介護保険制度が2000年4/1より開始されて以来、今年でもう25年も経つ。25年と云えば四半世紀であり、それなりに長いスパンであると云える。そのため介護関係者の中には、介護保険制度移行以後にこの業界に入り、介護保険制度以前の介護事業を知らない人も多い。

それらの過去を知っていたとしても、介護保険制度が誕生するに至った経緯を知らない人も少なくない。

このブログではいくつかの記事に分けて、その経緯を伝えてきたが、今日はそれらを一つの記事としてまとめ、読みやすいように小見出しもつけて再編集して伝えたいと思う。

ということで極めて長い記事になるので、途中で読むのが飽きた方は、小見出しごとに分割して読むなどしていただきたい。
メルヘンの丘(大空町)
介護保険制度設立の機運
我が国の高齢者福祉対策は1963年に制定された「老人福祉法」に基づいて行われ、老人保健医療対策も同じく「老人福祉法」に基づいて行われてきた。その中で1973年から高齢者の医療費を公費負担する「老人医療費支給制度」が発足し、70歳以上の一定所得以下の高齢者医療費の無料化が実現した。これにより高齢者の受診率が大幅にアップした。

しかしこの時期オイルショックにより実質経済成長率が戦後初のマイナスとなり、健康保険料収入は大幅に落ち込んだ。これにより高齢者の加入率が高い国民健康保険財政は急激に悪化した。

このような情勢下で、旧厚生省は1976年から省内に「老人保健医療対策室」を設置し、高齢者医療の患者負担を復活させようとしたが、当時の三木内閣、福田内閣では世論の反発を恐れ選挙対策としの戦略上の見地から高齢者医療費の有償化は見送られ続けた。

1980年、行政管理庁が高齢者の過剰な多受診傾向を監査結果として示し「老人医療費支給制度」の早期見直し勧告を出すことにより潮目が変わった。そして1983年、老人保健法が施行されることにより我が国の老人保健医療対策は、老人福祉法から離れ同法に移行し「老人医療費支給制度」も廃止された。

1986年には国保財政の一段の悪化を背景に、老人保健法改正議論が大きく取り上げられ、高齢者対策企画推進報告として
1.自立自助と支援システムの構築
2.社会の活力の維持
3.地域における施策の体系化と家族への支援システム強化
4.公平と公正の確保
5.民間活力の導入

以上の5つの基本原則が示された。これをみると、このころから介護保険制度に繋がる基本原則の考え方が萌芽しているといえる。そしてそれは1988年の「高齢社会の福祉ビジョン」の国会提出へと繋がり、2000年度末までホームヘルパーを50.000人、ショートステイを50.000床、デイサービスセンターを10.000箇所、特養と老健を500.000床増やすという在宅サービスと施設サービスの緊急整備目標が示される流れに繋がっている。(1989年高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略:ゴールドプラン)

1993年厚生省内に「高齢者介護問題に関する省内検討プロジェクトチーム」が設置され1994年には「21世紀福祉ビジョン」を示し、新ゴールドプラン策定と新介護システムの構築が提言された。この背景には厚生官僚の中に「租税・社会保障負担率」(対国民所得比)は当時35%位であったが、このまま何の対策もとらねば、これが50%を超えることは時間の問題で、そうなればヨーロッパ先進国のように先進諸国病に取りつかれ社会の活力を失うという危機感があった。つまりサービスは増やすが、その利用については「自己責任」原則を導入し、国民に新たな負担を求めざるを得ない、という考え方が根底にあったものである。

そしてこの「新介護システムの構築」提言がきっかけで、1995年2月老人保健福祉審議会において「新介護システムの審議」が開始され、同年7月「介護保険制度の創設」が勧告された。

法案提出の原動力となった「自・社・さ連立政権」と村山内閣
1994年6月25日に羽田内閣総辞職を受けて、自由民主党総裁・河野洋平が日本社会党委員長首班の連立政権を打診し、新党さきがけを含めた自社さ共同政権構想に合意した。この際に首班指名されたのは、旧社会党の村山富市党首だった。そして村山政権誕生から約1年後に「介護保険制度の創設」が勧告されたのである。

「自・社・さ連立政権」では最大議員数を自民党が握っているものの、社会党の村山内閣ということで、同党が都市部のサラリーマン層を中心に支持されていた経緯があり、「公的介護保険制度創設」は共働き世帯を支援する同党の政権構想とマッチし、これを指示していた。一方連立政権内部では、新党さきがけも法案支持の立場であったが、農村部の第1次産業を支持基盤とする議員が多い自民党が、家族介護にこだわる傾向が強く、公的介護保険制度より、介護する家族などに現金給付を行う政策を支持する議員の力も強く、介護保険制度創設には反対論も多かった。これに介護保険制度を創設すれば将来の財政支援が必ず必要になり財政悪化の要因になるとして大蔵省や自治省が同調し、自民の反対勢力を支持してきた経緯がある。

橋竜新首相の義理立て
1996年1月5日、公的介護保険制度創設を支持してきた社会党の村山富市首相が突然の退陣表明。同日、自・社・さ政権協議にて、自民党総裁・橋本龍太郎を首班とする連立で合意。前述したように自民党内には公的介護保険制度創設反対論も根強く、その動向が注目された。

1月8日、自・社・さ連立政権で村山首相退陣後のあとを受ける橋本龍太郎自民党総裁は年頭の記者会見で「高齢化社会対策として介護保険制度創設の必要性」を訴え、通常国会への公的介護保険制度関連法案提出への意欲を示した。首相の座を村山から禅譲される形で受けた橋竜の義理立てがこの発言につながったものと噂された。

1月11日、村山内閣総辞職。第1次橋本連立内閣発足。注目の厚生大臣は、介護保険制度導入に前向きな新党さきがけの菅直人が指名される。(※菅は同年9月、さきがけの鳩山由紀夫が民主党を設立すると鳩山と共同代表として同党に参加し、後に政権離脱した。)

社会党はこの月、党名を「社民党」に変更した。

新制度開始は1997年で在宅サービスのみ先行実施とされていた
1月24日、厚生省は通常国会に法案提出を予定している「公的介護保険」について保険の運営主体として市町村案を検討していることを表明。なお最初の法案では制度の実施時期は1997年〜とされていた。

2月8日、老人保健福祉審議会第2次中間報告。

2月15日、同審議会では保険の主体をどこにするかについて、実施主体とされた市町村が財政的裏付けがないと猛反発。大揉めに揉め、決着を先送りし3月中の法案提出が困難となった。この間、与党内部には自民党を中心に「国民の新たな負担を強いる保険の導入は総選挙に不利」として法案提出見送りの慎重論も生まれた。

3月14日、自民党・丹羽雄哉元厚生大臣は「ヘルパーなど在宅サービスだけを対象とする介護保険を前提的に導入する」という私案を与党のプロジェクトチームに示した。

4月22日、老人保健福祉審議会は 菅直人厚生大臣(菅は1996年1月、村山内閣総辞職後成立した第1次橋本内閣で厚生大臣として入閣した後、1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が民主党を旗揚げすると、これに参加。後に野に下り介護保険制度の議論では菅は与党の担当大臣〜野党の有力議員として関わる結果になった。)に最終報告書を示した。この中では1997年実施を目指した「介護保険制度」について準備期間を置くように求めたほか、家族介護に現金給付をすることの是非について賛成と反対の両論を併記した。

4月23日、丹羽私案。制度は1998年からとし、在宅サービスを先行させる保険制度の段階導入方式を求めた。

4月26日、社民党により「1998年度からの在宅、施設の介護サービスを供給するとし、2002年を目途に供給対象を20歳以上とする」とした意見が出される。

5月16日、厚生省は老人保健福祉審議会に「サービスの受給対象、保険料負担対象年齢は40歳以上とする」私案を示した。制度開始時期は在宅が1999年、施設が2001年からという段階実施案であった。しかし同日、自民党・梶山静六官房長官が、法案提出に積極的な菅直人厚生大臣に、住専への財政資金投入問題を抱える状況で、1997年の消費税引き上げ(3%〜5%へ)と介護保険を導入することによる国民負担が増加すれば「国民の逆鱗」にふれ選挙が戦えないとして慎重対応を求め、自民党の加藤紘一幹事長も梶山発言に理解を示した。橋本首相もこのことについて「異論があることは事実」として内閣と与党の不統一を認めた。同日、丹羽元厚相が首相官邸を訪ね、介護保険制度の必要性を訴えたが、首相は「市町村の理解を得なければならない問題だ」と協力の明言を避けた。

5月17日、新党さきがけの鳩山由紀夫代表幹事は自民党内の慎重論について「薬害エイズ問題で国民の注目と支持を集めた菅厚生大臣への反発である。」と認識を示し不快感を表した。この間、大蔵省は「介護保険は将来の公費負担の増加に結び付く」として自治省とともに異論を唱えた。

5月22日、橋本首相と菅厚相の会談。首相が厚相に「今国会の法案提出は難しい」と見通しを伝え理解を求めたという報道がされるが、菅厚相は「難しいが互いに努力しようと、ということ」と解説した。同日、厚生省は全国市長会と町村会に市町村の財政負担を軽くする「介護保険運営安定方策」を示し、市町村が保険者を受けるように強く要請した。しかし両会とも財政的裏付けが乏しいと、これを拒否。

5月24日、「高齢社会をよくする女性の会」の樋口恵子代表が、千代田区の主婦会館で「介護の社会化を1歩も緩めるな」とアピール。しかし同会の中でも本国会への法案提出に対する反対論も出て、機運としては法案の国会提出が難しくなるという状況であった。

6月6日、介護保険制度の骨格となる「新制度案大綱」を老人保健福祉審議会と社会保障審議会に諮問。
1.関係者の意見に基づき介護保険制度要綱案を基本とする
2.懸案事項について解決を図り必要な法案作成作業を行う
3.次期国会に法案を提出する
という与党合意事項が示された

丹波私案の方向転換
6月10日、医療審議会が、介護保険関連法案として諮問していた医療法改正要領を諮問通り答申。療養型病床群が19ベッド以下の診療所にも設置可能とした。この間連立与党プロジェクトチームの強い要請で厚生省私案が方向転換し
1.保険料負担・受給は共に40歳から
2. 制度は在宅、施設の同時実施。
という修正方針を示した。これに対し「負担は20歳、受給は65歳から、在宅、施設の段階実施」という案でまとまっていた老人保健福祉審議会は「一夜で内容が変わるなんて無節操」と猛反発した。

6月12日、自民党社会部会では結論が出ず「継続審議」。しかし社民党・新党さきがけ両党は法案の今国会提唱を了承した。これを受け厚生省は「介護保険法及び介護保険法施行法案要旨」を与党福祉プロジェクトチームに示した。このころ既に新党さきがけの鳩山由紀夫は、さらなる新党構想を掲げ、菅厚生大臣もこれに参加する意思を示しており、閣内にいては政治行動がとりにくので、介護保険法案の国会提出が見送られた場合、これを理由に辞表を提出するのではないかという憶測が流れ、自民党内に「自民党だけが悪者にされ選挙で負ける」という空気が広がり、加藤紘一が菅に電話で辞任する意向がないことを確かめたりした。連立与党の内情は大揺れであったのである。

6月13日、与党調整会議。法案提出賛成派は社民・さきがけ・厚生省。反対派は自民党・自治省。

6月15日、政府・与党は介護保険法案の国会提出を見送る方針を固めた。この際、連立与党3党は秋の臨時国会に法案を提出するとの合意文書を交わしたが、関係閣僚の署名が中止され早くも暗雲が漂った。

6月23日、読売新聞の世論調査で83%の国民が介護保険制度の導入に賛成と高い支持が集められた。しかしこの時期、国民には介護保険制度が強制加入の掛け捨て保険であり、40歳以上の国民から「介護保険料」を税金とは別に強制徴収するなどの情報は十分に伝えられておらず、調査に回答した国民は、単に新たな介護サービスの制度が創設される、という片肺情報により、新制度の内容をよく理解しないまま賛成した傾向が強い。

6月25日、「与党介護保険制度の創設に関するワーキングチーム」設置

厚労省のエース登場と、その思わぬ失脚
7月3日、介護保険制度の推進の旗振り役として厚生労働省保健局長の岡光序冶が事務次官に就任。厚生省内には「岡光ならやるだろう。手腕を発揮して介護保険制度はものになる」という空気が生まれた。まさに颯爽とエース登場という雰囲気であった。

7月13日、与党公的介護保険制度創設ワーキングチームの第1回地方公聴会。橋本首相は、社民党に沖縄米軍基地問題でも譲歩協力を得ようと、介護保険法案の秋の臨時国会への法案提出に前向きの姿勢を示したが、与党内には自民党を中心にした根強い反対勢力があり、その溝は大きかった。

8月9日、全国町村会は、都道府県単位での65歳以上保険料の統一化、保険料未納分の国費補てん、家族介護への現金給付を骨子とした「公的介護保険制度に関する要望」を発表。この時期以前から町村会は制度反対の方向を条件闘争へと転換している。さらに経団連も事業主負担の在り方に異議を示しながらも、制度創設自体には反対しないという姿勢を示していた。

9月6日、将来の老後に不安を持った50代の人々が中心となって「介護の社会化を進める1万人委員会」発足。世論は介護保険制度創設に向かい、全国市長会や全国町村会でも制度反対より、財源手当てを見据えた議論に向かいつつあった。

9月16日、与党ワーキングチーム(座長・山崎拓自民党政調会長)は、在宅と施設のサービスを同時実施する座長試案をまとめた。

9月18日、在宅と施設の段階実施案であった厚生労働省は、岡光次官が橋本首相に「与党案の同時実施案に沿って政府案を出したい」と報告。翌19日、政府与党首脳連絡会議で介護保険法案の国会早期提出で合意された。
法案提出に反対論が強かった自民党も、小選挙区制の導入を控え、市町村長の影響力が強まることを無視できず、さらに選挙後の連立体制を考えれば、制度導入に積極的だった社民・さきがけ・民主党との深刻な対立は避けたく、介護問題への積極姿勢を示さざるを得なかった。

11月5日、介護保険法案全容が明らかになる。ここでは市町村負担に配慮して市町村関連事務費の1/2を国負担とし、都道府県の関与を拡大し、実施時期を2000年4月から在宅・施設のサービスの同時開始と当初案より先延ばしし、保険料も同年4月から徴収とした。

選挙を控え、自民党内では「法案をつぶしたら選挙で批判される」派と、「負担の話になれば票にならない」とする派の対立で混乱し、一方、社民・さきがけ両党も、民主党旗揚げに伴う離党問題を抱え「介護の議論どころではない」という空気が生まれ、この間隙をついて厚生省官僚主導の法案創りが進んだ。

11月7日、内閣改造、第2次橋本内閣発足。厚生大臣は菅から自民党の小泉純一郎へと引き継がれる。
菅は後に民主党共同代表として野に下る。

11月16日、岡光次官の関与した「彩(あや)福祉会汚職事件」が明るみになり、同次官は小泉純一郎厚相に辞表提出。この事件は彩福祉会が運営する特別養護老人ホームの建設補助金をめぐって、不正な水まし請求が行われ、建設補助金が不正受給されたもので、当時許認可権を持つ老人保健福祉部長という立場にいた岡光が深く関与し、金品を受け取っていたとされ、11月18日、警視庁と埼玉県警は厚生省課長補佐の茶谷滋と社会福祉法人「彩福祉」グループ代表の小山博史を贈収賄の容疑で逮捕し、12月4日、小山代表から6.000万円を受け取っていた疑惑で岡光序治も収賄容疑で逮捕した。後に岡光は懲役2年の実刑判決を受け服役している。この時期、小泉厚生大臣も、岡光次官の辞表を受け取り退職金が支払われる形での退任を認めたことで世論の批判を受けた。
エースの大暴投で法案の行方にまたもや暗雲がたちこめた。

もしこの事件がなかったら岡光は介護保険を作った人として、我が国の歴史に名を残したかもしれないが、逆にこの事件によって厚生省の「たかりの象徴」として逮捕実刑判決を受けた事務次官経験者として歴史に汚名を残すことになった。そして非常に悲しいことではあるが事件当時、中学生という多感な時期にあった小山の長女が、この時期から精神不安定となり、2004年の9月に自殺してしまった。事件は様々な人を巻き込んで、その後の人生を狂わせている。合掌。

2度の法案提出もいずれも継続審議に
11月21日、自民党総務会で法案了承。

またまた脱線するが、この時期、介護保険法案の原文を読んだ小泉厚相は、その中にたくさんのカタカナが記載されていることを発見し、「日本の法文は日本語で書け」と事務当局に指示を出した。これによりグループホームは「痴呆対応型共同生活介護」に、ホームヘルプは「訪問介護」に、ショートステイは「短期入所」に変えられるなどの作業が行われたが、さすがに「通所リハビリテーション」「訪問リハビリテーション」まで「通所機能訓練」「訪問機能訓練」に変えろという指示は出なかった。このことから考えるに、僕個人の意見としては、グループホームはグループホームのままでよかったのではないかと思っている。

11月29日、国会に法案提出。しかし野党・新進党の西岡幹事長は、厚生省汚職(彩福祉会事件)に触れ「厚生関係議員のトップ」としての首相の責任を追及するとともに、厚生省に対しても介護保険制度の旗振り役の事件を引き合いに出し「法案提出自体が不見識」「汚職事件の中心人物が法案作成にかかわったのであり、撤回すべし」と審議入りそのものを拒否し、通常国会に新たな法案を提出するように求めた。

12月13日、橋本首相は衆議院本会議において「介護保険法案は内閣の最重要課題の一つ。厚生省の不祥事を理由にして法案成立を先送りすべきでない。」として「介護保険関連3法案」は衆議院厚生委員会に付託され、17日に同会で提案理由を説明したが、時間切れで19日臨時国会は閉会し、同法案は継続審議となった。

翌1997年1月20日、通常国会開会。26日、介護保険3法案審議再開。

5月9日、自民党・村岡国会対策委員長と民主党・赤松国会対策委員長会談。翌週、介護保険法案を衆議院本会議で採決することに合意した。与野党合意ができたことで法案成立は間違いなしと思われた。

5月22日、介護保険法案は衆議院厚生員会で、自民・民主・社民の3党と無所属議員で構成する「21世紀」の賛成多数で可決。午後に衆議院本会議可決。参議院送致。反対は新進党と共産党であった。しかし参議院厚生委員会では医療保険制度改革関連法案の修正問題で審議が遅れ、介護保険法の審議に時間が取れなくなった。

6月18日、会期切れ。介護保険法案は臨時国会まで再度継続審議となる。

介護保険法案の成立
7月、厚生省内に「介護保険制度準備室」が発足。この時期は、通常国会で介護保険法案は継続審議となったものの、論議が尽くされた感があり、野党民主党の合意を得ていることもあって、秋の臨時国会で可決成立することは間違いないという空気ができていた。

10月21日、介護保険法案参考人質疑(参議院厚生委員会)で、看護師・医療ソーシャルワーカー・自治体首長などが意見を述べた。

12月2日、同委員会で政府責任を明確にする修正を加えたうえで自民・社民・民主・太陽党の賛成多数で法案可決。反対は、全額税制方式を主張した平成会(新進党と公明党の参議院院内合同会派)と、現行老人福祉制度と保険方式の組み合わせを訴えた共産党。

12月23日、衆議院で2ヶ所の法案修正と16の付帯決議が行われ、参議院で1ヶ所の法案修正と19の付帯決議が行われ採決・成立した。新進党は欠席し採決に加わっていない。

このように1996年の通常国会では法案提出が見送られ、その秋の臨時国会で法案提出された後、2度の継続審議を経て、1997年秋の臨時国会終盤の同年暮れに介護保険法案は国会を通過し2000年4月からの同法施行が決まったのである。

介護保険特別会計を握った厚生省の勝利?
介護保険法の成立の背景には、自民党の一党支配時代の終焉が大きく影響している。旧態勢力として厚生省に深く根をおろしてきた「厚生族議員」の力が、政界再編と連立政権下で衰えて行った過程で、政権与党〜野党に横断的に戦略的なメリットがあった新制度創設議論と相まった。これによって厚生官僚の模索する新たな介護システムとしての制度が日の目を見る間隙が生まれていたということが大きいであろう。自民単独政権下で族議員が跳梁跋扈していた状況であれば、この制度は議論段階でつぶされていたであろう。

なお旧大蔵省(現財務省)は、介護保険制度について税方式を主張していた。これに対して厚生省は「介護報酬による収入の6〜8割は人件費として支出されるのだから、経済状況によって歳入が大きく左右される税によらず、安定した財源として保険料方式が望ましい」と対峙した。

この背景には税方式とすれば一般会計となり、大蔵省が財源を持つことに変わりはなく、大蔵省主導により財政状況で常に介護保険財源が削減対象になり、厚生省の所管が及びがたくなるのに対して、保険料方式の場合は、大蔵省の厳しい査定を受ける一般会計ではなく、特別会計に計上されるので、その場合、厚生省として独自財源となり省の裁量権を大きく確保することになることが主たる理由であったろうことは想像に難くない。そして決して力の強くない厚生省の主張が、巨大権力を持つ大蔵省の主張を押しのけて通った理由は、税という形の負担を増やせない政治事情があったということで、そのことは前述したとおりである。

つまり結果として言えば、厚生省は介護保険特別会計という独自の財源をこれにより確保することになるわけである。

こうした各省の独自財源となっている特別会計に、政治力でどこまで切り込めるかが、グローバルな視点からの政府の財源運営には必要であるが、そこに踏み込む政治家はどうやら皆無というのが現状である。
※メディカルサポネットの連載、「菊地雅洋の一心精進・激動時代の介護経営」の第10回連載がアップされました。
激動時代の介護経営
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