今週月曜日は、相模原市のやまゆり園大量殺戮事件からちょうど5年目に当たる日だった。

しかし被害者やその遺族、関係者にとって節目などというものは決して存在しないのだろうと思う。事実一部報道では、「節目なんて関係なくずっと悲しいままで苦しい」という遺族の悲痛な声が伝えられている。

犯人は死刑が確定しているが、だからと言ってなんだという問題だろう。失われた命は決して戻らないという重たい事実が遺族の方々を今も苦しめている出あろうことは想像に難くない。

死刑囚となった獄中の犯人の声が、今でも報道機関を通じてつ伝わってくるが、「重度障がい者は、死んだ方が世のためで、家族もそのほうが幸せになれる。」などというとんでもない考え方は今も変わっていないようだ。

暴論を吐き続ける犯人の声に触れた遺族は、今もなお犯人に傷つけられ続けていることと同じである。被害者の方々は、死体にムチ打たれているようなものだ。

ネット報道では、犠牲者(当時19歳)の名前を唯一公表した母親と兄が、「5年を迎えても苦しいままでつらい。今も美帆に会いたくてたまらない」と心境を明かした様子が伝えられている。掛けるべき言葉も見つからない・・・。犯人はこの声に対してなんと応えるのだろうか。

かの事件は人間尊重の価値前提を破壊しようとするテロに他ならない。無差別平等に人間を尊重しようという人間観を持つすべての人を否定・迫害する卑劣な行為でしかない。加害者の醜い衝動を正当化する理屈に、我々は決して屈してはならない。

ちょうど昨日の夜は、熊本県八代市の介護支援専門員協会会員に向けて、虐待につながりかねない不適切ケアを防ぐために、利用者の人権を護るために何をすべきかを伝えるためのオンライン講演を行っていた。

そこでは感情労働である対人援助の従事者は、すべからく、「自己覚知」に努め、自分の価値観のありようを見つめ、感情をコントロールして対人援助に携わることの重要性をレクチャーさせていただいた。人の価値観は多様なのだから、その多様性を認めつつ、様々な価値観を受け入れて、かつ自分の価値観の偏りをコントロールすべきことも話させていただいた。

しかし多様な価値観を認めるとは言っても、そこにいる人に価値がないとか、そこに存在する命は消えてなくなるべきであるという価値観を受容することは出来ない。

人は人として命をさずかっているそのことに価値があるのだということを、改めて確認しなければならない。命の価値は、どのような状況に置かれた人であっても同じように尊いのだ。

しかしその尊い命も、一人の狂った人間の突然の行動によって、簡単に奪われてしまうほど儚い。だからこそ対人援助に携わる我々は、徹底的に人々を護るという意識を持ち続ける必要がある。

同時に我々は社会福祉実践者として、人間尊重をすべての社会で実現するように務めていかねばならない。

重い認知症をもつ利用者や意識障害のある人に対して、そうではない人と違った対応をしていないだろうか。意識障害のある人に対してサービスマナーの低下が見られないかということも検証する必要がある。

介護事業者の職員の中には、利用者に対して丁寧に対応する必要などないと勘違いしている職員も少なくない。現に初対面の利用者に対し、いきなりタメ口で接してくる職員は多い。しかしそうした職員も、利用者の家族に対しては丁寧語で対応している。

利用者と家族のどこに、どんなふうに線引きしたら、そうした対応の違いになるのだろうか。それはその人の意識の中で、人の価値に軽重をつけているという意味でしかない。

それは対人援助に携わる専門職として極めて不適切なことであるだけではなく、人として恥ずべきことである。
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