masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

施設サービス

施設ケアマネジメント研修はニーズにマッチしているか


介護保険制度が始まってから誕生した介護支援専門員という資格について、その有資格者が制度の中心的役割を担うために、ケアメネジメントの研修会が制度開始当初より必要とされたが、その研修のほとんどは、居宅介護支援事業所の介護支援専門員を対象にしたものであった。

その理由は、この制度が利用者が住み慣れた地域で暮らし続けるために、居宅サービスを重視するという理念を立っているため、居宅介護支援という方法で利用者の居宅生活を支える方法をとるというシステムを導入したことにより、新たな事業である居宅介護支援の方法論をまず明確にする必要があったことと、実際に居宅介護支援事業所という新しい事業所で、介護支援専門員として勤務する人々が一挙に増え、それらの人々が何をすれば良いのかわからないという実態があったからだろう。

そんな中、施設の介護支援専門員は、その役割も明確ではないまま、各施設独自で法令上のルールを踏襲しながらケアマネジメントを行ってきたわけではある。しかしそのことによって施設ケアマネジメントのあり方が不明瞭となり、今まさにその方法論を体系化する必要に迫られてきたといえるであろう。

全国老施協が施設ケアマネジメント研修を定期的に実施しようと動き出したのは制度開始からなんと8年も経ってからであった。2008年7月3日、老施協事務局の入っている東京都内のビルで、施設ケアマネジメント研修の企画を話し合う委員会が行われたが、僕はアドバイザーとして出席を求められ議論に参加した。

しかしいざ研修会を企画運営するにしても、施設サービス計画の作成実務や施設ケアマネジメントを実務に即して、具体的に講義できる人がなかなかみつからなかった。こういう実務については、それを行ったことがない学者に頼んでも無意味だと思い、現場の職員で講義を行えないかを考えたが、これといった人材の情報に欠けていた。
(※人材がいなかったわけではなく、誰がその人材なのかという情報がなかったという意味である。)

そのため同年12月5日、東京ファッションタウンビルで行われた最初の「施設ケアマネジャー研修・シンポジウム」では、僕自身が施設ケアマネジメントの講義と、シンポジウムのコーディネーター役を務めることになった。

その時、僕はケアマネジャー実務から離れ施設管理業務を行っていたが、実際に実務経験があって法令ルールも理解しているということから、講師役を受けたわけであるが、これ以来施設サービス計画作成実務や、施設ケアマジメントの方法論、施設ケアマネジャーの位置づけや相談員との業務分掌などについて講演・講義する機会が増えた。

現在も全国の様々な場所で、施設ケアマネジャーを対象にした研修講師を務めているが、いまもって居宅介護支援事業所のケアマネジャーを対象にした研修に比べ、施設ケアマネジャーを対象にした研修は少ないため、研修主催事務局には、開催地からかなり遠くの施設に所属するケアマネジャーから参加申し込みの打診が届くことが多いそうである。

先日、京都市で行われた京都府介護支援専門員会主催研修において、「施設ケアマネジャーの役割と施設サービス計画作成の要点」というテーマでお話させていただいた際にも、近畿圏だけではなく、四国や九州からも研修を受講しにこられている方がいた。

それだけ施設ケアマネジメント実務の研修ニーズはあるのに、実際にそうした研修機会が少ないということだろう。

相変わらず施設ケアマネジャーと相談員の業務分掌に悩んでいる施設が多かったり、施設ケアマネジャーの役割を明瞭化出来ていない施設があったり、そもそも法令に沿った施設サービス計画作成実務を理解していないケアマネジャーがいるので、もっと施設サービス計画作成実務と、施設ケアマネジメントのあり方に関する研修機械は増やすべきであろう。
(※できれば施設サービス計画作成実務と、施設ケアマネジメントのあり方については、それぞれ独立した別講義として時間設定したほうが良いと思う。)

その際には講師としてお手伝いすることはやぶさかではないので、お気軽にご相談いただきたい。

ただひとつだけ指摘しておきたいことは、施設ケアマネジャーと相談員の業務分掌を含めた施設ケアマネジャーの役割の明確化には、施設ケアマネジャーが相談援助部門の責任ある地位であることを理解し、施設サービス計画は単なる実地指導に必要な書式ではなく、施設サービスの質を作る基礎ツールであることを理解する必要があるということだ。

そうであるなら、その担当者たる施設ケアマネジャーが、その能力に基づく知識や援助技術を発揮できるように、ある程度の権限というものを与えるという組織としての方針の明確化が必要だ。

つまり施設長が、このことを理解していなければ、施設ケアマネジャーが介護施設でいくら頑張っても、その機能は永遠に発揮できないという意味である。

そうであるがゆえに、施設ケアマネジメントのなんたるかを勉強して欲しいのは、施設ケアマネジャーより、施設長であるとも言えるわけである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

反面教師だった人々


僕はこの業界に入って、沢山の先輩方にお世話になってきた。その方々の大多数が、尊敬できる素晴らしい人たちである。

しかし一方では、こういう人にはなりたくないという人もたくさん見てきた。それらの人々は、僕にとっての反面教師という意味になるだろうが、その人たちが実際に介護サービスの現場で行ってきたことを考えると、そこにはそういうサービスしか受けることができなかった数多くの利用者の存在が浮かんでくる。

そこで利用者が感じていたものは何だったのだろう。

戦争という辛い時期を耐え、生き抜き、その後の日本の経済成長期を支えた人々が、高齢期に何らかの障害を持って誰かの手を借りねばならなくなった時に、サービス提供側の論理で、自身の尊厳を無視されて受けざるを得なかった介護。それはとうてい介護とは呼べない劣悪なもので、利用は、ただそこで生かされているだけという状態を作り出してしまっていたのではないだろうか。

それは非常に罪深いことだし、そういう状況を、さして悪い人間ではない普通の人々が何の罪の意識もなく創り出してしまうことは恐ろしいことだと思う。

我々はこうした歴史上の事実をしっかり胸に刻んで、同じ過ちを犯してはならない。我慢しないと生きられないという状況を作ってはならない。それだけ我々の職業には重たい責任があると思う。

まかり間違えば、誰かを不幸にしてしまうということの恐ろしさを常に感じていなければならないと思う。

そういう意味では、実際にどういう人たちの、どういう考え方や実践方法が僕の反面教師となっているのかということを、介護サービスの一面の真実として伝え残しておかねばならないだろう。

先日書いた記事、「法的根拠が必要とされないもの」で指摘しているように、多床室の使い方が法令で決められていないとしても、そこに他人である男女を混合させてサービス提供するなんていうことはあってはならないし、そういうことは法令で規定しなくても行わないというのが世間の常識である。

このことを考えるときに、職業倫理とかフルセットコンプライアンスとかいう概念を持ち出して戒(いさ)めることさえ気恥ずかしくなるような問題で、そんなことはありえないというのが常識である。

しかし僕がこの業界に入った昭和58年頃には、特養の多床室では、男女混合居室が実際には存在していた。僕はその現実が信じられなかったが、「実験的に」男女混合居室をあえて作って、その効果を確かめようとする人々が存在した。しかもそのことを研修会で「実践報告」したり、論文として発表したりしていた。

その人たちの実験とはなにか?男女混合居室に何を求めたのであろうか。それは恐ろしい人権侵害とも言えるものである。

彼らが行っていたことは、男女を同室にすることで、身だしなみに気を使うようになり、だらしない服装や態度がなくなるという人体実験である。やる気のない人が、男女混合居室で異性を意識することによって、生活の張りにつながり、やる気が出るなんてことを平気で主張するのであった。

そもそも居室とは、一人室ではなくとも、そこを使う人にとってはもっともプライベートな空間である。そこは他人の目を気にせず、素のままの自分を出すことが許されるべき場所である。

そういうプライベート空間に、異性の目を持ち込むことで、くつろぎの時間と場所を奪うのがケアなのか?その状態は、毎日ネクタイとスーツで過ごさねばいられなくするという意味である。裃を脱げない生活を24時間、365日続けるという意味である。それは拷問に等しく、虐待と言っても過言ではないことである。

このおかしさ、理不尽さに気がつかない人々を僕は決して見習うことはできなかった。

暮らしの場所である居室を、利用者の希望も、必要性もないのに定期的に移動させる、「居室替え」だって、それはサービス提供側の価値観でしかない、暮らしの主体者たる利用者の権利侵害だ。今でもそんなことを行っている施設はないと思うが、かつてはそれを行うのが先進施設であると勘違いする輩もいた。

入浴介護においても、一般浴室で男女混浴の入浴を提唱する人もいた。何のために混浴が必要なんだ。それこそ施設サービスの現場を、世間の常識の通用しない場所にしてしまう最たるものだろう。

特浴の入れ替わりの際に、男女が一時的に浴室で一緒になることについて「おかしい」と指摘すると、「本人たちは何も気にしてないよ」とうそぶく輩がいた。

入浴介助を受けるたびに異性の目が存在することを常態化することで、利用者はそのことを恥ずかしいと思う心を麻痺させないと生きていけないようにしただけの話だろうに。

それらの人々は、それらの人々が作り出した状態に、自分の親が同じように置かれても良いと思っていたのだろうか。

こういうひどい状況をつくり出す人々自身は、それを問題だとは思っておらず、新しい時代のケアだと思い込んでいたわけである。悪気があったというより、介護施設の中で世間の常識を忘れ、感覚麻痺に陥っていった結果である。

人の暮らし、幸福、不幸、喜び、哀しみ、そういうものに対するごく普通の感覚を失ってしまった結果である。それは自分の考え方一つで、なんでもできるという小権力と結びついて、利用者の暮らしを守るより、自分がそれを作ると勘違いしてしまった結果だろう。

それは実に恐ろしいことだと思う。そういう歴史を繰り返してはならないと思う。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

法的根拠が必要とされないもの


表の掲示板で僕は、実地指導で行政職員が「こうしなさい」「こうすべきである」と指導を受けた場合でも、なぜそうしなければならないのかという根拠を確認しなければならないと主張している。

行政指導担当者が、かならず正しい法令理解に基づいていない場合もあり、法令根拠の確認によっては、指導内容が間違っている場合だって実際にはあることなのだ。

そう言う意味では、我々は自らが関わるサービスに関する基本法令を、日頃から確認し、十分な解釈を行って、事業に関わっていないと、知らないことで法令違反を犯し、結果的に不適切な費用算定などを行って、後に返還指導を受けるリスクを背負うことになる。

悪気はなく、法令を知らなかったから間違った請求をしてしまっていたということは、恥以外の何ものでもないのだ。そんなものは免罪符にならないのである。ここを勘違いしてはならない。

しかし法令とは、所詮文章にしか過ぎず、それが人間生活の全てを規定できない以上、すべての解釈が法文によってのみ行われると考えるのは間違いである。法令・法文の前に、社会規範や社会常識があり、その及ぶ事柄にまで法文は触れないのが普通だからである。

例えば、従来型の介護保険施設には4人部屋までの多床室がある。

ここにどのような利用者が入居しようと、それは施設と利用者間で決定すべき問題で、法令上の制限はない。

そうであれば、施設が利用者に対し、他人である異性との同居をお願いし、それを利用者が認めるなら、他人同士の男女混合居室も法令上は認められるということになってしまう。そのため先日、表の掲示板に次のような質問が寄せられてきた。

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施設長より「入所調整をしやすくするために、4人部屋にパーテーション等で間仕切りし、男女混合をつくります」という話がありました。施設長は頑固で、なかなか人の意見を聞いてくれません。
明らかに施設側の都合であり、利用者の尊厳などを無視した施設長の発言に怒りを覚え、法令で禁止されている事で説明しようと調べてみたところ、思うように見つかりません。そこで、根拠法令等をご存じな方がいればと思い、この度、新しいスレッドを作成致しました。皆様、どうぞお力をお貸しください。

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質問を書き込まれたのは、特養の介護職員さんであるが、頑迷で物事の本質を分かっていない施設長の馬鹿げた提案をなんとか撤回させようと、法的根拠で説得したいという気持ちがにじみ出ている。

しかし前述したように、法的根拠として男女混合居室を禁じた何ものもない。このとき施設長をどう説得したらよいのだろうか。

そもそも施設入所は、契約に基づくものであるが、それが社会常識から大きく外れた契約内容を勝手に定められるというものではない。そうであれば社会常識として他人同士の男女が一緒の部屋で共同生活を送ることが当たり前の社会ではないので、入所条件を「多床室は男女混合」という条件をつけて、これを拒む入所希望者と契約を結ばないことは、正当な理由によらないサービス提供拒否と言えるであろう。

しかしそれ以前に、社会常識とは乖離した他人同士の男女混合居室を作って、そこで利用者を生活させること自体が、性差に配慮すべきプライバシーの侵害であり、他人である異性から羞恥心に関わる部分を常にみられる状態を作るという意味では、「虐待」と何ら変わりない。こうした状況を作ろうとする施設長の見識は、その任にふさわしくないと言えるし、介護施設という公益性の高い施設の管理者としての見識が疑われるという意味でしかない。

法令で決めごとがないことは何でもありではないのだ。法令より広い概念で、法令より上位にあるものとして「職業倫理」があり、社会通念上の常識ではない状態を作りださないということは、法律に定めるまでもなく守らねばならないものなのだ。

そうした職業倫理観を持たない施設長は介護サービス業界から去らなければならない。

僕はこの質問スレッドに、次のようなレスポンスをつけた。

男女混合居室を明確に禁止した法令はありません。それは場合によって男女混合居室が認められるという意味ではなく、そんなことは法律で規定するまでもなく行うべきではないという常識が存在するからです。

あえて法令で不適切であるとするとすれば解釈通知老企43号
11 介護(基準省令第13条)
(1)介護サービスの提供に当たっては、入所者の人格に十分配慮し、施設サービス計画によるサービスの目標等を念頭において行うことが基本であり、自立している機能の低下が生じないようにするとともに残存機能の維持向上が図られるよう、適切な技術をもって介護サービスを提供し、又は必要な支援を行うものとすること。

↑「所者の人格に十分配慮」とされていますが、利用者や家族の希望を無視して他人同士の男女を混合居室で対応するのは「人格無視」と行ってよく、この規定違反とは言えると思います。パーテーションで仕切ったとしても同室であることに変わりはなく、どこかで問題となった、保険外お泊まりデイで男女雑魚寝宿泊状態が世の批判を浴びたのと同じ状態です。同じ轍を踏むのですかと言ってやってください。

そもそも一般社会で、他人である異性と同室で暮らし、そこで介護を受けるなんていう常識があるでしょうか。それこそ一般社会の常識が介護施設の非常識という状態を生み出します。

施設管理者は神ではありません。世間一般の常識に照らして、それをはるかに超えた非常識を作ることは人として許されざる行為です。

その施設長には、地域社会に向けて、「うちの施設は他人同士の男女を混合させて同じ部屋で対応する施設です」と事実を告げられますかと尋ねてください。


↑こんなことを言わなくとも、当たり前に「他人同士の男女を同じ部屋に住まわせるのは、暮らしではなく、収容である」という常識を持つべきである。

施設の常識は世間の非常識という状態を自ら作り出すような、この特養の施設長は、自らの資質を自らに問い直すべきである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

座位アセスメントは軽視されていないか?


介護サービスに携わる我々の周りには、車椅子が普通に存在する。

しかしそのことによって、我々はいつしか車椅子を普通の感覚で使えなくなることに気がつきにくくなる。これも感覚麻痺だ。

例えば車椅子に座っている人を、どこかに移動支援しなければならない場合に、声をかけずにいきなり車椅子を動かす職員がいたりする。

我々は通日常生活の中で、押して動いてしまう椅子を利用する機会はないので、いきなり椅子が動くという体験は少ないが、自分が座っている椅子がいきなり動いてしまうということは非常にびっくりすることなのだ。声をかけずに椅子を動かされるたびに、車椅子座乗車はビクッとして、心拍数が上がり、血圧が上昇しているのである。

僕の所属施設でもこうした不適切な車椅子操作が時折みられる。エレベーターでフロア移動介助するときに、車椅子を最初に動かすときには適切に声をかけているものの、エレベーターの乗り降りの際に、昇降ボタンを職員が操作し、エレベーターのドアが開いた時、声かけを忘れていきなりエレベーターの籠の中に車椅子利用者を押し入れてしまう場合がある。この時、エレベーター操作をしていない利用者は、エレベーターのドアが開いたとしても、そこに乗ろうとする意思を持っているとは限らないので、声をかけずに籠の中に押し入れられるときにドキッとしてしまうのだ。しかしそのことに対する苦情を表現できる利用者が少ないから、介護する職員が気づかないだけである。

どのような場合も、人が座乗している車椅子を押す際には、声をかけるという習慣を持つ必要がある。

そういう意識をもつために、例えば職員研修で、三人ひと組くらいで小グループを作り、ブレーキをかけていない車椅子に乗り、雑談しながら、誰かが油断したらいきなり車椅子を押すというワークを行うと良い。押されるかもしれないという前提条件を意識していても、話の最中に車椅子を押されるとビクッとすることがわかるだろう。いきなり車椅子を押される利用者は、そういう前提条件もないのだから、もっとビクッとしているはずなのである。

また車椅子は座位ツールではなく、移動ツールであるという理解が必要だ。

車椅子の座面は、座るために適した素材で出来ているわけではなく、折りたたむために便利な素材で出来ている。それはたわみができやすいという意味である。するとそこに座った際にお尻が本来の座面位置よりたわみによって下に沈み込んでしまうことが多い。だからそこに長時間座っていると、お尻が痛くなるばかりではなく、腰に負担がかかって痛くなったりする。そのため座布団等の別のもので調整が必要だが、そもそも車椅子の座面とフットレスとの高さは、移動する際に適した高さでしかなく、快適な座位のための高さはその高さと異なることが多いことにも注意が必要だ。そのため車椅子のまま食卓テーブルについて食事摂取する場合は、フットレストから足をおろして、それより低い位置で足が床につくように、台を使う必要性も出てくる。

そういう意味では、特養の食堂において、車椅子で食事をする人が複数いる場合に、そこに足置きの台が一台もない施設はありえないのではないかと思っている。

さらに食事姿勢を考えると、前傾姿勢が一番食べやすい姿勢なのであるが、車椅子はこの前傾姿勢がとりづらいことを知らねばならない。

なぜなら車椅子は安全に移動できることが一番重要だから、移動の際に前のめりになって椅子から転落しないように、座面がフラットではなく傾斜がついている。そのため前方部分が後方部分より最低3センチほど高くなっているのが普通だそうである。(これは在宅ケア事業団の部長で、理学療法士の岡田しげひこさんの講義の中で教えていただいた知識である。)

そのことによって前傾姿勢をとりにくくなる人がいて、車椅子に座ったままでは食事が喉に詰まりやすい人がいる。この場合、食卓テーブルにつく際に、車椅子から家具椅子に乗り換えるだけで喉つまりが減って食事摂取がスムースになる人がいる。当然ながら家具椅子の高さにも配慮は必要だが、前傾姿勢という面から考えると、家具椅子に座り替える方が良い人はたくさんおられるだろう。

そういう意味では、生活施設の場合、食事摂取の際の座位アセスメントが充分行われているかということが、施設サービス計画等の評価には必要不可欠な視点となるだろう。

車椅子を移動以外の座位ツールとして使っても生活に支障のない人は、いちいち家具椅子等に座り替える必要はないだろうが、その一方では移動ツールとしての車椅子とは別に、様々な場面での座位のツールを分けて考えねばならない人も存在するという理解が必要だろう。

介護施設でのアセスメントにおいて、この個別性への着目度が低過ぎるのかもしれない。ここは反省すべき点であろう。

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介護サービスが対象とするもの。


「嫁に行って家を出てから、一度も母と暮らしていないんです。」といった60代の娘さんは、まもなく看取り介護の対象になるだろうと思われた母親の最期の瞬間に立ち会えないことを恐れ、まだ危篤状態ではない時期から母親に付き添うことを望み、道外から当施設に駆けつけ、結果的に40日間という長期間に渡って泊まり込んで母親であるAさんを看取った。

主たる介護は施設の職員が行っていたとはいえ、40日間昼夜を問わず母親のベッドサイドで寄り添いながら過ごすことは、体力的にも大変だったろうと思う。

しかし最期の日、お母さんを看取った娘さんは、涙を流されながらも、どこか晴れ晴れとした表情をされていた。

その時感じたことは、「命はリレー」であるということだ。Aさんの死とは、それで終わりではなく、娘さんの心にAさんが再生されたということではないだろうか。少なくともそれは、今後の娘さんの人生にとって、意味のある新たなものに生まれかわったではないかと思う。

だから我々の看取り介護とは、旅立っていく利用者のためだけにあるものではなく、残される人々のためのケアであるという側面があり、そのことに対する意識も必要であると考えている。

こんなケースもあった。

認知症で職員に対して暴力行為が見られるBさん。ベッドから車椅子に移乗する際に、優しく丁寧に声かけし、嫌なところに触れたり、痛がらないように細心の注意を払っても、理由なく叩かれたりして、職員にとっては「怖い人」だった。

面会に来る奥さんにも笑顔を見せることはほとんどなく、怒鳴ったり、手を振り上げようとしたり、その都度なだめるのに苦労していた。

そんなBさんの誕生会を、奥さんと、子供さんを招いて当施設内で行ったとき、介護職員が、「Bさんは奥さんにとって、どういう人ですか」という意味のことを尋ねた。すると奥さんは、「結婚してから一度も手を挙げられたこともないし、いつも優しくて、家事も手伝ってくれる最高のお父さん」と言っておられた。

我々はその時、現在のBさんの印象との違いに驚かされたが、同時に、家族にとってBさんは、認知症があって暴力行為のある怖いお年寄りではなく、家族を守り育ててくれた優しい夫のままであり、尊敬すべき父親のままであることを知った。

我々がBさんに対して抱いているイメージなど、家族にとっては虚像に過ぎないのである。このことを理解しないと、家族と我々のあいだには、埋めることのできない溝が生ずるし、そのことはやがて我々のサービス提供に対する不信感に繋がらないとも限らないと思った。

我々は、そこにいるBさんという人に対して必要なサービスを提供するだけではなく、Bさんの周りにいる家族をはじめとした様々な人々の思いにも理解を寄せて、求められていることは何かということを考えなければならないのだろうとその時思った。それが福祉援助を生活の糧とするプロの責任ではないかと思った。

我々はそこにいる誰かと、我々が提供でいるサービスを結びつけるだけではなく、ひとりの人間が背負っている様々な背景をも視野に入れたサービス提供が求められているのだろうと思う。なぜならそれはその人の人生そのものを見つめるという意味だからである。人の暮らしの支援とは、そういったものを含んでのものだろうと思う。

だから我々には、背負ってきた人間関係、環境要因など様々なものを見つめる目が必要だ。もちろん、ひとりの人間が背負ってきた全てを我々が知るなんてことはできないし、全てをあぶりだすことができると考える方が不遜(ふそん)である。

しかし同時に、そこにいる一人の利用者の周りには、様々な人々の思いあるのだということを我々は忘れてはならないと思う。

それは概念や意識だけの問題ではなく、時には我々は利用者の家族への支援行為を直接的、間接的に求められる場合があるという意味である。それは施設サービスであっても変わりのないことで、利用者自身ではないから我々の仕事ではないということにならない。利用者支援の一部に、家族の支援行為というものが含まれるという考え方が求められると思う。

施設サービスの現場でも、そうした人材が求められている。

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施設の介護支援専門員に対する指摘について


介護支援専門員(ケアマネジャー)の資質向上と今後のあり方に関する検討会における議論の中間的な整理では、施設の介護支援専門員のあり方について、次のような提言がされている。
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(4)介護保険施設における介護支援専門員について

○ 施設における介護支援専門員については、社会保障審議会介護給付費分科会の審議報告においても「施設におけるケアマネジャーの役割が不明確なのではないか」といった指摘がされている。
○ 介護老人福祉施設及び介護老人保健施設については、入退所時における家族や居宅介護支援事業所の介護支援専門員などとの調整・連携、ケアカンファレンスにおける多職種協働の円滑化など、ソーシャルワークやケアマネジメントの知識や技術を有する者がその役割をしっかり担えるよう推進していくことが必要である。
介護療養型医療施設についても、施設の特性にかんがみながら、介護支援専門員が多職種協働の下で質の高いケアマネジメントを進めていくことが必要である。
○ 以上を踏まえ、ソーシャルワークやケアマネジメントに係る知識や技術を有する者による介護保険施設の入所者に対する支援を充実させるため、生活相談員や支援相談員について、介護支援専門員との現状の役割分担にも留意しながら介護支援専門員等の資格取得を進めていくべきである。
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施設におけるケアマネジャーの役割が不明確にされたのは、誰の責任か?それは介護支援専門員を、居宅介護支援事業所のサービス提供方法からの視点に偏って、この制度に位置づけた国の責任ではないか。

問題点だけ指摘して、その根本原因を見つめないと何の解決にもならない。しかしあの委員会は、施設ケアマネジメントとは何ぞやという実務を知らない連中ばっかりだから、問題の本質に迫れない。だから「こうすべきだ」という指摘はできても、そうなるための提言ができていない。ばかばかしい整理である。

もともと施設には、相談援助職としての「相談員」がいるにもかかわらず、相談員と介護支援専門員の関係性を全く考慮することなく、介護保険制度であるから、施設にも介護支援専門員が必要だとして、配置義務だけを課したことに位置づけが不明瞭になる原因があるのだ。

つまり施設ケアマネジャーと相談員との業務分掌や、それぞれの専門職としての機能の整合性が図られないまま、あらたに介護支援専門員が配置義務に加えられたことにより、何をする人かわからない施設介護支援専門員が増えたのが今生じている問題の本質なのである。

そもそも介護支援専門員とは、相談援助職であり、ソーシャルワーカーであるはずなのに、相談援助ができない介護支援専門員を大量に生産する、資格付与の仕組みが問題なのだ。

施設で介護職の実務5年を経験したからといって、あの程度の内容の試験を合格しただけで、実務者研修を僅かな日数受けて、「はい貴方はこれから介護支援専門員ですよ。ケアマネジメントの知識を十分に持っているのですからソーシャルケースワークの業務について頑張ってね」と言われたって、できないものはできないって。

介護福祉士がその業務を行った経験で、介護支援専門員の資格を得た瞬間から、介護支援専門員と介護職員を兼務して、何人かの利用者を担当するなんていう業務体型では、ケアプランナーにしかなれない。入退所時における家族や居宅介護支援事業所の介護支援専門員などとの調整・連携、ケアカンファレンスにおける多職種協働の円滑化を図るスキルなんて持てないって。

ケアマネジメントを含む相談援助業務は、本来はほかの業務と兼務できる業務ではないのである。

施設の他職種と兼務して、両者の配置基準1を満たすというルールは、施設の介護給付費を引き上げないまま、新しい職種として介護支援専門員の配置義務を課したためのルールであるが、この弊害は相談援助職以外の業務とケアマネジャーが兼務することで著しく現れる。

しかし相談員はもともと相談援助職で、その延長線上にケアマネジメントに長けた、ソーシャルワーカーのスーパーバイザーとなり得る職種としてケアマネジャーが位置づけられても良いもので、両者の区分はもともと難しいのだから、この兼務はあり得るだろう。

相談員以外の他職種とケアマネジャーの兼務は無理だが、相談員とケアマネジャーの兼務はありだ。というよりソーシャルワーカーとして、利用者の相談援助業務全般に関わる業務の中で、施設サービスにおいて、ケアマネジメントという社会福祉援助技術をつかいこなせる専門家という意味では、両者は分けられない。

だから僕が主張するケアマネジャーのあり方とは、そうであればいっそのこと、施設ケアマネジャーなどなくして、今一度原点に返って、相談員の役割として担うべき社会福祉援助技術の1技術としてのケアマネジメントに着目し、ケアマネジメント技術をしっかり身につけたソーシャルワーカーの養成を土台にした新しい配置基準の考え方があってよいというものだ。

施設サービスにケアマネジメントが必要ではないという意味ではなく、ケアマネジメント技術を実際に使いこなす専門職として、現在の介護支援専門員の資格付与過程には問題が多く、いっそのことケアマネジメント技術をしっかり学んだソーシャルワーカーが、相談員として、その役割を担った方がよいという意味である。

当然その考え方の延長線上には、相談員が行政職の任用資格である「社会福祉主事」資格を基礎とするのではなく、社会福祉士を基礎資格とするという議論があって当然と思う。相談員の配置基準だって対利用者比50:1では足りないのではないかという議論があってよいというものだ。

ケアマネジメント実務をこなすソーシャルワーカーとしての配置義務は、介護支援専門員という資格のみならず、社会福祉士であってもよく、それは施設が人事採用の際に選択すべきとする基準に直すべきだ。そして現行の相談員配置基準より、それは上乗せ配置されるべき基準で、給付費による手当も避けられないと思う。

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特養の内部留保批判に対する全国老施協の見解


22日に行われた全国老施協の「経営戦略セミナー」で、「特別養護老人ホームの内部留保に関する全国老施協の見解」をテーマに講演した介護保険事業経営委員会の桝田和平委員長は、会員を対象に実施した調査の結果、特別養護老人ホーム1施設当たりの実質的な内部留保は、6600万円余りだったと報告した。

これは昨年、全国老施協が全国の会員施設1416か所の貸借対照表の調査を行った結果として示されたもので、現預金などは約2億7100万円あったが、施設の建て替えなどに必要な資金は約2億480万円と見込まれることから、実質的な内部留保は6.600万円余りであると指摘した。

加えて桝田委員長は、この金額について「年間平均事業活動収入の2、3か月分にすぎない。少なくとも2億500万円程度の現預金などを保有していなければ、正常な経営状態とは言えない」と指摘している。

特養の内部留保をめぐっては一昨年12月、厚生労働省が社会保障審議会の介護給付費分科会に「1施設当たり約3億円」とする調査報告を示していたが、それは10年、20年単位でみれば、高騰する人件費への手当や、施設等の建て替え費用として消えてなくなる費用で、きちんと社会に還元される費用であると主張していたところであり、やっとその主張に沿った反論を全国老施協という団体が行ったということは評価して良いだろう。

建設補助金などが削られ続け、自己資金で既存の建物のメンテナンスを全てまかない、かつ新規建設費用も積み立てておいた自己資金を使わないとならないという現実があることを考えれば、この理屈に基づいた数字は至極妥当である。
(参照:内部留保批判に老施協はなぜ反論しない?

しかし更に指摘しておかねばならないことがある。

使える実質的な資金としての預金額が6.600万円であるとすれば、それは留保金ではなく運転資金である。しかも介護給付費は2月遅れで支払われるのだから、2月分は最初から施設運営費として社会福祉法人が自己資金で確保しているお金である。この金額は当施設で言えば約60.000万円に相当するだろう。そうであれば内部留保など実質的に存在しないか、600万程度という意味になる。

しかもそれは役員報酬も無報酬で、施設長の給与も、他の介護保険施設の平均年収よりもかなり低く抑えた上で捻出している費用である。過剰利益ではないのである。

ここのところを老施協はもっとアピールしなければならない。

さらに言えば、貸借対照表で預金計上されているものは、内部留保金ではなく繰越金である。なぜ世間に過剰利益、不当利益という誤解を与える「内部留保」という言葉を、老施協自らが使い続けるのだろう?

会計基準上の正しい科目名称を使わないと、世間の誤解はとけないぞ。そのような言葉を使うから、事業経営を分かりもしない学者連中がわけのわからない批判を繰り広げるのだ。もっと戦略的な言葉遣いをして欲しいものである。

これはずっと言い続けていることであるが、なにゆえ老施協はそのことに耳を傾けないのだろう。内部留保という言葉を使う弊害に気がつかないのだろうか。

桝田委員長は、現預金などとして保有している資金のうち、必要な資金を「運営責任準備金」として会計上で明確にすることや、恒常的に運営資金を維持するため、介護保険事業を行う社会福祉法人で「運営基本金」(仮称)を創設することなどを提言しているが、そのように科目名称を作ったとしても、内部留保という言葉が存在している限り内部に不当利益を留保しているものの一部であるという誤解はなくならない。その言葉自体をなくしてしまわねばならないということがなぜわからないのだろうか。

内部留保という言葉を使って何かメリットがあるというのだろうか。いい加減にして欲しい。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

次期介護報酬改定に向けて主張すべきこと


本年4月からの介護保険制度改正、介護報酬改定において、厚生労働省老健局内部で一番問題視されたのは、1号被保険者の保険料を一定金額以内に抑えることだそうである。

その目安となる金額が、5.000円以内とされたのは皆さんもよくご存知だろう。

そのために2012年度に限定した形で、都道府県が財政安定化基金の一部を取り崩し、保険料上昇の緩和に充てることができる特例規定が設けられた。この取り崩しと、市町村の介護給付費準備基金の取り崩しで、保険料軽減効果が月額244円あったとされている。

しかしそれでも第5期(2012年4月〜2015年3月)の1号被保険者の平均保険料月額は、第4期4.260円から、全国平均で月額4.927円と、19.5%の大幅アップとなっている。

高齢化による自然増分を考えると、この平均額が第6期(2015年4月〜2017年3月)に5.000円を超えることは確実と言える状況なのである。

そうであるがゆえに、第6期における介護報酬が決まる次期報酬改定でもこの1号保険料を引き上げないためにどうしたらよいかということが問題となり、老健局内部では既にそのことが話題になっているそうである。

2014年から段階的に消費税が10%に上がる予定になっているのだから、介護保険サービスに対する国費の支出割合を、現行の5割から6割に引き上げれば良いという声も聞かれそうだが、このことについて財務省が簡単に首を縦に振るなんてことは考えにくいだろう。

そうであれば、利用者1割負担の引き上げとか、居宅介護支援事業所による居宅サービス計画作成費用の自己負担導入とか、2号保険料の総報酬割りとか、今回の制度改正で議論されたことが再度論点として挙がってくるだろうが、高齢化が進行することによる自然増がある中で1号保険料を抑えるための方策として、給付費抑制策がその議論に中心になることは必然であると考えられる。

そんな中で、介護給付費の引き上げはどの程度可能となるのだろう?

我々施設サービス関係者からすれば、地方分権改革推進計画及び地方分権一括法により、厚生労働省令で定める 特養の居室定員(1名)が「参酌すべき基準」とされ、それに伴って今年度の報酬改定で、多床室の報酬が住環境を理由として、大幅な報酬減とされたことは非常に理不尽なものに感じている。

なぜなら介護報酬とは、介護サービスの対価という意味があり、そうであれば個室より多床室の方が介護の手間がかかるのに、住環境を理由にした報酬減額は筋が通らないと考えるしからである。
(参照:池田省三氏の主張と老施協のイマイチ)。

このことに関して、池田氏は僕に対する反論文の中で、
『介護報酬は「介護サービス」の価格であり、その水準は社会的合意を必要とする。したがって、サービスの質によって価格が異なるのは当たり前である。加算方式はその一つの手法と言えよう。また、「手間がかかっていようが、品質が悪ければ価格は下がる」ということになる。』と主張している。

しかしこの主張はおかしい。多床室はもともと経済的理由などで、必要とされた介護施設のスタンダード居室であったもので、そこでの生活の質は、ユニット型個室が誕生した以前と比べて、「住環境も含めた、暮らしの品質が下がっている。」という事実はなく、ユニット型居室はそれ以上の住環境を生みだしたという状況があるとすれば、氏が最初に主張しているように、「サービスの質によって価格が異なるのは当たり前である。加算方式はその一つの手法と言えよう。」という理屈によって介護報酬単価が決められるべきである。

つまり何万人もの人々が暮らし続けた多床室に対する報酬単価は、措置費の基準から介護給付費に移行した際に、サービスの価格として設定されているんだから、ここで従来型個室やユニット個室とのサービスの価格差を設定する必要があるなら、介護サービスの手間を含めて適正価格として設定されたはずの多床室報酬を下げるのではなく、それより住環境上優れた新しい個室という環境に対して加算するのが筋である。だから今年度からの多床室報酬の大減算は、理屈も筋が通るものではなく決して受け入れられるものではないのである。

そうであるがゆえに、次期介護報酬改定では、この報酬を23年度までの基準をベースに再査定する必要がある。その時、1号被保険者の保険料の上昇をできる限り抑えるために、抑制すべきものは抑制する案を示していかねばならないが、それは「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」の報酬だろうと思う。

この単価はあまりに高すぎる。

特養多床室と24時間巡回サービスの報酬比較

上の表が、特養の多床室と定期巡回・随時対応型訪問介護看護であるが、特養の機能は看護サービスも含めてのものだから、定期巡回・随時対応型訪問介護看護の訪問看護を行う場合の報酬と比較するのがわかりやすい。

介護1と2では、特養多床室の方がかなり高いが、要介護3ではその差が縮小し、要介護4では6単位しか特養多床室報酬は高くない。要介護5ではこれが逆転し、定期巡回・随時対応型訪問介護看護費の方が高くなっている。

もともと定期巡回・随時対応型訪問介護看護費は在宅重中度者の地域での生活を支えるという目的があり、あり方委員会の中間報告書では、利用対象者を「要介護3以上としてはどうか」という記述もあったが、要介護者の介護サービスを利用する権利との整合性が取れず、利用対象者は要介護者全てとしたものとした。しかし介護報酬単価を見る限り、定期巡回・随時対応型訪問介護看護事業者が収益を上げるには報酬単価の高い利用者をある程度の数確保する必要があると考えることができ、実質、要介護3以上の在宅者にサービス提供を促進する誘導策をとっていると想像できる。

しかしこの報酬設定額はどう考えてもおかしい。繰り返しになるが、特養の多床室報酬と比べて定期巡回・随時対応型訪問介護看護費は高すぎると言いたい。

なぜなら定期巡回・随時対応型訪問介護看護とは、あくまで居宅サービスであるから、訪問介護と訪問看護に係る業務の費用しか含まれていないため、身体介護に使う様々な物品の費用は利用者負担であり、例えばおむつ交換が必要な利用者のオムツ代金や、清拭に使うペーパーその他の費用はすべて利用者負担で、事業者負担することはない。

しかも居宅サービスは、趣味・娯楽のサービスを含まないから、それに対する支出もない。

それに対し施設サービスは、日常生活に必要な車椅子等の介護用品や、オムツや清拭用品、レクリエーションや通院支援費、その他諸々の費用を全て含んでいるとして、施設がそれらの費用を支払う必要がある。趣味や娯楽サービスの費用も全部含んでいるとして、レクリエーションや行事やクラブ活動等の費用を「教養娯楽費」として支出せねば運営基準違反となる。

このように圧倒的に支出費用が少ない居宅サービスの介護報酬が、施設サービスと同程度であるというのはおかしいのである。

さらに言えば施設サービスは、すべて施設職員により身体介護をはじめとした全サービスがまかなうものだが、定期巡回・随時対応型訪問介護看護は24時間地域を巡回すると言っても、それぞれの要介護者の主介護者は、ほとんどの場合、「家族」であり、重度要介護者は定期巡回・随時対応型訪問介護看護サービスだけで在宅で生活が続けられるわけではない。

それなのに要介護5の費用が逆転し、特養の多床室より、定期巡回・随時対応型訪問介護看護の方が高いのはおかしいのである。

支出費用から考えると、特養等、施設サービスの介護報酬は定期巡回・随時対応型訪問介護看護の報酬よりもっと高くなければならないし、逆に定期巡回・随時対応型訪問介護看護費はもっと低い報酬を設定すべきである。

次期報酬改定議論では、このことをもっと前面に出して主張すべきである。そして特養の多床室報酬を適正レベルまで引き上げたベースから再査定すべきである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

食の専門家とは、どういう人か。


介護施設の中には様々な専門職が配置されている。しかし資格があるだけで専門家だと勘違いされては困る。

資格がなければできないことはあるけれど、それは単に業務独占の専門職としての資格を持っているに過ぎず、専門職が本当の意味で専門家になるためには、きちんとした理念を持ち、その理念を実現する方法論を持たねばならない。

だから僕は、「専門家になれ、専門バカはいらない。」と言う。

「制限は馬鹿にでもできるが、できることを最大限実現できる手助けができるからこそ専門家である。」と言う。

「食」について言えば、管理栄養士や栄養士とは、栄養計算できる人、栄養状態を正しく把握して、健康を保つ食事を提供する人という以前に、人にとって最大の楽しみである「食べる喜び」を守る人であると思う。「食べる喜び」を持ち続けることが出来るように、誰よりも専門知識を持つ人が、管理栄養士ではないかと思う。

特養に住む人々の平均年齢は85歳を超えている。そうなると摂食障害が最大の生活課題であるという方も多い。嚥下機能低下による摂食障害では、しばしば誤嚥事故が起こる。時としてそのことは命の危険性に直結しかねない問題である。

だからといって、口から物を食べるという行為を、安易に奪ってしまうことがあってはならず、管理栄養士は、食材を工夫しながら、看護職員と十分なコミュニケーションをとって、利用者一人一人の口腔機能をアセスメントし、食べることができる支援、美味しく物を摂取できる支援を諦めない人でなければならない。

そういう意識を常に持っていることを前提にした上で、「これ以上口腔摂取は難しいのではないか。」という判断が生まれるのでなければ嘘である。これは看護職員にも同じことが言えるであろう。

この時期になると、年末から年始にかけての食事をどうするか、ということに頭を悩ませる管理栄養士も多いだろう。特に時期的には、「餅」を提供する時期である。そして餅は、嚥下機能定価などの摂食障害がない人でも、喉に詰まって窒息死する危険性のある、最も危険な食材であると考えられている。

餅は高齢者にとっては命に関わる危険食材であるとして、一切食卓に登らせない介護施設も存在する。
(参照:餅つきってなにのためにするの?

そういう施設での管理栄養士は、餅をどのように提供しようかと頭を悩ませる必要はなくなる。考えなくてよくなる。考えないということは工夫もしなくて良いということだ。可哀想に・・・。専門家としての技量を発揮する機会を奪われ、そのことを悲しいと思わないところから専門家の退廃は始まるのである。

参照記事にも書いたように、僕の施設では、「お餅を食べることができる方法」を考えることから始まる。しかし残念なことに、それでもなお「お餅を食べることが不可能だ。」として、提供できない人もいる。

そう言う人の場合、周りでほかの人がお汁粉やお雑煮を美味しそうに食べている時に、お餅の入っていない汁だけを飲んでもらうということになってしまったりする。

このことを「仕方がない」と諦める管理栄養士であってはならないと思う。

昨日、当施設で毎月行われている「給食会議」の中で、栄養士から下の画像のお汁粉が、参加者全員に配られ、試食をお願いされた。

新素材おしるこ

汁だけのお汁粉では、あまりにも可哀想だということで、お餅に変わる食材で、お汁粉としての味わいも損なわない方法はないかと試行錯誤した結果、これはどうかという試食品である。

お餅のようにみえるが、これは「おかゆ」を一旦ミキサーにかけて、特殊な粉で柔らかく固めたもの。2つ入っているが、それぞれ粉の分量を変え、ほぐれやすさを工夫したものである。いわば、お粥を原料にして、お餅に似せた「ソフト食」である。

食べてみると、舌の上でとろけるように溶けていくが、食感も味わえる。「柔らかいとろけるお餅ですよ」と言われたら信じてしまうだろう。

今年は、このソフトお餅を、本物のお餅を食べることができない人に提供することにした。経管栄養以外の方は、全員これを食べることができるだろう。

この食材が、利用者が求めるものとして完璧なものではないかもしれないし、単なる始まりでしかないのかもしれないが、お餅を一切提供しないという現状に甘んじている施設の管理栄養士と比べると、当施設の管理栄養士&栄養士は、「食の専門家」として存在し続ける努力をしている人として評価して良いだろう。

シリーズ第3弾


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介護・福祉情報掲示板(表板)

特養に集団生活の論理は通用しないぞ


既存型・広域型の特養であっても、利用者個人の思いを実現するケアが大切だと言われて久しい。

利用者個々人の個別性に対応したケアサービスの提供が求められるのは当たり前のことだ。

しかしその理念を実現するサービスが実際に行われているかといえば、個々の場面を取り上げるとそれが十分でないところも存在する。僕の所属する施設でも、そのことは常に意識してチェックしながら改善に勤めていかねばならないと思っている。

さらに業界全体を見渡すと「個人の思いに沿った暮らしの支援」という理念が、単なる看板だけで、実際には何一つその具体策をとっていない施設も存在する。それは既存型・広域型施設に限らず、ユニット型の施設であっても、ハードだけがユニットになっていて、ソフトにそれが生かされていない施設も存在する。それは個別対応が看板倒れになっているという意味である。

そういう施設ではしばしば、管理者の口から利用者に対して、「集団生活のルールは最低限守ってもらう必要がある。」という言葉が発せられる。

おいおい、集団生活という言葉を自分勝手な理屈で使うなよ。そもそも集団生活って何かって分かっているのかい?

「集団論」から言えば、集団生活とは、「共通の意識や目標などのもとに集団となって一定期間ともにする生活。」と規定することができる。だから医療機関であれば、入院患者は「病気を治す治療目的」という集団と規定できるため、集団生活におけるルールを守ることを求めることはやぶさかではない。

しかし特別養護老人ホームなどの「生活施設」は、利用者の希望で、何かの目的で一定期間生活するという場ではなく、暮らしそのものを送る場所であり、これは集団論の立場で言う「集団生活」には該当せず、あえてカテゴリーを作るのであれば、「強いられた共同生活」ということにしかならない。

そこでは、個人の暮らしがまずあり、法令で定められたことや、社会規範上のルールは最低限守るという規律・規範は求められるが、施設側の理屈による勝手な「集団論的ルール」を押し付けることは極めて不適切となるし、それは許されることではない。

例えば集団生活だから、就寝・起床時間は施設の設定した時間を守ること、テレビの視聴時間にも制限があること、酒や煙草を制限すること、食べることができる食品を制限すること、服装に制限を用いたり一定の服装や髪型を強制すると、etc・・・。これらは全て集団生活の決まりという間違った前提に立った過度な制限行為であり、許されないことだ。

人口減少社会の中で、少子化に歯止めがかからず、超高齢社会が進行する我が国においては、現在の地域はそのまま存続できると考える方が間違っている。限界集落の問題に限らず、もう少し広い範囲で、高齢者の「住み替え」を促進する「地域再編」を進めないと、高齢者の福祉介護サービの提供が難しくなる地域は、全国各地に出現するだろう。

そのため本年度からの改正介護保険制度では、高齢者住まい法の改正で生まれた「サービス付き高齢者住宅」の建設を促進し、そこに24時間巡回サービス等の介護保険サービスを結びつけるという、住み替え策をセットにした地域包括ケアシステムを構築しようとしている。

そこでの住み替えは、あらたな「暮らしの場」の選択という意味であり、我が国の現状を鑑みれば、高齢期の暮らしの場の新たな選択を促進する積極的な政策を取る必要があると僕は考えている。

その時、グループホームや特定施設やサービス付き高齢者向け住宅が、「新たな暮らしの場」としてよくて、「特養」がダメだということにならないように、特養の中での利用者個々人の「暮らしの実現」を進めなければならない。

集団生活の論理という、くだらない間違った理屈を捨て去り、特養という施設が、地域の中のある区域と考え、そこで展開される個人の暮らしを支えるために、暮らしを営む場所に、そのままケアサービスが存在するという、「住まいとケアが分離していない」という特性を生かした個別サービスの実現を図っていかねばならない。

そのことで特養の存在意義が証明されるであろう。逆に言えば、集団生活の論理を展開して、個人の暮らしが守られない施設が特養であるとされた場合、それは行き場のない要介護高齢者がやむを得ず入所する「必要悪的サービス」とみなされかねない。

社会の特養に対する偏見やスティグマは、根強く存在している。その偏見やスティグマを振り払うために、特養こそ看取り介護を含めて、高齢者の最晩年期の「暮らし」を支える必要不可欠な生活施設であり、終生施設としてふさわしい品質の高いケアサービスを作っていかねばならない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

人材も足りず、人員も確保でいないというひずみ


総務省が9月16日に発表した高齢者推計人口によると、今年9月15日現在の65歳以上の人口は前年比3.4%(102万人)増の3074万人となった。総人口に占める割合も0.8ポイント上昇の24.1%となり、いずれも現在の形で統計を取り始めた1950年以降、過去最高を更新し続けている。

人口減少社会に入った我が国ではあるが、団塊の世代が65歳以上になってきたことで、高齢者数はさらに増え、それらの人々が後期高齢者と呼ばれる75歳以上になる時には、介護サービスの量はさらに必要とされるであろう。

しかし少子高齢社会の現状は、その時に必要な介護サービス量を支える人員を確保できない状況を既に生み出している。本年度からの介護保険第5期計画においても、介護施設を始め、特定施設やグループホームなどの箱物も数多く建設され続けているが、そこに必要な「人材」の枯渇と、「人員」さえいない状況が様々なひずみを生み出している。

今月8日に「神戸新聞」のネット配信ニュースで報道された以下の記事は、関係者にとって非常にショックの大きい記事である。
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(2012.9.8 神戸新聞ネット配信ニュースより転載)
神戸市中央区の介護施設「神戸海岸特養ケアセンター」でオープン直後の今年4月、特別養護老人ホーム(特養)に入所していた80代と90代の男性2人が相次いで死亡していたことが、神戸市などへの取材で分かった。いずれも別の施設から移ってきた数日後に亡くなっており、80代の男性はたんの吸引が、90代の男性は胃ろうの処置が必要だったが、同センターの措置は不十分だった。同市は「死亡との因果関係は確認できないものの、介護態勢が不十分だったのは確か」と判断。介護保険法の運営基準などに違反したとして7日にも、同センターを一定期間の新規入所者受け入れ停止処分にする。
兵庫県によると、介護保険制度が始まった2000年以降、県内で特養を含む介護保険施設が、指定取り消しや一定期間の新規入所者受け入れ停止などの行政処分を受けるのは初めて。
神戸市によると、同センターは社会福祉法人「成晃会」(大阪府摂津市)が運営。定員100人の特養と、同100人のケアハウスなどを備え、今年4月にオープンした。
80代男性は入所3日後の朝、ベッドで亡くなっているのを職員が見つけた。2時間おきにたん吸引の処置が必要だったが、同市の調査では亡くなる前日の午後10時以降、たん吸引は確認されていないという。
90代の男性は入所の5日後、嘔吐(おうと)した状態で発見された。高熱などが確認されたため、すぐに入院したが、3日後に亡くなった。発見されたのは、腹部に開けた穴から注入食を送る胃ろうの処置を受けた数時間後で、同市によると、胃ろうで逆流しにくい注入食を使っていなかったという。
神戸市は2人のケースについて、同センターが以前の施設からの引き継ぎを十分に把握していなかったことを重視。また、介護保険法では定員100人規模の特養では常勤換算で看護師3人以上の配置が必要だが、4月は基準を下回っていたことなども判明している。
同センターでは6月までに他に4人が発熱などで病院に入院し、その後亡くなっている。神戸市は「オープン直後から多くの入所者と契約する一方、対応可能な十分な職員がいなかった」と指摘。研修の充実や適正なサービス提供など、業務の改善を求めていく。
同センターはこれまでの神戸新聞の取材に対し、「死亡した80代男性は『週1回のたん吸引が必要』と聞いていた。2時間おきに吸引が必要なら、特養では対応できず、受け入れられなかった。男性は入所後すぐに体調が悪くなったが、看護師が十分に対応していた」などと説明。問題はなかったとの認識を示している。
(転載終わり)
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この特養では、さらに次のような問題も放送されている。
「オープンから1カ月後の今年5月上旬、特養フロアを一部閉鎖。それに伴い、両市に介護保険料を支払う入所者4人を同じ施設内のケアハウスに移したが、4人の特養の介護報酬については7月まで請求を続けたという。神戸、芦屋の両市合わせた不正請求分は計約240万円、加算分は約90万円になる。」

これを見ても、言い訳が通用しないかなり悪質な経営・運営状態であったことは間違いない。

そもそも人の命と暮らしを守るという一番基本となる姿勢に欠けているように思えてならない。

我々は誰かの人生の最晩年期に関わる責任と使命を持っているはずだが、その大切な時期に、必要な喀痰吸引が行われずに窒息死した人の人生は、なんと哀しい人生にされてしまったんだろう。ほかの施設で適切な胃瘻管理をされていたのに、この施設に入ったことで、それがされずに濃厚流動食が逆流して嘔吐し苦しんだ末に亡くなられた方の人生とは、なんと悲惨なものに変えてしまったんだろうか。

これらは本来「介護体制が不十分だった」で済むような問題ではないだろう。刑事責任の追求だってあり得る問題である。

ほかの報道では、この施設では排泄介助や、移乗介助ができない職員もいたと報道されており、そうした中で職員数も足りず、介護体制が不十分なまま、利用者だけは受け入れをどんどん行っていたという。

逆に言えば、そのような体制の施設でも、それが問題となり、利用者確保に困るということにはなっていないのが我が国の現実であるという意味だ。第5期計画で、行政はこうした施設の建設と事業指定を促進するが、そこでどのようなサービスを実施するかは事業運営者の考え方一つにかかっており、事業開始当初のこのような不適切サービスを未然に防ぐような手立ては現実的には存在していないということでもある。

勿論そうであるからこそ、そうしたサービスの現場で業務に携わる我々自身の職業倫理が強く求められるわけであるが、同時に介護サービスを支える人材・人員確保の具体的方策がまったく存在しない状態で、行政計画だけを先行させ、指定サービス事業の数だけ増やす現状にも警鐘を鳴らす必要があるだろう。

こうした劣悪なサービス提供の問題を、単にこの法人の経営責任という問題にとどめず(そのことは別に追求されるべきではあるが)、社会全体の介護サービスに対するニーズと、それを支える人材の問題としても論じていく必要があるのではないのか。

そうしないことには、全国各地で同じようなことが似たようなかたちで繰り返される可能性が高いのではないのか?これは現場の倫理観だけで解決できる問題ではないぞ。

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面会をしないでねとお願いする施設


先週金曜日にアップした「35年ぶりの生誕地NAYORO」でお知らせしたとおり、僕は今、名寄市に向かう列車の中で、この記事を書いている。生誕地に向かっているという実感を感じて、なんだかワクワクしている。

今日の午前中までは、2日間に渡って「デイサービス職員スキルアップ研修」の講師を務めてきたが、そちらの受講者の方々は、どのような感想をもたれたろうか。

今回も色々な方々との出会いがあった。そして色々な方々から様々なお話をお聞きし、自分自身の見聞も広げられた。人との出会いがやっぱり一番の財産だ。

そんな中で、ある人からこんなケースの質問を受けた。

自分が担当している利用者が、認知症の進行など様々な理由があって施設入所に至った。その後、利用者のご家族と会う機会はなかったが、利用宅の近くを通りかかった際に、その利用者の主介護者であった家族(義娘)に偶然出会ったそうである。そして「○○さんの施設での様子はいかがですか。」と聞いたところ、その返事は「入所まもなくて、まだ帰宅願望があり、私たちが面会したら帰りたくなる気持ちが強まるので、しばらく面会しないでと言われているので、よくわからないの。」というものだったそうである。

そう返事した義娘さんは、そのことに特に不満は持っていないようだったとのことであるが、「これって普通ですかねえ?」と質問された。

確かに入所してまもない時期に、環境にも慣れず、職員との信頼関係の形成も十分ではないことによって帰宅願望が強くなることはままあることだ。特に入所するという意思を自ら持っていなくて、どこに連れてこられたか理解できない認知症の方ならなおさらである。特に家族が帰ったあと、自分ひとりそこに残されることで、行動・心理症状につながることがあることも考えられるだろう。

だからといって、可能性が高いということだけで、家族の面会を控えてもらうという方法論があり得るのだろうか。それはケアサービスなのだろうか。

僕は何かそのことに対しては違和感を覚える。少なくとも僕は今まで、家族に対して面会を促した経験はあるが、面会を制限した経験はない。入所間もない人ならなおさらだ。いきなり家族のもとから離されて、知らない場所で、周りを知らない人に囲まれ暮らさねばならなくなったのだから、少しでも知っている家族がそこにいてくれる時間は大事ではないだろうか。

勿論、そのことで帰宅願望が強まったり、徘徊につながったりする方もいるだろうけど、その時にそれを「家族画面会に来た」ということのせいにしないで、「家族が面会に来た後の我々の利用者への関わり方に足りないものがある」って考えて、我々自身がもっと利用者にとって信頼される存在になるように頑張る必要があるんじゃないだろうか。

利用者が会いたがっている誰かを遠ざけて問題を生じさせないということが、本当にケアサービスと言えるんだろうか。そのことを真剣に考えないと、自分たちの楽な方向だけを向いたケアになってしまって、利用者にとっての暮らしが失われてしまいかねないと思う。寂しい、寂しいという利用者の心の声を聞いたならば、我々が寂しくないように寄り添うと同時に、利用者の暮らしに存在して当たり前であった家族の存在を消すようなケアがあってはならないと思う。

北海道のグループホームとして、一番最初の指定取消処分を受けた札幌白石区のグループホームでは、入所した利用者の家族に対して、「利用者が里心がつく」という理由で、許可を出すまで面会ができないというルールを作っていたそうである。(参照:家族の面会を断る施設)そこでは入所後はじめて利用者に家族が面会したのは、そのグループホームではなく、やせ細って入院した病院の中であったというひどい話もある。

家族が来るから帰宅願望が強まるのではなく、自分の「暮らしの場所」として感じられないから、「帰りたい」と見知った人が来ると訴えるのである。家族に面会を遠慮してもらって、家族の顔も、以前の暮らしも忘れさせて、帰りたいという訴えさえもできなくすることがケアであるとすれば、これは恐ろしいことだ。

入所施設を、寂しくさせない新しい居場所にするためのケアは、家族も安心して面会できるケアでなければならないと思う。だから僕は面会制限をすることをよしとはしない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)



全国老施協に言いたいこと―「言葉選び」は発信力。


介護保険制度改正は、地域包括ケアシステムの構築を最大の目的とし、それは在宅重視の法精神に則ったものであるとし、施設サービスは徹底的に軽視された。

新たなサービスとして創設された「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」の介護報酬が、施設サービス費と比していかに優遇されているかということについては、「24時間巡回サービスの介護報酬について」という記事の中で解説したとおりである。

この方向性に異議を唱え、施設サービスの介護報酬を適正化(アップ)冴えるためには、施設サービス関係者は、24時間巡回サービスを「高コストで非効率」であることを証明するために、自らのケアの質を「コストに比して効率的」であると証明せねばならない。

そのためにも住まいとケアが分離している24時間巡回サービスには実現不可能なケアをきちんと施設サービスの中で提供していかねばならない。それは突発的な尿便意に対応した適切な排泄ケアであり、突発的な転倒事故等に即座に対応し適切に処置するケアであり、最期の瞬間まで安心と安楽のケアを行なって居所を変えることなく住み続けられる看取り介護である。

そんな中で全国老施協は特養が以下の取り組みを行うよう呼びかけている。
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◎日中おむつゼロによる排泄ケア・・・適切な水分補給とリハビリ、個々の排泄リズム等により、日中おむつ外しが当たり前に
◎一人ひとりの疾患症状に応じた認知症ケア・・・認知症の原因疾患と状態像を把握し、適切な薬物療法とケアにより安定した生活を可能に
◎施設生活におけるリハビリテーション・・・個室化により(動かない)廃用性症候群が増えている。適切なリハビリによる自立支援
◎インフルエンザや認知症予防も視野にいれた口腔ケア・・・口腔ケアを徹底し、「口からの食事」(胃ろう・腸ろう外し)を推進
◎人生の終末を安心して迎えられる看取りケア・・・「安心の死」を家族とともに、施設職員全員で実践
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個室化が廃用症候群を増大させているという理屈には首をかしげざるを得ないが、そういう一部分の考え方に異議はあるとしても、全体としての方向性は概ね正しい方向に向かっていると思う。

ただしこのことを「科学的介護の実践」というスローガンで、国や国民にアピールする戦略については大いに疑問を持っている。介護給付費分科会で村上委員が、「科学的介護」という言葉を連発している時の傍聴者の間に漂った、なんともいえない白けた空気をなぜ感じられないのだろうか?

議事録を読んだ関係者だって、この部分には大いに違和感を覚えたはずだ。

先週発行のJSWEEKLY345号には、「2012 日中韓高齢者問題シンポジウム」に中田会長が参加した記事が掲載されているが、そこにも『全国老施協は、サービスの質を高め、サービス利用者やご家族に満足をいただけるよう、根拠に基づき介護サービスを提供する「科学的介護」に取り組み、高齢者福祉の増進に挑戦している。中韓両国の皆様と意見を交わす中で、普遍的な福祉の在り方を改めて見つめてまいりたい」と述べた。』という記述がある。

これを見てもわかるように、老施協の唱える「科学的介護」とは、科学的根拠に基づいた介護、つまり介護のエビデンスを作ろうというものにほかならないと思う。

しかし科学的根拠を求める介護のスローガンを、「科学的介護」と唱えても、国民にはピンとこない。介護の何が科学なのかという疑問の方が先に来る。だからそんなスローガンを掲げる限り、誰もそのコンセプトを理解できないし、理解できないから支持されない。これをわかっていないのは老施協の組織の中枢部だけである。現場の空気を感じ取れないKYスローガンを掲げるKY組織であると言わざるを得ない。国民から支持を得るためには、詳しい説明がなくても老施協の目指す方向が容易にイメージできるキャッチコピーが必要なのだ。ここの発信力がないのが全国老施協の一番の弱点である。

さらにJSWEEKLY345号には、『内部留保調査には全施設が協力して対応の強化を』という記事が掲載されている。

これも能天気な見出しである。内部留保という言葉を老施協自身が使うから、そのお金が「社会福祉法人が非課税特権を盾にして得ている不当利益」という誤解を与えるのである。「過剰利益」という誤解を国民の間に生むのである。

もともとこのお金は、会計処理上では「繰越金」という区分なのだ。きちんと繰越金であるという訴え、繰り越さねばならないという、その必要性を訴えなければならないのに、内部留保なる不適切表現に異を唱えないばかりか、そのような表現を自ら使うセンスの無さ、思慮の浅さはどうしようもない。

そもそも介護給付費は2月遅れで支給されるのだから、2月分の運営資金は繰り越しておかねば施設サービスは提供できなくなるのである。つまり全国老施協が「内部留保」としている資金には、実際の運営費が数千万円含まれているのだ。100床の施設ならその金額は7.000万円ほどに達するであろう。ここのアピールも全然されていない。

さらに1ベット1.000万円以上必要となる将来の施設整備費を考えれば、予め資金を繰り越しておかないと、借入金だけで施設の改築や新設等できるわけがないではないか。過去のように100%補助金があった時代と違うのだ。

「科学的介護」という言葉のセンスの無さ、「内部留保」という言葉の不適切さ、それに気がつかない現在の全国老施協には頭脳があるのかと言いたい。

言葉選びも発信力であるということを、今一度考えてもらいたいものだ。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

介護の闇をなくさねば・・・。


昨年4月21日にから「介護報酬制度改正議論を斬る〜時期報酬改定を見据えて」というテーマで始まった北海道医療新聞社・介護新聞の連載は、本年6月からテーマを「希望を紡ぐケア〜介護現場の道しるべ」に変更して続けてきたが、7月26日の同誌に掲載される記事をもって60回目となり、それを区切りにして連載を終了することとした。

新聞休載週以外は、週1回、毎週木曜日の同紙の発行に合わせて原稿を書き続けてきた生活に一旦ピリオドを打つことになる。

最終稿が紙面に掲載されるのは、7/26付の介護新聞であるが、その原稿は先週日曜、僕にとっては今月2回目で、かつ今月最後の休みの日に書き上げた。あとはゲラを校正し終えれば毎週締め切りがある生活から15ケ月ぶりで解放されることになる。

この連載の最終稿にも書いたが、介護サービスとは人の暮らしに密接に関わる重要な職業である。そしてその目的は人の暮らしを良くすることだ。人の幸せをつくるお手伝いをすることだ。そしてその職業とは、私たち自身が誰かの心を癒す「赤い花」になることができるという誇りを持つことができる尊い仕事であるはずだ。

しかし・・・。誰かの心に咲く赤い花になるどころか、介護サービスの現場を密室化し、そこで絶対君主のように君臨し、利用者を人として尊ぶどころか、その尊厳を完全に無視して、人間としての扱いをしない恥ずべき人々も存在する。そういう闇に深く潜り込んで、何くわぬ顔でのうのうと生きている恥ずべき人々が存在する。彼らの彼女らの心の闇はどこから来るのか。どうして「普通じゃない」ことに気がつかないのか?

感覚を麻痺させ、世間の常識が介護サービス現場の非常識という状態を生み出してはいけないことを強く訴えている。そのためにはまず、自身の使う言葉を利用者をユーザーと見て正しくし、適切な丁寧語を使うことを主張している。しかしそのことを理解しょうとしない人々もいる。本当はそのことは非常に恐ろしいことなのだ。なぜなら、それは自分自身を悪魔に変えても気がつかなくなるからだ。

ここにも悪魔がいる。和歌山県海南市の特別養護老人ホーム南風園 投稿者 dengekinetwork

JNNニュースの動画がネット配信されている。これを見て心を傷めない特養関係者はそう多くないはずだ。ほとんどの特養関係者は、これはひどいと思うはずだ。こんなことが許されるわけがないと思うのが普通の感覚だと思う。

しかし事実としてこうした行為を行なっている特養があり、そういう職員がいることを我々は真剣に考えなければならない。自分たちが、そういう状態にならないために何をすべきかを真剣に考えねばならない。人ごととして捉えてはならない。

それにしてもこのホームでは未だに誰も責任をとっていないとのことだ。市の副市長である理事長も、施設長や副施設長や当事者である職員も現職のままだそうだ。しかも改善策は利用者の呼び方を「○○さん」に変えたということのみということだ。

この動画を全職員一人一人が見直して、自分たちの施設で何が行われてきたのかを事実として認識すべきだ。自分たちの醜い姿を事実として認識すべきだ。

それにしてもJNNの取材に答えている副市長でもある理事長の発言。「不適切な言動はあったが個人を虐待しているのではなく、チームで働いているので、(利用者を)静かにさせる中でのやりとり。」とはなんという言い訳だろうか。責任逃れの行為の正当化はいい加減にしろと言いたい。こんなのをチームの対応だなんて言うなよ。一体なんのチームだ!!そもそも利用者を何のために静かにさせる必要があるんだ。

いつから日本人は恥を恥と思わなくなったんだろう。こういう施設があるから、こういう職員がいるから、介護施設はいつまでも必要悪のように言われてしまう。

唯一の救いは、これを録画したのは、この施設の職員で、内部告発によって事態が白日のもとに晒されたということだ。盗撮し内部告発した職員は、きっとこうした状態が日常的に繰り返されていたことに心を痛めていたのだろう。内部告発するしか改善策はないと考えたのだろう。

こうした闇の部分を介護サービスの現場から完全になくしていかないと、いつまでも介護サービスは氷山の下に何があるのか?という疑惑の目から逃れられない。そこで働く職員が胸を張って誇ることができる職業にならない。当然そこにはそれなりの費用しか支払われない。

ただし我々は、こういう施設や施設職員を糾弾することを目的とするのではなく、我々自身が自らの施設や事業所を適切に運営して、利用者の尊厳と暮らしを守るということを「当たり前」に行なっていくということが大事だろう。

そういうことを地道に続けていくことが我々の一番基本となるソーシャルアクションである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

「施設ケアマネの専従化」を要請する老施協に欠けているもの


先週発行された全国老施協のJS WEEKLY343号の記事を下記に抜粋する、

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厚生労働省の「介護支援専門員(ケアマネジャー)の資質向上と今後の在り方に関する検討会」(田中滋座長)は7月9日に第4回会合を開催した。6名の構成員がプレゼンテーションを行い、施設ケアマネジャーのあり方について議論が行われた。その中で桝田和平構成員(全国老施協介護保険事業経営委員会委員長)は、ケアマネジャーの専従化を図る必要があると主張した

桝田構成員は「特別養護老人ホームにおける介護支援専門員及び生活相談員の業務実態調査研究」(平成22 年度老健事業)のデータを用いて意見を述べた。調査結果では、専任配置している割合は37.2%、兼務配置は59.8%、専任と兼務の両方配置が3%となっている(表1)。また、施設介護サービス計画1ヵ月当たりの担当平均入所者数は、専任51.9 人、兼務37.6人。実際に施設介護サービス計画を作成した入所者数の分布状況は表2のとおりで、1ヵ月当たり平均は
専任21.9 人、兼務15.6 人と違いがみられる。
そうした現状をふまえて、利用者には「良いサービスを受ける権利の他に、虐待や身体的拘束からの自由、プライバシー保護の権利なども保障する必要がある」としたうえで。「第三者的な立場から権利を守る専門職が必要だ。ケアマネと生活相談員が兼務になると、そこが曖昧になる」と指摘。
「施設ケアマネは、各専門職種の収集した情報や支援方針を収斂し、マネジメントすること。そして利用者の「自立支援」や「在宅復帰」に向けて、チームケアによる「科学的介護」の実践を行うための施設ケアプラン作成が重要として、施設ケアマネは関連業務から専従化を図り、「50 対1」までの人数の配置にすることが最も適切だ」と述べた。
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以上である。確かに施設サービスにおける相談援助職員の配置人数は少なすぎる。100人施設で相談員兼介護支援専門員が1名おれば配置基準自体は満たすわけである。しかしこの体制で、施設サービス計画をすべてひとりで担当し、その他の相談援助業務をこなせるスーパーマンはそういないだろう。

だから相談援助職の配置基準を見直して、人数を増やし、その分介護報酬も増やすというなら賛成である。

しかし、この目的が単純に「施設ケアマネの専従化」であるとすれば、それは意味がないだろうと思う。むしろ施設の介護支援専門員の役割というものを、今の状態で曖昧なままにして専任化に走れば、例え配置人員を増やしたとしても施設の介護支援専門員は単なる「施設サービス計画作成人」、つまりケアプランナーもしくは、書類作成専従者に陥ってしまうだろうと思うからだ。

桝田構成員の調査の検証にしても、専従配置している37.2%の施設のケアプランが、「良いサービスを受ける権利の他に、虐待や身体的拘束からの自由、プライバシー保護の権利なども保障するプランになっている」という結果は示されていない。37.2%の専従者が、兼務者と比して明確にケアマネジメントの質が高いという結果がないところで、専任化だけを主張しても意味がないし、施設サービスの質なんて上がるわけがない。

そもそも介護支援専門員の専従化の結果が「科学的介護」の実践であるなんていうところに持ってくるから国民が誰も理解できなくなる。老施協のこのセンスのないキャッチコピーはなんとかしないと、老施協のみが「科学的介護」って言葉に酔って、周囲が何を言ってんだか?という冷めた目で見ていることに気づかなくなり、世論はついてこなくなるぞ。

過去にも指摘していることだが、僕は、施設のケアマネの役割や位置づけを不明瞭なまま、専従化だけ進めても意味はないし、混乱や施設間格差はなくならないだろうと思っている。

むしろ施設のトップが施設のケアマネに求める役割を明瞭にして、位置づけやその機能が生かせる施設内システムを作ることが大事だろう。そこが不明瞭なまま専任化を進めても意味がない。

その前に施設の介護支援専門員とは、単に施設サービス計画を作る人ではなく、施設サービス計画というツールを使って、利用者の暮らしの課題を解決するために、施設サービスと適切に調整を図る役割があって、その調整とは施設サービスの品質に関わってくるのだから、新たなサービスを作ったり、既存のサービスを変えたりする、「能力と権限」を持つ人であることを明確にしなければならない。

書類だけ作って、「それは実地指導に必要だから作っているだけで生活支援では使えないわ。」、あるいは、「そんなプラン作ってもできないから、できる現状に合わせて書類を作って」という立場に置かれてはなんの意味もないのである。

ソーシャルワーカーとしての知識と援助技術を持ちながら、介護保険制度を熟知し、ケアマネジメントの専門技術に長けているが介護支援専門員であり、施設サービスのマネジメントに、その知識と技術を活かす人が、施設の介護支援専門員であって、それが求められている役割であり、専従化によって、それが実現されるわけではないのである。

むしろ僕は、専従か兼務かはあまり問題ではないと考えている。むしろソーシャルワーカーとして、利用者の相談援助業務全般に関わる業務の中で、施設サービスにおいて、ケアマネジメントという社会福祉援助技術をつかいこなせる専門家という意味では、相談員がケアマネを兼務することには意味があると思っている。

ただできれば、業務量を考えれば、ソーシャルワーカーとは、別にケアプランの作成責任を司るケアマネ兼務者が別に配置されていることが必要だというだけである。

そもそもケアマネジャーという職種の概念が、施設サービスに合致しているだろうか?

居宅サービスは事業提供主体やサービス内容がちがう多種類のサービスを結びつけ、チームとして支援をする際に、基本的なサービススケジュールを管理する為に、その窓口を一元化するという意味で、ケアマネジメントに主軸を置いた援助者が必要であろう。

しかし施設サービスという単品サービスの中で「施設サービス計画」は生活援助に必要なツールのひとつに過ぎず、それに主軸を置きすぎると、生活者としての高齢者への援助という意味を取り違えてしまう恐れがある。

プランが立派でも、サービス内容の質が悪ければ意味がないし、365日24時間生活する「器」の中で生じる様々な生活課題やストレスに的確に反応できる人材がいないと、その目的は達しない。

優れたケアマネより、ケアマネジメント技術をもしっかり持っている優れたソーシャルワーカーが求められているのである。なぜならケアマネジメントもまた、社会福祉援助技術の一つに過ぎないからだ。

なにか介護保険制度はケアマネジメントを社会福祉援助技術の中心に置きすぎて考えられていることで様々な矛盾が出てきているように思えてならない。施設サービスも基本的に居宅サービスと考え方の根幹は変わらないといっても、そこで展開される援助方法は、当然、違いがあっても良い。

よって僕は、施設の介護支援専門員を専従配置するのではなく、いっそのこと介護支援専門員の配置義務をなくして、相談援助職の配置数を引き上げ、相談援助職として雇用する人材については、介護支援専門員資格を基礎とするのか、社会福祉士を基礎とするのかは、各施設の判断で良いという方向に変える方がベターではないかと思っている。

そのほうがよっぽどサービスの質は高まるだろう。

参照:介護保険施設における介護支援専門員の業務と役割に関する一考察 () () (

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長い爪・・・家族の思い。


6月26日(火)の倉敷市講演のあと、倉敷市介護保険事業者等連絡協議会事務局の方々が懇親会を開いてくれた。その際に参加者のなかの一人の女性から、携帯電話に入っている画像ファイルを見せていただいた。

そこには「人の爪」が写っていて、それも連続して同じような写真画像が何枚もあった。そしてよく見るとそれは同じ日の画像ではなく、連続した異なる日に写した画像であることがわかる。

その画像の中の「爪」はかなり長く伸びていた。そして時系列で伸び続けていた。

「有料老人ホームに入居している母の写真です。」とその方は言った。いつになったらそのホームが、母親の爪が伸びた状態に気がついて対応してくれるんだろうと毎日撮影しながら、対応してくれるのを待っていたという。

しかし「根負けしました。」とその方は言った。そして、「母の爪を切りたいので、爪切りを貸してくださいと言ったら、そこのスタッフは喜んで爪入切りを貸すんですよ。」と寂しそうにおっしゃった。

この方は、何もそのホームの「気がつかなさ」を楽しんで見ていたわけではなく、ゲーム感覚で写メを撮っていたわけでもない。

そのホームのスタッフは、爪が伸びた状態に気がつかずに放置していたのか、あるいは気がついても放置していたのか不明であるが、そのことに対する配慮のなさというのは、きっと伸びた爪を放置するということにとどまらない。家族にしてみれば、訴えなければ必要な身体ケアをしていないのではないかという不安と疑問の気持ちにつながっていくだろう。

だから爪が伸びていることを直ぐに訴えずに、いつ対応してくれるのかと観察していたという意味だろう。そこには「たまたま何かの事情で気がついていないだけで、必要な介護はしてくれているはず」と思い込みたい気持ちもあったのではないだろうか。

しかし、その思いは通じず、「根負け」させてしまったということは、そのホームが利用者や家族に深い哀しみを与え続け、そのことさえも気がついていないという意味である。

少なくとも、家族が「爪を切りたいので爪切りを貸してください。」と言ってきたなら、その時に、利用者の爪はどの程度伸びているのかを確認するのがプロとしての責任だろう。

むしろ「爪を切りますから爪切りを貸してください」と言われたら、それはスタッフの介護が十分ではないことの訴えであると解するべきで、「たまに面会に来た時ぐらい、爪切りでもしたいのね」と考えるのは間違いであることを自覚する必要がある。家族に爪を切ってもらわねばならないことをホームの恥と考えるべきである。

本当はこの方は、「なぜ爪を伸びたまま放置しているんですか。すぐに切ってください。そして今後の対応を改善してください。」と言いたいはずだ。

でも家族はそんなことは言えない。不満を口にして訴えたその場では、謝罪の言葉があり、対応したとしても、そのことでスタッフが気分を悪くしたら、家族の見ていないところで母親が何をされるかわからないという不安があるのは当然だ。

言い方は悪いが、家族にすれば有料老人ホームという場に人質を取られ、その密室の中でおこなわれることのすべてを確認できないという怖さがある。これは我々特養の関係者も人ごとではなく自覚しておくべき家族の「感覚」である。

だから倉敷から帰ってきた翌日の朝礼で、このエピソードを紹介し、家族が施設や施設職員に対して「物言えぬ人」になるのは当然のことであり、そうであるからこそ、物言えぬ人の気持ちを察して、物申すことが普通にできる対応を心がけると共に、家族が気づくことができる程度のことは、一番近くにいるはずの我々の方が先に気づくべきであるという共通認識を持って欲しいとお願いした。

その日のスタッフミーティングでは、それを受けて再度ケアの見直しが話し合われた。

気づきと恥のない介護スタッフは最悪だ。気づきと恥のない介護サービス事業者は最悪だ。

そこは人の暮らしを造らず、誰かの暮らしを壊した場所にあぐらをかいて、自らの生活の糧を得ているという意味で、対人援助が単なる収入を得る手段としか考えられなくなっているという意味である。

たぶんそんな場所に愛情なんて存在してないだろう。伸びた爪を放置し、家族が爪を切るということに対して何の疑問も持たず、その要求を受け入れて終わってしまう施設。そこに見えるものは、一番大事なはずの利用者への「無関心」である。
愛の反対

関心がないから、気づく人になれない。それはケアの現場ではない。そんな介護サービスならいらない。そんな介護職員ならいらない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

続・機会均等思想がケアの質を上げない原因。


ユニット型特養の介護職員から聞かされた愚痴がある。

その方は、非常に素晴らしい感性を持っており、ケアの質向上に取り組みたいという思いが強く、職場の中でいろいろな改革に取り組んでいる素敵な女性である。

しかし一職員であるが故に、組織の中の指揮命令系統という壁にブチ当たって、よいサービスができないという愚痴である。

具体的には、ユニット内での「お茶の時間」に関するものである。その特養では、水分補給を兼ねた「お茶の時間」が決まっているそうだ。そしてユニット内12人の利用者の「好みに合わせて」、好きなものを提供するそうで、その提供するものも、「施設サービス計画書」に具体的に書かれており、新人さんが来ても、実習生が来ても、どの利用者に何を提供するのか、ひと目でわかるようになっているそうだ。

ところがある時、彼女に対して一人の女性利用者の方が、「お茶の時間」ではないときに、「砂糖とミルクが入ったコーヒーが飲みたい」と言ったそうである。その時、フロアでは彼女のほかに、二人の職員が入浴介助に関わって、彼女が全体の見守りや、排泄支援を主に行なっていたそうである。彼女は、利用者の希望に応えて、砂糖とミルクを入れてインスタントコーヒーではあるが、「心を込めて」それを作って差し上げたそうである。

ところがそのことが後で問題となり、看護主任から怒られて、そういうことをしちゃあいけないと言われたそうだ。

・・・普通の人なら、ここまで読んで、彼女がどうして怒られるのかわからないと思うのではないだろうか。そしてそれは極めて当たり前の感覚である。

しかしどうやらこのユニット型特養の看護主任始め、お偉い方々は「普通の感覚」をお持ちでないようである。

彼女の怒られた理由は、まず一つは、入浴介助という忙しい仕事に他の介護職員が関わっている時間帯は、その業務から外れている職員は、フロア内の利用者の緊急的対応も含めて、入浴以外の全対応も任されているんだから、決められた時間に提供している「お茶類」を出す必要性は乏しく、少し待ってもらうように声かけすべきだ、と言われたらしい。そして「たまたまその人一人だけの希望だったからできるでしょけど、他の全員が希望したら対応できないでしょう」「その人だけがお茶の時間以外にコーヒーを飲んでいたら、他の利用者さんがうらやましがって可哀想でしょう」というのだそうである。

この看護主任、できることを考えたり、できることを増やしている職員を評価しないで、自分自身の価値観から一歩もはみ出さずに、、「できない理由」や「有り得もしない想定」を一生懸命考えて、今行なっているサービスから少しでもはみ出すことを恐れる人らしい。これではサービスの質は上がらず、流れが止まった水が澱むように、そのサービスも劣悪化の一途をたどるだろう。

そもそも「コーヒーを飲みたい」という利用者の意思に応えることと、排泄の援助を行うことに、行為の軽重はあるのか?そんなものはない。どちらも大事な行為である。利用者のリアルタイムの思いに対応したサービスを行うことが、「寄り添うケア」の意味だろうし、ユニットケアの基本はそれだろう。全員一律でないところからケアサービスのベクトルは上を向いていくのである。

全員が要求したらどうするって言うけど、究極的には全員の希望や要求に想いを寄せ、それに応えるサービスが求められるもので、その第一歩は、目の前の一人の利用者の希望に想いを寄せて応えることだ。第一歩の踏み出しをやめさせてしまえば、後戻りしかできないではないか。百歩の道も一歩から始まるのだ。その踏み出しをやめさせてどうするのだろう。「他の利用者さんがうらやましがって可哀想でしょう」というのも、他の利用者を思いやっているかのように装おているが、それは真実とは程遠いネガティブな想定にしか過ぎない。実際には、その時間に飲みたくない人は羨ましくもないし、かわいそうな状況にもならない。むしろコーヒーを飲みたいと要求して、様々な理屈でそれを我慢させられる利用者の方が、「可哀想」なのである。

こんな常識的判断さえもできなくなっているというのが、この看護主任及び組織全体の感覚であるとすれば、それはやはり「感覚麻痺」である。その施設の常識は、世間の非常識である。

看護や介護の専門家が雲の上に乗っかり、「規制する人」になってしまえば、介護サービスの現場は専門職という名の絶対君主の自己満足の場にしか過ぎなくなる。そこには暮らしも幸福感も存在しなくなるだろう。そこは我慢するだけの密室である。

制限


ちなみに、その施設では、提供する飲み物の種類が、「ケアカンファレンス(担当者会議)」を経ずして変えられると問題視されるそうである。

誰の思いに寄り添っているのか、サービスの目的をどこに置いているのか、間違っていることに気がつかない恐ろしさを感じざるを得ない。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

機会均等思想がケアの質を上げない原因。


当施設は既存型特養であるが、ケアの対象をできるだけ小規模にするために、施設内を4つのグループに分け、職員の勤務時間等もそれぞれのケア単位に合わせて別に設定し、介護職員もできるだけ固定化してサービス提供している。

便宜上、施設内ではそれぞれのグループをユニットと称している。そしてそれぞれのユニットごとに日常の様々なサービスを独自性を持って決めることを奨励している。そのためユニット内のレクリエーションや行事等もそれぞれの個性に合わせて実施することになるが、そのための費用は、教養娯楽費の中から、「ユニット費」というものを設けて支給している。それは一律公平な配分は行なっていない。年間予算の上限は決めているが、その中で必要な企画に対し、必要な費用をかけるという意味で、その都度必要な費用支給を行なっている。つまりある意味、施設内部で各ユニットごとに、「穏やかなサービス競争」を促しているという意味にもなる。(参照:施設内民族主義とユニット間格差を打破せよ

これから北海道も、夏に向かって暖かい日が多くなる。北海道の短い夏だからこそ、この時期に利用者の方々の外出機会を増やす取り組みが大事だ。それも特別な行事として大掛かりにして、大人数で外出するのではなく、日常の暮らしの中で、地域に暮らす住民として、外出することが大事だ。

そんな中で、釣りを趣味とする方の外出企画書にこんな面白い稟議書があがってきた。

企画書

この方は下肢に障がいのある方で、車椅子を利用しているが、上半身に麻痺はない。若い頃から釣りが大好きであったが、障がいを持ってからは全くその機会が失われていた。様々なアセスメント結果や職員の「思い」から、日常的に釣りをする生活があって良いということで、昨年から外出できる期間に登別漁港まで釣りに出かけるようになった。今年も先日出かけてきたが、釣果はイマイチ。そこでリベンジという訳で、企画名に「釣りを楽しむ(大物を釣る)」と担当者が書いてきた。

真面目な施設長さんなら、「業務文書をなんと心得るか。もっと真面目に書け!!」と怒るかもしれないが、この企画名は、担当者が真剣に、利用者の思いに寄り添って、その思いを実現する具体的方法を一生懸命に考えて書いた結果であると、僕はポジティブに考えている。

こうした一人マンツーマン対応外出や、少人数での外出は当施設においては日常茶飯事だ。この釣りだって、一人の人に、勤務者が2名3時間以上施設を離れて対応することになる。(おまけに公休者も自主的に付き添っているが、これは自身の趣味という側面もあるのだろうと僕は睨んでいる。)

つまりその分、施設内では他の職員に業務負担がかかるということである。よって全職員が、この方が釣りのために3時間以上外出し、それに付き添う職員が施設を長時間離れて対応するということの意味を理解し、協力しなければ実現しないことである。そこには、釣りから帰って見せる利用者の本当に素敵な笑顔をみんな知っていて、そのことが暮らしを送る中で必要なことだという共通理解があるから、皆で協力して、笑顔で送り出すことができるという背景がある。一人一人の暮らしを見つめるケアというのは、こういう当たり前の感覚が前提になってスタートするものだと思う。

この時、せっかくそういう企画を立てても、「他の人が毎日釣りに行きたいと言ったらできないでしょ。」「その人ばっかりに手間をかけて、ほかの人をほおっておいては不公平でしょ。」という、ネガティブな想定と、悪平等意識に基づいて否定する人間が一人でもいると、こういう暮らしは実現しないのである。(参照:悪平等の弊害・平等とは何か。)

一人の人の望みに応えるサービスが可能になって初めて二人目の希望に応えるサービスが実現するのだ。たった一人の人しか望まないことを実現しないと、それ以上のサービスは生まれず、そこかtらどんどん下がっていくだけだ。

全員が釣りに行きたいと言ったらどうするの?などというあり得もしない想定でサービスを考えてしまっては、結局何も出来ない。今できることの最大限を行なって、そこから次のステップに進む方法論を考えることが一番大事だ。仮に今は二人や三人の希望にしか応えられないとしても、そのことを理由にして、応えることのできる人々のサービスさえも行わないというのはおかしい。希望者が多くなれば、時間や日にちを変えて考えれな良いだけの話だ。一歩ずつ前に進まないと百歩目にはたどり着かないのである。

ゴールがいくら遠くても、歩き続ける限り着実にそこに近づけるのだ。ゴールが見えないから歩くのをやめたら、そこで終わりだ。あとは引き返すしかないではないか。その向こうにあるものは、施設の都合に合わせた密室ケアであり、過去の遺物にしなければならないはずの「収容の場」である。

そのことをもっと真剣に考えてほしい。施設でのサービスや、そこで暮らす人々の暮らしは、施設で働く人間お都合で創る「施設サービス計画」によって決められるのではなく、そこで暮らしを送る人々によって決められるものであるはずだ。そうしないと施設サービスはいつまでも、「必要悪」と偏見を持って見られれしまう状態から脱皮できない。

本当の暮らしを作るケアを考えて行こうよ。

追伸:この方の25日のリベンジは、またしても空振り。小さな砂ガレイ一匹という釣果で、「ダメだ!!」とおしゃってましたので、次の機会を今か今かと伺っております。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

施設見学を依頼された場合の僕の姿勢


今日午後6時30分から東京都町田市で講演を行うため、現在新千歳空港で記事更新しています。飛行機の出発は、13:30です。町田周辺の雨は上がったでしょうか?会場でお会いする皆さん、気をつけておいでください。

ところで今日は、今週初めにも施設見学を依頼されたこともあって、施設見学に対する僕の考え方をあらためて示しておきます。決して施設見学を否定しないし、拒むものではありませんが、過度な期待をしないでくださいという意味です。

施設を見学するという目的ではなく、僕に逢いに施設に来られるというのは、それとは別の問題で、そのことは大歓迎です。その際は、僕の勤務する場所を案内するという意味で、施設内をご案内しますが、最初から施設を「見学」するという目的の訪問は、少し引いちゃうんです。

施設見学は拒みません。ただしできるだけ少人数で、利用者の生活上の障害にならないように、ぞろぞろ施設内を眺めて歩くようなことは避けて欲しいと思います。ここは暮らしの場所で、誰かに「眺められる」というのは日常ではないし、見学される「暮らし」など、本来ありえないのです。

施設見学は拒みません。しかし緑風園は、特別な設備もない古い既存型施設ですから、設備上参考になるものはありません。関連法人のユニット型施設を見たほうが、設備・環境面では参考になる部分は多いでしょう。

施設見学は拒みません。しかしそれが勉強になるとか、参考になるとは思わないでください。1ケ月滞在してみれば何らかのことはわかるかもしれませんが、通行人としてご覧になっても真実や実態はわかりません。見学するにしても、できるだけ短い時間で我々の仕事の邪魔にならないようにして欲しいです。

施設見学は拒みません。しかし施設見学をしたから何か新しい知識が得られると期待しないでください。少なくとも私は、見学者に見学するという行為だけで何かを与えることは出来ないと思います。そんな能力を持っていないのです。

施設見学は拒みません。しかし評論をしないでください。施設に数時間滞在しただけで私たちのことを分かるなんてことはないんです。わからない知識での評論家を私たちは求めていません。

施設見学についての考え方は、「施設見学への複雑な心境」、「民生委員さん考えてくれました」の中で、ほぼ意見を集約して書いているので参照してください。

施設は暮らしの場ですから、本来、「見学」するのではないことを理解してください。学習のため「訪問」して、その中で情報交換する、という程度だということを忘れずいてください。そう言う意味でのお客様としておいでください。

観光ついでの出張のアリバイ作りの訪問は迷惑です。でもそうであるかどうかはこちらではわかりませんので、訪問者自身の良心にそのことは任せますから、自己申告でお願いします。

以上です。生意気言って申し訳ありませんが、特養が利用者のみなさんの暮らしの場であってほしいと願い、それを目指す立場から、特養は見学対象となるのが当たり前だという誤解をなくしたいのです。そのことをご理解ください。

さて今日は金曜日で、明日と明後日は記事更新をしませんので、ついでに今日以降、7月までの僕の講演予定を下記に示しておきます。お近くの方は、時間と都合がつけば、ぜひ会場にお越しください。

デスクトップ3《参考:今日以降7月末までの講演予定
24年6月22日(金)18:30〜20:30 
手をつなぐケア・ハートコミュニティ研修:町田市民ホール第4会議室
テーマ「傍らにいることが許される者になるために〜転換期において求められる介護と福祉とは何か

24年6月26日(火)15:00〜17:00
倉敷市介護保険事業者等連絡協議会総会:くらしき健康福祉プラザ
テーマ「傍らにいることが許される者になるために〜転換期において求められる介護と福祉とは何か

24年7月6日(金)14:00〜16:00
福島県介護支援専門員協会主催講演会:郡山市民文化センター
テーマ「人を語らずして介護を語るな〜介護サービスの常識を問い直そう〜

24年7月16日(月:海の日)14:00〜16:00
青森県社会福祉士会主催、ソーシャルワーカーデー:アピオ青森
テーマ「これからの社会福祉士および相談援助職に求められるもの

24年7月21日(土)15:00〜17:00
土岐・瑞浪ケアマネ連絡協議会研修会:ウエルフェア土岐
テーマ「法令を遵守した自立支援プランの作成方法

24年7月28日(土)10:00〜12:30
愛媛県老施協研修:エスポワール愛媛文教会館
テーマ「介護施設における看取り介護〜最期の瞬間まで自分らしく生きたい〜

24年7月28日(土)14:00〜16:30
愛媛県地域包括支援センター協議会・ケアマネ部会研修:エスポワール愛媛文教会館
テーマ「法令を遵守した自立支援プランの作成方法〜ケアマネジメントには何が求められていくのか〜

以上、よろしくお願いします。

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介護・福祉情報掲示板(表板)



それでも春はやってくる

Shanさんのブログに、「第2回介護支援専門員の資質向上と今後のあり方の関する検討会」の傍聴記が掲載されている。各種審議会を毎回傍聴するだけでも大変なのに、いつもリアルタイムにその情報を提供してくださる彼には最大限の敬意を払わねばならない。だから久しぶりに会えばハグしちゃうんだよな。

ところで、今回の傍聴記を読むと、日本福祉大学の野中構成員のプレゼンがなかなか説得力があって興味深いのであるが、発言の最終場面でこんなことをおっしゃられている。

『2000年の時に、わが国は「走りながら修正する」とお約束したはずなんですが、結局何も修正しなかったと。これ修正したのにどんどん悪くなっていったというのが、私の感覚でございます。』

この感覚は、多くの関係者が頷けるものだろう。介護保険制度は完璧な良い制度ではないが、5年を一期として所要の見直しを図って「改正」していくものなのに、実態は「制度はどんどん悪くなっている。」のである。報酬改定のたびに報酬算定コードはどんどん増え続け、複雑怪奇な加算ルールによって、利用者にそれは非常に理解困難なモノになっている。

制度自体も利用者の暮らしをよくしてないじゃないか。机上の倫理で、認知症ケアや、重介護者のセルフケアの向上なんてできるわけがない。

地域包括ケアシステムって言ったって、そんなものどこにあるんだという程度で、概念あって、サービスなしという実態だ。仮に24時間巡回サービスが近くにあったとしても、それが本当に在宅者を地域で生活できるような基礎的サービスになっていくのかは大いに疑問だ。だってそのサービスを利用したところで、重介護者の主介護者は家族じゃないか。それが全然変わらないじゃないか。

だからこの制度の改正議論を行なっている介護給付費分科会は、結果として失敗し続けているということになる。改正という目的が、結果的に野中構成員のいうように「修正したのにどんどん悪くなっていった。」という結果であるなら、この委員会は責任を取らねばならない。それなのに誰一人その結果を認め、責任を取ろうとしない。同じメンバーで次期報酬改定が議論されるなら、その結果も同じだろう。困ったものである。

しかも新設された「平成24 年度介護報酬改定検証・研究委員会」という検証委員会は、7人の委員のうち、過半数を超える4名が介護給付費分科会の委員である。改正議論を行った当事者が過半数を占める検証委員会に客観的評価ができるわけがない。お手盛りシャンシャンで終わるか、自画自賛して世間の失笑を買うだけだろうに。

世間一般の評価に耳をふさいで、一部の感覚のおかしい人々の評価を世論と勘違いしてどうするんだろう。

そんな奇妙な制度の中で我々のサービス事業は展開されている。しかしその根っこは、福祉事業であるということを忘れてはならない。

介護保険は社会保険になったから社会福祉じゃないなんていう馬鹿な理屈に付き合ってはいけない。社会保障構造改革の中で、社会保険方式を取り入れた高齢者福祉サービスだっていわれ、国民はそれを受け入れたことを忘れちゃあいけない。

だから僕らは、どんなに制度がおかしくなっても、介護報酬が減ったとしても、我々の係る利用者の幸福度や満足度を低めるサービスにしてはいけないのだ。我々が関わることで逆に不幸を作り出してしまうようなら自ら身を引かねばならないだろう。

我々の周囲に、利用者の笑顔があふれる日常を作り出すことに知恵を使わないなら、世間から馬鹿と言われても仕方ないだろう。

どんなに愚痴をこぼしたところで、嘆いたところで暦はめくられていくのだ。季節は巡っていくのだ。立ち止まって停滞している暇はない。
八重桜

緑風園にも春が来て、この八重桜が散る頃には、初夏の風も少しだけ感じられるかもしれない。この風が、すべての利用者に心地よく感じられるケアを続けて行かねばならない。難しいことを考える前に、日常をきちんと常識的な感覚を忘れずに創っていかねばならない。

特養だって地域の中の社会資源だ。特養が地域ケアではないなんてことはない。そのためには特養の利用者が地域社会の息吹を肌で感じられるようなサービスをしていく必要もある。

そういえば、先日白寿を迎えられたMさんが、家族がお祝いをすることになって、登別温泉のホテルに1泊してきた。送り迎えは当然施設の送迎で行なったのだが、家族はホテルからまっすぐ登別駅に向かって自宅に帰ったため、ホテルの玄関でMさんとお別れした。その際、迎えに行った職員の話によると、Mさんが車に乗り込む時に家族にかけた言葉は「もう今日はビール飲めんぞ」だったそうである。その言葉を聞いて、集まった家族も、送迎付き添い職員も大笑いでホテルを後にしたそうだ。

白寿というのは99歳である。その年齢まで家族にお祝いされ、ビールを「もう今日はいらない」と言うまで飲んできて、家族と笑い合える日常があるなんて素敵だ。我々が少しだけお手伝いすることで、そういう暮らしが100歳を過ぎても続けられることを信じて、日々真摯に関われば良いだけだ。制度の中で埋没しないケアを作っていくだけだ。

イベントでアピールする福祉ではなく、日常をきちんと作る福祉サービスが大事である。日常をきちんと作りケアが大事である。日々これ満足、と言われる暮らしの支援をしていきたい。

先ほど、出版社から「白本の第5刷の増刷が決定しました。おめでとうございます。本当にすごいですね・・・」というメールを頂いた。これもひとえに、僕を応援してくださる読者の皆さんのおかげです。本当にいつもありがとうございます。心より感謝を申し上げます。新刊・黒本も現在第2刷発売中です。こちらもよろしくお願いします。


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介護・福祉情報掲示板(表板)

気づいてる?特養の療養給付変更。

診療報酬の改定にともない「特別養護老人ホーム等における療養の給付の取扱いについて」も改正された。

これは特養にとっても知っておくべき大事な通知なので、僕のサイトではトップページからテキストファイルにリンクできるようにしている。そのファイルを更新していて気がついた事がある。

それは今回の診療報酬改定で次のルールが新たに加えられている点である。(新たに加えられている部分を赤く表示している。)

4 養護老人ホーム、特別養護老人ホーム、指定短期入所生活介護事業所、指定介護予防短期入所生活介護事業所、指定障害者支援施設、指定療養介護事業所、救護施設、乳児院又は情緒障害児短期治療施設(以下「特別養護老人ホーム等」という。)に入所している患者については、次に掲げる診療報酬等の算定の対象としない。

(一部略)
在宅患者訪問診療料
ただし、特別養護老人ホームの入所者については、以下のア又はイのいずれかに該当する場合には在宅患者訪問診療料を算定することができる。なお、当該患者について、介護福祉施設サービス又は地域密着型介護老人福祉施設入所者生活介護に係る看取り介護加算(以下「看取り介護加算」という。)を算定している場合には、在宅ターミナルケア加算及び看取り加算は算定できない。
ア当該患者が末期の悪性腫瘍である場合。
イ当該患者を当該特別養護老人ホーム(看取り介護加算の施設基準に適合しているものに限る。)において看取った場合(在宅療養支援診療所、在宅療養支援病院又は当該特別養護老人ホームの協力医療機関の医師により、死亡日から遡って30日間に行われたものに限る。)

特定施設入居時等医学総合管理料
ただし、特別養護老人ホームの入所者については、以下のア又はイのいずれかに該当する場合には特定施設入居時等医学総合管理料を算定することができる。なお、当該患者について、介護福祉施設サービス又は地域密着型介護老人福祉施設入所者生活介護に係る看取り介護加算(以下「看取り介護加算」という。)を算定している場合には、在宅ターミナルケア加算及び看取り加算は算定できない。
ア当該患者が末期の悪性腫瘍である場合
イ当該患者を当該特別養護老人ホーム(看取り介護加算の施設基準に適合しているものに限る。)において看取った場合(在宅療養支援診療所、在宅療養支援病院又は当該特別養護老人ホームの協力医療機関の医師により、死亡日から遡って30日間に行われたものに限る。)

↑この部分である。本来、特養利用者には算定できない「在宅患者訪問診療料」「特定施設入居時等医学総合管理料」について、例外的に算定できる要件にアの「末期がん」に加えて、イとして「当該患者を当該特別養護老人ホーム(看取り介護加算の施設基準に適合しているものに限る。)において看取った場合(在宅療養支援診療所、在宅療養支援病院又は当該特別養護老人ホームの協力医療機関の医師により、死亡日から遡って30日間に行われたものに限る。)」が新たに加えられているのである。

今までの同通知文と比較してみよう。

従前の在宅患者訪問診療料は、「末期の悪性腫瘍であるもの(介護老人福祉施設又は地域密着型介護老人福祉施設入所者生活介護に係る見取り介護加算を算定している場合の在宅ターミナルケア加算及び「注4」のただし書きき規定する加算を除く)を除く。」としかされていなかったし、特定施設入居時等医学総合管理料は、「特別養護老人ホームの入所者であって、末期の悪性腫瘍であるものを除く。」としかされていなかった。今回それにイの規定が加えられている。

これにより看取り介護加算対象者の死亡前30日間については、協力病院等から特養への医療保険訪問診療を行なって、診療報酬を算定できることになる。これは従前までできなかった取り扱いである。

しかしここでふと気がつくことがある。当該診療報酬の算定要件は「死亡日から遡って30日間に行われたものに限る。」という条件付きである。すると見取り介護だからといって、診療報酬が算定できるからと思い込んで、訪問診療を行なっていても、死亡日から30日を超える以前の対応については報酬算定ができないということになる。

するとこれはかなり死期が確実に迫っていると確定できるケースだけを対象にせざるを得ないということになるだろうか。

どちらにしても、この改定は医療機関だけではなく、特養関係者もきちんと把握しておく必要があるだろう。これによって「看取り介護対象者」の死亡日までの30日間は、施設所属医師の診療に限らず、外部の医療機関から訪問診療を受けることが可能になったという意味なのだから。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

特養に求められているもの、アピールすべきもの

今月18日(金)兵庫県加古川市で行われる兵庫県東播磨ブロック老人福祉事業協会総会において「これからの時代の介護老人福祉施設はどうあるべきか。〜改訂報酬から考える居宅介護支援・通所介護・特養のあり方」というテーマで90分の講演を行う予定である。(参照masaの講演予定

その講演ファイルは、ゴールデンウイーク後半に入る前に作成し事務局に送ったが、今回お話することは、厳しい新介護報酬のなかで、どのような事業運営を行うかということだけではなく、我々介護老人福祉施設が今後どのような方向に向かっていく必要があるのかを示す内容にした。

その意味は、このままでは広域型の特養は、国民のニーズとは一致しない、いらないサービスであると誤解され、次の報酬改定でも厳しい状況が変わらないのではないかという危惧があるからだ。

税と社会保障の一体改革

上の図は国が示している「社会保障と税の一体改革」資料のなかで示されている地域包括ケアシステムを中心とした、地域サービスの将来像であるが、この中に「特養」は含まれていない。

よく見ると、その中心には「サービス付き高齢者向け住宅」が位置づけされ、グループホームや小規模多機能居宅介護がそれを補いながら、24時間巡回サービスを中心にした居宅サービスがこのシステムの基幹になっている。

しかし本当に特養が存在しないで、地域住民が必要なサービスを受けて暮らしが成り立つ「地域」が実現可能なのだろうか?サービス付き高齢者向け住宅や、グループホームへの住替えはよくて、特養への住替えはなぜダメなのだろうか?

おそらく国の考えでは、施設サービスの中でも、広域型の特養は地域密着型ではないという理由だけでダメ出しをしているのではなく、「暮らしの場」として機能していないから質の低いサービスであると考えているのだろう。だからそこは地域包括ケアシステムの中では存在意義がなくなるという意味だろう。

我々特養関係者は、そのことに答えを出していかねばならない。つまり広域型の特養であっても、多床室であっても、高齢者の暮らしの場として必要な支援が行われているということを、実際のサービスで証明し、それを世間にアピールしていく必要があるだろう。

しかし特養関係者は、このことに対する危機感や、その対策についてあまりに関心が薄すぎるのではないかと思うことが多い。ここは意識改革が必要ではないだろうか。

例えば、本日付のキャリアブレインには、次のようなニュースが配信されている。
(5/7キャリアブレインニュースより転載 )
全国特定施設事業者協議会(特定協)はこのほど、介護付有料老人ホームなどの特定施設でのケアマネジメントの在り方に関する報告書をまとめ、公表した。特定施設を「施設」ではなく、「住まい」や「居宅」としてとらえ、ケアマネジメントすべきと提言している。

報告書は、2011年8月から4回にわたって議論してきた特定協の「特定施設におけるケアマネジメントに関する研究会」が取りまとめた。

報告書では、▽職員の出勤時間や出勤人数によって、入居者の起床時間が決まっている▽食事時間が一律になっている▽希望を聞かずに、入浴時間が決められている―といった、施設側の都合を優先したケアマネジメントを行うべきではないと指摘。特定施設は入居者の住まい、居宅であるとして、「入居者一人一人の生活を、個々にとらえたケアマネジメントを考えなければならない」としている。

また、ケアプランの作成に関しては、入居者の人生や生活を振り返る必要性を挙げた上で、「家族の希望優先ではなく、入居者の希望を第一に考えたケアプランにしなければならない」と強調。作成したケアプランは、家族だけでなく、入居者に説明し、同意を得ることが必要とした。このほか、ケアプランの修正に当たっては、ケアマネジャーのみで決めるのではなく、家族や友人、介護職員、看護職員、主治医など、多くの関係者の情報を基に、検討する必要があるとしている。

(転載ここまで)

特養も全く同じことが言えるのである。利用者の個別のニーズに対応した暮らしを作っていくことが求められているのである。その選択の意味は、終生介護を受けられるという暮らしの場ということであり、「看取り介護」のあり方は重要になるのである。

サービス付き高齢者向け住宅協会 の橋本会長は、自らがCEOを勤めるメッセージという会社が、TOBの成立によりジャパンケアサービスを子会社化した際に「高齢者が生きがいを持って暮らせる環境をつくり、それを持続していくためには、自宅でも施設でもどこに暮らしていても必要なケアが提供されるシステムが求められる。”住まいとケアの分離”が必要になる」と発言している。

僕は「住まいとケアの分離」がなぜ「高齢者が生きがいを持って暮らせる環境をつくる」結果となるのかということについて、意味がよくわからないが、我々特養関係者は、逆に「住まいとケアが一体化しているサービスのメリット」をきちんとエビデンスとして作り上げ、実際にそのメリットを生かした個別プランを作成し、質の高い暮らしを作っていかねばならない思う。

24時間地域巡回型訪問サービスのあり方検討会報告書の49頁(主な利用者タイプ毎のケアのあり方G嘶)には「排泄は昼夜に渡り最も頻度の高いケアであり、本人のペースで行うことが望ましいが、トイレやポータブルで行う場合、突発的な尿意・便意等に随時訪問が間に合わないような状況を出来るだけ回避するため、適切なアセスメントに基づき、本人の日常的な排泄のタイミングを把握した上で、定期訪問のタイミングを決定することが重要ではないか」と書かれている。

しかし普段とは違う突発的尿意まで把握できる神業アセスメントは存在しない。

だが施設サービスは「住まいとケアが一体化している」ゆえに、利用者の動きを五感で感じることで突発的尿意に対応できるエビデンスを作ることができるのである。

逆にいえば、そのメリットを生かせない施設、利用者の息づかいを感じられないケア、利用者の様々な変化に気づかないケアであれば、それはいらないサービスということになってしまう。

24時間巡回サービスにできないエビデンスを作り上げていくことが、今後の特養に求められていることである。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

できることを最大限したのだろうか

僕は普段12時間くらい施設で過ごすことが多い。

朝7:00少し過ぎくらいには施設に着いて、帰りの時間が19:00くらいになることが多いからだ。

だから普段の日は、朝利用者の方がホールで食事をしている時間に出勤し、夕食を終えて部屋に向かう人が多くなる時間に施設を後にすることになる。昼食時間も当然僕が施設内にいる時間だ。つまり僕が出勤している日は、利用者の皆さんが3食の食事を摂っている様子を確認できるということになる。

僕が一番長くいる場所は「施設長室」というスペースであるが、ここは正面玄関を入ってすぐ左手の場所で、大ホールに隣接している。僕がそこにいるときは、来客中以外はドアを閉めていることはなく、ドアは常に開いている。

だからこの場所で、食事の時の配膳の音や、食事の匂い、利用者の方々が食べている際の空気を感じることができる。直接利用者の方々の支援行為に関わることがなくなって久しい僕にとって、そこで利用者の皆さんの息づかいを感ずることは、とても大事なことである。

ところで、「奇声を発する人の心」という記事で紹介したKさんが先日亡くなられた。享年93歳。

Kさんが大きな声を出さなくなることは最後までなかった。入園された頃より、声を出すことは少なくなったとは言っても、何かの拍子に叫び声を発することはなくならなかった。まったくその理由がわからな声出しもなくならなかった。僕らは最後まで正答を見つけられなかった訳である。

僕は毎日のように、施設長室でKさんの声を聞き、職員の応ずる声を聞き、時にはKさんのもとにそっと近づいて声をかけたりしていた。

Kさんの声は、施設長室で聴いても大きな声であったから、周囲の人々にとって、それは騒音・迷惑以外のなにものでもなかったろう。時には同じテーブルに座っている人が「うるさい」と怒鳴ることもあった。しかしそういう時でも、職員はKさんに対して概ね適切な対応と声掛けをして、Kさんが落ち着いて食事を摂れるように誘導していたと思う。そのため周囲の人々も、Kさんに対して、過度の暴言や不適切な暴力に至ることは無かった。

他の利用者の方々が、認知症の方に対してどのような態度で接するかということについて言えば、それは職員が認知症の方に対して、どう接しているかが大きな影響があると思う。

職員が乱暴な声掛けや対応をしておれば、利用者の方々がそれ以上の不適切な態度で臨むのは当然である。職員が認知症の方に対していたわりの気持ちを持ちながら、適切な態度で接して初めて、他の利用者の方々も認知症の方を守ってくれるのだと思う。

つい最近ニュース映像に流れた、入浴の際の着替え介助の際に乱暴な言葉を投げかけ、服を引っ剥がすように逃がせていた施設の中では、周囲の誰もがそうした態度で接しても許されるんだと勘違いするだろう。やがてそれは感覚麻痺を生み、様々な場面で「施設の常識は、世間の非常識」という状況を作り出すだろう。さらにそれは、将来的には自らの身に降りかかってくる問題なのかもしれない。

少なくとも僕の施設でそういうことはないと思うが、残念ながら何度指導しても日常的に「丁寧語」を使えない職員も存在する。決して乱暴な言葉遣いをしているわけではないが、いつまでも丁寧語を使えない職員が存在する。言葉が介護の割れ窓になるということをいつになったら理解できるのだろうか。残念ながら現状はそういう職員はそういうスキルなのだと勤務評定せざるを得ない。

Kさんの話に戻そう。その大きな叫び声は、確かに「うるさい」と感じる声であったし、その声をほぼ毎日聞いていて、時には(特に大事な書類を作っている時など)僕自身も心の中で「うるさいなあ」と感じる時もあったが、今、Kさんの声を全く聞くことがなくなって感じることは、説明できない寂しさである。

勿論Kさんが声を出しているときは、Kさんにとっては、小さな危機の訴えであったり、他者がわかってくれないことのいらだちであったり、Kさんにとって良くない状態であったことは間違いない。

だからKさんが声を出さなくてすむ状態を作ることが、一番求められていたことであろうし、その答えは最後まで出せなかったことにおいて、我々は充分な支援ができなかったと評価されて仕方ないだろう。

今考えるとその声は、「私のことをもっと見て」・「私のことをもっとわかって」というKさんの魂の叫びであったと思う。Kさんにとっては命の叫びであったろう。

僕の心のどこかには、その叫びを聞きながら、どういう答案を書こうかと日々想像する日常をやりがいと感じていた部分があるのかもしれない。だから今、一抹の寂しさを感じながら静かな日常を過ごしている。

でも時々Kさんの声が聞こえるような気がしている。その時僕は「我々はKさんに対して、我々ができ得る最大限のことをしたのか」と自問自答したりしている。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

新年度のスタートにあたって

今年は4月1日が日曜日になっているため、今日2日を入社式としている事業者も多いだろう。

当施設でも、辞令交付式を本日朝行った。

そこでは新入職員へ向けた新たな旅立ちに当たってのお祝いの言葉を贈ると同時に、今年度に限って言えば、大幅に引き下げられた介護給付費により、3年間の施設運営は大変厳しくなるという状況説明と、その中で職員全員が介護の質を落とすことなく、無駄な経費の削減に向けた意識を高く持っていかなければならないことを説明した。

希望を胸にいただいた新入職員にとっては、現実の厳しい状況を耳にすることは「冷や水」を浴びせられることに等しいかもしれないが、スタッフの一員として、良きも悪しきも、現状認識を正確に持つことは必要である。

今後3年間は、直接ケアに関係しない間接的経費をいかに削っていくかは重要な課題だ。不必要な光熱費をできるだけ抑える職員全員の取り組み等、無駄な経費の削減策は各施設で精査すべきである。施設全体で皆の力を結集して荒波を超えるという共通認識が求められる。そのため、厳しい情勢にあることと、コスト削減意識を高めるための管理者の説明責任は、より重要になるであろう。

現場の看護職員や介護職員、調理員等が、そんなの管理者の仕事と「我関せず」では困るのである。

このことは今までも会議等で、何度も繰り返しアナウンスしてきたが、新年度のスタートのこの時期に、今一度職員の覚悟を促したという意味がある。

しかし同時に、我々は地域の中の特養の枠割を再確認して、我々のサービスによって、きちんと暮らしを守ることが地域における「介護の最終的なセーフティネット」の役割を果たすことに繋がるし、それこそが特養の存在意義であるという意識付けも重要だ。

特養の職員が、施設軽視という意識を打破して、自らの所属事業に誇りを持つことが一番大事である。自らの所属する事業が社会から必要悪のように認識されていると感じてしまえば、そこでモチベーションは高まらない。そのためにも我々のサービスの意義を明確にして、それに沿ったケア理念を確立し、サービスの質をより一層高めることで、存在意義を示していかねばならない。

地域包括ケアシステムの中で、広域型特養は過去の遺物としてなくなるのではなく、終生施設として地域になくてはならない「要介護高齢者の住まいの一つ」という機能を強化し、そのことを地域にアピールしていかねばならない。その中でサテライトとして地域の中に機能を分化させていく取り組みも必要であるが、そうであるがゆえに、その基盤として本体施設の機能強化や安定した運営はより一層重要視されなければならない。

看取り介護の質向上は、そう言う意味でも重要となるが、それは看取り介護期という特別な時期のサービスの質を意味するのではなく、利用者が我々の施設を「暮らしの場」と受け入れることができ、その場所を「人生の最後まで過ごす場」として選択し得る日常のケアサービスの質担保を意味するものである。

利用者がどのような理由で特養に入所しようとも、それが利用者本人の思いではなく、家族の都合による入所であろうとも、我々が利用者を受け入れ、スタッフとして関わる瞬間から、それらの人々の様々な思いに寄り添い、利用者にとって信頼できる存在となり、そのことを含めて、利用者が「望まない入所」であったとしても、結果として「ここに住めて良かった」と思え、「最期まで、ここに住みたい」と思える場にしなければならない。

以前にも書いた内容の繰り返しになるが、我々のサービスは、今年度から作られる「24時間巡回サービス」にはできないケアを実現していかないと、その存在意義が薄れる。住まいの機能とケアの機能を切り離した巡回型サービスでは達成できないサービスの質を作っていかねばならない。

暮らしの場という「利用者の息吹」を感ずる場所でしかできないことは、例えばアセスメント不能で、突発的な尿・便意にも対応できることであり、臨機にサービスの提供時間や方法を、利用者の体調やニーズに合わせて臨機応変に変えて対応することであり、表情からくみ取る感情に適切に寄り添うことである。

だから我々スタッフには、より一層「気づくこと」が求められるし、「想像し創造する」ことが求められるのだ。頭と体と五感を使ったケアが求められるのだ。そこでエビデンスを作っていくことが大事だ。

全国老施協のいう「科学的ケア」とは、利用者のニーズに適切に対応して、トイレで排泄するという普通の暮らしを作ることで、必要のないオムツを使わず、オムツ0のエビデンスを作っていこうという意味だとしたら、それは方向性としては正しいと思う。

しかしそれを「科学的ケア」と称するのは違和感しか覚えず、一般の市民が理解できるスローガンではないだろう。

もう少しセンスある言葉を使ってもらいたい。「エビデンスを作るケア」のほうがずっとましだと思うのは僕だけだろうか。


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介護・福祉情報掲示板(表板)

続編・施設サービスのトランポリン効果理論(その2)

施設サービスのトランポリン効果理論その1からの続き)

全国老施協の、「第8回正副会長・委員長会議(拡大)」(1/17開催)において、中村博彦常任顧問・参議院議員は『厚生労働省のつくったペーパーの中にある、「医療・介護の提供体制の将来像」という図を見ると、昨年6月までは特養・老健施設が地域包括ケアの中に存在していたが、昨年12 月のペーパーでは特養、老健施設はなくなっている。これをみなさん黙っているのですか。深刻な認識を是非していただきたい。』と発言した。

その新旧資料はまだ確認できていないが、特養も「地域包括ケアシステム」における「住まう場所」としての社会的コンセンサスを得られるようにしなければならない。その具体的な方向性を示す目的も含め、昨日の記事の続編として今日の記事を書く。

特養に入所することで、利用者自身の暮らしが再生され、より豊かな暮らしを営むことができることを仮に「トランポリン効果」と呼ぶこととする。(一般的には広がっていない言葉だろう)それは特養で暮らしが再生された結果、自宅に戻ることができる状態となり得るという意味をも含んでいる。

つまり利用者の暮らしの再生の先には、当然「以前の自宅に戻ることができる状態」という意味での在宅復帰が視野に入れられてよいだろう。しかしその状態に再生できた諸条件の中には、特養のケアそのものの効果と、特養の環境という要因も含まれているので、身体や精神の状況が改善したからと言って、即自宅に戻ることができるというのは早計である。そこには再生した暮らしが継続できる条件が備わっているかというアセスメントが不可欠になるだろう。

そもそも特養も「住まう場所」の選択の一つであると考えれば、自宅の戻ることが、特養に住み続けるより質の高い暮らしの選択ということにはならず、自宅へ戻るということのみを目的や目標にすることは、既に古い偏った価値観にしか過ぎない。

昨日の記事に書いたように、居宅サービスか、施設サービスか、という概念は、既に必要のない概念で、住み慣れた地域で暮らし続けるという意味自体が「自宅での暮らしの継続」に限らないことを鑑みれば、地域の中で、自宅で暮らし続けるのか、サービス付き高齢者向け住宅等へ住み替えるのか、グループホームや特定施設に入所して暮らすのか、特養に入所して暮らすのかという選択は、それぞれの暮らしをどこで最も豊かに営むことができるのかという選択とイコールであり、その場所で「暮らしが再生」されるのだとしたら、自宅への再度の住み替えを考慮しなくとも良いという選択肢もあり得るのである。

自宅で暮らし続けるだけが高齢者の幸福であるという価値観は、現在のような人口が減少し続ける中での超高齢社会にはマッチしない。なぜなら、そこではかつて高齢化率が一桁で、人口増加社会の中で造られたコミュニティが崩壊していくという社会情勢が存在するからだ。これは人口減少による必然の結果で、地域単位の縮小は、システムで改善することは不可能だ。限界集落が全国津々浦々で増加する現在、コミュニティの再生は、住み替え促進による生活圏域の縮小・再編成でしか実現できない。政治家はこのことをもっと明らかにして、住み替え策や生活圏域の縮小政策を掲げるべきだ。

高齢者の住まう場所の選択は、その中で多様な選択肢を造りながら、コミュニティとしては範囲を絞って新しい地域づくりが求められるのである。地域によっては3人に一人、あるいは2人に一人が高齢者である場合があり、そのようなコミュニティで、実際に必要な保健・医療・福祉サービスが充分に提供可能かと考えた時、人の命と暮らしを守るサービスが適切に提供できる量には限界があり、その守備範囲も限界がある。そう考えれば生活圏域を地域として再生する視点が政策として求められ、その中に特養という終生施設の存在意義を求める視点が不可欠である。そして特養の経営者や職員は、そのニーズに応えるためのサービスの質を創り上げていく社会的責任を負う必要がある。

よってトランポリン効果というのは、単に自宅に帰るために、利用者の能力アップを図るものではなく、社会的な存在としての利用者の暮らしを再生するというところに存在する概念だと思う。

ただしショートステイの場合は、今回論じたトランポリン効果は、より具体的に施設の支援効果を在宅に繋げるという形で、その実効性が求められるであろう。

ショートステイが単に、利用者を一時的に滞在させ、その間に在宅の主介護者が休養できるというレスパイトケアだけを目的とせず、ショートステイというサービスを利用することにより、介護サービス現場で専門家が介入することにより、在宅介護に役に立つ必要がある。

そのことは「ショートステイプラン目標の考え方。(その1)(その2)」の中で、ショートを利用する人々に提供するサービスの方法論は

1. ショート利用することで利用者が心身活性化でき精神的・身体的に安定して暮らす方法論
2. ショート事業所で身体機能等を活用して自分でできることが増える方法論
3. 介護の方法を工夫することで利用者自身や家族の負担が減る方法論
4. ショートを利用して、看護や介護の専門家が関わることで可能となる助言
5. 利用者自身の暮らしの質が向上するための方法論

以上の5点であると指摘している。この方法によって、在宅で家族支援が容易になることも、ショートステイのトランポリン効果と言え、その機能がもっと重視されて、居宅サービス計画に位置づけられる必要があるだろう。

そういう意味では、居宅サービス計画を立案する介護支援専門員のモニタリングの視点に、このトランポリン効果の検証という視点も求められてくるであろう。

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施設サービスのトランポリン効果理論(その1)

介護保険法はその第1章において総則を定めている。

その第2条において「介護保険は、被保険者の要介護状態又は要支援状態に関し、必要な保険給付を行うものとする。」とし、さらに4項では「第一項の保険給付の内容及び水準は、被保険者が要介護状態となった場合においても、可能な限り、その居宅において、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように配慮されなければならない。」としている。

つまり保険給付は「可能な限り、その居宅において、日常生活を営む」という目的があるとしている。

この第2条4項規定が、いわゆる「在宅重視」という介護保険の理念を表すものと解釈されている。

このことについて指定居宅介護支援等の事業の人員及び運営に関する基準では、
(基本方針)
「第一条  指定居宅介護支援(介護保険法 (平成九年法律第百二十三号。以下「法」という。)第四十六条第一項 に規定する指定居宅介護支援をいう。以下同じ。)の事業は、要介護状態となった場合においても、その利用者が可能な限りその居宅において、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように配慮して行われるものでなければならない。 」とした上で、老企22号解釈通知では『基準第1条第1項は、「在宅介護の重視」という介護保険制度の基本理念を実現するため、〜』とし、「在宅介護の重視」という言葉が使われている。

しかし僕はこの「在宅介護の重視」という表現に異を唱えている。なぜなら「在宅介護の重視」は「施設介護の軽視」と同義語であるからだ。本当に施設サービスと、そこでの介護は軽視されて良いのかという異議である。

このことについて以前に「介護保険法第2条4項をどう読むか」というブログ記事を書いて、その中で、域福祉というものは、居宅サービスと施設サービスが車の両輪の役目を果たしているものであり、そのどちらが欠けても安定走行ができなくなるものである。それは居宅で生活している人が、何らかの理由で、その状態が難しくなったときに、施設サービスがその後の安心を保障します、という意味であり、決して「施設軽視」であったり、施設を「必要悪」としてはならず、第2条4項は「在宅重視」ではなく、「在宅優先」と読むべきであると主張してきた。

つまり施設サービスは地域福祉の中で、介護の最終的セーフティーネットであるという主張である。

この考え方は基本的に変わっていないが、少しだけその考えに付け加えたいことがある。なぜなら、いくら施設サービスが地域福祉の重要なパーツだと主張しても、現実には介護保険制度改正や、その他の政策誘導により、特養や老健はますます軽視される方向に向かっているからである。

本年4月からの介護保険制度改正の主たる目的は、できる限り住み慣れた地域で在宅を基本とした生活の継続を目指す地域包括ケアシステム(医療、介護、予防、住まい、生活支援サービスが連携した要介護者等への包括的な支援)の構築に取り組むことであり、その具体策として切れ目のない在宅サービスにより、居宅生活の限界点を高めるため、24 時間対応の訪問サービスや小規模多機能型サービスなどを充実させるとされている。まさに「在宅介護の重視」である。

しかしその一方では、サービス付き高齢者向け住宅の整備促進で、実質的に要介護高齢者の住み替え促進を行って、住み慣れた自宅ではない「居宅」が数多く創られ、そこで24時間巡回サービスを受けるという形が増えることも想定されている。

既に居宅サービスは、住み慣れた自宅以外の様々な場所で展開するサービスとなっているのである。居宅=住み慣れた自宅ではないのだ。このことを事実として受け止めねばならない。

そうであるなら介護保険制度上、居宅サービスに分類されているグループホームや特定施設への住み替えや、24時間巡回サービスを受けるためにサービス付き高齢者向け住宅に住み替えることは良くて、特養に入所するのは悪いという理屈にはならないはずだ。

そう考えると、介護保険制度は近い将来、居宅サービスと施設サービスを区分する必要性はなくなり、高齢者が生活する場所の選択として、自宅か、グループホームか、特定施設か、サービス付き高齢者向け住宅か、有料老人ホームか、特養かという選択であってもかまわないということだ。

住み慣れた自宅以外の「住まう場所」の選択として様々な生活が考えられてよく、「在宅介護の重視」は形骸化した概念とならざるを得ないという意味だ。

しかしその中で特養が選択肢になり得る条件は、自宅介護の限界を肩代わりして、施設で何とか命を繋ぐケアを行うということにとどまらず、自宅で生活困難となった人々の「暮らしの再生」を目指すものであり、結果としてより良い暮らしを特養という住まいの中で営むということでなければならない。

場合によって、それは限界点に達した家族介護によって崩壊した家族との人間関係を紡ぐことであったり、身体機能や健康状態を向上させる取り組みであったり(治療的リハビリで身体機能改善を図るという限定的な意味ではない。)、生活環境の改善により、その暮らしが豊かになることを目指すものでなければならない。

現実に、生活課題を抱え、それを解決し得ない状況で自宅で生活し続けている人々が、特養という新たな暮らしの場を得ることによって、そこでの暮らしを構築し、自宅で暮らしていた以上の状態で、豊かな暮らしを営むためにサービス提供することが、特養の役割である。

つまり在宅生活が困難になった人が、特養に入所さえすれば問題解決という考えは間違っており、特養という器の中で限局的に問題発生があっても、家族等のインフォーマル支援者に迷惑にならなければ良いという考えも違っており、利用者自身が特養でいかに豊かな暮らしを送ることができ、家族等との関係が途絶せず、幸福感を持って暮らし続けることができるかという結果を求めなければならないということだ。それを目的にしなければ、特養の存在意義は極めて薄くなるだろう。

この「暮らしの再生」効果を、トランポリン効果と呼ぶことができるのではないだろうか。
施設サービスのトランポリン効果理論・その2に続く)

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遺言公正証書を作成するときに思うこと。

それぞれの人生と死に向き合うために」という記事で紹介したOさんは、その記事の中でも書いているように、生前に公正証書という形で遺言状を作成し、当施設に遺留金を寄付してくれた。

当然、公正証書を作る段階で公証役場の公証人の方にお願いしたわけであるが、Oさんと公証人のつなぎ役も、当時相談員であった僕が担当したわけである。その結果Oさんの遺留金が今後の施設運営に使われることをきっとOさんは喜んでくれると思うし、そう考えるのであればなおさらOさんが喜んでくれる形でそのお金を使わねばならない。それはとりもなおさず、我々のサービスが本当の意味で利用者の暮らしの豊かさに繋がるように、責任を持って取り組む必要があるということだろう。

様々な人々の寄付を受けるという意味は、そうした責任を伴うものである。

ところで、特養の相談援助業務を長く続けていると、遺言公正証書の作成に関わる機会は必然的に多くなる。

故人の生前の思いを、死後に実現するための援助は大事な援助である。その方法に瑕疵(かし)があって、故人の思いが達せられないことになれば、それは取り返しのつかないミスと言えるので、遺言として効力がある方法と内容を考えた場合、遺言公正証書の作成という方法は、費用負担も数万程度で済み、確実な方法である。

しかし問題は、この遺言公正証書をいつ作るのかということである。遺言を作成していなくても相続人がはっきりしている場合ならば、そのような書類を作成しておく必要はないだろう。

しかし、例えば血縁者がない方でも、生前お世話になった人がいて、その方が施設入所に関わる「身元引受」をしている場合、遺留金をその身元引受人がそのまま相続することはできない。この場合は、故人の意思として遺留金を相続させる法的な根拠となる遺言状を作成することが必要とされる支援行為であるかもしれない。だが、そうであっても利用者自身は、そうした支援を施設が行ってくれることを知らない場合もあるし、そのことに気がつかない場合もある。その時、施設の担当者が、より積極的に遺言状が必要ではないかと考えてアプローチすることが求められるであろう。

僕が関わったいくつかのケースでは、こうした身寄りのない方々に、まだお元気で意思がしっかりしているうちに、「もしもの事を考えておきましょう。」というふうに死後の問題を話し合う機会を持つ中で、遺言公正証書作成に至ったケースがいくつかある。

Uさんは、結婚歴もなく身寄りのない人であったが、自分が長く「お手伝いさん」として働いていた一家の中で、家族と同じように暮らしていた方であった。その方が養護老人ホームを経て、僕の施設に入ってきた後、僕は彼女に「もしもの時」を考えるように相談機会を持った。そして彼女の意思に基づいて、彼女が家族同然に暮らしていた方に遺留金を手渡す内容の公正証書を作った。

Uさんが、その内容を確認して同意するために、公証人が遺言公正証書を読みあげている間、ずっとUさんは涙を流し続けていた。そして公正証書謄本と副本が出来上がると、僕に「本当にありがとう」と感謝の言葉を言い続けた。数年後、その遺言公正証書に基づいて、Uさんの遺留金とお骨は、その家族のもとに引き取られた。Uさんは今、ご自分が若い頃に「お手伝いさん」として一緒に生活した家族の菩提寺で静かに眠っている。

施設のソーシャルワーカーが、このケースように、生前に身寄りのない利用者の「死後」について考えてアプローチすることは大事なことである。しかし死をタブー視する現場では、こうした大事な援助が行われていない現実がある。だから我々のサービス現場で「死」を語ることをタブー視してはいけないと思う。人生の最晩年に寄り添う関係者として、福祉援助の専門家として、そのこともきちんと受け止めた上で、豊かな暮らしを創り上げるという視点が重要だと思う。

高齢者と「死」は、ある意味隣合わせに存在するとも言え、そのことを語ることは高齢者の精神に悪影響を与えると考える向きがある。しかし自分が元気なうちに、意思がしっかりあるうちに、死後のこともきちんと考えておきたいというのは、多くの方々の共通した意思ではないのかと思う。

そのためにもソーシャルワーカーは、利用者の死後も想定して話しあえる関係性を利用者との間に築いていかねばならない。それが本当のラポール(信頼)関係である。

当然その背景には、終末期の援助が、誰から評価されても恥ずかしくないレベルで行われ、利用者自身が、そのことを確認できる環境にあるということは言うまでもないだろう。

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内部留保批判に老施協はなぜ反論しない?

厚労省は、今年3月末の段階での特養1.087施設の貸借対照表を分析。その結果、内部留保の平均は、一施設当たり3億782万円1000円となったとしている。

これが先の「政策事業仕分け」で指摘された、「職員の待遇改善は2兆円の内部留保で対応すべきであり、交付金や介護報酬で見るべきではない。」という指摘に繋がっている問題である。そしてその尻馬に乗った「有識者」を名乗る連中が、「ほれ見たことか」と批判のアドバルーンを挙げている。鈴木亘学習院大学教授などが、この批判の急先鋒である。

内部留保批判の意味は、それが特養の非課税特権などを利用した超過利益であるという意味だろう。しかしこの内部留保とは、そもそも経営者が懐に貯めこむお金ではない。そうえであるなら内部留保を批判する人々は、なぜ特養が単年度であげた収益を施設長報酬を含めた役員報酬として支出せずに、内部に留保しているのかという理由を明らかにして、なおかつそのことが不適切な超過利益であることを証明せねばならない。しかしそうした検証は何もされないところで、内部留保という事象だけを批判している人がほとんどだ。

内部留保とは、施設長報酬や役員報酬として搾取しているわけではなく、事業経営のための繰越金としてストックしているものだ。介護施設などの箱物には、定期的に修繕費や施設の建て替え費用などが必要になるから、このために繰り越すことを認められた費用である。

にもかかわらず鈴木亘氏は、「施設を建てる際、施設整備費という補助金があり、建物の建設費の約半分の費用を自治体が公費(税金)で補助する制度となっている(2005年以前には、建設費の3/4が補助されていた)。残りの建設費も、厚労省の独立行政法人である医療福祉機構が、きわめて低利で貸付をしてくれる」と批判している。

7年も前の補充率を持ちだして、現状を語ることなどできないぞ。今現在3/4も補助してくれる仕組みがどこに存在するのだ?現在の補助金は建設費率に対する補助ではなく、利用定員に応じた定額補助金だ。建設コストがいくら高額になっても補助される額は定額である。しかも建築資材の高騰により箱物の建設費は毎年のように高騰している。定額補助金は健在建設費の3割程度の額にしかならないが、その比率は年々下がっているのである。備品等への補助はない。しかも医療福祉機構の低利貸付だって、低利であっても利息をつけて返さねばならない費用だぞ。それは施設の建て替えや、修繕を行う前の運営費に上乗せして支出する費用であり、その支出を行っていない時期に、そのための費用を繰越金として残しておかずに、どうして施設運営が安定的にできるのだ?マイホームを建てるときだって、自己資金一切なしで住宅金融公庫から全額借入では返済できない人が多いだろうに。建て替えのための自己資金を繰り越すことを否定するのは施設運営を知らない素人の荒唐無稽な考えだ。馬鹿も休み休み言え。

鈴木氏は、
介護のサービス費用である「介護報酬」には、法律上、施設の整備代が上乗せされて含まれているのである。つまり、介護保険制度は、「建物の建設費は、介護報酬から回収しなさい」という制度に、そもそもなっているのである。

と指摘しながら同時に
介護報酬の状況は、特別養護老人ホームの場合も全く同じである。つまり、特別養護老人ホームを経営する社会福祉法人は、将来の建設費のために、内部留保を貯める理由など、ほとんど存在しないのである。

と述べている。これは論理の矛盾だ。つまり特養の介護報酬に含まれる建物の建設費は繰り越しておきなさいという意味であり、内部留保がある程度ないと修繕も新規建設もできなくなるので、事業経営は単年度の中だけで考えたら駄目だよ、と指導されていることの実情を知らないおかしな理屈であるとしか評価できない。鈴木が言う「建物の建設費は、介護報酬から回収しなさい」の意味は、事業経営年数が短くて人件費支出が少ないうちに計画的に建設費等の資金を繰り越していかないと将来的に事業経営が成り立たないという意味である。

そもそも繰越金をなくてし、毎年収支トントンの運営をしていたら、施設を建て替える時に、同じ介護給付費の額から、別途建設費を絞り出すなんてことはできないのは小学生でもわかる理屈だ。この大学教授は算数ができないのか?知識のない大学教授など、この程度だ。

介護報酬は3年間同じ額なのだから、3年間の当初年で、収入と支出の収支が均衡してしまえば、2年目以降は定期昇給すらできなくなる。しかも現在の国策では健康保険と年金保険料の事業主負担が毎年増えており、事業経営者は、この法定福利費用支出の引き上げ額に対応した収支バランスを考えねばならず、90人程度の従業者を抱える事業者なら、その額は毎年500万程度にあたるもので、3年の当初年にはどうしても最低一千万以上の繰越金を出さねばならない。鈴木はこうした状況をわかっているのか?

しかも介護報酬は改定のたびに引き上げられるわけではなく、事実過去の改定では引き下げが2回、引き上げがわずか1回で、2000年の介護保険制度施行時より介護報酬は低く抑えられているのだから、3年目で収支均衡してしまった場合、翌年の報酬改定で上がらなかった分や、下げられた分は、そのまま事業赤字になる。こんなリスクを背負わないために、繰越金は少なくとも3年目も出さねばならず、その総額が留保されているに過ぎない。

それとて事業経営年数の長い当施設などは、ほとんど繰り越せないのが実情だ。介護報酬は経営年数に関係のない額なのだから、事業経営年数が長くなり、人材を教育しながら、職員が辞めない良い環境を作っていけば、必然的に人件費割合は高くなる。繰越金があたかも施設整備費にしか使われることのない費用だと論ずる向きがあるが、実は経営年数が短く、職員給与が低い時期に将来増えるであろう人件費分として繰り越しているという意味があるのだ。事実として事業年数が長く、人件費率の高い事業者は、事業年数が短かった頃の繰越金を取り崩して職員の定期昇給分等を確保しているのである。つまり繰越金は実際に職員給与支出に使われているのだ。

そういう意味では、一施設平均額など意味がなく、実はその差は事業経営年数で差があるし、それは必要なことなのだという理解が必要である。

そもそも介護給付費は2ケ月遅れで支払われる(例えば12月分の給付費は1月に請求し、実際に支払われるのは2月になるという意味)のだから、この間の2月の運営資金は繰越金から充当せねばならず、その額は100人定員の施設では約6.000万円程度は必要だろう。つまり現在会計区分上は、「内部留保」とされるものには、この運転資金も含まれており、実際に運営に使わなくてもよい内部留保などもっと少なくなるのである。

事業経営を行ったことがない世間知らずの大学教授は、この人件費支出構造と繰越金の関係に対する考察はほとんどしていないし、ましてや繰越金の一部は実際にリアルタイムで運営資金として使われている額が含まれていることには何も言及がない。おそらくそんなことはまったく知らないのだろう。無知の非難である。

ここで今、内部留保を全部吐き出してしまえば、2ケ月先にしか支払われない介護給付費に替る運転資金を手当てしてくれるのか?その後の職員給与支出をきちんと介護給付費で手当てしてくれる保障があるとでも言うのか?それがない限り、その時点(おそらく3年後)に介護施設のほとんどの経営が成り立たずに倒産せねばならない。その時、利用者は誰が面倒を見るのか?そういう意味で鈴木亘の批判はまったく見当はずれである。

内部留保が悪のように批判する人間は、それを出さないために役員報酬や施設長報酬を臨時に出し、留保せずに搾取する方が良いとでも考えているんだろうか?特養の内部留保の一番の要因は、他の介護保険施設に比べて施設長の平均年収が極めて低いという要因もあることを無視した議論はできない。

内部留保が問題と言うなら、資金留保しなくとも施設を安定して経営できる介護給付費システムを作らねばならない。事業運営年数に応じた給付額の自動引き上げシステムを組み込まねばならない。

このような状況を熟知しているはずの老施協は、なぜ「内部留保」などという言葉に抗議しないのだろう。それは10年、20年単位でみれば、高騰する人件費への手当や、施設等の建て替え費用として消えてなくなる費用で、きちんと社会に還元される費用である。

だからその昔「剰余金」と言っていたものを「繰越金」に変えたではないか。そしてその意味は、法人や経営者が懐に入れて個人資産にするものではなく、社会に還元しながら事業経営を安定的に継続する費用だと、なぜ声高く主張しないのだろう。

老施協は、こういうところで主張する組織でないと、現場の声を代表しているとは言えないぞ。「科学的介護」などと誰も理解でいない荒唐無稽のキャッチフレーズを声高く唱える前に、当たり前のことを当たり前に主張する組織になれよ。まったく歯がゆい組織である。誰かもっとまともな人材がいないのだろうか。

何のために国会議員を出しているんだ?会員がそっぽを向いたら、その議員だってバッジをつけていられないぞ。

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餅つきって何のためにするの?

今、僕は熊本県に向かう途中である。今日の夜18:30〜水俣市文化会館で、明日19:00〜熊本市御船カルチャーセンターで、それぞれ「人を語らずして介護を語るな〜感動できなきゃ介護じゃない」というテーマで講演を行うために移動最中である。

両方の会場ともほぼ満席に近く、合計で1.300人近い方が受講して下さる。平日の夜に行われることに加え、わずかな額とは言え無料ではない講演であるにもかかわらず、このように多くの方々が参加して下さることは驚きである。そしてそれはとてもありがたい事である。受講される皆さんと主催者の方に心より感謝申し上げます。

こうした会場で、様々な方々とお逢いして繋がりができることが僕の最大の財産だ。物やお金はいずれなくなるが、人のつながりは永遠となる可能性があるからだ。だから僕は全国どこへでも足を運ぶことを厭わない。

さて旅の道すがらに記事更新したい。今日は難しい事はあまり書くつもりはなく、昨日当施設で行われた今年の餅つきの模様を画像で紹介したい。

餅つきといえば、数年前に近隣地域にできた道内最大級の定員200名という老健施設では、利用者の前で餅つきを行いながら、「餅は危険な食べ物だから」という理由で、それを利用者に提供することはせず、鏡餅として飾るだけで「雰囲気を味わってもらう」と自慢げにコメントし、それが新聞記事として報道されたりしている。世間の人々はこの新聞記事を読むと、介護施設は利用者に餅を食わさないことが安全を担保する唯一の方法で、それが当たり前なんだと勘違いしないか心配である。

この老健の「安心・安全な暮らし」の主語は、きっと利用者ではなく施設自信なのだろう。まったく馬鹿げている。この施設の介護支援専門員をはじめとした職員は、いくら研修で良い話を聞いても、こういう状況に疑問を抱いて変えようとしない限り、利用者の過去の生活習慣を守って、利用者本位のサービスを行うということには程遠いだろう。自分がそういう施設に働いていることを、自分の施設がそういう施設だということを誇ることができるのだろうか?

どちらにしても、その老健に入所したが最後、餅をついても食べることのできないバリアに囲まれて生活する人々に、この画像の中の笑顔を持つ機会は一生涯訪れないという意味だ。

餅つき昼食会14餅つき昼食会13
餅つき昼食会12餅つき昼食会11
餅つき昼食会10餅つき昼食会9
餅つき昼食会8餅つき昼食会7
餅つき昼食会6餅つき昼食会5
餅つき昼食会4餅つき昼食会3
餅つき昼食会2餅つき昼食会1

この広いホールに居られる全員がお餅を食べている。その中には当施設の最高齢者である106歳の方も含まれている。高齢者だからという理由だけで、餅を食べる機会を奪う施設の管理者や職員は、自らもその仕事を続けている限り餅を食べるなと言いたい。

勿論そのためには事前のアセスメントは不可欠で、どのような状態で、どうすればお餅を食べられるのかを、一人ひとり検討する。食べさせないのは簡単だが、我が施設の理念の一つに「制限は馬鹿でもできるが、できる可能性を見つけ出すのが専門家である」という考えがあり、この実現のために、全ての職員が皆で汗を流す。

だからお餅を食べている人の傍らで会話をしながら何気なく見守るために、事務職員なども総出である。100%事故は防ぐことができるとは言い切れないが、お餅という高齢者の大好物を食べる機会を設けようともしない施設と、そのための工夫を凝らして、食べることができる方法を考える施設のどちらに入所したいと思うのだろうか?

介護の現場に立つ職員は、利用者に我慢を強いるために存在するものではなく、利用者の笑顔を引き出すために存在するのだという「介護の原点」をもう一度見つめ直すべきである。

ブログ書籍化本発刊から11ケ月。衝撃のデビューから待望の続編発刊決定。2012年1月25日「人を語らずして介護を語るな2」刊行予定。下のボタンをプチっと押して、このブログと共に応援お願いします
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こじつけの理由は給付抑制のため?

介護保険制度改正議論を細かく検証していくと、おかしな理屈が随所にみられる。

例えば今、介護施設の多床室の室料を新たに自己負担とするために様々な理由づけがされているが、それも冷静に検証すると極めておかしな理屈で外堀を埋めようとしていることが分かる。

11月24日の社保審介護保険部会の資料である「介護分野の制度見直しに関するこれまでの議論の整理」には、このことについて「社会保障・税一体改革に掲げられている要介護者の尊厳の保持と自律支援を図る施設の個室のユニット化を推進する観点から、施設の減価償却費相当について全額負担するユニット型個室と介護報酬で手当てされている多床室との不均衡を是正し、多床室の入所者にも一定の負担を求めることが必要ではないかと問題提起がなされた」と書かれているが、そもそもユニット化の推進と、多床室の室料徴収は別問題だろう。

ユニット化の推進は、今後新設される施設や改築する施設について、ユニット個室を原則としてそれを推進すれば良いだけの話で(そのことがこの国の介護サービスの将来像として適切なのかということは別であるが)、多床室の利用者から室料を徴収することがユニット化の推進に直接つながるわけではない。こんなことは普通に考えれば分かることだ。

そもそも個室の利用者から室料をとり、多床室利用者からは光熱水費相当分しか徴収していないのは、2005年10月の自己負担導入時に、多床室は室料を徴収するほどアメニティーが充実しているとはいえないというふうに説明されていた。そのこととの整合性がまったくない理屈が堂々と並べられている。

居住環境が変わらないのに、こうした理屈で負担だけが多くなることについて、利用者への説明ができるのかという疑問が残される。

しかも多床室は、個室利用料の負担が難しい低所得者が利用しているという実態があるにも関わらず、そうした経済的理由を無視して同会の資料には、「低所得者は多床室で、そうでない人はユニット型個室というのは問題である」と負担均衡理由を述べている。

しかしこれこそおかしな「こじつけ」である。所得が低い事により室料が払えないから個室利用ができないという根本的な問題を解決しないまま、多床室の利用者も室料を負担することによって負担均衡が図れれば、低所得者が個室利用できるとでも言うのか?まったくずれた視点から格差是正を指摘している論理としか思えない。

低所得者が多床室を利用せざるを得ず、個室を利用できないということが問題であるとすれば、その格差をなくすためには多床室の室料を徴収する前に、低所得者の個室の利用者負担軽減策を今より一層促進するのが筋だろう。こんなの子供でも分かる理屈だ。よくもまあデタラメな理屈を恥も外聞もなく並べたものである。

そうであるにも関わらず、この負担軽減策に関連する「補足給付」については、収入のみならず、保有する居住用資産や預貯金も勘案して支給を決定する仕組みを提案している。

自己負担できる費用とは、資産ではなく収入であることを鑑みれば、この資産勘案により、さらに個室利用ができない高齢者が増えることは想像に難くない。同じ資料の中にこうも矛盾した理屈をよくも並べられたものだ。そういう意味では多床室の室料徴収については、その理由から考えれば「やってはいけない」と結論付けることができる。

こんな簡単な理屈も分からない人間がこの資料を作っているのか?そりゃあないよな。だってエリート官僚が作っている文章だぞ。その意図は、分かりづらい文言を並べて国民を騙そうというものだろうとしか考えられない。

また補足給付について資産まで調査するとなれば、誰が、どういう形で調査を行うかが問題となる。同会資料では「社会保障・税共通番号の導入により、名寄せが困難である金融資産についての把握が行いやすくなる」ことを例に挙げ、この資産調査を楽観視しているが、実際には居住用資産や預貯金の額の把握は、1軒1軒のきめ細かい調査が伴い、逆に調査費用に大きな支出が伴う可能性が高い。

となれば本末転倒で、余計にお金のかかる制度になりかねず、このことはもっと慎重に考えられるべきだろう。

現在特養の多床室であれば、一人月額8.000円程度を自己負担化するという方向で議論が進んでいるが、その理屈にはこのような「こじつけ」が随所にみられる。実際に個室料金を支払うことができずに、多床室の利用しかできない人がいることを考えれば、多床室利用も室料がかかるとすれば、多床室さえ利用できない高齢者が出現しかねないという問題をもっと慎重に議論しないと、まったく行き場のない高齢者を生んでしまう。

生活保護制度は、こうした問題をきちんとフォローできるのだろうか?どうも怪しい。

この問題は高齢者の生存権に関わる問題だから、「見切り発車」することは許されない。

介護保険部会や介護給付費分科会の委員は、人の命と暮らしに関わる議論をしていることを、もっと真剣に考えるべきである。

給付抑制が制度改正議論だと間違っているのはどこのどいつだ。

※一昨日からライブドアのアクセス解析機能に不具合が発生し正しいアクセス数の表示ができない状態になっています。現在同社で調査対応中とのことですが、修正されていないため毎日のアクセス数を示すグラフを削除しました。正常に戻ったら復活させます。なおアクセスカウンターにポインターをもって行くと1週間内の日ごとのアクセス数が表示されますが、この数はPCからのアクセス数しか積算されておらず、モバイルからのアクセスは積み上げられません。よって実際のサクセス数は、その数字+1.000程度と見込まれます。(実績からの推定)。なおこの数も、ライブドアのアクセス数も、同じPC等からは1日1回しかカウントされませんので、一人の方が同じ場所から何度アクセスしても1日1カウントのみです。よって実アクセス人数に近い数字が示されるようになっています。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

池田省三氏の主張と老施協のイマイチ

11月24日に行われた第86回介護給付費分科会では、特養の多床室の報酬減について議論された。

shanさんのブログから、それに関する発言内容を一部転載させていただく。(shanさんよろしくお願いします。)

(村上委員発言1)
・「個室以外のものについては介護報酬減額する」ということだが、「入所者一人ひとりの意思と人格を尊重したケアを行うことが求められている」ということと個室であることの意味合い、関係性を検証したものがないので根拠がわからない。
・多床室であっても、認知症ケア、看取り介護、口腔ケア、個別機能訓練ということが求められ、科学的なケアを進めているのに、どうして個室以外は減額されなければいけないのか。
・地方分権一括法により参酌すべき基準としてある居室定員を、このようにペナルティーと言う形で規制をするのは法の趣旨に反するのではないか。ということで全国老施協としては絶対に容認できないので、削除して欲しい。

(池田委員発言2)
個室か、それとも多床室かって問題は、はっきり言うとこれは、人権問題。人権問題は、残念ながら地方分権に優先すると思う。かといって、地方分権に関する法はそれを止める手立てを保障してくれなかったから、我々給付費分科会という立場としては、この文章は実によく、優れていると思う。これに反して、自分のところは四人部屋を作るというところは作って頂きましょう。それだけの話。で、基本的に特別養護老人ホームに関して言えば、当然のことながら、アメニティーの問題から、ケアの手法から、ケアの効果からひっくるめて考えるとしたら、一番高いのは個室ユニットに決まっている。2番目に従来型個室。3番目に多床室。だから、それを決めればいい話。ただ、そうは言っても措置時代は四人部屋だったし、その後もある程度まで許容されていたから、その部分については経過的に加算みたいな形で埋めるっていうのは、これはあってしかるべきであるということ。しかし、この基本的な考え方に関しては、全く間違ってないから残念ながら今の老施協の委員の仰るように、これを削除してくださいって意見に関しては、「絶対に削除しないでください」ということを申し上げたい。

(村上委員発言2)
・4人部屋の形成過程と言うのは、特養の形成過程にあって、そこに補助金システムがって4人部屋が出来てきたという経緯がある。今現在も7割は4人部屋かそれ以上も一部あるかもしれない。まだ大部分の方がそういうところに入っているという現実がある。そういうことも考えて、サービス提供体制、居住環境によって労働コストに差があるということは、個室ユニットと個室と多床室はやむを得ないなと思っていますけど、先ほども話した通り、直接的な介護の手間は差がないと思う。個室と言うのは尊厳を守る上で大変重要だが、4人部屋だから、非尊厳的なのかというと、決してそうではないはず。科学的なケアを現実進めているわけであり、そういうことを考えても選択肢として個室も多床室も必要な人がいる。今すぐにこの問題に対してこういう結論にするのは如何かと思う。

↑村上委員とは、老施協の村上さんの事で、この人は北海道帯広市の施設の方で僕も面識がある。池田委員とは池田省三のことで、彼とも丹波篠山市のシンポジウムでバトルしたことがある。

池田委員発言1と、村上委員発言2の間には、そのほかの委員の発言や、それに反論する池田委員の発言が挟まれているので、この経緯はshanさんのブログで確認していただきたいが、ここで3発言だけを転載したのには意味がある。

多床室の報酬とは「室料」ではないのだから、本来アメニティーの問題はまったく関係なく、介護の手間としての対価であると主張すべきだ。なぜならアメニティーの評価は「居住費」という自己負担部分で差をつけているものであり、より快適な空間として個室を居室としている人は自己負担費用を多く支払ってアミニティーを手にしているのである。

一方介護給付費はサービスにかかる費用で、要介護状態区分が1分間タイムスタディという介護にかける時間の積み上げで評価され、その要介護状態区分が重たい人ほど給付費が高いという意味は、それは介護の手間の費用という意味になる。

そうなると個室と多床室で、どちらが介護の手間がかかるかという問題になるが、これは圧倒的に多床室の方が手間がかかると言えるのだ。

なぜなら介護サービスそのものは、個室でも多床室でも利用者に対し職員が1対1の関係で行うことが基本となり、その場合、居室類型による差は生じない。つまり多床室だからといっておむつ交換や着替え等を4人まとめてできるわけがないのである。多床室だからといっておむつ交換や着替え等を4人まとめてできるわけがない。多床室の方が導線が多少短くなるが、介護サービスの時間に影響するほどのものではない。

むしろ多床室であるがゆえに、おむつ交換や着替えを介助されている方の「裸の姿」を他の同室者の視界から遮るためにプライベートカーテンを引いたり、夜ならば介助している人以外の安眠を妨げないために音を出すことにも気を使ったり、排せつ介助中の臭いが漏れないような工夫も必要になる。こうした個室なら必要のない様々な配慮と手間が多床室であるがゆえに必要なのである。

またある特定の方に用事があって多床室まで逢いに出かけたとしても、その方だけに声をかけるということにはならず、きちんとした施設職員なら用事のない他の方にも挨拶をして声をかけ、要件の内容によっては用事のある人を別の場所まで誘導して要件を済ます、という対応が必要である。個室ならこうした手間を全て省いて居室内だけで要件が完結することが多い。認定調査だって、同室者の方に迷惑にならないように配慮する手間も省けるというものだ。

何より同室であるがゆえにひき起こる様々な人間関係トラブルが生じないし、そのために必要だった居室調整、居室移動も必要なくなるのだから、これは大きな業務負担軽減に繋がるのである。

つまり多床室ケアから、個室中心ケアに移行した途端に人手がかかって困るという施設は、もともと品質の高くない、配慮のないサービスを行っていた可能性が高いのである。

よって介護の手間という仕事の対価として考えれば、個室より多床室の報酬単価が高いのは当たり前であり、アミニティーの部分は自己負担を多く徴収することで差をつけており、現実に給付費+自己負担という収入総額は多床室より個室の方が高くなっている。これは極めて論理的には正しい費用設定と言えるのである。

よって池田省三の主張がいかに間違った主張であるかということは明らかなのである。こんな理由で特養のほぼ7割を占める多床室の介護報酬が減額されてはかなわない。

それに対して老施協の代表員である村上さんが、このことをきちんと整理して反論しないで、まったく的外れな方向からしか多床室報酬を守ろうとしていない。「科学的介護」なんて幻想をここで持ち出しても誰も理解出来ない。これではまったく説得力に欠けるって。どうしようもねえな。変わってやりたいよ。ったく。

村上さんは、偉ぶらない良い人であるが、現場の仕事から少し離れた活動を長くしているので、このあたりのことが良く分かっていないし、人のよさが災いして押しが足りない。魑魅魍魎が跋扈する国の委員会で駆け引きするには多少器量不足だ。少なくともこの場で「科学的介護」などという言葉を持ち出すのは逆効果で、意味のわからない委員も多い現状からは、「そんなものどこにあるの?」って反論されるのが落ちである。

老施協もせっかく給付費分科会に委員を送りだしているのに、これじゃ意味ないって。高い会費も無駄に思えてくるぞ。もっと説得力ある意見を述べてくれよ。

タイトルには「イマイチ」と書いたが、これは北海度出身の先輩である村上さんに対する遠慮で、本当は「的外れ」っていってもよいレベルである。

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※本記事中、池田省三氏を中傷する言葉として「この人物、すでに物事の真実を見極めるという能力を失った「老害」という存在でしかなくなっている。」などという表現がありました。これは池田省三氏の名誉を棄損する不適切な表現であったと慎んで謝罪いたします。

民生委員さん考えてくれました?

道内の某町の民生員協議会と名乗る人から電話をいただいた。施設見学依頼である。

僕の施設は登別駅から登別温泉に向かう途中をクッタラ湖方向に右折して車で1分の所に位置しているので、各種団体が「視察」と称して施設内をぐるっと一回りして、温泉旅館に直行するケースが多い。いわば公費を使った観光旅行のだしにされるわけである。

僕が施設長に就任する以前はこうした依頼もすべて受けていた。その際は僕等のソーシャルワーカーが案内役になることが半ば慣例化していた。しかしぞろぞろ金魚のフンのように長い行列を作って数分間で施設を回って、おざなりの質問を受けたからと言って双方に得るものはなにもない。正直こうした団体の施設見学の案内ほど「時間の無駄」と感じる業務はなかった。

それに利用者からすれば、この大名行列だか、金魚のフンだかわからない団体は目障りだと思う。誰が自分の自宅に知らない人間がやってきて、行列をつくって、じろじろ家の中を見られることを喜ぶというのか?

だから僕が施設長に就任した後は、大人数の見学依頼はお断りしている。しかし公費補助金で建設され、介護給付費という公費で運営されている施設としての公益性・社会的責任と義務ということを考えると、外部の見学者を全て排除することがあってはならない。よって本当に勉強のために見学に来る人までも拒むことにはならない。

だから最低限、見学目的と何を学びたいかという質問をして、なおかつ利用者の目ざわりにならないようにせめて5人以下の小グループ訪問をお願いしているところだ。

今回の見学依頼は、このいずれの条件にも合わなかったためお断りした。しかし僕の施設がお断りしただけでは、他の施設に同じような迷惑がかかるだろうと思った。それは余計なお世話かもしれないが、そもそも僕は余計なお世話をついついやっちゃう人間なのである。

僕<「あのですね。民生委員という地域で大事な役割を持っておられる方々の集まりなんですから、10人も20人もの集団で、施設を見学するということの意味や、その是非を一度話し合われた方がよいのではないですか?」
相手「はあ・・・。」
僕「施設に住まわれているのは、普通の地域住民の方々なんですよ。皆さんが逆の立場になった時に、自分の自宅である場所に、見知らぬ人がたくさんやってきて、ぞろぞろと行列しながら、無遠慮に眺めまわして歩いていたら、気分が悪くありませんか?」
相手「そうですね・・。」
僕「介護施設は動物園じゃないんですよ。見学されるのが当たり前の場所じゃないってことです。」
相手「その通りですね。分かってはいるんですが・・。」
僕「ついでに施設見学をしておけば民生委員協議会の旅行として認められるなんていう風潮を貴方がたからやめたらどうですか。一度委員全員でこの問題を話し合って下さい。」
相手「分かりました。」
僕「生意気なことを言って申し訳ありませんが、こういうことを考えながら、私や貴方が暮らしたい施設を作りたいと思う一心ですので、悪く思わないでください。」
相手「分かりました。失礼します。」

・・・・だいたいこのような会話である。ただ都合が悪いからと断るだけでよいのに、余計なことを付け加えてから嫌われるんだよな。それはわかっちゃいるが、変えないとならないものは変えなくちゃいかんのである。

この民生員協議会、それでもどこか別の見学先を探すんだろうなあ〜。

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始末の悪い悪平等意識

利用者の外出支援は、施設サービスに於いても重要なサービスである。

施設が地域とは別に存在する特殊な場所にしないためにも、施設から地域に日常的に外出し、施設で暮らす人々もまた地域住民の一人として暮らしを送るべきだし、地域住民からもその認知を得る必要がある。

ただ特養の利用者属性を考えると、この外出支援というものは簡単ではない。ほとんどの方が移動や歩行の介助が必要だし、基本的には介助者はマンツウマンで対応する必要がある。車を降りた後に使う車椅子や歩行器等を持ち運ぶことも必要になる。

そうなると外出を一大行事にして、ボランティアを頼んで、一斉に実施するという発想になりがちであるが(当施設で過去に行っていた外出支援とは、ほとんどこういう方法であった)、これでは「非日常」になってしまい、利用者個人の思いに寄り添った外出支援ということにはならない。いかに「日常外出」というものを支援するかが重要なのである。

だからここではグループホームのソフトを取り入れて、少人数対応(場合によっては一人だけの希望に応える形で)の外出支援を日常的に行うことが望ましい。僕はそう考えている。

外に行きたいという急な要望があっても、それに対応できる状況を創りだす工夫が大事で、まず発すべき言葉は「では行ってきましょうか」であり、その希望に応える方法を考える発想法を身につける必要がある。ここでは「貴方一人のために職員が職場を離れるわけにはいかない」とか、「貴方だけを連れて行ったら他の人に不公平になるから、それは出来ません。」という考え方が一番駄目なのである。

希望者が複数人数いる場合も、全員の希望に応えられないことになれば不公平であるという理由で外出支援自体を「行わない」と考えることが一番まずい。全員の希望に応えられなければ、応えられない人については日を変えるなどで対応すればよいので、その日、その時にできる支援は行うべきなのである。平等とは、誰しもに対して同じ行為をすることではなく、必要な支援を必要な人に行うことである。

機会均等だけが平等ではなく、必要な支援の量や方法は、その人の状況や環境に応じて変わってもよいのである。機会均等だけを考えて、不公平だからいっそのこと何もしないというのは悪平等以外のなにものでもない。(参照:悪平等の弊害・平等とは何か。

今日は〇〇さんしか連れて行けないけど、△△さんは少し待ってくれれば明日お付き合いしますね。ということは充分あってよいし、今〇〇さんは、すぐにそこに行かねばならないので、△△さんの外出をお手伝いすることはできませんが、△△さんが〇〇さんと同じような状況になったときは△△さんが出かけるお手伝いをきちんとしますから、という考えが必要だ。

それと共に、そうであるなら我々は利用者の代弁者として、利用者が表明でいないニーズにも積極的に対応しようという考え方があってしかるべきであり、この方は、こういう日にはここに行きたいと考えているのではないか?こういう日だからこそ、ここに行くと喜んでくれるのではないか?ということも具体的な支援策に盛り込んでいってもよい。一人ひとりの思いに寄り添うとは、そういうことを含んでのことだろう。

だからたまたま僕が外勤をする際に、時間の余裕があり、利用者の見守り等の対応ができる状態にあれば、外勤先まで利用者を連れてドライブということもある。何かの外出のついでに、ケアワーカーが利用者を何人か連れて一緒に車に乗り込むということもある。

このことに関連して、お盆から8月末の外出行事の企画書を見ると、なかなか面白い企画も多い。

その一例を紹介する。あくまで企画書の一部ですべてではない。

8月13日(土)17:15〜20:45、内容:水前寺清子ショーを鑑賞する、場所:登別市民会館大ホール、参加利用者:9名(付き添いは職員ボランティア9名)

8月18日(木)11:00〜13:30、内容:お昼は寿司を食べに出かける、場所:回転ずし〇〇、参加利用者2名(付き添いは職員2名)

8月18日(木)11:00〜15:00、内容:テーマパーク見学、場所:登別時代村、参加者2名(付き添いは職員2名)

8月20日(土)14:30〜16:00、内容:登別東町3丁目のお祭りに参加、場所:登別婦人センター広場、参加利用者1名(付き添い職員1名、現地で家族と合流)

8月21日(日)10:30〜12:00、内容:自宅で亡夫とご先祖様を供養する、場所:幌別〇〇さん自宅、参加利用者1名(付き添い職員1名)

各ユニットの担当者が企画予定して実施するものであるが、こうした積み重ねが日常の外出支援が当然であるという感覚を生み、どうしたら利用者にとって良い暮らしに結びつくサービスが生まれるだろうという考えを繰り返すことにも繋がっているのだろうと思う。

できないことより、できることから考えれば、可能になることはたくさんある。

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特養の居室定員は一人に改正

僕は特養の施設長という立場であり、施設の経営状況にも気を配る立場でもあるため、運営コストには常に気を配らねばならない。

特に北海道は冬場の暖房費用を始めとした燃料費が運営コストに占める割合が高いため、この燃料となる重油の単価が収益に大きく影響する。そのため毎朝の日課の一つに「国際原油価格」の確認という作業があるが、この価格が今週に入って下落している。今日の価格は数ケ月ぶりに一時85円台に下がった(分単位で変動があるのであくまで一時的ではある)。先週から比べても10円以上の価格下落である。この水準で冬も経過してくれれば嬉しいのだが、なかなか予測のつかない問題でもある。

ということで(無茶ぶりかもしれないが)今日は施設運営に係る介護給付費の問題を取り上げてみたい。

厚生労働省は7/28、来年4月以降に新築する特別養護老人ホームの居室定員について、現行の「4人以下」から「1人」と改め、個室を原則とする省令改正案を示し、社会保障審議会の介護給付費分科会はこれを了承した。

既存の特養については、個室化が進んでいないケースもあることから経過措置を設け、4人以下の相部屋も認めるが、これは入所待機者の増加への対応で、個室と相部屋を併設した特養を整備している自治体に配慮したものだ。

また厚労省は、来年度の介護報酬改定で相部屋の施設よりも個室化を図った施設に報酬を手厚くする方針も提案し、今後介護給付費分科会で検討を進めるとしている。
(※地方分権一括法の施行に伴い特別養護老人ホームを個室とするかどうか、通所介護の1人当たり面積などは自治体が条例により独自の基準を定めることができるようになる。これに対し厚生労働省は「個室ユニット」推進を維持し、自治体が安易な多床室の新設になびかないように1居室の人数が多いほど報酬を安くする「定員別」の報酬を導入するなど介護報酬の支払い基準で対抗する含みを持っている。

北海道では現在でも特養の新設は「ユニット個室」の新型特養しか認めていないので、この新たな基準ができてもあまり影響がないと言えるが、県によっては個室と多床室を混合した一部ユニット個室の特養を認めているところであり、来年度からはそのような形態の特養新設は認められなくなる。これにより、今後特養の多床室は廃止の方向に向かうだろう。老健の個室化も勧められるだろう。当然、現在認められていない生活保護対象者の個室入所を認めることもセットで考えられている。

居住環境として考えれば、個室が多床室よりすぐれていることは間違いないわけで、すべての高齢者の住環境がそうした方向に向かうことを否定するなにものもない。

しかしすべての特養が個室となれば、居住費(自己負担費用)は当然既存の多床室以上の負担が求められてくるわけで、負担能力のない特養難民が生ずる恐れを否定できない。介護保険制度から補足給付を廃止せよという議論と相まって、この点は注視していかねばならないだろう。

特に高齢期の貧困とは、就労年齢期に於いて抱えたハンディキャップという側面があり、これは個人の能力や責任というだけにとどまらず、社会システムの問題でもあり、そこからはじき出された人々が、その負の遺産を死ぬまで背負って生きなければならないというのであれば、国家の社会福祉責任を放棄しかねない問題でもある。

補足給付を廃止して、低所得者の負担軽減策を公的扶助に変えていくということであっても、そこからはじき出さる人が生まれないようにする必要があるだろう。現在の生活保護の申請から給付の現状をみると、それは簡単ではないように思う。そういった意味では補足給付はなくせない給付だと考える。

ところでこの問題で忘れてはならないことは「来年度の介護報酬で相部屋の施設よりも個室化を図った施設の報酬を手厚くする方針を提案」という部分である。

この意味は必ずしも現行報酬から個室の報酬を引き上げることを意味したものとは言えない。むしろ既存施設の多床室報酬を下げるという方針を示したものだと考えるべきである。

特に経営実態調査が出る前のデータではあるが、施設サービスの収益率が11%を超えている報告があり、来年の介護報酬改定で、施設サービス費のアップは厳しい現状である。その中で多床室の料金がさらに下がれば、多床室を中心にした施設は古い施設が多く、そこは介護職員の勤続年数も長いため、人件費割合が高く経営が厳しい施設が多いのだから、死活問題である。
(※特養の多床室給付費が下がれば、当然、療養型医療施設と老健の多床室報酬だけが下がらないということにはならない。)

この背景には生活環境が個室より劣る多床室に対する介護給付費の方が高いということが矛盾であるという議論が背景にある。

しかし個室の給付費より、多床室の給付費が高く設定されているのは、もともと同額であった介護給付費が、居住費の自己負担という制度に変わった段階で、単純に自己負担分を当時の介護給付費から差し引いて設定した経緯があり、住環境として質が高い個室は「利用者自己負の居住費」負担分を高くすることで差をつけており、高い自己負担を差し引いた個室の介護給付費の方が低くなるのは引き算であり、当然のことだ。

また介護給付費とは介護サービスの手間を含めた費用であると考えれば、同室者の存在に配慮しなくてよい個室でのケアは、その配慮が必要な多床室のケアより容易になることが多い事を鑑みれば、多床室の給付費の方が高い事が必ずしも不思議とは言えないし、これを「ねじれ現象」などと呼ぶことは正しい解釈ではない。

そういう意味では多床室の費用を安易に下げるなんて言う議論はあってはならないのだ。
(参照)
介護サービスの費用とは何ぞや〜居住費自己負担を別角度から検証する
居室類型による報酬差は妥当か
個室化が進めば人手がかかる、という誤解。

24時間巡回の「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」を新しいサービスとして介護保険法に位置づけ、この部分の給付を増やす見返りとして、特養の多床室報酬を下げるという理屈は、過去の介護給付費分科会議論では、特養の多床室のケアの水準が低いというものである。そんなところに金をかける必要はないというのだ。

本当にそうなのか?24時間巡回サービスは、短時間の滞在サービスを中心にするものだから、事実上、要介護高齢者を自宅の居室の中に引きこもらせる恐れがあるサービスで、そうしたサービスと、特養のケアを一緒にされては困るし、そのために特養の多床室の報酬が下げられるのは納得できるものではない。

この点はケアの質議論と共に、今後の介護給付費分会で、中田老施協会長がきちんと訴えるべきと思うが、そうした期待はできるのか?老施協の姿勢と存在意義が問われてくる問題だろう。

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重要なお知らせ
6月29日ブログ記事の間違いについて〜来年4月以降は老健でも認定特定行為業務従事者が痰吸引等を実施できる事になります 。詳しくは貼りついたリンク先(表の掲示板の当該スレッドです)をご覧ください。

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施設ケアマネジャー研修の充実を

施設サービスは「施設サービス計画」(以下、ケアプランと略す)がないと現場でサービス提供ができないということはないし、「施設サービス計画」に現場で提供するサービスのすべてを文字として載せられるという意味でもない。

しかしケアプランとは最低限行う必要がある個別のサービスの方法を具体的に示したものであり、職員間で共有すべき統一したサービス方法の具体的内容を示したものである。だからケアプランがあることによって施設サービス従事者が利用者に対し、具体的にどんなことをどのような方法で行うかということが言語化でき、伝えることができるという意味がある。

介護サービスは再現性がないため事前に「お試し」が困難であるという特性をもっており、「サービスを受けてみないと、それがよいかどうか分からない」ものである。そうであるがゆえに事前に何をどのようにすることによって、どのような効果が期待できるかという予測を、文字や言葉で説明することにより、利用者が安心してサービスを受けたり、選択したりすることが可能になる。ケアプランにはそうした意味もある。

過去における介護施設の技術伝承は、現場で行われるサービスについて、先輩が「やっていること」を、後輩が「見て覚える」という方法が主であり、その中では十分説明せずとも見て覚えろという「職人技的要素」が色濃く、個人による技量の差が介護サービスという方法においても生じやすかったというデメリットが存在した。そのデメリットを最小化する機能をも持つものがケアプランという言語化ツールの機能の一つである。

さらにケアプラン作成作業におけるアセスメントの手法の確立が、個人の抱える生活課題を導き出し、そこに対応する方法が論理的に導き出される過程で、各職種が何を共通課題とし、それに対してどのような観点から具体的方法を導き出すかという道筋を理解できるという意味もある。

つまりアセスメントツールを通じて作成されたケアプランが、多職種の共通言語という役割を果たし得るのである。

だからケアプランを単なる紙切れにして、使えない書式にしてはいけないのだ。だから施設のケアマネは、それを共通言語となり得る形で作成する必要がある。

しかしこれが現実にはなかなかうまく行っていないようだ。何を書いているのか分からないケアプラン、課題と目標が繋がっていないケアプラン、どんなサービスを提供するのか見えてこないケアプランなどが実に多い。

例えば、アセスメント情報として、アルツハイマー型認知症があり排泄感覚がなく、オムツをしているというケースに対して、第2表に「おむつ交換」を行うとして、その実施期間が示されている計画があるが、第2表にも第3表にも、オムツ交換の時間も頻度も書かれていない計画書があったりする。これではサービス計画書として成り立たないし、職場内の共通言語とはなり得ない。

しかもそれ以前に大事なことは「アルツハイマー型認知症があり排泄感覚がない」というアセスメントは正しいのか、という問題がある。通常アルツハイマー型認知症では排泄感覚は相当晩期にならないと失われない。(参照:認知症診断の意味)失禁する理由をきちんとアセスメントして適切な排泄ケアの方法を考えているのかという部分でも疑問となる計画と言える。

3大介護と言われる基本サービスの計画内容がこれでは施設サービス計画の意味がないと言われても仕方がない。

これは施設サービス計画の立案方法、作成方法、記入方法の勉強機会が少ないということにも起因している問題である。

ケアマネジャーを対象にした研修会の多くは、居宅サービス計画の作成方法をテーマにすることが多く、施設ケアプランをテーマに取り上げても、そこでの中心は「文言の使い方」「文章の書き方」という内容に偏っており、施設サービス計画の法令上のルールと、それに基づいた運用に加え、利用者の暮らしの質を高める計画の考え方や、その具体的方法を教える研修は実に少ない。

全国老施協で「施設ケアマネジャー向け研修」は行われているが、その内容はまだまだ不十分だし、年度計画の中に位置づけられてはいても、長期的なビジュンがないから、はっきり言って、その時依頼した講師の力量に頼るだけの行き当たりばったりの内容だ。

それでも研修機会があるならまだよいが、北海道をみると、道老施協の年間研修計画には施設ケアマネだけを対象にした研修はない。これではスペシャリストは作れない。

各都道府県単位で、施設ケアマネを対象にした「施設サービス計画の作成方法」に関する研修会を開催し、施設ケアマネのスキルアップに努めるべきではないかと思っている。

各都道府県の研修担当者は是非このことを課題として考慮してほしい。

ところで、そのことを常日頃主張している僕は、6月に鹿児島県老施協研修で施設ケアマネ向けに2日間480時間の講義を行ってきた。講義後のアンケートでも、受講者の皆さんから良い評価をいただき、事務局の方から来年の同研修にもお招きいただいたが、(来年は受講対象者が違うらしい)その時に受講者の真剣な受講態度をみて感じるのは、施設のケアマネジャーが、こうした研修機会をいかに欲しているかということである。

東京都内に出て受講できる人は少ないので、各県でこうした機会が増えればと思う。

ところで今週末7/23(土)は、秋田県の北秋田市広域交流センターに於いて、「秋田県北地区介護支援専門員協会施設ケアマネジャー向け研修」の講師を務める。(参照:masaの講演予定・履歴

今回は施設ケアプランの技術的側面としての「ノウハウ」ではなく「考え方の原則」を示した上で「施設ケアマネが元気になるお話を」というリクエストがあり、鹿児島の研修でお話しした内容とは多少趣が異なっているが、秋田の施設ケアマネジャーの皆さんの、来週からの実践に即生かせるお話しに心がけたいと思う。

OFF会も予定されているので、そちらも楽しみにしています。

秋田は昨年3月に大仙市大曲で講演して以来になるけど、あの際もOFF会参加者の皆さんは、女性陣も含めて皆さんお酒が強いのでびっくりした覚えがあります。秋田の方々は皆さんお強いのでしょうか・・・。

それでは今週末、秋田でお逢いできることを楽しみにしています。

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施設介護を「災害」と評する雲上人。

あの震災以来、何かのアクションについて、震災に結びつけて理由にしたり、あるいは物のたとえを震災や被災者に置く人が多い。しかしそれは物によりけりである。そんなものを災害や被災者の方々に例えてよいのかというものもある。中には被災者の方々の気持ちを逆なでするのではないかとハラハラするような例え話をする人がいる。・・・ところで、この人の例え話は的を射ているのか?

ということで、今日は最初にこのネット配信ニュースを読んでいただきたい。

高齢者総合ケアセンターこぶし園(新潟県長岡市)の総合施設長で、災害福祉広域支援ネットワーク・サンダーバードで活動する小山剛氏は6月25日、東京都内で講演し、「利用者を自宅に戻さない介護保険施設は避難所と同じ。(現状では)介護も災害の1つだ」と述べ、施設でなく自宅で24時間365日の介護を提供する考え方が重要だとした。
小山氏は、自然災害による被災地の避難所について、「今までの暮らしを送れなくなった人が、仕方なく一時的に過ごす場所だ」と指摘。その上で、自宅で過ごせなくなった人が介護施設で生活することも同様だとして、「施設に入所する理由は、家族が自宅で介護できない状況があるから。本人が入所したいわけではない」と述べた。

(以上は、医療介護CBニュース 6月27日(月)12時32分配信記事より引用)

小山氏が地域で行っている24時間巡回サービスが国の次期改正モデルになるほどうまくいっていることは分かるが、介護保険施設を「一時的に過ごす場所」と決めつけて、暮らしの場とすることを否定してしまってよいのか?その一方で介護保険施設ではない高齢者専用住宅や介護付き高齢者住宅、特定施設、グループホームは施設ではなく、高齢者の暮らしの場だから良いとする理屈はどうなんだ。おまけに施設介護を「災害」と表現するのもずいぶんな物いいじゃないか。この人いつからこんなに偉くなったんだ?

それにしても小山さんの言っていること少し極端すぎないか?

地域福祉とは本来、居宅サービスと施設サービスが車の両輪で、後者が最終的セーフティネットの役割をもちながら地域住民の暮らしを様々な方法と環境で支えるものだろうに。施設であっても利用者の生活を分断せず、その暮らしを守ることができれば、それは人生のある時期に「住まう場所」と考えたって良いだろうし、それを目指すべき使命を我々は持たされているんではないのか。

要はそこでの暮らしの質の問題じゃないのか?単に24時間巡回サービスを推進することだけが人の暮らしを守る方法だなんていう理屈は一定のサービスの枠組みの中に地域住民をはめ込むだけの偏った価値観でしかない。もうこの人の思考回路も固まってしまってるんじゃないのか?

諸外国に例のない少子高齢社会である我が国で、人口減社会から限界集落が増えているこの時期に、特養が駄目で、高専賃でサービスを囲い込んで24時間巡回サービスで面倒をみれば地域だっていう論理は「こぶし園」の身勝手論理じゃないか?

大事なことは、どこで暮らそうと個人の尊厳が守られ、その人にとって安心と安全な暮らしが保障されることだろう。介護保険施設に入所する動機づけは本人にはないという事実はあっても、入所後にそこで暮らし続けたいと思いなおす高齢者だってたくさんいる。そういう事実を無視して介護施設を避難所扱いして、そこでのケアサービスが災害であるなんて決めつける論理は飛躍しすぎだ。きちんと暮らしの場を作っている施設関係者に失礼ではないか。

人類がかつて経験したことがない超高齢社会と人口減社会では、地域の再生は「住み替え」とセットで考えねばならず、今後の地域福祉政策はそれを強力に推し進める政治力とリーダーシップが不可欠だと考えるが、それは一面暮らしの場の多様化という具体性を持つビジョンでなければならない。

そうした時に居宅サービスだとか、施設サービスだとか、第3カテゴリーだとか言う既成の狭い概念で問題を捉えてはならず、施設であっても、居宅であっても、居宅サービスに分類される実質的な施設であっても、すべて高齢者が「住まう場」としての選択肢と考えるべきだろう。あの使い勝手が悪い「24時間巡回サービス」を受けなくても豊かな暮らしが成り立つ場所として特養の暮らしがあればよいだけじゃんか。

今更施設が避難所だとか、特養でなければ居宅だからOKだとか、そうした考え方自体が古ぼけ過ぎているよ。この人の頭の中は既に24時間巡回サービスが理想の地域を作るっていう概念で凝り固まってるんだろうな。

施設を避難所にし、施設介護を災害にしているのは、そういう古ぼけた頭で昨日の専門家が明日のサービスを語っていること、そのことだろうに。

そういえばグループホームができた当時も、グループホームの関係者から特養は「あちら側」とか「塀の中」とか言われた時期があるよな。でもそのグループホームの現状だって、質の差は激しく「塀の中はそちらだろう」っていうグループホームもあるよな。そもそもグループホームで充分面倒見てもらえないという理由で特養に入所してくるケースはなぜあるんだ?

一時的な避難所と同じか、本当に暮らしを営む場になっているかなんて、施設種別で語るべき問題じゃあないだろうに。

暮らしの場はもっと柔軟な頭で、様々な環境と位置付けを考えていかないと「こぶし園」と「小山剛」の価値観だけが正論という洗脳が始まるぞ。これはもうファッショだ!!現にこの小山発言は、正しい現状分析が伴わない上から目線の決めつけ、価値観の押しつけそのものである。

施設介護が災害であると表現する小山剛自身が既に、雲の上に立ち下界を見下ろし、気分で災害を撒き散らす人になっていないか?これじゃ彼自身が老害そのものだろ。

僕らは自分の置かれている位置を頂上と勘違いして見下ろす人になってはいけないのだ。制度改正の中で24時間巡回サービスが位置づけられる過程で、その元祖モデルのように持ち上げられていく中で何を勘違いしてしまったんだろうか?

施設サービスという括りの中で、新しい介護を創ろうと頑張っている人々がいて、実際にそこで成果を挙げている人がいて、特養で自分らしい暮らしを営む人がいる事実があるのに、それを「災害」と揶揄する人間に、福祉や介護を真剣に語ることができるというのだろうか?

まったく馬鹿げた理屈にもほどがある。

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前例主義は一種の怠慢

日本は自然に恵まれた四季のある素晴らしい国である。季節ごとの行事は、この国の祖先から我々が受け継いできた伝統ある風習である。

だから施設サービスに於いても四季折々の習慣的な行事を毎年繰り返して季節を感じることは大事だ。こうした生活上の行事や慣習は、施設内でもしっかり守って行くべきだと思う。それは日本人としての文化を守って行くことであり、利用者一人一人の過去の生活習慣を尊重することに繋がって行くことだと思う。

しかしだからと言って一度習慣づけたことを何も変えられないというはない。伝統文化は同じように繰り返してよいが、そうでないものについては本当に利用者のためになっているのか、職員の自己満足で終わっていないか、常に利用者目線で検証する意識が必要だ。お祭りなどの大きなイベントもしかりである。

施設サービスに於いては月ごとにある程度の計画を立ててサービス提供するが、その中には大小様々の行事計画が含まれる。季節行事以外にも、相撲の星取り大会とか、行事食とか、買い物ツアーとか、法話なんかが企画されることが多い。

しかしそうした企画が挙がってくることに何の疑問も感じず決済するばかりでは能がないので、僕は時々担当者に「これって何のために行っているの?」 「これって皆喜んで参加しているの?」というようなことを尋ねることがある。勿論その中には、答えが容易に予測できる「当たり前の質問」もあるのだが、企画者が過去の慣習や惰性に流され、現在の利用者ニーズを見なくなってしまうことを防ぐためである。

「前からずっと行っていましたから」では回答不十分である。答えが出るまで再試験、再質問を続ける。「〇〇さんは喜んでいました」という答えはまずくはないが、様々な行事の利用者ニーズを確認する時に、〇〇さんという名前が、常に同じ人物の名前しか出てこなくなると、それは特定人物に限って喜ばれる事柄にしか過ぎないか、あるいは企画担当者が、何でも可としてくれる誰かを無意識に選んでその人の意向しか確認していないという可能性がある。

こうしたイベントや行事は多数決の論理で結論が出せないから、大多数の人がどうでも良いと思っていても、ある特定の個人や、ある特定の状況に意味があるとしたら継続する必要性はある。しかしその一方にはそのことを支持していない、満足していない多くの利用者が存在することも事実なので、方法を見直して変える必要もある。つまり継続することしか考えないことは、単にサービス提供側である職員側の満足感にしか繋がらない恐れがあるので注意が必要だということだ。

大きなイベントを実施して達成感を持つのは利用者ではなく職員であることが多い。それはもしかしたら利用者にとっては意味のないものなのかもしれない。特別な時間より、日常の方がずっと長いのだし、そこを守るのが暮らしの支援であることを忘れてはならない。利用者の日常を犠牲にしたイベントはあってはならないのである。

前例主義とは、昨日までの専門家の仕事を真似るだけの仕事である。そんなものにとらわれず、今日、我々の目の前にいる利用者と、我々が、ともに今いる時間に穏やかな笑顔を交わしあえる方法論とは何かを考えるのが今現在の専門家である。

介護サービス現場で働く人々に言いたい。守るべきものをきちんと守るのは結構だ。文化や習慣を踏襲して守り続けることも重要だ。その一方で同時に考えてほしい事がある。

どうぞ頭を固くし過ぎて固執する人にならないでください。

前例を守る人より、前例を創る人になってください。

貴方の目の前の利用者の方々はどちらを願っているのか、心と心を繋げて感じてください。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

暮らしの場での制限は最小限に

〇さんは、十数年前に近隣他市町村の医療施設から当園に入所された女性である。

当時、相談員であった僕と、看護職員の2名で医療機関まで迎えに行った。我が施設からは高速道路を利用すれば40分もかからない場所である。

当該医療施設から緑風園に向かう途中は、僕らにとっては単なる送迎に過ぎないが、〇さんにとっては久しぶりの外出機会である。だから新しい施設に入所するための移動ではなく、せっかくだからドライブにしようと思い、〇さんが見たい場所をなるべく走るようにした。そして途中から高速に乗って施設に向かう道すがら、サービスエリアに寄って、ティータイムとしゃれこんだ。

とはいっても自販機で紙コップに注がれるインスタントコーヒーを買って飲んだだけだが、〇さんはいかにも美味しそうにそれを飲み「甘いコーヒーを飲むのは久しぶりです」と言われた・・・。あれ、そういえば・・・。〇さんは糖尿病の食事制限で、こんな時間帯に砂糖の入った甘いコーヒーを飲んじゃいけないのである。看護職員と僕がついていながら、そのことをうっかりしていた。しかしである・・・。彼女のその時に何と嬉しそうな事か、何と美味しそうなことか。

糖尿病は、進行すると大変苦しい病気である。目が見えなくなることもあるし、足を切断しなければならないこともある。重篤になれば、いわば体全体が腐ってしまうようなもので、大変悲惨で苦しい思いをする病気だ。よってその治療や管理をおざなりには決してできない病気である。だから食事管理・制限も不必要ということにはならず、周囲の関係者がそのことにストレスを感じないように協力することが何よりも大事である。

しかし僕は〇さんの笑顔が忘れられなかった。たった一杯のミルク入りコーヒーでこんなに素敵な表情になれるのであれば、そのことをもっと大切にしてもよいのではないかと思った。当時介護保険制度が始まる前で措置の時代である。まだケアプランはなく、「個別処遇計画」という言葉はあったが、利用者全員にそれに基づく介護計画を立案するというルールもなかった。

だから介護は、経験と勘に委ねられる部分が大きく、唯一拠り所とされたものは「情報提供書」であり、新規入所者の場合で、他機関から転入所した際に重視されたのは「医師の紹介状」とか「看護添書」などである。そこに書いていることを守るのが絶対であった。当然のことながら〇さんに対しては、〇〇単位の糖尿食と間食制限が指示されており、それ以外の選択肢はないものと考えられていた。

しかし〇さんが、新しい暮らしの中で、できるだけ今日のような「美味しい思い」「素敵な笑顔」が大切にされる暮らしを創りたいと思い、施設に帰って看護職員を通じて所属医師に、食事制限の必要性について改めて指示してもらうようにお願いし、その意味は「本当に今現在の管理された方法が正しいのか」という点から見直しを行ってもらいたい旨を伝えた。

その後、様々な議論や紆余曲折はあったが、結果的に検査データも安定しており、体重管理がきちんとできる範囲であれば厳しい食事制限をする必要はないという結論になり、概ね普通食で、間食もある程度可能となった。

その後70代だった〇さんは80代後半になり、後期高齢者という範疇に入っているが、身体機能は入所時から特段レベルダウンはなく、ベッドから車いすへの移乗介助を行えば、車椅子の自走は可能で、好きな場所に自分で出かけ、機能訓練にも積極的に取り組んでいる。(治療的個別リハビリという意味ではない。)顔は当時よりふっくら丸くなったが、糖尿病のデータは特段悪化しておらず、毎朝のインスリン注射を継続しているが、食事はほぼ普通食を摂ることができて、間食も常識的な範囲で可能となっている。

先日道内のテレビ番組の取材が当園で行われ、その中で〇さんがインタビューを受けていたが「私の楽しみは毎日の食事です」とふくよかな表情で話している姿が全道中継された。その放送を見た家族が「お母さんは幸せだね。」と喜んで電話をしてきた。

糖尿病の管理は、医師の判断に基づき、看護職員と栄養士が協力連携して専門的な知識を拠り所にして関わって行くべき問題であるが、専門家が「まず制限ありき」という考えになっては困る。

特に介護施設は退院という目的がある治療の場ではなく、暮らしの場であり、その暮らしが豊かになるための方法論を「健康維持」という側面を含めて考えるべき場である。だから「できないことより、できること」を探すことが必要とされるし、「制限は馬鹿でもできるが、できることを探すことは専門家しかできない」という考え方が常に必要だ。

ここで間違ってはいけないのは専門家とは人の考えをコピーする人ではないという理解である。人から教えられたものを自分の中で噛み砕き、自分自身の自分なりの考え方ができるようになっている人だけがその道の専門家と言え、これは看護・介護職員や栄養士に限らず、ケアマネジャーも同様である。

人から教えられたことだけしか理解していない専門家は、専門家といっても外部知識の翻訳者にしか過ぎず、それは追随者の哀しさで、意外な着想を思いつくというところまで知識と精神のゆとりを持っていないことになる。

そうした専門家に物事を聞くと十中八九「それは出来ません」という答えを受ける。それは彼らの思考範囲がいかに狭いかという証明でもあり、それは他人の知識のコピーという範囲からしか物事を考えられないことが原因である。

つまり知識をたくさん得ることは必要なスキルではあるが、それだけでは駄目だということなのだ。いくら知識を積み重ねても、それは必ずしも知恵にならず、知恵にならなければ本当の意味での判断力は生まれないということなのである。

そしてもう一つ重要なことは、人の状況も思いも常に遷ろうものであり、変化するものだということだ。つまり思考範囲が狭い人は、昨日の専門家であるかもしれないが明日の専門家ではない、という状況に陥る危険性が常にあるということである。

真の専門家とは、誰かの教えを真摯に受け止めても、そのことを自分の中で充分に咀嚼して、他者からの教えを自分の言葉に置き換えて表現することができる人であることを忘れてはならない。

そして僕に言わせれば、介護保険制度を設計する社会保障審議会・介護給付費分科会などの委員の大半は、この制度に関しては既に「昨日の専門家であるかもしれないが明日の専門家ではない」と言えると思っている。

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施設ケアマネ不要論について

24年4月からの介護保険制度改正に向けた議論の中に「施設ケアマネジャーの配置義務をなくしてはどうか」というものがあった。これがいわゆる「施設ケアマネ不要論」と呼ばれる議論である。

誤解を恐れず書くと、僕は介護保険施設の介護支援専門員配置義務は必ずしも必要ではないという立場であり、そういう意味では「施設ケアマネ不要論者」と言われても仕方ないのかもしれない。

もともと特養等を始めとする介護保険施設には相談員の配置義務があった。相談員とはなんぞやという議論は昔からあるが、それはソーシャルワーカーとしての役割を担う職種であると結論づけることができるであろう。

そうすると相談員とは、ソーシャルケースワークの専門知識と援助技術を持ったものということになり、本来であればケアマネジメントとはソーシャルケースワークの1技術であるに過ぎないので、ケアマネジメントができない相談員など存在しないという結論になる。

そもそもケアマネジメント技術だけに特化して、その特定技術だけを持つ専門資格などおかしいのである。ソーシャルワーカーとしての専門知識を持ったものが、ケアマネジメント技術もしっかり学んで使いこなすというのが本来の姿である。

しかし2000年4月に誕生した我が国の介護保険制度に於いては、居宅サービスの分野で、新たに居宅介護支援というサービスを創設し、この制度に特化したケアプラン作成と給付管理の方法論を「ケアマネジメント」と称して、あたかもそれが社会福祉援助術としてのケアマネジメントのスタンダードのごとく認識されている。

そのためあたかもケアマネジメントが介護サービスのスケジュール調整が主になると勘違いされる向きがある。しかしそれは大きな誤解で、この方法は日本の介護保険制度における居宅介護支援の方法論の一部に過ぎず、大事なことは利用者と介護サービスを主にした社会資源をいかに有効に結びつけて、暮らしをよくするかという援助技術であり、スケジュール調整と給付管理はそのために必要な業務の一部を構成しているだけである。
参照:介護保険施設における介護支援専門員の業務と役割に関する一考察) () (

しかも施設サービスにおいては、施設ケアマネジャーと相談員との業務分掌や、それぞれの専門職としての機能の整合性が図られないまま、あらたに介護支援専門員が配置義務に加えられたことにより、何をする人かわからない施設介護支援専門員が増えた。

主に介護職員として働いて、何軒かのケアプラン作成を担当するだけのケアマネ兼務者も多い。そうした状況でも配置基準上は、介護職員としてもケアマネとしても両者常勤専従1とみなすことができるのだから、経営者としてはソーシャルワーク技術がないケアマネが増えても、そんなことは問題ではなく、むしろ歓迎する向きがある。

介護職員がケアマネを兼務してはいかんということではなく、介護職員との兼務であっても、ケアマネジャーという業務に就くのであれば、同時にきちんとしたソーシャルワークの理論や技術を学ぶべきである。バイスティックの7原則も知らないケアマネジャーでは困るのだ。

5年間の前職経験年数がいくらあっても、ソーシャルワーカーとしてのスキルがないケアマネジャーではどうにもならない。

現行の介護支援専門員資格の一番の問題は、この資格を取得したからと言って、ソーシャルワーカーとしてのスキルを持っているという意味ではないことにあり、それは個人レベルのスキルにとどまっているという問題である。

少なくとも今現在、施設のケアマネジャーと称しながら「ケアプランナー」としての業務上の役割しか与えられていない、あるいは事実上そうなってしまっている施設ケアマネジャーが存在する。それは単なる書類作成人である。

そうであればいっそのこと、施設ケアマネジャーなどなくして、今一度原点に返って、相談員の役割として担うべき社会福祉援助技術の1技術としてのケアマネジメントに着目し、ケアマネジメント技術をしっかり身につけたソーシャルワーカーの養成を土台にした新しい配置基準の考え方があってよいと思う。つまり僕の「施設ケアマネ不要論」とは、施設サービスにケアマネジメントが必要ではないという意味ではなく、ケアマネジメント技術を実際に使いこなす専門職として、現在の介護支援専門員の資格付与過程には問題が多く、いっそのことケアマネジメント技術をしっかり学んだソーシャルワーカーが、相談員として、その役割を担った方がよいという意味である。

当然その考え方の延長線上には、相談員が行政職の任用資格である「社会福祉主事」資格を基礎とするのではなく、社会福祉士を基礎資格とするという議論があって当然と思う。相談員の配置基準だって対利用者比50:1では足りないのではないかという議論があってよい。

とすれば、「施設ケアマネ不要論」は介護給付費の削減策として、施設サービス費を削るための議論に終わらない。
(ケアマネ不要論の根底には、介護支援専門員の配置をなくするんだから、その配置分を現行の給付費には含まれており、その分を引き下げるという意図がある。)

介護支援専門員以上の社会福祉援助技術を持った専門家の配置を社会が求めているという意味だから、当然その分は給付費に上乗せすべきだからである。

どちらにしてもケアマネジャーがケアプランを作る人という意識から脱却しないと、この職種に明るい未来はないだろう。

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特養の宿直職員配置義務撤廃の提言

介護保険制度や介護報酬の算定構造には様々な矛盾や不公平がある。

例えば老健関係者の方々から言わせれば、特養の医療費が介護報酬の外枠になっていて、利用者が外部の医療機関の診療を受けても施設の負担がないことは、老健のマルメ報酬と比べて不公平だという声がある。しかしもともと老健のマルメ報酬は、医療費を包括して設定されているもので、医療費がかからない人の報酬も医療費を含めた額で算定できるというふうに考えることもでき、額の低い特養の介護報酬を鑑みれば、それは理不尽な指摘だろうと僕自身は思う。勿論、老健の関係者の方は反論があるだろう。

しかし不公平感は特養側の方からも指摘したいことがある。利用者の私物の洗濯代は特養だけが別途、利用者から負担を求めることはできないとされている(老企54号)。その理由は、もともと措置費の時代から私物の洗濯は特養の業務に含まれ、措置費にも含まれていたからだという。ブラックボックスである介護報酬の中身は謎だが、どうして算定費用の一番低い特養報酬に、老健や療養型に含まれていないとされる「私物の洗濯代」が含まれているというのか理解に苦しむ。

それはよいとして、僕が一番矛盾に感じることは、夜間の宿直職員の配置問題である。

介護保険法にこの配置義務はないことから、老健と療養型施設では、夜勤者のほかに宿直者(事務当直)を置かなくとも問題ないが、特養の場合のみ老人福祉法の関連通知「社会福祉施設における防火安全対策の強化について」により夜勤者とは別に夜間帯に宿直者の配置が必要とされている。これは制度上の大きな矛盾ということにとどまらず、経営上のリスクでもある。

ほとんど電話番くらいしか仕事のない事務当直者を毎日配置しなければならないことは無駄以外のなにものでもない。潤沢な介護報酬が手当てされているのならともかく、厳しい経営事情の中で、サービスの質の維持のためには、直接介護職員の質と数はそれなりに整えなければならず、経営は年ごとに厳しくなる。スプリンクラーが整備され、夜間職員配置加算を算定できるレベルで人員配置をしている施設であれば、当直者の意味はほとんどない。

全国老施協には会員に向けた質問等の窓口として「老施協110番」というWeb上の受付窓口を設置しているので早速そこに以下の通り意見を送った。

『介護老人福祉施設における夜間宿直職員(事務当直)の配置について

介護保険法では、夜間の当直職員配置規定はなく、老健や療養型医療施設ではそのことが求められておりませんが、特養の場合、老人福祉法上の規定で「養護老人ホームや特養等の社会福祉施設に夜勤者以外の宿直者が義務付けられている」として夜勤者とは別に宿直職員(事務当直)の配置が求められています。
しかし他の介護保険施設に規定のない夜勤者とは別の配置職員が、介護報酬の一番低い特養だけに求められているということには矛盾がありますし、他の施設で宿直職員の配置がなくとも夜間の利用者の安全性が問われないことと整合性がとれません。
夜間宿直員の配置については、東京都東村山市の特養火災死亡事故以後に規定されたものと思えますが、その後、特養にはスプリンクラーの整備が義務付けられていますし、夜間介護職員配置加算を多くの施設で算定している現状は、規定以上の職員を配置しているという実態を現わしていることと解釈できます。
実際、夜間の宿直職員は電話番程度の仕事しかなく、配置していなくとも夜間業務に支障はないし、安全性が著しく低下しないのは、老健と療養型に宿直や事務当直が義務づけられていないことでも証明されています
介護報酬の額が厳しい現状で、ほとんど仕事のない宿直者にかける人件費は経営を圧迫しています。
全国老施協は、なぜこうした不公平な人員配置基準を放置して改善の声を挙げないのでしょう?宿直職員の配置義務撤廃について会としてアクションを起こしてほしいのですが、いかがでしょう。』

以上の内容で意見を送ったのが10/13である。しかし全く回答がなかったので、12/6に再度「意見具申」の形で回答を求めた。しかしその後も全く「梨の礫」で、うんともスンとも反応がない。回答があったらあらためて皆さんに結果をお知らせしたい。

それにしてもこの老施協110番。名称にそぐわずに回答は極めて遅い。事件が起きて即応するという意味の110番の看板は下ろした方がよいと思うのは僕だけだろうか?

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施設内民族主義とユニット間格差を打破せよ

当施設は一般入所100名と、ショート12名の計112名定員のショート併設特養である。(そのほか居宅介護支援事業所と通所介護を併設している)

施設サービス部門に限って言えば、1983年に特養50名、ショート2名で新設オープンした後、1997年に増築計画が立てられ設計建築し、1999年4月から現在の規模で運営している施設である。だからいわゆる新型特養の個室・ユニットケアの考え方ができる前の施設であり、多床室を中心にした、従来型個室を36ベッド持つ「古いタイプ」の施設である。

そのためケア単位が大きいので、施設内を大きく4つのグループに分けて、それぞれ担当グループごとに介護職員を配置してケア単位を縮小化している。いわゆる「グループケア」というスタイルであるが、施設内では便宜上4つの「ユニット」と称している。よってこの記事内のユニットとか、ユニットケアとかいう文言は、12名程度を基本とした新型特養のユニットケアではなく、あくまで当施設の20数名単位のユニットケアと理解していただきたい。

それぞれのユニットには副主任ケアワーカーを1名ずつ配置し各ユニットの責任者としている。そして4つのユニット全体をまとめるのが主任ケアワーカーであり、ユーティリティーで業務につけるようにしている。各ユニットの勤務時間もそれぞれ業務実態に応じて定めており、例えば早出や遅出の勤務時間なども各ユニットにより全く違っている。それは主に利用者属性や、個別ニーズに合わせたサービスの提供方法の違いに対応するためである。

だから個別ケアの方法も、日課活動支援の方法もあくまでユニット独立型で、全体で同じレベルに合わせるのではなく、各ユニットで競い合って、よいサービスをその中で作り上げていくというのがコンセプトである。よって予算付けも決して平等ではなく、ユニット費というある程度自由に使える予算は、それを必要とするユニット、よいサービスを提供するユニットに手厚く渡すという結果になる。よい意味での競争を奨励しているのである。

しかしここで間違ってはいけないことは、競争を意識するあまり目的を忘れて「施設内民族主義」が生まれてしまい、自分の所属ユニットさえ良いサービスを作っておれば、他のユニットがどうなろうと構わないという考え方が生まれることだ。

ユニット間の競争はあくまで施設全体のサービスの低水準化とマンネリズムを防ぐためのものであり、その目指すところは施設全体で利用者の暮らしの質を高めて、そこに住まう人々の幸福に繋げることなのだから、この部分で特定ユニットだけの「秘伝」はあってはならず、良いケアをするためのノウハウやエビデンスが生まれた場合には、適切な情報伝達と教育がユニットを横断して行われねばならない。

ソーシャルワーカー(相談員)やケアマネジャー(介護支援専門員)は、こうした施設内民族主義が発生していないかを現場の中で常にチェックする役割を持ち、施設長はよりマクロな視点から全体のケアサービスの質を定期的に検証する役割を持つものだと考えている。

ところである研修会に出席した介護職員から、その研修会で研究発表した内容に感銘を受けたので、自分の施設に足りない「個別ケア」の方法を勉強するために、その施設に見学に行きたという希望が出された。そのこと自体は非常にポジティブな姿勢で、積極的に応援したいと思った。

ただよく話を聞くと、そこで感銘を受けた内容とは、当施設では既に実践されていることで、申し出た職員のユニットでやや取組が遅れている水準の問題であることに気が付いた。当該職員は「異職種」から転職した人で、介護サービスの現場を当施設の中でしか経験しておらず、かつ当該ユニットの中だけしか見えていない部分もあるのではないかと思い、他施設に見学して学ぶと同時に、施設内の他のユニットの方法を学んでみて、自分のユニットに取り入れることができるものがないか考えてみては?という宿題を同時に出した。

実際に、細かな部分でのユニット間格差をなくすために、よりレベルが高いユニットの方法に水準を合わせようとすることだけで、変わっていくものがあるだろうと思う。

他施設の良い点を積極的に学ぼうとする感性を持っている職員であるからこそ、何らかの答えを見つけてくれるだろう。

施設長の役割とは、そういう職員の思いを受け止め、感性を正しい方向に伸ばすことであって、決してそれを抑え込むことではないことだけは肝に銘じているつもりである。

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君の誕生日。

当施設は開設当初特養50床+ショート2床の単独施設であったが、1999年に特養100床+ショート12床と通所介護事業所を併設する形で増改築を行っている。

この際、職員配置や様々なサービス体制の見直しを行った。グループケア(ユニットケアより対象人数が多いのでこう呼ぶ)に移行したのもこの時期である。

サービスの見直しの中には各種イベントの見直しも含まれていた。職員の満足感や達成感やマンネリズムによって行われがちだったイベントも、利用者の立場から全面的に見直しを行った。

その中に「誕生日の祝い方」という命題も含まれていた。当時のお祝いは、その月に生まれた全員を対象に、月の最終週に「誕生会」と称する行事を行って、主にボランティア団体が披露する歌や踊りといった余興を鑑賞しながら飲み食いをするというスタイルであった。

これは考えれば随分滑稽である。誕生日でもない日に、観たくもない余興の場に無理やり連れ出されて「おめでとう」では、めでたいのはどっちじゃ!!という感じである。しかし当時は、どこの施設でも似たり寄ったりの、こうした行事が「慣習」として行われており、何の疑問も違和感も持たずに10年近く続けていたわけである。

でもそれはやはりおかしい。誕生日の祝い方も人それぞれ「やりたいこと、もらいたいもの等」があるだろうし、それはやはり誕生日に祝うべきだろうということで、今では全員一律の誕生会などなく、それぞれの誕生日に、何をしたいかを確認して、家族も招待して小パーティを開いたり、居酒屋へ行って祝ったり、回転寿司を食べに行ったり、様々である。

ところで10/2誕生日を迎えた80歳のSさんの誕生日のお祝いに際して、次のような企画書が挙がってきた。

(誕生会企画)自宅での誕生会
(実施場所)〇〇郡〇〇町(旦那さんが現在居住している所)
(目的)80歳の誕生日を旦那さんと一緒にお祝いする。住居が遠くなった為、以前のように頻回には面会に来られない為、会いにいくことで主も喜ばれ家族も歓迎し積極的に協力して頂けている。
(スケジュール)
10:00〜出発
12:00〜自宅到着予定
旦那さんを乗せて近くの食堂で昼食を一緒にとる。
自宅へ戻り帰園時間までゆっくり過ごす。
15:00〜乗車次第出発
17:00〜園到着予定

そのほか、計画書には携帯品や、使用車両、予算、注意事項などが書かれている。付き添う職員は担当グループの日勤職員と休日出勤の職員だ。片道2時間の目的地への移動だから、排泄介助などクリアしなければならない事柄は多いが、こういうアイディアを実現できることが一番大事で、もちろんこの企画案は本人や家族の同意のもと認められた。

当日の実施報告書には次のような反省と感想が書かれている。
(内容と目的に対しての評価)
主はとても喜ばれており、旦那様もとても喜ばれていた。大変良かったと思う。
主は昼食は「うな重」を食べ、ご飯もウナギも問題なく美味しそうに食べることができた。
(利用者・家族からの意見、表情)
〇〇さんも園にいるときより立ち上がり行為も少なく、落ち着かれていたように思う。また家に着かれてからもソファで臥床させていただくことで身体的負担が軽減できた。歩行状態も安定していました。旦那さんが少し疲れた様子でしたが、とても張り切って写真をたくさん撮ってプリントアウトしてくれたり、昔話を聞かせていただきました。〇〇さんにも、旦那さんにも、とても喜んでいただくことができました。
(課題)
問題点は特にないが、10/30が旦那様の誕生日とのことで、お祝いに行けたらと思っている。

自宅で誕生日を祝った方は、実は重度の認知症があり、その日の記憶はもうない。しかしその時の感情は彼女の中にきっと残されて、家族の思い出もそれぞれの胸の深い場所に刻まれているはずである。だから忘れられる記憶であっても、それは決して無駄ではない。

私達は、すべて完ぺきなサービスを毎日24時間提供することはできないかもしれないが、しかしいま我々と向かい合っているひとり一人の利用者や、その家族の笑顔になれる時を作るお手伝いができる。その小さな積み重ねが「暮らしの豊かさ」に繋がっていくことを信じて、小さな身の回りの手の届く範囲で、我々の感性を働かせて笑顔を積み上げる介護サービスを作っていくことが大事だ。

しかし人の暮らしは毎日の積み重ねである。楽しいひと時のお世話ができたとしても、それで終わっては意味がない。昨日頑張って楽しんでもらったから、今日から少しの間は、汚物にまみれ、不自由な暮らしを我慢し、我々の都合に合わせて時間を過ごさねばならない、なんてことがあってはならないのである。

そのために日々の基本サービスはきちんと一定レベルに保たれ、身の回りは清潔で、美味しく食事ができ、昼間活動できる場所と会いたい人がいて、夜ぐっすり眠ることができる環境を常に作るための支援が毎日行われていなければならない。

そういう暮らしの中でこそ、我々が向かいあっている利用者が何を望み、何をすればよいのかがはじめて理解できるものだろう。

寄り添うケアとは形ではなく、そういう関係を作りだすことを表現した言葉である。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

施設サービス「必要悪」論に反論する。

世間にはいまだに「施設必要悪論」が存在する。

本来地域住民は地域の中で暮らすべきで、施設は「暮らしの場」ではなく、やむを得ず入所する特殊な場所であるという考え方が背景にある。特に一旦施設に入所したが最後、そこで死ぬまで入所し続けなければならないことが人の暮らしとしては「異様だ」という指摘もある。

果たしてそうだろうか?なるほど、施設と一言で表現しても、色々な施設があるし、サービス提供側の論理で劣悪な生活環境の施設が存在することを否定しない。しかしだからと言って施設サービスをすべて「必要悪」と決めつけることが、この国の超高齢社会における福祉・介護サービスを考える上で建設的な議論になっていくのだろうか?そもそもサービスの質のでこぼこは、居宅サービスにおいても同様だし、介護保険制度創設以後、一番数が増えたグループホームにもそのことは言えることだし、経営者の考え一つで営業方針が決まってしまう小規模多機能居宅介護もしかりである。

しかしそれらは基本的に居宅サービスというカテゴリーの中の地域密着型サービスに分類されているから存在意義がある、というのは理屈として成り立たない。

施設サービスと居宅サービスの両者の役割分担をしっかり見据えた上での議論でないと、この国の将来の地域福祉の行く末を正しく見つめることはできないだろう。

北海道では、地域の人口が少なくなる過疎化の進行と同時に、高齢者人口が50%を超える「限界集落」がすごい速度で増えつつある。その時、地域は維持できるのか?理想としては先祖代々のお墓のある住み慣れた土地で生活を続けることが一番だが、現実の問題としてそれは不可能になるだろう。(参照:小さな福祉ニーズは守ることができるのか。

その時、どこかの時点で、住み慣れた故郷に近い場所での「住み替え」ということが必要になる。これが現在社会における超高齢社会のニーズである。

僕は施設サービスというものは、暮らしの場の選択肢の一つとしては、居宅サービスと同様の視点で考えられてよい時期に来ていると思う。高齢者専用住宅にたくさんの高齢者を集めて、外部の居宅サービスを使うことと、介護保険施設に入所することのどこに差があるのか?それを突き詰めて考えれば、自宅で暮らす高齢者が月の大半を居宅サービスの宿泊サービスやショートステイを使って暮らすこととどこに違いが出てくるのか。

こう考えた時、施設サービスが、きちんと地域の住民と密着した形でサービス展開していけば、それはもうカテゴリーが違うだけで、その人自身の「暮らしの場」としては十分機能していくと考える。そうであれば「暮らしの場」からの在宅復帰などという概念はおかしいし、本当にその方が「暮らして幸せ」な場所であれば、死ぬまでそこで暮らし続けたいから、他に行く必要なない、ということになるだろう。だから僕は施設サービスが目指すものは、もはやQOLではなくQODであると主張し続けている。我々施設職員が、施設で暮らす人々の最期の瞬間まで「傍らにいることが許される者」になり得る限り、そこは利用者にとって終の棲家になり得るもので、そうであれば「在宅復帰ができないから悪である」という理屈は成り立たない。

そもそも施設サービスと居宅サービスは対立軸にあるものではなく、地域福祉の中では車の両輪であるはずだ。住み慣れた自宅で暮らし続けるために居宅サービスは必要であるが、インフォーマル支援者が過去のどの時期よりも少ない現代社会においては、それにも限界があり、その時に最終的セーフティネットとして施設サービスが存在するから、住民は地域で安心して住み続けられるのである。当然、その前提には、施設が「暮らしの場」として利用者の生活や権利や希望を守るサービス提供を行っていることは当然必要とされるだろうから、そのことに関する質の担保に我々は日々努めていかねばならないことはいうまでもない。

だから居宅サービス関係者が、施設サービスをひとくくりにして「必要悪」と断ずる態度は、この国の将来の施策を誤らすものであると考える。施設サービスの個々の状況をみて、不適切なサービス施設を糾弾するのは必要なことだろうが、施設サービスそのものを否定してしまうような考え方があってよいわけがない。

居宅介護支援に当たるケアマネジャーも、居宅サービス関係者も、社会福祉士も、介護福祉士も、医師や看護師も、両者を対立軸に置いたり、施設を塀の向こう側の存在として批判するばかりではなく、もっと建設的に両者の役割や機能を適切に利用者と結び付けるように考えるべきである。

理想は高く掲げるべきであるが、特にこの国の将来を作り上げていくべき、20代、30代の関係者は、新しい国のあり方を見据えて既存サービスをどのように生かしていくのかという視点を持たないと、すべてが机上の空論に終わってしまう。そんなものは理想とは言えないのである。

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思いを繋ぐことが大事

施設では毎年10名〜15名程度の方々が旅立っていかれる。多い年は20名ということもある。

それらの方々のお通夜か葬儀には出来るだけ参列しているが、仏教式の葬儀では多くの場合、僧侶の「法話」を聞くことになる。おおよそ10分から15分の話であるが、話し手によって話の内容も様々で、人によってはいつも同じ話をしている方もおられる。また仏教の真理という方向で話をする方と、亡くなられた方に関する話題が中心である方など、僧侶によってその内容も様々だ。

不遜だとは思うが正直な話、この手の話で感動したり、勉強になると感じることはほとんどなく、セレモニーとして耳を傾ける場合がほとんどである。逆に中には介護サービスに対する偏見と思える話があったりして憤りに似た感情を抱くことさえある。

先日参列したある葬儀では、法話の内容が、ご家族に対し、施設に入所した後も毎日のように面会して、いつも亡くなられた方の傍らに寄り添っておられる姿を称賛するものであった。それはよい。しかし同時に「施設の関係者に聞くと、1/3の家族はまったく面会に来ず、1/3はめったに面会に来ず、残りの1/3はよく面会に来る、と言っておられたが、2/3の人が両親の面会にもあまり来ない中〜」というような言われ方をされた。

そもそもこの話の「施設関係者」なるものが、我が施設の職員ではないことは言うまでもないが、どこから聞いてきた話なのだろうかと大いに疑問である。施設に入所された方の属性は時期により様々で、単純に平均値が出せるようなものではないし、面会頻度もこれが一般的数値であるなんて言うことはあり得ない。それに面会に来る頻度で、家族の利用者に寄せる思いを推し量れるものではないのである。

現在の60代、70代の方々の子供の数は、2人や3人という人が多くて、それ以前の世代のように5人以上が普通という世代ではなくなっており、核家族化が進行した世代でもあるんだから、家族単位が縮小して、子供が親と同居していないばかりではなく、親の生活圏と、子の生活圏が全く違う場所に離れているという例は多い。特に当地域は、大きな企業のベッドタウンという側面もあるんだから、転勤により親と遠く離れた地域で暮らしている子供がキーパーソンである場合も多く、施設入所したからといって、それらの人々が頻回に面会に訪れることができない事情も様々にある。

勿論、近くに居住している家族が頻繁に訪ねてくれる状況は利用者本人にとって望ましい状況であることは間違いないが、同時に、思いは色々あっても、数年に1回とか、あるいは盆暮れにしか訪ねて来れない家族の思いもそれぞれ深いものがあることを忘れてはならない。

大事なことは、面会頻度で家族の思いを推し量ることではなく、様々な繋がり方を我々が支援することであり、それはお互いにどのような形で、今現在の親子の暮らしぶりを知ることができるかということであって、そのために施設利用者の暮らしぶりを遠く離れた家族ができるだけ知ることができ、伝わる方法を我々が考えることだ。

当施設で看取り介護を行った家族の方で、施設に泊まられた日数が40日間を超えた方がおられる。もちろんこれが現在までの最長日数である。この方は、お嫁に行き、ご主人の転勤で北海道を離れて以来、年に数度はお母さんの自宅に帰省し、数日を過ごす習慣を何十年も続けていたが、お母様の体がご不自由になり施設入所した後は、施設に任せきりで(実際はそんなことはないのであるが)一度も自分が母親と過ごす機会をもたなかったことを後悔されていた。ただそのことは施設に任せても安心であるという思いの裏返しでもあったという。そしていつも送られてくる写真や手紙を読んで、自分が傍らにいるように安心していたという。

その方が、とうとう母親が看取り介護の対象になる時期が来たときに、せめて最期の時は自分がずっと傍らにいようと決めて、このような長い期間、施設の中で(不自由なこともいろいろおありだったと思うが)お母さんと過ごされ、最期の瞬間をしっかり看取ることができた。しかしその前提には、この施設で、こうしたことができる体制にあるということと、今まで母親が施設職員とどのような関係を築いて、どのように暮らしていたかということが、遠く離れた家族にも伝わっていたということが大きいと思う。

幸い現在は、インターネットを通じたコミュニケーションなど、様々な方法で、距離を感じさせない意思疎通できるのだから、そうした方法による支援も必要な場合がある。そのことで、親子や家族間の繋がりが深まるのであれば、これは立派なソーシャルケースワークである。

広報誌などもその方法の一つであろうが、いつの間にか、そのことが定期的なセレモニー、ルーティン化して、本当の目的を忘れて形式的なものになってしまえば意味がないということである。

コミュニケーションとは形を伝えるのではなく、それぞれの「思い」を伝えることであるということを忘れてはならない。

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施設サービスの呼称変更は必要ないか?

介護保険法第2条第4項では「第一項の保険給付の内容及び水準は、被保険者が要介護状態となった場合においても、可能な限り、その居宅において、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように配慮されなければならない。」と定めている。

第一項の保険給付とは要支援者及び要介護者に対する保険給付(居宅サービス及び施設サービス)のことであるから、介護保険サービス利用そのものが「可能な限り、その居宅において」生活できることをまず考えるためにあるんだよ、という規定である。

これが巷(ちまた)でよく言われる「介護保険は在宅重視(あるいは居宅サービス重視)の制度である」という根拠である。

しかし法文をよく読めば、この意味は「在宅重視」というより「在宅優先」という意味であると解釈できる。つまり介護保険法第2条第4項の本当の解釈とは、居宅サービスと施設サービスは、地域福祉の両輪をなすものであるが、施設サービスは、居宅での生活が困難となった人のための最終的な暮らしの場の提供を目的としたもの、つまりセーフティネットとしての意味があり、施設入所を考える前に、まず居宅において暮らしを続けられるように配慮せねばならないよ、という意味である。

ところが居宅サービスと施設サービスが地域福祉の両輪であり、後者が地域の介護問題のセーフティネットの役割を持つという意味を知らない人々が、この法文を誤って解釈し、施設サービスとは、あたかも「必要悪」であるがごとく、居宅サービスの下に見る考え方が生まれている。

そうであるがゆえに、例えばグループホームの関係者に「貴施設は〜」と言おうものなら、「グループホームは施設ではありません!!」「じゃあ何なの?」「居宅サービスです」「じゃなんて呼べばいいの?」「貴ホームと呼んでください」なんて言う馬鹿げた会話が交わされたりする。

グループホームも特定施設も利用者が24時間生活する「暮らしの場」であり、その箱物は「施設」である。特定施設は本体施設が別にあって、本体施設の提供しない介護サービス部分の給付を特定施設サービス費として給付しているので、ここを居宅サービスに分類しているだけだし、グループホームは民間営利企業の経営を可能にするように便宜上「居宅サービス」に区分しているだけであり、これは単に介護保険法上の分類にしか過ぎない。
(参照:グループホームは在宅であるという誤解

しかし施設という呼称そのものに偏見が生まれるという現実は否定できない。

本来「施設」とは、単に「社会生活を営む際に利用する構造物」という意味である。しかしながら過去の福祉制度においては、施設と言えば「収容の場」と呼ばれていた歴史的事実があり、そうしたイメージから、施設=人権を無視した措置・収容の場、というイメージを持つ人が少なからず存在する。

同時に文字イメージにおいても、施設病(ホスピタリズム)という言葉が浮かんでくるように印象があまり良くない。

そういう意味では、居宅サービスに対する「施設サービス」という言葉自体変えてもよいのではないだろうか、いやむしろ変えたほうが良いのではないかと思い始めている。

そんな必要はなく社会に対し「施設」という言葉だけで偏見を持つなというアピールをしていけばよいではないか、あるいは、施設サービス自体のサービスを向上させ偏見を持たせないようにすることが先決であるという意見も当然あろうが、長い歴史の中で植えつけられたイメージからくる誤解や偏見はなかなか変えられるようなものではないのだから、マイナスイメージが付きまとう呼称自体を変えるという考え方があってもよいと思う。

例えば「入所サービス」「暮らしサービス」等々である。いかがなものであろうか?

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施設系介護支援専門員の研修充実が課題

のぼりべつケアマネ連絡会という組織には現在107名が会員として登録されている。

そのうち介護保険施設業務従事者は20名に満たない。ただ居宅サービスに分類されているグループホームや特定施設の職員が、このほか20名弱いる。これらの介護支援専門員は単品サービスとして自施設の内部の介護計画を立案するという意味で、ケアプラン作成作業は介護保険施設のそれと同様であり、そういう意味で「施設系サービス」と分類して良いだろう。つまりこの記事で「施設系サービス」と定義しているのは介護保険3施設・特定施設・グループホームという意味である。

それ以外の6割を超える会員は居宅介護支援事業所か、居宅サービス事業所に所属する職員である。

ケアマネジメントについては、介護保険制度創設により新設された居宅介護支援事業所の介護支援専門員が行うケアマネジメント技術の確立、つまり給付管理を含めたケアプラン作成方法(居宅サービス計画の作成)の理解が先決とされていたこともあり、居宅系のケアマネジメントやケアプランに関する研修は、制度開始当初から全国各地で行われ、現在もその状況には変わりがない。

一方「施設サービス計画」作成や、施設のケアマネジメント全般に関する研修というものは、それに比べて多くはない。これは特養等では、施設サービス計画自体は、介護保険制度以前から「個別処遇計画」という形の計画を作成している施設が多かったことと、相談員業務がそのまま施設ケアマネ業務に置き換えられていった施設が多かったことで、緊詰の課題がさほどなかったという理由もあるのだろう。全国老施協でも「施設ケアマネジャー」向けの研修を始めたのは1昨年からであり、僕はその第1回のコーディネーターを務めされていただいたが、こうした施設系ケアマネジメントに関する定期研修会はまだまだ足りない。

しかし制度施行から10年を経て、施設の介護支援専門員も様々な業務をこなしており、一方では施設サービス計画作成の専門性が確立していないという課題が残されたままである現状を考えると、施設のケアマネジャーの専門研修の充実が必要で、そこできちんと相談員と介護支援専門員の業務内容の区分や融合を考える必要があるのではないかと感じている。もちろんこの課題は介護支援専門員が専任なのか兼務なのかによっても違いがあるだろうし、それぞれの施設での相談員と介護支援専門員の位置づけの違いによっても業務内容は異なっているのではないかと想像できるが、ある程度の共通基盤を確立したうえで、それぞれの組織の状況に応じた業務分掌の考え方が必要ではないかと思う。よって今後は施設系のケアマネジメント、施設系プランの作成方法といった内容の研修会がもっと開催される必要があるだろう。

そういう意味で、各地で招かれる講演・講義などでは今年度以降は「施設の介護支援専門員の業務」に関するものも増えてきてほしいと考えていたところ、帯広市介護支援専門員連絡協議会・施設系ケアマネ班から7月10日に講演を依頼された。3時間半という長い時間の研修であるが、中身は自由に構成してほしいという依頼であった。

帯広市には3月の成澤氏の講演を受講させてもらったという恩義があるので(参照ブログ記事はこちら)今回は忙しい日程を何とか調整してお受けすることにした。

テーマは「ケアマネジメントから考える豊かな暮らしづくり」として「施設ケアマネジャーの業務と役割から考えるポジティブプラン」という講演と、「生活の場で求められるサービスを考える〜チームケアで介護の常識を変えよう」という講演の2題で研修を組み立てた。最初の講演で特養等の介護保険施設や特定施設・グループホームにおけるケアマネジメントとケアプラン作成の実務を考え、次の講演でその向こう側にあるであろう利用者の「豊かな暮らし」を実現するために必要な視点や方法を考える内容にしようと思っている。

講演案内はこちら「帯広市介護支援専門員連絡協議会 研修会」からご覧になれるが、定員が100名ということである。もしまだ席があったらお近くの施設系ケアマネジャーの方(特養・老健・療養型・グループホーム・特定施設の方々)は是非おいでいただきたい。

ところで今一番悩んでいるのは、当日お昼ころに着く予定であるが、その時昼食は帯広名物の「豚丼」にするべきか、帯広の有名なラーメンにしようか、はたまた別のものにしようかということである・・・。まあこれも旅の楽しみなので「くだらない悩み」であるが、大目に見てお許しいただきたい。

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内部告発者の苦悩

今日は僕の感想をあまり入れずに、主に事実関係だけを紹介する記事となるかもしれない。

表の掲示板に5月26付で「内部告発をしたいです」というスレッドが立てられた。そのレスポンスとして様々な方が意見を述べているが、僕も次のようなレスポンスをつけた。

「介護保険制度以後、特養の虐待事件が公になった最初の事件は札幌市白石区の特養・ルミエールの虐待問題ではなかったでしょうか?この問題は職員の内部告発がきっかけで問題が明らかにされましたが、この施設の問題のように明らかな虐待と思われるケースでも経営者はいまだにそのことを否定し、しかも内部告発者は施設内で嫌がらせを受けたという別問題にな発展しました。その問題、ちょうど昨日札幌高裁の差し戻し控訴審において施設側に対し内部告発をして不利益な取扱いを受けた(罵倒される、会議に出席させない等)職員2人に80万円ずつ、計160万円を支払うように判決が下りました。
このように内部告発者の保護義務があるとは言っても、今現在の状況は内部告発者が全く傷を負わないことにはならず、裁判沙汰にならないと保護されないという状況もあります。このことをまずもって覚悟する必要がありますし、告発するにはそれなりの証拠、正式な記録、録音、録画など証明するものがないと実際に取り上げられるまでにはならないと思われます。まず証明する証拠を握ることが肝心です。」

以上である。

このルミエール事件の経緯は「特別養護老人ホーム ルミエール虐待事件の経緯」「ルミエール内部告発その後」「ルミエール高裁判決」等を参照いただきたい。このほかにもネット検索すれば、数多くヒットするサイト等があり全容が理解できるだろう。

そもそもこうした虐待が日常的に行われていたことが許されないことだし、異常なことであるのに、虐待を行った当事者を処分せず、虐待という事実を隠すために、虐待を告発した職員に対して陰湿な嫌がらせと思える行為や、差別を行うというのは「ひどい」を通り越している。逆にそうした行為に関わった管理職や介護職員が、何も責任をとらず、現在もサービスに関わっているとしたら、これは何を信じてよいのか分からなくなる。

第3者が見ていないところで神様が見ているかどうかは知らないが、少なくとも虐待を受ける利用者や、虐待を行う自分自身は、しっかりそのことを目に焼き付け、心に刻んでいるはずだ。そのことはやがて必ず自らの心に向かう刃になるであろうことを当事者は肝に命ずるべきである。

じっと目を閉じて、一人静かに自らの「心の闇」をみつめなさい。

ところで、このスレッドに内部告発したことによって嫌がらせを受けた当事者の方が5/30付で書き込みをされている。その内容は

「私はmasa様が仰っていた札幌の事件の内部告発当事者です。この掲示板は、以前から参考にさせて頂いていましたが、投稿は初めてです。今回、この話題になっていましたので、躊躇しましたが、体験談を書かせていただきます。
匿名様は、返信がないようですがまだきっと悩んでおいででしょうね。
私の経験からは・・はんかくさい経営者は、決して認めようとしませんからそのおつもりで。そして告発に至るまでに、必ず正当な訴えを職場内で一通りやってみましょう。それをやってしまうと解雇になったりする心配があるのでしょうが、そこでへこたれるのでは、告発など到底無理です。解雇されたら、不当解雇で闘うくらいの気概がなければいけません。
職場内での訴えを怠ると、公になった時の防御が薄くなります。
上記のように、このような行動は、当事者に闘う気などなくても、経営者にとっては宣戦布告ですから、どうしてもひとり孤立した時の支えは準備しておかなくてはなりません。たいてい職場で同じような気持ちの仲間を支えに、と思うでしょうが、それはあてになりません。信用しながらも、信用せずに、証言の記録や録音は用意しましょう。
私の問題では、私より先に市や道に投書などで働き掛けた人が居ましたが隠蔽されました。行政は施設に確認したり、会議などをしなさいと指導しただけでした。その1ヶ月後に、私が施設内での解決を試みましたが、圧力に負けそうになりました。そして2ヵ月後に所属の組合を通じて、今度はもみ消されないように、市への申し入れと同時に新聞に報道してもらいました。
私にとっては、労組の支えがなかったら、精神的にも裁判費用などの金銭面でも耐えられませんでした。職場内の仲間は、土壇場になると経営者と本気で闘う気持ちのある人はなかなかいませんから、孤立は覚悟でするしかありません。
そして、最後まで頑張り続けなければ、自分が犠牲になるだけで、いい事はひとつもないに等しいです。ちなみに私は職場の健全化を訴えて組合の立ち上げから虐待問題を経て、裁判が終わるまで7年半かかりました。その間プライベートも健康も犠牲にしてきました。
匿名さんのような状況は許せませんが、内部での解決へ向けての努力をまずは考えるべきです。自分の職場なのですから、やめる前に出来ることはしてみましょう。方法は告発だけではありません。何をやってみてもだめなら告発も視野に入るのではないでしょうか。長々とすみませんでした。」

以上である。言葉が浮かばないほどショックである。さぞ大変であったろう。しかも過ぎ去った7年以上という月日の重さを考えると内部告発者が守られない状況に対する深い憤りを感じざるを得ない。心の傷を癒し1日でも早くお元気になっていただきたい。

それにしても「私より先に市や道に投書などで働き掛けた人が居ましたが隠蔽されました。」と書かれているが、なぜ行政担当課はこうした問題に踏み込んで人権を守ろうとしないのだろう?ここが一番の疑問である。

この国の福祉や介護には、まだまだ深い闇が残されている。多くの心ある関係者にとっては本当に胸の痛むことであろう。

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社会福祉援助者の良識が問われるとき

4月15日、介護施設関係者には衝撃にニュースが流れた。

宇都宮市平出町の介護老人保健施設「宇都宮シルバーホーム」で、20代の複数の介護職員が、認知症の入所者が上半身裸で四つんばいになっている姿を携帯電話で撮影したり、入所者の顔に落書きするなど、虐待の可能性がある行為を行っていたというのである。

その内容もひどいもので、同法人によると、これらの行為は2年前〜昨年末にかけてあり、認知症の女性の姿を携帯電話で撮影したのは、女性介護職員。自立歩行ができずに、ベッドの下で四つんばいになっている姿を撮影し、同僚たちに見せて笑ったという。このほか、別の介護職員2人が、認知症の女性入所者の顔にペンでひげを書き、携帯電話で撮影したというのである。

同法人が3人の介護職員に聞き取り調査をしたところ「親しみを込めてやった。かわいかったから」と話したという。同法人は3人を訓戒処分とし、始末書を提出させた。 また、男性介護職員は、90代前後の女性入所者を車いすからベッドに移す際、高く持ち上げて乱暴に落としたという。この男性介護職員は既に依願退職している。これだけでも重大な問題なのに、この問題はこれだけで終わらず、さらに重大な問題を引き起こしている。

それは同法人が、このことについて一旦は虐待があったとして謝罪したものの、その後態度を一変させ、90代の女性を高く持ち上げベッドに落とした行為について「乱暴に落下させてはいない」と強調。 上半身裸の写真を撮影するなど一連の行為で「精神的な苦痛を受けた入所者もいるのでは」との質問に対し、尾崎理事長は「悪意がなかったため、(虐待に)当たらない」との見解を示したのである

このような人間の尊厳を犯すような行為について悪意がないから虐待ではないという理屈が社会常識として通用するのか大いに疑問であり、行われた行為は明らかに「人を傷つける行為」以外のなにものでもないし、仮にそのことに気がつかず「善意」のつもりで、この施設の職員がそのような行為を行っているとしたら、相当な馬鹿としか言いようがない。そういう馬鹿な意識を放置した施設管理者の責任はより大きく問われるだろう。

しかし第三者がこの問題を調査したら必ずこのような行為は「虐待」であるいう常識的判断が下され、社会から痛烈な批判が起きることは免れないだろうと思っていたら、その期待も裏切られた。

4月30日に宇都宮市が、市の見解として、職員の行為は虐待には当たらないものの不適切で、職員教育も不十分だったなどとして、同施設に介護保険法に基づく改善勧告を行った、というのである。

このような人権無視の行為を行っていて、これが単に不適切行為であって虐待ではないと考えるとしたら、この国の虐待の垣根はずいぶん高くて、人権意識はずいぶん低いんだろう。そんな国の施設に入所させられている人々は不幸であるといわざるを得ない。なぜこれをきちんと「虐待である」と認定し糾弾し、2度とこのような行為を犯さぬように国全体で考える方向に持っていかないんだろう。こういう施設に対してこそ「指定取り消し」を行うべきである。(老健だから許可取り消しか?)

どちらにしても、当該施設の管理者はじめ役員諸君、職員の皆さん、自己保身に走る前に、自らの良心に基づいて何が起きたのかをきちんと明らかにしてほしいものだ。

そもそも介護職や看護職や福祉援助者を目指した動機は何でしょうか。自分が人の幸せに結びつく援助に関わることができ、我々が向かい合う一人ひとりの方の幸福感や笑顔を作り出すことができることが我々のモチベーションではないのか。

人の大切な顔にいたずら書きをして喜んでもらえると考える人がどこの世界にいますか。介護施設にだけ存在するとしたら何と特殊な世界なんでしょう。裸の上半身の写真を意味もなく撮影されて何が嬉しいなんておかしすぎる。そんな正常な感覚さえも失ってしまう現場が我々のサービスなんだろうか?恥を知るべきは誰か、真剣に考えてほしい。

この問題を同考えるのか緊急アンケートを実施したい。是非回答に協力願います。
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個室化が進めば人手がかかる、という誤解。

厚生労働省が特養の居室面積基準について、一人当たりの最低面積基準を現在の8畳から6畳に緩和するとともに、特養の個室化率を全入所者の7割まで引き上げるように整備をする方針であることを発表した。

基準面積に緩和について、環境の劣悪化につながる改悪だと主張する向きもあるが、個室を整備し一人当たり6畳のスペースを確保できれば、収納スペースなどを工夫して、住環境を整えることによって特別問題視するほどのデメリットは生じないだろう。むしろ居室だけが生活空間ではなく、そのほかに共用スペースなどの、くつろぎのスペースが確保できるんだから、総合的に考えれば超高齢社会における様々な「暮らしの場」の選択性を増やす方向からいえば決して間違った基準緩和ではない。

同時に個室化推進について、個室化によりケアが大変になるので配置基準の見直しが必要だと主張する人がいる。確かに現在の配置基準は十分ではないが、しかし個室化=人手がかかる、と考えるのはあまりにも素人的、短絡的な見方で、それは間違いである。

人手がかかるのは個室化によるものではなく、個室を中心にしたユニットケアのソフトによって、一人ひとりの個別状況にきめ細かく対応する「ケアスタイルの変化」「介護サービスの品質向上の取り組み」が人手をかけないとサービスが困難となる要因であって、単純に個室化しただけで、人手がかかるということにはならない。逆に言えば良いサービスを提供しなければ個室化によって人手を減らすことだって可能である。ここを素人は勘違いしている。

現に我が施設がユニットケアより単位が大きいグループケアにしただけで、個室形態は変わっていないのに人手が必要になった経験がある。人手が必要かどうかは実はハードの問題より、ケアソフトに起因する問題なのだ。

なるほど個室化によって、職員の導線は広がらざるを得ないだろう。しかしそのことの手間はさほどでもない。そもそも多床室の中で展開するサービスが、個室のケアより手をかけなくてよいとでも思っているだろうか?それは大きな間違いである。

多床室で、身体介護を行うといっても、ケアサービス自体は1対1であることに変わらず、多床室だからといっておむつ交換や着替え等を4人まとめてできるわけがない。多床室であるがゆえに個室よりケアを合理化できる部分があるとすれば、活動参加の声かけや誘導の部分で一部屋で複数の人に同時に対応できるくらいであろう。しかしそれとて、一人ひとりの状況に配慮したい、移乗介助自体は1対1で行うものだから、省力化というほどの事でもない。

むしろ居室形態とケアの手間ということだけを考えれば多床室の方が手間と配慮が必要な場面は多々ある。

例えば多床室であるがゆえに、おむつ交換や着替えを介助されている方の「裸の姿」を他の同室者の視界から遮るためにプライベートカーテンを引いたり、夜ならば介助している人以外の安眠を妨げないために音を出すことにも気を使ったり、排せつ介助中の臭いが漏れないような工夫も必要になる。こうした個室なら必要のない様々な配慮と手間が多床室であるがゆえに必要なのである。

またある特定の方に用事があって多床室まで逢いに出かけたとしても、その方だけに声をかけるということにはならず、きちんとした施設職員なら用事のない他の方にも挨拶をして声をかけ、要件の内容によっては用事のある人を別の場所まで誘導して要件を済ます、という対応が必要である。個室ならこうした手間を全て省いて居室内だけで要件が完結することが多い。認定調査だって、同室者の方に迷惑にならないように配慮する手間も省けるというものだ。

何より同室であるがゆえにひき起こる様々な人間関係トラブルが生じないし、そのために必要だった居室調整、居室移動も必要なくなるのだから、これは大きな業務負担軽減に繋がるのである。

つまり多床室ケアから、個室中心ケアに移行した途端に人手がかかって困るという施設は、もともと品質の高くない、配慮のないサービスを行っていた可能性が高いのである。

職員配置基準の問題とは、過去とは違って今現在、社会から求められているサービスの質というものが異なってきているということに起因し、その質を確保し維持し、さらにその向上に努めるなら、現在の3:1という配置基準は少なすぎるのである。なぜならそれは単に雇用従業者の数だけの規定でしかなく、実際に一人の従業員がカバーする要介護者の数が日中でも10人を超える状態の時間帯もあるし、夜間は20人以上を一人で見なければならない配置基準で、そもそも元の数値が低すぎるからである。

よって個室を推進するなら基準配置を見直せ、というのではなく、求められているサービスの質や、高齢化、重度化の進行によって、過去に決めた配置基準が実態とあっていないので見直しが必要だというのが現状理解としては正しい。

つまり新型特養だけではなく、既存型の多床室がある特養であっても、ケアの質を社会から求められている水準に担保してサービス提供しようとすれば現行の配置基準は見直しが必要な低水準であるという本質に思いが及ばないと意味がないのである。

個室化推進が単純に人手を必要とすると考えるのは、そういう意味でも「ど素人」の的外れな意見でしかない。しかしこういう連中が、この問題に関して、報道記事なり批評を書いているんだから、一般市民が問題の本質をみることができなくなってしまうのである。

さらにいえば、そういう記事を掲載している、業界サイトが存在するというのにも困ったものである。そういう所に知識が不十分な介護支援専門員が集まって、素人の意見に毒されて、おかしな考えを持ってしまうから、この職種の社会的信頼度がイマイチ高まらないのである。

重ねていえば個室化7割の推進にあたって、もっとも考えなおさねばならない問題は別にある。それは生活保護受給者の施設入所において、経過措置(施設が個室化を行って多床室が利用できなくなった場合に多床室あるいは多床室の利用できる他施設に移り住むまでの間のみ個室利用を認めている)を除くと個室利用を認めていないという現行ルールの見直しである。(ショートの場合、自己負担をすれば個室利用を認めているが、入所の場合自己負担利用も原則認めていない)

個室が全体の7割になれば、それはもう「ぜいたく」というにはあたらないだろうし、そもそも多床室に入所すること自体が困難になる可能性が高い。生産労働年齢に属していたころに何らかの原因で経済的に恵まれなくなったという負の遺産を高齢期まで引きずり、そのことが原因で保護受給に至った人達が、介護サービス利用することにおいても格差が生ずる状態は「劣等処遇原則」に他ならず、福祉国家として、こうした状態を放置しておくことは恥ずべきことである。

生活保護受給に至る経緯には様々な状況があり、すべて自己責任論で片づけられないのだから、保護受給者の権利が、保護を受給していない人のそれより低く考えられるのはおかしい。

このことをもっと議論して変えて行かねばならない。

それにしても新聞記者やニュースキャスターの浅はかな見解を信じるのでは専門家として恥ずかしい。介護支援専門員や介護サービス従事者であるなら、介護サービスに携わる専門家として、それらの素人の意見に飲み込まれず、自分なりの意見や見識を持つべきである。

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身寄りのない施設入所者の死後対応について

表の掲示板に時折「身寄りのない施設入所者の死後対応」に関する相談が寄せられる。

その相談の多くは、特養が介護保険制度創設以後、措置施設から契約施設になったために、身寄りのない入所者の死後の対応について、葬祭執行や埋葬、遺留金品の処理まで施設が行わねばならないと市町村担当者からいわれて困っている、あるいは、誰が行うべきかわからない、という相談である。

介護保険制度ができて、特養入所が措置としての行政処分ではなく、施設と利用者との契約となったからといって、それはあくまで施設入所利用契約に関する「契約」であって、死後対応まで施設と契約を結んでいるものではない。また入所施設として利用者と深い縁を結んで対応しているのだから道義上の責任において対応すべきではないかと主張する人がいるようだが、そういう観念論で対応を決められるべき問題でもない。なぜなら施設及び施設長には、利用者の死後の様々な対応処理に関する執行義務がないばかりではなく、権限がないことによって「出来ない」ことがあるからである。

例えば本当に身寄りが全くなく、相続人がいないのかを確認しなければならないが、身分関係は戸籍で公証されるため本人の戸籍を遡って除籍謄本や改製原戸籍謄本を取寄せて調査しなければならない。この場合、その調査は地方公共団体の職員が職務上必要とする場合に行なわれるものであり、市町村職員が公用請求により除籍謄本等を取り寄せて行なうのが通常であり、施設の管理者や職員にその権限はないものである。

それでは「身寄りのない施設入所者の死後対応」は誰が、どのようにすべきなのか。このことは介護保険法には特段の定めがない。しかし介護保険施行時に、厚生労働省は「施設所在地の区市町村が一般の住民サービスとして葬祭執行等を行うこととなる」という見解を示している。あくまで市町村の責務として執り行われるべきなのである。

特養が措置施設であった当時、葬祭執行については、老人福祉法11条第2項において「措置入所者が逝去した場合において葬祭を行なうものがいないときは、区市町村がその葬祭を行い、または入所していた施設にその葬祭を行なうことを委託する措置がとることができる」と規定していた。これにより市町村責務としてこれを行っていたわけであるが、介護保険制度に移行して特養が措置施設でなくなったことにより、この規定の適用は及ばなくなったと言えるが、だからと言って身寄りのない施設利用者の死後対応が市町村責務ではなくなったわけではなく、一般の住民サービスとして葬祭執行等を行う義務はあると解釈されているものである。

つまり老人福祉法11条第2項は措置権者の責務を改めて示していたというふうに解釈して良いもので、地方公共団体としての身寄りのない方への責務が措置から契約に変わったからといって、契約施設の中で一般地域住民と別に取り扱われるというものではなく、市町村としての責務はそれがなくても当然存在すると考えられるものなのである。

そして墓地・埋葬等に関する法律9条1項に「死体の埋葬又は火葬を行う者がいないとき又は判明しないときは、死亡地の市町村長が、これを行なわなければならない」という規定に基づき、身寄りのない契約入所者が施設で逝去した場合には、施設所在地の市町村長が葬祭を執り行い、「死体の埋葬又は火葬を行う者がいないとき又は判明しないとき」においてはそれも市町村長がこれを行うものである。

当然、遺留金品の処理権限も施設は持っていない。本来であれば遺留金は逝去者の相続人に帰属する。しかし相続人がいない場合や存否が不明の場合には誰かが遺留金を管理することが必要になり、このような場合について法律は、相続財産を法人とみなし(民法951条)その管理のために家庭裁判所が相続財産管理人を選任することにしている。(民法952条)

措置施設の場合はもとより、介護老人福祉施設の場合においても、身寄りのない入所者が逝去し相続人がいない場合や存否が不明の場合には、葬儀や納骨の費用を支弁した後の遺留金品はいったん市町村が歳入・歳出外現金として保管する扱いが基本となる。(通常は施設所在地の市町村;東京都においては葬祭を執行する市町村と同一とするという取り決めがなされている。)

そこで施設は遺留金品を当該市町村に引き渡すこととなる。

市町村は被相続人の最後の住所地を管轄する家庭裁判所に対し相続財産管理人の選任の申し立てを行う。申立権があるのは「利害関係人または検察官」とされており(民法第952条)市町村の公務員は管轄裁判所に対応する検察庁に対し通知し(家事審判法7条、非訟事件手続法16条)検察官が財産相続管理人の選任申立を行うことになる。もっとも当該市町村職員が利害関係人として申立を行なっても構わないとされている(昭和35.6.13民事甲1459民事局回答)なお利害関係人は例えば、相続債権者、特定遺贈の受遺者、特別縁故者、事務管理者等である。

申立を受けた家庭裁判所は、必須事項を調査したうえで、審判により相続財産管理人を選任する。
相続財産管理人は相続人の捜索の公告を行なうなど清算手続きに着手し最終的に残余の相続財産は国庫に帰属する。(民法第959条)

このような流れの中で、施設が関与できるのは市町村に遺留金を引き渡す段階までというのが通常の流れである。

ただし介護報酬以上に値する以上の献身的な努力をしたなどの特別な事情がある場合は法人としての施設も「特別縁故者」と認められ上記の申立を行なうことが可能な場合がある。

ところで、これらは財産処分をできる権限を持つ者が別にいない場合で、かつ死体の埋葬又は火葬を行う者がいない場合の取り扱いで、身寄りがない施設利用者であっても成年後見人などが、この権限を持っている場合は市町村の関与によらない方法が可能である。

それは任意後見契約の際に「死後事務の委任契約」を一緒に締結しておくという方法である。注意しなければならないのは、あくまで「死後事務の委任契約」は「任意後見契約」とは別の契約であり、「任意後見契約」を結んでいるすべてのケースが死後事務の委任がされているわけではないということである。

任意後見契約の際に「死後事務の委任契約」を一緒に締結しておくと、死亡届や葬儀・埋葬の手続き、債務の支払い等を行い、最終的に残った財産を遺言執行者や相続人に引き渡すところまで任意後見人が行うことができる。

さらに遺言書を作成して、遺言執行者を指定しておけば、まったく身寄りのない方でも行政に任せずに死後の処理一切が可能となる場合がある。

施設の相談員など、この問題を担当する職員は、そのことを十分理解しておき、任意後見人を選任している身寄りのない施設入所者については、「死後事務の委任契約」を同時に締結するように勧めすのも考えられる対策の一つである。

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