自分というものは、他者や外界から区別して意識されるもので、自我とも言い換えることができるものだと思います。
それは肉体そのものではなく、どういう価値観を持つ存在であるのかという意味だと思うのです。
さすれば自分というものは、親からもらった肉体が器の役割をもって、成長過程で様々な情報や知識を受け入れて、それを発酵させるように自分の中にしみ込ませて創り上げていくものではないのでしょうか。

自分が経験し、自分が判断した繰り返しで創り上げていくものが「自分」ではないでしょうか。
最初から自分というものが、身体や精神の中に存在して、この世に生まれ出てくるわけではないという意味です。
だから人の成長と共に、あるいは衰えと共に、自分の中にある自分は変わっていくのだと思います。
だから重要な決定の判断を、いつも人に委ねてしまう人には、自分らしさが生まれないのです。それはその人が何者でもないという意味です。それはとても哀しいことではないでしょうか。
ネット社会では、本来生きるうえで体験すべきことをバーチャルに置き換えたり、判断を都合よく人に委ねたりすることが簡単にできるようになります。
だからネット社会だけにある架空の自分しか持てない人が出てきます。一旦ネットを離れた自分が、どんな存在かわからない人がたくさん生まれているのです。
これは恐ろしいことです。大げさではなく、人類はそのことで消滅・絶滅に向かいかねないと思うのです。
ネット上に現実の自分とは別の人格を創り上げていること自体は否定しません。例えば僕は、表の掲示板の管理人として、かなり厳しい人間として見られているようです。そこではとても怖い人とイメージされているようです。
それはある意味、自分が意識して創り上げたイメージでもあります。介護業界で一番長く続く情報掲示板を、20年以上という長い期間途切れることなく運営するためには、それは必要なことだからです。
怠けて他人に尋ねるだけで問題解決を図る人・反対のための反対論・初めからアラシ目的の参加者、そうした人たちの防波堤になるために、それは必要なことだったのです。だから今も続いている。
けれどもその人格を、現実の自分と勘違いしないことが大事です。現実の僕は決して強くないし、怖くないし、清廉潔白ではないのです。ここを勘違いしないことです。
現実社会の中で、自分が何者か意識できない人が、主体的に何かをできるわけがありません。常にそこにある意識や感情や情報に流されて、明日の居場所さえ分からなくなってしまいます。そんな人は、現実社会で生きることが苦しくなるのではないのでしょうか。
自分を創り上げていく過程では、間違いもあるし、挫折もあって当然です。でもそれは自分にしか経験できない貴重な体験なのです。喜怒哀楽の感情は、良い感情だけ切り取って経験することは不可能なのです。
それが生きる意味であり、自分が何者であるのかを探すことなのです。それはこの世に人が生まれ、生かされる意味でもあります。
たくさんの哀しみや怒りの感情を抱えてきた人が、自分自身の力でそれを乗り越えた先に、生きる力とか、他人の痛みを思いやる心とか、自分以外の誰かを人として愛することの尊さとか、生まれ出でてきたときには持ちようがなかった感情や意識を獲得していくのではないでしょうか。
人は人を愛するために、悲しんだり苦しんだり、怒ったりする感情を与えられているのではないでしょうか。
その理由は、どのような能力がある人でも、人に秀でる才能を持っていたとしても、人は人の間でしか生きられない存在だからではないでしょうか。
だからどうぞ、生身の自分を愛してください。人に秀でてなくとも、強くなくともよいのです。あなたという存在は、あなたにしかなれないのです。そのあなたがそこに存在するということには、必ず意味と価値があるのです。
自分は所詮自分でしかないなどと嘆かないでください。それはとても尊いことなんですから・・・。
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