masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

認知症の理解

手続き記憶だけでは運転できない車を作ってください


認知症の症状がある83歳の男性が、高速道路を逆走して事故をおこし亡くなる事故があった。

(毎日新聞)WEB記事 2015年01月07日 11時29分配信より
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7日午前0時25分ごろ、東京都板橋区泉町の首都高速5号池袋線で、上り車線を逆走していた茨城県稲敷市江戸崎甲、無職、徳田順良(としろう)さん(83)運転の軽乗用車が大型トラックと正面衝突し、さらにトレーラーに接触して停車した。徳田さんは病院に搬送されたが、腰の骨を折るなどして死亡。トラックやトレーラーの運転手にけがはなかった。警視庁高速隊によると、徳田さんは認知症で、6日正午ごろに外出したまま連絡が取れなくなり、家族が茨城県警に届け出ていた。同隊で事故の状況を調べている。
 現場は片側2車線の直線。事故の影響で5号池袋線上りは美女木ジャンクション−板橋本町間が7日午前4時過ぎまで通行止めとなった。同隊によると、徳田さんは事故を起こす数分前にも、現場近くでタクシーと接触していたという。(転載ここまで)
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認知症の人による死亡交通事故は増え続けている。この背景には、運転ができるということで、本人が自分の判断能力の衰えが理解できないという理由のほかに、それらの人々の家族の意識の中に、「運転ができるうちは認知症ではない」とか、「運転ができているのだから大丈夫だ」という誤解があるように思えてならない。運転ができる状態は、認知症とは言えないということはないし、運転ができるうちは認知症であっても症状が軽度で、運転操作に支障はないと考えるのは大きな間違いである。

認知症の高齢者の方の交通事故の問題については、過去にも何度かこのブログ記事の中で指摘してきた。(参照:早急なる認知症ドライバー対策を求めたい。

アルツハイマー型認知症の初期症状は、「記憶障害」であるが、記憶とは、過去の出来事としての情報を覚える、「エピソード記憶」と、物の色などの意味の情報を覚える、「意味記憶」と、仕事の手順などの情報を覚える、「手続き記憶」の3種類に区分される。

そのうち「エピソード記憶」と「意味記憶」は早い段階で失われるが、「手続き記憶」はかなり後まで残ることが知られている。その理由は、「手続き記憶」だけ回路が異なるからだからと説明されている。

この手続き記憶が比較的晩期まで残ることを利用したケアが、ユニットケアの中で取り入れられている、「生活支援型ケア」である。

それは過去の生活習慣等に基づいて、できることを探してそれを続けるというケアである。例えば、一家の主婦であった認知症の女性なら、家事を行うことができる部分が残っているので、日常生活の中で、その家事能力を発揮できる場面を作りながら生活支援を行うのである。これは「家事の記憶情報」という「手続き記憶」が失われていないから可能になるケアである。

運転の手順も、「手続き記憶」なのである。そのためエピソード記憶と意味記憶が失われても、運転操作ができてしまう認知症高齢者は多いのである。しかしこの場合、運転操作がすべて正常にできるとは限らない。むしろ判断能力等の衰えがある場合が多く、正常な運転操作ができていない例が多い。そのため、所々で車をどこかにぶつける小さな事故を起こし、車のいたるところがへこんだりしていることが多いが、その場合でも車をぶつけたという記憶は、「エピソード記憶」であるためにすぐに失い、自分が運転操作を誤って、車をどこかにぶつけたという記憶はないため、自分は事故など起こさない正常な状態だと思い込み、運転をしないでおこうとは思わないのである。

僕が実際にかかわったケースでは、郊外のデパートに自分で車を運転して出かけているのに、駐車場に車を止めて買い物しているうちに、自分がデパートに車で来たことを忘れて、帰ることができなくなって保護されたケースがある。その時、駐車場で確認した車は、いたるところがへこんでおり、どこかで必ず物損事故を起こしていることが容易に想像できる状態であった。それはやがて大きな人身事故につながる危険性を孕んだ状態と言えよう。小学生の通学の列に認知症の人が運転する車が突っ込み、事故を起こした当事者は、そのことの記憶がないなんて言う悲劇が生まれないとも限らないのである。

そのような人は、車のキィーを置いた場所を忘れて、見つけられないことも多いが、運転操作自体はできるため、キィーを誰かが隠したり、盗んだと訴えるという別な症状につながることも多い。キィーが見つからないから車を運転しなくて済むという単純なことではないわけである。

そうすると、この問題の解決策の一番の決め手は、運転操作が、「手続き記憶」のみでできてしまわないように、そこにエピソード記憶又は意味記憶が必要となるようにすることが考えられる。

上に張り付けたリンク記事のコメント欄に、CBさんという方が、「自動車ジャーナリストの国沢光宏さんが、暗証番号式のエンジン始動システムを作れないか。」と提言していると情報提供してくださっているが、これは良い方法だと思う。

現在のエンジン始動システムは、自動車のエンジンキーを差し込んで一段回すとメインスイッチが入り、さらに回すとスターターモーターが回転するという「イグニッション‐キー方式」または、キィーを持った人がスタートボタンを押すとエンジンがかかるという方式が一般的だが、これはすべて手続き記憶で行われる行為である。ここに「暗証番号」を打ち込むという行為を入れると、「暗証番号を記憶している」というのはエピソード記憶と意味記憶の両方が必要な記憶回路であるから、認知症の初期症状の人でも、エンジンをかけることができないということになるだろう。

そうなれば本人も、自分の正常でない状態に気が付く可能性があるし、少なくとも周囲の人は、その危険性に気が付くであろう。

エンジンスタートに暗証番号を入力するシステムというのは、現在の技術でいえばさほど難しいシステムではないし、さほど高額な装置が必要になるシステムでもないと思う。日本の技術水準でいえば、安価でそのシステムを採用した車の製造が可能ではないのだろうか。そうなればその車製造の技術は世界からも注目され、そうしたシステムを搭載した車は、世界中から求められるのではないだろうか。

自動車メーカーには、是非そのようなシステム開発に力を注いでもらいたいものである。

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自己満足だけで終わっちゃいけないけど、自分が満足することは必要だ。


対人援助で必要なスキルとは何か。当然そこには専門知識や援助技術がなければならない。

しかし対人援助の難しさは、相手が感情を持つ人間であるという点で、一定のルーチンワークをこなすだけで必ず結果が出るというわけではないということであり、知識や技術だけで解決できない問題がたくさんあるということだ。

ここを面倒だと感ずるのか、単純化できない人間というものの存在の素晴らしさを感じ取り、そうした人間に係る職業にやりがいを感じるかの差が、スキルの差に直結していくのではないかと思う。

僕は対人援助の職業に就く人に求められるスキルとして、「一番近くで気づくことができる能力」というお話をさせてもらう機会が多い。近くであるがゆえに見えなくなるものがある。機械的にかかわることで、利用者の感情の揺れに気が付かず、自分が行っている行為が、利用者にとって辛く苦しい行為になっていることに気が付かない場合もある。そうしないように、常に利用者の立場に立って、その表情を見て、声なき声を聴いて、色々なことに気が付く人でなければならないと思う。だから対人援助の専門家には、気づくための「想像力」が必要だ。

どういうことに気づき、何がきっかけで気が付くのかはさまざまなケースがあるので、講演ではそのことをわかりやすく説明するために、当施設での実践から、「気づき」がどのように生まれ、それを介護にどう生かしているのか、新たなルーチンワークがどのようなことがきっかけで生まれたのかという具体例をお話しさせていただいたりしている。

ただし「気づく」ことは、そこで終わっては意味がないという理解も必要だ。気づきをケアに生かしてこそ暮らしは変わる。気づきをルーチンワークに反映させることによって暮らしの質は向上するのである。だから対人援助の専門家には、気付きをケアに生かすという、「創造力」が求められるのである。

認知症の人の場合は、特にこの「想像力と創造力」が求められる。認知症の人が何も訴えられないわけではないし、自分がしてほしいことを訴えることができることもある。しかしそのことを正しく伝達する方法を見つけられないなど、様々な状況で自分がこうしたい、こうしてほしいということを伝えられないことが多い。

何らかの行動で訴えているのに、伝えられないというのが、「行動・心理症状」の一つの側面でもある。

その時に、僕たち対人援助に関わっている者は、認知症の人の過去の生活歴から得たヒントを基に、その時の表情や、感情の揺れから様々なことを想像し、「こうしたいのではないのか」、「こうしてほしいのではないのか」という答えを導き出す努力を行い、何をすべきかを考える必要がある。

この一連の過程を、「代弁機能」と称している。アドボカシー(advocacy)、とかアドボケイト(advocate)も同じ意味である。

この時僕たちは、一生懸命認知症の人の声なき声を言葉に替え、文章にしてプランを練り、創造力の結果として具体的なサービス行為を組み立てるわけである。しかしそのことに対して、認知症の人自身は採点してくれない。良いとも悪いとも言ってくれない。だから僕たちは、認知症の人の表情や暮らしぶりに変化があったのか、よくなったのかで判断するしかない。

その時、その変化は微々たるものであるのかもしれない。しかしそこであきらめてしまわないことが必要だ。この人はこうしたいのではないか、こう思っているのではないかという想像を辞めたときに、ケアは画一化して、支援行為はおざなりなものになり、人の暮らしをよくする目的は果たせなくなるだろう。

認知症の人の気持ちを代弁する過程で、その人の希望やニーズを計画書に落とす時に、「もしかしたら、これは利用者の満足感を充足させるものではなく、自己満足のための内容になっていないか」と悩んだりする人がいるかもしれない。しかしそのような悩みは持つ必要はないだろう。

神ならざる僕たちは、いくら頑張っても、気持ちを代弁する人の気持ちそのものにはなれないのだ。正答率も100%ではないだろうし、その率は自分が思った以上に低いかもしれない。しかしあきらめずに想像し続け、自らの気付きを促し続け、代弁しようとし続けることが一番求められていることであり、それが認知症の人の気持ちに寄り添うという意味ではないのだろうか。

そもそも自分が満足できない方法論は、他人も満足してくれないだろう。他者の立場、他者の視点に立とうとする人が、満足感をもてる支援内容であれば、それはきっと自己満足で終わることなく、代弁しようとする人の満足感につながっていくはずだ。

そのことを信じて、想像し、気づき、創造し、代弁する人になり続ける必要があると思う。

介護施設や介護サービス事業では、そのことが「あきらめない介護」の基礎となる。

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高室さんのメルマガでハッとさせられたこと


今から7年前、兵庫県の丹波篠山市で行われた、「2007ひょうご地域包括ケア研究大会」に講師としてご招待を受けたことがある。

その大会は2日間の日程で、僕は初日の後半の講師役を務め、翌日2日目の大会には参加せずに北海道に帰ったが、2日目の講師役を担当する方々と、初日の大会後の懇親会でご一緒した覚えがある。

その時に初めてお会いした方の中に、ケアタウン総合研究所の高室成幸さんがおられた。そこで名刺交換をさせていただいたのであるが、それをご縁に以来ずっとケアタウン総合研究所からメールマガジンを送っていただいている。つまり僕は7年前からずっと高室さんのメルマガの隠れ愛読者なのである。

そのメルマガには毎回、高室さんのいろいろなご意見が載せられているが、高室さんのお人柄がにじみ出ているかのような優しい文章が並んでおり、毎回の読後にはとてもさわやかな気分にさせられる。人品の低い僕のブログ記事のように、人を不快にさせるような言葉も文章もなく、高室さんと僕の人としての品格の違いを感じさせられてしまう。

そんな高室さんのメルマガが昨日も送られてきたが、そこに書かれている内容を読んで、ハッとさせられることがあった。

それは高室さんが出会った方のうち、親がグループホームに入所している家族の方の意見の紹介文章である。高室さんには事後承諾で転載の報告をしようと思うが、その文章とは以下のような言葉である。

グループホームで根掘り葉掘り聞かれるのが苦痛でした。ケアマネさんが理由を言ってくれないので。その人らしいと言われますが、私たち家族にとっては嫌な母でした。それを思い出すことは苦痛だし、話すことはつらかった。」(ケアタウンメルマガ∞元気いっぱい第411号より引用)

ハッとさせられる言葉である。

僕たちは、認知症の方々の支援過程において、「寄り添うケア」という言葉を使うことがある。それは実体のない漠然とした自己満足のフレーズではなく、その意味は認知症の人たちの行動に付きまとうのではなく、できないことをできるようにするのでもなく、できることを続けられるように支援するために、認知症の人たちの過去の生活習慣からヒントを見つけながら、したいことは何か、今何ができるのかを見つけ出そうと、認知症の人の「思い」に寄り添うという意味である。

つまり僕たちが言う、「寄り添うケア」とは、アボドカシー(advocacy:代弁機能)の具現化を意味するものである。

そのため自分の過去の歴史を正確に語ることが難しい認知症の人に替わって、その方のひととなりや、過去の生活習慣や、その人の歴史について、よく御存じと思われるご家族にお話を聴くことが多い。そしてそのことを当然のように考えて何も疑問も持たずに行っている。

しかし僕たちはその際に、そうしたことを聞き取る意味や理由をきちんと説明し、ご家族に納得してもらったうえで、話を聴きだしているだろうか。ご家族の心の土足で入りこんで、心中深くに存在する傷跡を抉り出すような結果をもたらしてはいないだろうか。認知症の人の代弁機能を意識するあまり、家族の喜怒哀楽に鈍感になってはいないだろうか。

僕たちの気持ちの中に、家族が親の生活史やエピソードを、介護サービス提供者に話すことは当然だという気持ちが少しでもあれば、家族はそのことで知らず知らずのうちに傷ついているかもしれないと思った。

当施設では看取り介護を行った後に、デスカンファレンスをして評価するようになってから職員の意識に変化が見られ、介護職員が、「ご家族の思いに触れ、その人とのエピソードを聞き、時には共に涙を流すことの大事さに気づき、家族とも寄り添う時間を持てるようになってきた。」と職員自身が評価し、そうであるがゆえに、「面会時にスタッフが家族に進んで声をかけるようになってきた。ご家族のリアルな声を聞く機会が増えてきた。」という声が挙がってきている。

しかし家族に声をかけ、利用者の過去のエピソードや人となり、家族の利用者に寄せる思いを聞き出すことは、十分な説明がない状態では家族にとって苦痛でしかない場合があること、ときとしてそれは家族の心の中に存在するトラウマに触れてしまう恐れがあることを意識しなければならないと思った。

ケアタウンメルマガ∞元気いっぱい第411号の中で高室さんは、次のような文章を書いて僕たちに警鐘を鳴らしている。

目的を伝えない質問は尋問です。素敵な思い出ばかりではありません。

このこと言葉を深く胸に刻んで、尋問しない人にならなければと自戒した。高室さん、ありがとうございます。

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認知症の人の排泄障害の状態と対応から考える排泄ケア


お盆を過ぎて、少し涼し風が吹いてきたかと思うと、今日の登別はまた気温が上がっている。とはいっても気温は27度〜28度くらいだから、猛暑の本州などと比べると、涼しいということだろう。しかし高齢者施設の場合、この程度の気温でも室内熱中症に注意が必要だ。そのため水分補給の促しは欠かせない。

そんな中、午前中に行ったケアカンファレンスでは、水分摂取量が足りない複数の方の状況が明らかになり、早速介護係長を通じて、摂取量のチェックと必要水分量の確保を指示した。

ところで全国老施協が「科学的介護」の実践の結果として推進する、「おむつゼロ」の取り組みと、その定義は以下の画像のとおりである。

介護力向上講習
その目的はよしとして、方法論が個別アセスメントのない食事以外の1.500ml/日の水分摂取であることは問題だということは、このブログで何度も指摘してきた。

ところで「おむつゼロ」の定義をよく読むと、必ずしも排泄がトイレで行われている状況を示すものではなく、排便がトイレもしくはポータブルトイレで行われている状態のことを指すもので、排尿についてはパット等の交換でも良いとされている。そもそも「パット等」の等ってなんだ?パンツ式のおむつでも等に入るのか?

しかもおむつゼロを達成したとして表彰されている施設のホームページなどで、その状況報告を読むと、「おむつゼロ」とは、あくまで日中の状態であり、夜間は含まないようである。これって看板に偽りありと言えないのだろうか?

そもそもおむつを外すための方法を、個別の健康状態等をアセスメントせずに、食事以外に1.500ml/日もの大量の水分を摂取させ、引きずるように廊下を歩行させて、便器に座らせるという偏った方法でのみ考えるから、「座位がまともにとれない方であってもポータブルトイレへ極力誘導させられ、無理やり座らされて苦痛にゆがんだ表情は無視されます。」、「歩行訓練になるともっと悲惨で、片麻痺・拘縮のある方を3人、4人がかりで歩行器で引きずるのを歩行訓練と称してます。 しかもそれは家族には見せません。」などというおかしな状況が生まれる。

ここに暮らしの質が存在するのか?人は幸せでいられるのか?社会福祉ってそういうものか?

では無理なくすっきり排せつするためにはどうしたらよいか?特に認知症の人で、排泄感覚に問題がないのに、排泄行為が正常に出来なくなる人がいるのはなぜかという方向から、排泄援助について考えてみたい。

まず排泄の仕組みを考える上で理解しなければならないことは、人間は1分間に平均1mlの尿を体内で24時間絶え間なく作っており、便は食事を摂ってからおよそ24〜48時間で作られ、どちらもオートマチックでコントロールできないということである。

しかしこれらの体外への排出は、様々な判断のもと随意筋を動かすことで行われ、人間の意思や判断力というものが重要になってくるのである。そして一般的には、排尿回数は日中4〜8回、夜1〜2回。排便は1日に1回〜2日に1回程度である。しかしこの数値を見て分かるように、一般的というにはかなり差があるということであり、加えて一般化できない個別性も存在しているということの理解が必要だ。

次に排泄するために必要なことを考えた場合、次の2点が始めに求められる能力であることがわかる。

1.腎臓で作られた尿が、膀胱に溜まったときに尿意を感じる力が必要
2.膀胱容量の半分くらいで尿意を感じる→尿意の強弱が分かるという能力が必要→どこまで我慢できるかが分かるという見当識が必要

そしてトイレに行くことを支える力、 排泄することを支える力を考えると、次の3つのことが、「わかる力」が必要であると言える。

1.トイレの場所が分かる
2.トイレの使い方が分かる
3.排泄を開始する動作がわかる

さらに排泄中.排泄後に必要な力は別にあり、次の4つの能力が求められる。

1.腹圧をかけて尿を出す力
2.腹圧のかけ方がわかるという見当識
3.腹圧をかけるタイミングがわかるという見当識
4.後始末をする道具(トイレットペーパー等)の使い方がわかるという見当識

また尿を排出するときは尿道が弛緩するが、このとき副交感神経が作用しているのである。そうであれば副交感神経はリラックスすることで働くので、気持ちが落ち着ける環境が必要であるが、認知症の人は、トイレで道具の使い方がわからなくなったり、自分がどこで何をしているのかが分からなくなって混乱し、落ち着かなくなって適切な排泄行為ができなくなる場合も多い。

また排泄行為の障害となるものは、認知症や身体障害という問題だけではなく、体の奥深くに隠された病状によるものもある。尿・便意を感じることが難しい神経院生膀胱や、残尿感が常にあっていつもトイレに行きたいと訴える場合は、膀胱炎などが疑われる。

全国老施協の方法論は、これらのことをすべて無視し、『水は生命の源であり、水が細胞を活性化させ、身体と精神の両面を活性化させていく』、『水が覚醒水準をあげ、尿意や便意を知覚することにつながり、排尿や排便の抑制が正常に作用する。』、『身体活動も変わってきて、水分が足りなくなることで、舌や口の動きが悪くなりむせやすくなり、誤嚥が増える。』ということのみに根拠を求め、大量の水分摂取による尿便の対外排出に対するケアにターゲットを絞ったものだから、そこでは神経院生膀胱や膀胱炎は見逃され、適切な治療に結びつかない可能性が發泙襪掘何度も指摘しているように水分過多による内臓ダメージにより引き起こされる心不全、腎不全、低ナトリウム血症などの発症につながる危険性を常に持つという宿命を負わざるを得ない。これはもう科学とは言えない。

排泄障害の状態と対応には、別な根拠に基づいた個別の対応が不可欠である。僕の排泄ケアの考え方は、以下の画像で示したものである。これは来月高知市で行われる、「高知県老人福祉施設協議会主催:意識改革研修」の中の講演で使うファイルの一部である。いかがだろうか。

認知症の人の排泄障害の状態と対応
認知症の人の排泄障害の状態と対応2

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RUN伴2014・襷が登別ステージに繋がりました


※このたび、孤独のグルメ日記風に、新しいブログ「masaの血と骨と肉」を作りました。お暇なときに覗きに来て下さい。グルメ人気ブログランキングもぷちっとおして応援していただくとうれしいです。

さて本題。

認知症の人と伴に生きる社会を目指し、認知症の人、家族、支援者、一般市民が協力しあい、1つの襷をつなぎながら、ゴールを目指すイベントRUN伴2014。今年は、帯広から広島まで2500キロ を縦断 します!今日は登別ステージ。

RUN伴チーム緑風園
チーム緑風園。今年も3人のランナーが元気に参加しています。

RUN伴・小笠原市長
登別ステージの第一走者は、小笠原登別市長(写真右)

RUN伴チーム登別
チーム登別は駅前で、チーム白老〜襷がつながるのを待っています。一人だけイベントTシャツを着ていないのが僕です。

RUN伴チーム白老&登別
午前8時過ぎ、チーム白老より無事襷がつながりました。白老&登別合流して記念写真です。

RUN伴タスキリレー
小笠原市長頑張ってください。

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ゲームは認知症予防に効果なし。


地域包括ケアシステムが必要とされている理由の一つに、認知症高齢者の増加が挙げられ、認知症になっても住み慣れた地域で暮らし続けることができるように、地域でその仕組みを作ることが求められている。

我が国の65歳以上の高齢者の認知症有病率制定率は15%であり、これは65歳の高齢者の7人にひとりが認知症になることを示している。

しかし65歳以上の認知症ではない人であっても、正常と認知症の中間状態(MCIと略されている。)である人の有病推定率は13パーセントと言われ、この数は380万人とされている。

すると65歳以上の認知症とMCIの人を合わせると、4人に一人がそこに該当することになる。

そうであるがゆえに、MCI有病者をいかに認知症にしないかという予防策と、そこから正常状態に近づける対策が求められているわけである。

そのために介護予防・認知症予防と称していろいろな対策や活動が行われているわけであるが、例えば「学習療法」などは、一定の効果を挙げているといわれている。

この療法について僕は過去に、「認知症学習療法の効果は?」という記事を書いて、学習療法の研究母体が子供の学習法で有名な企業だから、少子化で子供の学習だけでは収益の先が見える状況を見越して、需要の大幅増が見込める認知症高齢者にターゲットを絞った商業戦略に乗ったものではないかなどとうがった見方をして、学習療法そのものより、学習療法を行う方法として、1対1の利用者と担当者の関係と、時間の共有の効果があるからではないかと書いたことがある。

ところで最近、ある通所介護事業所の職員から質問というか、相談を受けた。

その人は、ipadを使ってゲームをしながら脳を活性化するセミナーを受講したのだか、その方法が大いに気に入り、通所介護の中で機能訓練メニューにしたいのだが、それを認知症予防訓練としてよいかという相談である。

治療として行うわけではない部分には、どのような看板を掲げても問題ないのだろうし、通所介護の活動メニューだから、そう謳ったからといって運営指導を受けるわけではないだろう。しかしだからといって、その活動メニューに「認知症予防」という冠を付けるのは適切とはいえないと指摘した。

なぜならipadを使ってゲームをすることに、認知症予防効果は期待できないからである。最初からできないとわかっていることを冠にするのは、嘘偽りの看板を掲げるということになり、それは道義上は許されないだろうと思うのである。

そう言い切ると、そうしたメニューに認知症予防効果がないと言い切れるのかという疑問を持つ人もいるだろう。しかしこのことに関して言えば、言い切れてしまうのである。

前述した学習療法の効果については、疑問となる部分はあるが、効果が多少なりともみられるという根拠が存在している。それは脳科学や脳機能イメージング研究などで一応効果が証明されているためにエビデンスとなりうるものが存在するといってよい。

それは脳には可塑性(かそせい)という性質があり、一度特定の機能を獲得した神経細胞が、ほかの機能を獲得する能力があるという理由によって説明できる。

成長してからの脳細胞の配列は変化しないというのが古くからの考え方であったが、現在はそのことについては否定されつつある。極端な例では、手術で大脳半球をとってしまった患者の例があるが、こうした患者は通常片麻痺になってしまうが、若い患者などでは麻痺側の機能が戻る人がいる。これはまさに脳に可塑性があり脳細胞が再配列され、残っている脳機能が、失われた脳機能の一部の能力を代替していることによるものである。

この性質を認知症の予防や症状軽減に利用しようとしたものが「学習療法」である。

つまり認知症は神経ネットワークが崩壊していくが、脳には可塑性があり、認知症に対しては、脳を活性化していくことによって進行スピードを緩め、場合によっては進行を食い止めたり、症状が軽くなる可能性があるということに着目して、その活性化を促す方法なのである。

学習療法は、簡単に計算式を解いたり、文字を読んだり、書いたりする方法であるが、それになぜ活性化効果あるといえるかというと、脳機能イメージング研究では、簡単な計算問題を解いているとき、そして本を音読しているときに、左右の前頭前野を含めた脳全体が活性化していることが分かっており、この応用が学習療法である。活性化する根拠が存在するのである。

ところが同じ研究で、一生懸命に何かを考えているときや、テレビゲームをしているときには、一般的に想像されるほど脳前頭前野は活性化しないことも証明されているのである。

つまりコンピューターやipadを使ったゲームは、レクリエーションあるいは気休めとしての効果はあるが、認知症の予防につながるほどの活性化効果はないと証明されているのである。よっていくらipadを使ってゲームをしても、認知症の予防効果はないといえるのである。

それはあくまでレクリエーションの範囲を出ず、療法と名付けることができるレベルの活動ではないと結論付けざるを得ない。

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認知症の人を地域社会がどう守っていくのか?


下記画像は、5/31に北海道自治労会館で行われた、北海道介護支援専門員協会研修会の講演で使った、パワーポイントファイルの1枚である。

北海道介護支援専門員協会講演ファイル
このときの講演テーマは、「地域包括ケアシステムにおける介護支援専門員の役割」というものであったため、まず地域包括ケアシステムとは、具体的にどのようなシステムで、それがどうして介護保険制度改正の中で位置づけられてきたかということを解説したうえで、国は地域包括ケアシステムによって、どのような仕組みを作り上げたいのかを解説した。そうした仕組みを作るうえで介護支援専門員にどのような役割が求められ、具体的に何をすべきかを提言してきた。

地域包括ケアシステムによってどのような地域社会を作り上げようとしているのかということを考えると、次の6点を挙げることができる。

・医療が必要な高齢者や、重度の要介護高齢者についても、可能な限り地域(住まい)で生活できるよう支える仕組み
・一人暮らし高齢者や、虚弱な長寿高齢者を地域(住まい)で支える仕組み
・長寿化に伴い、増加が見込まれる「認知症高齢者」を地域(住まい)で支える仕組み
・入院しても、円滑に退院が可能となる仕組み
・在宅での看取りができる仕組み
・利用者や家族のQOLの確保 ができる仕組み


2番目の「認知症高齢者を地域で支える仕組み」を実現するうえで、介護支援専門員の職能団体にソーシャルアクションが求められるのではないか、という部分で使ったファイルが上記の画像ファイルである。
(※地域(住まい)としているのは、そこが自宅とは限らず、身体状況等に応じた早めの住み替えが求められているという意味である。)

ご存知のように、認知症の男性が徘徊中にJRの線路内に立ち入って起きた死亡事故について、家族らの安全対策が不十分だったとして、JR東海が列車の遅延などの損害賠償を求めた訴訟の控訴審で4月、名古屋高裁は男性の妻に約359万円を支払うよう命じている。この裁判は、720万の全額賠償を認められなかったJR東海側が、すでに上告しており、今後最高裁判所の判決が出されるまで判決は確定しない。

しかし1審でも2審でも、当時85歳の妻の過失を認めたことに変わりはなく、このことは認知症の家族をもつ人々に大きな衝撃を与えている。

判決で問われた賠償責任とは、民法714条(責任無能力者の監督義務者等の責任)が適用され生じた賠償責任であるそうだ。認知症の高齢者も『責任無能力者』に該当すると考えられており、本件は妻が監督義務者として賠償責任があるとされたものだ。

控訴審では、自宅の出入口に設置した徘徊センサーが切られていたことが過失にあたると判断された。つまり徘徊のリスクを認識していたが、注意義務を果たしていなかったと認定されたわけであり、それは妻が85歳という高齢であっても斟酌(しんしゃく)されないという判決である。

被告側は、センサーを切っていた理由については、「音が鳴ることで、認知症の夫の混乱がさらに深まり、行動・心理症状が悪化する。」という意味の主張をしていたが、これは認められなかったわけである。

しかしこの判決には大きな矛盾があるように思う。仮にセンサーを取り付けていなければ、徘徊リスクの認識がなかったとも考えられ、損害賠償責任は生じなかったかもしれないということだ。そうであればリスクについて広範囲に想定をすることなく、手厚い対応をしていないほうが良いのではないかというおかしな判断になりかねない。

認知症の人で徘徊行動が予測できるケースでも、「センサーを設置しても徘徊をすべて防げないし、何か事故にあった場合、逆にセンサーを付けていることで賠償責任が生ずるから、そんなものは設置しないほうがよいでしょう。」という判断があっては困るわけである。

前にも書いたが、本件のようなケースで、介護支援専門員が居宅サービス計画を作成していても、その責任が問われることにはならない。なぜなら介護支援専門員は、監督義務者とはならないからだ。しかし例えば本件のような事故が、利用していた通所介護事業所のサービス提供時間中に起こったらどうだろう?

通所介護利用中に、少し目を離したすきに、認知症の利用者が外に出てしまって事故にあった場合、通所介護の管理者は、「監督義務者等」の「等」に含まれ、通所介護事業者に賠償責任があると判断される可能性は高い。そうであれば今後、徘徊行動のある認知症高齢者の利用を制限する事業者も出てくるかもしれない。しかしこうしたことがあれば、それは地域包括ケアシステムが目指す地域社会とは相反するものとならざるを得ない。

現在、この訴訟を巡っては、公益社団法人・認知症の人と家族の会 が抗議文を提出しているが、日本介護支援専門員協会は特段の声明も出していないし、アクションも起こしていない。

しかし今後、地域の中で認知症の症状のある高齢者の居宅サービス計画作成にかかわったり、施設や居宅サービス事業所の中で、認知症の症状のある人にどう対応して支援を行って行くのかを考える中心となる職種が介護支援専門員であることを考えると、その職能団体として、社会全体で認知症の人を支えていくという視点からのアクションが必要ではないかと、生意気にも問題提起させていただいた。

これから認知症の人の、このような事故は増えることがあっても、減ることはないように思える。(減らしていく工夫は当然必要だが)

鉄道事故が起こった場合、鉄道会社に損害が生じているのは事実であり、本件も、訴訟を起こし上告したJR東海が悪者扱いされることがあってはならない。しかし社会全体で、こうした損害に対する補償を考えていくべきで、すべて個人の監督責任に帰して終わりということがあってはならないのではないだろうか。

事故を防ぐための地域社会のネットワークを強化し、鉄道会社も人の侵入ができるだけ困難となるような対策を講じる必要もあるだろう。それでも防ぐことが困難な事故が起こった場合に、社会全体でその賠償責任を負っていくという方向性から具体策が考えられるべきではないだろうか。

介護支援専門員の職能団体として、この問題に関して公に考え方を示したり、アクションを起こすことは、介護支援専門員という資格の必要性を、国民の皆さんにさらに認めてもらうためには必要なことではないだろうか。

幸いなことにこの意見は肯定的に受け取られ、道の会長さんから日本の会長さんにも意見が挙げられたそうである。今後の日本介護支援専門員協会の動きを注目したいところである。

和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)の皆さんが、素敵な動画を作ってくれました。ぜひご覧ください。


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リビングウイルを考えることを先延ばししない


認知症の人に対するケアについて、講演依頼を受けることがある。

そこでは脳科学の側面からも含めて、認知症とは何かということを明らかにした上で、認知症の症状理解につながるお話をして、具体的にどう対応したら良いのかをお話しする。実際の対応事例も紹介したりする。

そうした時に、食事についての問題もお話しすることが多い。このことは、先日フェイスブックの自分のタイムラインにも書いたが、認知症によって摂食障害となる場合があって、それに対する症状理解と備えは重要になるからだ。

今更説明するまでもないが、誤飲とは異物を飲み込む事故の事を言い、誤嚥とは、飲食物を飲み込んだ後の咽頭・食道・気道・肺の事故の事を言いう。認知症の人は、想像以上に誤飲・誤嚥リスクが高まるのである。

例えば誤飲リスクが高くなる可能性が高い人とは、見当識障害により詰め込み食いがあることが考えられる。また糖尿病による低血糖のある人は、空腹感の強くなることがあるので同じく誤飲リスクが高くなる。この場合は食事を小鉢に分けるとか、血糖値管理に留意する等の対応が求められる。

向精神薬や眠剤系を服薬し、傾眠傾向がある人は誤嚥リスクが高くなる。この場合は、きちんと覚醒できるような薬剤調整や、眠剤に頼らざるを得ない理由をアセスメントして、眠剤を飲まなくて済む対応が考慮されなければならない。

このように食事の問題=食事摂取場面の対応だけではないのである。

認知症の人の場合には、咀嚼力や嚥下力とは直接関係のない誤嚥が多いのだ。そして一番詰まることが多い食材は米飯なのである。その理由は、普段一番多く食べられている食材だからということに過ぎない。

そうであれば食べる物の形状を変えて、ペースト状にしてもしょうがないということである。逆に安易にペーストにしてしまうと、それを見ても食べ物と理解出来ないことが考えられる。認知症の人は、それによって食事摂取ができなくなってしまう。むしろ認知症の人の食事は、食事と分かる形で提供されているか、たべて美味しく感じられるかの方が重要だ。このことは認知症の人だけではなく、一般論としても言えることである。

食事は栄養以前に、楽しみであることを忘れるところから間違いが始まる。臭いや見た目で美味しそうと思えることが摂食障害の一番の対策だったりする。

しかし認知症の症状がもっと進行すると、食事を摂ろうとしなくなる。この場合でも、経管栄養を行えば、かなりの期間の生命維持は可能である。しかしそれは求められる対応なのであろうか?

アルツハイマー型認知症の場合、症状が進行するのは脳細胞が壊死して減っていくからであるが、その過程では脳細胞が減ることによって、口や喉の筋肉の動きをコントロールできなくなるため、むせやすくなるという現象が起こってくる。この場合も、食事形態を工夫することでしばらくの間はむせないで食べることができるが、その状態はずっと維持できるわけではなく、再びむせるようになる。 そして口を開けなくなったり、咀嚼せず、いつまでも口の中に食べ物をためたりするようになる。こうなると経口からの食事摂取は難しくなる。

この状態は、体が食べ物を必要としなくなっている状態といえ、終末期の選択肢のひとつと考えてもよいのではないかと考えている。

しかしだからと言って、ケアサービス提供側の人間が、「これは終末期であり、経管栄養は行わないでください」と言えるわけではない。あくまで選択は食事を摂れなくなった本人によるものでなければならず、認知症の人の場合、このことが不可能なのだから家族にその判断を替って行ってもらわねばならない。勿論、この際には医師より症状の進行していること、回復不能の終末期と判断してもよいことについての充分なる説明が求められることは言うまでもない。

しかしもっと大事なことは、これからの時代は、家族等周囲の人々に自分が終末期をどう過ごしたいのか、口から食事を摂取できなくなった時にどうしてほしいのかを、きちんと意思表示しておいて、その意思に基づいた判断が行われることではないだろうか。

そのためには終末期の対応を身内同士で常日頃から、どうしてほしいのかと言う確認が普通に行われていく社会を作っていくことが望ましい。

リビングウイルと言う視点から、エンディングノートを書いて残す人も徐々に増えているが、そこに思いを綴るだけではなく、そこに綴る思いを周囲の身近な人々に伝えておかないと、誤解が生じてエンディングノートに書き遺したことが実現されないこともある。そうであればエンディングノートを、公正証書として残すべきかと言う議論になりがちだが、これはそうした問題にせずに、自分の希望や思いをいかに周囲に理解してもらうかと言う方向から考えるべき問題である。

死は誰にでも訪れるのである。そして65歳以上の人は、7人に一人の確率で認知症になるのである。

そうであるがゆえに、若いうちから、元気なうちから、身内同士で自分が意思表示できなくなり、食事摂取ができなくなった時にどうしてほしいのか、どのように終末期を過ごしたいのかを確認しあっておくことが大事である。エンディングノートやリビングウイルは、手続でも、掛け声でもなく、自分本来の意思を、周囲の人に理解してもらって、その意思が尊重されるために必要なツールである。

そしてそのことは先延ばしするのではなく、今ここから始めておくべきことだと思うのである。

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認知症男性の電車事故裁判は2審も妻に賠償命令


愛知県大府市の認知症の男性(91歳)が徘徊中に列車にはねられて死亡したのは、家族が監督を怠ったためとして、JR東海が運行の遅れなどの損害賠償金として720万円の支払認めた名古屋地裁の判決について、その控訴審判決が4月24日名古屋高裁で言い渡された。

高裁判決は、長男には監督責任はなかったと、JR側の賠償請求を却下したものの、妻の監督責任を認めて359万円の賠償金支払いを命ずるものであった。

朝日デジタルの昨晩21:34発信のニュース記事では次のように伝えている。(以下転載)
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高齢化に伴い、認知症のお年寄りの在宅介護を国が進めようとしている中、介護現場からは「時代に逆行した判決だ」と批判の声が上がっている。

JR東海は、列車の遅れに伴う振り替え輸送費や人件費などとして損害賠償を求めていた。昨年8月の地裁判決は、横浜市に住み、男性の介護方針を決めていた長男に事故を防ぐ責任があったと認定。徘徊して事故に遭う可能性を予測できたのに、見守りを強める責任を果たさなかったと判断した。

事故当時85歳だった妻については、長男が決めた介護方針の中で、男性と2人きりの時に目を離さずにいる義務を負っていたのに怠ったと結論づけた。ほかの親族3人は介護への関わりが乏しいとして責任を認めなかった。

これに対し、高裁判決は相当前から長男は男性と別々に暮らしていて、経済的な扶養義務があったに過ぎず、介護の責任を負う立場になかったとして、男性への請求を退けた。
 
一方、妻については配偶者として男性を見守る民法上の監督義務があったと判断。高齢だったものの、家族の助けを受けていて、男性を介護する義務を果たせないとは認められないと判断した。

その上で、徘徊防止のため設置していた出入り口のセンサーを切っていたとして、「監督義務者として、十分ではなかった点がある」とし、事故に対する責任があると結論づけた。

ただ、長門裁判長は、妻の日常の見守りについて「充実した介護態勢を築き、義務を尽くそうと努力していた」と評価。さらにJRの安全管理態勢については「安全性に欠ける点があったとは認められない」としたうえで、「社会的弱者も安全に鉄道を利用できるようにするのが責務だ」と言及。フェンスに施錠したり、駅員が乗客を注意深く監視したりしていれば事故を防ぐことができたとして、「賠償金額は一審の5割が相当」とした。
(久保田一道)
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(以上転載終わり)
まず、この事故から一審判決までを振り返ってみる。

事故が起きたのは、2007年12月7日の夕方。死亡した男性は、デイサービスから帰宅後、当時85歳の妻が数分間うたた寝した間に外出し、約1時間後、3キロほど離れた東海道線共和駅の構内で線路に立ち入り、列車にはねられて死亡した。男性は要介護4の認定を受けていた、いわゆる「運動能力に障害のない認知症高齢者」である。

裁判での争点は以下の2点であった。
(1)男性が事故に遭うことを予見できたか
(2)徘徊を防ぐ対策は十分だったか

昨年8月の一審判決は、徘徊歴や介護状況から「事故は予見できた」と判断。認知症が進む男性の在宅介護を続けるならば、高齢の妻らによる見守りだけではなく、ヘルパーを依頼するなどの対策も考えるべきで、「監督する義務を怠らなかったと認めることはできない」と結論付け、うたた寝した85歳の妻に対し、見守りを怠ったとして「責任あり」とし、横浜に住む長男は、在宅介護を選択する等介護方針を決定する等の行為から、在宅介護を選択するならもっと事故を防ぐような支援を受ける体制を作るべきだったとして、監督責任があると認定した。なお長男の妻は、横浜から単身で長男の両親の近所に転入し介護を手伝っていた。

在宅介護を選ぶ家族の介護責任を重くみた一審判決は、これでは徘徊する認知症の人を家に閉じ込めておかないと安心して暮らせなくなるとか、介護サービス事業所も、徘徊する認知症の人の利用制限に走るかもしれない等、介護現場に波紋を広げた。

裁判で遺族側は、「当時は認知症状が安定し、穏やかに生活していた。今まで徘徊で駅に向かったことはなく、事故は予測できなかった」と反論。「センサーを切っていたのは、大きな音で男性が精神的に不安定になるため。横浜市に住む長男の妻が介護のために単身で近所に転居するなど、家族ぐるみで対策をとっていた」と主張。「家族に重い責任を負わせれば在宅介護をちゅうちょすることになり、介護現場は崩壊する」と訴えた。

一方JR側は、「過去に二度の徘徊歴があり、再び徘徊する可能性は予見できた」と主張。自宅の出入りを知らせるセンサーを切っていたほか、妻が目を離した落ち度があると指摘し、社会的影響については、「あくまで個別の事案であり、監督義務を適切に果たして介護する家族には何ら影響がない」と主張していた。

控訴審も基本的には同じ争点だったわけであるが、結果的には、20年以上も別居している長男には監督責任はないものとし1審判決の一部を破棄したが、同居して介護の主体となっている妻には監督責任があるとし、特に出入り口のセンサースイッチを作動させていなかった過失責任に言及している。しかも「男性と2人きりの時に目を離さずにいる義務を負っていたのに怠った」と断じ、高齢であるということは、「男性を介護する義務を果たせないとは認められない」とし、厳しい判断となっている。

これでは認知症の家族を介護する人は、一瞬たりとも認知症の人から目を離せないし、何かの道具のスイッチの入れ忘れるなどのヒューマンエラーを絶対に犯してはならない事になる。これはあまりに過酷な要求ではないのだろうか?

昨晩のNHKのニュースでは、遺族側の弁護士は、「遺族は十分に介護に努めていたと考えているので、判決には納得できない。今の社会では、認知症の患者の保護について、家族だけに責任を負わせるのではなく、地域で見守る体制を築くことが必要だと思われるが、判決はその流れに逆行するものだ。今後、最高裁判所に上告するかどうかは遺族と相談して決めたい」とインタビューに答えていた。

1審判決後に抗議文を出していた「認知症の人と家族の会」の高見国生代表理事も「介護を行う家族の実態を考えず民法の規定に押し込めるような考え方は納得がいかない。高齢化が進み、お年寄りどうしの介護が進むなかで、同様のトラブルが起きた場合の救済措置を検討するよう国に求めていきたい」とインタビューに答えている。

勿論、JR側には実際に損害が生じており、認知症の人の線路侵入を防ぐことができなかったというだけで、JR側だけに大きな費用負担を生じさせるのはおかしいという意見もあるだろう。そういう意味では、遺族側に一定の損害賠償を求めるのは当然のことだという意見もあるだろう。亡くなられた男性の生命保険や、その他の相続金の一部から損害賠償金を支払っても、生活が困窮するわけではなく、今回の判決の額も妥当な金額であるという意見の持ち主もおられる。

僕の管理する掲示板にも、ある程度の賠償はやむを得ないという意見が寄せられている。

ただあまりにも介護責任や義務を厳しく認めてしまえば、結局のとこと、認知症の人を介護する家族は、徘徊行動がある認知症の人を外に出さないように部屋に閉じ込めたり、体を縛ったりすることが当たり前という意識になる恐れがある。

事故にあうような恐れが少しでもある徘徊行動のある人は、在宅介護は不可能だとして、施設入所か、精神科医療機関に入院させるしかないという考えに傾斜することも予測できる。

しかしこのことは地域包括ケアシステムの目的とは相反するものだ。

国が、地域包括ケアシステムの構築を進める目的の一つは、長寿化に伴い増加が見込まれる「認知症高齢者」を在宅で支える仕組みを作るというものである。そうであれば、徘徊する高齢者が事故にあって、誰かに損害を与えた責任を、個人の介護責任の問題だけで終わらせては、地域包括ケアシステムとは、結局のところ地域丸投げのケアシステムにしかならず、そのシステムからはじかれる弱者の行き場所と、生き場所を作ることができないシステムということになりかねない。

そういう意味では、介護する人の責任論に終始しない議論が求められるのではないだろうか。遺族の賠償責任が生ずるという事を肯定したり、否定したりする論調に偏らず、徘徊行動のある認知症の人を、地域社会全体でどのように見守り、安全確保するのかという方向性も含めて、この裁判結果の議論が進行してほしいと思う。

一番心配なのは、この判決結果を知った認知症の人を介護する家族が、今日から認知症に人の著しい行動制限に走らないかという事である。

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注目の控訴審判決は来週の木曜です


愛知県大府市の認知症の男性=当時(91)=が電車にはねられたのは、家族が見守りを怠ったからだとして、JR東海が遺族に電車の遅延などの賠償金約720万円を求めた訴訟の控訴審判決が4月24日(木)、名古屋高裁で言い渡される。

事故概要と、名古屋地裁の判決要旨は以下の通りである。
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事故が起きたのは2007年12月。名古屋地裁の一審判決は昨年8月に下りた。

認知症の男性(当時91歳)が線路内に立ち入り電車と接触した死亡事故で、家族らの安全対策が不十分だったとして、JR東海が遺族らに列車が遅れたことに関する損害賠償を求めた訴訟の判決で、名古屋地裁(上田哲裁判長)は、男性の妻と長男に請求全額にあたる約720万円を支払うよう命じた。

男性は2007年2月に「常に介護が必要」とされる「認知症高齢者自立度4」と診断されていた。
上田裁判長は、同居していた妻が目を離した隙に男性が外出し、事故が発生したとして「妻には見守りを怠った過失がある」と認定。別居している長男についても「事実上の監督者」とし、「徘徊(はいかい)を防止する適切な措置を講じていなかった」とした。

男性の家族らは、妻は事故当時85歳で、常時監視することが不可能だったなどと主張。しかし上田裁判長は、介護ヘルパーを依頼するなどの措置をとらなかったと指摘。「男性の介護体制は、介護者が常に目を離さないことが前提となっており、過失の責任は免れない」とした。
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名古屋地裁がJRの請求を全面的に認めた判決は、認知症の人を在宅介護する家族らに衝撃を与え、「判決は家族にとって、認知症の家族がいたら閉じ込めておけというに等しい」などの意見も出され、公益社団法人 認知症の人と家族の会が抗議文を出すなどの動きもみられた。

しかし一方では、僕が管理する掲示板に、被告側に厳しい意見も寄せられている。実際にJR東海に損害が生じているので、損害賠償としては至極当然の判決という意見もある。JR側が請求の算定根拠を明確に証明し、JR側に過失がなかったから判決は当然という意見もある。一審判決の結果は、法廷闘争の勝ち負けの結果でしかなく、判決は遺族側代理人に問題があるのではないかという意見もある。

参照:認知症の人の徘徊は防ぎきれないとして、認知症の人と家族の会が抗議文

僕の考えを述べるとすれば、被告側の「妻は事故当時85歳で、常時監視することが不可能だった」という主張は、常識的な主張であり、そのとおりと思うし、別居している長男にまで事実上の監督者として、「徘徊(はいかい)を防止する適切な措置を講じていなかった」ことの責任を問うのはいかがなものかと思う。

このような理屈が通れば、認知症で徘徊する家族を抱える家族の子供は、別居もままならず、同居後も常に監視していなければならないことになり、認知症高齢者を拘束することがやむを得ないと考えられてしまうし、家族が認知症になったら精神科等に入院させないと罪だという偏見が生まれてしまかねないと思う。

しかし似たような事故で、損害賠償金を支払っているケースは他にもある。

2012年3月6日、75歳の認知症の女性が自宅から約15分の東武東上線川越駅そばの踏切で、電車にはねられ死亡した事故は、夫が自治会の用事で出掛けた直後、外に出たらしい。がんを手術した病院の近くで見たという人がおり、そこへ行こうとしたのかもしれないという。夫は帰宅後、妻の不在に1時間ほど気付かなかった。そして事故の約2カ月後、東武鉄道から損害賠償を求める連絡が来た。請求は137万円余。年金暮らしの身にはとても払えない。相談した弁護士の尽力のおかげか、最終的に東武鉄道は事故対応でかかった人件費など自社分の請求を放棄。JRやバスなど他社への代替輸送分63万円余を支払うことで和解が成立したという。

この事故も訴訟になったら、遺族が損害賠償命令を受けていた可能性を否定できない。

どちらにしても、事故と損害賠償の問題が判断されるだけではなく、超高齢社会の中で出現している認知症と介護の問題として、認知症の人を介護する家族の責任が、どこまで及ぶのかが問われてくるということだろう。

そして、この裁判の結果が判例となり、今後の判断基準となるかもしれないという観点から、注目に値する高裁判決であるといえよう。

その判決がいよいよ1週間後に迫っているのである。

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高齢ドライバーが運転免許を返上できる環境も必要


北海道は日に日に春めいてきて、路上から積雪が消え、走行する乗用車も夏タイヤに履き替えが進んできている。

車の冬装備が解かれるのは、この時期の風物詩ともいえるが、雪国ではない方で知らない人が多いことに、この時期には冬タイヤから夏タイヤに履き替えられるだけではなく、冬用のワイパーから夏用のワイパーに替えるということがある。

冬用ワイパーブレードちなみにワイパーブレードを交換する必要のない地域の方の使っているブレードは夏用である。雪国で冬にそれをそのまま使っているとブレードが凍りついてワイパーの役目が果たせなくなる。凍りついたワイパーは、いくら動かしても水滴等がとれないからだ。そこでワイパー全体をゴム覆っている冬用ワイパーブレードに替えるわけである。

さてそんなふうに春が近づく北海道ではあるが、昨日池田町で80歳の女性が運転する軽自動車が、路上を歩いていた85歳の女性をはね、死亡させるという傷ましい事故が起こった。亡くなられた方は本当にお気の毒でご冥福を祈るしかない。

事故原因は今のところ分からないが、ドライバー側の過失である場合、死亡事故だから収監は免れず、80歳という年齢でそれは辛いことだろう。

このように全国的に高齢ドライバーの運転による死亡事故が増えているのは事実である。

特に事故を起こしてもその記憶がないのに、運転はできてしまうという、認知症の人の事故は毎年増え続けている。そうした認知症の人の運転免許をどうするのかということが問題で、そのことは「早急なる認知症ドライバー対策を求めたい」でも指摘しているところである。

この問題に手をこまねいていると、例えば自分の親が日常生活で少し「おかしい」と感じていたのに、「運転できるから大丈夫だろう」と、認知症に気がつかず、運転することを続けさせていたことによって、結果的に自分の子供が事故被害にあう、というケースも出てくるのではないだろうか。そうした事故では、最愛の孫を自分の運転で事故に遭遇させ、死亡させてしまうということも考えられる。これは認知症の人にとっても、その家族にとっても最大の不幸だろう。

自動車を運転する能力に不安を感じた場合に、自主的に免許証の取り消しを申請できる制度もあるが、認知症の人の多くが、自分は認知症になっているという自覚がないのだから、周囲の人々が注意して、運転しないような環境を作ることが一番大事である。

認知症や重度の睡眠障害、てんかんなどの持病がある場合で、本人や家族が警察に相談・申告し、専門医による適性検査で「運転能力に支障が ある」と判断されれば、強制的に取り消される制度もあるが、これも本人による「申告」が前提になっており、この部分は法律を変えて、適性検査を受けさせるという強制力を高めることが求められるのではないだろうか。

2013年6月に成立した改正道交法では、認知症や重度の睡眠障害など運転に支障を及ぼす持病を隠して免許を取得・更新した場合「1年以下の懲役か30万円以下の罰金」とする罰則規定が設けられ、6月までに施行されるが、その実効性には疑問符がつく。特に認知症の人は自覚がないということで、そもそも症状理解がないのだから、隠していないということになり、この罪は及ばないのではないのだろうか。

この問題と関連して、京都府長岡京市は、市内の高齢者が運転免許証を自主返納した場合に、阪急バスで使えるIC乗車カード「グランドパス65」の1カ月分や、市の運行するコミュニティーバスの回数券、JR西日本などで利用できるIC乗車カード「ICOCA」の購入費用を市が負担し、計1万円分を支援する制度を6月から始めるそうである。わずか1万円とは言え、こうした制度で運転免許の自主返納を勧めることは、その必要性があるケースが増えており、いつ自分や自分の家族がその加害者や被害者になりかねないということを広く周知するためには有効だろう。

ただしこれができるのは、乗用車を使わなくても、日常生活に支障のない交通網の発達している地域での話である。公共の交通機関があっても、日に何本かのバスしか動いていない地域、駅から駅の距離が、都会とは比較にならないほど長い地域。そこで日常的な交通手段である自家用車がなかったら、通院も日常の買い物もできない地域がたくさんあるはずだ。

北海道ではそうした地域は過疎地域ではなくても多い。

そういえば2度ほどお邪魔したことがある沖縄県の那覇市は、米軍基地があることから、早くからインフラ整備は進んでいるが、公共の交通機関は案外少なく、たしかJRもなかったと記憶している。そのため那覇市は、車が非常に多く、高齢ドライバーもたくさん居られたように記憶している。それらの方が、現状の交通事情のまま、ますます高齢化していくときに、問題が噴出してこないだろうか。

どちらにしても、こうした日常の移動手段をどう確保していくかが悩ましい問題である。

運転免許がなくても生活に支障が出ないというシステムを作っていくことも、地域包括ケアシステムの重要な要素であるかもしれない。そしてそれは最大の課題であると言ってもよいのかもしれない。

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認知症の人とその家族をどう護っていくかが問われる社会


昨日釧路地裁で、父親に頼まれて殺害したとして嘱託殺人罪に問われた57歳の男性に検察側が懲役3年を求刑した。

論告で検察側は、「被害者の介護に嫌気がさし、不満やいら立ちを募らせたうえでの犯行」、「長時間にわたり絞めつけ、執拗で強固な殺意があった」と述べ、弁護側は、「父親の介護を一人で担い、精神的なストレスや介護疲れがピークとなり、突発的に起こった事件」とし、執行猶予つきの判決を求め即日結審。判決は明後日出される。(判決は明後日書き込みます。)

※(3/28追記)釧路地裁で行われた27日の判決公判で、被告に懲役3年、保護観察付きの執行猶予5年が言い渡された。判決理由で裁判長は、「一人で被害者を介助し、かなりの介護疲れがある中の突発的な犯行。強固な殺意で殺害したことは非難されるが、経緯に酌むべきところがある。」とし、保護観察とした理由については、「親族が被告の生活を支援するとはいえ、更生の側面支援が必要」と述べた。

事件は1月21日北海道中標津町で起こった。殺害された父親(83歳)は、認知症となり2009年には要介護認定を受け、町内のデイサービスに週2回通っていた。夜に徘徊することもあり、当初は容疑者が夫婦で世話をしていたが、容疑者の妻が2年前に死亡。その後容疑者が仕事を辞め、1人で介護をしていたものである。容疑者は「父親から『これ以上迷惑かけるわけにはいかない。殺してほしい』と言われた」とも供述している。

事件の性格は少し異なっているが、今月16日には、埼玉県川越市に住む認知症の女性(75歳)が、介護のため母親宅を訪れていた長男(47歳)に頭や手を数回殴られて死亡する事件が起きている。暴行を加えたあと容疑者は自分で救急車を呼んだという。殴った理由について、なかなか寝ついてくれない母親に腹を立てたとし、「酒を飲みに行きたかったが、早く寝てくれなかった」と供述している。亡くなった母親は一人暮らしで認知症だったため、容疑者と妹が交代で介護をしていたとのことである。

どちらの事件も亡くなられた方にはお気の毒と言うしかないし、ご冥福を祈ることしかできないが、こうした事件には、自らの命が身内によって奪われたという悲劇と共に、自らの命を奪うことによって、自分の一番愛する子供が容疑者となり、被告となって裁きを受けなければならないという悲劇もそこには存在するのだと思う。

65歳以上の高齢者の7人にひとりが認知症となっている現在社会において、こうした事件は増えることがあっても減ることはないのかもしれない。そしてそれは自分とはまったく無縁の問題とも言い難くなってくるかもしれない。

自分に置き換えても、他人ではなくいちばん身近な存在である親であるからこそ、カッとしてしまうということもあるのかもしれないと思ったりする。(残念ながら僕自身は両親を既に亡くしているのだが。)

介護サービスを利用していたとしても、夜は常に自分が面倒を見なければならないという生活が毎日、いつ果てるともなく続くとなると、他人がうかがい知ることができないストレスも生ずるだろう。その時、確実に自分の感情をコントロールできるとは限らないわけである。それによって人の命を奪うということは、いかなる理由があっても許される行為ではないが、そうした結果になってしまう原因を社会全体で考えていかねければならないと思う。

ツイッターでは
他人事でない、身につまされる、明日は我が身…。その先に行くにはどうすればいいんだろうか。
他人事じゃない。私も妹と二人で介護するが、認知症で寝たきりの母親は殺せ殺せと言い続けるし。
詳しい事情はわからないけど、他人事とは思えません。私も気をつけなければ。

こうした声が挙がっている。しかしこれが10年前だったらどうだろう?このような声より、親を殺したという行為への批判だけが前面に出てきて、こうした声はあまり表だって挙がってこなかったのではないだろうか。認知症の問題はもっと他人ごとだったのではないだろうか?

しかし今現在、認知症の人をめぐる問題はもっと身近な問題として考えられるようになっているということではないのだろうか。それだけ認知症の人が増えていて、認知症の人をケアする人も増えていて、自分の暮らし中に認知症の人の存在というものを切り離して考えられない人が増えているということだろう。

そうであるがゆえに、社会全体で認知症の人を護り、認知症の人を介護する人を護る意識がもっと高められなければならないと思う。地域包括ケアシステムとは、まさにその実現を図る地域社会を作るためのシステムにしていかねばならない。

同時に、一人暮らしができる軽度の認知症の人が、犯罪者の搾取対象になっているということに対する監視も必要だ。

例えばこんな事件もある。

先月、自分が介護士として働いていた施設で知り合った86歳の認知症男性の自宅に、空き巣に入り逮捕された27歳の女性介護士は、その後の取り調べで、おととし11月、認知症女性の自宅から通帳を盗み、郵便局から現金60万円をだまし取った詐欺の疑いが濃厚になった。

警察によれば、容疑者はコンビニ店などでだましやすそうな高齢者を物色。コンビニでわざと足を踏ませて女性に近づいた。その後、この高齢者女性(85)が認知症であると分かると、通帳と印鑑の保管場所を聞き出して鍵を盗み、郵便局から現金を盗み出した。この被害女性の口座からは12回にわたりおよそ470万円が引き出され形跡があり、警察は余罪があるとみて調べているそうである。

コンビニで買い物はできる軽度の認知症の人を物色するなんてことは、介護士ならではの知識を悪用したものとも言えなくもない。とんでもない介護士がいたものである。

こうした認知症の人を狙った事件も今後増えていくだろう。しかも厄介なことは、認知症の人はコンビニで買い物ができても、被害を訴えられない可能性が高いということだ。財産を奪われたことに気がつかない可能性もある。それが認知症の人を狙った犯罪の特徴でもある。振り込め詐欺にしても同じことが言えるだろう。

こうした認知症の人々をどう護っていくのかが大きな問題である。それにはまず、すべての人々が認知症という症状がどのようなものかを理解し、誰しもが認知症になり得るという視点から様々な問題を考えていくことが必要だろう。

認知症の人々が地域で暮らし続けられる社会を作るということは、周囲の人々が認知症の人を護る社会を作ることであり、それは認知症の人や、認知症をケアする家族のための社会ではなく、自らが地域社会で暮らし続けられるためのものであるという理解が必要とされるのだろう。

認知症の人を騙して搾取することなんて恥ずかしくてできないという社会性も育んでいく必要があるだろう。それには何より、人間が人間を愛するという、当たり前のことができる社会を作ることである。

介護サービスに競争原理を取り入れて、誰かが誰かを蹴落とすことが求められていることだと勘違いするのであれば、そこからは人を護る、人を愛するという意識は生まれないということも、考えていかねばならないだろう。

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早急なる認知症ドライバー対策を求めたい


1月6日付で公表された警察庁交通局交通企画課資料、「平成25年中の交通事故死者数」によれば、平成25年中の交通事故死者数(24時間以内)は、4.373人(前年比−38人、−0.9%)で13年連続の減少であったことが示されている。

しかし同時に、「交通事故死者数の対前年比減少率はわずかであり、高齢死者数の増加が顕著で、交通事故死者数に占める65歳以上の高齢者の割合が52パーセントを超えるなど、交通事故情勢は厳しい状況にあります。」という警察庁長官コメントが掲載されている。

65歳以上の高齢者が、交通死亡事故者数の過半数を占めるという数字は、高齢者が交通弱者であることを示しているものであろうが、同時にこの数字には、高齢者自らが運転して事故を引き起こして命を失ったという数字も含まれる。そしてその中には、認知症によって事故を引き起こしたという数字が含まれており、その数は年々増加していると予測されている。中には認知症の高齢者が交通死亡事故を起こし他人を死亡させたものの、本人にその記憶がなくなって罪が問えないというケースも出てきている。

昨年6月4日、東京都狛江市の市道で、35歳の主婦が乗る自転車に軽乗用車が追突、自転車を引きずったまま100メートル先の民家の塀に衝突した事故では、自転車の後部座席に乗っていた2歳の女の子が頭を強く打って死亡している。現行犯逮捕された72歳の自営業の男性は、自転車にぶつかる200メートル前にも塀などに2回衝突していた。容疑者の親族は「認知症を患っている」と話しているというが、本人にはその自覚がなく、逮捕後も事故の記憶を失っているという。

現在、運転免許の更新期間が満了する日における年齢が75歳以上の高齢者は、運転免許証の更新期間が満了する日前6月以内に、講習予備検査(認知機能検査)を受けることが義務付けられている。この検査は、時間の見当識、手がかり再生及び時計描画という3つの検査項目について実施され、検査結果を通じて高齢運転者に自己の記憶力・判断力の状況を自覚してもらった上で、検査の結果に応じた高齢者講習を実施している。この際に、運転の危険性を自覚して、免許更新をしないという選択をしたり、現在所持している免許の取り消し処分を申し出る人もいるが、認知症の度合いが進行しているほど、この自覚に欠けて、自分は正常に運転でいるとしてなんの対策も取らない人も多い。

検査の結果、記憶力・判断力が低くなっていると認められ、かつ、運転免許証の更新期間満了日の1年前の日以後に信号無視等の記憶力・判断力が低下した場合に行われやすい特定の違反行為をしていた場合には、臨時適性検査として認知症の専門医の診断を受けなければならず、認知症と診断されると、運転免許の取消し又は停止処分がなされるが、そもそも強制力の伴う臨時適性検査を受ける状態にはない(例えば特定の違反行為をしていない場合など)人でも、認知症の症状がかなり強く出ている場合があり、この対策は「ゆるい」「ぬるい」と言わざるを得ない。

認知症取消し等処分件数は、平成21年が228件、22年が352件、23年が442件と、毎年100件程度増えているものの、65歳以上の高齢者で7人にひとりが認知症であるという国のデータから考えれば、この数字はまだ低すぎると言えなくもない。

高速道路を逆走する認知症高齢者も増えているが、逆走の場合は追い越し車線を走ってしまうので、死亡事故に繋がることが多い。

認知症の人が運転できるということに疑問を持つ人がいるかもしれないが、運転動作というものは、「手続き記憶」であり、エピソード記憶や意味記憶を失っても、最後まで残る記憶であるために、家族の顔や名前がわからなくなったり、直前に何をしていたかがわからなくなった人でも、運転という行為だけはできてしまうことがあるのだ。
(参照:記憶を失っても感情が残される理由

車の運転はできるが、見当識障害があるために正常な運転動作ではなく、いろいろな場所に車をぶつけて、やっと動かしている場合でも、運転している認知症の人には、車を何かにぶつけたという記憶が残らないために、正常に運転していると思い込んでしまう。車の運転はできるが、短期記憶の障害があるために、車を運転してどこかに出かけても、一旦車を降りると、車を止めた場所がわからなくなったり、車で外出したという記憶そのものがないために、車を路上に放置して、徘徊しているところを保護されるケースも目立ってきている。

運転できるから認知症の症状はさほどではないという考え方は間違いなのだ。家族の方は、少しでも認知症の症状と疑わしい症状が出てきたら、運転させないような対策を講ずるということが大事である。

なぜなら認知症の人が運転することができてしまうということは、それは一般市民が常に危険にさらされて、いつ事故に巻き込まれるかわからないという意味なのである。

さらにそれは、認知症ドライバー自身の生命を危険にさらすだけではなく、認知症であるがゆえに、本人に自覚がないまま、罪もない一般住民を巻き込んだ死亡事故を起こしてしまい罪に問われたり、世間から非難を浴びたりするという結果を生み出しかねないという意味でもある。そしてその非難の矛先は、認知症の人の家族にも及んでしまうだろう。

認知症の人自身が、運転をやめようと判断することは、症状が進行するほど難しくなるだろう。そうであればもっと強制力の伴った、運転免許返納処分の強化を進めるべきではないだろうか。運転するという個人の権利の侵害ということを心配する向きはあるだろうが、事故に巻き込まれるたくさんの子供たちの命の重さということを考えれば、それは必要な対策なのではないだろうか。

講習予備検査(認知機能検査)の対象年齢も引き下げ、基準も厳しくして、免許取り消し処分の強制力も強化しないと、認知症高齢者が加害者となり、罪もない一般市民が巻き込まれる交通死亡事故は格段に増加してしまうだろう。

それは社会に、哀しみの連鎖を増幅させてしまうという意味でもあるのだから・・・。

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手法あって理念なしのバリデーションで人は救えるのか

認知症の人とのコミュニケーション術として、「バリデーション療法」という考え方がある。

それはもともとアメリカのソーシャルワーカー・ナオミ・フェイルさんによって提唱されたコミュニケーション術である。バリデーションという言葉は、「確認する、強くする、認める」の意味として用いるが、フェイルさんによると、認知症の人の「経験や感情を認め、共感し、力づける」ことが認知症の人の行動・心理症状の緩和につながる」とし、そうした意味で彼女の取り組んだ療法にバリデーションという言葉を用いたという。

このバリデーションを、僕なりの理解として解説するとしたら次のようなものになる。

バリデーションは、認知症の人の行動・心理症状を意味のある行動であると捉え、例えば「誰かがそこに立っている」と訴え怯える認知症の人に対し、そんな現実はないと否定するのではなく、単なる幻視であるとして人が立っているという事実がないことを認めるように説得するのでもなく、そこに誰かが立っていると訴える認知症の人にとって、それはその人たちが今見ている現実だと受け止め、共感して接し、時には極端な強い言葉で認知症の人がその時に抱いている恐怖心を表現し、あるいは積極的に共に行動したりすることで、その症状緩和につなげる手法である。

 「バリデーション 認知症の人との超コミュニケーション法」(ナオミ・フェイル著、筒井書房)から、その具体的方法論をピックアップすると
・本人の言うことを繰り返す
・極端な表現を使う(最悪、最善の状態を想像させる)
・反対のことを想像する
・思い出話をする
・真心をこめたアイコンタクトを保つ
・曖昧な表現を使う
・はっきりとした低い、優しい声で話す
・相手の動きや感情に合わせる
・満たされていない人間的欲求と行動を結びつける
・好きな感覚を用いる
・ふれる
・音楽を使う

以上のような方法を挙げることができる。

例えば「自分の部屋にだれかが忍び込んだ」と認知症の人が言い出した時、「部屋にだれかが忍び込んだのですね」とその人の言葉を繰り返すことから始まり、そして「忍び込んできた人は、どんな服を着ていたのですか」などと聞いてみる。そして 「怖かったのですよね」と問いかけながら、「今までで一番怖かったことはなんですか」と極端な表現で最悪な状態を想像させるのも有効になるという考え方である。こうした会話の中で、認知症の人は不安を吐き出すことができ、その思いをわかろうとする誰かがそこに存在することによって、心理的支持を得て安心し、行動・心理症状として現れている症状は消えるというのがバリデーションの基本的な考えである。

それは認知症をもつ人を一人の「人」として尊重し、その人の視点や立場に立って理解しケアを行おうとする「パーソン・センタード・ケア」と、根を同じにする考え方であろうと思う。

認知症の人であっても、「認知症」という冠をつけずに、一人の人間として見つめて、その尊厳を決して損ねることなく、認知症の人々の見ているものを、その人々の現実として理解的に関わり、人としての存在を認めることによって信頼を得て、症状緩和につなげていこうという考え方であろうと思う。

その理念や良し。この手法を使って症状緩和する人もいるだろう。しかしである・・・。

このコミュニケーション術を積極的に取り入れているという医療機関や介護施設を訪れて、日常的にその手法で接しているというコミュニケーション場面を見て首をかしげてしまうことがある。そこでは大いなる違和感を抱かざるを得ない場面が多々ある。

認知症の人のいうことを繰り返す表現や、思い出話をする時の、看護職員や介護職員の言葉の汚さ、表現方法の不適切さに嫌気がさしてしまうのである。そもそも「真心をこめたアイコンタクトを保つ」という原則があるにもかかわらず、言葉の使い方に気を使わないで何が真心かと言いたい。

「そお、誰かが忍びこんだの。」 「怖いよね」 「今まで一番怖かったことって何」・・・。バリデーションの根底に、パーソン・センタード・ケアと同じ考え方があるとしたら、なぜ年上の高齢者との会話が、子供を諭すような言葉で進行されなければならないのだろう。そこには人生の先輩としての敬意も、お客様である利用者に対する配慮のかけらも感じられない。

もともと認知症のケア理念は、その手法にかかわらず、人を人として敬い、認知症の人の尊厳を守るという基盤が存在せねばならない。医療や介護の専門家がそこに関わる時に、子供や友達に話しかけるような馴れ馴れしい言葉は必要とされないし、そもそもそれは人の暮らしを再生するという職業に必要とされるものではなく、人の尊厳を守る職業と対局に存在するものである。

アメリカやヨーロッパとは違った文化を持つ国民を、サービスの対象とする我々日本の介護サービスは、外国の手法をそのまま取り入れるだけではダメなのだ。この部分への配慮がないコミュニケーション術も療法も、本当の意味で認知症の人々の暮らしを守るものにはならないだろう。

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認知症の人の哀しさを理解する人になってください


「私の家はどこですか」の著者・フリーローズさんは、54歳でアルツハイマー型認知症を発症した。彼女は著書の中で、「ゆっくりじわじわと広がっていく心の闇に気付くことはつらい思いだった。滑りやすい斜面を滑り落ちていくのがわかる。断崖絶壁の上を1人で歩いているような感じだ。」と記している。

「私は誰になっていくの」の著者で、オーストラリア政府高官として30人の部下を統率していたクリスチーン・ボーデンさんは、「どんなに頑張っても努力しても、物事や言葉は意識からすぐに消えていく。私のざるのような頭はどんどん漏らしてしまう。ただ大きな空白があるだけで、そこに物事を憶えておくことが出来ない。また道に迷ったとき、何かに困ったときに、そばにいる人に尋ねることすら思いつかない。」と講演で述べている。

元校長先生のN子さんは、「私は子供たちにたくさん宿題を出したのに、自分がもう宿題をとけなくなってしまった。私は頭が変になってしまった。子供たちに申し訳ない。」と嘆いた。

アルツハイマー型認知症の発症初期は、自分の記憶が失われていくことの自覚があるケースが非常に多い。そのために物事を覚えられないことや、失われていく記憶に対し恐怖とジレンマを抱く人も多い。私たちはそうした人々の恐怖や嘆きを理解し、その人たちの混乱の原因を推し量り、認知症の人という見方ではなく、一人の人間として相対していく必要がある。

しかしアルツハイマー型認知症の進行によって、記憶障害や見当識障害の自覚があった人も、やがてそのことを自覚することさえできなくなり、過去の性格からは考えられないような暴言や暴力といった行動につながる人も多い。

それらの人々は、自らが本来持っているパーソナリティではない認知症という症状によって、他者から理解できない行動をとり、他者から奇異な目で見られてしまう。

認知症を発症する前に、目に入れても痛くないかのごとく可愛がっていた孫に向かって、暴言を吐き、ときには暴力さえ振るおうとして、「おじいちゃんなんて大嫌い」と孫から嫌われてしまうケースもある。それはとても哀しいことだ。

我々は介護のプロとして、それらの人々の行動の意味を家族に説明し、それが本来のその人の姿ではなく、認知症という症状によりもたらされる行動であることを理解してもらい、認知症でそうした症状があっても、その人の真の姿はそれを求めているものではないことを知ってもらい、その人を人として愛し続けてもらうように、認知症の人と、その家族に寄り添うべきである。

介護とは、心にかけて護るという意味なのだから、我々は介護のプロとして、認知症の人を心にかけて護らねばならない。

しかし自らの状況を正しく訴えられず、不適切な扱いをされても、そのことを訴えることができない認知症の人であるがゆえに、理不尽な虐待を受け、そのことが誰からも気がつかれずに長い期間にわたって放置されてしまうケースがある。今朝も介護施設での日常的な虐待が明らかになった。
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 函館市は同市桔梗町の介護老人保健施設ジョイウェルス桔梗(ききょう、森久恒理事長)で、介護職員3人が入所者2人に対し暴力行為を行っていたとして、10月1日から1カ月間、同施設の新規入所者の受け入れを停止する行政処分を行ったと発表した。処分の通知は今月11日付。
 同市保健福祉部によると、6月26日、施設職員を名乗る人から匿名で「施設内で認知症の入所者に対する虐待が行われている」という内容の通報があった。市が翌日に調査し、20代の2人と40代の介護職員が90代と80代の入所者に対し、「死ね」などの暴言を吐いたり、頭をたたいたりしていたことを確認した。3人はいずれも「仕事が忙しくてイライラしてやった」と話した。施設は被害者と家族に謝罪し、3人を6月末に懲戒解雇した。
朝日新聞デジタル2013年9月18日3時29分配信ネットニュース記事より
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仕事が忙しくイライラして虐待するという理由自体が成り立つのかどうか首をかしげるが、彼らの卑劣さは、虐待対象が認知症の人に向けられ、認知症の人だから訴えられずバレないだろうと思っている節があるところだ。

こんな卑劣なことはない。しかし我々は、そのような卑劣な行為につながる心の闇がどこから生まれるのかを、他人事としてではなく、自分や自分の施設にも起こりうる問題として、日常の認知症の人に対する接し方という部分から考えていく必要があるだろう。

認知症の人の行動を理解しようとしないで、馬鹿にしたり、奇異な目で見つめるようなことが少しでもあれば、我々は報道された職員と同じ心の闇を抱えかねない。認知症の人を、我々自身が護るんだという心を日常的に持たないことには、そのような心の闇はいつか我々の心を覆うかもしれない。

認知症の人に対しても、きちんと年上のお客様に対して使うべき言葉遣いで相対していなければ、乱れた言葉が心を乱し、やがてそれは深い闇に変わって行くかもしれない。

認知症になる前に、あんなに愛していた子や孫に嫌われる行動をとるようになる認知症の人の哀しみを理解してほしい。

自分が置かれた状況が理解できず、周囲のあらゆる状況が混乱につながり、常に不安と隣り合わせにいる認知症の人の哀しみを理解してほしい。

してほしいこと、やめてほしいことを自ら訴えられない認知症の人の哀しみを理解してほしい。

助けてという声を挙げることができない認知症の人の哀しみを理解してほしい。

認知症の人の感情は、認知症ではない人と同じく傷つきやすいということを忘れないでほしい。

そして最後に一言物申したいことがある。全国的に有名な人で、認知症の人に対するケアの達人のような人がいるが、その人が講演の中で、顧客である利用者に対する言葉遣いに配慮のない表現が数多くされている。顧客である利用者を、じいさん、ばあさんと呼ぶことが、なぜ必要なのか僕には理解できないが、そうした人は自分がそのような言葉を使ってもなおかつ認知症の人々に信頼される達人であって、講演受講者のすべてがその域に達することができるわけではないことを自覚して欲しい。

あなたの日常的に行っている素晴らしケアの方法論を真似る前に、あなたの乱れた言葉だけを真似る人間が数多くいるということを自覚して欲しい。

言葉の乱れが、介護サービスにおける割れ窓であることを理解しない人々が、感覚を麻痺させて、報道のような虐待につながっているケースは実に多い。その弊害の一つが、認知症ケアの達人と呼ばれる人の言葉を真似るだけで、行動を真似ることをしない人によるものだということを知って、自戒して欲しい。

丁寧語を使うと適切なケアができないなんてことはあり得ないのだから。

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人の心の痛みがわかるのは、普通の感覚だ


僕は非常勤講師という立場で、介護福祉士を目指す学生に様々なことを伝えている。それは教えにはならないかもしれないが、伝えるべき思いであることは間違いない。

天使のように優しい人でなくてもよい、普通の人でよい、ということも僕が伝えたいことだ。

しかし普通の人とは、人の哀しみに鈍感な人ではないはずだ。介護は究極的には、世の中の幸福に寄与する行為だと思う。そうであれば人の喜怒哀楽に敏感な心を持つ人が、本当の意味での介護ができる人だ。しかしそれは決して達人の領域ではなく、普通の人が普通に達することができる領域であろうと思う。

なぜなら人である我々は、誰から教えられるものでもなく、自分自身の喜怒哀楽の感情というものを持っているからだ。自分の心から学んで、相手の立場にたてば、それは自ずと見えてくるものだろうと思う。

介護者が、人の幸福に寄り添う存在になろうとすれば、何より人の心の痛みに敏感である必要があると思う。

例えば認知症の人は、認知症という症状を持つに至ったことにより、その人の本来持っているパーソナリティとは全く違う行動をとり、そのことによって他者から奇異な目で見られてしまうことがある。でもそれは本当の姿ではないのだ。我々は、本当の自分になれない人々の心の痛みを想像し意識すべきである。

昨日の授業では、「アルツハイマー型認知症の方の行動心理症状への支援方法」というテーマで、グループ学習を行ったが、そこで取り上げた認知症の方とは、暴力や暴言が激しい運動能力の衰えていない男性であった。

しかしその方の過去の生活歴の中には、奥さんからの聞き取り内容として、「口数は少ないものの、とても優しく、昔は夫婦喧嘩を全くせず、退職後妻の家事を手伝ったり、朝食作りなどを嫌な顔一つしないでしていた。」という記述がある。本来そのようなパーソナリティを持っていた人が、認知症という症状を呈すようになった後は、家族である妻や子や、本来最も可愛い存在であるはずの孫にさえ暴力を振るうようになり、そのことで家族からも疎まれる存在になってしまったケースである。

グループワークは、症状理解とその対応を考えるのが主たる目的であるが、その前に僕は学生たちに、本来のパーソナリティではない症状に基づく行動をとることになって、そのことで周囲の人々から怖がられたり、嫌われたりするということを悲しいと思いなさいと伝えている。本来の自分ではない行動により、最愛の妻や子や孫に対し、暴力を振るってしまうようになった人の心を痛ましいと思い、その人を愛する心を失わないようにして欲しいと伝えている。その心がベースにないと、我々は常に間違ってしまうと伝えている。それが僕のやり方である。

もちろん、我々にもコントロールできない感情があるから、認知症の人から暴力を振るわれたり、理解できない反応に出会うと、カッとすることはあるわけである。そうした感情をなくせというのではなく、そうした感情の有り様を自分自身で理解しようと努めた上で、その感情をコントロールし、なおかつそうした行動をとる人の本当の心は痛みを感じているのだと思いを寄せることが大事だと思う。

認知症の人々は、自分の置かれた状況が理解できないことが多いだけではなく、自ら抱く自身の危機感や、困り事も訴えられないことが多い。その時、その人に変わって、認知症の人が訴えたい感情を代弁するのが我々の役割である。そのためにも、その人の抱く喜怒哀楽の感情に常に敏感でなければならない。我々が守らないと、守れないものがあるからだ。それが我々の役割である。

しかしこの業界にも、人の心の痛みを知るという、普通の感覚をもたない人が存在する。

今年4月に報道された虐待事件でも、自らの危機を訴えられない認知症の方が被害に遭っている。
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(事件概要は以下のとおり:2013年4月29日 読売新聞より)
玉名市の通所介護事業所が、60歳代の認知症の女性を送迎用の車にシートベルトで拘束していたことが3月に発覚した。職員は午前中、デイサービスを受ける女性を車で迎えに行き、夕方まで事業所に止めた車内に拘束した。昼食も車でとらせ、施設内に入れるのはトイレの時だけだったという。県は同月、運営会社の事業所指定を取り消した。

県高齢者支援課によると、この事業所の経営者は、県の調査が入った昨年10月まで約1年間にわたって女性を拘束したことを認めた。女性が当初、指示に従わず、大声を出すなどしたことから拘束を始め、「車内の方が本人も落ち着く」と都合のいい理由をつけて常態化したらしい。認知症が進んでいた女性は、拘束の事実を家族にも伝えることができなかった。
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このような対応には、常識はずれの管理者だけが関わっていたわけではないはずだ。たくさんの従業者が、なぜこのような人道に背いた行動を容認してしまうのだろうか。介護事業者としてではなく、人として許されない行為を、どうしていとも簡単にしてしまうのだろう。その一番の原因は、人の心の痛みに鈍感になってしまうという感覚麻痺ではないのか。

介護技術や知識は、経験によってある程度獲得できるものだろうと思う。しかし根底に抱くべき人間愛を伴う人に対する思いは、意識しない場所では麻痺し低下するものだろうと思う。場合によっては経験によって、それは低下してしまう恐れさえあるものだ。

福祉援助や介護サービスには、非科学的で目に見えない愛情が必要なのである。なぜなら人間そのものが、目に見えない感情を持ち、心の揺れという非科学的なものに影響される存在だからである。誰しもが愛情をもろ目ているのだ。それが人間という存在なのである。

そこへの思いを失う介護など、ありえないと思う。

大事なことを覚えておいてほしい。人の「死」とは、個体死・肉体死だけではないのだ。心を殺されるという精神死もあるということだ。そして心を殺されてしまった人は、二度と人として立ち直れないかもしれないということだ。

心を殺しても、罪にならないかもしれないが、心を殺す行為は殺人となんら変わりのない許されない行為なのである。
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(昨日の続き)RNU伴登別ステージ出発しました


RNU伴登別ステージ、スタートです。僕もスタート地点で声援を送ってきました。
RUN伴登別ステージ2
僕も集合写真に入らせていただきました。
RNU伴登別ステージ
この集合写真をとってくれたのは、アウル登別館の石川施設長。アウルの総合施設長、宮崎さんと、函館の細田さんに挟まれて写ってるのが僕です。

第一走者は、緑風園の奥山ソーシャルワーカー。元気に出発しました。
RUN伴登別ステージ3
RUN伴登別ステージ4
その他の緑風園メンバー
RUN伴登別ステージ5
左から、高谷さん。応援に駆けつけた白井ケアマネ。橋浦副主任。橋本くん。白井さんは奥山さんが出発後に来ました。意味ねえ。

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RUN伴2013が始まっています。


認知症の人と伴に生きる社会を目指し、認知症の人やその家族、支援者、一般市民が協力しながら襷をつなぐ「RUN伴2013」が昨日、旭川市をスタートしました。北海道ステージは7/25(木)〜7/28(日)の4日間です。

今年は、北海道ステージのあと、9/13〜9/16が東北ステージ。9/21〜9/23が関東ステージ。9/28〜9/29が中部ステージ。最後の関西ステージは、10/12〜10/14でゴールは大阪。1.700キロの長い旅です。

緑風園からも、選りすぐったランナー3名が、3日目の登別ステージに参加します。

RUN伴緑風園チーム
左から、高谷管理係員、橋本副主任ケアワーカー、奥山ソーシャルワーカー。3人とも、地元のマラソン大会にも参加している精鋭です。

僕も本当は一緒に走りたかったのですが、明日は、越後のカリスマPT大渕さんが講師の、「座位困難な利用者の 姿勢・座位調整と車椅子の工夫のポイント」という研修を札幌で受講する予定になっているために、今回もランナーとして参加できません。(昨年は、RUN伴の期間に愛媛県講演で不在でしたので参加できませんでした。)

しかし研修は10:00スタートですから、自家用車で8:00すぎに登別東インターに乗れば間に合いますので、朝7:00に登別ステージ参加者の集合場所である登別駅前に駆けつけて、スタートするランナーに声援を送ってこようと思います。

明日の北海道ステージ3日目の行程は、6:30に白老町虎杖浜の北海道リハビリテーションセンターをスタートし、午前7時ころに登別駅で襷をつないで、伊達市のグループホームアウルを目指します。

ランナーたちの様子をリアルタイムで伝えるフェイスブックの「RUN伴2013」で、どこを走っているかを確認できます。現在は千歳市で襷をつなげて、苫小牧市に向かっているようです。

わが国では、65歳以上の高齢者の15%が認知症であるという数字が今年示されました。これは65歳以上の高齢者の7人に一人が認知症になるということを示しています。つまり我々のすぐそばに認知症の人がいるということは、当たり前なのです。そして認知症の人であるとしても、我々と同じ一人の人間として、我々と同じ感情を持って日々暮らしているのです。

もちろん認知症になれば、記憶を保持できなくなって、そのことによって混乱が生じ、認知症ではない人からは理解できない行動をとる人もいます。そのとき周囲の人々がそのことをなじらず、見守ったり声をかけたりすることで、認知症の人々は安心を得られるかもしれません。それうした周囲の人々の理解と、その時々に適切に手を貸したり声をかけるという、認知症の人に向けた関心が必要になるのです。

認知症の人を理解し、地域で共に生きるということは、何も特別なことではなく普通のことだという理解が必要です。認知症の人やその家族、支援者、一般市民が一緒にひとつの襷をつなぐ姿を見て、多くの方々にそのような理解をしていただきたいと思います。

RUN 伴Tシャツ
すべてのランナーが、このTシャツを着て走っておりますので、オレンジ色のシャツを着たランナーの集団を見かけた方は、沿道から暖かい声援を送ってほしと思います。

どうぞよろしくお願いします。
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高齢者の15%が認知症になるという意味


認知症のサポーター研修など、認知症に関する講義の講師を務める人の中には、いまだに65歳以上の認知症高齢者は13人に一人だとアナウンスしている人がいる。それはあまり不勉強だ。恥ずかしいと思って欲しい。

昨年の8月に、厚労省は2012年の認知症高齢者が推計で305万人に上ると発表した。この数字は65歳以上人口の約10%を占めるもので、この時点から我が国の認知症高齢者の数は、65歳以上では10人に一人という数字に変わったのである。

しかしこの数字もすでに使えない古い数字になった。

先週、厚生労働省研究班(代表研究者・朝田隆筑波大教授)の調査結果が公表され、それによると、専門医などがいて診断環境が整っている茨城県つくば市、同県利根町、愛知県大府市、島根県海士町、佐賀県伊万里市、大分県杵築市、福岡県久山町、同県大牟田市など8市町で選んだ高齢者5.386人分の調査データを使い、国立社会保障・人口問題研究所による高齢者人口(12年)に有病率を当てはめて推計した結果によると、65歳以上の高齢者のうち認知症の人は推計15%で、2012年時点で465万人にのぼることが明らかになった。
(朝日新聞デジタル 6月1日(土)13時50分配信ネットニュースより一部引用)

この数字が最新値であるから、これに基づいて私たちは、65歳以上の高齢者のうち認知症になる高齢者は、7人に一人だと講義しなければならないという意味になる。

いまだに13人に一人なんていう数値を使っている人には、間違いを指摘して欲しい。

ところでこの数字が意味するところを考えてみたい。

65歳以上の高齢者の15%が認知症となるからといって、65歳を迎えた瞬間に、その世代の人々の7人に一人が認知症になるわけではない。ここを間違えてはいけない。

あくまで65歳以上の高齢者という大きなくくりの中で、全体でその15%の人が認知症になっているわけである。特に認知症発生の最大リスクは、「加齢」であるのだから、年齢が高くなるにつれて、認知症になる確率も高まるということは常識であり、85歳以上の高齢者の4人に一人が認知症になるという数値は変わっていないのである。

これは自分の両親と、配偶者の両親が、皆85歳まで生存したならば、そのうちの誰かは必ず認知症になるという数字であり、それを考えると、認知症とは自分や自分の家族とはまったく無縁の状態とは決して言えないことが理解できるであろう。

つまり認知症とは社会問題というふうに捉えるだけではなく、自分の身の回りに起こりうる介護問題として考える必要があるということだ。だから自分の家族や親戚が、認知症になった時に自分がどう関わるべきなのかを考えるためにも、認知症という症状理解に努める必要があるのだ。

認知症サポーター研修は、地域という身近な場所で、認知症というものをわかりやすく説明してくれる機会なので、そこに参加する人がもっと増えて欲しいと思うし、そうであるがゆえに、サポーター研修講師は、自分自身が認知症というものの理解を深め、常に新しい数字や情報に敏感になって欲しいと思う。

ところで厚労省の研究グループが発表したデータをよく読むと、65歳〜69歳の高齢者の認知症発症率は、10%にみたない数字であることがわかる。

年代別の発症率を細かく読むと、認知症になる人が10%を超える世代は、75歳以上の年齢であることがわかる。つまり自分の同級生の10人に一人が認知症になるのは、自分が75歳を超えた年齢からであるということだ。

しかしこの数字は、このあたりからぐんと上昇し、85歳を超えると60%の人が認知症となる。85歳を超えた人にとっては、認知症にならない同級生の方が少ないという意味である。90歳以上だと80%が認知症になっている。同級生の2割未満の人だけが、認知症の症状がない状態で暮らしているというわけである。

そこまで長生きしないと思っている人もいるだろうが、どちらにしてもこの数字は、我々が将来の自分のためにも、地域の中にきちんと認知症の理解を広め、認知症の方に対する適切な対応方法のエビデンスを作っていかないと、自分自身に還ってくる問題になるという意味になる。

自分が将来どのような状態になろうとも、尊厳を持った一個の人間として、その存在価値を認めてもらえるような社会を今から創っていかなければならない。

そのために自分自身が、人間という存在そのものを敬い、暮らしの支援に関わるということを真摯に謙虚に考える存在であることが求められるのだろうと思う。

どのような状態になろうとも、偏見によって差別されることがなく、誰もが愛し、愛される社会を創っていかねばならないと思う。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

心の声を聴く人になってください




プロ野球の中日とロッテで、ストッパーとして活躍された牛島和彦さんが出演されていたテレビ番組で、高校野球やノンプロの投手などに、次のような質問を投げかける場面があった。

「1対0でリードして迎えた九回裏。ツーアウト満塁で、ボールカウントが3ボール2ストライクになったとしたら、次の球種は何を選択しますか。」

それに対して、高校生やノンプロの選手は、「その日自分が一番自信を持って投げられる球を投げる」「打たれても悔いがないように、自信のある真っ直ぐで真っ向勝負する」「自分の決め球に賭ける」など様々な意見が出された。

ところで同じ質問をアナンサーから振られた牛島氏は、それらの意見とは全く異なる考え方を示された。

牛島氏曰く、「どういう状況でツーアウト満塁になったのか、そしてその状況で、どういうふうにして3ボール2ストライクというカウントになったのかによって、選択する球種もコースも全然違ってくるので、その質問には答えられません」

なるほど、これこそプロフェッショナルだと思った。今そこにある状況には、かならず過程があるのだ。その過程によって状況が生まれているのであるから、そこで求められる対応は、過程を無視して考えられないということだ。

この考え方は、我々のように対人援助に関わるものこそ持たねばならない考え方ではないのだろうか。

例えば僕は、「認知症の理解とケア」に関する講演を行うことがあるが、そこではアルツハイマー型認知症やレビー小体型認知症などの症状の特徴や、そうした症状がある人たちへの対応方法を具体的に示すとともに、過去に僕が経験した認知症の方々との関わり方の中で、症状の改善や精神の安定が見られたケースなどを紹介して、その分析を行うことが多い。

そして認知症の方々に求められている我々の対応方法とはどのようなものかを、僕なりに理解したものを解説している。

そうした講演後の質疑応答では、今現在対応に苦慮されている方から、具体的なケースの相談を受けることがある。それは例えば認知症で重度の記憶障害と見当識障害があるAさんという人が施設で暮らしているとして、その人が頻回に帰宅願望があるとする。この人にどのような対応をすべきなのかというような質問である。

しかしそれに対して僕が示すことができるのは、一般論としての解決策の提言のみである。それは問題解決の糸口になるかもしれないけれど、個別のケースによっては通用しないかもしれない方法である。

なぜなら認知症の方々の個々のケースの対応は、その方々に向かい合って、その方々の置かれた状況た、感情の有り様を理解して、初めてわずかな光が見つかり、そこから解決策を手繰り寄せていくという地道な作業でしか見つからないからだ。

同じように重度の記憶障害と見当識障害があって帰宅願望のあるAさんと、Bさんという別の人では、帰宅願望に結びつく理由や状況が全く異なり、場合によっては、それは我々の想定を超えた状況であるかもしれないのである。そうであれば、そこでは真に個別の事情というものを理解しようとする態度からしか解決策は見いだせないということになる。

平井堅の「Life is」がBGMとして使われているDVDを講演で使うことがあるが、その理由は、歌詞に我々が持つべき理念につながる内容があって、心に響く映像になっているからである。

その歌詞とは、「答えなどどこにもない、誰も教えてくれない。でも君を思うと、この胸は何かを叫んでる。それだけは真実。」という内容だ。

認知症の人々が、何を求め、どうして欲しいかを見出すためには、その人自身を真剣に見つめて、ひとりの人間としての思いに我々の心を寄せて、自分がその立場であったらどうしたいのかを真剣に考え、その人の心の叫びを我々自身の心で感じて、それをサービスとして具現化する意外ないのだと思う。

答えは壇上の講師が持っているのではなく、介護サービスの場で利用者に真剣に向かい合う人が、利用者から教えられる中でしか見つからないのだと思う。

だからもっと真剣に、利用者の本当の姿を見つめる必要があるのだと思う。「もっと私を見て」という声無き声を聞かなければ、答えは見つからないのだと思う。

私たち自身の胸が何かを叫ぶようになるまで、真剣に利用者を見つめなければならないのだと思う。

だから・・・どうぞ目をそらさずに、全ての人々の心の声を聴く人になってください。



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介護・福祉情報掲示板(表板)

真実を見つめる視点を育てるために


僕は介護福祉士養成専門学校で、非常勤講師として、「認知症の理解」という授業を担当している。

1年時と2年時、それぞれ90分授業を15コマずつ行っている。つまり2年間を通じて、90分×30回の授業ということになる。(各学年で2コマ授業が14日、1コマ授業が1日)

その際のシラバスは2年間を通して学び取るという視点から作成しており、15コマずつ区分しているというより、30コマをひとつの単位として考えている。

講義名からわかるように、この授業は認知症の人を理解することを一番重要視している。単に認知症の人に対するケアの方法論をあれこれ教えるだけではないという意味だ。

そもそも認知症の人に対する具体的ケアは、その人の状況に応じてひとりひとり違ってくるので、定型的な方法論を教えたって始まらない。行動理解につながる症状のメカニズムや、脳科学からの基礎知識は必要になるが、それもすべて認知症とは何か、その症状を持つ人々の内面はどうなっているのかを想像する基礎を作るためにある。そうしないとひとりひとりにあった適切なケアを介護サービスの実践の場で作っていけなくなる。

そのため1年時の10コマ目までは、徹底的に基礎理解を促す講義形式の授業を行う。その中で、ある程度理解度が高まったと判断すれば、次にブレーンストーミングというグループワーク方式で、様々なケース検討を行う。1グループ6名〜7名で6グループを2年間固定化したメンバーで話し合うようにしている。これが2年生の12コマ目まで続き、最後の3コマはまとめの講義形式となるようにしている。

ブレーンストーミングで取り上げるケースは、すべて僕が介護サービスの場で関わったケースであり、すべて完結したケースである。現在進行形のものは取り上げない。なぜなら現場で完結していないケースに答えはないので、学生に最終的にそのケースの評価を示すことができないからだ。

介護サービスの場で完結しているという意味は、成功したという意味ではなく、失敗した例も含まれるという意味だ。あくまで評価を終えて、その結果を学生に示すことができるケースを取り上げている。そこにフィクションは存在しないため、学生は介護サービスの現場の臨場感を持って考えなければならないことになる。

その中で間違ってはいけないことは、認知症の人は何もかもがわからず、全ての人の行動が、認知症の症状とつながっているというわけではないということだ。認知症の人であっても、その症状とは全く関係のない、人としても喜怒哀楽や感情表現は当然あるわけで、認知症の症状とすべてを結びつけてしまうことによって、逆に本当の生活課題が隠されてしまう場合があるということだ。

ブレーンストーミングでは、認知症の人の排泄支援、食事摂取支援、活動参加支援、入浴支援などを実際のケースから考えるが、排泄支援のケース検討の中では、先日「信用してもらえない認知症の人の訴え」で紹介したケースを、ブレーンストーミングで話し合っている。

ここでは認知症というフィルターをかけないで、認知症の人の訴える意味を考えることの重要性を理解してもらえるように指導している。

認知症の理解という授業だから、学生たちがここで話し合うテーマや症状について、すべて認知症と関連付けて考えてしまうのはやむを得ない。そのため各グループの検討結果において、この症状を泌尿器科疾患と考えて対策を考えているグループはほとんどない。

そのため全グループの発表の後、僕が行う総評の中で、このケースの中で、利用者が頻回におしっこしたいと訴えている理由は、実際には認知症の行動心理症状ではなく、病状から生ずる身体の不調に関連する訴えであることを解説し、そこから我々が間違ってはならないことは、認知症という診断がされている人と相対するときに、認知症という症状がある人と言う前に、ひとりの人間として真摯に接することが重要であることを訴えている。

それらの人々は、家族にとっては父であり、母であり、夫であり、妻であるということを理解してもらわねばならない。そうして、認知症の症状のある人ではなく、ひとりの人間として見つめる視点が大切であることに気づいてもらいたい。

そうすることによって、我々が介護サービスの場で相対するのは、個々の症状ではなく、暮らしを営む人そのものであることを、しっかり2年間で理解してもらいたいものだ。

介護の専門性とはそこからスタートするのではないだろうか。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

信用してもらえない認知症の人の訴え


ここで紹介するケースはかなり以前のケース紹介で、確か20年近く前に、日胆地区の老人福祉施設職員研究大会で発表した事例である。ケースの対象者の方は既にお亡くなりになっているが、その方から教えられたことは今もって心に留めているので、あらためてこのケースで学んだ大事なことをご紹介したい。

総合病院の内科入院を経て当施設に入所されたAさん(74歳 女性)は、アルツハイマー型認知症との診断を受けていた。認知症の自立度はaレベル。(当時はこの判定基準もなかった。)意思疎通は可能だが、短期記憶の障害があり、自室がわからないなど見当識障害も見られた。

それにもまして我々を悩ませたのは、入所当初から頻回な尿意の訴えがあり、職員がそばを通るたびに、「おしっこがしたい」、「トイレに連れて行って」、「トイレはどこ」と訴えることであった。

職員の姿が見えないときは、居室の中から大きな声で、「誰かおしっこに連れてって」と叫ぶなど、覚醒中は尿意を訴え続けるような状態である。

尿意の訴えが頻回であるが、勿論そのことを無視するわけにはいかず、その都度トイレに付き添って排泄介助を行うのであるが、排尿がほとんど見られないことも多く、少量の排尿が見られた場合も、後始末を終え別な場所に誘導した数分後には再び「おしっこが出る」と訴えるような状態が続いた。

この状態は当施設入所前の医療機関でも同じだったようで、引き継ぎの際には「心気症状が疑われるのではないか」、「寂しがって、おしっこをしたいという理由で職員を呼ぶのではないか」、「単に誰かに側にいて欲しいのではないか」と申し送りがされていた。

入院中は終日紙おむつを使用して、主に定時のおむつ交換で対応し、トイレで排泄する機会は少なかったようである。

しかし頻回に尿意があるという意味は、おしっこをしたいという感覚はあるのだから、当施設入園後は、日中のオムツ使用はやめ、パットのみ当て、トイレ介助を基本にした。トイレでの動作は、立ち上がりに少し力を貸せば手すりをもって立位保持が可能であり、座位も安定して特別な問題はなかった。つまりトイレで排泄できる状態の人なのである。実際のトイレ内での介助としては、便器への移乗介助と下衣の上げ下げと、排泄後の後始末を行っていた。

夜間はパンツ式の紙おむつを使用したが、入眠前にトイレで排泄すると朝まで失禁はないことが多かった。夜途中で起きる事があり、その際も尿意を訴えるため、ベッドサイドにポータブルを置き、夜はポータブル介助を基本としたが、便器に座っても少量しか排尿がない場合や、まったく出ない場合もあった。睡眠状態に問題はなく、ポータブル介助をすると、排尿がない場合でも安心するのか、すぐ入眠し、夜間は日中ほどの問題はなかった。

しかし日中の頻回な尿意の訴えは、他入所者からもクレームがくるようになり、対応をどうすべきかを再考する段階で排尿状況を詳しく調べることとした。イン・アウトチェックを行ったが、水分摂取介助により、必要な水分量は確保できていたし、それに対する尿量も、1回ごとの尿量は少なく残尿があることも考えられたが、それは問題となるような量ではなく、ほぼ適切な排泄量となっていると考えられた。

答えが見つからず迷路に入るかのように思えたが、この時点で我々は、もしかしたら頻回な尿意の訴えは、認知症による行動・心理症状(BPSD)ではなく、寂しさの訴えでもなく、排尿に関する器官の病気があるのではないかと疑い、まず泌尿器科受診をすべきだという結論を導き出した。

結果的にこの方は、膀胱炎と診断され抗生剤が内服処方された。そして服薬を続けるうちに、頻回な尿意の訴えはなくなった。そのことから考えると、この方は膀胱炎によって、膀胱容量が低下し、そこに尿が少し溜まっただけで尿意を感じてしまう状態であったことが想像できる。このようなケースは考えられている以上に多いのではないだろうか。

つまりこの方は本当に「おしっこがしたかった」のである。その感覚を極めて正常に訴えていたのである。

ところが入所前の医療機関でも、入所当初の我が施設でも、この方の診断名がアルツハイマー型認知症とされていることから、一人の人間と見る前に、「認知症」というフィルターをかけて見てしまったのではないだろうか。

正常な訴えに耳を澄ますことなく、認知症による混乱とか、心理症状とか、寂しがって尿意を理由に職員をそばに呼ぶなど、別に理由があるというふうに曇った目で見てしまっていたのではないのか。認知症という診断を受けている方の行動や言動が、すべて認知症の影響を受けたものであるという我々の偏見ともいえる価値観が邪魔してしまって、正しい対応が遅れたケースではないのか。

よく考えると、我々の周囲で、精神的な問題や症状のない人が同じ訴えをしたならば、真っ先に泌尿器科疾患を疑うだろう。

認知症の人であるからこそ、それができないということであれば、認知症の人は常に訴えることを信用してもらえないということになる。

このケースから我々は、認知症であっても、自らの状態や感情を正しく訴えることができるのであるという基本を忘れてはならないと反省した。

認知症の人と見る以前に、いかなるフィルターもかけずに、ひとりの人間として見ることが必要であると改めて考えさせられた。認知症ケアの前に、人の暮らしを守るケアが必要であることを再確認した。

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「疑惑のグループホーム」を視聴して。


介護トラブルに詳しい弁護士の外岡 潤氏(法律事務所おかげさま)から、2012年12月26日にフジテレビ・スーパーニュースで特集として放映された、「疑惑のグループホーム」が収められたDVDをいただき視聴させてもらった。

外岡氏が相談を受け、訴訟準備を進めている介護トラブルに関連する映像であるが、これを見て驚いた。

愛知県名古屋市のグループホームに入所していた90代の女性が、特養に転入所したとき、骨が見えるほど深くまで達した褥瘡が2ケ所もできていた。しかし特養入所前のグループホームから、家族への報告等はまったくなく、転入所した特養でその状態が初めて分かり、高熱が出て医療機関に3月も入院するような事態になったケースである。

状況から判断すると明らかにグループホーム入所中に最重度の褥瘡が出来ていたと想像できる。それに関するグループホームの介護記録も入手されており、そこには褥瘡が急激に悪化する様子や、それに対し月1回の訪問診療で対処する以外は、看護処置を行うことができないはずの介護職員が薬を塗布するなどで対応していた記録がある。

ところが被害にあった女性入居者が在所していた当時の館長(既に退職)はインタビューで、「グループホームに在所していた時に、褥瘡はできていたが、それは軽度で、特養入所後に悪化したことで、家族がグループホーム側に文句を言っている」「グループホームの職員配置数では、褥瘡があるからといって通院するのは無理で、介護職員が医療処置を行うこともやむを得ない」というものである。なんとも責任感のない元管理者である。

このホームなどを運営する母体の幹部職員が4人揃ってインタビューに応じている映像では、この元館長と同じような話をしていると同時に、「介護職員はなかなか集まらないので、中にはどうしようもない質の人もいる」と答えている。

さらにインタビューを受けている当事者のひとりが、市に介護職員の医療処置という事実はないという虚偽の報告をしているにもかかわらず、そういう報告が市に挙がっているということについて、「誰がそんな報告をしたのか調べてみないとわからない」ととぼけ、報告したのはあなただと指摘されると、「他にもいろいろ仕事をしているので、覚えていない」と言っている。まったく当事者意識の低い人々である。

そもそも本件は、褥瘡がどこで悪化したかというよりも、褥瘡を作ってしまったことそのものが問題で、それについて利用者の家族に全く知らせていなかったということがさらなる問題だ。

きちんと体位交換をしておれば、こういう状態にはなりようもないし、何らかの事情で皮膚トラブルが生じる場合も、普通に対応しておれば発赤段階で対応できるはずである。そもそも被害者女性は、寝たきりではない。車椅子に移乗できる状態なのだ。そうであるにもかかかわらず左右の腰に近い部分に2つの褥瘡ができるということは、日中離床もきちんと行われておらず、臥床時の体位交換もされていない状態だったのではないだろうか?つまりこのグループホームでは、日常の当たり前のケアが行われていなかった可能性が高い。

映像に映った褥瘡の写真は画像処理されているものの(放映時間が夕食時間に近かったということの配慮などがあるのだろう)、その映像でもひどい状態であることがわかる。あの深い褥瘡は、利用者にとっても痛くて、苦しかっただろうと思う。本当にお気の毒に思う。本当に罪深いことだ。

僕の施設でも、利用者の皮膚トラブルが発生することはあるが、その場合でも1ミリ単位の皮膚障害も報告として挙がってきて、それに対する速やかな対応を行っているし、そのことを利用者の家族に報告しないことはあり得ない。そのようなことを隠してしまうことは密室化にほかならない。

しかし増え続ける介護サービス事業者に対し、それを支える介護を担う人材確保が追いつかないことで、そうしたサービス事業者もますます増えるだろう。特に運営管理する主体が、利用者の権利や尊厳に対しての意識が低いと、このようなトラブルは繰り返されるだろう。

我々はそのことを恥と思って、少なくとも我々の職場からは、そういう人権侵害を発生させないという強い意識と、日頃の教育が必要だろうと改めて考えた。

自分が将来、そういう人権侵害を受けないためにも・・・。

ところで少し話を変えて、読者の皆様にお願いしたいことがある。

僕の著書「人を語らずして介護を語るな」のシリーズ第1作の160頁に、「苦しゅうございます。」というコラムを載せている。

この元記事になっているのは、このブログに2009年11月24日に掲載した「苦しゅうございます・・・。」という記事である。

実はこの記事を使って、本日鹿児島国際大学福祉社会学部介護福祉コース1年の学生11名が、古瀬先生の授業を受けている。「社会福祉概論」の締めくくりが近づいているため、まとめに関連する授業ということらしい。

1:30過ぎから学生たちがコメントを書き込んでいるので、それに対して読者のみなさんからも、応援メッセージやアドバイスを書き込んで欲しい。もちろん僕もすべてのコメントに返信している。

1月25日新刊発売迫る。
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自分でなくなる哀しさ


人は脳によって、笑ったり、怒ったり、愛したり、恐れたり、憎んだり、昂ったり、わかったり、覚えたりするのである。脳がありとあらゆることを処理していく。

そもそも脳とは、判断能力だけではなく、視覚や聴覚や嗅覚も司るものだし、やる気や運動神経といったすべてのものに関連している。様々な信号を身体の各器官に命令を伝える根本的なものである。

つまり「脳」とは、その人自身である。

そう言う意味で言えば「こころ」と表現されるものは、心臓ではなく、脳なのである。心臓は「こころ」ではなく、ポンプということになる。

そしてその「こころ」は記憶によって作られるのである。

脳が感じたあらゆる情報や感情を記憶できてこそ初めて、人間は現在を過去と未来につなぐことができるのだ。ところが脳の器質障害によって記憶が保持できなくなった人は、現在を過去と未来に繋げられなくなる。

そうなると自分という存在がどういう存在であったのかがわからないし、将来自分が何をしようとするのかもわからないということになる。

そして今置かれている現実の状況も理解困難となっている。このような状況に置かれることは非常に恐ろしいことだ。だから記憶を失った認知症の人たちが、常に混乱と不安の中にいるということは容易に想像がつくわけである。

つまり「脳」がその人自身であると同じく、記憶もその人自身なのである。

認知症は、この脳に何らかの障害が発生することである。定義上のそれは、後天的な原因の脳の器質的障害により、日常生活に支障が生じる状態が継続することである。アルツハイマー型認知症では、その症状は記憶障害から始まり、新しい記憶が保持できなくなり、やがて過去の記憶も徐々に失っていく。

つまり認知症とは、「自分が自分でなくなっていく」という一面があるのだ。それを恐怖として感じる能力が残っているか、残っていないかという問題はあるにしても、本来の自分ではなくなっていく変化なのである。

我々は、認知症の人達と関わるとき、この「自分でなくなる哀しさ」、「自分でなくなる怖さ」を理解して、そうした人たちの「こころ」を守るお手伝いをしなければならないと思う。

認知症だから仕方ないと諦めるのではなく、自分が自分でなくなっていく人々の内面を理解しながら、そうした人たちに何が必要なのかを常に考え、あなたはここに確かに存在しているということを、それらの人々に訴える心の寄せ方が必要なのではないだろうか。

あなたはそこに確かに存在しています。
それはあなたが必要とされているからです。
あなたは決して、いなくて良い存在ではないのです。

認知症の人たちは、そういうことを確かめることができる何かを求めているのではないだろうか。我々がその気持ちにしっかり寄り添うことが出来る存在になり得るためには、我々自身が、それらの人々の存在を愛おしく思い、その存在に敬意を払うことからしか始まらないのではないだろうか。

だから・・・。やはり福祉人とは、愛する人でなければならないと思う。

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記憶を失っても、感情が残される理由


アルツハイマー型認知症は、アミロイドβタンパクといわれる物質が蓄積することによって脳内に影響が出始め、特に記憶を司る海馬周辺が大きなダメージを受けるので、初期症状は記憶障害として現れることが多い。それはやがて進行し重度化することによって、短期記憶が全く保持されず、過去の記憶も失っていく場合が多い。

発症当初は現在起こっていることを記憶できなくとも、過去の記憶は残っている場合がある。これは海馬という器官が、そこで起こった情報を一旦溜め込んでおく機能を持っており、情報を貯めることができなくなったことで、新しい記憶は全く保持されないということによるもので、認知症になる以前に処理された記憶というものはまだ残っているという意味でもある。

しかしアルツハイマー型認知症は、アミロイドβタンパク質の蓄積と、それによるタウ蛋白の出現という脳内現象は止まらないため、脳の神経細胞の壊死が進行し、症状も進行していく。

この過程で、過去に保持した記憶さえも失ってしまうことが多い。自分の子供がまだ小学生で、腹をすかせるからご飯を作らねばならないという理由で、「帰る」と訴える人は、子供が大人になったという記憶がすっぽりと抜け落ちて、自分自身も子供にご飯を作っている時代までの記憶しかなくなっている場合が多い。

こうした認知症高齢者は、自分が年をとったという記憶がないのだから、自分自身はまだ若いと思い込んでおり、鏡に映った年老いた自分の顔を見ても、それが自分であるという認知ができずに、他人だと思って鏡に向かって話しかけたりする。それは知らない他人がそこにいるという意味で、どうして自分の家に他人が入ってくるんだと、鏡に映った自分の顔に向かって怒りの感情をぶつけたりする人も多い。

ところで、この記憶というものについては、3つの種類に分類することができる。

過去にあった出来事の記憶は「エピソード記憶」と言われる。自分がいつ結婚したとか、子供がいつ生まれたとか、楽しかったり、辛かったりする思い出などがエピソード記憶に含まれる。

言葉の意味の記憶は「意味記憶」と言われる。誰々さんはなんという名前だとか、りんごの色は赤という色だとかの記憶である。

技能や手続き、物事のノウハウの記憶は「手続き記憶」と呼ばれる。これは仕事の手順を覚えることなどが含まれる。

このうち、最初に失っていくのがエピソード記憶と意味記憶であり、手続き記憶は比較的晩期まで残ると言われている。その理由について、認知症の専門医等に尋ねると、「記憶の回路が違うので、差が生ずる。」と説明されることが多い。おそらくこれは脳の情報伝達と記憶の回路という意味だと理解している。

手続き記憶が最後まで残される記憶であるからこそ、ユニットケアにおける「生活支援型ケア」が有効になる。生活支援型ケアとは、過去の生活習慣を参考にしながら、残された能力をできるだけ生活の中で活用維持して、日常の暮らしを続けられるように援助するもので、例えば若い頃農家であった人なら、田や畑で作物を育てることに関する残された記憶や身体能力を活用しながら、家庭菜園などで食物や花を育てることを続けたり、グループホームで日常の家事を行うことを支援したりするものだ。

特に女性の場合、一家の主婦として毎日の家事を行っていた人が多いので、この家事における「手続き記憶」が最後まで残されることを利用して生活支援を行うことになる。具体的には調理や配膳、掃除や洗濯といった、日常の家事の記憶が残されていることを利用して、できることをしてもらうというものだ。

これらはすべて「手続き記憶」が残されていることを利用したものである。

この手続き記憶には、「車の運転操作」も含まれる。つまりエピソード記憶や意味記憶に障害が出て、日常生活に支障が出るような状態になっても、「車を運転する」という行為はできてしまうことがあるのだ。しかし正常な認知能力で運転する人とは異なり、自分は正常に運転していると思い込んでいても、車庫入れができなくなっていたり、信号機の意味がわからなくなって事故につながるなどというケースが出てくる。

車の運転ができても、駐車した場所の記憶がなくなって、どこかに行っても帰れなくなるというケースもある。車線逆走も重大な社会問題だ。特に高速道路に迷い込んで、車線を逆走すると、そこは走行車線ではなく、追い越し車線なので、スピードを出した車と正面衝突してしまうことになる。こういう事故が近年、増えていることが問題である。

ところでこれらの記憶はすべて「情報の記憶」であり、それは海馬の機能不全によるものであることを前述したが、こうした記憶の障害が進行した人でも、嫌だ、嫌いだ、好きだ、嬉しいなどという感情はなくなっておらず、そしてその感情の記憶は、情報の記録とは、これも回路が違って、認知症になった後でも、感情の記憶は残ることが多いというのである。

つまり記憶障害があって、直前の出来事は全く覚えていない認知症の人だからといって、その人にとって嫌な行動をして不快な感情を与えても、その記憶もなくなって、大した問題ではないだろうと考えることは間違いだということである。

感情の記憶は残るので、嫌な行為、不適切な関わりをする人間に対して、認知症の人は悪感情を持ち、怖がったり、嫌ったりできるのである。

逆に言えば、適切な関係を構築することで、認知症の方にも信頼してもらえ、好きになってもらえる可能性があるということだ。

認知症の人は、意味記憶がなくなっていくので、その好きになった人の顔は忘れてしまうため、次の日には初対面の人のように、最初は警戒されたとしても、本当に信頼される関係を作っておれば、感情の記憶が残っていることから、信頼関係を寄せている人が対応すると、落ち着いたり、穏やかになったりすることができるのだと思う。

だから記憶を失っても、感情は残されていると表現されるのである。そして我々は、この感情を大切にしながら、認知症の方々が良い感情を持てるように、日々かかわらねばならないのである。

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認知症の方の誤嚥から考えたこと。


認知症高齢者の方が、誤飲・誤嚥を起こす理由は様々である。

当たり前のことを確認しておくが、「誤飲」とは異物を飲み込む事故を指し、「誤嚥」とは飲食物を飲み込んだ後の咽頭・食道・気道・肺の事故 のことを指す。

見当識障害により詰め込み食いがある人や、糖尿病による低血糖・空腹感の強い人等のように飢餓感がある人は「誤飲リスク」が高い。この場合は、食事の際に支援者の見守りが不可欠であるし、環境アセスメントを行って、身の回りに食べ物と間違えて口に入れてしまうようなものを置かない注意も求められる。

自宅や施設等では、洗剤を飲んでしまうという事例が数多く見られているので、その保管場所には注意が必要だ。特に消毒に使う漂白剤などは、命の危険性に直接結びつくので、絶対に手の届く場所に置いてはいけない。

一方、誤嚥事故の事例をみると、認知症の初期段階で起こる誤嚥事故には嚥下機能低下が伴わないものが多い。

例えば向精神薬や眠剤系を服薬し、傾眠傾向がある人は誤嚥リスクが高い。食事摂取をする際にしっかり覚醒するように、眠剤調整などが不可欠になる。

また食事摂取するという行為自体を認知できないことで、口の中で食べ物を飲み込まずに残しているものが、何かの拍子に咽頭〜気管に入ってしまうことも多い。最初はきちんと飲み込んでいたとしても、食事の途中から「食事をしている」ということを忘れてしまう場合や、最初から食物だと認識していないのに、無理に口の中に食物を入れられてしまう場合などに起こりやすい事故である。この場合は、食事介助を行う人が、きちんと声をかけたり、その場で食事をするということがわかるように説明することが必要になる。そしてその前提は、今声かけたこともすぐ忘れてしまうということであり、何度も声をかけることを厭わないことである。

そしてこの時期の誤嚥事故予防対策としては、食事形態の変更は必要ないという理解が必要だ。嚥下機能低下があるわけではないのでペースト状にしてもしょうがない。 逆にペースト状にすることによって、認知症の方は、そのようなものを食事だと認識できずに、さらに前述したような事故が起こりやすくなる。

普通食を基本にして、その方の嗜好を十分にアセスメントして、食事であると認識できるように、味や香りや、盛りつけも含めた工夫が求められる。

しかしこの時期の状態をことさら取り上げて、認知症によって嚥下機能低下は起こらないのだから、食事形態を絶対に変えてはならないと考えるのは間違いである。そう思い込んでいる人は、認知症の方の晩期に接したことがない人だろう。

そもそも認知症の原因は様々であるが、例えばアルツハイマー型認知症の方の晩期は、脳細胞が減って、口や喉の筋肉の動きをコントロールできなくなるためむせやすくなる場合が多い。医師によっては、これをCTスキャンなどで確認して、脳室の隙間が広がって来る時期と結びつけて、ここから摂食障害が生ずると考える人もいる。

少なくとも脳細胞の変質による摂食障害・嚥下機能低下がないということは有り得ないのである。

こうした状態になっても、すぐに食事摂取が困難になることはないが、この時期には食事形態の変更の検討が必要になる。食事形態を工夫することでしばらくの間はむせないで食べることができるからである。

しかしこの状態がさらに進行すると口を開けなくなったり、咀嚼せずいつまでも口の中に食べ物をためたりするようになる。

これは嚥下機能低下がない時期の、食べ物を認識できずに口の中にためてしまう状態とは異なり、既に食物を口腔摂取する筋力コントロールができない状態と言える。

こうした時期は、胃瘻等の経管栄養を検討することになるだろう。胃瘻を造れば栄養が取れないということで死に結びつくことはなくなる。

しかし、この状態は、体が食べ物を必要としなくなっている状態といえるのではないか。 終末期の選択肢のひとつ として「自然死」ということを真剣に考えて、看取り介護に移行する、という選択肢があっても良いのではないかと考える。

このことも、もっと広く議論されなければならないと思う。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

レビー小体型認知症の症状と対応について


今日は関連法人のイベントに招待されているため、11:30までに別の場所に移動する必要があり、その前の短い時間で記事更新をしている。

何を書こうかと思ったが、「招待されている」と書いた瞬間に、「小体」という言葉を連想したので、レビー小体型認知症のことを書こうと思う。程度の低いダジャレで申し訳ない。

さて本題。

レビー小体とは、タンパク質を主成分とした円形の封入体だそうである。これが脳幹部に出現すると、「パーキンソン病」となるが、大脳皮質全体の神経細胞内に出現するとレビー小体型認知症になるとされている。

よく言われることだが、レビー小体型認知症の特徴的症状は、「リアルな幻視」であると言われ、アルツハイマー型認知症の特徴である、短期記憶の障害が初期段階では見られないケースも多い。

そのため「リアルな幻視」の記憶が残ってしまい、そのことが現実と幻視をつなげて、焦燥不安感が増幅されるケースも見られる。昨日の幻視を翌日に現実として話すことのできる人のケースなどがこうした症状に該当してくる。

リアルな幻視を見るという症状は「中核症状」であるから、医療の手も届かないし、ケアの手も届かない部分と思える。では、そのような「リアルな幻視」を見ている状態の人に対して、介護現場の職員は、どのように対応したら良いのだろう。

少なくとも「そんな人はいないですから心配ないですよ」とか、「そんなものはないので安心してください」という対応で、症状がよくなることはないように感じている。

むしろ僕は、こういう場合、「何がどんなふうに見えているのか」ということを聞いて、その人が見ている状況をよく把握・理解した上で、「そんなものはない」ではなく、「そうですか、そういう場所にあなたはおかれているんですね」という共感的理解を示した上で、「私がここにいますから安心してください」というふうに対応したほうが良いと思う。

特に記憶障害があまりない人の場合、介護職員の顔も覚えていることも多いので、普段から職員が、レビー小体型認知症の方に、信頼を得て、覚えてもらっていることも重要であると思う。信頼できない人が、「安心して」といっても、全く安心できないが、普段から信頼できる関係性を構築している人であるなら、「安心して」という声掛けは、認知症の人にとって何よりの言葉になる可能性があるからだ。

だから症状が出た際の対応以上に、日常の対応による関係性が重要になると思う。「絶対的な信頼関係」を、認知症の方と、我々のあいだに構築することを目指すことが一番大事だと思う。

ところで幻視は、夕方から夜にかけて見える場合が多いようだ。この時、「何がどんなふうに見えているのか」を確認することは、幻視の原因を特定できる可能性を持っている。時間帯がパターン化しているなら、その時間の光によってできる「影」が人に見えてしまっているという可能性もある。この場合、カーテンや照明の工夫で、その症状が出づらくなる可能性もある。

よく言われるのは、レビー小体型認知症の方の居住空間には、壁にハンガーで服を吊るして置かない方が良いということであるが、これも吊るされた服が、「そこにいないはずの人」に見えるからだろうと想像できる。

同じように壁に派手な色のポスターや装飾物を飾っている場合も、リアルな幻視の原因になりやすい。「個人空間としてのしつらえ」は大事であるが、リアルな幻視の状態が頻繁に見られる人の居住空間は、場合によってあまり装飾物を飾ったり、置いたりしない、「シンプルな空間」にするという配慮も必要なのではないだろうか。

そう言う意味では、暮らしを支援する我々に求められているのは、環境と関係への配慮ということになるのかもしれない。ということは、これは何型認知症のケアとか、認知症ケアとか、そういう特別なものではなく、ケアそのものってことになるんだろうか。

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記憶できない怖さ。繋がらない怖さ。


アルツハイマー型認知症の主症状は「記憶障害」であることは、今更言うまでもない。

人間の脳内には、情報を処理する際に一旦その情報をためておくという器官、いわば記憶を司る器官といえる「海馬」という器官があるが、アルツハイマー型認知症の場合、この海馬周辺に血流障害が見られ、記憶を司る器官が機能しなくなることから、記憶障害が主症状となって現れる。

アルツハイマー型認知症の「記憶障害」以外の中核症状である、「見当識障害」や「実行機能障害」なども、もともとは記憶障害が進行した結果であるとも言える。

アルツハイマー型認知症の場合、認知症を発症した後の記憶が保持できないだけではなく、発症時点から過去にさかのぼって記憶を失ってしまう場合が多い。この場合、例えば自分の実際の年齢が80歳であったとしても、40歳までの記憶しかなくなれば、老いた自分の顔の記憶もないし、老いたという認識もないのだから、鏡に映った自分の顔は、他人の知らない人としか思えず、鏡の自分お顔に向かって挨拶をしたり、知らない誰かが勝手に自分の家に入ってきたと思って、怒鳴りつけたり、鏡を叩いたりする。

その時、認知症で40歳までの記憶しかなくなった人の脳内記憶では、自分の妻も若い姿でしかないし、子供も小さな姿の記憶しかないから、年老いた妻の顔を見ても誰だかわからないし、自分の脳内年齢より年上の子供を誰かわからないのは当然である。

この時、家族は認知症高齢者を「夫」として、「父」として十分認識しているのだから、家族であるがゆえに許される横柄さで接したり、くだけた口調で対応したり、時には家族であるから許される、「叱る」と行為に及ぶことが多い。

しかし家族の認識ができない認知症高齢者のとってみれば、その家族の態度や言葉は、知らない誰かからのものに過ぎず、どうして自分が他人から叱られたり、横柄な態度を取られるのだと、憤慨したり、怖くなったりするわけである。このことは認知症の方々の状況を考えてみれば、当然の反応と言えるのである。

そして自分の家にいたとしても、妻や子供が一緒に住んでいたとしても、自分が知らない他人が住んでいるとしか感じられず、他人がいる家は、自分の家ではないと思い、「帰る」と言って、外に出ようとする。家の内装や外観が、今ある記憶以降に変わってしまっているのであれば、尚更そこは「自分の家」として認識できないということになる。

街並みも40歳以降に変わってしまった記憶がないのだから、今現在の街に住んでいた記憶はなく、ここはどこだろうと不安になって、長年住み慣れた街から、「帰る」といって、あてもなく過去に住んでいた街並みの景色を求めて歩き続ける。

実行機能障害も、2つ以上の行為と行為の繋がりがなくなる障害だから、例えば椅子に座っていておしっこをしたいと思って、トイレに行こうとする際に、おしっこをしたいと感じて立ち上がるという行為と、トイレ向かって歩くという行為が繋がらなくなる。尿意を感じて立ち上がったはよいが、歩き出した瞬間に、尿意を感じてトイレに行こうとしたという記憶がないため、「自分はどこに何をしに行こうとしているのだろう」と不安になり、おしっこをしたいことより、その不安が強くなり、その人にとって記憶のない『知らない場所』を「ここはどこだ、自分の知っている場所に行かなければ」と不安いっぱいで歩いているうちに失禁してしまうという状況が生まれる。

だから認知症の方々の、「行動・心理症状」には、認知症の人にとっての必然性があるわけである。その必然性を誘因といったり、理由と行ったりするわけであるが、そのことを理解して、我々がそうした症状が出現することの意味を真剣に考えて、誘引となるものを取り除いたり、変えたりすることが、認知症ケアと言えるのだ。

自分に置き換えて考えてみて欲しい。街で出会った知らない年下の人間が、親しげに砕けた態度で、横柄な言葉を交えて、いきなり話しかけてきたらどう感じるだろう。多くの人は不快になるか、気持ち悪く感じるか、怖くなるだろう。

認知症の人は、記憶が保持できず、昨日と今日、さっきと今が繋がっていないのだから、毎日ケアする介護職員も、その瞬間瞬間は「知らない誰か」「初めてあった若い人」にしか過ぎないのである。

その人が横柄な言葉を交えた友達言葉で話しかけてきたとしても、フレンドリーに感じるどころか、「変な人だな」とか、「気持ち悪い人だな」とか、「怖い!!」としか感じられないのである。

よって認知症高齢者で、記憶障害が進行している人に対しては、毎日、初めて出会った目上の人として、デリカシーを持って、知らない人に初めて話しかけるように、最大限に気を遣って、丁寧に話しかけるのは当然のことであり、これは「介護は顧客サービスだから」という理屈以前の、認知症高齢者のケアの専門家として、ごくあたりまえのプロの心構えなのである。

逆説的に言えば、そうした心理上の「怖さ」に配慮しない、言葉に配慮のない対応しかできない人は、素人であるばかりでなく、毎日認知症の方々を言葉で怖がらせ、虐待する人であると言っても良いだろう。

それはある意味、犯罪的であると行っても過言ではない。

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65歳以上の認知症高齢者の数


厚生労働省は8月24日、2012年の認知症高齢者が推計で305万人に上ると発表した。この数字は65歳以上人口の約10%を占めるもので、従来の予想を上回る数になっている。

同省は、このように予想を上回る認知症高齢者の増加原因について
(1)介護保険制度が普及し調査対象者が増えた
(2)高齢者の寿命が延びた
(3)病院で受診する高齢者が増えた

などと分析している。

しかし(2)は首をかしげる。なるほど認知症が発症する最大のリスクは、加齢であることに間違いはないが、従前の予測数をはるかに上回る原因となるほど、急激に寿命が延びているかということについて言えば、首をかしげざるを得ない。

認知症高齢者の推計数のもとになっている厚生労働省のデータは、要介護認定のデータを使っているのだから、(1)の原因が最も影響していると思え、そこに認知症という診断名がより多く反映されているのは(3)が影響しているからだろう。

これは全国各地に「物忘れ外来」など、認知症が疑われる高齢者等が受診しやすい機関が増え、認知症の確定診断がしやすくなったことと大いに関係あると思えるし、痴呆から認知症という呼称変更やサポーター養成キャラバン等によって、認知症への偏見が軽減され、認知症高齢者の姿が社会から隠されないようになってきたことも大きいと思う。

つまり認知症になる人が増えているというより、認知症になった人が、認知症と診断され、実際の認知症高齢者の数がだんだんと明らかになってきているという意味ではないかと思う。もともとそれだけの認知症高齢者が、我が国にはいたという意味である。

しかし残念なのは、そういう状況下にあるにもかかわらず、まだまだ認知症の高齢者の方の実態を隠してしまうスティグマが我が国には存在している。それは認知症高齢者の方々に対して、支援の手を差し伸べるべき関係者が、自身の口で、認知症の方々に対する偏見を助長する「略語」を使っていることだ。認知症を「ニンチ」と略し、「あの人は認知症ではない」という際に、「あの人、認知じゃないから。」等といっていることだ。それも地域包括支援センターという、地域のケア基盤となるべき機関の職員の口から、こういう「不適切略語」が出てくるのだから大問題である。そのことで、認知症の方を家族に持つ人々が深く傷ついている。
(参照:認知症をニンチと略すな!!

関係者の方々は、ぜひ安易な略語を使わないという意識を持っていただきたい。

ところで、今回の厚生労働省の発表によって、今まで認知症高齢者の数は、65歳以上で13人に一人であるとしていた数字は変えなければならないという意味になる。今後の理解としては、我が国において認知症になる人の数は、65歳以上で10人に一人であるとしなければならない。

僕は早速、水俣市で行った25日(土)の「認知症講演」では口頭でそのことを伝えたが、配布資料はこの発表がある前に作成したものなので、ファイルは13人に一人のままになっている。受講者の方々には、この部分の修正をお願いしたい。

ただしこの10人に一人という数字が我が国の認知症高齢者の出現率を正しく表したものであるかどうかは確定できない。医療機関に受診しておらず、要介護認定も受けていない認知症高齢者は、まだたくさんいるのではないだろうか。

そして今後も、認知症が疑われる高齢者の、新患外来受診と確定診断は増えるものと想像され、この数字はさらに変えなくてはならなくなるかもしれない。そう言う意味では、10人に一人という数字は、現時点の調査データの数値であるというもうひとつの理解が必要だろう。

なお85歳以上の数字は今回新しく示されていないので、4人にひとりという出現率は修正しなくてよいものである。

各地域で認知症サポーター研修等の講師役を務める人は、13人にひとりという古いデータ数を修正して、この数字の変化を正しく伝えて欲しい。

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見極めるケアの3原則は、待つ・見守る・想像し代弁すること。


認知症高齢者の記憶について、直前の記憶が失われても、過去のエピソード記憶をはっきり思い出せることがある理由について、「記憶とは箪笥の引き出し」という記事で説明したことがある。

しかし、その記事に書いているように、認知症の進行とともに、思い出すことができた記憶も徐々に失われていくのも認知症の特徴である。

ところで人の記憶とは、大きく分けると3つに分けることができるとされている。

特定の時間に特定の場所で起こった出来事などに関する、その時の感情を含む記憶のことを『エピソード記憶』という。

物の名称や人の名前といった一般的な知識としての記憶で、感情の伴わないものを『意味記憶』という。

仕事の手順を覚えていることなど、技能のように、いわば体で覚えているような記憶を『手続き記憶』という。

大脳には、「海馬(かいば)」と呼ばれる細長い組織があるが、これは大脳皮質側頭葉の内側に位置し、認識したことや体験して得た情報を取捨選択して、一時的に保管する(短期記憶)役割を担っている。つまり、記憶の入り口となる器官であり、これが完全に障害されると、それ以後の新しい記憶が一切残らなくなる。

アルツハイマー型認知症は、この海馬周辺に血流障害を起こす特徴があるため、発症後の新しい記憶を保持できなくなるし、この海馬はエピソード記憶、意味記憶に関与しているため、アルツハイマー型認知症を発症して、海馬周辺に血流障害等が見られることにより、エピソード記憶の衰えにより「置き忘れ」などが目立ったり、意味記憶の衰えで、人物の認識ができなくなり、家族であっても「あなたは誰?」という症状につながっていく。

ところが手続き記憶は、制御する機構と脳回路は、エピソード記憶や意味記憶とは全く異なると言われ、アルツハイマー型認知症になっても、比較的保たれやすいと言われている。

だから一家の主婦であった女性なら、認知症になっても家事の手順の記憶は比較的残っていることが多いし、男性でも家で日常的に行なっていた習慣的な行為に関するものや、自分が担っていた家事の記憶は残っていることが多い。さらに趣味や仕事に関する記憶も残っていることが多い。

ユニットケアは、単にハードを小規模化する方法論ではなく、この手続き記憶が保持されやすいという特徴に注目して、残された手続き記憶を利用して、日常生活でできることを続けることを支援するという方法論である。

勿論、手続き記憶が残りやすいといっても、家事の手順をひとつ残らず完璧にこなすことは困難で、特に2つ以上の動作が重なったら、動作と動作をつなげることが難しくなるという、「実行機能障害」も現れるため、一連の家事動作も繋がらないことが多い。

調理一つとっても、調理動作の一部はできるが、全体としての動作が繋がらず、料理として完成品を作れないことが多い。しかしだからといって、「料理を作る」という家事を行うことを諦めるのではなく、できない部分や、繋がらない部分を支援者が見つけ、それを援助することがユニットケアのソフトの部分である。だからユニットケアとは、「生活支援型ケア」と呼ぶことができ、その方法論に着目してケアを提供するのが、グループホーム等のユニットケア施設である。

しかし手続き記憶も、認知症の進行とともに徐々に衰えてくるので、昨日まで出来ていたことが明日も出来るとは限らない。その時に失われた手続き記憶があったとしても、さらに残っているものは何かを探して、できることをできるだけ続けられるように支援して、日常生活の中で役割を持って、混乱をできるだけ防いで、安心し安定して生活できることを目的としたものがユニットケアである。だからグループホームは、「認知症対応型共同生活介護」と呼び、職員が利用者の生活をサポートしながら、共同生活を作り出すという意味がある。そこでは、認知症高齢者が、一方的なケアサービスを受ける人ではなく、グループホームの住人として、共同生活を送る主体性を尊重される必要がある。

だからグループホーム等では、共同生活の主体者として、暮らしの中で何ができるかを探すのが職員の役割だ。大きなことではなく、小さなことでも良いから、「出来ること」を見つけるのが職員の役割だ。その「できること」とは、完璧にこなせることではなく、やろうとする行為そのものを、「できること」と考えればよく、調理のための「いもの皮むき」が完全にできなくなったとしても、皮をむこうとする動作を続けられるうちは、それを行う環境と時間を作れば良い。できない部分は、後で職員が直しておけば良いだけの話だからである。動作のできない部分に着目しすぎて、すべての「行為」を取り上げ、何もさせなくなるのが一番の問題である。

その時、支援者に求められる態度は、待つ、見守る、想像し代弁するということではないかと思う。

ところが、最近のグループホームでは、食事作りに参加する利用者がまったくいないホームも存在する。そもそも調理参加を想定せずに、調理済みの料理をデリバリーサービスとして届けてもらうだけのグループホームも現れている。共同生活の意味が、どんどん失われつつあるのは問題ではないだろうか。なぜならそのことは決して利用者の生活の質を向上させるものとは思えないからだ。

認知症の人々の、残された記憶や能力を、もっと大事にすることが求められているのではないだろうか。それを大事にすることが、認知症の方々を大切な存在と思う心につながっていくのではないだろうか。

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永遠の10年。


アルツハイマー型認知症を病理学的に表現するとすれば、「脳内で特殊なタンパク質異常が起こり、脳内のニューロンが消失する病気」ということができるだろうか?

アルツハイマー型認知症が発症する過程では、
1.ベーター蛋白質が増える。
2. タウ蛋白が増える。
3.神経細胞死が起きる 。
4.アルツハイマー病が発症する 。
ということが分かっている。よって脳内神経細胞が死滅することにより、脳萎縮が引き起こされると考えられている。

ところで、現在アルツハイマー型認知症の原因として有力視されている「アミロイド仮説」を、ごく簡単に説明するとすれば下記のようになる。

脳内にはアミロイドβの前駆体である、「アミロイド前駆体蛋白」というものがあるが、これがセレクターゼという酵素によってばらばらにされて、分解排出されていくという過程が繰り返されている訳である。ところがアルツハイマー型認知症になる人の脳内では、この分解排出がうまくなされず、無害であるはずの「アミロイド前駆体蛋白」が、アミロイドβ蛋白質に変化する。

このアミロイドβ蛋白質は非常に凝集(集合し沈殿することをいう)しやすい特徴を持つため、脳内でどんどん凝集し、沈着(たまって固着すること)してしまう。ここがアルツハイマー型認知症の始まりとなって、この状態は実際に症状が発生する10年以上前から起こっていると考えられている。そしてアミロイドβ蛋白質の沈着から、次にタウ蛋白という物質が細胞質中で線維化(繊維化)し、沈着し、神経が変質して神経細胞死が起こり、認知症の症状が出はじめ、神経細胞の炎症が広がることで、症状が進行悪化すると考えられる。

アミロイド仮説」に基づく認知症の予防薬の開発では、このアミロイドβ蛋白質の凝集がアルツハイマー型認知症の原因であるとして、アミロイドβ蛋白質が凝集する段階で、このタンパク質を攻撃してなくしてしまうワクチンを開発するというもので、厚生労働省が「10年以内にアルツハイマー型認知症の予防薬を開発する」と宣言してから久しい。

前述したように、アルツハイマー型認知症の症状が出るのは、アミロイドβ蛋白質が凝集する段階から10年以上経ってからだと考えられており、症状が出ている段階で、アミロイドβを除去しても神経細胞の死滅を止められないため、認知症の予防や改善には繋がらないのである。

しかし日本におけるアルツハイマー型認知症の予防薬の開発が進展しているという話はあまり聞かれない。マウスの実験では、マウスの脳内にアミロイドβ蛋白質を作り出すことに成功して、これを攻撃してなくすというところまではできたとされているが、それから既に数年経っている。そして今でも厚生労働省は、「10年以内にワクチンを開発する」と言っている。

一部の関係者は、このことに対し、「永遠の10年」と揶揄している。本当に我が国で、アルツハイマー型認知症の予防薬が開発される日は来るのだろうか。

ちなみに、アミロイドβ蛋白質を標的にして治験が進んでいた、米イーライ・リリー社の「セマガセスタット」は、2010年8月に一旦開発中止になった。その理由は、軽度から中等度の患者約2.600人が参加した2つの長期フェーズ3の予備段階の結果において、セマガセスタットの投与を受けた患者群では、疾患の進行の抑制が見られず、認知機能の改善度合いを測る臨床的スコアの悪化を伴い、日常生活動作能力も低下し、皮膚がんリスクも統計的に有意に高まることがデータで示されたというものだ。つまり単純に言えば、アミロイドβを取り除くことができても、認知機能の低下は抑えられなかったということである。

こうした状況を鑑みると、アルツハイマー型認知症の予防薬の開発はまだまだ先の先であるし、本当に人類のたどり着けるゴールなのかは大いに疑問であると感じざるを得ない。

ちなみに、100歳を超えた双子の姉妹として有名だった「きんさん、ぎんさん」のぎんさんは、アミロイド斑が出来ていたにも関わらず、アルツハイマー型認知症を発症しなかったそうである。ぎんさんは毎日魚を食べていたが、脳の神経細胞が炎症を起こしても、魚に多く含まれているDHAが修復することが分かっており、魚を毎日食べていたぎんさんは、そのためにアルツハイマー型認知症を発症しなかったのではないかと言われている。

最近では、ぎんさんの3人の娘さんが、テレビ等に頻繁に登場して、「人生相談」を受けたりしているが、きっと彼女たちも、ぎんさんと同じような食生活をしているから、いつまでも頭脳明晰なのではないだろうか。ラーメンばっかり食べている僕はかなりやばい。

またフランスのボルドー大学のジャンマルク・オルゴゴザ教授らの研究グループが、65歳以上の高齢者焼く3.800人を数年間、追跡調査した結果、ワインをグラスで3〜4杯飲んでいる人の場合、アルツハイマー病の発生率が、酒を全く飲まない人のわずか1/4にとどまっていることが分かった、としている。

予防薬も治療薬もない現況では、アルツハイマー型認知症を予防するために、ワインを適量飲みながら、魚を中心にしたバランスの良い食事を心がけるしかないのだろうか。

なお糖尿病になるとアルツハイマー病を発症する危険性が2倍以上になることは、国内外の疫学研究から知られていることで、血糖値の高い僕等は、糖質制限食などを考ええばならないのだろうかと思ったりする。

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RUN伴2012北海道ステージが明日開幕します。


皆さんは、「RUN伴」をご存知だろうか?

これはNPO法人・認知症フレンドシップクラブが主催するイベントで、正式名称は「RUN TOMO-RROW(ラントモロー)2012」である。

その目的と内容は、障害や病気がある人もない人も、伴(とも)に生きられるような社会をつくっていくことを目指して、認知症の人や家族、支援者が1つの襷をつないで走るというものだ。

昨年から始まったイベントで、2011年は函館から札幌まで300キロを171人で襷リレーした。2回目となる今年2012年は、札幌から東北を経由して東京まで襷リレー。北海道は明日27日〜29日までの日程で札幌から函館まで襷をつなげることになっている。

らんとも

画像は去年の登別ゴールシーン。当法人の関連法人のグループホーム及び小規模多機能居宅介護の高蠣(たかがき)総合施設長が嬉しそうにゴールしている感動?の1シーン。

緑風園は、昨年は応援だけの協力であったが、今年はより積極的に協力するために職員もランナーとして参加する予定である。

僕も参加したかったのであるが、あいにく僕は「RUN伴」の日程と全く同じ27日〜29日まで、愛媛県講演のために北海道にいないために不参加である。代わりというわけではないが、相談員の奥山さん、介護副主任の橋本クン、管理課の高谷くんの3名の精鋭が参加する。

北海道ステージの行程表は、次の通りである。

《北海道ステージ1日目、7月27日(金)》
6:00、旧北海道庁赤レンガ前スタート (国道36号線南下)(15km)〜7:45グループホームトトロの森(44.8km)〜13:00北の道の駅 ウトナイ湖(26.3辧法16:15 別々川附近(26.3辧法19:15 JR登別駅前 北海道ステージ1日目ゴール   

《北海道ステージ2日目、7月28日(土)》
7:00JR登別駅 スタート (13km)〜9:00 グループホームアウル登別館(28km)〜12:30デイサービスセンターアウル(伊達市)(26.3辧法15:30 デイサービスふる里の丘(17キロ)〜特別養護老人ホーム幸豊ハイツ2日目ゴール

《北海道ステージ3日目、7月29日(日)》
6:00長万部静狩パーキングスタート 〜19:15函館時任町でゴール。

沿道でランナーを見かけたら是非応援をお願いしたい。

緑風園の職員は、2日目のJR登別駅スタートから参加する。前述したように僕は当日参加できないが、Tシャツを購入して、事前応援で間接参加。

RUN伴
このオレンジ色のTシャツを全ランナーが着て走っているので、この色を目印に行程表を見比べてランナーを探してもらいたい。ファイターズブルーではなくオレンジなのは個人的には残念。だってなんとなく某巨大球団のイメージカラーを思い出してしまうからだ。しかしサポーター養成100万人キャラバンでもオレンジリングを使っていたので、このカラーはイメージカラーなんだろう。普段は絶対に着ることのない色のTシャツだが、愛媛県からエールを送れるよう、明日はスーツの下にこのTシャツを着て愛媛に向かう予定である。ちなみにポーズは、ウサイン・ボルト(ジャマイカ)をイメージしている。見えないか・・・。

それでは皆さん、応援をよろしくお願いします。走る予定の近くに知り合いがいる方は、是非情報を提供してあげてください。皆さんの応援エールが、ランナーのエネルギーになります。応援という形で参加して、一緒に心の襷をつなげましょう。

※FBをしている方は、是非「いいねボタン」をクリックしてシェアして、たくさんの方に伝えてください。

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「その人らしさ」という言葉を軽々しく使っていないか?


グループホームの外部評価を行なっていた時期がある。

それを始めた当初、ユニットケアのケアソフトはやはり優れているなあと感じた。しかしある時期から、ハードはユニットになっているのに、ソフトがユニットケアになっていないグループホームが存在することに気がついた。事業者間格差がかなりあることにも気づかされた。

ケア理念についても、真剣に何を目指そうとしているかを考えて文章化しているグループホームと、どこかのホームの理念をツギハギした、キャッチコピーとしか思えない理念を掲げているグループホームが存在することに気がついた。

そして「その人らしい暮らしを実現する」的な表現が多いことにも気がついた。

それは特別問題ではないと思うが、一方で、「その人らしさ」とはなんだろうと疑問に思うことが多々あった。なぜなら、「その人らしい暮らし」を実現する理念を掲げているのに、ケアプランを読んでも、「らしさ」が見えなかったり、金太郎飴のように同じような内容のプランが並んでいたりするからだ。

そうか、「その人らしい」という言葉を使っている限り、個別ケアをしていると思い込むことができるんだ。この言葉は、本当に利用者が求めるケアサービスを提供しているという意味に限らず、ケアサービス提供主体が自らの安心感を買うための呪文にもなるんだ。そう思った。

そもそも「らしさ」ってなんだろう。

「自分らしさ」を的確に表現できる人が世の中に何人いるんだろう。人生って死ぬまでが「自分らしさ」を探し続ける旅じゃあないのか?そう考えると、自分とは何かということを文章化することさえも難しいのに、他人とは何か、自分ではない誰かの、「その人らしさ」って何かということを表現することや、文章化することはもっと難しいことじゃあないのだろうか。そうであれば「その人らしい暮らし」「その人らしさ」なんて、極めて抽象的過ぎるケア理念であり、そうであるが故に、そのような理念に基づくサービスなど幻想でしかなくなる恐れがあると思った。

そう思いながら、自分の立案した施設サービス計画を読み直してみた。「その人らしさ」的な表現・・・いくつかあった。そしてそれは決してその人個人を表していなかった。僕はどこかで自分自身をごまかし、自身の作成した計画を正当化するために安易な言葉を選んでいた。

その反省から僕は今、「その人らしさ」という表現をできるだけ使わないことに心がけている。当施設の介護支援専門員が作成するプランにも、その言葉をできるだけ使わないように求めている。その代わりに、その人らしさを具体的に説明する文言を探すように心がけている。

「○○さんが生き生きと暮らせるように」という表現に対しては、じゃあ何をどのようにすれば○○さんが生き生きと暮らせるのだろう?暮らしの中でどんなときに笑顔が湧いてくるのだろうということを具体的に考えて表現するように求めている。だから考え方もより具体化する必要がある。

「その人らしい」という表現が絶対ダメとは言わない。しかし「その人らしい」「その人らしさ」という表現だけが存在して、本当に個別の暮らしをサポートする具体策がないのであれば、それは単に事業者の自己満足に過ぎないと思う。そこには本当の意味の個別ケアは存在していない。個別ケアをしたつもりになっているだけである。そこからは真の意味で個別サービスは生まれない。施設や事業者の都合に合わせて、その手のひらの中で利用者を躍らせて、個別対応を行ったつもりになっているだけだ。

その人らしい、っていう具体的姿を、言葉や文章にできないなら、この表現は安易に使うべきではないと考えている。もっともっと頭を使って、真剣に利用者の個別性を捉える努力をしないと、我々が担うべき代弁機能は果たせないと思う。「その人らしさ」って言葉を安易に使って、そこで安心してしまうことで、利用者が本当に我々に代弁して欲しいと思う事柄が隠されてしまうと思う。

「違う、ちがう、そんなことではない」・・・そんな心の声が聞こえてこないか、「その人らしい」という文字ヅラから僕たちはそのことをもっと真剣に考えなければならないと思う。これは何も認知症の高齢者のj方に対するサービスに限らず、すべてのケアサービスに共通することだと思う。

そうしないと、いずれ僕達が自分の意思を表現でいなくなった時、「その人らしさ」っていう言葉で、僕達の求めている真意が消されてしまうからだ。

もっと私を見て、もっと気づいて。そう言う言葉に耳と心を傾ける人になるために、「その人らしさ」という言葉を、一時的にでも「禁句」とすることがあっても良いと思う。

心の声を聴くために・・・。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

国が打ち出した新たな認知症対策を考える


24年度介護報酬改定の基本的視点は主に3つあった。

一つ目は、「地域包括ケアシステムの基盤強化 」であり、このため介護保険制度の中に24時間巡回サービスや、複合型サービスを新設すると共に、高齢者住まい法改正により創設により、サービス的高齢者向け住宅を創設し、巡回サービスとセットで地域再編、住替え策を支援しようというものだ。

二つ目は、「医療と介護の役割分担・連携強化 」であり、介護報酬上の加算に、医療と介護の連絡調整に関わるものを数多く新設している。そしてそれは診療報酬で創設された新加算でも同じことが言える。

三つ目は、「認知症にふさわしいサービス提供 」であり、認知症の行動・心理症状が悪化した場合の緊急対応等が介護報酬に反映されている。

ただ全般的に見ると、今回の改正は「地域包括ケアシステムの基盤強化 」議論に多くの時間が割かれ、「医療と介護の役割分担・連携強化 」と「認知症にふさわしいサービス提供 」については十分な議論がされていないという印象が強い。特に認知症対策では、認知症疾患医療センターと、かかりつけ医師や各種サービスチームを地域の中で繋ぐ役割を持つ「認知症コーディネーター」に対して、事実上明確な役割付を行えなかった点等、時間切れで対策を先送りした感がぬぐえない。

そんな中厚生労働省は、来年度からの新たな認知症対策を公にした。わかりやすいように読売新聞のネット配信ユースを下記に転載する。

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認知症新対策のイメージ 急増する認知症に対応するため、厚生労働省は来年度から新たな認知症対策に乗り出す。
 専門職による訪問チームが発症初期から関わることで、自宅で長く暮らせるようにするのが狙い。症状が悪化して、精神科病院へ長期入院することも防ぐ。5か年の整備計画を策定し、自治体が作る医療・介護計画にも反映させる。
 新対策の柱の一つが、看護師や保健師、作業療法士など、認知症を学んだ専門職による「初期集中支援チーム」の創設だ。チームは、全国に約4000か所ある自治体の介護相談窓口などに設置する。
 認知症が疑われる高齢者宅を訪問し、本人や家族の生活状況を聞き取り、医療機関を紹介する。本人の理解力が残る初期のうちに、症状の進行の見通しを説明し、財産管理や介護サービスのアドバイスを行う。火災予防のため、ガスコンロを電化式に変えるなど、生活環境も整える。家族への心理的なケアも行う。
(2012年6月17日03時01分 読売新聞)
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認知症の予防薬や治療薬は存在しないのが現状だが、認知症の方を早期発見し、確定診断後に早期対応を行うことで、症状進行の悪化を防いだり、介護者の身体的・精神的負担が軽減されるような支援が可能になることを考えると、この対策自体は決して方向性として間違っていないと思う。

しかしいくつかの疑問点が残る。

ひつとには、こうした対策が求められる認知症の方は、家族も認知症であるかどうかわからない状態で、認知症と「疑いたくない」と考え、第3者に進んで相談したくないと考えてしまうケースや、全く認知症であると気づいていない状態のケースが多いだろうから、そのあたりを発見して、実際の対応に結びつけていくのかという問題がある。相談窓口を設置しただけでは不十分で、そこに自ら足を運ばない認知症の方やその家族を、地域の中でいかに発見するかということが重要になるだろう。

ここは、民生委員とか、認知症サポーターなど、いろいろな住民を巻き込むネットワークづくりが必要となるところだ。このつなぎ役をどうするのか?看護師や保健師や、セラピストがこの役割を担うことが可能なのか?

それらのことを考えると、新聞記事に添付されているイメージ図を含めて示している、「初期集中支援チーム」を構成するメンバーに、福祉関係者の顔が見えてこないのは問題ではないだろうか。「看護師や保健師、作業療法士など」とされているから、「など」の中に、今後福祉関係職種が入っていく可能性はあるのだろうが、今現在その姿はまったく見えない。

地域とのつなぎ役、地域の中のネットワークづくりとなれば、そのチームには、当然ソーシャルケースワーカーも加わって、主要な役割を負う必要があるだろう。医療関係者だけで機能する対策ではないと思う。

認知症に対する医療的アプローチは重要でも、医療・看護チームだけでの対応では問題解決につながらない。地域という「暮らしの場」で支援活動を展開するためには、保健・医療・福祉・介護・インフォーマル支援をつなげていく機能が不可欠だ。白衣の集団だけではこの機能は果たせない。

社会福祉士をはじめとしたソーシャルワーカーは、このことをもっと訴えていく必要があるのではないだろうか。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

記憶を失っても感情は失わないという証明

僕が講演を行うテーマの一つに「認知症ケア」に関するものがある。

その中では脳科学的な考証として、脳のメカニズムを紐解きながら認知症の症状理解を促す説明も行なったりする。この部分については、僕が過去に誰かほかの方(認知症専門医が多い)に教わったことや、文献等から理解したことであり、机の上で学んできたことが中心になる。

しかし認知症の様々な症状に対して、どのように対応すべきかという点について言えば、誰かの講義を聴いて学んだことや、書物で学んだことだけを知識とし、その知識に基づいて壇上から受講者に伝えるだけでは不十分であると思うし、それは実際の現場サービスで使えるケアにはならないと感じている。

そもそも僕は単なるメッセンジャーではなく、実践者であると思っているし、僕の講演を聴きに来る方々も、学者の講義を望んでいるのではなく、実践者の現場からの情報発信を望んでいると考えている。そもそも受講者は、机をはさんで議論する知識を得たいのではなく、現場で実践できる方法を得たいのだと思う。

学者や医者が話す内容と同じ話をするなら、学者や医者を呼べば良いだけの話で、僕がわざわざ呼ばれる意味はないだろう。

僕が「認知症ケア」の講師としてそこに呼ばれる意味は、介護施設での経験から得た知識なり、方法論なりを伝えることが求められているのではないだろうか。

実際に認知症の方々に向き合ってはじめて分かることもある。実際に認知症の方と触れ合うことで、教科書に書いていた内容をはじめて理解できることもある。そうした経験から学んだことを理論化して、具体的な支援方法として文章化して、そのことをお話しないと実践に役立つ講演内容にならないと感じている。

だから僕の「認知症ケア」に関する講演では、実際に僕が経験した事例を取り上げたり、実際に自分が作成したケアプランの内容を具体的にお話することも多い。事実として行なっていることや、結果がでていることだから、ほかの現場でも使えるし、僕の失敗談は反面教師にもなり得ると思う。だから理念論や理想論で終わらないのである。

それらは実際に、施設サービスの現場で、居宅サービスの現場で、認知症の方や、その家族から教えられたことなのである。

例えば、記憶と感情について考えたとき、教科書には、「アルツハイマー型認知症の方は、海馬を中心した血流障害等が生じるために、記憶障害が症状として初期段階から現れるが、感情は残っている。」という意味のことが書かれている。でもそのことを具体的に説明するのは、現場で経験したケースに沿ってお話した方がわかりやすいし、対応の方法もより具体的に理解しやすくなる。

その教科書となってくれるのは、僕の場合いつも利用者とその家族である。

あるご夫婦から学んだことがある。認知症の症状が悪化して、精神科入院を経て当園に入園された妻に、在宅でひとり暮らしとなった夫が毎日のように面会に来ていた。入園当初は、認知症の妻も夫のこと分かっていたが、症状の進行でその記憶が徐々に失われていった。そして夫が誰かをわからなくなってしまった。

「もうワシが来ても誰だかわからないんだ」と寂しそうにつぶやく夫。妻はある時期から夫が誰だかわからないから、夫が部屋に入ってくると、怯えるような、不安そうな表情で迎えるようになった。しかし滞在時間が長くなると、妻の表情も和み、不安そうな表情は消えていく。毎日がその繰り返しであった。

寂しそうにつぶやく夫ではあったが、面会時の妻の表情を見ると、僕らと日常的に接している時とは異なる豊かな表情がある。そのことを知っていた僕は、何らかの形でそれを夫に伝えたいと思った。

あるとき僕が面会に来ている夫の前で、ふと奥様に、「この人誰だかわかりますか?」と尋ねたことがあった。妻はこう答えた。「知らない人」・・・。(僕)「でも今楽しそうに話していたではないですか。」、(妻)「そうか?」、しばらく沈黙が続いた後、その方はこう付け加えた。「わし、この人好きだ。」

自分の夫であるという記憶は失ってしまったけど、好き嫌いの感情は確かに残って、そのことをきちんと表現できるのである。誰だかわからないから警戒して不安な気持ちで毎日身構えても、話をしたり、時間を共有する中で、自分を優しく包み込む存在として、信頼し好きになっているのだ。

「毎日好きになられてよいですねえ」と僕は夫に声をかけた。「何を今更」と言った夫の顔もほころんでいた。それだけで良いのではないだろうか。

我々は、その夫から見習って、認知症の妻から好きになってもらえるように接すれば良いだけの話だ。その態度とは、全てのものを受け入れ否定しない態度であった。妻の行動に合わせて、ゆっくり静かに行動を合わせる態度であった。

在宅で認知症の奥様をケアしている人からも、同じような話を聞くことがある。ある方は、「俺はこいつ(奥さんこと)から、今年に入ってもう2回もプロポーズされてるんだ。」という。大事な妻が今でも自分を好きになってくれるなんて素敵なことだ。新しい恋が毎日芽生えるなんて素敵なことだ。そういう関係を作り出しているこの旦那さんは素敵な人だ。

きっとその旦那さんも、奥さんお目線に合わせて、奥さんの脅威にならない良いケアをしているんだろう。

認知症の人達は、昨日のことも、直前のことさえも忘れてしまって、過去と現在が繋がらないという「生活障害」を持っている。そのとき、失われた記憶の中で、認知症の方にとっては初めて出会う誰かが、いつも自分のことを思ってくれて、自分を支えてくれるのであれば、そのことに対して認知症の方の感情は、その時々でリアルタイムに感応しているのだ。このことを大事にすればよい。

良い感情をもって過ごせるようにすれば良い。究極的にいえば「認知症ケア」など、その事に尽きるのではないだろうか。

いかに気持ちよく、良い感情を抱いて過ごしていただけるように、我々が寄り添えるかということを探し、想像し、創造することが認知症ケアであり、アドボカシーではないだろうか。

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呪文が通用しない認知症高齢者

認知症高齢者の方々の「行動・心理症状」(BPSD)の原因は混乱である。

今、自分が置かれている状況が分からないから、なぜそこに自分がいて、何をしてよいのか理解出来ない。どうしてよいかわからないから不安になる。その不安が様々な混乱を生み、周囲の人々が理解できない行動をとるようになる。しかしその時、認知症高齢者の方々は心の中で、いろいろなことを考え、いろいろなことを訴えているのだ。

認知症の人が何も考えず、何も訴えられないということはない。ただしその表現方法は、必ずしも第3者に理解できるような方法で伝えることができるわけではない。その伝え方とは、言語でさえない場合もある。周囲からわけのわからない言葉や行動であるとしても、それが認知症の方々にとっての何かを伝えようとしている結果であるのかもしれない。

特養などの高齢者介護サービスの現場で、認知症高齢者の方々は

「ここはどこなのだろう、自分は何故ここにいるのだろう、どうやってここに来たのだろう。」
「ここは何で年寄りばかりなのだろう。」
「ここは病院なのか。どして自分がこのような場所にいなければならないのか。」
「あの若い人は何故自分の名前を知っているのだろう。」
「何か薄気味悪い。どうして自分の後を、知らない人がつけてくるのだろう。」
「知らない人が、なぜ自分に話しかけてくるのだろう。」
「年下の人間がなぜ自分に横柄な言葉や態度で接してくるのだろう。」

と感じている。自分に置き換えてほしい。見知らぬ人ばかりに囲まれ、どこかもわからない場所に自分がいるとしたら、それだけで不安になるだろう。認知症の方々で、記憶障害や見当識障害のある方は、常にそういう場所に置かれていると同じなのである。

周囲の人々がその不安に気がつかないことが、さらに認知症の方々の混乱に拍車をかける。それがやがて破局反応:パニックとして行動がエスカレートするわけである。

つまりそうした破局反応とは、周囲の人々が認知症の方の混乱に気づかない、あるいは気がついても適切に対応していないという周囲の問題でもあるのだ。

では、混乱する認知症の方々の不安を解消し、混乱を防ぐために我々はどういう態度で接するべきなのだろう。

よくいわれる「理解的態度が必要」とか、「受容の態度で臨む」とはどういうことなのだろう。

少なくともそれは、認知症の方々の言動に対し、単純に分かったという言葉を返すことではない。分かったふりをすることでもない。それらの方々が本当に安心できるように、心から反応することではないのだろうか。

認知症の方々が混乱し、パニックになろうとしているとき、大丈夫という声かけは大丈夫じゃない。

認知症の方は、根拠がないと分からない。根拠があっても、それが理解できないと分からない時がある。理解出来ないと大丈夫と思えない。

大丈夫であることを理解できるように説明したり、態度で示したり、不安にならない状況を作ったりする必要がある。

呪文のように「大丈夫」と言い続けても、認知症の人には何が、どう大丈夫なのかまったく理解出来ないことが多い。大丈夫という言葉自体が意味のない音声にしかならない場合も多い。

大丈夫という言葉が、本当に安心感に繋がるためには、大丈夫であると声かけする人が信頼できる人間であらねばならない。日ごろから認知症の方々が何を考え、どうしてほしいかをわかろうとしない人間に「大丈夫」と言われても何も大丈夫じゃないのである。だから症状は軽減しない。

逆に、その人が近くにいるだけで大丈夫という声をかけなくとも安心できるということもある。

呪文より、人が大切だ。呪文より、関係が大切だ。

認知症高齢者のケアとは、BPSDが起こった時にどう対応するかという前に、認知症の方々が、安心してその人の支援を受けることができる関係を作ることが大事である。

受容とは、認知症の方々の訴えや行動を、単に否定しないということだけではなく、その行動の意味を塑像して、その人の立場になって「さもありなん」という気持ちで接するところからスタートする。

理解的態度とは、人を愛おしむところからスタートする。だから支援動作には愛情が必要とされないとしても、症状を緩和するケアには愛が必要とされるのだ。

だから対人援助を動作援助だけで完結しようとする人に愛は必要とされないだろうが、ケアを行おうとする人に愛情がなくて良いなんてことにはならない。

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これって認知症予防法なの?

医師であり作家でもある米山 公啓(きみひろ)さんが、3/22室蘭市で「脳を若く保って長生きする法」というタイトルの講演を行った。

この中で同氏は

1.最新の脳科学では、大人でも記憶の機能に関連する「海馬」などで神経細胞が新しくつくられ事がわかった。

2.ただし神経細胞は数%しか増えないので、脳の機能を高めるには神経細胞のつながりを増やす必要がある。そのことにより「ぼけない脳」になる。

3.そのためには生活習慣を改善し、刺激を与えて脳を活性化する必要があるので、環境を改善することが認知症予防に繋がる。

4.絶対にぼけない方法はないが、適度な運動により神経栄養因子という物質が増え、脳内ネットワークが作りやすくなるので、30〜40分のウオーキングを週3〜4回行うことが効果的。

5.外に出なくても日常の中で、必要なものを近くに置かずに、体を動かしてそれらを取りに行くという工夫が必要。

6.脳に入ってきた情報は、寝ている間に整理されるので、運動と同様に睡眠も重要。昼寝も1時間以内なら認知症予防になる。

7.ストレスを上手に回避することも必要で、プラス思考が大事。

8.新しい体験は神経ネットワークを増やすので、いつも同じ体験をしないように、道順を変えたり、同じ店で同じメニューの食べ物を食べないようにしたりすることも大事。

9.脳の健康を保つために、血圧や血糖値、コレステロールのコントロールが重要で、禁煙が必要。酒は適量に。


以上のように指摘した。この教えを守って脳をできるだけ健康に保つことは大事だろうし、それは是非実践したい。(酒は適量を超えることが多く、これは困ったものだ。)そして他の方々にも、是非こういう方法を紹介して、お勧めすることはやぶさかではないだろう。

しかし僕には疑問がある。これって本当に「認知症の予防策」なんだろうかという疑問である。氏の指摘した予防法とは、脳を長く健康に保ち、脳の老化を防ぐということであって、病的な認知症とは異なる「健忘」を予防する効果はあるのだろうと思うが、アルツハイマー型認知症やレビー小体認知症というものが、こうした生活習慣の改善や、環境改善で防ぐことが可能なのだろうか?

例えば、アルツハイマー型認知症の原因は、脳内にベータアミロイドというたんぱく質が分解されずに溜まって脳神経を圧迫することによって血流が阻害され、脳細胞が壊死して、そのため脳委縮することが原因であるという「アミロイド仮説」が有力視されている。

レビー小体(異常なたんぱく質)が大脳皮質にまで広くおよぶと、レビー小体型認知症(DLB)になる。

脳血管性認知症は、脳血管疾患そのものが原因である。

とするならば、ベータアミロイドが分解されない原因も、脳内にレビー小体が発生する原因も分かっていないのだから、講演で指摘された予防法は、アルツハイマー型認知症や、レビー小体型認知症の予防には直接的に繋がらないのではないかという疑問が生ずる。少なくとも、脳の機能を高めるには神経細胞のつながりを増やすことで、ベータアミロイドが脳内に貯留沈着しにくくなるというエビデンスも、レビー小体が発生しにくくなるというエビデンスもないのではないだろうか?

なるほど、環境改善や適度な運動を取り入れることは生活習慣の改善にはなるだろうから、生活習慣病の予防とは=脳血管疾患の予防ということにはなるので、脳血管性認知症の予防という意味はあるのかもしれない。

しかしここのところはもう少しはっきりと分けて考えたり、伝えたりすべきではないだろうか?

つまり「脳の機能を高めるには神経細胞のつながりを増やす」ことは、認知症の予防というより、脳の若さを保つという意味で、そうした努力をしていたとしても、アルツハイマー型認知症になる場合もあるし、必ずしもそうした努力によって、アルツハイマー型認知症を予防したり、発症を遅らせることができる効果があるというエビデンスはないということではないか?

これは僕の理解不足だろうか?別に何かエビデンスが示されているんだろうか?

そうでないとしたら、認知症を予防するということと、脳の若さを保って健忘を防いだりすることは別のことであるときちんと示しておかないと、アルツハイマー型認知症等の方々が、その症状を発生させた時に、「本人の努力が足りなかったから認知症になったんだ」とか「生活習慣が悪いから認知症になるんだ」という誤解を生みかねず、それは新たな認知症に対する偏見に繋がりかねないと危惧するものである。

これは取り越し苦労だろうか?

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介護・福祉情報掲示板(表板)

デジタルな思考に合わせて

認知症の方の中には、何度も同じは話を繰り返してとどまることを知らない人がいる。

正直、毎日何度も同じ話を聞かされて「うんざり」という人も多いだろう。受容が大事と言っても、同じ話に相槌を打ちながら、分かり切った話に付き合うことに意味を見いだせず、単なる時間の無駄と感じる人もいるだろう。

同時に、そのような対応に終始することに対して、「いつも同じ話に相槌を打つだけの対応でよいのか」という疑問を持つ人もいるだろう。そうした対応は、単なる対症療法で、根本的な問題解決にならないと考え、もっとやらねばならないことがあるのではと悩んでいる人もいるかもしれない。

でも本当に必要なのは、話を聞くことであって、もっとやらなければならないことなど存在しない場合が多いのだ。ここをしっかり理解して、認知症の方の訴えを傾聴してもらいたい。

よく知られていることだが、認知症の中核症状に対しては、現代医学は治療法も予防法もなく、わずかに進行のペースを遅らせることしかできない。同時にそれはケアによっても改善しない領域であり、中核症状については「医療もケアも手の届かない領域」とされている。

しかし行動・心理症状(BPSDあるいは周辺症状)については、ケアの手が届くと考えられており、我々の対応一つで、その症状は悪化もし、改善もするという領域である。

何度も同じ話を繰り返すという意味は、直前にその話題を話したという記憶もなく、他に話をすることが思い浮かばないという意味である。脳の中の記憶が一部しか残っておらず、その記憶も長期記憶が残されているだけで、直前の記憶を保持しておく能力を失っているという意味である。これ自体は中核症状(記憶障害)だから、改善することはない。

そうであれば、記憶障害を何とかしようという処方には意味がないということになる。記憶障害自体は、どうしようもないが、その記憶障害によって生まれる「暮らしの中の混乱」を防いで、認知症の方々が安心して過ごすことができる環境を作ることが大事である。

同じ話を繰り返している当事者である認知症の方にとって、それは意味のない繰り返しではなく、その人々にとっては、今伝えなければならないことなのである。

この時、それらの人々の訴えに耳を傾けない態度をとるとしたら、認知症の高齢者の方々は、無視され、阻害され、馬鹿にされたと感じるのは当然であり、こんなところにいては駄目だと考えて、自分が本来いるべき場所を探して「帰る」と言って歩き続けるわけである。だから自宅にいる方であっても、そこが自分の居るべき場所と感じられない時に、認知症の方は「帰る」と外に出ようとする。

つまり認知症高齢者の方々が「帰ろうとしている場所」とは、空間としての自宅ではなく、建物としての家でもなく、自分が最も安心して、誰からも阻害されず、無視されず自分が人として認められて生きていける場所なのである。

本当に探しているものは、自分の脅威にならず、自分を受け止めてくれる「人」なのである。

認知症高齢者の思考回路は、時計で例えるなら針の回るアナログ時計ではなく、瞬間瞬間に数字が切り替わるデジタル時計だ。

今の記憶が、過去と将来と繋がらないから、話す内容も今話をできるものに限られ、それはデジタル時計の数字のように、過去や将来と何のつながりもなく、その瞬間だけ存在するものだ。思い浮かべることのできる数字の数にも限りがあって、たくさんの数字は覚えておれないのだから、何度も同じ数字が繰り返し出てくる。しかしそれは認知症の方々にとっては、その都度引き出す数字なのであり、「貴方にとって何度も繰り返される数字」であったとしても、認知症の方々にとっては「常に新しい数字」なのである。それを誰かに伝えること、誰かが聞いてくれることに意味があるのだ。

ソーシャルワーカーの受容的態度とは、相手の発する言葉の意味を推し量って、勝手にその意味を解釈して、相手にとって本意ではない仮想現実を創り上げることではない。

ソーシャルワーカーの受容や理解的態度とは、彼らが訴えている言葉に耳を傾けて傾聴するという態度そのものである。

ソーシャルワーカーの援助とは、他者に手を貸して何かをしてあげることの前に、他者が何を求めているのか、何をしたいのか、そのために我々にできることがあるのかを、相手の立場から共に考えることだ。

手すりにつかまって歩いている人の手を引いて歩行介助するのは小学生でもできる。しかしその時、それらの人々が本当に手を引いてもらいたいのか、もっと別のことを求めているのではないのか、あるいは何もしてほしくないと考え、それが本当のニーズではないかとごく自然に考察できる人が、専門援助職である。

認知症の方々が何かを訴えているならば、同じ話であっても、それを毎日繰り返し聞き続けることが一番に求められていることで、その訴えの答えを我々が勝手に引き出して、その答えの中に認知症の方を押し込めることではない。

むしろ認知症の方々が、今日も昨日と同じことを話すことができることをポジティブに捉えるべきだ。昨日話ができたことを話せなくなることを哀しむべきだ。だから同じ話に、同じように相槌を打つことに空しさなど感ずる必要はない。

認知症の確定診断ができ、それにあった処方ができる名医より、我々には日常の中でもっとできることがたくさんある。忙しい名医にできなくて、我々にできることは、認知症の方々の心の訴えでもある「同じ話」を聞き続けることである。

アリセプトやメマリーと、話を傾聴する現場職員と、どちらが認知症の人々の暮らしを支えているかは、介護の現場にいる人ならとっくに分かっているではないか。

※ゲオ室蘭東店に売り切れていた僕の本「人を語らずして介護を語るな」の1と2が再入荷しました。弥生ショッピングセンター内のケーズデンキむろらんパワフル館2階です。残り4冊となっているようです。お早めにお求めください。
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あせらない介護

認知症の高齢者のケアの視点として、「生活リズム」を整えることが大事であるという記事を書いたことがある。
(参照:介護拒否の対応は生活リズムを整えることから

しかし介護保険制度創設以後、認知症ケアの切り札として考えられたグループホームが、全国にたくさん建設されるようになると、認知症ケアの専門性を持ったケアサービスを行うはずのグループホームにおいてさえ、生活リズムを無視して、狂ったリズムに都度対応することが「日課のないサービス」であると勘違いしている従業者も数多くみられるようになった。
(参照:小規模施設の経営者が陥りやすい落とし穴3〜日課のないケアサービスの意味

(※注:キャリアブレインの医療 介護 大会議のサイトでコチラをご覧の方は、文字に貼りついた参照リンク先が正しく表示されません。お手数ですが、記事の一番下までスクロールして頂き、「このブログを筆者のサイトで読む」をクリックして本サイトにて記事をお読みください。)

グループホームは、急激に増えたために、その質の格差が大きく、ユニットケアの特徴を生かして素晴らしいサービスを提供しているホームがある反面、ハードだけはユニットになっているが、そこで提供されるケアソフトは、専門性のまったくない密室ケアであるホームも少なくないという現状がある。

その一因は、「認知症ケアの切り札」であったはずのグループホームが、バブル経済崩壊後の不動産不況が相まって、「不動産活用の切り札」として利用されたという側面もある。規模が小さく、比較的低コストで建設可能であるため、不動産業者が建て売りし、グループホームを「やってみたい」人がそれに乗るという構図である。指定申請書類さえ整っておれば、すべて認可された当時は、この形態のグループホームがたくさん生まれた。

どちらにしても急激な数の増加に、人材が貼りつくスピードが追いつかないことで、多くのグループホームでは(他の介護サービス事業も似たような傾向にあるが)人材を確保するより、人員を確保するのがやっとの状態が生まれた。そこではユニットケア・生活支援型ケアとはなんぞやという基本を知らない職員により、認知症ケアの基本も理解されずに、素人の管理者の変な価値観で運営されるグループホームが続々と出現し、職員も育たない環境で、とりあえず認知症高齢者を集めて生活させているだけというホームも多いのだ。

そしてこの現状は、グループホームが地域密着型サービスとなり、市町村に指定権限が移ってからも大きな変化はなく、むしろ専門性のないグル―プホームの数は増え続けている。新しいグループホームができたから、そこは良いホームだろうということにはならないのである。

だから利用者やその家族、あるいはそこで就業しようという人々は、そのグループホームが、しっかり認知症高齢者の暮らしを守っているのか、職員に認知症ケアの基本教育がされ、スキルアップできる土台がきちんとあるのか、という点を充分確認して入所するなり、就業しないと、後々大変なことになってしまうので注意が必要だ。

認知症ケアの基本は、型にはめず、サービス提供側の都合に合わせるのではなく、利用者が何をしたいのか、どういう暮らしを送りたいのかを想像し、それを受容し、そして代弁し、その実現を図ることである。だからと言って、利用者個々人の生活リズムが乱れたままでは、混乱が収まらず、行動・心理症状(BPSD)は出現し続ける。

それらの症状の「原因因子」(身体的・心理的・社会的・環境的要因)を探り、それを取り除くことが重要であるが、その原因因子を的確に把握するためにも、生活リズムを整えることは不可欠であり、そうであるがゆえに個人ごとのルーティンワークを作る支援というのは重要である。

そのルーティンワークとは、何も役割に限らず、趣味でも、楽しみごとでも、何でもよいのだ。認知症高齢者が興味を持つことができるもの、集中して行えることを、日課活動の中にルーティン化していくという視点も持つことで、そのケアの方法論はさらに広がるだろう。当然そこには「パーソン・センタード・ケア」という概念と共通する考え方があるが、それは何も「認知症ケア」ではなく、「ケア」そのものであると僕は考えている。

人に対する警戒心や恐怖心が強い認知症高齢者の場合には、過去に人との関わりで「怖い」という体験を持った方が多い。そうした方々に「虐待」を受けたという体験があるとは限らない。例えば周囲の人々が認知症高齢者の混乱原因が分からずに、その混乱を無理に修正しようとして関わった結果であることも多い。

つまり善意で、何とかしようとして関わる第3者の存在そのものが、認知症高齢者にとっては脅威になる場合があるのだ。周囲の人々が、「こんなに貴方のことを思っているのに・・・。」と考えたとしても、そのことが認知症高齢者の方には理解出来ないことが多い。それより、その思いの押しつけが脅威になってしまうのだ。

だからゆっくり、ゆっくり、静かに・・・それが大事だ。我々が認知症高齢者の思いに寄り添う時は、あせらず、ゆっくり関係性を作っていくことが大事なのだ。壊れやすい認知症の方々の心を温かく包む関係づくりが不可欠だ。

我々は認知症高齢者の方々と向かいあった瞬間から、それらの人々の受容に努めねばならない。これは専門家として当然の姿勢である。しかし認知症高齢者の方々が、我々のことを受け入れようなんて努力してくれることはあり得ない。それらの人々が、我々を受け入れることがでいるためには、我々の側に100%の努力と援助技術が求められるのだ。

自宅から特養に入所した認知症高齢者が、いきなり環境に適応して良い暮らしが即実現するなんてことはあり得ない。「帰りたい」と歩き回り、外に出ようとするのは当たり前だ。

その時に、環境に慣れる前に、人に慣れて、信頼してもらえるような関わり方が求められている。ゆっくり、静かに、心をこめて関わる先にしか、「暮らし」は生まれない。

人が尊重され、人が愛される場所でない限り、「暮らし」は生まれない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

認知症高齢者を地域で守るシステム作り

当地域には「認知症の人と家族を支えるSOSネットワーク(かけはしネット)」というものがある。

これは徘徊等の行動・心理症状がある認知症高齢者の方が、外出して自宅に戻れなくなり行方が分からなくなった場合などに地域ぐるみで対応しようという全国的に行われているネットワーク事業である。(地域によってネットワークのあり方や、支援策はそれぞれ異なっているし、この取り組みをまったく行っていない地域も存在するだろう。)

しかし実際にこのネットワークが機能しているかと問われればそれは疑わしい。確かにネットワークシステムとして、徘徊する認知症高齢者の方が行方不明になった場合、警察署に連絡が入った際に各関係機関に協力依頼がされるシステムは存在している。だがそれだけで行方が分からなくなった認知症の高齢者を発見できるかといえば、それは非常に困難である。

当然そこには地域住民の協力が不可欠で、地域住民の認知症に対する理解も不可欠である。

認知症に対する理解を促す活動としては「認知症サポーター養成キャラバン」も行われているが、それは「かけはしネット」と連動していないし、事実として言えばそのようなネットワークがあることを知らない一般市民の方が多い。

特にこの事業は当地域を含む3市1町を網羅する広域的対応であり、警察署がその中核的な役割を担っているため、どうしても状況に応じた臨機対応に欠ける状況がある。行方不明者の連絡が警察署に入った場合は、警察では必ず捜索はするが、このネットワークのシステム上必ず行われることになっている関係機関(市役所など)への連絡もされていないケースも多い。なによりこのネットワークは、認知症高齢者のケアという部分では専門家の介入度合も少なく、増え続ける徘徊行方不明者に対応しきれない現状がある。

そのことをなんとかできないかと考えた人がいる。それは今年度から僕の後任として「のぼりべつケアマネ連絡会」の代表を務めている当施設の関連法人のグループホームの高蠣総合施設長である。彼が問題提起したことをきっかけに、関連法人に所属する市議会議員が議会質問し、登別市独自の徘徊高齢者捜索システムを作ることになった。

これは市の事業としてシステムが作られ、地域包括支援センターと市内のグループホームが中核的な役割を担うネットワークで、既存の「かけはしネット」の仕組みを継続かつ有効な手段とするため、地域住民等にも捜索に協力してもらう新しいネットワークづくりの構築である。

その新しいネットワークを作るための準備として、10月8日(土)午前10時から「徘徊高齢者等捜索模擬訓練〜あったかい地域での支えあいづくり〜」が登別婦人センターを会場にして行われる。

貼り付けたリンク先からは、この模擬訓練の案内のほか、リーフレットと参加申込書がダウンロードできるので、是非この取り組みにご協力いただけるたくさんの方々に参加していただきたい。

一般市民の方は勿論、市外の方でも参加可能ということである。このネットワークに直接参加しなくても、他市町村で同じような取り組みを行おうとしている人も参考のために参加してもよいのではないだろうか。

参加料金は無料で、お昼には日赤奉仕団による「炊き出し」の昼食(カレーライス)が参加者全員にふるまわれるそうである。この際に災害時に食料を配布する方法なども紹介されるそうである。是非参加を検討してもらいたい。お近くの方には是非こうした模擬訓練を行う情報提供を行っていただきたい。

ただし僕自身はその模擬訓練に参加できない。

なぜならその前日の10月7日(金)に大阪市情報研修センターで「制度改正の論点〜居宅サービスはどう変わって行くのか」というテーマで講演を行い、翌土曜日は私用で大阪市内にもう1泊して、9日(日)に北海道に戻る予定としているためである。(参照:masaの講演予定

この模擬訓練が決まるずっと以前から入っていた予定なので、変更することはできず、会場で皆さんとお逢いすることはできないことをご了承願いたい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

介護拒否の対応は生活リズムを整えることから

以前「入浴しない理由」で紹介した入浴拒否がある認知症の方は、最終的に1日おきにシャワー浴を行えるようになった。

この方は既にお亡くなりになっているが、彼女がシャワー浴を拒否なく、それも1日おきに行えるようになった過程では、入浴という行為に限らず、様々な生活リズムが整えられていったという経緯がある。

グループホームから当施設に入所した当時、彼女はあらゆる他人に対して拒否反応を示した。個室利用であったが、自室に誰かが入ってくることをひどく嫌がり、身の回りの介護に対する拒否反応も強かった。我々は彼女の身体保清を確保するために最終的には「快適に入浴できる」という目標を立てたが、その前の段階では、洗顔や整髪、着替えなど毎日の整容援助を適切に行うことを目標にしたし、そのためには彼女と職員の人間関係を円滑にし、信頼される必要があった。

いうなれば当初「入浴する」なんてことは夢のまた夢のような実現不可能な課題で、その前にいかに身辺の清潔を保つことができるのかが一番の問題であったのである。

そのためには職員が彼女に近寄り拒否されることなく支援行為を行う必要がある。そのためには信頼される存在となる必要がある。信頼される存在になるにはどうしたらよいか?それは彼女にとって我々が脅威ではないことを示す必要があった。

あれをしなさい、これはしては駄目、という存在になるのではなく、必要があればいつでも手を差し伸べます、貴方が嫌なことはしません、という存在として意識されるような対応が求められた。

しかしその時点での彼女の「嫌なこと」は、自分の近くに他人が寄ることであり、着替えの介助も、整容介助もすべて嫌なことであった。だが「信頼を得る」という理由で、それらの行為をすべて諦めて行わないことは彼女の様々な健康リスクや生活障害に繋がりかねないもので、この部分の矛盾とジレンマが我々の肩にのしかかった。

だから彼女ができるだけ機嫌を悪くならない方法を考え、彼女が好む場所や好む状態を見つけることに全神経が注がれた。例えばそれはコーヒーを飲むことであったり、おやつを食べることであったり、自分では何も行動はしないが他人が療育音楽で唄ったり楽器を演奏したりするのを遠くから眺めたりすることであった。その時も決して無理強いをするような声かけをしないで、穏やかな時間を見計らってトイレ誘導や、着替えや、整容の声をかけた。勿論うまく行くこともあれば、全く無視されたり、ときには一瞬のうちに表情が険しくなって固い殻に閉じこもってしまう場面もあった。

この時点で気がついたことは、彼女の生活リズムが狂っているということである。眠財を飲んでいるわけでもないのに、朝起きられなかったり、昼間にうとうとして夜間部屋でぼおっとして佇んでいたり、日中に活動する基盤が整っていなかった。だから声かけに適切に反応できないし、声かけが単に「うるさい騒音」でしかない場合があるし、そもそも声かけすること自体が昼間であっても彼女にとっての脅威となる場合があった。

そのため他人との接触機会も少なくなるし、そうした機会がないからますます他人がいる場所は脅威に感ずるように思えた。

だから生活リズムを整え、日中活動的に過ごして、夜眠ることができるように、生活リズムを整えることを模索した。少し職員との関係性が築かれていく段階で、彼女の部屋に入ることは当初よりは容易になってきた。そこで考えたことは朝・昼・晩をしっかり意識してもらうことである。

彼女の部屋は東向きであったため朝日がまぶしのか、カーテンを閉めたままの日が多い。カーテンを開けても再び締めてしまうのである。当施設の部屋のカーテンは施設が備え置いたものであるが、それは遮光カーテンである。そのためカーテンを閉めると光がほとんど入らなくなる。その結果1日中暗い部屋になってしまう。

そこでカーテンを開けることはあきらめ、毎朝決まった時間に部屋の照明をつけ、「朝になりました」と挨拶をし、食事誘導も「ご飯ですよ」ではなく。「朝ごはんに行きましょうか」「お昼ごはんの時間ですよ」「晩御飯になりますよ」と時間を意識できる声かけに心がけた。

そして夜10時以降は、部屋の照明を消して起きている場合もベッドサイドランプだけをつけるようにした。勿論日中の覚醒に繋がる活動や声かけにも努めた。

その結果、徐々にではあるが生活リズムは改善していき、入所後半年を過ぎる頃には昼夜逆転がほとんどみられなくなり、他者との交流についても会話はないものの(この方は失語もなく話しはできるが、自分から他者に話しかけることはほとんどなかった)他者の近くで普通に過ごせるようになり、イベントやアトラクションにも参加する機会が増えてきた。

この段階では職員に対する拒否反応はあまり見られなくなり(排泄と入浴誘導の拒否はあるものの)朝晩のモーニングケアやイブニングケア、着脱支援などはほぼ拒否なくできるようになって行った。

そしてさらに半年の月日をかけ、最初の方で紹介したブログ記事の状態のように、入浴拒否も(シャワー浴ではあるが)ほとんど見られなくなり、1日おきにシャワーを浴びてくれるようになった。この時点では他者におびえるという様子もなく、相変わらず会話はかわそうとしないが、同じユニットの利用者と空間を共にして穏やかに過ごすようになっていった。

このように認知症の方が、新しい環境や、新たな人間関係(職員との関係を含む)に適応していくためには時間の経過だけではなく、様々な対応の工夫が必要だし、同時に「時間」も必要になる。そして対応の方法は複合的要因が絡み合って影響していくので、様々な視点を持って、様々な角度からのアプローチが必要である。本ケースでも生活リズムを整えるための、いろいろな取り組みが良い方向へのベクトルに繋がっている。

これを全て医療アプローチと絡めて論じても解決しない問題である。

しかし介護給付費分科会を始めとした国レベルの「認知症ケア」の方向性は、こうした現場での経験則や方法論を無視して、医療還元論・医療アプローチの方法論にシフトを傾けていく。

認知症の鯨飲疾患別の個別ケアはあり得る場合もあるが(参照:認知症診断の意味)それだけ本当に科学的認知症ケアなんて確立されるんだろうか?

朝と晩の違いを意識できる声かけの方法論は認知症ケアにならないということだろうか?

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家族が服薬を拒否するケースからの考察

ショートステイやデイサービスを利用する方で、服薬管理ができていないことで体調が安定しない方が時折みられる。認知症の方の場合でも、服薬がきちんとできていないため行動・心理症状の急激な進行が見られるケースがある。

しかもそういう方に限って、居宅サービス計画の中に服薬管理のニーズ把握や、その具体的対応が書かれていない場合が多い。

サービス利用するだけの計画ではなく、きちんと暮らしを守る計画を目指すならば、この部分へのアプローチは不可欠だし、こういうことに配慮されていないプランが増えればケアマネ不要論あるいは、福祉系ケアマネジャーに対する批判の高まりを抑えられないだろう。

ところで、そのことと状況は多少異なるが、施設の新規入所者への投薬に対して、その家族の拒否的反応を持つ場合がある。今日はそうしたケースについて考えてみたい。

特養には「在宅ケアの限界」という理由で新規入所してくるケースがある。特に認知症の行動・心理症状(BPSD)の悪化が家族の介護負担を増して、限界点に達するケースがある。

この時、運動能力に衰えがなく、内科的な問題もない認知症の方の場合、定期的な通院をしておらず、内服薬をまったく処方されていないという人が少なからずおられる。

入園後は健康診断を行い、必要なら施設所属医師が処方箋を書き内服治療を始めることになるのであるが、内科的疾患ならこのことに特に問題はない。

ところが認知症に対する服薬治療となると、やや状況が異なり「なるべく薬を飲ませたくないんです。自宅でも薬に頼らず面倒見てきたので、施設でもそうして下さい」と希望する家族がいる。

このとき「家族のご希望だからそうしますね。」と全面的に希望を受けいれることが良いのだろうか?僕はそうは思わない。その前に利用者本人にとって服薬の必要性はあるのか、ないのか、ということを考えねばならない。ここは大事な服薬アセスメントである。

おそらく家族が服薬を拒否する背景には「認知症の治療薬」=「副作用でフラフラにされる」=「寝たきりになり口もきけなくなる」というイメージがあるのだろう。

確かに10数年前ならそういう状況もあり得ただろうが、現在の認知症の内服治療というのは、行動・心理症状として現われる行為を、向精神薬などをつかって運動機能を低下させて抑えるということではなく、アリセプトに代表されるように、症状の進行を遅らせたり、緩和させたりする内服治療である。勿論それらにも副作用はあるが、それを含めて医師は処方検討するものであり、その部分は医師の医学的知見に任せてもよいだろう。

ただし認知症に対する内服薬と言っても、それは認知症自体を治療して認知症でない状態にしたり、認知症を予防したりすることはできないし、最終的にたどり着くゴール(認知症の晩期の症状)は同じではある。ただ、そこに到達するスピードを遅くする効果があり、そのことで「できる行為」を失う期間を延ばして遅くすることができる効果がある。そのことが認知症の方自身の混乱を和らげる場合もある。だから施設医師がきちんと副作用等の観察をしながら服薬を試みる価値は充分あると言える。

特に昨年度まではこの治療薬はアリセプトのみであったが、今年度からは他に3種類の新しい治療薬が認められている。(僕の認識では3種類だと思うが、違っていたら指摘してほしい。)

メマリー錠は、中等度、及び高度アルツハイマー型認知症に対する症状の進行抑制が図れるとされ、アリセプトとは違う効果の薬であることから、両者を併用することでより高い治療効果が得られるケースがあることが報告されている。

レミニールは、軽度から中度のアルツハイマー型認知症の記憶・注意及び集中力を改善させる効果があるとされているが、アリセプトと同質の薬であるため、両者の併用はできず、どちらかを選択するとされている。アリセプトの効果が薄い認知症の方などに治療効果が期待できると言われている。

イクセロンパッチ(またはリバスタッチパッチ)は膚(背部、上腕部、胸部のいずれか)に貼付するアルツハイマー型認知症治療剤であり、貼り付けるだけという簡便な投与方法により、服薬介助の負担を軽減することが期待されるだけではなく、皮膚から徐々に薬が浸透するため副作用の観察対応が容易であるとされている。

いずれもケースによっては数年前の状態に戻った(改善した)という報告もある。

よって症状の進行を抑えるという面では選択肢が増え、適応する認知症高齢者も増えることが予測されるので、適切な薬の処方と服薬管理ということは重要な「暮らしの支援」の一部分をなす。

よって内服処方を拒否する家族に、このことをきちんと伝え納得してもらう必要がある。

勿論、服薬という医療侵襲行為は一身専属行為であり、家族と言えども第3者にはその同意権も拒否権もないという解釈が一般的で(未成年者の保護者についてはこの限りではない)、成年後見人を専任している場合も、成年後見人にもその同意権や拒否権はないとされており、認知症高齢者で本人の意思確認ができない場合は、医師が医学的見地から最も適切であると判断すれば、内服治療の開始は可能と解釈できる。しかし単に法律論とは違った見地から、家族とコンセンサスを得ておくという過程は外せない。そうしないと今後の利用者の生活支援に支障をきたす可能性があるからだ。施設サービスは、施設職員だけで完結させるのではなく、うまく家族を巻き込んで、利用者と家族の繋がりを強く持ったままで支援することが必要だからである。

この場合、処方の意味や効果説明については、医師から家族等に直接説明する必要があるが、その前の段階で、医師からどのように説明があるのか、それにはどういう背景があるのかを事前に家族に対して情報提供しておくべきであり、その役割を担うものは、施設であれば介護支援専門員または相談員といったソーシャルワーカーであろう。

そういう意味では施設のソーシャルワーカーには、福祉援助の知識や技術だけではなく、最低限の医学知識が求められるし、交渉術というスキルが求められるであろう。

どちらにしても、家族は我々と同じ情報量と知識を持つ専門家ではないということを理解して、必要な情報を提供し、判断できる材料を与えるという支援は不可欠であり、逆に言えば、こうした情報や専門知識を提供できないソーシャルワーカーや施設職員であっては困るということである。

だから毎日の学びは欠かせない。福沢諭吉は「学べば進む」と言ったが、それは「学ばなければ進まない」という意味ではなく、「学ばなければ後退する」という意味である。

施設の職員が「認知症」に対する様々な知識や援助技術が、家族より低いのであれば、なんのための施設サービスか、ということになる。そんなことで報酬を得られるのかという批判に繋がる。

しかし家族の中には、長年認知症ケアに関わって、その領域に関しては非常に勉強している人がいる。そういう人たちに遅れを取らないように、すべての介護サービス従事者は日々の勉強とスキルアップに努める必要があるだろう。

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違う人になる不幸

数年前に亡くなられた男性は、僕らから見ても「すごく怖い人」だった。

精神科に長く入院された後に当園に入所されてきたのであるが、何でもないことに対してもすぐ怒り、(この表現は本来正しくはない。その方にとっては何でもなくはないというのが正しいが、あくまで我々から見て普通の行為という意味だ)場合によっては手を振り上げる人だった。

ケアワーカーの日常介護も大変で、普通に移乗や排泄などのケアに当たっていても、突然手を振り上げるので緊張の連続だった。勿論、それには理由があるはずで、トイレでズボンを上げ下げしたり、お尻や陰部を拭く際にちょっとした力加減で痛いとか、痛くなりそうとか感じた場合に、自分が攻撃されたと思いこむことが原因だろうと想像し、丁寧に声をかけて、慎重に手をかけねばならなかった。(※この方でなくとも、そういう配慮は必要であることは言うまでもないが、その配慮レベルがかなり違っているという意味だ。)

発する言葉も「馬鹿!!」とか「コノオ!!」とか、目を剥きだしながら威嚇するような状態なので、なんとか怒らないように、笑顔でいられる過ごし方や、せめて怒らないで落ち着いていられる過ごし方を何度もカンファレンスで話し合って模索したものだ。勿論その前提は、その方が「怒る」というのは、こちら側の対応や周辺環境に原因がある「行動・心理症状」(BPSD)であると考えてのものであることは言うまでもない。しかし「怒らないで過ごす」という生活は簡単に実現できるものではなかった。

しかし徐々に関係性が深まり、暴力や暴言は減って、落ち着いて過ごせる時間も増えたが、やはり何かの拍子に怒るという行為はなくなることはなく、それは職員だけではなく、面会する家族に対しても同様であった。

その方の奥様が週に数回面会に訪れていたが、奥様に対しても笑顔を向けることはあまりなかったように記憶している。むしろ険しい表情で大きな声で罵倒することもあった。

その方が亡くなられて葬儀を終えて数日後。奥様と息子さんが遺留金品の受け取りのために施設を訪れ、事務引き継ぎが終わった後、しばし故人の思い出話に時間を費やした。とはいってもほとんどそれは奥様の回顧談を聞くという時間であった。

驚いたことにそこで語る奥様の故人の思い出話は「優しい人で一度も手をあげたことも、大きな声を挙げたこともない人。子供には最高のお父さん。」ということであった。

つまり認知症という病気になる以前に、自宅で家族と共に暮らしていた当時のご主人が、本当のご主人の姿で、認知症になった以後の「すぐ怒る怖い人」は本当のご主人とは違い、病気がそうさせているということなのであり、奥様にとっては最後まで優しいご主人として存在していたという意味だろう。このことは息子さんも同じように感じられていたようである。

我々職員は、その優しかった当時のご主人のことを知らないので、「怒りっぽい〇〇さん」「とても怖い人」という印象しかなく、そういう人であると思い込みがちであるが、それは本来のその方のパーソナリティではなく、家族にとってのその方の存在は、我々が考えるそれとは異なるということをあらためて気づかされた。

これはとても大事なことだ。認知症という状態が及ぼす様々な問題を抜きにして、家族にとってどういう存在であったのかを考えることなしに、本当の意味での認知症高齢者のケア、しいては対人援助は成り立たないのではないかと思ったりした。

我々は、よき祖父や祖母であり、よき父や母であり、よき夫や妻であり、よき隣人であったその人の過去の存在をきちんと意識して、それらの家族の思いにも寄り添って関わっているのだろうか?

そんなことを考えていたら、数年前に友人から聞いたある話を思いだした。

友人の父親が認知症になって、それまで目に入れても痛くないほど可愛がっていた友人の子供(認知症のお父さんにとっては初孫)に暴力をふるうようになったというのである。そのためおじいちゃんを大好きだった孫が、ひどくおじいちゃんを怖がり嫌いになって行くのを見て、友人は非常に心を痛めていた。

これは本当に不幸なことである。認知症という症状がそうさせるのであって、本来の優しいおじいちゃんである友人の父親のパーソナリティが忘れ去られていく不幸は測り知れない。

せめて認知症ケアに係る我々は、認知症になった本人の本来のパーソナリティにも寄り添い、そのことを大事にしながら、家族の思いにも心を配り、それぞれの方々が愛される状況を守っていかなければならないと思う。

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認知症の人達が北海道を駆け抜ける

今週木曜日(7/28)〜土曜日(7/30)にかけての3日間、北海道では「RUN TOMO-RROW」(主催:NPO法人・認知症フレンドシップクラブ、共催:北海道グループホーム協会、北海道認知症の人を支える家族の会)というイベントが行われる。

このイベントは、貼り付けた開催要項に書かれている通り、認知症の理解を深める活動の一環として、函館から札幌間300kmの駅伝マラソンを行うものである。

襷を繋ぐのは認知症の人達と、そのサポーターである。

28日は函館から長万部まで、29日は長万部から苫小牧まで、30日は苫小牧から札幌コンベンションセンターまでを駆け抜ける予定である。

道内の人ならその道筋は頭に浮かぶだろうが、実は2日目の「長万部から苫小牧」までの途中に登別市は位置している。登別市の次が白老町で、その次が2日目のゴールである苫小牧市というルートになる。つまり登別市内も彼らは駆け抜けていくわけである。

登別を走る時間は29日の午後4時ころになるらしい。「なるらしい」としか言えないのは、勿論参加者のペースを一番に考えるからである。

例えば29日の大まかな予定では、午前11時に伊達市のグループホーム「アウル」を出発して登別方面に向かうとのことであるが、通常なら国道37号線を走り、室蘭市に入って国道36号線に進路をとり、札幌まで36号線を走り続けるルートが考えられるが、今回の駅伝は、参加者の負担も考えて、坂道をなるべく避け、途中伴走者などが所属する施設・事業所等で休憩をとりながら走ることになっているそうで、この細かなルートがまだ不明である。だから国道ではない道を走ることも多い。
(※このルートの詳細は、都度、このブログ記事下部の緑文字の近直情報を更新して情報提供します。注目しておいてください。)

どちらにしても午前11時に伊達市を経って襷をつなぎ続け、登別駅前でも襷リレーを行うそうであるから、周辺の皆さんは是非その時間帯に登別駅近くの沿道を注目して、ランナーを見かけたら応援していただきたい。僕も駅前で待機していようと思う。

天気予報を見ると、幸いなことに今週は週末にかけてもずっと雨が降らないようだ。29日の長万部から苫小牧市あたりの天候もおおむね晴れで、気温も25℃に達しない予報である。この予報が当たって走りやすい天候であってほしいと願っている。

ところで、このイベントについて少し残念に思っていることがある。

それはこうしたイベントがあるということについては、全国の認知症ケアの関係者の方には充分周知されているようで、僕もそのルートから情報を得たし、道外各地からグループホームや小規模多機能居宅介護などに従事する人々が応援にやってくる。あの文京区根津の「キラキラ炭酸ひげ男」もそのために登別までやってくる。(道内で「もんじゅミーティング」はしないのか?)

共催団体の会員である地元のグループホーム関係者も一緒に走るそうである。当法人と関連法人のグループホームの管理者や職員も日ごろの運動不足も何のその、一緒に走るそうだ。(T総合施設長、少しお腹がへっこむかな?)

ただ、できればそうした認知症ケアに関係する人々だけではなく、道内の介護サービス関係者にも、もっと周知してほしかったし、それにも増して「認知症の理解を深める活動の一環」というスローガンを掲げているなら、沿道の自治体住民に広く周知してほしかった。

事実として、ランナーが走るまさにその沿道となる登別市の地域住民の多くは、認知症の方々が襷をつなぎながら登別市を駆け抜けていくことを知らない。これはもったいない。各市町村の広報等を通じて町内会の連絡網を使えば、沿道にたくさんの地域住民が待ち受け、ランナーに声をかけてくれるのではないだろうか。それはランナーにとっても励みになるだろうし、認知症に方々が300キロという距離を走破する姿を見て、あらためて認知症の人々が地域の中で住民と共に暮らすことを考えてくれる人々も多いのではないだろうか。

少しだけそんなことを考えた。

どちらにしても明後日から3日間、沿道でランナーを見かけたらエールを送ろう。道内も皆さんは、是非こうしたイベントがあることを周囲の皆さんに伝えていただくことをお願いしたい。

近直情報)襷リレーのルート情報など、随時更新しております。
伊達市(午前11時発)〜登別駅(午後4時到着予定)の細かなルート情報が入りました。以下に掲載します。

伊達アウル〜クボタ〜三樹園〜ラーメンさんぱち〜エネオス〜道南中通バス停〜ドライブイン藤〜貝塚公園前バス停〜セブンイレブン〜ローソン〜石川町〜正和工業前〜崎守町〜テニスコート周辺〜陣屋信号付近〜幌萌町〜幌萌町信号付近〜新本輪西橋〜南高平バス停〜マルハン〜セブンイレブン〜室蘭市立体育館〜セブンイレブン〜GHあいあい周辺〜室蘭信用金庫若草支店前〜エネオス〜GHアンデルセンの丘〜中央病院前〜青葉小学校前〜新川公園周辺〜大英寺〜GHしづく〜大英寺〜登別市役所前〜磯松前〜登別市民プール前〜月とライオン前〜道南商事前〜富浦町信号付近〜富浦バス停前〜登別小学校バス停前〜室蘭信用金庫登別支店〜GHみずばしょう〜登別駅

以上のように国道36号線は、ほとんど通らないルートです。


※ケアマネジメントオンラインで僕の著作本が『話題の1冊』として紹介されました。是非この記事もご覧ください。

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避難所の認知症支援ガイドを読んで感じたこと。

震災後の避難先で、介護を必要とする高齢者の方は大変な状況が続いている。

元気だった方が介護を必要とする状態になるだけではなく、健康状態を悪化させ亡くなる方もおられる。これらの人々の命も、あの震災がなければ失わなくてすんだ貴重な命であり、震災による死亡者と同じように考えてよいだろう。心よりご冥福をお祈りしたい。

また認知症の人や、その家族は避難先でも大変な問題を抱えている。

3月28日には、福島県で被災された62歳の認知症の女性が、家族と共に4か所目の避難先として移動した新潟県で、家族がちょっと目を離したすきに不明となり、翌朝凍死しているところを発見されている。死亡された女性が認知症であるということを、避難先の関係者は知らなかったそうである。認知症が、誰もがなり得る「病気などを原因とする症状」であり、その状態になったからといって、決して恥ずかしく思ったり、隠したりする必要がないという認識は広まってはいるが、まだその状態を口にするのは周囲に憚りがあると考える意識が残っているとしたら、これは社会全体でもっと意識改革を進めていかねばならない問題で、我々関係者の努力はまだ足りないという証明でもある。

そのほかにも避難先での認知症の方の対応には様々な困難要素がある。

住み慣れた暮らしの場では落ち着いていた方であっても、避難所という慣れない環境と、たくさんの人がうごめく場所では混乱が生じて当たり前だ。しかしその混乱による行動・心理症状(BPSD)を周囲の人々全員が理解できるわけではないから、人間関係上のトラブルが生じやすい。時には認知症の方や、その家族が周囲の人々から強い非難対象になってしまうことがある。そのため避難所にいることができず、危険な場所に移らざるを得ないケースもある。今後の防災対策の中では、認知症の方を対象とした避難場所を別に設ける考え方も必要になるかもしれない。

そんななか、認知症介護研究・研修東京センターケアマネジメント推進室は、震災直後に「避難所でがんばっている認知症の人・家族等への支援ガイド」という文書を作って関係者に配布した。

あの大混乱の中で、素早くこのような文書を作り、広く関係者に周知したことに対しては賛辞を惜しまない。関係者の努力に対し深く敬意を称したい。

ただこの支援ガイドの内容を読んで少し考えたことがある。そのことを書いてみたい。

まずあの短い時間でまとめた内容としてはとても分かりやすく、参考になるガイドであるという評価をしておく。認知症ケアの専門家からの適切なアドバイスが分かりやすく書かれており、家族にとっても参考になるだろう。

ただこの支援ガイドに書かれていることに沿って行えることがどれだけあるかということになると、環境にもよるだろうが、多くの避難先でこの支援ガイドのすべてを実施することは不可能だ。そうなると、このガイドを参考に、どこに優先順位を於いて、最低限すべきことはなにかという取捨選択することが必要になるだろう。

そういう意味ではこの支援ガイドを、避難先で生かす視点が、各各の現場で求められてくると思う。欲を言えば、もう少しコンパクトに要点をまとめた簡易版が添えられていれば、避難先ではより役だったことだろう。しかしこのことはこのガイドを作った関係者の努力に対する評価を少しも下げるものではない。100%完璧なものなど存在しない中で、この支援ガイドの完成度は高いと言える。

しかし1点だけ僕が残念に思ったことを指摘しておく。

3.本人なりに見当がつくように、本人に情報を
今、何が起こり、どうしたらいいか、本人なりに不安に思っており、本人への説明がないと混乱が強まります。
⇒ 記憶や判断力の低下や会話が困難な人であっても、本人に向き合って、今の状況をわかりやすく説明し、限られた情報を本人と分かち合いましょう。


↑このように書かれている部分がある。これはその通りで、なんら疑問をさしはさむ余地はない。
しかしこのことに対して、次のように例示されている点に、僕は大いなる違和感を持ち、残念に思うのである。

例)ここは○○体育館だよ。今日は○月○日、今○時頃だよ。食べ物が○時頃、配られるよ。

なぜ支援者が認知症綺麗者に語りかける例示に家族や友人に対する言葉遣いの例を挙げねばならないのか?家族が語りかける場合だけではなく、避難所で介護サービス関係者が参考にするであろうガイドであるにも関わらず、なぜ「適切な言葉遣い」への配慮がない例示をするのか?

誰もが適切な支援を行うという観点から言えば、介護サービス従事者が、家族そのものではない認知症高齢者の方に適切な言葉を使うという観点から例示することが必要だろうと思う。

だからこの例示は本来
例)ここは○○体育館ですよ。今日は○月○日、今○時頃ですよ。食べ物が○時頃配られますから安心して下さい。

とすべきではなかったろうか?これは言葉狩りではなく、我々介護サービス従事者が常識を失わずに「介護サービス」の「サービス部分」をどう考え、利用者に相対するかという基本姿勢の問題である。
(参照:介護サービスの割れ窓理論の記事

誰もが使って適切と思える言葉の例示がされていないことが唯一残念でならない。ここは僕の中ではマイナス要素である。

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風呂に入れない監督責任をとれ!!

昨日は日曜で、統一地方選挙前半の投票日であったが、僕は日直出勤。
投票は帰ってからでも充分間にあうので、溜まっていた仕事を片付けるのにはちょうど良い日である。こう考えると(何年前からか忘れたが)午後8時までの投票時間延長は、生活様式が多様化して日曜日が休みの人ばかりではない現代社会には非常にマッチしていると思う。

比較的静かで事件も起きなくて穏やかに時間が流れていた午後2時過ぎ。〇〇さんが車椅子を自走して事務室にやってきた。顔を見た瞬間になにやら怒っていることはすぐ分かった。

「どうしましたか?」と聞くと、「ここは私を風呂に入れてくれない。ひどいところだ。」という。

〇〇さんは、脳血管障害の後遺症で、主症状は下肢麻痺という身体症状であり、日常会話などの意思疎通には問題なく、行動・心理症状(BPSD)が激しいわけではない。しかし記憶が時間や状況によって低下がみられることがあり、そうであっても時間が経つと正常に近い状態になるといういわゆる「まだら認知症」の症状がみられる。

だからこの訴えだけで本当に風呂に入っていないのか、入っていないと思いこんでいるのかを判断することはできない。場合によっては何らかの手違いで本当に風呂に入っていないかも知れないのである。(そういうことがよくあるという意味ではない。)

そこで一応所属ユニットに「〇〇さんが風呂に入っていないと言っているけど、いつから入っていないか確認して」と聞いてみた。すると即座に「今日入ってます。さっき出てきたばかりですよ」という返事があった。

この時点で初めて〇〇さんが「風呂に入った」という今日の記憶が失われていることが事実として確認できたわけである。

さてここでどうするか。一番駄目なのは「さっきお風呂入りましたよ。」と事実を突き付けて今日はもう入浴しなくてよいのだと説得することだ。こんなことは介護の専門家なら誰でもわかるだろうと思うが、認知症ケアの先進ソフトを持っているはずのグループホームであっても、おかしなところでは「入浴したという記録を見せる」とか「デジカメで入浴した場面を写しておき、入っていないと言った時に見せる」なんて言う所があるからお笑い草である。

本人は「入浴した」という記憶がないのだから、本人にとって風呂に入っていないということは事実以外のなにものでもないのだ。このことを説得したり、そのために記録や写真を見せたからと言って「なるほど」と納得できるんなら最初から風呂に入っていないなどと訴えてこないって。

こういう時に一番大事なことは、風呂に入っていないと怒っている〇〇さんの気持ちがどうすれば晴れるのか、よい気持ちに変わることができるのか、ということである。

〇〇さんは「ここは他の人ばかりにかまって、きちんと風呂にも入れているのに、私には風呂に入りなさいと声もかけない」「もう何日も風呂に入っていない」「施設長の監督責任だ」と怒っている。

ここで僕は少しポジティブに考える。認知症の方の問題で、入浴に関連して一番困ることとは何か?ということである。それは「風呂に入りましょう」と誘っても「さっき入ったから今日はもう入らない」というように入浴してくれないことが一番困るのだ。

であれば〇〇さんは、風呂に入りたいと言っているのだから、これは入浴拒否よりずっと問題としてはたいしたことはない。1日に2度入浴したからといって特別問題になるわけではないので、場合によってはもう一度風呂に入ってもらえばよいだけの話だからである。それに〇〇さんは「職員が私を風呂に入れないということは、施設長の監督責任がある」という見当識を持たれているんだ。記憶は失われても、話しの内容はその場では理解できるということだ。


もう一度問題を整理して考えると、実際に「入浴している」という事実は明らかなのだから、是が非でも今風呂に入らなければ身体の清潔に繋がるような問題はなく、単純に〇〇さんが「風呂に入っていない」と思い込んでいるということさえ解決できればよいわけである。

そこで今回は、僕がたまたま日直で出勤していたのだから「施設長として監督責任がありました。謝ります」と頭を下げた上で、「どうしますか?すぐに風呂に入っていただいてもよいです、後から時間をおいて入ってもよいですよ」と言った。すると〇〇さんは「自分から要求したから風呂に入れるというのでは腹の虫がおさまらない」「だから今日は入りたくない」「明日こっちから言わなくても風呂に連れていくようにケアさんに言いなさい」と主張する。

これもまたしめたものである。この意見には素直に従うだけでよい。「申しわけありません。こういうことが2度とないようにしますから、今日は許して下さい」というと不承不承(多少ふてくされながら)お部屋に戻られた。

これで問題解決と放っておいてもかまわないのかもしれない。そうであっても一応納得する解決手段を講じたのだから、その後は風呂に入っていないと怒ったことさえ忘れて、何もなかったようにニコニコ会話してくれるようになることが多いからである。

しかしここで終わってしまっては充分な対応とは言えない。介護施設のソーシャルワーカー上がりの施設長としてはもっと手厚く〇〇さんの気持ちに寄り添いたいと思う。

なぜ〇〇さんがそのような不満な気持ちを持つに至ったのか、この気分を一刻も晴らすにはどうすればよいかを少しだけ足りない脳みそを使って考えた。

その日は日曜日で、事務関連の職員やソーシャルワーカーなどは日直を除いて休みだし、看護師の数も少ないし、ユニットのケアワーカーもそのような中、入浴介助や日常ケアに動いているんだから、多分普段より職員が〇〇さんに声をかけたり、対応したりする頻度が少なかったのではないか?そんな中、比較的手のかかる人に対応している職員の動きを見て、自分だけが阻害されていると思い、寂しい思いをしていたのではないのか。自分はかまわれていないと感じ、風呂も入れてもらっていないと思ったのではないか?

つまり寂しさの訴えが「風呂に入っていない」という訴えになって現われたのは、直前に「自分が風呂に入って介助された」という行為があったことで、そのことが記憶としては失われても、入浴した記憶の断片が「風呂に入れてもらえない寂しさ」の訴えに繋がったのであろうと思う。

だからこういうときは、少し時間をおいて怒りの感情がおさまったタイミングで、積極的に声をかけたほうがよいと思い、30分ほど経って部屋を訪ねた。ちょうどベッドに横になってテレビを見ておられた。そして「何かご用はないですか」と声をかけると、たまたま「湯たんぽのお湯がぬるい」と言われたので(暖かい日中に湯たんぽは要らないような気もしたが、それは口に出さず)「ではお湯を替えてきましょう」とあまり熱くないお湯を入れ替え、足元に入れると「ありがとうございます」と笑顔でお礼を言ってくれた。

その後、僕が帰るまで何度か部屋を訪ねたり、ホールにいらしたときは声をかけたりしたが、穏やかな表情になって「風呂に入っていない」という訴えも忘れてしまったようである。

これを対症的な関わりで、問題の本質が解決されていないとか、その場限りの方法であるとか考えるのは間違いだと思う。これはこれでよいのだ。なぜなら〇〇さんは、今後も様々なことを忘れて、そのことに起因した様々な訴えをするだろう。その時に、その感情をきちんと受け止めて、その時々に喜怒哀楽を受け止めることが一番大事なことで、忘れてしまった事実が真実だと分からせることが生活課題の解決ではないと思うからだ。

僕の寄り添い方とは、こういう方法である。

ちなみに今日の○○さん。朝から機嫌がよく、フロアでケアワーカーが付いて歩行訓練に励んでいる。もちろん「風呂に入れてくれない」という訴えはない。

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研修の成果がみえるケアプラン

介護サービスの現場は、毎日解決しなければならない様々な問題が起こるので、日々勉強の繰り返しである。

立ち止まっている暇はないので、いつも新しい知識を求めて学び続けなければならない。だから外部の研修や、OJT、OFF-JTは不可欠である。加えて定期的な職場内研修は欠かせない。僕の職場では、この職場内研修(当施設では園内研修と称している)は毎月行うことを原則としている。

しかし職場内研修で何をテーマにするかということはいつも悩みの種である。例えば「看取り介護研修」は、この加算を算定している施設は定期的に行うことが義務付けられているので、最低でも年1回しなければならないし、感染予防や褥創予防についても国からの通知文で実施義務が定められているから必ず年間研修計画等に盛んでいるが、そうしたテーマの繰り返しばかりでも知識の広がりはないし、現場で生きる知識を獲得しようと考えれば考えるほど、このテーマ創りは難しくなる。

そこで、一つの方法としては、現場で何が一番困っていて、そのことに対してどういう方向から考えれば問題解決に繋がるかということを、僕自身が考えながらテーマ決定することが多くなっている。だからと言って研修内容が現場のサービスに生きているという「成果」が見えないことも多いし、ある意味目に見えない感性を伸ばすという部分に期待しているものもあり、なかなかその評価は難しい。

しかし中には「やってよかった」と結果が見えるものもある。

2月の定期研修会では「認知症高齢者のケア」に関連してタクティールケアをテーマにした。これは「守ってあげたい」で取り上げた方のケアに関連して、何をしても落ち着いてくれない時に、せめて手を包み込むように優しく触りながら「〇〇さん、ごめんよ。〇〇さんが困っているのに何もできなくて。でもずっと僕らはここで○○さんを守っているからね」ということを伝えることも大事なのではないかと思い取り上げたものだ。

タクティールケアとは、もともとスゥーデンで生まれた「緩和ケア」の方法論だから、ターミナルケアの現場での方法論と言えるだろう。しかしこの方法が認知症の高齢者の方々にも効果があると言われており、例えば攻撃性のあるアルツハイマー型認知症の男性が、タクティールを受けるうちに静かで調和的になったり、不穏状態にあった女性が、タクティールケアを受けている間は静かに眠ることが出来るなどの効果が報告されている。

その方法は、対象者の手などを柔らかく包み込むように触れる方法で、指圧や手技療法とは根本的に異なるものだ。

その効果は科学的にも証明されていると言われており、それは皮膚への柔らかな刺激をすることで、接触受容体を刺激し、さらに知覚神経を介してオキシトシンの分泌を促し、オキシトシンが脳下垂体後葉から分泌されることによって、オキシトシンは血管内に放出され、体全体に効果を生み、鎮静化の作用を起こす。そのことにより、安心と信頼の感情が引き起こされ、それに伴って、良い気分になったり、不安感や恐怖感の緩和をすることが出来るものとされている。

だから方法としては、対象者の手を均一に柔らかく、しかもしっかり、ゆっくりとタッチして、同一の動きで皮膚の接触受容体を刺激し、脳下垂体からのオキシトシン分泌を促すことが大事だとされている。

具体的には、こちら「ヨミドクターのタクティールケアって? 触れて和らぐ不安感(動画あり)」を参照してもらうとよいと思う。

しかし我々の介護の現場では、ほんとに一人ひとりに向かいあう真の関係性を築く方法論のひとつと考えてもよいように思う。

だからタクティールケアが方法としてうまくできているかということより、そういう方法があるということを知って、それを現場のケアに生かす視点があって、いよいよ行動・心理症状に手が届かず困ったケースについて、最後は優しく手をさすって言葉をかけるということであってもよいと思っている。

そういう気持ちで施設内研修において、このテーマを取り上げたのだが、多くの職員がそれまでタクティールケアという方法があることも知らず、そういう言葉さえも知らなかった。

しかし先週ケアカンファレンスを行い、ケアプランを更新したケースの「サービス担当者会議の要点」を読んでいて、ケアプランにこの方法がしっかり取り入れられているのを確認して、テーマが生きていると感じた。

対象となった方は、96歳の女性で、検討内容として「認知症の進行・見当識低下により何をしてよいかわからないと困惑することが多くなり、心気症状や不安の訴えがある。話を傾聴することで落ち着くことも多いが不穏や不眠が見られるようになった。」とされ、対応方法として「タクティールケアを取り入れたコミュニケーションを充実させ、心理的安定を図るとともに、体調・睡眠状態の観察を行い不安感解消に努める。」と書かれている。

この方法はケアプランの一部にしか過ぎないし、その方法が必ず効果があるとは言い切れないが、施設内研修で勉強した方法論を、早速ケアプランに取り入れようとする姿勢は大いに評価してよいだろうと思う。

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守ってあげたい。

〇さんは数年前に夫と共にショートステイを利用するようになり、当施設と関わりを持った。

その後、認知症が進行し居宅での生活がいよいよ不可能になり、施設入所に至った。夫は要介護状態区分も軽度であり、家族と在宅生活を続けることになったので、ここで夫婦の暮らしの場が分断されてしまった。

しかし当初心配した夫を探すような行為もなく、ショートステイを利用していた効果からか、環境不適応による周辺症状の悪化も見られず、比較的スムースに入所生活に慣れていかれた。

意思疎通は言葉により問題なく出来る状態で、普段はかねてからの趣味である編み物をしたり、笑顔で過ごされることが多かったが、突然何の前触れもなく表情が険しくなり不穏になることがある人だった。その際は運動能力が衰えていないため、食堂の椅子を自分で持ち運んで、部屋の入口にバリケードを作って、人を寄せ付けない状態であった。こうした状況が起こると、何をしてもダメで、そっと落ち着きを取り戻すまで危険がないように遠くから見守るしかない。

〇さんの状況を改善させてくれるのは、哀しいかなケアではなく、時間の流れだけだった。

それともう一つの問題は部屋である。ショート利用時は毎回夫と一緒の利用だったから、2人室を利用していた。その部屋も混乱が生じないように固定していた。だから〇さんにとって、その部屋が「自分の居場所」と思いこんでおり、入所に際して部屋を変えることが難しかった。別な部屋に移動しても不穏となり、認識している自分の居場所である、使いなれた部屋に戻ってしまうのである。ポジティブに考えると、これは場所の見当識が残されているということで、そのことを尊重しようと思った。しかしその部屋に夫以外の誰かが存在することは〇さんにとって「非常識」の事柄であり、それは不可能だった。結果的に、この方は、その後長い期間2人室を「個室」として使い、たまに夫がショート利用する際だけ、そこで2人の暮らしを営んでいた。外部から見学に来る人が、2人室にベッドを一つだけ置き生活している状態を見て「ずいぶん余裕があるんですねえ」などと変な関心をしていた。ショートのベッドが常に満床状態ではないからできることでもあった。

そんな〇さんも、時の流れの中で認知症が進行し、場所の見当識もなくなり、意味のある言葉さえも失い、徐々に運動機能も衰えていった。そして不幸なことに脳出血を起こして倒れてしまった。2月ほど医療機関に入院していたが、意識は取り戻したものの、下肢機能は完全に麻痺して歩行不能な状態であった。重度認知症のためリハビリも「不適応」とされ、さらには意味のない「アー、アー」という声を昼夜問わず発するため、医療機関ではこれ以上対応できないということで退院して施設に戻ってきた。

その後は覚醒している時間のほとんどは「アー、アー」という声を挙げている。職員が付きっきりで対応しても、こうすればその声が止むという答えはない。ただ療育音楽やクラブなど諸活動に参加しているときは声を挙げずに、落ち着いていることもあるが、いつもではない。大声を挙げているときに車椅子を押しながら園内や園外を散歩することで落ち着くこともあるが、全く状況が変わらないこともある。答えは一つではないし、いつも同じ答案が正解でもない。

周囲の人々も「うるさい」と迷惑がるため、一度精神科に入院して、精神的側面から診てもらったが結果的には治療効果はなく「ケアでフォローするしかない」という結論に達し、施設に戻ってきた。

ほとんど意味のある言葉を発せなくなっている〇さんだが、ある時声を出している理由を尋ねた際に「困っている」という言葉を発したことがある。

〇さんは、自分が今どのような状態で、どのような場所にいて、何をしているのか自分自身でも分からないのだろう。自分に置き換えたら、まさにそれは「困った」状態以外のなにものでもない。だから〇さんは、いつも困って、困っていることの意思表示として声を発しているんだと思う。

〇さんが不安になり困らないためにどうしたらよいのかという答えは出せていない。どんなに周囲が暖かく声をかけて安心してもらおうとしても〇さんは常に困って声を出し続ける。

しかし大きな声を常に発していることも、それが日中ならば周囲の理解さえあれば、〇さんの困っているサインとして受容可能であろう。これが夜ならば本人も必要な睡眠がとれず、周囲も眠れないという生活上の大問題になる。だから声を出す行為をやめさせるよりも、昼夜逆転が生じてしまったり、1日中眠りっぱなしで活動さえ出来ない状態にしないことが大事だ。そのため日中の声だしを周囲の他の利用者が受け入れることができるためには、職員がまずその声だしの意味や、一番困っているのが〇さんであるということを理解し、受容的に関わらねばならない。

職員が少しでも迷惑な態度を示せば、周囲の利用者ももっと迷惑がって〇さんに対して、もっと困る対応をとってしまうだろう。

声を出す行為をなくするための回答は出せていないが、〇さんが困っているという状況を理解して、困らない状況を少しでも作り出せるような関わりを持ちながら、〇さんが困ったという表現さえも出来なくなるようにしないことが我々の務めである。

おとなしくさせるのはある意味簡単だ。医師に頼んで昼夜を問わず朦朧とした状態にすればよい。しかしそれは周囲がうるさくなくなって騒音の問題がなくなるだけで、〇さん自身の様々なものが崩されてしまうと思う。

我々は人の暮らしを守るために存在しているのであって、暮らしを崩壊させて問題がないかのように取り繕うことを求められているものではない。困っている〇さんが、少しでも人間らしく元気に暮らせる暮らしを続けられるように考え続け、どんなときにも手を差し伸べ、暖かな声をかけていかねばならない。

その模索として、先日の施設内研修では「タクティールケア」を取り上げて、〇さんに応用出来ないか考えている最中である。

〇さんを守ることが我々の使命で、壊すことが求められているわけではない。だからまた悩み続けよう。

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認知症の人々の感情と記憶

認知症の人は短期記憶の障害を持つ人が多い。特にアルツハイマー型認知症の方は、脳内で記憶を司る「海馬」という部分の脳細胞が壊死するなどして血流障害等が起きているため、記憶保持機能を失ってしまい、直前の記憶を保持できない場合が多い。

その場合でも、過去の記憶一切を失ってしまうのではなく、今起こったことに対する記憶はなくなっても、過去のエピソード記憶は鮮明に覚えている場合がある。そのメカニズムについては「記憶とは箪笥の引き出し」に解説している通りである。

認知症が進行すると当初保持されていた過去の「記憶の箪笥」も壊れてしまうため、覚えていたはずのエピソード記憶さえも失ってしまう。この場合、自分が「年をとった」という記憶もなくなってしまっているため、身体上の「姿」は年老いていても、脳内は「幼児」の記憶までしかなくなっている場合があり、自分の親を探したり、幼児のような仕草をとってしまうこともある。つまりこれも記憶障害という中核症状によって引き起こされる「症状」なのである。

自分の姿が鏡に映っているのに、自分であると認識せずに、鏡に向かって話しかけたり、挨拶しているのは、自分の実際の姿を認識できないために、そこに自分以外の他人がいると思いこんでしまうためである。年をとったという記憶を失ってしまっている人にとって、鏡に映る「老人」が自分であると感じられないのはある意味当然のことである。

しかしこのように直前の記憶を失ってしまった認知症の方々であっても、感情まで失ってしまうわけではない。その瞬間瞬間の感情は、認知症ではない方と同じように保たれているのである。だから自身が置かれている現実の状況に対する様々な不安や恐怖心、悲しみの感情や喜びの感情は普通の人々が持つそれと変わりがない。

ただ、その瞬間どのような感情を抱いたかという「記憶」は、その場面から離れれば一瞬のうちに失われてしまうということが多い。

例えば、その人にとって「よかれ」と思うことを周囲の人々が一生懸命行って、その場面では「嬉しい」とか「楽しい」という感情を持ち、笑顔で過ごされていた方が、数分後に、そこで何をして自分が何を感じていたかさえ忘れてしまう。だからと言って、そのことが意味のないことだろうと考えるのは間違いである。

例えば「君の誕生日」という記事で紹介したSさんは、自宅で自らの誕生日を家族に祝ってもらい楽しいひと時を過ごし、とても幸せそうな笑顔でその時間を過ごされていたが、自宅から施設に帰るワゴン車の中では既にその記憶は失われてしまっていた。施設職員とすれば大変な労力をかけてSさんに自宅で誕生日を過ごしていただいたことが、その記憶さえ失ってしまうことで「意味のないもの」になってしまうのではないかという、一種のジレンマを持ってしまうことがあり得るのかもしれないが、決してそれは意味のないことだと思わないでほしい。

その瞬間の記憶、そこでどのような感情を持って過ごしたのかという記憶を数分後に失ってしまったとしても、そこでその瞬間に抱いた感情は、まぎれもない事実であり、それはSさんなどの認知症の方にとってかけがえのない時であったという「真実」なのである。

一瞬前の記憶を失ってしまう人々であるからこそ、いつも不安で、怖い思いをして過ごすのではなく、そういう「嬉しい感情」を持ち不安のない状態で過ごすことができるという事実こそが意味があることだと思う。脳内の記憶として、そのことは保持できなくとも、そのことは人が生きていく上で必要なことなのである。

それが証拠に、感情の記憶が失われてしまうからと言って、認知症の方々に常に「つらい思い」をさせてしまえば、それらの人々の顔から表情が消え、常に何かに脅えるようになる。そういう状態を作ってはいけないのである。

逆に感情の記憶を失ってしまう人でも、脅えたり、不安がったりすることのない環境に置かれ、笑顔で過ごせる時間が多いときに、その表情は豊かになり、穏やかに過ごしている場合が多い。そういう意味で人の感情とは、医学という科学だけでは説明できない複雑なものなのではないだろうか。

不思議なことに、エピソード記憶が失われてしまう人であっても、「嫌いな看護職員や介護職員」を覚えていると思われる節がある。嫌な感情を持ったという記憶は失われても「嫌いだ」という感情は残っているということだろうか。これは怖いことだ。

どちらにしても我々は感情の記憶が失われることを嘆いたり、感情の記憶さえ失われるから、何をしても意味がないと考えるのではなく、認知症の人であっても、暮らしの中で我々が係る日常のあらゆる場面で、その瞬間を一人の人間として豊かな暮らしを営んでいると感じられるように支援すべきだし、そういう感情を持つことができるように、一人の人間として寄り添っていくべきなのだろうと思う。それが人との関係をつぐむ中で「生活の糧」を得ている我々の責任であるし、介護サービスのプロフッショナルとしての矜持である。

寄り添うケアとは、ごく自然に笑顔でコミュニケーションを交わせる人が、その人の「思い」を自然に感じ取れる関係にあることを言うものだろう。

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奇声を発する人々の心

30年近く介護施設に勤めているが、入所されている利用者の様々な生活課題に対し、即時に解決に繋がる答えを出すことは今もって難しい。

これが様々な申請や届け出等の手続上の問題であれば、経験上、高齢者や障がいを持つ方々の各種手続きには精通しているので、何をどうすればよいのかは概ね即答することができる。

しかし日常生活上の個人の問題となると、過去に誰かに通用した方法のみならず、過去の同じ人に適用できた方法でさえ、場合によっては時間経過と共に有効ではなくなる例がある。だから我々介護サービスに関係する人間は、常に悩み、考え、想像し、創造し続けなければならない。この過程が億劫になって、機械的処理で済まそうと思い始めた時が、この場所から我々が退場すべき時期である。

Kさんは認知症があり、失語で言葉がうまく出ない。しかし声は出るので、すべて「うめき声」や「叫び声」で表現するしかない。周囲の人々にとっては騒音でしかないKさんの「奇声」は、kさんにとっては唯一の表現方法で、「アー!!」「ウー!!」という叫び声の中に色々な意味が含まれている。

人はこのことをBPSD(行動・心理症状)と呼ぶ。奇声はその中でも「心理症状」に該当するのだろうか。しかしKさんの奇声を単に行動・心理症状という表現で「認知症の一症状」とするのは真実を現わしていないのではないかと思うことがある。

Kさんは座位姿勢が長く続くと、腰や膝が痛くなって叫ぶ場合もあるが、どこが痛いのですかと聞いても、場所をうまく表現できない。だから介護者があれやこれや、さすったり座位を直したりしても、Kさんにとってそれは意に反する場合も多いため余計に焦燥的な叫び声が大きくなる。時々うまく発せられない言葉の中に「バカヤロウ」とたどたどしく言われることがある。一生懸命対応している我々にとっては、善意で関わっても悪意の言葉や表現しか返って来ないのだから「どうしようもない」とあきらめてしまいがちである。

しかしKさんの立場を考えれば、こんなに自分の「危機」を訴えているのに、それを誰も理解してくれず、何も解決してくれないということであり、それこそ大きなストレスだろう。

またKさんには嫌いなことがある。それは排泄介助や着替えの介助である。しかし着替えもせず、排泄介助もせずに放置しておくわけにもいかない。食後に適切にトイレ誘導すれば、排泄ができて日中はオムツを使う必要はないのだ。でもトイレの便器に移乗したりすることが嫌いなKさんは、食後のトイレ介助のたびにいわゆる「奇声」を挙げ、時々「バカヤロウ」と叫ぶ。そう考えると奇声も暴言も、Kさんにとっては心理症状ではなく、ごく当然の「言葉」あるいは「訴え」に過ぎない。その訴えに応えられない我々の問題の方が重大である。

このような大声をなくす方法を僕らはいまだに見つけられない。ただその叫びには意味があるということは共通認識して、ごめんなさいね、という気持ちを持ちながら必要なケアに心がける毎日である。だから僕らは今現在、Kさんに対してベストのケアを提供し得ていない。「よりまし」な方法を試行錯誤しながら模索する毎日である。

でも普段のKさんは、落ち着いて穏やかで笑顔でいられる時間も多い。誰かが側にいないと意味のない叫び声を挙げている時も、側に誰かが寄り添って話しかけると穏やかになることもある。たどたどしい言葉で「アリガトウ」と言われることも多い。だからKさんのことを「奇声を発する認知症高者」とする見方は間違いである。何かを懸命に訴えることができるKさん、というふうに見なければならない。

しかしせめて少しでも焦燥的な状態をなくして笑顔でいられる時間や、穏やかに過ごせる時間が増えるように、我々は日々関わりを持ち続けている。介護職員は忙しい業務の合間を縫って、Kさんの近くで様々な言葉を掛け、何をしたいのか一生けん命に答えを探し対応しようとしている。介護職員の手が回らないときは、僕もなるべき近くに寄り添って声をかけるようにしている。

特に毎食後のトイレ介助を嫌がり、叫び声を挙げた後は、そっと近づいて笑顔になれる状態に戻っているか確認するのが日課の一つでもある。

施設にはたくさんの職員がいるのだから、一人ひとりの職員が、1日に何分間か時間を削って、Kさんの傍らでKさんが笑顔になれるように関われば、それだけでKさんの1日の中に、笑顔になれる時間や穏やかに過ごせる時間は増やすことができるのである。それはさほど難しいことではない。

我々のケアサービスというものは、専門知識や技術も当然必要になるが、日々の心配りや、人に対する愛情のないところでは機能しないのである。少しだけ自分の時間を誰かのために使うという意識を持つことで変わるものはたくさんあることを信じて過ごしたいと思う。

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