世の中には様々な個性を持つ人々が存在する。その中には私たちの感性では理解できない人が数多く含まれている。

しかし自分の感性が一般的だとも言い切れない。もしかしたら自分の感性が、一般的な人のそれとはかけ離れていることもあり得るのだ。

少なくとも自分だけが、この世の唯一の常識をもって生きていると考えてはならないのだろう。それはあまりに傲慢不遜な考え方である。

だからこそ何事も、自分を基準にして考えてはならないと心したい。

対人援助という仕事をしていると特にそう思う。

ひとり一人個性の違う人間に相対する職業を選んだのは自分自身だ。そういう職業を選んだという自己責任において、自分ではない誰かの個性や感性をも大切に思う姿勢や、個性を尊重するという考え方を己に課すべきだと思う。

そうすれば自分から見ておかしいと思う他者の行動、納得できない他人の考え方にも、その人なりの事情なり、理由なりがあることに考えが及ぶのではないかと思う。

対人援助には、「受容」の態度が大切だと言われるが、他人を受容するという意味は、他人を理解すること・把握すること・認識することである。そのように他者の価値観を認めることによって援助に結びつく信頼される関係を築くことができるのだろう。

そのようにして初めて対人援助が成り立つのである。

仮に他人の考え方が受け入れ難かったり、自分にとって不愉快な態度や振る舞いがあるとしても、それを他者の「一部分である」として捉え、そうした言動に至る理由に思いを馳せるのが対人援助の専門家に求められる姿勢と言えよう。
それぞれの眼差し
つまり受容とは許容ではないということだ。

あなたのその態度は違うと思うけれど、そうした態度を取らざるを得ないあなたの気持ちを理解しなければ、あなたの課題や問題解決につながらないことを考えて、その態度の意味を深く考えて理解します。・・・それが対人援助のプロとして求められる姿勢だろう。

そしてそれは、「わかる」ことではなく「わかったつもりになる」ことでもない。「わかろうとする」という私たち対人援助としてのプロの姿勢であり、その姿勢を貫く過程そのものでを受容的態度と呼ぶのだろうと思う。

対人援助の場では、予測のつかないいろいろなことが起こる。温厚で尊敬できる人に思えた人が、ある出来事をきっかけにして、我がままで横暴な言動に終始するようになるかもしれない・・・。

自らの死期を静謐(せいひつ)に受け入れた人が、看取り介護の最中に急に死に怯え、恐怖にもだえ苦しむかもしれない・・・。

そこで何が起きたのか、こころの中にどのような嵐が吹きすさんだのだろうか・・・そのことを想像し、理解しようとする人が傍らにいるのか・いないかの違いによって、人の心に安寧が生まれるか、混沌として乱れるかの違いに結びつくのかもしれない。

対人援助のプロである私たちの受容の態度、それに向けた眼差しが、それを左右するのだとしたら、その責任は重大である。

私たちが選んだ対人援助という職業は、他人を裁く仕事ではなく護る仕事だ。そういう職業を私たちは、「生き様」として選んだのだと思ってほしい。
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