今わが国では毎日2.000人以上の割合で65歳以上の高齢者が増え続けている。

日本社会は確実に老い続けているのだ。

生物学的にこの老いを止めるのには爆発的な出生率の改善がなければならず、奇跡的にそれが起きたとしても、実際の社会の若返りには数十年の歳月が必要になる。

その為、老い続ける社会であっても、できるだけ活力を失わないように、老いても元気な人を数多く創り出そうとしている。それは社会が老いることによって必要になる社会費用をも減らすために必要な政策だと考えられている。

だからこそ高齢者にも自立を促して、できるだけ国全体の老いをカバーしようというのだ。

しかし人間の生理は止められない。そんな政策には限界があるし、無理があるとなぜ官僚は気が付かないのだろう。

人の細胞の死滅を防ぐ手立てがない限り社会の老いを止めることはできない。社会の老いに伴って増える後期高齢者がずっと自立した生活を続けられるなど夢のまた夢である。介護保険制度が理念にしている自立支援も、官僚の自己満足もしくはアリバイ作りの意味しかない、社会的な若返り効果には全くつながらない妄想だ。

今行おうとしていることは、二十歳の時にマラソンランナーだったからという理由で、65歳になった老人に42.195キロを3時間程度でなら走れるだろうとして、それを強要させるようなものだ。それは無理難題というより、荒唐無稽なことであることには皆が気が付く。それなのに介護保険サービスを利用できる要介護高齢者の一番の課題と目標が、「自立」であるという矛盾になぜ気が付かない人が多いのだろうか。

この問いかけに反論する人はこう言う。「いや、介護保険法が目指す自立支援とは、身体機能の維持・向上という狭い概念ではなく、高齢者のニーズに沿った暮らし、希望する暮らしを実現するために必要な社会資源を最大限有効に結び付けようとするもので、生活の質にも着目しているのだ」と・・・。

嘘を言うな。騙されるもんか。

だってそういいながら介護報酬の改定の方向性は、年々各種サービスに医学的リハビリテーションエクササイズを求めるものではないか。医療関係のリハビリの専門家が全く配置されていないサービスについては、外部の医学的リハビリテーションの専門家が介入する方法を加算対象とし、その適用サービスを改定の度に広げているではないか。

通所介護は、機能維持と改善の効果が出やすい要支援者にはサービス利用させずに、要介護者に対してはバーセルインデックス数値を測定し国に報告することを促し、その数値が悪かったらわずかな単位の加算さえ与えないのだ。まさに身体機能に特化した数値結果が求められているわけだ。

こんなふうに介護保険で言うとことの自立支援の建前は、「身体機能の維持改善に特化したものではない」であるが、実際の評価は身体機能の医学的改善に特化されている。

なるほど地域包括ケア研究会報告書(平成30年度)を読むと、「今までできていた生活動作などができなくなっても、本人の意思決定のもとに行われる自分らしい生活を支援する取り組みが自立支援である」と書いてある。しかし本人が希望しても、「あなたは要支援者だから、介護給付サービスは受けられません」と言われ、「市町村のサービスしか利用できないあたたは、市町村の決め事の中でしかサービス利用できません。」と言われる。それが地域包括ケアシステムであると言われてしまうのだ。

介護給付サービスを受けている人は、「本人の意思決定のもとに行われる自分らしい生活支援」を受けることはより難しいともいえる。担当ケアマネにその理解がない場合簡単に、「そんな希望は単なるデマンドであって、サービスに結び付けられません。真のニーズは別にあります」なんて説教されて終わりである。

せめてケアプランには、愛情と優しさというエッセンスを少しだけ加えてほしい。

介護保険サービスは建前だらけでなって、ありもしない効果を厳めしい言葉で装飾しているに過ぎない。

介護保険部会をはじめとする、有識者が集うとされている国の各種委員会も、ありもしないエビデンスがすぐそこにあるかのような議論に終始して、幻の自立支援を祭り上げるばかりだ。おまけに行きつく先は相も変わらず財源論である。

財源は大事だが、それは政治家が主導して考えるべきことで、サービスの実務に携わる人が集まる職能団体の代表が真っ先に主張する問題ではないだろう。

財源がないと宣う政治家や高級官僚は、現役を退いた後も左団扇で何不自由ない暮らしを送る一方で、庶民の暮らしは、年を取るたごとにますます貧しく暗いものになっている。高齢化の進行はその時期が長く続くという意味にしか過ぎない。そうであれば政治家や官僚は、その財源たる国費を無駄遣いしていないのか。財政再建を国民に痛みだけ求めて成し遂げようとはしていないのか。そんなことももっと議論されるべきである。

本当の所、この国の財源はどこでどのように使われているのだろうか。社会の、「財」の流れはどうなっているのだろうか。

介護保険制度とは社会福祉の制度である。社会保険方式を取り入れているから福祉制度ではないという詭弁に流されてはならない。社会福祉を放棄する政府などあり得ないからだ。

そうであれば社会福祉制度とは本来、社会の「財」の再分配機能を持たねばならないことを再認識して、そうした観点から制度を組み直す必要があるのではないか。介護保険制度改正を議論する場で、「社会の財の再分配機能」の検証が行われていないのは、全く無責任と言えるのではないのか。

今この国では65歳以上の就業者数が900万人に迫る勢いで増え続けているが、それは高齢者が元気で仕事に生きがいを持っているからではない。働かないと生きていけない人が増えているからだ。それは喜ぶべきことなのか・・・。

日本という国が、いつまでも自立していないとまともな暮らしを送れない国であってはならないと考えるのは間違っているのだろうか・・・。

自立を高らかに唱える制度が、本当に高齢者の暮らしを最後まで守ってくれるのだろうか・・・。少なくとも介護サービス実務に携わる関係者は、国が示したルールを無批判に受け入れてはならないと思う。

なんでも反対は良くないが、本当の答えは法ルールにあるのではなく、我々が関わる人々の暮らしの中にあることを伝えていかねばならないのである。その行動だけは続けていかねばならないし、つなげていかねばならない。
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