交通事故の後遺症で、下半身麻痺があるYさんはこういった。
「車いすをいつも必要とするようになった途端、周りの人間は僕を見ないで、まず車椅子を見るんだ。車いすは僕が使う道具でしかないのに」・「その人たちは車椅子がまずあって、そこに僕が付随しているように考えるのさ」・・・と。
Yさんは続けてこうも言った。「他人が僕に聴くんだ。あなたはいつから車椅子になったんですかって。・・・あなたは車椅子なんですね、というやつもいる」・・・「でも僕は車椅子じゃない。僕は車椅子を使っているだけで、普通の人間だ。」と・・・。
これは言葉のあやとか、考えすぎだということで片づけられる問題ではないと思う。病気や障害を持ちながら、周囲の人の手助けを必要としながら暮らしを営む人たちに、私たちは少しだけ配慮の心を持つべきではないのだろうか。
病気や障害は、その人の個性であるかもしれないが、病気や障害がその人を代表するものではないはずだ。
病気や障害を持ちながら暮らしている人は、決してそのことを決して卑下したりしているわけではないが、周囲の人たちが自分に向ける目を気にしたり、ちょっとした言葉かけを気にしたりすることはあって当然だ。
特に人の手を借りて暮らしを営まねばならない人たちは、人の手を借りなくても暮らしを営むことができる人と比較すると、他人に対してより多く気を使うことになるのだろうと思う。気を使うという心持ちのなかには、「引け目を感じてしまう」という思いが含まれてくることも容易に想像できる。
そういう人たちに普段何気なく掛ける言葉に、少しだけ配慮するということも、人に対して優しい社会を実現するためには必要なことではないのだろうか。
そう考えたとき、認知症の人たちに向ける私たちの言葉にも、もう少し配慮があればと思ったりする。
認知症を、「ニンチ」と略して表現することは恥の極みだから、そんなことは今更言うまでもない。(参照:認知症をニンチと略すな!! ・ そこに居るのは誰かの大切な人です。)
しかし認知症の方への対応を考える行為を、「認知症介護」とか「認知症ケア」と呼ぶのはどうなんだろうと思う。
例えば、「パーソン・センタード・ケア」は認知症ケアの典型例として取り上げられることが多いが、その意味は「その人を中心としたケア」なのだから、それだって認知症以外の人の介護にも求められることであり、それは認知症ケアではなく、「ケアそのもの」だろうと思う。
そういう意味で求められるのは、「認知症ケア」ではなく、人に対する介護(ケア)だろうと思う。
認知症の人に対する介護場面で求められることは、「認知症ケア」ではなく、「認知症の理解」でしかないと思う。認知症とはどのような症状を言い、どのような予後が予測され、どのような対応が求められているのかなどを、専門的知識を得ながら、理解することが必要とされるので、ことさらその知識や援助技術を、「認知症ケア」と呼ぶ必要はないと思う。
認知症ケアという言葉を前面に出してしまえば、そこにいる一人の人間の存在を、認知症という一症状のフィルターをかけてしか見なくなってしまう恐れがあり、それは認知症の人に対する偏見につながりかねない。
認知症の人は、一人の人間と見られたいのに、自分を表す言葉として、「認知症」という冠をつけてしか呼ばれたり、見られたりすることに憤りを感じているかもしれない。
しかし認知症の人は、誰かに理不尽な行為をされても、その理不尽さを訴えられない。
前にも書いたが、認知症の人はエピソード記憶や意味記憶を記憶できない。それは海馬という器官周囲に血流障害が生じて、機能不全になるからだ。
しかし感情の記憶は小脳に残るので、「嫌だ」「つらい」「苦しい」「哀しい」という記憶は残っている。
理不尽なことをされて嫌な思いをすれば、その感情は残っており、嫌なことは積み重なって不幸になっていくのだ。
そうしないために、認知症ケアなんて言う言葉を使わないようにして、認知症という症状がある人でも、一人の尊厳ある人間として尊い存在であるという価値観を持ち続けなければならない。
そうであるからこそ、認知症ケアなんていらないし、そんなものは存在しないと言いたい。
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