愛情は与えられるものでもなければ、与えるものでもないと思う。

愛は見えない。そこに存在するかどうかもわからないけれど、ふとした時に感じるものではないのか・・・。

少なくとも愛は誰かに押し付けるものではない。

自分が誰かを愛していたり、誰かに愛されていたり・・・そんなことを常に考えながら生きている人なんているんだろうか。日々の暮らしを送る中ではそれはほとんど意識されず、けれどもふとしたはずみで誰かの愛を感じてホッとしたりするもののように思う。

愛し愛されること・・・それは目的にも目標にもなるようなものではなく、結果としてにじみ出るもののようにも思う。

にじむ、にじみでる、染みる、染み出す・・・そんな言葉が愛には似合っている。真心を込めた行為の先に、にじみでる愛を誰かが感じてくれるのではないだろうか。

私たちが携わる介護という職業でも、そんな実践のあり様が求められるのではないのか・・・。
人間愛
感情労働と云われる介護の仕事も、自分自身の感情を殺して黙々と決まり事をこなす単純作業に貶めることは難しくない。愛のない介護なんて掃いて捨てるほど数多く存在するのも事実だ。

だがそこでは介護サービスを利用する人々の感情も無視されざるを得ず、喜怒哀楽を顧みない機械的作業が黙々とこなされて終わりということになる。

利用者の喜びの感情を無視することと同時に、利用者の哀しみ・苦しみ・慟哭・・・助けてという心の叫びをすべて無視して作業が終えられる。

そのことに耐えられる人はどれだけいるのだろう。

生活の糧を得ることのみを目的としているなら、そのことに何も感じないのかもしれない。

だが僕にはそれは無理だ。自分の感情をいくら押し殺そうとしても、利用者の歓喜の声を聴くのと同時に、悲痛な心の叫びも聴こえてしまう。利用者の笑顔を観るのと同時に、その向こう側にある寂しげな表情が観えてしまう。そのことに心が動いてしまう。

だから僕は介護における愛情表現は単なるエッセンスではなく、本質的なものだと考えたい。

介護を単純作業化せずに、真摯さを伴った専門技術の提供と考えたとき、私たちが利用者に寄せる人間愛にも専門性があるのだと信じたい。真心を込めることこそ、愛を寄せることだと思うのだ。

介護実践にも生産性向上が叫ばれ、そのために介護実践の科学が必要だと云われる今日・・・愛を語ることは時代遅れで恥ずべきこととも思われがちだ。

しかし人の心の温もりを感じられず、人の心に寄せる温かい思いが伝えられない介護が先進的なのだろうか。それが人類を救うのだろうか。

そんなことはない・・・事実として他人に自分の不自由な身体を委ね、日々の暮らしを送りながら、「こんなふうに生きるのなら、長生きなんてしなければよかった」と嘆きながら暮らしている高齢者がいる。

彼らの嘆きは老い衰えた自らに向けたものではなく、愛情の欠片も感じることができない介護という行為に対して向けられている言葉だ。

介護という職業で生活の糧を得ている人々は、その悲痛な声に耳を傾けて、自分たちに何が求められているのか、自分自身が何をすべきかを深く考える必要がある。

真剣に介護サービス利用者の「現状と事実」を見つめる必要がある。
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