人は確実に死に向かって進んでいる。

しかし現代社会は、「」を恐れ、「」を賛美する社会である。

いうなればそれは、「」があればこそ、「」があるのだということを忘れた社会・・・あるいは忘れようとする社会でもある。

確かに、「生きる」ことは素晴らしいことだ。人としてこの世に生まれ、生かされているのにはきっと意味があるのだろうと思う。だから生きることを賛美することは決して間違っていない。

だが命には限りがある。生きるという過程は、様々な理由で簡単に途切れてしまう。いとも簡単に命は奪われることがあるのだ。

そのように儚いものが命であるからこそ、人は命を尊く思うのだろう。命の尊さを重く受け止めるゆえに、死を忌むのかもしれない。

確かに忌むべき理不尽な死も多くみられる。しかし死という現実を避けられない以上、そこに意味を見出そうとすることも決して間違ったことではないように思う。

そんなことを考えると、看取り介護によって気づかされるものがあるように感じる。それは死を忌む社会に、別な視点を与えてくれる行為であるように思え、「」というものの意味を、私たちに問い直してくれる行為に思えてならない。
看取り介護
死を目前にして、限られた時間を意識しながら向かい合う人々にも様々な人生がある。

大好きだったじいちゃんばあちゃんに、最期に生まれたばかりの自分の子の顔を見せたいと訪問する孫がいる。そこは4世代の人々が集う場になり、そっと手を握り名ながら別れの時を刻んでいる。

嫁に行ってから一度も一緒に暮らしたことがないという一人娘が、大切な親の元で数日間を共に過ごして別れの瞬間を迎えることもある。きっと子供の時からの様々な思い出を呼び戻しながら、この世に産んでくれた親への感謝と、別れに言葉を繰り返しているのだろう。

そんな場所にあふれている愛情は、時に目に見えたりするから不思議である。

勿論、人の関係性は様々だから、看取り介護に見向きもしない家族の存在もある。親と縁を切っていると言って、訪問を拒否したり、憎しみしか感じられないと言う家族もいる。それはその家族の問題でしかないのだから、私たち第3者が批評できるような問題でもない。

しかし私たちは対人援助のプロなのだから、「できること」がある。

そういう現実に向かい合った時には、悪い縁を結んでいない私たち介護関係者が、家族に替わって別れの瞬間や、その備えの時期に手を貸すことができる。死へのカウントダウンを意識する看取り介護の場であるからこそ、その役割は際立つのである。

介護福祉士養成校に通う、高校を卒業したばかりの若い実習生は、人の死の瞬間に相対したことがない人も多い。そのため看取り介護に対して、ある種の恐怖感をもって臨んでいたりする。

そうした若い学生が、看取り介護の場で展開される様々な人間関係や、そこで刻まれるエピソードを見て・聴いて、胸に刻んで、介護という職業の使命や誇りを感じ取ることも多い。

命と向かい合うという場面であるからこそ、自覚できる思いがそこには存在するのだ。

だから本物の、「看取り介護」を行っている場所で、職員が心に負担を感じてバーンアウトすることなんてない。偽物の看取りを行って、命の尊さを感じさせない見捨て死がされているから、そうした現象が起こるだけである。

現に、本物の看取り介護が実践できている特養では、職員定着率は高くなっている。

このブログで何度も書いてきたように、看取り介護は特別な介護ではなく、日常介護の延長線上に存在するものでしかない。

しかし同時にその介護は、死というものと向かい合うことになり、死とは何か、生きるとは何かを自分の胸に問い直す瞬間が多々あることも事実だ。

そこで私たちが感じ取ることができるものが、諸行無常ではなく、人の存在の素晴らしさであることを願って、「介護」の本日を考えて形にしていきたい。

荒唐無稽な理想論で終わらせない、介護実践が求められていることも決して忘れてはならない。
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