対人援助は、自分以外の誰かの最もプライベートな空間に踏み込んで、本来利用者が他人に知られたくはない部分にも触れて支援を行う行為である。

私たちはそういう行為を職業とするプロフェッショナルだ。だかこそ私たちには、他者の暮らしを護って援助するという自覚に基づいて、相応の倫理観が求められるし、秘密保持などの義務が生ずる。

しかし何よりも大事なことは、人として真摯に利用者に相対し、利用者がどのような状況に置かれていたとしても、その尊厳を護った支援行為に終始しなければならないということだ。その覚悟をどれだけ持てるかがプロ意識として問われてくるし、そのことを建前としないという確固たる姿勢が、世間から信頼を得るための唯一の道だ。

私たちが他者の暮らしを支える際には、暮らしを送る人自身の様々な思いに気づいて、その思いに寄り添う姿勢が必要になる。その時、寄り添うべき思いとは、ネガティブな感情も含まれることになり、そこにどのように寄り添うのかということが、利用者と信頼関係を結ぶうえで重要な要素になることも多い。

それはダメです」・「それはやってはいけません」と、ルールを振りかざして利用者の思いを切り捨てることは簡単だ。しかしそんな形で物事を終わらせるのでは、暮らしの支援に結びつかないという場面がしばしば生ずるのが対人援助である。

理屈は、幸福や暮らしを創らないのである。

私たちにその時求められるのは、援助技術とか専門知識以前の目に見えない、「人間愛」というものなのかもしれない。
誰かのあかい花になるために
それは現在求められている、科学的根拠とは対極にあるもので、非論理的で客観性のないものだと批判されるかもしれない。

だが目に見えない、非科学的なものをすべて切り捨てることによって、人の暮らしという極めて個別性の高い領域が良くなるとでも言うのだろうか・・・。僕はそうは思わない。人には定型化できない感情というものがあるのである。そして感情とはきわめて非論理的で、非合理的なものであり、方法や経緯と結果の因果関係のない場所で生まれるものである。

そうした感情に寄り添うためには、極めて説明しがたい、「人を愛おしく思うという感情」で寄り添うしかないのだ。

しかし・・・問題は援助者たる私たち自身が全能なる神ではないということだ。すべての人を愛することができる天使にもなることはできない。

対人援助という仕事に携わる私たちも感情ある人間の一人にすぎないのであるのだから、他者に対する好き嫌いの感情は当然持っているし、誰かを深く愛することができる反面、他人を妬み、他人を憎む感情も持ってしまうどうしようもない存在だ。

私生活も決して潔癖に送っているわけではない。清貧という言葉から程遠い状態で、みだらな楽しみや遊興にふけることもあろうというものだ。

だからと言ってそれが即ち、対人援助に関わる資格がないと言える問題でもない。人として欠点や短所をたくさん持っているけれども、自分が完璧な聖人ではないという自覚と自己覚知をもって、職業上は利用者に対して真摯に関わればよいということだと思う。

自分の中のネガティブな感情は、自覚してコントロールできるようにするだけの話だ。

そうでも考えない限り、対人援助に関わってよい人などいなくなってしまうのではないかと思うのである。

自分の人格を高潔にしようなんて背伸びなんかせずに、普通の人として、普通に人を愛する気持ちを持ち続けるだけでよいのだろうと思う。

人に秀でて何かを残そうとするのではなく、自分の中の大きな愛を、小さな仕事の中であふれさせることが大事ではないかと思う。
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