認知症の人がとる行動のうち、周囲の人々が理解し難い行動が見られることがある。

そうした行動は、徘徊や攻撃的行為などの「行動症状」と、妄想や幻覚・誤認などの「心理症状」という2面性がある

その為、こうした行動をBPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia:ビヘイビオラル・アンド・サイコロジカル・シンプトム・オブ・ディメンティア)と呼ぶ人が多い。しかし日本人であるなら、日本人がその意味を理解できるように、「行動・心理症状」と呼ぶべきだと僕はかねてより主張している。

こうした行動・心理症状が出現している人に対しては、その行動と心理に何が影響しているのかという因子をあぶりだし、そこにアプローチすることが必要になる。

例えば影響する因子としては、身体的要因として、「水・電解質の異常、便秘、発熱、薬の副作用等」、心理−社会的要因として、「不安、孤独、過度のストレス、無為、プライドの失墜等」、環境的要因として、「不適切な環境刺激(音、光、陰、風、空間の広がりや圧迫・人及び人が原因で起こる様々な関係等」が考えられる。

こうした要因をなくす、あるいは改善することで認知症の人の混乱は収まり、行動・心理症状は改善するのである。それは即ち、認知症の人が落ち着いて穏やかに暮らしを送ることができる=幸せに暮らすことができる、という意味なのだから、認知症の人にとって求められることである。

こうした因子にアプローチするエビデンスを導き出そうというのが科学的介護であり、LIFEへの情報提供とフィードバックがそれを実現するというのが国の見解だ。

果たしてそうなるだろうか。職業として認知症の人と長くかかわっている僕としては、結局認知症の人が混乱せず、穏やかに暮らすための一番のアイテムは、周囲の人々の認知症に対する理解と思いやりであると思ってしまう。

正しい認知症の理解の元、愛情を注ぐ行為だけで、認知症の人は穏やかに暮らせるのだ。そのエビデンスは変わらないのではないのか・・・。

例えば、下記の図を参照願いたい。
認知症講演スライド
これは僕が、「認知症の理解」に関する講演スライドの一部である。

豊橋市の認知症カフェの前にあるバスが止まらない停留所。「家族に会いに行きたい」「家に帰りたい」などの理由で落ち着かない認知症の人が、「一旦このバス停で待ってみましょう」と促し、落ち着くまで過ごすことができる場所として設置した停留所である。

だがこれは設置者のオリジナルではないはずだ。オランダ か、もしくはスウェーデンの老人ホームの前に、バスが止まらない停留所があるというニュース報道を10年以上前に見た記憶があるから、このカフェの運営主体も、そこからヒントを得て設置したのだろう。

それはともかく、ここには様々な人の愛が集まっているように思う。

認知症の人の行動・心理症状を問題行動と見ないで、その人にとって理由のある、必要な行動とみているから、「行きたいは、生きたいです。」という考え方が生まれる。

説得の効かない認知症の人に対しても、納得できる方法があるのだと信じて、認知症の人の行動にイライラしたり、怒ったりせずに、時間を掛けて寄り添っている姿がそこには垣間見える。

その考え方に共感して、バス停を寄付してくれる営利企業もそこにはある。

カフェにとどまっていれない認知症の人の、「帰る」という行動に対して、様々な人々が、愛情と理解を寄せて関わっているのだ。LIFEという介護データベースによって、これ以上の科学的エビデンスが見つかるだろうか。

そもそもそれ以上の科学を導き出す必要があるのだろうか。

愛情という目に見えないものを排除しようとした先に生まれる科学的介護は、本当に人が欲するものなのだろうか。・・・それは違うように思う。






※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの看取り介護指南本看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
きみの介護に根拠はあるか
新刊「きみの介護に根拠はあるか〜本物の科学的介護とは(2021年10月10日発売)Amazonから取り寄せる方は、こちらをクリックしてください。