masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

認知症の理解

新薬は認知症治療に光を射すか?


日本の製薬大手エーザイの株価が、8日午前の取引で前日比19%高の9.251円とストップ高となった。

その原因は米食品医薬品局(FDA)が、同社と米バイオジェンが共同開発したアルツハイマー病治療薬、「アデュカヌマブ」を承認したことによるものだ。

新薬が認知症治療薬として臨床で実用化されれば、莫大な利益となることは誰にでもわかることなので、同社の株価はしばらく上昇が続くだろう。

FDAの新薬承認を受けて日本の厚労省も、「アデュカヌマブ」について、年内にも承認の可否判断する可能性があると明らかにした。

これに関連して田村厚労相は、「画期的な治療薬だと思う。ただ現在、日本では安全性・有効性の確認をしているところ。まずはしっかりと審査を行い、そのうえで対応を決めたい」と述べている。

アデュカヌマブは、脳内にたまった異常なタンパク質(アミロイドβ)を取り除き、認知機能の低下を抑制する効果を示しているという。

現在日本の臨床で使用されているアリセプトなどの4種類の薬は、いずれも認知症の症状を一時的に軽くする効果はあるが、認知症の根本的治療薬ではないし予防効果もない。

それらとは異なり、新薬は病気が進む仕組みに直接作用し、認知機能の悪化を抑える効果があるとされ、認知症の根本治療につながる可能性があると期待されている。

ただしFDAは新薬の副作用として、画像診断で脳内の一時的な浮腫がみられたと指摘しており、無症状の人もいるが、頭痛や錯乱などを伴うこともあるとして注意喚起している。そのため新薬について追加の臨床試験で更に検証を重ねる必要があるという立場をとっており、その結果次第で承認が取り消される可能性もあると伝えている。

そもそもFDAは、臨床試験からは新薬の効果は不確実としているのだ。しかし脳内のアミロイドβの減少は認めるとしているだけである。

そう聞くと、単に脳内のアミロイドβを減らすだけでは認知症治療や予防薬にはならないのではないかと疑問を持つ人も出てくるだろう。アミロイドβがなぜ排出されずに貯留するのかという根本原因が明らかになって、その原因に効果が及ぶものでは無ければ治療にはつながらないのではという意見もあるだろから、FDAの臨床試験評価は、新薬の効果に期待を寄せている人にとって、「この新薬も実際の効果はないのでは・・・。」と不安と失望を持つかもしれない。

それはともかく、認知症治療薬の開発に向けて少しだけ新しい一歩が踏み出されたことの意味はきっとあるのだろうと信じたい。

新薬は4週間に1回の点滴投与で、価格の目安は患者当たり年約610万円とされている。

価格は普及とともに下がる可能性があるのだから、問題は治療効果が今後どのように明らかになっていくかである。

今更言うまでもないが、脳内にアミロイドβが貯まり始めるのは、認知症の症状を発症する20年も前からであるケースも多い。今現在の僕や、読者の皆さんの脳内で、アミロイドβが排出されない状態が引き起こされている可能性だってゼロではないわけだ。

今なんの症状もなく、日常生活上に何の支障もなく暮らしている人も、既に認知症の原因となる脳内現象が始まっているかもしれないのだ。しかしそれがわかったからと言って、現在はその治療法も予防法も存在しないのだから、手をこまねいて認知症の症状がいつ出現するのかということに怯えているしかない。

アリセプトも実際に認知症の進行を遅らせているのか、その効果が疑問に思えるケースは多々ある。副作用は消化器系の症状だと言われているが、臨床に関わっている人なら、アリセプトを服用後に攻撃的になる人が多いということを実感していることだろう。

僕の経験で言っても数年単位でアリセプトを服薬していた場合、服薬をやめてもほとんど症状が変わらない人の方が多かったような印象が残っているし、服薬をやめて精神的な落ち着きが増したケースもある。どちらにしておアリセプトは、服薬期間が長期になればなるほど、効果は見られなくなる印象が強い。

それとともに、アルツハイマー型認知症の新薬と言えば、僕らの年代はどうしてもあの、『ポパテ』を思い出してしまう。

昭和50年代の後半、日本中の精神科医療機関でポパテという薬が、「認知症の特効薬」として投与されていた。当時は認知症という言葉はなく、「老年痴呆症」と呼ばれていたが、その診断を受けた人に、ポパテが処方されるのは当然という風潮さえあった。

しかしその数年後、ポパテを服薬した方が脳梗塞を発症し死亡するケースが相次いだ。それがポパテの副反応とされ劇薬指定されたために、臨床でほとんど使えない薬となった。

今ではそのような薬があったことも、その薬害さえも知る人が少なくなり、ポパテという薬剤名を記憶している人さえ少なくなっている。

そのようなトラウマもあるために、新薬に過度な期待は寄せられないと考えてしまうが、しかし人類にとって認知症の治療薬と予防薬の開発は、久しく待ち望まれていることであることに間違いはない。

認知症になっても幸せに暮らしている人はいるが、その反面、認知症になったことにより家族の顔もわからず、最愛の家族に暴力を振るうようになって、本来愛し愛されるべき人達から疎まれる人もいる。認知症が原因で、自分が運転する車で愛する孫をひき殺してしまったのに、その事故の記憶がなく、毎日孫を探して精神科病棟を徘徊している人がいる。

そうした不幸を創り出さないため、少しでも減らすためには、認知症の治療薬は救世主である。

一日も早い臨床で実用化できる認知症治療薬が誕生してほしい。
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認知症の人を試さないでください


訪問介護員が、認知症の方のお宅を訪問するに際してあいさつ代わりに、「私のことわかりますか」・「覚えていますか」と尋ねている姿を時折見かけたりする。

介護施設等でも、介護職員がそのような声掛けをする場面にしばしば出くわすことがある。

しかしこれは極めて不適切な声掛けである。

なぜなら認知症の人の記憶種害は本人の責任ではないからだ。認知症の人が親身に世話をする家族や、介護支援サービスを提供する頼りになる介護職員の顔や名前を覚えられないのは、認知症という症状の中核症状なのである。

記憶の障害は、認知症の人自身の能力とか、性格とか努力といった問題とは何も関係ない問題なのに、認知症の人の記憶力を確かめてどうしようというのだろう。

そもそも認知症の人が、毎日世話をしてくれる介護職員の顔がわからなくなったり、覚えていないのは、忘れてしまうからではなく、記憶にならないからである。

アルツハイマー型認知症の人の脳の画像診断では、ほとんどの人の海馬周辺に血流障害が生ずることがわかっている。そのため海馬が機能不全に陥っているのだ。

海馬(かいば)とは、見たり聞いたりしたことをいったんここに貯めて、記憶として信号を送り出す器官である。その機能が不全状態になっているということは、新しく見たり聞いたりしたことを記憶として脳内に残せないということだ。この部分に現代医学は手が届いていない。予防も治療も不可能な部分なのである。

よって認知症のために記憶を保持できない人に対して、自分の顔を忘れないでいてくれと望むのは、「ないものねだり」でしかないのである。

私のことわかりますか」・「覚えていますか」と尋ねる人は、そのことで一体何を期待しているのだろう。認知症の症状程度も様々だから、介護職員の顔を覚えている人もいる。だからと言ってそれを確認してよいことが何かあるのだろうか?

むしろ確認されても、介護職員の顔や名前を記憶できない認知症の人にとってそれはデメリットにしかならない。

新しい記憶を保持できない認知症の人はそのとき、「知らない人がいったい何を言っているのか」・「誰かわからない人が、気安く人を馬鹿にしたような声をかけてくる」・「いったい何を言っているんだ。怪しいぞ。」という気持ちにしかならない。

だからそのような声掛けは、気分を害して混乱を生じさせ、行動・心理症状(BPSD)につながるきっかけを作ってしまうことになる恐れがあるのだ。

認知症の人を試すような声掛けは、忘れてしまったことをなじるようなものだ。勿論、本人は忘れた自覚もないので、場合によってはそれは馬鹿にした言葉にしか思えなくなるのは前述したとおりだ。

僕が総合施設長を務めていた特養や通所介護では、こうした声掛けは決して行わないように指導していた。

しかし職場でそんなルールを決めなくとも、認知症とはどういう症状なのか、記憶障害とはどのように生ずるのかという基本を理解して、認知症の人の記憶を確かめようとすることの無駄と、デメリットに気づく人になってほしいと思う。そのために、「日々の学び」は必要不可欠である。

福沢諭吉の残した言葉に、「学べばすすむ」という言葉があるが、人という存在は、「学ばねば進まない」のではなく、「学ばねば後退する」ものなのだ。介護のプロである以上それは許されないことだ。

認知症の基礎知識をしっかり身に着けて、そこに人に対する興味と、人に寄せる人間愛というエッセンスを十分に盛り込んで、温かな手を専門知識の上に乗せて差し伸べてほしい。
5/21室蘭市高砂町の八重桜並木
今、登別では八重桜が満開の花を咲かせ、一部の木はその花びらを散らし、桜並木には、咲き誇る花の下に桜の絨毯が伸びている。(※画像は登別市美園町の、今朝7時頃の桜並木

認知症の人は、この桜並木を見て美しいと思うことができるが、その美しいと感じた記憶を保持できない人が多い。しかし記憶は保持できなくとも、そこでその瞬間に美しく咲き誇る桜を見て感動することには意味がある。

嬉しい・楽しいという感情の記憶は、海馬を通さず小脳に残るので、人の顔や名前を記憶できない人も、嬉しかった、楽しかった、辛かったという記憶は残り、積み重なっていくからである。

だからこそ・・・どうぞ認知症に人を試す人にならないでください。そして・・・どうぞ認知症が、その瞬間瞬間を豊かに過ごすことができるように、その人と共に歩む人になってください。
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認知症介護基礎研修受講義務の効果は期待できるか


制度改正・報酬改定は、地域包括ケアの更なる推進を目指して行われている。

その目指すものの一つに、『認知症になっても尊厳が護られて、住み慣れた地域で必要なサービスが切れ目なく提供される仕組み』をつくるというものがある。

そうした地域社会を実現するためには、サービスを提供する側に認知症とは何かという基礎知識や、認知症になった人にはどのような対応が求められるのかという専門知識と援助技術が求められる。そのための教育は最も重要になると言っても過言ではない。

そのため2021年度基準改正として省令改正が行われ、新年度以降3年間の経過措置を設けたうえで、介護サービス事業者の介護に直接携わる職員のうち、医療・福祉関係の資格を有さない者について、認知症介護基礎研修を受講させる義務を課した。(※ただし新たに採用した無資格の介護職員については、採用後1年以内に研修受講しなければならない。)

あらためて研修を受けなくともよい法定資格の対象は以下の通りである。
看護師、准看護師、介護福祉士、介護支援専門員、実務者研修修了者、介護職員初任者研修修了者、生活援助従事者研修修了者、介護職員基礎研修課程修了者、訪問介護員養成研修1級課程・2級課程修了者、社会福祉士、医師、歯科医師、薬剤師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、精神保健福祉士、管理栄養士、栄養士、あん摩マッサージ師、はり師、きゅう師

このことについてQ&A vol.3(2021.3.26発出)では、上記の法定資格取得者以外の受講義務について、次のように告知している。

・認知症介護実践者研修、認知症介護実践リーダー研修、認知症介護指導者研修等の認知症の介護等に係る研修を修了した者については、義務づけの対象外

・介護福祉士養成施設を卒業したが、介護福祉士の資格を有していないものについては、卒業証明書及び履修科目証明書により、事業所及び自治体が認知症に係る科目を受講していることが確認できることを条件として対象外とする

・福祉系高校の卒業者については、認知症に係る教育内容が必修となっているため、卒業証明書により単に卒業が証明できれば対象外とする

・認知症サポーター等養成講座修了者は、義務付けの対象外とはならない。

・人員配置基準上、従業者の員数として算定される従業者以外の者や、直接介護に携わる可能性がない者については、義務付けの対象外である

またこの研修はeラーニングによるオンライン受講で完結できるようにするとしているが、外国人の介護職員が増えていることから、フィリピン、インドネシア、モンゴル、ネパール、カンボジア、ベトナム、中国、タイ、ミャンマーの言語を基本として、外国人介護職員向けのeラーニング補助教材を作成することもQ&A vol.3の中で明らかにしている。

この研修受講義務によって介護関係者の認知症の知識レベルが上がり、それは即ち認知症の方々への対応スキルの向上につながるという期待の声がある。介護給付費分科会でも、認知症関連団体の代表委員などが、そのような期待の声とともに、この義務規定の新設に感謝の声が挙がっていた。

しかし本当にこの省令改正が、それらの期待の声に方える結果を得られるだろうか?

介護職員の学びの機会を創ることにいちゃもんをつけるつもりはないが、この研修の中身が明らかになるにつれ、そうしたスキルアップの期待については、日の日に疑問符が増すばかりである。

なぜなら現行の認知症基礎研修は6時間のプログラムであるが、今回義務付けた研修については、その時間をさらに短縮して、2時間程度で受講できるようにするからだ。現在国はその再プログラミングのための作業を行っている最中だ。

介護の場で働く人が受講しやすいように時間短縮を図るということの理解はできるが、既に介護事業者で何年も実務に就いている人が、改めて認知症介護基礎研修として2時間程度の講義をオンラインで受けたからと言って何か意味があるだろうか・・・。

そもそも介護事業者では運営基準に沿って、職場内で様々な研修機会を設けているはずである。そこでは必ず認知症をテーマにした研修も行われているはずで、認知症の理解に関する研修を全く受けていない職員はほとんどいないだろうし、認知症が原因となっている行動・心理症状(BPSD)への対処法もほとんどの介護職員は学んでいるはずだ。

そしてありきたりの講義で学んだ対処法が通じないケースの方が多いことも、実地業務の中で思い知らされているはずである。

そういう人たちにとって、現行の認知症介護基礎研修をさらに2時間に内容を凝縮させた(というより単に時間を削ったと言った方が正解だろう)講義を受講してどのような効果が期待できるるというのだろうか。

どうせ時間を割いて受講しなければならない講義であるのなら、実践論を凝縮して、実務に生かすことができる方法論を講義すべきである。例えば僕の認知症の理解に関する講演なら、2時間でも実務に生かせる方法を盛り込んで、役に立つ研修にできるのだがと思ったりするが、国がプログラニングする講義に、それを期待する方が無理というものだろう。

それはほとんど無意味な講義であり、仕事を終えた後、疲れて体を休めるために、2時間座って、場合によっては眠りながら受講するだけの意味のない儀礼的な研修になってしまうのが落ちだろう。

そういう意味では、この研修受講義務を盛り込んだ運営基準改正は、認知症の人たちが住みやすい地域をつくるために、国として介護に直接携わる職員の資質向上を図っているというアリバイ作りにしかなっていない。

ということで改めてこの研修を受講する皆さんには、e-ランニングで講義を受ける時間は、体をゆっくり休める時間だと割り切って、居眠りを気づかれないようにうまく時間を過ごしてほしいと思う・・・。
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子供に返っている認知症の人には子供のように対応すべきなのか?


認知症の人の中には、自分が年を取ったという記憶をなくしてしまっている人がいる。

そういう人は鏡に映った自分の年老いた姿を見ても、それが自分だとは認識できずに、鏡に映った自分を見てそこに知らない誰かがいると思い込む。そして鏡に向かって、「お前は誰だ」とか、「人の家になぜ勝手に入ってきてるんだ」と怒ったり攻撃的になったりする人も多い。

当然その姿は鏡に映っているのだから、目の前にいる自分の知らない誰かが、自分を攻撃しようとしていると思って、鏡にものをぶつけて壊してしまう人もいる。こうした事例は決して少なくなく、僕は過去にそういう人の住む家の鏡や、グループホームの鏡を幕で覆って、必要な時以外鏡を使わないようにして、こうした行動・心理症状を防いだ経験を数多く持っている。

どちらにしても、年を取ったという記憶をすっぽりと失ってしまって、実年齢より若いと思い込んでいる認知症の人はたくさん居られるのは事実だ。

その中には子供の頃に戻っているかのような言動をとる人がいる。いわゆる子供返り・幼児化という現象である。

そのような症状を呈する人に対して、介護従事者はどのように接すべきだろうか。相手が子供に返っており、自分は小さな子供だと思っているのだから、介護支援の場でも、介護従事者がその気持ちを尊重して、子供に相対するように接するべきなのだろうか・・・。果たしてそれは、受容というべき態度なのだろうか。

僕はそうは思わない。

そんな考え方は間違っているし、それは人の心を受容する態度ではなく、相手の状態を深く理解しないまま、自分の狭い価値観や低い見識によって思い込んだ、間違った価値観による不適切な態度だと思う。

以前にも認知症の記憶について何度かこのブログに書いているが、「感情の記憶は認知症の人にも残ります」でも指摘しているように、認知症の人であっても、かなり晩期まで失われない記憶があり、何かの拍子にその記憶がよみがえってきたりする。特に感情の記憶や手続き記憶は残っているのである。

子供返りしている認知症の人であっても、子供そのものになっているわけではなく、自分が生きてきた記憶の中の子供のイメージに返ってしまっているだけであり、そのイメージの中には、自分が大人になった後に、子供に対して抱いた感情も大きく左右しているのである。

そもそも子供返りしている人に対しても、きちんとした丁寧な言葉かけをして問題が生ずるわけではない。幼児言葉で話しかけないと不穏になることなどほとんどあり得ないことだ。

先日書いた、「丁寧語は使い分ける必要がない」でも指摘した通り、節度ある丁寧な言葉遣いは、相手や場所を選ばずに使うことができ言葉であり、そうした言葉遣いをはじめとした、マナーに徹した対応を行うことによって、認知症の人の行動・心理症状は改善するのである。

今では幼児・児童教育の現場でも、教育者が命令調の言葉や幼児言葉を使わずに、正しい丁寧な日本語で幼児や児童に接しようという考え方が徐々に浸透してきている今日、幼児そのものではなく、大人であり、人生の先輩である高齢者に向かいあう介護サービスの場で、専門職と言われる介護従事者が、「幼児に話しかけるような言葉遣い」しかできないのは、介護の貧困さを表すものでしかない。

大人に向かって幼児に話しかけるような言葉遣いしかできない介護従事者のその低能ぶりは、介護業界の恥の象徴でしかない。

介護を必要とする認知症の人の背中には、その人の歩んできた人生が背負われているのだ。その背中を見つめて愛おしく思っている家族も存在するのだ。

そうした方々すべてが、私たちの介護支援を受けてよかったと思うことができる介護サービスでなければならない。

自分の親が、認知症になって子供返りしているかのような言動をとるからと言って、日常支援に従事する介護職員までが、自分の親をまるで子供であるかのように扱うと言って泣いている家族が何千人・何万人いると思っているのか・・・。

そうした恥ずべき対応をなくしていかねば、介護の仕事は誰にでもできる仕事と思われ続け、時に必要悪なんて罵声を受けたりすることがなくならないのだ。

もっと誇り高い仕事を目指してほしい。もっと人を人として敬い、愛おしく思ってほしい。

だからこそもっと勉強してほしい。無知は罪なのだ。

認知症の研修の必要性が高まっているが、講師もきちんと選ぶべきだ。認知症の人に対する本物の介護実務論を語ることができる人でなければ、研修を受けても何も変わらないのである。

そういう意味では今回の介護報酬改定・基準改正の中で、法定資格のない介護職員に義務付けられた認知症介護基礎研修の受講義務も、今の内容のままである限り、介護の質を引き上げる効果にはつながらないと指摘しておきたい。
無題
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認知症研修がより重要となる今後に向けて


2021年度の介護報酬改定のテーマの一つは、「認知症への対応力向上に向けた取組の推進」である。

そのために訪問系サービスに認知症専門ケア加算を、多機能系サービスに認知症行動・心理症状緊急対応加算を新たに創設することとしているほか、介護サービス事業者の従業員について、認知症の人に対する実践スキルを引き上げる方策を取ろうとしている。

例えば介護福祉士や介護職員初任者研修(ホームヘルパー2級)資格を持たない介護職員については(現在、介護職のうち6.1%の方が該当するとされている)、来年度からの経過措置3年間の中で、「認知症介護基礎研修」を受講しなければならない義務が課せられるのもその一つだ。

とは言っても、「認知症介護基礎研修」はわずか6時間の研修で、これをe-ランニングで受講できるようにするのだから、介護事業者にとっても、資格のない介護職員にとっても、そのハードルは決して高いとは言えないだろう。

職場単位でe-ランニングのビデオを、受講対象者が手すきの時間や勤務外に観ればよいだけの話である。

しかしこの程度の義務を課して、果たして認知症の対応スキルが上がるのかという疑問も生ずる。仕事に疲れた人が、居眠りしながら義務受講終了というケースも多くなると思える。ないよりは、あった方がマシという研修でさえない、効果のない義務と化す可能性が高いと思う・・・。

もう一つ、居宅療養管理指導を除く全事業者に課せられる義務として、「認知症に係る取組の情報公表」がある。

来年度以降、認知症に関連する研修の受講状況等、認知症に係る事業者の取組状況について、介護サービス情報公表制度において公表することが求められているのである。

ということで認知症の理解等をテーマとした職場内研修は年度ごとに最低1回は開催しておく必要があるということになる。既に多くの事業者ではその実施を図っていると思えるが、改めてその体制を整備することになろうと思うが、どうせ時間を使って認知症について学ぶのならば、実際の介護の場に生かすことのできる実践論を学びたいものだ。

アリバイ作りだけのために、日常介護に役立たない研修は時間の無駄でしかない。今職場で認知症の人に対するケアに関して、何に困っていて、何を知りたいのかという現場職員の声を拾いながら、研修受講した後に、即実践できる方法論を学ばせる必要がある。

職員が一番困っていることは、いわゆる行動・心理症状(BPSD)への対応である。それは多くの場合、混乱から生ずる行動であるが、その混乱は具体的に何が原因で、どういうふうに困ったり、パニくったりしているのかを明らかにする必要がある。

特に昼夜逆転は、そのこと自体が混乱要素だ。昼に歩き回ったり、声や音を立てても問題にならないことが、夜であるからこそ、人の迷惑になってなじられたりすることがある。しかし認知症の人は、他人に迷惑をかけようと思って歩き回ったり、声を出しているわけではないので、自分が何もしていないのに、他人になじられるとして、そのことがさらなる混乱につながることが多い。行動・心理症状がそれにより悪化するのである。

そういう意味では、生活リズムを整えて昼夜逆転を防ぐことは、認知症の人が落ち着いて生活できることにつながる大事な視点だといえる。しかしそのために睡眠コントロールを眠剤で行おうとしても、うまくいかないことが多い。それは何故か。どうしたらよいのかという具体策を伝える認知症研修でなければならない。
認知症の理解スライド2認知症の理解スライド
このスライドは、一昨年東京都葛飾区で介護事業所の職員さんや、一般市民の皆さんに向けて作った僕の講演スライドである。そこで伝えてきた方法とは、教科書に書いてあった方法論ではなく、僕が介護の場で、僕の仲間たちと一緒に取り組んで、良い結果を引き出した実践論そのものである。そしてその実践は今でも積み重なって、随時更新されていくものでもある。

認知症について、ケアに手が届くところはどこまでなのか、それは何故なのかということも含め、認知症の理解・ケアの方法論をわかりやすく伝えることもできるので、認知症をテーマにした研修の講師お探しの方は、是非声を掛けていただきたい。勿論、オンライン研修も可能である。

まずはこちらのサイトに掲載しているメールアドレスに連絡いただければ、条件等の検討を行うことができるので、依頼するかどうかは別にして、問い合わせしていただきたいと思う。
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グループホームは3ユニットがスタンダードに・・・。


介護報酬の改定率が示される可能性があるとアナウンスしていた2日の介護給付費分科会は、結局運営基準等の改正案が示されただけに終わった。読者の皆様には先走った考え方を提示してしまい申し訳ありませんでした。

さてその資料から、GHの基準変更に触れてみたい。

報酬改定に伴う基準改正で、全国グループホーム協会等の関係者が一番強く要望していたことは、GHの夜勤基準の緩和であった。

制度開始当初の基準では、2ユニットのGHでは、夜勤者1名+宿直者1名という体制が認められていたが、相次ぐGH火災事故を受けて、避難誘導体制を充実させるなどの観点から、この基準が見直され、現在はユニットごとに夜勤者を1名以上配置しなければならなくなっている。

この基準を見直して、見守り機器などを設置することを条件に、2ユニットのGHにおける夜勤者1名+宿直者1名基準を復活させてほしいと要望されていた。

このことに関連して7月に書いた、「GHの夜間配置規準見直しの要望について」という記事の中で僕は、「複数ユニット経営の推進や、原則2ユニットしか許されていないGHの規模拡大議論に結び付けていくべきではないかと思う。」という意見を書いているが、今回の基準改正では2ユニットのGHにおける夜勤基準緩和は見送られたが、僕の要望するGHの規模拡大と、3ユニットの夜勤基準緩和は認められることになる。

来年4月以降は、特例ではなく通常指定として3ユニットの認知症対応型共同生活介護事業所が認められることになる。さらにサテライト型小規模多機能型居宅介護の基準を参考に、グループホームのサテライト型事業所の基準を創設し、この設置も認められることになる。

そして夜間・深夜時間帯の職員体制について、安全確保や職員の負担にも留意しつつ、人材の有効活用を図る観点から、3ユニットの場合であって、各ユニットが同一階に隣接しており、一体的な運用が可能な構造で、安全対策(マニュアルの策定、訓練の実施)をとっていることを要件に、夜勤2人以上の配置に緩和することを可能とするとしている。

つまり2ユニットのGHの夜勤配置基準は現行通りとされたものの、3ユニットのGHについては、条件付きで2ユニットのGHと同じ夜勤配置で良いとされているわけだ。

2ユニット18人のGHより、3ユニット27人のGHの方がスケールメリットが働き、収益率が向上することは容易に予測できることであるが、夜勤配置基準が2ユニットと3ユニットで変わらないなら、この部分でもスケールメリットが大きく働くことになる。

さらに今回の基準改正では、認知症グループホームにおける介護支援専門員である計画作成担当者の配置について、事業所ごとに1名以上の配置に緩和するとされているのだから、2ユニットでも3ユニットでも、介護支援専門員は1名配置で良いわけだから、当然3ユニットの方が収益が挙がることになる。

勿論こうした考え方は、経営上の考え方でしかなく、働く当事者である介護支援専門員や介護職員等は、今現在より対応すべき利用者数が増えて大変になるという意見が出てくるだろう。それは極めて当然の反応であり、間違った意見でもない。

ただしGHの現在の基準は、一人の夜勤者の担当利用者上限が9名である。一人の介護支援専門員の担当利用者上限も9名だ。この基準は他の居住系施設と比べると、非常に少ない利用者上限基準と言える。

例えば特養等の介護施設の場合、夜勤者一人が対応すべき利用者数は20名を超えているし、介護支援専門員は100名まで担当できる基準である。それと比べた場合、今回の基準改正で過重労働に陥るという論理は、あまり説得力を持たないと言えるのではないだろうか。

どちらにしても今後の新設グループホームは、3ユニットが当たり前になるだろうし、既存の2ユニットのグループホームも、3ユニットに拡充を目指していくことになるだろう。

1ユニット単独のグループホームや、2ユニットのグループホームは、ごく小さな地域に限定的に残っていくだけで、いずれ我が国のグループホームのスタンダードは3ユニットになっていくのだろうと予測する。なぜなら今後はますます経費及び人材確保の両面で、スケールメリットを生かした経営戦略が必要不可欠になるからだ。

このほか基準改正では、無資格の介護職員に、「認知症介護基礎研修』の受講を義務付けるが、この経過措置が3年になっている。

また感染症や災害が発生した際の現場の対応力を今より強化していくために、有事に備える業務継続計画(BCP)の策定やシミュレーション(訓練)、研修の実施を全ての事業者に義務付けることになり、この経過措置も3年とされた。

これだけ経過措置期間が長いと、経過措置の間に方針変更があり得ると考えるべきで、各事業者はこれらの新基準への対応については、慌てずゆっくりと対応したほうが良いと思う。
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感情の記憶は認知症の人にも残ります


生き残るための医療・介護経営のウエッブマガジン、「CBニュース」に連載中の、「快筆乱麻masaが読み解く介護の今(57)」が今朝5時に更新されている。今月はコロナ禍特例に関する厚労省の対策の評価について、僕の考え方を示しているので、明日朝アップされる後編とともに注目していただきたい。

それはさておき本題に移ろう。

対人援助の仕事に就くものにとって、無差別平等の意識は非常に重要だ。この仕事は感情ある人間同士が接しなければ成立しない仕事であるからこそ、好き嫌いの感情が生ずやすく、顧客である利用者に対しても、サービス提供者が好き嫌いの感情を抱くことはやむを得ない。

だからといってその感情に左右されて、利用者のサービスの質に影響が出ることは許されない。プロである以上、その感情をコントロールして、誰に対しても平等にサービスを提供する必要がある。

だからこそ自己覚知による感情コントロールが求められることは何度かこのブログで書いてきた。(参照:価値観が変化する自分を覚知するために

ところが感情のコントロール以前に、最初から人を差別して介護に関わっている人がいる。意識の中で自分より立場の弱い人を見下す人がいるのだ。こうした態度を放置してしまえば、介護サービスを受ける人は、サービスを提供する人の顔色を常に伺っていなければならなくなる。そうなればその行為は援助ともケアとも呼ぶことのできない、劣悪な行為に成り下がる。

例えば、認知症のない人に対しては丁寧語で話しかけるのに、認知症の人に対してはタメ口で話しかけている人がいたりする。こうした態度は、認知症の人を見下しているということに他ならない。

こうした態度を取る人は、無意識のうちに認知症の症状がない人と、認知症の人は違う人間であると考えているのだ。だから言葉遣いが自然と異なってしまうわけである。

無差別平等の精神から言えば、どのような症状があろうとなかろうと、人としての価値は変わらないわけであり、職業として人にかかわる人間が、症状の違いで、接する態度にも違いが出るなんてことは許されないのである。

しかもアルツハイマー型認知症の人は、無礼で馴れ馴れしいタメ口に、一番傷つきやすい人でもある。そのことも理解する必要がある。

アルツハイマー型認知症という症状の特徴の一つに、「海馬」の機能不全というものがある。ほとんどのアルツハイマー型認知症の人は、海馬周辺の血流障害が生じて、海馬が働かない状態になっている。

この海馬というのは、見たり聞いたりした情報をいったん取り込んで、記憶にするための器官である。その器官が機能不全に陥っているのだから、新しい情報を記憶にできないのが、アルツハイマー型認知症の人の典型症状であると言ってよい。

それは何を意味するのかを考えるうえで、こんな場面を想像してほしい。

アルツハイマー型認知症の人が混乱し、行動・心理症状が強く出ているときに、時間を掛けて関わりを持ち、その人の気持ちに寄り添う態度に終始して、落ち着かせることができたとき、認知症の人は、落ち着かせてくれた人を愛おしく見つめてくれるだろう。ありがとうと感謝されるかもしれない。

しかしその時落ち着かせてくれた人の顔も名前も、アルツハイマー型認知症の人は覚えることができないのである。

混乱していた人を落ち着かせて愛おしく思われた職員と、アルツハイマー型認知症の人が、翌朝あった時には、認知症の人にとって、その職員は初対面の人にしか過ぎない。だからその職員が馴れ馴れしいタメ口で話しかけたときに、認知症の人は、「知らない人が、なぜ自分に馴れ馴れしく話しかけてくるのだろう。」・「年下の人間がなぜ自分に横柄な言葉や態度で接してくるのだろう。」としか思わない。それは認知症の人を怒らせ、混乱させる要素にしかならないのだ。

だからこそ、認知症の人に対しては常に、ゆっくり静かに近づいて、丁寧な言葉で目を見て笑顔で話しかけるという態度が求められるわけである。

そういう意識を持つことができない人は、対人援助の仕事に就いてはならないのだ。なぜならそのことに気が付かないことは、即ち人の心を傷つけ、人の心を殺すことを何とも思わないことと同じだからである。そんな人はさっさと別な職業を探した方がよい。

しかしそうであるなら、あんなに時間を掛けて丁寧に接した記憶も失われるのだから、接した時間も労力も無駄になると考える必要はない。認知症の人に時間を掛けて丁寧に接しても、何の意味もないと思う必要もない。

以前に書いた、「記憶を失っても、感情が残される理由」でも触れているが、記憶には種類があって、それぞれ記憶する回路が違うのである。

仕事や家事の手順を覚える、「手続き記憶」は、海馬を通さない記憶だから、アルツハイマー型認知症の人の記憶としても、残されている部分が多々あることと同様に、感情の記憶も海馬を通さず、小脳に残る記憶なのである。

さっき食べたものが何かを記憶できない人であっても、「あの人は良い人だ。あの人は好きな人だ。」ということは記憶できるのだ。

毎朝、最初に出会ったときには、「この人は誰だろう」と怪訝な顔で迎える認知症の人と、丁寧にあいさつを交わし、丁寧な言葉で目を見て笑顔で話しかけるということを続けていると、認知症の人の感情の記憶がよみがえり、「この人は、自分にとって良い人だ」と思えて、昨日や一昨日より時間を掛けなくても落ち着いて会話ができるようになるのだ。

だからこそ、そうした感情の記憶が残され、少ない対応時間で落ち着いてもらえるように、時間を掛けて信頼を得られる対応をするときも必要になるわけである。

そうして時間を掛ければ、その掛けた時間は貯金のように貯まり、後々、その人が混乱しているときに接した際に、さして時間を掛けずに落ち着いてくれたりするようになるのである。

愛をかけずにおざなりに対応するだけの時間は流れ、失われるだけになるが、愛を積めば時間は貯まるのだ。

だからこそ、今何をしたのかという記憶を失っても、感情の記憶は残っているから、認知症の人が一瞬でも楽しい時間を過ごすことには意味があるのだということを理解して、そのことを信じて認知症の人と関わりを持ってほしい。

認知症の人が良い感情を持てる時間や空間を作り出すことには、重要な意味があることを理解してほしい。

感情の記憶はしっかり残るという証拠は確かにある。なぜなら顔と名前を覚えることができない認知症の人でも、ごく自然に好きな介護職員と、嫌いな介護職員は見分けているではないか。

あなたは認知症の人にとって、どっちの職員だろうか・・・。認知症の人の感情のあり様は、私たちのケアの質を映す鏡である。そのことを忘れてはならない。
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GHの夜間配置規準見直しの要望について


先日の豪雨浸水被害で犠牲となった熊本県球磨村の特養に住まわれていた14名は、水没した1階で全員泥水をかぶり、車いすに座ったまま床に倒れた状態で動かなくなっていたそうである。あまりに早い浸水により、2階への避難が間に合わなかったのだろう。

何とも言いようのない悲劇である。人生の最期に泥水で埋もれていく恐怖を味わわねばならなかった方々に対して、心よりご冥福をお祈りしたい。合掌。

身体の不自由な方々の避難介助に努めた職員の皆様も無念で悲痛な思いであることが容易に想像がつく。想定外の浸水速度の中で、職員の皆さんも死の恐怖におびえながら最善の避難誘導に努めたことと思うので、どうか自分を責めることがないようにしてほしい。

遠く離れた場所に住む私たちには、後方支援しかできることはないのかもしれないが、せめてできることを最大限にしていこうと思う。被害にあった皆さんには、くれぐれも希望を失わないでいただきたい。

さて今日の本題に移ろう。

来年4月に迫った介護報酬改定に関連して、いよいよ議論は総論から各論に移っている。8日に開催された社保審・介護給付費分科会では、認知症グループホーム(以下.GHと略)の夜勤配置基準が議論の俎上に上った。

夜勤配置人数の基準は、「厚生労働大臣が定める夜勤を行う職員の勤務条件に関する基準」において定められてるが、GHの場合は、「指定認知症対応型共同生活介護事業所ごとに夜勤を行う介護従業者(指定地域密着型サービスの事業の人員、設備及び運営に関する基準(平成十八年厚生労働省令第三十四号)第九十条第一項に規定する介護従業者をいう。)の数が、当該事業所を構成する共同生活住居(介護保険法(平成九年法律第百二十三号)第八条第二十項に規定する共同生活を営むべき住居をいう。)ごとに一以上であること。」と定められている。

要するに、ユニットごとに夜勤者を1名置かなければならないという基準で、1ユニットのGHは1名夜勤でよいが、2ユニットになれば2名の夜勤者が必要になるということである。GHの1ユニットの定員は9名なのだから、対利用者比で言えば9:1の夜勤配置が求められているのである。

一方で特養の例をみると、ユニット型ではない従来型特養の場合は、利用者25名に対し夜勤者が1名であるし、GHの体制に近いユニット型地域密着型特養の場合も、「二のユニットごとに夜勤を行う看護職員又は介護職員の数が一以上であること」とし、2ユニットで夜勤者1名で良いという基準だ。地域密着型特養のユニット定員は、GHより1名多い10名なので(運営基準では定員の定めは、おおむね10名以下とされている。)、対利用者比は20:1である。

このようにGHの夜勤配置数の基準は、他のサービスと比べて手厚く規定されているのである。しかしそれは即ち経営側の大きな負担となっているという意味だ。

今回厚労省がこの配置規準緩和を取り挙げたのは、深刻な人手不足を背景に、日本認知症グループホーム協会が2ユニット以上の事業所について、見守りセンサーなどの導入を前提として、「夜勤1人+オンコール宿直者」の体制を認めて欲しいと要望しているためである。

実は以前の基準では、2ユニットのGHは、「夜勤1人+オンコール宿直者」で良かったわけだ。それが変えられたのは、ケアの品質上の問題ではなく、GHでの相次ぐ火災事故を受けて、避難誘導の体制が問題となったということが深く関連している。そのためユニット人数が少ないGHの夜勤配置数が、多サービスと比べて手厚くなってしまったのである。

しかし事故対応は宿直職員でも可能なわけで、以前の体制が決定的な欠陥となっていたわけではないく、GH協会の要望は決して不当要求ではないと思う。

事故対応は単独ユニットの場合に、たった一人の夜勤者が避難誘導を優先した際に、通報がおろそかになったり、逆に消防署への通報の間に、全く避難誘導ができないという問題なので、むしろ単独ユニットではない複数ユニット経営の推進や、原則2ユニットしか許されていないGHの規模拡大議論に結び付けていくべきではないかと思う。

夜勤は労働基準法上、夜勤入りの日と夜勤明けの日の2日間を労働日とみなさねばならず、夜勤明けは休日とはみなされないため、多くのGHでは、「夜勤 明け 公休」という勤務シフトを取っているが、これだと夜勤の2名が明けの日、その翌日に勤務できないということになる。

しかし宿日について労働基準法第41条第3号は、「労働時間、休憩及び休日に関する規定は、適用しない。」としており、当日日勤の職員がそのまま宿直して、翌日の宿直明けの日も連続して日勤勤務に就くということが可能になるわけである。

夜勤1名を宿直に変えるだけで日勤勤務者の確保数が容易になるのだから、人手が少ないGHには大きなメリットと言えよう。

勿論、職員からすれば、日勤勤務者の確保が容易になるメリットとともに、宿直前後に通常勤務を行い、実労働時間は増えるのに、夜勤手当が減る分、給与が減ってしまうというデメリットも考えられる。しかしそれは経営側と労働者双方が、よく話し合ってその職場に一番マッチした方法を模索すればよい問題だと思う。

当日の分科会では、日本看護協会や医師会の委員が、災害対応や介護の質を理由にして、1ユニット1名夜勤の維持を訴えているが、災害対応は前述したように、そもそも単独ユニット経営を認める限り、大漏れの問題であり、今回の要望によって災害対応に漏れが生ずる問題ではないし、質を云々するには、あまりにも他のサービスとの基準差が大きく、要介護3以上の利用者25名に対して、一人夜勤で対応している特養の存在から比べると、今回の変更は大きな問題とはならないと言えるのではないだろうか。

この議論はまだ結論が出ていないが、2ユニットのGHは、「夜勤1人+オンコール宿直者」で良しとする改正に進むことを応援したいと思う。

ただしGH関係者の皆様には、この基準緩和が実現するとしたら、それは報酬減の理由にもされるということをも覚悟していただかねばならない。それが証拠に過去の夜勤配置規準厳格化に際しては、加算が新設されたり、算定方法が緩和されるなどして、GHの報酬増とセットで行われてきているのである。

今回の改正だけ、夜勤の配置人員は減らしたけれど、報酬は上げますよという都合の良いことにはならないわけである。ここを間違った捉えていると、思惑が外れて経営が立ち行かなくなる可能性だってないとは言えないわけだ。

どちらにしてもGHは、介護人材不足の中で人件費だけではなく必要経費が増大しており、経営に大きな影響を及ぼしている。そんな中で大幅な報酬アップは期待薄であるのだから、こうした基準緩和によってコストを削減していく必要が高いと思うし、同時に運営コストの削減という意味で、固定費の見直しを図っていただきたいと思う。

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医療の手が届かない場所にも手は届く介護


今日の参議院本会議で、改正介護保険法案等が可決成立する。今後は成立した改正介護保険法に準拠する形で、来春の介護報酬改定議論が本格化する。

そこでは介護事業者の感染防止策が、報酬に上乗せ評価されるかどうかが一つの焦点となってくる。普段介護報酬アップには辛口意見の全国知事会も、6/1の介護給付費分科会では、その評価に賛同する意見を述べているが、果たしてどうなるだろうか。すべての介護事業所の全職員に手渡される慰労金が、今後の介護報酬にも反映され、職員待遇の更なる改善につながるのかどうかということにも注目しなければならない。

どちらにしても今現在も今後も、感染予防の対策は介護サービスの全事業種別で続いていくことになるわけだ。

ところで新型コロナウイルスの感染が全国的な広がりを見せたのは、2月の終わりころだったと記憶している。そのとき対策が必要になった過程で心配された問題の一つとして、認知症の方々が環境変化に対応できるかということがあった。具体的には、感染予防対策を理解できないことにどう対応するかということや、外出制限等の対策により混乱して症状が悪化するのではないかという懸念があった。

特に重度の認知症の方が多く生活している特養や、グループホームなどではその懸念が大きかった。

現在進行形のケースを含めてそれぞれを検証すれば、そうした懸念が現実となったケースも多い。一方では今現在でも対策が続けられるなかで、思ったほど認知症の人が混乱せず、新しい環境等に適応して、落ち着いた暮らしを送っているケースが多々見られる。

感染予防対策として一番重要となるのは、「手洗い」であるが、その必要性を理解できない認知症の人について、トイレのたびに正しく手洗いができるように誘導・支援できるかということが大きな課題となった。手を濡らすだけで手を洗ったと思い込む人が多い中で、ウイルスを洗い流すことができるように30秒以上もかけて手洗いをすることができるかという問題に対応して、介護の場では様々な試みが行われた。

排せつの直接支援が必要な人や、トイレ誘導が必要な人だけではなく、自力でトイレに行く人についても、排泄後にしっかり手洗いの支援を心掛け、ケアプランにその内容を明記するとともに、手洗いチェック表を作って漏れのないように支援するように徹底したところもあった。

手洗いに集中できず、すぐにその場を離れようとする人には、興味を引く話題で会話しながら手洗いを同時に行ったり、手洗い場所に認知症の人が興味を持っている物品を置いて、そこの居心地を良くする工夫を行なったり、あの手この手を酷使して十分な手洗い行為を日常化することに努めている事業所もある。

コロナ禍以前は、ややもすると見逃されがちであったり軽視しがちであった、「手洗い支援」について、コロナウイルス対策の中で工夫され、その支援方法が確立しつつあることは良いことだろうと思う。一方でいまだに手洗い支援がおざなりにされている事業所には、大いなる反省と対策を求めたい。

制限対応にも事業者間で大きな対応の差異がみられている。

面会制限や外出制限でストレスがたまらないように、人と人の間隔をあけてのグループワークの充実に努めたグループホームでは、従前より認知症に人の表情が豊かになっている。今まで以上に認知症の人に寄り添おうとする職員の皆さんがの姿勢と思いが、認知症の人の心にも伝わっているのだろう。

家族が面会に来れないことが、逆に認知症の人にとっては新たな落ち着きの環境につながったケースもある。認知症の人の中で徘徊行動がある人や、ホームの外に出ようとしてしまう人の中には、他の利用者の家族が訪問した時に限って、そうした行動をとる人がいたりする。自分に家族の面会がないという寂しさからなのか、あるいは普段見慣れない人がそこに居るという不安なのか、いずれとも知れないが、施設外から人が訪ねてくるたびに落ち着きを失う人にとっては、訪問者がほとんどいない環境は、さほどストレスにはならないことも分かった。

そうした人が落ち着いて暮らすことができる環境づくりに、そのことは大きなヒントを与えてくれる結果になったことだろう。

認知症の人の、「行動・心理症状(BPSD)」とは、認知症そのものがもたらす不自由のために、日常生活のなかで困惑し、不安と混乱の果てにつくられた症状である。だからこそ行動心理症状は、暮らしのなかで良くなりもするし、悪くなりもする。つまり認知症そのものは、今現在、治療も予防もできないけれど、認知症がもたらす症状はケアによって必ず良くなるということを、感染拡大予防策の中で、私たちは改めて気が付いている最中ではないのだろうか。

認知症の人をごまかすのではなく、単に話を合わせるのでもなく、認知症の人の世界を理解して真剣に共鳴することが大事だということに、あらためて気が付いている最中ではないのだろうか。

そして何より大事なことは、私たち自身が認知症の人に関心を寄せることであり、私たちの知識と援助技術に、人間愛というエッセンスを加えることであるということに、あらためて気が付いたのではないだろうか。
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認知症予防薬開発に進展ありのニュースに触れて


昨年5月に「認知症治療薬開発の悲惨な現状から思うこと」という記事を書いて、認知症の予防薬の開発研究が進展していない現状を指摘したところだ。

その記事の中でリンクを貼っている、「永遠の10年」という記事の中で、アルツハイマー型認知症の原因として有力視されている「アミロイド仮説」について説明し、その仮説に基づく予防薬の開発ができていない現状を指摘しつつ、そもそもその仮説が正しいのかどうなのかという疑問も呈した。

アミロイド仮説」については下記の説明を読んでほしい。(※リンク記事と重複するが、改めてこの部分を記してみる。)

脳内にはアミロイドβの前駆体である、「アミロイド前駆体蛋白」というものがあるが、これがセレクターゼという酵素によってばらばらにされて、分解排出されていくという過程が繰り返されている訳である。ところがアルツハイマー型認知症になる人の脳内では、この分解排出がうまくなされず、無害であるはずの「アミロイド前駆体蛋白」が、「アミロイドβ蛋白質」に変化する。

この「アミロイドβ蛋白質」は非常に凝集(集合し沈殿することをいう)しやすい特徴を持つため、脳内でどんどん凝集し、沈着(たまって固着すること)してしまう。ここがアルツハイマー型認知症の始まりとなって、この状態は実際に症状が発生する10年以上前から起こっていると考えられている。そしてアミロイドβ蛋白質の沈着から、次に、「タウ蛋白」という物質が細胞質中で線維化(繊維化)し、沈着し、神経が変質して神経細胞死が起こり、認知症の症状が出はじめ、神経細胞の炎症が広がることで、症状が進行悪化すると考えられる。

つまりアルツハイマー型認知症の発生のメカニズムを4段階に分けて考えると下記の段階分けができる。
1.ベーター蛋白質が増える。
2. タウ蛋白が増える。
3.神経細胞死が起きる 。
4.アルツハイマー病が発症する 。


ところで、この予防薬に関して京都大ips細胞研究所の井上治久教授(神経科学)らの研究グループ(以下、井上研究グループと略)が25日国際学術誌電子版に、『アルツハイマー病などの認知症の原因とされる異常化したタンパク質「タウ」の蓄積を抑える点鼻ワクチンを開発した』と発表した。

つまり上記で示した4段階のうち2段階目の異常化したタウ蛋白を取り除く抗体を作るための点鼻ワクチンを、井上研究グループは開発したわけである。

これまでも異常化したタウ蛋白をターゲットにして、それを死滅させる研究は行われていたが、大きな効果が出ていなかった。しかし井上研究グループが開発したワクチンを認知症を発症するマウスに1週間おきに計3回投与して経過観察したところ、脳内でタウに対する抗体が増加したり、異常化したタウの蓄積が大幅に減ったりしたことが確認できたという。また、行動試験ではワクチンの投与により認知機能の改善がみられたともされている。

これが実用化できれば、人類はアルツハイマー型認知症の発症から逃れられるかもしれないわけである。大きな光明と言ってよいのだろうか。

だが過去のワクチン開発研究でも、マウスによる実験で効果がみられたという報告は何度か行われている。アミロイドβ蛋白を攻撃するワクチン研究でも、それが激減しマウスの認知機能が改善したという報告もあったが、すべて実用化される前に何らかの重大な支障が生じて研究も放棄された経緯がある。人に実用実験した段階で、副作用のため治験者の死亡が相次いで実用化できなかった予防薬もある。

つまり現段階で、このワクチンが人類に光明をもたらすものであるかどうかは不明だと言うしかない。少なくとも今すぐに人に実用化されるワクチンができることは考えにくい。

しかしこのワクチンが人に実用化できれば、それは人類にとって計り知れない利益と言えるのだから、井上研究チームの今後の研究の進展には大いに期待したいところである。

※右肩上がりの介護を目指して・・・介護のさくらびとmasaの動画もご覧ください。


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運転技能検査の導入だけでは高齢ドライバー対策は不十分


去年まで天皇誕生日の祝日であった今日(12/23)は、今年から今上天皇の誕生日ではなくなったために平日となっている。

令和天皇の誕生月は即位前の2月だったのだから、今年は天皇誕生日の祝日がない年ということになる。その代わり5/1が即位日の祝日だったためため年間祝日数は前年と変わっていない。

今後12/23が祝日化される可能性はあるものの、今日は平日で普通の月曜日である。そのため多くの人が平常業務に就いているはずだ。うっかり今日も祝日と勘違いして、遅刻した人はいないだろうか。それどころか、まだ夢の中で仕事に行くのを忘れてしまっているという悠長な人もいるのだろうか・・・。

さて今年も押し詰まり、令和元年も残すところ僅かになっているが、振り返ってみると今年は一段と高齢ドライバーによる悲惨な死亡事故が多かった一年ではなかったかと思う。

その中でも特に記憶に残っているのは、4月に東京・池袋で母親と3歳の娘が犠牲となった事故である。一人残された夫が、死亡した妻と子供への思いを記者会見を通じて語る姿に涙した人は多いだろう。しかし加害者にはその思いが全く届いていないことに憤りを感じざるを得ない。

この事故の加害者も当時87歳の高齢ドライバーであった。加害者は事故当時は無職であったが、元々は東大を卒業し、1953年に通産省(当時)に入省したエリート官僚でもあった元院長である。重大事故を起こしても逮捕されない加害者を巡って、「上級国民」という言葉が一時流行した。(※不逮捕の理由は、実際にはそうした理由ではないそうである。)

元院長は認知症ではなく日常的に運転もしていたが、自宅マンションの駐車場でもうまく車を止められず、妻が外に出て、「もっとハンドル切って!」などと声を掛けることが常態化していたとのことであり、明らかに運転能力には低下がみられていたのである。

事故の際に乗用車が暴走した時も、助手席には元院長の妻が同乗していたが、事故現場に至る左カーブの辺りで妻は、「危ないよ、どうしたの!?」と声を上げる様子がドライブレコーダーに記録されていた。

事故からしばらくたって、被害者の夫があの哀しい会見を開いたあとで、元院長はJNNの取材に答えている。しかしそこで発言した内容とは、『安全な車を開発するようメーカーに心がけて欲しい、高齢者が安心して運転できるような、外出できるような世の中になってほしい』という他人事のような発言に終始しており、自らの責任には全く触れていない。

それはまったくのKY発言で、そのコメントに憤りを感じた人は多いだろう。しかしこの発言が、元院長のパーソナリティから発せられたのだと考えるのも短絡的だと思う。むしろこうした発言しかできないほどに、認知機能が低下していたのではないかと考える方が、状況把握としては正しいのではないだろうか。

この発言に触れて思うに、この加害者は日常生活は普通に送っていたとはいっても、明らかに認知機能は低下していると言わざるを得ない。そうであっても運転という、「手続き記憶」だけで操作できる行為はできてしまうのだ。(参照:手続き記憶だけでは運転できない車を作ってください

しかしそうした人の運転する車は、すでに走る凶器であり、操作する人間も走る狂気である。

こうした問題をどう解決するのかが、来年以降ますます問われてくるだろう。何も対策しなければ、こうした事故は繰り返されるし、その数はもっと増えるだろう。そしてそこで尊い命が奪われる人とは、何の罪もない幼い子供であったり、将来ある若い人たちであるとしたら、それほどの社会損失はないとさえいえる。

しかもこうした認知機能低下のある人の運転行為を野放しにしておれば、自分がいつ加害者にも、被害者にもなりかねないとさえ言えるわけである。だからこそ一人一人の国民が、高齢者の運転からの勇退ということや、高齢になってさえも運転せざるを得ない地域社会というものをどう考えるのかということを、身近な問題として議論すべきではないかと考えるのだ。

自分自身だって、いつまでも元気で運転行為に支障なく暮らせるわけがないという観点から、対策を考えていかねばならない。

こうした死亡事故などを受けて、国は違反歴のある高齢ドライバーの免許更新時に、「運転技能検査の導入」を検討しているそうである。しかし免許更新時に事故歴のある人だけを検査しても事故を防ぐことはできない。現に池袋の元院長だって、それまで事故歴があるわけではなく、直前の免許更新時にその制度があったとしても、検査対象外とされたわけである。

そうであれば、こうした悲惨な死亡事故を本当に防ごうと対策するならば、一定年齢を超えた人はすべて、年単位の運転技能検査を受けるようにして、その検査に合格できない人は運転免許の取り消しという措置をとれるようにすべきではないだろうか。

同時に免許を取り消された人に制度の手を差しのべる仕組みが、地域包括ケアシステムとして求められる。例えば「介護予防・日常生活支援総合事業」には、「送迎サービス」があるが、このサービスは、買い物に困る高齢者や運転免許を返納した人を対象できるのだから、こうしたサービスを普及させる対策をとるべきだ。

すべての市町村が、市町村事業として、ガソリン実費相当分を負担するだけで利用できる、「送迎サービス」を実施することで、免許返納を促進できる可能性があるし、強制的に免許取り消しを受けた人が暮らしに困らなくできるわけである。

運転免許を取り上げられたことがきっかけで、認知機能が低下する人もいるが、それを防ぐ手立ては、運転以外のやりがいを持ってもらうことが一番である。そうであればこの、「送迎サービス」は、喫茶店や集会所も巡回するなど、自治体が趣味活動を含めたニーズに柔軟に対応できることになっているのだから、地域社会の中で、高齢者が参加して認知機能の低下を防ぐ趣味・やりがい活動を同時に造る工夫をすることで、事故なく安全な地域社会で、高齢者が生きがいを持って暮らすことにつながるのではないだろうか。

来年以降の地域課題には、そうした視点を入れてほしい。そんなふうに地域包括ケアシステムの課題として、高齢ドライバー問題に取り組む自治体が増えることを期待したい。

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認知症新薬に何を期待すればよいのだろうか


僕は今、大阪に滞在中だ。

昨日は大分県日田市から移動し、16:30〜18:30まで天王寺の海外産業人材育成協会で講演を行なった後、今日は午前と午後に2本の講演予定が入っている。

そんなわけで先ほど大阪グランフロントで行われていた、「内田洋行主催 IT-Fair2019 in osaka」で、「介護施設の人手不足に打ち勝つ! 〜定着率向上とより良い介護への挑戦!」というテーマで講演を終えたばかりである。

介護事業における最大の経営リスクは、人がいないということであることは間違いなく、それに対して僕なりの提言をしてきた。

職員の募集に応募がある具体策なども話させていただいたが、しかし募集に応募が増えても、退職者が増えれば人材確保にはならないわけである。むしろ長く働いてくれる人をできるだけ多くすることが大事だ。そのための職場環境やシステムというものも存在している。その点もできるだけ具体的にお話ししたつもりだが、その点の理解はしていただけただろうか。

今日話した内容とは、実際に人員が充足する状態になったという事実に基づいてお話ししているので、決して架空の方法論ではない。あとはその取り組みを真剣に行うかどうかという覚悟の問題になる。そい言う意味で、僕の今日に話が人材確保に悩む介護事業者の方々に少しでもヒントを与えるきっかけになってくれることを期待している。

その講演を終えた足で、これから大阪介護福祉事業者協同組合主催・管理者、中間管理職向け接遇セミナーの講演の会場である、「クレオ大阪中央」に向かおうと思っているところだ。地下鉄谷町線に乗っていけばよいのだろうと思うが、今はまだグランフロントの控室にいて、この記事を更新しているところだ。

ということで本題。

製薬会社エーザイの株価が、先週23日にストップ高まで高騰した。その理由は、同社が医薬品メーカーのバイオジェンと共同で開発しているアルツハイマー病の新薬、「アデュカヌマブ」について、2020年に米国で承認を申請すると22日に発表したためである。

実は同社の株価がストップ高となったのは、2018年7月以来のことである。その時は「アデュカヌマブ」を早期のアルツハイマー病患者856人を対象とする治験で、18カ月間投与を続けた段階で、アルツハイマー病発症の原因とされる物質「アミロイドベータ(以下、Aβと略す)」が患者の脳内から減少しているとの結果を得たとして、同社がアルツハイマー型認知症の症状の進行を抑える効果が確認できたと発表したことをことを受けた株価の上昇だった。

このようにアデュカヌマブは前述のAβで最も毒性が高いとされる脳内のプラークを標的にしている新薬で、アデュカヌマブを投与した患者の脳内ではAβ量が徐々に減少することが明らかになったのである。

しかしその後、同社は「アデュカヌマブ」の臨床試験の中止を発表していた。当然株価はそのあと下がることになったわけであり、そんな経緯の後で突然のように発表された今回の新薬承認申請方針は関係者に驚きを持って迎えられている。

認知症の新薬については、このブログ記事でも再三その話題を取り上げており、「認知症治療薬開発の悲惨な現状から思うこと」でも、なかなか有効な新薬ができないという問題を指摘していた。

今回の新薬申請が、「永遠の10年」打破するきっかっけになることを期待する人も多いと思う。

しかし治験の効果は、「わずか」でしかないという評価もある。一度臨床試験を中止した後に、突然の承認申請という経緯もあって、その効果を疑問視する向きもある。そもそも「アデュカヌマブ」の効果とは、認知症の予防や治療にはつながらず、症状の進行を抑える効果しかないという評価もある。

しかし新薬によって少しでも症状を抑えられたとしたら、その先には寿命まで症状が重篤化しないという可能性も生まれる。つまり新薬の効果によって、認知症の症状が現在見られている一般的な重篤症状になる前に生涯を終える人が出てくるかもしれないのだ。

それは認知症の人をケアする家族等にとっては、介護負担が重くならないという効果にもつながるかんぉう性があり、その効果に期待しないというのはおかしなことだ。

そういう意味でも、新薬が今後どのように臨床場面で活用されるのかを注目していきたいと思う。

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マンツーマン介護で可能となる業務省力化


介護業務の効率化を狙って、業務を分担することが必ずしも業務の省力化につながらずに、逆に業務ロスを増やして業務時間が長くなったり、分担するがゆえに人数がそろわないと分担業務が始まらないという弊害を、「介護の質を上げる工夫の具体例(入浴支援2)」という記事の中で指摘した。

逆にいえば業務を分担せず、一人の職員で一つの業務を完結することができれば、臨機応変にこなせる業務というものがあるわけである。もっともこのことがわかりやすい例として、認知症の人の介護拒否場面を考えてみよう。

認知症の人は様々な理由で、様々な状況において、必要な支援行為を拒否することがある。それは本人にとっては理由のある拒否なのであるが、必要な支援を行なえない介護支援者にとっては、非常に大きな介護負担であり、ストレスにもつながることが多い。

食事拒否、排泄介助拒否、誘導拒否、様々な拒否が考えられるが、拒否するからと言って無理に行為を行うことで、さらに認知症の人の心には壁ができて、介護をまったく受けようとしなくなるかもしれない。だから介護拒否への対応はデリケートである。無理やり力づくで、しなければならない行為を終わらせるわけにはいかないのである。

だからこそそうした介護拒否場面では、認知症の人の過去の生活習慣に思いを馳せ、日ごろの行動パターンを思い浮かべ、現在の感情のあり様を慎重に見極め、介護拒否する理由は何かといううことを探り、その理由にアプローチするという、根気のいる頭脳労働・知的対応が求められるわけである。

しかし根気よく理由を探る過程で、何となくその理由が見えてきたりする。例えば介護を拒否する理由が、認知症の人を子ども扱いするような不適切な支援者の言動であったり、ご飯の時間だから食堂に行きましょうと言われ連れていかれたのに、ご飯が食卓に出てくるまでに1時間以上もかかり、その間何の説明もなく放置された経験であったり、挨拶もなく部屋に入ってきた介護職員に対する怒りであったりすることもある。

そのような介護側の問題対応のほか、便秘でお腹が苦しいのに、その理由がわからない認知症の人が、そのことでイライラしていたり、個々がどこかわからない混乱の中にいる不安の中で、風呂に入りたいとも思わないし、ご飯を食べるどころではないという風に、その人自身の身体・精神状況が理由になっている場合もある。

そうした理由を想像して発見することが何よりも重要である。

そして発見できた様々な混乱と不安に、うまくアプローチできたときに、認知症の人の気分が突然変わり、「したら風呂入るべか」と言ってくれたりするときがある。その時に分業でしか対応できない場所では、その気分の変化に対応できずに、「少し待っててください」と言っていいるうちに、タイミングを逃してしまうことがある。

そうなると再度そうした気分に持っていくために、どれだけ時間がとられるかわからない。分業しなくても、マンツーマンでの対応ができる場所であるなら、こうした気分の変化に即応した対応が可能になり、そうした対応が日常的に可能な場所では、「日課」にとらわれないサービスの提供が可能になる。

日課にとらわれなければ、特定の時間帯に介護をしなければならないという強迫観念に縛られずに済むから、特定の時間帯に何かをしようと、認知症の人に、「説得」し続けるという無駄な時間が無くなる。それだけでも大きな業務の省力化と言える。

そもそもユニットケアとは日課のないケアのことであり、それは業務の都合に合わせてケアサービスを提供するのではなく、利用者のニーズや都合に合わせてケアが提供されることを意味する。

勿論、日課にとらわれないと言っても、生活リズムの乱れは無視してよいということではないが、(参照:小規模施設の経営者が陥りやすい落とし穴3〜日課のないケアサービスの意味)、気分を無視した日課へのとらわれを捨て去ることによって、業務はよりスムースに回ることも多いし、なにより日課をこなさねばならないという介護提供者のストレスが軽減され、それは介護職員の心身の疲弊を防ぐことにつながっていくという効果にもつながっていく。

このように分業絶対主義から抜け出して、マンツーマンで介護が可能となることによって、業務省力化がすすめられるという視点から、介護の在り方・やり方を見直しても良いのではないだろうか。

大手介護事業者のメッセージが、介護業界から撤退しなければならなかった最大の理由は、同社が開発したアクシストシステムという、15分刻みで日課をこなす介護方法により、職員の心身が疲弊していった結果であるとも言われている。

そうしたことも反面教師にしながら、もう一度便利だと言われる分業を見直しながら、原点回帰の介護の方法論を考えていく必要があるのではないだろうか。

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スピーチロックを失くするために求められるもの


自分が良かれと思って行動しているのに、それを全否定されるかのように非難されたらどう思うだろう。

自分が何かをするたびに、「危ない」・「ダメ」・「何してるの!!」と叱られるとしたら、どんなことを考えるだろうか。

自分が何かしようとするたびに、誰かが自分の行動を見張るようについてくるとしたら、どう感じるだろう。

そのような状態に置かれた人は、周りの人は悪意を持った人ばかりだと思うだろう。そんな場所には居たくないと思って、どこか別の場所に行こうとするだろう。自分が何も悪いことをしていないにもかかわらず非難し、罵声を浴びせる人は、自分を攻撃する悪者にしか思えないだろう。その罵声に耐え切れず、思わず声を荒げ、場合によっては衝動的に殴り掛かるかもしれない。

そのような状態に常に置かれているのが、「認知症の人」の現実ではないだろうか。

動かないで、しちゃだめ、立たないで、ちょっと待って、という言葉の拘束をスピーチロックという。このスピーチロックは、認知症の人にとってストレスそのものである。

認知症の人は、自分の視線の範囲にコンピューターがあったとしても、それが何かわからない。コンピューターから伸びている各種コードは、誰かがひっかけて転んでしまう危ない障害物に見えているかもしれない。だから、「善意」でそれを片付けようとして、コードを引っ張ってしまう。

そうした善意の行為であるにもかかわらず、いきなり大声で、「ダメ〜!!」、「何してるの、やめて!!」と怒られるのである。その言葉は、自分の行動を監視する悪意ある誰かが罵声を浴びせている言葉としか思えない。だからこんな場所には居られないと、どこかへ行こうとするのだ。そうするとその人は、徘徊行動があって離設の恐れがあるというレッテルを貼られてしまう。

しかしそれはスピーチロックという、不適切な対応によって引き起こされた問題であり、行動・心理症状(BPSD)は、認知症の人の問題というより、不適切ケアの結果であり、不適切な関わり方をどうにかしなければならないという問題なのである。こうしたスピーチロックを失くすことで、行動・心理症状は軽減するのである。

「ちょっと待って」という言葉は、「〜しているので、ちょっと待ってもらえますか?」と言い換える必要がある。

「座っていて」という言葉は、「〜すると危ないので、座っていていただけますか?」と丁寧に説明を加えて、お願いする言葉に換える必要がある。

このように言い切りではなく、相手に尋ねるような形をとると「相手に選択権がある」話し方になる。それは介護サービス利用者に対するマナーを意識した言い換えと言えるだろう。

認知症の人の記憶は毎日失われる・・・というより、アルツハイマー型認知症の人は、脳の器官の中で、情報処理をつかさどる海馬の機能が失われてしまっているので、新しい情報を記憶できない。

認知症の人であっても感情の記憶は残るが(感情の記憶は小脳がつかさどっているためである)、人の顔や名前の記憶(意味記憶)と近直の出来事の記憶(エピソード記憶)は残らないから、昨日対応したあなたが、昨日の時点で認知症の人に受け入れられたとしても、今日は認知症の人の記憶の中に、あなたという人物は存在しない。

だから昨日通じ合った認知症の人にであっても、朝最初に出会った瞬間のあなたは、「知らない誰か」でしかない。

知らない人に突然ため口で、馴れ馴れしく話しかけられたら、あなたはうれしいだろうか?見知らぬ誰かが、朝元気に大きな声で挨拶したら、この人だれ?という警戒心が先に来るのではないだろうか。

だから職員が朝最初に出会ったときに元気に笑顔で「おはよう〜!」というのではなく、人生の先輩である利用者に対して挨拶するのだという気持ちを忘れずに、認知症の人にはゆっくり近づいて、丁寧に「おはようございます。」と挨拶すべきである。それもできるだけ驚かせないように、静かにゆっくりと云う方が良い。

それはとりもなおさず、認知症の人に対しても、サービスマナー精神を持って接する必要があることを表していると言ってよいだろう。

認知症の人は記憶や見当識の障害があると言っても、何もわからなくなているわけではない。説明すればわかることもあるし、納得できることもあるのだ。理解して納得した状態が長い時間続かなくとも、すぐ忘れて同じ行動を繰り返したり、同じことを尋ねたりしたとしても、その都度説明することで安心したりできるわけである。

それは決して無駄ではない。なぜなら尋ねて答えてくれた内容は記憶できなくとも、答えてくれる安心できる人がそこに居ることは、感情の記憶だから、小脳にその記憶は残されるわけである。

あの人はいつも優しく答えてくれる人という感情の記憶は残るから、その人の顔と名前を忘れて、朝の挨拶の時に怪訝な顔をしていたとしても、会話を交わすうちに感情の記憶がよみがえってくるから、この人は安心と思ってくれるわけである。安心する状態に、昨日より今日の方が短い時間で達することができるのである。

介護サービスの場で認知症の人が感じていることがある。

「ここはどこなのだろう、自分は何故ここにいるのだろう、どうやってここに来たのだろう。」
「ここは何で年寄りばかりなのだろう。」
「ここは病院なのか。どして自分がこのような場所にいなければならないのか。」
「あの若い人は何故自分の名前を知っているのだろう。」
「何か薄気味悪い。どうして自分の後を、知らない人がつけてくるのだろう。」
「知らない人が、なぜ自分に馴れ馴れしく話しかけてくるのだろう。」
「年下の人間がなぜ自分に横柄な言葉や態度で接してくるのだろう。」

認知症の人の行動が理解できなくなった時、認知症の人は今、こんな風に感じているのではないかと思い起こすことで、我々が今しなければならないことが見えてくるかもしれない。

認知症の人の行動受容とは、こんなふうに認知症の人の立場に立って、考えてみることから始まるのではないだろうか。

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認知症治療薬開発の悲惨な現状から思うこと


認知症の予防薬・治療薬の開発は、認知症の中で一番患者数が多いアルツハイマー型認知症をターゲットにして、その研究が進められている。

アルツハイマー型認知症は、脳内活動で生成されたアミロイドベータたんぱく質が、本来は正常に排出されるはずなのに、何らかのエラーによってその排出が妨げられ、脳内に異常貯留してしまうことが発症原因であるとする、「アミロイドベータ仮設」に基づいて、アミロイドベータが溜まらないように、それを分解するなど、脳内を正常に保つためのワクチンなどが研究されているわけだが、その研究成果はさっぱり挙がっていない。

そのため、「認知症の予防薬・治療薬が10年以内にできる」と言われてから10年経過したにも関わらず、その研究開発が進んでいないことを嘆いた、「永遠の10年」という記事を書いたのは、2012年8月のことである。
アルツハイマー型認知症が発症するメカニズムについては、この記事に詳しく書いているので参照願いたい。

その記事を書いてさらに6年9カ月が経過しようとしているにもかかわらず、認知症の予防薬も治療薬も実現の目途さえ立っていない。永遠の10年がずっと続いているわけである。

むしろこの間に認知症の予防と治療につながる新薬開発は、停滞というよりも絶望に近い状態に陥っている。

ネット配信記事『焦点:アルツハイマー病、新薬開発足踏み エーザイの「雪辱戦」』でもその悲惨な現状が伝えられているが、この記事を読んでもわかるように、いくらエーザイの社長が後期臨床試験に入る薬剤について、「成功確度は高いと考えている」と述べても、その言葉に現実感が伴わず、新薬開発の期待感は漂ってこない。むしろそのような新薬は実現不能な、『夢の薬』としか思えなくなりつつある。

本当に将来、認知症の予防・治療薬ができるかどうかはわからないが、少なくとも僕が生きている間に、その恩恵を受けることは難しいのではないかと思っている。だから僕は自分が将来認知症になることに備えて、今からできるいろいろなことをしようと思う。

まず家族に伝えておかねばならないことがある。自分が認知症になったら、家族だけでケアをしなければならないと思い込まずに、認知症のケアの専門家に任せなさいと言っておかねばならない。GHや特養に入所させたって全然かまわないと言っておかねばならない。

だからこそ認知症になった自分の面倒を見てくれる認知症介護の専門家を養成しておかねばならない。僕が育てている「あかい花たち」がそのころ何本になっているかはわからないが、その花たちにはしっかりと認知症の理解を促し、ケアの方法論を伝えていかねばならない。

認知症になったとしても、人としての尊厳が変わるわけではないという理解を促して、認知症になった人の尊厳や権利が守られるケアの方法論を伝えておかねばならない。

認知症は誰もがなり得るもので、それは老化に伴う自然現象なんだから、自分や家族がそうなったとしても、決して恥じることなく隠すことなく、共に生きる社会を創っていくように啓蒙していくことも必要だ。

最近の僕の講演テーマとしては、「看取り介護」とか、「サービスマナー」とか、「介護保険制度論」が多くなっているが、そもそも僕が北海道以外で最初に講演したテーマは、「認知症の人に対するケア」であり、僕が介護福祉士養成校で最初に受け持った授業も、「認知症の理解」である。認知症サポーターキャラバンでは、サポーター講座を開催できる「キャラバンメイト」を養成する講座の講師も務めていた。

つまり僕は「介護の視点から考える認知症の理解とケア」の専門家なのである。勿論、その理解の中には脳科学的な認知症発症のメカニズムの理解も含んでいる。

だから今後は認知症に関する講演も今までより増やしていこうとも思っている。手始めに地元で市民に向けた「認知症を理解し、認知症の人とともに生きるための講座」を開催しようと企画中である。

その講演では、認知症の人でも運転行為ができてしまう理由も説明しながら、運転行為ができても、正常な運転ができるわけではないことや、判断力が低下した状態での運転がいかに危険であるかということも伝えなければならない。自分自身で運転からの勇退年齢を決めておくことの重要性や、それができない人に対して家族が運転行為をやめさせないことには、幼い子供や若者が、判断力の低下した高齢者の運転によって、尊い命を奪われるという悲劇がなくならないことを伝えたい。

僕自身も今のうちから自動車の運転は70歳で勇退することを決めて、そのことも家族に向けて宣言し、それ以前に認知機能の低下に家族が気が付いたら、すぐに運転させないように強引な措置でも何でも取るように言っておかねばならないことは言うまでもない。

どちらにしても、医学的アプローチはその道の専門家に方策を委ねなければならないが、僕たちは対人援助の専門家として、認知症という症状を理解・啓蒙し、認知症という症状を持つ人の尊厳と暮らしを護るための様々な活動を続けていく必要がある。

認知症の人の暮らしを護るために、ケアの手が届くところはまだたくさんあることを信じる必要がある。

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能力の衰えを自覚してからでは遅い運転からの勇退


4月19日に東京・池袋で87歳の男性が運転する乗用車が赤信号を無視して走行、歩行者をはねるなどして10人が死傷する事故が発生して以来、高齢ドライバーの運転という問題がマスメディアで様々に取り上げられている。

この事故に巻き込まれて死亡したのは31歳と3歳の母娘だった。ただ道を歩いているだけで、突然命を奪われるという悲劇が、高齢ドライバーの運転能力の衰えによって引き起こされたとしたら、こんな不運なことはない。一人残された夫の記者会見に涙した人も多いだろう。

このように高齢ドライバーの運転ミスによって、幼い命が奪われる悲劇が後を絶たない。

そうした事故の一番の原因は、ドライバーの認知機能の衰えである。免許更新時の認知機能検査で正常だからと言って、運転に問題がないと考えるのは早計である。認知機能の衰えは緩慢に進行することが多いが、判断できる事柄が、判断できなくなるという状態は、ある日急に引き起こされるのである。その状態が軽度であったとしても、その時に運転行為を行った場合、車はそのまま凶器になるのである。

よって検査で正常・異常を決めるのであれば、運転を行うたびにその直前に検査をし続ける必要がある。そんなことできないのだから、認知機能低下リスクの高い年齢になった場合には、一定年齢で線引きして運転からの勇退ということを考えねばならない。

しかしなかなかその判断ができない人が多いのが現状だ。池袋の事故の加害者も、運転をやめようと考えていた半面、自分の運転技術には自信があったことで、その決断ができなかったことが今回の悲劇につながっている。

本人が運転をやめようとしないときに、家族がいかに運転をやめさせるかも問題となるが、「運転する権利」を主張された途端に家族の介入の力は弱体化する。介入根拠となる社会的制限規範が必要なのである。

損保ジャパン日本興亜によると、年齢が上がるにつれて、運転への自信が高まるという調査結果もあるという。そのために自分の衰えを自覚するには、自分の運転を客観視することが必要だと論評する報道記事がある。しかしどのように客観視するかという具体策は示されていない。

そもそも認知機能が衰えてきている人が、そのような客観的判断が可能だというのだろうか。それは不可能である。だからこそ運転免許を与える年齢上限設定という方策も議論される必要がある。

判断力には個別の違いが大きいという反論があるだろうが、日本全国でこれだけ多くの高齢ドライバーの事故が引き起こされ、それによって前途ある幼子や若者の命が奪われている状況を考えると、個別性云々はこの際おいておいて、一律の制限ルールを設けて社会を安全にするという考え方も必要だ。

悲劇を防ぐために、高齢者は一定年齢になれば運転から勇退するという社会の方が平和で健全ある。

同時にそれは、高齢者が自ら車を運転しなくても良いような社会を創らねばならないということと一体的に考えていかねばならない。

このブログでは、高齢ドライバーが引き起こす悲劇等の状況について、様々な形で問題提起をしている。(参照:「認知症高齢者の運転に関する問題」)

僕が総合施設長を務めていた社会福祉法人の母体は、精神科が中心の医療法人であった。そこには認知症の高齢者がたくさん入院していたが、その中には一日中孫の名前を呼びながら、孫を探すように病棟を徘徊し続けている男性高齢者がいた。

しかしその人が探し続けている孫とは、その人が10年以上前に車でひき殺してしまった被害者である。自分の事故で孫をひき殺したという記憶を失って、その孫を探して10年以上も徘徊している人がいるのだ。しかしその事故が認知症によって引き起こされたからと言って、家族がこの男性を許してくれるということにはならない。

殺された孫の父親は、この男性の長男である。その長男も妻も病院に面会に来ることはない。妻もなくなっている男性は、すべての家族との関係性まで失ってしまっている。

認知症という状態になって、それでも車の運転をやめることができなかったことで、こういう悲劇が繰り返されるのである。それは月単位どころか、週単位で発生しかねない状態になりつつある。

実際に運転能力が衰えてから運転から勇退すればよいと考えている人も多いようだが、運転能力の衰えを自覚できるのは、実際に事故を引き起こしたときである場合が多い。それでは遅いことは池袋の事故が証明しているのである。

だからこそ例えば70歳の運転年齢制限などが、真剣に議論される必要があるのではないかと考えるのである。

この問題はもう待ったなしの時期に来ている。

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認知症の症状緩和に利用されている馬油の使い方について


馬油と書いて、「ばあゆ」と読む。その馬油は古来から皮膚治療等の民間薬として使われてきたほか、育毛剤としても使われてきたようだ。

馬油の不飽和脂肪酸の保温・保湿効果、セラミドの血行促進効果により肌を活性化するが、この肌を守る効果は頭皮にとっても同じである。薄毛の原因は様々だが、頭皮環境を整えるということでは馬油はすばらしい効果を発揮するらしい。神奈川の岡さんに勧めたいものだものだ・・・。

そのほか馬油には不飽和脂肪酸の美肌効果や血行促進効果があることが広く知られている。 

ところでプロ野球やJリーグ、プロテニス界、ゴルフプレーヤーなどでマッサージの際に馬油が使われていることを皆さんはご存じだろうか。

馬油には筋肉の疲労回復効果があり、疲れた筋肉に馬油を塗ることで肌の表面の血のめぐりが良くなる。血流がよくなり代謝もよくなるのである。このように馬油は「血行」と「代謝」という疲労回復に欠かせない2つの要素を促進する力をもち、マッサージオイルとして採用されているのである。特にプロのアスリートには、運動する前後の両方のマッサージに馬油が使うことが効果的であるとされているほか、プレー後の疲れをとるのに、お風呂上りに馬油で全身マッサージも推奨されているところだ。

そのような馬油が、介護の場面でも使われるようになった。札幌市で行われている認知症サポーター養成講座では、馬油アロマオイルを用いて家庭で実践できるハンドケアを体験する時間が設けられたりしている。

認知症にはアロマテラピーが効果的であると言われる所以は、嗅覚の刺激に関係深いととされている。嗅覚という神経は、他の脳神経よりも再生する能力が高いことから、適切な香りによる効果的な刺激は機能を回復させやすいといわれている。嗅覚の神経が活性化されれば、海馬も活性化し、認知症の予防や行動・心理症状の緩和が期待できると言われているのである。

認知症の人に対しては、馬油を使ってハンドケアを行うことで、血流改善による新陳代謝改善等の体質改善、精神の安定や介護者との信頼関係の構築につながる可能性が指摘されているのである。

札幌で活動しているある介護支援専門員の方は、『新介護の時代は介護する側も癒される必要がある。認知症は20年前から発症するといわれておりその予防として世代を超えた相手と自分でハンドケアで介護の一歩をはじめてはいかがでしょう。』と馬油によるハンドケアを推奨している。

アロマオイルが馬油である利点性としては、馬油は人間の皮脂に一番近いものとされており、浸透率が高い点が挙げられる。また人の体温でとろけるように融解しニオイがなくベタつかない点も利点だ。特に添加物なしの100%馬油の場合、アロマテラピー(ハンドケア)に適しているだけでなく、乾燥肌の改善という効果も期待できる。また高齢者はオイルを塗るという経験に対しなじみが薄いかもしれないが、昔から民間治療として使われていた馬油にはなじみがあって受け入れやすいという傾向にも注目できる。

そういう意味で、馬油というキーワードは、コミュニケーションの潤滑油にもなると言えるかもしれない。

北国馬油
画像は100%純粋馬油【北海道クリスタルBAYU】という製品だが、その特長は次のように紹介されている。

・人間の皮脂に最も近い成分の為、強力な浸透力で皮膚の隙間に皮脂が満たされ潤います。
・不飽和脂肪酸(オレイン酸、パルミトレイン酸、リノール酸、リノレン酸)が多く含まれ皮膚に潤いと張りをもたらします。
・炎症を沈め、熱を取り去るので軽度のやけど、日焼けにも良い。
・抗酸化作用や殺菌作用がありニキビ、水虫にも良い
・馬肉は食用として用いられています。当然、馬油も食べることが出来ますので誤って口に入れても安全です。

僕は来週、5月24日(木)の午後に、神楽坂で行われる東京都社会福祉協議会主催・機能訓練指導員研修で講師を務めるが、たまたまこの試供品が手に入ったので、特養や通所介護等で機能訓練指導員として活躍されている皆さんに、それをお土産として持参したいと思っている。

それぞれの皆さんが機能訓練指導員として活動する場で、是非一度、この馬油をお試しいただければと思う。それだけ優れた効果が期待できるという意味である。

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認知症診断で運転免許を取り消す法律について


改正道路交通法では、75歳以上の高齢者が運転免許の更新時か違反時に「認知症のおそれあり」と判定されたら、例外なく医師の診断が必要になり、認知症であると診断された場合、運転免許は失効・取り消しとなる。

このことについて診断を求められる医師の側から、様々な反対の意見が挙がっている。

「運転免許の取り消し」とは、高齢者の移動手段を奪いかねないことであり、そうした重大な問題につながる診断を、短期間で行うことは不可能だという意見。認知症だからと言って、正常な運転ができないわけではないので、認知症=免許取り消し、はあまりに短絡的で乱暴な考え方だとする意見・・・etc.

認知症の人の権利を護るという言う意味で、それらの意見も正論であるかのように聞こえる・・・。しかし認知症の人が運転ができるという意味は、認知症になってエピソード記憶や意味記憶が衰えても、それらとは回路が異なる手続き記憶が比較的最期まで残るために、運転動作は可能だという意味だ。この場合、運転ができても様々な判断能力が衰えている場合が多い。

勿論、そうでない人もいるのだろうが、運転に支障をきたす認知症か、そうでない認知症かという診断は不可能だ。そのことは実際に、日常的に運転していないと判断できない。

しかしその結果、正常な運転操作ができないことが分かった時点で、すでに事故を起こしているとしたらどうなるのだろう。その事故の結果が、尊い人命を奪ってしまっていたとしたらどうなるのだろう。

現に、毎年のように認知症のドライバーが運転する車により、引き起こされた事故で亡くなっている方がいる。

2013年6月4日、東京都狛江市の市道で、35歳の主婦が乗る自転車に軽乗用車が追突、自転車を引きずったまま100メートル先の民家の塀に衝突した事故では、自転車の後部座席に乗っていた2歳の女の子が頭を強く打って死亡している。現行犯逮捕された72歳の自営業の男性は、自転車にぶつかる200メートル前にも塀などに2回衝突していた。容疑者の親族は「認知症を患っている」と話しているというが、本人にはその自覚がなく、逮捕後も事故の記憶を失っているという。

2014年11月えびの市の県道で、76歳の男性が運転する軽トラックが路側帯に突っ込み、下校中の児童3人を次々にはねた。認知症の症状があり、医師や家族から運転をやめるよう注意されていたが、聞き入れず運転を続けていた。

2015年10月28日、73歳の男性が運転する軽乗用車が、宮崎市の歩道を約700メートルにわたって暴走。歩行中の女性2人が死亡、男女4人が重軽傷を負うという悲惨な事故が起きた。男性は数年前から認知症の症状があり、症状が出た後、複数回交通事故を起こしていた。

このような事故は、挙げればきりがない。中には自分の孫をひき殺し、その記憶がなく、入院先の精神科病棟でかわいい孫を探して徘徊を続ける認知症の人もいる。

それらのことを考え合わせると、一定年齢を超えた場合、認知症であるかないかという診断を線引きとして、運転免許を取り消すというルールは必要ではないのか。

認知症診断で免許取り消しに反対する医師の方々は、それなりの見識をお持ちの、まじめな方々だと思うが、あまりに悠長だ。認知症ドライバーにより引き起こされた事故によって、幼い子供などの肉親を失った方などからいえば、認知症とわかっている人に対し、事故リスクのある運転行為をやめさせないこと自体が罪深いということではないか・・・。

認知症の診断が、高齢者の「生活の足」を奪うことを問題視する人がいるが、そうであれば認知症診断により、運転免許が取り消された高齢者に対し、その情報を地域包括支援センターに送り、関係者が自家用車を運転士しなくなった後の、「生活課題」を話し合って対策するシステムを作ればよいではないか。それが本来の「地域包括ケアシステム」ではないだろうか。

一見、認知症の人の権利を護ろうというかのような、「認知症=正常な運転ができないわけではない」という意見は、その周囲に果てしなく危険なものを残存させ、尊い命の危険をばらまくものでしかない。

認知症だからと言って正常な運転ができないわけではないが、その状態ではいつ、判断の衰えで悲惨な事故を起こしかねないのだから、もう運転からは引退して、地域サービスによって生活に必要な移動手段を確保しましょう、ということでよいのではないだろうか。

そうすることが、超高齢社会の知恵ではないのだろうか。

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カンフォータブル・ケアとは何か。


医療機関の職員の言葉に違和感を覚えた人からのメール、から続く)
カンフォータブル・ケアとは、北海道札幌市の北仁会・旭山病院の看護師長である南敦司氏が命名し、同病院で実践されているケアだそうである。

それは認知症の人に、心地良い快刺激を与えるケアとされており、認知症の人の行動・心理症状(BPSD)を鎮静化するとともに、看護者・介護者にとっても、ストレスフルな感情の払拭や、患者への陽性感情をもたらし、技術を高めるプロ意識の発生とモチベーション向上により、燃え尽き防止にもつながっていくとされている実践法である。

僕はその方法論を専門的に学んだことはないので、正確にその方法論をここで示すことはできないが、カンフォータブル・ケアを実践している看護師さんなどを見ると、認知症の人に対して、笑顔で視線を合わせて接していることが分かる。笑顔は人に伝染するということの実践ではないだろうか。そのことは日ごろ僕が示している考え方とも共通する。(参照:笑顔はプロの心得なり

そして認知症の人に話しかける言葉も、敬語であることが分かる。

認知症の人は、毎日親しく接する看護職員・介護職員であっても、毎日その人の顔を忘れてしまう。そのためいきなりタメ口で話しかけられたら、恐怖か不快しか感じないのである。カンフォータブル・ケアの基本は、快刺激を与えることなのだから、言葉がそのことに重要な役割を果たしているという意味は、いかに敬語・丁寧語以外が認知症の人にとっての不快要因であるかの証明であり、そのことは僕の提唱する、「介護サービスの割れ窓理論」とまったく同じ考え方であるといってよいものだと思う。

さらにカンフォータブル・ケアの実践者を見ていると、適切なスキンシップを大事にしていることも分かる。そして快刺激を与える=その人にとって不快な話題はできるだけ避ける、ということにも注意が向けられている。

認知症のケアの方法論として、バリデーションとか、パーソンセンタードケアという考え方があって、利用者を中心に、利用者本位で考えることが、認知症の人の気持ちを理解するために求められることであることは広く知られているが、同時に関わる看護・介護職員等の表情を含めた接した方を、快刺激・不快要因として重視する方法は、対人援助のプロの自覚を促すという意味でも、とても優れた方法に思える。

このように医療と看護の現場が、薬剤に頼る治療ではなく、看護者としての自分たちの対応の仕方により、認知症の症状を改善する取り組みがされ、その中で看護のプロとしての対応方法として、正しい言葉遣いがされるようになってきているわけである。

本来この方法論は、介護の現場でこそ先進的に行われるべきではないのだろうか。いや、それはどっちだって良いが、すべての看護者・介護者が、親しみやすさと勘違いして使う、馴れ馴れしい無礼な言葉が、言葉をかけられる人にとっては不快要因であることを自覚して、新しい言葉のスタンダードを作っていくという意識に目覚めてほしい。

そしてせっかく看護の専門家が、そのようなケアを実践している場においても、それを見習って同じ言葉遣いをしようとしない介護職員が居ることを恥じてほしい。

今現在、教育課程でも、資格取得過程でも、看護のそれは介護より高いレベルにあるというのが常識だ。そのような中で、誰でも実践可能な言葉の改革さえも遅れをとるようなら、介護職員の大幅な待遇改善など期待できない。介護を悔悟にしないためにも、看護の場に負けない適切な言葉遣いを7、介護サービスの場からの発信としていく必要があるのではないだろうか。

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認知症スケールでは、被検者をごまかす対応が求められるのか?


認知症の診断に利用される、長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)やミニメンタルステート検査(MMSE)では、検査当日の年月日と曜日を問う項目がある。

具体的には、「今年は何年ですか」と問いかけ、元号も含めて何年か正しく答えられる場合に1点、そうでない場合に0点となる。「今日は何月何日ですか」という質問と、「今日は何曜日ですか」という質問も同じように判定される。

ところでこの項目について、或るサイトでは次のような批判をしている。

この質問に正しく回答することができた高齢者は、自分の認知能力が疑われていることがわかるので、不快な思いをします。逆に、この質問に正しく答えられなかった場合、高齢者は、自信を失ってしまうのです。これは、介護本来の目的とは真逆の結果です。

その上で対策として次のようなことが書かれている

べテランがこの質問をするときは(なるべく)相手に直接的には質問しないそうです。たとえば、自分のほうが今日について忘れてしまったふりをします。「あれ?今日って、何月だったっけ?あれ?あれ?」といった状態を高齢者に見せます。その上で「何月でしたっけ?私、すっかり忘れちゃって・・・」といった質問のしかたをします。

はあっ・・・。この内容を読んでなるほどと思う人がいるのだろうか。この検査を行う立場の人は、ここで書かれているベテランの対応が優れていると思うのだろうか。

僕は全くそう思わないし、被検者をずいぶん馬鹿にした対応にしか感じられない。

検査に携わる者は被検者に対して、常に真摯に接する必要があると思っている。そうであれば検査の意味やその内容をきちんと説明する責任があり、認知症スケールであってもそれは同様で、質問内容の中に認知症かどうかを判断するために、人によっては失礼と感じる設問・問いかけがあるかもしれない場合は、そうした質問が含まれていると断った上で、その意味や必要性を十分説明し検査に当たれば、認知症ではない人が、その質問によって不快になることはない。

認知症が疑われる人がその質問に答えられなかった場合にも備えて、今できることとできないことを明らかにすることで、治療効果が挙がることを伝えれば、自信喪失でデメリットのほうが大きくなるということにもならない。そもそも後者の自信喪失に関して言えば、どのような質問の仕方をしたとしても、答えられないという結果が同じなら、質問の仕方でその結果に対する被検者の気持ちが大きく替わることはないだろう。気持ちに変化が出るのは、質問の仕方より、説明のしかたによるのだということがなぜ理解できないのだろう。

直接的には質問しないことによって、検査で問いたい意味が十分に伝わらない恐れがあることも問題だが、それより質問内容を直接的に伝えないということは、その意味するところも直接的に伝えていないということである。

この考え方はずいぶん上から目線である。被検者が検査の正しい意味や内容を理解できず、誤解するという思い込みにしか過ぎない。そうしないようにする為に行うべきことは、質問内容を間接的表現に変えて、検査質問と分からないようにすることではなく、きちんとした説明責任を果たし、検査担当者と被検者の間に信頼関係を構築することである。

検査するものが直接的な質問をしないように、日常会話と変わりない会話の中で答えを引き出そうとする場面に遭遇したとしたら、僕であれば、「検査なんだから雑談なんかしてないで、まじめに速やかに検査が終わるようにしろよ」と怒るだろう。検査の目的からしても、それは適切な方法とはいえないだろう。

そもそも検査担当者に、高度なテクニックが求められる検査法ほど、結果に信用が置けないという理屈が理解できないのはなぜなんだろうか。

そうであるがゆえに、HDS-Rにしても、MMSEにしても、あの質問項目は、検査する人によって結果に相違が出ないように、最低限の簡略な表現で回答を求めているものだ。質問者のテクニックによって答えが左右されかねない表現の間接化は、百害あって一利なしである。

質問をぼかして、ごまかしの誘導で被検者の回答を引き出すことが、いかに被検者に対して失礼であり、それは検査する者の傲慢さを現わすものでしかないことを思い知るべきである。
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高齢者が運転しなくて良い地域社会を創るために


認知症ドライバーによる交通事故は、被害者・加害者双方にとってこの上ない悲劇を生む。

このことを先々週の金曜日先週月曜日のブログに続けて書いてきたし、過去にも繰り返し書いて来たところである。

しかしながら認知症の疑いがあっても、なかなか運転を止めさせられない理由のひとつに、自家用車による移動が、暮らしを成立させる重要な要素であって、運転をしなければその瞬間から暮らしに支障が生ずるという問題がある。

都市部であれば、運転をしなくとも公共の交通機関だけでどこに行くにしても不便はないし、自家用車がないことで日常の必需品を手に入れることができなくなるということはない。

しかしながら、さほど小さくない街でも、公共の交通機関だけでは日常の移動に不便が生ずる地域はあるし、ましてや北海道の郡部の町村であれば、自分の生活範囲に公共の交通機関もなく、徒歩で移動できる範囲に日用品を購入する商店もなく、自家用車を使うことは、日常生活を送る上で必要不可欠であるという場合も少なくない。

そのような地域においては、高齢になったという理由だけで、運転を控えるという考え方にはなりにくい。そのような背景があるなかで、記憶力や判断力の衰えの自覚がない認知症の人に対して、周囲の人が運転を止めさせようとしても、認知症の人自身は、なぜ自分が運転してはならないのか理解ができず、運転をしないでは暮らしが成り立たないとして、運転を止めようとする人に対して憤りを抱くのは、ある意味当然のことである。

そういう意味では、認知症の人が運転しなくても済む社会とは、地域住民が自家用車で移動せずとも、暮らしに支障がない地域社会であるともいえる。

自家用車を使った移動をせずとも、暮らしが成り立つからこそ、高齢ドライバーが、運転することを続けるべきであるかどうかを、考える機会を持つことができるのである。

地域包括ケアシステムとは、こうした一面への手当ても考えていくシステムであり、そのためには地域ケア会議を形骸化させず、日常の移動手段のない人が、その地域で何に困っていて、どのような具体的支援が求められているかという、「地域課題」を抽出して、その部分に手当てできるソーシャルアクションにつなげていくことが重要である。

限界集落という言葉が、日常的に使われる今日において、地域ケア介護において、地域課題として、「高齢者の移動手段」が挙がってこない方がどうかしているのである。そこでは、社会資源として、公共の移動手段を確保するための議論にとどまらず、高齢者自身の住み替えの必要性が議論の遡上に上ってくるのが自然である。

場合によって、このときに高齢者の住み替えを進めるだけではなく、地域の再編という形の大きな政治課題に繋がっていくかもしれない。

先祖代々のお墓がある故郷から離れがたい気持ちは理解できるし、住み慣れた地域から離れたくない気持ちも良く分かる。しかし少子高齢社会で、人口減少社会であることを考えると、コンパクトシティーをスローガンとした、地域社会の再編は避けて通れない重大な課題ではないのだろうか。

日本全体で、地域再編という大きな課題に取り組まなければならない時期に来ているように思える。

政治家は、天下国家の立場から、その必要性を国民に広く訴えて、地域再編を政治課題としてほしい。
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認知症が疑われる人の運転事故で命を失った小学1年生の悲劇


先週の金曜日に、「認知症ドライバーの悲劇」という記事を書いたが、その同じ日に、横浜市で軽トラックが集団登校していた児童の列に突っ込み、小学1年生の児童一人が死亡し、そのほか児童8人を含む11人が重軽傷を負うという事故があった。

この事故の加害者は87歳の男性で、2013年11月に認知症の検査を受けて異常がなかったとされ、同12月に免許を更新している。この事実だけからいえば、この事故は認知症とは別の問題とされ、認知症が原因と考えられる死亡事故のデータには組み入れられないということになる。

しかし加害男性は、27日朝に横浜市磯子区の自宅を1人で出て、軽トラックで県内外を走行。事故を起こすまでの間、自宅には戻っておらず、夜間も軽トラックで移動していたという。逮捕前の聴取では「どうやって事故現場まで行ったのか、よく覚えていない」などと話していたという報道がされている。

このことを考えると、この男性も認知症の症状が出現していた可能性が高い。記憶力の低下は明らかである。つまり近直の免許更新の際の認知症検査の結果など、何も意味をなさないということだ。運転していた当日が、どのような状態であったのかということで、事故原因を検証せねば、本当に必要な対策には結びつかないのである。

アルツハイマー型認知症の場合、その原因となるアミロイドベータの脳内蓄積は、認知症の症状が出現する10年以上前から始まっていると考えられている。それがやがて脳内でタウタンパクに変質し、脳血管を圧迫し血流を止め、脳細胞を壊死させ症状が徐々に進行していく過程で、「運転動作はできるが、記憶力や判断能力が著しく衰えている人」を生んでいくのだ。

その理由は、運転という行為が、「手続き記憶」であり、海馬が大きく影響しているエピソード記憶と意味記憶とは異なり、小脳にその記憶がたまるという記憶の回路の違いによるものであることも明らかになっている。そして認知症の特徴は、「記憶力や判断力の衰えを自覚できない」ということでもあるのだから、周囲の人が強制的に運転をやめさせるか、手続き記憶だけでは運転できない車を作るか、どちらかでしか、こうした事故を阻止できない。

周囲の人が強制的に運転をやめさせるのは、周囲の人に、「運転できてしまう認知症の人がいる」ということを知らしめる必要があるし、そうであっても判断力や運転動作の一部は衰えており、それは車を凶器に変えるものだという理解と危機感がなければならない。今後、認知症の人が今以上に増える社会では、そうした啓もう活動は必要不可欠であり、地域包括ケアシステムの機能の一つに、運転できる認知症の人が運転しないようにする対策を、地域ごとに意識して組み込んでいく必要がある。

同時に、自動車製造メーカーのコンプライアンスとして、認知症になったら運転できない車の開発が求められ、それは自動運転以上に必要とされる技術であるという自覚がメーカーに求められると指摘したい。

今後増え続ける認知症の人が、手続き記憶だけで運転して事故を起こすことがないように、検査結果で運転するかどうかを判断するのではなく、認知症になったら運転できない自動車開発が自動車メーカーの責任と義務なのである。。

そしてそれはさほど困難なことではない。アルツハイマー型認知症の初期症状は、「エピソード記憶」の衰えから始まり、特にそれは新しいことが覚えられないという短期記憶の障害から始まる。それはこの病気が、情報処理をつかさどる、「海馬」周辺の血流障害が生ずることによって、新しい情報が海馬にたまらず記憶できないということなのだから、それを利用して、車のエンジンをかける際に、エピソード記憶である暗証番号を打ち込まないとエンジンがかからない車を開発すればよいだけの話で、それは技術的には極めて簡単であるし、開発費用もさほど掛からないし、車の購入費用がそれによって増加し、ユーザー負担が大幅に増えるということでもないように思われる。

28日の横浜の事故では、登校途中の小学1年生が命を奪われている。未来のある尊い命が、こんな風に奪われてしまうことを少しでも防ぐために、しなければならないこと、できることはたくさんあるはずだ。一日も早い対策をしなければ、似たような悲劇が日本中で繰り返されていくことになる。

国・政府も、このことの危機感を持ってほしいと思う。こんな悲劇はもうたくさんだ。
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認知症ドライバーの悲劇


人にとって、悲劇とは様々だが、最愛の人の記憶がなくなること、最愛の人に対して不幸を与えてしまうこと、その記憶さえ失ってしまうことは、最大の悲劇といえるかもしれない。

そのような悲劇が、今この国でじわりと増えてきている。それは超高齢社会が生む悲劇といえるものだ。この部分にスポットを当てて考えねばならない時期に来ている。

認知症ドライバーの運転の問題については、このブログでも何度か指摘してきた。

エピソード記憶や意味記憶が失われても、手続き記憶が最後まで残ってしまうことで認知症の症状があるのに運転してしまう人が増え続けている。

高速道路の逆走をしている人のうち、認知症の症状のある人が17%しかいないのだから、それは認知症の問題ではないという人がいるが、認知症という特定症状だけで、事故原因の17%もの割合を占めていること自体が大問題で、しかも事故を起こして死亡した高齢者の、その時点での認知症状の有無は調査されていないということが、さらに大きな問題なのである。実際には、認知症を原因とした自動車事故は数字に表れている以上に多いのである。

先日も秋田県日本海沿岸東北自動車道の大内ジャンクション付近の下り線で、出口から逆走進入してきた軽乗用車とトラックが正面衝突し、逆走車(軽自動車)に乗っていた3名の高齢者が亡くなっている。この事故に関して言えば認知症の問題であるかどうかは分からないが、何らかの判断ミスが事故原因となっていることは間違いなく、ドライバーに認知症の症状がなかったかどうかも検証してほしいものだ。

事実、認知症の人が運転する車の事故は増えている。その中には、自分の孫をひき殺してしまったという悲劇も含まれているが、この悲劇には第2弾があって、手続き記憶が残っているために運転ができてしまい、そのような事故を起こしてしまっても、その事故によって大切な孫の命が奪われたという、「エピソード記憶」はなくなってしまうために、事故を起こしたという記憶がなく、それ以後も運転を続けようとするだけではなく、その運転する理由が、事故で亡くなった「孫を迎えにいく」だったりするわけである。

そんな悲劇が繰り返されないように、手続き記憶だけで運転操作ができてしまう車を販売できないようにすべきだし(エンジンをかける際に、暗証番号を打ち込む車にすればよいだけの話である。)、少しでも認知症の症状が現れた人については、「運転操作ができるから大丈夫」と考えるのではなく、一刻も早く運転しないような環境に置く、という対応をしなければならない。

人口減少社会に入ったわが国では、人口密度が低くなり、それは高齢者の生活空間に日常の暮らしに必要な社会資源が、櫛の歯が欠けるように消滅していくことも意味している。そうであるがゆえに、これからの社会に、足代わりとなる自家用車の必要性は、増すことはあっても、減ることはないだろう。車が運転できないと暮らしが成り立たないという人が増える社会で、同時にこのような深刻な問題が起きている。

そうであれば、認知症ドライバー対策の一面は、車を運転しなくても高齢者の暮らしが成り立つ地域社会を創るということにもなる。そのための地域包括ケアシステムを構築しなければならないということだ。そこには、「住み替えを促進した新しい地域社会の構築」という新たな課題が見えてくる。

そしてそれは政治が誘導していかないとならない問題で、地域行政だけで解決できる問題ではないということも指摘しておきたい。

※本日18:30〜ビエント高崎エクセルホールで、120分間の講演看取り介護講演を行います。主催は社会福祉法人・ようざん会さん。どなた様も無料で参加できますので、お近くの方で時間がある方は、是非会場までお越しください。
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それぞれの思い


東京都日野市で行われた講演には、認知症の人の家族の方などがたくさん会場に来てくださった。
日野市講演
質疑応答では、実際に介護をしている家族の立場から、あるいは自分は介護をしていないが、兄弟のお嫁さんに介護をしてもらっている立場からの質問があった。

認知症の人は、全ての能力が失われるわけではないので、何ができて、何ができないかを探ることが大事である。認知症の人がトイレで排泄できない理由も様々なので、できる限りトイレで排泄できない理由を探って、的確にアプローチする必要があることを、講演の中では事例を挙げて説明した。

そのことに関連して、90代の認知症の方を介護している方から、当初はトイレで排泄できていたのに、最近では声をかけてもなかなか排泄に結びつかず、紙パンツに失禁してしまうことが多くなったことを、自分の介護の知識になさが原因ではないかと自責の念を持ってしまうというようなような質問があった。

個別の失禁原因はその質問だけではわからないが、大事なことは、失禁するという事象だけをとらえて、自分の介護方法が間違っていると自分を責めないことだと思う。そもそもすべての人が、最期まで失禁せずに過ごすことができるとは限らない。要は、周囲の人が認知症の人のことを思いやり、できる限り、今でき得る暮らしを支えようとすることだと思う。

失禁という事象だけを見れば、大人用の紙おむつや、紙パンツがなかったころに比べると、今市販されている様々な排泄用品を使ってケアできるだけでも、過去とは比較にならないほど、介護をする人の負担も減るだけでなく、介護を受ける人の不快感も減少しているのだと思う。在宅で時間介護をする人は、介護が必要な人に思いを寄せている限り、全てを完璧にできなくても、それは間違った方法ではないとポジティブに考えて、自分自身を壊さないようにすることが、介護を続けるうえで一番必要なことだと思う。そういう意味で、励ましの言葉を送ってきた。

北海道出身の方も受講されていて、その方の親も北海道に住んでいるが、認知症を発症して、弟のお嫁さんがお世話をしているとのことだった。その方の悩みは、介護負担をすべてお嫁さんにかけていることで、自分は遠く離れた場所に住んでいるので何もできず、お嫁さんに電話をかけ、小一時間ほど悩みを聴いたり、励ましたり、感謝したりするだけだが、どうしたらよいかという質問もあった。

実際に介護している人は大変であるが、そのたいへんさを分かってくれる人がいないこともストレスになる。空間的距離はどうしようもないので、そのたいへんさを理解してくれる誰かがいるということが感じられるように、電話で悩みを訴えられるお義姉さんの存在は、きっとお嫁さんの支えになっていると思うので、今のコミュニケーションを続けて、感謝の言葉をかけ続けてくださいとアドバイスした。

当日は、講演終了が15:40で、その後の質疑応答であったが、帰りの飛行機の関係で、僕は会場を16:00に出なければならず、十分な時間をとれず恐縮であったが、ぎりぎりの時間まで声をかけてくださる人がたくさんいた。本当にありがたいことだ。

ところで当日も、下記画像のように、会場で僕の著作本を販売させていただき、沢山の方に購入していただいた。
日野市講演会場
こんなふうにして、各会場で本を購入してくださる人のおかげで、これらの本はまだ一冊も廃刊にならずに売れ続けている。そしてこのたび、「人を語らずして介護を語るな THE FINAL 誰かの赤い花になるために」の増刷が決定した。僕の記憶では、第4刷になると思う。

今年に入って、「介護の詩 明日につなぐ言葉」に続く増刷である。これもひとえに応援してくださる読者の方々のおかげである。この場を借りて、ひところお礼を申し述べたい。いつも本当にありがとうございます。

さて昨日は、講演以外にも気になることがあった日である。

我が、北海道日本ハムファイターズの優勝がかかった一戦が、日野市からはほど近い、「埼玉県所沢市」で行われていたのだから、本来であれば、日野市での講演が終わったら、そちらに駆けつけたいところであった。しかし今日の仕事を休むわけにもいかず、後ろ髪をひかれる思いで北海道に帰ってきた。

昨晩は千歳市内のホテルに泊まったが、優勝の瞬間はとある居酒屋の個室で、一人ファイターズ応援としゃれこんでいた。4年ぶりの感動をじっくり味わい、ホテルに戻って一晩中ニュースを見て、感動の涙を流していた。

ファイターズレジェンドユニホーム
このレジェンドユニホームをゲットした次男も、きっと家で応援していたことだろう。最大11.5ゲーム差を跳ね返した世紀の大逆転は、長嶋巨人のメークドラマを超える奇跡であるといってよいだろう。

クライマックスシリーズと日本シリーズでも、同じ感動を味わいたいものである。

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認知症の人と共に歩む地域社会


道外の人間にとって、東京の23区名は馴染みがあるものの、市の名称はよくわからないことが多い。

だから最初、『ひのし』という地名を聴いても、どこの市の名前なのか、どんな字を書くのかもさっぱりわからなかった。大変失礼な話でお詫びのしようもないが、これが一般的な道民の反応ではないだろうか。

その日野市からの依頼を受けて、今日は日野市民会館で、『愛を積む〜認知症の人とともに歩む介護 』というテーマで講演を行う予定になっており、このブログ記事は、会場に向かう電車の中で、iPad で書いている。

おそらく日本全国の介護関係者の中で、認知症の理解とか、認知症の人に対するケアに関連してお話しすることができる人は沢山おられることだろう。ましてや首都・東京であるのだから、近くで講師を探すのは、そう難しくないはずである。

そうであるにも関わらず遠く北海道から、決して安くない旅費をかけて呼ぶ必要のある僕を招いてくださるのだから光栄なことである。同時に、それだけの価値あるお話をしなければならないと思ったりする。

だからと言って、特別なお話ができるわけではない。認知症に関しては二十数年前に、自分の施設での実践報告を北海道老施協の研究大会で行って以来、いろいろなところでお話ししているし、介護福祉士養成校では、認知症の理解という授業を受け持っているが、それらのお話の教科書は、僕が出会った認知症の人と、その周囲の人々である。

だから僕が認知症をテーマにしてお話しすることは、他の誰とも違った話になってしまうし、時間の経過とともに同じテーマでも、取り上げる事例は異なることになる。でももしかしたら、そのことが僕が講師として全国各地から招待される理由かもしれない。

今日も昨日までの実践の中で手に入れた方法論を語ることになるだろう。

認知症の人を理解する上で大事なことは、記憶や見当識が失われても、感情は最後まで残っていることを忘れないことだと思う。寸前のことさえ忘れてしまい、デジタルな思考回路しか残っておらず、さっきと今が繋がらない人の不安を理解して、その人の脅威にならず、支えになるために何が求められているのかを、一人ひとりの表情から読み取ろうと寄り添うことからしか答えは探せない。

今日の講演タイトル『愛を積む〜認知症の人とともに歩む介護 』は、僕の著書、『人を語らずして介護を語るな THE FINAL 誰かの赤い花になるために』の一節と同じものだ。そこで紹介している一ケースの、認知症の人の夫が、僕らの最高の教師役である。そんな話もしてこようと思っている。

ところで、普段僕が講演している姿は、自身で撮影できないので、自分の手元にその姿を写した画像データは意外となかったりする。

そんな中、3日前に五反田で行った、学研ココファンさんの社内研修での画像ファイルを送っていただいたので、この記事の中に記録として貼り付けておきたいと思う。

学研ココファンの皆さん、どうもありがとうございました。
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帰宅願望なんて、あって当然だろう


介護関係者の中で、いまだに認知症を、「ニンチ」と略して表現する人がいる。いつまでそういう不適切な略語を使い続けて、認知症の人の家族の心を傷つければ気が済むのだろうか。

僕はこの問題を8年も前から取り上げているが、(参照:認知症をニンチと略すな!!)いまだにこのことの問題に気がつかない人が多いことに愕然とする。もともと介護関係者は、言葉に気を使わな過ぎるのではないか。

言霊という言葉があるように、「言葉には霊的な力が宿る」と信じられてきたのが、日本の伝統文化である。声に発した言葉が、何らかの影響を与えると信じられてきたのである。

そのことを信じようと信じまいと、コミュニケーションを主体に援助を行う介護の専門化が、その発する言葉、使う言葉に無関心でよいはずがない。言葉というものにもっと気を使ってほしいものだ。

それともうひとつ気になることは、認知症の人の行動を、BPSDと表現する人が多いことだ。それは必ずしも不適切な表現ではないが、その意味を知って使っているのかといいたくなることがある。(参照:BPSDという表現をやめよう)行動・心理症状という適切な表現方法があるんだから、そちらを使うようにしたらどうだろう。

それとも英語の頭文字をとって使った表現のほうが、専門家気取りが出来るってわけかな。そりゃあ違うだろうといいたい。

ところで認知症の人が、施設などで生活し始めた後に、自分の家に帰ろうとすると、「帰宅欲求が始まった」・「帰宅願望が出てきた」といわれることがある。

その言葉を聴くたびに、僕は心の中で、「なんじゃそれ!!」と叫んでいる。

施設利用者が家に帰りたくなるのは当たり前だ。どんなに良いサービスを提供しても、利用者には替える家があり、愛する家族がそこに住んでいる。そこに帰りたくない人はいない。

そうであっても人それぞれに、何らかの帰ることが出来ない事情や、施設に住み替えなければならなかった事情があるだけの話で、認知症ではない人は、その事情を理解して、帰りたい気持ちをぐっと抑えて、やがて環境適応していくだけの話である。

認知症の人は、その事情を理解したり覚えたり出来ないから、そのときの素直な気持ちを、言葉や行動で表現しているだけの話である。

それはきわめて自然な心模様だし、そのときにここがあなたの家だと説得する必要はないし、家や家族に勝(まさ)ろうとする必要さえない。

僕たちは家族に勝ってはいけないのだ、家族に勝負を挑む必要さえない。自分の家を愛し、家族を愛する人の心に寄り添いながら、それらを愛する心には勝てないけれど、それらの次に心の休まる場所にするために、僕たち自身が目の前の人々に愛情を持って接し、出来うる限りの手の差し伸べ方を考えればよいのだ。

誰にも勝たない愛を積み続けていくことを、受容と呼ぶのかもしれない。

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試験問題にもなっている、「人を語らずして介護を語るな」


僕が新年度から働いている老健施設は、千歳市という場所にあり、ここは衆議院北海道5区の補欠選挙が行われる地域である。

というわけで、5区以外の地域では行われない介護施設でのふっじ者投票事務が必要になっている。まずは投票の意思確認をして、投票用紙を請求するわけであるが、当施設は認知症専門棟がある老健なので、その意思確認に時間がかかる。

しかし丁寧に説明して、根気よく返答を待つという作業を繰り返すことで、認知症の人でも投票意思を示してくれる人が多いことがわかる。

認知症という症状が、どのような基礎疾患(病気とは限らないが)から生じているとしても、認知症の症状の軽重はあるとしても、何もかもわからなくなって、意思疎通がまったくできない人は(晩期を除いて)そんなに多くないことがわかる。

認知症の人の反応をゆっくり待つという、我々の今季さえあれば、認知症の人の中に眠っている、いろいろな表情を引き出すことができる可能性に気が付く。それは僕が、頭の中ではわかっていながら、行動としては芝約忘れていたことのように思え、新たな職場で、新たな職務に就いて思い出したことのように思える。

そんあこんなで、忙しい毎日を送っているが、すべての時間が楽しくフレッシュである。

僕の場合、転職の決断は、さほど重たい決断だとは思ったことはないが、今振り返ってみると、人生の転機としては、その決普段は、決して軽いものでもなかったのだろうと思える。しかしそのことが間違っていなかったと感じられる日々を送っており、充実している。これは周囲のいろいろな人のおかげでもあり、感謝しなければと思っている。

本業以外の、「介護作家」としての執筆活動や、講演活動も順調で、次々と新しい依頼や、リピート依頼が来てうれしい悲鳴を上げているところであるが、しばらくは平日の講演活動は、本業に支障が出るため難しい状態で、数を絞っている。土日祝祭日の依頼であれば問題ないので、講演依頼の希望がある方は、是非そちらの方向で考えていただきたい。

そんな中、もう一つうれしい知らせがあった。

ベネッセコーポレーションから、突然一通の封書が届き、開けてみるとこんな「お知らせ」が書かれていた。

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僕の著作本、「人を語らずして介護を語るな THE FINAL〜誰かの赤い花になるために」が、高校3年生の学力テストの試験問題に使われて、そのお知らせと、著作権使用料の通知が記されていた。

ここだけの話、その額は18.000円という額であるが、そんなことより、次代を担う高校生の学力テストに、拙著の一文が使われたという事実が、この上なくうれしい。しかもこのことは初めてではなく、2年連続2回目なのである。

これをきっかけに、若い人にも僕の本を読んでいただきたいと心から思っている。そして、誰かの赤い花になろうとする人が、一人でも多くなってほしいと思う。

それは、介護業界だけではなく、ほかの業界も含めて、他人へのやさしさを素敵に表現できる人が、一人でも増えてほしいという意味だ。

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認知症鉄道事故裁判が積み残した課題


認知症の男性(当時91歳)が、妻がうたた寝している間に、自宅から外に出て徘徊中に列車にはねられて死亡した事故をめぐり、JR東海が遺族に損害賠償を求めていた訴訟の最高裁判決が下された。

その結果は、死亡男性の家族に賠償を命じた2審判決を破棄し、JR東海側の請求を棄却した内容となっており、これによって家族側の逆転勝訴が確定した。

家族側の逆転勝訴という裁判結果については、最高裁判決前日に書いた記事、「認知症徘徊列車事故訴訟の最高裁判決の何を注目すべきか」 で予測している通りとなった。

しかしその記事で指摘した、「損害賠償」については、何も論じられず、本件についてはJR東海がどこからもその補償がされないという結果に終わった。毎年1兆円以上の収益を上げているJR東海が、このことによって経営危機に陥ることはないが、だからといって、この問題を被害を受けた側の「泣き寝入り」のような結果に終わらせて良いのだろうか。そうした疑問が残されたままの最高裁判決であると言える。

この点は今後、国民議論となることを期待したい。

もう一つ、この裁判結果では気になることがある。新聞にはこぞって、「家族の監督責任なし」と言う見出しが躍っているが、判決要旨を読む限り、監督責任がなしとされたのは、本件の状況を判断した結果であり、それは個別に事案によって判断されるという点である。(参考:本件の最高裁判決文全文

本件では、1審で妻とともに監督責任があるとされ、損害賠償を命じられた長男については、20年以上別居していたことから監督義務者に当たらないとされている。(※長男の監督責任は2審ではなしとされた。)

1審2審とも監督責任があるとされ、2審では360万円の賠償を命じられた妻については、事故当時85歳で、要介護1という認定を受けていたことから、認知症の夫を監督することはできなかったとして、こちらも監督義務者に当たらないと判断した。

このように最高裁は今回の判決で、配偶者や子、成年後見人といった立場だけで、監督義務者になることはないという判断を下したものの、同時に認知症の人との関わりや、同居の有無、介護の実態を総合的に判断して、「監督義務を引き受けたとみるべき特段の事情が認められる場合」には、監督義務者として賠償責任を負うとしている。

ただしこの判決では、監督義務があった場合の免責条件は示されなかった。

つまり今後個別の事案を精査する際には、家族の監督責任が問われる場合もあり得るということになる。

判決文の中で、「四六時中本人に付き添っている必要があり,それでは保護者,後見人の負担が重すぎるということなのである。」とか、「認知症高齢者の在宅での介護は,身近にいる者だけでできるものではないが,身近にいる者抜きにできることでもない。行政的な支援の活用を含め,本人の親族等周辺の者が協力し合って行う必要があることであり,各人が合意して環境形成,体制作りを行い,それぞれの役割を引き受けているのである。各人が引き受けた役割について民法709条による責任を負うことがあり得るのは別として,このような環境形成,体制作りへの関与,それぞれの役割の引受けをもって監督義務者という加重された責任を負う根拠とするべきではない。」などとして、認知症の人の行動をすべて監視・対応できないことに理解を示しているが、これはあくまで裁判官個々の意見を列挙したものに過ぎず、判決の根拠とされているわけではない。

果たしてこの結論で良いのだろうか?

仮に本件と同じケースで、妻が要介護認定を受けておらず、心身の状態に全く問題がないとされ、監督義務を負うとされた場合に、うたた寝して認知症の夫が外に出たということは、監督義務不履行に該当して、賠償責任を負わねばならないのだろうか。そもそも監督義務者だからといって、認知症の人の全ての行動監視が可能なのだろうか。

このことに関しては、2013年12月11日に公益社団法人 認知症の人と家族の会が出した意見書でも、「介護保険制度を使っても認知症の人を 24 時間、一瞬の隙もなく見守っていることは不可能で、それでも徘徊を防げと言われれば、柱にくくりつけるか、鍵のかかる部屋に閉じ込めるしかありません。」・「認知症であるがゆえの固有の行動から生じた被害や損害については、家族の責任にしてはいけない。」と提言している。

これは極めてまっとうな意見であると言え、認知症の人がさらに増える社会であるからこそ、認知症の人が地域で暮らし続ける社会を築くために、その家族に過度な監督責任を負わせず、街ぐるみで認知症の人を見守るという視点が求められるのではないだろうか。

少なくとも監督義務があった場合の免責条件については、一定の基準なり、例を示して欲しかったと思う。

そういう意味で、今回の最高裁判決について、もろ手を挙げて歓迎できるとまで言えないのである。

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認知症徘徊列車事故訴訟の最高裁判決の何を注目すべきか


認知症で徘徊中に列車にはねられて死亡した男性(当時91)の遺族に対し、JR東海が損害賠償を求めた訴訟の最高裁判決が明日示される予定である。

認知症徘徊の列車事故訴訟に新たな動き」で紹介した通り、この裁判については、1審・2審とも年老いた妻の監督責任を認め、損害賠償を命じたものの、最高裁判決を前に、原告・被告双方から意見を聞く弁論が2/2に行われたことから、高裁判決を破棄して、被告の監督責任がないとする最高裁判決が言い渡される可能性が高い。

2審でも問題とされた、玄関のセンサーについては、認知症の夫の徘徊を防ぐ目的ではなく、その夫が認知症になる前に自宅で不動産業を営んでいたことから、来客がわかるように設置したもので、そもそも介護とは関係ないという長男の証言がある。そうであればそのセンサーを切っていたと言う事実に対する監督責任は、介護とは関係のない設備の使用を求めているもので、さらにそのセンサーは、飼い犬にも反応してしまうため、徘徊防止にはならず、むしろセンサー反応で、死亡した認知症の男性の混乱が助長されるために、センサーを切っていたという主張は納得できるものである。

そういう意味でも1審・2審の判決は、説得力に欠ける判決と言わざるを得ない。さらに認知症の人の事故で「夫婦だから」という理由で年老いた妻に、それと同様の重い義務を負わせるのには疑問であるという意見も多い。

そんな中での判決である。

しかしこの裁判結果に注目すべき点は、被告の監督責任がなしとして賠償義務がないとされるのかどうかということではないと思う。

このことはリンク先の記事でも主張しているが、むしろ監督責任がなしとされ、賠償を命じた1・2審判決が覆った際に(覆る可能性が高いと思う)、JR東海が被った損害は誰がどのように補償するのかという問題である。

勘違いしてはならないのは、原告のJR東海は、理不尽な要求をしているわけではないということだ。現に列車事故により被った損害賠償を、事故原因となった徘徊中に列車にはねられて死亡した男性(当時91)の遺族に求めているという訴訟であり、損害自体は生じているもので、賠償を誰かに・どこかに求めること自体は、決して無法でもないし、社会常識に照らして逸脱した行為でもない。

この時に、家族や夫婦という理由だけで、認知症の人の行動をすべてコントロールできるわけではなく、当事案が監督責任も及ばないものであるとされたときに、JR東海の損害を誰が保障するかという問題が、一番注目すべき問題であると思う。それは決してJR東海が泣き寝入りして終わって良いという問題ではないのだろうと思う。

今回損害を受けたJR東海という会社は、この損害賠償が認められなくとも、そのことで会社経営が危うくなるわけではないだろうが、今後認知症の人が増え続ける社会で、こうした事故は対策をどのように採ったとしても完全に防ぐことは出来ず、その数が増えることが予測される。そのたびに損害を受けた会社が、「誰の責任でもない」ということで、損害を賠償されないとしたら、それこそ経営危機に陥る。

もっと身近な問題として考えるなら、こうした損害が会社ではない個人に及ぶ可能性も高いということだ。

今後の社会では、認知症の人の事故は、鉄道に限った死亡事故ではなく、一般道路で普通に運転しているドライバーを巻き込んだ事故として起きる可能性が高い。その時に、事故当事者となり自家用車等が廃車になったとした場合、誰もその損害を賠償してくれないとしたら、認知症の人が道路に飛び出して事故を起こした当事者自身の運が悪かったで、すべての問題が処理されることになりかねない。それでよいのだろうか。

その唯一の解決策は、社会的な損害補償ということにならざるを得ないのではないだろうか。

明日の判決が、そのことを含めて何かを示唆する内容になっているかどうかが、一番注目されるところだと思う。

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BPSDという表現をやめよう


認知症に関する研修会で、講師がさかんにBPSDという言葉を発するのを聴くことがある。しかしきちんとその意味を説明していない講師がいたりして、そのことに対し苦々しい思いを持ってしまう。

そもそもなぜBPSDなどという舌を噛みそうな略語を使わねばならないのか?そしてBPSDという略語をそのまま受け入れて、介護サービスの場でその言葉を使っている職員は、その意味を正確に理解して、そうした症状に正しく対応しているのだろうか。

僕は自施設の職員に、BPSDという言葉を使わせない。そのことに関しては、「行動・心理症状」と表現するように指導し、さらに認知症の人に表れている現在の症状が、行動症状なのか、心理症状なのかを分けて考えるように指導している。

これは言葉狩りではなく、ケアの質につながる問題なのだ。認知症の人の症状をきちんと表現することで、正しい症状理解につなげ、適切な症状対応につなげたいという意味なのである。

認知症の人の症状の中で、かつて中核症状に対して、「周辺症状」という表現方法があった。

中核症状とは脳の細胞が壊れることが原因で起こる記憶障害、見当識障害、理解・判断力の低下、実行機能の低下のことを言い、脳の変性、気質変化そのものが原因で生ずる症状である。この症状は、治療やケアにより改善するものではない。つまり現在の医学やケアの手が届かない症状ともいえる。

一方で周辺症状とは、中核症状がもたらす不自由のために、日常生活のなかで困惑し、不安と混乱の果てにつくられた症状であり、暮らしのなかでケアによって症状改善が期待できる症状のことを言い、それは認知症の人にとっては、決して問題行動ではないという考え方から、「周辺症状」とされた経緯がある。

しかしこの周辺症状という言葉がわかりにくく、その意味を正確に表していないという批判があり、この言葉に替わる表現として、BPSDという言葉が盛んに使われるようになった。

それは、Behavioral and Psychological Symptoms of Dementiaの頭文字をとった表現方法で、その意味は、周辺症状といわれている行動には、徘徊や攻撃的行為などの「行動症状」と、妄想や幻覚・誤認などの「心理症状」の2面性があるという意味である。

つまりBPSDとは、中核症状が背景にあって、それに加え何らかの要因により混乱が生じることにより、それがストレスとなり、不安感・焦燥感として現われる「行動・心理症状」という考え方なのである。

そうであれば、「行動・心理症状」というわかりやすい日本語表現があるのだから、この言葉を使わない理由はない。BPSDなんて表現はいらないのである。

英語の頭文字をとった略語を使っておれば、専門性が高いなんてことはない。それよりケアの質に繋がる正しい症状理解に結びつく可能性が高い言葉の方が、専門職として使いこなすべき表現方法である。

行動面と心理面に分かれる症状を理解することで、我々はその時々の認知症の人の「混乱」に思いが及ぶだろう。その混乱を理解して、そういう状態に置かれている人の状況をあるがままに受け入れることが「共感的理解」や「受容」につながる。そうであれば、行動・心理症状に対応することが、単なる対症療法だとか、小手先の対応だとかという変な理解にはならない。

認知症の人は、今現在混乱していてどうしてわからないという状態が、今一番解決してほしいことなのだ。その時に、何度も同じ話をすることに、何度も同じく相槌を打ってくれる誰かが必要な時もある。それは対症療法でも、小手先の対応でもなく、もっとも求められていることである場合が多い。

勿論その前提には、認知症の人を一人の人間として見つめる視点が求められる。認知症という冠をつけることなく、一人の人間として見つめる必要がある。

しかし、行動症状や心理症状になって表れてくる混乱に、どう適切に対処するのかということは認知症の人の安定には重要なことであり、そうした状況への対応の積み重ねが、認知症の人が信頼して寄り添うことができる支援者となり得る方法論なのである。

もともとBPSDという表現は、医師が使っていた表現方法である。認知症の関連する講師を医師が勤める機会が多かったことから、この表現が介護現場にも浸透していったのではないかと思われる。しかし介護発の認知症の人への対応方法が教科書にもなる今日、表現方法も介護発であってよいと思う。

なにがなんだかわからない表現より、症状理解につながる表現方法を用い、そこから求められる実践論を構築していかないと、いつまでも介護は医療の下請け的な役割を押し付けられ続けられる存在で終わってしまうだろう。

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認知症の人とともに歩む街づくり


先週末は、北海道沼田町で2講演を行ってきた。

沼田町は、北海道のほぼ中央に位置する町である。人口は3千人超、世帯数は1.500世帯ほどの小さな町である。介護施設は特養も養護も町立施設で、民間事業者が少ないという特徴がある。昨年、沼田町議会の方々が、看取り介護の研修を含めて当施設に見学においでになったというご縁もある町である。

登別からは、JR特急で札幌乗り換えで約4時間ほどで着くことができるが、函館〜札幌及び札幌〜旭川という大動脈線なので、非常に揉む列車である。(JR深川駅からは、車で送迎していただいた。)

土曜日は夕方から、町内の介護施設の職員向けの講演を行い、町内のほぼすべての事業者から職員の方々が集まってくれた。ここでは介護の実務論をお話しさせていただいた。

日曜日は一転、一般市民向けの認知症講座で、「認知症を知り地域で支え合うまちづくり」というテーマでお話しさせていただいた。

あらかじめ一般市民の方が受講者の中心であるということを聴いていたが、会場に100席用意した席がたちまち埋まり、パイプ椅子を追加しての講演となった。

会場に駆けつけてくれた方々の顔触れを見ると、お年を召した方が多い。60代以上の方が大半を占めているのではないかと思えた。

沼田町認知症講演
普段僕の講演は、保健・医療・福祉・介護の専門家に向けたものが多いのであるが、一般市民の方に向けた講演は久しぶりである。当然ここでは、あまり専門用語を使わずに、わかりやすい言葉で、わかりやすく認知症が理解できるように伝える必要がある。

だからといって、認知症サポーター研修と同じようなことを話しても意味がない。それは僕以外の講師でも話ができる内容だからである。

会場には、お元気なお年寄りがたくさん来てくれているので、その方々が今興味を抱いている認知症の問題とは何かということを考えながら、認知症と健忘のわかりやすい見分け方から始め、認知症の早期発見はなぜ必要かということを、一般的に言われている、「認知症の進行を遅らせることのできる薬の効果と実態」を含め、他では聞けない認知症の対応の虚像と真実も語らせていただいた。
起きて、その時に一番世話をしてくれる身内がなぜ窃盗犯のごとく疑われるのかということや、何が原因で家族の人間関係が壊れていくのか、などを実例に沿ってお話しさせていただいた。そして我々が介護施設で認知症の人自身や、その家族に学ぶことは何かという側面も含めて、実際のケースの中から我々が理解すべき認知症の人の行動の意味、混乱の原因についてお話しさせていただいた。

当然そこでは、一般の方々が理解できる範囲で、最新の医学情報もお話しさせていただいている。

僕の場合は、同じ講演ファイル・パワーポイントのスライドを使ったとしても、受講者に合わせて臨機に、その内容を変えて、受講対象者の理解度に合わせた講演内容に組み立て治すことを得意としているので、会場の皆さんの顔を見ながら、その反応を確認しつつ、お話しする内容を微調整しながら、紹介するケースも変えたりしているので、きっと理解していただけたのではないかと思う。

講演後には、高齢者の皆様にもたくさん僕の本を購入していただけたので、きっとお話しした内容に共感・理解していただけたものと考えている。この場を借りて感謝申し上げたい。

沼田町も高齢者の割合が増えているが、今現在は元気な高齢者がたくさんおられて、深刻な介護問題は表出されていないようである。しかし2025年に団塊の世代が後期高齢者となり、介護サービスを必要とする人の数は、加速度的に増えることが予想され、それは沼田町も例外ではなくなるだろう。そのあとの15年〜20年間が、日本の介護の正念場になるし、全国で様々な高齢者介護問題が噴出するだろう。

それはもしかしたら「介護難民」という形で問題となってくるのかもしれないし、認知症の人が増えることによる漂流社会の問題として、クローズアップされてくるかもしれない。

どちらにしても、今お元気な高齢者の方々が、自分の問題として介護問題や、認知症の問題を日頃から考えておくことが重要で、その中で自分や家族に何ができるのか、自分が将来認知症になったならば、どのように生きたいのかということを、周囲の人々と話し合っておくことが、まず大事なことであろうと思う。

もしかしたらその延長線上には、「終活」という考え方が存在するのが必然となるのかもしてない。そんなこともあって、沼田町で次にお話しする機会があるとしたら、「終活セミナー」もありかなと、事務局の方々とお話ししたりしていた。

沼田町は「ホタルの町」なのだから、今度は夏の夜、蛍の光が見える時期に、行ってお話ししたいなと思ったりした。

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挨拶は静かな声で、大きな愛を。


威勢の良いお店は嫌いである。

飲食店で食事をしている際に、従業員が、「いらっしゃいませ」と言うのは良いが、それが大声であったら落ち着かない。もっと静かに挨拶できないかと思ってしまう。出来ればそういうお店には再訪したくないと思う。

本屋で本を選んでいるときに、「いらっしゃいませ、こんにちは。」と声を張り上げる定員は、騒音の元でしかない。読みたい本を落ち着いて選ぶことができない。だから本屋から足が遠のき、ネットでの本購入が主になっている。

コンビニエンスストアでも同じである。店に入る際に、いきなり大声で声を掛けられると、ドキッとして立ちすくんでしまう時がある。思わず、「うるせい!!」といいたくなる気持ちをぐっと抑えている。近くに他のコンビニがあるならば、より静かに挨拶してくれる方を選びたい。

挨拶って、そんなに大声でなければならないのか?なぜ大声を張り上げる必要があるんだ。大声で客にあいさつしなければならなというマニュアルでもあるのだろうか?

僕の場合に限って言えば、大声であいさつする定員がいる店より、不愛想な主人が挨拶なしで客を迎える店の方がましと思うのである。

挨拶が必要である場合も、もっと普通の声のトーンで、日常会話を交わす程度の音量ではいけないのか?客に対する声のトーンや、表情に気を使う必要はあるだろうが、それは静かな微笑みとともに、落ち着いた静かな声で、あいさつや歓迎の言葉を掛けることであってもよいと思う。

介護施設や介護サービス事業所であっても、同じことが言えるのではないか。元気に声をかけることが、お客様の脅威になっていないかを考える必要がある。介護サービスを利用するすべてのお客様が、大きな声で叫ぶように挨拶することを望んでいるとは限らない。むしろそうした大きな声を望まない人が多いのではないのか?

元気な声が、ことさら大きな声である必要はない。心の元気さを表す言葉とは、静かであっても、丁寧でゆっくりと、相手に配慮した声である。特に体育会系のような、語尾がわからない、やたら大きいだけの声の挨拶は迷惑でしかない。

勿論、高齢者の方々が利用するサービスの場合、難聴の人も多いのだから、そういう人に普通の声の高さやトーンで話しかけても聞こえないということがある。その際は、大きな声が必要だろうが、それはあくまで個別性への配慮があるべきで、難聴の人に大きな声であいさつするような声の大きさが、スタンダード化される必要はないだろう。

特に問題なのは、アルツハイマー型認知症の人に対する大声での挨拶である。それらの人は、脳の海馬という細長い器官の周辺部に、血流障害が生じていることが多く、海馬の機能が低下している。ここは情報を貯めておく器官であるから、その機能が低下しているという意味は、新しい記憶が保持できないという意味になる。

そうであれば、介護支援者がどんなに心をこめて援助にあたり、その方から信頼感をもってもらったとしても、その利用者の方は、毎日支援者の顔と名前を忘れて、次の日支援者と相対する場面では、知らない誰かとの出会いの場面である。その時に、支援者が「自分は信頼されているから」という理由で、「おはよう〜!!」と元気よく声をかけることがあったとしたら、その時の利用者は、知らない誰かがいきなり大声で、馴れ馴れしく挨拶してくることに対し、不思議に思うか、戸惑うか、怖がるだけである。

アルツハイマー型認知症の人は、エピソード記憶や意味記憶を保持できず、人の顔や名前を忘れても(※というより記憶できないという方が正確かもしれない)、回路の異なる「感情」は残っているので、触れ合う人が信頼できる人である場合、安心できるという感情は残されているが、その日最初の出会いで、その感情が湧きあがることはなく、静かな触れ合いを重ねることで、支援者に寄せる信頼感が湧いてくるのだから、朝一番の配慮のない大声での挨拶は、百害あって一利なしである。

求められるものは、見せかけの元気さではなく、真の元気な心である。求められるものは、大きな声ではなく、すべてを包み込む大きな心である。

どうぞ、静かな声と丁寧な言葉で、大きな愛を表現できる人になってください。

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高速逆走高齢者に認知症の人は12.1%しかいないという数字の欺瞞


高速道路を逆走する車が増えている問題について、認知症の高齢者が増えていることと絡めて、そのことを論じる際に、認知症が逆走の原因であるかのように語るのは問題であるとする意見がある。

高速道路の逆走は、認知症だけではなく、様々な要因が絡んでおり、認知症の人が増えている結果として、そのことを論ずることで、正しい対策が取れなくなるという批判が正論のように語られることが多くなった。そして、認知症であっても何にもできなくなるわけではないので、運転ができる人は免許を取り上げるべきではないし、大いに運転してもらおうということが声高々に唱えられている。

しかも、この論調に拍車をかけているのが、漫画家のくさか里樹さんの、「ヘルプマン 高齢ドライバー編 高速道路を逆走するのはみんな認知症なのか!? 実際はわずか12.1%だ!!」である。

介護の仕事をしている人の中にも、この本をフェイスブックなどで紹介して、認知症と交通事故を絡めて論ずる必要はないかのようにコメントしている人がいる。・・・馬鹿者と言ってやりたい。

認知症ドライバーによる事故は、確実に増えているし、そのことで尊い命を失っている人から見れば、「わずか12.1%だ」という論旨は、命を軽んずものでしかない。

よく考えてほしい。事故原因と言うのはケースごとに様々であり、病気の症状で事故に結び付く例など、飲酒やわき見などと比べると、ずっと低いのである。そうであるのに、高速道路の逆走という問題に限って言えば、認知症と言う特定の症状によるものが、わかっているだけでその原因の1割以上を占めているのである。この数字が「わずか」と言えるほど低い数字なのだろうか。

そもそも12.1%と言う数字は、なんのデータに基づき、それはどのような調査によって導き出された数字であるかを考えてほしい。

この数字は2014年に、全国の警察が把握した数字である。それによると高速道路での車の逆走は224件で、運転手が認知症だったケースが12.1%に当たる27件に上り、その内訳は70代が14件、80代が9件、60代が4件だったというものである。

しかしこの調査の方法は、認知症であるかないかを、家族からの聞き取りで判断したものであり、医師による確定診断ではないということに注意が必要だ。

つまり高速道路を逆走した人について、その事案のあとに、認知症については専門家と言えない警察官が、事案を起こした人の家族に、「〇〇さんは認知症でしたか?」と聞き取り調査を行って、「多分そうです」とか、「そんなことはないです。」という家族の判断結果を集めたものにしか過ぎないのである。

回答する家族も、認知症に対して深い知識があるわけではない。

我々がよく経験する事例では、我々から見て明らかに認知症による混乱症状が出ており、対応が必要であるケースであるにもかかわらず、そのことに家族が気付いていないことにより、症状が進行・悪化して、やっと発見できる認知症の人は少なくない。

アルツハイマー型認知症の場合は、急性発症するわけではないので、認知症の初期症状であることに気づかない家族は実に多いのである。

スーパーで万引きを行い市役所を懲戒免職となり、その後その行為が認知症によるものであることを争う裁判で勝訴し、処分撤回された中村成信氏の著書、「ぼくが前を向いて歩く理由」(中央法規)でも、氏は万引きと言う行為に及ぶ2年前から、症状は出現していたのに、本人も家族も、それが認知症によるものと気づかなかった体験を書かれている。(同書54頁)

このように「認知症ではない」と家族が回答したケースも、よく調べれば認知症であったというケースは必ずあるのだろうと思う。

なぜなら認知症の人が運転ができる理由は、「手続き記憶」が残ることにより運転行為を可能としているもので、それは認知症の発症初期である可能性が高く、そのことから家族が気付いていない例が多いからである。(参照:手続き記憶だけでは運転できない車を作ってください

しかも認知症の専門家ではない人は、「運転ができるのだから、認知症であるわけがない」と思い込む傾向が強いのである。このことから言っても、12.1%と言う数字には疑いを持つ必要があるといえる。

むしろこの調査で注目すべきは、高速道路を逆走する人のうち67.9%の152件が65歳以上の高齢者が運転したケースであるという点である。これは客観的事実としての数字であるが、逆走車の7割に近い人が高齢ドライバーであるということは、高齢であることによって逆走するリスクが高まるという結論となり、その理由は、運動能力や動体視力の低下よりむしろ、判断能力の低下に起因するとみるのが当然で、そこには認知症によるリスクというものがクローズアップされて然るべきである。

僕は過去に、認知症と運転と言う問題について、様々な記事を書いてきた。(参照:認知症ドライバーの問題

そのコメントに中には、認知症ドライバーの事故により身内を失ったにもかかわらず、運転当事者はその事故の記憶さえなく、責任能力を問えないということに憤りのコメントを書かれている人もいた。そういう人々に、「12.1%という数字は、わずかでとるに足らない」と言えるのだろうか。

車を狂気に変える判断能力の低下を見逃してよいのだろうか?

認知症の人は何もできなくなるわけではないから、残された能力を最大限に発揮できるように支援しようという考え方は認められるべきである。むしろその考え方はもっと広く浸透されるべきとさえ思う。

しかしそれが運転行為であるならば話は別である。誰かの命の危険性を無視して、そういう行為を続けさせることは許されるのか?アルツハイマー型認知症は、必ず進行するのである。今運転できているからと言って、1時間後に同じ運転ができるとは限らないのが、この病気の特徴である。そのようなことが分かっているのに、運転してよいというのだろうか?

それは許されない。むしろ認知症と診断されたのであれば、運転動作・運転行為ができていたとしても、即刻運転をしないという判断をして、免許証を返上すべきである。運転できる状態は、そういう判断ができる可能性がある段階で、そうした判断を促す方が、本人と家族のためにもなり、社会秩序を保つものだ。

ヘルプマン高齢ドライバー編を読んで、運転することも有りだと思い込む人が一人でも増えれば、それは尊い命が一つ以上奪われるリスクが増えるという意味である。

そもそも運転し続けることが残存能力の活用の唯一の方法ではあるまい。認知症の人の行為を奪うべきではなく、運転行為ができるうちは運転させるべきだという論理が許されるのなら、飲酒しても酩酊していないなら運転してもよいという論理も正論化されるだろう。

漫画ヘルプマンの論理は、ビール一杯くらい飲んで、運転を制限するのはおかしい、と言う論理と変わりない。

人の命がかかる問題に、そのような理屈は通用しないのである。この本のタイトルは非常に残念である。もっと命を大切にする漫画を描いてほしい。

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認知症徘徊の列車事故訴訟に新たな動き


11/1に東京都葛飾区で行った講演は、「認知症の症状と対応」がテーマだったので、そこでは2007年12月に起きた、認知症の男性(当時91歳)が線路内に立ち入り電車と接触した死亡事故の、1審と2審の判決について取り上げ、今後出される最高裁判決に注目する必要があるという話をした。

そこでは「判決内容は2審とは異なるものになることを期待している」と結んだ。

それはこのまま2審判決が認められ、80代の妻の監督義務不履行と判断されるのならば、認知症の人を在宅でケアする家族は、万一に備え、認知症の人を家の中に閉じ込めるような事態になりかねないことを懸念したという意味でもある。

この訴訟については、このブログにも過去に、「注目の控訴審判決は来週の木曜です」・「認知症男性の電車事故裁判は2審も妻に賠償命令」・「認知症の人に対する家族の監督責任はどこまで求められるのか」・「正義という名の暴力が許される社会は怖い」・「認知症の人を地域社会がどう守っていくのか?」などの記事を書いてきたので参照いただきたい。

そちらでも指摘しているが、JR側には実際に損害が生じており、認知症の人の線路侵入を防ぐことができなかったというだけで、JR側だけに大きな費用負担を生じさせるのはおかしいという意見もあり、遺族側に一定の損害賠償を求めるのは当然のことだという意見もある。亡くなられた男性の生命保険や、その他の相続金の一部から損害賠償金を支払っても、生活が困窮するわけではなく、今回の判決の額も妥当な金額であるという意見の持ち主もおられることを十分承知している。

そのうえで僕は、徘徊行動がある認知症の人を外に出さないように部屋に閉じ込めたり、体を縛ったりすることが当たり前ということにならないように、徘徊行動のある認知症の人を、地域社会全体でどのように見守り、安全確保するのかという方向性も含めて、この裁判結果の議論が進行してほしいと指摘してきた。

注目すべきは、この最高裁判決によって、「認知症で責任能力がない人が起こした行為に、親族の監督義務がどこまで及ぶのか。」が判断されるということであり、これが一つの判例となり、今後の社会に大きな影響を与えるということだ。

そのことに関して、昨夕新たな動きが各所報道機関により報道されている。

それによると最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は10日、当事者の意見を聞く弁論を来年2月2日に開くことを決めたとのことである。

この意味は、弁論とは二審の結論を変える際に必要な手続きであることから、死亡した認知症の男性の妻の監督義務を認めて約360万円の支払いを命じた二審判決が、何らかの形で見直される公算が大きいと報道されている。

このことによって、妻の監督義務はなかったとして損害賠償金を支払わなくてよいという最高裁判決が出されるかもしれない。

しかし、そうであったとしても、それで問題解決ではない。

今回の訴訟について、最高裁に上告しているのは、原告・被告双方である。ただ原告であるJR東海が、死亡した認知症男性の家族を被告として訴えてる状況から、JR東海側が悪者扱いされる傾向がある。しかしそれは違うだろう。

現にJR東海は、事故による損害を受け、費用負担が生じているわけで、その正統な損害賠償を求めて訴えているだけのことである。この際に、認知症で踏切に入ってはねられた人の家族が、その賠償責任を負うほどの過失が認められるのかということが問われているわけであり、どちらかが不正義というレッテルを貼られるわけではないのである。

そうなると、仮に家族の損害賠償義務が認められないとしたら、JR東海が被った損害については、「泣き寝入り」なのかという問題が浮かび上がってくる。企業だからそれは我慢せよという理屈にはならないだろう。

それに今後の社会事情を鑑みれば、認知症の高齢者はますます増えるのだから、予想外の行動によって、企業ではなく一個人が被害を受け、損害を被る可能性もあるのだ。認知症ドライバーによる人身死亡事故などが、その典型例だろう。そのときに生じた損害は誰が保障するのかという問題も、同時に問われなければならない。

このことに関しては、2013年12月11日に公益社団法人 認知症の人と家族の会が出した意見書でも、「認知症であるがゆえの固有の行動から生じた被害や損害については、家族の責任にしてはいけないというのが私たちの考えですが、しかし、その被害等は何らかの方法で賠償されるべきです。例えば介護保険制度の中にそのための仕組みを設けるなど、公的な賠償制度の検討がされるように提案します。」と、公の賠償の仕組みを求めている。

線路を管理するJR側の安全対策にも限界があり、線路全線を塀で覆うわけにもいかない状況で、どこまで安全対策を講じることができるのかという問題とともに、被った損害を保障して、被害を受けた人が泣き寝入りしなくてよい社会システムを創っていく必要があるだろう。

認知症の人自身の見守りは、地域包括ケアシステムの中に組み込んだ地域ネットワークを活用する必要があるとしても、講ずるべき安全策や損害賠償の仕組みは、国全体で創っていく必要があるのではないだろうか。

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認知症の人の個別性を忘れないように


僕が人前でお話しする機会を初めて得たのは、当地域の老施協研究発表会であった。その時のテーマは、「痴呆老人の対応」であった。(当時は、認知症という言葉はなかった)※以下は当時の発言も含め、現在の呼称・認知症に統一して記事を書かせていただく。(ただし診断名は除く。)

それはもう30年以上前の話で、アルツハイマー型認知症が、アミロイドβというたんぱく質との関連で、脳神経細胞が壊死して発症するのではないかという仮説も一般的ではなかったし、(今でもこれは仮説の一つに過ぎないと言えるのかもしれない。)レビー小体認知症などはまだその存在さえも知られていない時代であった。

当時はポパテという薬が、「認知症の特効薬」として日本中で使用されていた時代で、老年痴呆症という診断を受けた人に、その薬が処方されるのは当然という風潮さえあった。しかしその数年後、ポパテを服薬した多くの方が脳梗塞を発症し、それがポパテの副作用とされ、劇薬指定され、今ではそうした薬害があったことも知る人が少なくなり、ポパテという薬剤名を記憶している人さえ少なくなっている。

そんな中で僕は当時、「医学や脳科学の分野において、今後認知症はどんどん研究が進み、治療法や予防法が確立されるかもしれないけれど、介護の現場の今は、それをただ待っているだけではなく、認知症の人がどのような状態に置かれ、そこで何を必要としているのかを考えつつ、具体的なケアの方法論を創っていく必要がある。」と主張し、様々なケースを取り上げて説明し、何をどうしたらよいのかという考え方を、いろいろな場面で発言してきた。

そんな経緯があって、いつしか僕は認知症のケアにも詳しい人とみられるようになって、介護福祉士養成校やホームヘルパー養成講座などでは、「認知症の理解」という講座の講師を務めるようになり、認知症サポーター養成キャラバンでは、サポーターを養成する際の講師役となる、「キャラバンメイト」を養成する講義を担当するようにもなった。

そして全国各地から依頼を受ける講演でも、「認知症の理解」をテーマにした講演を行う機会も多くなった。

しかし講演テーマとしてのそれは、僕以外にもたくさんの専門知識を持った講師が増えてきたことや、僕自身の興味が、認知症に特化した内容ではなく、ケアの本質論として認知症の人を含めたすべての利用者に相対する方法論として語る機会が多くなってきたことも相まって、認知症に特化した講演機会は、10年前より数は減ってきている。

そんな中、昨週末の日曜日、葛飾区介護サービス事業者協議会主催認知症研修会に講師として招待を受け、認知症に特化した内容の講演を行ってきた。

講演の骨子は、事前にパワーポイントファイルを送っており、ある程度ガイドラインはできていたが、僕の場合はそこでどのような内容を話すかについては、講演当日の雰囲気に左右されることが多い。雰囲気とは、誰が何を求めて会場に来ているかということを肌で感じという意味である。講演当日、僕の感性がどう反応するかでお話しする内容に違いが出てくることになる。

当初、葛飾講演受講者は、介護関係者が多いと聞いていたが、僕が講演前に感じた印象は、その事前情報とは少し異なるものだった。

僕が見る範囲では、思った以上に一般市民の方が数多く会場に来られている。しかもお年を召した方も多い。そうなるとあまり専門知識に偏ってしまったり、業界用語を使って話をしても、わかりづらいと思われる可能性が高いのではないかと考えた。

しかし一方では、介護関係者として専門職の皆さんも数多く来場されていたし、医師会の方々、行政職の方々もおられた。これらの方々には、日頃備わっているであろう、基礎的な認知症概論を展開するだけで終わっては意味がないことになろうとも考えた。そのバランスをどうとるか・・・。

この課題を解決するヒントは、具体的な事例を示したうえで、そこでどのような根拠を持ってケアの方法を考えていったかという過程と、その結果がどうであったかという検証結果をわかりやすい言葉で伝えることではないかと考え、「本来は認知症ケアという特別なケアはなく、それは人に対するケアである」ということと、「ただし認知症という症状を理解して対応を考える上では、認知症の基礎知識を、脳科学や医学知識を含めて、しっかり持つ必要がある」ということを明らかにしたうえで、様々な事例から、認知症の人の行動理解とその対応を明らかにすることに努めた。

サイン本その結果、受講者の皆さんがどう感じてくれたのかは、受講者の方々の評価に委ねるしかないが、講演後の質疑応答では、一般市民の方、介護関係者の方、医師会の方、それぞれからご意見と質問が出されたので、おおむね理解していただけたのではないかと思う。

たくさんの方々に僕の本も買っていただき、サインをさせていただいた。ありがとうございます。

僕たちは認知症の人の立場に立って、そこで認知症の人がどのような気持ちを持つのかを想像し、ケアの方法論を創造することが求められている。しかし同時に、認知症の人の気持ち・感じ方と言っても、認知症だから必ずこう感じるのだということではないことも一面の真実だ。そこに「認知症の人の気持ち」をベースにした典型状態が存在するわけではないのである。

そこでは、どのような状態に置かれた人が、どのようなパーソナリティを持ち、そこで何を感じているかという個別性へのアプローチが必要不可欠だ。同じ状況に置かれた認知症の人が、そこで同じように困っているわけではない。困っていない人もいれば、困っている人がいても、その困り方も様々である。そのことを想像する介護者に、「認知症の人は必ずこう感じているんだ」という思い込みがあってはならない。そこで表情を読み、心情を読み、空気を読むという感性が求められるから、ケアは難しくもあり、面白くもある。

面白いなんて言ったら、不遜だと批判されるかもしてないが、僕たちの感じる面白さとは、人間を愛し、人間に興味を寄せ、関心を持ち続けるという面白さであり、愛の反対語は、「無関心」であることを忘れずに、ケアに関わるという戒めでもある。認知症の人に対して、いつも同じケアの方法論が通用しないという個別性への、「関心」を常に持ち続けることが大事だということである。それは「人」に対する関心であるにほかならない。

認知症という冠を取り外して、一人一人の「人間」に関心を持ち、一人一人の思いに心を傾け、一人一人の声なき声を聴こうとすることが、僕たちが目指すケアであり、それは認知症ケアではなく、まさに人に対するケアでしかない。そういう方法論、そういう実践論を話す事しか、僕にはできない。

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認知症は治るのかという議論について


認知症は治るという人がいる。しかしこれには二つの意味があることを理解すべきだ。

ひとつには、認知症とはそれに繋がる病気や病態が存在して、その病気や病態については治療可能なものがあり、その治療によって、認知症という症状がなくなるという意味である。

早期発見すれば治る認知症の具体例としては、その症状を引き起こしている病気・病態が、アルコール脳症,低酸素症,一酸化炭素中毒,脳炎,髄膜炎,神経梅毒,脳腫瘍,慢性硬膜下血腫,正常圧水頭症などが挙げられる。特に、「正常圧水頭症」については、早期発見すれば外科的手術で8割の方が、認知症の症状が消失し正常に戻ると言われており、そのことは認知症サポーター研修のテキストにも書かれていたと記憶している。

またこれとは別に、「治る」という意味を、症状が良くなるという意味で使っている人もいる。

例えば、現在のところ治療も予防も困難とされている、「アルツハイマー型認知症」の人について、服薬コントロール等で、行動・心理症状が消失、軽減するということを、「治った」と言っている人もいる。たしかに認知症の人をケアする主介護者などが、一番困ることは、起きている間中大声を出したり、徘徊したり、破壊的行為に及んだりすることであり、その症状が消失することで、介護負担は著しく減るのだから、これも「治る」というふうに表現されるのであろうと思う。

ただし、認知症の病系としては最も数の多いアルツハイマー型認知症に関していえば、その原因は今もって不明であり、治療法も予防法もない。

とはいっても研究自体は、以前から続けられているわけで、アルツハイマー型認知症の進捗状況については、脳内に異常なタンパクが蓄積して(老人斑)、脳神経が繊維化し(神経原線維変化)、神経細胞間の連結が消失し、これにより記憶が消失し、認知症と呼ばれる症状を起こしこすことがわかっており、アミロイドβタンパクや、タウタンパクの阻害薬や、ワクチンの研究がされているところである。

そんな中で、一筋の光明が見えたかもしれないというニュースが流れ、その内容は8/19に書いた、「認知症の治療に光明?」でも情報提供したところである。

11/1(日)に、テクノプラザかつしか(東京都葛飾区)で、「認知症を知り、地域で支え合おう〜認知症の症状と対応を考える〜」(葛飾区介護サービス事業者協議会主催認知症研修会)をテーマに講演を行うが、その講演ファイルは、既に完成させ講演主催事務局に送付済みである。そのスライドの1枚が下記であり、それは前記の記事に書いたニュースの内容についてである。

認知症治療法の現状
僕は医者ではないので、治療に関する専門的知識を述べるわけにはいかないが、「最新の情報」として、認知症の治療の試みがどうなっているのかということは講演内容に含めた方が良いと判断して、こんなスライドも作ってみた。このことと筑波大チームの血液診断と絡めて考えると、画期的な治療法が生まれるかもしれないという話をするつもりである。

ところが、このファイルを事務局に送った直後に、イギリスの研究チームが、「アルツハイマー病は、感染症ではないか?」という衝撃的な研究発表を行った。アルツハイマー病で亡くなった方の脳を調べたところ、11人全員から、数種類の真菌種の痕跡を発見されたというのである。もしアルツハイマー病の原因が真菌であるとしたら、アルツハイマー病の治療に、真菌治療が加わる可能性があるということだ。ただこの研究チームは、アルツハイマー病によって抵抗力が落ちたから、真菌に感染したという可能性も否定出来ないとしている。
(アルツハイマー型認知症と、アルツハイマー病という表現の違いについては、「認知症・診断名の違いについて」を参照願いたい。)

このことが本当なのか?本当だとしたら、アミロイド仮説等に基づいた今までのアルツハイマー型認知症の治療や予防の研究は無駄になるのか、それとも役に立って発展するのかなどは、すべて現時点では、「わからない。不明である。」と言うしかないだろう。

要するに、アルツハイマー型認知症には、まだまだ分からない点が多いという事実が明らかになったということである。

何とか一日も早く、アルツハイマー型認知症の原因を突き止め、治療法と予防法を開発して、これが過去の病となることを願ってやまない。ただしその途はまだ遠く、険しいと言えるのだろうと思っている。

さて話は変わるが、本日は私用でお昼から休みをいただき出かけなければならない場所がある。明日はこのこととも少し関連して、現在僕が所属する法人の一大改革に関する話題を記事にしたいと思う。「介護サービスの割れ窓理論」を支持してくれる人で、言葉の改革に取り組んでいる又はこれから取り組みたいと思う人は、是非明日の記事を楽しみにしていただきたい。

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認知症の人の感情が、唯一の真実です。


認知症の人は、何もわからなくなるので不幸も感じないという人がいるが、それは明らかに間違った考え方である。

認知症の初期には、何かおかしいと感じて不安になったり、哀しむ人が多いし、認知症の症状が進行して、記憶保持ができず、見当識が失われた状態になっても、感情は残っているので不安な思いを持たないということはない。

当施設で暮らしている人の中にも、常に声を出している人がいるが、コミュニケーションがとれる時があって、その時に声を出す理由を聞くと、「困っている」という。何に困っているかを表現することはできないが、そこにはその人が困っているという事実が存在しているのである。その原因は、今いる場所がどこかわからなかったり、周囲の人々が誰なのかわからなかったり、今がいつで自分が誰なのかがわからなかったりという様々な理由が考えられる。

僕たちにできることは、認知症の人の気持ちを推し量り、困っているという事実を受け止め、その原因を想像し、その原因を取り除く方法を模索し、具体的方法論を創造していくことだ。

決して行ってはいけないことは、「困る必要はない」とか、「困る理由がない」と、その人の感情を否定し、説得に走ることである。

僕たちにとってあり得ない状況であっても、認知症の人にとってはそれが唯一の真実なのだ。そう感じているという状況を、理屈で覆したとしても、それは何の問題解決にはつながらないのである。

それでは、認知症の人は不幸なのか?と問われたとき、僕たちはどう答えれば良いのだろう。その答えは一つではないだろうが、僕ならば次のように答えるだろう。

認知症になりたい人はいないだろうし、できれば認知症とは無縁に一生を終えたいと思っている人は多いだろう。しかし65歳で7人に一人、85歳で4人に一人が認知症になるという状況を考えると、それは、老いて行く過程でなり得る様態の一つにしか過ぎず、決して運悪く認知症になったということでもなく、恥ずべきことでも嘆くことでもないだろうと思う。

認知症になっても周囲の人が理解的に、その状態を受容してくれれば、認知症の人は心穏やかに安心して暮らし続けることが可能となる。ただし認知症の人を蔑視して、その行動を理解せず、認知症の人の気持ちを推し量ることなく、すべてを否定的に捉えて、説得や行動制限に終始するとすれば、そこで認知症の人は不幸になって、嘆き哀しみ、困り続けるのだろう。

不幸は認知症という症状そのものが作り出すのではなく、周囲の環境が作り出すのだと思う。だから僕たちは、不幸を創りだす人にならない自覚をもって、認知症の理解に努める必要があるのだと思う。一人一人の人が困らないように、何を求めているのかを根気よく探し続ける必要があるのだと思う。

介護サービスの現場で認知症高齢者が感じていることはなんだろうか。例えばそれは、「ここはどこなのだろう、自分は何故ここにいるのだろう、どうやってここに来たのだろう。」、「ここは何で年寄りばかりなのだろう。」、「ここは病院なのか。どして自分がこのような場所にいなければならないのか。」、「あの若い人は何故自分の名前を知っているのだろう。」、「何か薄気味悪い。どうして自分の後を、知らない人がつけてくるのだろう。」、「知らない人が、なぜ自分に話しかけてくるのだろう。」「年下の人間がなぜ自分に横柄な言葉や態度で接してくるのだろう。」ということなのかもしれない。

認知症の人に対し、認知症という冠をつけず、1人の人間として、僕たちはお客様に接する態度で対応しなければ介護のプロとは言えないだろう。同時に介護のプロであれば、サービスの方法論として、様々な引き出しを持ちっている必要がある。そのなかで、生活リズムを整えるという引き出しも大事である。

ある方は、施設入居前から夜型の生活を続けており、入居後も昼夜逆転傾向となっており、朝食は食べないことも多く体重もBMIも減少し、日中には部屋を暗くしてベッドに横になっていることが多かった。

それに対して僕たちは、朝7時に「おはようございます」とカーテンを開けて明かりをつけ、夜の10時には明かりを消すということを、毎日徹底したところ、夜間に居室から出てくる回数が次第に減り、細切れになっていた睡眠時間が改善された。さらに、午前10時からのレクリエーションに参加するなど、日中は居室から出てくることが増えてきた。

こうした経験をもとに、アルツハイマー型認知症で、「入浴拒否が強く、入浴誘導時にスタッフに対する暴力行為もあること」、「飲水量が少なく、主にジュースで水分を摂っていたこと」、「日中傾眠傾向があり生活リズムが一定でない」などの課題があって、65日間入浴できていない人に対して次のような目的と対応方法を考えて実践した。

〇生活リズムをつくるため
・起床時間を同じにして毎日同じ声かけを行い、定時に散歩に誘う
・1日のスケジュールを書いた紙を渡し、本人の不安を解消し生活リズムをつくる

〇飲水量を増やすため
・薬を飲むタイミングを分け、食前食後に水を飲んでもらう

〇定期的に入浴してもらうために
・スケジュールを理解してもらい、入浴しやすい環境をつくる
・表情が穏やかなときに声かけを行うようにする

こうした取り組みを続けていくことで、入所後66日目に入浴支援ができるようになったことがきっかけで、定期的に入浴するという習慣が確立したケースもある。どちらにしても利用者の行動変容には、工夫と時間が必要なのだ。それを行う知恵と、続ける根気と、結果を導き出す決断(結果が出ないならば方法を変えるという時期の決断を含む)が求められるのである。

幸いなことに当施設には、そうした工夫ができ、根気よく実践し、結果を追及するスタッフがたくさんいる。僕には、その実践を言葉や文章にして、第3者に伝えることを苦にしないという特技がある。

そう考えると、僕が全国で行っている「介護実践論」の講演とは、スタッフとの共同作業で生まれていると言っても過言ではない。そしてそうであるがゆえに、そこで伝えるケースは常に同じではなく、新しい実践例が新たに加わり、新しい分析内容が加わっていくことになる。認知症の理解に関する講演もその一つだろう。ただしこのテーマの場合には、基礎的な医学知識・脳科学の知識も少しだけ盛り込む必要があると考えている。

11月1日(日)14:00〜15:30テクノプラザかつしか(東京都葛飾区区青戸)で行われる葛飾区介護サービス事業者協議会主催認知症研修会では、「認知症を知り、地域で支え合おう〜認知症の症状と対応を考える〜」をテーマにした90分の講演を行うことになっている。ここでも概論に終わらず実践論をお話しするつもりである。同研修会はどなたでも無料で参加可能で、申し込みも必要ないそうである。

東京都内の講演は久しぶりになるが、同会場では「介護フェア2015」も同時開催され、介護健康相談や、カフェ、体験コーナーのブースが設置されているとのことであるから、お近くの方はぜひ当日会場までお越しいただきたい。

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認知症の治療に光明?


池袋駅前で乗用車が歩道を暴走して歩行者5人が死傷した事故について、警視庁は、車を運転していた医師の金子庄一郎容疑者(53)を危険運転致死傷の疑いで18日朝送検したという報道があった。

しかしこの事故、ほかの事件・事故とは違って、何か違和感を覚えざるを得ない。

金子容疑者は「歩道に突っ込んだのは記憶がない。疲れて居眠りしていたので覚えていないのかもしれない。駅の近くでラーメンを食べて車に乗った」と供述。呼気からアルコールは検出されず、尿の簡易鑑定でも違法薬物の成分は検出されなかったとのことで、事故原因は、酒酔いや危険ドラッグによる事故ではないことが報道されている。

警視庁は、容疑者に、「てんかん」の持病があったことから、てんかんの発作が事故の原因だった可能性もあるとみて調べているという。

しかしこの事故直後の容疑者の言動や、容疑者の経営する診療所周辺から漏れてくる情報を知るにつけ、どうも様子がおかしいように思う。そこでは、単純なてんかん発作と暴走事故という構図ではない何かが存在するように思えてくる。

例えば事故直後、容疑者が警察官に取り押さえられた際に「何が悪いんだよ」などと大声を出して暴れ、「ケガ人を足で蹴ろうとしていた」などの目撃情報もある。真偽はわからないが、言葉にならない、大きな奇声を上げていたとの情報も報道されている。

さらに容疑者を知る人は「神経質でかんしゃく持ち」などと印象を語っており、診療所の状況を知る人は、「酒もタバコもやらない真面目な人。ただ、新しい看護師が来ても2、3週間ですぐ辞めてしまうのが不思議だった」と語っており、そのほかにも、近くに住む70代女性は、「近所付き合いはなく変わり者として知られていた」と話し「診療所の前に他人の自転車や自動車が止まっていると物凄い剣幕で怒鳴り散らしていた。警察を呼ぶ騒ぎもあった」と過去のトラブルを明かしている。診療を受けたことのある患者からは「診療中に母親に“バカヤロー”と怒鳴っていた」「点滴を打つんだからしゃべるなと怒られた」との声もある。

これらの状況から疑われるのは、容疑者は前頭葉・側頭葉認知症だったのではないかということである。上記の症状や、運転や社会生活はできている状況を考えると、若年性認知症に多い前頭葉・側頭葉認知症の初期段階の症状ではないかと思えるのだ。是非この辺りは十分な検査をしてほしいところである。

ところで認知症については、その予防と治療について大きな前進が見込まれるのではないかと期待できる二つのニュースがある。ヤフーなどのネット配信ニュースからその情報をピックアップすると以下のような内容がわかる。

まず一つ目は、認知症の予防につながるかもしれないニュースだ。

認知症の予防や治療については、「永遠の10年」で指摘しているように、期待する効果が見いだせていないのが現状だった。

だがここにきて、筑波大学の朝田隆名誉教授と内田和彦准教授らのグループが、認知症の前段階と言われる「軽度認知障害」になっているかどうかについて、血液検査で判定できる方法を開発したという報道がされている。

同グループによれば、認知症はその病状が進むにつれ、患者の血液の中では、「アミロイドベータ」と呼ばれる異常なたんぱく質の排出などに働く3種類のたんぱく質が減っていることが分かったという。そしてこれらのたんぱく質を目印にしたところ「軽度認知障害」かどうかをおよそ80%の精度で判定できる検査法の開発に成功したというのである。

しかも、すでに国内およそ500か所の医療機関で検査が行える体制になっているということで、内田准教授は、「認知症は症状が進行してから病院に行っても治療の効果が見込みにくい。この検査をきっかけに早い段階で診断を受け、運動を取り入れたり食生活を改善するなどして認知症の予防につなげてほしい」とコメントしている。

このことが認知症の予防につながっていくことに期待したい。

また治療に関しても大きなニュースが流れている。

九州大学の藤野武彦名誉教授率いる研究チームは、アルツハイマー型認知症患者において赤血球プラズマローゲンが低下することを、2012年に証明していたが、昨年から、臨床試験でこの物質による認知症改善への効果が検証されており、大きな注目を集めている。

プラズマローゲンは、人や動物の組織に存在する抗酸化作用を持ったリン脂質の一種。現在はホタテ貝から抽出したプラズマローゲンが特に有用であることがわかりつつあるそうである。

模臨床試験(試験参加者53人)では、服用開始後、1か月で多数の患者に変化が現われ、3か月後には医師評価(認知症診断テスト・MMSE)と、介護者からの評価で試験参加者の60%に顕著な改善が見られているという。たとえば、言葉や物の意味が不明瞭になる意味性認知症と診断されて3年目の70代の男性。長年連れ添った妻を「うーん、兄弟かな?」と答えるほどの認知症だったが、1か月でMMSE(30点満点)が5点も改善し妻を認識できるようになったそうである。

プラズマローゲンは、アルツハイマー型認知症だけではなく、レビー小体型認知症にも効果があると言われ、特に幻視や自律神経障害の症状は、80%の患者の症状が焼失したというのだから、驚きである。

藤野武彦名誉教授箱の効果について次のようにコメントしている。「プラズマローゲンが効く理由の一つとして、この物質が脳内の神経炎症を防ぎ、認知症の発症に深く関係しているアミロイドβというたんぱく質の蓄積を防ぐこと、さらに、加齢とともに年々減っていく脳の神経細胞を新生することが考えられます。これらの結果からプラズマローゲンが認知症のみならず、多くの脳機能障害を改善することが期待できます。

これは大きな衝撃である。なぜなら「脳の神経細胞を新生」するとしたら、死滅した脳細胞が生まれ変わるということだから、いったんダメージが与えられた脳細胞が、治療によって新生し、認知症が治るかもしれないからである。

是非今後の実験結果に期待したいものである。

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徘徊→歩き回りに変えようと10年以上言い続けています


認知症の人の、「行動・心理症状」の一つに、「徘徊」と呼ばれる行動がある。

辞書を引いて徘徊という言葉の意味について調べてみると、「目的もなく、うろうろと歩きまわること。うろつくこと。」と解説されている。

ところで、2005年に全国に先駆けて「認知症の人とともに暮らすまちづくり」を宣言し、2007年からは市主催で、「徘徊SOSネットワーク模擬訓練」を行い、「安心して徘徊できる町」とうたってきた福岡県大牟田市が、その訓練の名称を、「認知症SOSネットワーク模擬訓練」と変更する方向で話を進めているそうである。

その理由は、「徘徊」という言葉が、偏見や無理解につながるとの指摘を受けたことと、専門家や認知症の人を抱える家族からは「目的なく歩き回るわけではなく、帰宅や買い物など、その人なりに理由がある」といった声が寄せられ、その行動が「徘徊」というにふさわしくないのではないかという指摘を受けたことによる判断だと報道されている。

その考え方については大いに賛同できる。・・・というか、認知症の方が歩き回ることについて、徘徊という表現をやめた方が良いのではないかということは、僕が10年以上前から主張してきたことである。

僕が全国のいろいろな場所で講演を行う際のテーマは様々だが、「認知症の理解」もその主要テーマの一つである。

近直の講演で、このテーマでお話しする機会としては、27年11月1日(日)14:00〜15:30・テクノプラザかつしか(東京都葛飾区区青戸)で行う、葛飾区介護サービス事業者協議会主催認知症研修会での、「認知症を知り、地域で支え合おう〜認知症の症状と対応を考える〜」というテーマの講演がある。(参照:masaの講演予定と履歴)※講演のお問い合わせ、ご依頼はメール等でお気軽に。

そうした講演で使用しているパワーポイントのスライドの1枚が下記である。
徘徊を歩き回りへ
認知症の人が歩き回る理由は様々であるが、それは決して理由もなく歩き回っているわけではなく、その人それぞれに理由と目的があって歩き回っているのである。

例えば、記憶を徐々に失っていく人にとって、現在の記憶から遡って10年前までの記憶がスッポリなくなってしまっている人がいる。そうすると、その人にとっての家族の顔の記憶は、10年前の顔でしかなく、10年後の現在の家族の顔を見ても誰だかわからないということになる。

そういう人にとって、ある日突然、自分の今いる場所に、顔のわからない誰かが住んでいるということが起きる。実際には家族といつものように暮らしていたのに、認知症の人にとっては、気づいたら自分が知らない人の中で生活しているという現象が起きてしまうのである。そうすると、認知症の人にとって、今いる場所は見知らぬ他人が暮らしている家=他人の家と思い込み、そこから出て、自分の家に向かって、「帰る」という理由と目的を持って、歩き回るという行動につながるのである。

そのほかにも、認知症の人はいろいろな理由で歩き回る。しかしそれはすべて理由と目的があっての行動である。(参照:過去に向って歩きつづける人々1〜認知症の理解 ・ 過去に向って歩きつづける人々2〜認知症の理解

だからこうした行動は決して、「目的もなく、うろうろと歩きまわること。うろつくこと。」ではないわけだから、そうした誤解を与えないためにも、徘徊という表現を別な言葉に替えた方が良いと考え、10年ほど前に僕はその表現を、「歩き回り」にしてはどうかと提案したわけである。

しかし残念なことに、この「歩き回り」という表現は、全くと言ってよいほど使われていない。僕自身は行動理解につながる表現変更さえできればよいと考えているので、「歩き回り」という表現にこだわりはなく、徘徊に替わる別の良い表現方法があれば、そちらを使いたいと思うので、アイディアをお持ちの方は是非教えていただきたいと思う。

ところでこうした提言を行うと、必ず外野から文句を言う連中がいて、「単なる言葉遊び」とか、「言葉狩り」とか、ちゃちゃを入れる輩がいる。そういう連中に限って、なんら建設的意見も持たず、実践論もない反対のための反対論者でしかないが、この表現変更は、決して意味のないことではない。

認知症の人々の中核症状は、今のところ医学の手も届いていないし、ましてや介護で中核症状が軽減されることはない、しかし行動・心理症状には、介護の手が届くのである。

中核症状とは、脳の細胞が壊れることが原因で起こる記憶障害、見当識障害、理解・判断力の低下、実行機能の低下であり、脳の変性、気質変化そのものが原因となtっており、治療やケアにより改善するものではない。しかし行動・心理症状は、中核症状がもたらす不自由のために、日常生活のなかで困惑し、不安と混乱の果てにつくられた症状なのだから、この不安と混乱につながっている身体的要因、心理・社会的要因、環境的要因が何かを探り、その要因となっているものにアプローチして状況を変えることによって、認知症の人の行動・心理症状が軽減したり、消失したりするのである。

つまり行動・心理症状は暮らしのなかで、ケアによって必ず治るのである。

歩き回る行動もしかりである。その理由と目的をしっかり把握し、歩き回る理由にアプローチして、歩き回らなくてよくすることが、行動心理症状で歩き回っている人に対するケアなのである。だから、歩き回っているという行動に、理由も目的もなくうろついているというイメージを植え付ける「徘徊」という表現は、適切なケアにつなげるバリアになりこそすれ、なんのメリットもないので、変えた方が良いのである。

つまり徘徊という表現を変えることは、認知症の理解を深め、適切なケアのために視界を広げるためにも必要だという意味なのである。

同時に徘徊という表現を変更したほうがよいという提言は、あくまで正しい行動理解につながる意識改革であり、それは単なる「言葉遊び」、「言葉がり」ではないし、そのように批判する輩の意識レベルの低さが、認知症の人の行動を理解せず、権利侵害が続けられる元凶にもなっていることを指摘しておこう。

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認知症の高齢ドライバー対策の法改正について


先週土曜日の夜、北海道砂川市で起こった一家5人の死傷事故が痛ましい。僕は高校・大学時代を通じて同じ空知管内の岩見沢市に住んでいたので、事故現場の国道12号線はよく通った道路だ。本当に見晴らしの良い広い道路であるが、あの直線が29キロにも及んでいることは、今回の事故報道で初めて知った。

しかし事故の様相が明らかになるにつれて、亡くなった家族の軽自動車にぶつかった車と、後続していて投げ出された長男を1.8キロも引きずった車のドライバーは、ともに飲酒運転で100キロ以上のスピードを出し、赤信号を無視した疑いが強いというのだから、これはもう事件である。

死傷された一家は、軽自動車の定員を超えて5人が同乗していたのだから、まったく非がないと言えないのだろうが、それにしても加害者の状況はひどすぎる。

このような事故のニュースに触れると、文明の利器であるはずの車の怖さがよくわかる。それを走る凶器にするもしないも、ドライバーの自覚ひとつにかかってくるのだから怖い。特に北海道の道路は、広くてまっすぐな道路が続居ている場所が多いので、ついついスピードがオーバーしがちでる。自分も気をつけなければならないと自戒している。

しかしスピードを出している自覚や、危険な運転状態になっているという自覚ができないまま事故につながっているのが、認知症高齢者の交通事故である。「早急なる認知症ドライバー対策を求めたい」でも指摘しているが、運転動作というものは、「手続き記憶」であり、エピソード記憶や意味記憶を失っても、最後まで残る記憶であるために、家族の顔や名前がわからなくなったり、直前に何をしていたかがわからなくなった人でも、運転という行為だけはできてしまうのである。よって車の運転はできるが、見当識障害があるために正常な運転動作ができず、いろいろな場所に車をぶつけて、やっと動かしている状態であるにもかかわらず、運転している認知症の人には、車を何かにぶつけたという記憶が残らないために、正常に運転していると思い込んでしまうという状態になる。こうした認知症ドライバーは、考えられている以上に多いのである。

この問題に関連して、認知症の高齢ドライバーによる事故を防ぐため、75歳以上の運転免許制度を見直す改正道路交通法が、11日の衆院本会議で可決・成立した。

認知症対策強化の道路交通法改正イメージ左の画像は、北海道新聞が今朝の朝刊で改正法の概要を図解しているものである。

とてもわかりやすいのでその図を写真画像にして紹介してみた。このように75歳以上の人の免許更新時に認知機能を調べる検査が行われているが、現在は「認知症の疑いがある」と判定されても、道路の逆走など、認知症と疑われる違反がなければ医師の診断を受ける必要はなく、原則、免許は更新されていた。しかし改正法では「認知症の恐れ」と判定された場合には、医師の診断を義務づけ、正式な診断が出れば、免許停止か取り消しとされた。

また、次の免許の更新までの3年間に認知症の症状が進む人もいるため検査で「問題なし」とされた人でも、逆走など認知症と疑われる交通違反を起こした場合は臨時の検査を受けることになり、この場合も「認知症の恐れ」と判定された場合には、医師の診断を義務づけ、正式な診断が出れば、免許停止か取り消しとされた。

これによって免許取り消しとなる高齢ドライバーは、確実に増えると予測される。高齢者の移動手段が自家用車に頼らざるを得ない地域では、そのことを危惧する声もチラホラ聴こえてくるが、だからと言って、認知症となっていることの自覚がない人の危険運転を放置してよいはずがない。危険運転の自覚がないまま事故を起こし、他人の命を奪った記憶さえないというのでは、事故死した方が浮かばれない。認知症の人が運転する車の事故で死亡するのが、運転していた人のかわいい孫であるという悲惨なケースだってあるわけだから、人の命にかかわる問題として考えるのならば、この改正は望まれる方向であると言ってよい。

しかしこの改正道路交通法が施行されても、認知症高齢者の運転事故は無くならないだろう。免許更新の3年間に臨時の検査を受けるようにされたとはいえ、それは、「逆走など認知症と疑われる交通違反を起こした場合」という条件付きである。その事故によって、人の命が奪われたとしたら、それは取り返しのつかないことである。

そうであるならば、何度かこのブログで指摘しているように、「手続き記憶」だけで運転できる車を作らないようにしてほしいのである。認知症ドライバーの多くが、アルツハイマー型認知症の初期症状であることを考えると、発症初期から衰える、「エピソード記憶」や「意味記憶」に着目して、その二つの記憶を使わないと運転ができない車をスタンダードにしてほしい。

そしてそれはさほど技術と費用をかけなくてもできることだと思う。

どなたかが提案していることで、僕の発案ではないが、例えばイグニッションキーを回したり、スタートボタンを押したりするだけでエンジンがかかるのではなく、自分が設定した暗証番号もしくはパスワードを入力して、キィーを回すか、スタートボタンを押さないとエンジンがかからない車をスタンダードにすれば、認知症を発症した初期から、車の運転ができなくなる可能性が高い。暗証番号やパスワードを覚えているというのは、「意味記憶」であり、仮にそれを忘れたことに備え、どこかにメモをしているとしても、メモしているという記憶と、そのメモをどこに置いているかという記憶は、「エピソード記憶」であるから、「手続き記憶」だけで運転できてしまうということを防ぐことができるのである。これは極めて有効な対策ではないだろうか。

国はこのことを自動車メーカーに要請してもよいのではないだろうか。

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認知症の人の家族が哀しむもの


在宅で認知症の人を介護している家族の中には、いろいろな人がいる。介護に対する考え方も、認知症になった家族に対する思いもそれぞれだが、中には「介護の達人」と称してもよいような素敵な対応をしている家族もおられる。

それは誰から教えられたものでもなく、様々な形で認知症の家族と、その症状に向かい合う中で得てきた独自の方法だったりする。そしてその根底には、家族に対する深い愛情が存在している。そうなると、僕らはそれらの人に教えられるばかりで、物知り顔にアドバイスしても、自分の言葉が空虚に感じてられてしまうことさえある。

自分の夫の顔さえ分からなくなった認知症の奥さん。しかしその奥さんから、また今日もプロポーズされたと照れる夫。認知症の人の脅威にならずに、愛され続ける存在になるように対応することは、夫婦という最も近い関係であるがゆえにむずかしいことが多いが、ごく自然に認知症の人にとって一番信頼できる存在になっている夫の姿は凛々しくさえある。

我々は時として、認知症の人やその家族から学び取るという姿勢も必要とされる。我々が知っている方法論などは、積み重ねてきた家族の愛情深い関係性の前では、全く意味のないものに過ぎなくなる場面は少なくはない。その時に真摯に学ぼうとするか、無視して理解しようとしないのか、木で鼻をくくるかのような態度で臨むかによって、支援の質の差は広がるだろう。

家族の中には、自分の父母が認知症になったことにショックを感じる人も多い。まさか自分の親が認知症になるなんてと嘆く人もいる。それだけ親という存在は、子にとって頼るべき存在であるということで、そうしたショックや嘆きの感情を持つことを否定する必要はない。そこからいかに立ち直り、自分の親の認知症を受け入れて、認知症という症状があっても、その冠を取り払い、子として、人として、どうかかわるかということを理解していくことが大事である。

そうした経験を経て、認知症の人を介護している家族にとって、介護している親が認知症であったとしても、それは「認知症の親」ではなく、「親」なのである。

我々はそこを間違えてはならない。認知症についての正しい症状理解があることは大事だが、介護支援に当たって、支援対象者を常に「認知症」というフィルターをかぶせて見なければならないわけではない。その人の認知症の症状への対応は、混乱につながらないように症状理解したうえで対応すべきではあるが、その人との関係性は、人が人に向かい合う基本姿勢を貫くことでしか成り立たない。

そこにいる認知症の人は、認知症という状態にあるのかもしれないが、それはその人の存在を語るうえで唯一その存在を規定する状態ではない。その人には、それまで生きてきた生活歴があり、その中で培ってきた様々な人との関係性があり、その環境の中で存在している人として見る必要がある。

その人は、認知症の症状があるとしても、誰かにとっても親であり、祖父や祖母であり、愛する人なのだという理解が必要だ。そのことを決して忘れないでほしい。

認知症の人を家族に持つ人々が、抱く哀しみには様々なものだある。その中でも特に心に深く突き刺さることは、自分の親を、年端もいかない若い介護職員や看護職員が、子供に対するような言葉遣いや態度で接することだ。指示命令口調に終始し、年上の利用者であるという意識に欠けた対応に終始することだ。

それが介護施設であれ、医療機関であれ、居宅サービスの場であったとしても、哀しみの感情を、家族がストレートに介護支援者にぶつけることは難しいだろう。自分の抗議によって、人知れず誰もいない場所で、自分の愛する家族が虐待されるのではないかという不安を常に抱えているのが、家族という存在である。

表の掲示板の「ババって言ったことも憶えていない?」のケースのように、家族は、「職員に物申したら義母の待遇が悪くなったら困る」と考え、じっと我慢するしかないという実態があるのだ。そんなことを当たり前にしてはならない。介護サービスは人を傷つけるためにあるのではない。介護サービスは、人を哀しませるためにあるのではない。

人の暮らしと心を護り、笑顔を作る介護サービスではないと、その存在価値はなくなる。そのためにも、言葉や態度を崩すことが親しみやすさであると勘違いする風潮をなくしてほしい。認知症のことを。「ニンチ」などと略して表現し、家族がその物言いに差別感を抱くようなことをなくしてほしい。(参照:認知症をニンチと略すな

認知症の人と、その家族を蔑むような言葉や態度をなくしていかない限り、介護によって知らず知らずのうちに傷つけられる人はいなくならないだろう。そしてそれは、自分や自分の愛する誰かの身に降りかかってこないとも限らないのである。

介護のプロとして、誰かの暮らしを護る最前線に立つ職業に就いているという使命と誇りを護るために、どうぞ人を哀しませる人にならないようにしてください。

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施設から在宅介護者へのメッセージ


先月の初めに書いた記事『機関紙「ホームヘルパー」の連載について』で紹介したように、日本ホームヘルパー協会という団体が発刊している「ホームヘルパー」という機関誌に、今月から3ケ月間に限って連載することになっている。

この連載が決まったのは2月の下旬で、同誌を制作している会社の担当者からメールをいただき依頼されたものである。担当者の方とはそれまで一切のつながりはなく、当然面識はなかったわけであるが、僕が書いた本や、このブログ記事を通じて、僕を知っていただき連絡をいただいたものだと思う。
※原稿や講演の依頼は、こうした形で突然メールで連絡いただいて、何の問題もないので、お気軽に相談していただきたい。

さてそのメールを受信したのが2月の下旬であったが、その数日後にたまたま戸塚で講演予定が入っており、その会場に担当者の方が挨拶と打ち合わせに来てくださった。その場で4月号から6月号までの3回分の原稿のテーマをいただき、最初の原稿を3月中に書き終え、それが掲載された冊子が先週刊行された。

冊子ホームヘルパー
ご覧のように、連載テーマは、masaの「施設から在宅介護者へのメッセージ」(これは製作会社の指定テーマ)であり、第1回目は「訪問介護員に求められるスキルを考える」(これは筆者が考えたテーマ)とさせていただいた。

この冊子が15部送られてきたが、僕の手元においても仕方ないので、当施設併設の居宅介護支援事業所が日ごろ利用させていただき、お世話になっている訪問介護事業所に数部配り、残りをフェイスブックで繋がっている人で希望する人に差し上げようと、僕のタイムライン(※友達として認定していない人は記事が見えない設定にしている。友達リクエストは、メッセージがないものは無視している。メッセージとともに自己紹介がある方は、基本的に承認している。)で呼びかけたところ、30分もしないうちに手持ち部数がなくなる希望があり、その日のうちにそれらの人に、僕の落款入りサインを書いて郵送した。おそらく手元にはすでに届いたことだろう。ご査証いただきたい。

この冊子は年10回発行だそうだから、もう次の原稿締め切りが近くなってきている。だからと言って原稿締め切りに追われて焦るということはない。

僕はほかにも連載を4本別に持っているが、この冊子の連載は前述したように3回に限っての連載であるし、製作会社からは「これこれの方向で書いてほしい」という希望もいただいているので、頭の中ではすでに3回分のテーマは決めている。あとはその内容をまとめるだけである。字数は3.500字程度とされているので、僕にとっては書きやすい字数である。

のコリ2回分についても、5月号は認知症をテーマに、6月号は在宅介護者の方に、施設サービスをどのように考えていただくかというテーマで原稿を書こうと思っていた。幸い先週の土日は休みだったので、5月連載の原稿をその2日間で書き上げることができた。そして今朝、推敲を終えた原稿を入稿したところである。

認知症をテーマにした理由は、次のような考えからだ。

全ての地域で求められる地域包括ケアシステムの構築と、その基盤強化を考えたとき、そのシステムが目指すものはいくつか挙げられるが、その一つが、「認知症になっても住み慣れた地域社会で暮らし続けることができること」である。

現在65歳で7人に一人が認知症であると言われるが、実際にはもっと多くの人が認知症になっている可能性が高いとも言われる。

そのような中、全ての地域住民にとって、認知症の問題とは、他人事ではなく、自分自身に何らかの形で関わってくる問題ともいえる。そして訪問介護は、地域の中で介護の最前線に立って、認知症の人と、その家族に向かい合って暮らしを支える役割りを持たざるを得ない。その時に訪問介護員に、認知症に対する正しい理解が求められ、訪問介護員が認知症の人の暮らしを護る支援の最前線で活動しながら、その家族の精神的支援をも担っていくということが求められてくるだろう。

それがないと地域包括ケアシステムは、概念あって実態なしという状態になりかねないと言ってよいほど、訪問介護員の役割は大きくなると思う。

そういう意味から連載2回目は、認知症の混乱要素や、暮らしにくさとはなにかということを、認知症という症状の特徴から理解するとともに、そこで求められる基本姿勢などを提言した内容とした。どうぞ次号にもご期待いただきたい。

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手続き記憶だけでは運転できない車を作ってください


認知症の症状がある83歳の男性が、高速道路を逆走して事故をおこし亡くなる事故があった。

(毎日新聞)WEB記事 2015年01月07日 11時29分配信より
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7日午前0時25分ごろ、東京都板橋区泉町の首都高速5号池袋線で、上り車線を逆走していた茨城県稲敷市江戸崎甲、無職、徳田順良(としろう)さん(83)運転の軽乗用車が大型トラックと正面衝突し、さらにトレーラーに接触して停車した。徳田さんは病院に搬送されたが、腰の骨を折るなどして死亡。トラックやトレーラーの運転手にけがはなかった。警視庁高速隊によると、徳田さんは認知症で、6日正午ごろに外出したまま連絡が取れなくなり、家族が茨城県警に届け出ていた。同隊で事故の状況を調べている。
 現場は片側2車線の直線。事故の影響で5号池袋線上りは美女木ジャンクション−板橋本町間が7日午前4時過ぎまで通行止めとなった。同隊によると、徳田さんは事故を起こす数分前にも、現場近くでタクシーと接触していたという。(転載ここまで)
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認知症の人による死亡交通事故は増え続けている。この背景には、運転ができるということで、本人が自分の判断能力の衰えが理解できないという理由のほかに、それらの人々の家族の意識の中に、「運転ができるうちは認知症ではない」とか、「運転ができているのだから大丈夫だ」という誤解があるように思えてならない。運転ができる状態は、認知症とは言えないということはないし、運転ができるうちは認知症であっても症状が軽度で、運転操作に支障はないと考えるのは大きな間違いである。

認知症の高齢者の方の交通事故の問題については、過去にも何度かこのブログ記事の中で指摘してきた。(参照:早急なる認知症ドライバー対策を求めたい。

アルツハイマー型認知症の初期症状は、「記憶障害」であるが、記憶とは、過去の出来事としての情報を覚える、「エピソード記憶」と、物の色などの意味の情報を覚える、「意味記憶」と、仕事の手順などの情報を覚える、「手続き記憶」の3種類に区分される。

そのうち「エピソード記憶」と「意味記憶」は早い段階で失われるが、「手続き記憶」はかなり後まで残ることが知られている。その理由は、「手続き記憶」だけ回路が異なるからだからと説明されている。

この手続き記憶が比較的晩期まで残ることを利用したケアが、ユニットケアの中で取り入れられている、「生活支援型ケア」である。

それは過去の生活習慣等に基づいて、できることを探してそれを続けるというケアである。例えば、一家の主婦であった認知症の女性なら、家事を行うことができる部分が残っているので、日常生活の中で、その家事能力を発揮できる場面を作りながら生活支援を行うのである。これは「家事の記憶情報」という「手続き記憶」が失われていないから可能になるケアである。

運転の手順も、「手続き記憶」なのである。そのためエピソード記憶と意味記憶が失われても、運転操作ができてしまう認知症高齢者は多いのである。しかしこの場合、運転操作がすべて正常にできるとは限らない。むしろ判断能力等の衰えがある場合が多く、正常な運転操作ができていない例が多い。そのため、所々で車をどこかにぶつける小さな事故を起こし、車のいたるところがへこんだりしていることが多いが、その場合でも車をぶつけたという記憶は、「エピソード記憶」であるためにすぐに失い、自分が運転操作を誤って、車をどこかにぶつけたという記憶はないため、自分は事故など起こさない正常な状態だと思い込み、運転をしないでおこうとは思わないのである。

僕が実際にかかわったケースでは、郊外のデパートに自分で車を運転して出かけているのに、駐車場に車を止めて買い物しているうちに、自分がデパートに車で来たことを忘れて、帰ることができなくなって保護されたケースがある。その時、駐車場で確認した車は、いたるところがへこんでおり、どこかで必ず物損事故を起こしていることが容易に想像できる状態であった。それはやがて大きな人身事故につながる危険性を孕んだ状態と言えよう。小学生の通学の列に認知症の人が運転する車が突っ込み、事故を起こした当事者は、そのことの記憶がないなんて言う悲劇が生まれないとも限らないのである。

そのような人は、車のキィーを置いた場所を忘れて、見つけられないことも多いが、運転操作自体はできるため、キィーを誰かが隠したり、盗んだと訴えるという別な症状につながることも多い。キィーが見つからないから車を運転しなくて済むという単純なことではないわけである。

そうすると、この問題の解決策の一番の決め手は、運転操作が、「手続き記憶」のみでできてしまわないように、そこにエピソード記憶又は意味記憶が必要となるようにすることが考えられる。

上に張り付けたリンク記事のコメント欄に、CBさんという方が、「自動車ジャーナリストの国沢光宏さんが、暗証番号式のエンジン始動システムを作れないか。」と提言していると情報提供してくださっているが、これは良い方法だと思う。

現在のエンジン始動システムは、自動車のエンジンキーを差し込んで一段回すとメインスイッチが入り、さらに回すとスターターモーターが回転するという「イグニッション‐キー方式」または、キィーを持った人がスタートボタンを押すとエンジンがかかるという方式が一般的だが、これはすべて手続き記憶で行われる行為である。ここに「暗証番号」を打ち込むという行為を入れると、「暗証番号を記憶している」というのはエピソード記憶と意味記憶の両方が必要な記憶回路であるから、認知症の初期症状の人でも、エンジンをかけることができないということになるだろう。

そうなれば本人も、自分の正常でない状態に気が付く可能性があるし、少なくとも周囲の人は、その危険性に気が付くであろう。

エンジンスタートに暗証番号を入力するシステムというのは、現在の技術でいえばさほど難しいシステムではないし、さほど高額な装置が必要になるシステムでもないと思う。日本の技術水準でいえば、安価でそのシステムを採用した車の製造が可能ではないのだろうか。そうなればその車製造の技術は世界からも注目され、そうしたシステムを搭載した車は、世界中から求められるのではないだろうか。

自動車メーカーには、是非そのようなシステム開発に力を注いでもらいたいものである。

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自己満足だけで終わっちゃいけないけど、自分が満足することは必要だ。


対人援助で必要なスキルとは何か。当然そこには専門知識や援助技術がなければならない。

しかし対人援助の難しさは、相手が感情を持つ人間であるという点で、一定のルーチンワークをこなすだけで必ず結果が出るというわけではないということであり、知識や技術だけで解決できない問題がたくさんあるということだ。

ここを面倒だと感ずるのか、単純化できない人間というものの存在の素晴らしさを感じ取り、そうした人間に係る職業にやりがいを感じるかの差が、スキルの差に直結していくのではないかと思う。

僕は対人援助の職業に就く人に求められるスキルとして、「一番近くで気づくことができる能力」というお話をさせてもらう機会が多い。近くであるがゆえに見えなくなるものがある。機械的にかかわることで、利用者の感情の揺れに気が付かず、自分が行っている行為が、利用者にとって辛く苦しい行為になっていることに気が付かない場合もある。そうしないように、常に利用者の立場に立って、その表情を見て、声なき声を聴いて、色々なことに気が付く人でなければならないと思う。だから対人援助の専門家には、気づくための「想像力」が必要だ。

どういうことに気づき、何がきっかけで気が付くのかはさまざまなケースがあるので、講演ではそのことをわかりやすく説明するために、当施設での実践から、「気づき」がどのように生まれ、それを介護にどう生かしているのか、新たなルーチンワークがどのようなことがきっかけで生まれたのかという具体例をお話しさせていただいたりしている。

ただし「気づく」ことは、そこで終わっては意味がないという理解も必要だ。気づきをケアに生かしてこそ暮らしは変わる。気づきをルーチンワークに反映させることによって暮らしの質は向上するのである。だから対人援助の専門家には、気付きをケアに生かすという、「創造力」が求められるのである。

認知症の人の場合は、特にこの「想像力と創造力」が求められる。認知症の人が何も訴えられないわけではないし、自分がしてほしいことを訴えることができることもある。しかしそのことを正しく伝達する方法を見つけられないなど、様々な状況で自分がこうしたい、こうしてほしいということを伝えられないことが多い。

何らかの行動で訴えているのに、伝えられないというのが、「行動・心理症状」の一つの側面でもある。

その時に、僕たち対人援助に関わっている者は、認知症の人の過去の生活歴から得たヒントを基に、その時の表情や、感情の揺れから様々なことを想像し、「こうしたいのではないのか」、「こうしてほしいのではないのか」という答えを導き出す努力を行い、何をすべきかを考える必要がある。

この一連の過程を、「代弁機能」と称している。アドボカシー(advocacy)、とかアドボケイト(advocate)も同じ意味である。

この時僕たちは、一生懸命認知症の人の声なき声を言葉に替え、文章にしてプランを練り、創造力の結果として具体的なサービス行為を組み立てるわけである。しかしそのことに対して、認知症の人自身は採点してくれない。良いとも悪いとも言ってくれない。だから僕たちは、認知症の人の表情や暮らしぶりに変化があったのか、よくなったのかで判断するしかない。

その時、その変化は微々たるものであるのかもしれない。しかしそこであきらめてしまわないことが必要だ。この人はこうしたいのではないか、こう思っているのではないかという想像を辞めたときに、ケアは画一化して、支援行為はおざなりなものになり、人の暮らしをよくする目的は果たせなくなるだろう。

認知症の人の気持ちを代弁する過程で、その人の希望やニーズを計画書に落とす時に、「もしかしたら、これは利用者の満足感を充足させるものではなく、自己満足のための内容になっていないか」と悩んだりする人がいるかもしれない。しかしそのような悩みは持つ必要はないだろう。

神ならざる僕たちは、いくら頑張っても、気持ちを代弁する人の気持ちそのものにはなれないのだ。正答率も100%ではないだろうし、その率は自分が思った以上に低いかもしれない。しかしあきらめずに想像し続け、自らの気付きを促し続け、代弁しようとし続けることが一番求められていることであり、それが認知症の人の気持ちに寄り添うという意味ではないのだろうか。

そもそも自分が満足できない方法論は、他人も満足してくれないだろう。他者の立場、他者の視点に立とうとする人が、満足感をもてる支援内容であれば、それはきっと自己満足で終わることなく、代弁しようとする人の満足感につながっていくはずだ。

そのことを信じて、想像し、気づき、創造し、代弁する人になり続ける必要があると思う。

介護施設や介護サービス事業では、そのことが「あきらめない介護」の基礎となる。

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高室さんのメルマガでハッとさせられたこと


今から7年前、兵庫県の丹波篠山市で行われた、「2007ひょうご地域包括ケア研究大会」に講師としてご招待を受けたことがある。

その大会は2日間の日程で、僕は初日の後半の講師役を務め、翌日2日目の大会には参加せずに北海道に帰ったが、2日目の講師役を担当する方々と、初日の大会後の懇親会でご一緒した覚えがある。

その時に初めてお会いした方の中に、ケアタウン総合研究所の高室成幸さんがおられた。そこで名刺交換をさせていただいたのであるが、それをご縁に以来ずっとケアタウン総合研究所からメールマガジンを送っていただいている。つまり僕は7年前からずっと高室さんのメルマガの隠れ愛読者なのである。

そのメルマガには毎回、高室さんのいろいろなご意見が載せられているが、高室さんのお人柄がにじみ出ているかのような優しい文章が並んでおり、毎回の読後にはとてもさわやかな気分にさせられる。人品の低い僕のブログ記事のように、人を不快にさせるような言葉も文章もなく、高室さんと僕の人としての品格の違いを感じさせられてしまう。

そんな高室さんのメルマガが昨日も送られてきたが、そこに書かれている内容を読んで、ハッとさせられることがあった。

それは高室さんが出会った方のうち、親がグループホームに入所している家族の方の意見の紹介文章である。高室さんには事後承諾で転載の報告をしようと思うが、その文章とは以下のような言葉である。

グループホームで根掘り葉掘り聞かれるのが苦痛でした。ケアマネさんが理由を言ってくれないので。その人らしいと言われますが、私たち家族にとっては嫌な母でした。それを思い出すことは苦痛だし、話すことはつらかった。」(ケアタウンメルマガ∞元気いっぱい第411号より引用)

ハッとさせられる言葉である。

僕たちは、認知症の方々の支援過程において、「寄り添うケア」という言葉を使うことがある。それは実体のない漠然とした自己満足のフレーズではなく、その意味は認知症の人たちの行動に付きまとうのではなく、できないことをできるようにするのでもなく、できることを続けられるように支援するために、認知症の人たちの過去の生活習慣からヒントを見つけながら、したいことは何か、今何ができるのかを見つけ出そうと、認知症の人の「思い」に寄り添うという意味である。

つまり僕たちが言う、「寄り添うケア」とは、アボドカシー(advocacy:代弁機能)の具現化を意味するものである。

そのため自分の過去の歴史を正確に語ることが難しい認知症の人に替わって、その方のひととなりや、過去の生活習慣や、その人の歴史について、よく御存じと思われるご家族にお話を聴くことが多い。そしてそのことを当然のように考えて何も疑問も持たずに行っている。

しかし僕たちはその際に、そうしたことを聞き取る意味や理由をきちんと説明し、ご家族に納得してもらったうえで、話を聴きだしているだろうか。ご家族の心の土足で入りこんで、心中深くに存在する傷跡を抉り出すような結果をもたらしてはいないだろうか。認知症の人の代弁機能を意識するあまり、家族の喜怒哀楽に鈍感になってはいないだろうか。

僕たちの気持ちの中に、家族が親の生活史やエピソードを、介護サービス提供者に話すことは当然だという気持ちが少しでもあれば、家族はそのことで知らず知らずのうちに傷ついているかもしれないと思った。

当施設では看取り介護を行った後に、デスカンファレンスをして評価するようになってから職員の意識に変化が見られ、介護職員が、「ご家族の思いに触れ、その人とのエピソードを聞き、時には共に涙を流すことの大事さに気づき、家族とも寄り添う時間を持てるようになってきた。」と職員自身が評価し、そうであるがゆえに、「面会時にスタッフが家族に進んで声をかけるようになってきた。ご家族のリアルな声を聞く機会が増えてきた。」という声が挙がってきている。

しかし家族に声をかけ、利用者の過去のエピソードや人となり、家族の利用者に寄せる思いを聞き出すことは、十分な説明がない状態では家族にとって苦痛でしかない場合があること、ときとしてそれは家族の心の中に存在するトラウマに触れてしまう恐れがあることを意識しなければならないと思った。

ケアタウンメルマガ∞元気いっぱい第411号の中で高室さんは、次のような文章を書いて僕たちに警鐘を鳴らしている。

目的を伝えない質問は尋問です。素敵な思い出ばかりではありません。

このこと言葉を深く胸に刻んで、尋問しない人にならなければと自戒した。高室さん、ありがとうございます。

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認知症の人の排泄障害の状態と対応から考える排泄ケア


お盆を過ぎて、少し涼し風が吹いてきたかと思うと、今日の登別はまた気温が上がっている。とはいっても気温は27度〜28度くらいだから、猛暑の本州などと比べると、涼しいということだろう。しかし高齢者施設の場合、この程度の気温でも室内熱中症に注意が必要だ。そのため水分補給の促しは欠かせない。

そんな中、午前中に行ったケアカンファレンスでは、水分摂取量が足りない複数の方の状況が明らかになり、早速介護係長を通じて、摂取量のチェックと必要水分量の確保を指示した。

ところで全国老施協が「科学的介護」の実践の結果として推進する、「おむつゼロ」の取り組みと、その定義は以下の画像のとおりである。

介護力向上講習
その目的はよしとして、方法論が個別アセスメントのない食事以外の1.500ml/日の水分摂取であることは問題だということは、このブログで何度も指摘してきた。

ところで「おむつゼロ」の定義をよく読むと、必ずしも排泄がトイレで行われている状況を示すものではなく、排便がトイレもしくはポータブルトイレで行われている状態のことを指すもので、排尿についてはパット等の交換でも良いとされている。そもそも「パット等」の等ってなんだ?パンツ式のおむつでも等に入るのか?

しかもおむつゼロを達成したとして表彰されている施設のホームページなどで、その状況報告を読むと、「おむつゼロ」とは、あくまで日中の状態であり、夜間は含まないようである。これって看板に偽りありと言えないのだろうか?

そもそもおむつを外すための方法を、個別の健康状態等をアセスメントせずに、食事以外に1.500ml/日もの大量の水分を摂取させ、引きずるように廊下を歩行させて、便器に座らせるという偏った方法でのみ考えるから、「座位がまともにとれない方であってもポータブルトイレへ極力誘導させられ、無理やり座らされて苦痛にゆがんだ表情は無視されます。」、「歩行訓練になるともっと悲惨で、片麻痺・拘縮のある方を3人、4人がかりで歩行器で引きずるのを歩行訓練と称してます。 しかもそれは家族には見せません。」などというおかしな状況が生まれる。

ここに暮らしの質が存在するのか?人は幸せでいられるのか?社会福祉ってそういうものか?

では無理なくすっきり排せつするためにはどうしたらよいか?特に認知症の人で、排泄感覚に問題がないのに、排泄行為が正常に出来なくなる人がいるのはなぜかという方向から、排泄援助について考えてみたい。

まず排泄の仕組みを考える上で理解しなければならないことは、人間は1分間に平均1mlの尿を体内で24時間絶え間なく作っており、便は食事を摂ってからおよそ24〜48時間で作られ、どちらもオートマチックでコントロールできないということである。

しかしこれらの体外への排出は、様々な判断のもと随意筋を動かすことで行われ、人間の意思や判断力というものが重要になってくるのである。そして一般的には、排尿回数は日中4〜8回、夜1〜2回。排便は1日に1回〜2日に1回程度である。しかしこの数値を見て分かるように、一般的というにはかなり差があるということであり、加えて一般化できない個別性も存在しているということの理解が必要だ。

次に排泄するために必要なことを考えた場合、次の2点が始めに求められる能力であることがわかる。

1.腎臓で作られた尿が、膀胱に溜まったときに尿意を感じる力が必要
2.膀胱容量の半分くらいで尿意を感じる→尿意の強弱が分かるという能力が必要→どこまで我慢できるかが分かるという見当識が必要

そしてトイレに行くことを支える力、 排泄することを支える力を考えると、次の3つのことが、「わかる力」が必要であると言える。

1.トイレの場所が分かる
2.トイレの使い方が分かる
3.排泄を開始する動作がわかる

さらに排泄中.排泄後に必要な力は別にあり、次の4つの能力が求められる。

1.腹圧をかけて尿を出す力
2.腹圧のかけ方がわかるという見当識
3.腹圧をかけるタイミングがわかるという見当識
4.後始末をする道具(トイレットペーパー等)の使い方がわかるという見当識

また尿を排出するときは尿道が弛緩するが、このとき副交感神経が作用しているのである。そうであれば副交感神経はリラックスすることで働くので、気持ちが落ち着ける環境が必要であるが、認知症の人は、トイレで道具の使い方がわからなくなったり、自分がどこで何をしているのかが分からなくなって混乱し、落ち着かなくなって適切な排泄行為ができなくなる場合も多い。

また排泄行為の障害となるものは、認知症や身体障害という問題だけではなく、体の奥深くに隠された病状によるものもある。尿・便意を感じることが難しい神経院生膀胱や、残尿感が常にあっていつもトイレに行きたいと訴える場合は、膀胱炎などが疑われる。

全国老施協の方法論は、これらのことをすべて無視し、『水は生命の源であり、水が細胞を活性化させ、身体と精神の両面を活性化させていく』、『水が覚醒水準をあげ、尿意や便意を知覚することにつながり、排尿や排便の抑制が正常に作用する。』、『身体活動も変わってきて、水分が足りなくなることで、舌や口の動きが悪くなりむせやすくなり、誤嚥が増える。』ということのみに根拠を求め、大量の水分摂取による尿便の対外排出に対するケアにターゲットを絞ったものだから、そこでは神経院生膀胱や膀胱炎は見逃され、適切な治療に結びつかない可能性が發泙襪掘何度も指摘しているように水分過多による内臓ダメージにより引き起こされる心不全、腎不全、低ナトリウム血症などの発症につながる危険性を常に持つという宿命を負わざるを得ない。これはもう科学とは言えない。

排泄障害の状態と対応には、別な根拠に基づいた個別の対応が不可欠である。僕の排泄ケアの考え方は、以下の画像で示したものである。これは来月高知市で行われる、「高知県老人福祉施設協議会主催:意識改革研修」の中の講演で使うファイルの一部である。いかがだろうか。

認知症の人の排泄障害の状態と対応
認知症の人の排泄障害の状態と対応2

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RUN伴2014・襷が登別ステージに繋がりました


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さて本題。

認知症の人と伴に生きる社会を目指し、認知症の人、家族、支援者、一般市民が協力しあい、1つの襷をつなぎながら、ゴールを目指すイベントRUN伴2014。今年は、帯広から広島まで2500キロ を縦断 します!今日は登別ステージ。

RUN伴チーム緑風園
チーム緑風園。今年も3人のランナーが元気に参加しています。

RUN伴・小笠原市長
登別ステージの第一走者は、小笠原登別市長(写真右)

RUN伴チーム登別
チーム登別は駅前で、チーム白老〜襷がつながるのを待っています。一人だけイベントTシャツを着ていないのが僕です。

RUN伴チーム白老&登別
午前8時過ぎ、チーム白老より無事襷がつながりました。白老&登別合流して記念写真です。

RUN伴タスキリレー
小笠原市長頑張ってください。

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ゲームは認知症予防に効果なし。


地域包括ケアシステムが必要とされている理由の一つに、認知症高齢者の増加が挙げられ、認知症になっても住み慣れた地域で暮らし続けることができるように、地域でその仕組みを作ることが求められている。

我が国の65歳以上の高齢者の認知症有病率制定率は15%であり、これは65歳の高齢者の7人にひとりが認知症になることを示している。

しかし65歳以上の認知症ではない人であっても、正常と認知症の中間状態(MCIと略されている。)である人の有病推定率は13パーセントと言われ、この数は380万人とされている。

すると65歳以上の認知症とMCIの人を合わせると、4人に一人がそこに該当することになる。

そうであるがゆえに、MCI有病者をいかに認知症にしないかという予防策と、そこから正常状態に近づける対策が求められているわけである。

そのために介護予防・認知症予防と称していろいろな対策や活動が行われているわけであるが、例えば「学習療法」などは、一定の効果を挙げているといわれている。

この療法について僕は過去に、「認知症学習療法の効果は?」という記事を書いて、学習療法の研究母体が子供の学習法で有名な企業だから、少子化で子供の学習だけでは収益の先が見える状況を見越して、需要の大幅増が見込める認知症高齢者にターゲットを絞った商業戦略に乗ったものではないかなどとうがった見方をして、学習療法そのものより、学習療法を行う方法として、1対1の利用者と担当者の関係と、時間の共有の効果があるからではないかと書いたことがある。

ところで最近、ある通所介護事業所の職員から質問というか、相談を受けた。

その人は、ipadを使ってゲームをしながら脳を活性化するセミナーを受講したのだか、その方法が大いに気に入り、通所介護の中で機能訓練メニューにしたいのだが、それを認知症予防訓練としてよいかという相談である。

治療として行うわけではない部分には、どのような看板を掲げても問題ないのだろうし、通所介護の活動メニューだから、そう謳ったからといって運営指導を受けるわけではないだろう。しかしだからといって、その活動メニューに「認知症予防」という冠を付けるのは適切とはいえないと指摘した。

なぜならipadを使ってゲームをすることに、認知症予防効果は期待できないからである。最初からできないとわかっていることを冠にするのは、嘘偽りの看板を掲げるということになり、それは道義上は許されないだろうと思うのである。

そう言い切ると、そうしたメニューに認知症予防効果がないと言い切れるのかという疑問を持つ人もいるだろう。しかしこのことに関して言えば、言い切れてしまうのである。

前述した学習療法の効果については、疑問となる部分はあるが、効果が多少なりともみられるという根拠が存在している。それは脳科学や脳機能イメージング研究などで一応効果が証明されているためにエビデンスとなりうるものが存在するといってよい。

それは脳には可塑性(かそせい)という性質があり、一度特定の機能を獲得した神経細胞が、ほかの機能を獲得する能力があるという理由によって説明できる。

成長してからの脳細胞の配列は変化しないというのが古くからの考え方であったが、現在はそのことについては否定されつつある。極端な例では、手術で大脳半球をとってしまった患者の例があるが、こうした患者は通常片麻痺になってしまうが、若い患者などでは麻痺側の機能が戻る人がいる。これはまさに脳に可塑性があり脳細胞が再配列され、残っている脳機能が、失われた脳機能の一部の能力を代替していることによるものである。

この性質を認知症の予防や症状軽減に利用しようとしたものが「学習療法」である。

つまり認知症は神経ネットワークが崩壊していくが、脳には可塑性があり、認知症に対しては、脳を活性化していくことによって進行スピードを緩め、場合によっては進行を食い止めたり、症状が軽くなる可能性があるということに着目して、その活性化を促す方法なのである。

学習療法は、簡単に計算式を解いたり、文字を読んだり、書いたりする方法であるが、それになぜ活性化効果あるといえるかというと、脳機能イメージング研究では、簡単な計算問題を解いているとき、そして本を音読しているときに、左右の前頭前野を含めた脳全体が活性化していることが分かっており、この応用が学習療法である。活性化する根拠が存在するのである。

ところが同じ研究で、一生懸命に何かを考えているときや、テレビゲームをしているときには、一般的に想像されるほど脳前頭前野は活性化しないことも証明されているのである。

つまりコンピューターやipadを使ったゲームは、レクリエーションあるいは気休めとしての効果はあるが、認知症の予防につながるほどの活性化効果はないと証明されているのである。よっていくらipadを使ってゲームをしても、認知症の予防効果はないといえるのである。

それはあくまでレクリエーションの範囲を出ず、療法と名付けることができるレベルの活動ではないと結論付けざるを得ない。

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認知症の人を地域社会がどう守っていくのか?


下記画像は、5/31に北海道自治労会館で行われた、北海道介護支援専門員協会研修会の講演で使った、パワーポイントファイルの1枚である。

北海道介護支援専門員協会講演ファイル
このときの講演テーマは、「地域包括ケアシステムにおける介護支援専門員の役割」というものであったため、まず地域包括ケアシステムとは、具体的にどのようなシステムで、それがどうして介護保険制度改正の中で位置づけられてきたかということを解説したうえで、国は地域包括ケアシステムによって、どのような仕組みを作り上げたいのかを解説した。そうした仕組みを作るうえで介護支援専門員にどのような役割が求められ、具体的に何をすべきかを提言してきた。

地域包括ケアシステムによってどのような地域社会を作り上げようとしているのかということを考えると、次の6点を挙げることができる。

・医療が必要な高齢者や、重度の要介護高齢者についても、可能な限り地域(住まい)で生活できるよう支える仕組み
・一人暮らし高齢者や、虚弱な長寿高齢者を地域(住まい)で支える仕組み
・長寿化に伴い、増加が見込まれる「認知症高齢者」を地域(住まい)で支える仕組み
・入院しても、円滑に退院が可能となる仕組み
・在宅での看取りができる仕組み
・利用者や家族のQOLの確保 ができる仕組み


2番目の「認知症高齢者を地域で支える仕組み」を実現するうえで、介護支援専門員の職能団体にソーシャルアクションが求められるのではないか、という部分で使ったファイルが上記の画像ファイルである。
(※地域(住まい)としているのは、そこが自宅とは限らず、身体状況等に応じた早めの住み替えが求められているという意味である。)

ご存知のように、認知症の男性が徘徊中にJRの線路内に立ち入って起きた死亡事故について、家族らの安全対策が不十分だったとして、JR東海が列車の遅延などの損害賠償を求めた訴訟の控訴審で4月、名古屋高裁は男性の妻に約359万円を支払うよう命じている。この裁判は、720万の全額賠償を認められなかったJR東海側が、すでに上告しており、今後最高裁判所の判決が出されるまで判決は確定しない。

しかし1審でも2審でも、当時85歳の妻の過失を認めたことに変わりはなく、このことは認知症の家族をもつ人々に大きな衝撃を与えている。

判決で問われた賠償責任とは、民法714条(責任無能力者の監督義務者等の責任)が適用され生じた賠償責任であるそうだ。認知症の高齢者も『責任無能力者』に該当すると考えられており、本件は妻が監督義務者として賠償責任があるとされたものだ。

控訴審では、自宅の出入口に設置した徘徊センサーが切られていたことが過失にあたると判断された。つまり徘徊のリスクを認識していたが、注意義務を果たしていなかったと認定されたわけであり、それは妻が85歳という高齢であっても斟酌(しんしゃく)されないという判決である。

被告側は、センサーを切っていた理由については、「音が鳴ることで、認知症の夫の混乱がさらに深まり、行動・心理症状が悪化する。」という意味の主張をしていたが、これは認められなかったわけである。

しかしこの判決には大きな矛盾があるように思う。仮にセンサーを取り付けていなければ、徘徊リスクの認識がなかったとも考えられ、損害賠償責任は生じなかったかもしれないということだ。そうであればリスクについて広範囲に想定をすることなく、手厚い対応をしていないほうが良いのではないかというおかしな判断になりかねない。

認知症の人で徘徊行動が予測できるケースでも、「センサーを設置しても徘徊をすべて防げないし、何か事故にあった場合、逆にセンサーを付けていることで賠償責任が生ずるから、そんなものは設置しないほうがよいでしょう。」という判断があっては困るわけである。

前にも書いたが、本件のようなケースで、介護支援専門員が居宅サービス計画を作成していても、その責任が問われることにはならない。なぜなら介護支援専門員は、監督義務者とはならないからだ。しかし例えば本件のような事故が、利用していた通所介護事業所のサービス提供時間中に起こったらどうだろう?

通所介護利用中に、少し目を離したすきに、認知症の利用者が外に出てしまって事故にあった場合、通所介護の管理者は、「監督義務者等」の「等」に含まれ、通所介護事業者に賠償責任があると判断される可能性は高い。そうであれば今後、徘徊行動のある認知症高齢者の利用を制限する事業者も出てくるかもしれない。しかしこうしたことがあれば、それは地域包括ケアシステムが目指す地域社会とは相反するものとならざるを得ない。

現在、この訴訟を巡っては、公益社団法人・認知症の人と家族の会 が抗議文を提出しているが、日本介護支援専門員協会は特段の声明も出していないし、アクションも起こしていない。

しかし今後、地域の中で認知症の症状のある高齢者の居宅サービス計画作成にかかわったり、施設や居宅サービス事業所の中で、認知症の症状のある人にどう対応して支援を行って行くのかを考える中心となる職種が介護支援専門員であることを考えると、その職能団体として、社会全体で認知症の人を支えていくという視点からのアクションが必要ではないかと、生意気にも問題提起させていただいた。

これから認知症の人の、このような事故は増えることがあっても、減ることはないように思える。(減らしていく工夫は当然必要だが)

鉄道事故が起こった場合、鉄道会社に損害が生じているのは事実であり、本件も、訴訟を起こし上告したJR東海が悪者扱いされることがあってはならない。しかし社会全体で、こうした損害に対する補償を考えていくべきで、すべて個人の監督責任に帰して終わりということがあってはならないのではないだろうか。

事故を防ぐための地域社会のネットワークを強化し、鉄道会社も人の侵入ができるだけ困難となるような対策を講じる必要もあるだろう。それでも防ぐことが困難な事故が起こった場合に、社会全体でその賠償責任を負っていくという方向性から具体策が考えられるべきではないだろうか。

介護支援専門員の職能団体として、この問題に関して公に考え方を示したり、アクションを起こすことは、介護支援専門員という資格の必要性を、国民の皆さんにさらに認めてもらうためには必要なことではないだろうか。

幸いなことにこの意見は肯定的に受け取られ、道の会長さんから日本の会長さんにも意見が挙げられたそうである。今後の日本介護支援専門員協会の動きを注目したいところである。

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リビングウイルを考えることを先延ばししない


認知症の人に対するケアについて、講演依頼を受けることがある。

そこでは脳科学の側面からも含めて、認知症とは何かということを明らかにした上で、認知症の症状理解につながるお話をして、具体的にどう対応したら良いのかをお話しする。実際の対応事例も紹介したりする。

そうした時に、食事についての問題もお話しすることが多い。このことは、先日フェイスブックの自分のタイムラインにも書いたが、認知症によって摂食障害となる場合があって、それに対する症状理解と備えは重要になるからだ。

今更説明するまでもないが、誤飲とは異物を飲み込む事故の事を言い、誤嚥とは、飲食物を飲み込んだ後の咽頭・食道・気道・肺の事故の事を言いう。認知症の人は、想像以上に誤飲・誤嚥リスクが高まるのである。

例えば誤飲リスクが高くなる可能性が高い人とは、見当識障害により詰め込み食いがあることが考えられる。また糖尿病による低血糖のある人は、空腹感の強くなることがあるので同じく誤飲リスクが高くなる。この場合は食事を小鉢に分けるとか、血糖値管理に留意する等の対応が求められる。

向精神薬や眠剤系を服薬し、傾眠傾向がある人は誤嚥リスクが高くなる。この場合は、きちんと覚醒できるような薬剤調整や、眠剤に頼らざるを得ない理由をアセスメントして、眠剤を飲まなくて済む対応が考慮されなければならない。

このように食事の問題=食事摂取場面の対応だけではないのである。

認知症の人の場合には、咀嚼力や嚥下力とは直接関係のない誤嚥が多いのだ。そして一番詰まることが多い食材は米飯なのである。その理由は、普段一番多く食べられている食材だからということに過ぎない。

そうであれば食べる物の形状を変えて、ペースト状にしてもしょうがないということである。逆に安易にペーストにしてしまうと、それを見ても食べ物と理解出来ないことが考えられる。認知症の人は、それによって食事摂取ができなくなってしまう。むしろ認知症の人の食事は、食事と分かる形で提供されているか、たべて美味しく感じられるかの方が重要だ。このことは認知症の人だけではなく、一般論としても言えることである。

食事は栄養以前に、楽しみであることを忘れるところから間違いが始まる。臭いや見た目で美味しそうと思えることが摂食障害の一番の対策だったりする。

しかし認知症の症状がもっと進行すると、食事を摂ろうとしなくなる。この場合でも、経管栄養を行えば、かなりの期間の生命維持は可能である。しかしそれは求められる対応なのであろうか?

アルツハイマー型認知症の場合、症状が進行するのは脳細胞が壊死して減っていくからであるが、その過程では脳細胞が減ることによって、口や喉の筋肉の動きをコントロールできなくなるため、むせやすくなるという現象が起こってくる。この場合も、食事形態を工夫することでしばらくの間はむせないで食べることができるが、その状態はずっと維持できるわけではなく、再びむせるようになる。 そして口を開けなくなったり、咀嚼せず、いつまでも口の中に食べ物をためたりするようになる。こうなると経口からの食事摂取は難しくなる。

この状態は、体が食べ物を必要としなくなっている状態といえ、終末期の選択肢のひとつと考えてもよいのではないかと考えている。

しかしだからと言って、ケアサービス提供側の人間が、「これは終末期であり、経管栄養は行わないでください」と言えるわけではない。あくまで選択は食事を摂れなくなった本人によるものでなければならず、認知症の人の場合、このことが不可能なのだから家族にその判断を替って行ってもらわねばならない。勿論、この際には医師より症状の進行していること、回復不能の終末期と判断してもよいことについての充分なる説明が求められることは言うまでもない。

しかしもっと大事なことは、これからの時代は、家族等周囲の人々に自分が終末期をどう過ごしたいのか、口から食事を摂取できなくなった時にどうしてほしいのかを、きちんと意思表示しておいて、その意思に基づいた判断が行われることではないだろうか。

そのためには終末期の対応を身内同士で常日頃から、どうしてほしいのかと言う確認が普通に行われていく社会を作っていくことが望ましい。

リビングウイルと言う視点から、エンディングノートを書いて残す人も徐々に増えているが、そこに思いを綴るだけではなく、そこに綴る思いを周囲の身近な人々に伝えておかないと、誤解が生じてエンディングノートに書き遺したことが実現されないこともある。そうであればエンディングノートを、公正証書として残すべきかと言う議論になりがちだが、これはそうした問題にせずに、自分の希望や思いをいかに周囲に理解してもらうかと言う方向から考えるべき問題である。

死は誰にでも訪れるのである。そして65歳以上の人は、7人に一人の確率で認知症になるのである。

そうであるがゆえに、若いうちから、元気なうちから、身内同士で自分が意思表示できなくなり、食事摂取ができなくなった時にどうしてほしいのか、どのように終末期を過ごしたいのかを確認しあっておくことが大事である。エンディングノートやリビングウイルは、手続でも、掛け声でもなく、自分本来の意思を、周囲の人に理解してもらって、その意思が尊重されるために必要なツールである。

そしてそのことは先延ばしするのではなく、今ここから始めておくべきことだと思うのである。

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