マスメディアを通して、「格差社会」というフレーズが聴こえるようになって久しい。

そうした格差は現在進行形であるともいわれている。

同時に格差社会で生まれた貧富の差は、自己責任だとバッサリ切り捨てる価値観も幅を利かせている。

そのような社会の中で政治家や学者は口を揃えて、「日本人がもっと大人になり、国際社会の荒波の中で生き残っていくためには、均一化された社会よりも自由競争を前提とした社会こそが必要なのだ。」と捲し立てている。

そしてこれからの時代に生き残っていくために、最も重要なことは「生産性の向上」なのだと、ありとあらゆる場所で声高らかに訴えられている。

それが本当かどうかは知らないが、僕にもはっきりとわかることがある。

そういったことを言う連中は、誰も彼もが大都会で暮らしているということだ。東京発の意見でしかない。

それらの人にとって、この島国で起こっている変化は、「格差社会の到来」といった程度のものなのだろう。

オラが街の代議士様も生活の本拠は大都会だから、そんな程度の意識でしかない。選挙が終われば、生活の本拠である東京に帰ってしまい、田舎の選挙区の日常がどう流れているかなんて知る由もなく、都会で起こっていることにしか興味が持てなくなる。

しかし地方で起こっていることは、都会で起こっていることとまったく違うのだ。

そこでは格差が問題なのではない。街全体が疲弊し死にかけていることが問題なんだ。
室蘭のシャッター街
僕の生活圏域で言えば、昭和40年代に16万人を超えていた室蘭市の人口は、すでに8万人を割ってピーク時の半分以下だ。かつての繁華街はゴーストタウンの様相を呈し、商店街は干からびていて魚屋や肉屋や乾物屋や洋品店だったところが、今ではシャッターの連なりと化している。(※画像は室蘭市中央町の商店街の現在

そこは昼頃にはわずかな人通りがあるだけで、午前中は通行人さえほとんどいない。

そんな街で住民は老いてゆくのだ。そこに大都会の論理や方法論が通用するとでも思っているのか。

かつて働き盛りの時期に、オイルショックを経験した世代は、今、自らの、「老いるショック」と向かい合って、老いる街で生き続けなければならない。

都会よりもインフラが整備されていない田舎で老いるということは、移動手段がない場所で、生活必需品の確保にも奔走せねばならないことを意味し、そこに都会と同様の物価高などの問題が上乗せされていくのだ。

そういう場所からは若者の姿も減っていく。介護人材不足というが、地方都市は介護人材消滅が現実化しつつあるのだ。

こうした問題に向き合って、その問題を解決にあたるのが地域包括ケアシステムだというが、そんなシステムがどこに存在するというのだ。

それは手段を地域に丸投げして、やってるふり行政とんでもローカルルールを数多く創り出して終わりではないのか・・・。

そんなふうに日本の街は老い、システムは老衰死していくのである。

日本社会は処方箋の出せない自然死社会に入っているかのようである。・・・だから多くの人々が、ネット社会という仮想現実の中で、妄想を大きくしていくしか生きる術のない状態に陥るのかもしれない。
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