僕が新卒で社会福祉法人に就職した1983年(昭和58年)当時、特養は「収容の場から生活の場へ」というスローガンが掲げられて、暮らしの場にふさわしい介護とは何かという議論が盛んに行われていた。

特養から「寝たきり老人をなくそう」という取り組みも行われ、離床活動が一日の日課の中で重視されるようになったのもこの当時のことである。

しかし当時を振り返ると、その離床活動とは利用者本位という言葉とは縁遠い施設側の身勝手な方法論で行われていた。

利用者の意向や希望を確認することもなく、施設側が勝手に決めた時間で離床させ、なおかつ離床させた後の活動プログラムが全くない状態で、利用者はホールや食堂に車いすに座らされたまま放置されていた。
放置ケア
それは「寝たきり老人」を「座ったきり老人」にすり替えただけのことでしかなかった。

しかも離床させられている人々は、着の身着のままで、寝癖が就いた髪の毛も放置され、人前に出たいと思えるような恰好ではないことが多かった。

僕はその状態は「暮らしの場」としてふさわしい状態ではないと思い、自分がケアの方法論に介入できる立場になるにつれ、その改革に努めてきた。

人は行きたい場所があって、はじめて生きたいと思うのだ。その為、単に離床させて終わりではなく、離床して参加したいプログラム作りを行う必要を感じ、グループワークやレクリエーションのプログラムを様々に作り上げてきた・・・療育音楽回想法などは、多くの利用者が好んで参加してくれたプログラムである。

それと共に、逢いたい人が居れば、それだけ行きたい場所が増えると考えた。その為には逢いたい人と逢うにふさわしい身だしなみという意識が欠かせないと思え、整容介助を重視するようになった。

寝巻と普段着の着替えを行うことは当然であるが、普段着も着たきり雀のようにいつも同じではなく、行こうとする場所にあわせてオシャレをしてもらうことを勧めた。それ以前にモーニングケアの際には必ず、髪の毛の寝癖を直して整えることを励行した。

男性の髭剃りは欠かせないモーニングケアであるし、女性が外出する際には化粧をするお手伝いもした。化粧療法というものが当時流行ったが、そんなものはクソくらえだ・・・女性にとって化粧は療法ではなく日常であり、それはお年を召しても変わらないものであると思った。

そんなふうな取り組みを日常的に続けていると、利用者の表情が豊かになったように思う。毎日の暮らしに張りができて、生きる意欲が湧いた人も少なくなかったように思う。

それだけ整容介助とは重要なものではないのだろうか・・・。

今、介護保険施設や居住系施設では、そうした意識が低下しているのではないかと思われる状況を目にすることが多くなった・・・ある老健施設では、就寝時の着替え介助を全く行わず、スウェット スーツのまま寝かせ、朝起きたらその姿のままで朝食〜リハビリと、着たきり雀の暮らしが当たり前になっている。

寝癖や服装の乱れに無頓着な施設も少なくない。それは利用者の生きる意欲と表情を奪うものだと思う。

暮らしの質を向上させるための重要なケアが、人手不足を理由に、あるいは介護生産性向上の目的のためにおざなりにされているとしたら、それは即ちケアの貧困化そのものである。

そうなってしまえば介護事業は使命と誇りを失い、いずれ必要悪と言わざるを得ない存在になってしまうように思え、そのことを僕自身は非常に危惧している。


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