原則を都合よく解釈してはならない )ので、今回はあえてタイトルに続をつけた。しかし内容としては違う問題を考えてみる。

自己決定が大切だという。高齢者であっても、障害が重たくても、認知症があっても、自己決定できる部分は保障しろと言われる。その通りであろう。

しかし自己決定の名の下に、実は都合よく何もしない、自己責任に転嫁して必要な働きかけが行われないということがないのか。そのことは常に自問自答しなければならない。自己決定の原則とは、支援が必要な人々の権利と尊厳を保障するためにあるもので、そのことが守られない自己決定など、単なる自己責任というものへの丸投げ、責任転嫁である。

介護施設などでは、生活リハビリの一環として、あるいは心身活性化のために、利用者を活動の場に誘い出すという機会がしばしばある。それは例えばレクリエーションであったり、ボランティアの演芸を観賞する行事であったり、療育音楽であったり、回想法であったり、様々である。そして行われることに対する好みの度合いは様々なので、当然、それには出たくない、参加したくない、という希望は保障される必要がある。

しかし誘って「嫌だ、出たくない」「このまま寝ていた方が良い」という人が必ずいるが、その発する言葉の意味は人それぞれである。本当に出たくない、参加したくない人もいれば、なんとなく億劫だからそう言ってはみたけど、もっと誘ってくれれば出るのに、とか、最初から否定的な言葉から入るのが癖の人もいる。

そうした個人差、瞬間瞬間の気分、その日の機嫌、そうしたものに配慮のない自己決定の保障など、単なる介護放棄である。

参加しない自由もある、という人がいる。それもその通りであろう。しかし「参加しない自由」が保障される唯一絶対の前提条件は「参加できる自由」がきちんと保障されていることである。参加することに制限があって、参加しない自由だけが認められるのは、単に「参加できない不自由」を助長させているだけに過ぎない。

参加できる自由の中には、自由な選択肢が多様にあるということも含まれる。メニューが単一で、そこに参加しない人は、他に参加できる選択肢がない、なんていうのは制限ある参加、参加できない不自由そのものである。

だから介護施設で、引きこもりを防いで活動に参加する動機付けを作るためには、参加できる選択肢を広げる必要があるということだ。この中身を個人個人の生活習慣や、好み、嗜好から考え出す必要があるのだ。

そこで介護施設に様々な多職種がいるというメリットは、単に専門職としてそれぞれの領域をカバーするというだけではなく、それぞれの違った専門的立場、職種から全体のサービスメニューを考えて、広く意見を出せるという可能性としても考えるべきである。

そして介護職員に男性が増えている点も、男性の視点から見たサービスの多様化に貢献できる重要な要素であるし、職員が一杯いる大規模施設は、デメリットばかりでなく、たくさんの価値観やアイディアの集合体としてみれば無限の可能性があるのだ。

自己決定、自己決定というが、明治や大正、昭和初期の生まれの方々は、我々のように図々しく自己主張を行ってきた世代ではなく、慎ましく自分の意見を主張しないで、他人に合わせるのが謙譲の美徳と考えてきた世代である。

高齢期に入って、その価値観をいきなり変えて自己決定のための自己主張をせよ、ったってできない人も多い。

自己決定中心で考えるより「あんたが、そういうなら仕方ないから出てやるか。」という具合に、恩を着せることを理由に活動参加する、という意欲の引き出し方があったって良いし、そういう方法が最も適している人もいるということを忘れてはいけない。

自己決定の原則が何のために存在しているか理解していない人が都合よく、その言葉を使うことによって様々な介護放棄が行われていないのかも考える必要がある。

「何もせんでいい」という言葉は「何もせんでいい、という自分にもっと働きかけてよ」というアクションであったり、「何ができて、それが何のためになるのか」という問いかけの意味でもあると考えたほうが良い。

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バイスティックの7原則を居宅介護支援に当てはめると(2)

(昨日からの続き)
昨日は、個別化、自己決定、受容の3つの原則を居宅介護支援に当てはめてみたが、今日はその続き、残りの4つの原則を介護保険制度下の居宅介護支援に当てはめてみる。

4.非審判的態度の原則
ニーズ把握、ケースの目標の決定、ケアサービスの選択の時点で、介護支援専門員は利用者が自己決定できる側面的支援をすることの重要性は昨日述べた。その自己決定の原則を貫徹させる為にも介護支援専門員は自らの価値観で利用者や家族を評価しないことが大事であり、ましてや利用者を理解する立場であるはずの介護支援専門員が審判的態度で裁いてはならないという原則である。

介護支援専門員は、利用者の「行為」そのものについては客観的に評価・判断を加えるが、利用者自身については審判することなく受け入れ理解する必要があるということであり、利用者は援助者から審判される恐れを感じているうちは否定的な感情などを自由に表現できず問題解決に結びつかないという理解が必要である。

例えば、介護保険サービスの現場では「息子だから親の面倒をみなければならない」と断ずること自体も非審判的態度の原則に反しており、このような態度でいる限り適切な支援関係の構築が難しくなるであろう。

5.秘密保持の原則
利用者や家族に関する情報を誰にも漏らさないということは、記録した各種書類を厳重に管理するだけでなく、サービス担当者会議等における情報提供においても事前に利用者や家族から同意をとった上で情報を共有する、という必要性があるということである。

ケアマネジメントは他の機関や団体に個人情報を連絡することにより情報を共有し、適切なサービス提供が可能になるという一面があり、そういう意味でも信頼される情報管理は重要で、今後、居宅介護支援事業所とサービス事業所が利用者情報をオンライン化させていく可能性も考えると、介護支援専門員はこの原則に厳重に配慮する必要があるだろう。

6.統制された情緒関与の原則
利用者や家族の感情を敏感かつ冷静に受け止め、その表出された感情の意味を理解し適切な反応を示すことは信頼感の醸成と支援関係の構築に繋がる。

介護支援専門員が利用者や家族の現す感情を理解するためには、日常の支援において常に利用者の気持ちを理解しようとする態度が必要で、介護支援専門員と利用者が感情面で繋がっている関係を作り出すことが重要である。

ときには介護支援専門員は利用者に対し「○○なんですね。」といった感情反射や解釈を口に出すことで、利用者に感情を戻すことによって利用者自身が自身で気付かなかったニーズを把握できたり、解決方法を決意できたりする可能性がある。特に利用者の話すニーズや解決方法が社会的に承認されがたい場合に、こうした方法は有効である。

7.意図的な感情表出の原則
複雑な介護保険制度において、介護支援専門員の側からの情報が大事であることは「自己決定の原則」の中で述べた。しかし情報提供が必要で重要であるからといって、また介護支援専門員が介護保険制度に熟知し、たくさんの情報を持っているからといって、介護支援専門員の側からしか情報提供されなかったり、意見も介護支援専門員の側からしか出されないのは間違いである。

利用者が困っている問題やニーズ、それに対しての解決方法について、常日頃から利用者自身も自由に意見や希望が述べることができる関係が必要である。介護支援専門員の一方的な意思表示により全てのサービスが決定してしまうのは不健康な関係である。

利用者が自由な意思や意見を表明できることにより、例えそれが実現不可能な否定的考えであっても、そのことを表現できることで真のニーズが見つかる場合がある。

そのために介護支援専門員は、常日頃から言葉のみならず、その態度全体で利用者と対等な関係であり、専門職として利用者の支援に関わってはいるが、そこに上下関係はないことを表明しておかねばならず、利用者の行動や発言に対して、誠実に温かみをもって接する態度が求められる。

以上簡単ではあるが昨日から2回にわたりケースワークの原則を居宅介護支援の方法論として、介護支援専門員と利用者の関係の中に当てはめてみた。

古くとも必要な援助技術としての原則をこういう方法で確認しておくことも時には必要だろうと考えている。

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バイスティックの7原則を居宅介護支援に当てはめると(1)

ソーシャルケースワークの原則であるバイスティックの7原則は、ソーシャルワーカーの行動原理といってよく、介護支援専門員の本質がソーシャルワーカーであると主張する僕としては、当然、介護保険制度における居宅介護支援の方法も、この原則に沿ったものである必要があるし、そのことが利用者の問題解決に資する方法であると考えている。

この原則の意味については「バイステックの7原則(ケースワークの原則)の要点」で簡単にまとめているが、今日はこのことを介護保険制度における居宅介護支援に特化する形で考えてみようと思う。

それぞれの原則がどのように介護保険制度のケアマネジメントからケアプラン作成に至る過程で、当てはまるのかを具体的に考証してみたい。

1.個別化の原則
介護支援専門員が陥りやすい、一つの罠に、介護保険制度を熟知するあまり、介護サービス提供の方法が定型化して、利用者個人というより、どういったタイプの高齢者か、という視点が先行して、個人として見つめる前に、あるカテゴリーの高齢者として支援パターンを決定してしまうという問題がある。

しかしケアプランは個々の利用者のニーズ、援助目標、身体状況、精神状況、環境を含めた社会的状況により違いがあって当然だし、あるいは過去・現在の状況や将来の希望が異なる以上、個別的なものでなければならない。

このことは極めて常識的で、そのことに気付かない介護支援専門員はいないといってもよいが、しかしそのことを熟知している介護支援専門員であっても支援方法がパターン化しているのに気付かないことが多いのも事実である。このことを常に意識しておかないとならない。

利用者を分類してニーズを特定したり、ケアプランをタイプ分けすることは、個別化の原則に反する。反しただけではなくデメリットして、真のニーズに気付かなかったり、必要なサービスを見逃したりする可能性が高くなる。

この原則を遂行するには、困っている問題を利用者とともに明らかにし、利用者の自己決定が可能となる支援態度が求められる。そしてその根源には、利用者の尊厳を守るという気持ちが必要であろう。ひとりとして他人と同じ人間はいないし、まったく同じ支援方法でよいということもあり得ない、と考えることが始まりである。

2.自己決定の原則
利用者や家族が、自分の意志と力によって自己のなすことを決定し行動ができるようにするという原則が保障されなければ利用者や家族は自ら問題解決に主体的に取り組む姿勢を失ってしまう。自ら問題解決に向かっていくことで利用者の自立が支援できるのである。

もちろん自己決定は市民法や道徳法等による制限があるし、最終決定が生命に関わる問題であれば制限が加えられるが、その際にも時間をかけて利用者との話し合いを続けて理解を得る必要がある。

ただしこの自己決定は、ただ単に利用者や家族の意向のみで介護サービスを決定するという意味ではない。決定の主人公が利用者自身であるという意味であり、特にこれだけ複雑化した介護保険制度下における介護サービス情報は、専門職である介護支援専門員ならまだしも、専門家ではない利用者や家族が的確な情報を持っているとは限らないし、むしろ情報量も限られている、と考えて正しい情報提供がまず必要であることから自己決定への支援と繋げていくことが重要であろう。

つまり自己決定を促す支援方法とは、自分自身の問題や課題の所在は自分で理解するのが難しいという問題のみにスポットを当てることにとどまらず、課題やニーズに対応した適切なサービスが、どこにどのようなものがあるのかという情報自体が利用者や家族には少ないということを意識したうえで、専門知識のある介護支援専門員が利用者や家族に、介護サービス利用の効果(成果)や、利用者の今後の状況変化の予測等の専門家としての判断を分かり易く説明(情報提供)した上で、最終的に決定するのが利用者であるということであろう。

この違いを明確にしておかないと、介護支援専門員は単なるケアプランの自己作成代行のケアプランナーとなってしまう。

3.受容の原則
介護支援専門員は、利用者や家族の複雑な気持ちを受け入れるためには、その基礎部分に、利用者や家族が最も重要であると考えている価値観を、社会的に受け入れられない部分も全て含めて受け入れる必要がある。その意味は、そのことを是とするのではなく、そうした価値観を持つ個人として理解するという意味で、良し悪しを判断するものではない、という理解が必要だ。
こうした態度が介護支援専門員と利用者の信頼関係を培う基礎になる。このことは「受容とは何か〜許容ではない、という意味。 」に詳しく書いているので、そちらを参照してほしい。

長くなった。残りの4つの原則を居宅介護支援に当てはめる部分は明日にしよう。
(明日に続く)

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人を成長させる集団の力。

高齢者福祉サービスの分野では、施設、居宅サービスに関わらず、個別ケアが求められ、集団的ケアは「前時代的で品質が低いサービス」とされている。それはその通りであろう。

しかし人の発達過程において集団経験は非常に重要で、欠くことができない。

周りを見渡すと社会や他者とうまく接することができない若者が増えているように思う。介護実習を行う学生にも、少なからず知識の欠如でない部分で、この仕事に向かないと判断せざる得ない状態の人がいる。それらの人々の生活暦はどうなっているのだろうと疑問を持つことがしばしばあり、特に親子関係が異常な状態(30を超えた大人が親から自立していなかったり、親もそれを自覚していなかったり)という状況に接すると、成長過程でどのような社会との接触が行われてきたのか、考え込んでしまうことがある。

今日は日頃の内容と少し違った角度であるが、人の発達に影響する集団力について考えてみたい。

人は、生まれながらの遺伝的なものだけに基づいて人間としての発達を遂げることはほとんどあり得ない。遺伝的素質とともに、社会生活環境における学習を通して「人間」に創り上げられていくのである。

我々が社会にふさわしい一員として作り上げられていく過程を「社会化」と呼ぶ。

人は通常、まず家族という基本的な集団に生まれ、育てられていく。どんな人も始めは自らの生命の維持も安全も、全て周りの大人に依存する状態であり、1対1の密接な関係から、人間に対する基本的信頼感情を育てていく。

しかし幼児期の非常に早い段階で、人は既に周囲の大人ばかりではなく、自分と同じような仲間との交流を求めるようになり、2歳児は平行的な「遊び」を展開する中で「友達」を意識し、3〜5歳と進むにつれ家族から遊び仲間へと経験の輪を広げ、学童期になると、仲間に受け入れられるか否かは、その子供にとって次第に決定的要因となり始め、大人の支配や保護の及ばぬ子供独自の領域が作り上げられる。

このように子供は家庭、学校、地域社会の中で様々な集団に属し、人間同士の交わりを通し人間性や社会性を獲得していく。親の過度な溺愛は、この部分の発達過程を阻害する場合がある。

学童幼児期は、子供達の集団に、従うべき規律と守るべき秘密があり、大人に依存はしているが大人の干渉は嫌ってくる。そして思春期に入ると自我を確立し、大人になるための既存の価値観や権威と対立する様々な葛藤を経験するが、その不安定な時期を支えるのが仲間との同一視であり、集団の中に安定を求めつつ、やがて社会人として責任を持つようになる。

だからこの時期の引きこもりはその後の発達に重大な関係構築能力に障害をもたらす。ネット社会がもたらす負の遺産も無視できないが、何より、家庭における親の関わり方や役割が重要な問題となってくる。

成人期には、自分の家庭や職場での交わりが大きな比重を占めるが、地域社会への参加や、能力・興味に基づく任意の集団参加を通し社会的役割を果たしながら、人間としての自己能力を伸ばし、人に依存したり、されたりするような体験から情緒的ニーズを満たしていく。

つまり自立だけが重要ではないのだ。人に頼ることができる、その方法を獲得することも成長の一つの過程である。

老年期には、家族構成も変わり、職場も持たなくなったりして、新たな集団参加が必要になる。この点が成人期と異なるが、仲間の持つ意味合いは成人期と変わらず、高齢者であっても、社会において活動的であり、学習し、創造的な活動を行うことは意味がある。その欲求を満たす集団は高齢期でも必要なのだ。

集団処遇は否定されても、集団自体の効用は認めるべきで、施設サービスや集団で利用する通所サービスなどの居宅サービスでは、この集団力を良い方向に個人と接合させる視点が求められてくる。

だから福祉援助の専門家には集団論の理解が不可欠である。

ただし、一言断わっておくが、特養など高齢者施設の生活を「集団生活」というくくりで捉えている人々がいるが、それは大きな間違いで、それら高齢者施設は単なる「共同生活の場」に過ぎず、集団生活を理由にした制限ルールや権利侵害は許されるものではない。

ここは治療を目的とした「入院」などとは違うところである。

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話せばわかる、が成立する条件。

作家の故・松本 清張氏が、自分が生きた時代の史観を書きたいとしてライフワークにした作品に「昭和史発掘」という名作がある。

この4巻目に5.15事件が書かれている。その中で犬養首相が暗殺される場面は次のような描写になっている(一部要約)。

昭和7年5月15日午後5時半頃、首相官邸日本間にいた首相を、土足の軍人達が取り巻いた。犬養は落ち着いた様子で「靴くらい脱いだらどうか」と抑えるような口調で言った。
そのとき三上卓中尉は首相を睨みつけて「靴の世話などどうでもよいこと。話があれば早く言え」と性急に言った。
「騒がんでも話をすれば分かる」と首相は穏やかに言った。三上中尉は拳銃を一旦下ろして話を聞こうとしたが、その時、山岸中尉が「話を聞きに来たのではない。問答無用。射て射て!!」と叫んだ。首相は左手を上げて制止するように「射たんでも・・・」その言葉が終わる前に黒岩少尉の凶弾に首相は前のめりに倒れた。

以上である。

話せばわかる、と言った首相は「問答無用」の一言で命を奪われたわけである。

考えてみれば、この世の中「話せばわかる」のであれば、ほとんど争いも生まれないだろう。しかし現実の社会は「話してもわからない」から様々な問題が多種多様に存在しているのである。

つまり「話せばわかる」というのは事実ではなく、我々の理想とか希望のレベルでしかないのが現実だ。しかし一方「話したらわかった」ということも数多くあるのも事実である。

この「話せばわかる」ということが成立する条件は、唯一『相手が話を聞く気がある』ことである。

最初から聞く耳持たない問答無用の姿勢の人には何を話しても分からないのである。

しかし話してわかる、わかりあえる、ということは素晴らしいことである。我々ソーシャルワーカーは究極的には、話してわかりあえる関係を作る専門家である。

だから、まず我々自身が「聞く耳」を持っていなければならない。「話し合って」「わかりあう」ことの素晴らしさを実現する為に何をすべきかを探求していくのがソーシャルワーカーの責務である。

さらに相手が我々の話を聞いてくれる姿勢を示してくれる関係を築いていかねばならない。

相手が我々を受け入れ、聞く姿勢を持ってくれる為に何が必要か、実はその入り口は、人としてのごく常識的な礼儀であったり、態度や言葉遣いであったり、服装であったりする。これが常識として理解できないことで関係がこじれるという情けないケースも数多くある。これでは援助者とは言えんだろう。

そして、その上で共感的理解の態度が信頼感を生むのである。 全てはそこから始まる。

この入り口部分で立ち止まっている人はいないだろうか。そのとき、何が足りないのか、自身の中に理由を探すことが必要である。

話せばわかる、という素晴らしさを理解して、話せばわかってくれる人々の輪を広げたいものである。

ああ、しかし絶対に話してもわからないという例外の人はいる。初めから聞く耳を持たず、自分の主張だけしかしない、どこかの国の首相なんかはその典型だろう。

政治は国家と国民の為にあるのであり、自らの信念の実現のためにあるわけではないだろう。

犬養首相も天国で嘆いているんではないだろうか。「問答無用の政治はいかん」って。

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タイトルを考える意味〜ケーススタディにも有効。

表の掲示板では、再三にわたって投稿の際には必ず具体的な内容がわかるタイトルをつけるようにお願いしている。

これはタイトルから何の疑問や質問なのかが読む人にわかりやすく伝え、スレッドを開きやすくする、という意味が大きいが、それだけではなく書き込みをする人の立場で考えた結果でもある。

質問や疑問を書きこむ人は、あるひとつの事柄だけがわからなかったり、疑問を持っているわけではなかったりして、複合的な問題について問いたいという場合がある。何を主眼に質問や意見を書けばよいか頭の中の整理がつかないまま、とりあえず思い浮かぶ言葉を書いてしまうことがある。

そういう状況で書かれた文章は第3者に内容が伝わりにくい。何を書いているのかわからないということにもなりかねない。

そのとき、自分で書き込み内容を具体的に表すタイトルを考えると、その過程で自分の頭の中が整理でき、聞きたかったり、書きたかったりする要点が整理される場合がある。

そのためにもタイトルは、とりあえず挨拶を書くより、自分の投稿内容を具体的に示す内容を考えて書き込んだほうが自身のためにもなると思う。決して管理人の都合だけで考えているルールではないことをご理解いただきたい。

さて、このタイトルをつける、ということについては、僕は職員等の研修にも利用する事がある。それは主に事例研究においてである。

事例研究は何より、実際の事例を数多く読むこと自体に意味がある。特にその中から何かを見つけようとしなくても、様々な事例と、その中の対応を読み込む事で自分自身の考え方が構築される要素になるので、読むこと自体が重要だ。判例研究などはその良い例であろう。

そのとき、事例の要点は何かということを読み取るために、事例研究の最後に各自でタイトルをつけてもらう作業を行ってみてはいかがだろう。「あなたならこのケースにどんなタイトルをつけますか。」というふうにである。

事例研究に使う事例は、予め報告者のタイトルがついているものが多いが、その場合もあえてタイトルを隠して読んでもらって、各自でつけたタイトルと、報告者がつけたタイトルの違いを比べて見るのも、ひとつの勉強方法として有効である。それぞれがどこに事例の要点をおくのか、事例が示している問題点や解決方法のどこを重視しているのか、それによって各自の考え方や価値観の違いがわかるし、そのことが自己覚知に繋がる場合もある。

なにより現場で起こっている問題の課題の本質を探るという点では非常に良いトレーニングになる。

確か僕が担当した「のぼりべつケアマネ連絡会」のグループワークにおけるケーススタディの際にも、この方法でタイトルをゆけ、それぞれのグループから発表してもらった事があるが、結構評判が良かったと思う。ずいぶん前の話ではあるが。

特養と老健の職員を対象としたある研究会で講師を務めた際に、認知症で記憶障害があり、いつもお気に入りの「靴」がなくなったといって徘徊する高齢者の事例について、この方法で演習を行ったことがある。

報告者のタイトルには単に「認知症があり徘徊行動を伴う症例」とされてるのに対し、「記憶障害が徘徊行動に結びつく高齢者の1事例」とか、なかなか見事に本質をついたタイトルが出されていた。

同じケースでも、あるグループは「私の靴はどこ?」というタイトルをつけた。

ブログのタイトルなら、これも良いだろうが、事例報告のタイトルとしては文学的表現過ぎて報告内容や事例の中身が見えないので、あまりよろしくはないと思うが、靴がないという不安感が周辺症状に繋がっているという本質理解という面では決して間違いではないだろう。

だから、このようなタイトルもダメだしはしない。ただ事例報告のタイトルとしてはもう少し具体的な表現が良いことを話し合ったりする。

どちらにしてもトレーニングであるから正解も不正解もなく、皆で楽しくタイトルを出し合って批評しあうだけで良い。その積み重ねからケースの本質部分を取られる視点が養われるのである。

皆さんも一度試して見てはいかがだろう。

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受容とは何か〜許容ではない、という意味。

介護の現場では「受容する」という言葉がよく聞かれる。認知症の方の支援には受容的態度が必要だ、という形で使われることがしばしばある。しかし言葉として、これほど数多く使われているのに、実際に、その言葉の意味を自分の具体的行動と結びつけて語られることは非常に少ない。

時には「受容しろ」と言っている側の態度が受容的でない場合もある。言っているほうも、言われているほうも双方意味を理解せずに使っている場合も多い。

そもそも人の行動や行為を「あるがままに受け入れる」ということが社会福祉援助の専門家とはいえ、様々な価値観を持つ別な個人に可能なのであろうか。「受けとめる」「受容する」とはどういう意味であろうか。

おそらくバイスティックの7原則が示された後も、この概念は様々に議論されてきたことと思う。神ならざる我々にとっては完全なる定義を示すことができない領域であるかもしれない。

ただ、我々が利用者に対して、支援者として向かい合うときに、それをどう考えるか、という点に絞ると、ある基本姿勢が見えてくるのではないだろうか。そのことを少し考えてみたい。

認知症高齢者の周辺症状に、暴力や暴言など、反社会的行為が伴うものがある。我々はそのとき、その行動を認知症という状況が引き起こす行動であり、周辺症状は、中核症状がもたらす不自由のために、日常生活のなかで困惑し、不安と混乱の果てにつくられた症状と考え、暮らしのなかで、つまり、ケアによって必ず治る。よくなる。という理解のもと支援活動を行なっている。

これを彼らのパーソナリティとして考え「性格が悪いから仕方がない」と考えるのでは支援行為には結びつかない。我々はあくまで社会福祉援助者であり、評論家や裁判官ではないのである。

つまり、利用者の行動や態度を受容するとは、利用者を理解すること、把握すること、認識することで、援助ができる関係に結びつける行為であろう。そこには、どんな利用者であっても人間として敬意を払ったり、愛されたりすることが必要であるという意味が含まれる。

つまり不愉快な態度や振る舞いがあるとしても、それを利用者の「一部分である」として捉え、あるいは利用者の持っている可能性を捉えることであろう。

援助者が「こうあってほしいと」と望んだり、こうあるべきと考えるのではなく、実際のあるがままの利用者の姿を理解する、ということだろう。しかしその前提には我々の自己覚知が必要で、自分の感情がどう揺れやすいか等を意識することが重要となることは言うまでもない(参照:「面接の技法2〜自己覚知について」)

ただし間違ってはいけないことは、受容と許容は別物であるという理解であろう。

利用者の逸脱した行動や態度、その主張や行動をあるがままに受け止めるという意味は、決してその逸脱に同調して、媚を売り、それを許容するということではないということである。

彼らの行動を真実ないし良いものとして許容するのではなく、彼らを受け止める際に、そのような行動を彼らの現実の一部として認識し、理解することで、その行動が何に基づいているかを理解することにつながり、変容可能性が見出せるというものだろう。

このとき利用者の行動を許容しないということと、見下して敬意を失う感情を同一視すると問題は複雑化する。誰もが持っている尊厳と価値を尊重するという基本がないと援助活動にはならない。この感情を的確にコントロールするのが自己覚知である。そういう意味で、受容と自己覚知は切り離して考えられないのだ。

利用者の否定的態度も彼らの問題を構成している1要素なのである。だから支援の過程ではそれらの態度も表明され、明確化され、整理される必要があるということだ。そして受け止めるものは現実であるということを忘れてはならず、援助者の勝手な想像で非現実を作り出してはならない。

ただこの受容を間違って理解すると利用者の不安をより強くする場合がある。「誰かが私を襲ってくる」という利用者に対する受容は「〜さんを誰かが襲ってくるんですね」という理解ではいけない。「〜さんは、誰かが襲ってくる、と感じるような不安な状況にずっと置かれているんですね」という理解的態度で臨まねばならないという意味ではないだろうか。

ケースワークの原則は使い物にならない古い理論だと主張する人がいるが、原理原則がどうあろうと、我々が介護の現場で、利用者と向かい合うとき、専門家として以上に、人として、支援を求める人に真摯に対応する過程で「受け止める」という理解の態度は普遍的に必要なことだろうと思う。

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