看取り介護とは、命の期限がある程度予測できる方に対して、その人生の最終ステージを、安心して安楽に過ごすことができるように支援する行為を指している。
そこでは残された限りある時間を意識して、この世で縁を結んだ様々な人と最期のお別れのシーンを創り出すことができる。そこでは命の終わりを意識するからこそ、今ここで起きていることを心に刻んでおこうという動機づけが生まれることも多い。
私たちは看取り介護を通じてそうした動機付けを大切に思い、限りある時間の中で様々なエピソードを刻む手伝いをするのである。
それは限りある命が失われた後でも、旅立たれた方の様々な思い出が遺された縁ある方々の心に残っていくという命のバトンリレーを支援することでもある。
そういう意味で看取り介護とは、まさに日常介護の完結と言える介護なのだ。そしてそこでは様々な感動も生まれていくことを、実践者である私たちは知っている。
下記の写真画像は、僕が総合施設長を務めていた特養で看取り介護を行った末に旅立っていかれたKさんのご遺族が撮影し、僕が後にお願いしていただいた画像だ。

画像左手前のフルリクライニング車いすに乗っている方が、末期がんで余命3カ月と診断されたKさんである。Kさんは、この画像を撮影した数時間後に静かに息を止められた。
この前日にお別れの日が近づいたとして、長女が泊まり込んでKさんと一緒に過ごされていた。
この日もKさんは、この画像を撮る直前まで部屋で目を閉じられており、ケアワーカーが体清拭を行っていたのだが、ちょうどその時ホールから楽器の鳴る音が聞こえてきた。この施設で人気となっている赤星式療育音楽という音楽療法(グループ療法)の音である。
Kさんは、お元気な頃この活動が大好きで、率先して参加し大きな声で唄いながら楽器を演奏していた方である。
そんなKさんが目をつぶりながら体清拭をされていた時、音楽を聴いて目を開けたのだ・・・それに気づいたケアワーカーが、「療育音楽が始まりましたね。参加したいですか?」と尋ねたところ、しっかりとうなづいたため、看護師に相談の上、フルリクライニング車いすを用いて参加している画像だ。
Kさんはもう唄をうたったり、楽器を演奏したりすることはできなかったが、ごく短時間であっても、元気だった頃に一緒に活動参加していた仲間と過ごすことができた。
しっかり目を開けてステージの方向を見つめている姿がそこにある。(※ステージでは、ケアワーカーが楽器演奏の指導をしている。)
ちょうどこの日、泊っている長女の夫が仕事が休みとのことで面会に来ており、この画像を撮影したっものである。この時、長女は画像左奥の柱の後ろで、最期の時間が近づいているKさんが、特養で過ごした仲間と一緒に活動参加している姿を見て泣いていた・・・。
この画像はお通夜の会場で、「最期亡くなる日も、こんなふうに○○園の方々と一緒に過ごし、貴重な時間を有意義に過ごされました」と紹介されたときに葬儀会場に映された画像である。
僕はその時、「この画像を僕にもらえませんか。この画像を僕が行う講演で紹介し、こんなふうに看取り介護を受けて最期の日を過ごされているエピソードを、たくさんの介護関係者に伝えたいのです」とご遺族にお願いした。
そのような僕の図々しいお願いに対して、ご遺族が快く承諾してくださって、今もこの画像はその時のエピソードと共に、僕の看取り介護講演で紹介している。
こんなふうに看取り介護とは決して特別なケアではなく、常日頃の介護の延長線上で、命のバトンリレーの支援を行う行為である。そこには様々な感動がごく自然に生まれてくるケアでもある。
そういう日常ケアの延長線上にある看取り介護を、するとかしないとか、できるとかできないとか言っている人はどうかしていると思う
そうしたごく当たり前の介護支援を行わない介護事業者や介護支援者であってはならないのだ。しかしそうした支援行為を行わない人たちは、決してここで生まれる感動を経験することができない。
それは介護という職業の醍醐味を知ることがないという意味でもある。それは非常に勿体ないことである。




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