masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

医療関連

老施協戦略への疑問〜療養介護士問題

先週末に引き続いて、介護施設等での医行為を実施できる条件の緩和問題・一定の条件下で介護職員が医行為を行えるように制度を改正する動きについて論じたいと思う。

先週金曜日に「介護職員の医行為実施問題〜画期的な方針転換か。」という記事を書いて、この中で僕は『療養介護士という新たな資格を作って、その有資格者が一部の医行為を行えるようにする、という方針が事実上撤回され、それ以上に一歩踏み込んで介護職員ができる行為を拡大することに繋がるものと考えられる。』とその方針について肯定的に述べた。

つまり僕の理解としては11/12に示された「療養介護士」という新たな資格創設という考え方は、介護職員が介護施設内で「できる行為」を家族が自宅で行っている医行為などを含めて拡大制してほしい、と老施協等が要求していることに対し、国は単純にその考えを認めず、新たな資格を創設して、有資格者に実施させるという規制は譲らないという考えを示したと考えたものである。

そのことが問題解決には繋がらないと批判したのが17日に書いた「「療養介護士資格創設について」」である。

そして同じように、より問題解決につながる方法は、新たな資格の創設ではなく、一定条件のみで介護職員に医行為の一部を手渡す方法であると老施協も本音では考えているのではないかと思った。

結果的にそれが20日の国の方針転換に繋がっていったのではないかと想像した。

しかしどうやらその考えは根底から間違っていたようである。

事実としては「療養介護士」創設案は老施協も支持している考え方で、老施協自体の考え方が、医行為は現行の介護福祉士等に認めるものではなく療養介護士という新資格を創設して認めてはどうかという考え方であったようだ。

このことは「介護ビジョン会議」に委員として参加している老施協の研修委員長である村上 勝彦氏が「介護福祉士の人材難や専門性を考えたとき、医療に関われる人が必要なのは事実。この療養介護士の位置づけを明確にしてほしい。2年前の我々の調査研究で療養担当介護職を提言している。今後の方向性として入れてほしい。」「専門的に考えると、療養介護士的なものは必要。しかし将来的には介護福祉士へも広げていくべき」と発言していることでもわかる。

これは老施協としての考え方なんだろう。村上氏は北海道の方で、僕も面識があるし、人柄の涼やかな感じのよい人ではあるが、この発言内容と考え方には納得がいかない。

なぜ介護福祉士とういう国家資格を持つ者を信用せずに、別に新たな資格を作らねば医療ニーズに対応できないというのだろう。しかも拡大対象はすべての医療ニーズというわけではなく、在宅で家族やボランティアが現に行っている行為が中心である。教育カリュキラムの見直しや、一定の研修受講で対応できる問題である。

しかも「しかし将来的には介護福祉士へも広げていくべき」という論理に何の説得性も根拠もない。将来できることが今できなくてどうするのだろう。

おそらく老施協は、日本看護協会などの「質を保てない」「安全性の確保に問題がある」という指摘に対して、新たな資格を創設するということで「質を担保できる」と反証することができると考えたのだろう。

しかし逆に、こうした新たな資格を創設せずして医行為に携わることができないということになれば、それは介護福祉士という資格の価値をさらに著しく低下させるということになるであろう。そのことに老施協は気付かないのだろうか。

老施協が行うべきことは様々な利権がからんでくる資格や制度を新たに作ることではなく、日本で最初に介護の国家資格とされた「介護福祉士」という資格を、介護の現場で質を担保する唯一の資格であるとして、その養成課程から一定程度のスキルを保障する教育と資格審査を行い、介護福祉士として責任もって超高齢社会の介護の現場で能力を発揮する土壌を作ることである。

老施協が介護福祉士の資格の重さを失墜させるようなことをしてどうする。

重度化対応加算の経過措置延長問題でも、老施協の戦略は単に「調査のための延長措置」であったが、その際も僕はなぜ重度化対応の体制が看護師なら質が高く維持でき、准看護師では対応が不十分であるのかという真っ向議論が必要であり、現に准看護師で対応していても何も問題ないという視点から、この制度自体を見なおす議論を1年前からすべきであったと思っており、どうもその戦略が的を射ていないと感じ続けている。

今回は他団体から「新資格の創設は唐突すぎる」という意見があがり、結果的に資格創設によらない「必要な知識・技術に関する研修を受けた介護職員が医師や看護師との連携の下に、一部医行為を安全性が確保される範囲内で行う仕組みの整備」に落ち着いたわけだが、老施協はいつまでも馬鹿げた戦略にこだわらず、そんなものは早々と捨てて、この機会を機敏にとらえて介護職員が行う行為の拡大という成果を早々と勝ち取らないとならない。

村上さんもいつまでも療養介護士なんて言う考え方の呪縛にはまっていないで、新しい方向に切り替えないと現場のニーズについていけなくなると思う。

老施協に必要なのは戦略と戦術の見直し。それ以外にない。

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介護職員の医行為実施問題〜画期的な方針転換か。

表の掲示板でもお知らせしたが、昨日(11/20)示された厚生労働省の「安心と希望の介護ビジョン」の中で、介護施設等での医行為について、現在、在宅でしか認められてこなかった有資格者ではない者による「痰の吸引」や、介護職員が関わることが大きな問題として取り上げられていた「経管栄養の処置」などの一部の医療行為を、研修を受けた介護職員にも認める方針が示された。

これはこの国の厚生行政の歴史上でも画期的な見直しであるといえる。

これが実現すれば、介護の現場で不安を持ちながら違法性とにらみ合ってグレーゾーンでジレンマとストレスを抱え働いている介護職員の状況を打破できるし、医療器具を装着して生活している人のうち、在宅では家族による行為や、ボランティアによる支援で生活できているのに施設サービスにおいては、それが介護職員にはできないことにより入所を拒まれるという状況にあった人々にも大きな朗報となるだろう。

なにより超高齢社会で、かつ医療技術の発達により医療器具を装着して日常生活が維持されている高齢者が増えている現実において、それらに関わる行為を看護職だけで担うという非現実的な路線の大幅な転換が図られるのだから、これは国民全体の潜在的ニーズに合致した、国民の利益である。

もちろん介護施設を始めとした介護サービスの現場の責任は、今以上に重くなるのは言うまでもないが、それに応えるサービスを実現するのも我々の責務だろう。

このことは11/12に「療養介護士」という新たな資格を作って、その有資格者が一部の医行為を行えるようにする、という方針を事実上、撤回し、それ以上に一歩踏み込んで介護職員ができる行為を拡大することに繋がるものと考えられる。

(※療養介護士創設で問題が解決しないことは、既に11/17の僕のブログ記事「療養介護士資格創設について」で批判的に述べているので参照されたい。)

本当に、このことが早く実現できるように、全国的な規模でシステム構築を急いでいただきたい。

ただし国はこの研修システムを介護サービス現場から金を搾り取るという財源に考えないで、マクロの視点から国民全体の利益として、費用負担が少なくて済むシステムを作り出して、1日も早く介護職員が医行為の一部を介護サービスの現場で可能にしていただきたい。

もしこれが実現すれば、そのときの厚生労働省担当者は歴史に名を刻むといっても言い過ぎではないと思う。是非、高いレベルからの視点で実現を図っていただきたい。

その際に何が介護職員に出来るようになるのかは、現時点では検討課題だろうが、目安としては老施協が要望として挙げている次の行為が検討されていくのではないだろうか。

1.血糖値の測定やインシュリン投与。
2.吸引・吸たん。
3.褥創処置。
4.摘便。
5.心臓・ぜんそく時のテープ貼り付け。
6.点滴が終了した場合の処置。
7.在宅酸素の取扱と施設における酸素吸入。
8.胃婁利用者の栄養注入の開始・終了時の対応。

今日は夕方に、札幌で「看取り介護」の講演を行う予定があるのだが、当然、この医行為の問題は「看取り介護」の場面でも大きく関係してくる。そのため今日の講演でもここに触れないわけにはいかないので、これから昼休み中に講演で使用するパワーポイントファイルを一部訂正する必要が生じている。

そのため今日は、この記事では深い考察まで及ばず、報道の事実関係のみに触れて書くのみにとどめる。この問題については、今後も情報が新たに出されるたびに検証を続けていく必要があるだろう。

どちらにしても朗報と思うし、実現が期待される。

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療養介護士資格創設について。

厚生労働省は11月12日に、あるべき介護の将来像を示す「安心と希望の介護ビジョン」のたたき台をまとめたが、この中で介護の質の向上では、総合的なケアを提供するための専門職として、経管栄養やたんの吸引など、原則として医療職しか認められてこなかった一部の医療行為が行える「療養介護士」を創設する、という考え方を示している。

僕の個人的意見として、これを評価すれば「非常に残念な考え方である。」と言うしかない。

もともとこ医行為の議論は、介護施設などで家族が行える行為が施設の介護職員には認められていないこと、在宅で資格がない者に行為として認められていることが、施設サービスでは行為そのものが認められていない(痰の吸引)など、多くの矛盾をかかえていることが「超高齢社会において医療対応が必要な高齢者が医療機関以外の場所で生活している状況」とマッチしなくなっている問題である。

老施協もこの問題については違法の医療行為を放置している現状を、時代のニーズに合わせて変えてほしいという要望を出しているものである。

その主張は「入所者等の高齢化等による重度者の増加に伴い、今や、全ての特養で医療対応やターミナルケアが不可欠な状況となっている。在宅で生活する重度の要介護者に対し家族が行うことが一般化している喀痰吸引、経管栄養、褥創の処置等の医療行為についても、施設では医師・看護職員にしか認められておらず、夜間等の看護職員不在時には違法と解っていながら介護職員が行わねばならない実情がある。これは介護職員にとって大きなストレスであり、重労働、低賃金の問題に加え、介護現場から職員が流出する大きな要因となっている。全老施協では、喀痰吸引、経管栄養、褥創の処置等の基礎的な医療行為については、介護職員に権限を委譲すべきであると考えている」としているものだ。

医療行為の実施できる条件拡大については日本看護協会が自己の権益を守るという立場から、国民の利益を無視して頑なに反対してきた歴史があり、そのため議論の遡上にも上ってこなかったものが、今回初めて公の場の議論となり、介護議員連盟などもその推進に協力的な意見を挙げるなど、一定の成果が見えてきたことは評価すべきことだが、実際に厚生労働省が示した案では問題の根本解決には程遠い。

そもそも、この問題は「介護の質の向上」として表面化した問題ではなく、超高齢社会の国民ニーズに現状の法体系がマッチしておらず、介護施設などの現状に乖離したものであるから、これを時代のニーズに合わせた運用にかえるというものである。

しかし厚生労働省はいつの間にか、その問題を「介護の質」問題にすり替え、家族が行ってよい行為を介護職員に手渡すことは否定し、新たな専門職創設というハードルを作ってきた。

専門職の新設は養成過程で受講者から「現金」を巻き上げることが可能となるので、国はおいしい財源をひとつ持てることに繋がるし、そこに当然、厚生労働省の「新たな利権」が生まれることになるから「おいしい」だろう。

しかしこれでは老施協が指摘している問題は何一つ解決することにはならないのではないだろうか?

むしろ、そのことに対するあらゆるコストが上昇して、介護施設経営のデメリットになるだろう。新たな療養介護士の養成費用だって施設負担する場合が考えられるし、何より新たな有資格者の配置が現行の賃金体系で可能と考えることはできない。その分の報酬上の評価は議論さえされていない。

介護報酬がいくらアップしても経営コストがそれを上回っていけば、この国の介護は早晩崩壊せざるを得ない。

老施協は、このことに対して妥協せずに、もっと正面から戦いの議論を行うべきであると考えるのだが、実際の動きとしては、老健局が「この資格を創設するには5〜6年かかる。」という説明をしていることに対して「急ぐべきだ。老健局長の力で是非実現してほしい。」と会長が要請している。

つまりこの案を認めていることである。どうもこのあたりの考え方が中途半端で、納得できない。確かに何も変わらないよりは前進といえるのだろうが、こういう形では根本的な問題解決にはならないと思う。

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身体拘束の治外法権は消滅するか。

介護保険法では身体拘束が原則禁止され、それに関する施行令が定められ、各事業の運営基準において具体的に拘束禁止が定められている。

よってこれらの施設や事業所で身体拘束を行なうことは出来ないし、原則外として認められるのは利用者又は他の利用者等の生命又は身体を保護するため緊急やむを得ない場合で他に代替性のない一時的な拘束のみである。

一方、介護保険法の規定外である医療機関等においては、医療法などを読んでも特に身体拘束を禁止した条項は見当たらない。

しかしこれは単に禁止条項がないというだけで、他人を拘束する行為は、刑法上から考えても許されるわけではなく、医療上の必要性がない拘束は違法であるという考え方は正しいであろうし、医療法等の関連法規で禁止条項がないことをもって医療機関で「身体拘束を行なってもよい」という意味ではないと解釈できる。

しかしながら医療機関は治療の場であり、治療上の必要性から一時的に身体を拘束しないと治療行為そのものが出来ない場合もあるし、介護保険法のように明確な身体拘束禁止の法律適用条項がないことから、実質的には法律を適用できない、いわば医療機関だけが治外法権のように法律の適用範囲外である、という取り扱いがされてきたといえるであろう。

しかし、このことに関連して9/5・名古屋高裁において医療機関の身体拘束を違法として1審地裁判決を覆した逆転有罪判決が出され医療機関側に70万円の損害賠償金の支払いを命じた。

本件の状況を整理すると、強い腰痛などのため「一宮西病院」に入院していた原告は03年11月16日深夜、必要もないのに看護師にミトン(抑制具)を使って拘束された。ミトンを外そうとして抵抗した際に傷を負った。というものである。

判決はまず、厚生省令で明確な禁止規定がある介護保険施設だけではなく、医療機関であっても「同意を得ずに患者を拘束してその身体的自由を奪うことは原則として違法だ」と指摘したうえで拘束を例外的に行なうことができる条件として(1)患者への危険が迫っている切迫性(2)ほかに手段がない非代替性(3)長く継続しない一時性の3要件に照らして判断すべきだとした。 (この規定は明らかに身体拘束ゼロへの手引きの考え方を当てはめたものである。)

原告については「ミトンによる抑制を行わなければ転倒、転落による重大な傷害を負う危険性は認められない」とし、当日の患者数についても、一審段階では、看護師3人に対して患者数は41人とされていたが、新たな証拠調べの結果、27人で重症患者もいなかったと認定。「看護師がしばらく付き添って落ち着かせることができた」と指摘し、今回のケースについては「切迫性や非代替性があると認められず違法だ」と結論づけた。

原告のYさんは何度も看護師を呼ぶナースコールを押し、おむつの交換を要求したり、車いすで移動しようとしたりした。病院側は、せん妄(意識混濁)状態で転落の恐れがあり拘束が必要だったと主張し一審判決は病院側のこうした主張を認め、拘束は緊急避難のためで正当だったとして請求を棄却していた。

(判決要旨は以下の通り〜原文のまま。)
1.違法性の判断基準〜身体抑制や拘束の問題を見直し、行わないようにしようという動きは主に介護保険施設や老人保健施設を中心に見られたが、高齢者医療や看護にかかわることのある医療機関などでも問題は同様で、少なくともこれら医療機関では一般に問題意識を有し、あるいは有すべきだった。 身体抑制や拘束が、厚生労働省がまとめた「身体拘束ゼロへの手引き」に示されているような身体的弊害、精神的弊害及び社会的弊害をもたらすおそれのあることは一般に認識されており、また当然に認識できる。 そもそも医療機関でも、同意を得ることなく患者を拘束して身体的自由を奪うことは原則として違法だ。患者または他の患者の生命・身体に危険が差し迫っていて、他に回避する手段がないような場合には、同意がなくても緊急避難行為として例外的に許される場合もあると解されるが、その抑制、拘束の程度、内容は必要最小限の範囲内に限って許される。右記の手引き(身体拘束ゼロへの手引き)が例外的に許される基準としている切迫性、非代替性、一時性の3要件が判断要素として参考になる。

2.本件抑制の違法性〜本件抑制で、患者や家族から事前に同意を得た事実はない。抑制しなければ、転倒、転落により重大な傷害を負う危険性があったとは認められない。患者の夜間せん妄については、病院の診療、看護上の適切さを欠いた対応なども原因となっている。特に、おむつへの排泄(はいせつ)の強要や、不穏状態となった患者への看護師のつたない対応からすれば、本件抑制に、切迫性や非代替性があるとは直ちには認められない。当日の入院患者に格別重症患者もおらず、看護師がしばらくの間、患者に付き添って安心させ、排尿やおむつへのこだわりを和らげ、落ち着かせて眠るのを待つという対応が不可能だったとは考えられない。
切迫性や非代替性は認められず、緊急避難行為として例外的に許される場合に該当するという事情も認められない。抑制の態様としても、様々な疾患を抱えた当時80歳の患者に対するものとして決して軽微とはいえない。従って、本件抑制は違法だ。

3.損害額〜抑制の結果としての傷害により患者が受けた身体的及び精神的損害に対する慰謝料は、病院の不適切あるいは違法な対応、傷害の程度から50万円が相当だ。弁護士費用は20万円が相当だ。

以上である。しかしこれは画期的な判決で、医療機関が治外法権であるということを完全否定し、原則的に介護保険施設と同様に拘束は禁止されており、それを行えば違法性を問われ損害賠償の対象になるという結論である。最高裁まで争われるか否か現時点で不明であるが、すべての医療機関が注視して対応が迫られる問題であろう。

しかしこのことが介護保険施設のように、拘束廃止の取り組みに向うなら良いのだが、拘束が必要と思われる患者の安易な受け入れ拒否に繋がる可能性も否定できず、そうした面からの監視が出来るかという問題が新たに生じてこよう。

どちらにしても非常に社会的に影響が大きい、かつ歴史上意義深い判決になると思われる。

※なおこの問題については表の掲示板の「身体拘束は違法と医療機関に賠償命令のニュース」にも意見が寄せられているので参照されたい。

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医行為に関する現場の要望

2003年にALS(筋委縮性側索硬化症)の患者団体からの強い要請をうけ、これらの患者の皆さんに対する「痰の吸引」が医師や看護職員だけではなく、一定の条件下で介護職員が「行為」としては行っても問題なくなった。そしてその行為はALSという病気以外の方々に対しても拡大して認められている。

これは「痰の吸引」という行為が「医行為」ではなくなったわけではなく「痰の吸引という医行為を一定条件下で医療職以外にも認めた」ということに意義があり、「医行為」がすべて医師や看護師等の医療・看護の専門職の行為でなければならないという垣根が実質上なくなったことを意味する。

ただし現在まで「痰の吸引」以外の医行為は、いまだ介護職員等に認められていない。

介護職員が行うことができる行為を明確にした厚生労働省医政局通知「医師法第17条、歯科医師法第17条及び保健師助産師看護師法第31条の解釈について」は単に「医行為」ではない行為を一部明確にしただけなので、介護職員が実施できる「医行為の拡大」問題とはその意味は本質的には異なっているのだ。この「違い」はきちんと理解してほしい。

ところで「痰の吸引」が一定条件下で認められるようになったといっても、それは「行為」としてはそのことを行ってもよくなったに過ぎず、「業」として介護職員に認められているわけではない。つまり訪問介護の中でこの行為を行って報酬算定することまでは認められていないもので、ヘルパーは訪問介護の範囲とは別個にいかなる形でも報酬をもらわない(自己負担も不可)形でのボランティアとしてその行為を行うということになる。

すると問題は、特定の行為に限定されない「暮らすため」のサービスが必要とされる施設入所者への介護職員の行為としては、それが業務内なら「不可」であると解釈されてしまい、実質、施設で介護職員がこうした行為を行うことは疑義が生ずることになる。すべて時間外の職員が「業」ではない「行為」として行わねばならないという意味だろうか。

ところで、老施協の21世紀委員会は250施設の要望調査を行い「医師の指導により家族ができる医行為について介護職でも認めてほしい行為」を次の8項目にまとめている。

1.血糖値の測定やインシュリン投与。
2.吸引・吸たん。
3.褥創処置。
4.摘便。
5.心臓・ぜんそく時のテープ貼り付け。
6.点滴が終了した場合の処置。
7.在宅酸素の取扱と施設における酸素吸入。
8.胃婁利用者の栄養注入の開始・終了時の対応。

このように「家族ができる医行為」としてのインシュリンや点滴、経菅栄養の注入等を介護職員にも認めさえるように踏み込んで示されたのは初めてだろうと思うが、これはまさに現場のニーズであるだけではなく、高齢化が進行する時代のニーズであり、国民ニーズであろうと思う。

僕はかねてより「寿命の延びとともに医療器具をつけて生活する高齢者が増えていることや、特養でのターミナルケアの事例が増加している点等、様々な状況変化により医療行為を定めた当時の状況とは社会そのものが変わっている〜高齢社会が進行し、後期高齢者が増え、医療的対応はおのずから増えている、それらの方々にも在宅ケアは必要だし、施設の職員配置を考えてもすべて看護師で対応できると考えるほうが間違いである。在宅ケアの担い手は看護と介護の2つの職種が担っているのだし、医療行為とて生き物で、時代のニーズと、流れの中で柔軟に考えるのが国民ニーズである。」と主張してきた。


また介護保険施行時、旧総務庁は「医療行為の中にはヘルパーが行っても利用者の身体に危害を及ぼすおそれのない行為が少なくない。その処置のために訪問看護を利用するのは、ステーションが相当数整備されたとしても対応が困難とみられるほか、コスト面からみても合理的とは言えず、身体介護を行うヘルパーができる限り幅広く行えるようにすることが望ましい」という意見を出している。

さらに介護職員等の「痰の吸引」を認めた当時の坂口厚生労働大臣は「ALSの皆さま方からご依頼を受けてスタートしたことでございますが、これは本来、ALSだけにとどまった話ではないと私も思っております。ただどこかの問題を中心にして議論をして、そして決着をつけて風穴をあけないと全体に広がっていかないわけでございますから、まずその点でお話をさせていただきました。ALSの場合には非常に難しいほうでございまして、口腔内に溜まりました痰を取るというだけではなくて、喉のところに手術をされてそしてそこに人工呼吸器等をつけておみえになるわけでございますから、そうした皆さん方が痰を取るというのはそこも取らなければいけないわけでありまして、ふつうの口腔内における痰を取るというのよりも非常に難しいというふうに思っております。ここで認めるということになれば、他のところに対しましてもそれ相応の対応をするのが妥当だと私は思っております。したがいまして、介護のいわゆる介護士さんの皆さん方も非常に訓練を積んで、そしていろいろなことを出来るようになってまいっておりますから、そうした皆さん方に対して出来ることはお渡しをしていくということにしないといけないというふうに思っております。医師でなければ出来ない、看護師でなければ出来ないということではないと私は思っております。したがってもう少しそこは段階的に拡大をしていくということでなければいけないというふうに思います。」と述べている。

坂口氏は医師でもあり、その方の発言であるから医療の専門家であり、国家の大臣である人の発言として、このことをもっと重く考えてほしい。

老施協はこの21世紀委員会の要望報告を是非、会として早急に国に挙げ、その実現を図るべく活動していただきたい。そのことを国民運動に盛り上げて実現を図っていくべきだろうと思う。

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白衣は泣いている。

特養の介護報酬における重度化対応加算の看護師の配置に関わる経過措置(看護師ではなく准看護師でも加算が算定できる)が先月の介護給付費部会で4月から半年再延長されたことは皆さんご存知だろう。

各委員の反対を押しきってこの経過措置が延長されたのは老施協の運動の成果だが、それはとりもなおさず「政治の力」であることを忘れてはいけない。介護給付費分科会で委員の意見が通った結果ではないのである。

そもそもあの部会を審議の場と勘違いしている人が多いが、介護給付費分科会は官僚がすべてを決めるというイメージを国民に与えない為のセレモニーの場に過ぎず、あそこの議論で何かが決まったり、変わったりすることは極めて少ないことを知っておくべきである。経過措置の再延長だって既に政治決着した結果を部会に持っていっただけであり、それを形式的に案として審議するという体裁を整えただけである。老施協委員だけが賛成で、その他の委員は反対もしくは慎重派がほとんどの中でも、それは答申されてしまうのである。

しかしこの経過措置に関しての老施協側と反対勢力の議論については、どちらの意見を聞いても、どっともどっちで正論というものがない。「狐と狸の化かしあい」である。

再延長の理由は「常勤看護師を確保できないで加算算定している施設が9.5%あり、同時に常勤看護師を配置しているのに加算算定できていない施設が24.8%もあり、この実態分析が必要」としている。しかしそれは昨年4月に1年間経過措置延長とした理由とまったく同じで、反対勢力が「この1年はなんだったのか。あと半年でそれができるのか」と疑問を呈しているが、これに対して答える術は老施協側も持たないであろう。

しかしながら反対勢力の急先鋒である日本看護協会の「サービスの質に関する問題だから経過措置延長は認められない」という主張ほど馬鹿げたものはなく、反対の為の反対にしか聴こえない。

看護師が配置されている施設が准看護師だけしか配置されていない施設より著しく看護サービスの質が低いという証明でもしてみろ。重度化対応や看取り介護の現場で准看護師しかいないから利用者に不利益が生じたという事例を挙げてみろ。できるわけがない。そんな状況はないからである。

彼女達が知るべきは「資格は仕事をしてくれない」という事実である。特養の看護サービスの質を担保しているのは「資格」ではなく「人」そのものなのである。

こうした意見に対し老施協側は何故「質の問題といわれるが、この2年間で准看護師しか配置されていない施設で、この加算を算定している施設の状況において、どのような質の低下問題が生じているんです?」という反論を行わないのだろうか。

かつてALS患者の皆さんが自ら求めた「たん吸引をヘルパーらに解禁」という議論の過程では日本看護協会は一貫して「吸引行為は危険で、ヘルパーには認められない」と主張していた。その部会の傍聴席で、車いすのALS患者の方々がボランティアの学生らに何度も吸引してもらって看護協会の主張を「恨めしく」あるいは「涙を流しながら」見つめていた光景に心を痛めた人々は多いはずである。しかし看護協会の代表委員だけは、その光景をみても、眉一つ動かさず「痰の吸引は医療職しか認められない」という主張を繰り返すばかりであった。その事実を国民は広く知るべきである。

結果的に痰の吸引は条件付で介護職員等にも認められたが、それによって多くのALS患者の皆さんが安心してヘルパーやボランティアに「痰の吸引」を依頼できて生活が支えられている。看護協会の主張は何の根拠もない空論であったことが証明されている。「痰の吸引」という医療行為を介護職員でも一定条件下で実施が可能になったことは明らかに患者の皆さんの利益に繋がった改正である。何よりその事実の重さを看護協会は知るべきである。

しかし、この団体は今もって国民の多くが望んでいる「医行為の見直し」も「一定条件を課した上での(痰の吸引以外の)その他の医療行為の実行者の拡大」にも頑なに反対している。このことでもわかるように看護協会は国民の命と生活を守るための活動を行う団体ではなく、看護師の有資格者の権益を守ることを最大使命として、それ以外の問題はたとえ国民の利益になろうとも反対するという団体である。

彼女達にとっての「白衣」とは黒い心を覆い隠す為のものなのだろうか。

老施協もいつまでもこの問題について、経過措置をおかしな理屈で伸ばすのではなく「なぜ重度化対応加算は看護師が必須なのか」という原点に返って問い直すべきではないのか?看護師が配置されていない施設でもこの2年間きちんと重度化対応、看取り介護対応ができているという事実をもって、准看護師しか配置されない施設でもこの体制を敷く限り加算算定できるという方向に議論の流れを持っていくべきではないのか。現実に准看護師のみで対応できている施設で利用者の不利益に繋がっているような質の低下が問題になどなっていないではないか。

加算問題はともかくとしても、介護職が行える行為の拡大問題についてはもっと迅速な対応が必要である。

医療機器を生命維持のために装着して生活している在宅高齢者が増えている現実、それらの方々が施設入所が必要となっても「家族にできる行為」が施設の介護職員には許されていないことによってスムースな施設入所が阻害されている状況。在宅の医療ニーズの高い人にすべて訪問看護で対応できる状況にないことを含めて考え、「介護職員が一定条件下でできる行為」を拡大することが緊急の課題であり、国民ニーズである。自己権益を守ろうとする1団体によってその議論が進まない状況は国民への背信、裏切り行為である。この部分にこそ政治力をもっと発揮して解決すべきではないか。

国民生活の視点のない特定職種権益団体の理屈にいつまでも付き合っている時間はないはずである。苦しんでいるのは地域で暮らす住民であり、いつ何時・誰がその立場になってもおかしくないんだから・・・。

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隠される後期高齢者医療制度の問題点。

長寿医療制度と書くべきなのか、後期高齢者医療制度と書くべきなのか、法律施行の直前にその名称を変更させるような措置をとるこの国の首相の感覚はどこかずれている。名称を変えたからといって制度がわかりやすくなるわけでもないだろう・・。
(厚労省によると、「長寿医療制度」はあくまで通称で、公式文書などには引き続き「後期高齢者医療制度」も使用するという〜ただし今後の方針は未定とのこと〜実にわかりづらい。混乱だけが助長されている。)

現在この制度で問題になっているのは新しい保険証の未着問題や、新たな保険料負担者が増える問題、年金からの保険料徴収問題、保険料の計算間違い、制度の周知不足であるが、問題の本質は別の部分に隠されている。

首相はこの制度を「これから一生懸命説明し、理解していただく。総合的に考え、こういう制度が一番いい(14日午前、於;国立成育医療センター。)」と発言しているが何をもって「総合的に考え一番良い」としているのか、もっと具体的に説明してもらわないと「国にとっては都合がよい」という意味なのか「後期高齢者の健康を守るために良い」と言う意味か、はたまた別の意味なのかさっぱりわからない。

少なくとも後期高齢者自身にとっては、この制度は「自分の健康を守るために一番良い」とは言えない。むしろその実態は「長寿にしない医療制度」である。

その理由は例えば「後期高齢者医療制度はかってない悪法」で書いている通り、保険料は取りっぱぐれがないように低所得者からもできる限り年金から差し引き、生活がどのように困窮しても国は関知しない。負担軽減措置はあっても免除はないので支払い能力のない人も保険料負担が求められ、払わない人は保険証を取り上げるなど厳しい罰則規定で必要な医療が受けられないという状況に陥る可能性を排除していない。とても健康が守られる制度とは思えない。

厚生労働省は後期高齢者医療制度の保険料について年収の高い人は現在より高くなる確立が高いが、年収の低い人は安くなる場合が多いといっているが、そんな証拠はどこにもない。決して年収が高くない人でも保険料はアップしている。特に各広域連合ごとに設定する所得割率と均等割額が高い北海道などでは保険料負担が増えるケースが多いだろう。同時に厚生労働省は、加入者が支払う保険料が2015年度には全国平均で現在の年間72.000円から13.000円増え、85.000円に上がるとの試算を明らかにしている。しかしこの見込みも少々甘いと思っている。実際の負担はもっと増えるだろう。

さらに国保からこの制度に移行して大幅に保険料負担が増える人の激変緩和措置は2年でなくなる。対象者の保険料は2年後には大幅にアップする。そのとき保険料負担の重さに愕然とする高齢者は数多い。激変緩和措置対象者は、今から本来の保険料を確認しておかねば大変なことになる。

また所得割率と均等割額は2年ごとに広域連合ごとに見直すのだから、後期高齢者が増え続ける現状では間違いなく将来に渡って負担は増え続けるのである。そこに高齢者の負担能力がついて行けるのかは全く配慮されない。貧乏人は「早く死ね」ということか。これが首相の言う「総合的に考え一番良い」という制度なのだろうか。

しかし本当の問題は、今クローズアップされ盛んに論議されている保険料負担問題以外の別なところに隠されている。つまり後期高齢者医療制度対象者の将来的な医療サービス受給システムの問題である。

4月の改正では大きく変わったのは保険料負担体系だけで、医療サービスの受給方法:すなわち後期高齢者医療の診療報酬は「別体系化」にはならなかった。

いくつかの「後期高齢者」単独の項目はできたものの、外来・入院・在宅分野とも、一般の診療報酬体系と同じである。これは、昨年の参院選挙での国民の声に押され「差別医療反対」の声と運動が全国で広がったこと、別体系化を検討する時間がない、などが大きな理由であるらしい。別体系化にして国民から大反対の声が挙がって混乱が広がるより、まず制度の実施が重要との判断である。いわば国側からすれば片肺飛行で制度をスタートさせたという意味である。

そして制度が始まってさえしまえば、制度内のルールなど変えるのは簡単であるという意味を含んでおり、もともとこの制度の目的は後期高齢者の医療費を抑制させる為のものなのであるから、次の診療報酬改定時(2010年)には医療サービスの受給方法を別体系化する改悪に向かってレースを敷こうとしているのである。

具体的には今回の改正では「後期高齢者診療料」を算定する医師(担当医)のいる診療所が設けられたが、後期高齢者医療の対象になった方でも今まで通り病院や一般の診療所へかかるか、この担当医のいる診療所にかかるかは、個人の判断で決めることができ、その部分での選択性が保障されている。ただし、「後期高齢者診療料」を担当する医師にかかる場合は担当医師1人に限定しなければならず、その場合、担当医師は「年間診療計画」を持って、「薬の服薬管理」「専門医受診相談」などを行うこととなるものである。

しかし2010年以降も、この選択性が確保される保証はどこにもない。原則「後期高齢者」はかかりつけ医をひとりに限定して計画診療の中ですべての医療サービスを完結させられる結果にならないという保証はどこにもないのである。

今回の診療報酬がどの点で厚く評価されているかをみてわかるように、後期高齢者の今後の医療サービスの基本は「なるべく入院させない」「入院したときはなるべく早く退院させる」「自宅で看取り病院では死なせない」ということである。

理想は「健康を保って入院せず、入院しても早期治療して早期退院をし、終末期でも家族に見守られながら自宅で過ごせる」ということであろうが、現実に75歳以上の方が大半を占める対象者に対しそのような健康管理・状態管理ができるなんてことはあり得ず、単に入院のハードルを高くして必要な入院治療が受けられないという結果になっていくだろう。しかも場合によっては、医療機関は後期高齢者を「追い出し」にかかった方が報酬上の評価が高くなることから無理のある退院と、それによる悲惨な在宅介護状況が生み出されかねない。

とても人に優しい、一番良い医療制度とは思えない。「長寿を否定する医療制度」であるのがその実態であろう。

ところでここに来て想定外の問題が出てきている。後期高齢者医療制度の対象になるということは、それまでの医療保険から外れるということである。対象者の多くの方は国民健康保険から後期高齢者医療制度に移行する。ここで国民健康保険の助成の対象から外れてしまうというケースが数多く報告されている。

例えば登別市では国保の健康推進事業であった「水中運動教室」の参加料助成事業から後期高齢者医療制度対象者が外された。室蘭市では温水プールの割引対象から後期高齢者医療対象者を除外した。

国保対象者ではなくなったということで国保の助成事業対象外となるとはいっても、国保から離脱し後期高齢者医療制度へ移行するのは本人の意思ではなく、制度創設による「強制」である。しかも保険料負担が国保より重たくなる人が多いのに、それまで対象であった市町村の助成事業の恩恵を受けられなくなるというのは高齢者にとって理解し難いことだろう。

高齢者を「裸のまま野に放り出す制度」がまさに後期高齢者医療制度の実態であり、長寿医療制度などという通称は馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

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特養解体へのプロローグ

20年度診療報酬改訂で出された2月13日の中央社会保険医療協議会(以下:中医協 と略す)の答申以来、特養への訪問診療が全面的に解禁されたのかという論議をめぐって現場は約1月混乱迷走したが、結局、今回の改訂では特養の訪問診療は全面解禁ではなく、今までどおり「末期がん」の方への限定された訪問診療ということは変更なく、在宅療養支援診療所だけに認められていた規制をなくして、一般医療機関にもそれが出来るようになったに過ぎないということに落ち着いた。

それまでの経緯については「特養利用者に対する訪問診療問題に決着」の中で詳しく書いているが、しかしこの問題の本質は、単に老施協をはじめとした特養関係者が、この答申の意味を誤解して招いた混乱だったのであろうか?どうも違うように思えてならない。

そもそも今回の結果を見て気付くことは、診療報酬の算定ルール上では、既に特養は「特定施設」や「グループホーム」と同列の扱いで「居住系施設」に分類されているということが大問題である。

それは特養が介護施設として嘱託医師の配置義務がある終生介護施設というカテゴリーであるということの否定に繋がりかねないものである。特養の位置づけ、役割を大きく変えかねない問題であるという認識を関係者は持つ必要があるだろう。

そしてこうした大きな影響を及ぼしかねない新区分整理が国民的議論や老施協などの関係団体との協議が何ら行われることなく、中医協の診療報酬改訂論議の中で性急な形で出された裏には、特養の介護サービスを外部化して、いずれ特養を特定施設化しようとする国の意図があるのではないかと穿った見方が生まれてこざるを得ない。

この問題については老施協のJSウイークリィー(3月13日版)において中医協の一方的整理として批判記事が書かれているが、少なくとも今回の「居住系施設」の決定過程の不透明さについては老施協の見解が正しいだろう。

JSウイークリィーによれば、厚生労働省保険局医療課は、この問題に関して「高齢者が多く住まう施設で整理したもので、配置医師の見直し論議はしていない」とし、同席した老健局振興課長も「この件については保険局と議論していない。居住系施設のくくり方に全老施協が疑問を持たれたことは当然だ。事前に相談のなかったことは申し訳ない。」とコメントしたという記事が書かれている。

しかしいくら事前に相談しなかったことに対する謝罪のコメントがあったとしても、今回、中医協の答申で診療報酬の改訂の中で「居住系施設」の診療報酬というものが位置づけられ、その中に特養が含まれたという事実自体は永久に残るもので撤回されたわけではなく、この算定ルールにおいては特養への訪問診療は規制なく認められているのである。

しかし医政局通知であるところの「特別養護老人ホーム等における療養の給付(医療)の取扱いについて」等で診療報酬算定の条件の規制として特養への訪問診療は「末期の悪性腫瘍」に制限されているだけであり、このことを老施協は「今回は末期の悪性腫瘍に押しとどめることができた。」と微妙な言い回しで表現している。

つまり老施協側が今回の問題で声を挙げなかったら、規制は撤廃されていた可能性があるということと、将来的にはこの「末期の悪性腫瘍」に限定した訪問診療の縛りが撤廃される可能性が常にあるという含みだろう。

なぜなら特養が診療報酬算定上は「居住系施設」である限り「末期の悪性腫瘍」に限定した訪問診療の縛りは他の「居住系施設」と同様に考えるという理由で、いつ縛りが撤廃されてもおかしくないからである。

訪問診療を特養で行なことができるメリットも他方ではあるが、それが実は特養の配置医師の撤廃に繋がるものであり、介護サービスの外部化を進行させる一里塚であるとしたら、これは大問題であり、そういう結果に繋がれば、低所得者層を中心にした福祉施設サービスは崩壊の一途をたどる結果になるかもしれないという、もう一つの意味を関係者は理解しておかねばならないだろう。

つまりこの問題の本質は厚老省が進める「特養解体」へのプロローグであるということであり、福祉施設としてのありようが国主導で変えられようとしているというのが、この一連の問題の意味するところであることを現場レベルで考えていかねばならない。

「保険あって、福祉なし」という未来を国民は望んでいるわけではないのである。

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特養利用者に対する訪問診療問題に決着

4月から改訂された診療報酬に位置づけられた「在宅患者訪問診療2」の解釈を巡って、ここ1月ほど特養関係者の間では喧々諤々の議論が行われていた。現場は差し迫った来月からの所属医師の業務に関連する問題で大混乱を呈していた。

この問題が、今日、表の掲示板の情報提供によりやっと結論が出たので、その経緯と結果について報告させていただきたい。

診療報酬における「在宅患者訪問診療2」とは、後期高齢者等が多く生活する施設等に居住する患者に対して、医療関連職種が訪問診療等を行なった場合についての評価を新設したもので、この算定要件の中に「介護老人施設(特別養護老人ホーム)」も含まれ、それらの入居者等である患者であって通院が困難なものに対し、計画的な医学管理の下に定期的に訪問して診療を行なった場合に1日200点を算定する、というものである。

これにより特養関係者が当初理解した内容は、現行、末期がんの患者に対してのみ在宅療養支援診療所からの訪問診療が認められていたものが、「通院困難」とういう条件さえ合致すれば疾患に関係なく、一般の医療機関からも訪問診療が可能になった、というものである。

そうなると危惧されたことは、経管栄養などで常時医学的管理が必要な方に対しては、施設の所属医師(嘱託医師)が、施設所属医師としての診療とは別に訪問診療を行ない「在宅患者訪問診療2」を算定するということになるのではないか、その際に、施設の健康管理のほかに訪問診療を受け費用を負担することに利用者の同意は得られるのか、あるいは施設所属医師と訪問診療との区分をどのように明確にする必要があるのかという問題であった。

さらに現場の混乱に拍車をかけたのは、3/6付けで全国老施協から送られてきたJSウイークリーである。記事の中で「在宅患者訪問診療」が特養でも算定できるとしており、その際の問題点として「介護保険上の医療行為と医療保険法における医療行為とにおける関係や、報酬面から考えて、嘱託医を返上し、訪問診療に移行する医師が増加する可能性や、それに起因する問題点について対応が検討された」として、あたかも4月から特養での訪問診療が全面的に認められているような記載がある。

そうであれば確かに、嘱託医師としての報酬よりも、訪問診療を行なって診療報酬を算定する方が医療機関としての利益にはなり記事で指摘された問題も生じる可能性が高く、大問題であると考えられた。

現に表の掲示板で情報提供があったように、4月からの特養との嘱託医師の契約について、訪問診療が行なえることを前提に、施設嘱託医師の報酬を低く設定している施設もみられた。

ところがこのJSウイークリーが発行された当日、3/6(木)開催された厚生労働省技官会議においてこの問題のQ&Aが次の通り示されている。

Q:特別養護老人ホームと配置医師との関係はどうなるのか。

A:特別養護老人ホームに対する訪問診療は、現行通り末期悪性腫瘍のみなので、変更は無い。


注意:特別養護老人ホームには自由に訪問診療が可能かという質問が多いが、そうではない。対象は末期悪性腫瘍患者である。拡大したのは医師の要件が拡大したということ。

とされている。

何のことはない、結局現場を混乱させたこの問題は、診療報酬の改訂通知では読みとれなかったが、対象範囲の拡大として、訪問診療が出来る医療機関は在宅療養支援診療所に限定される現行ルールがなくなり、一般の医療機関でも訪問診療が出来るようになったけれど、対象疾患はあくまで「末期がん」に限定されていることに変更はなく、それ以外の疾患の方は対象にならないということである。

よって「特別養護老人ホーム等における療養の給付(医療)の取扱いについて」の大幅な変更はなく、在宅療養支援診療所の行為に限られていた部分が一般医療機関も可能になるだけである。

特養で医療保険の訪問診療が日常的に出来るようになった、というのは誤解であることははっきりした。

しかしこれは良いことなのか、悪いことなのか?少なくとも「末期がん」に限定せず「看取り介護」の対象者には訪問診療を認めることで、より適切な対応が出来ると思うのであるが、国の考えはどうやらそうではないらしい。

それにしてこのことを老施協はきちんと把握しているんだろうか。現場の混乱を扇ぐ情報を垂れ流して終わりではひどすぎる。早急に正しい情報を正確に流して訂正する努力が必要ではないだろうか。


会費に見合った働きをしなけりゃ、老施協離れはますます加速するぞ。

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居住系施設入居者等に対する医療サービスの評価体系の新設

現在、特別養護老人ホーム入所者に対する訪問診療や、医療保険の訪問看護については「末期がん」の方に限ってのみ、在宅療養支援診療所からの訪問診療と、在宅療養支援診療所の医師の指示による訪問看護が限定的に認められているに過ぎない。

そのことについて一昨年の11月「特養と在宅療養支援診療所の連携で生まれる新たな医療支援体制 」というブログを書いたが、その中で僕は『対象疾病が「末期がん」に限定されず、「看取り介護の対象者全て」になれば、施設における「看取り介護」における医療支援体制の問題は一挙に解決する可能性が高いし、利用者や家族にとっても、より安心できる施設の「看取り体制」になると思える。』という意見を書き『対象疾患・対象範囲の拡大というテーマは是非、今後に向けて建設的に議論してもらいたい。』と結んでいる。

ところでこのことが4月の診療報酬改訂で新たな展開をみせ、特養への訪問診療や訪問看護の対象が広がり、末期がんに限定されていた縛りはなくなり、さらに訪問診療は在宅療養支援診療所に限らず他の医療機関からも可能になるし、訪問看護も在宅療養支援診療所からの指示でなくとも一般の医療機関の指示でも可能となる。

この訪問診療の適用範囲拡大はある意味、利用者の選択肢が広がり、医療ニーズに柔軟に対応できるという意味では歓迎こそされ、否定されるべきではないように思う。

これは今回の診療報酬改訂で「様々な居住系施設における患者の居住の状況や疾病の管理等の医療サービスの提供体制等を踏まえて、これらの施設の後期高齢者を含めた入居者等に対して提供される医療サービスについて、適切な評価を行う。」こと及び「後期高齢者等が多く生活する施設等に居住する患者に対して、医療関連職種が訪問診療等を行った場合についての評価を新設する。」というルールに基づくものである。

具体的には高齢者専用賃貸住宅、有料老人ホーム、認知症対応型共同生活介護事業所、特定施設(外部サービス利用型を含む)、介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)の入居者等である患者であって通院が困難なものに対して、計画的な医学管理の下に定期的に訪問して診療を行った場合に医療保険算定が認められることになる。

そして栄養指導や薬剤管理指導、訪問リハビリ等も点数評価されることになっている。しかしここが大きな謎と疑問が生ずる部分なのである。訪問診療の算定範囲が広がる意味はわかるが、医療の訪問リハビリがなぜ特養で実施できるのであろう?

今回の改訂は、あくまで診療報酬の改訂上の報酬新設であり、医療保険と介護保険の適用関係が変わらない限り、要介護者は介護保険を優先適用させるので、例えば訪問看護も末期がん・特別指示書が出された2週間・厚生労働大臣が定める疾病、以上の条件に合致して医療保険の訪問看護が対象となる利用者のみが使える医療サービスといえる。

さらに訪問リハビリは、そのような適用ルールがないので、要介護者しかいない特養では医療保険の訪問リハビリは今後も使えないと思われる。そうであれば、なぜこのルールの中で特養の訪問リハビリが報酬算定されることになっているのかが現時点で謎である。

要介護認定者が医療保険の訪問リハビリを利用できるようになるわけではないのだから・・。この意味をお分かりの方は是非、ご教示いただきたい。

さて、そのことを除いてこの結果をあらためて考えてみると、今回の診療報酬改訂では介護保険との適用関係の存在しない医療保険の訪問診療については特養でも行うことが可能になる対象範囲が大きく拡充することになるが、介護保険との適用関係のある訪問看護が特養で利用できる幅についてはわずかに広がった、というのが実態だろうか。

ただそれは紹介した以前のブログに書いたように、看取り介護のケースなどでは活用の仕方によって、様々な可能性が広がるものであり、決して否定されるべき問題ではないことは前述したとおりである。

しかしこの背景には、今回の診療報酬改訂で有料ホームや高齢者専用賃貸住宅などへの在宅医療・訪問看護の報酬が引き下げられという問題があって、単価の引下げを対象範囲の拡大という方向でカバーしたという一面があるように思えてならない。

医療機関や訪問看護ステーション等にとっては痛し痒しの改訂だろう。

ただ問題は、在宅療養支援診療所以外の医療機関が共通して、特養での訪問診療が算定できるようになったからといって、施設所属医師の通常の健康管理業務まで、すべて訪問診療で算定されては困るということである。

そうした問題が表面化すると、新たな規制が必要となり、やがてそれは必要な医療提供まで限定される可能性があるし、なにより特養自体の存在の否定論・解体論につながりかねない。

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認知症高齢者に対する医療侵襲行為について。(下巻)

(昨日からの続き)
施設入所している身元引受人がいない認知症高齢者の場合、手術等が必要になったとき、施設側に医療機関からその同意を求められる場合がある。しかし施設という機関にも、その管理者にも医療侵襲同意権はない。

施設としては医療機関に対し医学上の見地から本人にとって最善の措置をとるよう求める必要があるが、医療機関よりなおも同意書の提出を求められる実際の現場においては、それでは解決が図れないことが多々ある。

その場合、本人のために緊急やむを得ない対応と割り切って施設側が同意書に署名するという対応が実際の現場ではある。しかしそのことで施設にリスクは生じないと考えられる。なぜなら同意書には医療機関の医療過誤などの責任を免れさせる効力はなく無理に施設側から同意書をとっても「法的に意味のない同意」として効力はないものと考えられるからである。

ただ、これでは問題の本質は何ら解決していないということになり、お互いの責任のなすりあい議論に終わって意味がないのである。問題の本質は別なところにあり、そのことを考えるべきだ。

ところで医療侵襲行為に第3者同意が絶対に必要だと仮定した場合に考えられる方策として次のような1案がある。

例えば施設入所利用者で身寄りのない方の場合、緊急時に医行等が必要になったときの同意権については「切迫性、一時性、不代替性」などの一般的な違法性阻却の要件が満たされる条件下において施設利用(入所)契約に基づく同意権の行使、ということが解釈として成り立つのではないかという考えである。

しかし、やはりこれは無理だろう。それではあまりに施設入所契約を拡大解釈しすぎである。

そもそもこの問題は身寄りがあるなしの問題ではないことに気付かねばならない。

つまり身寄りがあることによって「家族の同意権」だけを頼りにしているのも実は根拠はない、という意味なのである。家族だからといって原則として本人以外が医療侵襲同意権はないというのが一般的解釈だろう。

正しい医療行為が受けられない問題の背景には

1.患者自身が病識認知にかけ理解できないことから適切な治療方法があるにもかかわらず治療自体を拒否

2.患者自身が体調など診断に必要な身体状況を説明できないことから正しい診断自体ができず病気の発見さえも見逃すことがある

以上2点が大きいと思う。

1については緊急性、必要性から医師自身が適切な治療を行う以外に方法はなく、仮に「誰も同意する人がいない」ことで手術はできないと逃げて、結局手術が受けられずに利用者が死亡した場合にも、医療機関は責任を問われることがあり得るのではないのだろうか。

2のケースでは、成年後見制度はもっと効果がなくなる。患者の訴えによらず、いかに体調の変化を気づき、対応できるか、普段の生活に深く関っている関係者の対応と、医療関係者が認知症高齢者の診断や診療方法を研究していくことがまず第1歩ではないのだろうか。

同意書は手術のためのインフォームドコンセントとしては意味があるものの医療過誤の免責に値するものではない、という認識が広がりつつある。

つまりは医療機関がそれにこだわっても、医療機関側の安心感にしか実際の効果としてはない、というのが今日的状況といえるであろう。

また手術にミスがあって、利用者が亡くなった場合にも、トラブルになる可能性はあるが、しかし手術ミスは医者の問題で、同意した職員の責任が問われることはおそらくないであろう。

こう考えてきたとき、認知症高齢者の方の医療侵襲行為が必要であるならば救急医療の場合と同様に医師は医学上の見地から本人にとって最善の措置をとることが出来るという社会全体のコンセンサスが成年後見人の同意権拡大よりも求められることなのではないのだろうか、と考える次第である。

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認知症高齢者に対する医療侵襲行為について。(上巻)

今から4年ほど前、認知症高齢者の意思が確認できずに必要な医療サービスが提供できないことから、医療侵襲行為の同意を成年後見人にも認めるべきであるという議論があった。

そのきっかけになった2003年のとある新聞記事の一説である。(当時は痴呆と書かれていたものを認知症に修正して転記する。)

「認知症のお年寄りの治療をした医師の80パーセントが、治療を拒まれたり意思の確認ができなかったりした経験を持ち、認知症のお年寄りが必要な治療を受けられないでいる可能性のあることが医師や弁護士の調査で判った。
この調査は認知症高齢者の権利を守るために活動している医師や弁護士の研究会が、全国の医師3200人にアンケート調査をしたもので643人から回答があった。
それによると認知症の高齢者を治療をした際に、治療を拒まれたり意思の確認ができなかったりした経験があると答えた医師が、全体の81パーセントにのぼった。
また、家族に治療の同意を得ようとした際、治療を拒まれたり費用や介護の負担を理由に、必要な治療に同意してもらえなかったりした経験のある医師も73パーセントいて、認知症高齢者が、必要な治療を受けられないでいる可能性のあることが判った。
こうした実態を受けて、医師の2/3が成年後見制度を見直して、後見人に医療に同意する資格を与えるべきだと考えていることも判り、研究会では今後お年寄りが必要な医療を受けられるよう、成年後見制度の充実を訴えていくことにしている。」

(以上、転記記事はここまで。)

この記事を受けて、この問題を解決する為にも成年後見人に『医的侵襲を伴う医療行為』の同意権を付与せよという考えが示され、僕の管理サイト掲示板(今から2代ほど前の掲示板である)にも、そうした観点から問題提起が行われた。

しかし僕はこの考えには反対であるし、今もその考えに変化はない。

しかしこのことの議論が4年経っても何ら進展していないので、改めてここで問題提起の意味も含めて、認知症高齢者の医療侵襲行為の同意は誰が行うべきか、あるいは同意がなければすべての医療侵襲行為は行うべきではないのか、ということを考えて見たい。(だからこのブログに書いてある内容は、当時、掲示板に書いた僕自身のレスポンスの内容をそのまま転記している部分も多いのでご了承いただきたい。)

そもそも制限能力者の制度は、その人の「財産」を管理する制度であり、そのため改正民法も「身体への侵襲への同意権」は盛り込まれなかった。よって現行の成年後見制度においても「医的侵襲を伴う医療行為について同意権はない」というのが一般的な解釈である。

このことがこの問題の根底にあるという理解がまず必要である。

しかし認知症の方が適切な医療を受けられないという問題を、成年後見人に『医的侵襲を伴う医療行為』の同意権を付与することで解決しようとすることは、あまりにも短絡的である。

それは問題解決どころか、医療機関の責任を不明確にして、救われない認知症高齢者が逆にたくさんでてくるという問題を内包しているのである。そのことを考えないとこの問題の本質は明らかにならない。

僕は緊急時に医行為等が必要になったときの同意権については、成年後見制度の中で解決するのではなく、もっと一般的に柔軟に考えるべきであり、一般原則を用いた解釈論にゆだねるべきである、と主張したい。(民法改正時にも「身体への侵襲への同意権」は盛り込まなかったことは前述した通りであるが、それは何故か、ということも考えてほしい。)

なぜなら本来、必要な医療を受ける権利は他者による同意を伴なわなくとも、人の生きる権利とともに基本的人権として備わっていると考えるからである。つまり必要な医療提供は同意者がいる、いないで判断されるべきでなく、『医的侵襲を伴う医療行為』はその行為を行う専門家(つまりこれは医師しかあり得ない)が自らの使命、倫理観において専門的見地から判断されてしかるべきであると主張したい。

当然、その判断を尊重する法的基盤は必要であろうし、そうした方向で社会的なコンセンサスが形成されていくことが不可欠であろうと思う。

現状を鑑みた時、経済的状況から成年後見制度を利用できない認知症高齢者もたくさんいる。もし成年後見人に『医的侵襲を伴う医療行為』の同意権を与えたとしても、いったい全体の認知症高齢者の何%の方がその制度を利用できるのであろう?利用できない人は同意者がいないとして必要な医療行為を行わなくて良い、という理由付けにされる可能性がないのだろうか?

医学上の見地から最善の方法をとるというのが重要であって、誰が同意するか、しないかという見地で議論することは結果的には救われない多くの弱者を生み出す要因になるのではないか。

特に成年後見制度の対象とならない認知症でない方でも終末期には意思疎通が困難になり、そういう場合、適切な医療提供を専門職が責務として判断しないことには何の救いにもならない。

そういう新たな社会的弱者を生み出さない為にも成年後見制度という特定制度で解決するのではなく、一般原則を用いた解釈論で解決すべきだろうと思う。
(明日に続く)

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老施協が考えている医行為問題。

医行為についてはこのブログの中で何度も主張してきた。(ブログ内キーワード検索で 医行為 で探してもらいたい。)

その主張の主な内容は「高齢化が進行し後期高齢者が増え、医療対応のニーズは拡大しつづける。それら増大するニーズに看護師のみで対応するのは不可能であり、国は医療行為の範囲を具体的に明示する努力を行うとともに、医療行為とて時代のニーズに合わせて考えを変えてよく、条件付で結構であるが介護職の出来る行為を広げ必要な高齢社会のニーズに応える必要がある。」

「誰もが安心して暮らせる社会は、行為提供者の数が足りなくならないことも含めて考えられるべきで、かつて人類が経験していない超高齢社会で、医療の発達の結果、医療対応が常時必要な人が医療機関以外で生活する必要を生じさせている現実と向かい合った法律を含めたルールの見直しが早急に求められていると」

というものである。

つまり僕が主張しているのは、医行為の明確化と、そこから医行為でない部分を今以上に拡大して介護職員が一定のセーフティネットのルールをクリアした上で行えるようにしてほしいという主張である。

これは既に10年以上前から主張してきた僕の持論でもあった。そして老施協もほぼ同じ主張になりつつあるのではないかと理解していた。

ところでこの問題に関して全国老施協研究会議岐阜大会(11/21.22)において中田副会長が「医療ニーズのある要介護者の受け入れに関連し、介護職に医行為を認めされるため、介護福祉士の養成過程に関連科目を盛り込むように働きかけること」を老施協の対応として行う旨を発言している。

つまり医行為を時代にあわせて見直して、その範囲を明確にすると共に、一定条件下で介護職員が行える行為は「医行為」から外した方が良いという考えではなく、介護福祉士養成過程にも医行為を行うためのカリュキラムを新たに作って、それを履修することで介護職員にも「医行為」そのものを行えるようにする、というのが老施協の基本的な考え方であるらしい。

現在、医行為の明確化と介護職員にその行為を渡すように医行為の解釈を変えようとする動きに対しての最大の抵抗勢力は日本看護協会であろうが、医行為そのものを介護福祉士の養成過程科目にして、それが看護師以外の別職種が行えるようになるということは、自分達とまったく同じ土俵に介護職員が上がってくるようなものだから、その抵抗はさらに激しくなるのではないだろうか。

しかし介護福祉士養成過程で履修できる医行為の技術など、改正された介護福祉士法で位置づけられた教育時間600時間(実務3年以上)とか1800時間(福祉系高卒者等)の中で何時間取れるのか、そこでどこまでできるのかという問題があり、おそらく限定された行為のことを示しているので、すべての医行為を看護師と同じ土俵で行うという意味ではないと考える。

つまりはかねてから僕が主張している、介護職員のできる行為を医行為の解釈から外して行わせなさいということと、老施協の介護福祉士養成過程で医行為の教育を行って、それをできるようにするということは、意味としてはほとんど同じものなのであろうと理解している。

しかし表現上、このどちらが良いか、どちらが国民理解を得られるか、という部分になれば、やはり違ってくるんだろうか。

ただよく考えると、介護職員に医療行為ではない行為を拡大させて認めさせよ、という主張の前提は医行為を具体化、明確化することが必要最低条件であり、これは難しいのかもしれない。

そうすると具体的行為をひとつ、ひとつ全て明示して「医行為とは何か」と示さなくても、養成過程で技術習得する行為に限定して、それが医行為であっても、なくても「できる」ということになれば、案外こちらのほうが介護職員のできる行為の拡大には近道かもしれない。

特にその行為を技術として習得するという過程があるのだから「誰でもできる」わけではなく「知識や技術がきちんとないことで危険性が伴う」という抵抗勢力の主張も根拠が薄弱になる。それでも反対するなら、その団体は国民の福祉よりも自分らの利益を守るための権益主張団体でしかなくなるであろう。(いまでもそうであると思うが。)

そういう意味では、ひとつの新しい考え方のヒントなのかもしれないと思った。

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命の期限・知りたいか、知りたくないか。

所要で札幌に出かけることになって、列車の中で読む本をキオスクで探していた。

そのとき「像の背中」というタイトルが気になって何気なく買った。

作者は秋元 康。知らない名前ではないが作家としての認知は皆無で、むしろ作詞家としての印象が強い。美空ひばりの「川の流れのように」も彼の作詞だろう。それより有名なのは放送作家としての活躍で「オールナイトフジ」や「夕焼けニャンニャン」を手がけ、のちに、おニュン子クラブのメンバーと結婚したことで知っている人が多いかもしれない。

だから特に期待したわけではなく、車中の暇つぶし程度の意味で買った本にしか過ぎない。しかし読む進みにつれ引き込まれた。

内容は40代の主人公が、ある日突然、肺がんの全身転移による末期がんであることがわかり、医師から余命半年であることを告げられる。その日から主人公が延命治療を拒否して亡くなる瞬間までを書いたフィクションである。

余命半年という告知の是非を問うものではなく、余命半年と告げられた主人公が、その後、死の瞬間までどう向かい合って生きたかという内容であり、命の期限を知ったことで、延命治療を行わないという選択のもとで彼が「できたこと」が静かな筆で書かれている。

作者は長編小説を始めて執筆したということだが、なかなかの才能である。この小説は役所 広司主演で映画化もされているとのことで知っている人も多いのかもしれないが、僕は始めて読んだ。

詳しい内容は本を買って読んでもらいたいが、告知の意味というもの、命の期限を知ったことで始めてできること、死期が確実になったときの本人が取りうる選択肢について考えさせられた。

僕自身の立場であったら、どんなにその期限が短くあろうと、やはり告知してほしいと思う。そうでなければ「やれることを残したまま」ある日突然、その日を迎えるほうがショックが大きいと思う。

しかし一方、僕は看取り介護の講演などでは、死をこの施設で迎えたいということと、今まさに看取り介護の時期であり、近い将来確実に死が訪れるであろうことを利用者に告げることは同じことではないし、死の告知に繋がる看取り介護の同意を本人から頂くことは望ましいこととは言えないのではないかと問題提起している。

これは大きな矛盾であり、自分と他人では扱いが違って良いのかという疑問が当然出されと思うが、決して自分と他者とを別に考えているわけではない。

死に対する観念や告知についての思いが、今の日本人は世代によってかなり違うのではないかという思いがある。我々の世代では告知はむしろ当たり前で、自分の知る権利として「命の期限」が分かっているなら知らせてほしいし、知らせるべきだと思っている人が多いのではないか。

しかし我々より、もっと前の世代の人々、団塊の世代より、もっと先に生まれた人々の価値観までそうであるのかというと首を傾げる。今、高齢者施設で「看取り介護」の対象となる方々は、告知に対し、我々の世代より免疫力が少ない世代であるように感じている。

だから僕は亡くなれた作家・吉村昭さんの言葉を借りて「命の期限」を告知することに関して

・日本人と欧米人は死に対する観念が異なる
・患者は激しい精神的衝撃を受ける
・あくまで隠し通して死を迎えたほうが好ましいのではないか
・それを情緒的といわれても良い、それは私たち日本人に染み付いたものだ

という問題提起をしている。もちろん個人の価値観や希望、隠されたニーズまでその思いを見つけ出す努力は必要だが、こと告知に関する問題と、その感じ方は「自分の価値観」だけでは判断できないし、もっと国民的論が広く行われるべきだと思う。

このことを決してタブー視してはいけない。

例え、告知を望んでいる人でも、告知のショックによるデメリットが皆無というわけではないし、実際に告知をきっかけに大きな精神的ショックを抱えたまま、悶々として最期の瞬間を迎え、告知しなかった方が良かったという結果の方が居られるのも事実である。

人間とは、そういうデリケートで決して強くない存在である。予定や望んだこと全てを受け入れられるほど精神構造とは単純ではないのだ。

しかしそのことを考えて、自分なりに答えを探すことができるのも人間である。最期に答えが正しかったのか、間違っていたのかを判断できるのも自分自身しかいないかもしれない。

答えの出ない迷路の中を、答えを探して歩き続けるのも僕らの責任だと思っている。そのことだけは一つの真実である。

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後期高齢者医療制度はかつてない悪法。

(08.04.16追記→参照:「隠される後期高齢者医療制度の問題点」)

来年4月から実施される予定である後期高齢者医療制度については「検証〜後期高齢者医療保険制度の創設」の中で概要を紹介している。しかしどうもわからない点が多い。一般市民どころか、保健・医療・福祉の関係者でさえもその内容を充分理解していない状況ではないだろうか。

今月16日に行われた「のぼりべつケアマネ連絡会」の定例会では北海道社会保障推進協議会常任運営委員会から講師を招き、「どうなる高齢者の医療〜後期高齢者医療制度の仕組みと問題点」というテーマで講演を行い、その内容を勉強させてもらった。

その中で感じたことは、なるほど後期高齢者医療制度とは医療給付費の抑制が主な目的であるから、75歳以上の高齢者や、それらの方が属する世帯の負担が非常に大きくなると共に、実際の医療を受けるためにも多大な負担を強いているだけではなく、保険料が滞納されない為に、かつてないほど厳しい罰則を課し、低所得者からも絞るだけ絞る、それが嫌なら必要な医療さえも受けられないという血も涙もない制度であるという印象である。

この制度が動く来年の4月からは、生活保護受給者を除く75歳以上の高齢者は今までの健康保険や老人医療制度からはずれ、すべて新しく創設される「後期高齢者医療制度」に強制加入することとなる。

すると例えば高齢者夫婦世帯で、75歳の夫と71歳の妻の場合、それまでは夫が世帯主の国民健康保険に妻を被扶養者として2人で加入していたものが、来年4月からは、夫だけが「後期高齢者医療制度」に移り、妻はそのまま国民健康保険だから、そのまま妻の名前で国民健康保険証を作ることになる。

つまり例示の世帯では妻の分の国民健康保険料と、夫の後期高齢者医療制度保険料を両方負担しなければならなくなる。

新聞報道等ではこの問題に関して、現行の国民健康保険料と高齢者医療制度保険料を単純に比較して取り上げている記事が多いが、夫婦世帯では上述したように新たに2重払いという状況が生じることももっと情報提供されていかねばならないと思う。

しかも後期高齢者医療制度の保険料は取りっぱぐれがないように年額18万以上の年金受給者は年金受給額から天引きされることになる。天引きできない人は普通徴収で納入通知票により窓口支払いだが、滞納者は半年滞納すれば資格証が取り上げられ「短期保険証」が発行され、1年滞納するとそれが「資格証明証」に変わり償還払い化される(この取り扱いは不確定要素あり)、そして1年半以上滞納すると医療給付が一時差し止めされるという厳しい内容である。

しかも低所得者の負担軽減措置の算定基準は被保険者の所得ではなく、世帯合算になるので、どんなに年金所得が低くても、子と同一世帯となっている場合は、子に収入がある限り軽減措置が適用されないという大問題がある。

加えて後期高齢者医療制度は扶養家族の考え方を排除しているので無年金・無収入の人からも全員から保険料を徴収する仕組みとなっており、負担軽減措置はあっても免除はないので、支払い能力のない人も保険料負担が求められ、それができなければ上述したような罰則規定で必要な医療が受けられないという状況に陥る。

当日の講演で紹介された東北大学の日野 秀逸教授のコメントがあるが、それは「高齢者だけ別の医療保険制度に独立させて、死ぬまで保険料と患者負担を支払わせるような制度は世界でも例のない異常なもの」というものだ。

知れば知るほどこの制度は(低所得者が多い)高齢者が受診抑制をせざるを得ず、必要な受診機会を奪うか制限するかし、健康を守ることができなくなる悪法に思えてならない。なによりその当事者である高齢者自身に制度の概要が正しく情報提供されていないのは大きな問題であろう。しかも後期高齢者の医療提供方法や診療報酬は不透明なままだ。

こうした大問題を抱えた新制度を、国民的議論が不十分なままスタートされてよいのだろうか。非常に疑問を持たざるを得ない。この制度は最低でも一時凍結する必要があるのではないだろうかと思う。

(08.04.16追記→参照:「隠される後期高齢者医療制度の問題点」)

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混合診療は是か非か。

先週11月7日(水)、医療制度に関連して大きな影響があると思われる地裁判決が出された。混合診療を原則禁止していた厚生労働省の考えは法的根拠がなく、混合診療は法律上認められるという判決である。

混合診療とは健康保険の診療と健康保険の範囲を超えた自由診療を混在させて提供することである。厚生労働省は、この混合診療を認めないという立場をとっていたので、保険外の自由診療を行った場合は、その中に一部保険治療も含まれていても、保険内診療分を別途医療保険に請求できず、全ての治療費が自己負担とされるものである。

今回の裁判では、腎臓癌治療のため、保険適用対象となるインターフェロン治療と、保険適用外の「活性化自己リンパ球移入療法」を併合して受けた患者が、インターフェロン治療まで自己負担とされたのは不当として、インターフェロン治療に対する保険適用を求めた訴訟で、東京地裁判決では「インターフェロン治療に対する保険が適用されない根拠は見いだせない」として、患者側の請求を認めたものである。

つまり結果としては、患者側の言い分が認められ、保険適用対象となるインターフェロン治療については自由診療と同時に行われていても保険請求でき、患者側の自己負担額が減るというもので、患者にとって利益のある判決になっているわけである。

ということは混合診療は認められないという厚生労働省側の考え方を否定して、混合診療が認められるという結果は国民にとって歓迎すべき、国民側に立った判決なんだろうか。

ところがこの内容をよく考えると、必ずしもそうではないように思える。

そもそも厚生労働省側が混合診療を認めてこなかった大きな理由は「混合診療を解禁すれば、所得により受けられる医療に格差が生じる。治療費を多額に支払える患者だけが、より多くの治療を受けることができることになってしまう。」というものであったろう。

それに対して混合診療の禁止は「より支払能力の高い人しか保険外診療を受けられない、という逆効果になっている。」(保険内で給付されるものも保険外とされてしまう為、両者を自己負担できるほどの負担能力がある人のみ、保険外診療を受ける結果となっており、混合診療を認めれば保険対象部分の給付負担が減るので現行より多くの対象者が保険外診療を受けられるという意味)という反論もあったことは事実である。

両者の論理は、それぞれうなづける部分もあるのだが、しかし実際問題として総合的に考えれば、混合診療が認められれば、個人の経済状況により受けられる医療の質の差が現在より広がって、医療格差はより深刻になるのではないかと懸念される。

公的医療保険で保険が給付されている限り、患者は自己負担分だけ支払えば医療が受けられるが、混合診療が認められて自由診療になってしまうと、供給側の言い値で商売ができるようになるので裕福な人だけが高度な治療にアクセスできるという図式が生じる可能性は否定できない。

今でも、所得が高い人は混合診療であろうと、なかろうと診療は受けられる。これは間違いない。

しかし混合診療が当たり前になった社会では、所得や収入の多くない人々は保険外診療など受けられないだろうし、さらに今より診療の質が低下する可能性があるということだ。

なぜなら混合診療が認められることは現在、健康保険でみている療養までも「保険外」となる可能性がある。さらに保険外のほうが儲かる診療であれば、保険医療しか使えない患者が医療機関から排除されてしまう恐れがあるということだ。これは大きな問題だろう。

また混合診療が全面解禁されてしまうと未承認の保険が利かない薬による治療が蔓延する恐れがあり、医療の安全性が大きく問われることになりかねない。薬害が健康に及ぶす影響の責任も、すべて自己責任に転嫁されるであろう。

どちらにしても今回の地裁判決の流れが混合診療の全面解禁に向かうとしても、それは必ずしも改正とはいえないと思う。むしろ裕福ではない階層にはデメリットのほうが大きいように思えてならない。

少なくとも我々は規制改革・民間開放推進会議の議長であるオリックスグループのCEO(最高経営責任者)・宮内義彦氏が雑誌のインタビューで答えている次の発言を肝に銘じておかねばならないだろう。

宮内発言「混合診療は国民がもっとさまざまな医療を受けたければ健康保険はここまでですよ、後は自分でお払いください、というかたちです。金持ち優遇だと批判されますが、金持ちでなくとも高度医療を受けたければ家を売ってでも受けるという選択をする人もいるでしょう。」

宮内氏はどのような医療を受けても家を売る必要はないだろうが、必要な医療を受ける為に家財産を処分しなければならない人々が増える社会が、混合診療の解禁の意味なのかもしれない。

しかしお金持ちの論理はわからん・・。

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患者様って違和感ある呼び方だなあ。

先日、医療機関の職員を対象にした研修のシンポジウムに関連し、基調講演を頼まれて話をしてきた。講演の内容は認知症高齢者に対する尊厳を守るケアに関してのものであるが、それはさておく。

時間がなかったので、シンポジウム自体は途中で退室させてもらったが、途中まで話を聞いているときに、気付いたことがある。

司会の医療機関の婦長さんとおぼしき人が、たびたび壇上から『患者様に対して〜』など、患者ということばに様をつけて呼ばわっている。患者の人権を尊重しようとして丁寧に呼ぼうとする姿勢であろうが、僕はどうも、この言葉が素直に受け入れられないのである。何か違和感を持ってしまう。

患者という言葉の意味を辞書で引くと「病気やけがの治療を受ける人。医師の側からいう語。クランケ。」「病人」などと記述されている。

また患者という言葉を分解すると、患(わずら)う者、という意味の何ものでもなく、まさに「病人、病者」を表わす言葉であろう。

そうすると、意味に様をつけると「病人様」であり、これはいかにも滑稽で、日常語としてはそぐわない。

また時として患者という言葉は、医療機関での人権を考える場などでは、この漢字を分解して読み「心を串刺しにされたもの」と否定的な意味で捉えられることがある。

患者という言葉自体、あまりイメージが良い言葉とはいえないと思うし、本人にとって嬉しい呼称ではないはずで、大辞林にははっきり「医師の側からいう語」とされていることでもわかるとおり、自分を「僕は患者の○○です」という言葉自体がおかしなものなのである。

だからこの患者という言葉に、様をつけたからといって決して「尊称」とは呼べないと思う。この野郎様、と呼ぶのと似たようなものではないだろうか。

医療現場で、治療を必要とする人々の尊厳を守るための言葉の改革という意味であれば、患者という呼称自体を見直したほうが良いのではないかと感じている。

長く使ってきた患者という言葉はなかなか捨てられないし、新しい呼称ができても浸透なんてしないよ、なんて言われるかもしれないが、そうした心配はほとんど必要ないだろう。日本人の順応性は高いのである。

それが証拠に、痴呆症から認知症への呼称変更など、あっという間に社会全体に浸透したではないか。今、小学生でも認知症という言葉を口にする。看護婦って言葉だって、いつの間にか看護師に変わって、すっかり浸透しているではないか。

患者という言葉も捨てる気になれば、いがいと早く捨て去れるのではないだろうか。それに変わる何か良い言葉はないだろうか。

パブリックコメントで募集すれば、ユニークなものも含めて良いアイディアが出てくるのではないだろうか。

いや、それより表の掲示板で新呼称募集のスレッドでも立てるのも面白いかもしれない。

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検証〜後期高齢者医療保険制度の創設

高齢者医療制度の大改革が行われ、来年4月から新たな制度がスタートする。もちろん2008年4月に施行される「後期高齢者の医療の確保に関する法律」により実施される『後期高齢者医療保険制度』のことである。

しかし一般国民レベルで、この制度創設に関する関心は薄い。というより、そういう新たな医療保険制度が創設されること自体知らない人が多い。当事者たる後期高齢者に属する人々の理解はさらに低い。

この制度は、現行の医療保険制度から75歳以上の高齢者を切り離して、まったく別個な保険料負担と給付のルールに基づく医療制度を創る、という意味ではないだろうか。

そして、その本質は後期高齢者をターゲットにした新たな国民負担と、医療の給付制限に思えてならない。それは僕の誤解なのだろうか。僕自身、新制度の全容を完全に理解しているわけではないのだが、これから勉強していかねばならないという点も考えて、今日は、この制度の概要を以下にまとめてみたい。

理解不足や間違いがあればコメントなどで指摘していただきたい。

後期高齢者医療保険制度で現在決定しているのは次の通りである。

1.75歳以上の後期高齢者を対象にする。
2.保険者は全市町村が加入する都道府県単位の広域連合とする。
3.都道府県ごとに別個の診療報酬(特例診療報酬)を認める。
4.給付財源(患者1割負担分を除く)は、公費約5割、後期高齢者支援金(若年者から徴収している保険料)約4割、後期高齢者の保険料1割とする。

最後の項目の「後期高齢者の保険料1割」はまさに新たな国民負担部分である。この制度は75歳以上の後期高齢者が強制加入させられるものだから、全ての75歳以上の国民は保険料の新たな支払い義務が生じ、月額15.000円以上の年金をもらっている方々は年金から保険料が天引きされる仕組みになっている。

保険料額は、今後、条例で都道府県ごとに決められるが、試算によると全国平均で年額72.000円(月額6.000円)となっている。これに現行の介護保険料(全国平均4.090円)を合算すると毎月10.000円が天引きされる計算になる。

高齢者医療費支払い実績が高い北海道はもっと負担が大きくなるだろう。

要介護者や患者の負担増を押さえる為に、介護と医療の支払い上限額を決め、それを超えた分は「高額医療・介護合算療養費」として償還払いするというが、それでも負担増は大きい。

また診療報酬の支払いについて、詳細は決まっていないが、国が現時点で示している考えは、主な疾患や治療方法ごとに通院、入院ともに包括定額制を導入するというものである。

この考えに基づけば、例えば、高血圧外来では、検査、注射、投薬など全てを含めて月いくら、という定額制になる。

ところが国保連では「かかりつけ医」の診療報酬体系を導入して、医療機関に対しては「登録された後期高齢者の人数に応じた定額報酬」、患者の側からみれば「登録された医療機関へのフリーアクセスでの治療」という考えも示されている。どうもこれはわかりにくく実現可能性は低いだろうが、今後の議論の推移には注目せねばならない。

こう考えてくると、この制度創設は高齢者の健康を守るためではなく、やはり医療費抑制策である。政府も、もっときちんとした形で国民に後期高齢者医療保険制度の創設について情報提供する義務があるだろうと思うが、その点は、いつもの事ながらお粗末で、故意に必要な情報が流されていない節がある。

わが国の社会保障水準はGDPベースで見ると、先進諸国に比べ低水準で社会保障分野では既に「小さな政府」が実現していることは専門家の間では周知の事実であるが、これはもうこの分野ではじっと耐えて春を待つ、という考えは通らないことがわかる。

どちらにしても、医療福祉分野はまだまだ氷河期に向かって歩みを止めないというのが現実だろう。

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医療機関が求める身元引き受け。

特養の利用者が、医療機関に入院する場合、多くのケースで身元引き受けが求められ、家族等がいない「身寄りのない方」の場合は、施設が医療機関側から身元保証を求められる場合がある。

指定介護老人福祉施設(特養)の場合は『入所者の入院後、概ね3カ月以内に退院することが見込まれる際は、入退院の手続きなどの適切な便宜を供与するとともに、概ね3月の入院の退院後に再び当該施設に円滑に入所することができるようにしなければならない』と基準省令で定められている。

しかしだからといって施設が医療機関に対する関係で身元保証人になるべき義務自体はない。

また身元保証人がいないという理由だけで医療機関が本人に対する診療を拒むこともできない。施設としては緊急の医療と同様に、身元保証人の有無にかかわらず医学上の見地から本人にとって最善の措置をとるように求めるのが本来的対応といえるであろう。

しかし医療機関から身元保証を求められる実際の現場においては、それでは解決が図れない問題が多々ある。

医療機関との円滑な連携関係を維持すべきことを考慮すればなおさら問題の根は深い。円滑な関係を保って地域で相互連携を図るには法律論や建前だけでは解決できない様々な問題があるのだ。

この問題にしても法律論や、職業倫理の問題だけを杓子定規に論じても、医療機関との関係を悪化させるだけの結果になるやもしれない。

その場合、施設の判断で身元保証人になることは法的には特に問題はないと考えられている。

むしろ、身寄りのない方については、入院中の様々な利用者への対応や、医療機関が行う退院時の指導には施設が協力しているのが通常で、施設が身元保証を行なっているのと実際上はほとんど変わりがなく、やむを得ずはじめから施設が身元を引き受けても実際上の不都合は少ないという考え方も成り立つ。

ただし長期入院後の退院の際に必ず施設が、利用者を受け入れるという契約内容は同意ができないし、あくまで退院後の居所探しに協力する、という程度の同意しかできないであろう。

またこの問題に関していえば、身寄りのない本人が後見開始の審判を受けている場合に成年後見人が身元保証人を引き受けることがあると思われるが、やはり成年後見人には身元保証する義務自体はないものである。保佐人、補助人、任意後見についても同様である。

そう考えたとき、このような問題は、身寄りのない方が安心して暮らせる社会の問題として地域全体、いや国民的議論として論じられていくべきである。

適切な医療や介護サービスを受け得るためのコミュニティーワークとして関係機関の相互協力による援助が必要であるという観点から、まず各地域の医療関係者、福祉・介護関係者の間でこの問題も論じられていかないと、行き場のない高齢者や必要な医療が受けられない人々が社会の様々な場所で潜在化する恐れがあるのではないだろうか。

少子高齢社会がこれだけ進行しているのだから、直接的な身元を保証してくれる家族のいない高齢者も増えると考えられ、今以上に、この問題は深刻となると思える。

介護・福祉情報掲示板(表板)

医療機関が求める手術同意書。

医療機関に入院して手術が必要な場合、現況としてはほとんどの場合、手術同意書が必要とされる。この手術の同意書とはどのような意味があるんだろう。

もちろん不必要な手術は行わなくて済むように、事前に手術の必要性を患者に説明し、手術しなくて良い方法とともに情報提供することで、患者に選択権を与えるという意味もあるだろう。

しかし場合によっては「手術の結果責任を問われない」という意味で同意書が求められている感がある。だが、それは間違いだろう。つまり同意書には医療機関の医療過誤などの責任を免れさせる効力はない、というのが現時点での法的解釈であり、結果責任と同意書は別問題であるとされている。

また何らかの原因で本人が同意できない場合に、家族が替わって同意するケースがある。家族に同意権があるか否か、という部分も不透明さが残っている部分であろう。

しかこのことについて、施設入所者の場合であって、身寄りがない方について、医療機関から施設側に同意を求められた場合はどう考えたらよいのだろうか。

当然のことながら、介護施設という「機関」にも、施設長という「責任者」にも、他人の手術や医療行為等の医療侵襲行為に対する同意権はない。つまりいくら医療機関が施設側に医療侵襲行為の同意を求めたとしても、施設側はそれに対する同意はできないのが本来である。

その場合、例えば緊急対応が必要なケースは、施設側としては医療機関に対し医学的見地からもっとも必要な対応をお願いする、という方法しかとれないのが本当のところである。

しかしその場合でもあくまで医療機関が「同意のない手術等はできない」という姿勢を崩さない場合どうしたらよいのか。(そういう姿勢が許されるのか否かという問題は別途論じられなければならないし、本来、許されないこととは思うが)

これは施設側としては緊急避難的対応として手術同意を替わって行なう場合があるケースが多数報告されている。

だが、施設側が緊急避難的に同意書にサインしたとしても、それは法的には無意味で効力がないとされている。医療機関のリスク回避にはならないし、その行為自体は施設側に責任は問われない可能性が高い緊急避難行為であり、医療機関側に責任が生ずる可能性がある。

身寄りのない方で成年後見人が選任されている場合も同様で、成年後見人にも医療侵襲行為に対する同意権までは与えられていないというのが現況の解釈であり、同様の問題が生ずるのである。

もちろん成年後見人に医療侵襲同意を与えた方がよいという議論もあって、それは今後国民的議論として論じられていくべき問題であるが、現時点ではそこまでの同意権はないものである、というのが一般的な解釈である。

ここで一番の問題は、現行法においても、社会的なコンセンサスにおいても、本人に判断能力や意識がない場合に、医師は誰に対し説明し、誰から同意を得るべきかについては必ずしも明確にされていないという問題があることに気付くのである。当然、家族はこの同意権を付与されるべきであると思えるが、それさえも明確ではない。

しかしこの問題は、何も認知症の高齢者に限った問題ではなく、ほとんどの人が自分の問題として考えなければならない問題である。なぜなら交通事故などの急変で意識がない状態のほか、手術が必要な状態になる場面では、多くの人がその時点では意思表示ができない状態になっていると考えられるからである。

そうすると、この問題は誰が同意するか、誰が同意できるか、という問題にとどまらない。

つまり医療を受ける権利は他者による同意を伴なわなくとも、人の生きる権利とともに基本的人権として備わっているという解釈から、緊急性のある手術等の医療侵襲行為については、医学上の必要性から考えた最善の措置を行なう、という国民の共通理解が必要だし、医療機関がそうした見地から最善の方法を選択できる、という国民合意が必要になるのではないだろうか。

このことはもっと国民レベルで議論される必要があるのではないだろうか。

介護・福祉情報掲示板(表板)

リハビリ制限と、その緩和をめぐる迷走。

表の掲示板でも話題になっているが医療保険のリハビリ制限と、その緩和をめぐる問題で混乱が生じている。
(表の掲示板「医療保険と介護保険の給付調整が一部改正されています」を参照されたい。)

この問題の発端は、昨年4月の診療報酬改訂におけるリハビリテーションの給付制限である。つまり診療報酬改定によって、失語症などの一部の特定疾患を除き、90〜180日の日数制限が設けられ、脳卒中後遺症を持つ方などが、以後は医療保険のリハビリの対象から外されてしまったことに由来している。

その理由は「長期にわたって効果が明らかではないリハビリが行われている」という国側の論理によって生まれたルールだ。そして医療機関のリハビリの算定外となった対象者については「維持期」のリハビリテーションとして介護保険の通所リハビリや訪問リハビリを受けることが方針として打ち出されたわけである。

しかしこの制限が開始された当初から、医療機関やリハビリ通院の対象者からは「打ち切り」に対し、大きな不満と悲痛な叫びが沸き起こっていた。

介護保険のリハビリに移行するといっても、そもそも介護保険の対象にならない40歳未満の人を救済できないこと、介護保険のリハビリでは充分な必要な個別リハビリが受けられないことなどから状態が悪化してしまう、という声も出されていた。

これに対し、厚生労働省は昨年12月に「医療保険及び介護保険におけるリハビリテーションの見直し及び連携の強化について」という通知を出し、あらためて医療保険のリハビリ制限の正当性を主張し、円滑な介護保険のリハビリに移行することで、対応は充分だという見解を示し、医療機関から介護サービス事業所等へ適切な情報提供と、サービス移行を行うように指導している。

この通知に対して医療現場からは、

 峙詆嫺数制限の撤廃」を求める患者、国民の声、マスコミの批判を全く無視し、行政としての責任を回避して、その責任を保険医や現場に押し付けるものである。

維持期リハビリテーションを医療保険から排除する姿勢になんら変わりなく、なんら改善は行われていない。

F数制限によって医療現場でおきている「医療が必要なのに医療保険では給付されない」という医療保険制度の根幹に関わる大問題は、なんら解決しない。

という指摘がされていた。

この問題の本質を考えたとき、40歳未満の介護保険非対象者の問題を別にしても、上記の通知で示された国の「維持期のリハビリは介護保険で充分対応可能」という考え方自体に無理があるのではないかと思える。

少なくとも通所リハビリの現状をみれば、療法士の配置は0.2でも基準違反ではない。つまりリハビリマネージメントや短期集中リハビリ等の「個別リハビリ」対象者以外のリハビリやその他の生活支援行為のみでサービスが完結している利用者も多いという意味である。通所サービスの目的が、引きこもりの防止や心身活性化機能があることは当然で、個別リハビリ以外のサービスにも費用をかけている、という実態がある。

つまり維持期のリハビリで医療保険に変わる介護保険のリハビリは、少なくとも「個別リハビリ」が行なわれている人に限ると見るほうが正しい見方ではないか。

しかし通所リハビリや訪問リハビリも支給限度額内のサービスであることを考えると、居宅で生活している人には、リハビリ以外にも入浴等の生活援助の支援が必要なんだから、この限度額内で行なえるリハビリテーションには限度があり、当然必要な個別リハビリテーションを十分提供するには介護保険の支給限度額に何らかの上乗せ部分があってしかるべきであるのに、こうした議論がないまま単に給付費抑制策として制限された問題が、さまざまひずみを生み出し、新たなる「生活障害要因」になってしまったという実態があるのだろう。

そうした現状からの不満の声の高まり、業界団体の圧力、その他、国会での政治的な動きも含めて、このリハビリ制限ルールの見直しが4月から行われることになり、日数制限を超えてリハビリが可能になる特定疾患に狭心症などを加えたほか、特定疾患以外でも、「医師が必要と認めた場合」にリハビリを延長する特別措置を講じた。さらに、維持期の患者向けに、月2回を上限とする「リハビリテーション医学管理料」を診療報酬に新設し、「介護保険の受け皿は不十分」との批判にこたえた内容に変更した。(参照:疾患別リハビリテーション料対象患者表

しかし医療費の総額を変えられないところから、日数制限を緩和した分、リハビリテーションに関わる診療報酬を同時に引き下げたわけであるが、加えて今回の「診療報酬の算定方法の制定等に伴う実施上の留意事項について」等の一部改正について(保医発第0330001号)の中で「医療保険と介護保険の給付調整に関する留意事項及び医療保険と介護保険の相互に関する事項等について。」の一部改正について」を示し、
突然のように4月から、「医療保険における疾患別リハビリテーションを実施後、介護保険におけるリハビリテーションに移行した場合は、手術、急性増悪等により医療保険における疾患別リハビリテーション料を算定する患者に該当することとなった場合を除いて医療保険における疾患別リハビリテーション料は算定できない」
「同一の疾患等について、介護保険におけるリハビリテーションを行った月においては、医療保険における心大血管疾患リハビリテーション医学管理料、脳血管疾患等リハビリテーション医学管理料、運動器リハビリテーション医学管理料又は呼吸器リハビリテーション医学管理料は算定できない。」

というルールが示されたわけである。

つまり同一疾患について、介護保険のリハビリ(通所リハビリ、訪問リハビリ)を行いながら、医療保険の外来リハビリを行なうことは介護保険と医療保険の2重給付になるから、これはまかりならん。介護サービスとしてのリハビリテーションを受けているなら外来リハビリは算定対象とはしない、というルールである。

しかしこの通知の発出日が3/30日で、適用が4月からというのは、あまりにも周知期間が無さ過ぎる。ほとんどの関係者がこのことを充分に把握理解できていない。

こうした状況で、どんな問題が起こるかと考えると、医療機関で外来リハビリを受けている方の担当ケアマネが、その医療機関の医師ではない別の医師の情報提供を元に、居宅介護計画に通所リハビリ等を位置づけてしまって、外来診療でリハビリに通っている医療機関に連絡が無いまま、その外来リハビリを続けていると医療保険の算定外で返戻になってしまう。

そうではなくても医療機関への周知度も低いので、このルールを理解していない医師が、通所リハビリへ通うことを認めた利用者の外来通院もそのまま行わせている、というケースだって考えられないことはない。

医療機関は疾患別リハビリテーション料を算定し、通所リハビリ事業所は介護保険の通所リハビリ費を介護給付費として算定しているケースも出てくるだろう。医療保険と介護保険の請求の突合は充分でないだろうから、その時は支払われても、後に疾患別リハビリテーション料は返還指導がされる可能性が高い。

そのとき利用者の自己負担を求められたり、計画した担当ケアマネにクレームが出ることも考えられ、これは大きな問題と思える。そういう問題があること自体、知らない関係者が多いのが現状だ。

この通知を現時点で「知らない、見ていない」という関係者が多いことも問題だが、それはあまりに突然、周知期間もなく出された通知文書であるという証拠で、国の責任は重いと思う。

介護・福祉情報掲示板(表板)

迷走。〜地域の医療・保健・福祉は守られるのか

少し畑違いで専門知識には欠ける問題であるが、1市民として心配な問題を今日は取り上げてみたい。

福岡の特養で生活されている女性が長寿世界1になったというニュースを見た。114歳とは確かにすごいが、100歳を超える人は珍しくなくなって当施設にも3人の100歳の方がおられる。

日本人の寿命が伸びた要因も様々だが、なんといってもほとんどの地域で必要な医療を受けられるということが大きな要因であろう。しかし今、地方医療や保健・福祉の崩壊が始まっているように思えてならない。

介護保険制度は「走りながら考える」と言われているが、介護保険制度だけでなく、医療保険制度の改訂も走りながら考えられているような状況に思えてならない。

国民の医療、保健、福祉に関する大事な制度に正確な設計図がなく迷走しているのではないか、そして結果として地域で不利益を被るのは国民自身であり、そうした不利益や生活障害が生じて始めて手当を講じようという「後追い」の施策になっているのではないかと感じることが多くなってきたように思う。

介護療養型医療施設の廃止は24年3月がタイムリミットであり、医療の療養型も15万床に削減されていくが、実際には今地域で、その方針とは別次元で療養病床が減っていく現象が起きている。

これは医師不足という問題とともに、昨年の診療報酬改定で7:1の看護基準の加算が診療報酬に設けられたことにより、看護師を厚く配置したほうが収益率が良くなる医療機関が増えたため、看護師の大量雇用という現象がおき、大都市などを中心とした都市部に看護師が流れ、地域によって看護師が配置できない医療機関が増えていることに起因した問題である。必要な人員を配置できないから病棟、病床数を削減する、という対応しかできない医療機関が各地で続出している。

しかしこれは療養型の廃止に際し、転換施設がある、という代替施設の整備がすすむ状況を前提にした病床削減ではなく、その状況以前に生まれている問題で「行き場のいない高齢者」が既に生まれつつある現状は非常に問題の根が深い。

こうしたとき、地域の介護問題の中心的役割を果たすべき地域包括支援センターは、予防プランの作成で介護問題のセーフティネット機能に手が回らない、という状況もある。

そうした状況下、看護師の1極集中問題を深刻に(今更であるが)受け止めた国は、7:1の加算を、救急時の医療や手術の前後など、看護の必要度の高い治療を行う施設に限定する方針を固め08年4月から実施するとしている。

しかし一旦雇用した看護師を、この加算がなくなったからといって医療機関は即、解雇するわけにもいかないだろう。今、この加算を算定していない医療機関は雇用を見送るという意味にはなるんだろうが、地方都市での看護職員の不足は医療機関だけでなく、訪問看護事業や他の介護保険施設の職員確保にも影響が出てきている。今、困っている問題の特効薬はないのが現状だ。

走りながら名案が浮かんで即応できれば良いが、迷走のまま、後追いで制度を修正していくことで良いのだろうか。看護師の問題にしても、必要な人員配置で質を高める、という考えを否定はしないが、基盤があるのか、という考察があってしかるべきではないか。

医師不足の問題にしても、複合的要因があるものの、研修医制度で医師の確保が難しい(過去のように研修医時代に医師としてのアルバイト勤務が禁じられたから)という理由で地方都市から派遣医師を引き上げる大学病院が多い現実をみると、現場の医療や福祉のサービスのあり方と、それを支える人材育成等の基盤整備のミスマッチが原因の一つではないかと考えさせられる。

ここの手当はできないものだろうか。

ともかく今、過疎地域ではない、地方都市でも医療や保健・福祉サービスは崩壊の危機に直面しつつある。北海道は特に深刻で、今後もこれは大問題である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

医療行為については、何度も主張しているが…。

最近の話であるが、とある施設(特養ではない)の管理者の方とお話した際「家族ができるインシュリン注射を介護職員ができないという理由で、入所できない人がいて、行き場のない人がいる。こんなことは問題で、私は看護師がすべてできなくても受け入れている」ということを聞かされてことがある。

僕はそれは少し違うし、問題があると思って、反対意見を述べた。インシュリン注射を介護職員ができないことでひき起こる問題を、いつまでも放置できないのはその通りと思うが、だから現状で、それを行ってよいという判断も違うと思うのだ。ただし問題解決に向け提言はしていかねばならないと思う。そういう意味で、少し長くなるが医療行為について、またここで意見を述べさせてもらう。

僕は施設での医行為について、コンプライアンスの視点が重要で、経管栄養の管の交換の問題も過去のブログ「介護職員が腹部カテーテル挿入〜その問題の本質。」の中で、問題と指摘された施設の管理者の「意識が低すぎる」とわきの甘さを指摘している。

しかしそれは、問題とされた行為自体を介護職員が行うのは将来的にも駄目である、という意味ではない。

現行のルールの中で、介護職員には出来ない行為に該当するとされる可能性が高いのに「誰でもできるだろう、完全に黒とされているんではないだろう」という意識で、その行為を日常化する状況は、正当な「介護職員が出来る行為を拡大してほしい」という主張にまで水を指す。と言っているに過ぎない。

むしろグレーゾーンが未だにあることも問題であるし、もっと介護職員ができる行為を広く認めて欲しいと思っている。

腹部カテーテル挿入問題について、それを行なっていた施設は「国は管の装着が医療行為に当たるか否かは明確にしているわけではない」と主張してたが、その後、「胃ろうや鼻腔チューブからの栄養・水分補給については、医行為に該当する。」とあらためて指導通知が出されたが、僕はこの通知で示された判断自体をも正しいと思っているわけではない。

これが現行法上は医行為に該当し介護職員に禁じられている行為である、という現実認識は正しい。しかしそれが妥当な判断で必要な法制上のルールであるとまでは思わない。

管の装着といっても、体に直接ついている部分は医療行為として医師や指示を受けた看護師しかできないということは納得するが、栄養剤と繋がっている部分の管まで、これと同じ取り扱いということには納得はできない。しかし今は認められていないのであるから「できるようにすべきである」という主張は別にするとして、守るべきことは守った上で提言をすべきではないかという意味である。

過去に僕は
「医療行為は有資格者以外がそれを生業として行うことは出来ない。しかし同時に医療行為そのものの具体的内容を明示したものが存在しないのも事実である。それゆえ介護の現場では介護職が行ってよい行為であるのか判断がつかず、混乱し、看護職と介護職の対立にまで発展するケースも少なくない。湿布や軟膏塗布、点眼はどうかから始まり、爪切りや耳掃除まで議論の俎上に上っているのが現実なのである。こんなことで本当の意味で介護職が適切なケアサービスを行えるのだろうか。」と主張した。

その一つの答としては「医師法第17条、歯科医師法第17条及び保健師助産師看護師法第31条の解釈について(通知)」で爪切りや耳掃除、口腔ケアなどは医行為に該当しないと示されたところであるが、しかしこの通知で示された行為はあまりにも狭すぎる。

医師でもある坂口元厚生労働大臣は在任中に「血圧測定もその結果の評価は医行為であるが、測定自体は誰でもできる行為である」と言っていたが、この通知では自動血圧測定器での測定のみが掲載されており、それでは水銀血圧計は駄目なのか、というふうに理解せねばならないような部分もある。考え方を後退させてどうするのか?

一方では在宅において医療器具を装着して生活しているたくさんの高齢者がおり、これらの方々の実際の生活を支えているのは家族の介護があってである。家族の行う医療行為は、生業とならないことで認められるのである。それらの方々が特養に入所した途端、家族が行っていた同じ行為が介護職には許されないのが現実なのである。

痰の吸引の例も然り。一定条件下において認められたヘルパー等介護職の痰の吸引も介護業務として認められたわけではない。つまり業務上の行為としては今もって認められておらず、業務とは別な行為として行える、という解釈に過ぎない。

さらにインシュリンの自己注射が出来ない方に対しては同居家族が代わって行えるが、介護職には認められていない、そのため看護師の配置体制によってはインシュリン注射が必要であるが自己注射が出来ないという理由だけでそれらの方を受け入れることが出来ない施設も存在する。これは果たして高齢社会の介護提供体制として正常な状態なのであろうか。

例えばALSの方の痰の吸引は、口腔内だけでなく人工呼吸器をつけた喉の部分も含み技術を要すため、介護職が行うといっても技術をきちんと持たないとできないし、そのための一定の教育やセーフティネットの構築が不可欠だが、そうした非常に技術がいる行為も条件付とはいえ業務ではない部分では有資格者でなくとも認めておいて、その他の比較的容易に行える行為を単に「医療行為」という枠だけで認めないことは介護の現場である施設等の医療ニーズの高い高齢者受入の障害になるであろうし国民全体の福祉を考えた時そのニーズに合致したものでないことは明白である。

この問題を積み残したままで「介護の社会化」という介護保険以後の国の福祉理念は達成できないし在宅と施設での介護者の出来る範囲が違っていては地域福祉の両輪である在宅ケアと施設ケアの整合性がとれず在宅でケアできた高齢者が医療行為がネックになり施設ケアに移行できない矛盾が解決できない。

介護療養型医療施設が廃止され、それらの施設が転換可能施設に移行したとき、転換施設の多くが夜勤に看護師がいなくても可能な施設であり、重度の医療ニーズにそれらの施設でも対応できないという問題がでてくる。

高齢化が進行し後期高齢者が増え、医療対応のニーズは拡大しつづける。それら増大するニーズに看護師のみで対応するのは不可能であり、国は医療行為の範囲を具体的に明示する努力を行うとともに、医療行為とて時代のニーズに合わせて考えを変えてよく、条件付で結構であるが介護職の出来る行為を広げ必要な高齢社会のニーズに応える必要がある。

これは特定の職種の職益を守るという視点を凌駕した医療ニーズを抱えて生活する人々が安心して生活できる社会システムを構築することであり、特養等の権益を拡大することではなく、高齢者介護の社会システムの一翼を特養等の施設が担える条件整備に不可欠な課題なのである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

医行為について2〜家族にできて介護職ができないという矛盾

昨日のブログに対して、看護師の方からコメントを頂いた。有難うございます。

さてそのコメントの中で紹介していただいた「痰の吸引行為拡大」に対しての議論について興味深く読ませていただいた。そこで感じたことを昨日の続きとして書かせていただく。

我々が主張している介護職員ができる行為の拡大とは、何も看護師と介護職員ができる行為を「同じくせよ」というものではない。

あくまで今考えられている医行為を見直して、介護職員のできる行為の範囲を拡大してほしいというものであり、具体的には現在「業(なりわい)」ではないから認められるとされている「家族が行っている行為」については介護職員も同様に「可能」とすべきである、という主張である。

いくら「業」 ではないから家族に認めているとはいっても、特別な技術を習得した専門職が行わねば生命の危険がある行為まで家族に渡しているとは考えられない。

ある程度、技術指導して、訓練すれば「家族にもできる行為」であると判断しているから「可能」としているはずであるし、事実そうである。

インシュリンの注射にしても、まったく技術がいらないとはいわないが、そんなに時間を要さずに技術指導して、注意事項を理解していただければ可能になる行為だから、家族に渡している。

痰の吸引は、それに比べて技術的には難しいことは理解しているが、それとて過去においても「家族は可」 とされ、実際に家族に対する痰の吸引の技術指導を行って患者を自宅復帰させていた医療機関も多いはずだ。

ところが、いざこの問題を議論する段階になると日本看護協会はじめ現場の看護師もこぞって技術取得は専門職以外には困難で危険性があり安全性が確保できないから認められない、と主張する。

昨日のコメントで紹介いただいた議論の中でも、看護師の有資格者が次のように発言している。

「看護師の資格を持っていても下手な人はいるのですから、資格が無くても上手な人もいるわけですよ。だから、一概に言えませんけれども、1時間2時間教えてもらって吸引が出来る事ではないです。」

「訓練する場所はどこですか?病院で1時間2時間やったって出来ませんよ。出来ません、それは。」

そういうならなぜ、家族は出来るようになっているのか、それらのご家族に「訓練する場所はどこですか?」と逆に問いたいものだ。

実際は、家族には技術指導と訓練が、ごく短時間で行われ、実際の居宅で行われている行為なのである。

繰り返しになるが、その「家族が行える行為」「実際に家族が行っている行為」を介護職員にも拡大しましょうと主張しているに過ぎない。

そうしないと在宅で医療機器をつけたまま生活している何十満人の患者を誰が支援できるのか?家族しかできないなら家族は外出さえできない。介護職員ができないならショート利用も、施設入所もできない。

訪問看護師はわずか3万人強しかいないではないか。責任も果たせないのに馬鹿な主張はやめろ。

人を幸福にするのが看護や介護の目的ではないか。そのためには世の中のニーズや社会情勢の変化に応じてシステムの変換が必要だ。

既得権と前例主義に固執する姿勢では、人の幸福は作り出せない。作り出したとしても、その背後に累々とした屍が横たわり、それを踏みつけて、踏みつけたことに気づいて、そのときやっと改革の必要性に気づくというのか?

日本看護協会のこの問題に対する態度は、日露戦争の旅順攻撃における二百三高地で無意味に死者を生産し続けた第3軍の乃木司令部と同じ態度に思えてならない。

昨日から今日のブログにコメントをしているMKなる人物は、再三、自己中心的な中傷のコメントを繰り返しているが(あまりに感情的なので削除しています)、これこそ第三軍の癌といわれた伊知地参謀長と同じである。

介護・福祉情報掲示板(表板)

介護職員のできる行為の拡大が必要〜医行為について

介護保険施行時、旧総務庁の勧告に「医療行為の中にはヘルパーが行っても利用者の身体に危害を及ぼすおそれのない行為が少なくない。その処置のために訪問看護を利用するのは、ステーションが相当数整備されたとしても対応が困難とみられるほか、コスト面からみても合理的とは言えず、身体介護を行うヘルパーができる限り幅広く行えるようにすることが望ましい」というの表現があった。

まさにその通りで、高齢社会が進行し、後期高齢者が増え、医療的対応はおのずから増えている、それらの方々にも在宅ケアは必要だし、施設の職員配置を考えてもすべて看護師で対応できると考えるほうが間違いである。

在宅ケアの担い手は看護と介護の2つの職種なのだし、医療行為とて生き物で、時代のニーズと、流れの中で柔軟に考えるのが国民ニーズである。

しかし制度施行時には某ネット掲示板で、点眼が「医療行為」であるから介護職員はできない行為だと議論され、訪問介護での点眼を断る事業所が続出し、点眼支援がされない利用者が続出した地域さえある。

その後、ALS(筋委縮と筋力低下が特徴的な進行性の難病)の方々に対する痰の吸引問題が議論され、すべての患者さんを支援する為には介護職員の「痰の吸引」が不可欠とされ、一定条件下でそれが認められ(2003年7月から)そして、その行為はALSの方以外にも拡大された(2005年3月)

しかしこの議論の中で、介護職員の「できる行為」の拡大の最大の抵抗勢力は日本看護協会であった。

しかもこの問題が話し合われた部会で、介護職員による痰の吸引を必要として、それを認めることを訴える多くのALS患者の方々が見守る中、同協会は一貫して「吸引行為は危険で、ヘルパーには認められない」と主張した。

そして、その部会の傍聴席で、車いすのALS患者が、ボランティアの学生らに何度も吸引してもらっているという皮肉な光景が見られていたが、同協会はそれさえも無視していた。

その後、痰の吸引が認めれた後、同協会が主張する「憂慮される事態」が起こったのか。そんなことはない。仮に、今後事故が起こったとしても、この緩和措置で救われた多くの患者さんの実情をみれば、この方向は正しかった。

自己の職益を守ることに終始し、本当に困っている社会的弱者に目を向けなかった職能団体よ「恥を知れ」!!

その後、介護職員にできる行為は「歯科医師法第17条及び保健師助産師看護師法第31条の解釈について(通知)」でも具体的に示された。

しかしその内容は、まだ不十分だ。例えば「市販の浣腸器を用いて浣腸すること」が介護職員にも認められているのに、摘便が認められたことにならない、というのもおかしな話だ。

インシュリン注射も、自己注射できない人に対し、家族は「医行為」でないから行うことができるのに、介護施設の職員がそれを行えば違法である。

しかし家族が行うことができる程度の技術でできる行為は、介護施設で介護職員が行えるようにすべきである。医師の支援体制や看護職員の配置もあるのだから、家庭で行うよりよっぽど近況対応の体制がある。

インシュリンの自己注射ができないだけで、ショート利用や施設入所に支障を来たすような事態があってはおかしい。これは施設の看護職員の配置で改善できる問題ではない。費用対効果を考えても基準の緩和で充分、たくさんの「国民」が利益を受けることができるものだ。

重度化対応やターミナルケアの実施が求められている今日、そして医学や医療の発達で医療機器を装着しながら生活している高齢者が増大する今日、昨日までの社会ニーズと明日からの社会ニーズも違うのだ。

超高齢化社会に、融通の利かない職能団体を冠にする一部の専門職だけで「豊かな日本」は作れるわけがない。

AEDも一般市民が使えるようになり、実際に救命効果がでている。

本当の国民の福祉を実現する為にも坂口元厚生労働大臣が過去に発言したことの実現が求められる。

その言葉とは「介護のいわゆる介護士さんの皆さん方も非常に訓練を積んで、そしていろいろなことを出来るようになってまいっておりますから、そうした皆さん方に対して出来ることはお渡しをしていくということにしないといけないというふうに思っております。医師でなければ出来ない、看護師でなければ出来ないということではないと私は思っております。したがってもう少しそこは段階的に拡大をしていくということでなければいけないというふうに思います。いつかも申し上げましたように、初めは血圧を計ることすら抵抗がございまして、それをやることは医師法違反だといったような意見も最初はあったわけでございますから、最近は機械も発達をいたしましたけれども、個人が計ろうと、あるいはまた看護師さんが計ろうと、もう保健師さんはもちろんでございますけれども、あらゆる人が計っているわけでありまして、私は出来ることはみんながやれるようにしていけばいいというふうに思います。ただその結果の判断というものについては、それは専門的な知識が必要でございますから、そこは専門家にお任せをするということでよろしいのではないかというふうに思っております。」

このことが広く実現される社会を使っていく必要がある。

介護・福祉情報掲示板(表板)

問われる延命治療の是非

1昨日から昨日にかけて、「人の命」に関わる2つの新聞報道があった。

「赤ちゃんの延命中止・治療より看取り」

「終末期患者延命施さず〜」

この2つの記事を見ていただきたい。

どちらも医療現場における、延命治療の是非について「本人の意思の意確認ができない場合」に家族の同意で延命治療を行わない、あるいは中止することが「生命の切捨て」に繋がりかねないのではないかという問題と共に、その是非が問われている。

命は確かに尊い。そして「生きる」ことはそのこと自体が尊重され、敬われるべきであり、すばらしいことであることを忘れてはならない。

しかし医学と医療の発達は、人類が今まで想定したことのない状況での「生」をも作り出している。

近い将来の「死」が確実視される状況で、ある期間の延命処置を行うことの意味が問われている。

場合によっては、その期間、死の時期を延ばすことにみに重点が置かれ、苦しみの時期を延ばしているだけだったのではないのか、という疑問がある。

しかし、これに対する正確な答を出すことは無理である。人の生に対する価値観、生きる意志、生きたい状況、その瞬間の思いは、すべて個別的な判断で他人が介入する余地はない。

しかし意思表示が不可能な方の延命治療を実行しないことや、その中断をすべて否定するのは、「事なかれ主義」に過ぎなくなる、という危険性もあるのだ。

誰か他人が判断しなければならない状況が「死」の状態まで看取る時期のケアには必ず生じる。だからそのとき、医師が「本人に代わる」家族の意思や希望を受け止め、そして現在の状況を判断し、過去の患者(又は利用者)の意思や生活状況から代弁者としての判断を行って、延命治療の是非を決定をすることは必要だと思う。

それは生を軽んずることでもなければ、切り捨てることでもないと思う。

しかしその判断や責任をすべて医師個人に負わせることはできない。だから新聞報道で言う「ルール作り」や「国が示す指針」が求められるのだろうが、しかしいくら国が指針を作り、一定のルールを定めても「治療より看取りのケアが必要」という状態と時期の判断は、それらで決めることは不可能だ。

この判断は最終的には、医師個人に負わされることになろうし、機関として責任を負うことになるだろう。

それは我々特養における看取り介護の場面でも同じである。

そのとき、我々は社会的責任として、日頃から「生」への尊重の教育に取り組むと共に、看取り介護が「死」の援助ではなく、「生きる」という姿を支えてきたという意味があり、その人らしい尊厳ある生き方の延長線上に「看取り」という時期があるという意味を噛みしめ、その人らしい生き方を真剣に考えながら判断する、という姿勢を忘れてはならない。

そして、その上での決定過程を尊重できる社会的なコンセンサスを作っていけるようなアクションも必要になると思う。マスコミも本人の意思確認ができない場合の延命治療の否定を単に「生の切捨て」などと批判するだけでなく、自分が「死」に向かい合うとき、自分の家族が「死」に向かい合うときに置き換えて、機関や医師に何を求めたいかを問うていただきたい。

本当に「どんな状況でも」できるだけ長い時間心臓が鼓動していることが求められる生き方なのだろうか。

僕にはわからないことも、解決できないことも残っている。しかし、そうした悩みを抱えながら現場では、ぎりぎりの判断をおこなっているのであり、決して安易な「生の切捨て」ではないことを理解してもらいたい。

いずれ、2つの新聞記事の指摘事項と同じことが、特養の「看取り介護」の判断場面でも問題として取り上げられることは間違いない。そのときその問いに充分答えられるだけの取組が真摯にされているかが問題となるだろう。

ただひとつ声を大にして言いたい。

それは4月から「看取り介護加算」という報酬が算定されたからといって、それをもらうために安易な死を作り出すことなんてあり得ない、ということだ。わずか30日、48.000円で人の生命など語れない。

そういう誤解だけはしてほしくない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

生命の大切さを思う真摯な心。

つい最近問題となったニュースであるが、富山県の医療機関で医師が7人の患者の呼吸器を外して、死に繋がったことが大きく報道された時期がある。その後の経緯について僕は詳しくないが、大きな事件として取り上げられていないところを見ると、家族に対し説明同意をとっての尊厳死として認められる流れとなっているのであろうか?

このニュースを聞いたとき、最初に考えたことは、呼吸器を外したことは事件に繋がるケースとして大きな問題になるが、仮に同じような状態の方が何かの理由で最初から呼吸器を取り付ける救命処置がとられなかった場合は、このような大きな問題になっただろうか、という疑問である。

救急救命の体制がない地域だってたくさんあるだろうから、救命処置が行われず貴重な命が失われる、ということがまったくないとは思えない。

救命と延命に、その必要性や意味の違いはあるのだろうか。

富山の問題にしても、救命に必要であった呼吸器の装着が、いつの時期から尊厳死が問われる延命行為と変わっていったのか誰も明確な答を出すことはできないだろう。

仮に救命後に著しい脳障害が発覚し、意識がまったくなく、呼吸器で命を繋げている状態であることがその方自身にとって「人間として尊厳が問われる」として「死」を選択したほうが良い、という答になるのか、僕には自信がない。

だから尊厳死の問題は非常に複雑で難しい問題だと思う。少なくとも僕自身は答がみつけられない。

施設で行うターミナルケアにしても、医師が医学的見地から回復の見込みがない、と判断することが絶対条件であり、施設や家族が死の選択へ誘導することは許されないし、あり得ない。

ただ難しいのは、医療機関に入院するか施設で看取るか、という選択の判断の一部分に、尊厳を損なうような不必要な延命治療を行うか否か、という判断が必要な場合である。何をもって不必要で過剰な延命治療というのか、誰にも答は出せない。

生命が維持できる可能性があるなら、まずそちらを選択することが基本として考えられなければならないし、その前提には「命の尊さ」を思う視点が必要だし、生きていること自体が素晴らしいことだ、という前提がなければならないだろう。

しかし「延命の為だけに体中、管だらけになるのは嫌だ」という対象者自身の気持ちは充分わかる。あるいは、将来的にターミナルケアを実践していく過程で、この問題は大きくとリ挙げられていくかもしれない。

全国の施設の中では、意識レベルがかなり低く、経管栄養や点滴で生命を維持している方が数多くいるだろう。しかしそれを人間として尊厳のない状態というのは間違いだ。生きていることそのものに尊厳を求め、それを守る対応が必要だ。

ターミナルケアに係わる施設のみならず、人の生活支援に係わる人々は、いつか人に訪れるであろう「死」に対し、どう向かい合うのか、それ以前に、生命の尊さをいかに考え、真摯にそれを思うのか、それが重要である。

どうも今日は問題が複雑すぎて文章の内容も構成もめちゃめちゃであるし、論旨も不明瞭で結論も出せない。ただ言えることはターミナルケアを行うという前提には生命の尊さを思う心を忘れない、ということだろうと思う。

※明日から2日間、老施協の研修可の為、札幌にいます。ブログは週末は書く時間がないでしょう。月曜か日曜に、何かあったら報告としてブログに書くことがあるかもしれません。

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