昔々、介護保険制度は社会保険なんだから、社会福祉ではないという大学教授が居た。

その教授の話を聴いた時抱いた疑問は、『高齢者介護の制度を社会福祉から除外することが国民の審判なしにできるか?』ということである。

介護保険制度の創設時に、社会福祉から高齢者介護を除外することであるなんて言う政治家はどこにも存在していなかったし、そうした議論は介護保険制度創設を審議する国会で一度も行われていなかったからである。

高齢者介護を社会福祉制度から除外するのであれば、それが果たして許されるのかどうかという国民審判を受ける必要があると思った。それをテーマにした総選挙が行われていない限り、そんなことはあり得ないだろうと感じた。

そういう意味で、その教授の意見は独断と偏見に満ちた高慢ちきな考え方に過ぎないと思った。しかしそうした傲慢な大学教授が国の審議会の委員を担い、介護事業者団体等の主催する研修会で堂々とそうした乱暴な話をし、なおかつその話を鵜呑みにする関係者もいたのである。

それは介護保険制度が施行された2000年頃のことだ。

だが実際には介護保険制度の創設は、社会保障構造改革の一端として行われたものであり、社会福祉と高齢者介護を切り離すものではないことは明白である。

社会福祉の「福祉」とは、社会の人々にとっては権利である。それに対して社会保障の「保障」とは、人々によって構成された社会として果たすべき組織的な責務(義務)を意味する。

国民の福祉という権利を、国は社会保障という形でその実現を図ることで、国家としての責務を果たすのである。

そういう意味で、国家が人権を護るために存在する限り両者は切り離すことができないものであり、社会保障構造改革の中で創設された介護保険制度は、社会保険方式を取り入れた社会福祉を実現する制度と結論付けてよいものである。

このように障害者福祉の問題は人権の問題であり、人権の問題は社会福祉の問題である。そして社会福祉の問題はすなわち社会保障の問題でもあるのだ。他者を思う心
ここで今一度確認してほしいことは、人はみな人として暮らす権利を生まれながらに有しているということだ。心身に何らかの障害を抱えた人も、障害のない人と同じ権利を有しているのである。

ハンデキャップがあって人並みの暮らしを送るために支障が生じている人がいるなら、それを補うべき責任が国家にはあるのだ。そしてその責務を果たすために創られた制度やシステムの中で働く専門職は、ハンデを持つ人の人権をとことん護り、人間として尊重され、豊かな暮らしを送ることができるように支える使命を持つのである。

そうした使命を持つ専門職に、「」がなければ、制度もシステムも、援助知識も技術もみな空しいものになる。

社会福祉の価値前提は人間尊重なのである。それは人としての存在そのものが尊いものであり、能力や属性など様々な違いがあったとしても、存在価値に変わりはないものと理解することが根っことなる考え方だ。

そのような価値前提は、世の中の人々が心の底から他者を敬うという心づもりがなければ、存在しないのと同じ状態になる。人間愛というものがそこには不可欠なのである。

社会福祉援助の専門家は、この根っこを忘れてはならない。理屈ですべてを処理しようとしてはならないのだ。

だからこそ・・・。

魂を込めて人に関わらないと、人の心の中の哀しみも苦しみも、そこからなくならないのだ。表面だけを取り繕うアプローチでは、人の心の中の哀しみや苦しみは一瞬姿を隠すだけで、心理の奥底に隠れてしまい、油断をした瞬間に人の心をずたずたに切り裂く結果にしかならない。

そうであるがゆえに、人の暮らしに関わる専門家として、「あなたは決して一人ではありません。私が傍らについています。傍らで愛をつむぎます」という「思い」を持ち、「思い」を伝える支援姿勢が求められる。

科学できない「」が求められるのである。


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