masaの介護福祉情報裏板

介護や福祉への思いを中心に日頃の思いを綴ってみました。表の掲示板とは一味違った切り口で、福祉や介護の現状や問題について熱く語っています!!表板は業界屈指の情報掲示板です。

唄・フォークソング

素敵な誕生パーティーに集う素敵な人々


このブログで何度か紹介したイベント、「BABE 40th Anniversary 2019.2.22〜生きるために必要な10のこと」が、22日(金)、神戸のライブハウス、チキンジョージで盛大に行われ、そして多くの感動を残して幕を閉じました。

130人以上の来場者があったのではないかと思われる会場には、このイベントに参加するだけのために四国や九州などから駆けつけてくださる方もおりました。主催者とゆかりのある登壇者が幸地クンの40歳の誕生日を祝うために北海道から沖縄まで全国津々浦々から駆けつけてきたのは勿論のことですが、それ以外の方々が遠くから駆けつけてくれたことには、主人公の彼も感激していたのではないでしょうか。

そんな会場は、イベントの進行とともに熱気に包まれていきました。それにしてもこの日の主役である幸地伸哉氏のパフォーマンスは、最初から最後まで最高でした。
幸地伸哉
この男、格好えかったです。
ライブin神戸チキンジョージ
僕も柄にもなくライブステージに立って唄いました。歌詞忘れて立ち往生したけど・・・。ライブin神戸チキンジョージ
ライブin神戸チキンジョージ
向かって右は、和歌山のケアマネ・福田雅季さん。彼のアレンジで何とか声を出せました。フッキ―感謝です。
ライブin神戸チキンジョージ
音声のある一部画像はFBにはアップされていますし、福田さんがユーチューブにフルコーラス画像をアップしておりますがその場所は内緒です。こちらではとてもではないけどアップできません。
ライブin神戸チキンジョージ
ライブin神戸チキンジョージ
ライブ終了
プロ顔負けのパフォーマーたちが競演する中で、場違いなライブでしたが、なんとか無事終了。最後まで聴いてくださった会場の皆様に感謝です。
トークショー
もちろんまじめなトークショーも、しっかり行っております。

しかし調子に乗るとお仕置きを受けるのが、神戸エリアでは定番です。ユアハウス弥生の飯塚取締役は、ステージでは素晴らしいパフォーマンスを見せてくれましたが、やはり調子に乗り過ぎました。
ライブin神戸チキンジョージ
ということで呑み過ぎて調子に乗り過ぎた二人は、ノリ姉さんにへこまされました。ヅカと二人して撃沈です。

皆さん本当にお疲れさまでした。そしてありがとうございます。

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フェイスブックに書いていること。

フェイスブックを始めて3週間以上経った。そこは「友達」が集まる場所なので、様々なことを気兼ねなく書いている。

また本来の使い方としては邪道かもしれないが、フェイスブックを通じて友達になった人が、その縁で僕の出版記念シンポジムや講演会に足を運んでくれるということもあり、新しい繋がりができる場にもなっている。(本来とは、そこで繋がるんではなく、もともと顔見知りが友達になるのが原則だと書いているものがあったので。)

どちらにしても、そこは匿名性のある場所ではないので、本名を名乗り合った関係者が繋がっている。プライベートな話題も飛び交っており、まさに「一息つける」癒しの場所という性格が強いと感じている。

ここ何日かは、僕の思いのこもった唄の紹介を書いたりしている。フェイスブックに登録していない人は見ることができない記事だが、今日は記事を書く時間もあまりとれない忙しい日なので、ちょっとだけそこに書いた内容を転記してここで紹介したい。(要するに時間をかけて記事を書いていられないので、手抜きさせてもらって、フェイスブックに書いていたものを転載するって言う意味です。)

(3/29日書いたもの)
先ほど当法人の理事会が終わりました。今回は新年度事業計画と、当初予算案の承認が主たる議題ですから、当然のことながら大幅に下げられた介護報酬について説明し、厳しい状況での予算組みの理解を求めました。

もともと30年近く運営し、勤続年数の長い職員を数多く抱えている当法人は、巷でいわれるような5%を超えるような収益率はなく、ましてや10%等という収益率とは無縁で、しかも職員の定着率も高いですから、人件費率は高くなってくるわけで、これに輪をかけて福利厚生費の事業主負担増と、石油燃料の高騰が追い打ちをかけ、今回の介護報酬減額は非常に頭の痛いところです。

だからと言って単年度赤字を出して、繰越金をどんどん取り崩して行きなさいという理事はいませんので、これから3年間の運営は非常に難しいものになるわけです。

ただ忘れてはいけないのは、我々のサービスとは福祉援助サービスであるということで、利用者の暮らしを守ることがまず優先されて考えられるべき問題で、安かろう悪かろうというサービスにしてはならないし、その暮らしの支援の一番根っことなる介護する人材には、きちんと報酬を手渡していかねばならないということです。

職員が利用者にとっての「赤い花」となり得るためには、職員待遇を含めて、安心して働ける職場で、その能力が最大限発揮できるのでなければ成り立たないサービスであるということです。

ここを忘れないように身を削っていくのが福祉経営者の責務でしょう。初心忘れるべからず。

さだまさしさんが、かつて長崎平和音楽祭を主催していた時、いつも最後に唄っていたのが「祈り」という曲です。彼は唄っていました。「短い花の命を、ささやかなこの愛で染めたい」と。きっとさださんも、誰かにとっての「愛で染めた色の花」でいたいと思っていたのでしょう。福祉援助に携わる我々は、どのような厳しい状況でも、誰かの心を癒す存在になろうとする心を失ってはいけないと思います。



(3/28日書いたもの)
僕は中学卒業後、名寄高校に進学しましたが、当時僕が住んでいた下川鉱山から同校に通うために、朝7:05発のバスに乗る必要があって、家を出るのは6:40くらいでした。15歳のときですから、この早起きは辛いものがありました。

しかし父の転勤のため、高校1年に進学後すぐに岩見沢市というところに引っ越さねばならなくなり、入学したばかりの名寄高校から、岩見沢西高という高校に転校しました。知らない土地の、知らない高校で、新しい友達を作るのも大変かなと思いましたが、ひとつ良いところは、当時引っ越した家が新しい高校のすぐ近くで、早起きしなくてもよくなり、朝は8時過ぎにゆっくり家を出ることが可能になりました。(家は親戚の持ち家を買いましたので、土地つきの一戸建てでした。)

高校に家が近いため、新しくできた友達も、僕の家によって一休み(親に隠れて煙草を一服していたというのが真相です)してから登校するという連中が集まり始めました。バイク通学が禁止されていた為、僕に家にバイクを止めて、そこから歩いて行く同級生もいました。そいつらも僕の部屋で煙草を一服してから通学してました。勿論、僕も当時はいっぱしのヘビースモーカー。今はやめてますから、順番が違いますよね。

その当時、同級生と煙草を吸いながら、TBS系列(北海道ではHBCです)の「八時の空」という番組がありました。そこには田中星児さんと、水越けい子さんが唄のお兄さんとお姉さんとして出演していました。ビューティフルサンデーがヒットしたきっかけになった番組ですよね。僕らは煙草を吸いながらほとんど毎日その番組を見ていました。その当時の「けい子オネエ」の綺麗だったこと・・・。憧れでしたね。

僕もギターを弾いていましたが、女性ボーカルのコピーは苦手で、聴くのもほとんど男性ボーカルばかりでしたが、この番組の影響からか、けい子オネエの唄は良く聞きました。その中でも好きな唄は「Touct me in the memory」です。

オネエの少しハスキーな声が曲にマッチして最高でしたね。これも胸に迫る切ない歌詞とメロディですが、特に2番のセリフに
「悪いことだと知りながら、別な人に心、揺らせたこともある」なんてとこは、ああ大人の恋だなあア・・・と何となく憧れたり、16歳の可憐な胸を焦がしたりしたものです。

今でもこの唄を聴くと、その時の気持ちがよみがえります。


(3/26日書いたもの)
チューリップのリードボーカルが姫野達也から財津和夫に替るきっかけになった曲「青洲の影」は、僕のとても好きな唄の一つです。

でもこの唄を結婚式に歌う人がいます。それはいただけません。あれは少年が青年に成長していく中で、愛の厳しさや哀しさを知って行く過程を唄った「せつない別れの唄」なんです。

優しくも、哀しい「さよなら」のメロディなんです。切ない時に歌うべき唄なんです。

だから祝いの席では唄わないでください。



こんなふうにして遊んでいる。皆さんもフェイスブックに挑戦してはどうだろう。

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介護・福祉情報掲示板(表板)

Touch me in the memory

どんなに仕事熱心で、そこに生きがいを感じることができる人で、かつ業務遂行能力の高い人であっても、仕事のことばかり突き詰めて考えてしまえば、やがて行き詰まり、「マイナス頭」になって大きな失敗を犯したり、時には袋小路に自らを押し込め抜け出せない状態に陥り、精神的にパンクしてしまう恐れがある。

能力の高い人であればあるほど、このリスクは高くなる。ゆえに人間は常に頭脳を休ませる工夫が必要である。特に夜に考え事をしてはいけない。明るい日差しの中で考えないと、どうしてもネガティブな方向に思考が向いてしまう。夜考えてよい結果が出ることは極めて少ない。そんな時は「下手の考え休むに似たり」と割り切って、酒でも飲んで寝てしまった方がよい。

心に「ゆとり」を持たせる工夫が必要なのだ。そのため趣味などを楽しむ心の余裕を常に持っていてほしい。仕事のことを忘れて没頭できる「何か」を持つということはそういう意味でも重要なのだ。あなたが貴方の職場で必要不可欠で重要な人物であるとしても、そうであるからこそ仕事を忘れてくつろぐ時間を持つことが必要なのである。一定の責任ある立場の者は、意識的にそうした時間や場所を作る必要があるのだ。

このことは僕も例外ではなく、常に仕事から離れる時間を持つように努めているし、仕事の中にも時には「遊び心」を取り入れて心を張り詰め過ぎないように努めている。このブログもしかりである。ブログを書くこと自体がストレス発散という意味があり、そのために読み手に気を使うことは一切していない。不快になる人は読みに来なければよいだけの話だからである。ということで(どういうことだと突っ込まれそうであるが)、今日の記事は僕の趣味に関するもので、福祉や介護とは直接関係のない話題であることを断っておく。どうも固い話題を書く気分ではないからである。
(深い意味はない。単なる気分転換であり、これも僕の頭脳の休養方法のひとつである。)

このブログのカテゴリーに「唄・フォークソング」があるように、僕の青春時代は70年代フォークが真っ盛りの時代である。
(※だから同い年の兼任CMさんとカラオケのレパートリーがかぶるのである:笑)

それこそ猫も杓子もフォークギターを弾いていた時代で、当然僕もその一人である。

演奏技術はさほど上手くはなかったが、フォークソングは多少下手でも許されるのである。とは言っても簡単なアルペジオくらいはこなせるので、まるっきりの素人でもない。

ただ今も当時と同じようにギターを演奏できるかと問われれば、技術的にはそれは可能だが、よい音は出せないというのが本当のところだ。その理由は、ギター演奏をしばらく行っていないと、弦を押さえる指の皮が軟らかくなっているため、きちんと押さえられず音が綺麗に出ないためである。しばらく練習して、指の皮が固くなって弦をきちんと押さえられるようになってこそギター本来の音色を出せるのである。今はそんな練習をする時間もないしな。

当時コピーしていたグループや歌手はいろいろだが、演奏技術も唄もそこそこで、自分もそこにたどり着けそうだという変な理由で人気があったグループが、東北岩手県出身のNSP(ニュー・サディスティック・ピンクが正式名だ)であった。彼らの曲想をヒントに、オリジナルの唄もずいぶん作った。そのいくつかは前述のカテゴリーの「masaのフォーク道」の中で紹介している。僕のオリジナル曲の特徴は、音域が狭いのと、ハイコードが少ない事だ。(つまり唄もギターもあまりうまくないということだ。)

白状すると、中高校生の一時期はシンガーソングライターになりたいと思っていたこともあるのだ。だがNSPが教本ではレベルが知れている。それはかなうことのない儚い夢に過ぎなかった。

どちらにしてもいろいろな場所でオリジナル曲を中心にして人前で「弾き語る」という今考えれば身の程知らずの恐ろしい事をしていた学生時代である。唄う方は下手でも許される時代であったとしても、その下手な唄を聞かされる人はたまったものではなかったろう。若気の至りと反省している。

ところで、当時、幾人かの仲間でグループを作って歌うこともあった。

その時、野郎ばかりでは受けが悪いので、女性ボーカルをメインに演奏することがあった。当然そうなるとコピー曲も女性ボーカリストのものが多くなるのであるが、その中で特に僕のお気に入りであった唄は、水越けい子姉さんのTouch me in the memoryである。「思い出の中の私に触れて」とでも訳せるだろうか?彼女の少しハスキーで切なそうな声と、大人の女性しか分からないような哀愁漂う歌詞に、哀しげなメロディーがマッチした名曲である。(彼女の代表曲「ほほにキスして」は彼女には合っていないと僕は思う。)

特にこの唄は歌詞が好きだった。その当時、僕らが演奏した時に唄っていた女性ボーカルが誰だったのかも定かではなくなっているが、その歌詞だけは今でも覚えている。

1番の歌詞は

雨のしずくはらいながら
店のドアを開けた あなたを見た時は
急な言葉もみつからず
元気そうねなんて ぎこちなく笑った
向かい合って語らう その後の出来事に
私一人が苦く懐かしんでたの
Touch me in the memory ...好きだった ほんとうに
Touch me in the memory ...今でも声にしたいほど


と昔の恋人との再会の場面と、その時の切ない胸の内が表現されている。これが2番ではさらに切なさがアップする。

急に 淋しさに襲われ 
たとえ真夜中でも あなたを呼びだした


ときて、さらに

悪い事だと知りながら 
別の人に こころ 揺らせた事もある


って歌詞が続く。若い心の遷ろいやすさ、ゆれる心の弱さがよく表現されている。そして

きっと慣れすぎてたの あなたの優しさに
傍にいるその時は 何も気付かずに


ときて、ここで演奏している僕らはメロディーに乗って、ジャ、ジャ、とギターの弦を高らかに弾(はじ)いてTouch me〜の部分をハモルのである。

Touch me in the memory...失って初めて
Touch me in the memory...あなたの大きさを知った


と続くわけだ。ウーン今聞いてもよい曲だ。ただ歌詞の最後「あなたの大きさを知った」という表現に少し不満をもった時期がある。「大きさ」より、もっと哀愁漂う言葉はないんだろうかといつも思っていた。しかしこれに変わるよい言葉もなかなか見つからない。「優しさ」では弱いし、もっと心に「ガツン」と突き刺さる言葉はないだろうかと考え続けると、やはり「大きさ」でよいのかなあと思えてくる。この詞は、それだけ推敲されて選ばれた言葉を使っているんだろうと思う。

それにしても日本語のボキャブラリーはなんと豊富で、世界一美しい言葉だろうと改めて思ったりする。

ところで綺麗だった「おケイ姉さん」も今ではずいぶん年をとっているだろうなあ・・・。確か僕より6つ年上だしな・・・。

※今日夕方18:30〜札幌サンプラザで行われる社会福祉法人・恵友会の研修で講演を行います。同法人の職員と関係者約 190名が対象と聞いています。(法人内研修の参加職員数としてはすごい数だと思う。)会場でお逢いした方、是非声をかけてください。急遽、同ホテルに宿泊することになりましたので、今晩はゆっくり札幌で皆さんと語り合いましょう。(明日は始業時間に間に合うように朝早く札幌を出ます。7:00に出れば間に合うでしょう。)

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千春の国歌斉唱。

北海道のこの夏の異常気象、日照不足は深刻である。

農作物に生育遅れが目立って農家の被害は甚大である。

夏とは思えない気温の低い日が続いているので道民全体が夏を迎えていない感がある。

しかし昨日昼あたりから久し振りに太陽が出て、今日は気温が少しだけ上がって夏らしくなった。とはいってもここ登別で気温は25度を下回ってはいるが・・・。ただ空を見上げるとそこにはファイターズブルーが広がっている・・・。

ファイターズといえば、このところ劇的な逆転劇があったりしてチームは好調である。そうなると、ある予感が胸をよぎる。それは、この秋にまたまた痛い出費がありそうだという予感である。しかし僕はそのことに少しわくわく感を持っているのである。

その出費とは「ファイターズプア」の再来による出費のことで(このブログの愛読者でホークスファンのピンドルさんには悪いが)我がファイターズがパリーグを制覇して、札幌ドームでクライマックスシリーズ第2ラウンドが行われそうだし、必ずや日本シリーズにも出場して、札幌ドームで胴上げを観れるだろう、という期待であり、そのための出費である。その日のために節約してお金をためなきゃあ、と思っている。

ところで、先日その札幌ドームで「なま千春」を久し振りに見た。

千春といえば、そうあの千春。北海道足寄町出身のシンガーソングライター松山千春であり、道内出身のフォークシンガーとしてはすでに大御所である。

しかし彼が全国区になったのは、僕らが彼の唄を聞くようになってから、かなり後のことで、当時は北海道の名もないシンガーソングライターであった。無名時代の彼は高校の学園祭廻りをしていた。しかも学園祭でもA級ではなく、(北海道の人間しか知らないだろうが)「河村通夫と20人衆」より格下に見られていた時期があり、僕の出身校である岩見沢西高の学園祭で河村を呼び、お隣の栗山高校で松山を呼んだ時は「勝った!!」と思ったものである。

しかしその当時から、我々の間では、なにやら足寄(あしょろ)という田舎から出てきた歌手で、カマキリみたいな野郎だが、唄がうまいやつがいる、という噂が流れ、一部には根強いファンがいて、「旅立ち」や「銀の雨」を聞いていた。その影響で僕らも、いつしかこの無名シンガーソングライターの曲を弾き語りするようになった。

ただし高校2年生の修学旅行で千春のカセットを新幹線の中で聞いていたら、本州の連中から「何それ?誰歌ってんの?ナンパな唄だなあ〜。」と馬鹿にされたりもした。

その後の彼の足跡は語るまでもなく「季節の中で」で大ブレークし、その後、数多くのヒット曲を出したが、「長い夜」のヒットと武道館コンサートで退廃の道に入ったのは周知のことである。

僕は過去に、実際に彼とは薄野の「釈迦曼荼羅(しゃかまんだら)」というディスコで逢ったことがある。あっちは忘れているだろう。

その松山 千春が2008年6月25日、不安定狭心症のために入院したときには、元(あくまで元である)ファンとして非常に心配したが、1月もしないうちに元気に復帰して一安心であった。

その千春が思いもかけず札幌ドームに登場した。

7/24のこのブログ記事で、休みをとってオールスター戦を見に行ったことを書いているが、その試合のオープニングセレモニーで国家斉唱を行ったのが彼だったのである。

誰が国家を歌うのか事前に知らされていなかったので、松山千春というアナウンスが場内に流れた時、4万人で埋まったスタンドが一瞬どよめいた。

松山千春の国歌斉唱千春を囲む選手オープンセレモニー




千春の国歌のアカペラ独唱は、いつもの声そのもので、なかなかよかった。彼にはいつまでも「やんちゃ」なままで長生きして歌い続けてほしい。

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タイトルが歌になり、ブログになる。

中学生から大学生の時代にかけて続けていたことは、スポーツでは軟式庭球(これは大学1年でやめた)。そしてギターである。下手なフォークソングを作って唄っていた。
参照:masaのフォーク道

もう日常生活でギターを弾かなくなって20年以上経つが、昔は毎日ポロンと弦を弾くのが日課だった。

しかし白状すると演奏テクニックもイマイチで、あまりうまくなかったし、ボーカルも僕のカラオケを聞いたことがある人ならわかると思うが、決してうまくはない。(悪いが、下手とは自分では書かない。汗・・。)

ではそれをカバーする為にどうするか。答えは簡単である。

人の歌のコピーでは力量の低さが目立つので、自分のオリジナル曲を作って演奏することである。しかも自分で歌を作るということは、自分の声が出ないキィーコードを使わないということだから少なくとも「声が出なくて歌えない」ということにはならないというメリットがある。

自分の音域は決して広くないので、そこに合わせて作曲するのだから、似たようなメロディの曲が出来るのは仕方がない。まあこれもアマチュならではの愛嬌と考えてもらうしかない。

ところで何曲くらいのオリジナル曲を作ったかと言えば、これは何百という数だろう。数え切れない。ひどいときには学校祭の発表にあわせて1日に3曲とか4曲作ることもあったのである。

僕の場合の歌作りは、詞と曲を同時進行で作ることが多い。どちらかが先に出来ていて、それに合わせて後から詞や曲を作るというのは苦手であった。そのため人の作った詞に曲をつけたこともあまり多くはない。
(masaのフォーク道で紹介した「ああ早稲田」はその意味では例外である。)

だが同時進行とはいっても、脳細胞の微妙な動き具合を僕自身の感性で捉えていえば、わずかながら詞が先に出てきて、それに合わせて同時進行でメロディが浮かんでくるのである。

だから詞になる言葉は僕にとって時に非常に苦しい思いをして思い浮かべるものであった。何にも意味のある言葉が浮かばないこともあって、その際は意味のない言葉を思い浮かぶままに声に出してつなげようとするのだがうまくいくことはまずない。

そういう時、どうしたかと言えば、僕の場合、何もシチウエーションが浮かばなくても、とりあえずタイトルをつけてしまう、という方法で言葉を探し出すことが多かった。

例えば何の意味もなく「風のキャンパス」という思い浮かんだタイトルをつけて、ポロン、ポロンとコードをなぞりながら言葉を探した。

プラタナスの木立の陰が
キャンパスに続く道に伸びる。
君の背中を捜して、僕は目を細めて影を追う。
わかんなかった君の想いを
わかんなかった君の寂しさを
僕は今やっと見つけたんだ。
風の中に見つけたんだ


「雪の風景」というタイトルをまず考えて同じようにコードをなぞってひねり出した曲もある。

窓が曇って見えなかったけど
いま君はサヨナラっていったんだろう。
気付いていたけど見ない振りした僕に
君は寂しそうに笑いかけたね
動きはじめた汽車の窓に
白い雪の粉が舞う
しんしん、しんしん音もなく
しんしん、しんしん雪が降る
しんしん、しんしんこの雪が
しんしん、しんしん溶けたあと
僕に春は来るのだろうか。


ちなみにこの歌はさびの「しんしん〜」というフレーズと曲が先にできた。こんなふうにタイトルを先に考えることで、いつの間にか言葉が浮かび、ひとつの詞ができ、曲が生まれてくる。これが僕の曲作りのひとつの方法でもあった。

今歌を作ることはなくなったが、ブログを書くときにも同じようなことをしている。どうしても話題が浮かばないとき、福祉や介護や制度の中の言葉を引っ張ってそれに関連したタイトルをつけて、内容はそれに合わせて思い浮かぶままに書き始めて、以外とおもしろい内容になったりする。

平日毎日更新するということは、こうした苦労もしているということである。

ちなみに今日も特別なテーマが思い浮かばなかったので、苦しいときのテーマをひねり出す方法を正直に書いてみたというところである。結構大変なんですよ・・・。

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masaのフォーク道7〜ゆうちゃん。

746b8c92.jpg中学校1年のときに父に初めて名寄の楽器店でフォークギターを買ってもらった。当時の値段で1万円。高いギターではない。初心者だからこんなもんだろう。

ギターのメーカーといえば、モーリスとかギブソンとかであるが、僕が買ってもらったギターも、モーリスと思っていたが、よく読むと「モラレス」・・・??違うメーカーであった。(笑)

当時、日曜の昼に、土居まさる司会の「TVジョッキー日曜大行進」という番組が流行っていて、その番組に「奇人変人」というコーナーがあり、そこに登場した人々には白いギター(後には青とか黄色になったが)がもらえて、それがうらやましかった。

チェリッシュの「白いギター」なんていう唄もあり、色つきギターにあこがれていたのか、僕はエンジ色のギターを買った。ピックガードを既製品からオリジナルのものに取り替えて、かなり目立つギターだったと思う。

それを高校2年生頃まで使っていたが、その後、誰かにやってしまったのか、今その所在は不明である。

さて、高校の時の同級生にユウジという友達がいて、おそらく岩見沢西高の当時の同級生の中では彼が歌唱力NO1であったろう。ギターテクはそこそこだが(僕よりははるかにうまいけど。)ともかく唄がうまい。まだ全然売れていない頃の松山千春をよく聴いていてコピーをしていたが、千春のオリジナルより、彼の唄の方が良く聞こえることもあった(いいすぎか!!)

《※この頃の千春がどれほど売れておらず無名だったかというエピソードとして僕の出身校の岩見沢西校の学園祭に河村通夫(現在北海道のラジオ番組のキャスターで活躍している)と5人衆というグループを呼んだことがあるが、隣町の栗山高校で松山 千春を呼んだが、当時は松山って誰よ?河村のほうが上だろうと思われていた。以上、余談です・・。》

彼は大学で放射線を学び、今、道東の大きな医療機関で放射線技師をしているはずだが、卒業後もOMR(オホーツクリズムマシーンの略らしい)というグループを作って活躍していた。

僕の結婚式では彼のオリジナルの唄を弾き語りで披露してもらったりした。(ちなみに彼の結婚式では僕は山口百恵の『秋桜・こすもす』を歌った。)

そんな彼は高校時代、僕の近所のクリーニング屋さんの娘で、僕らより1年先輩の同じ高校の家政科の彼女と付き合っていた。

そんな彼に対し、僕らのやっかみも含めて、うらやましい気持ちも込めながら彼をモデルに作った唄であり、ゆうちゃんとはハンカチ王子のゆうちゃんではなく、僕の同級生のユウジくんのことである。

ゆうちゃん

私の彼が言いました。
私にそっと言いました。
ヒトミちゃん 今度の土曜に
二人で 図書館に行こうって
君の苦手な数学 僕が教えてあげるよ
ゆうちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん 愛してる
ゆちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん 好きなのよ
(fu-fu-fu-fu-fufu-)

私の髪に口づけて
彼がそっと言いました
ヒトミちゃん、今度の日曜に
二人で サテンへ行こうって
君の哀しい話を 僕が聞いてあげるよ
ゆうちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん みつめてよ
ゆちゃん 私のゆうちゃん
ゆうちゃん いつまでも
(fu-fu-fu-fu-fufu-)

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masaのフォーク道6〜ああ早稲田

今日紹介するのは、僕にとってはただ1曲だけ、同級生と協同作詞で作った唄である。

高校1年生の夏に、名寄高校から岩見沢西高校に転校した。そのときクラスメートになった一人に長沼町から通っているウチヤマくんがいた。

ところで僕らは共通1次試験の第1期生である。僕が現役として大学受験した年に、共通1次試験が導入された。

名寄高校は今でも進学校として名高いだろうし、自分で言うのもなんだが、僕も名寄高校時代は成績も上位であったし、国立大学の合格を目指す組に入っていた。

しかし(言い訳になるが)岩見沢西高校に転校したとき、使われている数学の教科書が違っており、名寄高校では2次関数の前にベクトルを習うのだが、岩見沢西高ではベクトルが先で、関数が後になっている教科書が使われており、僕が転校したときには2次関数の授業は終わってしまっていて、独学で学習するしかなく、これが数学の躓きの始まりとなった。

ベクトルは達人と言われるほど難問も解けたが、関数がさっぱり分からなかったのである。

まあ田舎から、それなりに8万人口がある市にやってきて、遊ぶところがたくさんあって、勉強に身を入れなかったということが最大の原因だが、関数に躓いて数学が分からなくなるのは自分のせいではなく転校と教科書のせいにして、文系も理数系もすべて網羅しなければならない共通1次をあきらめ、文科系の私大でもいいか、と思い始めていた時期に、かのウチヤマくんが、早稲田を目指していると知った。

自分の行く道はまだ分からなかったけど、明確に志望校があるウチヤマくんに頑張れよという気持ちがあった。

そんな話題で盛り上がったとき、何かの拍子にウチヤマくんから、自分の応援歌を作ろう、という話になって、詞は自分が書くから、曲を作ってくれということになった。

そのときウチヤマくんが作ってきたのが、この唄の1番である。

ただ曲にするには1番では格好がつかないと思って、2番は僕が歌詞を考えた。だからこの曲は作詞がウチヤマ君(1番の歌詞)と僕(2番の歌詞)の協同で、作曲が僕である。

応援歌というより、すこしファニーな調子で書いた記憶がある。それは1番のウチヤマくんが書いた「慶応の馬鹿ども やじる夢」というフレーズからの影響だと思う。慶応出身者が見たら激怒されるだろう。

もちろん曲は応援歌風に仕上げている。高校2年の終わりころに作った唄である。

ああ早稲田

昨日見た夢 何の夢
大隈講堂(おおくまこうどう)仰ぎ見て
一人涙を流す夢
熱気あふれる神宮で
慶応の馬鹿ども やじる夢
ああ遠のく 早稲田の森よ
君に捧げた あの誓い
今では 過去のものなのか

やると決めても 次の日は
必ず意思は くだけてる
人の性(さが)の 空しさよ
今日は鉢巻 締めてても
明日は挫折が 待っている
ああ遠のく 早稲田の森よ
僕は必ず やってくる
そのとき 待っていてくれよ

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masaのフォーク道5〜冬の午後

17408eff.jpg小学校低学年のとき「ヤマハ音楽教室」に通っていた。いや通わされていた、というのが正解で、日曜日にこの教室(菱光小中学校の音楽教室を利用していた)に通うのが本当に嫌であった思い出がある。

音楽教室で習ったのはオルガンである。名寄市で開催されていた発表会には毎年出ていたので、ある時期まで僕はオルガンが弾けたのである。ところが今ではまったく弾けない。不思議なもので体が覚えているということもない。

しかし確実に弾けた証拠として、小学校2年生のときの音楽発表会の8ミリビデオがあって、ここでしっかり両手を使ってオルガンを弾いている僕の映像が残っているのである。よっぽどこの音楽教室とオルガンが嫌いであったのだろう、ある時期からまったくオルガンを遠ざけたことで記憶に残っていないのかもしれない。

その後、ギターを始めた中1の頃まで、僕は授業としての音楽も嫌いであったと思う。ギターを始めても、ギターには興味を持っていたけど、授業の音楽にも、フォークソング以外にもあまり興味がなくて、唄を作るとはいっても、きちんとした楽譜を書いたり、読んだりできるわけではなく、詞を作って、コードをなぞってメロディをつけるだけであり、高等技術はない。

そんなふうなスタイルで僕の唄は作られている。さて、生まれてはじめて作ったオリジナル曲を覚えている人は多いだろう。

僕も、作った唄の8割は忘れているが、最初に作った曲だけはコードも歌詞も覚えている。非常にシンプルで歌詞の意味も自分でも分からない部分があるが、これが自分の感性から生み出された最初の曲であることを考えると、非常に大切な唄だと思っている。

中学1年のとき、13歳になったばかりの冬に作った短い曲である。

恋の唄であるが、ラブソングではなく別れのイメージの唄である。なぜか女性の側の視線と言葉で書かれている。そのとき誰をイメージして作ったのかは覚えていない。クラスメートだろうか・・・。空想の中の架空の人物だろうか・・・。

どちらにしても、今よりずっと純粋な心を持った少年時代の唄である。

冬の午後

恋の悩み打ち明ける
あなたと二人だけの冬の午後
言葉にしたい思いを
探し続けていたわ
いつも いつも いつも

ごめんなさいなんて
あなたと二人だけの冬の午後
信じていたはずなのに
短い恋の終わり
なみだ なみだ なみだ

何かが壊れたような
そんな気がしたのよ
さよなら さよなら さよなら

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masaのフォーク道4〜Song is my soul

8e25709d.jpg歌詞の中に横文字が入るようになったのはいつ頃からだろう。

僕が唄を作り出した当初は、横文字を詞の中に入れるなんて考えもしなかったが、今、演歌以外の世に出ている唄で、歌詞に横文字が入らない曲ってあるだろうか。おそらく探すのが難しいくらい、歌詞の一部に横文字が入るのは普通になっている。

しかしフォークソングには、横文字は似合わないかも知れない。特に「神田川」に代表される四畳半フォークに横文字が入っていたらつや消しものだろう。やはり日本のフォークソングには日本語が似合うのである。

とはいっても僕がオリジナルで唄を作っていたのは15歳〜22歳頃のことだから、若い感性は時代の流行に向っていかざるを得ないのである。岡林信康がコンサートで生ギターではなく、アコースティックギターを演奏して「フォークじゃない」と批判を浴びてもやめなかったように、時代の挑戦者を自負する若者は、自分の作る唄にもあえて横文字を入れて挑戦したのである。

哀しいかな英語の知識に欠ける勉強嫌いの若者のその唄は、非常に単純な横文字の羅列に終わる結果となったが、とにもかくにも、こういう挑戦が出来たし、それで良い気持ちになっていたという古きよき時代の話なのである。

高校生のときに作ったその唄は、題名までも単純な英語になっている。だけど、この唄、結構いい歌なんですよ・・・。

Song is my soul

心が揺れてる 思いが揺れてる
伝えられない 言葉にできない
全ての感情を 魂の叫びを
歌にできたら メロディにできたら
Song is my heart
Song is my soul
いつかこの手に つかむことができる
いつか出逢える 未来の自分に 

風のささやき 星のきらめき
僕が感じる すべての哀しみを
心に刻んで 叫びにするのさ
歌にするのさ メロディにするのさ
Song is my heart
Song is my soul
僕の心が 歌になるから
君の心が 歌になるから

心が震える 何かが待ってる
夢や希望や 挫折やあきらめ
怒りや愛情や 切ない思いを
心の叫びが 歌になるのさ
Song is my heart
Song is my soul
全ての喜びを すべての哀しみを
魂が今 歌になるのさ

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masaのフォーク道3〜翼があるから。

1a6b3c69.jpg僕がギターを習い始めたのは中学校1年生である。当時は吉田 拓郎とか、井上 陽水がテレビに出ないスターとして一世を風靡していた頃だが、彼らとはまったく別個の存在として別なところに位置していたのが「赤い鳥」というグループであったような気がする。

その伝説的な名レコード(当時はCDもMDもない!!)が出されたのは1971年だから、僕がまだ小学生の頃である。しかしそのレコードが100万枚を超える売り上げを記録したのは1973年であるから、僕の中学1年か2年生の頃だと思う。

そのレコードのA面は「竹田の子守唄」であり、B面が「翼をください」である。どちらも名曲である。

古くから伝わるに日本民謡を二人の女性ボーカルの美しいハーモニーで歌い上げる「竹田の子守唄」は圧巻である。他のシンガーとはレベルが違って、うますぎるので僕らの教本にはならなかった。

ちなみにこの竹田の子守唄、ある時期から自主規制の「放送禁止歌」である。詞の中の「在所」という言葉が被差別部落を連想させ差別用語に当たるというのがその理由で、この歌がテレビからほとんど流れないのは、そういう理由がある。

そのB面の「翼をください」の方が後には有名になったように思う。ともかくかっこいい歌である。こういう歌を作りたいというのが、当時のシンガーソングライター気取りの若者の共通した目標で、必ず1曲や2曲は「翼」という言葉をタイトルにも歌詞にも入れた曲を皆作っているはずだ。

ということで僕もご他聞に漏れず、翼という言葉を入れて作った曲がある。中学を卒業する当時だから15の春に作った曲だ。

僕の故郷は田舎だから幼稚園も小学校も、中学校も1箇所で必然的にクラスメートはほとんど幼稚園の頃から一緒の仲間である。そもそも小学校と中学校は菱光小中学校という一つの学校である。

その仲間が、あるものは就職する為に、あるものは学区外の私立高校に入学する為に、生まれ故郷から旅立っていく。自分も下川鉱山という皆が知り合いの町から、名寄というところにある高校に通うようになって、今までの人間関係とはまったく違った環境の中で学生生活を送ることになった。そんなときの思いを詞にした。自分への応援歌である。

翼があるから。

両手を広げて 息を吸い込んで
空を見上げて この風に乗って
時の彼方に 広がる未来に
僕らは今 旅立とうとしている
苦しくなんかないはずさ
寂しくなんかないはずさ
太陽の光で まぶしいけれども
あの向こうには きっと見えるさ
僕らがこの手で つかめる何かが

嵐の夜にも 風の朝にも
強くなれよと 肩を叩いた
あの人のこと 思い出せれば
きっと勇気が 取り戻せるはずさ
哀しくなんかないはずさ
つらくなんかないはずさ
旅立つ空は 青く澄んでる
僕らの背には 見えない翼が
きっとあるはず 羽ばたくために

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masaのフォーク道2・夕暮れ坂。

0d8c6c2b.jpg土曜日は毎週、特集として福祉や介護の問題とは少し離れた話題を書いている。先週からは中学・高校時代に僕が作ったオリジナルソングの歌詞を、その当時のエピソードとともに紹介している。下手な歌詞だが、雑談として読んでもらいたい。

僕の原風景は、今はなくなってしまった故郷、下川鉱山である。

その町は東西に細長い町で、西町と東町が下川鉱山という町全体の端にそれぞれ位置していた。両方とも山の上に一つの地区があって、山肌に沿うようにアパートが連なっている。西町も東町も、そこがどんづまりで、そこまで行くと終点である。来た道を戻る以外、どこにも行けないという地区だった。

僕は西町に住んでいて、学校や遊び場所から家に帰るには、西町までの坂を上り、更に西町の入り口から自宅までの坂を上らねばならなかった。自転車ででかけると、行きは良いのだが、帰りはこの坂を自転車をこいで登れるわけもなく、自転車を押しながら部活や遊びでヘトヘトになって腹をすかした体で登っていくのである。かなりつらかった記憶がある。

坂のない地区に住んでいる友達がうらやましかった。

高校1年の夏に、岩見沢に引っ越して、僕の生活範囲からいつも坂があるという暮らしはなくなった。自転車を押しながら険しい坂を登ることもほとんどなくなった。住む町も下川鉱山よりずっと都会で、便利な暮らしになった。

しかしいつも下川鉱山の、あの不便で険しい坂のある光景を懐かしく思い出していた。

部活で疲れた体で家にたどり着いたとき、ふと坂の下に広がる採鉱場を見下ろした風景。坂を登りながら見た真っ赤な夕焼け。冬の寒空にオリオン座がくっきり見える夜道を、星座を目指して登っていくように歩いた坂・・。今でも、決して忘れることのない原風景・・。

高校生だったある時期、さだ まさしの「無縁坂」とか、高田 みずえの「硝子坂」とか、坂のつく歌が流行ったときがある。そのときに作ったのが、この「夕暮れ坂」である。16歳か、17歳の頃の作品だと思う。

もちろんそのイメージは下川鉱山の、故郷のあの家に続く、西町の坂である。

学校帰りに見上げた夕日を思い出しながら作ったこの唄は、コードパターンもEm Am D C B7という5つの単純なコードしか使っていないが、自分の作品の中では気に入っている曲のひとつだ。

夕暮れ坂

君とふたりで 手をとりあって
いつも登った、あの坂道
誰がつけたか 夕暮れ坂
誰が呼んだか なみだ坂

君は笑顔が よく似合い
僕は寂しさが よく似合う
人目が気になる 夕暮れ坂
ちょっぴり不安な なみだ坂

風に吹かれた あの坂道
星座を探した あの坂道
思い出ちらちら 夕暮れ坂
空にひとひら はぐれ雲

君の涙と お別れ言葉
振り向くことも ないだろう
誰がつけたか 夕暮れ坂
誰が呼んだか なみだ坂

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masaのフォーク道1・七色の雪。

fea8c64e.png土曜はプライベートの話題を思いつくままに書こうと、10回にわたってmasaのラーメン道と題して、登別近郊のうまい(と個人的に思う)ラーメン店を紹介してきた。この続編もいずれ書こうと思うが、実物の写真画像を仕入れるためには、通っている店でも、あらたに食べに行かねばならないので、画像ファイルがストックできるまでお休みしている。

しかし少しだけ時間のあるときにふと書きたいこともある。これは誰に読んでもらいたいわけでもなく、自分のストレス解消だ。今日から時々時間のある土曜には、僕の作ったオリジナルフォークの詞を、そのときの背景とともに紹介したい。昔の詞だから背中が痒くなるようなクサイものも多いが、まあ中学高校時代のことだし、恥ずかしいという年も過ぎた。

僕の青春の1ページの回顧録として『masaのフォーク道』よろしくお願いします。

中学1年のとき、はじめてフォークギターを買ってもらった。ギターの先生は友達である。毎日のように友達の家に集まって、拓郎や陽水、NSPなどのコピーを練習していた。特にNSPはボーカルの天野さんの歌唱力が素人レベルで自分達に近い存在だったし、楽曲もやさしいコードしか使っていないものが多く、初期の教本としては最適だった。『さようなら』は今でもコードも歌詞も覚えている。
ただその中でも僕は、友達と比べてひどく上達が遅く、かなり下手だった。

先生となってくれた友達は、ヒナ、キり、ヒデ、タカユキあたりだったと記憶している。

そのうち何とか一人前?にギターが弾けるようになると、誰でも同じだが、シンガーソングライター気取りで、オリジナルソングが作れなければ格好がつかなくなる、・・と当時は思って、随分作ったものだ。

演奏技術が未熟なので、コードパターンが単純で、似たようなメロディーの曲しか作れなかった時期が長くあるが、それでも数だけは数え切れないほど作った。その8割くらいは自分でももう忘れてしまった。

そんな曲のいくつかを書いていた大学ノートがひょっこり出てきた。どこにこんなものがあったんだろう。見ると懐かしい。14〜17際くらいの頃の曲が、詞とコードだけの楽譜とはいえない形で残っている。しかし詞とコードだけでメロディがすぐよみがえってくるから不思議である。

この唄はいつ書いたのだろう。きっと冬に書いたんだろう。CmとかBm7とかハイコードを随分使っているので初期のものではないと思う。高校生の時の作品だろう。珍しい曲調だ。

七色の雪

冷たい風の中で 僕は一人たたずむ
風の中に何を祈ればいいのか
若さという罪に 二人はまだ気づかず
風の中に君は去っていった。
七色の雪が 僕と君の あの日々さえも
かき消すように降り積もり
地面へと還る 七色の雪

各駅停車に乗って 遠い町へと向かう
いつの間にか僕はひとりぼっち
置いてきたものは 僕と君のこころ
それもいつか時に流れてゆくさ
七色の雪は 僕と君の 見つめる場所に
いつまでもずっと降りやまず
思い出という 色に染めるさ

ただ当時を思い出しても意味がわからないのは、なぜ雪を七色にしているかである。う〜ん。若い頃の感性としか言いようがない・・・。それにしても16とか17の頃に「若さという罪に」はないだろう。老成していたのか、蒼すぎたのか・・。決して変わった高校生ではなかったのだが・・。

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こころの唄

物置の片隅にギターが放置されたまま埃をかぶっている。

時折思い出したようにとりだして、弾いてみるが、弦を押さえる指はすでに柔らかくなっているので、少し弾くと痛くなるし、良い音も出ない。それでも昔作った曲を何曲か弾いていると、その時代の様々な出来事が懐かしく思い出される。

僕達の周りにいる高齢者の方々も、それぞれに懐かしい思い出の唄を持っている。施設で行う療育音楽とか音楽療法など、難しい理屈をつける必要はなく、それぞれの心の琴線に触れる思い出の曲を楽しむということでよい。

認知症の方にも、それぞれお得意な唄があるし、唄っているときは表情も生き生きとしてくる。その唄とともに、それぞれの時代のことも思い出してくれる。

戦中から戦後の時代を生きた方々にとって、若かりし頃の時代は、すべて薔薇色ではなかったはずだ。しかし苦しい思い出も、つらい思い出も、その時代の唄とともに思い出すときは、明るいフィルターを通してすべて「古きよき時代」になって浮かんでくるのかもしれない。

みんな「こころの唄」を持っているんだ。だから唄は素晴らしいパワーだ。

我々の介護サービスも、本来、支援が必要な人々の心の琴線に触れるような温かなものでなければならないはずで、そのとき、その場所で関わった支援者が、利用者の心の支えになることが理想だ。

嫌なことが多い世の中だが、介護サービスまで荒涼とした砂漠にしてしまえば、この社会の未来とは果てしなく貧しい心の上に成り立つ社会になるだろう。

青臭くても、そのことに警鐘をならしたり、訴えたりする人間がいなければならないと思う。その立場は格好悪いし、お金持ちにも決してなれないだろう。しかし未来の子供達のために、心の豊かさや人への愛の心は守らなければ、社会や国は滅びるだろう。

幸い、声なき声が届く可能性のあるネット社会である。小さな田舎町の小市民の声が、ネットを通すことによって全国各地に届く可能性もある。そのことだけは幸運であると感じる。

そういう時代と環境の中で、できれば介護者よ、利用者を真剣に見つめて、君達自身が彼らの、彼女らの「こころの唄」になってほしいことを問い続けるだろう。

<こころの唄>

唄は私の友達だから 苦しいときも私の味方
たった一人で寂しいけれど
こころの唄をみんなの唄に
みんなの唄が街いっぱいに
いつか広がる明日を信じよう

唄はあなたの友達だから 哀しいときもあなたの味方
わたしとあなたが手を取り合って 
希望の唄をみんなの唄に
みんなの唄が空いっぱいに 
いつか広がる明日を信じよう


介護という手段を通して、人の心の豊かさが、いつか広がる明日を信じたい。

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闇の告白。

今日はいつもと違って、福祉や介護とはまったく関係のない内容のブログになることをご容赦いただきたい。

深い意味があるわけではない。ただ単に今、PCに向かった気分がそうなったというだけのことである。たまにはこんな日があってもよいだろう。

1992年の今日・4月25日、東京都足立区千住河原町の、とある民間の1室から、一人の若者が「泥酔状態」で病院に担ぎ込まれた。その後、若者は病院内で大暴れし、鎮静剤を注射されるが、結局、医師の診療を拒否し、家族とともに自宅に戻った後、急逝する。

闇の告白」とは、彼の書いた歌詞のタイトルである。

若者の名は尾崎 豊。享年26歳。あまりにも早すぎた死であった。「10代の教祖」とも呼ばれた彼は、その歌で多くの若者の心を惹きつけ、中高生のカリスマ的存在であった。今日は彼の15回忌にあたる。

死の当時、彼の体にはアザや傷があり、その状況の不可解さから、他殺説が流布され、病院から自宅に連れ戻したことも、付き添っていた妻の独断ではないかなど、死をめぐる様々な噂が飛び交って憶測を呼び、その騒動は数年続き、未だに「謎の死」とされている。

しかしはっきりしているのは警察が事件性を否定し、その後の検死結果でも死因は「致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫」とされていることである。

覚醒剤は注射によるものではなく経口摂取したものであった。尾崎が覚醒剤を常用していたという確証はなく、そのことを証言する関係者もいない。むしろ否定的な関係者が多い。

暴力を受け、無理やり飲まされた、とする説は荒唐無稽に思う。民家から病院〜自宅の間に尾崎は意識があり、家族と会話を交わしているが、それに関することは一切口にしていないし、覚醒剤をアルコールに混ぜて、だまして飲ませるのは至難の業だ。致死量の覚醒剤の量を経口摂取するのに「苦さ」は相当なものでわからないレベルではないそうである。

いや、そんなことを書くつもりではない・・。

僕より5つも若い才能のある命が、このようにはかなく消えていったことは残念だ。

代表曲「卒業」などの歌詞は、真夜中に教室の窓ガラスを割る情景が書かれており、当時、校内暴力が社会問題化していたことと相まって、深夜に中学校の窓ガラスを割って回るなどの狼藉を働く者が数多く出たりして、学校関係者は尾崎自信にその責任を問う目を向けたが、尾崎が描いた卒業は暴力の肯定ではなく『何度自分自身卒業すれば本当の自分にたどり着けるのか』ということがテーマで、そのとき自分自身を支配しているものが、大人であったり、社会の常識であったり、既成概念であったりして、そこから逃れる術を求めた姿を描いていたと思う。

だから彼の歌詞にはいつも何か訴えかけるものあって、好きだった。

若者が支配から逃れようとしたもの。世間一般の大人や社会常識に、いつか若者自信が染まっていくような時の流れが、彼には許せなくて、死に繋がっていったのではないかと勝手に思っている。

今、生きていれば、41歳の尾崎と僕らは逢えている。

彼のような感性を持った若者が、やがて大人になり、そして年を重ね、おじさんになって、その後、どんな「年寄り」になっていくのか、僕はその姿を見たかった。

若い頃には見えないもので、年をとって始めて見えるものもある。60代、70代になったときの彼の目に、この社会がどう写ったか、そのことを確かめたかった。

おじいさんになった尾崎の歌詞を読んでみたかった。本当にそう思う。あれから15年だ。

闇の告白〜尾崎豊:作詞・作曲

歌詞が読めるリンクを貼り付けておく。この詞が彼の遺書に聴こえてしまう。もう一度、今日はこの詞をじっくり読んでいる・・・。

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君のために作った唄

いつも土日はブログを更新しないことが多い。

僕のブログの内容はプライベートな生活に関する部分はほとんどなく、福祉や介護、その制度に関わる内容が多いので、ちょっと気分転換にブログを書く、という感じにはならないので、完全休養という意味であえてブログもお休みすることが多いからだ。

それともう一つの理由は、土日は外出が多いということもある。外出といっても、遊びに出かけるのではなく、本業の介護施設の施設長という立場ではない、地域ケアマネ会の代表とか、社会福祉士会の用務とか、本業以外の業務としての研修や会議も多い。

それから時期によっては、各地で研修会の講師やパネリストとして招かれることも多いが、できるだけそれは本業に支障がない土日でお願いしている。

先週も土曜は札幌で、ターミナルケアに関する基調講演を頼まれたので、移動を含め、1日それで費やした。振り返っても2007年になってから週末が連休であったのは2回ほどしかない。

先週の基調講演については、北海道医療新聞社の「介護新聞」4/19付け号に写真付で『日本死の臨床研究会北海道支部は講演会「介護施設での看取りを考える」を14日、札幌市内で開いた。基調講演した特養緑風園の菊地雅洋施設長は昨年4月の診療報酬改定に伴い、特養等入所中の末期がん患者に対する在宅療養支援診療所の訪問診療、訪問看護が医療保険で認められるようになったことを踏まえ、「画期的なことだが、末期がんだけでなく終末期への適用も必要」と指摘した。〜』と報道記事が掲載されたので、さすがに道内では影響力のある新聞で、いろいろな人に「また出ていたね」と声をかけられた。

「また〜」という意味は昨年同誌に半年間、僕が連載していたことを指していっているんだろうけど、少し意味を勘ぐったりもする思いを持った。言葉というのはなかなか難しいもんだ。

ところでこの記事を見た当法人の理事で、協力病院の院長から電話が早速入って、医療機関の中でも職員研修として、同じ話をするように依頼された。断る理由はないし、日ごろお世話になっているので当然承諾はしたが、聴衆が何百人いようとあまり緊張するようなことがない僕でも、顔見知りの職員ばかりの前で話をするのはちょっと照れくさいし、気が重たい気もする。

それと来月はある地域のケアマネ会の定期研修会に講師として招かれているが、それが2箇所ある。自分の地域のケアマネ会の総会(役員改選)もあるので結構忙しい月になる。

そんな中、今週だけはすっぽり土日が休養になった。とはいっても昨晩も地域ケアマネ会の定期研修と幹事会で遅かったし、明日も市内の選挙の関係で足を運ばねばならない場所(投票という意味でない;義理ごとです)もあるんだが、ともかく仕事からは離れて過ごすことができる予定だ。そこで少し仕事からも離れた内容のブログを書こうかなと思ってPCに向かっている。

さっきまで、ゆっくり本を読んだりして過ごしていたが、ふと思い立って昔弾いていたフォークギターを取り出してみた。しかし弦が切れていて弾けない。息子のエレキをそっと持ち出して弾いてみたが、その頃、僕が作った唄は、やはりエレキの音色では合わない。それと指が硬くなっていないので音がまともに出ない部分がある。いつも弾いていないとギターは本当の音を出してくれないのである。

しかし昔作った唄は、詞もコードも、メロディラインもすべて覚えている。中学生のときに作った唄も、ギターのコードをなぞれば自然と歌詞が思い浮かんでくる。あの頃、どんな思いで、誰のために作った唄かも思い出と共に浮かんでくる。

僕の施設では「療育音楽」と称して、利用者の方に馴染みの深い唄を歌ったり、楽器を演奏して心と体を動かすプログラムがあるが、このときは、普段表情の乏しい認知症の方も生き生きとした表情で、大きな声を出したり、楽器を奏でたりしている。唄の力は偉大だ。

だが僕が高齢者になったとき、僕の心を震わす唄は、拓郎や陽水やかぐや姫やNSPかもしれない。でも一番心に響くのは僕自身のオリジナルソングだろう。

残念ながら僕以外に知る人のない唄であることだけがネックである。

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雨の物語

雨は唄になる。

僕の10代はフォークソング全盛時であったから、僕もいっぱしのフォークシンガー気取りで、吉田拓郎や井上陽水のコピーから始まりいつしか詞や曲をオリジナルで作るようになった。
(ちなみに陽水の本名は「陽水あきみ」であり医者の息子ということを知っている人は多いと思うが、彼がアンドレカンドレという名でデビューしたことを知る人は少ない。そんなことはどうでも良いが・・。)

僕の作る唄はなぜか雨をテーマにしたものが多かった。詞が書きやすかったのだろう。しかしどうしても雨がテーマだと明るい曲にはなりにくい。名曲「雨に唄えばSing in the rain」というわけにはいかないのだ。

暗い詞になりやすいので心が弾むような曲はつきにくい。やっぱり流行らないな。シンガーソングライターを目指さなくて良かった。

そういえば大学生の頃、当時札幌で超有名なディスコ「釈迦曼荼羅」で妙に生意気な口を利く長髪でカマキリのような男とテーブルが一緒だったことがある。髪のある時代の松山 千春である。別に知り合いではない、何かの関係でそれぞれの連れ同士が知り合いだっただけである。

話がそれた。雨の話に戻そう。

冬に雨は似合わない。

しかし3月のこの時期の雨は明るい春を連れてくる雨であり、一雨ごとに雪解けが進む。春の雨をテーマにすれば明るい雨の曲が出来るかもしれないな、と考えて雨を見ながらこのblogを書いている。

北海道には梅雨がないというが、実際には道南の太平洋側、函館から私の住む登別にかけての地域は6月から7月にかけては雨の多いじめじめした天候が続く。

この時期を「蝦夷梅雨」と呼び、その気候は毎年のように繰り返される。

だから短い夏の晴れ間は貴重だ。

私の施設でも、夏から秋にかけての季節は、利用者の皆さんにできるだけ外出機会を作っていろいろな場所に出かけるが、施設で行うイベントなども夏の間は外で行いたいと思い、開設5年目にログハウスの屋外ステージを建造した。

舞台裏には楽屋もついている立派なステージだ。このステージは今は施設の裏側の敷地に移設し毎年お祭りや盆踊りなど、地域の皆さんと触れ合う会場にもなっているが、以前は正面玄関前にあり、駐車場全体を会場にして様々なイベントやアトラクションに利用していた。

しかし屋外ステージがあっても雨では使えない。

せっかく祭りなどを企画していても、利用者を雨の中、傘をさして見物させるわけにもいかない。だから時として雨は「やっかい視」されることも多い。

そこで施設開設10年目で屋外ステージ建築から5年後のことであるが、雨でも暖かければ外でイベントが出来ないかと考え、駐車場全体をテントで覆う方法を考えた。

もちろん素人作業では出来ないから、テントの専門業者に依頼して、専用のポールを設置して施設の駐車場全体を覆って約200人が入れる屋根替わりの特注テントを作ったことがある。

これが雨以外に効果があり、外に出たいが日差しがきつすぎる場合にも重宝され2年ほど使っていた。そして3年目の「緑風園まつり」では待望?の雨が降り、この屋根テントの本来の目的に使用する機会となった。

ところが、である。雨は防げるのだが、雨の音は防げなかった。雨のはじく音でステージからの音がしばしば聞こえなくなる。これには参った。

しかもおまけつきで、テントを支えるワイヤーも3年間の風雨でさびてしまい巻取りが出来なくなった。それやこれやの様々な理由が重なり、今、このテントは使われていない。

人の知恵は自然の前ではしばしば苦渋をなめる。考えれば高い買い物であったかもしれないが、それだけ北海道の人々は長い冬の日々、夏の暖かな太陽や外気に飢えているということを紹介するエピソードとして記憶していただきたい。

だけど、いざ夏の暑さにふれてみれば、その圧倒的な力に少し腰が引け、その気持ちを察するように時折日差しを影してくれる雨にロマンチズムを感じて詞が出来るのかもしれない。

だから雨は唄になる。

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