もしかしたら世の中には楽な仕事というものがあるのかもしれない。

しかし多くの一般人は、そのような仕事を得ることは困難であり、合法的に生活の糧を得ようとするならば、そこには苦労や痛みも伴うことは当たり前である。

食うために働くのだから、我慢して頑張る場面も多々あるだろう。自分にとって受け入れがたいことも、仕事だから仕方がないとあきらめて受け入れざるを得ないこともあって当然だ。

そんなふうに、仕事をし続けるということは決して楽なことではない。

だが仕事をし続けることが苦行でしかないとしたら、人生とはなんとつまらないものになってしまうのだろうか・・・それはこの世に生まれ、生きる意味が苦行であるということになってしまう。

人が人としてこの世に生まれ、生かされているという意味はもっと他にあると信じたい。

誰しもが必要な命としてこの世に存在するのだと信じたい。そう信じて生きる方が希望ある生き方ではないだろうか。

生きるための仕事も、ただただ苦行であるだけではなく、自分にとって意味のあるものにしたいと思う。その為には、自分自身が積極的に仕事の喜びを見出す必要があるのではないかと思いながら、日々の仕事に向かい合えることに感謝している。

例えば介護という仕事に就く者が、心身に障害を持つ人々を上から目線で見下すのであれば、そこには何の価値も見いだせないつまらないものになってしまうように思う。

心身の障害を抱えて生きる人たちも、人としての価値は健康で障害を持たない人と何ら変わりないと考え、介護を必要とするすべての人がひとりの尊厳ある人として敬われ、健康で障害を持たない私たちが、その人たちの暮らしに関わり不自由な部分に手を貸すことができることに喜びを見出すことができれば、介護を受ける人・手を差し伸べる人の両者が幸せになれるのではないのか。

それが豊かな暮らしと呼ばれるものに繋がっていくのではないか。

私たちの喜びは、私たちが差し伸べた手を介護を必要とする人が笑顔で握ってくれて、頼ってくれることによって介護を受ける人自身の笑顔と豊かな暮らしにつながることだ。

そういう結果があれば、介護の職業に就く動機づけなんてどうでもよい。その動機が偽善であっても何ら問題ない。

だが一度介護という職業に就いたならば、その仕事をあなた自身が選んだのではなく、あなたは介護という職業に選ばれたのだと思ってほしい・・・あなたは必要とされていたのだと思ってほしい。
介護という職業を選んだ意味
偶然ではなく、必然としてあなたは介護という職業に選ばれているのだと信じてほしい。

なぜならそれはあなたの単なる仕事ではなく、生き方そのものにつながるからである。

人の暮らしに寄り添うことで、自分以外の誰かの人生に深く介入し、結果的に介入した相手の人生の幸福度に大きな影響を与える介護という職業は、見えざる手によって導かれた人が就く職業であると考えたい。

その為に私たちはこの世に生れ落ち、生かされているのだと信じたい・・・それが介護という職業に出会い、長年そこで生かされて切る僕自身の思いでもある。


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