私たち対人援助に関わる専門家には、常に結果に責任を持つ態度が求められる。
頑張ったという過程は評価対象にさえならない。なぜなら私たちは対人援助のプロなんだから、援助の結果、利用者の暮らしの豊かさというものを実現せねばならず、そのことに頑張るのは当然のことだからである。
しかし一人一人個別の感情がある利用者と相対して、ほかの利用者に通用した方法論が同じように通じるとは限らない。私たちが常に同じ態度で利用者に接しても、利用者のその時の感情によって、あるいは機嫌によって、私たちの態度を誤解されてしまうこともある。
そうならないためには、私たちは常に利用者の立場に立って、その暮らしを護ってくれる人だというふうに利用者から思われる必要がある。揺らがぬ信頼感を得ておく必要があるのだ。
そもそも私たち自身にも感情があるので、常に同じ態度で利用者に接していると思うこと自体が幻想なのだろう。それでもなおかつ、利用者にとって常に親切で頼もしい支援者でなければならない。
そうすることによって、利用者は自分の悩みを何でも相談できるようになるのだ。そうなれば利用者の心の闇を見逃さずに済むことにもつながるかもしれない・・・。
先週金曜日にアップした記事、「制度の影をアンタッチャブルにしないために・・・。」で書いたように、神ならざる私たちは、どんなに利用者に寄り添おうと頑張っても、どんなに目を凝らしても、介護サービス利用者やその家族の心にいつの間にか忍び込む闇は見えない時がある。
だからこそ私たち対人援助の専門家は、利用者やその家族に心に忍び込んだものをすべて吐露してもらえる関係性を日ごろから構築しておく必要がある。
そのために日ごろから必要とされる態度とは、タメ口で親しみやすさを装う態度ではなく、真摯に真剣に利用者の相談事に向かい合う態度だと思う。ここを間違って捉えている人が多すぎると思う。
私たちは家族のように遠慮のない関係性で利用者に向かい合うのではなく、対人援助のプロとして、利用者のプライベート空間に踏み入って日常支援の手を差し伸べることができる関係性を構築する必要があるのだ。
そこでは利用者の口にできる思いだけではなく、声なき声にも耳を澄ます必要がある。
何度も繰り返される愚痴や悩みに対しても、煩わしいと拒否せず聴く耳を持つことが求められる。
しかし話を聴いて終わりでは、利用者の信頼を得ることにはつながらない。利用者はただ黙って愚痴を聞いてほしい時もあり、その際に耳を傾けてくれる人は貴重な存在ではあるが、利用者にとって、ケアマネジャーなどの対人援助の専門家は、それだけの存在ではない。
利用者にとって対人援助の専門家とは、自分の抱えた問題に常に答えを出してくれる人である。多くの利用者やその家族が対人援助のプロにそのことを期待しているのである。
その期待に応えることができる援助技術を持つことによってしか、私たちは利用者にとって信頼できる存在になることはできない。
毅然とした態度が頼もしく思われるという人がいるが、上から目線で自分の云う通りにしろと利用者に相対することが、「毅然とした態度」ではない。
利用者に対して優しい視点を持ちながら、利用者の課題克服を阻害するものに対しては、真正面から正論をもって対峙するというのが本当の意味での、「毅然とした態度」である。
そうであれば広く深い知識を得て堂々と正論を語ることができる、「知識」という基盤が必要なことも理解できるだろう。
だから私たちの学びにゴールはない。常に新しい知識を求めて、その中から真理を導き出すという普段の努力が欠かせないのである。
その覚悟がある人だけが、対人援助の専門家であると名乗ることができるのだ・・・。
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と考えています。利用者様や家族様への応対を企業として客観視出来る姿勢や、自己の内省を促す事。今日日世間を賑わせている不適切な対応等、それを客観視出来ない法人は淘汰されても仕方無いと思います。
私自身、対応に自信がある訳では決してありませんが、対人援助職の教示として心に刻みたいと思います。
masa
がしました