masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

ネット・掲示板・ブログ

陽はまた昇る。

明日、大晦日も僕は通常業務についているが、ブログ記事は本日を今年の書き納めとしたい。新年はいつから記事更新するか決めていない。その決定は単に気分による。

今年も実にたくさんのブログ記事を書いてきた。平日は出張先などでブログを書けない環境に置かれている以外は、ほぼ毎日記事更新してきた。

様々な意見を書いてきたんだから、そのすべてが読者の皆さんに賛同を得ることはないだろう。中には、くだらないと感じる記事もあったろうし、僕の考え方に反対するだけではなく不快感を感じる人もいるだろう。

しかしこの場所は僕の本音を「歯に衣着せず」吐露するところだと考えているので今後も他人の顔色をうかがうような記事は書くつもりはないのでご了承いただきたい。記事更新を続けているという努力賞という意味で大目に見てほしい。

福祉サービス・介護サービスは誇りの持てる、喜びを感じることができる職業である反面、人間の生活や人生そのものに深く関わっているため、対象者の喜怒哀楽が支援者にも投影されてしまう場合があり、そのためにストレスがたまりやすい仕事でもある。

しかし我々のモチベーションは、利用者の笑顔によって維持され、人々の幸福感を高めることによってさらに高まる。

人が生きる過程で、誰かが自分を頼りにしてくれることほどの喜びはないはずだ。我々は福祉援助や介護サービスに携わっている限り、かならず誰かに頼られているのである。そのことは、我々が人としてこの世に「生かされている」意味でもある。そして頼ってくれる人が例え一人であったとしても、そのことに喜びを感ずる瞬間がきっとあるはずである。そのことを決して忘れないでほしい。

我々の前には様々な困難が常に横たわり、心が折れそうになる瞬間が常にある。しかしそれは誰しも同じなのである。自分だけが悩んでいるわけではないし、悩まぬ強い人間など世の中に存在しないと言ってよい。誰もが悩みや困難を乗り越えて、その向こう側に光をみることができるのである。

晴れない雨はなく、吹きやまない風はない。暗い夜の向こうには、日差しあふれる朝があり、厳しい冬の向こうには常に暖かな春の訪れがある。

暮れゆく2009年の向こう側に、新しい2010年の陽がまた昇る。

挫折しそうな思いをしている人も、勇気を出して、また一歩を踏み出そう。きっと光は全ての人をあまねく照らし、未来には笑顔が待っているはずだから。

ゆず「陽はまた昇る」(作詞・北川 悠仁)より
降りしきる雨の中分からなくなっていた 傘もささず立ちすくんでいたんだ
それでも君が僕を必要としてくれたから 僕は何度でも明日を信じてみるんだ どこまでも。

陽はまた昇る ゆず 歌詞情報 - goo 音楽

僕ら降り注ぐ新しい陽ざしは、どんな出会いや夢を僕らにもたらすのだろうか。2010年に希望を込めて、一緒に前を向こうではないか。

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批判と非難の違い。

僕は平日ほぼ毎日ブログを更新している。

しかもそれは一言コメントのような短い記事ではなく、主に福祉や介護に関連する話題についての小論文的文章を書いている。平均字数は1.900字〜2.000字で多い時には3.000字に及ぶこともある。

つまり平日は、ほぼ毎日400字詰め原稿用紙5枚程度の文章を書いていることになる。それを2005年11月9日からずっと続けているわけである。その原動力は当初は自分の書きたいという思いだけであったが、現在では読んでくれる方がいるということが一番の「動機づけ」である。

平日に限って言えば、ほぼ毎日2.000件程度のアクセスがある。これは1台のパソコン(というより同一の接続場所と表現するほうが正しいだろうか)から24時間以内にアクセスした数、いわゆるダブルカウントを計上しないカウント方式なので、ほぼアクセス実人員に近い数字である。しかもページビュー(実際に読まれるページの実数)は毎日5.000件もあるのだから力も入るというわけである。

もちろん更新記事の中には介護や福祉とは関係ないテーマ、例えば野球や食べ物、酒、友人や家族の話題も含まれているのであるが、9割以上は社会福祉に関するテーマであり、それは「介護・福祉情報裏板」というブログタイトルに期待して読んでくれている人が多いことを意識してのものである。(しかし、その他のテーマもわりと評判がよく、コメントも多く書かれているのも事実である。)

福祉や介護に関する話題をこのように毎日書き続けられる理由は、一つには高齢者福祉の分野で介護保険制度というものが10年前に出来たという理由が挙げられる。

介護保険制度の創設というものは、その意味としては戦後初の社会福祉制度の大改正という意味があり、GHQの占領下での政策として作り上げられた我が国の社会福祉制度の根幹が変えられ、社会保険方式を取り入れた介護保険制度の導入により新たな段階に入ったという大改革なのである。

そういう新制度ができて、わずか10年であるから、この若い制度にはまだまだ成熟していない議論の余地がある部分が多数存在し、同時にそのことは我々の先人達が論ずることができなかった領域で、誰も手をつけていない論点が多々存在するという、いわば「荒らされていない領域」「エビデンスが少ない領域」だから書くことがたくさんあるという理由が大きいだろう。

しかしだからといって毎日「のほほん」と何も考えずにテーマが浮かんでくるわけではない。

このブログを書くようになってから、僕の物事を考える視点の一つに必ず「このことは記事になるか」という部分があり、知らないうちにごく自然にそのことを考えるようになっている。新しい人との出会いや、珍しい物を食べた、というような時も「これ記事になるなあ」と考えてしまう自分がいて、我ながらそのことは少し嫌らしく感じるのである。

同時に、このブログを読んでくれている知人や関係者の方の中には「こんなこと記事にしないでくださいよ。」とおっしゃられる方もいる。口にしなくともそう考えている方も少なからず存在するんだろうと思うと、なんだか少し申し訳ない。しかし何でもかんでも記事にするわけではなく、個人的会話の中で終わるべき問題は基本的に記事にしないし、周囲の関係者が迷惑を被るということはできるだけ避けている。

ただし公の場での(新聞や講演など)発言で、間違っていると思うこと、異論を挙げねばならないと思うことは発言者の特定ができたとしても、意見として反論を書くことは当然ながらあり得る。

公的な問題や公の場での発言に関して言えば、あえて名指しで批判を行うことも当然ある。この場合はかなり辛辣な記事内容になっている場合が多いだろう。しかし基本的に批判と非難は異なる。

批判の意味は、かつてケアマネジメントの中立性議論の中で「囲い込みを防ぐ」という方法論で対峙した、独立中立型居宅介護支援事業所の先駆者でもあるT氏より
『「非難」が相手の人格に対する負の感情の表出であるのに対し、「批判」は相手の論理(思考の論理、行動の論理)を対象とする論理的な吟味(何が正しくて何が間違っているかの吟味)であると考えています。従って、「批判」を行った結果、「正しい」という事が分かる場合もある。あるいは、この部分は正しいがこの部分が間違っているという事が分かる場合もある。後者の場合、正しい部分をきちんと評価しつつ、誤っている部分を正しく補い、新しいものを作っていく(弁証法論理)事ができます。また、「批判」の場合、その対象は他者の論理だけではなく、自らの思考や行動の論理に及びます(自己批判)。正しい意味での批判クリティークは、何が正しくて何が間違っているかを明らかにしますので、自己も含め批判を受けた者にとって利益になります。従って、正しい批判は歓迎されます。また、正しい批判は、相手への人格非難と異なり、相手への人としての敬意を前提としなければ成り立ちません。日本では、「批判」という言葉が「非難」と混同されて用いられる帰来があるため、正しい批判精神が育たないのではないかと個人的には疑っています。』

という示唆をいただいたことがあるので、この考え方も参考になると思う。つまり批判とは建設的議論の中では当然必要なことで、それは個人に対する非難・中傷行為とは異なるものだ。なおこの考え方以外の「囲い込み防止」のためのサービス制限の考え方は、いまもって同氏の見解には全面的に反対である。(リンクを貼り付けてある記事参照。)

よって非難ではない批判記事として意見を書いている場合が多い。ただし行政職員が裁量権という名のもので権力を振りかざす行為に対しては批判ではなく非難の態度で臨んでいる。

どちらにしてもプライベートでの付き合いの中では、楽しい話題しか記事にしないので警戒しないでほしい。(どうしても書いてほしいということがあれば喜んで協力するけど・・・。)

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悲願のネット環境改善

今日はこれから登別グランドホテルで行われる「日胆地区老人福祉施設職員研究大会」で講演を行うために出かけなければならないので、軽い記事をささっと書く。

僕の施設のネット環境はブロードバンド対応ではない。そのことは2005年12月に書いた「雪の夜〜ふと感じたこと」で嘆いている。

今更と感じる方がいるかもしれないが、この状況は現在まで変化がなく、ほんの数百メートル近くまで光回線が来ているのに、山側の当園にはADSLも引かれておらず、いまだにISDN回線を使用しているのである。間違えちゃあいけない!!ISDNである!つまりADSLでもないということである。

ブロードバンドが当たり前の環境になった今日、ISDNなど使わなくなって数年がたつ人々にとって、その速度の遅さは昔話にしか過ぎず、不便さも忘れてしまっているであろう。しかし、その環境をいまだに脱していない当園では、日常的に接続速度の遅さでイライラする状態の毎日であり、PDFファイルが開く速度にいつも絶望的になり、大変なストレスを感じているのである。だからネット担当者は長生きしないだろう、といわれていた。

制度改正や報酬改定のたびに、最新に近い情報を発信している施設のネット環境が前時代的であるというのも、ある意味可愛げがあるのかもしれないが、当事者は不便以外のなにものでもない。報酬告示や解釈通知の重たいPDFファイルは、施設の環境では全部開くためには数時間がかかるし、場合によっては開けないこともあるので、自宅でCDに焼いてきて、それを開いてプリントアウトしたり、涙ぐましい努力を重ねているのである。

ホームページに掲載している、動画の「緑風園設立5周年記念時の広報ビデオ」は制作施設のネット環境では見ることができなかったのである。
(※ちなみに27歳の時の僕の映像を見たい方は、ぜひこの動画をご覧いただきたい。どれが僕かわかるだろうか?)

4月の管理栄養士のネットで確認する合格発表の時だって、アクセスが集中する時間帯はISDNでつながるわけがなく、わざわざ関連施設までいってPCを借りて確認するという始末である。こんな環境にある施設が1日平均8.000件以上のアクセスがあるネット掲示板を管理していることに対し滑稽さを感じる人も多いだろう。

光回線を当施設地域(わずか数百メートルである)まで延ばしてほしいことをNTTに何度もお願いしてきたのであるが、どうもそれは数年以内には実現しそうにない。ほとんどあきらめていたところ、携帯電話の電波を利用した無線で繋ぐ方法があることがわかった。

とはいっても携帯電話の電波自体が弱い地域で電波もやっと1本たつ状態である場所が多く、圏外になる場所もあるので、それも使えなさそうだと思っていた。ところが、このたび発信される電波の種類が変わって、壁などを通しやすい電波となり、受信機を別に設置すれば、無線環境が大幅に改善することがわかった。また複数のラン環境にも対応できる無線専用ルータができたことで、この山の中の当園にも無線で新たな高速ネット環境の構築が可能となりそうだということが分かった。

早速、先々週の金曜日に新しいルータを設置し、試験的に無線接続環境を作って状態をみている。

今のところ快適で、自宅の光回線とほぼ同じ状態でストレスなくネット接続ができている。接続速度も1メガは出ている。PDFファイルも接続した途端に開き、今までのようにクリックした後にトイレに行って、帰ってきてもまだ開けていない状態とは雲泥の差である。

設置費用も数万円かかる程度だし、毎月の維持費等の必要経費は数千円のアップで済みそうである。なんとか電波が安定して、この環境が維持できることを願っている。

そうなれば、やっと人並みのネット環境を手に入れることができる・・・。

おっと時間である。では行ってきます。

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介護施設のホームページのあり方。

介護施設の運営やサービス提供方法が法令に沿った適切なものであることについては、内部で定期的にチェックするだけではなく、外部の第3者に常に情報を公開して評価を受けることができるシステムを持つことが必要とされる。

それは施設サービスというものが、施設内で行われる行為によってほとんどの目的が完結してしまうという特性があるからであり、そのことは一面、規模の大きさに関係なく常に密室性を帯びる可能性があるため、内部のチェックだけで評価することは、場合によって問題を内部に隠してしまう方向にエネルギーが向かう可能性を否定できないからである。

特養等の利用者は、施設が「暮らしの場」であるがゆえに、そこで尊厳や権利が傷つけられる状況が生じた場合、そこから逃れることができず、その状況が密室化し、利用者の被害は社会の影の部分に深く隠れ、表面に現われない恐れがある。

必要なケアを行わずに放置するという虐待は、こうした形で深刻化する恐れがあり、その時に利用者の心の傷は取り返しのつかない状態にまで深く達し、人間としての尊厳や矜持さえ失ってしまう状況が生まれかねない。

そういうことが起きない為にも、施設が組織として持つべき倫理感が、職員全てに浸透して、全ての利用者の人権を守るという意識を、施設全体として常時もつことが介護施設の組織運営に求められる不可欠な視点である。

それゆえに、施設は外部の第3者から常に評価を受けることができる体制にあることが大事で、それは施設側の不正を抑止するという意味にとどまらず、施設が「よかれ」と思って提供しているサービスの方法が、世間一般の常識と乖離してしまわぬような抑止効果のためにも必要なことである。

つまり施設サービスに関する情報発信の重要な意味が「施設の常識が世間の非常識」という状況を生み出さないための「一般的尺度」の導入としても考えられるべきであるという意味である。

外部への情報提供のシステムとしては老人福祉法・介護保険法による運営指導や、介護保険法で定められた介護サービス情報の公表制度などがあるが、法律で定められた範囲の情報公開にとどまらない、より積極的な施設側からの情報提供が求められるであろう。

特に評価の意味として考えると、書類のあるなしという情報でしかない「介護サービス情報の公表制度」などは、事業者から金をぼったくるだけの役人の利権としての制度であるから、ほとんど意味はなく、そんなものは適切な情報公開にはならない、と考えるべきで、独自に別のシステムを取り入れる必要があるだろう。
(参照:利権化した介護サービス情報公表制度

特養が所在する地域の住民や、利用者の家族に対して、リアルタイムに施設運営状況を公開して、施設で何が行われているかをより適切に伝達できれば、必然的に施設サービスが社会からの評価対象となる結果となり、そのことがサービスの質の担保と法令遵守の促進を図ることに繋がるであろう。

そういう意味ではインターネット上のホームページというツールを使った情報公開は有効で、単に自己評価情報を流すだけではなく、施設の理念やサービスの実態をリアルタイムに公開することは重要である。それは特別なこととしてではなく、ごく普通に行われるべきであろう。これからの情報提供とは、誰がどこにいても必要な情報を簡単に得られることを念頭において情報発信法が考えられなければならず、特別養護老人ホームなどの介護施設といえど、そうした方向性を視野に入れた情報提供に積極的に取り組むことが時代と国民のニーズに応える運営といえるのではないだろうか。

特に現在の介護保険施設をめぐる現状を市場に例えた場合、それは売り手市場で、顧客確保に苦労する状況ではなく、逆にいえばそのことは、単に施設の公式ホームページを宣伝媒体・広告塔として使う必要のないことを意味している。

だからこそ、ホームページにおける正しい情報提供のあり方として、国民の期待に応える情報発信の方法を作り上げることができるのではないだろうか

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失われた町の残像。

僕の生まれ育った故郷は、この国の地図の上には既になく、廃墟となっていることについては何回かこのブログで触れている。
(参照:故郷がよみがえる日々

同級生も全国ちりぢりになってしまっているので、中学を卒業後、まったく音信不通の人も多い。しかしリンクを貼り付けた記事で紹介しているように、仲間の絆は強く、一昨年には中学卒業時のクラスメートの所在は全員を確認して名簿も作成できた。

それはネットの力に負うところが大きく、僕が作成管理している同窓会のホームページとその掲示板や、その中の情報を見て各自でメールをやりとりする中で、全国あるいは外国を含めた情報が集まった結果である。

しかもその動きは現在も停滞しておらず、時々思わぬ形の連絡が、おもに同窓会Web掲示板への書き込みという形で入る。

ゴールデンウイークが近づいた今年4/27日、その掲示板に突然次のような書き込みがあった。

ひょんなことから、この掲示板に来ました。1973年2月(当時小6で卒業間近)まで菱光にいて、転校して行った「〇〇」と呼ばれていた男です。東町に住んでいて、〇〇〇〇君や〇〇〇〇君とよく遊んでいました。あの……
〇〇〇〇(掲示板でのハンドルネーム)=〇〇〇〇君
〇〇〇〇=〇〇〇〇チャン
〇〇〇〇=〇〇〇〇君
〇〇〇〇=〇〇〇〇君ではありませんか?
もしそうだったら、かなりの確率で同級生だと思いますが…。間違っていたらごめんなさい。


このようなメッセージが書き込まれた。間違いなく小学生時代の同級生である。勿論今では顔も忘れて思い出せないが、子供の頃、彼と遊んだ思い出はよみがえってきた。早速返信を書き込んで、やり取りするうちに、東京新宿で5/15に行う「飲み会」に彼も参加することになった。彼にとっては36年ぶりに故郷の仲間に逢えるということになる。本当に良かった。

ネット掲示板で個人のメルアドをやりとりするのは様々な危険があるので、この場合、管理人である僕が同級生同士の連絡の仲介役になることが多いのであるが、今回もそうしていたところ、36年ぶりに連絡がついた彼から、1977年当時、まだ下川鉱山が健在の頃(といっても閉山間際である)の航空写真の画像を送ってもらった。

下川鉱山航空写真
これが、僕が生まれ育ち高校1年生の秋まで住んでいた下川鉱山の全景である。

この細長い町に、最盛期は3000人近い住民が暮らしていた。

画像、中央よりやや左側、下側に集合住宅のような建物が並んで伸びているが、これが「西町」と言われた地区で、当時僕はここに住んでいた。逆側の右端の上のほうに伸びている地域が「東町」と呼ばれる地域で、両者の中間に位置する地域が「仲町」と呼ばれ小中学校などがあった地域である。西町と東町、そして神社のある宮町が山の上にある坂の町で、平坦な土地は学校のある仲町と東町側に隣接する旭町、少し離れて西町側のさらに左側に位置する緑町という6地域で「新下川町」とも呼ばれ、古くは「下川町字ペンケ」とも呼ばれていた「下川鉱山」が構成されていた。

左側に伸びている一本道が道道で、ここから下川町〜名寄市に繋がっているわけであるが、逆側の右手の道は単に山奥に一本の細い道が伸びているだけで、最終的にはどん詰まりとなって、行き止まりである。まさに山奥を切り開いた町だったのである。

しかし炭鉱ではなく、銅を産出する鉱山で、僕らが生まれ物心つく時期は周辺の市町村よりかなり景気が良い裕福な町であった。住宅もすべて社宅で家賃は無料。電気・ガス・水道などもほとんど「ただ」に近い料金(大部分を会社が負担)だったし、公衆浴場は番台がない無料の社交場であった。各家庭の生活水準も、一般労働者としてはかなり高かったといわれている。特に坑内労働者の賃金は高く、当時の世相としては贅沢な暮らしができたといわれている。(僕の父は坑外の事務系だったので、家庭もさほど裕福ではない、いわゆる中流家庭であった。ただ物に不自由を感じたことはない。)

インフラ整備もすすんでいたと思われ、上下水道の整備も早くからできており、物心ついたころには、汲み取り式の便所など周囲には見られず、全戸水洗トイレであった。昭和40年代の前半であるから、庁舎のある下川町よりも進んでいたし、全道規模で見ても先進地域であったろう。

例えば僕は昭和51年に岩見沢市に転居した当時、同市では下水道整備が進んでおらず、ほぼ市内全域が水洗化されたのは昭和54年頃であったし、就職してから転居した登別市でのそれは平成に入ってからのことである。下川鉱山の上下水道の整備は、それらと比しても先進地帯といってよかったろう。

ただ商店等の数はほとんど会社直営の「購買」というところが独占的に小売をしており、その他の商店は2件しかなかった。コンビニなどもちろんあるわけがない。

住民は、学校の先生と公務員、商店経営者以外は、全町内が「三菱金属」というひとつの企業の従業者であったから、外出する際に玄関の鍵をかける必要がなかった町である。盗みなど働くと町に住めなくなるから泥棒などいないのである。

(※余談であるが、僕の両親は、その町がなくなり、岩見沢市に引っ越してからも、その癖が抜けず、外出時に玄関の施錠をしないため2度も空き巣に入られて、かなりの被害を受けたことがある。警察も2度も鍵を掛けず外出して被害を受けたことにあきれていた。〜話を戻す〜)

この町の特徴は、炭鉱町に多い「飲み屋」が1軒もないことである。なんでも風紀を維持するために居酒屋や水商売の営業を一切認めていなかった、とのことである。大人たちが「飲みにいく」場合、ここから10キロ離れた下川町が一番近い「飲み屋」のある場所で、必然的に、大人たちの社交場は各家庭で、それぞれ集まって飲み会を開く、ということが多かったようだ。そういえば、僕の家でも毎月何日か、会社の「おじさん」達が数人集まって飲んでいた。母親も「肴」を作るのに大変だったろう。

1枚の航空写真からこのようなことを思い出していた。

しかし今その上空から写真を撮ったとしても、建物は廃墟となった小中学校校舎など数棟があるだけで、それも草木に隠れて写らず、ただうっそうと茂った森の中に、わずかに人工物として道とおぼしきアスファルトの残骸が写るだけであろう。

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変えられないもの、変えられるもの。

外は湿りけを帯びた重たい雪が降り積もっている。いつもの年の瀬より暖かいという証拠だろう。

今年もいよいよ残すところあと2日だ。

この時期は毎年同じようなことを言ったり、書いたりしているような気がするが、年末というのはそういうものなのだろう。

そして新年を迎えて気分が変わったり、高まったりするのも一瞬で、そのあとはまた、いつもの日常に戻り、日常に流され、時の速さや、季節の移ろいの中に埋没していく繰り返しが人の一生なのかもしれない。

ただひとつだけ確実なのは、同じ時の流れでも、去年と今年と来年とでは確かに違うということだ。そして今いる自分自身は、この瞬間だけ、そこに存在するものなのだということである。

人の心も、体も、姿もすべて移ろうものだ。確実なものは今のこの瞬間しかない。だからこそ今の時間を大切に過ごさねばならないと思う。

ただこの時期だけは今年1年を何となく感傷的に振り返ってみるのも良いだろう。

僕は僕らしくあったのだろうか。僕が僕らしいとは何かに気付くことができたのだろうか。僕は本当の自分にたどり着いているのだろうか・・・。どこまで行けば答えがみつけられるのだろう。

このブログは2005年11月9日に始めたものだ。

最初の記事は「裏板風にブログを作ってみました」という記事である。アクセス数は今年100万を超えた。ただカウントの仕方は当初、全てのアクセス数をカウントしていたから1日に何度もアクセスする方がいたら、その数字が上積みされている。

今年から24時間以内の同じPCからのアクセスは1回しかカウントしない方式に変えた。基本的に僕は1日に1記事しか更新しないからである。それでも現在、平日は1日1.400〜1.700くらいのアクセスがある。これは1日にアクセスしてくれる方の実数と思える。

僕の自分勝手な記事をたくさんの方々が読んでくださっていることに、ここであらためて感謝を申し上げます。本当にありがとうございます。

このブログは特別な目的を持って書いているものではない。自分の「心の叫び」を表現する場所として思いつくままの事を書いている。ましてや人を教育したり、何か特別な考えを押し付けたりする意図はまったくない。

ただここに自分の素直な感情や思いや考え方を書くことで、自分が自分自身の何かに気がつくかもしれないと思っている。結果的にそのことが僕自身に与えるものもあるのだろうと思っているし、そのことで変わるものもある。そう考えている。だから誰かが読んでくれなくとも書くことがあるうちは書き続けることだろう。

人は一人では生きていけない。他者と関わりを持つ中ではじめて社会生活を営むことができる。しかし時として、自分以外の他者はストレスともなる。考え方や行動パターンの違いに思い悩むことも多いだろう。

しかし物事の全ての原因を他人のせいにしても何も変わらないだろう。

人類が誕生して以来、もっとも困難なことは他者を変えるということなんだから・・。

他人と過去は変えられない・・・。

しかし自分と未来は変えることができる。

そこに希望を見出したいものだ。夢とか希望とは待つものではなく、そこに向って歩んでいく先にあるものなのだから。

今年1年本当にお世話になりました。次の記事更新は年明けになると思います。皆さん、良いお年をお迎えください。皆が幸せな1年になりますように。

新聞が見捨てられる日?

プロ野球日本シリーズの優勝チームが決まったというのに、タイミングの悪いことに今日は新聞休刊日である。各紙1面で取り上げられたはずの西武の優勝に少し水がさされた感を持つ人もいるのではないだろうか?

読売という大手新聞社が金に任せて巨大戦力を作り上げた巨人が、休刊日に合わせるように敗れたのは、読売グループにとっては不幸中の幸いなのかもしれない。

西武ライオンズと、そのファンには心から「おめでとう」といいたい。パリーグの強さを証明してくれてありがとう。来年、我がファイターズは挑戦者となって向っていくぞ。
※しかし残念なのは西武ドームが日本シリーズという舞台にも関わらず、空席が目立ったことだ。札幌ドームならあり得ないと思った。

ところで新聞が届かない日といっても以前と格段に違ってきていることがある。インターネットのポータルサイトのニュースなどを利用して世界中の出来事を確認できる時代になったことで、困ることは少なくなっている。というより困ることはないというべきか・・・。

特に若者の活字離れはますます進行していて、僕の職場の若い人たちを見ても、独身の人で新聞を定期購読している人は少ない。家庭を持っても新聞はとらない、という人も増えている。(このブログにも何度か登場するコバくんは、精神的に老成しているのか、独身単身世帯でありながらしっかり北海道新聞を購読しているそうである。)

情報は自分の興味のない記事を見なくても良いネットから引っ張ればよいし、それで不便ではなくなったということだろう。

介護施設の業務の中でもそのことに関連して現在と過去では大きな違いがある。

例えば、多くの高齢者施設では大相撲の本場所開催中は「星取り大会」という毎日の取り組み勝敗予想を行っている。幕内の全取り組みの勝敗予想をして、点数をつけ、15日間の合計点で賞を争うゲームである。

この際、朝のうちにその日の取り組み表を参加者に配っておかないとゲームにならない。取り組み表を見て考えながら取り組み前に勝敗予想を表に書き込んで幕内の取組が始まる前にそれを提出しないとならないからである。

インターネットのない頃であれば、この取り組み表作りも大変であった。新聞を朝チェックして手書きで表を作って配布していたからだ。さらに新聞休刊日には駅売りのスポーツ新聞を買いに走って、取り組み表を作らねばならなかった。

しかしネットの普及でそうした手間は格段に軽くなった。その日の朝ではなく、前日の取り組み前に翌日の取組が発表されるので、それをネットから引っ張り、あらかじめファイル化しているエクセルの取り組み表の力士名の配列を変えれば翌日の取り組み表ができるからだ。このことに新聞休刊日はまったく関係しないのである。だからかつて「大相撲星取り大会」のために必要であった新聞は、現在ではその場面では役割を失い必要のないツールとなっている。

それだけでも大きな変化である。

新聞の紙面には毎日読んでいても素通りしてまったく見ない記事や情報と言うものも多い。株価の状況なども、今日の変動の状況を考えると新聞にそれを情報として載せる価値があるのか疑問だ。ネットでリアルタイムの状況をみられることとは勝負にならない。

将棋や囲碁の棋譜も掲載されているが、あれもかつては見ない人は素通りするが、好きな人は毎日見る、というコーナーであったが、現在では新聞に掲載されている棋譜は、ネットで自由に引っ張ってこられる。しかもネット画面だと自動的に盤面を動かして再生してくれるので、新聞の数回に分けて1回分の棋譜を載せる情報とは比較にならないほどわかりやすい。

新聞の生命は社説であろうが、本来ここに「新聞はその国の英知の代表」と呼ばれる高い見識に基づいた意見が書かれるはずなのに、現在の日本の各新聞社が取り上げる社説は、とても英知を代表したものといえるほどのものはなく、それは「流行」を代表するものにしか過ぎなくなった。

社によっては他社の批判・悪口・罵詈雑言を書いている場合もある。政治評論も表面上の薄っぺらなものでしかない。

ニュースの速報性は既にインターネットに遠く及ばず勝負にならないのだから、この部分ではニュースの背景を深く掘り下げる真実の追究や考察という方向で新聞の存在意義を図るしかないはずであるが、残念ながら取材する記者の能力の低さから、情報自体が不正確な場合もあり、その質は週刊誌のゴシップレベルである。(参照:北海道新聞の制度改正連載は間違いだらけ

現在、新聞購読者がまだまだ多い理由は、日本独特の「個別宅配制」によるところが大きいだろう。新聞社は、配達業務に携わっている人々に足を向けられないのではないか?

しかし出版社がのきなみ倒産している活字離れの社会では、今後新聞購読者数の激減が新聞社の経営危機に繋がらないという保障はなく、むしろそれは社会の流れからして必然といえるかもしれない。

そのとき、今のままの新聞作りで各社が存続できると考えているのだろうか。

インターネットでは獲得できない、本当に国民の求めている情報媒体と変わっていかねば新聞は過去の遺物になる日が来るかもしれない。

少なくとも現在のように「英知を代表せず、流行を代表する」ための紙面づくりであれば、存在意義はなくなるだろう。

介護・福祉情報掲示板(表板)

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もうすぐ500万アクセス(表板)

僕の管理サイトの「介護福祉情報掲示板」は施設の公式ホームページを立ち上げたときに同時に作った掲示板である。

その後、数代の種類変更があり現在の掲示板は2006年5月9日に作った6代目の掲示板である。(参照:掲示板に歴史あり

アクセスカウンターに表示されている数字は5代目の掲示板からしか引き継いでいないので、実際にはここに表示されている数字よりずっと多い数のアクセス履歴があることになる。

今日は休日なので、その数字を見ていたら480万に近づいていることに気がついた。おそらく年内には500万アクセスに到達するだろう。

500万という数字は、決して少ない数字ではないと思う。それもわずか3年半で達しようとする数字である。(現在のカウンター数値の0基準は2005年6月である。)これは何か記念になることをしようと思い立った。

しかし別に大々的に宣伝イベントを行うという意味ではなく、あくまで「お遊び」という発想である。

表の掲示板では今までも「頭の体操クイズ」とか「目指せ○○アクセス」など、日ごろの硬い話題とは別に「息抜き」のスレッドを立ち上げてきた。今回もそれを行おうと思う。

ということで500万アクセスを達した人には何か記念品を差し上げようと思う。方法やルールは後日、表の掲示板にスレッドを立ち上げて正式に書き込むとして、そういう「あそび企画」を行うことだけを今日は宣言しておきたい。

もちろん、記念品といっても法人や施設から支出できる費用ではないから管理人のポケットマネーから支出できる程度のものなので高価なものではない。しかしあまり必要のないマニアックなものでも困るだろうし、お遊びだから福祉や介護に関連した「お堅いもの」でも嫌味だろう。

何が贈られるかはそのときのお楽しみにして、後日表の掲示板でのアナウンスを読んで、挑戦していただきたいと思う。

合言葉は「目指せ500万アクセスゲット」である。

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素晴らしき仲間達へのエール。

特別な目的あるわけではないが、社会福祉というものをもっと身近に感じてほしいという思いから、子供達に社会福祉の仕事について話す機会を作ってもらっている。

その中で自分が福祉の道を選ぶきっかけになった動機について語ることがあるが、興味を持たれて話題が膨らむことが多い。

そこで表の掲示板に、他の皆さんの体験談を聞かせていただきたくて「子供達に伝えたい福祉の道を選んだ動機〜皆さんの動機もお聞かせください。」というスレッドを立てたところ、たくさんの皆さんから意見をいただいた。

どれも非常に興味深い内容である。感動するものも多い。是非、ご一読いただきたい。

動機自体は様々で、子供の頃から福祉と縁が深かった方、まったく畑違いの仕事から転職された方など様々だし、福祉関係の職業に従事するようになった際の思いも、最初から熱い気持ちを福祉や介護に対して抱いていた人だけではなく、軽い気持ちや逆にある種の「重い気持ち」を背負って、この業界に入ってきた人も居られる。

しかし書き込みをしてくださった方々に共通しているのは、この職業に動機や就業時の「思い入れ」はどうあれ、すべからく「今、現在」の仕事に対し誇りと熱い思いを抱いている、といってよいだろう。

そういう意味では、紹介したスレッドの書き込みは、社会福祉援助に対して「やりがい」を感じて、高いモチベーションを維持している人々の熱いメッセージである。

こんな素晴らしいことはない。そして、このように多くの人々が「この仕事に就いてよかった。この仕事に誇りを持っている」と感じることが出来るほど、福祉・介護サービスとは素晴らしい職業なんだ。

お金以外に得られる素晴らしさ、達成感の意味を皆さんに考えていただきたい。

おそらく、こうした熱い思いを持ち続けて仕事を続けられている人々は、今自分自身が向かい合う利用者に不幸しか与えられないような仕事はしたくないと思っている人々だろう。

もちろん人間相手の活動の結果は様々で「うまく行かなかったケース」もないわけがない。失敗をしなかった専門家もいるわけがない。

しかし、この仕事に喜びや誇りを感じられる人々は、人の喜びも、哀しみも、痛みも、夢も、希望も、絶望も、慟哭も、利用者の思いにすべて共鳴できる人々だろうと思う。そして少なくとも不幸を人に与える為ではなく、人に喜びや幸福を与える為の支援を目指している人々だろうと思う。

自分自身が苦しくて、眠れなかった夜をたくさん経験してきた人が多いだろう・・・。そういう日々を積み重ねながら、今の彼らがいる・・・。 こうした巣晴らし人々にこの国の福祉の底辺は支えられているんだ。僕も仲間の一人として彼らに負けぬように頑張らなければ・・・。

レスポンスをいただいたすべての皆さんに、そして「福祉の現場」で頑張っているすべての人々にエールの意味で、僕が自分の応援歌にして携帯の着メロにも使っている「ゆず」のヒット曲の詩を贈ります。僕は2番の詩が特に好きだ。

僕らの目指すものは必ずしも「栄光」ではないけれど、それよりもっと大切な「皆が笑顔でいられる社会」であり、その実現が僕らの栄光なのかもしれないと思っている。

「栄光の架け橋」
誰にも見せない涙があった、人知れず流した泪があった
決して平らな道ではなかった、けれど確かに歩んで来た道だ
あの時想い描いた夢の途中に今も、何度も何度もあきらめかけた夢の途中
いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい栄光の架橋へと…

悔しくて眠れなかった夜があった、恐くて震えていた夜があった
もう駄目だと全てが嫌になって、逃げ出そうとした時も
想い出せば、こうしてたくさんの支えの中で歩いて来た
悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある
さあ行こう 振り返らず走り出せばいい希望に満ちた空へ…

誰にも見せない泪があった、人知れず流した泪があった
いくつもの日々を越えて辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい栄光の架橋へと…
終わらないその旅へと、君の心へ続く架橋へと…

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言葉の意味〜誤った理解が常識という例。

確信犯という言葉の意味を皆さんはどのように理解しているだろう。

長い間、僕はこの意味を「悪いとわかっていながら行う犯罪。」と考えていた。しかしこれは完全に間違った理解だ。この言葉の本当の意味は「道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪。」という意味だそうである。

僕と同じような意味の取り違えをしている人が多いのではないだろうか。

ところで文化庁が先月公表した国語世論調査結果をみると間違った意味で使っている言葉が結構あることがわかる。示されている例を転載してみる。

(言葉)憮然。
(本来の意味)失望してぼんやりとしている様子。
(よく使われる間違った意味)腹を立てている様子。
正しい前者の意味で使われているのは17.1%、間違えた後者の意味で使っている人は70.8%。

(言葉)檄を飛ばす。
(本来の意味)自分の主張や考え方を広く人々に知らせて同意を求める。
(よく使われる間違った意味)元気のない者に刺激を与え活気づかせる。
正しい前者の意味で使われているのは19.3%、間違えた後者の意味で使っている人は72.9%。

(言葉)煮詰まる。
(本来の意味)議論が行き詰まって結論が出せない状態になる。
(よく使われる間違った意味)議論や意見が出尽くして結論の出る状態になる。
正しい前者の意味で使われているのは37.3%、間違えた後者の意味で使っている人は56.7%。

(言葉)さわり。
(本来の意味)話などの要点。
(よく使われる間違った意味)話などの最初の部分。
正しい前者の意味で使われているのは35.1%、間違えた後者の意味で使っている人は55.0%。

「憮然。」と「檄を飛ばす。」について僕は完全に「よく使われる間違った意味」で使っていた派である。

しかし7割以上の人がその意味を誤解して理解しているとしたら、正しくその意味を理解して使っている人の文章を読んでも大多数の人が意味がわからなくなってしまうということになる。

最初に例示した「確信犯」なども正しい意味をあらかじめ解説して示しておいて文章を書かないと、「道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪。」と言う意味で正しく書いている人の文章を読んでも、大多数の人は確信犯を「悪いとはわかっていながら行う犯罪。」と思い込んでいるんだから、その文章の意味がわからなかったり、正しい主張が伝わらないことになってしまう。

そういう意味では、書き手が意味を正しく理解して、ただしく言葉を使いさえすれば良いという問題でもなくなってしまう。大多数の人はそのことで文章の真意が見えなくなるという現象も起こりうるということである。

正しくても伝わらないと意味がない。ここが言葉の難しさである。

しかし国民の7割以上の人々に対して「共通した」間違った理解が「正しい意味」を侵食しているのには必ず理由があるはずだ。過去にマスメディアなどを通じて、誤った意味が広がるようなきっかけがないと、ここまで「共通した間違い」が広がるはずがないのではないだろうか。

なかにはインターネットで見ることができる「Wikipedia」を絶対的に正しいものだと考えている人もいるが、あれだって間違いは数々ある。自分で辞書を引いたり、語源に繋がるエピソードを調べられない人は不幸である。

そういう意味では、僕が管理する表のネット掲示板「介護・福祉情報掲示板」なども同じ轍を踏む可能性がないとは言えない。だから根拠に基づかない、思い込みだけの情報提供と言うのは常に戒められなければならないものと考えている。

少なくとも法令や言葉の意味の根拠を「Wikipedia」に求めるのは安易過ぎると思う。

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お偉い?公共放送さま。

今日こんな時間にブログを更新しているのには理由がある。

管内のとあるグループホームの外部評価に行く為、有給休暇をいただいているのである。これから出発して、調査が終わる4時頃まではブログ更新ができないので、出発前にあわただしく文章を打ち込んでいるというところである。

ただし調査が終われば有休とはいっても用事があるため職場には出る。今日は夕食を居酒屋に出かけて食べる方がいて、その方の付き添いボランティアである。いや正確に言えば、付き添い自体は僕がいなくても大丈夫なのであるが、職員から「利用者飲み会に付き合ってください。」と頼まれたので、そこに行って飲み会に参加するだけである。もちろん車で行くためアルコールは飲まないが・・。

その様子もいずれブログでご紹介したい。(過去に同じようなことは何度か紹介しているけれど。)

ところで今日は少しカチンときたことを書きたい。(いつもカチンときていることを書いているような気もするが)

施設には様々な機関から、様々なアンケート調査が送られてくる。中には何ページにも渡る細かな内容となって回答するのにも相当な手間と時間がかかるものがある。

国や道や市から送られてくるもので、回答せねばならないものについては仕方ないが、すべての調査依頼に応える時間も気力も持ち合わせていないので、国と関係ある外郭団体を名乗っても、研究機関であっても必要性がないと判断すれば大部分のアンケートは無視して答えないことが多い。

それらは封筒のままゴミ箱に捨ててしまう。資源の無駄だが、その責任は捨てる側にあるのではなく、回答協力を確認しないで現場の作業負担への配慮もまったくなく闇雲にアンケートを送りつける側にあるだろう。

そのことで文句をいわれる筋合いではないし実際にはあまりクレームもない。

最近は紙資源の無駄を省く為か、メールにアンケートを添付したものも数多く送られてくるが、ウイルスメールと区分できないものは開きもしないで捨てられる運命にあるので、送信者の身分証明などは大事である。

しかしこの中にも依頼自体が不愉快なアンケートもある。

先日突然メールで重たいファイルを添付したものが送られてきた。当施設の地域はブロードバンド対応地域ではないので、こうした重たい添付ファイル付きメールは受信にも時間がかかるので、不必要なものであれば非常に迷惑なのである。

だが問題はそのことではなく依頼内容そのものである。そのメールの送り主はNHKの番組制作担当者であると書かれている。何でも「日本の、これから」という番組を担当しており、9月に「とことん話そう税金のこと(仮)」という特集を組むそうだが、その資料にしたいのでアンケートに答えてくれというものである。

そして僕宛にそれを送った理由として「ブログを読ませていただきまして、この問題に興味があると思いメールしました。」と書かれており、さらに末尾に「番組ではスタジオに研究者、学生、主婦など様々な方に集まっていただき、税金について語っていただこうと思っております。ぜひとも意見を言いたいという場合はその熱い思いを書き込んでいただけますでしょうか。スタッフの目に留まった際は連絡をとらせていただく場合もあります。」と結んである。

僕のブログとはおそらく「消費税率アップがもたらすもの。」のことを指しているんだろう。

それにしても人のブログを読んだからといって、この問題に興味があるだろうからアンケートをいきなり送っても何の問題もないと考えるのが公共放送の番組スタッフの考え方なんだろうか。

税金は自分の懐から支払うものだし、我々庶民にとっては直接生活に影響する支出だから、この問題にまったく無関心と言うわけではないし関心は当然ある。それなりの意見も持っている。だからといって他の問題と比して特別に興味を持っているというわけでもない。介護問題との関係としても財源部分に絡んでくるわけだし、そういう意味で大事なことだからブログで取り上げている。

それだけのことで、7ページにも渡るアンケートをいきなり送りつけ「スタッフの目に留まった際は連絡をとらせていただく場合もあります」とは何様のつもりじゃい!!こちとらNHKのスタッフの目に留めてもらう必要性など何も感じていない。そんな番組自体に興味なしである。テレビと聞けば、公共放送と聞けば皆が喜んで尻尾を振って寄っていくとでも思っているのか。冗談ではない。

アンケートを頼むのなら、それなりの礼儀というものがあるだろう。すべての国民がテレビに出たがり、公共放送から依頼があったら喜んで回答するとでも思っているんだろうか。まったくこの国のマスコミには品性というものが存在しない。

こんなずれた感覚のスタッフが番組をつくって真実や本質に迫れるわけがない。

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東京OFF会in日本橋。

今日はいつもより早い時間にブログを更新している。

その理由はこれから千歳空港に向かうためである。明日3日、東京にて用務があり10:30には霞ヶ関の某所に着いていなければならないので、明日朝出発では間に合わない。そこで今日北海道を発って前泊することにした。千歳で用を足すので少し早めの出発にしたためである。しかし・・・。

僕は生来の方向音痴である。一度行った場所であっても、2度目も無事たどり着ける自信は常にない。慣れ親しんだ札幌でさえ迷うことがあるのである。
(さすがに地元の田舎町は迷わないが。)

だから道外の講演会などに招かれる際に、主催者の方が空港まで迎えに来てくれるのは大変にありがたい。目的地まで迷って戸惑う必要がなくなるからだ。しかし今回のような出張はそういうわけにも行かないので慣れない地域で公共交通機関を使いながらの移動になる。

日本全国いろいろな土地に行く機会は多いが、道北の田舎町で育った生粋の道産子である僕にとって東京と聞けばまさに「おのぼりさん」気分なのである。

なにしろ北海道人は今でも本州のことを「内地(ないち)」と呼ぶ人が高齢者には多い。僕らは子供の頃、本州は内地、北海道は「外地(がいち)」と刷りつけられ育ってきたのである。

だから今日も羽田までは自信をもってたどり着けるが、その後、東京駅まで無事たどり着けるか、明日は霞ヶ関に着けるのか、一抹の不安感はぬぐえない。羽田からはモノレールに乗ればよいと思うが、浜松町から山手線の乗り換えに迷わないだろうか?子供の頃、札幌地下鉄に初めてひとりで乗ったときの緊張感もこんなものであったろうか?

ともかく今日は右も左もわからない田舎物の「おのぼりさん」がひとり上京するということである。

ところでネット繋がりとは嬉しいもので、僕の上京を知ったネット仲間達が平日にも係らずOFF会を開いてくれるという。

場所は東京駅のすぐ近くでセットということで日本橋らしい。宿泊は八丁堀なのであるが、田舎者の感覚では両者の地名のイメージは「時代劇の世界」である。

ちょうど丹波篠山のキミオーさんも研修で上京中というグッドタイミングで、BOBさんが仕切って、トムさんがセットしてくれた。かねてよりの顔見知りだけではなく、ハンドルネームだけは知っている人とか、その席で初めてお逢いすることになる方々もいる。というより半数以上の方とはネット上での文字のやり取りだけの付き合いであり、初対面である。普段、生意気なことばかり書いているので、ちょっと緊張するが楽しみである。

しかしこのOFF会に備えて、明日休みをとっているというツワモノもいる。朝まで飲むということらしいが、僕は明日、午前中に座談会に出なければならない。午後も別な場所で検討会のアドバイザーを務めねばならないのだ。いくらなんでも酒臭い息で真っ赤な顔で、座談会というわけにも行かないと思うが逃れられるだろうか・・・。

さあそろそろ千歳に向わねばならない時間である。

ということで、今晩OFF会でお逢いする皆さん、どうぞお手柔らかに・・・。

明日はそういう事情でブログは更新できませんので、よろしくお願いします。

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権限の亡者。

最近、表の掲示板は平日のアクセス数が毎日5.000件をはるかに超えている。

道内外の関係者の方も、こちらをみている方が多くて、いろいろな場所で初対面の人からも「掲示板見てます。」とか「ブログ読んでます。」と声をかけられることが多い。

ありがたいことである。ただ、グループホームの外部評価などに行って、身分証明書を出そうとすると「掲示板見てますから、わかってます。」といわれると何となく照れくさくもあり、調査がやりにくくなる。あまり偉そうなことは書けないと、そのときは思うのだが、ついついペン先はいつもすべり気味に走ることになる。

掲示板を見てくださっている関係者の中には行政職員の方も含まれ、保険者の担当者などの方々も結構見てくださっている。たいていの方は暖かい助言や、的確な情報提供をしてくださる方である。

ROM専門の人も多いだろうし、そういう方がむしろ多数派だろうと思う。読み手の皆さんにとっては生意気なことばかり書いていると思われるだろうし、毎日のように読んでくださることに対し、ありがたい気持ちと秘かなる申し訳のない気持ちと両方を持っている。

しかし中にはある種の「悪意」を持って掲示板を読まれている人がいるそうである。

例えば先日、ある地域の施設長さんと話をしているときにネット掲示板の話題になったのだが、その施設長さんが言うには、その地域を管轄する保険者の担当者が「いくら色々な書き込みがあるか知らないが、偉そうなことを書いているとしても、その掲示板自体には何の権限もない」と言われているそうである。

権限がないという指摘は正しい。そもそもネット掲示板に権限を求めているわけでもない。

我々がここで手に入れようとしているものは、権限ではなく情報である。そして様々な専門領域の職人達がその情報から読みとったものを情報交換しながら知識に変えていっているだけである。

こうした情報ツールに権限がないことをことさら指摘する意味はなんだろう。

つまり、その行政職員が言いたいのは、いくら制度上のルールを「ああだ、こうだ言っても、権限のないものの発言は意味がない。」ということなんだろうと思う。そこでの結論や指摘事項も行政担当者がノーといえば認められないという意味であり、つまるところ「行政が持つ権限の方が上だ。」ということらしい。

まったく馬鹿ばかしい。「指導担当者の無知・無理解が制度を崩壊させる。」でも指摘しているが、根拠のない権限を振りかざすことが大好きな行政担当者がこの国の制度の理念を歪めて、利用者や事業者を苦しめているのである。

情報から得る知識が正しいと判断される為に必要になるものは「根拠」である。我々があの掲示板でルールを説明する際には必ず明確な根拠に基づいて発言している。ときにその解釈に誤解や間違いがあった場合は、そのことを別の人が根拠に基づいて「違う」と発言して最終的に答えを引き出しており、すべて根拠と理由が説明できるものである。しかもその根拠自体が「情報」から得られるものなのである。

つい最近まで、この根拠情報さえも我々は行政機関を通じてしか手に入れられなかった。それがネットの普及で変わったのである。そのことを苦々しく感じている人々の心の狭さは笑止千万である。

正しい情報と根拠に基づいた答えは権限では変えられないもので、根拠に基づかない権限だけの指導こそ意味のないものである。そしてそれはネット掲示板というツールが求めているものでもない。

このことをわかっていない大馬鹿者が実際には保険者の担当者として存在しているという事実があるとしたら、それはこの国の福祉行政の弊害にこそなれ、利益にはならないだろう。

現場の事業者も権限だけを振りかざして知識のない行政職員を何ら恐れる必要はない。きちんと間違った意見にはそれなりの方法で対抗していく必要があるし、その方法も現在では多種多様である。一方的に押し付けられる存在ではないはずである。

とはいっても多くの保険者担当者は、見識の高い優れた人々である。本来、行政と民間は手を携えてお互いの足りない部分を補完しあいながら前に進むべきであるし、その視点を持った行政職員の皆さんにより、この国の良識は支えられている。

権威だけを振りかざすのは一部の人間だけで、それは見識や知識のなさを「行政権限」という鎧を着込むことで隠そうとする心貧しき可哀想な人に過ぎない。

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タイトルを考えてスキルアップ!!

表の掲示板の投稿規程では、必ず質問内容等が具体的に(読み手が)理解できるようにタイトルをつけて投稿することを定めている。

タイトルが具体的ではなく「教えてください」「始めまして」などの挨拶では、後に必要なスレッドを探す際に困るという意味もあるが、そうした第3者の問題としてではなく、投稿者本人が「具体的な書き込み内容がわかるようにタイトルを考える」ということは、実は介護サービス従事者のスキルアップ訓練にもなるという意味を含んだ規定なのである。

様々な物事についてタイトルをつけて考える、ということには意味がある。それは介護サービスの現場で、ケアの方向性を考えるためにも役立つものなのだ。

そのことを今日は考えてみたい。

短いタイトルで内容を具体的に表すには長文の中のポイントを的確に押さえなければならないということになる。

つまり自分のネット掲示板の書き込み内容の主旨がタイトルで第3者に伝わる為には「どのようなタイトルをつけようか」と考えることは、知らず知らずのうちに自分の伝えたい内容の要点、一番重要な事柄を考えることになり、それはやがて物事の本質を考察する、という対人援助サービスにおいて一番大事な資質を育むことに繋がるのである。

それは感性という部分に負うところが大きいので、繰り返し訓練されなければ育たない部分なのだ。それを繰り返して感性を磨くことにより、例えば認知症高齢の周辺症状のケアの方法を考える際に、それらの人々の行動を観察しながら、問題の本質を見つめることが出来るようになったり、相談援助に携わる職員であれば、相談をする側の訴えの中で重要となる相談内容の中に含まれる物事の「本質」に目を向けることが可能になる可能性を秘めている。

だからタイトルをつけるということは、様々な場面で利用した方がよい。

例えば職員研修等の事例検討。

通常は書籍などから様々な事例を取り上げて、読みあわせを行って意見交換とか模擬カンファレンスなどを行うであろうが、この際に、既につけられているケースの概要を示すタイトルを伏せて読みあわせを行い、参加者全員で、当該ケースにタイトルをつけるとすればどのようなものが最も適切か、と考え発表披露してもらう。

そしてその中で、どれが一番ケースの概要や本質を現しているかをグループ討議し、最後に伏せていた実際のタイトルを見て、グループで検討したタイトルと比較してみるという勉強方法がある。

このとき気をつけなければならないのは、保健・医療・福祉現場で検討するケースの適切なタイトルというものは、あまり文学的過ぎて意味がわからないものではいけないということである。

例えばある研修会でこの方法でグループ討議を行ったとき、元になる隠されたタイトルが「盗られ妄想から徘徊を繰り返す認知症高齢者の1事例」という検討事例があった。このケースでは靴にこだわりのある高齢者が、いつも自分の気に入った(実際にはない)靴が盗られたと徘徊するという内容になっていた。この際に、ひとつのグループが考えて発表したタイトルが「私の靴はどこ?」というものであった。

このタイトル自体はケース概要をまったく表していえないと否定できるものではないし、インパクトとしてはかなりのものであるといえるかもしれないが、あまりに文学的表現に傾斜しすぎて、文庫本のタイトルにはなり得るが、事例報告のタイトルとしては不適切であろう。

このようにケース概要を読んで、その主旨を現すタイトルをつけることを繰り返し行っておれば、各ケースの「問題の本質」に迫る訓練が自然とできるという効果がある。

また多くの介護現場の職員の悩みの種でもある「支援記録」についても、最初にタイトルをつけてから書くと、そこに書くことの内容が見えやすくなってくるという効果がある。それにタイトルをつけておけば、後から読み返すとき、どこに何を書いていたかが探しやすくなり便利になって、資料価値という付加価値を持つことにも繋がる。

このように要点を押さえたタイトルを考えるということは意味のあることなので、面倒くさがらずに「最も適したタイトルは何か」ということを考えていただきたい。

知らず知らずのうちに対人援助に必要な視点を育てる訓練になっているんだから。

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情報ツールの使い方。

昔の話をしてもしょうがないが、僕がこの業界に勤め始めた当時インターネットなどなく、国からの通知は全て都道府県から市町村を経由して始めて現場に紙の分厚い書類として送られてきた。

当然情報をいち早く知る立場に現場職員はいなかったわけで、行政職員より早く情報を得る手段などほとんどなかったし情報量も限られていた。

同時に何か業務上で疑問が生じた場合も、自分で法律や通知等を調べて、それでもわからない部分は市の担当課に問い合わせるほかなかった。市町村の担当者との情報速度と量の違いはこうした関係にも反映されていたということである。

しかしながら今現在、ネットの普及で市町村と現場の情報は、速度でも量でもほとんど差がなくなっている。介護給付費分科会や介護保険関連の全国部課長会議でもインターネットの国の関連サイトに情報が掲載される以前に、様々なルートで情報が入ってくる。

特に情報源と伝達方法の多様化は「行政と現場」「官と民」と言う隔たりではなく、その方法と技術を手にしているものと、そうでないもので情報獲得量が違うという形に置き換わっている。

また現場で生じた疑問点もネット掲示板で情報交換すれば、かなりの部分の問題は解決することができる。

しかしこれも使い方が問題で、ネット掲示板だけに頼って基本となる法律や解釈通知を読まないで、自分の知りたい点だけをネット掲示板に疑問を投げかけて回答をもらっても、結局、理解できるのはその部分だけで、関連するルール全般に及ぶ理解ができないことは、結果的に次から次へと疑問が湧きあがってくることに繋がる。

幹を見ずして枝葉だけを見る結果となるからである。

ここは便利さだけを求めるのではなく、自身で汗をかいて初めて知識になるという考え方も必要な部分である。

それとネット掲示板で様々に情報交換や議論ができることは非常に有意義であるが、ネット掲示板の質問として馴染まないものもある。

例えば実際に在宅で介護をしている家族の方々が、在宅介護について意見を求めること自体は問題ないし、将来に備えて様々な対応の方法の疑問を投げかけて専門家の参考意見を行く聴くことは有意義であろう。

しかし先日実際にあった質問では「流動食で全介助ですが2日前からまったく食事を摂取してくれなくなりました。どう対応したらよいのでしょう。」という質問が寄せられた。しかしこれは悠長にネット掲示板で「食事摂取をしない理由をまず考えて〜」などのアドバイスをしている暇はない。

流動食をまったくとっていないということは2日間、水分摂取も行われていない可能性が高い。このケースの場合、まず何よりも必要な支援は、食事摂取方法を考えることではなく、すぐ医療機関を受診して脱水症状が起こっていないか確認して対応処置することである。

ネットで回答を待っている間に、食事を取れない高齢者に命の危険さえ考えられる状況である。

ネットのない時代に同じことが起こったら、とりあえずかかりつけの医師や医療機関に電話相談したり、近くの病院に駆けつけたりするのではないだろうか。

ネットで必要な情報を自宅で手軽に得ることができる便利さも時(time)、所(place)、場合(occasion)に応じて考えないと大変なことになってしまうように思った。

本ケースは早急に医師に診てもらうようにアドバイスしたが、あのおばあさんは大丈夫だったろうか。心配である。

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人に伝わらない思い込み。

表の掲示板では様々な質問が書きこまれる。

しかしいくら読んでもまったく意味がわからない書き込みもある。書き込んでいる本人はわかっているんだろうが、読み手に伝わらない。それも文章力というレベルの問題であることが多いが、その他にも意味のない略字、勝手な思い込みによる間違った固有名詞の使い方などで混乱することがままある。

まったく意味がわからない場合は回答のしようがないから、そのように書き込んでわかるように書き込み内容を訂正、加筆してもらえばよいのだが、逆に少しだけ内容がわかって「このことを聞いているんだな」という想像ができる程度の文章で、その想像に基づいて回答した場合、後でその想像が全然当たっていないときに、困った問題が生じる。これが一番始末が悪いのである。

先日も、小規模のショートステイという質問があった。

当然、その意味は小規模な短期入所事業のことであろうと考え、その方向から回答を行った。

ところが同じ投稿者から先日、続けて3つのスレッドの連続投稿があった。それを読んで初めて理解できたことがある。それは投稿者が言うところの「小規模のショートステイ」という意味は、事業所単位が小規模の短期入所事業のことではなく、小規模多機能型居宅介護の泊まりサービスを連続して行っているという意味だったのである。

そもそも小規模多機能居宅サービスの、そのようなサービス利用はショートステイとはいわない。日中はパッケージサービスの中の「通いサービス」を行い、夜間のみ宿泊費用だけ自己負担の「泊まりサービス」を連続的に行っているという意味である。

よってこのような利用に対し、ショートステイの連続利用ルールや、施設入所する際の、併設施設入所の当該日の給付費算定ルールは適用されない。

しかし「事業所単位が小規模の短期入所事業」であればそのルールは厳然と適用されるのであり、その前提で回答している限り、質問者が求めている正確な回答などどこまでいってもたどり着くわけがないのである。

略語にしてもしかり。悪戯に言葉を縮めてローマ字表記しても、様々な場面で色々な表記が使われるので、伝えたい言葉が相手に伝わらない場合がある。WC書いてあるからトイレのことかな、と思うと車椅子(wheelchair)の意味で使っていたりする。車椅子と表記するのとWCと表記する手間にさほど違いがあるのかも疑問である。

さらにひどいのになると例えばDMという略語が書かれているとする。一般的にDMという略字表記で何を思い浮かべるだろう。ダイレクトメールとか色々あろうと思うが、医療業界ではまず「高血糖症」を思い浮かべると思う。

ところが内容を読むとどうやらそうではなさそうで、認知症のことを言っているように思えDMって何のことですか?と質問すると意外な答えが返ってきた。

Dementia(デメンティア)の略だというのである。Dementiaは確かにかつて「痴呆」と略されていたし認知症もこのように英訳できないことはないが、これをDMと略することができるかというと大いに疑問である。

それ以前にDMを認知症と認識できる人はまずいないであろう。しかしこの略語を使っている人は日頃から認知症をDMと表記することが当然であると考えて、自分自身ではそのように表記して何の支障もないから、他の人も理解できるのは当然と思っているんだろう。

KYが「空気読めない」という略であるという今風の若者言葉と同じくらい始末が悪い。

しかし我々も自分の仕事を振り返ったときに同じようなことを行っていないか心配になる。よく考えると心当たりも少なからずあるのだ。

我々は福祉や介護の専門家であり、その制度やサービスについては熟知している場合が多い。しかしその制度やサービスを使う人々は地域の一般市民であり、我々と同じレベルで制度のことを知らないのが当たり前である。

そのことはわかっているが、ついつい業務で慣れ親しんだ専門用語を使ってしまったり、我々のレベルで当然わかっているルールを相手も当然わかっているだろうと思い込んで話をしていることがある。

そのことが「言葉足らず」に結びついて、利用者との適切なコミュニケーションを阻む原因となる。日頃からこうしたことがないように自分を戒めながら支援に携わらねばならないと改めて考えるのである。

注意しなければ・・・。

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テレビというツールの近未来像

昨日の元旦は僕も出勤していたが、本州の介護施設では元日に利用者を「初詣」に連れて行くという書き込みが表の掲示板であった。

北海道の施設でも行っているところはあるかもしれないが、しかし現実的にこの寒さの中、長い列に並んでお参りすることは難しい。なにより利用者自身からそうした希望が出てこないから僕の施設では初詣に利用者を連れて行くことはしたことがない。

暖かい施設の中で過ごして正月の気分を感じてもらうことがせいぜいである。今年も元旦の午後は恒例の紅白歌合戦の再放送である。

もちろん独自で録画したものをホールの大画面で観るのであるが、大晦日の夜、眠ってしまって見逃した人などが鑑賞している。僕は紅白自体ほとんど観たことがないし(最近は格闘技専門で大晦日もダイナマイトを観ていた)興味もないが、現在の利用者の多くの方々にとって紅白はやはり特別な番組であるようだ。

ところでテレビ番組のことを少し書いてみたい。

インターネットの世界は日々進化しているが特に昨年1年で動画が非常に身近なものになったことは大きな変化ではないのだろうか。

そのソフトの充実振りには目を見張るものがあるが、動画がカバーする守備範囲も確実に広がっている。スポーツ中継も地上波、BS、CSという区分だけではなくネット中継が普通になって、プロ野球中継も我がファイターズの札幌ドームの主催ゲームはヤフー動画で毎試合完全中継しているのでテレビで見ることはほとんどなくなった。

そのほか僕は70年代、80年代のフォークソングを聞くために動画配信をよく利用しているが、音の質にそれほどこだわらなければ、お金がかからず多種多様な選曲が自由にできて非常に重宝している。

映画やドラマの無料ソフトも日ごとに増えており、テレビで再放送を期待する必要さえなくなりつつある

本来ネットと他の情報ツールは対立するものではなく、それぞれの特徴を生かして相互に補完しあう方向に向かっていくのであろうが、動画の充実振りを見ていると、近い将来テレビというツールはマイナーなものになっていくのではないかと感じてしまう。

特に、毎年変わり映えのない正月特番を垂れ流すこの時期のテレビ番組を見ているとその将来は暗いものに思える。

泡のように消えて行く裸の芸人の無意味なパーフォーマンスや、食べ物を単に大食らいするだけのみっともない女性タレントを毎日露出させるテレビ業界の姿勢は一般大衆が求めているものなのだろうか?

そうだとしたら視聴者はテレビに求めているのは、もはや情報としての価値ではなくなりつつあり、どうでも良い軽いものしか求めなくなっているのかもしれない。そういう意味では限りなく娯楽性のみを求める方向はあり得るのかもしれない。

その流れの背景とは自ら選ばなくとも流される情報だから、不快ではなく心に残らなくても素通りできる「軽いもの」であればよいということになるのかもしれないが、限りなくそれに迎合していった時、テレビというツールは表舞台から1歩も2歩も下がったところに位置せざるを得ないだろう。

少なくともネット動画がなかった時代のテレビの役割や地位がいつまでも残って続いていくと考えることは間違いだろう。

ところで最近、テレビで露出度が高い、いわゆる「大食いタレント」を呼んで公共のイベントを主催しているところがある。人寄せパンダにタレントを利用することを否定はしないが、大食いという何の意味もない破廉恥な行為を公共の場で行うのはいかがか・・。この国では昨年も生活保護を打ち切られた人が「おにぎり食いたい」というメモを残して餓死している現実があるのだ。

マスメディアに踊らされ恥ずべき意味のない行為を公費で運営する首長の見識が問わることになるし、こういう首長を有権者は選択すべきではないという意味では市民の見識も同時に問われてくる。

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3年目のブログ・現状満足度

このブログを立ち上げたのは2005年11月9日である。それから3度目の正月を迎えようとしている。今日は福祉や介護とは直接関係ないが、僕が使っているブログの満足度について書こうと思う。

僕が選んだこのライブドアブログ。現在は余計な広告が入らないように有料版を使っているが、使い始めの頃は無料版を使っていた。

選択の理由は、とにもかくにも容量が大きいということである。2年前にデータ容量が3MBというのは他の追随を許さないほどの容量であった。2年間更新し続けても使用領域はまだ 2.1GB(0.16% 使用)である。死ぬまで更新し続けても容量自体は充分だろう。(今、他社はどうなっているのか調べてはいない)しかし逆を言えば、それ以外の選択理由は特にないということである。

当時、インターファイスや使い勝手は、さほど良いとは言えないかもしれないし、アクセス表示は1日単位でしかできず、アクセスデータは独自でカウンタ管理をする以外なかったなど不満も沢山あった。

そのうちホリエモン事件が起こって、このブログの存続自体が危ぶまれた時期がある。しかし一旦選んだブログの掲載場所を他社に変えるのはなかなか困難だ。

別にブログ掲載場所を作るのは簡単でも、それまで書き込んだデータは容易に移行できないからであり、場合によってはデータ履歴をすべて失うことを覚悟して移らねばならないからである。

しかしライブドアとライブドアブログの消滅の危機は何とか乗り切って、一安心したところ、今年に入って無料版には一律宣伝広告がコメントの下部に掲載されてしまうことになった。これは大いに不満であったが仕方ないとあきらめ、これを表示しない為に有料版に変更した。月にして200円程度だし、解析機能もついているからと、あまり深刻に考えないことにした(不満は残ったが)。

このころまでは、この会社のブログに特別な思い入れはなく、変えられない要素が大きいから継続して使っているだけであった。

ところが今年の夏頃から、ブログ開発の担当者が頑張りだして、次々とユーザーの要望に応えた機能を追加してきている。アクセスカウンタの機能アップで集計も可能になっているし、カスタマイズしたデザインを保存できる機能もでき、季節ごとに気分に応じてテンプレートを変えても、カスタマイズして基本デザインや機能をいじっているデザインを簡単に更新復旧できるようになった。(クリスマスバージョンに変えても、もとの設定のブログに戻す作業が実に楽になった。)

今月7日にはブログのページ移動が簡単にできるようなナビゲーションリンクをトップページの画面上に貼り付ける機能が追加された。

これも早速アップさせてもらった。まあほとんど興味がないもの、使わないという機能アップもあるが、ユーザーの要望に応えようとする姿勢そのものが嬉しいのである。

このブログ開発担当者とは結構、因果な商売である。無料版を使っている人が多数派の現状であるのに、やれ使い勝手が悪い、サーバーのメンテナンスが悪い、機能が貧弱だの、ともかく苦情と非難は日常茶飯事で、無料で機能アップしても、感謝の声相半ばして「それは当然、でもここがまだ不満」的な指摘コメントが多い。

さぞかしストレスがたまる担当部署であろうと思う。

しかしそうしたユーザーの要望に応えるように最近は機能アップが毎週のようにある。そういう意味で最近の満足度は赤丸急上昇である。

ただ僕の要望を一つ言うとすれば、デザインプレートの新規追加があまりないのが不満である。かといって新規追加があってもほとんど変えないとは思うのであるが、何か新たなテンプレートが増えると嬉しくなっちゃうのである。

開発担当者さん、頑張ってください。ということで、現時点でこのブログを選択したことは結構満足しているということである。

今年は多分、明日が記事更新としては最終日になり、その後は元旦まで新たな記事は書かないだろう。今年最後に何を書くかは決めていないが、1年の思いを集約した内容にしようと考えている。

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カーテンコールはいらない

終わりのない始まりはない。いつ終わるかは分からないが、始まりは終幕へのプロローグでもある。

このブログも2005年11月に立ち上げているので、それがスタートであり、このブログの終焉までのカウントダウンでもある。ちょうど今月がまる2年目だ。ほとんど平日は毎日のように更新をしている。よく書くことがあるものだと自分でも思う。だから時には他人からみればどうでもよいことが書いているかもしれない。

でもそれらはすべて僕が書きたいことであり、書きたくないことを無理に書いている日は一日とてない。僕にとってはすべて意味のある記事で、すべて僕にとっての真実である。

ところで、僕がよく読んでいる知り合いの方のブログの最近の記事のコメントで、ある意見を「全然わかってない輩がいるのが情けない…」と否定して批判する内容を見た。

そのブログの内容に関してではない、まったく別な問題に関してのもので、内容からして僕がブログや表の掲示板に書いている日本介護支援専門員協会の批判と対応に関しての意見を標的にしたものだろうと思う。

相手を見下して一方的に「輩」と蔑まれる覚えもないし、他人の意見を読んで、その人自身が「情けなく」思う必要もないだろうと思うが、どちらにしても、そういう関係のない場所で他人の批判をして良い気持ちになっている人間は信用できない。

そのコメントを書いた人間は自分だけが全てを「わかっている」と思って、自分の意見や価値観だけが正しいと思っているんだろう。たいしたものである。

ただ間接的ともいえない別な場所でそうした批判を書いているのはなんのつもりなんだろうか。意見はいろいろあってよいはずであるのに・・・。京都の出版関係者で言論についてよくわかっている立場だそうだが、そうであれば余計にたちが悪く感ずる。

こういう人間にとっては、書き続けられているブログの内容がすべて正しくないと(というより自分の意見と同じでないと)「わかっていない意見で有害」ということになるんだろう。僕のブログは大多数の意見に阿(おもね)るものではないから、かなり気に入らないだろう。正解を書いているわけではなく僕自身の心のありようを書いているからだ。

いつか書いたことがあるが、このブログに特に目的があるわけではない。書きたいことを無責任に書いている。

たまにコメントの中で、僕のブログで「勉強させもらっています」というようなありがたい言葉をいただくことがあるが、人を教育したり、訓戒をたれたりする目的を持っているわけではない。自分の考えをできるだけ素直に表現すること自体が目的であり、時には独りよがりの考えであっても、自分の気持ちをストレートに書いている。

このことが負担になったらやめるだけの話である。

時にはブログコメントに「その考え方は違う」という書き込みもあるが、世の中の全ての人が納得できる説明を書いているわけではない。違う意見があって大いに結構である。正解だけを求めて何かを書いているわけでもない。

なぜなら正解とは真実ではないことも多いからである。

ましてや人を説得しようとして書いているわけではない。

その時々の自分の「心のありよう」を文字にしているだけである。だから時には過激な表現で文字を躍らせるときがある。そうすることによって自分自身の心の中の「炎」の燃え場所を探している。

それをいつまで続けるか、現時点では考えてもいないし考えられもしない。しかし終わりの場面では、不可抗力ではなく、僕自身の意思によって幕を引きたいとは思っている。

その日がいつになるかはわからないが、例えこのブログを読んでくれる方が一人もいなくなっても書きたいことがあれば書き続けるだろう。そして終幕は「静かに」と思っている。

そのときにカーテンコールを求めているわけではないのだ。

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広報ビデオを動画にしようか

いまから20数年前の昭和63年という年は当施設の開園5周年の年であった。

そのとき、かなり盛大に5周年のイベントを行い、記念事業を数々行った。施設開設5年程度でなぜあんなに大掛かりな事業を行ったのか、今考えると不思議であるが、度派手な記念事業だった。

現在もある屋外ステージも、5周年の記念行事を屋外で行うために建てられたものである。ログハウスのステージで、舞台の後ろには3畳ほどの楽屋も作られている。当時の建設費で550万、屋外用のオーディオ機器を加えると600万以上の費用をかけているはずだ。

ここで行ったお祭りは、現在でも敬老の日の「緑風園祭り」として引き継がれているが、現在とは費用のかけ方が違う。当時は、市内の主なボランティアを全て招待し、そのために大型バスを5台貸しきり市内循環して、500人以上の(家族以外の)来園者を集め、イベントも、平尾 昌晃音楽学院から、歌手志望のプロの卵達を集めて歌謡ショーを行った。

今では笑い話だが、温泉にある「登別クマ牧場」から、小熊を連れてきて、このステージでショーを行ったニュースが全国ニュースで流れ、猛獣を連れ出していることで何かの法律に触れることが問題となったということもある。以後、クマ牧場の小熊の外部派遣が中止されてしまった。

ところで、その際に、5周年記念誌はもちろん作ったが、それに加えて広報ビデオを製作した。
確か当時、登別市が広報ビデオを作って、評判になっていた頃で、それに影響されてのことであると記憶している。

今と違って、パソコンが普及していないアナログの時代であるから、VHSビデオであるが、製作は、テレビ番組などを手がけているプロダクションに発注して作っている。正味19分であるが、これは通常、コマーシャルが入る30分番組の実映像時間とほぼ同じであるそうだ。

内容的には古臭いし、中の説明も「クサイ」部分があるのだが(編集に僕はあまり関わっていなかった)、それなりに今でも見られることは見られる。映像に残っている思い出とは、当事者にしてみれば結構恥ずかしいが、たまに見ると懐かしくもあるものだ。

5周年イベントの様子が中心になって、施設の生活を紹介しているものだが、当時27歳の僕もしっかりインタビュワーとして登場している。今で言うリポーターの役回りだろう。

施設も50床の頃で、中の設備もしつらえも、サービス内容も職員構成もまったく現在とは別の施設といってよいほど違うのであるが、今の緑風園の歴史を知る上では貴重なビデオである。

しかし時の流れは残酷で、テープもかなり劣化してきている。このまま放っておけば、いずれ見られない状態になるだろう。

当時このビデオ製作にも、100万ほどの費用がかけられているはずである。もったいないと思った。

そこでDVDなどにダビングでもして保存しておこうかと思っていた。しかし、ここでさらに考えついたことは、せっかくだから、動画にしてホームページで皆さんにも見ていただいたらどうだろうということである。

そんなの見る価値ないと思っている方も多いだろうが、こうした施設の広報ビデオを公式ホームページから動画で見られる、というサイトはほとんどないように思う。結構斬新なアイディアではないか?(施設の広報ビデオ自体あまりないと思うが・・。)ただし前述したように、ビデオの内容自体は20年以上前で古臭いが、それはそれで面白いだろうと思った。

退職した職員も、ホームページから当時の動画を見て懐かしむことができるし、当時の映像に写っている方々のご家族にとっても懐かしいのではないだろうか。登場されている方々全てには、当時、撮影に際しては、あらゆる方法で広報として上映することを条件に承諾を得ているので特に問題はないと思う。

緑風園の開設5年目に作った広報ビデオが、ホームページから動画配信される、というこの考え、どうだろうか?

ご意見がある方は是非、コメントを書いていただきたい。

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メールを活用して連絡事務負担を減らそう。

僕は、地域ケアマネ会(のぼりべつケアマネ連絡会)の代表も務めているので、必然的に当施設がケアマネ会事務局をも兼ねている。

当然、会員の皆さんに対する様々な連絡事項は、当施設を発信源にして行うことになる。しかし施設と会は別物なので、施設の経費を会の運営に使うわけにはいかないので、できるだけ区別して会のものは会の費用負担で行うことになる。

ただ電話やFAXなどは会専用のものがあるわけではないので、どうしてもこの部分は施設の機器を借りて連絡する、ということになってしまう。

そういう問題もあるし、会自体の経費節減という問題もあるので、連絡方法としてはメールが一番望ましいと思う。メールだとコミコミ料金だから、別に連絡経費が発生するわけでもないし、紙代もコピー代も必要ない。研修会の案内なども文書をメールに添付すれば、時間もかからず送料も要らず、たくさんの事業所に一斉送信できる。参加申し込みをそれに返信してもらえば時間や手間は他の連絡媒体とは比べ物にならないほど、かからない。

費用、手間、作業時間、情報速度、どれをとってもメール以上に優れた連絡方法は現在存在しない、と思っている。

そのため毎年新年度に作成する会員名簿には、各施設、事業所、個人などの連絡用メールアドレスも情報提供していただき掲載するようにしている。

ところが、である。いまだにメールアドレスがない事業所等が存在するという事実がある。パソコンはあってもインターネットに繋がっていないとか、ネットは繋がっているけど、メールの使い方がよくわからない、とか理由は様々だが、メールが情報媒体として活用されていない事業所があるというのがまぎれもない事実なのである。

メールアレルギーとでも言うのだろうか・・・、FAXなんかよりずっと便利だし、使い方だって難しくないだろうに・・。こんなに簡単に使えて、便利なツールはないのに活用してくれないので、そういう一部事業所だけ、わざわざ切手代をかけて、封筒代もかけて、印刷物をコピーして送る手間がいることになる。なんとかしてくれよ。

加えて、メールを送っても日常使っていない、毎日送受信を確認していない、という事業所もあって、せっかく新鮮な情報を送っているのに、確認が遅れて意味がない、という事態になることもある。メールは、特殊な知識や技術がいるものではないので、もっと日常的に身近に使ってほしいとつくづく思うのである。

月曜のブログで紹介した「3市1町合同研修会」の案内は、来週早々にも送ろうと思っているが、これについてもメールにファイル添付して、ほとんどの施設、事業所に送ることになる。しかし実態としては、送って返信を待つ、というだけでは済まず、現在の方法としては「送りましたよ。」あるいは「送りますので確認してください。」という電話連絡が必要な施設や事業所が多いのである。

ネット社会の便利さをほとんど有効に使っていない現実が、ここにある。

会員の皆さん、貴重な経費や時間を節約する為に、それだけではなく事務局の労力負担も軽減できるように、どうか積極的にメールを活用してください、と節に願うのである。

ということで10月13日の合同研修会案内、来週にはメールで送ります。封書で届いた事業所さんは、是非、今後の対応を検討していただきたい。

※明日の土曜から、新土曜特集『masaのフォーク道』を週1土曜限定で連載しようと思っている。あくまで思っているだけで、実行するかどうかはわからないが、明日、書き始めるかもしれない。

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お寒い老施協の情報提供

老施協という組織に対する批判は様々あるし、その運営方針をめぐっては大きな対立があることも事実である。

しかし我々福祉系の介護施設や介護サービス事業者の力を結集する組織が必要ないなんて思わないので、現状がどうあれ、短絡的にその組織から脱会すればよいとも思えない。

しかし老施協から下部会員施設等へ流されてくる情報を見て感じることは、いったい何をやっているんだ、という感想しかない。

このIT時代に、昔の感覚でしか情報提供していないから、必要な新鮮な情報は皆無だし、老施協の伝えたいことしか伝えようとしないから、我々の知りたいことと乖離した情報しか流れてこない。

老施協総研なんて一体何のためにあるんだい。会長の太鼓もち情報しか流さない総研なんて要らんぞ。

今回送られてきた月間老施協にしても一体何百万かけているか知らないが、JSウイークリーやFAXで流した情報、それも何度も繰り返し、一方的角度でしか検証していない同じ主張を垂れ流しているだけではないか。30ページ以上もかけて作っている冊子の中に我々が日頃手にできないような情報は皆無だ。馬鹿馬鹿しい。

我々の会費の使い道として考えると、これほど無駄なことはない。

政治的活動が必要だというなら、本当に日々何をしているか会員が肌で感じられる情報を提供すべきだし、老施協しか把握していない情報もネットの会員ページなどで積極的に情報提供するなどすればよいではないか。直接各施設にFAXを流す暇があるんなら、その情報こそ老施協と施設の直接的やり取りなんだから、会員にしか伝えられない裏情報を伝えることがあって良い。

だいたい老施協が会員に示しているテーマやスローガンもお寒い。かつてのアンダープロジェクト、いまはイノベーション、何を言いたいんだ。横文字でスローガンを叫べば会員がついてくると思っているのか。それが会員の求めているものなのか?現場の意識とのずれを感じ取れない役員が自己満足のスローガンを掲げているだけではないのか。

各委員会のトップを見ても顔ぶれが古すぎる。こんな古ぼけた組織で「現場の風」など感じられないだろう。

主催している研修もお粗末な内容が多い。参加してがっかりする研修が多すぎる。老施協主催の看取り介護研修だって、お寒い以外のなにものでもない。特養が終生施設としての機能を発揮することが存在意義で、そのための看取り介護であるというなら、もっと特養という現場から看取り介護の考えや実践方法を発信してもよいはずなのに、医師や看護師に頼った講義ばかりではないか。

現場からの意見発信ができないような看取り介護なら、しないほうがましだろう。

馬鹿馬鹿しいのは、看取り介護に必要とされている「看取り介護指針」に加えて「看取りケアマニュアル」の作成を推進している点である。

指針とマニュアル、確かに違いはあるが、そもそも看取り専用のマニュアルが別個に必要なのか?看取り介護は、特別なケアではなく、日頃の介護の延長線上にあるもので、その中にターミナル期の必要な視点を、家族も交えたチーム全体で確認把握してケアを行うというものだ。そのために「看取り介護指針」がある。書式だけ増やしてもケアは良くならんぞ。

まったく現場で実際にターミナルケアに携わらないで、葬式に出るだけの施設長連中が考えるからこんな考えになるんではないのか。

老施協のホームページだって、多額な運営費をかけているらしいが、お粗末極まりない。ここでしか手に入れられない情報など皆無だし、会員の声を組織に反映するような双方向の情報交換の取り組みも一切ない。ただあるだけのホームページで意味はない。老施協総研の実態がよくわかる。

このような組織が広報コンテストを主催して、ホームページ部門では各施設のホームページを審査して、賞を与えるというのだからお笑い草である。自らのホームページを出品して審査されてみろ。箸にも棒にもかからないだろう。

まったくあきれたコンテストである。恥ずかしいと思わない感覚が理解できない。イノベーションが必要なのは老施協の組織そのものではないのか・・・。

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公式ホームページに盗用文書を掲載する施設の見識

「盗人猛々しい(ぬすっとたけだけしい)」という言葉があるが、今回の問題はなんと表現したら良いのだろうか。

先週木曜、僕のサイトを利用している常連の方から、僕が自ら作ってトップページに掲載している「看取り介護の指針」を自分の施設の独自指針だとホームページに掲載している施設があるとの連絡を受けた。

ホームページに掲載していても、著作権はなくならないので、掲載した資料等を個人が閲覧したりダウンロードして使用することは問題ないが、それを自分のものだとして第3者に配信したり、学校の授業などで勝手に使用することは、この国の法律では許されていない。

しかしこんなことはホームページを作っている者、ましてやそれが個人サイトではなく、社会福祉法人のサイト作成者や管理者ならば、指摘するまでもなく、当然知っておらねばならない知識であり、この連絡を受けた際は「そんなことはないだろう」という気持ちのほうが強かった。

しかし見て驚いた。僕の指針をまったくそのままコピーペーストしている。
参考にして加工し、独自の指針を作っている、というレベルではなく明らかな盗用である。

ただ少しは悪いという気持ちがあったのか、僕が1.2.3と数字で示している部分は、ア.イ、ウに変えている。あと協力医療機関名は当然変えているが、それだけだ。誰が見ても僕が作ったものとわかる。

そのホームページは愛媛県松山市の社会福祉法人 北条福祉協会・特別養護老人ホーム高縄園という施設のものである。この施設の良識を問いたい。

この加算ルールができたとき、算定要件として必要な「看取り介護指針の雛形ってないの」という声に応えて、僕が作って、全国1早くサイト上で公開したものであることは、たくさんの訪問者の皆さんも知っている。

しかし、この「看取り介護指針」の掲載に当たっては同時に多くの皆さんに参考にしていただいたり、使っていただくことは構わないと思っているので「看取り介護の指針を作ってみました。参考にしていただいても構いませんが、ひとことメール等で連絡いただければありがたいです。」と書いている。

特養だけでなく、全国各地のグループホームからも「使わしてもらっている」とか「参考にさせていただいた」とかたくさんの連絡をいただいている。その数以上に、勝手に使っている施設や事業所も多いということであるが、それは問題ない。

しかしそれをそっくりコピーペーストして、自らのホームページに「我が施設の指針」として公開するのはいかがなものか?社会規範や倫理を守るべき社会福祉法人が行う行為であるのか?不思議としか言いようがない。

このことについて早速電話で確認したが、その施設の施設長の見解は

「担当職員が作ったものをそのまま公開している。」
「出所は確認していない。」
「必ずしも掲載サイトから直接コピーしたものとは言えず、担当職員がどこからか参考文書としてもらったものをそのまま使用したのかもしれない。」
「までも参考文書を施設独自で取り込んで使っていて問題は感じていない。」
「著作権については知識がない」

というものだ。

馬鹿をいうな!!施設のトップとは、施設として行っているすべての行為の最高責任者ではないか。ネットを通じて全国に情報を発信する責任を何も感じていないということか。社会福祉法人としての見識さえ問われかねない。

さすがにあまりにもそっくりそのまま掲載していることが「やばい」と感じたのだろう。金曜の朝には、そのページから「看取り介護指針」の部分だけがそっくり削除されていた。本来なら、こうした盗用問題を引き起こしたサイト自体を一時的にでもサーバー上から削除すべきだろう。

しかもそのことに対して謝罪その他、具体的なアクションは何もない。大人として、社会人としての一般的礼儀もわきまえていないということだろう。こういう施設がホームページで人権云々を唱えても何の説得力もない。

こんな施設で良い介護が行われているなんて思わない。少なくとも、人の権利を守るという姿勢がないことは今回の問題ではっきりしているんだから、その中で、人権は守られるような意識も低いだろうと容易に想像できる。

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スタイルシートを更新

今日の土曜は、仕事も休みである。いつもならブログの更新もお休みするのであるが、デザインを変えることにして朝から作業を行っている。知識が不足しているのでスタイルシートの更新の際、わからないことがあって完成はしていないが、大方、公開できる形にはなったので、一応新デザインに更新した。

タイトルの画像は、オフロードバイクである。

高校時代、バイク、特にオフロードバイクが好きでスズキのハスラーというバイクを乗り回していた思い出があるが、この厳しい制度の中で、道なき道を走り続けていく、という今日の福祉現場の状況を象徴する意味もある。

ところで僕の愛車ハスラーは、僕が大学4年のある日、弟が事故を起こし廃車にしてしまった。

その日は札幌のホテルで知人の結婚式に出ていたが夜、帰宅すると家には誰もおらず、夜中にけたたましく電話が鳴った。市立病院からで、弟が事故で緊急手術をしているという。酒の酔いも一気に覚め、病院に駆けつけると、頭を打った弟の手術はまだ続いていた。朝方までかかった手術は何とか成功したが、その後彼は生死の境を行き来し、家族も覚悟したことがあった。彼が17の冬である。

幸い死の淵から生還した彼は、その後、後遺症も残らず、本州のある大手企業に就職し原子力発電に関わっていたが、様々な事情で数年後に北海道に帰ってきて、別の職業についてた。

しかも10年ほど前、かれは再び交通事故を起こす。バイクの事故は彼の過失ではなく相手側の過失によるものであったが、今度の事故は、彼の運転する車の単独事故であり、しかも酒気帯び運転で言い訳の出来ない事故であった。

そして彼はあの日と同じように手術室に横たわり、僕の父母は再び医師から覚悟を促された。

幸い、その時も彼は生還した。足にはやや障害が残ったが、日常生活に支障はない。しかし酒気帯びの事故で、事故を起こした車も会社のもので、地元の新聞にも大きくそのモラルと共に取り上げられた。当然、責任は免れず、解雇もやむを得ない状況である。

しかしその時、なぜ彼が会社の車両を酒気を帯びた状態で運転したのか?警察の事情聴取の際にも、会社の上司からの聴取にも、彼は自分の責任以外、一言も語らなかった。やがて解雇の方針が決まったとき会社の同僚や後輩から、情状酌量、解雇反対の声が上がった。

彼の会社は全道チェーンの飲食業であるが、不思議なことに、それらの声が全道の支店から寄せられた。

結局彼は、給与の7割カットと東北に進出した支店への配置転換という形で会社に残った。そして全く見知らぬ町で働いた数年の間に、店の同僚と結婚し家庭を持った。

そして東北の支店の業績を上げ、昨年札幌の支店に店長として戻ってきた。両親は僕と離れた実家で暮らしていたが、父が入退院を繰り返して体調が悪いときで、彼が奥さんと共に実家に同居してくれたことは、僕も安心したし、何より両親が喜んだことだろう。

その父が昨年9月に急逝した。弟夫妻が同居するようになってから、わずか5ケ月後のことである。しかし父は体調が悪いながら、自宅で生活し、倒れて心停止したときも、弟の妻に、母と一緒にドライブに連れて行ってもらって(僕の父は若い頃から自分で運転は出来ないのにドライブ好きであった)、帰りに大型量販店に寄っている最中の事であった。

僕と弟は倒れたときには間に合わなかったが、母と弟の妻によって充実した時間を過ごした中での出来事であったと思う。父は一旦心臓が動き、その1週間後に死亡したが、最後まで意識は回復しなかったものの最期は孫も含め全ての家族に見守られて逝った。弟夫妻が短い期間でも同居してくれて本当に良かった、と思う。

弟は事故に2度も会うという不幸に見舞われ、運が悪いという見方も出来るが、あえて僕は、そんな大事故で命が救われてことを幸運と思う。目に見えないものに感謝している。

命があることで、たくさん幸せが彼にも彼の周りにも生まれてくるのだ。本当にあの時死ななくて良かった。死んだ父が一番そう思っているだろう。弟より先に逝けて喜んでいるかもしれないと前向きに考えても良いと思う。

僕のつぶれて廃車になったオフロードバイクも、僕らの人生の肥やしになってくれているはずだ。タイトル画像にはそんな思いもある。人生何事も前を向いて歩かなきゃあ。


今日は別の事を書くつもりだったが、高校生の頃、大学生の頃を思い出して妙に感傷的な気持ちになって僕自身の話で終わってしまった。認定調査の変更の話題は別の機会に書きたい。

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ネットで広がる輪〜出会う縁のすばらしさ

昨年、僕は父を亡くしたので新年のご挨拶や年賀状は遠慮させていただいている。しかしこのブログは施設のサイトの一部になっており施設の管理者として、サイトの管理人として皆様に新年のご挨拶を申し上げます。

もっとも近しい存在である親を失うことで、逆に今、僕の身の回りのある様々な縁や人の繋がり、ネットワークが愛おしく思えている。大事にしなければならない。そういう人の縁がインターネットを通じて作られるのも現在の社会の有難さである。

僕のサイトは2001年5月に開設した。北海道の片田舎の1社会福祉法人のサイトであるから当初の訪問者数は職員を除けば数人であった。しかし掲示板の盛り上がりともにアクセス数が激増して行った。掲示板は当初レンタル掲示板を使っていたが、書き込みが1週間以上なくて自然消滅し、2代目で消滅しないタイプの掲示板を使った。(現在は5代目である)

ネット関連で最初にお会いしたのは「ケアプランの広場」の松本さんである。ふとしたきっかけで相互リンクを結んだが、松本さんは特養などでは全国的に使われている包括的自立支援方式(3団体版)というアセスメント方式を作った人で、全国の保険者担当者や介護支援専門員に対する研修講師として日本中を飛び回っている。そんな忙しい合間をぬって、わざわざ僕に会いにやってきてくれた。吹雪で千歳空港が閉鎖になっていた日で、帯広空港から汽車で大変だったろうと思う。ついでだから、地域のケアマネ会に呼びかけて1時間の講演をしてもらった。その節はお世話になりました。

施設サービスの限らず居宅サービスやその他の福祉分野に広く回答でき、正確で迅速な情報が多くて深く議論できる掲示板として関係者の間で話題になっていったのは半年後くらいからであろうか。長崎のMr.Mさんは当時からの参加者であったと思う。若いのに鋭い考えを持っていると共に、彼の施設を知ることで実践家としても、在宅介護支援も含めてすごい人だなあと思った。

今でも適切なアドバイスや情報をいただいている。

今年、長崎の島原市のケアマネ会に僕を講師として招いてくれたNA6さんも古くからの掲示板参加者である。いつも掲示板ではしっかりした意見を書いてくれるが、今年お会いしたときなかなかのイケメンで、若いのに少々驚いた。この業界の人材も豊富なんだ。

全ての分野で優れた実践をしている兼任CMさんも当初からの参加者である。毎回、適切なレスポンスを書いてくれるが、それ以外にも彼の人柄と社会福祉援助者としての人となりを表すものとして過去ログに掲載している「対人恐怖症の学生の介護実習について」 の報告は是非皆さんに読んでいただきたい。すごい人だと思う。

時に辛口のコメントが鋭い小型指導員さんは、ユニークな理事長さんの迷走を見事に軌道修正して施設を正しい方向に導く達人であると共に、4コマ漫画を書かせれば業界NO1という裏技師である。

僕のサイトのアクセス数が急激に増えるきっかけになったのが15年のルール改正、支給限度額1本化議論である。これらの掲示板の歴史は「掲示板に歴史あり」で書いた内容と重複するので、詳しくはそちらで見てもらいたい。

その時、僕の掲示板で激論を交わした相手が尊敬すべき実践家としてのBOBさんであり、今でも適切にアドバイスをいただいている。実際にお会いしたことはないのであるが、携帯メールではやり取りが続いて、もう古くからの知人と同じ感覚で、どこかでお会いしても違和感はないだろう。彼の高齢者に対する温かい目と、認知症ケアに関しての見識の高さは真似ができない。

当時の議論の進行を注目していた方々の中にコンピューターソフト関連の皆様も多かった。新しい請求ソフトを作るのに情報が錯綜して、いち早く正確なルールを示した僕の掲示板にずいぶん感謝をいただいて恐縮した。

今、福祉関連の業界関係者で知らない人のほうが少ない「介護保険情報BANK」のJTさんもその議論の際、ROMしていただいた方の一人で、やがて彼から「全国課長会議で取り上げられた自治体サイトですごいのがある」とご紹介いただいたのが「篠山ホットステーション」であり、当時そのネット管理者であるキミオーさんとお付き合いするきっかけになった。正直、行政担当者でこれほど福祉・介護サービスに熱意を持って実践している人がいることは驚きであった。今では毎年キミオーさんから僕の施設に「丹波黒豆」を送っていただいて利用者も楽しみにしている。今後も、いろいろな場面で情報をいただきながらお付き合いが続くと思う。

それらの人たちの周りの人々とも輪が広がって、今では昔からの知り合いのつもりで、ネットが縁でであったことさえも忘れている人もいる(ごめん)

越後の熱血PT・大渕さん(NHK教育テレビでご覧になって知っている方もいるでしょう)もMr.Mさん絡みで、僕の掲示板で知り合った。その大渕さんから紹介を受けて数年前に日総研の冊子「介護リーダ」に小論文を書いたことがある。その後、その同社の編集者の方ともメールでやり取りするようになり、何回か原稿依頼を受け、昨年4月からは隔月で連載もしている。

ブログは1昨年、平成17年の10月から書き始めた。当初は皆がやっているからという軽い気持ちで日常の思いを綴っていて数人の読者から始まり、やがて100人を超え、500人近くになり、あれよあれよで、今では平日は700人近い人が読んでくれている。

そのブログに前述の連載について紹介したところ北海道医療新聞社から出している介護新聞の編集者の方から、同誌にもコラムを書いて欲しいという依頼があった。冊子連載を抱えている身で、しかも昨年4月は施設長に就任した時期でもあり、公私共に慌しく、週1回の連載は無理と思ったが、編集者の方からブログに書いてあるようなテーマでよいから、ということと、各テーマも具体的に示していただいたので、やってみようと思い、結局、なんだかんだで半年以上24回の連載を続けた。

北海道では介護新聞を定期購読している施設や事業所が多くて、いろいろな場所で「介護新聞見ています」という有難い声をいただいた。メールを送ってくださる方も多く、知り合いが増えた。

掲示板以外にもサイトでは様々な情報発信をしている。医師への情報提供依頼の地域統一書式や各事業所への情報提供等の書式も開発して公開している。今年4月の制度改正では、おそらく全国1早く「看取り介護指針」を作って掲載した。この指針については、特養だけでなく、グループホーム関係者が「医療連携加算」に必要な指針として参考にしたいとか、使わせてもらってます、というメールを数多くいただいた。

全国の施設や事業所で使っている「看取り介護指針」が僕の作ったものがベースになっている場合も多いのであろう。この指針の公開をきっかけとして「看取り介護の実践」についての講師として招かれる機会も多くなった。道外では岩手県の講演から始まり数箇所を訪れ、道内でも施設だけでなく今年早々には札幌で行われるホスピスの全国大会にもシンポジストとして参加する予定である。

掲示板を通じて僕の古くからの友人と、ネットで知り合った友人が知り合うこともある。道内の福祉の実践家としては屈指の存在で、僕も尊敬する友人のBooちゃんは、今年、札幌で行われた老施協全国大会の分科会で司会を務めたが、そこで発表した一人が越後の達人PT大渕さんだ。

大会中にも挨拶はしたんだろうが、大会後、掲示板であらためてお互いを紹介しあってたよね。こういう輪が貴重である。

それ以外にも様々な出会いが数多くあり、それらの方々に支えられサイト運営管理を続けている。
ネットをきっかけに、直接あるいは間接的に知り合った人々との輪が広がり続けており、さらに僕の掲示板を通じて参加者の方々がそれぞれ知り合い、交流を結び横のつながりができている。そうした縁が広がり続けている。そして、そのことが僕の人生を豊かにしている。有難いことだ。

長くなりすぎた。まだまだ書きたい人が沢山いるがご紹介しきれない。それらの方はまた別の日に書かせていただく。

ともかく、今年もどんな新たな出会いがあるか楽しみである。皆さん、今年もどうぞよろしくお願いします。

介護・福祉情報掲示板(表板)

付録:masaとは誰か

掲示板に歴史あり

このブログをご覧の方は既にご承知だろうが、表の掲示板を昨日変えた。

その大きな理由は、不正な書き込み、いたずらの書き込み、アダルトサイトへの誘導などの書き込みが増えて、それまでの掲示板の機能では対応が難しくなったからである。

それらの書き込みに、ほとんど一般のROMされる方々は気がついていないと思う。それだけ書き込みに即応して削除していたということだ。未明の1時から5時頃までは対応できなかったが、それ以外の時間はすべて網を張って削除していた。結構大変なんだな、これが。

さてそういう不正の書き込みが多いということは、アクセス数自体が多いということだ。

しかしあの掲示板が当初から皆に知られていたわけではない。

ホームページを立ち上げたのが2001年の6月で、その際に無料レンタル掲示板をサイト内に設置した。これが初代掲示板である。

この掲示板は1月ほどでなくなってしまった。じつはバナー広告が入るタイプで、15日間連続して新規書き込みがなければ自動的に削除される掲示板であった。つまり誰からも書き込みがない日が15日続いてなくなってしまったのだ。今では考えられないことだ。

しかし当時はサイト自体の来訪者が1日50名に満たないのだから(つまり職員以外見ていないということであったろう)書き込みがないのも当然だ。

そのあとバナー広告のない無料レンタル掲示板に変えた。この掲示板はサーバー自体が不良で、何度も障害がでたが、1年以上続けた。この掲示板の設置からアクセス数が増えだした。

まず心がけたのは、質問の書き込みがあったら、確実で正確なレスポンスをなるべく早く書き込むことに努めた。それから保険制度に関する情報提供を積極的に行うようにした。

そのため僕は掲示板の管理を通じて介護保険制度全般の勉強をしているような状態であった。門外漢である医療系サービスや訪問系サービスにも随分詳しくなった。

それでも当初はさほどアクセスもなく、書き込みもない日が続いたが、いつのころからか施設関係者の方々で常連のように掲示板を訪れる方が増えていった。

そして飛躍的にアクセス数が増えるきっかけになったのが介護保険制度の最初のルール改正だ。

皆さんは、そのことを覚えておいでだろうか?15年の報酬改訂ではない。その前のルール改訂だ。

じつはこれは14年1月1日から、それまで支給限度額の外枠にあったショートステイが支給限度額の中に含まれ、連続利用は原則30日とされるなどの、支給限度額の一本化に伴うルール改正である。

この際、ショートのリセットルールなど、運用上の解釈で一番早く、正確な情報を発信し続けたのがこの掲示板であった。

そのため施設関係者や居宅のケアマネージャーだけでなく、コンピューターソフトの開発に携わっている方、保険者の担当者などからも注目される掲示板になっていったという経緯がある。

今、保険制度の関係者の方が毎日訪れるサイトとして有名な「介護保険情報BANK」のJTさんも、そのころ僕の掲示板を訪れていただいた一人で、情報BANKを立ち上げる動機の一部に、この掲示板があったと聞いたことがある。

その後、紆余曲折しながら掲示板は昨日新規に立ち上げたもので6代目なのである。あのアクセス数は5代目のころからしか引き継いでいないので実際の延べアクセス数はもっと多い。

その後15年のルール改正、その後の、過去ログのページの新設、過去ログの自動検索機能の設置、などでさらにアクセスは増え、今回の制度改正でも、来訪者が増えている。ありがたいことだ。

まだまだ人間的修行が足りず、当たり前の質問や繰り返される同じ内容の質問に、ついついつっけんどんになってレスポンスをつけることもある。反省しながら今後の管理に努めたい。

それにしても人に歴史あり、というが、今振り返ると「掲示板にも歴史あり」である。

介護・福祉情報掲示板(表板)

雪の夜〜ふと感じたこと

a60ba77b.jpg雪が遅かったこの地域も昨日から本格的な冬に入る様相だ。

道路の樹木には雪が降り積もり、そのなかを車で走るとさながらホワイトイルミネーションのトンネルを走っている感覚におそわれる。人工より、自然のものがはるかに美しい。

僕の住む環境は、まだそんな自然の中にある。通勤途中に鹿にぶつかりそうになることも珍しくない。

そんな田舎にいながら、情報を得ることに苦労することがなくなったのはネットのすごさである。

僕のホームページ掲示板には、時として、どこより早くて正確な情報が流されることがある。さぞかし充実したネット環境なのだろうと想像している方もいるかもしれないが、実は職場のある地域は、光どころか、ADSLさえ来ていないブロードバンドとは無縁の世界だ。

ISDNであるからPDFファイルの文書は大嫌いである。

だから僕の作るサイト情報は、ほとんどテキスト化している。

携帯だって、1社の電波しか、まともに届かない。

こういう環境で緑風園のサイトは運営され、全国の皆さんに見ていただいている。掲示板にこんなに多くの方が集まってくれるようになったのは、いつごろであろうか。おそらく、ひとつのきっかけは「過去ログ」のページを充実させてきたことにあるんだろう。

しかし最も大きな要因は、書きこみをされている皆さんの、まじめで見識の高い議論の姿勢だと思う。僕自信もいつも勉強させられている。

環境は大事だが、やはり大切なのは人である。

福祉、介護の現場も同じである。いかにアメニティを整えようと、最後にはそこでサービス提供する「人」が重要なのである。

制度改革が給付費減にターゲットを絞っていく中、その大切な「人」を育て、有能な人材が貼りつく環境を、我々は失いつつある。本当にこの国の将来の為の改革になっているのか・・・。

我々が年老いたとき、その答えは我々自信に返って来る。

介護・福祉情報掲示板(表板)

裏板風にブルグを作ってみました

初雪が降った。朝の施設周辺道路は、うっすらと雪が積もっている。また「雪かき」がルーチンワークの一部になる季節がやってくる。

冬の到来は、介護の現場だけでなく、高齢者の生活に様々な影響を与える。

雪かきができないため、冬だけ老健に入所するという方もいる。雪のために必要な買い物に支障をきたして訪問介護を利用する高齢者がいる。外出機会や手段を確保するために介護サービスが必要になる方もいる。火の管理だけが心配で独居が難しい高齢者がいる。雪が降らない日でも寒さは時として高齢者の命にも関わってくる。

生活というのは千差万別なのだ。

冬と夏でも違うし、今日と明日でも違うのが生活だ。

そして、その生活の状況をできるだけ良いものにするため我々介護支援専門員やソーシャルーワーカーは、福祉の専門家として関わっている。だが生活の専門家なんているわけがなく、いるとすればそれは、その生活の主体である、その方自身でしかないのだろう。このあたりの生活の機微がわからないと、人の幸福に関連した援助はできない。だからこの仕事は難しいし、面白いのである。

今日、流行りのブログを立ち上げてはみたが、ここがどのような場所になるのか、私自身にも予想はつかない。さしたる目的があるわけでもない。

ただ明日は専門研修があるし、明後日の夜には、医師会とケアマネ会の協議会がある。とりあえず日記風に報告を書く分には事欠かないだろう。
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