言葉狩りをするつもりはないので、今日書いていることはあくまで概念上の問題として読んでほしい。
認知症ケアという言葉を耳にする機会があるが、僕はそんなものはないと思っている。
勿論、認知症の人に対する対応方法として、認知症というものに対する相応の知識は必要になる。
記憶や見当識障害が起きるメカニズムを理解しながら、それは本人の努力で何とかなる問題ではないことを理解して、短期記憶が保持できないことを前提に対応したり、見当識障害はどの部分から引き起り、どんなふうに重症化過程をたどるのかを理解したうえで、認知症の人が今できることと、できなくなってしまったことを区分して考えて対応するなどは必要とされることだ。
だがそこで最も必要とされるのは、「認知症の理解」であり、認知症の人に対するケアを特別なケアだとして区分することではない。
むしろ認知症の人に対する配慮ある対応は、認知症ではない人にも十分通用する方法論であると考えるべきではないのか。

そういう意味で、認知症の方だからといって特別な対応が必要なわけではないと思うのである。認知症の方に求められているのは、ケアそのものである。
それなのにあえて認知症ケアなんて言う冠を付けて表現するから、認知症の人とそうではない人を分け隔てて考えたり、分け隔てて対応したりするというおかしな状況を生み出すのだ。
介護職の中には、認知症のない人に対して丁寧語で話しかけているのに、認知症の人に対しては、「タメ口」を使っている人もいる。それは認知症という症状がある人を知らず知らずのうちに差別している姿としか見えない。
認知症という冠付けをして、利用者をカテゴライズすることをやめたならば、そのような差別は生まれないだろう。
対人援助に関わる者に最も必要とされることは、「人間尊重」の価値前提を忘れないということではないのか・・・それは、人は能力や置かれた状況に関係なく、「ただ人として存在していることに価値がある」という人間観であり、認知症とか身体障害とかいう冠をつけて人間を区分しないことではないだろうか。
そのうえで、人を人として敬い、人を人として愛することを基本にして、暮らしに不自由がある人に対し、ごく当たり前に手を貸すことができる人の手を差し伸べるということではないかと思う。そうした思いやりがあるならば、認知症という言葉を「ニンチ」と略して、認知症の人やその家族の心を傷つけたり、周囲の人々の不評を買うようなこともなくなるのではないだろうか。
人間愛をもって、誰に対しても分け隔てなく接することが対人援助のプロとして揺るがせてはならない姿勢ではないのか・・・。
我々はこの愛情を科学できるのか・・・人間愛に勝るエビデンスを創造できるのだろうか・・・。
そんなことも含めて明日5/25(木)14:00〜15:30にオンライン講演を無料配信する予定になっている。

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