介護施設・居住系施設において看取り介護が求められている意味は、多死社会に突入した我が国において、「看取り難民」を生み出さないために必要なことだからである。
(※看取り難民とは、死の直前まで必要となる支援を誰からも受けることができず死に至る状態を指すのだろう。その中には、苦痛と悲嘆の中で死んでいく人も当然含まれてくる。)
しかしそれは本来看取り介護の場にふさわしくない場所で、無理して終末期の人を看取るという意味ではない。本来は最も看取り介護の場としてふさわしい、「住み慣れた自宅・家庭」での旅立ちに近い形で、私たち介護の専門家が看取り介護に携わり、遺される家族と看取り介護対象者の、この世における最後のエピソードづくりの支援を行うという意味である。
少子高齢社会では、かつてのように家族単位が大きくないために、数多くの家族で協力して終末期を支えることが難しく、子が男性の場合、その人の妻に過重な負担がかかることが多い。そのことが家族関係を崩壊させるケースもある。
そんなふうに家族で終末期支援を背負いこむのではなく、介護施設や居住系施設が、家族を巻き込んで支援するという方法が必要になるのである。
1976(昭和51)年まで我が国では、過半数の人が自宅で看取られ、自宅から旅立っていかれた。その際には、たくさんの家族が逝く人の枕辺を囲み、手を握り声を掛けて送っていたのだ。そこには逝く人と遺される人の、ごく自然な別れのセレモニーがあった。
家族間で命のバトンリレーが静かに行われていたのである。それを介護施設・居住系施設の看取り介護によって取り戻すことが求められているのだ。
なぜそうしなければならないのか。それは1977年以降に医療機関死が自宅死を上回るようになると何が起こってきたのかを考えれば答えは簡単だ。
医療機関の一般病棟で亡くなる多くの方は、死の瞬間を誰からも看取られず医療機関内孤独死している。死亡診断書に記載される死亡時間とは、息を止めた患者の姿を発見した後に、想像で導き出した時間でしかない。
しかも診療報酬で運営する医療機関は治療をしなければ患者を置いておけないから、終末期で禁食になっている患者のほとんどの方に点滴を行うことになる。そこで何が起こるのか・・・。
死に備えてその準備をし、死に馴染もうとしている体は、口から水分を接種していないのに体から余分な水分を輩出する。そこに不必要な点滴を打つから、体は悲鳴を上げ手足は腫れ全身がむくんでくる。
何も食べていない・何も飲んでいないのに、「喀痰」が出るのも点滴のせいだ。喀痰が出ても終末期患者は、自力で痰を吐き出せないため喀痰吸引をすることになる。こうして要らない点滴を打たれる終末期患者は、痰がでる苦しみと痰を吸引される苦しみの2重の苦しみを強いられることになる。
これは医師や看護師が悪いのではなく、医療機関という機関が終末期で治療の必要がない人には向いていない機関であるという意味だ。

その点、介護施設・居住系施設は介護報酬で運営されているので、不必要な治療をしなくともベッドを確保し、介護を行うだけで利用者が住み続けられるのだ。そこでは看取り介護対象者を苦しませる点滴をせずにケアすることができる。
そこは住み慣れた自宅で家族が看取ることができない人にとっては、最も看取りの場にふさわしい場所なのである。
そして最も大事なことは、看取り介護は看護ではなく介護なのだということだ。看取り介護対象者が欲するものは、冷たい注射針でも聴診器でもなく、温かい介護支援者の手のひらである。
ところが介護施設や居住系施設で看取り介護を行うことを、「職員のダメージになる」として拒んだり、躊躇ったりする関係者も少なくないと聴く・・・。
その考え方は間違っている。僕の実践がそのことの何よりの証拠である。
僕が総合施設長を務めていた特養での実践の実話、「華子さんの約束」や「白寿祝いを早めた理由」をぜひ読んでいただきたい。
このように本物の看取り介護を行っておれば、職員は精神的にダメージを負うどころか、介護という職業の真の姿に触れ、介護という職業に使命感と誇りを抱き、介護職として大きく成長し、定着してくれる。
看取り介護対象者と家族との間の命のバトンリレーの瞬間に触れることで、介護の仕事を続けるべきかと悩んでいた気持ちが吹っ飛んで、介護という職業を選んでよかったと心から思えたと振り返る職員もいる。
こんなふうに看取り介護の実践が、介護という職業に携わるモチベーションとなったり、救いとなったりする職員も多い。それは実習生も同様だ。
本物の看取り介護実践に触れた実習生は、この施設で先輩方のような介護を行いたいと言って、実習中に就職希望を口にするようになる・・・。でもごめんね。この施設はそんな就職希望者が多く離職者も少ないから、就職も狭き門なんだ・・・。
どちらにしても看取り介護こそ、介護の真髄を感ずることができるステージなのである。そしてそれは特別なケアではなく、生きる過程でごく普通に存在する終末期を支援するという意味、ごく当たり前のケアである。
看取り介護をするとかしないとか、できるとかできないとかいうのは介護を職業としている人であれば馬鹿げた考え方だ。
看取り介護ができないのであれば、介護ができないということになるのだから、このあたりの発想を転換して、介護職の使命として看取り介護に関わっていただきたい。
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