対人援助に携わる専門職には、「正義感」が必要だろうか?

しかし正義感とは、自分が正しいと思ったことを通そうとする感情であるがゆえに、正義ではないと感じたものとの対立感情を生む元にもなるものだ。時にそれは他者との摩擦や争いを生じさせる元凶にもなりかねない。

しかも正義とは極めて主観的なものである。自分にとっての不正義が、他人にとっては正義であるかもしれず、自分だけが常に正しい判断をできる神のごとき存在ではない限り、その正義感を拠り所に対人援助に携わることには大きなリスクが伴うといってよい。

対人援助の職業とは、人に向かい合う仕事であるがゆえに、怒りや哀しみ、無力感といったものが澱(おり)のようにたまっていく。そうであるがゆえにある面から見れば澱の深さはベテランの証であり、人間への洞察力を生む源になる。

その一方で、澱をためた者は、過去を振り返ることをためらったり、自分とは直接かかわりのない人間の暮らしに対しては目を閉じてしまいがちになる。それは溜まった澱に自らがおぼれないようにする防衛本能のなせるわざにほかならない。

僕は意識してそうしたベテランの対人援助職にならないように努力してきた。哀しみや怒り・無力感といったものを心の底に残さないように努力してきたつもりだ。
積み重ねた行いが業になる
それは僕自身が対人援助のプロにこだわってきたからだ・・・対人援助者である前にまずは人間であれ、というのは耳には心地良いが、それは即ち、怒り、哀しみ、疲れよということに他ならない。

対人援助のプロであっても、その日常から怒りや哀しみを排除するのは不可能なのだ。

対人援助場面で、いかにも事務的に能率よく作業を行う支援者であっても、無感情でいられることはあり得ない。しかしその感情におぼれたときに、利用者の置かれた状況の判断ミスが生じかねない。だからこそ感情の発露が、心と体の両方を疲れさせることを知り、感情をあらわにしないという姿勢が求められる。

バイスティックの7原則の一つ「統制された情緒関与の原則」もそういう意味を含んだ考え方だと思う。

そうした意味から言えば、対人援助のプロを動かすもの、必要とされる感情とは、「使命感」ではないのだろうかと思っている。

怒りや哀しみや正義感ではなく、使命感が僕らを動かすものだと思う。

しかし使命感を持つということと、人間であるということは、突き詰めて言えば矛盾を生む。この矛盾が対人援助者を疲れさせる。その疲れがバーンアウトに向かわせるかもしれない。

自らがそうならないようにするための僕の選択は、対人援助のプロにとことんこだわることだ。人間である自分と、対人援助のプロである自分とを不可分にすることだ・・・それによって怒りや哀しみを感じても、決して無力感は抱かずにいる。

それが時に、第3者からみれば鼻につく態度と映って顰蹙(ひんしゅく)を買うことになっても、決して変えずにいる・・・そもそもそんな顰蹙なんか屁の河童だ。

あるいは気づかずに、自分の中にも澱は溜まっているのかもしれない。だが大切なのは、今いる場所や関わる人間に疲れずにいることだ。

今自分が存在する場所に、自分の居場所を見つけられたという幸福感がある限り、僕はまだこの仕事を続けられるのだろう。

ときに滑稽な人間関係や、計り知れない人の業(ごう)というものが垣間見えるこの職業を、僕は確かに愛しているのである。


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