年の瀬という声が聴こえてくるようになった押し詰まったこの時期に、やりきれない悲惨な事件が起こった。

大阪北新地の精神科クリニックの放火殺人事件は、重体となっている犯人が事前に予行演習として自宅にも放火するなどして、念入りに計画して無差別大量殺人を狙った犯行だったと推察されている。

大阪の繁華街で夜遅くまで、働く人の鬱病やパニック障害・発達障害などをサポートし、患者の希望と呼ばれた49歳の院長をはじめ、尊い24人の命が犠牲となった事件は、犯行動機が何であろうと決してあってはならないし、許すことができない事件である。

このような悲劇に遭遇しても、僕たちにできることは犠牲者の方々に深く哀悼の意を示すことくらいしかない。そしてこのような事件が二度と繰り返されないように祈ることしかできない。しかし過去を振り返ると、こうした悲惨な事件が無くなったためしがないことも事実だ。

そうであれば私たちは、ただ空しく自分の無力を知るだけで、あきらめてしまうことしかできないのだろうか。

決してなくならない悲劇・・・許されない事件の繰り返しに対して、私たちができることは何もないのだろうか。

おそらく直接的に世の中を良くしたり、事件を防いだりする力は、僕たち個人にはないのだろう。

しかし人としてこの社会に生き、様々な社会活動をしている責任ある存在としての自分を考えたとき、私たちが自分の身の回りの中でできることはあるのではないかと思う。そう信じたい・・・。

僕たちは自分以外の誰かの暮らしに深く介入して関わる対人援助の仕事に就いている。それは自分以外の誰かの暮らしに直接かかわりを持つという意味である。時にその仕事は、向かい合う誰かの暮らしを支えるだけではなく、命を支えることにもかかわる仕事である。命が燃え尽きる瞬間まで関わりを持ちながら、最期の瞬間まで尊厳ある人としての暮らしを支える役割をも持っているのだ。

そういう自分が、命の儚さを誰よりも理解し、だからこそ命は尊いのだということを意識して、日々の仕事に向き合うことが大事だと思う。

自分が支援者として関わる利用者に対し、その人が置かれた環境や身体機能の違いに関係なく、人として敬う態度を失わないことが必要だと思う。能力の違いで知らず知らずのうちに人を差別視するようなことがなく、向かい合うすべての利用者を人として愛おしく思い、真摯に寄り添うことができてこそ、人の暮らしと命に向かい合う意味が第3者にも伝わるのではないだろうか。

当たり前のことだが、失われた命は二度と戻ってはこない。命を失った人に対して、そのあとにできることはないのである。だから今日できることは明日まで引き延ばさない心がけが必要だ。日々の営み、日々の関わりに悔いが残らないようにしたいと思う。

そのことをたくさんの仲間と伝え合い、同じ思いを持つ人の輪の中で、幸せや笑顔の樹形図を描く方法論をたくさん見つけていきたいと願うのである。

僕たちに今できることは、尊い命が理不尽に奪われたという現実を直視し、あらためて儚い命の尊さをかみしめて、命は護られなければならないものだということを伝えていくことだろうと思う。

だからこそ僕たち自身が、誰よりも命の尊さを想い抱きながら日々の職務に携わっていかねばならない。

そのことで、誰かに伝わるものがあるとしたら、世の中は0.1ミリでしかないかもしれないけれど、良い方向に進められると信じて、今いる場所で誰かのあかい花として咲き続けたいと思う。
儚い命の尊さ
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