僕は介護福祉士養成校の臨時講師を務めたりするが、一つの科目を1年間受け持ったとしても、教科書を使って講義をすることはない。

科目によっては学校側から学生に教科書を指定して、それに基づいた授業を行うように求められることもあるが、その場合は教科書に書かれた内容を確認し、要点を頭に入れたうえで、僕自身の言葉で学生に与えるべき知識を伝えるようにしている。

そうした考え方・やり方に対して、教科書がなければ、その教育状態がはなはだ不秩序になるのではないかと批判する人がいるかもしれない。そうした批判があって当然だとも思う。

しかし僕は教科書を使わない教育の方が、介護福祉教育には向いていると思うのである。

人に相対する仕事に就こうとする学生に対して、思想統一のために教科書を利用するのは問題であるとさえ考えている。

教科書というものは人間がつくるものだ。ところが一旦これが採用されてしまえば一つの権威になる。

そうなると教育者はその教科書に準拠して、それを踏襲することだけで教育ができたと思い込んでしまう。そこに書かれていることが何よりも正しいことのように思いこんで、そこに書かれたことから一歩でも踏み出した考え方を、「異端」と烙印づけしてしまう恐れさえある。

しかし僕たちが相対する人々のニーズは、社会の変化と密接に関連していて、古い固定観念だけでは計り知れないことが多いのである。僕たちが手を差し伸べなければならない人にとって、昨日は遠い過去かもしれないのである。その人が今求めているものは、昨日の経験という古臭い遺物ではなく、今この時に欲している何かなのである。

そういう意味では、教科書にないものを探し続けるのが介護の仕事であるといえる。

そのことを伝えるために、教師は自分の言葉を持っていなければならない。根本・基本にある定型を柔軟に変化させるやり方を伝える言葉は教科書には載っていないのである。いやそれは載せられないと言ってよいかもしれない。

教科書に載せられない言葉でしか伝わらないものがあり、聴く側の能力・理解力に合わせて、その言葉は選ばれなければならないのである。ましてや人の感情に寄り添う方法は、定型が存在しないし、昨日と今日のやり方を変えなければならないことも多いのである。

だからこそ、感情のある人々の最もプライベートな空間に踏み込まざるを得ない対人援助の実務教育に、教科書は不要だと思うのである。

教科書がなければ、教育者はその頭脳の限りを尽くして教えることになる。すなわち教育者の能力如何が学生に影響するため、勢い教育者は懸命に研究しなければならなくなる。

そのことによって学生も大いに啓発されていくことになるのだ。

教科書に頼る授業は楽であるが、教育者と学生のそうした切磋琢磨の関係を決して生み出さない。

それは単なる知識の丸投げに過ぎない。教育とは知識を教えることではなく、知性を育むことであるということを忘れてはならないので。

なぜなら知性の欠ける知識を拠り所にした方法論は、しばしば人の心を傷つけてしまうからだ。そうした行為を、教科書を拠り所にして正当化する人間を生み出してはならないわけである。

介護とは、人を不幸にすることに気が付かなかったり、人を不幸にすることを何とも思わなかったりする要素が、少しでもあってはならない仕事なのだ。

そのための知性を育むのが、介護福祉教育である。
登録から仕事の紹介、入職後のアフターフォローまで無料でサポート・厚労省許可の安心転職支援はこちらから。

※介護事業経営に不可欠なランニングコストをリスクゼロで削減できる新情報を紹介しています。まずは無料診断から始めましょう。電気代でお困りの法人・個人事業主様へ、電気コスト削減!【ライトでんき】





※別ブログ「masaの血と骨と肉」と「masaの徒然草」もあります。お暇なときに覗きに来て下さい。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。

・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。

masaの最新刊看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。