今日8月9日は、77回目の長崎原爆の日である。
原爆が投下された午前11時02分には、僕の家からほど近くにある消防署のサイレンが1分間鳴らされた。僕もそれに合わせて黙とうを捧げさせていただいた。
今日はそのとき思ったことを書こうと思うが、その前に僕と長崎県のつながりを少しだけ紹介しておく。
長崎県と僕は縁があって、九州の中では福岡県の次に数多くの講演を行っている場所だ。食事もお酒もおいしく、素敵な人がたくさん住んでいるお気に入りの地域である。
コロナ禍の影響でここ3年間は同県を訪れる機会を持てていないが、それまでは1年に何度も長崎県を訪問する機会を持つことができていた。コロナ禍という状況でも、長崎県の方々からはオンライン講演の依頼を頂いている。近いうちに是非同県を訪れたいものである。
過去長崎県で講演した場所は複数あり、五島列島にある五島市や新上五島町にも行って講演を行ったし、雲仙市・島原市・南島原市・諫早市・大村市・佐世保市・時津町などでも講演を行っている。
しかし長崎県のうちで講演を行った回数が一番多いのは長崎市である。長崎湾を見下ろす稲佐山の中腹にある社会福祉法人さんでも2度ほどお招きを受けて講演を行ったことがあるが、そこからの景色は絶景と言ってよかった。
坂の街でもある長崎市は、風光明媚な街であるが、この稲佐山から見下ろす長崎港の景色が、僕は特に気に入っている。
その稲佐山には、屋外ステージが設置されている広場がある。
そこは歌手のさだまさしさんが、長きにわたって広島原爆の日である8/6の夜にコンサートを開き、広島に向かって2度とあの悲劇が繰り返されないように、平和の願いを歌い続けていた場所でもある。
さださんは長崎から、広島のどんな色の空と景色を見つめていたんだろうか・・・。
広島の街はかつてそこが焼け野原になったなんて想像できないほど、とてもきれいで素敵な街並みになっている。
ただ街中には世界遺産に登録されている原爆ドームが被爆体験を伝える貴重な建物として当時の姿を残したまま保存されている。
そのドームを見るまでもなく、かつ今さら僕が言うまでもなく、現在は平和で美しい景色が広がる広島と長崎のその街は、1945年8月6日と8月9日にそれぞれ焼き尽くされている。核兵器というおぞましい武器によって・・・。
次に記した言葉は、さださんが'96年のコンサートで舞台から観衆に語りかけた言葉だ。
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(1996.08.06.夏 長崎で、「広島の空」を唄う直前の、さだまさしさんの言葉)
このコンサートを始めたときに、あえて核兵器について語ろうとしなかった。
そして、あえて戦争がどうしたこうしたということを、大きな声で発するのをやめた。
8月の6日に、つまり広島の原爆の日に、夜、長崎で広島の空に向かって唄をうたう。
そのことだけで十分じゃないかと思ったんであります・・・。
平和っていうのは、とっても難しい言葉です。
ただ戦争をしていない状態を平和って呼んで、歓迎してニコニコと笑って、
ご飯が食べられて、ちゃんと着るものが着られて、そして平和と・・・。
我々はそこに胡坐をかいていてはいけないんですね。
我々だけの平和にすぎない。それは我々という小さなコップの中の平和にすぎない。
こうしているうちにも、どこかで誰かが撃たれ、
そして何も事情が分からない小さな子供が、小さな地雷を踏んでいる。
そんなことが現実に、この地球上で今まさに起きているのだという痛みを、
私たちはこの飽食の中に忘れ去ろうとしてはいけないんですね。
少なくとも、2度と子供たちや、その子供たちや、さらにその子供たちが、
2度とあんな思いをしないように、そんな思いを込めて唄います。
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今まさに平和な国・日本で、戦争を知らない子供たちが戦後の繁栄を謳歌し、何不自由なく暮らしている一方で、ウクライナでは悲惨な殺し合いが続いている。
平和ボケしている日本の海域では、幾たびもミサイルが領海に打ち込まれ、領土をめぐって領海侵犯の船が航海を続けている。
戦争がないといっても、インターネットを通じて人々の罵りあいが毎日無数に配信され、国会議員という身分の詐欺師が、海外から人権侵害を発し続けている。人々の心の戦争はそこかしこに存在しているのだ・・・。
そんなふうに平和な日本には心の貧しさが満ちて、殺伐としたコミュニケーションが飛び交っているのである。そういう意味では、この国の平和とは砂上の楼閣に立っている危ういものかもしれないのである。
だからこそ、さださんが稲佐山から訴え続けた思いを、私たちも同じく胸に抱いて伝え続ける必要がある。私たちの子供たちの、その子供たちや、さらにそれに続く命と暮らしを護るために。
だが77年前のその日、広島と長崎で何があったのかを伝える歴史の証言者が年々減っている。その悲惨さをどのように後世に伝えていくのかが大きな課題になっている。
決して忘れてはならない人間の意志と手による愚行を、日本人は伝え続けなければならない。戦争を知らない世代の人々も、戦争を経験した人の言葉を聞き取り、後世に伝える責任があるのだ。
原爆投下という人類が最も恥ずべき行為によって命を失った人の中には、即死できずに、熱い熱いともがき苦しみ、水を求めながら死んでいった人も多いと聞く。そいう人たちのために、せめて一杯の水を天に向かって供えたい・・・。
さださんが主催する稲佐山のコンサートは、2006年の20回目のコンサートをもって最終回とされた。
最期のコンサートで語ったさださんの言葉も紹介しておこう。
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(2006.08.06.夏 長崎から「FINAL」より)
ほんの短い間でいいから・・・。
あなたの大切な人の笑顔を思い出してください。
そしてその笑顔を護るために、あなたに何ができるか考えてください。
そして、もうひとつ・・・考えるだけでは駄目です。
そのために自分の力を使って動いてください。
これが夏・長崎からの、僕の最期の願いだと思います。
そうやってそういう思いで聴いてください。
今度はみんな、この種をあちこちに撒いて
たくさんの花が咲いて
いつか俺が知らない花が、この会場を埋め尽くしてくれるように・・・。
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しかしさださんの遺志を継ぐ形で、今も「稲佐山平和祈念音楽祭2022」が行われており、今年は先週末に当たる6日と7日の両日に渡って開催された。その利益はすべて「国境なき医師団」に寄付されているそうである。
さださんは、今年もそこで唄ったそうである。この唄もきっと広島原爆の日に唄われたんだと思う・・・。
77年目の8月9日・長崎原爆に日に、26年前のさださんの言葉を思い出しながら、広島と長崎の空に向かって祈りを込め、手を合わせて首(こうべ)を垂れているところだ。
もう2度とあんなことが繰り返されないことを祈りながら・・・。
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