第2次世界大戦中のナチスドイツでは、ユダヤ人の迫害と虐殺だけではなく、ドイツ人の中においても命の選別が行われていたことは有名な話である。

ユダヤ人とその血統の迫害については、職場からの追放策が最初にとられた。血統の正しくない純粋ではないドイツ人の社会からの排斥を促すために、労働者はあらゆる場面で血統証明書を示すことが求められた。そして3代遡って誰もユダヤ人が血統にいないと証明できなければ商取引ができなくなり、職場からも追放される憂き目にあった。

それにとどまらずユダヤ人は強制収容され、収容所の中で悲惨な扱いを受けて、多くのユダヤ人の命が無残に奪われたことは世界中に知れ渡っている事実だ。

そのような命の軽視による死への誘導は、ユダヤ系ではないドイツ人の身にも及んでいた。

その前兆になった、「遺伝病を持つ患者は子孫をつくってはならない」という法律ができたのはナチスドイツが政権をとって間もなくのことである。そのためドイツ国内のそこかしこで断種手術が行われた。いわゆるキン抜き手術であり、睾丸を抜かれた男性患者がたくさん出現した。

その後1934年には、優生結婚優生出産が奨励されるようになった。純粋なドイツ人同士を掛け合わせて、子孫を増やそうとする政策だ。

さらにその政策はエスカレートし、悪名高い安楽死計画指令が出された。

不治の病にかかっている患者は、それとなく臨終させよという命令だ。例えば精神病患者が肺炎にかかった場合、その治療をせずに、緩やかな死への誘導が行われた。拒食症状のある人に対しては、放置して餓死へといざなったのである。

さすがにその命令を無視する医師も多かったが、命令を無視する医療機関の院長は更迭され、ナチス党員の医師が新たに院長に任命された。その結果ある病院では、患者の半数が減ったというところもあった。

この指令は後に法制化された。ヒトラーはついに、安楽死を合法とする命令を下したのである。

その安楽死令は、当初は重病の動けない患者・重症の精神病患者に限定されていたが、間もなく「白痴(はくち)」と診断された乳幼児にも適用されるようになった。

このように安楽死の対象者となったのは、不治の病の対象者であり、必ずしも終末期患者に限っていなかったのである。
許されない命の選別
この指令によって命を奪われた人の中には、重度の精神疾患患者が含まれていたという事実がある。今でいう統合失調症の人や、認知症の人も数多く含まれていたであろうことが容易に想像がつく。

そしてその対象範囲は、最終的に安楽死させることを決定する人間の価値観によって大きく変わっていくことになる。その対象が限りなく広げられていったのである。

ナチスがその施策を喧伝するために作成されたパンフレットには、次のような論旨展開がされている。

精神病患者一人当たりに1日4マルクの費用がかかる。家族一人当たりの収入では、公務員で1日4マルク、未熟労働者で2マルク。全ドイツに30万人の精神病患者とてんかん病患者がいる。1家族5人として、どれだけの家族が彼らのために犠牲になっているのか。
精神病院一つ建設するのに600万マルクかかる。住宅1件は1万5千マルクで建つ。精神病院を1件建てなければ、住宅は400戸建てられる。

このような論法でナチスは国民を説き伏せようとし、事実、戦時下のドイツ国民の多くはこの論法を受け入れ、精神病院は不要なもので精神病患者も存在しないようして浮いた費用を戦費に掛けられる支持したのである。・・・2016年(平成28年)7月26日未明に起きた、『津久井やまゆり園の大量虐殺事件』の犯人である植松 聖死刑囚も、同じ理屈で犯行に及んだことは記憶に新しい。

しかしこの理屈のおかしさは、精神病患者が存在しなくて良いという理屈にはなっていない点だ。単に精神病患者がいなくなって、精神病院を建設する必要がなければ費用が浮くという理屈に過ぎず、現に存在する精神病患者が存在しなくてよい理由や、その人たちに社会的費用をかける必要はないという理屈はどこにも存在していない。

自分と少し様子が違うというだけで、無為徒食と決めつけ、いらない命と切り捨てているのである。

弱いものを鞭打つという考え方は、いったん走り出すと雪だるま式に大きくなるのだ。

例えばその論理は、時の政権に異を唱えるものすべてがいらない命と決めつけられる恐れにつながる。

僕のように文筆活動や講演活動を主な仕事としていることも、無為徒食と決めつけられる恐れがあるということだ。

この理屈がまかり通るところでは、やがて「老い」も不治であると切り捨てられる対象になりかねないのだ。

そんなことがあってはならないのだ。だからこそ対人援助の価値前提は、『人間尊重』であり、人として存在していること自体が尊重されるべきというものなのである。

この価値前提を護らねばならない。

人としてこの世に存在している命の価値に、その存在する状態によって差があるなんてことにはならないのである。

人としてそこに存在する命は存在の仕方がどうあっても全て尊い命である。軽重なんてそこには存在しない。

命の価値に差があるなんて誤解を生まないためにも、僕たちは誰に対しても同じ態度で接する必要がある。認知症がある人とない人で、態度を変えるなんてことがあってはならないのである。誰に対しても真摯に手を差し伸べる必要があるのだ。

強い者は人の手を借りずに生きていける。しかし弱い者の中には人の手を借りないと生きていけない人達がいる。しかし人は人を助けることができる存在である。それは時として人は誰かに頼って助けられてよい存在という意味でもある。弱きものは堂々と強き者に護られる権利があるのだ。

私たちの仕事は、そういう人たちに手を差し伸べる職業なのである。他者に「自己責任」を強いるような存在ではなく、自分が他人に対して与えることができる「優しさ」を護る職業であることを決して忘れてはならないのである。
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