先日とある講演のアンケート結果が届いた。
その中で、「講師の説明はいかがでしたか」という質問に対し、8割以上の方が、「非常に良い」・「良い」と回答している中で、「やや不満」という回答者がひとりだけ居られた。
講演を受講しての感想は様々あってよく、受講者全員が感銘を受けたり、話した内容に共感することは期待していないから、「不満」と正直に答えてもらって全く構わない。そういう感想があって当然だろうと思う。
不満という意見を持つ人の中には講演内容に満足しないだけではなく、そもそも講師の見解が違うのではないかと感じている人も居ると思う。そんなふうに講演で伝えられたことに疑問を持ったり、話したことに対して反対意見を持つことは良いことだと思っている。それは自分の意見をしっかり持っているという意味だと考えるからである。
講師から得た情報や意見を受け止めたうえで、自分はそうとは思わないとか、そりゃ違うだろうと考えることにも意味がある。反対意見を持つことによって自分の考え方が明確になり、別な方法論を探そうという動機づけが生まれることもあるのだ。僕は若い頃そっちのタイプだった。
そもそも講演とは洗脳ではない。同じ意見を持つ人を集めて、お手盛りシャンシャンで終わるのでは意味がない。
よって今回のアンケートでやや不満であると回答されている人がいることについては不快でも何でもない。その人にとって求められる話ができなかったと残念に思うだけであり、是非自分なりの方法論を探してほしいと思うだけである。遠慮なく評価していただいて感謝したいと思う。
ただしやや不満に思った理由として、「自慢話が多いように感じたから」と書かれていたことには、「そりゃ違うよ」と反論しておきたい。
自慢話なんかしていないからだ。
今回の講演は、介護施設における看取り介護の実践を紹介しながら、今後の地域社会全体で求められる終末期支援の在り方を考えようという趣旨だった。
そこで話したことはすべて実践した結果である。実務を紹介したに過ぎないのだ。結果的にうまくいったことも、(本当はそうあってはならないが)うまくいかなかったことも話をしているはずだ。
こうしたから・こうなった、こうするためにもう少しこういう工夫が必要だったというエビデンスにつながる事実を話したに過ぎない。高慢ちきな話なんてどこにも存在しないのである。
例えば昨日更新した記事、「遺族から贈られた画像に込められた思い」で紹介したエピソードも紹介したが、それは最期の日であってもひとり暗い部屋で安静にしているだけが看取り介護ではないということを伝えるために紹介したに過ぎない。
それを自慢話に感ずるのは、そう感じた人の日ごろの実践レベルがあまりに低いものではないのかと疑いたくなる。それはある意味哀しいことだ。
そういう人が働いている場所にも介護サービスを受けているお客様が存在するからだ。そうであればその利用者の方々は、介護保険制度という同じ土俵の上で、同じ利用料金を支払っているのに、僕が居た場所の職員が行っているよりレベルの低いケア受け、生活の質も低い状態なのかもしれない・・・。それでは駄目なのだ。
介護サービスは敗者の上に、勝者がいてよいサービスではない。誰しもが勝者として、一定以上の質を担保したサービスを提供すべきサービスである。なぜならそのサービスを利用する顧客とは、要介護者等の方々であり、それらの人があまねく豊かな暮らしを送るためにサービス利用しているからである。
そうであれば自分が実践できていないレベルの話を聴いた際には、自慢話だと批判するのではなく、自分がそのレベルの実践者になるためにどうしたらよいのかと考えるべきだ。
せっかく研修という場に学びに来ているのだから、その程度の前向きの姿勢は持つべきだと思う。それができないのであれば研修会場に足を運ぶこと自体が時間の無駄である。
家で寝ておればよいと思う。
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きちんと自分が担当する御利用者の現状と併せて確認をしながら情報の取捨選択をできるようにしていきたい所です
先人の体験談は鵜呑みにするのでもなく、持ち上げるのでもなく、どう活用するか考える
masa
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