介護保険制度の理念の一つは、「自立支援」である。
そんなことは今更言うまでもないと言われそうだが、本当に正しい形でその理念は理解されているのだろうか・・・。
例えば和光市方式・・・そこでは自立支援の成果を表わすものとして、介護保険からの卒業が目的化されている。それにより毎年要支援認定者の4割以上が非該当認定を受けているという。そしてそれこそが自立支援の成果だという人がいる。
しかし非該当とされた人々から少なくない不満の声が挙がっていることも事実で、その何割かの人たちは全額自己負担で介護保険のサービスの自費利用をしている。
それっておかしくないか。それは自立支援という言葉を便利遣いして、過度な給付抑制を正当化しているだけではないのか。
そういえば介護保険からの卒業の提唱者で、和光市方式を全国で喧伝していた人物は、その陰で生活保護受給者の財産を搾取していたとして逮捕されているな・・・そういう冷酷非道な人物の創り出した方式が和光市方式ともいえるわけで、そこには人間愛のかけらも存在しないのは当たり前といえば当たり前である。
そもそも自立は支援されるべき問題であって、強制されるものではないのだ。
しかし実際には自立を強制するだけではなく、自立しないと寝たきりや死に至ると脅迫する関係者も少なくない。「そんなことしてると、何もできないで、寝たきりになりますよ」・「それじゃ長生きできないね」・・・人生を70年も80年も生きてきた人が、その人たちから見れば年端のいかない若造に、いつまでこんな脅しを受けなければならないのだろうか。
さすれば介護保険制度は自立支援を大義名分にして、いつの間にかその意味が歪められて、こうした脅しを正論化する制度と化してしまっているのではないのだろうか。
これから我が国では、国の高度経済成長を支えてきた団塊の世代の人々が後期高齢者となり、介護保険サービスの利用者の中心層となっていく。
最も国の発展に寄与してきた世代、誰よりも自立心が旺盛だった人々が、自らの老いを受け入れて、日々衰える体力、失われていく機能を自覚しつつ、できなくなった部分を何らかの方法で支援を受けながら生き続けていかねばならないのである。
その人たちに与えなければならないのは、自立できない絶望ではなく、自立できない部分にやさしく手を差し伸べてくれる希望であるはずだ。
強い者は人の手を借りずに生きていける。しかし弱い者の中には人の手を借りないと生きていけない人達がいる。だが人は人を助けることができる存在である。それは時として人は誰かに頼って助けられてよい存在という意味でもあり、それを共立という。
社会は人と人が支えあって共立できるために存在するのだ。
介護事業に携わる者は、そのことを決して忘れてはならない。
僕は今、今日午後から角田市で行われる「宮城県ケアマネジャー協会仙南支部主催研修」の講師を務めるために仙台駅から岩沼駅に向かう途中、JR列車の中でこの記事を更新している。
自立支援の要となる介護支援専門員の皆様にも、この記事で書いた思いを伝えられれば幸いである。
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