masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

社会福祉制度全般

悪平等を許してはならない理由(わけ)


対人援助に携わる人間にとって、「無差別平等」の精神を常に忘れないことは重要である。

私たちの差し伸べる手は差別なく、みなひとしなみに届けられなければならない。そうしなければいかなる行為も社会福祉にはならず、ただの欺瞞とわがままの行為にすり替わってしまう。

しかし皆が等しければそれですべてが許されるということにはならない。平等だけを目的化する欺瞞ほど、人を不幸にするものはないのだ。なぜならそこでは低き方向への均等化が意図される恐れが生まれ、人が良い状態や、幸福な状態にならなくとも、均等均一ならば良いというおかしな考えが生まれかねないからだ。

特に対人援助は、人の暮らしに関わる問題であり、平等の精神が単なる機会均等とすり替えられ、すべての人間が社会の底辺で息をひそめて生きていくような状態も、大多数がそうであれば許されるという誤解につながることを、何よりも恐れなければならないのである。

そのため社会福祉援助の領域では、無差別平等に人が幸福になるという方向が歴史的にも模索されてきており、今もそれは続いているという理解が必要とされるのだ。

こんなふうに私たちが求める平等とは、人がより良い状態で生きていくのにより必要な方向に実現化されるという視点が必要になる。そうした右上がりのベクトルをイメージしながら、無差別平等の精神を忘れないという戒めが必要だ。

ところがこの平等の精神や意味を、自分にとっての都合の良い理屈として悪用する人がいたりする。例えば昨日の記事でも話題にした兵庫県の井戸知事は、国が決めた慰労金の支給方法にいちゃもんをつけて、一旦は兵庫県では慰労金を支給しないと決めた経緯があり、そのことの批判を受けて記事に書いている会見につながった。

しかし井戸知事を支持する一部の関係者等からは、知事の考えや発言を擁護する声もある。その中には、「知事は、慰労金の支給対象は介護施設、障害者施設は含まれているが、児童福祉施設などの児童福祉分野が入っていないのは不公平であるという理由で、不支給や支給先限定という判断をしたもので、そこにはそれなりの理屈がある。」という意見がある。

しかしこれこそ、「悪平等」の典型で、支給されない分野があるのだから、支給されない方に横並びさせることが平等になり、不公平感を生まないという、権力者側の傲慢なる屁理屈でしかない。

児童福祉分野が慰労金支給の対象に入っていないことを不公平と考えるなら、国が予算化した慰労金をすべての対象者にくまなく配ったうえで、児童福祉分野にも同じような対策を求めていくというソーシャルアクションを起こすことこそ、すべての人が等しく良い暮らしを送ることができる道につながるのであって、低きに慣らすことを平等だと勘違いしてもらっては困るのである。

「介護職は何にもしていない」という問題発言に加えて、平等の精神を捻じ曲げて政治を行なおうとする点においても、井戸知事は政治家としての資質がないと烙印づけされてしかるべきである。

この悪平等は介護業界の至る所にはびこっているので注意が必要だ。特に処遇改善加算については、この加算によって給与改善されない職員と、改善される職員の両方が生ずることから、処遇改善されない職員の不公平感を慮るという理由で、加算算定せず給与改善しないという低い方向で横並びさせる事業者が存在する。

特定加算の場合も、医療機関と併設されている介護事業者の場合、医療機関に同様の加算がないことから、医療機関職員とのバランスが取れないとして、加算算定可能な介護事業者の職員が、それを算定支給されずに泣き寝入りの状態が続いているケースもみられる。

このように加算算定できるのに、あえて算定せず待遇改善を行っていない事業者は、まさに悪平等の屁理屈の渦に巻き込まれて方向性を見失っている事業者と言ってよく、それに気が付いていない状態で経営が続けられている場所に明るい未来はない。そうした職場に勤めている人は、一日も早く職場を替えたほうが良いだろう。信頼できる転職支援サイトなどを利用するのも一つの手である。

繰り返しになるが、平等とは単なる機会均等ではないのである。それは個によって異なる状況にも対応して判断や処理などが偏っていないことを云うのであって、要介護3で認知症があるという状態像の人が、等しく同じケアサービスを受けるということでもない。

認知症の人でも、症状やパーソナリティに違いがあるのだから、それに適応した最もふさわしケアサービスの方法を探して提供されるのだから、個々のサービス内容は違って当然である。

不平等な状態とは、ある人には最も適したサービスの方法を一生懸命に探してサービスに結び付けているのに、ある人にはそのような努力もせずに、漫然と画一的なサービスに終始してしまうことである。

対人援助という領域に関わる私たちはこの違いを常に意識して、人を幸せにしない悪平等を徹底的に排除するように、権力者の傲慢なる屁理屈と戦っていかねばならないのである。
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社会福祉法人批判の背景と誤解


改正社会福祉法では、社会福祉法人の経営組織のガバナンス強化が求められている。

しかしその意味を取り違えてはならず、ガバナンス強化そのものが目的であるといことではなく、ガバナンスを強化することで、より地域社会に貢献する社会福祉法人となることが期待されているわけであり、その先に強固なコンプライアンス意識が不可欠になるものである。

昨今の社会福祉法人批判とは何かということを考えると、理事長一族の身勝手経営に代表されるような個人商店的な経営で、事業規模零細な社会福祉法人が過剰利益を得ているというバッシングであるということを念頭に置くべきである。

いわゆる「内部留保批判」にしても、それは社会福祉法人が行政事務の受託的な業務だけを行って、公費や介護保険料を財源とする費用を受け取っているだけで大きな利益を挙げているにもかかわらず、収益を溜め込んで社会に還元していないという論理展開の結果である。

つまり社会福祉法人といっても、介護施設運営をするだけで、法人経営をしていないじゃないか=社会貢献していないじゃないかという批判なのである。

そうした批判傾向は、社会福祉法人が過度な利益を得ているかのような偏向報道によっても助長されているが、何度か指摘しているように、それらの偏向報道が指摘する、一法人平均3億円とされている内部留保金には、本体事業に使っている建物や土地の資産額や、介護給付費が2月遅れで支払われるために、あらかじめ2月分の運営費としてプールしている法人の自己資金も含んでの金額なのである。

つまり内部留保とされる額は、決して余剰資金でもなく、過剰利益でもなく、本体事業の運営費そのものであるという実態があるのだ。このことを知らずして批判している馬鹿学者が、幅を利かせているというのが内部留保批判の実態である。

報道機関にしても、この金額が何を意味するかきちんと理解しないまま、財務省の示した数字だけを報道しているだけだ。それは情報の垂れ流しで、悪意のある報道といっても過言ではない。

ではなぜ財務省は、こうした実態とかけ離れた数字を垂れ流し、あたかも社会福祉法人が過剰利益を得ているような印象を世間に与えようとしているのだろう。

それはとりもなおさず、社会福祉法人が非課税法人であり、収益事業以外から生じた所得を除いて法人税も非課税であり、そこから財源を得ることができないという「非課税憎し」に他ならない。

よって社会福祉法人への課税議論は、いったん休止しても、またぞろ復活することは間違いなく、非課税である限り内部留保批判は繰り返されることも間違いない。

内部留保金に限って言えば、社会福祉法人より医療法人のほうが多額に抱えていることは明らかなのに、医療法人の内部留保金が批判対象にならない理由は、医療法人が法人税を負担しているからに他ならない。

そうであるがゆえに社会福祉法人関係者の方々は、世間一般的に言われている一法人平均3億円という内部留保金とは、本体事業に使用している土地や建物や運営資金を含んだものであって、それらを含めるとそのような金額になることは当たり前であることを広くアピールした上で、組織ガバナンスの強化に努め、改正社会福祉法で定められた、「社会福祉充実残額」がある場合には、社会福祉充実計画に基づいた社会貢献に努めていく必要があるだろう。

そういう意味では、この改正法ルールは、社会福祉法人の内部留保金が、世間で言われているほど多くないとアピールするチャンスでもある。なぜならば、「社会福祉充実残額」とは、下記の画像に示した計算式によって算出される額なのだから、一法人平均3億円などという額には到底及ばない。

実際には「社会福祉充実残額」に該当する残額が無い法人もあるだろう。「社会福祉充実残額」がある場合でも、それは医療機関のように、経営者や管理者が年俸数千万円を得ているという状況とは異なり、特養の施設長の平均年収が700万円程度の年俸レベルの中で生じている残額であることもアピールすべきである。

この残額は決して世間から批判を受けるような筋のものではないのである。

逆に言えば、本体事業の中で品質の高いサービスを実現し、社会貢献をしている社会福祉法人が、特養の施設長を始めとした管理者の給与水準を低く抑えながら生み出した利益が、一定額を超えた場合には、それを地域貢献事業等で吐き出すまでは、一般企業と同じ土俵で保険外の事業を展開できないというのが、社会福祉充実計画の実施ルールでもある。

社会福祉法人関係者は、非課税法人であるからといって、ここまでがんじがらめのルールで縛られて良いものかどうか、十分検証した上で、ソーシャルアクションにつなげていく必要があるのではないだろうか。

どちらにしても社会福祉法人の母屋ともいえる、非課税法人を守るためにも、ガバナンスを強化し、フルセットコンプライアンスを確立して、地域社会へアピールする意味も含んだソーシャルアクションは、三位一体的に確立していくべきものである。

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社会福祉充実残額の計算式から見える真実


社会福祉法人に対する批判の最大のものは、いわゆる内部留保に関するものである。

社会福祉法人が、行政事務の受託的な業務だけを行って、公費や介護保険料を財源とした費用を受け取っているだけで、大きな利益を得ているにも関わらず、1法人平均3億円とも言われる巨額な内部留保金を抱えているということは、収益を溜め込んで、社会に還元していないという意味であり、それは非課税の公益法人としての責務を果たしていないことになるとして批判されているのである。

そのため改正社会福祉法の29年4月1日施行部分には、「社会福祉充実計画の承認」(改正社会福祉法第五十五条二)が規定された。

これは内部留保金を社会に還元させようとする規定で、純資産の額が事業の継続に必要な額を超える社会福祉法人に対し、既存事業の充実または新規事業の実施に関する計画の作成等の義務付けを行うこととしたものである。

社会福祉法人は、その事業を行うに当たり、日常生活及び社会生活上の支援を必要とする者に対し、無料または低額な料金で福祉サービスを積極的に提供することに努めなければならないとされており、社会福祉充実計画に基づいて内部留保金を財源として、地域住民の福祉の向上に資する事業を行うことが規定されたというわけである。

具体的には、社会福祉法人は毎会計年度において、下記図の,粒曚△粒曚鯆兇┐董社会福祉充実残額が生じたときは、厚生労働省令で定めるところにより、「社会福祉充実計画」を作成し、これを所轄庁に提出し、その承認を受けなければならない。(※当該会計年度前の会計年度において作成した、「承認社会福祉充実計画」の実施期間中は、この限りではない。)

社会福祉充実残額
これは任意の計画ではなく、社会福祉充実残額が生じた社会福祉法人に課せられた義務ということになる。同時に計画さえ立てればよいというわけではなく、所轄庁の承認を得るということは、当然その実施を求められるということになる。

社会福祉充実計画により実施する事業は、第1種社会福祉事業および第2種社会福祉事業、公益事業、地域公益事業であり、計画の変更も所轄庁の承認が必要で(軽微変更を除く)、やむをえない事由により、社会福祉充実計画に従って事業を行うことが困難であるときは、所轄庁の承認があれば、同計画を終了することができるとされている。

この計画の内容については、後日別に論ずるとして、「社会福祉充実残額」について注目していただきたい。

前述したように、この規定は社会福祉法人の内部留保金批判に端を発して作られた規定である。しかし社会に還元するとして事業投下する資金は、内部留保といわれるもののすべてではない。それはなぜか?今まで批判対象となってきた内部留保金とは、留保しないと事業運営できない資産が含まれているという意味だ。

言い換えるとすれば、収益を溜め込んで社会還元していないとされ、その額は一法人平均3億円といわれた内部留保金の実態とは、社会還元できない資産や事業運営費が含まれていたということだ。

社会福祉法人の内部留保を批判している者どもは、この会計処理構造を理解したうえで、批判をしているのだろうか。知らないで批判していた輩は、的外れな批判を繰り返していた連中であり、知っていてなおかつ批判していた輩は、よっぽどの馬鹿ということになる。

先に示した図表を見ても分かるとおり、内部留保金には、僕が再三指摘してきた事業再生産に必要な建物の修繕、設備の更新費用や、支払いのタイムラグのため、会計処理上、繰越金に計上されてしまう運営費用などのほか(参照:内部留保批判に関する記事一覧)、僕がこれまで指摘してこなかった、事業運営に必須の活用不動産等が含まれているわけだ。

つまり特養を運営している法人であれば、その特養が建てられている土地や、実際に利用者が暮らしている特養本体の建物まで内部留保金といわれる金額に含まれて、それが一法人平均3億円といわれていたわけであるという。そんなもの社福の過剰利益であるわけがないし、市場に再投下できる資金であるわけが無いのである。

この不動産資産を差し引いてしまえば、実際の運営資金しか残らない社会福祉法人もたくさんあるだろう。つまり「社会福祉充実残額」がなく、「社会福祉充実計画」の作成義務を課されない法人がたくさんあるということだ。

減額された厳しい介護報酬のもとでは、単年度赤字の事業を抱えて、将来の設備更新費用も、建物の更新費用も捻出できない法人もあるといいうことを理解してほしいし、それらの法人が、施設の建て替えを計画しても、かつてのように建設費用の2/3もの補助がつくわけでもないという状況理解も必要だ。

実体の無い幻の3億という数字が先走りして、社会福祉法人は儲けすぎているというイメージだけが先行して繰り広げられている社福批判は正しい情勢判断とはほど遠いところにある。このことだけで社福法人の課税論を唱える人も、的を射た指摘とはほど遠いと言わざるを得ない。

会計年度ごとに、「社会福祉充実残額」を算出するルールが、その誤解を解くことに繋がることを期待したい。

ただ懸念されるのは、「社会福祉充実残額」のある法人は、この費用を使い切らねば、保険外の収益事業の展開に制限が加えられるという意味があることだ。社福法人以外の事業主体が、いくら大きな収益を挙げても、事業経営上の縛りが無いことと比較すると、今後介護保険外のサービスで収益事業を作っていく必要があることを考えると、社会福祉法人が存続していくために、事業経営規模を拡大するに当たって、この規定は大きな壁になる可能性もある。

社会福祉法人への課税議論は、無くなったわけではなく、今後も繰り返される間違いないが、このことと併せて議論していかないと、社福は2重の高くて重い壁に囲われてしまい、身動きが取れなくなるやも知れない。

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社会福祉法人関係者は法改正に鈍感すぎないか?


改正社会福法を読むと、社会福祉法人にも、公益財団法人と同等以上の公益性の確保が求められていることがわかる。

そのことはガバナンスの強化策として示されており、従前まで介護保険事業のみしか行っていない法人に設置義務がなかった評議員会は、全ての社会福祉法人に議決機関として設置することが義務付けられた。

現在まで評議員会が設置されていない法人は、評議員を29年3月31日までに選任しなければならない。現在評議員会があって、任期が29年4月1日以降も残っている場合でも、改正社会福祉法附則第9条第3項の規定によって、従前からの評議員の任期は、平成29年3月31日において満了するとされているので、新たに規定された方法で選任しなおさねばならない。なお法人役員(理事・監事)や法人職員は評議員として選任できない。(※評議員の資格等は、改正法第40条に規定されおり、定数は理事の定数を超える必要があるとされている)

来年度以降は、定款の変更や理事などの役員の選任・解任、役員の報酬決定、決裁書類の承認はすべて評議員会の議決が必要になる。それに加えて法人の解散や吸収合併の承認も評議員会で行われることになり、これらの事項を仮に理事会の議決事項として定款で定めている場合も、改正社会福祉第45条8項規定によって、「その効力を有しない」とされ、無効な定めとされるため、理事会だけで議決することは不可能になる。

評議員の選任方法は定款に委ねられるが、改正法第31条第5項「評議員に関する事項として、理事又は理事会が評議員を選任し、又は解任する旨の定款の定めは、その効力を有しない。」としているために、現状の定款がそのような規定を入れていても無効となる。つまり理事会で評議員を任命できないことになり、個人商店的な運営の社会福祉法人の理事長の独断だけで、評議員を選ぶことが難しくされているのだ。(法律上は不可能ということだが、それでもワンマン経営の法人は存在するだろう・・・。)

ではどうやって評議員を選ぶのか。定款で評議員会で選任することを定めれば、評議員会で評議員を選ぶことは可能だが、改正法に即した最初の評議員は、この方法では選任できない。そのため厚労省が例示している方法は、「一般財団法人・公益法人の運用」である。ここでは、中立の立場の者が参加する「選定委員会」を設置し、理事会は評議員候補をここに推薦し、選任議決をしてもらう方法が示されているので参考にしてほしい。

ここで、あることに気が付く。

理事や監事は評議員会の議決なしでは選任できず、かつ評議員は理事会で議決できないという規定や議決事項をみると、評議員会の権限は非常に大きいことがわかる。

すると最初の評議員として、特定の団体の関係者が一定割合以上の勢力を持つ場合、定款で「評議員を選任する」という議決を評議員会で行うこととした場合に、その団体の勢力が悪意をもって、同じ勢力の評議員を増やし、法人役員を解任し、自分らの息のかかった役員を選任するという事態が想定される。つまり事実上の法人乗っ取りが、合法的に行われかねないのである。

よって評議員の選任は、厚労省の進める方式で行うとともに、「選定委員会」が適切かつ中立性を損なわない方法で機能する必要がある。

この方法が厳密化されることは、理事長ファミリーの個人経営的法人運営を防ぐ効果にもつながるかもしれず、社会福祉法人の私物化を防ぐ切り札が、新評議員会であるのかもしれない。

なお改正法第45条の20、第45条の21規定により、評議員は役員等と連帯して社会福祉法人や第三者に対する損害賠償責任を負うこととなるため、その責任を負ってくれる評議員を必要定数確保できるかどうかが、大きな課題となるだろう。

このことについては、所轄庁や社会福祉協議会などから、地域における人材情報を提供する仕組みが検討されているところである。

どちらにしても社会福祉法人は、、このことの準備を早急に進める必要があり、この改正内容を知らない管理者・事務担当者であっては、今後の厳しい社会情勢の中で、社会福祉法人運営は厳しいものとなるだろう。

なおこのことに関連して、大阪(8/25)仙台(9/15)、『改正社会福祉法から見た介護業界の将来像〜制度や現場を知らずして介護を語るな』と題したセミナーを行う。

このセミナーは、11月から始まる「介護経営戦略塾」のプレセミナーでもあり、どなたでも無料で参加できるセミナーなので、下記のリンク先のチラシから申し込みいただきたい。

8月25日(木)14:00〜大阪セミナー

9/15(木)13:30〜仙台セミナー

なお席に限りがあるために、定員を超えた場合、申し込みが終了となることをご了承いただきたい。

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改正社会福祉法を読んで3〜内部留保の誤解は解けるのか


昨日の記事から続く)
改正法第55条の2は、社会福祉充実計画の承認を定めている。この部分は、いわゆる「内部留保」に対する批判を受けての規定であり、繰越金のうち過剰な?収益部分は社会還元せよという意味の規定である。具体的には以下の通りである。

社会福祉法人は、毎年会計年度において資産−負債の額が、事業継続に必要な財産の額、を超えるときは、厚生労働省令で定めるところの、「社会福祉充実計画」を作成し、これを所轄庁に提出して、その承認を受けなければならなくなる。(当該会計年度前の会計年度において作成した、「承認社会福祉充実計画」の実施期間中は、この限りではない。)

これが「内部留保の明確化」と「内部留保金の福祉サービスへの再投下」の部分である。

資産−負債の額から差し引く、事業継続に必要な財産の額には以下の3点が含まれる。

1.社会福祉法に基づく事業に活用している不動産等(土地・建物・設備)
※社会福祉法に基づく事業に活用している財産の特定は財産目録による
※基本金及び国庫補助等特別積立金との重複部分は調整

2.再生産に必要な財産(建替・大規模修繕・設備等の更新)
※再生産に必要な財産等については、補助金、融資の活用を考慮した算出基準を適用

3.必要な運転資金(事業未洲収金・緊急の支払や当面の出入金のタイムラグ)

この3点の合計額が〇饂此殄藝弔粒曚鮠絏鵑辰審曚蓮△海遼[Г任蓮社会福祉充実残額」と呼び、社会福祉充実残額が生じた場合に、当該社会福祉法人には社会福祉充実計画作成義務が課せられる。なお負債との重複部分も調整することになっている。

再生産に必要な財産の算出方法など、課題はまだあるが、2月遅れで支給される介護給付費のタイムラグがある運営費のための繰越金と、箱物整備のための資金等を差し引いた上で、「内部留保」の額を明確化することは、儲けすぎてはいない社会福祉法人が多い実態を明らかにすることに繋がるのではないかと思え、それなりに意味があるのだろうと思える。

少なくとも1施設あたり3億円以上の内部留保があるなんていう誤解は解くことができるだろう。

その上で、実際に余裕財産がある社会福祉法人が、社会貢献活動を求められるのは当然で、馬鹿な学者が、「介護保険は社会保険であって、社会福祉ではない」などとほざいたとしても、社会福祉法人が経営・運営するサービスである介護保険は、社会保険システムを取り入れた社会福祉サービスであるという支店を忘れずに、無料もしくは定額で、経済的弱者の支援に携わっていくということは、社会福祉法人が社会・国民から求められることであろう。

そもそも社会福祉法人減免さえ行っていない社会福祉法人が存在することのほうが問題で、地域の中でできる社会貢献は、法律に定められていなくとも行っていくのが、その存在意義だろうと思う。

社会福祉法人への課税議論は、終了したのではなく、いったん休止しているだけであり、今後何度も社会福祉法人課税の議論が繰り返されるのは間違いがなく、非課税法人として、どのように社会貢献しているのかを、「見える化」していかないことには、社会福祉法人の生き残っていく道はないと考えるべきだろう。

そういう意味で、社会福祉充実計画にも続く社会貢献活動は、地域住民のニーズに合致する方法で、多様に草の根的に展開されるべきであって、「認知症カフェでもやっておくか」などという安易な発想で、どこもかしこも同じ活動であっては困るわけである。

ここは知恵と工夫が求められるところであろう。

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改正社会福祉法を読んで2


昨日の記事から続く)
29年4月1日施行事項の中で、ガバナンスの強化として、特定社会福祉法人については会計監査人をおこなければならないとされ、その他の法人も定款の定めによって会計監査人を置くことができるとされた。

特定社会福祉法人となる事業規模については、今後政令で定められることになるが、社会保障審議会福祉部会報告書では、次の2点のどちらかに該当する場合が適当であるとしている。

1.収益(事業活動計算書におけるサービス活動収益)が10億円以上の法人(段階的に対象範囲を拡大)
2.負債(貸借対照表における負債)が20億円以上。

これに該当する既存法人は、29年6月に開催する定時評議委員会で会計監査人を選任し、当該年度から会計監査を受けなければならなくなる。(貸借対照表及び収支計算書及びその付属明細書が監査対象。)

なお会計監査人は、公認会計士または監査法人とされており、後者の場合は、その社員の中から会計監査人の職務を行うべきものを選定し、社会福祉法人に通知しなければならない。

また定款に定めた理事の定数を超える員数の評議員で構成する評議員会は、すべての法人に設置することが義務なるが(現在は、介護保険事業のみを運営する法人に評議員会設置義務はないとされている)、その機能も単なる承認機関から、議決機関という位置づけになるとともに、役員等の権限及び損害賠償責任も法文として明記されている。

例えば評議員は役員等と連帯して社会福祉法人や第三者に対する損害賠償責任を負うこととなる。(改正法第45条の20、第45条の21)

しかし、この規定を見て、評議員になることをためらう人も多いのではないかと思え、評議員を必要定数確保できるかどうかが今後の大きな課題となりそうである。

どちらにしても来年度以降は、定款の変更や理事などの選任・解任に加え、「理事・監事の報酬の決定」も、評議員会で行われることになる。

評議員の選任方法は定款に定めることになるが、改正法第31条第5項「評議員に関する事項として、理事又は理事会が評議員を選任し、又は解任する旨の定款の定めは、その効力を有しない。」とされているので、その規定に触れる定めは無効となるので注意が必要だ。

このことについて平成20年10月14日の事務連絡(内閣府大臣官房新公益法人行政準備室)では次のような考え方が示されている。

※例えば評議員の選解任を評議委員会の決議で行うとした場合において、最初の評議員の人選が特定の団体や勢力の関係者で占められたときには、その後の評議員の選任も当該特定の団体や勢力の関係者によって占められることとなり、当該法人の運営が特定の団体や勢力の利益に偏る蓋然性が高くなることが考えられます。
 このような事態を回避するため、評議員の選解任をするための任意の機関として、中立的な立場にあるものが参加する機関を設置し、この機関の決定にしたがって評議員を選解任する方法が考えられます。


それだけ新評議員は強い権限を付与されているのである。例えば、理事の解任も評議員の決議によって可能としているが、解任された理事が、その決定に不服がある場合は、、当該社会福祉法人の主たる事務所を管轄する地方裁判所に訴えを起こすことになる。

つまり新しい評議員会が、適切に機能すれば、どこかの社福のように、繰越金や運営費を個人試算のように勘違いして、必要のない設備等の増築資金に使うような理事長は、解任されることがありうるわけで、そうした暴走は防ぐことができるというわけである。

どこかの法人の評議委員に、是非なりたいものである。(笑

次に、社会福祉法人の財務規律の強化であるが、これは社会福祉法人の内部留保批判と密接に関連したルールであるといえる。(明日に続く)

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改正社会福祉法を読んで


社会福祉法の改正内容を読むと、この法改正の主たる狙いが社会福祉法人改革であることが分かる。

その背景には、社会福祉法人が〇楡澳浜中心、法人経営の不在、∋業規模零細、再生産・拡大再生費用は補助金と寄付が前提、げ莪貪サービス、テ餌嘉経営(社会福祉法人経営の現状と課題:2006年社会福祉法人研究会より)であることが批判対象となったことが挙げられる。

要するに、理事長一族による個人商店的な経営体質が批判の的になったということだ。

そしてその個人商店的な法人が、行政事務の受託的な業務だけを行って、公費や介護保険料を財源とした費用を受け取っているだけで、大きな利益を得ているのも関わらず、収益を溜め込んで社会に還元しない姿勢が問われたというのが、内部留保批判である。(※この批判については異論がある。参照:内部留保批判に対する反論記事

その中で公益法人制度改革が行われて、公益社団法人や公益財団法人が設立されたことによって、社会福祉法人はそれと同等以上の公益性の担保が求められ、この法律改正に繋がっていったといえる。

そのために改正法では、)/裕模の拡大・新たな参入と退出ルール、▲バナンスの確立・経営能力の向上、D拘資金の調達、た雄牋蘋と確保、といった基本的な方向性に沿ったルール作りがされた。

そして改正法は、施行期日が平成28年4月1日であるものと、平成29年4月1日であるものとに分かれていることにも注意が必要である。

施行期日が平成28年4月1日であるものは次の5点である。

1.地域における公益的な取り組みを実施する責務(第24条第2項)
2.役員等関係者への特別の利益供与の禁止(第26条の2)
3.社会福祉法人の事業運営の透明性の向上(第59条の2)
4.所轄庁による指導監督の機能強化等(第56条第4項)
5.社会福祉施設職員等退職金手当共済制度の見直し

施行期日が平成29年4月1日であるものは次の3点である。

1.経営組織のガバナンス強化(第36条〜第45条)
2.社会福祉法人の財務規律の強化(第45条、第55条、第59条)
3.都道府県による財務諸表等の収集・分析・活用、国による全国的な7データベースの整備(第59条)
となっている。

今年4月施行の「退職金手当共済制度の見直し」は、長期加入者の支給率を高く引き上げるものだから、今年3月いっぱいで社会福祉法人を退職した僕にとっては、その対象になる前に退職金を受領して、その恩恵を受けることなく損をした気分である。しかし平成28年4月1日施行分については、改正法をよく読んで、その内容を理解して、それに沿った法人経営に心がければよいだけで、特段の準備は必要としないものだ。

問題は、施行期日が平成29年4月1日である。その準備を今からしておかねばならない。これが意外と大変で、大仕事になる。(明日に続く)

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社会福祉法の改正がもたらすもの


異例の速さで、松の内に開催された通常国会では、先の国会で先送りされた社会福祉法の改正案も審議され、今回は成立する見込みとなっている。

改正法案の中では、社会福祉法人改革が焦点になるだろう。

社会福祉法人を巡る、この数年間の状況を振り返ると、財務省の陰謀と主導で、内部留保批判をはじめとした社会福祉法人バッシングが起き、厚労省はこれに対してほとんど無抵抗に終わったことで、メディアもこの理不尽な風に乗っかってしまって、国会議員もその雰囲気にのまれた中で、大幅な介護報酬の減額が行われた。

そのことに加えて、社会福祉法人がその責務を果たしていないかのような論調で、改革が求められていることに、憤りを感じている関係者も多いのではないかと思うが、そこで求められている体制をしっかり構築しつつ、介護報酬減額が、その改革の足かせになることも含めて正論を主張し、世間一般にもその声を認めてもらうことの方が大事である。

この部分の理論武装がされない限り、社会福祉法人へのいわれなきバッシングはなくならないし、それを理由にした報酬減額は、社会福祉法人をターゲットにしながら、次期報酬改定以後も続けられるだろう。

今回の社会福祉法人改革の柱は3本である。一つには、「組織のガバナンス強化」であり、二つは、「財務諸表の公開等の事業運営の透明性向上」であり、三つは、「公益事業の地域展開の責務の明確化」である。

細部を見ると、今まで介護保険事業のみを行っている法人には設置しなくてよいとされていた、「評議員会」について、すべての法人に設置義務が課せられ、それも諮問機関ではなく、議決機関とされる改正が行われることになる。

実際に、多額の「内部留保」のある社会福祉法人については、「社会福祉充実残高」なるものを計算し、地域貢献事業に適切に財務執行しなければならなくなるようだ。

本来、社会福祉法人は、そうした義務を課せられなくとも、その使命と責務として社会貢献事業・地域貢献事業を行わねばならない組織で、法律によるがんじがらめの縛りは、その精神を著しく削ぎ落すもののような気がしてならない。

この部分は地域特性に応じた、柔軟対応がどれだけ可能なのかということがポイントになりそうである。

どちらにしても大改正である。改正法案によって求められることは、社会福祉法人の一大転換であり、これに失敗すると法人の存立自体が危うくなるという危機感を持たねばならない。

そのためには社会福祉法人役員が、この改正法案の内容をしっかり把握し、先先を読み取りながら法人改革に取り組んでいく必要がある。

逆に言えば今の時期に、法人理事長及び理事・監事が、この法律の内容に無関心であったり、無理解であったりするのは、それだけで経営危機をもたらすということになる。

仮に全ての役員が法律に精通していなくとも、少なくとも役員の中に、このことに対応可能なスペシャリストを置いておく必要があるだろう。

こうした厳しい状況であるからこそ、名ばかりの役員ではなく、実務に精通した役員を法人内部に置く必要がある。今ほど社会福祉法人が、人材を求めなければならない時代はないのである。そのことを法人理事長はじめ、役員は理解しているだろうか?

こうした危機的状況の理解がない理事長がトップに立つ法人は不幸である。

そして、社会福祉法人を旧態然の運営で良いと考え、社会福祉法人を自分の個人商店のような意識で運営しようとしている理事長には、そう遅くない時期に大鉄槌が下されることになるだろう。

そんな厳しい状況に置かれた社会福祉法人であるが、自分自身は一時、敵前逃亡のような形で、社会福祉法人から少し距離を置いた位置に席を移動することになる。当法人にとってその意味は、一番改正内容に詳しい役員を失うということだ。

そのことはなんとも申し訳ない思いであるが、今後も影に陽に、社会福祉法人を応援し続ける姿勢には変わりはないことを宣言しておきたい。

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法令知識を持たないと自分を守れない。


特別養護老人ホームは、2000年の介護保険制度創設に伴って介護老人福祉施設となり、介護保険法の規定を受けるようになった。

だからといって老人福祉法がなくなったわけではなく、老人福祉法上の特別養護老人ホームという位置づけがなくなったわけではない。

つまり特養は、老人福祉法上の特別養護老人ホームであり、かつ介護保険法上の介護老人福祉施設であるわけである。

だから行政指導は、介護保険制法による実地指導を受けるのと同時に、老人福祉法上の指導監査も受けなければならない。

そうであるがゆえに、介護保険法上では栄養ケアマネジメントを行っておれば必要とされない検食簿も、老人福祉法上の規定ではなくなっていないので、特養は栄養ケアマネジメントを行っていても検食簿を廃止できない。介護保険法に規定のない宿直職員の配置も、老人福祉法に基づいた『社会福祉施設における防火安全対策の強化について(S62.9.18 社施第107号局長通知の5)』という通知が無効とはならないので、特養に限って夜勤者とは別に宿直職員の配置義務があるのだ。

ところが驚いたことに、介護保険制度ができた後は、特養は老人福祉法の適用を受けなくなったと思い込んでいる特養職員が存在する。つい最近も表の掲示板にそのように誤解している人からの書き込みがあった。(リンクを貼り付けたスレッドのNO6

自らが勤務している事業が、どのような法律に基づいているかを知らないということは重重大な問題である。

なぜなら我々の事業は社会福祉事業であり、高い意識でコンプライアンスが求められる。そこでは単純に最低限の法律を守っていれば良いというだけではなく、社会的な要請にも答えるレベルでサービスの水準を作っていかねばならないという意識が必要とされる。そうであれば、世の中のいろいろな動きに常にアンテナをはって、住民のニーズ変化にも敏感になる必要があるという意味でもある。

にもかかわらず、事業が立脚する基本法令がなんなのかということさえわからないとしたら、最低限の法令ルールを、「知らなかった」ということで無視してしまう結果になりかねない。

法令を知らないから守れなかった、法令の解釈が間違っていたから、悪気はないけれども法律違反を犯してしまったという言い訳は通用しないのである。そんな事業主体に、国民は安心して命や身体を預けることはできないのである。

せめて自分が生活の糧を受けている事業が、どのような法律に基づく事業であるかということくらいは知っておく必要があるのである。この業界の職員は、そのへんの考え方が甘すぎるのではないだろうか。

ここで改めて考えて欲しいことがある。それは昨年の介護保険制度改正で、事業所指定の欠落要件が追加された意味である。

新たな欠落要件とは
1. 労働に関する法律の規定であって政令で定めるものにより罰金の刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなるまでの者であるとき。→指定取り消し、指定更新を認めない
2.労働保険の保険料の徴収等に関する法律により納付義務を負う保険料等の滞納処分を受け、引き続き滞納している者→指定更新を認めない

という2点である。しかしこのルールは、罰金等を払ってしまえば「その執行を終わり」に該当するなど、この要件により指定更新されなかったり、指定を取り消されることは考えにくい。実際にはほとんど適用されない要件であるが、これをあえて付け加えた理由について厚生労働省は、「介護サービス事業者に対して、労働法規を遵守してほしいとの意図であり、これによって事業者を排除したりするまでは考えていない。」と述べている。

この背景には、介護事業を含む社会福祉関係の事業が、全産業と比較して労働基準法等の違反の割合が高いとされている問題がある。その根拠とされている労働基準法等違反事業場比率(平成20年労働基準監督年報)によると、違反事業場比率 が全産業で68.5%であるにもかかわらず、社会福祉施設が77.5%と高率を示していることにある。特に割増賃金不払いの割合は、全産業で18.1%であるにもかかわらず、社会福祉施設はその倍近い35.8%となっている。
(※社会福祉施設には、特養、老健、デイサービスセンター・老人短期入所施設・訪問介護事業所等の居宅サービス事業所、グループホーム、有料老人ホーム等のほか、保育所や障害福祉関係施設・事業所等が含まれている。

これは社会福祉施設経営者の問題であると同時に、そこで働く職員が労働基準法という自らを守る法律の知識に欠けているという一面もあるのではないかと思われる。法律に基づく正当な要求さえできないから、労働法規を守らない管理職の横暴を防ぐことができない状況が生まれているのではないだろうか。

法律を知らないということは、そこで生じているはずの自分たちの権利もしらないということだ。老人福祉法の規定を知らねば、そこで規定されている基準を守っているにもかかわらず、法的根拠のないそれ以上のものを押し付けられても異議を唱えられないということでもある。

法令知識とは、このように自らの行動を縛るものではなく、自らの権利を守るためにも必要だという理解が求められるのではないだろうか。

シリーズ第3弾・完結篇、1月25日発刊。
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ソーシャルケースワークの課題。


自宅で家族と暮らす要介護者を支援する際の難しさとは、家族が抱える問題が、要介護者に影響することを防ぐ手立てが別に必要になるという点である。

要介護者本人と、必要な社会資源の調整ということにとどまらず、要介護者の生活障害の一因になっている家族の問題についても、何らかの形で関わらねばならなくなるケースというのは多いはずだ。

介護支援専門員も、利用者に対する居宅サービス計画を立案し、それに沿った総合的援助を行う際に、居宅サービス計画が機能しない一要因が、家族の存在そのものであるというケースに出くわすことは少なからずあるだろう。

その際には、家族支援は私の仕事ではないと言っておられず、そのことを含めた総合支援能力、調整能力が求められてくる。

例えば、主介護者自身が精神的な障害を抱えて、それ自体が要介護者の生活障害になっているケースなどである。

この場合、主介護者の病状に対するアプローチは不可欠であり、利用者支援と切り離して考えられない。しかし一方で、主介護者からは、介護支援専門員は利用者にだけ関わってくれれば良いので、自分のことは構わずにいてくれと拒否的な態度を取られることも多い。

「あなた自身の問題が、利用者の問題と関わりがあるのです」という説明をしたところで、それを簡単に受け入れてくれるとは限らず、そこでいかに介護支援専門員等のソーシャルワーカーが、主介護者から信頼を得て、主介護者の問題を含めて全体的に関わることができるかが重大な課題となる。そういう意味で居宅における支援というものは独特の難しさがある。

その時必要とされるのは、社会福祉援助技術であることは否定しないが、しばしば「人間力」「包容力」というものが必要不可欠であると感じることがある。そうした力を持っているワーカーは、とても頼もしく思える。

この点で言えば施設サービスの場合は、こうした問題のハードルが在宅時より低くなる。

なぜならそうした問題を抱えたケースでも、施設サービスに移行した途端に、介護施設という新たな居所で、家族の負の影響を排除して、生活支援のみに関わることができるというメリットがあるからだ。

あまり詳しい内容を書く事はできないが、次のようなケースがあった。

介護保険制度が施行された直後のことであるが、高齢者夫婦と、一人息子が同居していた世帯で、脳出血後遺症で左半身麻痺となった夫の介護を、70代の妻が担っていたケースである。

高齢の妻の介護負担を軽減するため、当施設併設の居宅介護支援事業所の介護支援専門員が、ヘルパーとショートステイのサービスを組み込みながら支援していたケースである。僕は当時、ショートステイの担当者として、本ケースに直接関わりを持ち、短期入所生活介護計画を作成していた。

このケースの一番の生活障害は、要介護者の身体状況ではなく、息子の存在そのものであった。

50代の息子は、アルコール中毒症で定職もなく、一家は生活保護を受給して暮らしていた。昼間から酒を飲んで、身体介護のため訪問するヘルパーにからんで、ホームケルプサービス提供そのものに支障が来すことが頻回にあった。

酒を飲んで、親である利用者や妻に暴力を振るうこともあった。当然のことながら、親子関係は非常に険悪なものになっていた。

アルコール中毒の治療が必要だということで、精神科医療機関のソーシャルワーカーの協力も得て、受診・治療につながるアプローチを行ったが、なんとか外来受診につながったものの、酒を飲まずにはいられず、同じことが何度も繰り返され、最後には訪問介護サービスを提供してくれる事業所がなくなって、緊急避難として連続利用30日のリセットルールを使いながらショートステイを長期間利用し、特養の空きベッドが生じた際に入所に至ったケースである。

入所後も、この息子は酔ったまま施設にやってきて、入所中の親に大声で怒鳴り散らしたり、手を挙げそうになったりしたため、妻の同意を得て、息子の面会を制限することにした。酒が入っている状態での面会を禁止した。それでも施設に訪問してくるが、玄関から中に入れないようにして、素面の状態なら会わせると言って、そこから追い帰す様なことが何度かあった。

当施設に入所された父親や、自宅で息子と暮らし続ける母親も、そうした息子の状況に困惑するばかりであった。確かに父親が施設入所したことにより、父親自体の暮らしの障害は大幅に改善した。しかし生活の質という面から考えると、長期的に見れば、息子の状況が改善しない限り、この親子、一家が抱える生活障害が解決されたということにはならず、親子関係が完全に崩れて、家族として成立しない状況になることが考えられた。

このケースでは、やはり息子がアルコール中毒に対する病識をもって、抱える問題を理解することが必要であった。この部分で、施設の介護支援専門員からは主たるアプローチはできなかった。

本ケースでは、精神科の相談員であるPSWが積極的に関わってくれて、いつしか息子の信頼を得るようになり、息子の相談に乗りながら、施設入所している父親に逢うために押しかける理由や、心情を理解し、酒を飲んでいない時に、一緒に施設に訪問して、父親との面会に立ち会うなどの支援を行ってくれた。

施設側も、PSWからもたらされる情報を元に、定期的に息子や母親の状況確認と、父親の様子を伝えるために、電話連絡したり、訪問したりした。

この間は、所属が異なる担当者が、上下関係なく、お互いに必要な情報のやり取りをして、精神科医療機関の医師も巻き込んで、スムースな連携ができた。結果として、息子はアルコール中毒の治療も行うようになり、酔ったまま施設を訪問してトラブルを起こすこともなくなった。

最終的には、ある事情で、息子が先に亡くなってしまったが、親子関係が破綻してどうしようもなくなるまでには至らず、施設入所後な、以前より親子関係の改善が見られ、家庭崩壊とまではならなかったケースである。

その時、プライベートの時間も使って、積極的に介入してくれたPSWの存在がなかったら、もっと問題は複雑化しただろう。彼の調整力のおかげで、少しずつではあるが、親子の関係が改善していった。

本年度の、介護保険制度改正の最大の目的は、地域包括ケアシステム構築のスタートのとしという意味だろうが、その中では保健・医療・福祉の連携が重要になる。そのために介護報酬にも、医療報酬にも、連携に関わる対応の加算が新設されているが、そこにはソーシャルワーカーの介入が条件とされていない。

本来、多職種連携は所属を超えたソーシャルワーカーの介入がより重要になってくるはずだ。

それがなければ、「連携」という言葉が、単に医師が福祉・介護サービスを指揮命令系統の中に組み込んで、指示をして終わりということになりかねないと思う。ここが大きな課題だろう。

どちらにしても、所属する組織の利害を超えて、人の暮らしに関わる使命感を持つ誰かが調整役にならない限り、人の命や暮らしは簡単に崩れてしまうということを忘れてはならないのだろうと思う。そのことができているか、押し詰まったこの時期にもう一度自らを振り返って考えたいと思う。

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地に堕ちた相談援助職


介護施設や、介護サービスにおける相談援助職の役割とはなんだろうか。それは当然社会福祉援助技術を持つソーシャルワーカーとして、利用者や家族と関わりを持つ役割である。

様々な生活課題を抱えた人々の暮らしをよくするために、それらの人々と、様々な社会資源と結びつけたり、調整したりするケアマネジメントの方法も、ソーシャルケースワークの技術の一部を構成するものだ。

ソーシャルワーカーは、社会生活の中で人の暮らしを支援するのであるから、利用者やその家族の抱える経済的問題についても、適切にアプローチしなければならない。経済的援助が必要な人であれば、様々な社会制度の中で、利用者に結びつけることができる経済的負担を減らす援助方法を探して調整することをもこの援助に含むのは当然である。

しかしそれはあくまで社会のルールとして許された方法でなければならないし、法令を無視してまで援助することが許容されるわけではない。結果的に利用者負担が減って、それで誰にも迷惑がかからなければ良いという理屈は通らない。社会正義というのもを無視して何が相談援助だ。

利用者の利益になりさえすれば、法を無視しても良いと言うことがあってはならないのだ。たしかに法律は所詮、文章にしか過ぎないから、悪法も不完全法も存在する。しかし法律が不備であるという自分の価値観だけで、法律で定められたルールを無視してしまっては、この世は無法地帯だ。そんな社会を自ら創りだす方法論に国民の支持は得られるのか?国費を使うことを認めてくれるのか?

しかし実際には、法令を無視して、法の網の目をくぐって利用者の経済的負担を減らすことを、社会福祉援助だと勘違いしている相談援助職員は多い。利用者の経済負担が減ることが、社会全体からみて不利益になる場合もあるという視点が欠如している相談員が存在する。

「費用的な問題で、必要なサービスを利用できないとなれば、何とかする方法を模索する事は、決して不適切な対応だとは思えません。」という屁理屈で、法律を破って減免適用を受けることができることを勧めることも許されると考えるのは社会に対する無責任だ。ソーシャルワーカーとしての使命感の欠如だ。

それともソーシャルケースワークは、法の網の目をくぐる方法を示唆することだとでも言うのか?そんなの相談援助でもなんでもない。社会福祉援助技術とは言えない。

法律を変える必要性があるという正論を主張するためには、悪法でも法律を守って、なおかつ法の瑕疵を明らかにして、正当な方向に変えるためのアクションを起こすことではないか。

高速道路の料金徴収に反対だからといって、料金所を強行突破する連中にソーシャルアクションが起こせるとでも思っているのか?

許せないのは、施設の相談員という冠をかぶって、施設の中だけでしか責任を負おうとせず、社会全体の視野がない相談員である。経済的負担を減らす方法があるからといって、その方法を適用できない状態であると知っているにも関わらず、認定する機関や担当者は自分ではないから、その方法をアドバイスすることは自分の責任ではないと考える輩がいることだ。

いつからソーシャルワーカーは、特定個人の利益だけを追求して、社会全体のあるべき姿を見失う人になったんだ。自由で公平で幸福な社会とは、ルールを無視する人が得をする社会なのか?

参照:表の掲示板:「世帯分離の考え方について

それとこのような相談援助者が多いという実態は、将来的には社会全体の不利益となることを指摘しておきたい。

制度改正議論の際に、いつも議論されるのは、施設サービス費に減免制度があることはおかしいという議論だ。今まではその必要性が認められて、減免をなくそうという意見は阻止できてきたが、実態の伴わない世帯分離という方法を、施設の相談援助職という専門職が勧めているという実態が明らかになれば、減免制度の悪用ということで、この制度そのものの存続が危うくなるだろう。

そうすると真に経済的負担の減免が必要な人が、救済不能となるだろう。一番経済的援助を必要とする人が、一番困る結果になるということだ。そういうことまで考えているのだろうか?

その時、実態の伴わない世帯分離を勧める人々はどのように責任を取るのだろうか。
法令遵守


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福祉につきまとうスティグマ

この国の社会福祉の歴史を振り返ると、福祉制度や福祉援助を利用する国民の側の意識の中には、常にスティグマが存在していた。

スティグマとは「他者との違いを、ことさら貶(おとし)めつつ、指をさす行為」として存在し、それは「他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象」であり「烙印(らくいん)」と呼ばれることもある。

我が国では、福祉制度やそのサービスを利用すること自体を「おかみの施し」と捉え、サービスを受けること自体を「負い目」に感じ、同時にサービスを受ける他人を「負い目を持って当然の存在」とみる歴史があった。そしてそのスティグマは依然として消滅していない。

特に高齢者福祉においては、年をとること自体を「社会の負い目」とみる「問題老人史観」が存在し、それが新たなスティグマを生みだし、社会の人々の心の中に根強くそれを蔓延させる要因ともなっている。

それは同時に、税金による措置を嫌い、福祉を拒否する国民性を生みだす元凶でもあった。

2000年に施行された介護保険制度は、社会保障構造改革と言われ、高齢者が権利として介護サービスを利用すると言うキャッチフレーズが唱えられたことで、福祉が国民のより身近な存在になり得る可能性を含んでいた。そのために福祉を拒否する潜在的国民性が緩和されるという期待を持つことができるものであった。これによりスティグマが消滅されるのではないかという期待も持てた。

特に制度施行時の国策が「サービス利用促進」であったことから、さらにこの期待は高まった。

しかし保険給付による介護サービスが社会に浸透しかけた途端に、国はその方針を180度変え、給付抑制に走りだした。それは時には「ケアプラン適正化事業」「介護サービス適正化事業」と称され、あたかも保険給付サービスを計画する人間と、使う人間が両者とも罪人であるかのようなスティグマをあらたに作りだした。

訪問介護の生活援助(家事援助)制限などは、その典型である。一部の不正を全体の悪として制限を強化し、その制限の枠から少しでもはみ出したものを不正と決めつけ、このことを適正化と考える人々は、自らを聖人君子で、神のごとく間違いのない高潔な人物と勘違いしているのではないか。

我が国は先進国と呼ばれている割には民度が低く、成熟していない社会と言ってもよいだろう。福祉に付随するスティグマを生みだす意識レベルは、江戸期のそれと変わりないことは役人の「制限に酔う醜い姿」を見れば明らかだ。

法律は本来、人の生活を安全に豊かにすべきものなのに、暮らしを不便にして不幸をつくり出す「運用法令」が百出しているのが、この国の役人が作った介護保険制度である。我々社会福祉援助者は法律や法令を守りながらも、悪しきは捨て、より良い法律に変えてゆくというアクションを起こさねばならない。役人の作文では国民の暮らしを守ることはできないということを強く意識すべきである。

介護保険制度改正議論も、馬鹿な論議が繰り返され、相変わらず財政論から一歩も踏み出すことなく、何も決まらない、何も進まないでいる。そのため結局は厚生労働省老健局という一部局で作文されたものが、そのまま新制度になる。その責任の一端は、介護給付費分科会の委員が真に必要な制度の構造を示さないことによる。

人間にとっての「安全と安心と安定」が保障されない社会は未成熟な社会である。現代社会における国家とは、本来それを実現するために国民から負託された組織ではないのか。国家がその責任を果たさなくなった時、財源論など唱えている暇はなく、国家という組織そのものが崩壊しかねない。

福祉に付着するスティグマを消し去り、全ての国民に「安全と安心と安定」を与え、暮らしを守ることを、国家が保障するという意識が育てば、それ自体が社会のセーフティネットである。経済活動だけでは救済し得ない人間の精神構造をも内包したセーフティネットは、社会福祉という領域でしか創造し得ないものである。

政治理念とは、国家を形成する基盤であるはずの「国民の暮らし」そのものを守るためにあらねばならないはずだ。そのことが忘れ去られてはいないのだろうか。何を守るべきかを考える順序を間違ってはいないのだろうか。

そしてそのことに何の意義も唱えない有識者と呼ばれる「学者連中」は、単なる国の機関に救う寄生虫にしか過ぎず、「御用聞き学者」と呼ぶほどの価値もない。

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成年後見制度は単なるサービスではない。

「人権」とは人間が人間らしく生きていくための権利 である。

それは納税などの義務は伴わず、国籍・性別・出身等にも関わらず、人として生まれながら持っている権利であり、断力の差や障害の有無にも関係ないものである。

しかし判断能力が低下している人や、障害のある人の人権は無視されやすいことも事実であり、国が保障しなければ人権が守られない場合もある。例えばそれは生存権であり、社会保障や年金等という制度でそれを守る手立てが講じられているのである。

ただし日本の判例ではこの「生存権」を規定した憲法25条1項は「プログラム規定」とされていることにも注意と理解が必要だ。
(参照:憲法25条の責任の担い手であるという指摘への疑問

権利擁護とは、この人権を守るために存在する概念である。

自己決定・自己責任・自己負担というが、全ての人がこれらの能力を持つわけではない。よってそれらの能力を持たない人にとって個人の権利(自由権・財産管理権・契約権)と個人の生活をその人の立場から代弁する(advocasy)ことが求められ、そのために権利擁護が必要となる。そしてadvocasy(アドボカシー)とは利用者・当事者主体を可能とするエンパワメント(被援助者が自らの力を自覚して行動できるようサポートすること)の基盤であり目的である。

そうした権利擁護の具体的な制度として成年後見制度がある。それは本人の「最善の利益」を権利行使し実現するために「後見人」をつけ、自ら権利を主張できない人々の「声なき声」をそのまま放置して終わらせないための制度であり、財産管理のみではなく、「どこでどのように暮らすか」という私的問題についての決定にも関与し、財産を本人のために使い、本人の「最善の利益」を主張し擁護することが目的とされている。

お金はあるだけでは意味がない 。お金はそれを使うことではじめて意味をなし、それをどのように使うかを含め、本人ができない行為について、これらのことをできる支援者を生涯に渡り寄り添わせる制度が成年後見制度と言え、その部分に関して言えば他の制度とは全く異なる制度なのである。

よって成年後見制度は「人権の保障」であって、単なるサービスではないといえる。ここを取り違えてはいけない。

成年後見制度は
(1) 本人の判断能力が全くない場合→成年後見
(2) 本人の判断能力が特に不十分な場合→保佐
(3) 本人の判断能力が不十分な場合→補助
の3区分があるが、その内容は下記の表のように説明できる。

成年後見制度
この表で示している重要な法律行為とは民法13条1項によれば
〕唾金を払い戻すこと
金銭を貸し付けること
6眩を借りたり保証人になること
ど堝飴困覆匹僚斗廚丙盪困亡悗垢觚⇒を得たり失ったりする行為をすること
ヌ瓜訴訟の原告となって訴訟行為をすること
βM拭ο族髻っ膾杞膂佞鬚垢襪海
Я蠡海鮠鞠Аκ棄したり・遺産分割をすること
贈与や遺贈を拒絶したり不利なそれらを受けること
新築・改築・増築や大修繕をすること
民法602条の一定期間を超える賃貸借契約をすること

とされている。また特定の法律行為とは「預貯金の払い戻し・不動産の売却・介護契約締結など」がこれに該当する。

一方、事実行為(実際の介護など)や日常生活に関する法律行為(日用品の買い物など)、さらに一身専属行為(婚姻、養子縁組、離婚、離縁、遺言状の作成、医療侵襲同意) や身元引受人等は後見人の仕事ではない(代理できない)行為である。このことについても「しなくてよい行為」ではなく、「できない(代理できない)行為」であることの理解が必要だ。

この制度で後見人を専任することについて、事務処理の手間や煩雑さや時間がかかる点を問題点として指摘する声があるが、人権の保障を考えれば不条理ではない程度の手間は必要で、権威機関(この制度においては家庭裁判所)の関与は当然必要である。そういう意味では「高い・遅い・面倒くさい」と言われていることについても正確な理解をした上で問題提起する必要があると考える。

それは成年後見制度が、一面関わり方によっては人権侵害の危険性もある行為という側面を持つものだからだ。特に後見人が選任された場合に、個人の権利が一部制限されることについて、福祉を受けることは「自己決定を失うことだった」という叫びに耳を貸す必要があるだろう。

例えば制限を受ける行為として「後見人」が選任され成年後見がスタートすると、選挙権と被選挙権がなくなるほか、印鑑登録が抹消され、以下の職が制限される。
「会社の役員・医師・医療法人の役員・国家公務員・校長または教頭・弁護士・司法書士・行政書士・税理士・社会福祉士・介護福祉士・自衛隊の隊員・合名会社の社員・中央選挙管理委員会の委員・質屋営業の許可・歯科医師国家資格の受験資格・高圧ガス、火薬類の製造、販売の許可、    武器製造の許可・薬局開設の許可 」

保佐がスタートする場合、印鑑登録は可能であり、選挙権を失うことはないが、以下の職業が制限される。
「会社の役員・医師・医療法人の役員・国家公務員・校長または教頭・弁護士・司法書士・行政書士・税理士・社会福祉士・介護福祉士・自衛隊の隊員 」

なお補助にはこれらの制限はない。

つまり手続をあまりに簡素化し、権威機関の介入が及ばないところで後見人や保佐人が安易に選任されてしまった場合、個人の権利を擁護するどころか、単に権利を制限し人権を侵害してしまうケースが増えることが予想されるのである。この部分のさじ加減は非常に難しいが、選任手続きの簡素化という考えは、この制度に馴染まないように思う。

同時に、成年後見スタート=選挙権の喪失等の制限ルールについては、それが本当に正しい方法なのか、必要な制限であるのかという検討が加えられていく必要があるだろう。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

社会福祉に内包される非科学性。

社会福祉とは何かということをあらためて考えると、その答えは結構難しい。

社会保障が社会福祉に包括されその一部をなす等ということは今さら言うまでもないが、社会福祉そのものの定義は、社会の変化と共に変わって行く必要はないのか?そう考えると過去に示された定義をそのまま鵜呑みにしてよい部分と、そうでない部分があるような気がしてきた。ましてや様々な文献を読むと、その定義の概念も統一されていないことがわかる。

例えばその概念は、社会において現実に展開されている社会的な事業をさす場合もあるし、何らかのハンデキャップを持つ人々を援助する行為や活動を指す場合もある。

社会福祉に関連する各法に様々に規定された定義を用いて説明することも可能だが、究極的に言えば社会福祉は人間そのものにかかわる問題であり、人間として人間らしく存在するために行われる社会活動と言えるであろう。

その根幹には「無差別平等」の思想があり、そのことは人間の生命は分け隔てなく尊いという考えがあるはずだ。

人間には様々な能力差がある。そのことは誰も否定できない。しかし学習能力あるいは学力からみて天才児と呼ばれる人と、何らかの障害で学習能力がない人の人間としての存在価値は変わらず、一人の生命として、人間としての価値は同じであるという考え方が必要である。

一方では、無能とか無能力という言葉あるが、それはあくまで相対的意味にしか過ぎず、完全な無能力人間など存在しないと考えるべきである。例えば寝たきり状態に置かれた人であってもスプーンで差し出された食物を口で受け止め、咀嚼して嚥下する能力をもち、その能力を失った人であっても、経管から流された栄養素を、体の中に蓄え、心機能をはじめとした内臓を働かせて生命体として存在し得る能力を持っているのである。

つまり人間は「生きる」ことそれ自体の能力を尊われるべき存在であると言えるのではないのか。

能力が乏しければ自らの意思と力だけで生きることは困難になるだろうが、他人からの援助によりより良い状態へ遅々としても歩み続けることは可能であろう。すべての人間には能力があり、その能力を最高に発揮し得る状態が考えられる限り、目標としての社会福祉が実現可能であると考えるところから我々の援助活動は始まるのではないだろうか。

しかしこうした考え方に対しては、社会福祉に抽象的な理想を導入する結果となり、それを非科学的なものにするものだという批判が向けられよう。

確かに社会福祉が学問として成立することは大事で、そうでなければ体系として後世に伝えられないし、そのためには科学性が必要であることを否定しない。だが行為目標が存在しないところに制度やサービスは存在し得ない。社会福祉援助者は自分が何をすることによって、その活動が向かう対象がどう変わって行くのかを判断できないとその活動動機を持ち得ない。

社会福祉援助者は、人間観や福祉観から現実の社会や人間を見なければならず、様々な形で展開されている現実の人間生活が問題となるのである。そして問題とは解決を要する事柄であり、それを取り上げる主体があってこそ成り立つものだ。この場合の問題とは福祉を阻害する問題ということができよう。

その解決にはしばしば「愛情」というこの世で最も抽象的で、非科学的なものが必要であることに我々は気付くであろう。少なくとも僕はこの科学的ではない愛情というものの存在なしで社会福祉を語ることはできない。

つまるところ真の意味で社会福祉学が成立するためには「人間愛」を科学的に分析する必要があるのではないのか?

しかし科学的に分析した愛は、本当の愛とは別のところに存在するものなのかもしれない。こう考えると常にパラドックスに陥ってしまう僕は、まだまだ修行が足りないのだろう。

ただ一つ言えることは、社会福祉援助の科学性とは、何らかの数値に求めるものではなく、ある現象の因果関係をたどって検討することだから、その過程で愛情というものが結果にどのように作用しているかを検証する作業は可能だろうと思う。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

措置入所は最終手段とは限らない。

特養は介護保険制度以後、措置施設から契約施設に変更になり、通常の入所は措置入所ではなくなった。

しかし措置という取り扱いがまったくなくなったわけではなく、平成12年の介護保険制度施行に関わる改正後の老人福祉法第10条の4第1項・第11条第1項第2号において、訪問介護・通所介護・短期入所生活介護・認知症対応型共同生活介護・介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)について、やむを得ない事由により介護保険給付を利用することが著しく困難であるときは、市町村が措置をとる仕組みを存続させている。

「やむを得ない事由」としては、
1.本人が家族等の虐待又は無視を受けている場合
2.認知症その他の理由により意思能力が乏しく、かつ、本人を代理する家族等がいない場合

が挙げられている。つまり、居宅サービス利用にも措置があることで理解できるように、この措置の存続という意味は、現在の養護老人ホームや介護保険以前の特別養護老人ホームの措置費制度とは異なり、単に全額措置費で行政処分により入所させるという意味ではない。

現在の特養への措置入所とは、虐待などの被害を受けている高齢者を措置という行政処分で特養に入所させるが、介護給付費は通常通り施設に対して支払われ、利用者の1割負担分等を「措置費」として市町村が支弁するというものである。そして「やむを得ない事由」がなくなった場合は、措置も解除されるという意味である。

ところで、この措置入所。介護保険制度開始当初は、なかなか市町村が動いて措置に結びつけるケースがなく、あっても使えない制度のように考えられていたが、虐待事例などを中心に措置入所するケースが徐々に増えている。やむを得ないケースに、適切に措置入所で対応するのは市町村に課せられた義務なのだから、動きの鈍い地域では、介護支援専門員など関係者がソーシャルアクションとして、市町村に積極的に働きかけるべきである。そういう責任も我々には求められている。

ところで虐待ケースを担当する介護支援専門員の中に、この措置入所を「本来回避すべき手段」とか「最終的に仕方ない手段」と考えて、できれば措置入所はさせたくないと考えている人々が存在する。虐待ケースでもなんとか軽度で済んでいるので、生命に関わるような状況ではないとして「措置入所までは考えない。」という考え方である。

このことは大変な誤解である。措置入所とは何も最終手段に限ったものではないし、必要な場合には緊急一時的な対応手段として使うべき制度なのだ。もちろん在宅で支援し続けられるなら、それを否定するものではないが、そこに「多少の暴力や暴言、介護拒否で身体的にさほど問題とならないのなら、まだ猶予があるだろう。」という考えが少しでもあれば、それは大きな間違いである。

行政処分という形で、家族の意向を無視して入所させることで、家族関係をさらに悪化させ、家族自身にも精神的に深い傷を負わせる、と考える向きもあるが、その考え方は優先順位を間違っている。

現実に虐待を受け、身体的・精神的に痛みを与えられている人が存在する状況を、どの程度まで「我慢させることができる」と考えているのだろうか?それとも「多少の痛みなら耐えられる」とでも思っているんだろうか?

子供等の家族から虐待を受けている場合はなおさら、表面に現われない深刻な問題が隠されている場合が多いのである。ぎりぎりのところまで引っ張って、取り返しのつかないことになったらどうするのだろう? そこには生命の危険まではないのかもしれないが、実際に「痛い思い」「つらい思い」を日常的にさせられている高齢者自身の存在があるのだ。こういう人々に早急に一時避難できる場を考えられない支援者であってよいのだろうか。

つまり虐待とは程度によって問題が軽かったり、重かったりするわけではなく、虐待されているという事実そのものが重大な問題なのだという認識が必要なのである。

児童の場合であれば、このようなケースは児童相談所の一時保護で対応するケースは多い。一旦家族等との距離を置く、ということが考えられる。

虐待している当事者も、なにも虐待したいというわけではなく、自分が抱える様々なストレスや障害によって、やむを得ず虐待に至っている場合が多い。そうした状況には冷却期間が必要だし、一時的でも両者の距離を置くという対応が不可欠であるからだ。

ところがこれが高齢者になると、親だから子供がそこまでしないだろうとか、命に関わらない限り何とかなるだろう、とされて緊急的対応がされないケースが実に多い。虐待を受けている当事者は高齢に加え、認知症などがあるなどして、自らの危機を適切に訴えられないこともあり、そのことが関係者の問題意識を薄れさえている。しかし実際にそういう高齢者が虐待を受けているまさにその瞬間には、心も体もボロボロにされているのである。そういう状況をまずなくさないで、何が支援なのだろうか?

虐待被害の事実を訴えない高齢者や、事実があっても対応しなくてよいと訴える虐待被害者は、虐待を行っている当事者をかばっているというより、虐待を受けている悲惨な状況を訴える能力に支障があるか、現実場面のことを忘れてしまっている場合がほとんどで、虐待を受けているその瞬間には「助けて」と心の底から叫んでいる場合が多いのである。このことに思いを寄せられない支援者であってはいけない。

措置入所であるといっても、その後一生入所し続けなければならないなんてことはなく、問題の解決方法が見つかれば、措置解除して元の生活に戻ることも可能なのである。

措置入所を回避したがる背景には、介護保険制度で「居宅サービスが中心」という考え方が背景にあり、施設サービスが「必要悪」のような印象を与えているということも一因としてあるんだろう。しかし地域福祉の両輪は「居宅サービス」と「施設サービス」であり、どちらが欠けても地域福祉は成立せず、施設サービスはセーフティネットとして「居宅で頑張って生活していたけれど、それが限界に達した。あるいは何らかの理由でそれが難しくなった。」という時に、自宅や家族に代わって支援する「高齢者の新たな住まい」という意味があるのだ。

措置入所することが家族関係を断つことでも、利用者自身の生活の質を低下させることでもない。現に虐待ケースでは、虐待されている人が施設入所した後に、虐待をしていた親族が自分を見つめ直し、長い時間をかけて家族関係が修復され、入所前よりよい状態に変化するケースが数多くある。

何より虐待を受けている高齢者自身が、そういう生活から解放され表情が変わる。生活の質がどちらが上かは、その表情が全てを物語っている。

少なくとも措置入所という方法を、最終的なやむを得ない手段として「限定的」に考えるのは間違いである。

「虐待」を受けている当事者の身を自分に置き換えて考えた場合、今現実に何らかの形で体や心に傷をつけられ、怖い状況が存在しているときに、その状況がなくなるように具体的に動いてくれない支援担当者などいらない。この程度なら大丈夫ではなく、その程度でも「あってはならない状況」というものが存在することを知るべきでる。

理想を追い、理念だけを先行させても痛みは消えないのである。

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憲法25条の責任の担い手という指摘への疑問。

老施協の役員セミナーの講演抄録を読んでみると、ここの「制度ビジネスと福祉経営」という講演で、福祉医療機構の経営支援室経営企画課長・千葉 正展氏が社会福祉法人の役割について次のように語っている。

「社会福祉法人の立ち位置があいまいになっています。社会福祉法人ではなくてもいい時代になったともいえます。しかし特養でなくてはできない介護、社会福祉法人にしかできない固有の社会福祉があると思います。固有性とはなにか。企業経営を考えるのが社会福祉法人かといえば違和感があります。しかし公益性が高いだけでは存在がアピールできない。結論は浅いかもしれませんが、本来は憲法25条の責任の担い手として存在していると思います。」

以上である。そう長くない言葉であるが様々な示唆に富んだ内容であると思う。(もちろん賛否は様々にあるだろう。)

ただ一口に「社会福祉法人は本来、憲法25条の責任の担い手として存在している。」といっても、この規定がどう解釈されているかを知るものとしては、どうも首をかしげざるを得ないところである。もちろん社会福祉法人が介護サービスの現場で、利用者の基本的人権をきちんと守って、健康で文化的な生活を保障するという観点は必要であるが、憲法25条を持ち出すならば、その法的解釈論を抜きにして「健康で文化的」という文言だけをクローズアップして責務論を語るのは間違いではないかと思う。そのことを少し考えてみた。

憲法25条とは言うまでもなく社会権である生存権と国の社会的使命の規定であり
「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

以上の条文を指したものである。

この生存権と国の責務を考える際に避けて通れないのが有名な「朝日訴訟」であり、社会福祉を志したものなら、そのことについては何らかの形で学んでいるはずである。ただ朝日氏が亡くなり最高裁で訴訟終了の判決(実質敗訴)が下りて40年以上を経た今日では、そのことが取り上げられる機会も少なくなったので改めてその内容を確認してみたい。

朝日訴訟とは、岡山国立療養所で療養入院する重症結核患者であった朝日茂氏の「人間裁判」といわれた戦いである。

朝日氏は戦時中の1942年から入院し、生活保護を受け療養治療していた。生保受給状況は厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額たる月600円の日用品費の生活扶助と、現物給付としての給食付医療扶助である。ところが1956年福祉事務所が20年も音信不通であった兄を探し出し、無理に月1.500円の送金をさせ、それにより津山市社会福祉事務所長は、月額600円の生活扶助を打ち切り、兄の送金額から日用品費を控除した残額900円を医療費の一部として朝日氏に負担させる旨の保護変更決定をした。つまり朝日氏は生活扶助費を打ち切られたうえ、仕送りの1.500円も全額受け取ることを許されず生活扶助費の日用品費と同額の600円のみ自身の生活費として受領するという命令である。

その後、朝日氏の不服申し立てが却下されたため厚生大臣を被告として、600円の基準金額が憲法の規定する健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりないものであると主張して争った裁判である。

一審では日用品費月額を600円にとどめているのは「健康で文化的な最低限度の生活の保障」を定めた法律違反であるとして福祉事務所長の裁決を取り消した原告全面勝訴(1960年・東京地裁)であったが、2審では600円はすこぶる低い額であるが不足分は70円に過ぎず、憲法25条違反の域には達しないとして原告の請求棄却という逆転敗訴(1963年・東京高裁)となり、最高裁で係争中に朝日氏が死亡、養子夫妻が訴訟を続けたが最高裁判所は保護を受ける権利は相続できないとして本人の死亡により訴訟は終了したという判決を下した。(1967年・最高裁)

結果として憲法25条規定論議について明確に原告主張を却下したものではなかったが、しかし最高裁は判決後「念のため」として「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合理的な裁量に委されている」という異例の意見を述べている。

この意見は「念のため判決」と通称されているが、判決主文について判示したものではないにしても、最高裁判事15名の合議による意見として重みがあるとされ、いまだにこの意見が生存権規定である憲法25条の解釈基準とされているものである。

そしてその意味するところとは、憲法25条はあくまでプログラム規定、つまり「特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない。」とする考え方である。この解釈は年金の併給禁止規定で争った堀木訴訟(1970年)でも踏襲され原告敗訴につながっている。

つまり我が国の憲法で規定されている生存権とは「抽象的あるいは具体的な権利規定」ではないとされているもので、「国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。」と結論付けられているものであり、社会福祉法人にその責任の担い手としての役割を求めるのは的を射た考え方ではないと思う。

逆に言えば、このプログラム規定論が法解釈である限り「憲法25条の責任の担い手」とは、財源によって左右される給付費の水準に基づいて専門的に判断するものであるとして、社会福祉法人が本来期待されている社会的使命とは相反する基準を尺度とする意味となる可能性が高い。

もし憲法25条がプログラム規定ではなく、抽象的あるいは具体的な国民の権利規定であるという立場であれば「健康で文化的な最低限度の生活」を社会福祉法人がその基準を現場から押し上げて守ろうという考え方は正しくかつ重要と思うが、国の判例に基づくプログラム規定論を放置しての責務の押し付けはいかがなものだろうかと思う。

もちろん朝日訴訟自体は裁判の過程で生活保護基準が段階的に引き上げられるなど、その果たした意義はきわめて大きなものであったといえるし、我が国の社会保障闘争史の中で意味深いものであるが、生存権の解釈が40年以上前の「念のため判決」による状態が続いていて、そのことの見直しがされていない状態で、現場の特定事業主体にその実現を図れと言われても意味がないように思う。福祉医療機構の千葉さんはこの法的解釈を理解して発言しているんだろうか?大いに疑問である。

むしろ過去の論争を理解せず、生存権という言葉だけが独り歩きして、法律上のプログラム規定という概念や解釈に何ら変更の手が加えられないことは危険なことではないかと思う。

憲法25条の責任を担うということであれば、そこで規定された生存権はきちんと国民の絶対的な権利として存在するという法解釈の変更が必要になってくるのではないだろうか。

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現代社会における孤立の構造。

現在の我々は様々な物質とサービスにあふれた文明社会に住んでいる。

しかし人の欲望には限りがなく、豊かな社会であるがゆえに抱えるストレスも多い。自殺者の数がこの豊かな文明社会においても増え続けていることがそれを現わしている。インターネットで瞬時に世界中の情報を手に入れた便利さよりも、ブロードバンドではない接続速度の遅さにストレスを感じるように、人の欲望には限りがなく、手に入れることができる様々な物の最高を手にしない限り完全に満足することはない。いや最高を手に入れた人でさえ、それを失わないように不安とストレスを抱えることが弱き人間の宿命である。

しかもそうした文明社会の中で日本人は大切な人との関係をますます希薄化させ、人とのつながりを失くした孤独の殻に自らを閉じ込めようとしている。携帯電話でしか繋がりのない希薄な関係を社会との唯一の接点とする人や、インターネットの中の人格を自分自身と思いこむ人々が増えている。

かつて人々は自然の脅威に対して一致団結して事にあたった。地域という概念以前に、共に身を守る運命共同体としてのつながりがあった。しかし時の流れと共にそうした関係は神話の時代の絵空事になりつつあり、現代社会は人間関係の希薄化、個人単位の領域では非人格化と孤立化・無力化が広がっている。

日本の伝統社会では子供を産んでも、両親に変わってその親類縁者が必要な期間、赤ん坊を十分面倒をみられる地域社会が存在したが、現在では親にさえも頼ることができないことで子供を産めない夫婦が少なからず存在する。清潔な社会環境で赤ん坊の死亡率が非常に少なくなっても、生む環境がない社会では子供は増えない。核家族の進行が言われて久しいが、すでにそれは核家族化によって小単位ごとに分離した世帯が、親類縁者との関係をも希薄化させ、それぞれの家族や世帯単位で、望むと望まざるにかかわらず社会の中で孤立する可能性を抱えている。社会とのつながりが職場を通じた細い糸でのみ繋がっている世帯は、一家の主が現役をリタイヤした途端に孤立する可能性を持っている。

そういう意味では現代日本の社会構造は孤立家族・孤立世帯の集合体ともいえる。

自宅で亡くなる人が社会全体の8割を超えていたのはわずか60年前の話である。その時代はもしかしたら今のように優れた医者や看護師・設備や薬がなかったかもしれない。しかしそこには看病に専心する人々との暖かい心のつながりがあり、希望があった。死を間近に見詰めても、そこには家族や親類縁者・友人知人の温かな眼差しがあった。

しかし8割以上の人々が自宅以外の場所で亡くなる現代社会において、死の間際まで人々は清潔な環境で、最新の設備と技術で専門医療を受けることができても、つまるところ病者はベッドの中で孤独である。枕辺に誰一人としていない中で息を止める人々が数多く存在する。人々が今際の際(いまわのきわ)に望んでいるものは最新の医療技術ではなく、家族の温かい手を握ることであったとしても、現代社会ではむしろそのほうが手に入れ難くなっている。

この社会で生き抜くために人は孤独に対する耐性を持たねばならないのだろうか。孤立に耐えることが人間の資質になっていくのだろうか。それではあまりにも非人間的であり哀しい。

人は、自分と繋がる様々な人々との関係の中に生きており、心の通う相手があり、共に生きていくという実感によって安定し希望を持てる存在である。物質的援助も身体的援助も必要ではあるが、それだけで人の安心や希望は生まれない。物質的身体的援助を超えて人々との心通う関係の中で人は社会とのつながりを見出し、安心と希望を持つことができる。

社会福祉援助とは究極的には人と社会の接続の援助である。その時に社会福祉援助に関わる専門家は、ソーシャルワーカーとして個人の最もよき理解者として存在していくものであろう。

愛という言葉は抽象的すぎ、感情論であるから社会福祉援助という専門技術の領域であっても使うべきではないという意見があるが、人を愛し敬うということをなくして人の幸福は実現しない。愛すべきすべての人々がその愛に包まれて生きる喜びを感じることが人として求めることではないのだろうか。

青臭く、使い古された言葉であったとしても「愛」という言葉を抜きにして技術論だけで語れないのが社会福祉ではないのだろうか。

新しい政権のスローガンは「友愛」である。愛という言葉が本当の意味するところの人間社会を作る方向に政治家の視点は向かっていくのだろうか。愛という言葉を便利遣いして、実は自己責任や自己犠牲だけが求められる社会とはなっていかないだろうか。我々はそのことをしっかり見つめ、そして評価する義務と責任がある。

そして社会福祉援助に関わる人々は、社会の隅々から本当に人が人を愛し、人が人から愛される社会を実現するために行動し続け、声を挙げ続けなければならない。

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お金で人生は買えないというけれど・・。

社会福祉援助に携わる人々は、援助対象者の過去の生活歴に触れる機会が多い。

特養でもこれは同様で、利用者の家族関係や生活歴は重要な情報である。もちろんそのことが不明な場合もあり、だからといって援助ができないということもないが、生活歴の中には、現在問題になっている人間関係や健康問題につながる情報が隠されていたり、今後の支援方法を考える上で重要な要素となる生活習慣の情報が含まれていたりする。

よって援助を行う上でそれは不可欠ではなくとも、確認しておくべき必要がある情報といえる。

僕自身も利用者の生活歴を調べて、記録にまとめる機会は多いし、あるいは他機関を経て入所された方の場合などは、当該機関の前任担当者がまとめた生活歴情報を読んで確認することも多い。

前任者の記録を読むと、それぞれ特徴があり、こうやって記録すれば良いのか、という気付きやヒントになるものもあるし、逆に、何を書いているのか前後の文脈のつながりのない読みにくいものもある。決して文章がうまくなくても良いから、情報として第三者に伝わる記録として丁寧にまとめることが一番重要であろう。

ところで、我々は、これらの生活歴情報を決して興味本位で読んでいるわけではないが、しかし明治・大正・昭和初期という時代に生きた人々の生活歴は、読んでいて仕事を忘れて、ついつい引き込まれてしまうような壮絶な半生記であったりする。

我々の現在の生活からは想像できないほど凄惨であったり、過酷であったりする「人生」をその中から読みとることも多い。

例えば、一口に貧困と言っても、現在の貧困と過去の貧困では、レベルというより、その質がかなり違っているように思う。人の生存がぎりぎりに近いところでやっと維持され、生活が極限状況で営まれているような状態がときに垣間見られる。

中には、自ら進んで破滅の道にひたすら歩き続けるような人生がある。その原因が時として、酒であったり、薬であったり、バクチであったり、男女関係であったりする。しかしほとんど全てといってよいくらい、そこには金の問題(経済問題というほどきれいな問題ではないだろう)が絡んでいるように思える。

今回改めて考えさせられたのは、あの消えた年金問題である。

ある利用者の年金受給資格が確認され、未支給年金分として数百万円の額が通帳に振り込まれ、今後の年金収入も生活に困らない額の支給がされるようになった。

そのこと自体は大変に喜ばしいことである。だが、この方は生活保護を受給しており、今回の年金支給で保護が必要ないとして打ち切られることになった。そのこと自体も問題ではない。

この方の人生を振り返ると、年金収入を始めとした収入がないという問題が、高齢期にさしかかった後半生に大きな影を落とし、生活保護受給に至るまでの間に、様々な問題を生じさせ、妻や子供といった家族をすべて失い、親戚を始めとした知人・友人との関係を全て失い、身体の健康も、精神の安定もすべて失って、その後にはじめて入院先で生活保護を受け、今に至っている。

もし年金記録が正常に保管され、受給できる時期に年金が給付されていたら、この人は失わずに済んだものも多いのではないかと思った。もちろん、これまでの状況に至る全ての原因が金銭ではないし、個人的資質の問題もまったく関係ないとはいえないが、しかし経済的基盤ということは人間生活にとって非常に重要な要素で、この方の後半生にも大きな影響があったと考えざるを得ない。

金で人生を買うことはできないが、金がないから失ってしまう人生がある。しかし、そのことが後に明らかになっても、過去を金で買い戻すことはできない。

記録が失われたことにより支給されなかった年金が、当事者のその後の人生に大きなマイナスの影響を与えていたとしたら、余りにもそれは哀しいことであるし、社会保険庁の罪は重い。

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家族と成年後見人の医療侵襲同意権について

介護施設でしばしば問題となる「医療侵襲同意権」について、このブログでも何度か取り上げてきた。

今までの結論としては、家族が医療侵襲同意権を持つといえる法的根拠は見つけられず、それが正当な行為なのか不明であるが

1.実際には認知症高齢者などの医療侵襲同意については家族がそれを行っているケースがほとんどであること。
2.医療機関も家族にその同意を求める傾向にある

などと指摘してきた。

また成年後見人にも、あるいは施設の管理者にも、医療侵襲同意権はないものと考えられ、医療機関からそれを求められて、やむを得ず同意を行っても、法的にそれは無効であるだろうとしてきた。

そしてこのサイトのトップページに掲載している「身寄りのない入所者への対応」の中に記載している「手術同意」において、このことに関しては

1.身寄りのない方の場合において、本人が入所する施設を経営する法人や施設長に、本人に代わって同意を求めることは法的には無意味であると考えられています。従って、救急医療の場合と同様に、施設としては医療機関に対し、医学上の見地から本人にとって最善の措置をとるように求めるべきです。

2成年後見人が選任されている場合も、本人の手術等の同意権はないとするのが一般的見解です。

3.必要な医療を受ける権利は他者による同意を伴なわなくとも、人の生きる権利とともに基本的人権として備わっているという解釈から医学上の必要性から考えた最善の措置を行なう、という共通理解が必要に思いますし、現行でもそうした見地から施設側も医療機関に必要な手術等を求めるということが基本であると考えられます。

と結んでいた。しかし問題はもっと複雑らしい。

医療侵襲とは手術などに限らず、注射や点滴など人の体に侵襲を加える行為の全てを指す。

この同意権について、月間福祉2009年6月号において、日本成年後見法学会副理事長である赤沼康弘弁護士が「医療行為と成年後見制度〜同意能力のない者に対する医療〜」という小論文を書かれている。これが非常に参考になる。以下に月刊福祉の同論文から抜粋して、その内容の一部を紹介したい。
(※関係者は、是非この論文を一度読まれたほうが良いと思う。)

・医療侵襲には侵襲を受容するという同意が必要である。たとえ医療行為といえども、その同意がない限り形法上の傷害罪となり、民法上は不法行為等となる。

・医療侵襲同意には同意能力の存在が前提になるが、その能力の程度についての明確な基準があるわけではない。一般的には、その侵襲による結果を判断する能力があれば良いとされている。

・医療侵襲同意が違法性阻却事由であることを考慮すれば、本人に同意能力がない場合、治療の高度の必要性があり、本人が治療を拒否しないと推測され、かつ本人の最善の利益となると判断される時は、医師の裁量で医療行為を行うことに違法性はないと解する余地もある。

・未成年者で同意能力がない場合は、親権者・未成年後見人が同意権を代行できる。その根拠は民法820条(親権の本質や子の監護・教育の権利義務の定め)にある。

・同意能力のない成年者についても東京地裁1989年4月18日判決では「判断能力が不十分で脳血管造影のように患者の精神的緊張が症状に悪影響を及ぼすときは特別な関係にある患者の近親者に対する説明と承諾があればよい」とされている。ただしこれを根拠付ける法整備はない。

・治療の高度の必要性がある場合、本人の意思を推測し、かつ最善の利益を測り得る立場の家族に説明同意が得られれば違法性がなくなる場合があることは肯定されてよい。しかし同意をなし得る家族の範囲の明確化は困難であり法整備が求められる。

・医療侵襲同意は医療契約とは異なる同意であり、法律行為ではなく一身専属的なものといわれ成年後見人には医療侵襲同意権はないという通説に基づいて成年後見制度は運用されている。

・成年後見人は精神保健福祉法では保護者とされ(第20条)、治療を受けさせる義務が課せられ(22条)、医療保護入院の同意権が付与されている(33条)。結核予防法第64条、予防接種法第3条第2項は、成年被後見人については成年後見人が予防接種等に関して必要な措置を摂らねばならないとしており、この3つの法律の範囲では成年後見人に医療侵襲同意権があると解することができる。

(※論文には結核予防法と書かれているが、これは2006年に感染症法に統合されているので、この部分は論文執筆者の勘違いと思う。ただし引き継がれた内容は同じであろうから意味は違わないだろう。)

・これらの法律に規定のない医療行為であっても、成年後見人には療育養護に関する職務があり(民法第858条)本人のために医療契約締結権が与えられており、契約締結後の医療の履行を監視する義務が存することを考えれば、身体生命に危険性の少ない軽微な医療行為については代行決定権があると解してよい。

・しかし重大な医療行為について同意権はないと考えられ「第3者による医療同意に関する法」の整備が不可欠である。

以上のように結ばれている。非常にわかりやすく、重要な示唆を含んだ論文であると思う。そしてこの国においては、未だに判断能力のない成年者の医療侵襲同意について十分な法的整備がないこともよく理解でき、その必要性もよくわかった。

ただし法的な専門知識に欠ける僕の理解は、一部的を外している可能性があることを否定しない。

ただ最も強く感じた点は、一刻も早くこの国の「第3者による医療同意に関する法」の整備がすすめられなければならないということだ。なぜなら医療技術の進歩と、超高齢社会の進行は、今後、同意能力のない高齢者への医療侵襲という問題について、爆発的な数の増加が予測されるからである。

介護施設の関係者であれば、それは切実な問題であろう。

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出てこい地球人。

この国の国民に対し「あなたは何人ですか?」と問いかけるとしたら、ほとんどの人が「日本人です。」と答えるであろう。

「自分は日本人である」という意識を持っていることは常識という以上に自然の概念である。

しかし日本人という概念が成立したのは明治維新以降だといってよい。つまりは明治維新以前に、この国に今の概念でいう「日本人」は存在していなかった。

では維新前に存在していたのは何人であるのだろう。それは、おそらく藩組織を中心としたもっと狭い概念としての自意識であり、徳川家の何某(なにがし)、薩摩人や長州人というものが存在していたとしても、日本人は存在していなかった。江戸市中以外の幕府直轄地の天領においてさえ、そこでの農民は、徳川の百姓(当時の言葉)という意識の中にあった。

そこではまず藩の利益があり、徳川治世の藩の集合体である国家の利益という意識はほとんど見られなかった。むしろ国家=藩という意識であったろう。

その時代の「日本人」という言葉の感覚は、今でいえば「地球人」という語感と同様で、言葉としては成立しても、意味・実体としてはなきに等しい概念であったと考えられる。

日本人という概念が、ひとつの国家意識の下にまとまったのは、明治維新により成立した新政府の廃藩置県を始めとした中央集権政策以後であり、藩閥政治が残存していても、国家としてのエネルギーは、内戦から、日清、日露戦争、そして大戦へという対外戦争へ向う中で、強烈な国民意識として変革していき、やがて太平洋戦争という日本軍の暴走の結果、それが一度破壊されていくことになる。

しかし敗戦で国が荒廃しても、「国敗れて山河あり」という状況において、たくましい復興意識が生まれ、荒れた焦土の中でも日本人の国家意識は滅亡することなく、既に藩人は存在せず、ただ郷土愛を強く持った国民意識が残り、それが高度経済成長期を支えるエネルギーの根源となったといえよう。

とにもかくにも「日本人」という新たな概念を全ての国民が持つようになってから、まだ2世紀もたっていないのである。

ゆえに日本人にとって、国際感覚を身につけることはできても、世界をひとつとしてみる地球人という意識はいまだ空想的でさえある。

しかし、かつて「地球人」と同義語に感じるほどの感覚しかなかった「日本人」が生まれた背景を考えると、その概念が変わっていく可能性がないとも言えない。

少なくとも我々福祉援助に携わる専門家は、誰かの不幸の上に誰かの幸福が乗っかるといった構図を欲しない。それはグルーバルな視点からいえば、地球規模で貧困や様々な障害からすべての人々が解放されるという理念の元に成り立っている。

介護保険は地域保険であり、その中には地域密着型サービスという理念も取り入れているが、保険給付やサービスの形態がそうであっても、達成する目的は地域の中だけで完結することを意味しない。地域において、それぞれの専門家が基盤を整備し、それを支え、そのことが国全体の福祉向上に繋がり、さらにその上に世界を視野に入れた目標達成があるのが人間の幸福追求の本来の姿である。

民間サービスの参入は、社会福祉援助の視点を曇らせる弊害ももたらし、自己の利益のためには、他の競争相手を蹴落としながら収益を挙げるという視野の狭い事業者も増やしているが、適切なサービスを提供する主体であれば、マクロの視点からは、ともにその質を向上させながら、相互協力と連携で共存する中で、地域の利用者に対するサービスの量と質を確保していくという視点がなければならない。

よって、社会福祉援助の質の向上の為の「企業秘密」など本来あってはならないのである。よって質の高いサービスを展開する施設、事業所ほど、その責任において情報公開を進めていかねばならないし、情報交換の中心的役割を担っていくべきである。それをやがては地域から都道府県、全国へ、やがて日本から世界へと広がっていくことを信じ、地球規模で物事を考えて人類の幸福に資するべきである。

そういう意味では、介護施設や事業所の公式ホームページが自己宣伝・自己礼賛だけのマスターベーションのようなツールとして存在しているとすれば情けない。それは本来、社会に向けた有益な情報発信ツールでなければならないし、社会的な評価を受けるための情報発信ツールであるべきではないのか・・・。話がそれた。

社会福祉援助というものは本来、弱肉強食の市場原理とは相容れないものである。介護保険制度はその精神を著しく削いだことに歴史上の罪があるし、自己責任を前面にした諸改革は所詮、強者の論理でしかない。

この反作用は既に社会の隅々に「切り捨てられた社会的弱者」の増大問題として現われている。ここ10年間の政策の歴史上の評価は後世に委ねられているが、その結果はほぼ目に見えている。

そうした状況であっても、社会福祉援助者が、基本となる理念を忘れては、この世は闇である。せめて自分でできることはしっかりと、カバーできる範囲においては、その全力を尽くして、個人の利益を超えた視点で関わっていくべきだろう。それが国や、世界を動かすことを信じて・・。

Think globally、act locally(シンクグローバリー・アクトローカリー:地球規模で物事を考えて、しかし行動するのはまさにそれぞれの地域であるという意味。)の実現は、社会福祉援助者が、まさに地球人としての意識を持つべきことを意味しているのかもしれない。

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外国を手本にできない日本の高齢者福祉の現状。

日本の介護保険制度は諸外国の様々な介護制度や方法論を取り入れて設計されたものだ。

その状況を人間の体で言い表すとしたら、胴体はドイツ、頭は北欧(スゥーデン等)、手足はアメリカ、と例えられだろう。

つまり制度の骨格部分としての胴体にはドイツの介護保険制度の考え方を中心に取り入れ、理念及びサービス提供の考え方も含めた頭の部分は、グループホームの方法論などの先進地・北欧のケアソフトを取り入れ、実際に手足となる運用方法はアメリカで生まれたケースマネジメントの方法論を取り入れているという意味である。
(※ケースマネジメントがケアマネジメントと言い換ええられたのはイギリスのコミニュティケア法によってであろう。)

そういえば18年の制度改正時に小規模多機能型サービスを介護保険制度に位置づけるさえにも、その原型となる概念を調査する為に厚生労働省からスゥーデン等に職員が派遣されたと聴いている。しかしそのときは結局北欧には「小規模多機能型」という概念はなく、ただグループホームは「地域密着型」という概念で運営されているということがわかり、その考え方が改正介護保険制度に導入されると同時に「小規模多機能型サービス」については「小規模多機能型居宅介護」として我が国独自のサービスに位置づけられたんだと言われている。

しかし各国の概念や方法論を取り入れて運用している我が国の高齢者福祉サービスについは、それらの諸外国とは比較できない状況が生まれてきている。よって、いつまでもそれらを参考にできない状況が同時に生まれているのではないだろうか。

世界保健機関(WHO)が公表している2005年のリポートでは、各国の平均寿命で日本は、モナコ、サンマリノと並んで82歳で第1位である。スウェーデンはそれに次ぐ81歳で第4位であるが、ドイツは79歳で17位、アメリカは78歳で26位である。

高齢者率は日本や世界1の25.6%、ドイツが24%で4位、スウェーデンは5位で23%、アメリカは16.5%で41位である。

人口が世界10位の日本が、日本より4千万人以上人口の少ないドイツや国民総人口が886万人しかいないスウェーデンより高齢化率が高くなっている現状は、高齢者の総数でいえば両国と比較できないほど多いということである。

つまり人類史上かつてないほど多数の高齢者を抱えている社会が我が国の現状なのである。当然のことながら高齢者人口に比例した形で、重度医療対応者や認知症高齢者の数も諸外国よりはるかに多いと考えねばならない。

北欧の認知症ケアが進んでいるというが、我が国では、それらの国よりさらに高齢化した認知症の方が、数としては比較にならないほどたくさん暮らしているということである。その状況でグループホームの数をそれらの国と同じ割合で増やしていくことがこの国の方法論として正しいのだろうか。

日本よりスウェーデンは出生率が高く、さらにここ数年はその率が上昇傾向にある。つまり少子高齢化の進行速度はスウェーデンより日本の方が深刻なのだ。その日本で一人の高齢者支援に関わる若年者数をそれらの国と同じにすること自体が不可能である。しかも財源として考えることができる消費税率は日本が5%であるのに対し、スウェーデンにいたっては25.3%である。

よって我が国の現状から鑑みるとケアの質の担保を、ケア単位を縮小化させて、少数の介護者が少数の高齢者をケアする方法だけ考えていてはシステムが崩壊する恐れが強いということだ。

特養の新設や増設をユニット型の新型特養に限定したり、グループホームなどの小規模対応型施設の増設を奨励したりする政策では人も金も足りなくなるのは目に見えている。

スケールメリットという言葉があるが、これは何も費用の面だけで考えるべきものではなく、ケアの方法論、効率的な部分を含めたケアの品質の担保という部分からも考えられて良い。

つまりは高齢者の支援システムにもスケールメリットに着目した効率的な介護方法も求めていかねばならない、ということである。人手をかけなくとも、ケアの質をある程度保つ方法にも重点を置いて考えないと、この国のケアは持たないのである。そこの視点や研究が足りなさ過ぎる。

この点、厚生労働省が現在進めているケアの単位の小規模化という制度設計自体が間違っているのである。質の担保をケア単位の小規模化でしか見ない向こう側には、施設あって労働者なし、という状況を生み、介護サービスそのものが崩壊するであろう。

ないものねだりの制度設計でどうしようと言うのだ。

認知症ケアにしても、一番認知症の高齢者が多い我が国から発信する「新たな認知症ケア」の発想があったって良い。諸外国のサービスを参考にすることを否定はしないが、既にそれらの教科書の想定外、手の届かない場所を我々は歩いているのである。

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ナショナルミニマムとシビルミニマム

先週書いた「消費税率アップがもたらすもの。」というブログの中に、グロソブさんが書いてくれたコメントを読んで、僕も思わず学生時代のことを思い出してしまった。特にナショナルミニマムという言葉に卒論を書いていた当時のことを思い出したりした。(参照:卒業論文を書いていた夏のこと。)

僕の大学4年生の時期は、年齢で言えば21歳〜22歳にかけてであり、年代で言えば昭和57年〜58年である。

意外とまじめに授業を受けていた僕は、3年生までに必修単位はほとんどとっており、4年生では授業はほとんどなかった。
(それは自分がまじめで優秀な学生だったという意味ではなく「小心者」であるということによるものだ。単位なんかどうにでもなるさ、という気持ちになれず、落第しないようにせっせと授業を可能な限り受けていた結果である。)

4年も後期になるとゼミだけに出席して、あとは大学に通わず卒論に専念していた。ゼミは「松井 二郎教授」の社会福祉実践理論の研究に関するものであった。ここには毎回欠席せずまじめに参加研究していた。

大学に通わぬ日は、卒論作りのため図書館通いをしていた、と言いたいところであるが、事実は、ほとんど「遊び」と「バイト」三昧の日々であり、片手間に文献を探しながら、遅々とした卒論作りを行っていた。まあ最終的には完成して、当時、道内1厳しいといわれた北星学園大学の卒論審査にも通って卒業できたんだから文句をつけられる筋合いではないのである。もちろん主席卒業なんていう恥知らずなことにはならなかったので、あえて断わっておきたい。劣等性の誇りここにあり。

卒論のテーマは「シビルミニマムと福祉」というもので、当時のテーマとしては斬新だったし、現在各地域で行われている市民による福祉計画作りの必要性にも触れており、その先見性はたいしたものである。(と人が言ってくれないので、自分で思い込んでいる。)

シビルミニマムとはナショナルミニマム(当時の文献ではナショナルミニマムではなくナショナ・ミニマムと表記しているものが多かったが、現在はナショナルミニマムが一般的である)に対して、法政大学の松下 圭一名誉教授が造語、理論化した概念であり、東京都の美濃部知事が東京都中期計画の中でこの概念を取り入れたことから一躍脚光を浴びた言葉である。

ナショナルミニマムが社会的に認められる最小限度の国民生活水準のことであり、国家が広く国民全体に対して保障すべき必要最低限の生活水準とされるのに対し、シビルミニマムとは、市民が生活していくのに最低限必要な生活基準に基づき市民と自治体の協働で「社会保障等の基準」を定めるべきとしたもので「市民による街づくり計画」が方法論に含まれてくる。

僕は卒論のなかでは、これをもっと積極的に、市民の側の尺度から作り上げる新しい社会福祉サービスの「最低基準」と考えて、各分野(高齢者や障害者、児童福祉など)別のシビルミニマムによる制度設計について論じたものである。

卒論を書いている際にも気付いていたが、当然のこととしてナショナルミニマムにおける最低基準と、シビルミニマムにおける最低基準の考え方には大きな差があり、当然それは後者の方が高いレベルを示すものとなる。この違いはどこから生じるのだろうか。

この理由はある意味、当然といえば当然のことであり、市民の側は自らの持って生まれた権利としての生活保障を求め、その権利意識のベクトルは国民全体の生活水準が上昇する伴い、上昇方向へ右上がりに向う。しかし国家の概念としてのナショナルミニマムの最低基準のベクトルは、シビルミニマムのベクトルと同様の右上がりに向ったとしても、その上昇カーブはシビルミニマムのベクトルよりも緩やかであり、時には水平方向に向かう場合もある。

つまり憲法25条が規定する「健康で文化的な最低限度の生活」の判断レベル自体が、国と市民では異なるのである。

この理由は明らかである。日本という国家自らが福祉国家を自称するからには、ある程度の社会福祉の拡充と発展に努力はするし、しなければならない。しかし福祉国家が資本主義経済を中心にした社会体制として存在している以上、無条件で無制限に社会福祉は発展していくわけではないことを証明しているものである。

もともと社会福祉政策が存在し、発展していくのは、社会福祉援助対象者に対する社会的救済や保護の目的が、「資本主義経済」と「社会の存在と発展」に欠くことのできない賃金労働の順当な再生産を図るという意味があり、一方でその意味するものは国家独占資本主義段階に導入された技術革新下の大量生産に対する大量消費構造の造出のため、社会福祉援助対象者にも一定の購買力を与え、所得の再分配をはかり、多少なりとも格差を縮小して階級対立を緩和させようとする政策であるから、その財政配分は、当然、独占資本にもっとも有利な形がとられ、個人の権利やニーズに必ずしも対応したものとはならないのである。

よって形式的な姿勢としては、国家は社会福祉の発展やその保障を示すが、その実体と内容は極めて貧弱なものとしてしか社会に存在しない理由もここに一因があるのだ。むしろ国家と大資本は、政治的宣伝とは別に、絶えず社会福祉政策を最低限まで引き下げようとする意思をもつものと理解した方が良い。ナショナルミニマムの視点からのセーフティネットは、そういう意味でほころびの多いものにならざるを得ない。

したがって社会福祉政策の内容と水準を低下、改悪させないで、それを発展、向上さえていく為には民衆の声を代弁して、民主的な組織運動と連動して社会的圧力をかけていく必要もあるということなのだ。その規準がシビルミニマムとも言え、その運動がソーシャルワークの中のソーシャルアクションと呼ばれるものである。

しかし、そうした社会福祉運動による介入の前に国民は個人としてしなければならないことがある。

黙って座っていれば良い社会を国がつってくれるなんて言うことはありえないのである。

だからこそ言いたい。選挙に行かない人々よ、そんなの意思表示でもなんでもなく、あなた方の生活保障を自らが放棄しているんだぞ。そういう姿勢がやがて市民生活をズタズタにするんだぞ!!と。

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消費税率アップがもたらすもの。

社会福祉制度の議論は、財政論を抜きには語れないという意見が多くなりつつある。確かに財源のない給付はあり得ないという意味では、その意見は正しいであろう。

しかし一方、雇用、年金、医療などのセーフティネットが制度として機能していないと、市場そのものも破たんするという考え方から、「福祉を拡充する小さな政府」も必要で、それは可能だとする考え方もある。(参照:金子教授の「セーフティネット張替え論」)

世界に例を見ない超高齢社会を迎えているわが国において、社会福祉制度を財源からの視点からしか論議できないようではお先真っ暗である。国の責任という立場から考えると「この世に生まれたすべての人間が誰であろうと、人間に値する生涯を営む権利を有し、国や政府はそのことを保障し援助する責務がある」という原理原則からの視点が不可欠である。社会福祉とは国を構成する不可欠要素であることを忘れてはならない。そのことはいずれ書く機会があるだろうから、今日は財源論議について触れてみたい。

社会福祉制度の財源をどうするかという議論の延長線上には消費税の引き上げという問題を避けては通れないという考え方が増えており、実際に今日の社会福祉制度を巡る状況を鑑みて、国民の中に「消費税の引き上げやむなし」という意見も増えているように思える。

もちろん国民感情は、その前に中央官僚等の税金の不適切な使い方を是正し、無駄を省いて、なおかつ足りない部分は消費税の引き上げに財源を求めざるを得ない、ということであろう。しかしながら消費税の導入時や、税率を3%から5%に引き上げた際の「絶対反対」という声は少ないように思え、消費税に対する国民の「免疫」あるいは「あきらめ」により抵抗感が薄らいでいるように思える。

ところで間接税としての消費税の実態は、本当に国民全体としてみて公平な税金なのだろうか。その税率引き上げは社会保障の充実に繋がるものなのであろうか。

消費税自体は一律決められた税率が消費に対して課税されるもので、100円のものを誰が購入しようと税金は5円であり、そういう意味では「公平」だという。しかし100円の価値自体がまったく個人によって異なる現実において同額=公平という理屈は成り立たない。

年収が数億ある金持ちが支払う5円と、個人では絶対に生産収入が得られない子供や、就労不能な重度障がい者の方々が支払う5円とでは意味が違うのである。額が大きくなればなるほど、この「実態価値(あるいは実勢価値)」の差は広がり、消費税の支払いができないことで、物を手に入れることができない人々と、そうでない人々の生活格差はどんどん大きくなる。

食品や生きるために必要な生活必需品に対する消費税というのは、この格差を否が応でも拡大させているのである。

そういう意味からいえば格差が広がっているといわれる現代社会における消費税は不公平を拡大させる税方式であるとも言える。

総務省統計局が出す家計に関わる統計資料の数値が、あまりに生活実態とかけ離れている意味は、ごく一部の巨額な資産を持つ個人の数字が平均値に落とす影響が大きく、その中に多くの一般国民が飲み込まれて平均とされている為である。つまり格差社会は現実に貧富の差を広げているのである。

消費税を社会福祉財源の中心とする社会システムでは、富めるものは益々裕福に、貧しきものはますます苦しくなる。そしてそれは中産階層が、病気や障害をきっかけにして貧困に見舞われる可能性をも高めている社会であり、まさにセーフティネットの網の目が破れているといえるであろう。

これをいくら社会福祉政策への支出に限定する目的税にしたとしても、その本質的問題自体は変わらない。逆に福祉目的税化というものは、目的税が足りなくなれば社会福祉施策の水準を下げてよいという「まやかしの理屈」を生み出し、税率を安易に上げる理由にされる危険性をも内包している。

消費税などの税金を福祉目的税化することは、社会福祉政策の国の責任を国民に転嫁する意識を生み出すことにもなりかねない「諸刃の刃」であることも忘れてはならず、本来国の責務である「国民の生命と生活を守る」という政策に対する目的税の導入は、目的税だけで社会福祉を運用するのではなく、目的税をすべて社会福祉に使い、必要な財源は他からも求めることができるというシステムをきちんと構築した上で慎重に考えられねばならない。

消費税の安易な引き上げ議論は、格差の拡大という意味からも慎重に行われねばならない。税制における直間比率の見直し議論という声がほとんど聞かれないが、所得税という直接税は本当に現代社会にマッチした税率と方法になっているんだろうか。

個人の所得収入とは、もちろん個人の能力と努力で得られる部分が大きいが、大手のコンピューター関連ソフト会社のオーナーなどは公の場で「一生では使いきれない収入と資産が既にある」と言ってはばからない。そういう巨額の個人資産は、すべて個人の能力や努力で得られたものと考えるのではなく、社会全体の「財」が1ケ所に集中していると考えられるべきで、社会還元されるべき資産として、再分配の視点があって当然だろう。巨利は社会活動の結果であって、社会が存在し初めて成されたものである。

所得税に対して、労働意欲を削ぐような重課税は社会の活力を奪う元凶になりかねず、それは問題であるが、国民の生活水準や一般感情からかけ離れた巨利に対しては、きちんと国と国民に還元する税システムでなければならないのではないだろうか。

わずか数年のうちに1生涯使い切れない資産を築けるチャンスがある国である裏側には、必要な医療や介護を受けられない人々が増えている実態がある。このことをもっと国民議論にすべきである。

節税対策なども一般のサラリーマンや、多くの国民とは縁のないものである。節税という名の税金負担義務の放棄は本当に行われていないのか、庶民のレベルとの比較検討の視点がないと平等社会は実現されない。

政府与党の厚生労働部会は先月、社会保障制度調査会、雇用・生活調査会と合同会議決議案を出しているが、この中で「税制抜本改革が不可欠」としている。この決議案に基づけば、この年末にも消費税はアップされるという決定がされることになる。国民議論は待ったなしである。

お金持ちのところにしか社会の財が集まらない仕組みというのはやはりおかしい。

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社会保障費削減方針は堅持。

昨日(6/10)開催された経済財政諮問会議において首相は社会保障費の2.200億円削減方針を来年度も堅持する考えを示した。

ただ同時に医師不足や介護労働不足の問題が顕在化していることを挙げて「新たな課題には他の歳出削減で対応する」として暗に介護給付費見直しでは、報酬を引き下げない方針も示している。これは本当に可能なのか。

「骨太方針2006」から続いている社会保障費の毎年2.200億円削減という方針について、政府与党内の厚生労働部会でも削減方針の撤回を求める決議書が出されている。しかし財務省は一貫して削減方針を崩していなかった。

そこで財務省の削減案をとっかかりにして問題を考えて見たい。

財務省案では、

1.雇用保険の国庫負担廃止で1.600億円削減
2.介護保険の自己負担割合引き上げで700億円削減

という考えを示している。2は現行の自己負担割合を1割負担から2割負担にしようとする案であり、これは報酬改訂にとどまらない制度改正ともいえる大きな改革であり、すんなり実現するとは思えないが、仮に財務省案通りになるとすると09年度の全体の削減額は2.200億円を100億円上回る2.300億円である。

単純に考えるとその100億円を介護給付費に上乗せして、介護給付費自体は上げても良いというのが財務省案ではないかと考えてしまう。

これは今年度予算で薬価などが引き下げられたといっても、全体の社会保障費が2.500億円削減されたことで、超過削減分の300億円が診療報酬に上乗せされ、診療報酬自体は0.38%アップしたことを鑑み、同じことを介護報酬に置き換える考え方である。

しかし、この考え方には大きな「錯誤」が存在している。

今年度の社会保障費削減の中で、最も大きな削減額は健康保険のうち政府管掌保険への国庫補助1.000億円削減であった。

しかしこれは1年限りの約束で健保組合・共済組合が肩代わりしたもので、その約束を守るならば来年度この1.000億円は再び国の支出になる。このことを無視して削減財源問題は語れない。

つまり約束どおり、この削減が今年度限りとなれば財務省案でも削減費は900億円足りないということになり、この分をどうするかが問題となる。

首相は財源について「後発医薬品(ジェネリック医薬品)」の使用比率を40%まで引き上げることによる医療費削減分を挙げている。すでに今年度において後発医薬品使用促進で220億円をひねり出しているのに、さらなる上乗せで目標額が達せられるのか大いに疑問である。

しかも前述したように700億円削減を介護保険利用の1割自己負担割合のアップによって行うとすれば国民合意が得られない可能性が高く、後期高齢者医療制度で失敗している政府与党も、これをすんなり認めるとは思えない。

だから本当に来年度も2.200億円の削減が実行されるとしたら、どこの財源を削るのかは以前大きな問題である。

そして自然増分を鑑みながら介護給付費を現行水準で維持あるいはアップさせるには一般会計から補填がない限り、大幅な保険料負担のアップで補わざるを得ず、これは実現可能性が極めて低くなる。よって今月末に取りまとめられる具体案がどうなっているのか、これが一番の問題になってくる。

ところで与党からも社会保障費2.200億円削減に対する反対意見が出ている背景に何があるかというのは決議書を読めば理解できる。結果的に首相が政府として骨太方針を継続する場合、この決議書は無視されることになるが、そこで示された反対理由は別の問題として実は非常に大きな問題を抱えているのである。

ここには「基礎年金国庫負担割合については、本則に定める2分の1の平成21年度実現は国民との重い約束である。このため2.3兆円の財源確保には、税制抜本改革を行うことが必要となるが、このような新たな国民負担をお願いしなければならないときに、更に社会保障の削減を行うことは、到底理解を得られないものと考える。」とされている。

つまり「2.3兆円の財源確保には、税制抜本改革を行うことが必要」であり、「新たな国民負担をお願いしなければならない」という意味が重要で、つまりこれは消費税率の見直しをさせてもらう必要がある、という意味である。要するにこの決議案に書かれている反対理由は「消費税率をアップさせなければならない、それを遅くとも本年末には決定しなければならないのに、社会保障費を削る方針を維持したままでは国民理解を得られない」という意味なのである。

こんなところで「国民との重い約束」を持ち出すのは筋違いであると思え、そのために消費税を上げるなんていう約束をした覚えは国民にはないだろうと思うが、実際には今年度末まで消費税率アップの方針とその税率を決定して、来年の通常国会に法案を提出審議して、これを成立させるというのが既定方針である。このことを国民は理解しているんだろうか?多くの国民はこのことに気付いてさえいないのではないだろうか。

では消費税率の引き上げとはどのような意味があり、国民生活や社会福祉制度にどのような影響を与えるのであろうか。このことを明日論じてみたい。

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現代社会の貧困・その構造。

第2次世界大戦後、特に高度経済成長期以後、わが国では貧困問題が大幅に改善・緩和され、もはや主要な社会問題・生活問題ではなくなったという論調が見られた。

しかしながら高度成長期でも、農業・林業・漁業・鉱業などの1次産業では、それのみで生活できないという貧困問題が出現していたし、都市でも不安定就業層は農漁村からの流入で膨張こそしたが解消したり減少したりしたことはなかった。

戦後の歴史の中では勤労労働者階層の中の一定の層に、ある時期には大幅な経済状況の改善がみられ、すべてを平均値化してみた場合の平均値的改善があったことは事実である。しかしその場合でも、その間に勤労諸階層の中に下層が作られ貧困問題がここに集中して現われるということはなくならなかったし、一向に改まりもしなかった。

さらに高度経済成長期後の経済危機では農漁村では出稼ぎ先や兼業先を失うことによる半失業状態が見られた。その時期は都市部、農魚村部ともに被保護世帯が増え続けた。

被保護世帯数推移でいえば1980年代から1990年代初頭までは減少したが、バブル経済の崩壊以後は現在まで増え続けている。

つまり歴史にみれば、この国において貧困問題は解決したことがないし、さして改善も見られないということが、高度経済成長期〜バブル経済〜その崩壊〜格差社会を生み出したいびつな経済構造を基盤とする現在、までを含めて証明され続けてきたといってよい。

しかも現在社会の貧困とは「低所得・低消費」とは必ずしもいえない世帯でも見られている。

物があふれる社会で「消費の強制」が社会的、日常的に行われているため一定の消費水準は保たれているが、そのために一家総労働、夫婦共働き、長期・短期の借金、そして時間外労働やアルバイト収入に頼る2重労働によって成り立っている世帯も増えている。

さらに情報社会の必需品として、パソコンや携帯電話はぜいたく品ではなく生活必需品となりつつあり、ネットカフェ難民と呼ばれる人々も携帯電話がないと日雇い派遣労働の機会さえ失ってしまう。結果的にPCや携帯電話は個人単位で持っており通信料はそれなりにかけているにも係らず食生活や住環境は至って貧しくしているなど消費構造を歪めて、つじつまをあわせている世帯も若者層を中心に増えていることにも目を向けねばならない。

そういう意味では「ワーキングプア」とは現代社会の貧困を象徴する新たな階層と定義づけることができるかもしれない。

このような世帯は、消費水準も低い世帯とは区別して考えられなければならないものの「豊な生活」とか「ゆとりある生活」とは到底いえないものであるし、現代版貧困としてみなければならない。よって今日の生活問題において「貧困問題は、格差問題とは別にしても、なお大きな問題である」といわざるを得ない。

しかしそれにもまして問題なのは心の豊かさが奪われる「内面的貧困」である。

人々の欲求水準は「より人間らしい暮らし」を求めること際限ないし、それがすべて充足される社会はあり得ない。ただし「社会的財」は一定富裕層の私物ではないので、そのバランス調整が貧困問題の解決には必要な視点であり、一極集中を避けなければならず「財の再分配」が政策として不可欠である。様々な問題を起因とする社会的弱者に対しては社会的財の公平な再分配の思想がないと人間社会の人格性を含んだ貧困問題は解決しえず、やがてそれは荒んだ社会を生み出し、すべての社会的財を奪う原因にもなる。ここを手当するのが本来の社会福祉である。

ところが現代の貧困問題は、経済的・物質的な問題から派生するという経路とともに、社会の上部構造といわれる部分に腐敗や退廃が広がることから、一般市民層が腐敗・退廃した政治、官僚機構などから否定的な影響を受けて人格性に関わる問題を生み出すという現象も現われている。

無差別大量殺人のなどの考えられない犯罪の増加、うつ病や様々な依存症の増加、自殺者の増加の問題は、政治経済問題とまったく別個な問題ではないのである。

政治家や高級官僚の堕落や腐敗ばかりを目にして、国民がその国家運営に期待できないと感じたとしたら、その絶望感はマイナスエネルギーとして社会生活上の様々な歪(ひずみ)として現われる。その状況がどのような国の将来を生み出すだろう。

国民のセーフティネットであるはずの社会福祉制度が社会的弱者を救えなくなりつつあるこの国の状況に国民は絶望感を感じつつある。高齢者をいじめる医療制度改革、財源論の視点からしか制度構築されない社会保障システムはほころびだらけである。しかもその財政論も自らの行動を律しない人々の論理に過ぎない。

国民の社会福祉に対する財布の紐を固く締める財務省の役人の「公費を預かる財布の紐」が緩いどころか、財布そのものに大穴が開いて国民の血税を湯水のように使う状況は際限がない。国民は何をどこまで我慢すればよいのだろうか。

財政破綻が国を滅ぼす前に、亡国の治政が国を滅ぼすだろう。

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永田町の責任。

後期高齢者医療制度の保険料の軽減措置が大幅に見直されるという。

いざ制度が始まってみると、高齢者イジメの制度であることが明らかになって、当初示された「低所得者の負担増となる制度ではない」という政府の見解がいかに実態と違っているかが明らかになって、あわてて対応を行っているという状況である。

この法案は前々内閣のときに、強行採決という形で与党が法案を通したと記憶しているが、そのとき採決を強行して法案に賛成票を投じた与党議員自体が、この制度の骨格を成す法案の中身や、後期高齢者の医療制度がどのように変わるかという具体的内容を理解していたのだろうか。

どうもそうではないようである。

そもそもこの制度改革論議は、現行の医療保険制度、特に市町村の国民健康保険制度の運営が大変厳しくなって、財源確保が難しく崩壊寸前の市町村国保もあるという現状から、後期高齢者の医療費を削減して、財源も新たに確保せねばならないという事情から始まっている。医療保険制度全般をどう見直すかという延長線上に、後期高齢者医療を切り捨てるという内容になってしまっていることに一番の問題がある。

これは政治家が新制度の設計について「負担と給付のあらたなあり方」という財源的事情からしかこの問題を理解せずに、負担を強いられたり、医療給付の制限を受ける側の事情をまったく理解せずに「必要不可欠である」としたもので、制度の中身や、低所得者の負担増に対する視点はほとんどなかったということではないだろうか。

つまり後期高齢者医療制度法案の中身を本当に理解している政治家などほとんどおらず、その内容は霞ヶ関の官僚の手のひらの中にあって、永田町は、その法案を通すだけの役割を演じ、法律さえ通れば制度は介護保険と同じように「走りながらでも、転びながらでも始まればどうにかなる」という考えではなかったのかと想像する。

しかしこれでは永田町の役割は果たせない。超高齢社会における高齢者関連法案は、国の社会福祉制度の根幹を成すべきもので、官僚主導ではなく、政治家主導で、国家のありようとしてその責任において考えられるべきで、高齢期に安心して暮らせる社会が実現できないと国家の安全保障などないに等しい。
 
ましてや政治家もわけがわからないで審議する法案の内容が国民に理解できるわけがない。制度が施行されて始めて愕然としてあわてて声を上げるという状況は致し方ない。切羽詰って法律が変わってからしか反対意見を挙げることができなかったのは国民の責任ではないのである。

野党議員だって自慢できない。法案を強行採決で通したことを抗議しても、法案成立時に、後期高齢者医療制度自体がいかに後期高齢者にとって理不尽な取扱が含まれている「かつてない悪法」であるかを国民にアピールした議員はほとんどいなかった。関係者のみがこの制度の問題点を当時から指摘していたに過ぎない。

大きな反対の声を挙げたのが法律施行後であるという馬鹿げた状態を国民は冷静に見つめなければならない。

またここに来て、厚生労働省は、介護情報サービスの情報の公表について、制度の運用のあり方を今年度中に抜本的に見直すとしているが、これはあくまで「同制度を信頼されるものにするため」の見直しで、廃止ではない。事業者から徴収する手数料だってなくならない。09年度には全サービスがこの意味のない公表制度の調査対象になるのだ。

そりゃあそうだ。これはもう利権がらみの制度であり、各都道府県の公表センターは役人の天下り機関で、この制度がなくなることはその収入がなくなることだから、官僚主導ではこの制度の抜本改正など難しい。

しかしこれだって政治家が法律を通しているのである。この公表制度の実態を何人の政治家が勉強して、理解しているのか。この実態をわかっている政治家がいれば「公表制度をなくしても利用者は困らない。」で書いている意見を理解できる政治家もいるはずなのに、それが皆無であるという現実がこの国の政治家のレベルを現している。永田町は霞ヶ関の下請け機関なのか?

政治家が不勉強なまま法案を通す現状では国自体が危うい。本当に情けない。そういえば老施協からも政治家は出ているはずではなかったか・・。

この国の政治とは、政争の愚に用いられているだけで、国民の暮らしに目を向けることがいかに少ないかを改めて感じさせられる。

こういう国のどこが先進国なのか。サミット開催国という状況について言えば、ブラックジョークもここに極まれり、という意味しかない。

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地域ケア会議が機能不全。

在宅介護支援センターの主要な機能であった地域ケア会議。

地域における様々な「困難ケース」を多機関・多職種横断で総合的に支援するために話し合いが行われていた会議であるが、在宅介護支援センターがなくなり、地域包括支援センターに変わった以降、当市でその会議自体は市のシステムの中に残っているというのだが、実際にそれが行われて機能しているふうにはみえない。

特に問題と感じていることは、最近の地域の中で発見される困難ケースは高齢化が世帯丸ごと進行して、要介護者だけではなく、介護をすべきキーパーソンも自身の高齢化の問題を抱えて複雑な様相を呈している点である。

介護が不十分で悲惨な生活状況に置かれているのが90代の母親であるとして、その介護を担っている息子が独身の60代後半であるというケースがあるとする。

すると主訴が例えば十分な介護を受けていない母親の置かれた状況であるとしても、その原因は主たる支援者の加齢に伴う認知の悪化であったり、身体状況の変化であったりする場合がある。そして支援者自身が自分の状況変化に気付かずに、要介護者の悲惨な生活状況を作り出している現実がある。

こうしたケースでは、単に要介護者を保護するだけではなく、主たる支援者のケアも地域の中で継続的に必要になることが多い。しかしながら現状では、問題が表面化している要介護者を入院や施設入所に繋げて、とりあえず地域介護支援が終了してしまうというケースがある。

しかしこれでは早晩、地域の中で新たな問題として主たる支援者自身の生活問題が表面化してこよう。こうしたことを未然に防ぐ地域支援が求められているはずである。担当者と要介護者の保護先の関わりで終結すべきケースではないはずだ。しかしこれがなかなかうまく言っていない現状がある。

さらに精神的な障害を持つ子が、認知症の高齢者と同居していることで、どちらも問題の所在に気付かずに悲惨な状況で発見されるケースもある。

こうしたケースこそ地域包括支援センターが中心になって、関係諸機関が継続的に協議を重ね支援をしていくべきだろう。

当地域では制度改正後、地域包括支援センターが中心となって、関係諸機関や警察関係、町内会代表や民生委員代表が名を連ねて『高齢者支援連絡会』というあらたなチームが作られているが、1年以上協議を重ねているが「会議は踊る、されど進まず」で具体的な方向性が見えないまま惰性的に数だけ重ねられている。

支援連絡会で行おうとしている事業と社協の地域福祉実践計画事業とが区分できず両者が別々に同じようなことをしているという指摘もある。そもそも当市の場合、地域包括支援センターを統括する担当課をはじめ、市の福祉事業の担当課と、市社会福祉協議会との協力・連携体制がほとんど構築されていないのが問題だろう。

高齢者支援連絡会のメンバーの中には、社協事業の推進会議メンバーも含まれているが、どっちに力を注ぐかという視点からしか議論の方向が見えない人もいる。認知症サポーター養成講座を主催するにしても、その意味を理解せず、サポーターをせっかく養成するんなら、サポーターに何か役割を担ってもらわなければ意味がないと考え、会議が先に進まなかった経験もある。どうしようもない。

高齢者支援連絡会は、社協が行っている地域のニーズ調査やモデル事業は一度、この会議の機能からはずして、専門家集団として、地域包括支援センターの職員を中心に、実際に地域で発見された困難ケースを具体的、継続的に支援する「地域ケア会議」の機能を中心にすえて、その構成メンバーも一度白紙に戻して、再度洗いなおして再編成した方がよいだろう。

開催しているだけの会議、ただの調査機関、モデル事業をとりあえず行う機関では意味がないのである。

地域の中で隠されたネグレクトをはじめとした虐待や、世帯総ぐるみで世帯自身が気付いていない生活障害に適切にかつ迅速に対応できるシステムが高齢者支援連絡会の向かう方向ではないのだろうか。

今月開催された連絡会では、そのような方向から意見を述べたが、どれだけ伝わったことか・・・。モデル事業を繰り返す影で、本当に困っている人が救われない現状が地域の奥深くで進行しているとしたら何のためのモデル事業なんだろう。本当に困っている人に手を差し伸べるシステムは一刻も早く構築するというスピードが必要だし、この連絡会は実行部隊でなければ意味がない。

地域の介護問題の最終的なセーフティネットにならなくてどうするのだろうか。

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高齢者虐待防止法違反で初の逮捕者・その問題点

昨日のニュースで高齢者虐待防止法施行以後、同法違反による始めての逮捕者が出たことが報じられている。

多くの方がご存知だろうが事件概要は以下の通りである。

数年前から父親と2人暮らしであった西東京市の43歳の女性宅は近所では「ゴミ屋敷」として有名だった。自宅敷地は門から玄関までの約5メートルの間がゴミで埋め尽くされ、大半がネコのエサの缶詰。周辺には悪臭が立ちこめている。「野良猫を家で餌付けしていたようだ」(近所に住む男性)との証言がある。

容疑者は数年前から、行政側の訪問や立ち入りを拒否。昨夏から父親の安否確認ができなくなっていた。市職員が再三訪問していたが立ち入りを拒否。18日にも父親の虐待調査に訪れた市職員と警察官を家に入れず「出て行け、不法侵入だ」などと騒ぎ調査を妨害したため高齢者虐待防止法違反(調査の拒否)容疑で逮捕された。父親は保護され、現在入院中だが結核の疑いがあるものの命に別条はないという。

家の中もゴミで埋め尽くされ、床は見えずゴミに埋まった室内では調査員の頭が天井についてしまう場所もあったとのことで尋常な状態ではない。なお容疑者は「プライバシーの侵害だ」などと話し、取り調べにまともに応じていないという。

このニュースから事件を考えたとき、二つの側面からの検証が必要だと思う。

まず一つには「高齢者虐待」とはまったく別個の問題としての側面である。つまりこの容疑者である長女には精神疾患あるいはピック病などの若年性認知症があったのではないかという検証である。

長女は以前は近所でも評判の「綺麗なお姉さん」であったという。それがある日から急に髪の毛も梳かず、ぼさぼさで、着替えもほとんどしなくなり、兄弟である長男との接触と音信を拒否し、父親にも逢わせなくなっている。

正常な精神状態とは思えない。

特に前頭葉や側頭葉の一部の障害によるピック病の場合、生活の大部分は正常な状態で営まれるが、一つの物事にこだわりがあったり、同じ行動をとり続けたり、反社会的行為として症状が現われることが多い。容疑者となった長女が「野良猫の餌付け」という行為にこだわり、家の中や周囲をゴミで埋め尽くし(おそらく身体状況にも問題がある)父親と外部の関係を遮断するなどの行為をみてとるとその疑いも大いにあるように思う。

地域の中で、家族や地域住民に大きな被害が及ぶ前に、虐待としての調査ではなく、本人の精神状態や認知症の問題としての支援を行うシステムや意識が地域行政や住民になければ、地域の中で性格とか性癖の問題ではない「病気」のために出現する「ゴミ屋敷」や「騒音おばさん」の問題が今後もいたるところで増え続けるのではないかと考えている。

もう一つは逮捕に結びつく前の段階で、立ち入り調査や警察の介入ができなかったのか、という問題の検証である。

本ケースは父親は娘が逮捕されたことによって初めて悲惨な状況から救い出され医療機関での治療が可能になっているが、これはまかり間違えば「生命の危機」に直結しかねない問題である。

地域の中で周辺住民との大きなトラブルを抱え、問題が表面化している家庭の中に高齢者がいて、その高齢者の安否確認が半年以上前からできない状態になっても、今日までほとんど玄関払いで対応できなかった現実は、人の命を救うという緊急的対応の手段としては大いに問題があるように思う。

「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律」の第11条(立入調査)や同法12条(警察署長に対する援助要請等)の規定措置が、もっと速やかに運用できないのだろうか。

個人の住宅への立ち入りという問題は確かにプライバシーの問題も絡んで難しい問題であるが、普段の生活ぶりや地域の問題となっている今回のケースのような状況の家庭で、高齢者の安否確認ができない状況が生じた場合は、月単位ではなく週単位で安否確認するという対応を考えても良いのではないだろうか。そのことによって容疑者の逮捕という以前に、父親も娘も保護対象者として支援できる可能性が出てくるように思う。

この長女に逮捕監禁という法的な罰則を課したとしても、それはほとんど意味がないことで、保護あるいは治療、あるいは療養こそが長女に必要であるように思えてならない。

この法律の目的は逮捕される容疑者を作ることではなく、高齢者虐待という状況を作り出さない、あるいは虐待という状況を社会の影に押しやらないためであることが最も大事な視点であることを忘れてはならない。

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利用者退所支援・どこまでが必要か。

利用者の退所に当たって在宅復帰や他施設への移動の場合は、居宅介護の担当者や他施設の担当者に引継ぎを行った時点で特養としての役割はほぼ終了する。

その後の生活上の問題等で特養側に何らかの確認を行う必要が生じたとしても、もうその時点では支援の中心的役割は他の担当者に変更されており、必要な事項を連絡するのみであることが多い。

しかし特養という施設の機能・役割は「終生施設」としての部分が重要になりつつある現状から、退所者の多くが「死亡退所」である状況が生まれている。

そうすると死亡した時点で施設の役割も終了する、という単純な問題では終わらず、死亡退所後の諸手続きや家族支援も含めて役割を考えざるを得ない状況が生まれる。

例えば介護保険や国民健康保険、各種減免資格証、老人医療、身体障害者手帳などの資格喪失手続きは施設側が家族の代行で行うことが多い。

ただし国保の喪失の際は葬祭費が葬祭執行者に支払われるので、この部分には当然、申請者自身の関与が必要だし市町村によっては代行を認めていない場合があるから、そのことも確認して、できるだけ施設ができる部分は施設が行う。

相続の問題も含んで身内のものしか行えない行為についても、単に「出来ない」「しない」ということではなく、どのような機関で、どのような方法(必要書類も含めて)で手続きを行うのかという指導・助言を行うことが施設担当者の役割であると考えている。

年金の受給権廃止届けに関連する生計同一証明をも含んだ未支給部分の申請にも当然支援が必要である。

だから担当者は様々な制度の知識が不可欠だし、近隣地域の諸事情にも精通しておく必要があり、施設の担当者(介護支援専門員やソーシャルワーカー)はマルチな知識が必要とされる。

介護保険制度だけではなく、変わり行く医療保険制度(後期高齢者医療制度も含め)や相続の問題に絡んだ成年後見制度や遺言執行上の諸手続きの理解も不可欠である。

死亡退所だからといって、死亡後の諸手続きは退所者の身内の自己責任だとして丸投げすることが正しいことではないと思う。

生活施設の中で、施設と利用者の信頼関係を構築して支援するという意味は、家族関係も含めて適切なコミュニケーションをとって、家族を巻き込んだ信頼関係を得て始めて適切な支援体制が整えられると思う。そういう意味でも損得とか、制度上の問題というだけではなく、亡くなられた方との生前の人間関係をも含んだ支援をするという考え方があってよい。

天国で亡くなられた方が見守って安心してくれる支援、というふうに考えても良いのではないか。

それを情緒的過ぎるとか、日本特有のウエットケア過ぎると批判されても構わない。ドライケアも結構だが、法律を犯したり、職業倫理上の問題にならない限り、出来る支援は利用者の退所後にも関わるという姿勢が批判の対象になること自体意味がわからない。

我々の福祉援助というのは人々が幸せに暮らせる社会を作る基盤になる現場支援なんだから、業務とか奉仕とかに分けることが出来ない部分で必要な行為が当然出てくると思っている。

身寄りのない方ならなおさらである。生前の財産管理や死後のその処理の方法を利用者と充分コミュニケーションをとり、あるいはその代弁者としての役割を持って決定しておくと共に、死後の様々な支援はでき得る限り行う必要があるだろう。場合によっては公正証書の作成や執行等で公証人と協力しながら支援を行う場面も出てくる。

葬祭や遺留金処理なども切実な問題で、もちろん特養という機関の機能を超えて出来ない部分もあるが、行政にも出来るだけ協力してもらったり、したりしながら、責任の押し付け合いではない連携支援が必要とされる。

極端な話、安心してお墓に入ることが出来る支援が終生施設には求められると考えても良いのではないだろうか。

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スクールソーシャルワーカー

文部科学省は、虐待や育児放棄、経済的な困窮など深刻な問題を抱える家庭の保護者や子どもに対し、専門的な見地で対応をするため、2008年度から公立小中学校で活動する「スクールソーシャルワーカー」を全都道府県計141地域に配置することを決めた。

すでにスクールソーシャルワーカーを導入している地域としては香川、兵庫、大阪などがあるが、この実績を踏まえて全国に導入を広げようということだろう。

報道記事によれば「スクールソーシャルワーカーの主な役割は学校と関係機関との仲介。深刻な問題を抱えた保護者や子どもの実態を把握した上で、個々の状況に応じ福祉施設や警察、ボランティア団体などに協力を要請する。生活保護や就学援助の申請手続きを助言することなども想定している」とのことである。

その背景には不登校やいじめ、暴力行為など子どもの問題行動には家庭環境が影響しているケースも多く、教員だけでは十分対応できない状況も増えている、という問題がある。

スクールソーシャルワーカーが公立小中学校で活動することによって学校を起点にした恒常的な専門家の協力を得られる仕組みを整えることができ、それぞれの家庭状況に合った対応を可能にすると同時に、教員の負担を軽減する狙いもあるとされている。

これは教員の能力が衰えてきたというより、より専門的な対応が必要な様々な社会的要因が複雑化して教育の専門家だけでは対応しきれない問題が生じているということであろう。それだけ社会が病んでいるともいえなくもないし、格差社会をはじめとした現代社会の「新たな貧困」の闇の部分が子供達を巡る状況にも影響してきているということであろう。

スクールソーシャルワーカーが行う援助とは当然のことながら学校社会福祉援助技術で、社会福祉学を基盤に精神医学の知識や心理学等の幅広い知識をあわせ持った人材が必要とされるし、そこではカウンセリング、ティーチング、コーチング、アドバイス、コンサルティング、ファシリテーション等の援助技術が展開されることになる。
その資格はまだ明確にはされておらず臨床心理士や社会福祉士などで必要な知識、技術を取得した専門家がその任に就くことになっているが、援助内容を考えるとまさにこれはソーシャルケースワークの援助技術であり、社会福祉士がこの任を担う必要があるように思う。

個人的にはもっと社会全体に社会福祉士に期待する声が挙がってほしいと思うのである。

逆に言えば、この領域で活動して成果を上げられないようなら社会福祉士って何ぞや、ということになりかねない。資格は仕事をしてくれないが、この有資格者がスクールソーシャルワーカーとして活動して成果を挙げて、社会福祉士の社会的な認知を高める結果に結びついてほしいものである。

学生時代は児童福祉を専攻していた僕個人としても是非、勉強してみたいと思うのである。

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灯(ともしび)。

表の掲示板でお知らせしているが、今までのブログの機能を少しカスタマイズする為、今日から25日までデザインをクリスマスバージョンに変えている。10日間ほどこのデザインでお付き合い願いたい。

それにしても厳しい年の瀬である。特に北海道に住む人々にとっては原油の高騰にともなう灯油の値上げは生活に直結した問題だ。

節約するといっても、寒さを耐えるのには限度がある。室温を調整して下げることが健康障害に繋がる事例も見られる。高齢者にとっては死の危険さえ伴う肺炎のリスクにもなる。困ったことである。

人によっては日中、自宅で過ごさないで公共の場所で時間を過ごして灯油代を節約するという工夫をしている人がいる。そういう場所があって、他者と触れ合える時間が作れるなら、それは良いことかもしれないが、小さな町では、そういう場所さえも見つけることは難しいだろう。

せめてこの時期、人の心だけは暖かく過ごしたいものである。街角でのふとしたふれあいが心を温めるという、そういう地域社会であってほしい。

人の痛みを分かり合えるのが本来の人間の心ではないだろうか。

そして社会にはすべて自分の力で解決できる人々だけが住んでいるわけではなく、誰かの力が必要な人も同じ人として生活しているのが当然なのである。そこの部分はすべて自己責任として放り投げるのが政治であるとしたら、この国の為政者もそれを選ぶ国民も、どこかが狂っている。

一人ひとりの一般市民にできることはあまりにも少ないが、せめて人を思う心や、人の痛みを感じる心を育むことを忘れないでおこうと思う。

そうした思いを社会に、そして子供達に伝え続けることが未来への我々のメッセージとなり、一番素敵なプレゼントになることを信じて・・・・。

全ての人々の心の中に、暖かい柔らかなクリスマスキャンドルの灯がともりますように・・。

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昭和〜そこに置き忘れたもの

天皇誕生日という祝日だった4月29日が、平成の時代になって「みどりの日」に変わったのはつい最近の出来事に思えていた。

この時期の北海道は山々の緑も控えめで、肌寒い日が多く、新緑の季節とは言いがたいが、僕にとっては結婚記念日でもある「みどりの日」は、ある意味、特別な日でもあった。

それが「昭和の日」に変わった。特別「みどりの日」という呼び方に思い入れがあるわけでもないし、むしろ自分が生まれ育ち、今の自分を創ってくれた昭和という時代には特別な思いを持っているので、この改名には大賛成だ。

しかしそれは、我々が過ごした昭和という時代が、一歩ずつ歴史の1ページに組み込まれ『過去』になりつつあるということだろう。

思えば昭和は激動の時代であった。戦争と敗戦。そして占領下での支配を受けた暮らしから、我々の先輩たちは「焼け野原」の中で立ち上がって、高度成長期を経て、中流階級意識が国民の9割を占める時代を経て、バブル景気とその崩壊まで、めまぐるしく社会は変動した。

団塊の世代より前の世代の方々で、今、高齢者福祉サービスを受けている方々は、そういう時代を生き、今の日本の土台を支えてきた人々だ。

社会保障としての社会福祉制度も昭和の時代に大きく変わった。

戦前は保護を受ける権利も人間としての基本的人権とはみなされず、単に「法の反射的利益」、つまり、たまたま法律があるからその恩恵を受けさせてやるものだ、という考えであって、保障レベルも「劣等処遇」の原則により、救済を受ける貧民の地位は、自立している最低階層の独立労働者の地位より劣るものでなければならないとされていた。

それが変えられ、現在の福祉制度に繋がる改革が行われたのは、わが国固有の政策ではなく、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策としての福祉政策であり、昭和の社会福祉政策は小さな改正はあったものの、基本的にはこのGHQ占領統治下の施策が延々と続けられてきたわけである。

そしてその抜本改正が平成に入っての介護保険制度の創設であり、まさに戦後始めて社会福祉の社会福祉制度の大改革が行われたというのが、その意味である。そしてそれは障害者の福祉制度改革などにも繋がっている。

しかしこの介護保険制度は「走りながら考える」といわれているように、様々な瑕疵に気づきながら、法改正やルール改正でそれに手当てを繰り返して「走り続けながら何度も転んで考える」制度になっている。

しかも制度改正やルール改正の目的は、逼迫した国家財政によって社会保障費の削減が前面に押し出され、財政論からの改正議論が先行されている。

その結果、「良い制度にする」とか「国の責任で全ての国民に健康で文化的な暮らしを保障する」という考えが入り込む余地さえないがの如く「持続可能な制度」のための改正となって、社会福祉制度とは言いがたい状況を生んでいる。

しかし国が主張する「持続可能な制度」の中身とは、なんと貧困な内容なのだろう。

社会福祉サービスにも自己責任論を前面に押し出し、サービスの自己負担化は、社会福祉サービス自体にも貧富格差を生み出しており、自己負担できない層は低レベルの暮らしで仕方がないとされている。まさに「劣等処遇」の考え方の復活である。

しかも介護サービスは、量の確保を民間の参入で解決したものだから、当然そこには利益優先主義が生まれる。民間活力でサービスが向上するなんていうのは幻想だ。利益を求めるためには、利用者を顧客と見て、サービスを商品と見ることであり、金を使ってくれる客と、支払い能力のない客に対するサービスは当然違ってくる。サービスを高い金で買える層にはより品質の高いサービスは実現するであろうが、対価価値が低い層に対するサービスは「ないよりまし」の劣悪サービスに繋がる可能性が高いし、表面に出ない社会の隅々で合法的な弱者の切捨てが行われていくだろう。

さらに少ない労力で大きな対価を得るために、様々な「手品」を使おうとする事業者が出るのも当然の帰結である。

そしてその手品の多くが「不正」という冠がついた行為である。

本来、人の生命や人権を守るのは国家の基本的な使命であり、弱肉強食の市場原理とは相反するものである。昭和はそのことをマイナスから作り上げて、人の命や文化的な生活とは何かを問い続け、遅い歩みではあっても、その実現に取り組まれてきた時代だった。

しかし、今「美しい国」とこの国を呼ぶリーダーが見るものは、社会の片隅で制度の光が届かず苦しんでいる人々の暮らしを、すべて暗幕で覆って、都合の良い「見かけの美しさ」だけを見る視点だ。

昭和という時代に、我々は大切な「忘れ物」をしたまま新しい時代に生きているのかもしれない。忘れたものを取り戻すには何が必要なのだろうか。

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団塊の世代の退職と新たな社会的役割。

最近、近隣市の総合病院において外来診療科の待合室で、高齢者の方々が外来患者さんのお手伝いをしている姿をよく見かける。

最初は、同じ外来患者さん同志で助け合っているんだろうと思っていたが、どうやらそれは間違った認識であることに気付いた。

それらの方々は医療機関に登録した「ボランティア」の方々であり、高齢者の方等に外来受診時の待ち時間に必要な声かけや支援を行うという目的で活動されている方々であるそうだ。

ご存知の方も多いだろうが、医療機関に外来受診した場合、障害のある方の介助行為について、どこに責任主体があるかという論議に関連しては、訪問介護の身体介護の適用に関するQ&Aでも

Q.院内の移動等の介助は「場合により算定対象」となっているが具体的にはどんな場合か。

A.院内の移動等の介助は医療法において「しなければならない」取り決めはない、診察室に入ったら医師の管理下、看護師の管理下になる。待合室における対応(例えば要介護度によって待っている間トイレへの介助が必要になる等)は院内介助として算定してよい。院内の介助が行われていない病院において算定できる。


このように待合室での対応は、医療機関で必ずしも対応しなければならないというものではなく、個々の状況に応じて、訪問介護での対応が必要なケースなども生じてくるもので、場合によっては家族などインフォーマルな支援がない方で、保険給付の対象にならないような支援行為が必要な方は保険外で訪問介護等を利用するなど、経済的にも精神的にも負担が生ずる場合がある。

それに対して待合室での支援ボランティアを医療機関が中心的役割を担って組織化することは非常に意義深いことであろうと思う。

隣市の医療機関のこの取り組みは、総合病院が複数協力連携して、ボランティアを全体として登録管理して各医療機関に配置しているということであるが、詳しい状況は未確認である。ただ80名近い高齢者の方々が登録して実際の支援に携わっているとのことであり、今後、状況を詳しく調べて皆さんにも情報提供したいと思っている。

今年から団塊の世代と呼ばれる方々が退職の年齢に達するといわれている。わが国の人口自体は減少傾向にあるが、団塊の世代の方々が高齢期に達することで高齢者人口は増え続ける。


このことが2015年問題にも繋がっているわけであるが、しかし高齢者がすべて介護や医療の支援を必要としているわけではなく、むしろマジョリティーは医療や介護の支援が必要ではない「元気な高齢者」である。

これらの「元気な高齢者」の方々が、生きがいに繋がる社会活動に参加して、社会資源の一つとして要介護者の方々等への支援に関わることができるかが、今後のわが国の社会システムのひとつの重要な要素となるのではないだろうか。

平成18年の高齢者白書によれば、65歳以上の高齢者は2560万人で、そうのち要支援以上の介護保険認定者は394.3万人であるから、高齢者に占める割合は15%強である。しかし残りの85%の方々全てが「元気な高齢者」というわけではなく、医療を必要として要介護認定を受けていない方もいる。さらに社会活動の参加ということで考えれば、自分の身の回りのことには不自由はないけれど、他者への支援活動は困難である、という人もいるであろうから、高齢者のマジョリティーを占める、要支援・要介護認定を受けていない人全てが、支援活動に参加できるわけではない。

しかし高齢者の多くが支援を必要としているという理解は一面では間違いで、他者に支援できる高齢者が数多くいるし、高齢者の数が増えるもう一つの意味は、そうした社会活動に参加できる高齢者の数自体は増え続ける、ということである。

そうした方々に、社会参加に繋がる「動機付け」となる「実際にできる支援行為」の情報をいかに提供するかが重要な要素となる。

内閣府の高齢者の社会参加意識に関する調査でも、ボランティア活動に関心がある高齢者が全体の47%以上を占めるのに、実際に活動参加している高齢者は3.6%に過ぎない。希望や関心が実際の活動に結びついていないのである。その原因は様々であろうが、ひとつに実際に何をどのようにできるかという情報がないこと、本当に必要とされている行為自体の実施システムが地域にないことも大きな原因であろう。

そこに手当して、この数字の差をいかに埋めるのかが、地域の社会資源の充実にも繋がるのではないだろうか。

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長寿番付を廃止

今日の新聞で「長寿番付を廃止」という見出しを見たとき、最初は「長者番付」のことかと勘違いしてしまった。しかしあれは、もう廃止されているか。

それほど敬老の日を前後に発表される「長寿番付」が廃止されるという意味自体がわからなかった。

個人情報保護法の影響もあり氏名を公表しないでほしいという希望者が多くなったことが理由のひとつとされているが、時代は変わったものである。

長生きというのは、多くの方の願いであり、長寿番付に名前が載る、ということは高齢者の方々にとって「名誉」なことであるという単純な考え方は通用しなくなったのか。何か寂しい思いを感じるのは僕だけだろうか?

長寿番付に氏名を掲載することを拒む方々の理由は何なのだろうか。個人的には非常に興味があるところだ。

しかしその意味をもっと奥深く考えると、「長生き」そのものに価値を見つけられない人々が増えていることを意味しているのかもしれない。

身内の介護に疲れて親や配偶者に手をかけたり、自ら死を選ばざるを得ないような 事件が日本中のあちらこちらで毎年のように起こっている。それらの状況を見たとき、元気な高齢者も「長生きすることが必ずしも喜ぶべきことではないな」と感じることも、あながち的外れな感覚とは言えないかもしれない。

加えて、将来のこの国の社会情勢を考えたとき、年金をはじめとした社会保障費は削られ、税金の控除は減り、医療費負担や介護に係る自己責任といわれる費用はますます増やされる。

病気にも安心してなれない(言い方がおかしいか?)患者不在の医療制度改革も進行している。

長寿番付に氏名掲載されることを拒む人々が増えているという意味は、安心して長生きすることができる国とはいえないことを国民全体が敏感に感じ取っている証拠かもしれない。

長寿番付のあった時代と、なくなる時代が、どちらが幸せな国家なのだろう。
いずれ歴史がその判断を下す。

しかし僕たち福祉現場に携わるものは、少なくとも僕たちが係っている高齢者の方々が「長生き・長寿」を自慢できない状況にしてはならないと思う。 長寿が喜びであることを実感できるケアサービスを追及する義務と責任が常に課せられている。

そのことだけは忘れてはいけないし、施設長、ここの施設の長寿番付を作って、といわれるようでなければならないかもしれない。

しかし長寿番付廃止の本当の理由が事務負担軽減ではないだろうな?

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消費税、社会保障財源化の意味。

政府の経済財政諮問会議は昨日、2007年予算の基本指針となる「骨太方針」原案を了承したが、この中では、消費税を年金や医療など社会保障財源の目的税化する検討をすすめると明記している。

実際に目的税化されることになれば、消費税は社会保障費財源としての位置づけとなり、基本的に他の目的の支出には使われなくなるという意味だろう。

消費税が社会保障財源の目的税化されれば、社会保障の財源が安定し、医療や年金、福祉の制度が安定的に運営できるだろうか。

そんなことはあり得ない。

そもそも財源不足というは、ある一部の収入の支出目的を限定させたからといって改善されるわけがないというのは、単純にわかることだ。

消費税が社会保障費用に目的税化されても現行の、社会保障以外に手当されていた消費税の財源を今度は、別な場所から引っ張らないとならなくなり、結果的に、それは国民の懐にゆだねざるを得ず、税を目的税化する、ということも結局のところ同じ丼の中身をかき回しているだけに過ぎない。

収支の状況に変化がない限り改善などあり得ない。

つまり消費税を年金や医療など社会保障財源の目的税化する、という意味は、社会保障費の財源を確保する為に、もしそれが足りないなら消費税率を引き上げないとならないという意味にしか過ぎない。引上げしやすい、国民のコンセンサスを得やすい理由にするという意味だ。

今後避けられない消費税率の引き上げ、それも税率は近い将来10%の時代が必要になる状況で、政府は是非ともソフトランデイングしたいというのが本音で、税率を引き上げる際の理由として「社会保障財源」としての目的税化を図る、というのが本当のところだろう。

つまり間接税の引き上げは政権与党にとって、政権交代にも繋がりかねない頭の痛い問題である。

歴史を振り返っても竹下政権は、皇民党事件が政権崩壊のきっかけになったといわれるが、もともとこの政権は消費税を導入したことで、国民受けがはなはだ悪く、支持率が上がらなかった政権で、そのことが政権維持能力を著しく損ねた。消費税を5%に引き上げた橋本政権も人気がなかった。橋龍の個人の人気が政権の支持率に繋がらなかった元凶が消費税率上げにある、という分析もあったほどだ。

そこで国民の抵抗感を少しでも薄める為に社会保障の目的税化を行おうというものである。

しかし1994年2月に間接税の引上げについて「消費税3%を廃止し、国民福祉税7%を創設する」と深夜の会見でぶち上げた当時の日本新党の細川護熙首相の福祉目的税構想は世間の猛烈な批判を浴び、唐突な7%の新間接税の創設に旧社会党が反対し、政権を離脱、高支持率が低下し、後に佐川急便事件で細川政権はその年に終焉を迎えることとなるわけである。

目的税化したとしても国民の抵抗感が薄まるかは大いに疑問である。

少なくとも今確実に言えることは、消費税が社会保障財源の目的税化されたとしても社会保障制度が安定して運営され、給付の抑制政策が緩和されるわけではない、ということである。

ここを間違えてはいけない。

介護・福祉情報掲示板(表板)

年の瀬や〜この国のかたち

このブログを立ち上げたのは11/9である。

今日まで2日(だと思う)休んだだけで、毎日書き続けている。
それを毎日100人、200人、多い日には500人を超える皆さんに読んでいただいている。掲示板と違って、Blogの来訪は1日1回というパターンが多いだろうから、これは少なくない数字だと思っている。

さして面白くもないであろう僕の一方的意見を毎日のように読んでいただいてありがとうございます。

いつまで続けられるか、何を書いていくかも考えていません。

書くことが苦痛になったらやめようと思う。誰かが読んでいるという意識も特になく、自分自身や、できれば自分の子供が、数年後に今の僕を読んでくれることを少しは意識しているかもしれないが、別に飾るつもりも、背伸びするつもりもない。

思いを、独り言を、こういう形で綴って、ネットを通じて多くの方に読んでもらえる社会は本当に便利になった。しかし、同時に、紙に書く情緒や、その苦労を楽しむことを失ってしまっているのが現在なのかもしれない。

不幸とか幸福とか、形のない概念は、それを感じる主体によって違ってくるんだろう。

だから今の状況が、全ての人に不幸だとか、幸福だとかいうことはできないし、誰も答えは出せない。

ただ世界中の出来事がモニターの前にいれば瞬時に把握できたり、どんなに遠くにいる人ともリアルタイムでコミュニケーションがとれる便利な社会にはなった。

同時に、少しだけ、人と人のふれあいが希薄になったり、苦手になったり、そういう状況や人が増えているような気がする。少しずつ「優しさ」が失われているように感ずる。

この年になって蒼臭いといわれるかもしれないが、優しさが失われていくことに対して「それは違う」という声を出し続けよう。人が人を思いやれない社会はまっとうな社会ではない。

ヒルズ族が注目され、瞬時に数億単位でお金をもうける人がいる社会であると同時に、年数万円の健康保険料が払えないために医療機関の受診が遅れて命を落とす方々がいるこの社会を、この国の為政者たちは世界に向けて「先進国」であると言えるのだろうか。

せめて時の為政者は、社会のひずみや影の部分に目を向けるものであってほしい。

光り輝く部分は、誰にでも見ることができるのだ。

そうでないところを見て、暖めてくれる存在がないと、人の生きる路には、険しさしかなくなる。

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